向こう天
「美波さん、天国の向こう側には何があるのでしょうか。」
序章
愛されたい。
誰もが一度は抱いたことがあるだろうその感情に、まるで私は生かされているようだった。
「今日も、良かったよ」
良かった。その一言だけで、私は誰かにしっかりと受け止められたような温かさを覚える。それは人間誰しもが望むもので、まるで親に抱かれるような温もりを私はそこに見出していた。
「私も…すごく良かったです」
流れるように繋がるこの会話は、普通なら嘘と嘘で繕われて何にもならない。互いにそれを分かった上で重ねられて、霧のようにふわふわしたまま二人の間に消えていく。だけど、私はそれで良かった。だから私はふた回りも上のおじ様に向かって笑顔を見せながら、手元でローションの後片付けをしていた。粘着性の強いローションはいくら手を拭っても手のひらにこびりついて、私から逃れようとしない。
「美波ちゃん、また予約入れるねー」
「嬉しい。ありがとうございます」
同業の人間は大抵空っぽの気持ちで嬉しいという言葉をいつも発している。嬉しいという心や気持ちはそこに無くて、虚しい体が疼いているだけだ。そこまでにはまだなりたくないと思いつつ、今日はこれで終わりだと私はお客に気づかれないようにふっと息を吐いた。
「今日は、これで終わり…。」
別に、このコト自体は嫌ではなかった。背徳感を覚えながら、自分の中に満ち足りる感覚があることを私は知っていたし、自分の存在意義を見出してくれた。ここに居ていいのだということ、そしてここに居るのだということをまさに身をもって教えてくれる。
「美波ちゃん、それ似合ってるね」
ウェットティッシュで手を最後に拭っていた時、ベッドから降りて服を整えていたお客さんが不意に私にそう言った。ずんぐりとしたその指で差していたのは、半分肩紐が落ちたままの私の下着だった。紫の生地に白のレースが飾られて、カップの部分の模様が細かいのが気に入っている、プチプラとは程遠い価格のもの。薄暗いマンションの窓から差した西日のせいで、そのレースが余計に光って見えた。
「今日のために、新調したんですよ?」
ありきたりな返事をすると彼は満足げに頷いていた。それで良いのなら、と私はそれ以上言葉を尽くさなかった。私にとって事後の空気感というのはこういうものだったからだ。向こうが果てて、フォローをして、終わり。それ以外は何もいらない。それが良かった。だから私はホックを後ろ手に留めながら、茜色に染まった向こう側の空をぼんやりと見ていた。
「美波、午後の空きコマ暇?」
「え?」
その日の昼休み、学食の隅でこっそりとお弁当を食べていた私に話しかけてきたのは、同期の一人だった。煌びやかな服で身を固め、誰に買ってもらったのかも分からないブランド物の鞄を下げて私の方を覗き込む。会うたびに彼氏が変わっているようなこの子は、見るからに高い腕時計をチカチカと目の前で揺らしていた。
「今日もまた、お手製のお弁当?」
「そうだけど」
「飽きないの、ほぼ毎日赤と黄色と緑みたいな感じだけど。信号機食べてんのって感じ。」
「飽きないよ。エネルギーが取れれば、それで良いから。」
「たまには学食で買えばいいのに。案外安いよ?ほら、カツ丼が450円。」
「そんなお金無いの。で、どうしたの?」
「あ、そうそう。空きコマ、前行きたいって言ったみなとみらいの紅茶屋さん行こうよ」
「あー…」
私は彼女の方を向きながら、直前まで見ていたスマホを静かにひっくり返した。あまり他人に見られたくない画面だった。けれど彼女の目がその動作を追うのは優に分かった。だから私は素知らぬふりをして「ごめん、ちょっと今日は…」と言葉を濁した。
「ん?何か用事?」
「まあ、ちょっと。バイト。」
嘘をついた訳ではない。バイトではあるから。そうやって自分を正当化するのは私の癖だった。少しでも後ろめたいという感情を感じたら、それを心の中から追い出すために私はよくこうしていた。
