竜の仔の夜➺D1

竜の仔の夜➺D1

自然の化身をヒトとした「竜」と共に、様々な時と場所を駆け抜けて戦うファンタジー。
DragonシリーズD1本編です。別作『騎士竜』はこの話の前日譚となります。

本作はノベラボに常時公開予定作で、久しぶりに文庫本サイズを書いた書下ろしの初版です。今後大筋は変わりませんが、文章の細部はD3完結まで修正のある可能性があります。
多少でも変わり得る作品を公開しておくか悩んでいるのと、D2の過去という位置の話のため暗めなので、本作はD2本編かD2橘診療所短編UP前後の期間限定公開とします。

2024.5.10/6.12-

Special Thanks
キャラクター原案
D1:Lime/K.Y/I.T/Unagi/M.K

竜の仔の夜➺D1

 
 彼女は人間世界が嫌いだった。たとえそこが、俗称「人間界(地球)」とは違う宝の世界であっても。
 自身が「人間」でないことは薄々知っていた。「人間」は彼女のように大岩を担げず、一晩で三つの山を越えることもできない。
 なのに「人間」は偉そうなのだ。オカネという木端や銀塊を盾に、彼女に畑仕事や毎日頻繁な水汲みをさせた。クズ鉄の剣も着っ放しに堪える服も鎧も、オカネがなくては旅用の外套一つ買えない。なるべく「人間」に関わりたくない彼女は、育った山奥を出ても最低限の日雇いで辛うじてオカネを補充していた。

 あとはただ、ヒト多き「風の大陸」で人跡未踏の山々を巡り、人間の手から逃れていく日々。人間は彼女のことを恐れるくせに、戦いの道具にしようとおふれまで出す。
 今日も今日とて、春山の隠れ里に泊まったはずなのに、宿の主人に彼女の顔は気付かれていた。空を透かす水晶のような青い目と、空そのものの青の長い髪が、今をときめくお尋ね者の特徴として知られてしまっている。
「ライムさん、どーしようあれ。店主のおっちゃん、確実に警戒してる」
「うるさいなあ、武丸(たけまる)……アンタは佐助(さすけ)を看てなさいよ」
 彼女一人なら、野宿で良かった。しかし育った山を出る時から彼女を師匠と呼んで、何故かついてくる少年達の弟の方が頻繁に熱を出すので、きちんとした寝床で休ませないといけない。だから彼女は、この宿に泊まるためのオカネをまず工面しなければいけない。
 一泊目は旅の途中で殺した魔物の生皮で済んだ。明日はどうしよう、と彼女が夜中に宿を出て、付近の森を散策していた時のことだった。

 本当は昼間に、その凶事の前触れは目にしていた。森の奥にある泉で、広場ほどの大きさの水面が闇の中に満月を映していた。
 彼女よりずっと弱小な人間達の、愚かさだけの風習には関わらない。見て見ぬふりをする、そう決めていたのに。

「……――あい、つ……――」

 ふらつく先を間違えてしまった。そう後悔した時には遅く、彼女のすぐ目の前で、泉に近付く白装束の乙女が、悲痛な黒い目にまばゆい青の光を反射させた――

➺序奏∴間奏 光

➺序奏∴間奏 光

 
 「黒鳥(こくちょう)様の生け贄になれ」。そう定めづけられた乙女が、為す術もなく森の奥の泉に追いやられ、毎年行方不明となる乙女の一人になるはずの夜だった。
「――水から離れて!」
 意を決し、泉に足を踏み入れようとした乙女に、見知らぬ鋭い声がかかった。
 夜の内に入水しろ、とその山村では定められている。最早日中に行う生け贄の儀式もやっつけ仕事で、たたりが怖いから続けているだけの風習。泉の向こうにある(ほこら)の主が乙女を喰らうというが、実際は一度水に入りさえすれば、後はいくらでも逃げていい、と乙女は聞いていた。(けが)れた黒い泉につかった者は、村には帰ってはいけないだけで、麓に逃げるなりして姿を消す生け贄が大半なのだ、と。

 しかしその日は、「黒鳥様」が趣きを変えたらしい。乙女は泉の手前で謎の怒声にびくっと後ずさり、(つまず)いて座り込んだ瞬間、辺り一帯が閃光に包まれていた。同時に激しい春雷が鳴り響いた。
「え……ぁ、きゃああああっっ」
 耳と目を潰しにかかる音と光。間近で泉に炸裂したので、腰を抜かした時に瞼をぐっと閉じた結果、視界は何とか守られていた。耳鳴りでがんがんする頭を押えながら目を開けると、泉には巨大な蛆虫(うじむし)が打ち上げられていた。
「な、なにこれ、ま、魔物――!?」
 大きさだけは、虎よりも巨躯である死骸。あのまま乙女が泉に足を踏み入れていたら、この蛆虫は乙女をいったいどうしたのだろうか。

 がくがくと震えながら動けないでいると、ぽん、と、乙女の肩を後ろから誰かが叩いた。ぎゃあああ! と乙女がますます驚いてのけぞって跳んだ。
「あ。ごめん」
「ほらもー、ライムさーん! だから声かけずに帰ろうって、おれが今言ったばっかー!」
 ばさ、と少年らしき声の方が、乙女に頭から外套をかけた。最早驚ける余裕すらなく、乙女はへたり込んだまま外套にくるまれる。
「すんません、おれ達見られたくないから、今の数分はできれば全部忘れてくれな!」
 外套の内に眠り薬が仕込まれていたらしい。やがて乙女の意識は遠くなっていった。

 乙女の肩を叩いた方は、夜の中でも青い髪と目をさらりと光らせ、蛆虫の死骸を水際で(あらた)めていた。
「……あーあ……」
 しかし確かめたかったことは、どうでもいい魔物の(むくろ)ではない。水面には他にも魚の腹がいくつも浮かび、彼女はぐっと眉をひそめた。
 その後、ようやく諦めがつき、声をかけた。
「誰? わざわざ、水から離れろって忠告をくれたのは」

 彼女――化け物の仔としてお尋ね者のライムは、目立ち過ぎる青い目と長い青の髪を、いつも鼠色の外套で隠している。しかし先程の落雷の時に頭巾がずれて、素顔を見られてしまったとわかった。泉に入ろうとした乙女に、水から離れて、と声をかけた娘に。
「私達のこと、つけ回してたの、あんたでしょ」
「……」
 娘は近くの樹上にいる。おそらくライムを宿から追ってきたものと見えた。隣であわ、とライムを見上げる自称弟子の武丸に、倒れた乙女を宿に運ぶように目配せする。

 暗いのでよく見えないものの、武丸は風の大陸では珍しい無袖の合わせ着を身にしている。乙女を抱えて武丸の姿が森に消えると、ふう、と観念したように、樹を見るライムの前に、追跡者の娘が降り立っていた。
 一見は、人間の遊牧民のような服装の娘。ここのところ、ライムの近くに現れ始めた強い気配だった。人間ではない化け物達には、互いの存在を気配で感じられる知覚が当たり前にある。

 ライムは外套の下、簡素な鎧で腕を組んで黙っている。娘の方が諦めて口を開いた。
「……どうして、あの子を助けたの?」
 元々あまり喋るのが好きでないライムは、腐れ縁の妖精に何かと「ブアイソ!」とからかわれてきたほどだ。
 なので遠慮なく、愛想ない質問で返す。
「……助けた、って?」
「雷を落としたのは貴女でしょ。昼間の時には興味なさそうだったのに、意外」
 娘の言う通り、確かに日中、ライムはその乙女を祀り上げる生け贄の儀式を見ていた。けれどそれは、追跡者の娘も口にした通り、関わるまい、と思っていたライムだ。

「知らないし。単に、むかつくと、雷が落ちるだけで」
「……はい?」

 決してライムは、自らあの乙女を助けようと、泉にいかづちを放ったわけではない。ただ、明らかにおかしな魔物の気配がする泉に近付く乙女に、人間はバカ、と思っただけだ。
 宿に行く道で儀式を見かけ、その時からイライラとはしていた。自分が動く気はなかったのだが、夜の散歩に出たらまさか、生け贄の泉につくとは思わなかった。

 追跡者の娘は、まるで夜盗を見る顔付きの青い稀な眼。まだライムと同じくらい若く、ライム以上に生け贄という儀式に苛立っていたらしい。
 しかし娘は、一旦ライムに背中を向けた。「?」と思っていたら、泉の後ろにある祠の戸を閉じた。その直後、祠と泉が凍りついた。固くなった泉だけでなく、祠も白っぽく見えるくらいに無機質になっていった。

「あんた……何したの、それ?」
悪夜(あや)を封じた。そろそろ封印が解けかけてるから、アタシはここに来たから」
 へえ? とライムは、一瞬で白く変貌した祠を、遠目でまじまじと見た。娘は確かにそのために来たようで、簡単に終えてしまったものの、たった今その場に(あらわ)れた「力」は、先程の雷にも匹敵する気配の強さだった。
「貴女は、悪夜を解放に来たのかと思った。だから後をつけた。こんな山里に、他の何の用があって来たの?」
 ライムを最近、追いかけていた娘。今の言葉は、嘘ではないが、本当でもない。そう感じられた。

「……目的を言えば、見逃してくれんの?」
 口にしながら、組んでいた腕を下げた。娘との間合いは、ちょうど一足一刀。
 武丸を先に帰らせたのは、娘から消えない殺気を感じていたから。腰に下げていた剣の柄を掴んだ瞬間、娘が同時に大きく振りかぶった。綿っぽい玉、としか見えない「力」の塊が至近距離で投げつけられた。
「――!?」
 祠や泉を凍らせた「力」だ。抜き放った剣で咄嗟に斬り上げると、二つに分かれた「力」がライムの後ろの木にぶつかり、それぞれ当たった箇所が泉と同じように白くなった。

 正々堂々の奇襲を斬られ、娘が右側の眉を跳ね上げた。バカじゃない、とライムは思う。つい先ほどに、ライムの前で泉や祠に使ったものと同じ「力」だ。既に晒した手の内で奇襲になると思っていたのだろうか。
「先手必勝っていうのは――」
 冷静でいられたので、鉄の剣に自身の力を(まと)える余裕まであった。でなければ娘から投げられた「力」も斬れなかった。
「――こうやんの」
 娘の視線が掲げた右手の剣にあったので、あえて空いた左手で空を切った。砂をまくように振り上げた手刀から光が走った。距離を縮めていた娘は全く避けられずに直撃をくらい、感電した体が飛び上がった瞬間、片刃の剣を峰側で振り放った。弾き飛ばされた娘は泉の前に落ちると、倒れて動かなくなった。

 随分、手荒くなってしまった。けれどこうでもしなければ、意識を奪うこと一つできそうにない相手だった。実戦経験は乏しそうだが、「力」と丈夫さが油断できない。
 この近さで得意の雷をお見舞いしたのに、娘の体にはほとんど熱傷がない。そうなりそう、と思ったからこそ、剣での打撃をトドメにした。ライムさんはいつも判断が早過ぎる! と武丸が常々不平を言うが、殺意の察知を含め、ライムの物事への見切りが速いのはその通りだった。

 ライムが育った場所だけで言えば、山が多いこの世界には、農耕や家畜を生活の糧とする人間と、土地そのものの「気」を力の源にするヒト型の化け物が対立して暮らしている。化け物達は純血や雑種と呼ばれ、人間より少ないがとても強い「力」を持っていると育ての親に聴いた。
「その中でもこいつ、飛び抜けてるな……」
 すっかり意識を失った娘を、よっ、と肩に担ぐ。初対面なのに命を狙ってきた相手を、野放しにするほどライムは愚かではない。と言って、ここで見ず知らずの娘を始末する気にもなれない。
 ライムが相手でなかったのなら、相当の強者のはずの娘。人間の村を困らせる祠をあっさり封じてみせたのだから、性根が悪い者とも思えない。ライムのおふれを見たなら生け捕りにしようとするはずで、まっすぐ殺しに来たこともよくわからない。
 とりあえず目的と素性を訊いて、黙らせるか。ざっくりそう決め、宿の裏手まで帰ったライムだった。

 そろそろ、丑の刻とも言える宵闇。村で唯一の宿の裏林で、予想通り武丸が困っていた。
「あー、ライムさーん……! この人どーすんだよ、帰れないです、ってずっとこんな感じ!」
 目を覚ましたらしい生け贄の乙女が、座り込んで泣きじゃくっていた。
 それはそうだろう、とライムは思う。宿に連れ込まなかった武丸も賢明だ。宿の主人に見られたら生け贄の無事を村に知られ、ライム達が儀式をぶち壊したと勘違いされてしまう。
「佐助は? 武丸」
「呼んだら来るだろうけど、これってやっぱり、そっち系事態?」
「当たり前でしょ。宿に金は払ってあるし、佐助もそろそろ回復してるでしょ」
 はああ、と項垂れながら、武丸が懐から小さな草笛を取り出した。久しぶりに布団で寝れると思ったのに、とぼやきながら、一息に吹く。
「また夜逃げかー……あーあー……」
「文句あんなら、ついてこなきゃいい」
「ライムさん冷たい……いつになったらおれ達のこと、弟子って認めてくれんの?」
「それ言ってるの、あんただけだし。佐助はずっと嫌がってるし」

 相変わらず嘆息しつつ、武丸もわかっているとは見えた。こんな、生け贄の乙女と謎の追跡者の娘を連れて、三人でも狭い宿の部屋に帰れるわけがない。
 武丸と佐助を連れて旅をするようになり、二カ月がたつが、彼らはライムの「判断の早さ」についてこられる程度には子供らしくなかった。ライムはまだ、推定十五歳と言われる程度の子供であるのに。

 ライムが追跡者の娘を背負い、武丸が生け贄の乙女を連れて、眠い、とぐずる佐助を追い立て、一行は山を下りる方向に逃げた。朝日が昇る頃に何とか、身を隠せそうな岩場を谷川の近くに見つけた。
「佐助、体は大丈夫か?」
 竹筒を取り出し、ほら、と水分を取らせる兄の前で、むしろ佐助は笑顔になりつつあった。大きな岩々に囲まれた死角の隠れ屋が、彼らの育った(しのび)の里を思い出させるらしい。
 明るい所に出ると、武丸と佐助の珍しい「和装」は目立つ。出会った時から二人はライムに「忍者」だと言い、漢字の名を持つ彼らは、育った里を黙って出てきたので、刺客に追われている、と言った。実際その後、何度か同じような和装の忍者にライム達は襲われている。

 つまりは誰もが、追われている身。ライムの場合は人里に出た時、軍隊らしき人間の騎士集団に喧嘩を売られ、勝ってしまったからおふれを出された。武丸と佐助は、戦争に行きたくない、という理由で里を出て来た。まだ十歳という佐助はしょっちゅう熱を出して、明らかに旅をするには早い子供なのに。
「んで、ライムさん……こいつらどーすんの?」
 びくっ、と生け贄の乙女が岩場の端で身を竦ませる。山の下り方もわからない、と必死についてきた乙女だが、崖を駆け降り乙女を抱えて谷間を飛び越える化け物達について、誰もが乙女より幼かろうが、怖がっているのは無理もない。

 途中で追跡者の娘も目を覚ましていた。人間の乙女を連れるライム達に、今は攻撃しない、と言うので、ライムはその言葉を信じた。そんな簡単に信じていいの!? と武丸が驚いたのも無理はない。
 ライムの肩から解放された娘は、確かに殺意は薄れていたが、ライム達を放っておく気もないようだった。乙女を連れて山を下りるライム達について、この岩場まで同伴してきた。

 少し離れて立っている娘は、朝の光の中で見ると、肩までの蒼い髪と青い眼の持ち主だった。ライムと良い勝負の人間ならぬ容姿だ。
「ガキんちょのくせに、『こいつ』は失礼ね、アンタ」
 歳はライムより少し上に見える。それでも十代後半といった小柄な体付きで、目付きが鋭いわりには声色が幼い。人間の乙女に警告を発した時のような、ドスをきかせた声は別だが。

 怯え続けている人間の乙女と、警戒心と殺気を併せ持つ娘。本当、だるい、とライムも岩場で膝を抱えた。

「『こいつ』扱いが嫌なら名乗って。別に偽名でいいし」
「……イール。別に名前、隠す必要ないし」
 存外に素直に娘は名乗った。ふーん、と思いつつ、ライムが今度は人間の乙女の方を向くと、自身の肩を抱きながら乙女が必死に声を出した。
「わ、ワタシはマリエラですっ……あの、ワタシ、どうしたら解放してもらえるんですか!?」
「――は?」
「ひっ、許して下さいっ! お金ならあります、どうか命だけは……!」
 乙女、マリエラはどうやら、謎の化け物達に連行されている気分だったらしい。生け贄にされ、山中に放置されるのはさすがに見過ごせず、苦労して一緒に連れてきたというのに。
「――オカネ? おねえちゃん、これ、くれるの?」
 きらっ、と佐助が目を輝かせた。疲れて何も言う気が無いライムは、そのまま佐助に任せることにする。
「は、はいっ、両親がこっそり逃げろって持たせてくれたんです……! 全部は許して下さい、でも命は助けて下さい……!」
「オカネくれるなら、一緒に街に行こうよ。それまでオカネ、にいちゃん達の分もおねえちゃんが払ってくれるよね?」

 何故かそうして、ライム達がマリエラを最寄りの街に送り届けることになってしまった。事の次第を見ていたイールが、ぶすっとした顔で食ってかかった。
「……どうして? もう悪夜は封印したんだから、村に帰せばいいじゃない」
 岩場に差し込む朝日の陰で、端整な眼が歪んでいる。せっかく自分が災いを排除したのに、と言いたいことがライムにはわかった。
「あそこで生け贄を求めた何かは、もういないってこと?」
「アタシが封印したんだもの。少なくとも千年は動けないはず」
 ほえ!? と武丸が緑の眼を見開く。何の話かわかっていないが、「千年」の重みは、ライムも共に衝撃を受けた。

 けれど同時に、がっくりとした。先の言葉を、イールは本気で言っているのだ。
「……あんたが嘘をついてるとは思わないけど。その何かがいないからって、マリエラが村に帰って、歓迎されると思う?」
 それならマリエラも、街に行くなんて言わないだろう。両親も白装束の内に大金を縫込みはしない。
「生け贄がなくても村は大丈夫、って、誰が証明すんの。これから先に何かが起こったら、確実に私やマリエラのせいにされる」
 宿の主人は、ライムがお尋ね者だと気が付いていた。そのライムが姿を消して、生け贄も健在だとわかれば、いらぬ禍根を生やすのは目に見えていた。

 もう何度も味わってきた。ライムは何もしていないのに、そこにいるだけで災いをライム達のせいにされた。
 あの青い髪が魔物を呼んだ。(あか)い髪の妖精なんて凶兆だなんだ、と、襲ってきた人間の蛮族を退けてすら、ライム達がその後に糾弾された。
「リンティも言ってた。人間ほど恩知らずな生き物はいないって」
 ぴく、っとイールが眼を見開いた。え? とライムは俯いていた顔を上げる。
 しかし武丸のつっこみが同時に入り、出かけた声を呑み込むしかなかった。
「え、ライムさん。それ、何の話?」
「…………」
 もう二カ月、正確にはそれより前から、ライムの生活を知っているはずの武丸が首を傾げる。そこに特に嘘はないことを、短い付き合いでもわかる。
 佐助も武丸と同じ深緑の髪をかきながら、無邪気に不思議そうにする。ライムが「リンティ」という名前を出すと、二人はいつもこうなってしまう。
 何か言いたげなイールの視線は感じていたが、マリエラを村に帰す選択肢もないので、もう話すことはない、とライムは再び俯いた。

 確かについ先日まで、一緒にいた相手のことであるのに。武丸や佐助は「リンティ」を覚えていない。彼らのことも何度も魔法で助け、現在の世界の情勢を教えた妖精のことを。
 風の大陸の西端で育ち、育ての母……というと怒る養姉(やしないあね)に剣を鍛えられ、人知れず山奥で生きてきたライムには初めての友達がリンティだった。長く紅い髪をポニーテルに、大きな白い翼を背にする少女は「妖精」だと名乗った。妖精なんてろくな奴がいない、と養姉はリンティを毛嫌いしていたが、ライムが己の「力」で誤って養姉を殺しかけた時も、助けてくれたのはリンティなのだ。

――怒ると雷が出る。ライムのその体質は治せないから、ヒトを殺したくなければ怒らないようにね?

