苔の生すまで

苔の生すまで

 *

「また来たの?相変わらず図書室登校?」
図書室のドアを開けた僕の顔を見るや否や、司書の新田先生は辛口な言葉を投げかけてきた。
「は、違います。」
思わず僕はムッと唇を結んだ。新田先生はまだ大して年もいってないのに、言うことだけはいつもおばさん臭い。そして初夏の一階南向きの部屋は、自分のイラっとした気持ちを忘れさせるほどに熱が籠もっていて、僕の気持ち以上にムッとしていた。もうとっくに外の世界は平年気温を超えているというのに、節電や何かで学校は冷房を一向に点けてくれようとしない。だから図書室も例外なく蒸し風呂状態なのだということに僕はその時初めて気づいたのだった。
「先生、そういうのそのうち○○ハラとかで訴えられますよ。」
「もう世知辛いなー。今どき何でも「ハラ」を付ければ勝てるみたいな雰囲気。」
まあ、今の世の中そんなもんだろう。言ったもん勝ちの空気感が蔓延してどんどん居心地が悪くなっている。それは高校のクラスの中でも同じで、いつも誰かが誰かを陥れようと隙を窺っているように僕には思えた。
「僕らの世代はゆとりを通り越して、圧倒的個人主義の時代ですから。自分の身を守るのに無駄な神経擦り減らしてるんです。」
「へえ。本当に君は大人っぽい言い回しをするのが得意だよね。そういうとこもまだ青いっていうか。」
「それ以上言ったら、訴えますから。」
余計な言葉は慎んで下さいと言わんばかりに冷ややかな視線を向けると、新田先生は「はいはい」と言いながら事務作業に戻って行った。そう、僕が今日ここに来たのは無駄話に興じるためではない。面倒な古文の課題をさっさと片付けてしまうためだ。

六限の授業は古文だった。意味もなくグルグルと扇風機が天井間近の空気を掻き回す中で、再任用の小太り教師は提出課題を決めた。全く予兆も無く、その場の気分で決めただろうという昔の和歌の調べ学習。でも、適当に与えられた和歌の品詞分解や現代語訳など、今の時代グーグル先生に聞いてしまえば丸パクリ出来るようなシロモノだった。だから僕は当初高を括っていた。何て容易いのだろうと。しかし、
「詠み人知らず…」
運悪く自分に課された歌は、作者未詳の「詠み人知らず」のゾーンだった。つまり作者の情報なんてネットでも出てくる訳がなかったのだ。歌を検索エンジンに入れてみても有益な情報は何一つヒットしないし、だからこそ古の力に縋ろうと、今日は本来の望ましい目的で僕は図書室を訪れていたのだった。
「それで、新葉和歌集について書かれた本を探していると。」
「はい。大体、そんな名前の和歌集初めて聞いたんですけど。」
「確かに万葉・古今・新古今みたいに有名じゃないしね。うちの図書室にも何かあったかな…」
結局自力で探そうにも、名前すら聞いたことの無い歌集に関する本を見つけ出すのは至難の業だった。そこで僕は仕方なく新田先生を頼った。けれどそんな期待も外れ、先生ですらパッとしないような素振りを見せたから僕は段々と憂鬱になっていったのだ。
「ありました?」
「ありました、ってそれが人に物を頼む態度かな。何でも人頼みじゃこの先生きていけないよ?」
「良いです、別に僕は一人で生きていくんで。」
「はあ…、昔は私もそう言ってたなー。」
先生は椅子に乗って上から説教を垂れながら、棚の上に押し込まれていたカビの生えた本たちを漁っていた。手を動かす度に上から埃が落ちてきて、独特の臭いが鼻腔の奥をツンとさせる。
「あ、これならどう。室町時代の勅撰和歌集って本。」
「へえ。室町時代なんですか、その葉っぱのやつ。」
「葉っぱ、じゃなくて新葉和歌集ね。葉っぱだと何だか危ないじゃない。」
そう言って先生は埃で汚れた本を手でパッパッと叩いて僕に渡す。そして椅子から降りると、素知らぬ顔でまた事務室へと戻って行った。夏の日の放課後、物好き以外誰もいない図書室の机上にその本を広げて、それから僕は課題になった例の歌を探し始めた。
「うわ…ページの端まで黄ばんでるし…」
何十年も前の本なのだろう。深緑の背表紙の端はほつれていて、暫く誰にも触られていなかったように見えた。ページを繰るごとに指先に汚れが付く様がその年季を感じさせる。仕方ない。面倒な課題を片付けるためには数少ない情報でも金言のようなものなのだから。と言いながら、結局その本に載っていた情報は一行一文程度のものだった。思わず僕はため息をつく。この少ない情報を拡大解釈してプリントに書き込むしかないだろうと考えながら、僕はそのページの記録をしておこうとスマホのカメラを起動させていた。本当は本の写真を撮るのは良くないらしい。著作権がどうたらとかで、きっと新田先生に見つかったら怒られるだろう。僕がその薄い罪悪感をいなしながらページにピントを合わせていたその時、
「…あ」
校庭に面した窓の網戸からふっと風が吹き込んで、本に付いた汚れまでを宙に舞わせた。汚い。爽やかなはずなのに暑さと臭いのせいで嫌な風だ。思わず僕は咳込んで舞った汚れを平手で払った。もう最悪だ、と思いっきり悪態をついてしまう。そしてもう一度写真を撮ろうとした。しかしページは新たなところが開かれていて、そこで僕は見つけた。意図せず開かれたそのページに、遠い夏の記憶の断片を見つけてしまったのだ。
「…これって…」
不意に開かれたその一ページには、歌が書かれていた。