「またあー?本当忙しいよね美波は。」
「ごめんね、また今度行こうよ」
「うん、今度は空けといてよ?」
「分かった」
この子は残念そうなふりをするのがとても上手かった。まるで乾いた、定型文みたいな会話。こうした上辺だけの関係を何人と築いているのだろう。そんな事をふと考えながら、それは私には関係の無い事だと私は思った。そして味がしない、どうでもいい会話が数ターン続いた。退屈にも程がある。そして、「じゃね」と最後にそう言って彼女は居なくなった。人が段々増えてきた学食を器用に通り抜けていくのを眺めながら、ひとり私はまた昼食を始める。自分で詰めたほうれん草のお浸しを摘まんで、数秒じっと見つめるとそれを口に運んだ。やはり味がしなかった。彼女はきっと他のアテを探しに行くのだろう。茶飲み友達は沢山いる。私以外にも。そう思うと心の底から気楽だった。
『美波へ 今日の午後、ご指名だから。常連さんだから住所は送らなくていいわね?』
下へ向けたスマホを右手で返すと、薄暗くなった画面にはそう書かれていた。差出人、リリー。この人にも大した返事をする必要はない。返信が無いという事は無言のイエスだと思ってくれたら良い。だから私は画面を消して、コップに入った水をぐっと口に含んだ。けれど冷水機できんきんに冷えたそれは、喉元を通るのに勇気と時間を要した。隣のガラス窓からは茶色とも緑色とも言えない色の池がよく見える。この池で泳いだ者は問答無用で退学とかそんな都市伝説があるこの池には、藻が一面に広がって酸欠で喘ぐ鮒たちが何度も跳ねていた。あれだけ藻が生えていたら水に上手く酸素が溶け込まないのだろう。けれどあの魚たちはどうする事も出来ない。自分の運命を甘んじて受け入れるだけだ。冷酷かもしれないがそれが現実だった。その様を見ていると、私は不思議と心が落ち着くような気がした。
『美波! 既読スルー禁止ってあれほど言ったでしょ! 見てるなら返事早く返しなさい!』
「はあ…」
池を見ながらぼうっとしていた時、またスマホが鳴ってリリーさんからの催促メールが届いた。いつものことだ。でも、ありがたい「ご指名」もそんな大したお金にはならない。時給に換算したら横浜市の最低賃金すれすれくらいだし、チップを貰えたとしてもついには巻き上げられる。じゃあ何で、と言われればきっと答えに詰まってしまうだろう。しかしそれは他人に言うような動機ではないことは確かだった。
『わかりました』
スマホを下ろして私はまた池の方に視線を移した。その先にあるテラス席では新入生たちが馬鹿みたいに騒いでいる。格好が高校生の私服みたいで、きっとそれが一年生だろうというのはすぐに分かった。騒がしいのはあまり得意ではない。子どもっぽいからだ。別にそれを見ていた訳でも無いのに彼らと目が合って、すぐに私は視線を逸らした。嫌悪感というか不本意な気持ちがそうさせた。視界に入ってしまうノイズが不快だった。嫌なことばかりだとまたため息をつくと、再びスマホが鳴った。それはリリーからのお小言で、本当に取り合う必要の無い罵詈雑言だった。これが、私の仕事だ。別に不健全な仕事じゃない。癒すだけ。それが私の言い訳だった。
そして茜色の空の下、横浜の街を歩いていた。まだ手のひらにはジェルの湿り気が残っていて、どこか気持ち悪い。右手をグーパーしては、その感触が私に今日の仕事を思い出させた。店長は、「ジェントルマンを癒してさしあげるのがあんたたちの務めだよーん」といつも言っている。確かに、正直予想していたよりもどのお客さんもジェントルマンだった。乱暴したり暴言を吐いたりなんてことはしてこないし、警察沙汰になるような事も修羅場も無い。だから少し安心した。こういう仕事はきつくて、汚くて、危険だと思っていたから。
「ねーママー、今日の夕ご飯はなにー?」
「今日はね、ほのかの好きなカレーだよー」
