TL【鳴り鎮スピンオフ】僕ら ネオンテトラ
1
柔らかな手に撫でられる。姉の手だ。誰よりも好きな姉。家族としても、番(つが)いとして見てしまう相手としても。母よりも母であった。クラスメイトの女子よりも異性で、アイドルよりも可憐だった。
微睡(まどろ)みから目を覚ます。地獄という概念を発想した者は寝起き直後だったに違いない。地獄など恐るるに足らず。今そこで生きているではあるまいか。何を今更恐れることがある?
神流(かんな)は顔を上げた。頭が冴えない。姉のいない世界を信じたくなかった。しかし姉は目の前で死んだのだ。刺し殺された。元交際相手に。
「お姉ちゃん……」
期待してしまうものだ。分かっていながら、期待しているのだ。神流は上を向いた。国語の教師がそこに立っている。どことなく雰囲気が姉と重なる。まだ若い女教師だ。清楚な雰囲気と落ち着いた物腰のせいだろう。顔も声も似ていないけれど、姉を連想させるには十分だった。背丈や服装の趣味もどこか似ている。
「綾鳥(あやとり)くん、お疲れですか?」
「すみません、先生」
肩に嫋(たお)やかな女の掌の感触が残っている。姉ではなかった。撫でられたわけでもなかった。
「じゃあ、教科書、読んでくれる?」
学校では品行方正、才色兼備、文武両道で通っている。神流は清らかな返事をして、指定されたページを読み上げた。姉に見せたことのない、溌剌とした発声である。姉の前は見せない凛とした挙措(きょそ)である。
綾鳥神流にとって、どちらが真の姿だったのであろうか。姉は死んだのだ。チョコレートフォンデュのごとき粘度の高い甘ったれた態度は姉とともに消滅するほかない。
学校の帰りに花屋へ寄った。これは神流の月に1回の習慣であった。姉が死んだ翌月から始まった。白いガーベラを1輪買う。ラッピングを頼み、伝票を書く。何かしら白い花を月に1度買い、或る住所に送り付ける近所の学園の高校生男子。店員とはすでに顔馴染みになっていた。天候の大荒れや大地震、もしくは配達員に災難でも起こらなければ明日、明後日には着くようだ。
花屋の店員と二言、三言、雑談を交わした。疾(と)うに成人の若い女性である。花屋らしい清楚な身形ながら、髪型や爪が垢抜けて全体的に瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気だった。恋愛感情とまでは及ばずとも、神流は自身が彼女に気に入られていることを察していた。まず穏和な美貌に、清潔感のある風采、それから難関校として有名な高校の制服。何よりも落ち着いた態度のためだろう。
彼女は、この高校生が姉夫婦に毎月決まった日に白い花が届くよう手配すると信じているはずだ。疑う由(よし)もない。否、月に1度訪れる客の事情などわざわざ思い返すことでもなかろう。
店を出てから神流は後悔した。郵送する必要はなかった。手づから渡せばよかった。
◇
神流はあまり姉とは似ていなかった。しかし彼は器用であったし、利口であった。
鏡には姉によく似た女が映っている。だが彼女は男体であった。その身包みを剥がせば、現れるのは男体なのだ。そして彼女自身、己を女だと思ったことはない。顔だけ見れば或いは姉よりも美しい女がそこに在る。けれど首からは下は華奢な姉と見紛えるはずはなく、実際の姉より背丈もあった。女のようだ、美少女みたいだ、細い、綺麗、可憐と表現されようが、いざ女の身形に合わせれば、神流が男性であることが際立つ。
あくまで姉に似た男体の女は、唇に淀んだピンク色を引いた。姉らしくないリップカラーであった。姉は化粧品に対して吝嗇(りんしょく)家ではなかったが、かといって贅沢家でもなかった。少なくともリップカラー1本に5桁もする値段はかけない。贈り物であろう。姉の形見であるというのに惜しさはなかった。たまたま姉の家にあった、つまらない消耗品のひとつに過ぎない。
白いキャミソールワンピースに薄手のストールで肩を覆った麦わら帽子の女は、どこか浮世離れした様子で出掛けていった。電車を乗り継いで行く先は公園。
神流は女装が趣味なのであろうか。彼は休日には女の服装をして出歩いた。行くところは決まっている。
