家族のために
家族のために
私は、山脈に囲まれた小さな国の出身でした。
生まれは、極めて貧しい農村です。
父は、若かりし頃には学問の道を目指していた事もあり、私に文字の読み書きを教えてくれました。また、家には勉学に役立つ書物がいくつか残っていましたから、私はそれらを自由に読む事ができました。本当に、恵まれていましたよ。
ですから、年が離れた二人の幼い弟にも、私が文字の読み書きや、最低限の算数などを教えていました。これは、生きていくうえでずっと役に立ちますからね。
お母さんは、固焼きパンをとても美味しく焼く事ができる、敬愛する女性です。
叱る時には、それはもう怖いのですが、私が十六の冬を数えた頃には、それが真の愛であると気づき、逆に、嬉しく思うほどでした。
弟達が揃って叱られる時には、私は遠くから眺めて「愛の稲妻が落ちる姿だ」なんて、考えていた事もありました。
暮らしは皆が皆、貧しかったです。貧困の中で、どうにか明日までを食いつなぐ暮らしです。
ある日の朝の事です。村の広場に、都市から派遣された役人が来ました。
彼は国王からの御触書を、読み上げました。
それは、国営事業として、同胞で固めた傭兵隊を編成するというものでした。
そのために、男達は志願しなくてはなりません。
これが、徴兵制度に基づかない事は言うまでもありませんが、家から一人の男が『志願』するだけで、家族達は長い期間を食べていけるのです。
私に選択の余地はありませんでした。というよりも、迷いはありませんでした。
家族のためです。弟達のためです。それが、兄としてできる事です。
志願しました、ただただ、志願しました。
家族と食事を共にできる、最後の夜でした。
お母さんが御馳走を作ってくれて、お父さんが聖書を読み上げ、私の為に祈ってくれました。
家族全員が、こうして揃って、食卓を共にできる日は、もう二度と無い。
母も、父も、弟達も、解ってくれていました。
シチューを食べる手が、震えない様に必死に堪えていました。
ここで私が泣いてしまったら、家族との最後の思い出が、涙で終わってしまいます。
美味しかったですよ。本当に、美味しかった。
この手料理の準備をしていた時の、お母さんの心を想うと、どれ程の辛苦だった事でしょうか。
これが仮に、私の夢のための別れであったならば、まだ救いがあります。
私が父の志を継いで、立派な学者に成って、皆の為に尽くす。
その様な、綺麗な夢の為であったならば、今生の別れと言えど、どれ程に喜びがあった事でしょうか。
私は、お金の為に人を殺しに行くのです。死にに行くのです。
大義など皆無です。ただ、自らに対して必死になり言い聞かせました。
「家族を食わせるためだから」
この一心の為に……。
殆ど会話が無い食事でした。無理もありません。
一言でも言葉を用いようものならば、哀しい気持ちしか、出てきませんから。
弟達の寝室で、二人を寝かしつけて、少しの間だけ、じっと寝顔を見つめました。
「天使だ」
胸の内で二人への愛を叫びました。
さあ、私がこの家で行うべき務めは、もう終わりました。
居間にいる父母にも、言葉を用いず、ただ握手を交わして玄関を通り抜けました。
……今でも覚えています。
私が母の手を離した後に、その貴女の手が、宙を掴むような仕草をした所を、しっかりと見ていましたよ。
砂利道を歩いて、少しずつ空を見上げました。
神様達が散りばめた、光の粒が美しく、私の胸中から思いの丈が溢れました。
涙も拭わず、ただ早歩きで、できるだけ早く村から立ち去ろうと、必死でした。
里端に立ち、さあ、ここから先に一歩行けば、もう外の世界だ、と諦めていました。
背後から、幼い、泣き叫ぶ声が聴こえてくるのです。
「お兄ちゃん、行かないで、行かないでっ」
「死んじゃいやだ、お兄ちゃん、死なないで」
私は気づきました。
「今ここで、振り返って、あの弟達を抱きしめなければ、一生悔いが残る」
自らの善心に従い、背後から駆け寄ってくる弟達と向き合い、二人を力いっぱい抱きしめてあげました。
命とは、温かいものですね。
家族とは、良いものですね。
愛されるって、喜びですね。
けれど、お別れとは、つらいものですね。
「ははは……お前達、寝たふりをして、私に会いに来てくれたのか。ありがとう、本当に。心優しい弟達と、今まで一緒に暮らせた事は、私の大切な思い出だ、誇りだ。良いか、お母さんを困らせない様に、きちんとお手伝いをしなさい。それと、お父さんの言う事は、ちゃんと聴きなさい。お父さんのお仕事を手伝って、時間を見つけて勉強して、家族の為に、村の為に、尽くしなさい。幸せに生きなさい。良いね」
神様、解って頂けますか、私の精一杯の強がりを。
その強がりが、嘘偽りの一切ない、愛である事実を。
弟達が家から出ている事に気づいた父母が、村の門まで来ました。
いつまでも、こうして抱きしめ合っている訳にはいきませんから、二人の弟を、父と母に預けて、私は今度こそ振り向かずに、駆けだしました。もう、お別れだから。
日毎夜毎に、家族を想いながら、遠くまで歩き続けました。
疲労困ぱいで辿り着いた練兵場も、私と同じ理由で志願した青年が集っていました。
そこでは、国軍の士官が私達を鍛えました。それも、血反吐が出るまで。
毎日、人を殺して金を稼ぐための技法と精神を叩きこまれて、やっと一日に一度の食事が配給されると、泥が雑じったようなスープと、カビが生えたパン切れの味に吐き気がします。それでも食べました、飲み込みました。生きる為に。
