聖家族
水を湛えたミルク入れ。オリーブ油のたらした小皿。洗いざらしのタオル。蠟燭に点った灯がゆらぐ。……
「じゃ、はじめよう。」
耕作は細君をうながした。
瑠璃子は赤ん坊の着替えをすませたところである。
赤ん坊の真白な晴れ着を耕作はまぶしい思いで見た。純真無垢とはこのようなものか。つぶらなひとみの黒々と訴えるのが胸に逼る。不意にきょうまでの出来事が、思いに擦過するのを覚えて耕作はたじろいだ。
「父と子と聖霊の御名によって。」
十字をきる手が顫えている。
「アーメン」と瑠璃子が応じた。その胸で、赤ん坊は両腕を母の頰に伸ばし、無邪気である。
耕作は次の句を、心ここにあらぬまま、棒読みした。はたしてこれは有効かと、これまでさんざん反芻した問いが、自嘲をともない、思いに滲む。意味あることか。正しいか。
瑠璃子が修道院から失踪したと聞いたのは、秋も深まり降誕節も近づいた五年前のことである。当時、耕作はカトリック教会の助祭として、司祭叙階を数か月後にひかえ、東京の神学校に起居していた。瑠璃子は神学校の校務から洗濯や賄いに至るまで、神学生や教授陣の世話を担う修道女の一人であった。
寒さも厳しくなった早朝、日課の祈りに瑠璃子があらわれない。体調でも崩したかと修道院長自らようすをうかがいに部屋を訪ったところ、修道服は寝台の上にきれいにたたまれていた。私物はない。部屋はきれいに片づけられていた。
中学校にあがると同時に修道院に入った瑠璃子の世間はせまい。高校の同級で、かつて修道生活をともにし、いまは還俗している友人の宅をたよったところ、一週間で連れ戻された。
神学校に衝撃の走らぬはずもない。表面上静穏は保たれているが、神学生らに動揺は少なくなかった。神学校と同じ敷地内に立つ修道院は、いつにもましてひっそりと暗く、空気は重たげに見えた。瑠璃子の決心はかたいという。ほかの修道女たちが泣いているそばで、泰然と構え心動かすようすはないと聞いた。
耕作も動揺を覚えた一人である。動揺というより、心で喝采をあげたのである。思いとどまるよう諫言するのでなく、早くお逃げなさいと唆す手紙を瑠璃子宛にしたため、ほかの修道女に託した。もちろん内容はだれにも明かさない。そんな風をおくびにも出さない。
耕作自身このままほんとうに司祭になるのか、神父として生きるのかと黯然たる思いであったからである。
腐っている。というのが耕作のカトリック教会評である。規矩ならびに典礼は形式主義。教義は旧弊固陋。倫理は地に堕ちている。よって霊性のかけらもみとめない。あるのは嫉妬ならびに倒錯した性。世界の複数性を破壊し、あたかもそれが歴史もしくは自然のあゆみであるかのようにはたらく絶対の一者「神」をつくりあげんとする全体主義的単一性社会であると知った。これの眷属となって働くを潔しとしない。
耕作は瑠璃子を連れて神学校から失踪した。かけおちしたのである。
二人は籍を入れた。教会法上みとめられない。しかし国の定める法において正しく夫婦となった。しばらくは首都圏にとどまった。耕作は宅配のドライバー、瑠璃子は清掃婦として働いた。そのうち瑠璃子は懐妊したが、仕事中の濡れた床で転倒、これが因で流してしまった。ほぼ同じころ耕作の父が急逝した。実家は九州である。二人して帰省し、葬儀や財産整理などするうち、そのまま暮らすことにした。旧友の斡旋もあって、その親戚の経営する会社に職を得た。そうこうするうち瑠璃子がふたたび懐妊。この夏、男児を出産し名実ともに一家をなした。
だれにも文句は言わせない。れっきとした家族である。
耕作はいまや信仰をもたない。瑠璃子は修道生活を厭ったが、信仰を捨てたわけでなかった。
耕作も瑠璃子もともに幼児洗礼である。
だが耕作の洗礼は、母ゆえである。父は結婚のため受洗したにすぎない。妻の死後は教会に顔を出したことのないまま亡くなった。葬儀も親戚のはからいで仏式ですませた。母の亡くなったのは耕作が高校一年のときである。