 言われなくても、所構わず落ちる雷が自分のせいであるのは、小さな頃から気が付いていた。だから養姉も一人、山奥でライムを隠して育てた。
 養姉は、ライムを小馬鹿にしながら酷使してきて、忍耐力をつけんとしてきた。畑仕事も猛獣狩りも、厳しい剣の修行も毎日の水汲みも。おかげでライムは、ちょっとやそっとのことでは動じなくなった。
 それでもうっかり、養姉に雷を落としてしまったことがあった。初めて友達ができた、と話した時に、養姉はダメだと言った。胸を刺すような衝動のあと、気付けば雷が落ちてしまった。そこから養姉を助けたものは、その友達の魔法だったが。

 リンティの魔法で助けられたのに、養姉はリンティを毛嫌いし続けた。人間は恩知らず、とリンティが言うのも無理はなかった。
 と言っても、気ままで奔放な妖精のリンティが、ライム達が収穫した果物を勝手に食べ尽くしたり、特に甘い物には目が無く、養姉が山を下りてまで買ってきたお菓子を盗み食いしたりなど、嫌われて当然の理由もあった。
 最終的には、リンティが起こした山火事でライム達のボロ家は焼けてしまった。リンティは違う! と怒っていたし、焼ける家から養姉を助けてもくれたのだが、あの炎自体はリンティの魔法の余波だったとライムは感じている。
 新しい家を建てられるオカネを稼げ。そう言って養姉はライムを旅に出した。けれど本当のところは、後でリンティが教えてくれた。

――あたし達、狙われてるよ、ライム。一緒にいるとスーリィが危ない。

 炎はライムを狙った「力」だった。その炎をリンティが散らした結果、山と家が燃えてしまったのだ。オカネなんて知るか、もう帰るもんか、とライムは養姉に言い放った。それはライムをこき使い続けた相手へ、その場の反感でしかなかったが、叫んだライムに、笑った養姉の顔を見て気付いてしまった。

 養姉は、その日が来ることを知っていたと。
 ライムといれば、いつか誰かに狙われること。それでも二人で街に住めば、ライムの足手まといになり得ること。それほどライムの青い髪は、世にも稀な化け物であること。
 育ての親、スーリィ・シュアは類稀な剣士であるが、ただの人間だった。山奥の湖で偶然拾ったライムのことを、最大限に鍛えて育ててくれた。

 養姉のことを思い出すと、じわりと胸が熱くなってしまう。岩場でぐっと息を呑み込んだライムに、突然イールが声をかけた。
「リンティって、誰? 貴女達、まだ仲間がいるの?」
 ここのところ、ライムをつけ回していたイールは、ライムを狙う何者かの一人だろう。それなのにイールも、そんなことを尋ねる。
「……私とずっと、一緒にいた妖精。今はいないけど……」
 誰もその妖精を知らない。武丸や佐助は、家が焼かれる前にライムと出会い、ライムといたリンティと何度も喋っているのに覚えていない。
 養姉と離れて人里に出されたライムを、しばらくリンティは追いかけてきた。イールはいつからライムを見つけたかは知らないが、ライムに付き纏ったリンティを、イールも誰だ、と言う。まだリンティがいなくなって、半月も経っていないのに。

 妖精とは、悪戯好きで性質の悪い(あやかし)、と養姉に聞いた。だからこんな、ライムしかリンティを憶えていない、おかしな状況になってしまったのだろうか。
 わざわざリンティのことを尋ねてきたイールに、一応確認を返す。
「仲間だったら、どうする気? そもそもあんたは、私を殺す気? 武丸や佐助、それにリンティも?」
 ぎょ、っと武丸が、隣に座る佐助をかばいながら後ずさった。
 ライムがなんだかんだ、誰かに狙われていること、武丸や佐助にもたまに刺客がやってくること。一応実戦慣れはしているが、こんなに狭い空間で追手が目の前にいることはそうそうない。
「ライムさん!? こいつ敵なのかよ!?」
 そう言えばまだ、昨夜に襲われかけた旨を説明していなかった。人間のマリエラがいる前では、イールは昨日のような行動に出ないだろう、と思って気が抜けていた。

 イールのように、ヒト型をする化け物の多くは、人間の前では「力」を隠すことが多い。「妖精」のリンティも、人間の街では尖り耳や大きな白い翼を隠していた。
 夜の間は山を下りて疲れたので、朝は休んで、昼になれば街へ、とマリエラには言った。しかしイールは始終黙っており、何が目的か、何故追跡者だとばれてもここにいるのかよくわからない。ライムはこれまで人間の集団だけでなく、謎の炎や山の主たる怪木に襲われたことがあるが、いずれもどうしてライムを狙うのかは本当のところがわかっていない。
 そしてイールが昨夜見せた「力」は、何と呼んだものだろうか。祠や泉を青白く凍らせ、ライムにも向けられた「封印」であるらしき「力」。
「あんた、私を殺そうとはしてるよね。祠や泉は『封印』で済ませたのに」
 今もイールは、殺気を収めてはいない。生け贄を求める祠を封印したことを思うと、何か理由があってライムの前にいるのだろう。どちらかというと高潔そうな顔付きであるから、すぐにはライムを殺しに来ない。

 だからライムは、改めてイールにがっかりしていた。
「殺す気ならさっさと殺しなさいよ。殺さないなら、帰ってくれない?」
 イールはまだ、ライムを殺すことを諦めていない。けれどその目的は、人間がここにいる程度のことで揺らぐ薄っぺらさ。
 それなら潔く諦めてほしい。命を狙われる覚えはライムにはなく、イールに何の恨みもないので、わざわざ戦いたくない。これまで剣を向けて来た人間や化け物達とも、ライムから戦いたいと思ったことは一度もない。

 ライムはただ、突然いなくなったリンティを探し、あてなき旅を続けたいだけ。いつかどこかで、無理にオカネを稼がなくても、平穏に暮らしていける地があるかもしれない。
 岩場が作った隙間の両角、睨み合っているライムとイールに、武丸と佐助、マリエラもハラハラしている。ライムはつくづく、勘弁して、と(こうべ)を垂れた。
「……理由くらい、教えてくれる? 何であんた達、私を狙うの?」
「……『達』?」
 きょとん、としてみせるイールにいらっとした。白を切っているのがわかる。理由はわからないのだが、ライムにはイールが嘘つきに見える。

 昔からライムには、ヒトの性格が何となくわかるところがあった。妖精のリンティに懐かれたのも、普段は陽気なリンティが本当は悩みだらけで、何で必死に笑ってんの? ときいたのが最初だった。
「イール。あんた、私の家を焼いた炎と同じくらい強い。そんな気配はほとんど見たことない。それに、私の雷を受けられる奴、多分あんたで三人目なの」
 ライムが簡素でも鎧を着るのは、怪我をすれば人間と同じように、機動性が落ちるからだ。そう簡単には死なない頑丈さなのだが、怪我をすぐ治せる化け物ではない。
 しかしイールは、昨夜確かに当たった雷のダメージをすぐに消してしまった。
「あんなに早く持ち直せるの、あんたや似たような力の奴らだけ。どう似てるかは言えないけど、似てるのは確かだから」

 化け物にも様々な力の持ち主がいる。妖精が使うような「魔法」は、それはそれで稀少で強力らしいが、「魔道」という世界に流れる「力」を流用する化け物は多い。
 イール達の「力」は違う。「魔道」のように、力を使う時に周囲の空間が歪んだり、術者の気配が慌ただしく気色を変えたりしない。とりあえずそれは、「自然」としか言いようがなかった。まるで呼吸でもするかのように、大きな「力」を放ってくるのだ。

 何かに不本意そうなイールが、食ってかかる声色と共に目端を歪めた。
「三人……それだけしか、生き残らなかった? 貴女と戦ったヒトは」
 人聞きの悪い。そう思ったが、咄嗟に応えなかった。これまでライムは養姉を除き、人の息の根を止めたことはない。養姉もリンティが助けてくれたので死んでいない。
 けれど今、噛みつくような声になったイールには本性がかいま見えた。何を言い出すか待ってみると、やがて数瞬後のことだった。
「やっぱり……〝魔竜〟」

 呟いたと同時に、イールが大きく跳んだ。岩の隙間から上に降り立ち、ライム達を下に残して駆け去っていった。
「えええ!? 魔竜、って言った!? あいつ!」
 追おうか悩んだのだが、武丸が派手に驚いていることの方が気になってしまった。イールは多分、ライムが「襲ってきた者のほとんどを雷で殺した」と勘違いしているが、追いかけて誤解をとくほどでもない。事情を教えてくれそうにないので、武丸から騒ぐ理由を訊き出す方が早そうだった。
「それ、何? 聞き違いでなければ、『竜』って聴こえたんだけど?」
 武丸はこれまで、佐助と共にライムの追っかけ弟子をしようとする理由を明かさなかった。それでも何度か、ライムに対して「竜」の単語は口にし、ライムさんは竜だと思う、とぽつりとこぼしたことがある。

 マリエラと佐助が、理由は違えど当惑した顔でこちらを見ていた。武丸が焦り、腕にかけて持ち歩く小さな守り袋を握りしめてライムを見つめた。
「……よくは知らない。何の話か思い当たれば、改めてどっかで言う。とりあえず早く、あの人送りに行こう、ライムさん」
 ライムより若い黒の瞳には、幼い佐助と育った里を出てきた重い覚悟がときに見え隠れする。戦争に出されるのが嫌だから、と初対面の時には言っていたが、実際その後にライムも強い兵士の欲しい国に見初められ、おふれで追われる身になっていたため、今では気持ちがよくわかった。
 ライムも武丸も、まだ推定十五歳や十三程度の世間知らずだ。養姉は、人間の中では類稀な達人剣士で、いくつも戦火をくぐったというが、人間はどうしてそうも戦争が好きなのだろう、とライムにはずっとわからなかった。

「それにしても……送るってーも、マリエラには行くあてはあるの?」
 あの村では生け贄は古くからの風習らしく、娘を持った親は誰もが恐々と育てるという。
 というわけで、マリエラの両親はオカネの用意だけでなく、逃げた娘の行き先まであらかじめ考えてあったことがわかった。
「あの……私、『ディレス』に親戚が……できればそこに行きたくて……」

 黙ったままで、ライムと武丸の顔色が苦く変わった。
 「ディレス」。その国こそライムに賞金をかけ、武丸も関わりたくない、と逃げて来た理由の一端。
 文明が発達しているので強い剣を買いに行ったものの、近々海の向こうの島国「ヤマト」と開戦すると噂の、人間ばかりの地域大国だった。

 マリエラのことに責任を持つなら、危険であるが仕方ない。ディレス行きをライムは承知し、嫌ならついてくるな、と武丸達に何十度目かの言葉を言った。
 いったい何故、縁もゆかりもない相手を、わざわざ安全な場所まで送ることになったのだろう。関わらない、と決めていたのに、生贄の泉に潜む魔物にうっかり雷を落としてしまった。
 先日もライムは、人の多い東海岸の入り江で人魚の子供に出会い、家出に付き合っていたら時間の流れの違う奇妙な場所に迷い込まされた。戻った時には十日近く日付が進んでいた。おかげで直前にいなくなったリンティをすぐに追えず、手がかりも目撃者も見つけることができなかった。

 人魚は妖精より長寿で、どちらも(あやかし)と呼ばれる類の化け物だ。妖は悪戯好きの者が多い。紅い髪の妖精を知らないか、ときいたら、知ってる、というのでついていけば、後から「なんのこと?」と素で言われた。最初のこたえは嘘に見えなかったのに。
 人魚のいる東海岸は北東の海沿いの国ディレスの南にあり、ライムのおふれが出されてディレスから逃げてきたところだった。

――ライムはそうして、戦う時以外は受け身だから、みんなから狙われるんだよ。

 ライムの強さなんて、その気になればいつでも雷を落とせることや、全身の至るところを「力」で強化できて、大剣を振り回せる身体だけだ。怪我をしても治りが早く、心臓を一息に潰されるか首でも落とさないと死なない、とリンティは言っていた。鎧はその対策に着けるのを勧められた。昨夜のイールは、ライムを凍らせようとしていたのだろうが、それではライムを殺せるかも怪しい。

――ごめん。ライムを殺そうとしてる奴ら、本当はあたし、知ってた。

 そう言ってリンティは、ライムに出されたおふれを見てから姿を消した。ライムの家が焼かれる前は、ライムと別れる時は記憶を消す、と言っていた。それは確実に、ライムからリンティの記憶を消すニュアンスだったのに、現実に消えたのはライム以外からのリンティの記憶だ。
「……何考えてんの、あいつ……」
 昼になる前に武丸達とマリエラが食べ物を探しに出たので、ほとんど食事のいらないライムはごろん、と寝転んでいた。化け物なので、成長に必要なエネルギー以外は、自然の土地からもらえる気で補給は充分なのだった。

 水分だけは、いつもしっかりと摂る。リンティがくれた妖精の佩袋(おびぶくろ)は、見た目は小さいのに樽くらいに水を入れられる、ライムの数少ない旅荷物の一つだ。何でも消毒効果があるとのことで、水がいつもしゅわしゅわになるのが密かなお気に入りでもある。
「出るまでちょっと……寝るか……」
 仰向けでぐいっと飲んだ水を、斜め掛けの荷物紐に戻してから片手で瞼を隠した。岩の間から差し込む光が、だんだん強くなってきていた。

 寝坊助のリンティと違って朝の強いライムは、そもそも眠ることが嫌いだった。目を閉じている間はいつも、何か嫌なことが起こっている気がする。理由はわからなかったが。
 誰かがずっと、泣き続けている。暗い何処かで、矢のような三つ辻の微かな光の前で。
――ごめんなさい……あたしがいなければ。
 闇の中で唯一の光は、やがて紅い火矢に貫かれて四つ辻となる。その二極から闇夜の全方向に白光が放たれ、光の内に花びらが四つの業火をいくつも咲かせる。
 沢山の花火に照らし出され、白くなっていく夜がいつしか笑う。
――それなら、忘れさせてあげる。
 どうして。と叫んで、いつもは目が覚める。何度も見る夢。しかし今日は、おそらくイールに出会ったせいだろう。夢の末路がそこに続いた。

――魔竜を、殺して。

 泣き出しそうな声の懇願。重く頷くイールが見えた。
 ライムの目の奥に蒼い光が走った。気付けば岩場の隙間に育つ雑草が燃え、鉱石成分の多い岩にはまだバチバチと電流が残っていた。
「……武丸達、いなくて良かった」
 寝覚めから最悪の気分で、上体を起こした。ふう、と震える胸を抑えるようにゆっくり息をつく。立てた膝の上で両手を組んで、呼吸を整えても心臓は逸ったままだ。
「あれ……リンティの声だった……?」
 魔竜を殺して。夢の最後で告げられた願い。
 そしてイールは、ライムについて何と言ったか。ただの夢、と思おうとしても、体の深いところから熱い痛みが湧き上っていた。

 味方はいない。面白いことだけが好きな妖精の中で、かつて妖精の少女はそう笑った。
 それなら、自分が騎士になる、と言った。その時確かに、紅い妖精はポカンと首を傾げ、そして困ったような声で笑ってくれたのに。
 この世界に、自分の居場所なんてないんじゃないか。鬱陶しい程慕ってくる武丸達がいなければ、ライムはとっくにヤケになっていた。行き当たりばったりで続けるだけの旅は、リンティの元に続いているのかも、もうわからなかった。

 ふと目が覚めれば、知らない山奥にいた。鳥のような白い翼を持った少女は、仰向けだと平らに眠れない背中の痛さを久しぶりに感じて起きた。
 あちこちが焼け焦げた森の中で、川原の近くの草むらで寝ていた。翼があるため昔からよく着る、腕と背が露わで姫のように腰回りを締める膝丈の礼装と、膝上までの黒い中履きがぼろぼろなので魔法で繕う。
 割れそうに痛い頭を抱えて、立ち上がるとすぐに激しい眩暈(めまい)に襲われていた。
「あれ……あた、し……?」
 どうして自分は、こんな所にいるのだろうか。ここはいったい、何処だろうか。
 声がかすれて、喉はカラカラだった。手近にあった、装飾の凝る宝剣を杖代わりにして、よたよたと川の方に向かった。水場は大体様々な獣の縄張りがあるはずだが、少女は猛獣よりもランクが上の生き物なので大丈夫だろう。穏やかな流れの所を探して、澄んだ水が溜まった岩陰を見つけると、そこに映った自分の顔にとても驚くことになった。
「……えっ!? 何これ!? だっさぁーい!」

 長くてまっすぐな紅い髪と、水底の砂利と判別がしにくい紫の目。妖精とは本来、高貴な金の髪に神秘的な紫の目を誇る美形の種族であるのに。
 それはともかく、いつになく下ろされた後ろ髪がぱらぱらと跳ねて、そしてつんつんとした前髪の間に、とてつもなく不格好な印が刻まれていた。
 額に(にじゅうまる)。まるで第三の目があるかのように。
「やだー、何これー! えっ、何かよくわからないけど、今のあたし、このせい!?」
 取り急ぎ、手にかけていた織紐で髪を一つに括り上げる。それが少女の普段の姿のはずで、杖にしてきた宝剣も文字通り「杖」として扱う、長年魔法用ロッドとして使ってきた仕込み杖なのだ。細長く丸い鞘が無ければ、剥き出しの細身の剣にしかならない。

「何で……ここにいるかわからないのは……記憶、封じられた……?」

 宝剣として使う時には柄になる、大きな珠を填めたロッドの先端を握りしめた。
 自分がこの剣を杖として使う、魔法の得意な妖精であること。それはわかったのに、これまで自分が何をしてきたのかが、さっぱり思い出せない。どうしてこんな見知らぬ森で、一人で倒れていたのかについても。
 考えられるとすれば、額の奇妙な印の影響ということだけ。自分は誰かに負けて、謎の印を施され、記憶を失ったのだろう。しかしどうして、自分が妖精であることなどは思い出せるのか、様々な意味でわけがわからないのが現状だった。

 リトル・ティンク。そんな風に呼ばれてきたのがこの少女だった。
 妖精の中では珍しく、稀少な光魔法を扱える身の上でもある。
「まずいなぁ……ここいら、闇妖精(なかま)の縄張りのはず……」
 世界を流れ、化け物達を脅威とさせる「力」には、大きく光と闇の属性がある。「力」の構成源である気の五行元素が、個々で陰と陽に分かれることに似ている。光と闇はもっと高次の、元素や寒熱、聖魔などの気が体内で組み合わされてできた「力」の性質の分類で、たとえば陰の水元素でも熱を持つか、聖なる天使などの純血が使えば、光属性の「力」に構成され易い。
 リトル・ティンクは、妖精という(あやかし)で、妖は通常なら闇属性の化け物であるはずなのに、光属性の魔法を放てるのが特殊な存在だった。妖精が持つ羽は虫に近いのに、鳥のような白い翼を持つのも異端。研究のために、風の大陸西方に隔離されていたのだが、今いるのは地の大陸から引っ越してきた闇の妖精がいるはずの、風の大陸北東だった。

 化け物はその時いる土地によって、世界から受けられる「力」の気が変わる。この場所が風の大陸北東とわかるのは、少女と相性がよい光の気より、寒の気が強く感じられるからだった。もっと激しい永久凍土も地の大陸にあるが、そこにしては雪も積もっていない山なので、風の大陸だろうと踏んだ。
 光の属性の「力」とは、明るいだけの冷たい波から、炎のきらめき、雷のように一瞬の強い熱を放つ流れであったり、太陽となれば熱そのものが光を生んでまた熱になったり、つまりは熱のそばで生じるものが多い。熱のように物体の奥まで侵入するのも可能で、熱と違うのは光の方が圧倒的に早く、大勢に届く力であることだろう。
 戦いに使う「力」の特性でいえば、光はそうして何より早く相手のもとに、それも深部に到達するため、光の性質を調整できれば相手が身の内で紡ぐ力を発動前に拡散したり、逆に相手の力を励起して暴走や回復の業ともできる。最も生き物に通る純度の光は、命そのものに作用するとすら言われる。

 だから少女は、戦うために育てられた妖精。一人で一般的な化け物の大隊でも殲滅できるヒト型兵器だ。
 そのため大陸の端っこで隠されていたことは憶えている。それがどうして、育て主の手も離れてここにいるのか。妖精は卵で産まれるので人間のような親はぱっと見にはいないが、卵を孵せるのは僅かな者だけで、従うべき相手も存在するのに。

 光の魔法を使える少女は、本来闇に棲む妖とは力の相性が悪い。妖や悪魔は魔性という体の呪縛のため、基本的に闇属性になる。聖なる天使が光属性であるのと同じように。
 光と闇は、光があるだけで闇の者が弱まるため、主に光の力を使う者が嫌われている。吸血鬼が陽の元に出難いことは有名だろう。陰陽や聖魔の霊的な侵し合いとは違い、「力」を使う時だけ起こる問題ではある。それでも光属性の少女は、闇の者たる妖精の中では冷遇されてきた。研究材料としてだけ重宝されたせいで、すっかり同族への不安が強い。

 ところが、そんな懸念も、何故ここにいるかわからない疑問も、捨てざるを得ない事態にすぐに当たった。
「――!」
 北東の空から、大きな轟音が上がった。探る必要もないほど強い「力」が、ここまで気配が届いている。
「妖精の森の方向……こんなん、あたしじゃなきゃ止められないし!」
 既に自身もかなり全身の気が消耗しているが、少女はある特性のため、どんな状態でも妖精に危機があれば介入しろ、と育て主に命じられている。己が特性の(いしずえ)となる宝剣も間よく持っている。
 嫌われている場所だが、少女のような者を匿うのも妖精のような埒外者だけだ。白い翼を最大に広げると、戦いの気配がする山へ急いで向かった。

 風の大陸にある妖精の森は、古くは地精(ドワーフ)の縄張りだった。けれど地精は地の大陸にある妖精の里を欲しがっていたので、互いに居住地を交換した形になる。
 化け物いち気ままであるといわれる妖精が、普段は見下す地精と取引をしたのは、風の大陸固有の土地の気がどうしても必要だったからだ。
「えー……嘘!?」
 妖精の森の上空で、ひたすら驚いてしまった。森を守る結界に尾の長い彗星のような火が喰い込み、森の中央で数多の水矢と押し合いをしている。
「あれは、火竜……!」
 妖精の森に、喧嘩を売るような化け物は少ない。魔道より上位な、魔法の使い手が妖精達だ。魔力を持つ者が学べばある程度誰でも習熟できるのが魔道で、魔法は天性に左右される。使う個体で結果が変わり、再現性の乏しい高位魔道が魔法だ。
世界樹(てぃな)に喧嘩を売ってる……? やばい――!」

 迷う間もなく、空の中で宝剣を掲げて、今の全力でまず雨を呼んだ。少女の得意な力の一つで、光属性の強い雨自体が特殊な水の「力」となる。
 突然の雨に、火竜の勢いが弱まり水矢に押し返され始めた。見計らっていた少女は宝剣に氷をまとわせ、一息に火竜に斬り込んでいった。

 彗星の本体に精一杯の斬撃を叩き込んだが、これで倒せるとは思っていない。むしろ炎に包まれて、離脱する結果もわかっていた。
 けれど想定外の攻撃に対し、火竜も体勢を立て直す必要を感じたらしく、森から離れて姿を薄めていった。火だるまになった少女が落ちていく先、水で編まれた網が少女を受け止め、燃え盛った火を消し止める。回復魔法が使える妖精の元へ、虫の息の少女を運んでいった。

 一瞬で消し炭になってもおかしくない炎を、間近で受けた少女だったが。意識を戻せる程度には体を癒され、さすがに感謝されて、妖精の隠れ里でも良い館で療養を許された。寝床でゆっくり休んでいると、一番心配していた相手がひょっこり現れてきた。
「いやあ、まさかティンクに助けられるたねえ。なんぞな? どうしてあんた、こんな所で活動しとった?」
「……てぃな」
 妖精の森が、風の大陸に引っ越した理由。木の気が強い土地のある大陸で、力を強めた世界樹の秘密の分身が目の前の和装の女だ。
「てぃな。どうして、ここにいるの?」
 普通は世界樹を、わざわざ攻撃する化け物はいない。世界中の純血の化け物の生と死を司る世界樹は、滅びれば雑種以外の大半の化け物が死に絶える。世界樹が攻撃されたと探知すれば、天使の軍団がやってくるような御神体だ。
 自身の意思を表すために、世界樹が三つの尻尾()を持つヒト型の分身を造り、研究者として活動していることは、化け物の中でもごく一部しか知らない。
 その研究者こそ、少女を妖精兵器として鍛えた育て主でもある。
「そらあんた、ティンクが出て行って退屈だったから、里帰りしとったに決まっとろうが。まさかそこに、火竜なんて化石が顕れるとは思わなんだが」
「あたしが……出て行った?」

 寝床の横の丸椅子に座り、帯の下に入る切れ込みから尻尾を振って育て主が笑う。凶悪な幻想兵器を造る趣味を持つ育て主は、少女のことも手放してくれるとは思い難い。ともすれば世界中の純血の化け物の叡智を流用できる研究者であるため、少女も生かされてきたと言っていい。
 育て主は少女の当惑に気付かず、出て行った理由は言わずに話題を変えた。
「ところで困った。火竜の奴は、おそらくディレスの方角へ消えていってな。アヌがカンカンで、このままでは全面戦争も辞さん空気ぞ」
「――は?」
 妖精達を束ねる長の憤慨。それでなくてもプライドの高い妖精族は、世界樹を侵害しかねなかった襲撃に黙っているわけもなかった。

