百合の君(1)
今ではないここ、正巻地方のある山奥、猟師の蟻螂は妻の穂乃と一緒に平和に暮らしておりました。
荒和二年十二月三日の晩はよく晴れていたが、風が強かった。悲鳴を上げながら森を走り抜けた風は壁の隙間から入り込み、囲炉裏の炎を揺らした。囲炉裏、などと言えば聞こえはいいが、ただ灰が堆積した上にしわくちゃの紙のような鍋が乗っかっているだけだ。所々破けているので、煮えた拍子に中の汁がこぼれる。汁は落ちてジュッと音を立て、どんぐりのあくの跡を残した。
蟻螂は戸を少し開け、外を覗いた。炎のような赤い瞳が、闇に光る。空では星々が囁き合い、彼らの運命を憐れむ歌をうたっていたのだが、森の小屋からは見えない。
振り返って穂乃を見ると、彼女は優しく微笑んだ。それで安心して、蟻螂は穂乃の隣に腰を下ろした。彼女の腹を覆う毛皮に手を当てると、柔らかく温かい感触があった。
「動いてるの、分かる?」
「うん」
蟻螂の顎はほとんど動かなかった。彼は赤ん坊を見たことはなかったが、穂乃が楽しそうにしているので嬉しかった。
「もうすぐ、この小屋にも人が増えるんだね」
「家族っていうのよ」
「家族?」
「うん、私と、これから生まれてくる赤ちゃんは、蟻螂の家族」
その言葉はいまいち理解できなかったが、穂乃がまた楽しそうに微笑んだので、蟻螂も笑った。風は木の葉を撒き散らし、木兎の羽音や小川のせせらぎを覆い尽くさんとしていたが、彼の鍛えられた聴覚はその一つ一つを聴き分けた。人間の足音も。
蟻螂は立ち上がり、戸板にじっと目をこらした。穂乃は不安そうに夫を見上げる。
粗末な木板の隙間が、ブラックホールのように時間を吸い込んでいた。蟻螂は掌の汗を拭った。戸が蹴り飛ばされると同時、蟻螂は飛び掛かった。しかし、敵は慣れていた。蟻螂が飛び掛かった先には誰もおらず、彼はただ空しく外に駆けだしただけの格好となった。その足元をすくわれ、転ぶ。殴られる。殴られる。殴られる。
「並作、血が付いてるぞ」
「いや、俺の血じゃねえんでいいですよ」
「だからだ、拭け、物の怪が憑く」
「へえ、それにしても親分、よくこいつが飛び出してくるって分かりましたね」
「家の中から、殺気がしただろう」
「さっきって……いつですか?」
「ずっとだ」
親分と呼ばれた男は、家の中に入ろうとしている。家には穂乃がいる。蟻螂は縛られた足で走ろうとして転んだ。
「穂乃ーっ!」
叫ぶ声に驚いたのか木兎の声が一瞬途切れた。
「女、か……」
しかし男達には、なんら影響を与えなかった。蟻螂からは穂乃の顔が見えない。それが蟻螂により一層の恐怖を与えた。穂乃の顔を見れば勇気が出る、元気が出る。こんな縄も破れるはずだ。
「並作、連れて帰るぞ」
その言葉は蟻螂の心を氷りつかせた。しかし、男達はまるで蟻螂とは無関係な事のように会話を続けている。
「えっ、珍しい」
「子供がいるだろう」
「えっ、どこに?」
「女の腹の中だ」
芋虫のように這って近づく蟻螂は、小屋の入り口で穂乃の足を見て顔を上げた。恐怖で引きつった穂乃は猿轡をされていたが、そんなものがなくてもきっと声は出せなかっただろう。涙をぼろぼろ流しながら、蟻螂に視線を投げつけていた。蟻螂はいつも穂乃を抱き上げてやる自慢の腕力で縄を千切ろうとしたが、穂乃は空しく夜の森に消えて行った。
蟻螂は鍋のひっくり返った囲炉裏に向かって這った。そして炎で縄を焼き切ると、一目散に走り出した。石が足裏に食い込み、枝が頬を引っ掻くのも構わず走り続けたが、彼はどことも分からない森の中で独り鳥の声を聞き、朝日を拝んだ。
百合の君(1)
これから少しずつ、載せていきます。