ピアニストとしてのフジ子・ヘミング

 先日、ピアニストのフジ子・ヘミングが亡くなりました。波乱に満ちた生涯については、今更書く必要なんてないでしょう。でも、私の専門はピアノです(弾く方ではないですけど)ので、フジ子・ヘミングのファンの方は気分を害する話になるかもしれませんが、調律師として、また一ピアノ愛好家として、書いておきたいことがあります。
 フジ子・ヘミングは、その壮絶な人生をNHKに「運良く」「興味本位に」ドキュメンタリー番組の題材として取り上げられ、有名になったピアニストです。しかし、それまでの六十余年に大した実績がなかったように、正直言ってピアニストとしての実力は底辺レベルでした。
 せいぜい三流音大の学生程度(東京藝大を出てる人なのですが……)で、中学生のコンクールで全国大会まで残る子の方が上手いぐらいでした。(大袈裟じゃないです!)
 その後、有名になって少しは上手くなりましたけど、単にコンサートが増えたので練習する時間が増えただけではないでしょうか。NHKのドキュメンタリーまでは、全く無名のピアニストで、ヨーロッパでピアノの先生をしながら時々コンサートを開いていたそうです……が、ハッキリ言いますと、その程度のピアニストは町内レベルでもチラホラいますし、区レベルなら十数人、市まで広がると三桁はいると思います。
 教えることがメインになると、自分の練習時間は無くなっていき、教える為の勉強に費やす時間も増え、演奏スキルは退化していきます。「ピアニスト」と「ピアノの先生」の一番大きな違いは、「指導」と「演奏」の重心をどちらに置くか、ということに尽きると思うのです。
 そう思うと、フジ子・ヘミングが日本で有名になった時、彼女は「ピアノの先生」だったのだと思います。もちろん、コンサート活動も行ってはいたようですが、「ピアニスト」と言うほど、それを主戦場にするだけの実力はなかったのでしょう。
 それが、いきなり有名になり、「ピアニスト」になったのです。コンサートや録音の仕事が次々と入り、練習する時間も必然的に増えたでしょう。でも、大都市の大きな会場でソロリサイタルを開くような、世界水準の名ピアニストからは程遠い実力だったと言わざるを得ません。だからこそ、六十歳を過ぎるまで、「ピアノの先生」だったのですが。

 そんな水準のピアニストがたまたまヒットして、すごいすごいともてはやされ、なんだかなぁ……という主旨の記事ではありません。それに、クラシックピアノのファンの裾野を広げた功績は、すごく偉大だと思っています。
「ラ・カンパネッラ」を有名にしたのも彼女ですが、実は、あの曲はうちの息子は中二で弾きましたし、色んなプロのピアニストがアンコールで軽く弾く程度の曲(もちろん難曲ではありますけど)です。
 つまり、あの曲自体は何も特別なものではありません。パガニーニというナルシストのヴァイオリニスト兼作曲家が、これ見よがしに作ったヴァイオリンの技巧を見せ付ける曲を、ピアノ版パガニーニのリストが、これ見よがしなピアノ曲に書き換えた作品です。
 とは言え、単なる技巧だけの曲なら忘れ去られしまうでしょうけど、メロディも構成もテーマもすごく印象的で、元々超有名な曲でもありました。フジ子・ヘミングで初めて知ったという人は、たまたまクラシック音楽と縁がなかっただけでしょう。
 でも、どんな世界でもそうですが、そういう取っ掛かりや入り口としての役割は本当に重要だとは思います。そういった意味では、フジ子・ヘミングの影響力は絶大でした。フジ子・ヘミングの「ラ・カンパネッラ」をきっかけに、ピアノ曲やクラシック音楽に関心を持つようになった人も、決して少ないと思います。という理由で、彼女がクラシック界に刻んだ功績は本当に偉大だと思っているのです。

 しかし、フジ子・ヘミングの「ラ・カンパネッラ」ほど酷い演奏はないです。
 基本的に、テンポキープが出来ない人だし、ダイナミクスレンジがプロとは思えないぐらい狭く、ピアニッシモは綺麗(唯一の長所!)ですがフォルテは弱く、フォルテッシモぐらいから上のレンジはありません。そして、細かいパッセージになると、右ペダルを踏みっ放しにして(タッチが軽くなるからでしょう)、音を濁らせて誤魔化します。
 なのに、やたらと賛辞が溢れるのが気持ち悪くて……何が良いのか全く分からない私には、「フジ子・ヘミング」ブームはただただ不思議な現象でしかありませんでした。

 報道の自由度がG7最下位、世界でも70位まで下がった日本ですが、政治的なことや宗教的なことなどばかりではなく、「右へ倣え意識」が根強いことにも要因があるのかもしれません。フジ子・ヘミングの演奏も、批判記事がほぼないことからそれは窺えます。批判してはいけない風潮があるのです。
 まず、NHKのドキュメンタリーが日本人のメンタリティに迎合した、お涙頂戴の感動ものとして上手く作られており、クラシック音楽に大して興味のなかった層を一気に味方に付けたのです。そして、瞬く間に人気が沸騰し、一大ブームが生まれました。
 すると、今度はブームに便乗して、メディアが次々に取り上げ、音楽誌でも毎月のように特集が組まれ、チケットやCDを売るため、というのもあったかもしれませんが、全肯定される人気者になりました。
 しかし、クラシックの専門家や愛好家からすると、一度聴くと忘れられないぐらい、酷い演奏でした。なのに、何故かいつまで経っても絶賛しかなく、皆んなが絶賛するから無条件で良い演奏と擦り込まれ、ますます「逆張り」みたいになるから批判はしにくくなり……もし批判しようものなら、その何倍もの大きな力が逆批判を被せてくるのは必至、そんな構図が出来上がっていたのです。
 余談ですが、一時期の韓流ドラマブームもよく似た構図だったと思います。違いは、韓流ドラマは好みはあるとは言え、確かに内容もそれなりに充実していたことですね。ただ、皆んなが口を揃えて大きな声で「これは良い!」と叫ぶと、「私は何が良いのか分からない」と口にしにくくなる風潮は同じです。
 また、メディアは多数派に靡く習性があるので、多数派が喜ぶ方向性で報道します。その方が支持が得られ、発言力が増し、儲かるのです。その循環構造が、ますます「良い」だけに偏っていくのです。