 世界樹を管理するのは妖精の誇りだ。全ての妖精の親とも言える世界樹自身は、特別争いを好む性質ではなく、厄介なことになった、と頭を抱えている。
「ちょうどあんたもここにおるし、ひとまず先陣を切ってこいとな。まあその方が、アヌ達が直接動くよりはましぞ。適当に人間の国に派手にやって、事が大きくならん内に退いてくれるのが最も助かる」
 それで今回は歓迎されたわけだ。妖精の森の北東で、風の大陸北海岸沿いにあるディレスは人間がほとんどの国で、とても火竜を御せたとは思わない。けれど舐められるのも問題なので、妖精とわかりにくい光属性の少女が攻撃をすれば、妖精からの報復でありながら妖精達は知らんふりをできる。

「わかった……別に、規模が大きければ、人死にはなくてもいいんだよね?」
 あ、でも、と、体を起こして育て主の方へ向き直る。
「あたし、何でここにいるのかわからなくて。多分これのせいなんだけど、何とかならない?」
「?」
 前髪を上げて額を見せるが、育て主は首を傾げるだけで、あれ? と少女は部屋を見回す。寝床の横の机に手鏡があったので、手に取って自分の顔を見ると、やはり異様な◎が額の中央に鎮座していた。
「これ! てぃなには見えないの?」
 額と鏡を交互にさして、育て主の反応を待つ。鏡の方の少女を見てすぐ、育て主が金の眼を細めて破顔していた。
「な、なんだこりゃ、ださい……あんた、どこでこんなもんを刻んできたね……」
「それがわからないから、困ってるの! 多分これ、あたしのここ最近の記憶を封印してる。てぃなの所を出たことも憶えてないの、あたし」
 なるほど、と育て主が、鏡と少女を見比べながら手を打っていた。急に動いたので少女は全身が痛み、火傷は表面的には治っているが、細胞の回復はまだこれからだとよくわかった。

「よくわかったのう、ティンク。此はぬしの言う通り記憶に作用する(しゅ)であろうが、本人にも周りにも、印そのものがわからぬはずじゃ」
「え?」
「言われるまでは、わらわですらも気付かなんだ。そもそもぬしは、記憶の欠損に気が付いておる。そのような結果は、封印としては手落ちであろう」
 育て主の口調が、砕けたものから少し直った。研究者スイッチが入ったのだろう、いつものことではある。
「しかしどうやら……ぬしは、失くしてはいけないものを盗られてしまったようじゃ」

 「?」と目を丸くするが、育て主は席を立つと、火竜に斬りつけた時に傷んだ宝剣を修復した物を布団に置いた。
「まあ、その方が幸いやもしれん」
 尻尾がしょぼん、と三本とも垂れている。部屋を出て行く姿は、少女に無理に記憶を戻すな、と語っていた。でなければ何か対策を相談していくだろう。
 ディレスに一人で殴り込め、と酷なことを申し付ける育て主だが、妖精の中では少女を可愛がってくれた方だ。そもそも妖精といっていい相手でないが。

「……てぃなも大分、弱ってるなあ」
 この風の大陸は、世界樹として在るには最適の地だが、分身は古く「地の大陸」に在った頃に造られた空狐(くうこ)もどきだ。光も闇もどちらも発現するのが世界樹たる所以で、本体の力が強まっているので今でも存在できるが、分身自身には地の大陸の土地の方が合っていたのだ。
「世界樹にアクセスしてくれたら、すぐに解呪法も、わかると思ったのに。でも……何でだろ……」
 育て主が、その道を選ばないでくれてほっとした。そもそも記憶がないことに気付いた時点で、育て主の元に帰れば良かったのに、そうしなかった少女は矛盾をしている。

「ディレス、か……本気で火竜と、手を組んでたら……?」
 北方にあるその国は、寒冷が強く、人間の国であるが王家は竜の血をひいている。世界樹だからこそ知る機密をかつて聞いた。
 「竜」とは、化け物達の中で最強と言われる、自然の驚異の「力」を示す。純血の化け物とは違って世界樹の縛りを受けず、後ろ盾の少ない雑種の化け物とも違い、世界――特に自然界から大きな「力」のバックアップが得られる。
「あんなに寒い土地、火竜には魅力的とは思えないけど……人間達にしたら、喉から手が出るほどほしい力だろうし」
 〝火竜〟は、呼称の通りに炎の化身だ。火を噴くドラゴンは獣の体を持つ飛竜の方が一般的だが、火竜に分があるのは、大気を火の燃料にして燃え続けることだ。火竜の本体は熱を揺らして大気に点火する「場」そのもので、とてもまともに対峙はできない。光の魔法も、火竜の燃焼を手助けするだけだろう。

 しかし何故、「化石」と育て主が言った通り、既に滅んだとされるはずの「竜」が世に顕れるのか。
 額から奥に抜けるように、頭がずきん、と痛んだ。横たわる少女の隣に置かれた宝剣が、心なしか柄に填まる透明な珠玉を曇らせているようにみえた。

 異端の光の妖精としての、世界樹直属ヒト型兵器。少女は自身の運命を受け入れていたと思う。
 けれどそれは、どうしてだったか。物心がついた頃には、育て主の言う通りにこの宝剣を杖として使っていた。失くした鞘を再び造り、魔法用ロッドとして渡された宝剣を手に、火竜の襲撃の三日後、人間の国のディレスを南の上空から見つめた。

 額の印は、傍目には見えない、とお墨付きをもらった。被り物でもしようかと思っていたが、今まで通り紅い尻尾髪を揺らし、光の少女は朝空を駆ける。
「……よし。ちょうどいい具合に、雲も出てきた」
 育て主は、この宝剣に填まる珠玉を持っていた少女を、周りの反対を押し切り引き取った。どうして反対されたかは、思い出せない。けれどそれだけ、柄に封じられて力を抑えた透明の珠玉が、危険な「力」であるのは知っている。
「ディレスの広さなら、国土全部に放てるかな? ……火竜が出てきたら、その時はその時だ」
 空に居るまま剣を逆に、柄の珠の方を上にして少女は掲げる。

 次の瞬間、少女の全身が光で包まれた。まるで雲間から振る雨のように、ばらばらの光芒が風の大陸北東端に一斉に降り注いだ。
 あまりに多く、目を開けられない光の嵐に、人間は天罰を想像しただろう。特別この光を吸収しやすい素材の物でなければ、熱傷に至る程の力は持たせていない。
 それでもこの規模で「力」を放てば、術者の少女こそ反動で灼かれるほどの負荷だ。実際少女の体は、最初の一閃でほとんど蒸発しかかっていた。

「……ああ……」

 けれどこれが、〝小さな星の光〟を名乗る妖精の特性。ロッドとした宝剣を取り落すこともなく、柄の珠玉の力が少女の体を再生していく。
 そうでなければ、火竜に焼かれて無事でいられるはずがなかった。

「でも、何で……あたし……」

 体のほとんどを壊されながら、同時に命を留める程度に癒されていくのはもう慣れている。痛みは全身の形を思い出させる鎖で、握りしめる宝剣が少女に自身の在り処を確かとさせる。

 しかしそれは、何かがおかしかった。
 少女はこうして、何度全身を破壊されてきただろう。反動を覚悟に振るう「力」は、死を恐れる普通の化け物の追随を許さなかった。

「まるで……あたし……――」

 気付いてはいけない。思い出さない方がいい。
 たとえばそれが、肉体さえ治せば何度でも黄泉還る、魔性のものとそっくりであることなんて。

 育て主曰く、火竜は確かにディレスの方に消えたが、ディレスが仕向けた攻撃とは断定できない。だからディレスに派手な陽動をかけて、火竜が応戦に来れば確定であり、妖精の森とディレスの戦いは避けられないだろう。
 しかしもしも、火竜の反撃がなければ、ひとまずディレスと完全に敵対はできない。そもそもディレスに、世界樹を攻撃するメリットはない――もしも、世界中の化け物を殲滅する意図でもなければ。

「火竜……来ないな……」
 しばらく少女は、あえて宙を漂っていた。力の気配も隠すことなく、火竜に自身を見つけさせんとしていた。
 それでも何も訪れてこない。ディレスから砲弾などでの反撃の兆しもない。言わばこけおどしの光だったので、異常気象とでも受け取ってくれたのかもしれない。
「……これだけ待ったら、もういっか」
 少女にしても、戦うことは本意ではない。世界樹に、ひいてはそれを守る妖精の森に誰も触れないでいてほしい。
 わざわざ襲撃してきた火竜は気になるが、竜とはおしなべて高潔な種族だ。様々な竜種の生き残りがいるのは少女も知っており、どちらかというと竜種とディレスは敵対している。竜の末裔の一つであるディレスが、多種の化け物を集めて国力を強化しようとしているからで、不毛の凍土を抱えた人間達は、領土を南下させようと必死なのだ。
 それこそもしも火竜がいれば、国土を広げる必要もなくなる。今回の襲撃は不審な点だらけで、ディレスと近縁地域が険悪なのは以前からだが、妖精の森を攻撃する意味がどうしてもぴんと来ない。

 ディレスの国境の内で、少女はひと気のない林に降り立っていた。
 陽動は終わった。あとはディレスの国内事情を探り、反撃体勢を整えている妖精達に報告するだけ。
 ただ、少女の長い紅い髪と紫の目は、人間の中ではどうしても目立つ。情報収集で人と喋るなら外套で隠すのも限界があり、魔法で濁すにしても少し勘の良い人間がいれば気付かれてしまう。
 地道に、髪を人間製の染料で染め、目にだけ魔法をかけようか、と思っていたその時のことだった。

「何で――リンティ!?」

 林の中に隠れていたが、考え事のせいで、気配を隠すのを忘れていた。
 リンティとは? と。滅多に使われない呼び方であるが、おそらく少女――リトル・ティンクのことを呼んだ声に、不思議に思ってつい外套から顔を出した、紫の両目の前にあったものは。

「リンティ! さっきの光、やっぱりあんた!?」
 林と街の境の茂みに、胴と前腕だけ簡素な鎧を着ける女兵士が、ざざざ、と勢いよく入ってきた。まっすぐ長い青の髪と、空色そのものの青の目色。あれ、と目を奪われた瞬間、女兵士についてきた者も割って入った。
「ティンク様! やっと見つけました、よくご無事で!」
 続いて来たのは、外套で隠しているが、猫耳をはやした不完全なヒト型の踊り子。そちらには見覚えがあり、少女はあっさり警戒を忘れた。
「うわっ、フィニス!? と――……そっちは、どちら様?」
 つ――と。青い髪に目と、どう見ても人間でない女兵士が、踊り子の隣で固まってしまった。少女のことをまじまじと見つめ、強そうな見た目よりは幼い顔付きでぽかんとしている。

 猫耳の踊り子は、随分前に地の大陸に潜入させたはずの、ネコマタの妖だ。ヒト型に化けられる力を少女が分けたので、少女を飼い主として慕っていた。
「フィー、どうしてこの国にいるの? 貴女を()った(しのび)の里は、確かディレスとは敵対してたでしょ?」
「それが、イール様の様子がおかしいんです。ディレスとはずっと講和の方向で動いていたのに、ここにきて急に、ヤマトにつくことにする、って……」
「……イール? それ、誰?」
 え? と、ここでネコマタも困った顔になった。どうやら少女の、欠損した記憶に関わる話でありそうだった。

 それにしても、ネコマタの言うことが本当であるなら、いよいよ島国ヤマトとディレスの間で戦争が始まってしまう。地の大陸の港付近の化け物諸侯は、どちらかというとヤマト寄りだ。それでヤマトが増長していた部分もあったので、そのバランスを崩すべくネコマタには、地の大陸側に働きかけてもらっていたはずなのに。
 そこまで考えて、また激しい頭痛が少女を襲った。
 何故そんなことをして、自分は世界情勢の陰に暗躍しているのだろう。育て主の指示とは思うが、別に妖精の森が直接巻き込まれることは少ないはずの災禍だ。ディレスとヤマト、海を挟んで資源争いを続ける両国は、どちらも人間がほとんどの国で、ヤマトに僅かに妖が棲むに過ぎない。妖精としては、いずれの国にも加担する理由がない。

 ずっと黙っていた女兵士が、ようやく気を取り直したらしく、口を開いた。
「ていうか、リンティ……あんた、その額のださいの、何」
 少女の思考が、沸騰するように一気に止まった。全身を一瞬で灼熱が走り抜けた。

➺独唱∴間奏 闇

 魔物を倒しながらディレスにマリエラを送り、行くあてがなくなったライムは、旅人用の宿には必ず貼られた青い自分のおふれを見て、溜め息をつく毎日だった。
 これでは宿に泊まれない。武丸が道中で見つけた薬草を髪染めにできると言うので、何処かで使ってみようと思っていたが、無防備に髪を染められる場所をまず見つけなければいけない。
 マリエラを引き受けた親戚が、命の恩人じゃ、と残ったオカネを大半くれて、優しい人間もいるもんだな、と思った。今までオカネを稼ぐ時は、こき使われることが多く、額は少ないことばかりだった。武丸と佐助におふれは出ていないので、魔物の骨他を売ったオカネも二人に渡し、ライムが髪を染められるまで宿で待つよう言ってあった。

 一人で髪染めの良い場所を探し、街中を散策している時、その気配にはすぐ気が付いていた。
 最早隠さなくなった殺意。こんな所まで追いかけてきたか、と感心してしまう。武丸達を巻き込まずに済みそうでほっとする。
 あえてひと気のない街外れに行くと、予想通り追跡者の娘は姿を現していた。今度は何やら、先端に蒼い珠玉を填めた、無骨な棍棒を持って。

 正々堂々と現れたイールに、ライムも外套を脱いで臨戦態勢に入った。殺意の理由くらいはききたいが、おそらく勝ってからでないと口も吐かせられない。
「……にしても、それ、リンティの持ってた宝剣みたい」
 手のひら大の珠玉を填める、装飾の凝る片手武器。共通点はそれだけなのだが、武器好きとしてつい口にしたライムに、イールがぴくっと動きを止めた。
 ん? と、ライムも止まる。何故ならそれは、今まで誰もが見せなかった反応だった。

 イールは鬱陶しそうに、肩までの蒼い髪をかきあげる。知らずに事の、おそらく深奥にさわっていた。
また(・・)その話? 誰だか知らないけど、そんなに貴女には重要な相手?」
「――」
 「重要な相手」。「また」。
 間違いない。ライムの心臓に熱が入った。
 イールは嘘をついている。ライムが先程口走ったのは、どちらかといえば武器の話題だった。なのにイールは、ヒトの話題と受け止めて返した。
 そして何より、「また」と言った。

「イール。やっぱりあんた、リンティを知ってる?」
 イールは確かに、初対面の時にはライム達のことを知らない素振りをしていた。
――リンティって、誰? 貴女達、まだ仲間がいるの?
 けれどそれでは、ライム達を狙う理由もないはずなのだ。そんな簡単な矛盾に加えて。

「武丸や佐助は、何回話しても、何? って言う。前に話したことすら、覚えてないの」
「――」
 ライムとずっと、一緒にいたはずの妖精。武丸達も会っているのに、忘れていることすら記憶できない相手がリンティだ。
「あんた、また、って言った。私が前に言ったリンティの話を、少なくともあんただけは、忘れていない」

 棍棒を握るイールの手元に、じわりと汗が見てとれた。それはおそらく、最も気付かれたくなかった嘘だからだろう。
「リンティがいなくなったこと、何か知ってるの? イール」
「……――」
「どうして私を狙うの? リンティのことを知ってるなら、リンティがこの一年、私に付きまとってたのも知ってるんじゃない? あんたは何を求めてるの――イール」
 心根がおかしな相手には、今も見えない。イールは何か、切実な思いでライムを狙っている。それも闇討ちではなく、正面からこうして仕掛けてくる。
 ライムの目を見ず俯くイールに、ライムの方がイライラとしてきた。周囲の空気が、帯電を始める。今のライムに近付いてこれば、大量の静電気がイールを襲うだろう。

 大したダメージにはならないはずなので、イールが静電気を恐れているとは思えない。それなのに動かなくなったイールの手前、突然二人の間に、木から飛び込んできた人影があった。
「イール様あ! 何でディレスにいるんですか、探しましたよ!?」
 えっ、とライムは思わず呆気にとられた。人間とは思えない身のこなしで軽々割って入ったのは、猫耳を生やす踊り子の風貌。イールも呆然と猫耳の相手を見つめ、ライムのことも忘れたように声を上げた。
「フィー……! 何故ここに!」
「って、〝小天地(しょうてんち)〟まで持ち出してるんですかイール様!? 第二のカシドレイクでも作るんですか!?」
 ぺらぺらと、動揺した踊り子が何やら大切そうな情報を口走る。ライムはこっそり、脳内にメモする。おそらく〝小天地〟とは、イールが持った棍棒のことなのだろう。

 踊り子はライムの存在が目に入らないように、イールに掴みかかってあわあわ訴えかけた。
「それどころじゃないんですよ、イール様! フラム様達がしびれを切らして、勝手な行動を始めてます! イール様以外の言うことなんて聞きゃしないんですよ、あのヒト達は!」
 踊り子の剣幕にイールは強く眉をひそめた。言い分は重々わかるようで、棍棒を背中のベルトにしまう。
「……アタシの言うことも、聞くとは思えないけど」

 それでもイールは、何者達かを止めなければいけない立場らしい。ライムのことをちらりと見ると、捨て台詞だけを残していった。
「……今日は、命拾いしたわね」
 振り向きざまの眼光には、言葉ほどの悔しさはない。むしろどこか、安堵すらしているようにライムには見えた。
「フィー。その女を見張って、被害者が出ないようにして」
「えぇ!?」
「アタシは一旦、体勢を立て直さないといけないみたい。何かがおかしい……もう、気付かなかったふりができない」
 そんなことを去り際にイールが言い残した。イール自身、ライムの先程の指摘が、何処か痛いところをつかれたと言わんばかりだった。

 残った二人は、互いにぽかんと、互いを見つめることになった。
「えっと……あなたは、どちら様でしょう?」
「あんたこそ。何で、猫耳?」
「あっ! こ、これは、リトル・ティンク様のせいなのですよ、そろそろ力が尽きてきたから補充してもらおうと思ったら、もう北山にいらっしゃらないんですもん!」
 異様に正直らしい踊り子は、無視できない名前を口に出した。ライムもまさにぎゃふん、という感じで食ってかかった。
「リンティのせい、ってどういうこと!? あんた、リンティのこと憶えてるの!?」
「え? あなたは、ティンク様をご存知なんです?」
 きょとん、と大きなネコ目を丸くする踊り子は、何も嘘をついていない。イールの従者の立場に見えるので、踊り子がリンティを知っているなら、イールもリンティを知っているはず。それを悟られるとわかるだろうに、わざわざイールは踊り子をこの場に残した。

――もう、気付かなかったふりができない。

 リンティのことを、知らないふりをしたイール。ひいてはリンティが関わっていた、ライムを狙う理由も伏せたままで。
 けれどその目は、迷い続けているように見えた。ライムを殺さなければ、と思いながら、リンティを探すライムに共感したようにすら見えた。
「みんな忘れてんの、リンティのこと。でもあんたは、覚えてる?」
「当たり前じゃないですか、フィーはティンク様に力をもらったんですから。むしろ皆さん、忘れてるってどういうことです?」

 これは、武丸と佐助を見せた方が早いか。そう思ってライムが宿の裏まで踊り子を連れていき、窓を叩いて二人を呼び出すと、更に驚きの再会がそこに待っていたのだった。

「えええええ! フィーって猫だったの!? 何だよその耳、可愛過ぎる!」
「ライムおねいちゃん……フィーに何したの?」
 宿から武丸と佐助を手頃な値段の食堂に連れ出した。ライムと踊り子は外套を被ったまま、少年二人にしっかり夕食を摂らせる。ディレスでは海鮮料理が主流らしく、魚の煮込みにおいしくない……と武丸が涙目になっている。
 それはともかく、踊り子は武丸達の里に頻繁に滞在した「世界樹の使者」らしい。世界樹って? ときくライムに、にこやかに説明する。
「えーと、フィーみたいなネコマタやティンク様みたいな妖の、卵がなる木のことですね。元々世界樹の幼木は地の大陸にあったもので、今でも多少、地の大陸には顔がきくんですよ」

 踊り子曰く、世界樹は紛争の頻発を好んでいない。現在一触即発なのはディレスとヤマトであるため、ヤマトに加担せんとしている地の大陸の忍達に釘をさしていた、という説明に、武丸が大きく頷いていた。
「そう、おれ達が里を出てきた理由! わかってもらえた!? ライムさん!」
「それは前から、あっそ、って何度も言ってるし……」
 むしろライムは、武丸の勢いに違和感を覚えた。逃げてきたそもそもの大義名分を、無理にも強調したいように見える。幼い佐助には変化が見られないので、武丸だけが背負う隠し事があるように見えた。
 だからライムは、あえて一番気になるところを突っ込む。
「それより武丸。こいつの主人、あのイールみたいなんだけど、アンタ達はイールのことは、知らぬ存ぜぬだったわよね?」
 ぎく。と武丸と佐助が、わかりやすく固まる。踊り子と彼らが知り合いであるなら、イールと彼らが知り合いでも何もおかしくないこと。
「そ、それは……いや、その……」
「ごめんなさい。〝蒼い風〟は知ってたけど、あのおねえちゃのこととは思わなかった」
 佐助があっさり口を割った。武丸も諦めて話し始める。
「イールって聞いた時、まさかとは思ったんだけど……顔は知らなくって」
 どうやらこの辺りについては、隠したいことではないらしい。踊り子フィーも問題視していないので、そのまま事情をきくことにした。

「蒼い風のイールは、現代で唯一竜の秘宝を持つと言われる混血で、竜種の末裔っていう。世界ってさ、強い化け物には教会派と世界樹派と天派や魔族とかがいて、世界樹派の先鋒が蒼い風って、おれ達は教えられてる」

 何だそりゃ、と、ライムの知らない単語だらけだ。武丸も口伝を言っているだけで、内容の詳細はわからないと言う。
「おれ達にとっては、おれ達みたく行き場のない化け物達の、リーダー的なイメージだった。だからもっと、かっこいい戦士かと思ってた」
「ねー。〝蒼い風のイール〟、有名だったし」
 それが何で、私を狙うの? と聞いたライムに、フィーが明るく、険しい内容をさらりと返した。
「イール様のお役目は、時に道を踏み外す化け物達の牽制も含まれます。世を『原理』で裁く教会派とは違って、『世界樹派』はなあなあなので、怖いよりも嫌われ易いんですけどね」
「じゃあ私は、何となくで危なそうって思われたわけ?」
「多分そうですね。まあティンク様もそんな感じなんで、フィーはライム様が味方みたいで良かったです」