瑠璃子は潜伏キリシタンで知られた離島の出である。代々続く信者の家に生まれ、もの心つくころには、修道女になるものと刷り込まれた。家族、親戚、地域住民が信者という環境に育ったから、修道生活を離れたとはいえ、神を離れたつもりはない。
ここに二人の思いもかけない葛藤が生じた。
「この子にも洗礼を受けさせないとね。」
なにげなく瑠璃子のもらした一言は耕作を驚かせた。いまでは憎むまでに修道生活を厭い、少なからぬ騒動をおこして離れたにもかかわらず、洗礼をのぞむとは。
「早くしないと。悪魔が憑くわ。」
ふるくからの信仰の伝統の残る地域に育ったからだろう。迷信がぬけない。神に見捨てられると言うのである。最初の流産がいまも癒しがたく、負い目となっている。わが子の将来を案じる母親の心でもある。
耕作にそうした頓着はもはやなかったけれども、一時は教会聖職者をこころざしたのでもあり、瑠璃子の生い立ちを思えば、かの女の心は理解できた。流産の傷心も慮られた。そうした切実を嗤うような、無粋でも無神経でもない。瑠璃子がいたわしかった。
ある日の夕刻。仕事帰りに耕作は、彼の暮らす町の教会を訪った。記憶にないが、彼が洗礼を受けた教会である。高校卒業までは通った教会である。名簿上はいまなお籍をとどめる教会である。瑠璃子と結婚した時点で耕作の聖職は実質無効であるが、ヴァチカンでの手続きの済むまでは留保される。手続きが煩雑なため、耕作はこれをうっちゃってある。したがって彼はまだ助祭である。聖職にとどまる人ではある。
主任司祭は、耕作が教会を離れたこの約五年のあいだに叙階された、後輩だった。用件を聞いた司祭はおだやかな笑みをうかべて応じた。これが聖職者特有のつくり笑いであることを耕作は知っている。彼もそのようにふるまうのを教育もされ以前は常としたからである。
「あなたはいま、この教会に来ておられない。名簿上の名ばかりの教会員では、教会共同体としてお子さんの洗礼を受け容れることも、お祝いすることもできないのは助祭叙階まで進まれたあなたならご理解いただけると思います。まして奥さまはこちらの教会に籍がない。そもそもお二人は教会のみとめるご夫婦ではありません。まずはあなたがたお二人が教会法に定められた手続きをふまえ、ご身分を正してからあらためて教会のみとめる夫婦となるべく努めることが先ではありませんか。」
ここまで司祭はよどみない。おだやかな笑みは変わらない。そしていっそうにこやかに言葉をついだ。
「教会においてお二人はご夫婦でない。ご夫婦でないのにお子さんのおられること自体が問題でしょう。神のみとめるところではありません。あなたがたのなさっていることは教会に対する冒瀆です。神への叛逆です。いまお子さんの洗礼などありうべきことではありません。」
言われるまでもない。耕作も分かっている。分かっているから相談におもむいた。しかし教会とはこのような所である。それも耕作は理解していた。徒労と知りながら訪れたのであった。
神は愛とは言う。これの現実になされることのないのが教会である。現実である。口あたりのよい甘美な麗句は豊かに、にこやかに連なりあふれ出るのである。しかしこれの実現したためしはない。これを生きる聖職者もほぼ皆無である。このような団体の表看板たる「神」なるものをいまなお信ずる瑠璃子がひとしお不憫に思われた。
帰宅し夕食をすませた後、赤ん坊を寝かしつけた瑠璃子に教会でのことを耕作はかいつまんで話した。瑠璃子の落胆が傍目に見たところ大きくなかったのはせめてもの慰めであった。
「まだましよ。」
瑠璃子は微笑み、耕作に封書を手渡した。かの女の実家からである。赤ん坊の洗礼について相談したのだという。