 鴟のごと 竹の葉を揺る 蒼風ぞ 我も知らなむ 苔の生すまで

楷書体で記されたその歌はいつの日かに誰かから伝えられて、泡沫のように消えていった蜃気楼のような思い出を呼び覚ました。そう。あの夏は、幻ではなく本物だった。

 *

「あっつ…」
知らない街に来たら勝手に道を歩きたくなる。僕は中学生の頃から既にそんな習性を持っていた。逆にこんな性格だから集団行動は人一倍苦手で、担任が恣意的に決めた班割りで回る校外学習ほど嫌だったものは他には無いだろう。それも外国人やカップルでごった返す鎌倉。東の古都だか何だか知らないが、僕には大して興味が無かった。
「ねえ、今どこにいるの?次のチェックポイントまでに合流できる?」
「ああ、まあ」
何処へとも続くか分からない坂道を上りながら、僕は電話口では勝手なことを言っていた。最近買ってもらったスマートフォンは班員同士の連絡と地図を見る時にだけ使うのを許されるらしい。自分の持ち物の使い方まで大人は決めて随分偉い生き物なんだなあと僕は軽蔑しながら、数日前にその説明を聞いていた。けれどそんな指示を中学生が聞く訳でもなく、同じ班員からは「今由比ヶ浜にいるんだけど」と砂浜ではしゃぐ奴らの写真が送られてきていた。
「だるっ」
僕ははぐれた。というか、意図的に外れた。小町通りの人混みの中ですっと気配を消せば、大体気づかれずに個人行動を始められる。それで鶴岡八幡宮の境内を通り抜け、雪ノ下、二階堂という雅な地名を横目にしながら、僕は坂を上っていた。というか半ば山登りのようなものだった。鎌倉ってこんなにも坂の多い街だったのか。意地でも個人主義を貫いてやるという無駄な使命感も相まって、今となっては引き返せないだろう。いつも僕は一人だ。だから今も一人で良いのだと謎に言い聞かせながら、気づくと道脇に小川が流れる山の麓まで僕は辿り着いていた。
「…」
一つだけ分かったことは自分の向かっている方向に由比ヶ浜なんて存在しないこと。そして海と真逆の方向に歩みを進めて僕は何処へ向かっているのか、自分にもよく分からなくなってきていた。あんまりやり過ぎると下手に教師に叱られるし、そうなると色々と面倒だ。だから程よいところで引き返すかと僕は心に決め始めた。鎌倉に来るのは確かに二度目くらいだったけれど、こんな山間の住宅街があるとは正直知らなかった。別に怖気づいた訳ではない。片側一車線の山道は歩道を敷く隙間も無く、肩を擦りむくように車が走っていく。その殺風景な感じが熱せられた頭に冷や水を浴びせかけただけだった。
「何で、愛知屋…」
その数歩のうちにふと右を見上げる。すると、小川の傍には古びた商店が建っていた。どこか時代に取り残されたような木造のあばら家は、トタンの看板に太く文字が書かれている。神奈川の鎌倉なのに愛知。そんなことをくだらなく疑問に思っていると、知らぬ間にまた僕は歩みを進めてしまっていた。やっぱり途中で逃避行を止めるのは格好が悪いと思ったからかもしれない。そのまま坂を上りきって谷間に差し掛かると、風も吹いて多少は涼しくなってきた。その夏の蒼い風が自分には心地よかった。もしかしたら、僕はその風に誘われていた。しかしそれは途中から吸い込まれるようだった。何か鳥が鳴くように、ピュー、そしてヒョロロと音を立ててその風は吹いた。すると自分の意思とは裏腹に身体が動き始めて、小川に沿って坂道をまた上っていく。なぜだろう。何かに抗うようにここまで来たはずなのに、その誘(いざな)いには不思議と逆らう気分にはなれなかった。そして、僕は橋を渡った。小川に架かる橋を弾むようにタンタンと渡った。
「涼しい…」
川を越えると気温が少し下がった気がした。変な気分だ。まるで危険な世界に足を踏み入れてしまったかのように、腕の産毛がじわりと逆立つ。後ろを振り返ろうとしても思うように頭が自分の言うことを聞かない。そしてそのまま坂道を上がった先には、綺麗な木製の門があった。まるで名家の豪邸だ。石畳の道が中には続いていて、静謐な日本庭園が広がっている。そこから風は吹いていた。その風が、僕をそこに連れてきていた。