 え? と、武丸と佐助が再び「誰?」となっている中、その様子にフィーが苦笑しながら、かの妖精が背負う業を告げた。
「ティンク様も、一時は討伐対象だったんです。今は利用する道を考えよう、ってなってて。でもフィー、イール様達よりライム様につきますからね!」
「……何、それ」
 いつもけらけらと笑いながら、ライムの雷も受け流せる丈夫な妖精。光の魔法が得意らしいが、何故討伐対象にされるのかはライムも納得いかなかった。
「佐助君、よく体調崩してません? これだけ強い光のヒトの中にいたら、相当体がしんどいはずだと思うんですけど」
「――」
 武丸が絶句する。どうやら覚えがあったようで、佐助自身はきょとん、としている。
「強い光を持つ者は嫌われます。化け物は大半が世界樹の系統で闇属性ですし、光の多い教会派ですら、母体となる世界樹には一目置いてます。世界樹はこの世界だけじゃなくて、天界まで樹冠を届かせる神木なんですから」
 天使も悪魔も、生まれる時には世界樹が関わる。だから決して、侵してはならない世界の礎なのだと、フィーがしみじみ話を締めくくった。


 仲間になるなら、とライムはフィーを追加で宿に泊まらせた。佐助によしよし、と猫耳を撫でられるフィーを置いて、武丸と二人で武器屋を物色しながら切り出してみた。
「……さっきの話なんだけど」
 武丸が「?」と、ライムを見つめる。
「あの話だと、アンタも光なんでしょ。武丸」
「……」
 よく体調を崩すのは佐助だけ。それは武丸が里を出た本当の理由、とライムは感じ取った。
 もしかしたら武丸は、一人で里を出るつもりだったのだろうと。

「アンタ達、髪の色は同じなのに、目がちょっとだけ違うのよね。佐助はしっかりと緑なのに、アンタの目は青が入る。……イールと似てる」
「……うぅぅぅ」
 突然、武丸が涙目になった。いつもは十三歳らしからぬ忍なのだが、実際はまだまだ幼い子供だ。
 戦争に行きたくない、と出て来たのも本当だろう。けれどそれは、戦いたくないというより、人を殺したくない切実な心だった。
「おれ……里では嫌われ者だった、ライムさん」
「…………」
「でもおれの力が、一番強い光の影だって言われた。宝のことは誰にも話しちゃ駄目だけど、おれなら佐助や他の候補者を殺せば、力を奪ってもっと強くなれるって、大婆様に言われて……だから……」

 武丸達はいつも、「お守り」という小さな袋を持ち歩いている。それは佐助が武丸を追いかけ、里から持ち出してきたものだと言った。
「おれ、佐助に全部、押し付ける気だったんだ」
 それは違う、とライムは思う。かつて、武丸と佐助を死に瀕するまで襲った刺客がいたが、その刺客も「里の宝」を使いこなしていた。傷付けられた武丸と佐助は、「お守り」の力で命を取り留めた。そんなお守りを里に置いてきたのは、きっと佐助に、命の守りを持たせておきたかったのだ。
「まぁ、あんな小っちゃいのに、追いかけて来るとは思わないよね」
 ふ、っと。珍しくライムは、自分でも驚くほどに顔がゆるんだ。
「うわっっ。ライムさんが笑ってる! 何で!?」
「うるさい。お互い多分、危ない側の化け物だから、せいぜい殺されないようにしなきゃ」
 ライムの雷は、どうやら「光」らしい。忍として植物や薬の扱いに長ける武丸は、何処が光なのかがさっぱりだが、武丸が育てた作物はそういえばすぐ実ったな、とライムは思い起こした。そういう見えない「光」も世の中にはあるのだろう。

 武丸の隠し事が大体わかったところで、ディレスにはフィーの隠れ部屋があるというので、翌日からそこで寝泊りすることになった。
 そうしてディレスに潜むライムに対し、下手に髪を染めるよりも、おふれについて王家に直訴した方がいい、とフィーが勧めてきた。ディレスは王家と審議院という二大勢力が対立しており、ライムのおふれは王家ではなく、審議院の騎士団の名の下で出されているという。
「えええ……でも、信じられるの? 王家って」
「とりあえずフィーなら、こっそり女王様と顔つなぎできます。ずっと逃げ回るのは嫌じゃないです? ライム様」

 単身であちこちに潜入するだけあって、フィーはかなり有能なネコマタだとわかった。屋内では外套で隠せない耳に、長い朱華(はねず)の髪を巻いて誤魔化している。山奥で育ったライムは世間知らずで、どう動けばいいかよくわからない。
 カーテンごしに陽光が差し込み、厚い絨毯と服かけ、水飲み場しかない部屋で、心から悩むとばち、と辺りに電気が走った。フィーが目を丸くし、円座する武丸と佐助が顔を見合わせる。
「そういえばライム様は、どうしておふれを出されたんですか?」
「……別に。軍の奴らに因縁つけられたから、ちょっと雷落としただけだし」
 「ちょっと」? 「雷」? フィーの愛らしい猫顔が目に見えて歪んでいく。
「雷なんて、魔道家でも制御の難しい稀少な『力』じゃないですか?」
「ぽいわね。だから制御、できてないし」
 自身で余程意識した時以外は、感情が大きく動いた時だけ――特に怒りを感じると所構わず落ちてしまう、と正直に言う。

 恐る恐る、武丸があぐらの前に両手をつきつつ、上目使いで言った。
「あのさ、フィー。イール様、ライムさんのことを〝魔竜〟って言ってた。おれ、ライムさんは確かに、おれ達と近い化け物だとは思うんだ」
「え? ……言うに事欠いて、〝魔竜〟ですか?」
 フィーが大きく首を傾げた。手足をついた猫の体勢で、正座するライムを間近で覗き込んでくる。
「こんな純度の青の目を前に、〝魔竜〟? これ、イール様の暗さよりよほど蒼穹の青ですよ?」
 しかもライム様、無愛想だけどいいヒトなのに! と唸るフィーの翠の目に嘘はなかった。
「武丸やイールは……竜なの?」
「竜種の末裔、ですね。そもそもライム様、竜ってご存知です?」
 あまりに話のつながりが悪いので、ライムのそもそもの齟齬をフィーが看破していた。ライムは自分が、狙われる理由をぴんと来ていないことを。
「竜種は、この世界を滅ぼしかけたほど危険な化け物です。イール様、世界樹派だって言いましたけど、正確には世界樹と手打ちした竜人(りゅうじん)なんです。世界樹を母体とせずに、自然界そのものの力を司る、自然の精霊より更に暴れものが竜種なんですから」

 フィー曰く、精霊は五行元素のレベルで自然を司るものだが、竜種は元素で構成された高次の五大自然要素、地水火風空の担い手らしい。また、竜種の血をひく混血は、山々の木々を動かす忍の宝や、唯一竜の宝を残して封印など様々な使い方をするイールのように、地水火風空以外の自然界の力も流用する。
「魔道で扱うのが難しいような自然の災禍を、息をするように使っちゃうのが竜種です。こんなに簡単に出るライム様の雷、竜種の末裔としか思えません」
「簡単というか……出過ぎて困ってるんだけど、私」
 だから危険物扱い、はわかる。ライム自身、なるべく人間に関わらないよう生きてきた理由でもある。
「おかしいですね。イール様も宝を使わないと、さすがにそこまで簡単に『力』は出せません。イール様より血の濃い竜種だと思います。でも……」
 フィーが再び、ライムの顔、特に目を強く覗き込んだ。左右を交互に見比べ、困った顔で離れて座った。
「ライム様……竜の眼が片方、ありませんね」
「へ?」
「逆鱗は? 喉にも額にも見当たりませんが、物質化でもさせたのですか?」
「は?」

 わけのわからないライムに、初めて大きく、フィーが悩ましそうに溜め息をついていた。
「イール様が見張れ、と言うわけです。イール様より強い竜種なのに、イール様でも維持する逆鱗を発現できない。それでは力の制御が不安定になります」
「え……どういうこと?」
「それでも魔竜、は言い過ぎだと思いますけど。ライム様は、強い竜が持つはずの力の制御機構や、体を竜からヒトにする眼が半分ないんです。力が大きく暴走したら、ヒト型を保てなくなりますよ、ライム様」
 そう言われれば、武丸と佐助が危機にあった時、ライムは光の塊のような姿になったことがあった。竜とは「竜の眼」が、自然の脅威をヒトの身体に変成した種族だといい、だから世界樹を母体とせずに生まれてくるのだ。

「ディレスの王家も、竜種の末裔です。だからフィー、ライム様はディレスの女王と話すべきだと思います」
 世界で現在、派手に反目しあうディレスとヤマトは、いずれも竜種の末裔が治める国らしい。武丸達やイールはヤマトに近い地の大陸出身で、風の大陸に移った世界樹と島国ヤマトのある海を挟み、紛争を治めんと動き続けてきた勢力になる。
「ティンク様も、ライム様が竜種とわかって近付いたはずです。どうして武丸君達がティンク様を思い出せないのかは、フィーにはさっぱりですが……」
「……」
 ライムは項垂れる。出会った頃に、リンティは「危険だから自分達に関わるな」と、ライムの記憶を消そうとした。今のフィーの言い分をきくと、ライムこそ危険な相手だろうに。
 そして、ライムを殺そうとする者達を知っている、と言い残して消えた。それは何故だったのか。

 養姉の元にいた頃のライムは、特に夢も目標もなかったので、リンティが危ない環境にいるなら自分が守る、と言った。養姉は元々、心に決めた主君に仕えてきた騎士だと言い、ライムが簡単に怒りなどの感情に飲まれないよう、騎士道を言い聞かせながらライムを鍛えた。だからライムも、守る相手がほしいと自然に思った。
 ライムの雷がうっかり落ちようと平気そうなリンティは、これから先も一緒に居られる相手。唯一そう安心できた、大事な友達だったのだから。

 武丸や佐助、そしてイール。竜種の血を持つという相手は、今まで会った限りにおいては、悪い者には見えなかった。
 それならディレスの女王には会った方がいいかもしれない、とやっと覚悟を決めた。竜を呼ぶさだめのライムとの邂逅が、今後にディレスの国名まで変える縁になるとは露も知らずに。


 結論から言えば、女王は親身だった。
 フィーに仲介を頼み、教会という聖域、そして世界樹派がうっかり手を出せない場所で、護衛を引き連れたディレス女王は、ライムと二人で話したい、と周囲を下がらせていた。
 青が薄れた明るい碧の目と、すっきり耳の高さで切り揃えられた黒髪。身を守る正装の甲冑に比べて、古臭く傷んだ蛇柄の深靴だけが少し異様だった。
「このたびは、我が国の騎士団の独断により、ご迷惑をおかけしたことを心からお詫び申し上げます。ライム様」
「いや……様、いらないし」
 いつも通りの口調のライムに、女王の側近が当初飛び上がりかけたが、良いのです、と女王に諭され、ライムも特に意識しないで話すことに決めた。
「わたくしにはこの方がお話ししやすいので。フィニス様、ひいては世界樹のお墨付きがあるなら、貴女様はまごうことなく竜種でしょう。最早血の薄れかけた我々とは違う、真性の竜」
 それはどうだか、と思ったが口にしなかった。フィーがやけに強気でライムを売り込んだようで、それは「世界樹の指示」だと言った。
 見たこともない世界樹に、どうして背中を押されるのかはわからないが、フィーも女王もライムを敵視していない。むしろ尊敬の念すら感じられた。

 女王はライムのおふれの解決策として、単刀直入にその意志を伝えた。
「無礼を承知で申しますが……ライム様には名目上、我が国の女王付きとなっていただくことはできませんか?」
「……は?」

 教会の祭壇の前で向き合う女王。此方は偽りを述べるのが許されない場であると、改めて説明しながら言う。
「騎士団は我が国において大きな発言力を持ちます。勅令を撤回させることは、たとえ王家であっても難しいのです」
「そんな厄介なやつなの、あのおふれ」
「それなら貴女を、おふれ通りディレスに召し控えたということに致します。ただしわたくし付きで。勿論貴女には、ディレスに留まっていただく必要もなく、あくまで形の上だけのものです。戸籍もディレスで用意するので、貴女の今後のお役に立つかと思います」
 はあ……と、真剣な目の女王を見つめる。事の重大さが正直わからないが、女王がとてもライムに譲歩しているのは感じ取れる。

「でもそれ……あんたに何か、メリットはあるの? 私、何も返せないけど」
「そうですね。ディレスとヤマト、開戦の噂はご存知でしょう? 目下、貴女の存在には、その抑止力となっていただくことを期待しています」
「抑止力?」
 女王曰く、ディレス王家の血はかなり薄まり、ヤマトに在る竜種に舐められているから開戦を散らつかされる。だからここで「ディレスにも強力な竜種がいる」となれば、噂だけでもヤマトに警戒をもたらせるのだと。
「でも……怖がってかえって攻められる可能性とかは?」
「そのための、世界樹派との顔つなぎです。天との親交があるヤマトの民は、どちらかといえば天派なのです、ライム様」
 さっぱりわからない。そう思いながらも、ライムに特別関係あることでもない。女王がいいと言うならいいか、と、それくらいしか思えなかった。
 推定十五歳にはこれが限界だろう。女王はくすり、と微笑み、ライムの青い髪を手に取って口付けをしていた。
「もしも、で良いのです。ディレスで一度お暮らしになって、心地が良い、と思っていただければ、その時は本当に、わたくしの護衛になって下さい」
 それはつまり、この人の騎士になれということか。その点については察し、はっきり断ろうかと思ったが、「もしもで良い」と一応言われている。はあ……と、曖昧に濁すに留めたライムだった。

 そうしてフィーのおかげで、ライムはディレスで動ける身になった。リンティの消息についても、同志のフィーに沢山相談できた。フィーは聡明で人懐っこく、口下手なライムの話をとてもよく聴いてくれる。
 しかし残念ながら、失踪したリンティのことは妖精達も、育て主という世界樹も何も知らない、と回答を伝えられた。
 どうしたものか、と思いつつも、育った山を出てから一番平穏な時間が流れていた。女王は「おふれのお詫び」とオカネまで用意してくれ、生活資金にできた。
 そんな矢先だった。ライムと武丸、佐助が住み始めた借家に、フィーが血相を変えて飛び込んできたのは。
「大変です! ヤマトが近々、ディレスと近縁に宣戦布告する軍備を配置したと密偵の情報が!」
 えええ! と武丸達も飛び上がり、ライムは動揺しつつ、冷静に状況を確認してみる。
「それ、私達がここにいたら、ディレスのために戦わなきゃ駄目?」
「そうしろという圧力は、少なくともかかりますね。イール様、何を考えておられるのか、やはりライム様を脅威と思ってるみたいで……ヤマトの力を借りても討伐する、と言い出したって話なんです」
 がっくり、と、ライムも久しぶりに大きく項垂れた。それならライムがここにいると、余計にディレスに迷惑がかかる。ディレスの味方をすると宣言し、戦う覚悟を持たない限りは。

 世界樹に縛られない竜種であるとはいえ、一応世界樹派らしいイールが、何故ここにきて世界樹の意向を(くつがえ)すのか。フィーが焦る横で、ライムは武丸達に荷物をまとめるように指示した。
 短い平和だったな。そう思いながら、窓から空を見上げた瞬間。
 その(まばゆ)い光芒は、ディレス全土に突如、天の罰のように降り注いできた。

「――!?」
「ええええ!? これ――ティンク様の光じゃ!?」

 フィーと一緒に、思わず手を取り合って驚く。慌てて最近は外していた鎧を身に着け、すぐ帰る! と言って借家を出てきた。フィーも追いかけてきて、ティンク様の気配がします! という先に化け物の速度で駆けて行くと、果たしてその林地には、紅い髪の妖精がぼけっと佇んでいたのだった。
「何で――リンティ!?」

 ぽかん、としている妖精の元へ、フィーもすぐに追いついてきた。
「ティンク様! やっと見つけました、よくご無事で!」
「うわっ、フィニス!? と――……そっちは、どちら様?」
 ライムに鈍い衝撃が走る。ライムを見ても、何の反応もしないと思えば、その妖精はライムのことを全く知らない素振りだ。
 それだけではなかった。フィーが同じ世界樹派のはずのイールについて訴えると、そのことも妖精はわかっていない。
「……イール? それ、誰?」
 リンティに力を与えられたネコマタ、というフィーの立場。フィーのことはリンティも信用している風なのに、フィーが言うイールを知らないのはやはり変だ。

 そもそもどうして、この妖精はディレスに光を放ったのだろう。気になることは沢山ありすぎるが、とりあえず目下、一番の違和感をライムは口にした。
「ていうか、リンティ……あんた、その額のださいの、何」
 額の中央、分かれた紅い前髪の間に、燦然と輝く謎の◎。こんな奇妙な印は、ライムが知るリンティは決して刻んでいない。
「――えええ!? あなた、見えてるの、これ!?」
 リンティも驚いて、鎧の隙間の肩に掴みかかってきた。恥ずかしそうに焦る紫の目に嘘はない。
「しかもどうして、あたしの名前、略すの!? 何か凄い親密みたいじゃん、それ!」
 リトル・ティンク。フィーが何度も口にしたリンティの通称。それも少しだけ略した名前と言うが、「リンティ」はそこから更に縮められている。
 長いから、リンティでいい? ときいた当初、リンティは何故か泣きそうな顔になった。それまでずっと、ふわふわと浅く笑っていたのに。

 本当にライムを憶えていないリンティを、とりあえずフィーの隠れ家に連れていくことになった。
「ティンク様……フィーのことはわかるのに、ライム様のことはわからない?」
 いや、と。段々と、フィーの顔が重く曇っていく。
「イール様も、もしかしたら……」
 「?」と呑気に、リンティは首を傾げる。ライムはどうしていいかわからず、何故かじわりと不安が生まれていた。
 リンティが見つかったことは、良かったのに。まるで今、ライムが手をひく紅い妖精は、リンティでないかのような気がしてならなかった。

 ちなみにリンティの額の印は、ライムが言った後にフィーにも見えるようになった。
「じゃあ、記憶がないことの自覚はあるんですね、ティンク様」
「うん。この印のせいだと思うけど、どうやったら解呪できるかはさっぱり」
 それなら、と、隠れ家に行く前に寄る場所がある、とフィーが言い出した。世界樹は解呪不要という意思らしいのを、納得できないように怒っていた。
「仮にもティンク様ほどの妖精に、呪いだなんて。ひょっとしたら、武丸君達の記憶も同じ術者にいじられてるかもしれないんです」
 ライムも同感だった。フィーはリンティの力を分けられているため、フィーであれば、額の印からリンティの内に干渉できる。そう言って、魔道の準備のために薬草屋に入っていった。ライムとリンティは近くの広場の椅子に座り、フィーを待つことになった。

 広場でリンティは、体が落ち着かないように、しきりに空を見上げていた。
「本当に私のこと、何も憶えてないんだ?」
「え? うん」
 空を映す紫の目は、心ここに在らず、といった感じだ。けれどふっと、手に持っている宝剣に視線を落とした。ライムもちょうど、思ったことがあった。
「それ、仕込み杖でしょ? あんた、魔法使いのくせに、剣も使えるのよね」
 え。今の逆さまの持ち方と大きな珠玉を填める見た目では、ロッドにしか見えないはずの宝剣に、リンティが改めて警戒心を見せる。
「これが剣って、知ってるの?」
「知ってる。大体、私にくれるって言って、しばらく物置に放置してたし」
「……え? これを――あげる?」

 そこで心から驚くように、初めてライムをまっすぐに見て来た。
「あたし、これをあげる、って言ったの? あなたに?」
「言ったよ。刀身が細過ぎて使い難いから、いいって言ったけどさ」
 ライムは今でも、鎧を着ける時には背にかける、無骨な大剣を使うのが性に合っている。ディレス女王がお近づきのしるし、と言って、とても大ぶりの黒い曲刀をくれたので、それまで持っていた鉄の剣は武丸にお下がりにした。
 リンティはまだ衝撃を受けているように、宝剣とライムを交互にまじまじと見る。強くしかめられた目付きに、頭痛に耐えているような苦痛が浮かぶ。
「……どうして……」
 これだけ動揺するということは、相当大切な物だったらしい。それをあっさり、あげる♪ と持ってきた以前の少女。
「……大切な物だって、わかるのに……これはあたしの、命なのに……どうして大切なのか、思い出せない」
 あまりに愕然としているので、あのバカ、と今更わかってしまった。
 ライムを殺そうとする者を知っていた。そう言った少女は、武丸と佐助の刺客の時にも途中から矢面に立った。家が焼かれる時にも助けてくれた。全てはきっと、ライムを殺させまい、と付きまとっていたからできた。

 思い出せない、大切なもの。それは宝剣が大切な理由か、それともそんな宝剣を渡してまで、身を守らせようとしたライムのことだ。
「……いいよ、別に。無理に思い出さなくて」
 とりあえずリンティが無事だったなら、それで良かった。少しばち、っと電気は走ってしまった。宝剣を握りしめる少女が、びくっと顔を上げる。ライムは隣から顔も見ないで声をかけた。

 それはライムの本心だった。しかしこの後に襲い来る大いなる災禍は、そんな感傷を許してはくれず。

 フィーが入っていった薬草屋から、突然火の手が上がった。
「!?」
「え――フィニス!」
 憩いの広場の前の店での火事に、道行く人々がざわめく。リンティが立ち上がり、薬草屋の裏手に駆け出していた。
「リンティ! フィー、そっちなの!?」
 後を追うため、ライムも慌てて立った。しかしそこで、がしっと背後から腕を掴まれた。

 全く接近を感じさせず、むしろ気安さすらも纏う気配。後ろにいたのは、見たこともない訛りの女だった。
「大丈夫や。薬草屋は避難させたし、ネコマタにはちょい、話をききたいだけ」
「――誰!?」
 短いくせ毛の、蒼い髪と青い目。色合いだけでいえば、イールによく似た女。けれどイールより澄んだ目色は、むしろライムに近い天上の青。
 上下とも白い服の女は、そこで理解を越えた内容を言った。
「生きとったんやな。ブルーライム」
「……え?」
「覚えとらんで無理もないけど。私もあんたと同じ、封印されとった竜。いうても、姉さん――あんたの母さんほどには、強うなかったけどな」
 それはあまりに、唐突に過ぎた。
 山里で養姉と育った思い出しかないライムは、女の言い分を呑み込める余地を持たなかった。

「私は、イルセトラ・ナーガ。通称はセティ。逆鱗も竜珠も持たへんけれど、蒼竜ナーガの王族……あんた、ブルーライム・ナーガの叔母さん」

 嘘ではないこと。本能的に、それだけはわかった。
 けれどリンティが行った裏手から、先程より激しい炎が舞い上がった。それも確実に、今度はリンティの魔法である気配の炎が。
「あ――ごめん、私行かなきゃ!」
 セティと名乗った女の手を、全力で振り切って今度こそ駆け出す。
 瞬間、ゾク、と悪寒が走る何者かに遮られた。急停止したライムの前、立ちはだかった大柄な男の姿に、セティが驚きの声をあげた。
「フラム!? 何でこっちに!?」
 大柄な男は、褐色の外套で隠してはいるが、火のような緋色の赤毛。ライムをじっと見据える双眸は、セティよりも重い青だ。
 強い。初めて心から圧倒される相手に、ライムは出会った。

