悪→徳
『ユキ』
如月 有希(きさらぎ ゆき)は男娼だった。
別になりたくてなったわけではない。父親がアル中で、ギャンブル好きで、ロクデナシだったため、そうならざるを得なかった。
母親はいない。有希がまだ幼い頃に、父に愛想をつかして出て行ってしまっていた。
父親は妻に逃げられても改心などせず、むしろ余計に競馬やパチンコにのめりこむようになった。
いつも勝てるわけではないから、当然のようにお金はなくなる。なくなったお金は借金として補充されて、補充されたお金は酒とギャンブルに消えて、借金の額だけが増えていく。
当然、有希の家はひどい貧乏だった。
家財道具はすべて持っていかれ、家には時計さえない。
朝早くから借金取りが玄関のドアを乱暴に叩き、怒鳴り散らし、それを目覚ましがわりに有希は目を覚ます。
その繰り返しが有希の日常だった。
それでも、生きている限りは、生きていかなければならない。生きていくにはお金がいる、食べるための仕事がいる。父親はあてにならない。
しかし、有希はまだ13歳の子供であり、食べるに困らない仕事につくことはできなかった。
だから男娼をしている。
身売りしてお金を稼ぐことを有希が知ったのは、つい最近のことだ。
ロクデナシの父親と借金取りの待つ自宅には帰りたくなくて、すいたおなかを抱えたまま、なにげなく座り込んだ夜の公園で、有希は初めて男に買われた。
その公園が、夜になると同性愛者が一夜のお相手を探す場所、いわゆるハッテン場になってることを有希は知らなかった。
自分を買った男にされるがままに身をゆだね、3万円の報酬を貰ったその時、有希は、
これで食べていける
と思った。
身売りを仕事にすることに決めた。
そうは決めたものの、夜の公園で待ってるだけでは声もかかりにくい。
さすがに、子供が身売りの相手を探しているとは考えにくいようだった。自分から声をかける方が確実なのだが、いきなり「ぼくを買ってください」と声をかけるのも恥ずかしい。
そこで有希は、小道具を使うことにした。
マッチを売る。
一夜の相手を探しにきた男に、つつ、と寄っていって、「マッチいりませんか?」と声をかける。それから、値段を3万円です、と告げれば、だいたい有希の言いたいことを察してくれる。
本気でマッチを売るつもりなどないから、有希から差し出されたマッチは、たまに公園に忘れていかれたりするのだが、別に構わないことだった。有希を知ってる人が見れば、有希がここにいたことを知る目印になる程度のことだ。
マッチ売りの少年は、今夜もマッチを売る。
『ミツリ』
綾瀬 美津里(あやせ みつり)という名の少年は、神様だった。
少なくとも自分を中心に認識された世界では、美津里は神だった。自分のことを神だと思っていた。
それは、彼の母親がそうさせたのだった。
美津里の母親は『無式陰陽研究会』という、少年教祖を中心とする新興宗教に傾倒していた。
その宗教団体は最終的に、他の宗教団体をテロ攻撃し、社会的に抹殺されることとなったのだが、その事件を起こす1年ほど前、美津里の母親は『無式陰陽研究会』から脱退していた。
自分が、神の化身をその身に宿したことによって。
そこに至るまでの経緯は少々複雑なのだが、かいつまんで言うなら、美津里の母親は『無式陰陽研究会』でイジメにあっていた。
コミュニティが形成されると必ず力関係が生まれる。
内向的であったり、他人に流されるままに同調する性格だったりする人間は、組織の中では弱い立場に置かれる。弱い立場の者が生まれると、それを基準にして強い立場の者が生まれ、目に見えない権力という力が生まれ、そして、目に見えなかったそれは目に見えるかたちで機能し始める。
その機能は、美津里の母親にとって悪いかたちで動き始めた。
それは、新興宗教団体の信者という、何者かにすがっていなければ『自分』という存在を肯定できない弱い集団だったせいなのかもしれない。会社や学校、日常生活で排斥を受けてきた弱い者たちは、さらに弱い者を差別し始めた。美津里の母親は差別されるポジションにいた。