耕作は呆気にとられた。激烈な言葉が並ぶ。家の恥。村の恥。教会の恥。もはや親でも子でもない。いっさいの縁をきる。帰ってはならない。……耕作は悪魔、瑠璃子は魔女、赤ん坊は悪魔の子と呼ばれている。
夫婦は互いの顔を見合わせ嘆息するよりなかった。そうして瑠璃子は提案した。
「わたしたちだけでやりましょう。」
信教の自由とは言う。しかしこれを世の人たちは誤解している。信じるのは各々の勝手である、これに嘴を入れるな。というのはまちがいだ。各々が信じるのは自由であるが、これを他者に強いてはならない。たとえ血のつながったあいだがらであれ、他者の信じる自由を妨げてはならない。という意味であるから、カトリックの幼児洗礼は信教の自由に抵触する。
親がよいと思うものを子に与えるのは当然にして親の権利だという、よく教育を例に挙げての反駁は意味をなさない。教育にせよお稽古ごとにせよ、のちに本人が望まないなら変更も中止も可能である。本人の選択の自由は担保される。
ところで教会において洗礼は秘跡である。これは恒久的な効果を有するとされる。のちに教会を離れようとも洗礼は有効。信者であることにかわりない。教会の名簿に残る。死んでも台帳に残る。形而上・形而下を問わず抹消はない。キリスト教信者という聖痕ならぬ烙印としてのスティグマはつきまとうのである。このような苛酷を本人の同意なく、ましてや意思表示もかなわぬ赤ん坊に親のエゴを以て課するは言語道断。本人の選択の自由が奪われている。信教の自由の権利侵害にほかならない。
耕作はこのように信教の自由も理解しているから、赤ん坊の洗礼にそもそも乗り気でない。ただ瑠璃子がいたわしくてならないのである。
臨終などの緊急時、司祭不在の場合、信徒による洗礼の可能にして有効なことが定められてはいる。様式もある。これを応用しこの場にふさわしい洗礼式のできなくはない。教会にみとめられるものでないにしろ、それは望むべくもないなら、やってみるのも悪くない、兎にも角にも洗礼はかなう。間に合わせではあれ、瑠璃子のなぐさめにはなる。
水を湛えたミルク入れ。オリーブ油のたらした小皿。洗いざらしのタオル。蠟燭に点った灯がゆらぐ。……
式はとどこおりなく進んだ。いよいよ洗礼である。というところで赤ん坊がぐずった。しばし待ってみたものの、泣きやむようすはない。水を湛えたミルク入れを額にかざそうと手を伸ばすと、これを妨げんとするかにむずかるのである。これを何度かくり返し、埒のあかない。
瑠璃子は胸をはだけ乳を赤ん坊にふくませた。つぶらな黒々としたひとみが真剣である。乳首に吸いついてすぼまった唇は力がこもる。ふくよかな頰がふくらんではしぼむ。愛らしい。いのちのありのままのすがたとはこのようなものか。耕作は見惚れた。自然ないのちのありようと覚った。
途端、水を湛えたミルク入れが空虚(むな)しく映った。オリーブ油のたらした小皿は汚らしい。洗いざらしのタオルは間が抜けて見える。蠟燭に点った灯が白々しい。……
瑠璃子は魔女どころではない。赤ん坊に乳をやるすがたは聖らかである。赤ん坊が悪魔の子であるものか。この愛らしさは天使も及ばない。二人の睦んだすがたは聖母子とたとえるのも陳腐なまでに神々しい。神の愛の入る余地はない。自然の恵みに充ち満ちている。
耕作と瑠璃子は、神の祝福なくとも、教会にみとめられずとも、自然によって結ばれた。赤ん坊は自然に恵まれた。いまこのときを生きとし生けるものとして生きている。自然なるいのちのかたち。神のなくとも、自然にある。自然は祝福している。神の掟に背こうとも、教会の法に反しようとも、自然にかなっている。三人の和合は自然がゆるした。自然が望んだ。三人は自然において聖らかである。
「やめよう。」
耕作は瑠璃子にやさしく告げた。
「ごめんね。」
赤ん坊にささやいた。やめよう。自然を侵犯すまい。涙が耕作の頰を伝った。瑠璃子の微笑むのが潤み、滲んだ。
聖家族