 この相手を振り切るには、力が足りない。何故か確信があるライムの前で、男は苦々しそうにライムの後ろの女に言った。
「川の精が裏切った。セティ」
「えっ?」
「俺達とディレスを戦わせる気だ。ネコマタの口封じをされた」

 何を言っているのか、咄嗟にわからなかった。
 けれど本当は、燃え上がる炎の色でわかっていた。あまりに強い青の炎が、何を叫んでいるのかだけは。

 薬草屋の裏に駆け付けながら、ディレスに現れた気配を察知し、紅い妖精はほぞを噛んだ。炎が上がる少し前から、薬草屋の中ではフィーが危機にあったと悟った。
 薬草屋が商売道具を植えた畑で、草にまみれてフィーが倒れている。奥には一人、金色の眼を持つヒト型の水精(ニンフ)がくすり、と佇んでいた。
「あら。また来ちゃったんだ? リトル・ティンクちゃんは」
「――フィー!!」
 近い系の精霊であるため、気配をごまかす和装の相手が、星河(せいが)の威を持つ水精だとわかる。忍もこなせるフィーが遅れをとる剣客には見えなかったが、現実として相手のヤマト製の刀に両肩から袈裟懸けに斬られていた。

「ティンク様……ごめん、なさい……」
 回復魔法を急いでかける。しかし効かない。
「おわかれ、です。ティンク、様」
 絶望の足音。どんどん血が流れていく。魔法しか取り柄のない妖精であるのに、ネコマタ一人助けられない。そんな事態は信じられない。
「ティンク様……敵は、『神』です……」
 回復魔法は、あくまで魔法を使われる者の生命力を喚起する力だ。それでもその傷が、フィーの言った通り「神」による致命傷であるなら。
「うそ――うそ、やだ、フィー……」
 倒れた体から、既に命は奪われている。フィーの内にまだ僅かに残る「力」があるから、少女と話ができているだけ。
 「神」とは八百万の闇で、命の流用を性とする最上の化け物の呼称だ。神暦の時代には世界の覇者として名を(とどろ)かせたが、今では竜種の末裔以上に稀少な存在であるというのに。

 敵は、「神」。どうして突然、そんな存在がフィーを襲ったのか。
「ティンク、様……あいつが、フィーに、なっても……容赦しないで、くだ、さいね……」
 「神」は、奪った命を自らに取り込む。だからフィーが持っているだろう、世界樹の情報を狙ったとしか思えない。
 世界樹の使者であるフィー。それはあくまで、少女の手下としてだけで、フィー自身はそこまで世界樹の意思を知らされていない。ただ、少女を慕って、手足になろうとしてくれただけの化け物であるのに。
「大好き、でした……ティンク様……」
 少女の代わりに、世界樹の使者として動いてくれたネコマタ。
 それは少女が、―――――――――――――――たから。

 どくん、と。息を引き取り、小さな猫に戻った亡骸に、少女の心臓が止まるほどに大きく波打った。
 代わりに目前の水精が、ヒト型の時のネコマタの顔になった。
「ふふ。フィーちゃんでーす、なんて」

 全身が熱かった。目の前でフィーの姿を奪った「神」が、何者かは知らない。ただ、少女が大事にしていた猫を、無残に斬り捨てた仇とだけしか。
「――ゆる、さない」
 亡骸を畑の外に置くと。宝剣のロッドを使う間もなく、少女の周囲から畑一面を焼く炎が舞い上がった。
「あー、またそれー? それじゃ私のこと殺せないって、まだ懲りてなかったのかな?」
 光を扱える少女に、熱を動かせばいい炎の力は朝飯前だ。けれど相手は、少女のことをどうやら知っている者らしい。
 フィーの情報を得たからではない。命を奪い、己が「力」とする「神」はそう迅速に、奪った命の内面までは把握できない。世界樹の知識が少女にそれを教える。
「でも、炎を使ってくれてちょうど良かった。これでディレスで、火竜が顕れたって思わせられるね」
 炎の化身となった少女に、「神」の言うことは最早聴こえていない。くすくす、と「神」はふわりと浮き上がり、火炎畑から遠ざかるように空へ逃れた。

「――逃がさないっっ……!」
 少女も翼をすぐさま広げる。この「神」だけは、何としてでも滅さなければならない。誰かがずっと、それを少女にささやいていた。
 それでも飛び立つ瞬間、ほんのひとときだけ、失った者達の方を振り返る心が戻った。
「――リンティ!!」
 知らない三人。大柄な男、白い衣の女、そして青い髪の誰か。
 誰かは炎からよけられた猫の亡骸に気付き、ぐしゃっと一瞬顔を崩した。涙が出る前に少女に振り向き、全身全霊の声を上げた。
「待って、リンティ――!!」

 もしも少女が、呪いに屈していなかったなら、彼女の声は少女に届いていた。今の少女は本来在った自身を失い、「光を宿す妖精」でしかなかった。
 解呪しよう、とネコマタが言い出したこと。それがこの事態を招いたと誰も知らない。世界樹の情報は「神」の内では、同質以下の絵空事に過ぎなかった。

 「神」は少女の記憶を欠けさせ、「神」への敵意を沈めた。それならここで少女の逆鱗を撫でたことは、本末転倒ともなる悪手だ。解呪をさせるわけにはいかなかった。けれど少女が失くした心は戻さなければいけない。
 水精としてはディレスと周辺地域を敵対させて、最も血の薄まった竜種から潰せるように画策してきた。火竜と蒼竜を巻き込むことができればヤマトに波及し、「神」を封じんとする〝蒼い風〟も必ず鎮圧に駆り出される。
 そのために火竜達をヤマトに匿っていた。「神」も潜み続けていた地へ。

 紅い妖精にずっと狙われていたので、「神」が手をこまねいている間に、長い相方である「悪夜」が再封印されてしまった。そろそろ封印が解けると待っていたのに、神暦が終わって千年以上たっても頑固な竜種は「神」を忌避する。
 そうした「神」の恨みつらみが、「神」に取り込まれたフィーの命を通じて、紅い妖精にはっきり流れ込んでいた。
「……――」
 間違いなくこの「神」が、少女に呪いの印を刻んだ者。今でも記憶は奪われ続け、何の「神」かが思い出せないが、それは世界樹の言う通り失敗の封印だった。
「……フィー……」

 「神」が、見知らぬ山里に降り立っていった。少女もひとまず炎を収め、フィーから逆に伝わる情報で戦い方を練る。
 「神」は少女の過去を知っている者。だから以前の少女は狙っていたが、今の少女は解らないこと。ヒト型兵器の妖精、リトル・ティンク。全身を熱く巡る力と、紫から変わりつつある目がそれだけではない、と訴え始める。

 村人をなるべく巻き込まないため、降り立った平地の上に少女は雨を喚んだ。森の一画、わざわざ広い場所に降りた「神」は、少女にそうして力を消耗させることも計算の内だ。
 高次の水精、星河の素体。存在規模の大きい概念は力の内蔵量が多く、光や火でも、拙い雨でも侵し難い。だから少女はきっと一度、この相手に負けて呪いを刻まれている。
「あなたの力じゃ、私を殺せないよ? あなた、水と火の光妖精でしょ?」
 それとも、とフィーの顔と声色で「神」が微笑む。
「せっかく失くした、あなたの(わざわい)で私を殺す? 私はかまわないよ……可愛いフィーから、今度はあなたになるだけだから」
 それは「神」の本心だろう。命を司る「神」という化け物は、殺した相手の命を奪って取り込み、殺されても殺した者の命に遷って内から祟る不滅さを持つ。「神」の潜在力が勝れば、殺した者の命を己として書き換えることができる。

 失くした禍。何のことか、思い出せない。
 ぽつぽつとした雨の上から、薄まる日差しがまばらに一帯を照らす。この雨はあくまで「近付くな」の結界として、村人達を遠ざけるものに過ぎない。
 自身が一度負けた事実を、無視するほど少女は愚かではない。世界樹の分身に鍛え上げられ、様々な戦闘の課題を越える日々を過ごした。どうせ記憶を封じるのなら、それらもまとめて消すべきなのに、消し切れない「妖精」が在ることの意味を、迂闊にされた「神」は知っているのに解っていない。

 最早少女は、「神」と言葉をかわす気はなかった。フィーの顔で笑う相手に、煮えくり返る血液が全身を回る。
 地面が段々、雨の影響でぬかるんできていた。固い地盤の上の、僅かな砂の層なのだろう。水が染み渡るのが早い。

 無言で白い翼を広げ、光を放った少女の隣に、雲のような大きさで炎に包まれる獣が顕れて来た。少女が以前、世界樹の試練で手に入れた炎の狐だ。
「知ってるよ。その火の獣は、私と戦わせるために捕まえたんだよね?」
 どうやらそういうこと。この「神」をどうして、少女は狙ったのだろう。「神」が水精の類であるなら、本態は溶岩とはいえ、どうして火の獣を手に入れたのか。
 少女の記憶を奪ったことで、理由を知るらしき「神」。だから「神」の優位を確信するように、微笑む顔には余裕しかない。
「でもね。その作戦は、〝蒼い風〟がいてこそ成るも――」

 うるさい。そう思った瞬間、炎の狐が跳んだ。
 「神」の周囲は、水の気が張り巡らされている。雨を受けて強まった障壁は炎を通すわけがなく、よけようともしなかった「神」は、次の瞬間。
「――あああ!?」
 炎の狐が跳んだと同時に、少女の足下から光が走った。地面を伝わる青い「力」が、何より早く「神」を真下から撃った。
 地からの雷に、弾かれるように飛んだ「神」に獣が食らいついた。
――その作戦は、蒼い風がいてこそ。
 言われる通りだ。誰のことかはわからないが、炎の狐だけでは水精の「神」を殺せない。あと一手を以前の自分は用意していたらしい。

「でも、充分」
 宝剣のロッドを掲げる。更なる青い追撃を行う。ロッドの先端の透明な珠玉に、炎の狐もろとも撃ちつける激しい稲光が起こった。
 この宝剣を、青い髪の彼女は自分のものだと言った。少女がかつて、彼女にこの空の珠玉を渡したのだと。
 青い髪の彼女は話していた時、ばち、と少女にかすかな雷を放った。珠玉は確かにその「力」を知り、少女に新たな「力」の起動を伝えていた。

 それは以前の少女も、本当は知っていた「力」。けれど自身の力の絶対量が足りないために、使う選択肢がなかった。
「あんたがフィニスを殺したから……全部、取り返す……!」
 今、少女がこの規模の「力」を放ち続けられる理由は、ネコマタに預けた力が少女に還ったから。
 以前はおそらく、殺さず勝つ方法に縛られていた。殺せば少女も「神」に侵されてしまう。それで少女が「神」に乗っ取られても、今はよかった。

「――もういいよ、リンガ!」

 ふっ、と。聞いたことのない声が、突然少女の深奥に届いた。
 止まることのない雷鳴の中、聴こえるはずのない呼びかけは、撃たれ過ぎてどろどろに飛び跳ねる炎の真上から響いた。
「『力』を止めて! あとはアタシが約束通り封じる!」
 それは確かに、不自然な雷雨に(いざな)われた風の音。気配を察した少女は放心し、同時に低空の移動で最速を誇る〝蒼い風〟が吹いた。
 声は少女の中から聴こえた。少女がかつて、同じことを話した相手がそこにいたから。

――貴女が『白夜(はくや)』を足止めしたら、あとはアタシに任せて、『力』を止めて。約束通り、アタシが封じる。

 どれだけ血を薄めても適合者を絶やさず、小さな世界を創り出す蒼い珠玉。それを(あつら)えた棍棒をかざし、蒼い髪の娘が樹上から飛び込んできた。
「……イール……」
 おそらく炎の狐と共に焼かれる「神」が、呪いの制御を失っていた。急速に開けていく視界が、少女が誰であるかを突き付けてくる。蒼い髪の娘に渾身の力で殴りつけられた炎の狐が、打たれた箇所から蒼白く固まっていくのがわかった。

 ネコマタの命――「力」は、まだ「神」に取り込まれ切っておらず、より縁の強い少女の元に気配が戻ってきた。蘇生することは叶わないが、「神」と心中することは避けられそうだ。
 そうしてほとんど狐の形を失い、溶岩になった獣が、娘――イールの振るう〝小天地〟により、閉ざされた微小の世界と化する。時間を止めて、少なくとも千年は開放されない狐の像に。
「あ……待、って……――」

 この結末は、以前の少女とイールが描いたものだ。世に災いをなす「神」、「忘却の力」を司る「白夜」。遥か昔に討伐対象とされながらも、その「力」で逃げ続けてきた「神」。
 どれだけ討伐せんとしても、討伐しようという思いを忘れさせる「神」を、何故か少女だけは何度も夢に見て忘れなかった。イールは事あるごとに忘れ、その度少女が思い出させた。「白夜」は◎のような呪いの印を直接刻まなければ、長くて強い記憶は消せない。イールと少女は出会って間もなかったので、イールは少女のことも度々忘れた。
 それでもずっと、「白夜」という災いを知っていた少女。何故なら少女は、かつてその災いに奪われたものがあった。

 けれどそれは、つい今戻りゆく記憶と同じ。決して扉を開けてはいけない地獄の始まりだった。
 これは、間違い。少女はここで、「神」に隠されてしまう方が良かったのに。
「あ――ああああああ……!」

 炎の狐が固まり切るまで、油断せずにイールは汗を(ぬぐ)い、「力」を棍棒から放ち続けていた。この「忘却の神」にはほとほと困らされ、ライムに出会わなければ忘れていることすら忘れたままになった。
 紅い妖精たる少女との縁は、イールの方がライムより長い。世界樹が引き取り、卵として封印していたはずの災禍が、五年前から活動を始めたからだ。世界樹に喧嘩を売ることを承知で、イールは討伐に向かった。そこで出会ったのが、幼く心許なげな紅い妖精だった。

――イールは……わたしを、殺しにきたの?

 〝小天地〟を継いだ時から、イールは歳をとらなくなった。実年齢は童顔の見た目よりも上だ。番った相手もいるし、これから子供も欲しい。だからそのいたいけな妖精を見た時、イールの内に迷いが生まれた。
 これは災禍。この禍を滅ぼすために、(いにしえ)の火竜や蒼竜をかつての〝小天地〟が封じた。それらもやがて、目覚めてイールと志を共にする。
 しかし誰もが、禍の(かなめ)を忘れた。妖精と出会ったイールも、封印の解けた火竜や蒼竜も。イールは妖精に初めて会った時には憶えていたのに、迷いを抱えて様子を見に行く内に、どうして幼い妖精に会っているかを忘れた。殺しに来たの? と妖精の方から、わざわざイールに思い出させたのだ。

――だって……わたしは……。


 あああああ、と。イールの背後で、〝小さな星の光〟が最後の悲鳴をあげた。
「――リンガ!?」
 イールにも思い出されてしまう。引きずり出された本当の名前が、少女の願った光を(うた)う星を消していく。
「だめ、イール、わたしを止めて……!」
 ここまで少女は「力」を使い過ぎた。自分からは使わないできた珠玉の「力」を。
「フィー……あ……ゆるせない、わたし……」
 イールがいるのに、少女の周囲に危険な光が走る。少女も数少ない友達を思い出したのに、それ以上の動揺で「力」が止められない。

――その方が幸いやもしれん。

 何のために、可愛いネコマタを遠ざけていたのか。イールに自分を殺せ、と念を押したか。この結末を以前の少女は、本当は知っていたのに。
 目を開けなければ良かった。思い出さなくて良い、と彼女も言ってくれていたこと。
 「白夜」を倒せば、イール達は禍の在処(ありか)を忘れなくなる。標的を間違えてほしくなくて、少女が「白夜」を止めると決めた。しかし少女はイールにだけは、禍が禍である理由をかつて教えてしまった。

――最大の間違い。それは……。

 「忘却」が消していた記憶が戻り始め、イールは納得しつつあるが、少女にはここから招かれる破局がわかった。止められないこの心こそ答で、捨て置けない禍を独りで夢に見て来た。
 悪夢の右眼が真紅に笑い始める。込み上げる悲鳴が声にならず、少女の周囲の空気を熔炉と化させた。

「何で、リンガ――どうしたの!?」
 「忘却」の封印を終えたイールが、飛び上がった少女を追いかけようとする。もう「忘却」の影響は消えているのだから、イールもいずれ少女との話を思い出して、火竜や蒼竜を使って禍の根を絶ててしまう。
 討伐に訪れたのは、少女が単純に稀少な光の妖精だからではない。このままではイールも燃やしてしまう。なけなしの理性が残る内に、少女は空に逃げた。イールは風にのることしかできないので、白い翼を追ってこれない。

「ごめん、なさい――」

 うっすら、自分が咎人であることは知っていた。〝小さな星の光〟であることすらも、一羽の妖精を犠牲にしている。世界樹の分身のもと、目覚めた五年前から危険な「力」に向き合うように鍛えられた。
 けれど、これほど。「白夜」がつい先日に、印を刻んでまで奪った記憶は、少女自身の消せない殺意。遠い過去からずっと、「白夜」は少女の禍の記憶を、多くの者から奪ってきた。腐れ縁の「忘却」はそうして、少女を守り続けてきた者だった。


 光を()ぜて空を駆けて、何処に向かっているかすらわからなかった。意識が遠のく。少女の額に◎がなくなった代わりに、印が隠した蛇のような紋様が浮かぶ。それは宝剣に填まる珠玉と呼応し、少女を紅い災いに染める。

――私にくれるって言って、放置してたし。

 それでも失くすわけにはいかない。「白夜」に一度負けた時にも、手放さなかった宝剣。ライムに渡すために待ち続けた記憶は、体に直接印を刻まれるまで奪われることはなかった。
「ごめん、フィー……あたし、できればライムと、ずっといたかったから……」
 だから少女の力を分けたネコマタに、少女がこなすべき「世界樹の使者」を引き受けてもらった。一年前に見つけたライムは、少女が北山で育てられた理由。古い湖に封じられた者が、目覚めた時に宝を渡すためのはずだった。

――あんた凄い我儘だけど。嫌いじゃないし。
――騎士って誰かを守らなきゃいけないらしいから。リンティでいいや。

 楽しかった。あまりに心地よくて、ライムのそばを離れられなかった。
 あの山奥の生活が、ずっと続けば良かったのに。


 始まりは千年前に、この珠の色が変わったことだった。(あお)く広い海の珠が、透明な空の珠になってしまった。
 何かの壁につき当たって、少女は不意に我に返った。
 光を放ち続ける体は止められず、矢の如くに燃え続けている。宝剣のロッドを見えない壁に叩き込むと、まるでガラスが割れるように、目前の空間に黒いヒビが入った。
「あ……これ――……母、さん……――?」
 大空の中、人知れず旅人の到達を阻み続けた、ある大陸の結界が砕け去った。
 消えていく結界の残滓は、母の「力」の気配。母が残した最期の遺産を、自ら壊してしまった。少女の視界全体にも亀裂が入った。
「いや――……やめて、もう……――」
 違う、少女に母などいない。卵から目覚めた紅い妖精に、母とは世界樹のことであるはず。
 言い聞かせても、その現実は何も救わない。少女はそもそも、世界樹の〝小さな星〟の歌を奪った光。

 宝の珠が色を変えた。それで大半の「力」を手放した父は、少女の目の前で殺されてしまった。
 少女が悪かったのだ。何の力もない少女に近付いてきた「白夜」と「悪夜」。「悪夜」は父の力を、海の統治を憂える上に、父を陰で慕う黒い竜が奪うように仕向けた。「白夜」が少女を人質にして、抵抗できない父を黒い水の竜に討たせた。

「いやだああああああ!!!」

 額の紋様が幼い少女に浮かぶ。生まれた時は蒼かった髪が(あか)に変わる。
 紅い光の三つ辻が、黒い竜を(はりつけ)にした。仮にも極夜の渦を壊した少女は、母に取り押さえられた。父の力を奪った黒い竜は、「悪夜」を巻き添えにしてその後に弱り、海の渦となったと聞いた。
 連れ合いを失い、少女を命がけで止めた母は傷付き、しばらく床に臥してしまった。その隙に「白夜」は再び少女に近付き、少女はやがて母に訴える。

――お願い、母さん! あたし……ライムを殺す夢を見るの……!

