憂鬱と僕
僕は今憂鬱です。心が疲れ、ただ、暗い深淵に沈んでゆき、何もかもを放り出し、たまらなく、死にたいと思ってしまいます。こんなときに、夜空を見上げながら、人は煙草を吸うのだろうかと、考えてみたりします。僕の場合、憂鬱になる、というよりも、憂鬱に気づく、という言葉の方が、適切なように思います。何かに心を傾け、誰かと話す、そういった、ごまかしがある間、僕は憂鬱を忘れることができます。しかし、そういったごまかしがなくなると、ふと、僕の胸の中に沈殿している、黒い、憂鬱に気づいてしまいます。普段は何とも思わない、秒針の、かち、かち、という音が、とても大きな音に聞こえ、僕の心を埋め尽くし、耳をふさぎたくなります。夜、僕は何もする気が起きず、ただ、ベッドで横になり、天井を見つめます。そして、午前零時になると、僕の時計は、「星に願いを」の、美しいオルゴールの音色を奏でます。僕は、その美しい音楽を聴くと、とても苦しくなります。その苦しさは、普通の苦しいという感情とは、少し違うように思います。優しく、僕の心臓を締め付けるのです。「星に願いを」のオルゴールは、あまりにも、美しくて、綺麗で、僕は、その綺麗すぎる旋律で、子供のころの、無垢な心を思い出し、今の自分の汚れを感じ、目を背けたくなるのです。動悸がします。苦しくなります。寂しくなります。そして、憂鬱になります。ただ、沈んでいきます。しかし、おかしいと思われるかもしれませんが、僕はこの憂鬱を愛しているのです。この憂鬱を、僕は滅ぼそうとは思いません。憂鬱なとき、僕の心は鋭くなります。そっと触れただけでも、背筋が凍ります。そして、詩的衝動が僕を襲い、僕は文章を書きます。その言葉は、より鋭く、美しいものになります。憂鬱なときほど、僕の言葉は美しくなるのです。その美しい言葉を、美しく紡ぐことができるのです。梶井基次郎は、こんな言葉を残しています。『精力、精力、願わくば神経衰弱と精力を共存せよ。自分は迷信的に神経衰弱に非ざればある種の美がつかめないと思っている』。僕は、憂鬱なとき、このある種の美をつかむことができるのです。僕の憂鬱は、この美をつかむためにあるように思えます。僕は今、憂鬱です。
憂鬱と僕