「ひだまり公園」に入ると、神流は辺りを見回した。ベンチに座る若い女と、横に揺れる乳母車が目に入る。若い女は、姉よりもまだ少しも若い。黒光りする蒲鉾板を見下ろし、片手で乳母車を揺すっている。神流は足音を殺して近付いた。若い女は白いワンピースにショールの女に気付かない。
虚ろな目が乳母車に合わせて動く。そして機を測ると女の肢体にしてはしっかりした腕が、寝ている子供を拾い上げた。
「可愛い赤ちゃんですね……」
姉に寄せた声は濁っていた。姉の新緑を滴る朝露を思わせる声とはあまりにもかけ離れていた。神流は男にしては少し高い、自身の声をそのまま発するべきであった。
「―鷹任(たかとう)リサ子さん」
姉を殺した男の妻は、額の円い、色の白い女であった。けれどその白さというのも、どこか粉っぽい、化粧による白さに見えなくもなかった。顔の皮膚は厚く、二重瞼がわざとらしく、美人とは言い難い。縹緻(きりょう)は姉のほうが優れている。気品も然り。何故、姉の元交際相手はわざわざこの女を選んだのか、神流には理解しがたかった。しかし元交際相手の審美眼に感謝すべきである。否、今となってはどうでもいいことだ。姉は死んだ。殺された。元交際相手に殺されたのだ!
仇の嫁は電子板から顔を上げ、神流を見た途端に目を丸くした。女装と一目で見破ったからであろうか。我が子連れ去りの憂き目に遭遇したからか。それともまた別の理由があるとでもいうのか。
「"フミ君"はお元気ですか」
抱き上げた嬰児が泣き喚いた。閑静な住宅地のなかにある公園だ。谺(こだま)する。
「また会いに来ますわ。お元気で。"フミ君"にもお伝えください」
殺人犯の種で生まれた幼獣を乳母車に放り投げる。否、女はオスに嘘を吐ける。この幼体が殺人犯の種かどうかは定かでない。
ワンピースがはためく。そして高いヒールの生えたサンダルが踵を返した。男性としては華奢な生まれであったが、女ではなかった。この国の平均的な女性の体格を上回る女性よりも逞しいのだ。いくら嫋やかで女性的と言われようが、男体である。大柄な女性を想定して売られたサンダルは容赦なく彼の皮膚を削りかかる。
靴擦れが快楽に変わっていった。白いワンピースの人物は麦わら帽子の下に笑みを浮かべた。一見華奢だが、女にしては肩が張り、肉感の薄い、女性とも思えるくせ、違和感の拭い去れない容貌をしていた。だが男である。罪業の林檎は飴玉のごとく細い首に鎮座していた。
神流は血の滲み、皮の擦り剥いた足で姉の終(つい)の場所を訪れた。花束が落ちていた。転がっていり。柔らかな風にセロファンが揺れて白く光る。一体誰の落とし物だろう。大きな忘れ物である。そうとう、大雑把な人間らしい。尋常な状況、或いは精神状態であるのなら気付くはずのものである。
花束を見下ろしていた。スカートの裾が風に靡いた。何故女は、このような不便な布切れを好き好んで身に纏うのだろう。何故同級生の女子たちは挙(こぞ)ってスカートの丈を短くしておくのだろう。それでいて何故、スカートの中身を露わにはしておかないのだろう。女とは何故……
姉の赤い影は1年経つともなるとすでに消え失せていた。ここが惨劇の現場であったなどとどうして思えよう。心地良い風の吹く、高層マンション前の落ち着いた遊歩道である。街路樹が南国情緒さえ彷彿とさせる。
ヒールは花束を踏み躙(にじ)った。踏み潰した。フェルト人形を作るみたいにヒールが花を突き刺さす。緑色の汁がセロファンを濡らす。花は死に損ないのチョウの翅のようだ。神流は足踏みし、地団駄を踏んだ。
「お姉ちゃん……」
神流は手紙を書いていた。姉からプレゼントされたフラミンゴ社製の万年筆が紙面を滑っていく。
宛名は織上(おりがみ)朝氷(あさひ)。姉と同父母の兄だという。姉の兄だが、神流とはあかの他人だ。姉の葬式で初めて見た。言葉は交わさなかった。姉から話を聞いたこともない。姉とは容貌の相似も見当たらず、雰囲気や所作も似ていない。強いていうならば、その穏和な空気感くらいなものだった。だがそれも、姉のみにあるものではない。市中にはありふれたものだ。
飛髙京美を一緒に殺しませんか?