試練や導きなどの、宗教団体特有の単語で肯定された差別は美津里の母親を追い詰め、悩ませ、精神的に失調させていった。
そんな時に、優しくしてくれる男性に出会った。同じ団体の男である。その優しさに対する感謝の気持ちはすぐに恋心にかわり、身も心も差し出すのに時間はかからなかった。
ただ、美津里の母親は、その男が人の弱みに付け込むためだけに自分に近づいてきたのを知らなかった。
そんな関係であったから破局も早かった。言葉巧みに数百万単位でお金を奪われ、子種を与えられ、そして捨てられた。妊娠したのだから結婚するものと信じて疑わなかった美津里の母親は、ひどいショックを受けた。
そのショックは、日常的に受ける試練という名のイジメと重なって、精神を壊滅的なまでに失調させ、心の一線を越えさせ、ついに彼女を彼岸へと追いやった。心の中で混ぜられたそれら要素は、より醜悪な形で吐き出される。
『これまでのことは、私に神の子を産ませるための試練だったのではないか』
こうして、美津里は産まれた瞬間に神となった。
見かねた親戚の手によって母親が精神病院に隔離されるまで、美津里は神としての教育、擦り込みを入念に行われ、13歳の時にはもう、手がつけられないほどに立派な神様になっていた。
神様だった美津里は、自分が人々を導く存在であると信じて疑わず、そのために言葉をたくさん残した。
『審判の日は近い。悪人は天から落ちるアルミホイルで巻かれ、蒸し焼きにされる』
『テレビのカラーバーは、悪魔の使いが色によって人の知覚を狂わせるために流している』
『空から七色の蛇口が降る時、人は進化する』
そういった、常人には理解できない言葉を、色紙にサインペンで書き付け、貼った。
最初は自分の家の中に貼るだけに留まっていたその色紙は、やがて街中のいたる所に貼られるようになった。
もちろんそんな落書きなど目についた順に剥がされ、捨てられる。
だが、美津里は読まれることよりも街に貼ること自体に意味を見いだしていたのか、マンホールの蓋の裏など、目につきにくい所にも貼った。土の中に埋めたりもした。
そういった色紙は、誰にも見つかることなく、放置された。
美津里は数々の言葉を残してきたが、彼が最後に書いた言葉は、
『森の奥深く、金色のリンゴが天国への門を開く』
だった。これは、その時なにげなく食べていた青森県産のリンゴが美味しかったので、思わずそんな電波を受信してしまったようだ。
その言葉を最後に、15歳になったその年、美津里も見かねた親戚の手によって母親と同じ病院の、違う病棟に隔離された。
彼は、今でもそこで神様をしている。
『ヨウスケ』
「畜生! なんで俺がこんなことに……!」
小鳥遊 陽介(たかなし ようすけ)は、自分の悪行を棚にあげて、都合よく被害者ぶった発言をしてみせた。
どことも知れぬ山の中の、どことも知れぬ木に寄りかかって、はあはあと肩で息をする。足場の悪い山道を随分と走ったせいで、息があがっていた。
そんな陽介の隣には、身長180センチの直立歩行する三毛猫の姿。
その三毛猫は、顎に手をあててにやにやと笑いながら、
「人間、リラックスが大事にゃ~」
などと、のんきに呟いている。
陽介はその言葉に、
「うるさい、駄目猫」
とかすれた声で答えた。
「お前が、逃げるべきにゃ、なんて馬鹿なコト言うから、馬鹿正直に逃げちまったじゃないか」
誰もいない山の中の、誰にも見えない猫に向かって、陽介は文句を言い続けている。
小鳥遊 陽介はヤク中だった。
最初は興味本意で合法ドラッグを試していたのだが、それが全然効かず、効くドラッグを求めていろんなモノを試している内に、どんどんヤバい方面の薬にはまっていった。
マジックマッシュがLSDに、LSDがマリファナに、マリファナが覚醒剤に、とうつろっていき、最後に出会ったのが
『サトリ』
という名の新種のドラッグだった。
サトリは幻覚系のドラッグで、アマゾン奥地にだけ生息する植物が元になっている。
