林檎
宵の闇が下りている。
標高の下がるにしたがい、雪景は斑に。溶闇していく。
車窓を見遣る太郎。そのじつ、隣席の、少女の面輪を盗み見している。
修学旅行の帰り。貸切バスの中である。
小づくりな面立ち。まあるい頰の線が柔和である。鼻と口もとがおとなしい。やや切れ長の奥二重の目もとに、睫毛にかくれた瞳が、遠くの星のように瞬いている。
可愛い。
「なに?」
車窓のかの女と目が合った。
「いや……」
「なあに? タロちゃん。」
かの女はいつも太郎を、タロと呼ぶ。
南極に遺棄された犬たちの一年後に生存の確認された逸話が映画化され、この夏、話題になった。タロと呼ばれるのは、しかしそれ以前からである。
「タロちゃん、なあに?」
太郎は首を横に振った。
かの女は凝っと太郎を見つめている。
かの女の目は左右、大きさが微妙にたがえている。その不均衡が愛嬌を醸していた。
可愛い。
「もうすっかりよくて?」
旅行の前日、太郎は発熱した。医者にかかり、一日寝て過ごした。翌朝、熱は下がった。旅行はスキー合宿。心許なく参加したのである。
「大丈夫。」
「よかった。」
微笑むと、やや切れ長の目が、細くやさしい弧を描く。
ああ、可愛い。太郎は正視できず、視線を自分の膝に落とした。
まるのまま皮を剝いた林檎が両の掌にある。
太郎は一口齧った。瑞々しい軽快な音。甘酸っぱい味と香り。夢の醒めるような新鮮さにみたされる。
母の搾った林檎ジュースが思い出された。
幼少の頃、病の度、下ろし金で擦り、ガーゼの巾着でこれを搾った林檎ジュースを、布団の中で心待ちにしたのだった。
「おいしそう。」
かの女が太郎をのぞいている。
バスが途中で立ち寄った土産物屋の駐車場に、林檎売りのテントが立っていた。回転式の皮剝き機を実演していた。農家のご婦人らしい。バスに乗る前に、野沢菜やら蕎麦饅頭やらを購入済みの太郎は一人、ハンドルを回す手つきと、林檎の皮がリボンのように躍るさまを、面白く見ていた。ご婦人の年恰好は、母に近い。
バスのエンジン音と点呼笛が聞こえたのは同時である。
踵を返した太郎は、呼び止められた。
「これ、持ってお行き。」
婦人が、いまいま皮を剝いたばかりのを一つ、差し出した。
太郎はあわてて、ポケットをまさぐった。財布はバスの鞄の中だ。
「お代はいいよ。持ってお行き。」
太郎は躊躇った。生徒を呼び集める教師の声が聞こえる。
「またおいで。」
「ありがとうございます。」
両の掌で林檎を受け取ると、太郎は一礼し、駈け戻った。
経緯をかいつまんで話す太郎を、かの女は凝っと見つめて、
「いいなあ。」
心から羨むような声で呟くのである。
「美代子ちゃん、食べる?」
太郎は林檎を両の掌で差し出した。
美代子は、両手で太郎の両手を受け、自分の口もとに林檎を運んだ。かの女の吐息が、太郎の掌に温かく触れ、濡らした。
美代子の唇が、林檎の白い実に、淡い紅を添じた。太郎の齧った箇所に口づけ、小さく白い歯を立てた。しゃり、と微かな音を太郎は聞いたように思った。
「おいしい。」
切れ長の目が、やさしい弧を描いている。
太郎を見つめる美代子の瞳の星々が大きくなった。
太郎は掌の林檎を、美代子の齧った痕に口を寄せ、齧った。
甘酸っぱい恍惚が、太郎をみたした。
林檎