白い便箋に浮き上がるインクを凝らした。印字のように整った字であった。フラミンゴ社の万年筆といえば高級な筆記用具であった。プレゼントされたのはこのメーカーの商品群と比較すれば中価格帯のものだが、それでも高校生が持つには一流といえた。神流はこの筆記具に見合うよう、書写に励んだ。
姉が働いた金で贈ったのだ。吸われていくインクの跡を見詰める。
織上朝氷も同じ気持ちのはずである。妹の遺影を表情のない顔で式の間、長いこと見上げていた。その脳裏には恨みがあるはずだ。憎しみがあるはずだ。怒りがあって然るべきなのだ。
これは、血の繋がった兄でありながら親族席に座ることのできなかった男への憐れみなのだ。
便箋を折り畳み、封をする。宛名を記し、神流は、またしばらく、姉の兄の名を凝らしていた。
ともに殺すべきだ。一人で殺してしまうのは申し訳ない。織上朝氷の殺意と怒りは救われるべきなのだ。
「お姉ちゃん……」
漆黒に黄金の映える万年筆が外の光によって煌めいている。
神流は首を長くして待った。この件に関して、彼は性急であった。けれども待った。手紙を投函して2日。郵便局の休みは挟んでいなかった。宛名もそう遠くはない。では姉の兄がまだ配達物の存在に気付いていないのか。否、すでに返信を綴り、今それはポストのなかにあるに違いない。電話番号を、或いはメールアドレスを載せておくべきであった。失念していた。
歩道橋の欄干で考えていた。神流は蟻を眺めるように、遊歩道を歩いてくる杖つきの青年を目で追っていた。歩道橋を上がってくる。一見して病人と判じられた。病人でないとしても人間の健康な状態ではない。痩せ細り、土気色の顔色をして、服装に季節感がない。脂肪と筋肉が衰えて、寒いのだろう。真冬の服装である。黒髪は萎びて、化学繊維のように見えた。市販の大人用紙マスクが顔のほとんどを覆っていた。
神流の足は意思とは逆に動いた。逃げてしまった。向かっていくはずが、その病人みたいなのと進行方向を同じくしてしまった。
あの鶏がらのような人間を殺すのに忍びなくなった。放っておいても死ぬ。
姉の兄から返信はなかった。訃報もなかった。1年経ったというのに、まだ生き永らえているらしい。らしい―……あの男は生きている。神流の目と鼻の先で動いている。
蟻のようだ。姉の作った血の海に溺れていった蟻のようだ。
杖はなくなり、肉付きも戻った。姉が殺されるなどとは露ほども思わなかった頃のように、そこには壮健な若者がいた。
歩道橋から見下ろす。姉を盾にして生き延びた身体でのうのうと生きている。彼は視線に気付いたのか、顔を上げた。異様な女を見たに違いない。
目が合った気がした。どういうつもりで姉になろうとしたのか忘れてしまった。奴に見せるつもりであった。だが見られた途端、あの男がふたたび姉の姿を目にすることに耐えがたい屈辱を感じた。奴さえいなければ……
姉を死なせた男の足取りが速まった。神流は逃げた。
飛髙京美を殺しませんか。返信ください。
私は姉を見殺しにした京美兄さんが許せません。どうしても許せません。織上さんも同じ気持ちであると信じています。返信待っています。
私は織上さんの心中をお察ししてこの手紙を送りました。同じ気持ちでないのなら、私が一人でやります。
神流は墓石の前に立っていた。返信はなかった。郵便受けにも、携帯電話にもPCにも返信はない。織上朝氷とは同じ意思を持ち合わせていなかったのだ。
湿気を纏った風が吹く。雨が降るのだろう。匂いもどこか埃臭い。
あの男も死ぬべきだ。姉の味わった痛みを知るべきだ。姉を奪われた怒りを……
頬に水滴が落ちる。足元の色が徐々に変わっていく。
「鷹任さん……」
プロポーズでも今どきは流行らない白い薔薇の花束に左右を飾られている。この墓に眠るのは姉を滅多刺しに刺し放題刺した仇である。
「待っててね……」