フレッシュなサトリの葉を筒状にして、葉巻きのように火をつけて吸うのが一般的な作法だ。
サトリを吸っても肉体的な依存性はないが、しかし、精神的な依存性がたっぷりとあった。
それというのも、サトリが見せる幻覚は、
カミサマなのだった。
人それぞれ、自分にふさわしい神様の姿が見える。
初めて部屋で一人サトリを試した時、陽介が見たカミサマは、身の丈180センチの、やけに人間味のある三毛猫の姿だった。
カミサマはいつの間にかテレビの前に寝転がって笑点を見ていて、どこから持ってきたのか塩せんべいをばりばり噛み砕きながら、
「笑点メンバー全員、今すぐ山田隆夫に轢かれて異世界転生しねえかにゃ~」
と呟いていた。「座布団10枚たまったら死刑、でもいいニャ」
カミサマは笑点が嫌いなのかもしれない。
そんな無責任なたわごとを呟いたあと、人間ほどもある大きな手でぼりぼりと尻を掻いて、ぷぅ、と屁をひった。
これが自分に見合ったのカミサマの姿のようだ、と陽介は気づいて、そして大笑いした。
自分には、この程度の安っぽいカミサマがお似合いなのかもしれない。
それからというもの、陽介はサトリを吸ってカミサマと戯れる生活を送った。
面倒臭がりで、怠け者で、知れば知る程どうしようもないカミサマだったが、なんだか愛嬌がある。愛嬌があれば愛着も生まれる。
だが、どんなに愛しても、サトリの効果が消えればカミサマも消えてしまう。
それが惜しくて、陽介は常時サトリを吸うようになった。
そうなると金がいる。
サトリの効果は3時間、一回分の値段が5千円。睡眠時間の分を減らしても、一日に3万円ほどかかる。
金の入るあてのない陽介は、サトリの葉ではなく種の方を入手して、自家栽培することに決めた。
サトリは大麻と同じように草として生える。それを育てて自給自足すれば、大幅なコストカットが見込めるはずだ。
さっそく陽介は、原産地であるアマゾンの奥地へ飛んだ。
いつも陽介がサトリを購入している親しいロシア人の売人から、種子の手に入れられる場所、方法を聞いていたので、すんなりと手に入れることができた。
サトリの種は、全体的にヒマワリの種に似ていた。
ただ、色が紫。
かなり毒々しかった。どうみても毒草が生えてきそうだった。
その種をコンドームに入れ、アナルに隠す方法で空港を抜け、無事に日本へ帰ってくると、早速栽培を始めた。
サトリは半年もあれば育つ。
毒々しい種から生えてきた草は、やはり毒々しかった。
その草が花を咲かせた姿は、まさに毒草だった。
ヒマワリに似てないこともない。
ただ、色がどぎついまでに紫。
そうしてサトリの栽培に成功した陽介は、悠々自適にサトリライフを愉しんだ。
いつでも陽介のそばには、陽介にしか見えない巨大な猫がいて、自堕落に、
「楽して金持ちになりたいにゃ~。」
などとぬかしていた。
そんな三毛猫の様子を見ているだけで、なんとなく幸せだった。
駄目な人間にしっくりくる、駄目なカミサマ。
だが、そんな生活にも終止符は打たれる。
ほんの1時間前、時間で言うなら、夕方6時のことだ。
突然、陽介の暮らすマンションのインターフォンが鳴り、応答してみると警察官だった。
まさかサトリを栽培していることがバレたのでは……と、ひやりとしながら玄関に出た。
そうは思っても、どこかで大丈夫だという自信もある。誰も知らないはずなのだし、バレているとは考えにくい。
だが、玄関に出て、ドアを開け、二人組の警官と向き合った、その瞬間に。
警官の後ろに、猫の姿が見えた。
身長180センチの直立した猫だ。
その猫は、初めて見せた威嚇の表情で、
「逃げるべきにゃ!」
と叫んだ。
陽介は、思わずその声に従ってしまった。
きびすを返すと、リビングを抜け、部屋に入り、とっさにテーブルの上に置いてあった、新しくできたばかりのサトリの種を掴み、ポケットにねじ込んで、部屋の窓を開けるとさっそうと飛び降りた。
