百合の君(2)
山を下りたところで、穂乃は馬に乗せられた。後ろには賊の親分が穂乃を抱くように手綱を握っている。恐ろしくて、穂乃はただうつむいていた。
暗闇に体が霧散してしまうようだった。やがて、自分が馬のたてがみを見ていることに気付いた。見上げると夜は白んでいた。東の空が赤く染まり、雲が太陽そのもののように輝きだした。自分がそこにいることが嘘のような、夢の中にいるようなその感覚は、その時の穂乃が求めていたものだったのかもしれないが、行く先に村が見えて穂乃の緊張は再び高まった。
しかし、静かだった。彼らはどの家も襲うことはなく、またどの家からも攻撃されなかった。朝焼けの終わった太陽は、真っ白な光で、住人の寝息に合わせて呼吸している壁と軒先の枯れた芒を照らしていた。
ガタッと音がして、穂乃は顔を上げた。並作と呼ばれた子分が、建付けの悪い小屋の戸を開け放った。梟に襲われる鼠の気分とは、このようなものだろうか。穂乃には戸の先にある真っ暗闇が自分を飲み込もうとしているように見えた。
果たしてその中に入れられると、穂乃は縛られたまま座らされた。
「寒かっただろう」
親分と呼ばれる男が囲炉裏に火を点け、穂乃の縄を解いた。子分は家に帰ったのか、いなくなっている。
「気の毒なことをした。が、俺達も生きるためだ。謝りはしない」
初めて男の顔をじっと見た。細長い顔に一重瞼の吊り上がった瞳。蟻螂よりやや年長だろうか。全然似ていないのに何故だか蟻螂の顔が思い出されてまた涙があふれ出た。一筋頬を落ちるともう後は止まらず、堰が壊れたように流れた。そして詰まっていた声が出た。声はただわめくばかりだったが、次第に言葉になっていった。
「どうして蟻螂を……」「さっきも言った、生きるためだ。別にお前たちを特別に狙ったわけではない」「どうして私を……」「腹に子供がいるからだ。あのまま放っておいてもあの男は死にはしないだろうが、お前や赤ん坊はどうなるか分からない」
それを聞いて、穂乃は猛然と腹が立った。なんたる独善、なんたる高慢。人をさらっておいてまるで助けてやったかのような言い草ではないか。
「ふざけたこと言わないで!」穂乃は叫んだ。男は驚いて、その吊り上がった瞳を見開いた。「この子は山で独りで生きて来た、蟻螂の子なんだから! 殴られたって死ぬものですか! すぐに蟻螂がここまで来て、あんた達を皆殺しにしてやるから!」
しかし言い終わる頃には、男は平静を取り戻していた。
「ギロウというのか。あの殺気といい、飛び出して来た時の勢いといい、並の男ではないな。確かに普通に戦ったら、どうなるか分からない」
そして「俺は出海浪親だ」と言い残して、小屋を出て行った。燃え始めた囲炉裏の炎に、男の影が大げさに動いた。
百合の君(2)