「やったー」
平日の夕方。桜木町の駅に向かう人は大半がサラリーマンで、これから京浜東北線は満員電車に姿を戻す。四月の初めだったから、集団でわいわいと騒ぐ新入社員も沢山いて私はその波に紛れていた。そしてランドマークタワーに辿り着いた頃、中で買い物を済ませ出てきた親子の無邪気な声が聞こえてきた。それは痛いくらいに私の耳に刺さって、その中で大きく響いた。
「帰ったら一緒に作ろうか」
「うん!」
その二人の後ろに付くように動く歩道に乗ると、眼下にみなとみらいの景色が広がった。散り始めた桜が日本丸を包むように舞って、その写真を撮っている人が何人もいる。その女の子もそれを見て「ママーさくらー!」と言った。私は、何も思わなかった。好きとか性を何も知らないその無邪気さが眩しかっただけだ。自分に無い物をこの子は持っている、そう感じてしまえば負けなような気がした。私の方が満たされているんだと、勝手に抗っている自分がいる。そんな馬鹿馬鹿しい事で頭を一杯にしていたから、私は動く歩道の終端で思わず転びそうになった。恥ずかしい。だから「危な」と小さく呟き、周囲の目を気にしてわざとらしく靴のつま先を二度地面に突いた。
駅に着くと、改札の周りは思った通り通勤通学の客で混雑して、マスゲームのように人が寄せては返していた。その真上では、去年開業した小さなロープウェイが違和感を醸しながら海の方へと伝っていく。何ともミスマッチな光景だと、私はいつもそう思っていた。バスロータリーと、沢山のスーツと、空に浮かぶガラス張りのゴンドラ。大体観光向けのものだからお世話になる事は無いのに、そんな物体が宙に浮いて動いているだけで多くの人は中空を見上げた。私はその奇妙なロープウェイに乗るために並ぶ人々を見やりながら、駅から離れるように裏道を一人歩いた。そうすれば人がだいぶ少なくなった。駅へ、家へ帰っていく人達に逆らって歩くと、まだ春休みなのか、ミュージアムの方から小学生くらいの親子連れが自分の脇を何回か通り過ぎる。
「また来たい!」
「良い子にしてたらね、また来ようね」
良い子にしてたら。大人が約束を果たせない時のための予防線だ。他人の話を盗み聞きしていちゃもんをつけるほど意地悪い事は無いと思ったけれど、私は心中で「…死ね」と吐き捨てた。そうすると少し気が楽になった。何もそんなに繰り返し見せつけられなくても、と私は思った。そしてそれから暫く歩くと、もうミナトマチの面影は無く、古いビルが立ち並ぶ界隈が現れる。この辺りに爽やかな海風は吹いてこない。むしろ山々がすぐ向こうに見えて、昼間の暖かさのせいでどんよりとした空気が溜まっていた。その山の麓に小さな新幹線の駅があって、列車が高速で移動していく音が太く響いている。その通過に合わせて、私の周りの古いビルたちは小刻みに揺れていた。こんなの大地震が来たらすぐにひしゃげてしまうのだろう。振動で今にも外れそうなトタン看板を横目に、私はそのビルの一つへと入った。その時、私のお腹が締めるようにぎゅるぎゅると鳴った。誰もが見ていないのを良いことに静かに胃の下を擦ると、空腹なのだと気づいた。心はさっきのアレで満たされてるはずなのに、空っぽのお腹が私の中にぶら下がっている。私はそれを皮肉だと思った。
「美波、おかえりー」
「今、戻りました」
表通りから路地に入ったら、見た目怪しい雑居ビルがある。その壁は見るからに煤けており、緑色の蔦が所狭しと自分の身体をあちこちに伸ばしていた。その三階、『ザ・ヘヴン』と窓いっぱいに広告されたそこに「事務所」はあった。
「どうだった?今日のお客さんはー」
「特に。大丈夫でしたけど」
「オーケーオーケー」