C級アクションスターでもやらないだろう、3階の窓から飛び降りて、隣の平屋建ての民家の屋根をごろごろと転がり、へろへろになりながら地面になんとか着地するという、格好の悪いスタントをこなした。
それから猛ダッシュし、途中、コンビニの前に止めてあった鍵のついたままのスクーターを強奪し、さらに逃げた。猫はその時も、陽介の隣を時速80キロで走っていた。もちろん直立だ。腕を大きく振り、腿を高くあげ、陸上選手のようなフォームで走っていた。
なんだか面白いので見とれていたら、危うく事故りそうになった。
陽介は人のいない方へと逃げた。
気がついたらどこかの山にたどり着いていた。空は、もう夜の色に染まっている。
躊躇なくスクーターを乗り捨てて、山へ踏み入った。まだ何かに追われている気がして、暗い山の中を走って移動した。
そうして今、どこだか解らない山の奥にいる。
太い木に寄り掛かって呼吸を整えていると、口の端をつり上げてにやにやと笑う猫が、
「思うんニャけど、逃げる必要ってニャかったんじゃニャいかにゃ~。大人げニャいにゃ~」
などと吐いたので、陽介はこの猫を殴り倒してやろうかと思った。しかし、猫が幻覚なのは重々承知しているので、そこをぐっと我慢する。
まあ冷静になって考えてみると、実際、逃げる必要なんてなかったのだ。あんなに慌ててしまったのは、サトリでハイになっていたせいだろうか。
警察官にしたって、「近ごろ、この辺で空き巣が多発してますので、戸締まりはしっかりやってください」とか、そういう用事に違いなかった。そういえば、サトリを栽培する前に、そんな用事で警官が訪ねてきたことがあったような気がする。
陽介は自分の軽率さにため息をついた。
あの時、この猫が「逃げるべきにゃ!」と言ったせいだとも思うが、幻覚にそんなことを言っても仕方ない。
それよりもこれからのことだ。あれだけあからさまに挙動不審な態度を取ったのだから、部屋に警官が踏み込んだと考えるべきだろう。
サトリを栽培していたことは間違いなくバレた。
もう家には帰れない。
帰ったら捕まる。
だが、慌てて出てきたせいで所持金もなく、家に帰らなければどうにもならない。サトリだって得ることはできない。
とっさに種を持って出たことは自分にしては賢明な判断だと思ったが、思っただけで実際は愚行だった。
種だけ持ってても仕方ない。馬鹿だ。どうしてサトリの葉の方を持ってこなかったのか。
なにより、こんな状況になってもまだ、サトリを得ることを考えている自分が大馬鹿だった。
陽介は、持ってきた種を取り出そうとポケットに手を入れたが、しばらくごそごそして、種を紛失していることに気がついた。
ポケットの中に無い。
走って逃げている途中、どこかで落としたのだろうか。
何度かポケットをひっくり返している陽介の横では、猫がのんびりあくびをしていた。
どう探してもやはり種は無かったが、それならそれで、別に構わなかった。種だけあっても育てるには半年かかる。
そんな悠長な状況ではないし、設備もない。
「なぁ、これでしばらく、お前に会えないぞ」
陽介は猫に向かって言ったが、猫は手を動かして顔の毛繕いをするのに夢中だった。
仕方なく、その辺に生えていた長い草をちぎり、猫の顔の前でひらひらと振ってみせる。思った通り、気になり始めたようだ。
猫の視線が草の軌道をなぞるようにふらふらしている。
草の動きを止めて、もう一度、
「もう、しばらくは会えないぞ」
と言うと、猫はにへら、と笑って、
「それって、逆に言えば、しばらくしたらまた会えるってことにゃ~」
と言った。
そう言われてみると、それで問題ないような気がした。
陽介がこのカミサマと次に会うのは8年後、麻薬取り締まり法違反、ならびにスクーター窃盗の罪を清算し、刑務所から出てきてからのことだ。
『キヨミ』
新井 清美(アライ キヨミ)は、死にたかった。
死にたいと思っていた。
繰り返されるイジメに耐え切れなかった。
中学に入ってから安息と呼べる日が一日たりともない。
イジメられるきっかけは、ただ単に「女っぽくて気持ち悪い」と、それだけだったように思う。