 *

「それで?」
「いやそれで、って本当に足が弾むように進んだんですよ。何かに引っ張られてるみたいに。」
そう言う僕の顔を細い目で睨みつけるように新田先生は疑って見た。ただでさえ蒸し暑くてむさくるしい図書室の空気が、一層暑苦しくなる。僕がこんな状況に置かれているのは、間違いなく自分があのページを見て「あ!」と声を上げてしまったからだ。数分前、その大声を聞いた先生が事務室からまた首を伸ばしてきて、「図書室では静かにしなよー」と言いながら近づいてきた。けれどこんなにこざっぱりとした人がエスエフやオカルトの類を信じるはずがない。だから僕は相当身構えて防御のポーズを取って話を始めたのだった。
「そんなの有り得ないでしょ。暑さで頭ヤられちゃってたんじゃない。」
「先生、言い方。」
「だってさ、それで現れたのが木の大門と静謐な庭園ってさ。まさに狐にでも化かされたんですか、って感じ。」
「ま、まあ…」
確かに先生の言うように、狐に化かされたのではないかと当時の僕も思っていた。それか熱にでも魘されたのかと。しかしそこで見たものは確かにあったのだ。そして、彼女は確かに僕の前に居た。二条麗香と名乗ったあの透き通るような女の子は僕の前にしかと存在したのだから。