私を出迎えた男、いや女、いや男は、水で濡らした雑巾でカウンターを拭いているところだった。最初ここに面接に来た時、私はオカマバーに迷い込んだのかと思った。外観も内装もバーそのもので、そこにいた人間が性別不詳。いきなり出てきたその人は「リリー」と名乗った。話し方も女口調、でも見た目は完全にスキンヘッドのおじさん。まるで中年サラリーマンが趣味で女装をしているかのような見てくれだった。ここがその事務所だと気づくまで、どれだけ時間が掛かっただろうか。
「じゃ美波、今日は道具返して退勤していいわよー。あ、みづき居るから挨拶ちゃんとしてきなさい」
「はーい」
「返事ははい、でしょ?ここ、小学校じゃないのよ」
「はーい」
「ほんとアンタはぶすーっとしてえ。嫁に行くの遅れるわよ!」
「こんな仕事してる時点で遅れてます」
「もうっ、ああ言えばこう言うなんだから。」
リリーさんは手元のガラス瓶をぶんぶん振り回しながら「大体ねえ…」とお説教を始める。だから私は「こんな仕事でも必要なのよ?ですよね」と意地悪に先回りし、強制的にその話を終わらせた。
「うっ」
「じゃ、着替えてきまーす」
「ちょっと!美波!」
吠えるリリーさんを後にして、私は奥の更衣室へ向かった。とはいえ、これもバー時代の倉庫スペースだ。中は狭くて暗くてカビ臭い。私がノックをせずに入ると、ドアのすぐ前に誰かが立っているのが分かった。そしてそれは私の先輩であるみづきさんだった。
「あ、美波」
「お疲れ様です。みづきさんもう上がりですか?」
「なわけー。これから夜の部ご指名だよ。」
ちょうど着替えていたみづきさんの下着は派手だった。ブラジャーは赤と黒のレースに飾られて、その綺麗な太ももにはガーターも付いている。ガーターなんて、普段使いしてる人はよほどのビッチか、ビッチだ。
「今日はどうだったの?」
「フツーです」
「良かった?」
「可も不可もなく、ですよ」
「そっかあ」
「みづきさんもそんな下着、普段からですか?」
私が「そんな」と言ったからか、みづきさんは一瞬じろっと私を睨んでから「羨ましいのー?」とニヤニヤ顔に表情を変えた。
「美波にはまだ早いかもねー」
「煽られても何も思いませんよ」
「そ」
確かに二十歳そこらの私が赤黒なんて着けたら、そう考えるだけで鳥肌が立つ。周りの同年代だってそんなのは見たことがない。店で試着するのでさえ躊躇するだろう。それをやすやすと乗り越えてしまうのはすっかり出来上がった女の証なのだろうと私は思った。
「でも美波、そういうとこは本当に大人だよね。精神年齢が高いっていうかさ。リリーさんと比べたらよく分かるわ」
「みづきさん、それ褒めてます?」
「うーん、半分悪口?(笑)」
「やっぱり」
私は周りからよく、「大人っぽい」と言われてきた。いちいち他人からの評価をいつからか気にしなくなったが、ふとどうしてだろうと考えた時、それは冷淡で温かみの無い性格のせいだと思った。悪く言えば人を見下げていて、他人に興味が無い。どうでも良い。言い方はいくらでもあった。きっとそのせいで大人に見えるのだろう。けれど自分が一番分かっていた。そんなのにはなり切れていないこと、自分の精神の未熟さを。まだ独りで立てるには程遠かった。
「そういや美波、あれ聞いた?」
「え?」
ローションのボトルをプラスチックのケースに戻していた時だった。唐突にみづきさんが私に話を振った。
「美波、店長特命あるらしいよ?」
「え?」
「リリーさん言ってた。指名じゃないけど、頼みたいお客さんがいるって。」
「聞いてないですけど」
特命とは何の事か。私にはさっぱり身に覚えが無かった。わざわざ「特命」なんて大袈裟な言い方をするところがいかにもリリーさんらしい。まあきっと、JD目当ての新規か、そんなところだろうと踏んで私は大して気にしていないように振る舞った。
「知り合い?前のお店のお客さんとか?」
「いや、私ここが初めてなので。」
「あ、そっか。ま、特命って言うくらいだから、よっぽど太客なんじゃなーい?」
「だから、何も聞いてないんですけど。」