清美にはそんなつもりなどまるでなかったが、清美の、どこか少女を思わせる容貌が周囲にそう思わせたのかもしれない。そう言われることは小学校のから度々あったので、最初は気弱な笑みをもらしてごまかした。
そうしているうちに、暴言は脅迫になり、脅迫は暴行になり、今ではどこから見ても立派なイジメだ。殴られ、恐喝され、半グレと呼ばれるグループに都合よく使われている。
暴行の種類もエスカレートしていき、最近は特にひどくなっていた。口を灰皿代わりに使われて、タバコの火を舌に押し付けられたり、ライターで髪の毛を燃やされたり、階段から投げ落とされて腕を骨折させられたりしていた。
そういった暴行を、誰かに相談することはできなかった。一度先生に相談したことはあったが、上辺だけを取り繕われて、少しも効果的な対策をとってはくれなかった。半グレ達を無期停学にさせればよかったのだ、そうすれば、その後のイジメがより陰惨に、より人目につかないように行われることもなかった。
清美はもう、このイジメから逃れるには、死ぬより他はないと思っている。
その日、清美は学校に行かなかった。いつものように制服に着替え、鞄にお弁当を詰めて、両親を心配させないように「行ってきます」と家を出て、学校には向かわず、近所の公園に行った。
学校には行きたくなかった。怖い。怖い。怖い。怖い。
朝というのは、清美をいつも憂鬱にさせる。広がる青空も、眩しい日差しも、清美の気分を晴らすことはできなかった。朝になれば学校に行かなければならない。
暴行現場に自分から出向く気分というのは、絞首台に向かう死刑囚のそれに似ている。
登校を拒否した清美が逃避先に選んだ公園は、運動公園という種類の、広い敷地の公園だった。
ジョギングしている初老の男性が、清美のそばをテンポよく駆け抜けていく。犬を散歩させている女性もいる。
清美はそういった人達と目を合わせることなく、最初に目についたベンチに腰をおろした。
石を長方形に切り出し、足をつけただけの簡素なベンチに座り、鞄をおろすと、一つ、ため息をつく。
うつむいてため息をついたその時、足元にマッチ箱が落ちているのに気がついた。
ぼんやりとそれを拾いあげる。
そのマッチは、コンビニで百円も出せば買える、安い種類の物だった。
清美はマッチ箱を見ながら、誰かが落としていったのかな、と思う。
清美が有希のことを知っていれば、ここに昨日、もしくはそれ以前に有希がいたことを知ったのだろうが、清美は有希のことなど知らない。
何気なくマッチを一本取り出し、擦ってみる。
その行動に意味はなかったが、発火する音と、リンの燃える匂いと、小さな火種を眺めていたら、不意にタバコを吸ってみたくなった。清美はタバコを吸ったことなどない。だが、その時はむしょうに吸ってみたくなった。かなり自暴自棄な気分になっていたのだ。
それでも、自分でタバコを買って吸おうとは思わなかった。マッチが落ちていたのだから、タバコだって一緒に落ちていてもおかしくないと思った。
タバコを探すため、清美は足元をもう一度見て、それから、座り込んだまま腰をかがめて、ベンチの下を覗き込んだ。
そして、変な物を見つけた。
タバコではない。色紙だ。
ベンチの裏に、色紙が貼り付いている。
ベンチから色紙を剥して目の前に持ってくると、その、土とホコリで黄色っぽくなった色紙には、赤いサインペンで、
『森の奥深く、金色のリンゴが天国への門を開く』
と書いてあった。
その言葉を認識した瞬間、清美は、合図だ、と思った。
神様が自分に提示した合図だと思った。
死を望み、死に迷い、死の崖にたたずんでいた清美の背中を、美津里の言葉が押した。
天国への門。
森の奥に行けば、楽に死ねるのだろうか。
色紙とマッチを鞄に詰めて、清美は立ち上がった。
どこの森の奥かは解らないが、山へ行くことに決めた。
バスに1時間ゆられて、小学生の時にスキー教室で来たことのある、山のふもとに降りた。意を決して、山の中へ足を踏み入れる。