 *

僕は気づくとその門をくぐっていた。まるで格式ある寺社のような雰囲気を醸し出している大門は、来る者は拒まずと言わんばかりに左右の戸が開かれている。そして中へ入ると小さなさざれ石が散りばめられた石の路がなだらかな坂を作るように続いていた。坂を上った先には何があるのだろう。そんな子どものような好奇心にくすぐられて、僕はまた歩みを進めていた。
「陽が差してるのに、涼しいな…」
ふと上を見上げると、背の高い青竹たちが陽射しから僕を守るようにしてさわさわと揺れている。この路の両端には竹林が広がっていて、その葉たちが擦れる度に風の囁くような音が聴こえた。やはり僕はどこか心地よくなっていた。存在しないマイナスイオンが降り注いでいるような錯覚に駆られて。すると、目の前には小さな庵があった。今の日本ではまず見ることが無いような茅葺(かやぶき)の屋根で、それはまた質素で雅な佇まいだった。そう、かぐや姫にでも出てきそうな。そんな世界観が僕を包んで心を少しずつ撫でるようにした。
「いや、でも」
でも、ここは他人の家だ。誰か知らない人間が軽々しく入っていいところでは無いはずで、もし家主に見つかったらまさしく不法侵入になってしまう。今さらながらそんな初歩的なことに気づいた自分に、僕は落胆した。いつもの僕ならばもっと鋭くいられるはずなのに。
「…」
それでも僕の冒険心は収まらなくて、僕は庵の周りをぐるっと回っていた。馬鹿だ。全ての戸は閉じられていて人の気配は無い。そして誰かが住んでいるような見てくれでもなさそうだった。障子は全て破れることなく張られている一方、縁側には長年の汚れが床板に染み付いている。ここも所謂(いわゆる)空き家なのか。それにしては随分庭は手入れされているなと若干の違和感を胸に留めていた。
「…」
いつだっただろう。僕がどこからか向けられる視線に気づいたのは。その視線は縁側に続く廊下の奥から僕にしっかりと向けられていた。今思い返せばこれでホラー映画がひとつ成立するし、貞子とかそんなジャンルに合っている。実際そこで姿を現した彼女も、色が白くてまるで幽霊のようだった。そう、その彼女こそ「二条麗香」だった。
「…あの」
「…?」
僕は彼女に声をかけられて背筋が固まった。
「!」
家主に見つかった。まずい。そんな思いが胸に去来して「逃げねば」という思考になる。けれど身体はそこまで鋭くなくて、直立不動で彼女の目を見返していた。
「あ、あの、すみません!」
「?」
「校外学習で来たんですけど、迷い込んでしまって。決して怪しいものじゃないです!」
「…こうがい、がくしゅう…」
彼女は僕を不思議そうに見つめながら、裸足のまま縁側を一歩一歩歩いてきた。すっとした手足がしなやかに動くその姿は優雅だった。小さな目に端正な顔立ちで、まさしく美人と形容されるべき人。服は…、いや、思い出せない。彼女があの時どんな服装をしていたのか、どんな姿形をしていたのかを僕は今も思い出せなかった。ただ覚えているのはその優しそうな顔つきとゆっくりとした歩き方で、他の全ての記憶は蜃気楼のように消えていた。
「あなた…、男の人…?」
「へ」
「?」
「え」
「これが、男の人…」
何を言っているのだろうと僕は思った。まるで男子を初めて見るような目つきだ。そんな視線を向けながら彼女は近づいてくる。そう、僕は動物園の珍獣になったかのような気持ちで彼女に見られていた。
「あ、でも!」
縁側の端まで来て、腕を伸ばせば届きそうな距離まで近づいた時、彼女は唐突に声を上げた。
「?」
とても透き通っていて響くような声だった。鳥が空を飛んで響かせる鳴き声のようだ。女の子にそんなことを言うのは失礼だったかもしれない。けれど僕は驚き、思わず後ずさりをしてしまった。
「ごめんなさい、お邪魔しました」
とその場しのぎの謝罪をして立ち去ろうとすると、彼女はまた「あの!」と声を上げた。僕をその声で引き留めた彼女は、どこからか和紙で出来た短冊を取り出した。そして縁側の端から僕に渡すようにすっと風に流すと、竹藪を揺らすその風に乗った短冊はふわふわと漂うように僕の方へ向かってきた。直接渡してくれればいいものを、と内心思いながら僕は宙に浮く短冊を追いかけ、右手でそれをぎゅっと掴んだ。書道の授業で使うものよりももっと硬くてざらざらとした感触。その裏面には薄い墨字で文字が書かれていた。

 *

「それが、このページに載っている和歌だったってこと?」
「はい、間違いなく。」
新田先生はいくら僕の話を聞いても信じてくれていないようだった。相変わらず狐だ狐だと繰り返して、挙句の果てには「狐が歌なんて詠む訳がない」からと人のいたずらだと一蹴した。
「でも、本当にあの子が僕に渡した短冊にはこの歌が書いてあったんです。そして二条麗香という名前書きもあって。」
「ふうん。」
「信じてないですよね?」
「うん」
「はあ…」
「じゃあその女の子はよっぽど和歌が好きだったのかね。にしても、新葉和歌集の詠み人知らずってニッチにも程があるけど。」
「それはそうですけど…」
「にしても、その短冊が橋を越えた瞬間にしゅっと消えるとはさ。ますます信じられない。」
「いやでも、」
そう、その短冊は僕が門を抜けて小川に架かる橋を戻った瞬間に、嘘のように消えて無くなったのだ。まるで砂糖菓子がお湯をかけられてじゅっと溶けてしまったように、それはもう跡形もなく失われてしまっていた。だから僕があの数分目にしていた「二条麗香」という女の子も今や頭の片隅にしか残っていない。けれど僕は、何年も経った今でもその名を忘れていなかった。
「だって何だか白昼夢みたいじゃない。ほんの一瞬だけ現れた女の子とか、勝手に進む足とか。」
「まあ…」
「でもそういえば、その場所って今はどうなってるの?」
「え」
そう言われて僕はハッとした。そう、僕は一度調べたことがあったのだ。校外学習が終わった後、事後のまとめで班ごとに鎌倉の歴史を発表する機会があった。そしてその時にまた僕は独り、班のメンバーがパソコンで調べている傍らでその場所のことを調べていた。するとそこには昔、鎌倉から室町の時代にかけて小さな寺があったことがどこかの歴史サイトに記されていたのだ。ただそれ以上の情報は何も出てこず、今もどうやらその史跡が残っているらしいことしか分からなかった。
「だってここに何か書いてあるよ。ほら、歌の補足のところに。」
「?」
僕は先生の指さす先を見た。あの日僕が手渡された短冊に書かれていた歌の隣に、小さな文字で解説か何かが記されている。