「じゃ帰る前に聞いときな?」
面倒な事が増えたなと思いながら横を見ると、不意にみづきさんのグラマーな身体が目に入った。ひと回りも大きな胸に、腰のくびれは緩やかなカーブを描いている。女性の身体のお手本のようだった。若さでも、艶やかさにはやっぱり勝てないと思い知らされる。自分も人並みに奉仕できるほどに身体は膨らんだと思っているが、出るところがしっかり出ているのが羨ましかった。
「タワマンらしいよ、タワマン。」
「はい?」
「その人。海沿いのタワマンに住んでるんだって」
「そうですか…」
「え、驚かないの⁈」
「驚くって何が?」
「タワマン住みは、大体金持ち。つまりチップも弾むのよ?ラッキーじゃんか」
「はあ…」
「美波、ほんと変わってるよね。お金にあんま興味なさそうだし。」
「まあ」
「やっぱ、変わってるよ。」
そのまま私服のブラトップに着替えていた時、外から「ちょっと!美波ー?」と店長の呼ぶ声がした。
「たぶん特命の話だよ」
そう唆すみづきさんに比べたら、私はだいぶ冷めていた。太客、タワマン、チップ。そう聞いて心は微動だにしない。躍動すらしない。だから「そのうち行きまーす」と店長には能天気に返しつつ、自分のペースでその先の着替えを続けていた。
「ちょっと、美波ぃ?入るよ⁈」
「その前にリリーさん、男なのか女なのかはっきりさせて下さい」
「えーむりぃ。アタシはどちらでも無い、オンリーワンの存在だもーん」
ああ言えばこう言う。わざとらしく「何かサイズ合わなくなったかなー」とか呟きながら、頭の中では別の事を考えていた。
「美波、ほんと変わってるよね。お金にあんま興味なさそうだし。」
その言葉を、考えていた。みづきさんはたまに的を射たことを言う。何気なく、残酷に。そして私服に全て身を戻してから私は更衣室のドアを開けた。「もう、着替えが遅い女は嫌われるわよ!」と文句を言う店長をスルーして、「で、特命って何ですか?」と問い正した。
「もうようやく出てきたと思ったら不躾に」
「じゃあ帰りますよ?」
「はいはい。ほら、これよこれ。」
「?」
「タワマンの太客様。」
「らしいですね」
「頑張ってくれたら、お給金もたっぷり出すからねー」
リリーさんが差し出したメモにはそのお客さんの住所と名前が書かれていた。相変わらずその字は小学生のように雑で汚い。そしてその名は、「美木浩」と言った。みき、ひろし。名前からはさっぱり分からないその年齢、仕事。でもタワマンが建っている住所は、臨海部の高級街だと私でも知っていた。
「どういう方なんですか?その成金。」
「いきなり何よ。興味持った?」
「別にそういうんじゃなくて。成金なら素性が気になるじゃないですか。反社とかは嫌だなって」
「反社って。美波、アンタほんとに言い方。それに成金なんて令和のこの世じゃ死語だわ」
リリーさんはそう言いながら「し・ご」「分かる?死んだ、ことば」と私を煽るようにした。それくらいは普通に分かる。随分馬鹿にされたものだなと感じながら、私は話を無理矢理進めることにした。
「で、何で私が担当なんですか?」
「へ?」
「みづきさんとか、高級なお客様には経験豊富な人を回した方が良いと思いますけど」
「美波、自分を卑下しても何も美味しくないわよ。アンタまだピチピチなんだから、その身体使える時に使いなさいな」
「そっちも言い方…」
「しっかり前払いして下さったお客様なんだから安心しなさい。変な人じゃないわ。」
「ふーん」
どんな嬢が来るかも分からないのに前払いか、と私は思った。よほど誰でも良いという事なのだろうか。この手のサービスには「チェンジ」という概念がある。お客さんが事前に嬢を指名しない限り、相手はその店が勝手に決めて良いことになっている。が、それで差し向けられた嬢に満足してもらえなかった場合は、他の嬢に替えられたりするのだ。だから基本的には指名が前提で、お店任せで加えて前払いというのはなかなかに珍しいケースだった。