姉を殺した人物であるが、所詮は骸だ。今はそれよりも、生きている人間が憎い。神流は姉の形見であるブレスレットを外した。そこに置いた。喜ぶだろう。神流にも善意や良心というものが存在するのだ。姉の形見が供えてあれば、元交際相手の霊魂も喜ぶであろう。元交際相手の霊魂が喜ぶならば、遺族も喜ぶであろう。墓場が華やかならば、尚のこと嬉しいはずだ。
「また来月に来てあげる」
小型の紙パックを剥き、牛乳を振りかけた。会うたびに白い服を着ていた。白が好きなのだ。牛乳をかけられて嬉しかろう。霊魂が嬉しければ、遺族も嬉しいに決まっている。
姉と同じように刺し殺すと決めていた。歩道橋から蟻のようにあの男がやって来る。悠々と。杖もなく、壮健な肉体を揮(ふる)って。今日はその日ではなかった。まだ凶器も買っていない。今日ではない。どの日に実行するのか、神流はスケジュール表と睨み合って決めたのだ。遺族に花を贈って、それからだ。今日ではない。
あの男は歩道橋を前にして立ち止まった。目が合った気がする。だが遠目であった。いくら視力が優れていても、この俗物社会では限界がある。削ぎ落とされても尚、まだ優秀な視力を持ってしてもその小さな顔がどこを見ているのかは分からなかった。神流は歩道橋を立ち去った。逃げ帰ったのではなかった。神流は大回りをして戻ってきた。今度は奴の背後をとって。歩道橋から降りていくところであった。世界が眩しく感じられた。天気は曇り。吹きつける向かい風は心地よいが湿気を帯びて緑の匂いをのせている。肉薄する気配を掻き消すには十分であった。刺し殺すはずであった。神流は自身の制御が効かなくなっていた。見開いた目は風を受け、乾いていく。ただの曇天が異様に眩しかった。
やれると思った。すべてがスローモーションのなかで、意識だけは次のビジョンが明確に描けている。姉を盾にして生き残った男をここで突き落とすことができる。計画はそうではなかった。ここで接触するつもりはなかった。
しかし、やれると確信してしまった。直感が完遂を約束していた。今、ここではない。けれど衝動も計画を裏切った。
手が伸びる。正々堂々と対峙すれば、簡単に手折られてしまう嫋やか腕だった。とん、と押すだけだ。孅(かよわ)い女のような腕で、しかし姉の姿を模したとき、それはすっかり男の逞しい手であった。姉は勝てない生き物に立ちはだかったのだ。鳥肌がたった。柔らかな風がべったりと煩わしい。
確信は、直感の約束は、第三者の介入を想定していなかった。赤い爪の細い手が、神流を掴む。
何事もなく、目の前を歩いていた背中が離れていく。
止まっている時間は秒単位で済んだはずだ。けれども神流には分単位に感じられた。マスカラで固められた気の強そうな目と目がぶつかる。神流は優等生でいることを忘れた。剥き身の自我をそこに晒していた。
姉よりも年のいっていそうな女が強張った顔をしてそこにいる。化粧でも誤魔化せない真っ青な顔色をして、鮮やかに彩られた唇にも皹(ひび)が入っている。どちらのものか分からない荒い息切れが耳を痒くする。
女は階段を降りていく背中を呆然と見下ろしていた。神流も離れていく後姿を凝らしていた。細い指に締め上げられた腕が震えている。振り払うことも忘れた。忽如として現れたこの女が何者なのか、内心で誰何(すいか)することも忘れていた。そしておそらく答えは出ない。知らない女だった。否、髪色や髪型、化粧が変わっているが、顔だけ見れば、姉の葬式にいたかもしれない。
「ダメよ。少しだけ、気持ちは分かるけど……」
女の手も震えていた。その戦慄を糊塗するために、込められた力が強かった。神流は気の強そうな女のその面構えを不躾に眺めていた。
「綾鳥さんの弟さんでしょう?」
眩しかった視界が黒ずんでいく。開いていた瞳孔が絞られ、姉とは正反対のきつい面立ちが鮮明に見えた。
「来なさい。おうちはどこ? 送っていくから」