鴟(とび)のごと 竹の葉を揺る 蒼風ぞ 我も知らなむ 苔の生(む)すまで

〈歌意〉空を高々と飛ぶ鴟のように爽やかに竹の葉を揺らす蒼風を、永久の時が経って苔が茂ってしまうまでに、私も知りたいものだなあ。
〈解説〉読み人知らず。鎌倉時代の寺社の娘が、その美貌のあまり親に幽閉され、男を知らないまま死んでいった伝承にちなむという説がある。すなわち「鴟」は自由、「蒼風」は雄を示しており、事実、その史跡には青々とした竹林と立派な苔が生えた庭園が残っている。

「…」
「もしかして、君はその子に会ったんじゃない?」
まさか。つい先ほどまで僕の話を信じてくれない先生を疎ましく思っていたのに、今の僕は自分で自分を信じられていなかった。あの子は本当に、その娘だったのだろうか。確かに彼女はとても整った顔立ちをしていて、他にはいないだろうという美女だった。そして男である僕のことを見て新奇な反応を見せていた。
「切ないねえ、美しさのあまり親に幽閉されるとは。その上、空を飛ぶ鴟と竹の葉を揺らす風に憧れを抱いてこんな歌を詠むとはね。」
「…ですね。」

 *

彼女はそこに存在した。僕はそんな気がした。だから、僕はまた旅に出た。今度は当てもなく何かから逃れるでもない、目的を持った旅へ。海を背にして山へと向かう坂道を上る。するとそこにはあの夏の記憶がそのまま残っていた。
「この橋…」
ここを渡ったらまた彼女に会えるのだろうか。もう僕の足は勝手に動いてはいなかった。
「君、」
「?」
「そこを渡ってはいけないよ」
刹那、太い声が響いた。そして僕に向けて発したのは、袈裟に身を包んだ老人だった。誰だ。僕はその声で振り返り怪訝に思っていると、老人は「こんな夏の日に若い男がここを渡ると、あの娘に出逢ってしまう。」とぽつりと呟いた。
「え」
「君はこの先の竹林に向かっていたのだろう?」
「…は、はい」
袈裟を着た住職のような老人は僕の心中をピタリと言い当てた。それは怯えるほどに静かで、また何か事情を知っているように見えた。
「籠の鳥。」
「…え?」
「この先の竹林には、元々二条という娘が住んでいてね。」
「二条」
二条麗香、その名前と符合して僕の胸は少し躍った。けれどそんな嬉々をぴしゃりと制するように、老人は話した。
「そう。身分は高貴で絶世の美女だったのだけれど、その噂が立つと、幼い頃から周囲で無駄な争いが増えた。命を危うくすることもあったという。」
「…」
「それで彼女の父君はこの竹林の奥に庵を造り、そこに彼女を幽閉した。異性と話すのを禁じられ、会うことも許されなかった。だから彼女は男を知らないまま、若くして亡くなったらしい。」
「じゃあ、伝承は本当に…」
僕の溢した言葉を聞いて老人はこくと頷いた。本に書かれていたことは本当だったのか。なら、あの日出会った彼女は。そんな僕の逡巡を遮るように再び老人は語った。
「君はまやかしを受けるところだったのだよ」
「まや、かし…?」
「ああ。彼女が夭折した夏の日に、若い男がこの橋を渡って夢を見てしまうことがしばしばある。まるで熱に浮かされたように。」
「…」
「ん?」
「いや」
「君は、もう彼女に会ったのか。」
何も答えを返さずとも、老人には全て見え透いているようだった。そして老人は、竹林の奥には今は洞(ほこら)があり、そこに彼女の墓があるのだということを教えた。あの道端のさざれ石は大岩になり、苔が茂っているという。そして僕が元の道に帰された時、また風が吹いた。彼女が誰かを呼ぶように、再び竹のそよぐ音が僕には聴こえた。
「…」
あの日短冊を渡したのは、僕に何かを伝えたかったからなのだろう。籠の鳥として幽閉され続けた恨みなのか、怨念なのか、僕には分からない。彼女は今も、きっと独りだ。その蒼い風は僕の胸を貫くように通り抜けた。

苔の生すまで

この作品はフィクションです。

苔の生すまで

ある夏の日の、不思議な話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-10

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