「でも、ランダムで、さらに前払いって。私、聞いた事無いですけど。」
「ホントよね。アタシもこの五十何年の…って、いや別に問題ないから。エブリシングイズオーケーだから!」
「本当ですか?全く信じられないんですけど」
怪しい、胡散臭い話だ。どうも無理に押し通そうとしているように見えるのは、きっと真実なのだろう。私の勘がビンビンにそう言っていた。
「本当に、問題無いんですか?」
「ほんと!もう、何回言わせんのよ」
だから、真実を知るために、私は必要以上にリリーさんを問い詰めるという作戦を取ることにした。しかし、これはなかなかに手強かった。この人は百戦錬磨のオカマだ。ちょっとやそっとの事では動きはしない。そこで私は奥の手を使うことにした。そうでもしないとこの人から何かを引き出せそうにはなかった。
「本当に本当の事、言ってます?」
「だーかーらー」
「あ、そうだ。もし嘘ついてたら、リリーさん、残業代未払いなの労基署に通報しますよ?」
「はっ!」
「良いんですか、営業停止だけで済みますかね…」
「済まないでしょうねー?そんな事、アタシだって、重々、分かってますけど?」
「じゃあ、労基署に言っても良いって事ですか?」
「美波、アンタ、クソ女ね!」
すると、その人は急に真面目な雰囲気を醸し出した。店長はいつもずっとふざけている訳ではない。ただそのスイッチがオカマなりにぶち壊れているだけだ。
「強いて言うなら…」
「強いて言うなら、何ですか?」
「……ちょっと…難アリかもしれない」
「は?」
難アリ、とは。私の頭の中には色々な想像が巡った。こういうサービスを頼む客の中には様々な嗜好・性癖を持った人たちがいる。マゾとかサディスティックはまだ良い方で、常人の考えでは理解できないような行為・モノに興奮を覚える人間がいるのだ。私もみづきさんたちから過去のヤバかった客の話は聞いていた。そのどれもがゾッとするものだったが、私は幸いまだそんな客に当たった事は無い。だからようやく、シバかれるか何かされるのだと勝手に想像していた。
「え、難アリって何ですか。嫌なんですけど。」
「大丈夫だって」
「え、何を以って大丈夫と言ってるのか分からないんですが。」
「難アリかもしれないけど、ま大丈夫だから」
「?」
「バイオレンスな方じゃないから。それにあんたを押し倒すなんて事はしないわ。出来ないだろうし」
「出来ない?」
「ま、いつも通りでいいからね。」
「いや、いつも通りって」
そんな店長の返しを聞いて私はまた考えていた。勝手な人だ。一体何を押し付けようとしているのか。バイオレンスな方じゃないと言ったら、何なのか。大体雇用主なんだったら従業員を守るために情報提供くらいしろよ、と思いながら私は大きくため息をついた。
「何?タワマンの長者、お相手したくないの?そんなに嫌ならボーナスはみづきに譲っちゃうけど?」
「別に」
「アンタどこぞの女優じゃないんだから、素直になんなさい。奨学金とか諸々借金地獄なんでしょ?」
「それは、」
本当にこの親父は、とキレそうになる。人の弱みをしっかり掴んで、ここぞという時に振りかざしてくる。それも、自分がやり込められた腹いせに何倍にもして返すとは。こんな意地汚い大人にはなりたくないと、私は常日頃から思っていた。でも、借金地獄なのは紛れもない事実だ。下手に変な私立大に入ってしまったがゆえに、自分の人生の行く先が既に薄暗い。体面上はそのためにここで働いている。
「ま、社会人になってから、社会の狭さ、苦しさ、やるせなさにまみれながらも借金を返すために死ぬほど働くって、アンタ決まってるんだから。未来の負担少しでも軽くしなさいよ。徳は今のうちに積んどくの。」
「徳って、むしろ穢れでしょ。」
「あー!もう何てこと言うの!アタシ、マジでプッツンするわよ!穢れじゃないわよ!みづきに謝りなさい!」