心臓がまだ落ち着かない。喋る気が起きなかった。顎も舌も重い。話すのが面倒臭い。声帯を震わせるのが厄介だった。
女は嫌悪と不快感を隠さずに神流を横目で捉えた。彼女は長い沈黙にも耐えるつもりらしい。
「あの人を殺さなきゃいけないんです、僕は。あの人を殺さなきゃ……」
風がべとつく。
「おうちはどこ。今日のところは帰りなさい」
神流は応じなかった。女は溜息を吐いた。
「僕が……殺さなきゃ……いけないんです」
女は神流の肩を揺さぶった。それから携帯電話を手にした。神流は虚ろな目で一瞥した。燃殻だ。躊躇を後悔した。あのときの躊躇いに戸惑っている。
「警察……ですか」
「まさか。あたし警察嫌いなの。よっぽどじゃないなら呼ばないわ」
鼈甲色の澄んだ瞳が転がった。安堵と落胆が同時に襲う。殺意を軽んじられた気がした。そして自身の害意を疑いもした。けれど、まだあの者を屠る機会はあるらしい。
「もしもし鳶坂(とびさか)くん? お久しぶり。この前の……織上さんのこと。鳶坂くん、今ちょっと出られる?」
この人と結婚してくれたなら、という男が葬式に来ていた。姉の兄とともにいた。眼鏡の、すらりとした男だった。何故女は、自分を幸せにしてくれない男を選ぶのだろう。何故女は滅びたがるのだろう。その人物も鳶坂とかいっていた。少なくとも姉を滅多刺しにした元交際相手よりも知的な輝きを持っていたし、先に病没した夫、神流にとって義兄よりも甲斐性も将来性もありそうであった。何故姉は奴隷契約を受け入れたのだろう。何故姉は……
「―……分かった。ありがとう。恩に着るわ」
あの男が早く姉を見つけ出して、娶っていてくれたなら。左手に指輪はなかったのだ。有りもしない世界線に希望を探ってしまう。
「綾鳥さんのこと、あたしも大好きだった」
携帯電話を下げた女は、またもや神流の肩を揺する。華奢な肩のはずだった。しかし女性の手には収まりきらない。神流は女という性の儚さに身震いした。
「大好きだった、って……」
高が知れている。所詮は他人だ。遺族へのつまらない同調である。女の哀れな共感能力が彼女たちを見窄らしくするのだ。
「弟のあなたと張り合うつもりはないわよ」
冷ややかな女であった。そうとう人嫌いとみえる。他の女性たちが見せる愛想のひとつもない。
「でも好きだった。弟のあなたに言うことじゃぁないけど」
世間一般的に赦された関係ではなかった。姉に恋慕を抱いていた。押し倒し、犯し尽くした。女の身体の細さも直視せず。姉は抵抗していたのだ。今更になって分かった。
徐ろに厭な女を見上げた。同じ色を見た。あの男にも灯っていた悍(おぞ)ましい色が。敵対の色味が。女の瞳のなかに燃えている。
「貴方は、姉さんを……」
「弟と張り合うつもりは、ないわ」
神流は見抜いた。しかしこの女には見抜かれていない。姉への邪(よこしま)な慕情からくる怒りを、ただの家族愛だと思っている。
「弟でも何でも男の子だもの。世間は理解してくれるわ、―……よりは」
歩道橋の下を大きなトラックが通り抜けていった。彼女の市中の女たちより少し低い声が攫われていく。女の眦の強調された目を見ようとした。初めて見る輝きを探ろうとした。けれども女は逃げた。目を逸らし、顔を背けた。
「少し待っていなさい。綾鳥さんのお兄さんに会わせてあげるから」
この女は知っていたのだ。この女は偶々この場に居合わせたのではない。知っていたのだ。姉の兄が知らせたに違いない。何故、同じ道を選ばないのだろう。何故、復讐を誓わずにいられるのだろう。それどころか、何故、邪魔することができるのか。
肩に置かれた女の手はぎこちなかった。どの女の手よりもぎこちなかった。本来は相容れることのない立場の女なのだ。同じ極同士の磁石を力尽くで接触させたような違和感だった。
「賢い子なんでしょ。綾鳥さんが昔話してたわ。ダメよ、全部衝動任せじゃあ」
TL【鳴り鎮スピンオフ】僕ら ネオンテトラ