 「白夜」から守るために、少女の大切な者が違う大陸に封じられた。思えば母はその頃から、少女達の生まれた大陸を閉ざす気だったのだろう。だから一人、幼く青い竜を隠した。紅い髪となった少女を連れて、災いと呼ばれた透明な珠を抱えて、母はずっと迷い続けた。
 そして〝小天地〟と同性質の空間ごと封じる「力」で、全ての問題を先延ばしにしてしまった。

――お願い……いつか来る、魔竜を止めて――

 母の願いを、少女は必ず、叶えるはずだったのに。
「このままじゃもう、抑えられない――……助けて、誰か――……」

 母の結界を解けるものは、この宝剣の珠玉だけ。母がそう定めたからで、少女はいつか、ここに帰ってくるとわかっていたのだ。
 幻の大陸。封じられてから千年の時がたった間に、地図から消されてしまった(いにしえ)の神域。海の底とも言えるような、蒼く塗り変えられた空気に閉ざされ、沈められてしまった故郷。


 透明な潮が、祈るような音を繰り返してたてた。
 白い砂の波打ち際に、一人きりで降り立った時。
「……へえ? ここがあなたの墓標なんだ? 母さん」
 少女の右眼が、紅く染まった。白い翼は夕空を映すように、鈍く汚れて光を失っていた。

 混じり気のない、潮風の匂い。先程まではあんなに燃えていた体が、紅い右眼の下で鎮まる。寄せては返す波が足を濡らし、やがて来る夜の冷たさを少女に伝える。
 この閉ざされた神域であれば、王者の竜が使っていた城も不滅で残ると少女は知っている。あまりに強大な「力」が危険だと世界中から集められて、多様な言語が狭い大陸に押し込められた竜の楽園。
「てぃな、ごめんね? あたしはやっぱり、魔竜を始末したい……――」

 果てしない災禍であると知っていながら、紅い髪の少女を引き受けて、小さな星の光と変えてしまった世界樹。それはおそらく、世界樹の分身に、そろそろ滅びが迫っているからだった。
「てぃなの後継者にはなれない。あたしもてぃなと同じ、光と闇の合いの子だけど……」
 単純に、寿命。人間くさい発想の世界樹本体が、分身の活動期に限界を設定したからだ。
 それは分身が、ヒトとしての意識を保つためで、生き物の魂は有限であればこそ、無制限な纏まりのない自我にならない。

 「神」のように、命から命へ、終わりなき旅を往くものには制限ある「意味」しかない。「意味」にさえ背かず、また「意味」が命ずるのなら、どんなことでもしてのけるもの。
 たとえばその「意味」が世の大半の生き物にとっては、災いばかりが大きな制約であっても。
「待ってるよ、ライム……この最果てに、光を戻して?」
 光と闇の違いが生むもの。この呪いこそ、竜種に敗れた「神」が地上に遺した鎖。仄暗い水面に、焼け始めた空が侵蝕を始める。
 夜と昼は、太陽の有無で分けられるだけであるのに。余計な「意味」を課されたことで、世界に忌まれる側ができた。もしくはそのどちらでもなく、自他を見まごうたそがれの火が。

 ほんの一縷(いちる)の、赤い夕陽が海に落ちた。
 訪れた夜の暗黒の中、どの地で見るより鮮やかに笑う月が、揺れる少女の紅い火影を海辺に照らし出していた。

➺重唱∴変奏 影

 つい先ほどまで笑っていた、小さな猫の死骸を林の大木の下に埋めた。猫から成った妖であるので、世界樹は完全な母体ではないというが、木のある所がいい、と死骸を抱いてこの林を探した。
 しっかり土をかけて犬除けの大きな石を乗せたところで、ライムの理性に限界が来た。
「……気持ち、悪い……」
 あちゃ、とセティが、座り込んだライムの背中をさする。不思議と温かな気が伝わってくる手は、回復が得意なセティならではらしい。危うく何もないのに吐かずに済んだ。
 黙ってライムとセティについてきた大柄な男は、何度も息を飲んでは重く項垂れていた。ここにいる全員が胸の悪さを抱えていた。

 ディレスで大きな火の手が上がったため、最初はイールがすぐに現れてきた。しかしフィーの死骸を見て愕然とし、ヤマトとは決裂! と叫んで姿を消した。どうやら妖精の森に向かったらしく、世界樹と話をする気だろう、と大柄な男が言った。
 数日前に、大柄な男――火の竜であるというフラムは、ヤマトとの契約で妖精の森を襲ったという。そうすれば妖精の匿う魔竜が現れる、という話で、それは満更嘘の情報でもなかった。しかしその暴挙を勧めた「白夜(はくや)」は、フラムやセティが手を出す気のなかったフィーを殺した。潜入者のフィーにディレス現状を訊きたかっただけであるのに、薬草屋に入った「白夜」は店主を連れ出せと言い、フラム達が離れた隙にフィーに斬りつけたのだ。

「いや……てか、あいつ、何……はくや……」
 ぐ、と激しい頭痛と共に、まだ(うずくま)ってしまう。ライムはおそらく知らない相手。しかしそれは確かに敵だと、頭の痛さが訴えていた。
「いや、違う……リンティ……」
 フィーを殺され、激情に呑まれた少女が再び行ってしまった。気持ちは痛いほどわかる。ライムはフィーと僅かな間いただけなのに、こんなに心臓が締め付けられるのだから。

 何とか歩ける気力が戻ったライムは、三人で武丸と佐助の待つ借家に向かうことにした。フィーを埋め終わった直後に、突然「白夜」の「忘却の力」が消えた。その結果がライムを襲った。それはあまりに怒涛の記憶だった。
 セティやフラムも、語り継がれたはずの「白夜」の名の重大さと、〝魔竜〟の器を思い出した。強大な〝魔竜〟が再び現れた時、止めるために生粋の竜として封印されたはずなのに、魔竜の情報が「白夜」にあやふやにされ、把握されている末裔以外のライムを魔竜と思い、心を鬼にして動いていたらしい。

 イールは当初、ライムは違うと言っていたが、殺すべきはライムと言うようになった。しかし魔竜は、世界樹が匿ったという記述が残っている。ライムと世界樹には一見ツテがないので、妖精の森に竜でないと対抗できない攻撃をかけ、ライムが出てくるか確認しようとした。そのはずが、表立って迎撃したのは紅い妖精だった。
「待って。それじゃ、やっぱりリンティが……」
「ああ。あんたも思い出したやろ? すっかり『白夜』に騙されとったけど……あのこ、あんたの双子の妹、リンガやんか」
 妹。双子の。
 忘れていた自分への吐き気で、ぐらり、と道端の塀に寄りかかった。

 本当にうっすらとだが、セティが叔母だというのも今ではわかる。実の両親も思い出せる。ライムは養姉に拾われる前の記憶がなかった。西の大陸の湖に隠されたライムを、養姉は封印が解けた直後に見つけたのだ。
 「白夜」と会ったのがライムの最後の記憶で、妹を助ける方法を教えてあげる、と言われた。そこから先は、気付けば養姉に拾われ、自分が誰かもわからなかった。

 リンガ・ティアリ・ナーガ。ライムはリンティと呼んだ妹は、突然紅い魔と化して父を殺したという。居合わせた水竜も半死に追い込まれたほど、明らかに危険な「魔」の者であると、沢山の竜に囲まれて討伐された。妹はそれを受け入れていたように、一人で城を後にしたのだ。ライムが駆け付けた時には、血まみれで転がる妹がいた。
「あんた、そこで竜の眼を一つ使ったんや。その時に逆鱗も失くしてしもて、リンガは竜の眼の力で助かったけど、あんたは代わりに自分を見失って、長い眠りについてしもうた」
 母の妹であるセティは、早くに地の大陸に嫁いで訛りがついたが、事態を不審に思って蒼竜の長――天竜の長兄に頼み込んで、ライム達の母、フォイエ・テア・ナーガに竜の宝を貸させ、娘二人と風の大陸に一旦逃がした。そこでフォイエはライムだけを山上の湖に封印し、竜宮に帰ると魔竜である娘は討伐隊に差し出したのだ。
 竜が棲む大陸は、竜宮と呼ばれた。竜宮はその頃、海竜の死や水竜の負傷、「神」の侵入が立て続けに起こり、セティが調べる猶予もないまま、全てを魔竜のせいにされてしまった。

 う、と。ふらふらとやっと、借家まで来たライムは、扉にしがみつくようにしながらセティに振り返った。
「でも……リンティは生きてる」
「そうや。だから私とフラムも、いつか魔竜を止めて、と、フォイエに封印されたからここにいるんや」

 借家に入ると、フィーの訃報をきいた武丸と佐助が大泣きしてしまい、落ち着かせるのが一苦労だった。私も泣きたい、と、絶えない吐き気をライムは一人で抑える。
 リンティがいなくなった、と言うと、武丸と佐助はすぐに、「リンティさんが!?」と、記憶の戻った反応を見せた。これまで一緒に旅をしてきた気分であるようで、いなくなったのはもっと前ではあるが、大事な仲間が! と思う二人に戻ったことに、少しだけほっとできた。
「んーで……何か、リンティ、私の妹っぽい」
「え?」
「へ?」
 武丸と佐助がぽかんとする。しかしそこで武丸が、思わぬ返答を続けた。
「あー、でも確かにさ。リンティさん、ライムさんにそっくりだなって」
「――え」
「おれも里の宝使うとそうなるらしいんだけど、リンティさんの顔、普段は何かもやもやして覚えられなくて、忍術かな? って思ってた。でも時々、ライムさんに似てるなーって思う時があった。忘れてたけど」
 忘れていたことに疑問を思わない声でいう。まだ十三歳の少年には、それが精一杯だろう。

「それで、ライムおねいちゃん。何で、セティとフラムと一緒?」
 ヤマトに根城を持つという火竜と蒼竜に、武丸も佐助も一応面識はあるようだった。竜種の末裔同士はイールの血筋を筆頭に、各地に散らばっているのだ。
 「白夜」にかきまわされなければ、妖精の森への不用意な攻撃もなかった。ディレスとヤマトを対立させようとしたのも、おそらく「白夜」の暇潰しだとセティが唸っている。
「あかん。これ、私らの手には余る。リンガが何処行ったんかつきとめて、暴走しよるなら討伐しなあかんやろうけど……」
「……ネコマタの死がきっかけなら、俺達の責任だ。ミストラルも言っていた――魔竜は『神』の気まぐれで、竜種の恐れが造り出した人災であると」

 一瞬、ライムの脳裏に、優しかった誰かの声が浮かび上がった。
――守ってあげてね。おねえちゃん。
 父が死んで、母がふせっている間に、ライム達を訪ねてくれた温かいヒト。
 ミストラル。母の親友だったはずの、風竜の長を思い出した。

 ミストラルには火竜の恋人がいた。先程名を出したフラムのはずだ。
 火竜は、おそらくライムの家を焼いた相手。養姉が死んでいたら許せなかったが、リンティが助けてくれたために、火竜を敵と思い切れないのが皮肉な話だった。
「ねぇ。魔竜って、何でそんな……討伐隊なんかまで組まれたの?」
 火竜は、魔竜を討伐したいだけ。そのためだけに封印されていたなら、理解はできるが納得はしない。討伐隊なんて組む大人の方がおかしい、と幼い頃にも思っていた。
 その時、他にも信用できない者の声が、間良く場に割り込んできた。
「魔竜は、光と闇のどちらも持った禁忌。何の『力』をも簒奪する影のものだから」
 借家の扉からイールが入ってきた。到着は遅いが顔は焦っている。
「――やっぱり来てない。リンガ、まさか竜宮に……」
 ライム達を見回すイールを、こら、とセティが引っ張って絨毯に座らせた。
「イール、ちゃんと自己紹介しーや。あんたいっつも、統率者のくせに報連相が足らないんや」
「うるさい、生粋の竜だからって偉そうにしないで」
「ニーララール・イール・ナーガ。〝小天地〟を継ぎ、魔竜討伐の使命を受け継ぐ天竜の末裔。そう名乗っていれば、そこのブルーとの話も早かっただろう」
 ブルー、とフラムに呼ばれたライムは、そんな呼び方する奴いたっけ? と幼少の記憶を辿る。

 こほん、と。イールが改めて、円陣で全員が座る場を仕切り直した。
「『白夜』の封印は成し遂げた。でもリンガが『力』を暴走させて、逃げていって……アタシも『白夜』を完全に封印してから、やっとリンガが本当の魔竜って思い出して」
 はくやって? と武丸や佐助が混乱しているが、元々話をわかっていない様子なので、リンティの敵。とだけ説明する。
「でもイールは、ブルーが魔竜だと、以前は確信していなかったか?」
「それは、えっと……ちょっと話し難くて……必要があれば、その時に言う」
 あ、やっぱり、信用できない。ライムは何度目かのがっくりを味わう。
 それでもイールも、何が何でも魔竜を殺したいわけではない。ライムに向けられた殺意の方が強かったとすら感じる。

「『白夜』の奴、魔竜を倒せば竜宮の封印を解けるって言うとったんや。あの時はあいつ、『白夜』と気付いてへんかったけど」
「狙いは『白夜』自体が、再び竜宮に行くことだったんだろう。その鍵を魔竜が持つとすれば、魔竜は竜宮に戻った可能性が高い。かの地が最も、魔竜も力を強められる神域だからな」
 イールがしんみり、うん、と頷く。それはイールも予想していたことのようで、心なしか落ち込んでいるように見えた。

 ここまで聞くと、そこから先の、ライムの結論は一つだった。
「それじゃ……私、竜宮に行く」
 セティとフラムが溜め息をついた。イールは「え!」と、青い目を見開く。
「リンティさんを迎えに行くの? おれも行く!」
「ぼくもー」
 気楽な二人に、思わず苦い笑みがこぼれる。二人は多分、リンティを魔竜――危険だなどとは、夢にも思っていない。
 それはライムもそうだった。ライムだって、怒れば雷が出る体質で、今日のように大きな悲しみに襲われれば動揺もする。
「フラム。私ら、世界樹と話つけに行かなあかんで。下手にのせられたとはいえ、妖精を敵に回すわけにはいかん」
「わかっている。ブルーにはイールがついて行けばいいだろう。〝小天地〟で封印できないほどの魔であるなら、俺達がその後、討伐に出向く」

 唐突に、これは高潔な彼らの、ギリギリの温情だとライムは悟った。
 ライムの妹。魔竜と呼ばれた少女。どうして現在、妖精などしているかはわからないが、世界樹が云々という話らしい。
 明らかな災禍をまだ起こしていないリンティを、記憶の戻ったライムの心を無視して、無理やり討伐することは彼らも嫌なのだ。だからライムに、事態を収拾するチャンスをくれた。リンティを無事に、安全な姿で連れ戻せたら、〝魔竜〟はいないことにできるかもしれない。
「えええ……アタシにこいつらと、一緒に行動しろと……」
 嫌そうなのはイールで、ライムも正直、イールが最も信用ならない相手だ。しかしイールは、リンティにあまり害意がないのはわかる。でなければリンティもとっくに、山里の祠のように封印されていたはずだろう。

 「竜宮」が何処に在るのか一つ、ライムは知らない。すぐ近くまで行かなければ、リンティの気配を見つけられる自信もない。
 ちょうどまとめた荷物と共に、武丸達に装備を揃えて、と頼んだ。山々を駆けることは達者な忍者の二人は、ラジャ! とライムの分まで、旅の荷物を整えてくれるのだった。

 フィーのお墓に、武丸、佐助と三人で花を供えた。フィーは魔竜については詳細を知らず、どの陣営にも世界樹の使者として出向き、誰からも可愛がられていたという。
 佐助がぐずり、お守りで助けられないの、にいちゃん、と小袋を取り出す。これはおれ達の家系しか使えないよ、と武丸が涙を拭いながら言った。ライムはやっと、その「お守り」が何であるかわかった気がした。
 竜の眼。昔にリンティを、助けたはずの自分の力。片方失くなっている、と教えてくれたのもフィーだ。
 武丸にきくと、これ「鈴」って言うんだよ、と返ってきた。先祖代々が遺してきた眼を、忍の里の宝を継ぐ者が「鈴」も継承すると。

 竜宮に行くには、思わぬ壁にライムは当たった。竜宮はディレスからライムの育った山まで行って西岸から海に出るが、辿りつけるかわからない幻の大陸であると、ディレス女王が教会の椅子で苦く笑った。
「世界樹にも知恵をお借りしましょう。現在セティ様に、穏便に妖精の森と交渉をお願いしています」
 フラムはディレス側で、「白夜」についてヤマトの非を調査に入った。セティもフラムもライムと同じように、形だけ女王付きになることでディレスが後ろ盾になるという。
「フィー様はとても可愛い、良い方でした。あの方の飼い主であるなら、リンティ様もきっと良い方でしょう」

 育った山までは、陸路で行くつもりだった。しかしここで、ライムの日頃の行いが思わぬ実を結んでいた。
 ライムと関わった子供の人魚が、水先案内をすると言い出してくれたのだ。
「ディレスから船を出すといいよ。北の海までまず誘導するから、そこからはユゥも乗せて! 〝蒼い風〟に西まで運んでもらったら、また案内する!」
 船っていくらくらい? と港に来た時、再会した人魚、ユーファだった。船自体はとてもライムに買える代物ではなかったが、ディレスに送ったマリエラの親戚が、五人くらい乗れる船ならやる、と言ってくれた。マリエラが商家の息子と結婚するので、漁師を引退するそうだった。

 こうして思ったよりもずっと早く、竜宮に行く手筈が整った。世界樹からの助言で竜宮は確かに封印を解かれ、飛べる化け物が空から視認できる状態にあるが、新たな強い結界のため入れる者がいない、と伝えられた。結界の主はおそらくリンティだろうと。
 武丸と佐助のために、船に命一杯食糧を積むイールが、作業を手伝うライムにふっとこぼしていた。
「冷静に結界を張れて、この半月は、何も事を起こしていない。これをあくまで魔竜と言うなら、ご先祖達には何があったのかしら」
 ライムも同感だったが、何分五歳以前のことでほとんど覚えていない。イールはライムにあまり腹の内を見せないのだが、子供は好きであるらしく、特に佐助を可愛がってのこの旅仕度だった。
「魔竜を殺すのが一番の責務、と言われて育ったけど。小さいリンガは、そんな危ないような子じゃなかった」
 世界樹との関わりで、イールは小さい頃から妖精のリンティに会っていたのだと知る。この一年はあんなにリンティの近くにいたライムを、知らなかったのは不思議であるが。

 リンティが前にいなくなって、人魚のユーファに出会った時、紅い髪の妖精を最初は知っている素振りだった。「白夜」が封印された影響か、ユーファはすっかりリンティのことを思い出していた。
 西につくまで長い船旅の中、武丸と佐助は二人して船酔いで倒れていた。腰から下が魚であるユーファは、一人では船内を上手く移動できないので、抱っこ係になったライムだった。
「リトル・ティンクは有名な光妖精だよ! 魔竜だったなんて聞いたこともないけどなあ?」

 北の海は寒さが厳しく、適応するために巨大化した魔物が多いらしい。話すそばから背後に大王蛸が現れたりするので、落雷であっさり片付けるライムにユーファは信頼しきった眼差しを向けてくる。
「ラーの雷って、ほんとに便利~!」
「……私はどっちかというと、剣が強くなりたいんだけど」
「えー、今でも十分なのに? リトル・ティンクも、ロッドを剣みたいに振り回す妖精だって聞いた。ラーの妹だったのかあ……確かに二人共、きらきらな光の主だもんね?」
 ライムの雷についてはともかく、リンティが光を使うところは、回復魔法以外であまり見たことがなかった。強い光の「力」を持った者は、一般的な妖や多数派である闇の者に負担をかけるというが、ユーファは〝影〟なので光のそばにいても辛くない、と、ライムをにこにこと慕ってくる。

「〝影〟……って?」
「光と闇の合いの子。純粋な光とか闇のヒトはそうそういないけど、普通は生まれた種族でみんなどっちかに偏る。竜とか人魚みたいな水辺の化生は、本来闇が多いんだよねー」
 それでもライムは光を発する。蒼竜がそもそも稀な血筋で、天の竜と言われる所以らしい。
「火竜と飛竜の違いもそこかな? 地上の獣で重~い飛竜は闇で、翼がなくても当たり前に飛んでる火竜はほとんど光。竜族……龍神に近い竜人(りゅうじん)の中でも、羽がなくても飛べる天の竜、火の竜、風の竜が、空を本拠とする光なんだって。ユゥは闇の人魚だけど、内緒だけど、ユゥは火が使えるんだよ」

 ユーファはそれを、ライムだから教えた、と慌てて付け加えた。
 光と闇を、どちらも強く体現する〝影〟。それは本来、光の者より更に忌まれる在り方だという。
 少し前のイールの言葉を思い出した。

――何の『力』をも簒奪する影のもの。

「……リンティは影のものだって、そう言えばイールが言ってた」
「うん、そうだと思うよ。妖精は基本闇のはずなのに、光を使うヒトなんだもん」
 本来持ち難い「力」を示すものは、どの地、どの種族の中でも異端と疎まれる。特に〝影〟の者はその性質上、光も闇も強くどちらも消されないものであるため、恐れられるのは当然の帰結かもしれない。
「ユゥ、それで嫌われてきたからさ。ラーに会えてほんとに良かったなあ」
 ユーファがライムを巻き込んで家出をした気持ちが、今頃少し理解できた。妖精としてのリンティに出会う前のライムは、仲間や家族はそもそもおらず、騎士道を教える厳しい師だけが在ったから、この世はそんなものだと思っていた。誰に嫌われても気にしなかったのは、そもそも誰にも期待していなかったから。

 リンティのことを昔まで思い出した今は、失ったものへの痛み、本当は知っていた温かさが徐々に体を侵していくようだった。
「……そうだね。もうほとんど覚えてないけど……母さんは強かった、と思う」
 だから誰も、助けてくれなかった。
 突然実の娘が〝魔竜〟と呼ばれるような状態に陥り、夫を失い、傷付いて臥せっていても、周囲は容赦なく魔竜の討伐に来た。
 それは正しいこと、と。切り裂かれるような心の中でも、母は自ら殺されに出た魔竜を、守りたくても助けなかった。
「……思い出した。あの時、本当は、私……――」

 よってたかって、幼い少女に激しい「力」を向けた大人達。それは確かに、少女が本当に災禍なら仕方ないのかもしれない。
 けれどいったい、誰が決めることができるのだろう。誰かがこの世の、(わざわい)でしかないものであると。
 「白夜」もフィーを殺さなければ、ライムにとっては災いではなかった。「白夜」はライムの記憶を、辛いことしか奪っていない。リンティをただ我侭な妖精として、守ると決めた山奥の生活は楽しかった。リンティという存在を大事に思う心までは、リンティがライムの元から去っても「白夜」は消さなかった。

「本当は、私……母さんもみんなも、許せなかった」

 魔竜として殺されたリンティを、ライムの竜の眼で助けてくれたのは「白夜」だった。フィーや世界樹といった、リンティを守る側の記憶は無理に封じていない。
 何か企みがあったのだろう。「白夜」が封印された今となっては、尋ねる術もない。〝小天地〟の封印は最低千年は続き、かけた力が強いほど長く封印されるらしい。限られた空間に強い「力」を施す〝小天地〟は、本質的には時間を止める禁忌と聞いた。昔は長の伯父が管理していたが、母もその宝を使える逆鱗を持つ竜だったのだ。

 竜には宝がある。ヒト型をとる竜人であれば、誰もが持っているはずの「竜の眼」。そして〝小天地〟のような代々受け継がれてきた珠玉も、竜の王者の宝だとフィーに教えられた。武丸や佐助の里に伝わる、仮面の形に物質化された「逆鱗」も。

――イール様も宝を使わないと、さすがにそこまで簡単に『力』は出せません。

 〝小天地〟は簡単に言えば、強大な自然の脅威を持った竜を、小さな珠玉に丸め込んだくらい密度の濃い「力」で、そういった竜の遺産を竜珠と呼ぶ。竜珠は受け継ぐ者がいなくなれば、無理やり圧縮された「力」が自然に還って消える。ライムの伯父の子孫であるイールが受け継いだ〝小天地〟と、火竜の継ぐ〝流星火〟くらいしか現存が確認されていないそうだった。

 これまでライムが戦ったことがあるのは、せいぜい山賊や人間の軍団、武丸達を狙う刺客や海にも山にもいる魔物くらいだ。最早ほとんど滅んでいる竜種が、他の化け物よりどれくらい脅威であるのか正直ぴんと来ていない。
 そろそろ竜宮を探してひと泳ぎしてくる! というユーファを海に降ろして、一つしかない船室兼操舵室に入ると、相変わらず壁際の長椅子でへばっている武丸と佐助と、彼らとはすっかり打ち解けたイールが羅針盤と睨めっこをしていた。

 げっそりとした顔付きの武丸が、それでもイールに駄々をこねている。
「やだ……もう、魚、やだ……肉なら吐かない、肉か卵、食べたい……」
 まだ物が食べられる武丸は良い方で、佐助は始終、微熱を出してイールに看護されている。光の強いライムが近付くと酷くなると言うので、イールもライムの伯父の子孫で光なのでは? と尋ねたことがあった。
「アタシは〝小天地〟を使う訓練こそ受けたけど、本来の『力』は闇の方なの。血筋があるから使えてるだけ」
 この船をずっと西へ向けているのは、イールの〝蒼い風〟だ。蒼も風も、光の側って誰か言ってなかったっけ、と余計に首を傾げた。
 イールが風を起こす「力」は、風竜のように空という場に働きかけるのではないらしい。詳しくは教えてくれないが、蒼竜の末裔でも闇の者であるイールは佐助の負担にならない。ライムは武丸を看ろ、と役割分担されてしまった。