「みづきさん今関係無いし…」
「もう、つくづくアンタはこの仕事好きなのか嫌いなのか、よくわかんないわ!」
そうやって店長と言い合いをする私の後ろを、当のみづきさんが颯爽と去っていった。激昂するリリーさんから目を離して見やると、さっきの下着の紐が透けていた。この人も、これからまた戦いに行くんだなと思いながらその妖艶な雰囲気に気を逸らしていると、リリーさんが「美波っ、人の話を聞きな!」と私の頬を引っ叩いた。
それから事務所を出た頃には、もう暗くなっていた。意味のない番号を光らせながら何台もバスが駆けて行き、まだ多くの人が運ばれていく。それを見ながらまた私は歩き始めた。もう道に人は居ない。右手にはさっきのメモを握って、難アリってなんだよ…と心の中で呟く。この事務所の中で一番若くて新入りの私にとりあえず厄介なお客を押し付けた、みたいな顛末なのだろうと予測して、それを今一度考えてしまったからか胸に嫌気が差してきていた。とか言って、どうせ私はこのタワマンに行く。病気みたいに。求められる限り、私はそれに応えるのだろう。澄ました自分が大人になりきれていないのは、こういうところで。身体じゃなくて中身だ。
「難アリって、なんだよ」
思わぬ呟きに前から歩いてきたサラリーマンがちらりと私の方を見た。それに気づいて私はそっと目を逸らす。その人が遠くに行ってから、そして「…めんど」ともう一度溢した。結局好きなのか、嫌いなのか。傍から見れば馬鹿なコトをしていると大人は言うはずだ。「親が悲しまないのか」とか、「生きていて幸せなのか」とか。実際コトが済んだ後に、父親面をしてそんな台詞を投げかけてくる客もいくらかはいる。その度に私は「関係ないから」と口答えをした。
大体、私には悲しませるような親はいない。
それに、幸せなんて必要なかった。
そう、癒す…だけ。
それはただの言い訳で、私の本当の思いはもっと奥底にある。「なぜ」と誰かから問われても引き出せないほどずっと奥深くで、私でも覗きたくないほど深遠だった。
2章
「たっか…」
首を目一杯曲げても、その頂上までは見られない。何枚もガラスが縦に連なっていき、雲と同じくらいの高さにアンテナか何かが立っている。もしかしたらヘリポートかもしれない。この巨大な建築物は、首都直下地震でも来たら大きな振り子みたいに揺れるんだろう。タワーマンションというからにはしっかりタワーなのだと、私は思った。
「成金、か」
その日私は、例のタワマンにいた。リリーさんに頼まれた「太客」の相手をしに結局ここに来てしまったのは、紛れもなく私の弱さだ。みづきさんにあれこれ言われながら、いつもよりも化粧を濃い目にして、普段は気持ち程度の香水も余すことなく付けてきた。移動の間、周りの目が少し痛く感じたのはそのせいだろう。まともな人間なら仕事をしている平日の真昼間。こんな時間を指定してきたのは、豪華なタワマンに住めるほど悠々自適な暮らしを送っているからなのだろうか。私は想像を巡らせていた。一体どんな社長、経営者?それともスポーツ選手。駅前から海近のここまで歩いてくる間に勝手な妄想をして、私はその時を待った。いずれにしても、優しくシてもらえるならいい。そう思った自分は馬鹿馬鹿しいくらい単純だ。
いつまでも屋上を見上げている訳も無く、私は石畳の通路からその敷地へと入っていった。見るからに嬢という格好をした自分と不釣り合いな景色に恐る恐る歩みを進めると、大きなエントランスが見えてきた。車止めの周りから既に大理石が使われていて、その真上には防犯カメラが何個も付いている。こういう家には住んだことも来たこともない。
「あの、ザ・ヘヴンですが」