 閑話休題。
 実は、色々と縁があり、フジ子・ヘミングの演奏は生でも二回聴きましたけど、どちらも良い印象はありません。
 一回目は、当時勤めていた会社が主催者からコンサートの後援を頼まれた関係から、私にチケットが回ってきました。当時、フジ子・ヘミングの演奏を(大ブームになっているのは勿論知っていましたけど)まともに聴いたことがなくて、二階席の最後尾という最悪の席でしたが、すごく楽しみに会場に出向きました。
 しかし、一曲目のシューベルトで、寝そうになりました。単調でスローペースで、ミスタッチだらけで、抑揚のない「棒読み」で、時々ペダル踏みっ放しになるという「酷い」演奏でした。幸い、二階席の最後尾という素晴らしい席でしたので、シューベルトが終わったところでコッソリと席を立ち、会場を後にしました。限界でした。
 二回目は、お客様に無理矢理誘われて、嫌々行きました。正面五列目ぐらいの「良い席」でしたが、そんな近くまでさえも全く音は飛ばず、全部沈んでしまうのです。
 また、タッチ(フィンガリング)は明らかに自己流だろうなぁと思いました。それに、やっぱりペダリングはすごく雑で、テンポは異様に遅く不安定で……何より、楽譜通りに弾けない人だと確信しました。
 難しい和音や細かい動きでは、勝手に音を抜いたり「編曲」しちゃっていることに気付いたのです。

「間違えたっていいじゃない。機械じゃないんだから」という彼女の言葉は、名言として伝えられていますが、「間違える」のと「勝手に改竄する」のは別物です。プロとしてステージに立つのですから、楽譜通りに、なるべく間違えずに弾いて欲しいものです。無料じゃないんだから。
 その上、表現力も凡庸だし、と言うのか、弾くだけで精一杯って感じです。何の起伏もなく、淡々とメゾピアノからメゾフォルテぐらいで流れていくだけの音楽です。
 はっきり言って、音楽教室の発表会レベルでした。正面五列目ぐらいの最悪の席なので、途中退席も出来ず、お客様が隣に座っているので眠るわけにもいかず、ひたすら苦痛に耐えるしかなく、ほとんど修行のような時間になりました。

 悪口ばかりではなく、少しは良いところもあげておきますと、前述したようにピアニッシモはとても綺麗な響きで鳴らせるピアニストです。これは、なかなか真似出来ないものですので、持って生まれた才能でしょう。フジ子・ヘミングというピアニストの個性として、特筆すべき長所だと思います。
 また、すごくピュアな方なのか、ハスキルやホロヴィッツを彷彿させるような、純真無垢な音を(時々)出せる方でもあります。
 そして、良くも悪くも自分の世界があり、そこに没入するスタイルは、アーティストのもっとも正しい姿勢なのかもしれません。

 ただ、クラシックは囚われ過ぎると窮屈ですけど、ある程度は形式も大切な音楽です。何より、作曲家の残した楽譜を再現し、作曲家の意図を自分なりの「解釈」と「演奏」で表現することも疎かにしてはいけないと思うのです。というのか、それこそがクラシック音楽の醍醐味ではないでしょうか。
 残念ながら、この基本的な「演奏」の取組みに、私はどうしても疑問を持ちました。弾きやすいように弾く、楽譜を無視しても自分の好きなように弾く……本当にそういうポリシーならまだしも、技巧的にそうしか弾けなかっただけのような気がするのです。

 それでもコンサートでは、一曲終わる毎に、他のクラシックコンサートではあり得ないような拍手喝采とブラボーが飛び交います。
 一方で、普段からクラシックを聴いている人や専門的に取り組んでいる人で、フジ子・ヘミングの演奏が好きな人はほぼいないと思います。私の調律師仲間にもいません。音楽仲間にもいません。決して人物が嫌いなわけではありません。
 おそらく、自分が大した技量のないピアニストであることぐらい、自分が一番分かっていたと思うのです。(いや、分かってない可能性もあるかな💦)それでも、オファーは絶えず、弾くしかなかったのでしょうね。

 でも、NHKに(ネタとして)見出されるまではなかなか過酷な人生でしたので、その分、残りは幸せに過ごせて良かったね、とは思います。良い意味で、面白いキャラクタではありました。
 それに、やっぱりクラシックのピアノ曲のCDも沢山売れましたし、コンサートでの集客もすごかったので、そういう他に類を見ない功績は、絶対に無視してはいけないでしょう。私自身、知らず知らずのうちに、回り回って何処かで恩恵を受けているかもしれません。希代のアーティストであったことは間違いないでしょう。

 また、プライベートでは沢山の保護猫を飼われていた方ですが、猫だけでなく動物愛護や自然保護の活動にも取り組んでおり、小さな命や植物を慈しむ心を持つ優しい人だったことは間違いないと思っています。

 ご冥福をお祈りします。

ピアニストとしてのフジ子・ヘミング

ピアニストとしてのフジ子・ヘミング

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-05-05

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