 そうして月が一回りして、やっと真円に近くなったところで。一見子供ばかりの拙い旅は、幻の大陸でライムが重い石を見つけて、(いかり)を下ろした時から運命の歯車が軋み始める。

 新たな結界が張ってあるという竜宮には、ライム達の船は難なく揚がることができた。着いたらどう動くかは、道中であらかじめイールに頼み込んであった。
「絶対、リンティは連れて帰るから。イールは武丸達とユーファと、船を守って」
 長年封印されていた大陸とはいえ、どんな不測の出来事や生存者の来襲があるかがわからない。一人で隠れてリンティを探したいライムに、陸では思うように動けないユーファは頷き、イールも大筋としては賛成を示したが、武丸と佐助はついていく! と言って聞かなかった。
「アンタ達には帰りの食糧を探す仕事もあるでしょ。真水のある所を見つけたら雷を落とすから、そこだけは来てもいいけど、他は駄目」

 まだ文句を言っている二人を後ろに、イールが素っ気ない顔で確認に来た。
「で、いつまで待てばいいのさ? 竜の足なら、竜宮は二日で回れると聞いた。蒼竜の城なら北西で半日程度って」
 セティとフラムから、かつての竜宮の地理はライムも聞いている。ライム達が住んでいた蒼竜の城が、魔竜の隠れ家の疑いが濃厚だとも。
「じゃ、ひとまず三日ちょうだい。帰らなかったら探しに来て」
 特に根拠のある日数ではない。食糧確保に最低それくらいかかるだろう、と思っただけだ。
 上陸した海岸は、おそらく北東。まず北西の海岸近くにある蒼竜の城に行き、そこにリンティがいなければ南下し、菱形という大陸の南西に行く。西と南の気配を遠目に探りながら、海に突き当たれば東に向かい、最終的には船まで帰る手筈であるが、本当にリンティがこの大陸にいるなら、リンティからライムの元に現れる気がしてならなかった。竜宮一周の旅はない、と確信していた。

 だからまさか、紅い妖精がその裏をかく暴挙に出るとは、発想することすらできなかった。
 半時で往路に水場を見つけ、雷で船の方に合図した後、蒼竜の城をまっすぐ探しに向かったライムに構わず。〝魔竜〟が自ら、()び込んだ侵入者を殺戮に向かうことなど。


 竜宮は、孤島のイメージよりは大きく、大陸というには少し小さいらしい。菱形の東西南北の頂点に、地水火風の王者が城をかまえたという。それぞれの「力」が最も強められ、また子孫を授かり易い神域だから、と。
 本来、竜宮に蒼竜を強める領域はない、と言われた。正式には天竜と呼ばれる蒼い竜は、ユーファも言ったように珍しい光側で、東の風竜と南の火竜も光、北の水竜と東の地竜は一応闇だという。

 しかしそれらの竜の分布は、南西の赤竜に比べて純度の落ちる火竜が最も火の強い南の地を奪ったなど、竜宮の歴史そのものでもある。縁ある土地を持たない天の蒼竜が、何故北西に城を持っていたのかも。
 竜宮の地形は、東西南北が山で、中央が湖、そこから山間の四方に大きな川が海まで流れる。遠回りにはなるが、川を探して湖まで辿り、北西へ出る大河を湖周囲で見つけることが、方位を得る確実な方法と教えられた。
 途中には森も小山も、紛らわしい泉もある。正しい道を行けているかは自信がなかった。あとは太陽の位置を見るくらいだ。リンティにもらった水用佩袋と武丸達お勧めの深靴を駆使して、水分補給だけでライムはどんどん足を進めた。

 そうしてやっと、蒼竜の城に続くと思われる北西向きの川を見つけて、かなり海岸近くまで来ているだろう時だった。
 最初に着いた北東の浜で、東山の麓に見えた森とほとんど同じ、背の低めな変わった木の多い小森に出くわした。夜になってしまったので、ここに入ると道を見失いそう、と諦めて休息に入る。落ち葉を集めて簡単な寝床を作った。川が近いので、石の多い地面はかなり寝難い。途中で猛獣でもいれば毛皮をもらおうと思っていたが、鳥以外の動物はほとんど見られなかった。封印されざるを得なかった滅びた地、という話がしっくりきてしまう。

 竜宮が封印されたのは、ライムが風の大陸に隠され、母が魔竜である娘を討伐隊に差し出した後のことだ。そこからどうしてリンティも世界樹の元で妖精となったか、経緯はほとんど聴けていない。セティはうやむやに、「姉さんは結局、兄さんだけ説得して竜宮を封じて、封印した私には何も教えんかってん」と言った。
 家族のいた蒼竜の長は、竜宮が封印される前に地の大陸に移住した。その子孫がイールだ。セティは同年代のフラムと共に、後の世の魔竜のために封印された。それは無理矢理と言ってよく、最終的に世界樹にリンティを託した母を追ったセティ達が、たまたま封印対象になったらしい。その恨みは二人共から感じ、それ以上の話はきけなかった。誰より早く封印されたライムは、何もしてこなかったのも同じなのだから。

 鎧越しでも背中が痛いので横向きになり、地面との接着面を少しでも減らした直後のことだった。
「それは、違うわ?」
 突然響いてきた声。がばっと起き上がると、すぐ先に見える森の入り口に、とても有り得ない人影の蒼い姿があった。
「――!?」

 母、さん、と。声にならない声で、ライムは上半身を起こしたまま凍りついた。
 イールのように見た目が若く、蒼い髪と青い空の目。武丸や佐助と少し似ている和装。ふわ、と長い髪を夜に溶け込ませるように(ひるがえ)した。
 ただ一声だけかけた人影は、そうしてすぐに背中を向けて、森に入ってしまった。
「――待って!」
 こんな宵闇に、誘い込まれてはいけない。わかっていても、ディレスでもらった剣を掴み、記憶の中の母と同じ相手を追わないことはできなかった。
 森に入ると、草むらの多い鬱蒼とした暗い中で、月明かりでもほのかに輝く白い何かが、沢山あちこちを飛び跳ねていた。
「……これ――」

 人間が時々遊んでいた、手毬のようなサイズの何か。草むらから飛び出しては草むらに消え、大量の白がライムを誘うように、奥へ奥へと向かっていく。
 うっすら浮かぶ記憶の糸を手繰りながら、ライムはそのまま白い何か達についていった。何故ならそれらは、小さな頃のライムとリンティが、唯一友達としてよく遊んだ何かだった。
「……生き残ってたんだ……〝ぽぴゅーん〟……」

 淡く光る白い何かを、追い掛けながらやっと一匹捕まえる。手元できゅっと縮まるそれは、猫の頭だけをもさもさにして、小さな手足と長く細い鈎爪つきの尾が生えているような丸い生き物。
 ほとんど動物の残っていない竜宮で、これだけがこんなに沢山増えているのは、まがりなりにも「神獣」だからだろう。食べることも毛皮にすることにも向かない小動物は、たった一つの特技、「幻を創る力」を持った神獣だった。
 だから先刻の母の姿は、ここにいる神獣達が創った幻。途中でそこまで思い至ったが、そうして小さい頃に何度も幻を創り、ライム達と遊んでくれた神獣が、何かを伝えようとしているとライムは感じた。月の下では最も濃い幻想を創れる神獣達は、あえて夜の森にライムを連れ出したのだと。

 神獣達を追いかけ続け、気付けば森を越え終えていた。月光の差す出口が見えて、その先で砂地にそびえるものに、ライムは思わず立ち止まった。
「あ……蒼竜、の、城――……」
 神獣達は、川を行くより最短ルートを教えに来てくれた。千年以上たっているはずなのに、ライムのことを蒼竜と認めた。
 案内だけでなく城に続く平地の中で、ライムに横顔を向けて立っている人影が最後にあった。
「……母さん……」
 それは神獣達が、言葉を発するために創った幻。そしておそらく、過去の母を知る神獣達の言伝。

 幻は母だけではなかった。夜中の城前で、広い砂地に描かれた魔法陣の上、両腕と頭の後ろに三つ辻の板を括りつけられ、肩から上だけ磔の幼い少女が座り込んでいた。
「リンティ……!」
 これも幻。しかしおそらく、この場で過去に起こったことなのだろう。母の幻は血がにじむほど両手を握りしめながら、降り注ぐ氷刃に襲われる少女を助けはしない。
 討伐隊に魔竜を差し出した母。これはそうして、執行された処刑。この地は冷たい「力」の強い土地で、またかつて、魔竜の顕れた魔の領域ともされた。だから魔に対抗する天の竜が、城を置いて魔を監視していたのだとも。

 あっという間に、数多の氷の刃が幼い魔竜を滅多刺しにした。少女は抵抗しなかった。横たわった血まみれの亡骸に、母の後ろにいたフラム似の赤毛の男が、蛇のような炎を投げる。男は大分年配の姿で、フラムの血縁に見えた。
 処刑した少女を、その場で火葬しようとした。しかしこの光景の全てが、母の最大の間違いそのものだったのだ。

 それでなくても吐きそうな幻に、ライムはまた言葉を失った。
 炎に包まれて全身を貫く氷が溶けた少女が、磔の凸字板を背負って立ち上がったのだ。燃えて強度を失くした板を中央で折って、籠手のように板の括られる右手を掲げた。
 冷たい真っ白な氷刃が四方に放たれた。次の瞬間、炎も消して血まみれの体も治りつつある少女が、額に青黒い蛇のような紋様を浮かべて、右眼だけを紅く光らせ、幼いながらに妖しい顔で(くら)く笑った。

――ありがとう。これでもう、水も火も、氷もわたしのもの。

 そこから竜宮全体が紅い火に包まれた。一瞬だけの幻の業火で、少女と共に消えていったが、暗い夜に戻った中で母の姿をした幻は、ようやくライムの方を向いて語った。
「……魔竜は、殺せない。そのことに気が付くのが、遅過ぎました」
「――」
「『魔』とは、他者の命を力の糧とできる魔性の権化。自然そのものを命とする竜種が、極限の状況で魔性を得た場合、同じ自然である竜種の『力』は魔竜の糧になってしまうだけ。特に影のものであるあの子は、光も闇も構わず取り込み、自らの『力』としてしまえる……私達の(あやま)ちの集大成でした」
「私達の……過ち?」
 この母の言葉は、ライムに向けたものと受け取って良いのか。それとも神獣達が、誰かにそう話した母を知っているのか、悩みながらライムは尋ねる。

「私の最大の間違い。それは……光の者でありながら闇の者を愛し、そして、生まれたあなた達を愛してしまったこと」
「――」
 これが人間からであれば、あまり耳にはしない言葉。スーリィは養子の家族であれどライムを大切に鍛え、生け贄のマリエラを両親は逃し、武丸と佐助は互いを守ろうとしてきた。当たり前に。
 家族を愛することを「最大の間違い」という。それが高潔な竜たろうとする理とはわかったが、ライムは全く頷けないまま、幻の言葉の続きを待った。
「あなた達は、どちらも強大な〝影〟。私はあなたを守るなら、リンガも守らなければいけなかった。リンガを殺すなら、私は……――」

 その先に続く、言葉にできない思いはわかった。そもそもライムが封印される前、最初にリンティが殺された時、リンティを助けたのはライムだ。
 今もライムは、〝魔竜〟を殺す気はとんとない。確かに先刻見た紅い業火は、かつて本当に竜宮を焼き、多くの竜を殺したことがわかる。伯父が母の説得に応えて竜宮を出たのも、住めない場所になったからだろう。
 母がここに残って竜宮を封印したのは、魔竜を閉じ込める気だったはずだ。そうでもなければ伯父も説得されない。けれど実際の母は一人だけで閉ざされる竜宮に残り、セティやフラムを封印してまでリンティを世界樹に託した。

 神獣達も、これ以上はもう知らないらしい。母の幻もそこで消えて、母のいた場所にはぽつりと、一匹の神獣と小さな白い物が転がっていた。
「何、これ……笛?」
 拾い上げると、神獣の姿を平らに摸して、目と口の三か所と側面の手足の位置に穴があき、尾から空気を吹き込めるようになっている小物。どうやら神獣達からの贈り物のようで、笛と共にいた神獣がライムの肩に跳び乗ってきた。右だけある鎧の肩当てと首の間に器用に挟まっている。
「一緒に来る気? でもここには、リンティの気配は……」
 蒼竜の城に着いたが、フラム達の予想は外れ、リンティの気配は感じられなかった。隠しているなら見つけることもできないだろう。

 ひとまず最初の予定通り、南に向かう。そう決めたライムの肩に神獣は鎮座し、仕方ないか、とライムは笛に草の蔓を依って巻きつけ、ペンダントにして首にかけた。
 育った地の名残を惜しむ余裕はなかった。さよなら、とだけ、誰にともなく呟いていた。

 その数分後のことだった。砂利道を歩き出したライムの遥か東方、船がある辺りの空に、三つの紅い光の柱が咲いたのは。

 竜宮を丸ごと包み、人世から隔離していた結界が解かれた。
 あくまで中空にのみ施された封印であるので、竜宮の内では外界と同じように時間が進み、術者であるフォイエ・テア・ナーガは、永く続く広範囲な封印の「力」の代償で命を落とした。
 魔竜を外に出さないための封印。そのはずだったのにフォイエが竜宮に残したのは、幼馴染みで風竜の王者の血筋、ミストラル・ホリィ・アニラだけだった。竜宮と同じ時に封印されたので、竜宮の封印が解けた少しあとにミストラルも目覚めることとなった。

 竜宮の東端、風竜の城の内で封印されたミストラルは、目覚めてすぐには動けなかった。竜宮の封印を解いた者は、ミストラルがいると初めからわかっていたようにまっすぐ城に来ていた。
「……本当に、母さんは貴女をここに封じたのね。ミストラル・アニラ」
 竜種の名前は、逆鱗と呼ばれる竜の宝を持つ強者だけが二つ目の名を持つ。一つ目の真の名は親しい者達にのみ、二つ目の名は通称として扱われる。ミストラルを一つ目の名で呼ぶのは、フォイエとその家族、そして火竜の後継ぎであるフラムだけだった。
 自力で寝具も用意できず、長い翠の癖毛を広げる寝台が硬い。足元にはかつて、ミストラルが可愛がった少女が立っていた。親友の娘である紅い髪の少女に、動けなくても必死に声をしぼる。
「……待ってた、わ。リンガ……いいえ、フースィァ」
 少女の額に浮かぶ蛇のような紋様。これも逆鱗の一形態であり、少女の場合、逆鱗を使うと青黒く光り、縦に絡む蛇の菱形が第三の目のように見える。
 逆鱗を持つ者には二つ目の名が与えられる。何故なら逆鱗には本人を守るための心が存在し、その心に与えられる名だ。大きな「力」を持つ竜が幼い頃に暴走することが少ないのは、逆鱗が代わりに制御をするからなのだ。

 触れてはいけない、怒りを呼ぶという逆鱗は龍神からきたイメージであるが、竜種――竜人においてはその理由は逆だ。逆鱗こそが己を御しており、要らぬ介入をすると、ヒト型にして抑えていた「力」が暴発してしまう。
 龍神の方は名の通り神々の系譜の化け物を指し、竜人と近い五大要素の「力」を制御するが、龍神の素体はヒトであり、竜人は自然がヒト型をとったもので、本態は自然の何かであるところが大きく違う。

 親しい仲であるのに、少女を逆鱗、それも後からついた魔竜の名で呼ぶミストラルを、少女は右が紅、左は青の目で無表情に見つめた。

 フォイエの娘である双子達と、ミストラルは名付けから関わっていた。何故ならその双子は生まれてすぐに、碧い父から継いだ「青海波(せいかいは)」の珠の色を変えて、〝影〟の者でも最も脅威とされる「(そら)」の系譜の力を持つ竜と予想されたからだ。
「あなたがいる、ということは……ライムも、封印が解けたのね?」
「……」
 少女が携えている宝剣。そこに填まる珠玉が適合者を取り戻し、竜宮の封印を破れるまで力を戻したのだと、待ち続けた時の到来を悟る。

 竜の珠玉。適合者は一人だが、同じ血筋なら「力」を借りれる。地水火風空の五大要素を司るのが竜種だが、(くう)の珠玉はこれまで顕れたことがなかった。「雲居空(くもいのそら)」と新たに呼ばれた透明の珠は、双子の姉娘、蒼竜の系なのに青の髪を持つブルーライムに適合を示し、妹のリンガにほとんど珠玉を使える力はなかった。リンガは生まれつき竜の眼を持っておらず、額に逆鱗の痕だけがあり、良くて巫女の器で竜の力は姉に継がれたと思われていた。
 ミストラルはそれは違う、と早くからフォイエに伝えていた。フォイエはなかなか信じなかった。何故ならミストラルがそう言う根拠は、天の竜の次に「(そら)」に近い風竜として、特殊な預言の力を授かってのことだったから。

 「空」とは、全てが生まれて還る混沌を天と地に分けたもの。天でもあり地でもあり、「力」としての「空」を(くう)と呼んだ。何の力にでも成り得る力、それが(くう)という五大要素だ。
 (くう)の大元である「(そら)」は、世界の全てを包む故に、「空」の素質者や魔性で「空」を取り込んだ者は、預言や千里眼など世界規模の特殊能力を示す。ミストラルは双子の両方にその芽を視た。そしてその「空」故に、妹の方は魔に染められる未来も。

――あたし……ライムを殺す夢を見るの……。

 ミストラルもまさに、同じ未来を視ていた。まず「青海波」を失ったフォイエの夫が殺され、父を失うショックで妹娘は魔と化する。「空」の素質を持つ妹娘の逆鱗は、魔にすらなれてしまったのだ。魔性と〝影〟の素質を以て、危害を加える者達の「力」を奪うことを始めた。
 その危険性を最初に伝えたミストラルを、フォイエは夫が死ぬまで信じなかった。娘の蒼い髪が紅く変わるまでは。
「……ミストラルの言った通り。だから貴女は、わたしを殺さなかった。貴女の力を、わたしが奪ってしまうだけだから」
 青い髪の姉娘は預言の夢を、見ないように逆鱗が引き受けている。だからいつも、凄惨な未来に怯えるのは妹娘だけだった。

 妹娘は、光も闇も取り込める影のものだからこそ、奪う性である魔性を発現してしまった。光と闇とは、そもそも聖魔という二大性質の下位互換だ。
 化け物は生まれた体によって、聖性という「与える性質」か魔性という「奪う性質」か、ただヒトである霊の性を持つ。世界に命の光を放ち、死出の旅路も光で導く天使は「与えるもの」で、ヒトの命や魂を求め、糧とする悪魔は「奪うもの」なのだ。
 光と闇は、聖魔という()の性質でなく、持てる「()」の性質を分けるものだ。外に放ち、何かを動かすことが多い力が光。内に融かし、何かを止めることが多いのが闇。
 心身をつなぐ気、森羅万象の(精神)を司る陰陽にも、能動的な陽と受動的な陰がある。何にせよ、ほとんど似ているものをわざわざ聖魔、陰陽、そして光と闇と分けてあるのは、分けることで互いが存在し得る――「力」と成る「意味」上の都合。

 光と闇は、本来明確な境は持たない。見えない光も、見える闇も存在している。影のものはそもそも「どちらにもなれる」、「空」に非常に近い性質を持っている。
 だから〝魔竜〟は、同じ竜の「力」を奪い、一度憶えた「力」は何でも使える性質を持った。それでもリンガという本人の心が健在であれば、魔の逆鱗に好きにさせることはなかった。
「わたし、これからライムを殺す。その理由は、貴女にならわかるよね?」
「…………」
「あとのことは、お願い。……もしも、さだめが、あの夢のままであるなら」
 逆鱗の蛇を浮かべながら、片眼が魔の紅に染まった少女は、本来の心をまだ残している。魔竜も少女も、理由は違えど同じことを望んだのだ。実の両親が作った因果を、少女は償おうとしている。
 少女の両親、光と闇の竜の(つがい)は元来、竜宮においては禁制だった。竜とはあまりに強大な種で、その〝影〟はどんな化け物になるのか恐れられたからだ。
 フォイエは伝統や預言を重んじない性格だった。愛する者に対してまっすぐで、そのままであれば良かったのに、と遠く呟く。

 やがて少女は城を後にした。ライムが竜宮についた時に、ミストラルが邪魔をしないように、寝台のある部屋に結界をかけて出られなくされてしまった。
 風竜であるミストラルは、風を通じて近い外界なら感じることができるが、この結界を壊せるほどの「力」が戻るにはひと月以上はかかりそうだった。
 そして何とか自身の宝を起動することができるようになった頃に、ライムが竜宮についてしまったのを風で感じ取った。

 竜とは、自然の理を体現するもの。自然界には善も悪もなく、在るがままで噛み合う秩序があり、己が領分への頑なさが予定調和につながる。故意に災いを起こすことや、避けることは少ない。預言の力でも持っていなければ。
 竜人たる竜の眼も「力」も持たなかったリンガは、逆鱗の導きで周囲の「力」を取り込んでいくが、禍を知る預言の力で魔竜を疎んだ。自然な運命に逆らおうとし、願いの頑なさだけは竜種だった。
 魔竜を殺すためであるなら、磔の処刑も自ら受け入れたのだ。だからこれから、ライムのいない間に船に向かう少女は、そこにいるライムの大切な者達を害する。他ならぬライムに、自身を討伐してもらうために。
「でも、それは……リンガ……」
 風が血の匂いを運んできた。まず船の付近の海辺にいた少年二人を、出会って間もなく問答無用に無数の氷の刃で貫いた。少女を迎えに来たという、見知った少年達であるのに。

 少年達が「お守り」を持っていることも魔竜は知っていた。横たわる血まみれの体から取り上げたところで、現代の竜である〝蒼い風〟が駆け付けた。蒼い風はまさか、友達だった紅い妖精がこんな暴挙に出るとは思っておらず、狼狽えている間に魔竜は容赦なく紅い光での砲撃を発する。
 着弾と共に炸裂する光は、空に向かって三筋に反射する。蒼い風は〝小天地〟の棍棒を守りに使い、負傷は避けられているが、竜宮に在る純粋な血統の魔竜に「力」の制御力は圧倒的に劣る。砲撃が続けばいずれ、防げなくなる時が来るはずだった。

「イール。死にたくなければ、言うことをきいて?」
 ぎり、と歯を噛み締める蒼い風に、それとも、と魔竜が妖艶に笑う。
「彼らを死なせたくなければ、かな。あなた、子供には弱いものね」
 魔竜の再来とされた妖精を、かつて見逃してしまった蒼い風。その甘さを嘲笑うように、魔竜はそのまま蒼い風の眼前まで間合いを詰めて、少年達の「お守り」を青い目に散らつかせた。