山の中は静かだった。小鳥のさえずる声が時折聞こえるだけだ。
頭上を覆う木々の隙間から、音もなく眩しい光が差し込んでいて、それがより一層、静けさを強調していた。
金色のリンゴを探して、清美はさらに1時間、山の中を歩いた。
そして、静寂の森の中を1時間歩いて、当然のように疲れた。
立ち止まって、座り込んだ。
太い木に背中を預ける。
金色のリンゴなんて、見つかるはずもない。
自分のしていることが、ただの現実逃避であることが知れた。いや、始めからわかっていた。死にたいと思っていても、死ぬ勇気の持てない自分が、偶然見つけた言葉にただすがっていただけなのだ。
そんなことはわかっていた。
ただ、それを認めたくなかっただけ。
そんな自分をあざ笑うと、清美は持ってきたお弁当を食べた。
別におなかがすいていたわけではない。
それでも、何かをして気を紛らわせなければ泣いてしまいそうだった。だから食べた。食べている間は何も考えずに済んだ。
お弁当がなくなってしまうと、マッチ箱を取り出し、神経質に指でもてあそんだ。箱の中から、カシャカシャとマッチ棒の音。
ふと、火をつけてみたくなった。
何かをしていなければ気持ちがおさまらなかった。
手近なところから落ち葉をかき集め、草をちぎり、小枝を積んだ。できあがった小さな山に、マッチで火を付けた。
パチパチと音をたてて、最初は小さな火種だったものが、大きな炎へと変わっていく。
焚き火の鮮やかな赤の色を見ていると心がやすらいだ。
皮膚に照りつける熱が心地いい。その炎を消したくなくて、清美はどんどん落ち葉を、小枝を集め、くべていった。
手近な落ち葉を拾い尽くすと、少し遠くに移動した。
そして、その植物を見つけた。
その植物の名前を清美は知らなかったし、見たこともなかったが、どう見てもそれは毒草だった。全体的にヒマワリに似てないこともない。ただし、色がドギツイまでに紫。
陽介が半年前に落としたサトリの種は、山の中でしっかりと成長していた。
清美はサトリなど知らないから、毒草であると信じて疑わなかった。
『もしかしたら、この毒草を燃やしてその煙を吸い込めば、楽に死ねるのではないか』
そんな期待が生まれた。
サトリを引き抜いて、清美は火に投げ入れる。
もくもくと昇る煙を、胸いっぱいに吸い込む。
途端に、げほげほとむせた。
煙が目に染みて涙がこぼれた。
ただ苦しいだけだった。
肉体的要因でこぼれた涙は、すぐに精神的要因の涙を誘う。
悲しさが心の奥から溢れて、清美は涙がこぼれるままに泣いた。
どれぐらい泣いていただろう。心の内側にこもって泣き続けていた清美は、突然響いた、どさり、という音に驚いて、現実に引き戻された。
音は、膝を抱えて泣いていた自分の、すぐ隣から聞こえた。
顔を動かして視線をやると、そこには、金色のリンゴ。
そして、天国への門は開かれた。
神が降りたつ。
清美はそれが、サトリの煙を吸ったことによって、脳が作り出した幻覚であることを知らない。
清美のカミサマは、天使だった。
純白の衣を身にまとい、白い翼を大きく広げ、慈愛の微笑みを投げかける、美しい天使だった。
天使は清美に、生きることの素晴らしさを説いた。
清美は誰にも話せなかった傷ついた心を差し出して、泣いた。天使は清美を優しく慰め、励ましてくれる。暖かい言葉をかけてくれる。
ついでに現状から逃げる手段と、闘う心構えと、110番の電話番号と、被害届の出し方、弁護士への相談の仕方なども教えてくれた。
清美はようやく、救われた気がした。
3時間後、サトリの効果が切れて天国への門が閉じてしまうと、清美は山をおりた。
その足取りに迷いはない。今日を、そして明日を生きるために、しっかりと大地を踏みしめて、日常へと帰っていった。
生きるということは、変わっていくということ。
天使に出会って清美は、日常を少しずつでも、良い方向に変えていけると思った。
それは、男娼と電波とヤク中の織りなした、偶然の産物だったけれど。
悪→徳