……いいえ、違います。生きる為ではありません。
これから闘い続けて、故郷に、金貨をもたらす為です。
故郷が豊かに成れば、それだけ麦を輸入できる。
その分、村に残してきた家族達を、食わす事ができるのです。
神様、あなたになら、解っていただけるでしょうか。
私は、家族のためを思う一心で、戦うのです。国のためではありません。君主のためではありません。私を心から愛してくれた両親と、これからの未来を担う弟達のためです。
でなければ、人を殺す理由など、この世にありますか、いいや、それでさえも……。
訓練に訓練を重ねる日々の、ある一日の事でした。
教官が我々を整列させて、何やら自慢げに語り始めました。
「お前達は、これからひと月と経たぬ内に、前線へと送られる。お前達の命を戦力として買ってくれた、他国の正規軍と合流し、凄惨な闘いへと身を投じる。だが、安心しろ。お前達が母国の出身同士で、殺し合う事は無い。敵対している国同士に、お前達が同時に派遣される事は無い。安心して、戦ってくるが良い」
地獄へ落ちろ、と私は念じました。人を呪う事が罪だと解っていても。
教官が話していた通り、それから二週間後に、練兵所を出発しました。
我々はチュニックと鎧を身に着け、鈍い銀に輝く兜を被り、鋭く、長い槍を担いで行進しました。
腰には汎用的な剣がひとつ下げておりましたが、これを使う時は、最後の手段を意味するのではありません。これを使わざるを得ない状況とは、ひとつの隊の死を意味します。
毎日、毎日、四十キロ以上の行軍です。
戦争をしている最中の『買い主』の野営地へと到達しますと、我々の傭兵一隊は、侮蔑の眼で見られます。
もう、その時期には哀しみなど感じません。怒り、いや、怒りだって無いに等しい。
「一緒に命をかけて戦う仲じゃないか」
だなんて、安っぽい感情は微塵も湧いてきません。
私達は前線の中でも、最前列に配置されるのです。
長槍を突き出して、背後の者が同じ槍を斜め前に突き出して、その背後の列の者も、その先頭に殉じる姿勢で前進し続けるのです。
私達の様な傭兵部隊は、消耗品に過ぎないのです。
戦うだけ戦わせて、人数は減らした方が良い。
出来る限り敵軍に損害を与えて、戦争が終われば厄介者扱いです。
では、我々の傭兵一隊は、無責任に投げ出す様に、戦うのでしょうか。
いいえ、断じてその様な事はありません。
私達は、祖国の君主の為でもなく、雇い主の為でもなく、家族の為に戦うのです。
我々が血潮を流した分だけ、故郷が豊かに成る。
家族の皆が、飢える心配も無く、暮らせるのです。
その愛のための、献身であります。
一身を父母より授かり、これ以上の孝行は考えられません。
私達は、命は無きものと覚悟を決めて、同胞の為に殉じるのです。
今でも鮮明に覚えています。あれは、三度目に挑んだ合戦の時の事です。
友軍が皆、共々に極致に立たされた時でした。
後方及び左翼の正規軍から伝令が来ました。
「本隊が退却を始める。傭兵らしく、最期まで戦い役目を果たせ。貴様らの健闘を祈る」
同胞達は、言葉に出すまでも無く、理解していました。
自分達が、消耗品らしく、殿の役目を押し付けられてしまったのだと。
すると、中隊長が声を張り上げました。
「お前達に腐るような死に方はさせない、鬨の声を上げろ」
その様に、命令を下しました。
『オウ、オウ、オウ、オウ』
そうです、私達は故郷への愛を奮い立たせたのです。
今更「我が身が可愛い」なんて泣きじゃくる者は、一人もいない。
この場で涙ながらに「家に帰りたい」と喚く男は、一人もいない。
心の奥底から、歓呼の声が上がりました。皆が、喝采しました。
眼前の敵軍が、数で圧倒的に有利であるにも関わらず、恐れをなしたのです。
私の眼には、心には、弟達の顔が浮かんでいた。
我々の戦いは悲惨なものでした。ですが、無駄ではありませんでした。
取り残され、殿を務めろと命令を受けた傭兵の一個中隊だけで、多くの時間を稼ぎました。
敵の槍に貫かれて、剣に切り伏せられて、矢に射貫かれて……。
血みどろになって、私達は最後の一兵が倒れるまで、戦う意志を燃やしていました。
壮烈な衝突の中で皆が「これが最期だ」と、思い残す事の無い様に、家族の名を叫びました。
敵の一隊二隊を次々と薙ぎ払い、ですが、徐々に此方も力尽きていきました。
武器が壊れたものは、腰に差している短剣を取り、自ら率先して敵軍に突っ込んでいきました。敵に飛びかかり、一兵でも多く、倒すのです。
中隊長も敵の矢を浴びて、倒れました。
最期の言葉は「家族のために、限りを尽くせ」
それより後は、残った隊の者達全員が、文字通り敵の本隊にぶつかり、砕け散りました。
私も、皆と共に戦死しました。
神様、私は、こうして傭兵としての人生を終えました。
地獄の様な戦場で混乱に陥り、道を見失っていた私に、あなたは光を当ててくださった。
私は今こうして、生前の記憶を思い出すにあたって、大事なことを幾つも思い出したつもりでしたが、いいえ、ひとつでしたね。
私の人生は、家族に愛され、家族を愛する事ができた。
そして、今や目の前は明るく開けて、あの日、村で別れた弟達と父母の姿が、見える。
ああ……。ずっと私を、待っていてくれたのか。
ありがとう、神様。私は、家族に会いに行きます。
家族のために