 外界で何が起こっているかは届いていても、結界に阻まれるミストラルには援護もできない。
 この後、朝陽が上がる頃にライムが北西から必死に戻ってくる。死骸のように放置された武丸と佐助を見て、激しい雷を起こしながら魔竜と対峙する。
 そしてライムは、魔竜に負ける。遠い日、竜の眼を一つ失ってまで助けた妹を、どれだけ焦燥の中であれ殺せるわけがないのだ。そして魔竜に殺されてしまう――それがかつて、少女が見た未来の災禍。

 少女の夢の通りに、夜が明けてしまった。現れたライムは、場の惨状に愕然として、ディレスの曲刀を背から抜くこともできなかった。
「あははっ。バカだね、わたしに雷は効かないって、前からわかってるくせに?」
 雨と間違えるほど、大量の雷が降り注いでいる。魔竜はそれらにびくともしない。そもそも最初に憶えた「双子の力」は、魔竜と成った時に黒い水竜の撃破に使ったほど馴染んでいる。
「リンティ、あんた――」
 ライムは魔竜に敵視される理由がわからない。武丸や佐助を蜂の巣にした残虐さが信じられない。竜の末裔なのでまだ死んでいないが、それでもここから回復できるかは危うい。
 魔竜から放たれる紅い光を、ライムはひたすら避けて回るが、その対応を見越した罠が既に仕掛けられていた。
「――!? イール!?」
 砂浜から森側へ離れた土の上に、〝小天地〟の棍棒の柄で描かれたいくつもの魔法陣。その内一つがライムを捕らえ、魔法陣がライムの動きを止めると、風に乗るイールが森から背後に舞い降り、足場を固定されたライムを羽交い絞めにした。

「ちょっと! 何考えてんのイール! このままじゃ武丸達が――」
「……ごめんなさい。こうすれば全部、解決するの」
 震える声は本気だった。イールは出会った頃から、ライムに対して敵意を見せた。幼い紅い妖精に対しては躊躇った使命を。
 腕を振りほどこうとするライムだったが、イールに直にかけられる封印の「力」が腰から下を凍りつかせる。近くに追いついてきた魔竜が、くすくす笑いながら武丸と佐助の「お守り」の小袋を掲げた。
「イールは悪くないよ。二人を助けるためだもの。それに……」
 息をのむライムの、鎧の胸当てに指を当てる。紅い光をまとう右手は、鎧ごとライムを貫く「力」を充填させていく。
「こうしないと、魔竜は殺せないの。イールはそれを、知っていただけ」

 第三の目のように見える紋様と、呼応する紅い右眼が光る魔竜の間近で、妹の心を見つけられないライムが顔を歪める。魔竜が左手で持った宝剣の柄の珠を今度は見せた。透明の珠玉をライムの額に当てると、次の瞬間、ライムが愕然とする行動に出た。
「だって、わたしは、あたしにも殺せないんだから」
 ライムの胸に当てていた手を、くるりと自分の紅い横頭に向けた。そのまま込めていた「力」を弾丸のように放ち、どろりとした血が飛び散っていった。

 自身を貫いた瞬間、魔竜はぐらりと倒れかけた。ぐっと目を閉じたイールの前で途中で持ち直すと、いくらか後ずさってから再び笑った。
「ほら。わたし、この珠がある限りは、不死身なんだよね?」
 魔竜の血にまみれた紅い右眼が青い光を湛える。同時に宝剣の珠玉も煌めきを増す。やがて傷はすぐに消えていった。
「ライムが悪いんだよ。ライムが竜の眼を、あたしに分けたりするから。この珠はライムしか助けない、ライムの命そのものなのに」
 今まで幾度も、魔竜は殺されてきた。竜の眼を使われる前の、一番初めの討伐を除いて、殺される都度に体が治り、相手の「力」を憶えることが繰り返された。
「だから、ライムが直接殺してくれたら、わたしは終わる。わたしを殺せるのはライムだけで――」

 青い目を見開いたまま、何も言えないライムに魔竜が笑う。目を伏せるイールも以前、魔竜だけを殺しても無駄、と幼い妖精に教えられたのだ。
「殺してくれないなら、あたしがライムを殺すよ。魔竜(わたし)を殺すために、一緒に地獄に行こう?」
 できればライムに魔竜を殺してほしい。それができないのなら、ライムを殺して魔竜を殺せる状態にしなければならない。けれど妖精の少女は生きてほしい、そうイールは願ってしまった。
 バカね、と。魔竜がくすり、と(わら)っていることも知らずに。

「イール、お疲れ様。どうか気を付けて、竜宮を出てね?」
 再び武丸達の「お守り」を取り出すと、その場で魔竜は小袋を四散させた。武丸と佐助をこの場で唯一、紅い妖精以外が回復させられる可能性を砕いた。
「そんな、リンガ――!」
 イールが青ざめ、ライムを離して飛び散った「お守り」だったものを掴もうとする。
 魔法陣上にいるまま動けないライムは、次の瞬間、魔竜の掌底に紅い光の矢を見ていた。必滅の「力」がライムに向けられている。

 少女は本気だ、と風が語る。ミストラルは森しか見えない窓から見下ろす。千人単位でヒトを殺した魔竜を止めるために、手段を選ぶ甘えを持てた日々は終わった。
 ライム達に殺意を持たせなければいけない。だから武丸達を殺しに行った。ライムに殺してもらいたい少女の意志だ。
 逆鱗たる魔竜は己を守りたい。ライムを殺して本来の少女の心が死んでも、不死の状態を失うだけのこと。竜宮に在る今の魔竜を殺せる者はライム以外にそうそうおらず、殺しておきたい。
 彼女達の母は迷い続けた。封じたライムを起こさない限り、魔竜を滅ぼす方法はないのだから。

 それが、少女の目に映る夢の終わりだった。ここまでしても、ライムは大事な妹を殺してくれない。ここで負ける、とわかっている。
 生まれて来てはいけなかった。ライムを巻き込むことしか滅びる方法がないのは、ギリギリまで認めたくなかった。

 今はまだ、「リンティ」が残っている。この心が薄れてしまえば、もう魔竜を抑える(くさび)はなくなる。竜宮を滅ぼした魔竜が暴れ始める。
 世界中の空を襲う、紅い黄昏の夢があった。ライムを殺す日が真に訪れるなら、紅い空もいつかに起こってしまう。せめて魔竜を、殺せる禍にしておかなければいけない。

「じゃあね。ばいばい、ライム」

 魔法陣に捕まり動けないライムに、泣き笑う少女が終わりを告げた。
 何度も見た夢の通りに、先端が三枚の花のような紅い光が(ほとばし)った。
 これで終わり。少女が紅い涙を流して、倒れていくライムの姿を見届けようとした時のことだった。

「……それさ。そこの珠玉が私の命で、リンティもそれで回復するなら、私だって簡単には死ねないんじゃないの」

 魔法陣の上で光に貫かれた、ライムの姿が全て消えた。え? と少女は、呼吸を止める。
 ライムはライムで、蒼竜の城から全速力で走ってきて、何度か道を間違えて時間がかかってしまった。やっと辿り着いた海辺で息を切らしながら、最初は唖然としていた。何故ならそこでは、ライムの姿をした者がイールに羽交い絞めにされていたのだから。

 呼吸を立て直している間に武丸と佐助の「お守り」が潰された。痛恨の事態に激しく顔を歪めたものの、泣いている魔竜を見ると衝撃が薄れたようだった。言葉にできない、そんな悲愴な顔色をしている。
 それらの光景を追ったミストラルも呆然とした。現れたライムの肩に竜宮特有の神獣がいるので、先程殺されていったライムは、大量の雷光も含めて神獣が創った幻だとやっと思い当たる。しかし幻のライムをイールは拘束できるのだろうか。
 首に白い小さな笛をかけたライム。これはミストラルが知らなかったもの。
 だから魔竜の少女も放心している。終わりの夢にはまだ続きがあったのだから。

 その神獣は幻を創る。それも日に一度だけ、月の下で神体の笛を適合者が吹けば、「見えて触れる幻」を創り出せる異端さを持つ。
 首にかける笛をライムが試しに、紅い光柱を見る前に吹いてみたことは誰も知らない。その笛の適合者となれるのは、竜の血をひく女の子供だけだと、後の世で笛を継ぐ者が見つけることも。

 事態を理解できない魔竜が、固まったまま紅い両目に変わる。
 ライムはすぐに行動に出た。いつもライムの見切りが早過ぎる、と武丸達が嘆いていたように。
「悪いのは、その珠でしょうが――!」
 肩から神獣が跳び去っていた。ライムの全身から発した雷が、一度空に上がって一筋に凝縮し、軌道を曲げて宝剣に填まる珠玉に全ての光を叩きつけた。
 あまりの「力」に魔竜が吹っ飛ばされ、地面に落ちた宝剣に雷夢が更に追撃を加えた。焼け屑の「お守り」を握りしめていたイールや、離れて座り込んだ魔竜も、幾度もの落雷を受けて砕ける珠玉を目の当たりにした。

「――」

 それは竜種の誰一人、起こしたことがないような無策だった。
 かつてライムの父が「青海波」を失った時、海を司る「力」は黒い水竜が引き継いだが、水竜の持つ珠玉「極夜渦(きょくやうず)」を壊した者はいる。それが魔竜となったリンガで、だからこそほとんどの竜に恐れられた。
 命と言われる珠玉を失くした水竜は、父の力を持ったまま徐々に弱り、大気まで巻き込む海の渦となって自然に回帰した。水竜一人の二つの竜の眼では、依り代となる珠玉なしに二つの竜の「力」を抱え切れなかったのだ。
 要するに竜珠は、王者となるほど強い「力」を、ヒトの身以外に貯め置ける宝。それを自ら壊す者など、竜種の中にはこれまで存在していなかった。

 致命的に傷付く度に、竜珠から魔竜は「力」を引き出してきた。それなら魔竜を殺したい少女は、珠玉を壊せば良かったのは言われた通りだ。
 けれどそれは、ライムを殺すこととほとんど同義。少女が恐れた通り、珠玉が砕け散った瞬間、ライムは雷を放った体勢のまま、ずっと持っていた剣を取り落した。光の消えた青の目には、もう誰のことも映っていなかった。

 焼け焦げた服と、融けかけた簡素な鎧。ばち、と空気を揺らす火花の残滓。
 それらを残して、先程の幻と同じように――ライムの姿は、まるで空に戻るように、自然に消えていったのだった。

「……あ……」

 砂に散らばる、ばらばらの珠玉。静かにすっと、両目が青く戻っていく紅い髪の少女。
 同じように消えていった、父の姿を少女は思い出した。あの時も水竜の「極夜渦」が壊れ、少女の元に駆けてきたイールのような、必死な顔の母に取り押さえられた。
 リンガ、と。とっくに失くした名前を呼ばれ、その頃の心までが、たちまち戻ってきたかのように。

「いやあああああああ……!!!」

 たった一夜で、魔竜がこの世から姿を消した。ミストラルはイールから、事の顛末を聞くことになった。
 ライムが消えてしまった後、部屋にかかった結界が途絶え、城から出られたミストラルも急いで海岸に行った。竜宮の唯一の残存者として、自身の〝無常風(むじょうかぜ)〟を誂える短剣をイールに見せた。
 場では、砕け散った珠玉があったところに、白い翼に包まれる大きな卵が転がっていた。
「リンガ、ライムは死なせない、って、竜珠の欠片を無理やり取り込んだら卵に戻ったんです。アタシ、これ、壊せばいいんだろうけど……でも、どうしても、できなくって……」
 イールは卵を、封印するに留めた。少なくとも千年は孵らぬように、と。

 ミストラルが来た時、既に少年二人の内で、佐助の傷は致命傷から重傷に癒されていた。イールが己の竜の眼を佐助に使ったのだ。同じ闇属性の竜であるので何とか一命は取り留めたが、回復し切ることはできていない。
 ミストラルの前から去る前に、あとのことは、お願い。そう言った少女を思い出した。
「……あなたがそこまでしたなら、私も、助けてあげなきゃね」
 もう一人、光の側である武丸に、同じ光の竜であるミストラルが竜の眼を使う。これでイールもミストラルも、竜の眼を一つ失った。
 竜の眼とは、本来その竜自身の命の保険になるものだ。自然の「力」をヒトに変えて、ヒト型であることを維持するもの。竜珠につながりがあれば何度でも傷を癒し、竜珠がなくても一度であれば、眼の一つを代償に死地からの回復もできる宝。

 ライムが竜珠を失ってすぐ消えたのは、竜の眼が一つだけだからだろう。逆鱗もないライムは、竜珠からの「力」の逆流に堪えられなかった。
「ここが竜宮だからか、佐助君達が何とか、死なないで助かりました……二人に竜の眼が、発現しかかってます」
「……まあ」
 それならイールが、眼を渡したことは無駄ではない。イールはこの先、とりあえず封じた魔竜の卵をどう処断するか、できれば少年達に託したいと言った。
 今代で魔竜に害されたのは、結局「白夜」と少年達だけであるからだ。

 陽が昇り、海で魚を獲っていたユーファが戻ってきた。ライムとリンティのことをイールが伝えると、ディレスに帰りつくまでずっと船で卵を抱きしめて泣いていた。
 イールについて竜宮を出たミストラルは、ディレスでまさかのフラムに再会し、二人で永住することを決めた。
 魔竜の悪夢は終わった。少なくとも、この時代においては。

➺結尾

➺結尾

 
 封印の解かれてしまった竜宮を、どの陣営が今後管理するのか。初めは揉めると予想された。しかし魔竜が新たに張った広い結界が、まだ残っていることが確認された。
 魔竜の卵を殺さないで、と願った武丸の言い分が通ったのは、結界の維持に必要と判断されたことが大きい。それほど竜宮は竜のように強い「力」を持つ化け物が生まれやすい土地で、在るだけで火種になってしまう。このまま人跡未踏である方が目先の災いは減る、と、竜種の末裔の中で決が下されていた。

 そして再び魔竜の卵を預かった世界樹は、ディレスの南西にある妖精の森で、武丸と佐助に謁見を許す稀少事態になった。
 森の最奥、幹だけでも小川ほどの幅があり、高みの樹冠は見えないだけで天にも届くという世界樹の前で、分身がその意思を伝える。
「佐助君には、前に会ったの。てぃな・くえすとを、最年少で最速クリアしたギネス持ちぞ。よく覚えとる」
「何だよ、それ……おれの弟に何させたんだよ」
 白く硬い翼に守られた卵を、武丸はずっと、大事に抱えている。ここにはライムとリンティがいる、そんな願いを小利口な佐助も否定せずに、卵を守る兄を守るようについてきてくれた。
 武丸と佐助が呼ばれたのは、卵を届ける役目もあるが、二人が口にした竜宮での出来事が世界樹の関心を惹いたからだった。
「そしてぬし達。紫竜(しりゅう)にあった、と言ったな?」
「うん。おれ達はまだここに来るな、帰れ、って言われた」
「キレイなヒトだったね。ぼく達みたいな恰好してた」
 武丸と佐助は、魔竜に半死にされた後に、気付けば灰色の荒野にいた。わけがわからず二人でさまよっていると、男とも女ともつかない和装に大鎌を持ち、月白(げっぱく)色の短い髪で青い眼の自称番人が、「まだ君達は帰れる」と告げたと言うのだ。

 どうしよう? と二人で首を傾げていると、何処からか鈴の音がした。誰かが(うた)うような音色でもあり、聴こえる方向に行くと目が覚め、船に乗せられていたのだった。
「それは紫竜、の置き土産ぞ。本人はもうヒトとなったが、かつてはわらわと共に研究者をしておってな。ぬし達は竜宮にて死に体となったことで、生きながらに竜の墓場に足を踏み入れたのじゃ」
 突然世界樹が真面目な空気になった。武丸と佐助も背筋を何となく正す。
「なので言おう。ぬし達、再び、竜の墓場に行くがよい」
「え!?」
「?」
「『空』の申し子と魔竜を守るのであろう? さればわらわに、卵を預けただけでは心許ない」

 そこから分身に聞かされたことは、佐助はともかく武丸が再び竜宮行きを頷く、彼らの運命の分かれ道だった。
 武丸が行くなら、佐助もついてくる。もう人の世での暮らしはできない。半ば以上、死と同じ選択に対し、行く年齢はもう少し待てと言われた。これから妖精の森で自身を鍛え、竜の墓場の番人になれる強さを得てから、と。
「にしても……『空』の申し子って何? ライムさんのこと?」
「ああ、ぬし達は知らなんだか? まあ良い、詮無きことじゃ。さて、しばらくぬし達の面倒をみてやる以上、ぬし達にはわしの身の回りの世話をしてもらわんとな?」
「何でだよ!? 修行は!?」
「てぃな、弱ってるんだよ、にいちゃん」
 訳知り顔で落ち着いて言う佐助に、うぐぐ、と武丸が思わず卵を強く抱える。

「とりあえず西の双子峰に帰ろうと思ってな。ぬし達にもなじみがある山じゃろう」
「あ……ライムさんの山の、近く……」
 そこはかつて、彼らがライムに出会った山奥の北で、佐助がリンティに攫われたり、一番面倒だった刺客に襲われたり、そして今もまだライムの育ての親が住んでいるはずの近縁だ。
 竜宮に近く、ライムが封印された湖のある山なので、世界樹の分身は居を構えていたという。そんなに近くにしばらく住むなら、ライムの育て親には悲報を伝えなければならない。どうしても武丸は面持が曇る。
 かつて「戦争に行きたくないから逃げてきた」と言った武丸に、「君達だけが逃げてくるなんて悪くは思わないの?」とその相手は言った。優しくかつ厳しい人で、ライムを本当に大事にしていた。

 兄が行くなら、と何処でもついてくる佐助は、幼いわりには根性が据わっている。兄しか血縁がいないからか、見た目よりずっと武丸を心配している。
 自分だけが弱いのか、と武丸は悩み続けてきた。ライムは「逃げたい奴は勝手に逃げればいい」と、武丸にいつも何の期待もしていなかった。

――おれ、佐助に全部押し付ける気だったんだ。

 あの時ライムは、珍しく笑った。いつになく嬉しそうだった青の目で。

 忍の里では武丸は、竜種の逆鱗が宿る仮面を受け継ぐ第一候補だった。破竜(はりゅう)と呼ばれる混血故の、原色ではない緑の逆鱗。地面を通じて山々の木々を一斉に動かせ、地層を軽く揺らすこともできるために、空から見れば緑の竜に見える「力」。主に地竜と土竜の子孫だと言い、闇の属性の方が強い血筋であるのに、木々との協調に最も親和性を見せたのが武丸だった。

 世界樹の分身と佐助がお茶をしに帰ってしまい、魔竜の卵を抱きかかえたまま、武丸は一人、視界を占拠するほど巨大な世界樹を見上げた。
 武丸であれば、世界樹に卵を還し、眠れる心を夜の光に隠せると分身が言った。世界樹とは存在自体は混沌の闇だが、内を流れる星の数の命は光で、光と闇を換える最大の機構が世界樹なのだと。
「……おれだからできる、って、本当かな?」
 おそるおそる、世界樹の幹に右手を当てる。左手に持った卵が、ずしんと重さを伝えてくる。
 これまで感じたことがないほど、世界樹の周囲は空気が澄み切っている。呼吸をすると胸がほどよく冷たくなって、初夏の木漏れ日からはどうしてか雨の匂いがした。

 植物とは、世界で唯一聖性を与えられた生き物、と世界樹の分身が言った。
 魔性の化け物は数多に存在している。対して聖性の化け物は天使しかなく、「神」は闇の側に属する化生だ。聖性を併せ持つ「神」も存在はするが、完全に聖なるものとは天上の(しゅ)だと言われる。
 一般的な植物は、水と光と土だけで動物が生きられる環境を作る。植物にも痛みはあるのに、危害を加えられても自ら抵抗はしない。
「おれにはそこまで、できなかったけど……」
 戦う力を、持たないわけではなかった。ただできるだけ、戦いたくなかった。
 誰にも雷を落としたくない、と自分を抑えるライムに武丸は憧れた。見た目は無愛想で怖いものの、戦おうとしない武丸を当たり前のように受け入れたのはライムだけだった。


 佐助が武丸についてくるように、武丸もただ、ライムについていけばいい時間は終わった。
 世界樹の分身は、魔竜の卵が再び目覚める時まで、竜の墓場で待て、と言った。
――(あやかし)の卵は、本来力の源となった血縁が触れねば孵らぬ。しかしこの卵が以前に孵ったのは、『空』の申し子の封印が解け、まさに目覚めた時であった。
 つまり再び、ライムがヒト型をとることができれば、卵はその存在に呼応して孵る。自然がヒトの姿をとった竜は、宝と血筋の存続があれば再現されることは有り得るという。
「どこにいるのかな。おれ、淋しいよ、ライムさん」
 生まれてすぐに親と引き離され、戦うことだけを教えられてきた。それでも消せなかった甘さ。
 一万以上の根が絡む世界樹から、大きな細氷のような光が溢れた。そっと卵を、真っ白な光の懐へ還す。

 彼女はこの世界が嫌いだった。あとはただ、逃れていく日々。
 たとえそこが、夢の窓とは違う空でも、全ての痛みから解き放たれて。


To be continued
D1-DKD 了 2024.5.10

竜の仔の夜➺D1

ここまで読んで下さりありがとうございました。
本作DシリーズD1は、Cry/シリーズで何度か出た「魔竜」の物語でした。
前日譚『騎士竜』は大分直しましたが初心の頃の8万字で、本作は現在の文章力で近い字数の中二病で、10年以上あいた作品なのに退化している気がしてならず、本作を投稿するかはとても悩みました。
本気で書けば恐ろしく長い話を、とにかく短く切り上げようとしていることもあり、物語として成り立っているのかさえ不安があります。

しかし、D1では魔竜、D2では別作キカイやAシリーズの誰か、D3ではCry/シリーズと探偵シリーズの面子が続々登場します。
上記のように自作全体の補完要素が強いため、どこかで期間限定公開しようと思い、こちらがあります。
まずD2完結の目途がたつか、心が挫けたらノベラボでのみの公開に戻します。こちらはあくまで本編雛型とお考えいただけますと幸いです。

初稿:2024.5.10

※常時公開は下記で
ノベラボ▼『竜の仔の夜➺D1』:https://www.novelabo.com/books/6335/chapters
ノベラボ▼『竜の仔の王➺D2』:https://www.novelabo.com/books/6336/chapters<6/26UP>
ノベラボ▼『竜殺しの夜➺D3』:https://www.novelabo.com/books/6719/chapters<未執筆>

竜の仔の夜➺D1

∴DシリーズD1・不定期公開∴ 人間と化け物が怖れ合いつつ、化け物も光と闇に分かれる時代の「宝界」。怒ると雷が落ちる特異体質のライムは、異端の光妖精リンティを守ると決める。その思いが残酷な運命の始まりだったとも知らずに。 Cry/シリーズC零より千年以上後の世界で単独で読めます。 image song:いや/光と私 byCHARA

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-10

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. 竜の仔の夜➺D1
  2. ➺序奏∴間奏 光
  3. ➺独唱∴間奏 闇
  4. ➺重唱∴変奏 影
  5. ➺結尾