玄関横に据え付けられた呼び出し機は、その表面がしっかりと磨かれ銀色に渋く光っていた。部屋番号を押すと呼び出し音が鳴って、私はそこで何か返事が来るのを待っていた。セールスマン対策なのか、インターホンのすぐ向こう側に警備員室が見える。そこから白髪の警備員が私の事をじろじろと見ているのを感じた。上目遣いでその視線に応じると、男だからすぐに落ちた。しかし、インターホンの向こうからは何も聞こえてこなかった。
「…」
「美木、さんのお宅ですか」
「…」
私は変だなとこの時感じた。何度か呼び掛けてもツーという音がするだけで返事はない。リミットでそれが切れてもう一度部屋番号を押すと、呼び出し音が再び鳴った。
「…」
「美木さんのお宅でしょうか」
「…」
「私、ザ・ヘヴンから来ました」
「…」
「美木さん、ご在宅ですか」
「…」
「あの、」
すると、不意にエントランスのドアが開いた。私よりもはるかに背丈の高い二枚ドアが左右に大きく開き、私はその中へと招き入れられた。その時も、何も声は聞こえなかった。だからとりあえずカメラに一礼して入ると、……そこには華やかなロビーが広がっていた。ここが、下手な庶民には到底住めない場所だということがよく分かる。中央には噴水が高く水を上げて、緑と花々がその周りを囲う。片隅には私と同じくらい化粧を濃くした受付嬢が「コンシェルジュ」と銘打って佇んでいる。その女性と目が合うと「なんだこの女」と抉られるような視線を向けられたから、私はそれから逃れるようにエレベーターホールを探して去った。
「難アリ、か…」
リリーさんの言葉を思い出して、私はやきもきとした。もし、裏メニューを平気で頼んでくるような輩だったら。こんな豪邸に住むレベルの人間に求められたら、断れないかもしれない。本当は有り得ないだろうけど、裏社会の人間の長という可能性もある。そうなったら私も終わったなと、エレベーターの中で私は儚げに考えた。本番に応じないと指詰めでもされるんだろうか。でも本番はお店のルール的にもアウトだ。本番は禁止。法律でも決まっている。だから一層気を引き締めようと、私はショルダーバッグの肩紐をぐっと強く握った。
「景色はそこそこ、か…。」
そしてエレベーターで昇った先には、青空に陽が差していた。エレベーターの階数表示から分かったのは、このタワマンの頂上は五十階だということ。その中途半端な十四階という階数では、窓からの東京湾にもそこまで驚かなかった。前にどこかで見たような、何の変哲もない景色。千葉までは見えなさそうで、その手前にタンカーがいくつか浮かんでいるだけだ。真下を歩く人の頭もまだ掴めそうなくらいには大きい。ふと、このタワマンの中にもきっとヒエラルキーがあるのだろうと私は思った。最上階の人間はきっとより成金だ。なら、今回のお客様は上の下か、中の上くらいの人なんだろうと。
「美木、美木…」
廊下を歩き二号室の前に辿り着くと、私はそこに表札を探した。しかし、1402と書かれているだけで、ドアに「美木」とかそれらしきものは何も無かった。私のメモが間違っていなければ、例のお客様の部屋はここのはずだ。ただ、それ以前にこの部屋には変に生活感が無かった。私の縦横二倍ほど大きいドアの周りには何も置かれておらず、ただただ電気のメーターが回っているだけだった。ドア板のニスは一片の剥がれも無く、玄関の床には泥汚れも付いていない。……それでも、中に誰かは居るようだった。その気配があった。それは、空気みたいな音がしたからだ。何の音かは分からない。入って抜けるようなそんな音がドアの向こうからして、それに合わせるかのようにメーターがじりじりと音を立てていた。
「美木さん、ご在宅でしょうか。」
ドアベルを鳴らした後に、私はそっと呼び掛けた。ただでさえ木製で艶やかなドアは厚くて声が届きそうにない。けれどこんな廊下で店の名前を叫ぶ訳にもいかないし、お客さんの名前を呼ぶしか仕方なかった。
「美木さん?」
どれだけ私は待っていたのだろう。途中他の住人が通りかかって気まずく顔を逸らした他は、私は中にいるであろう客の返事を待って、廊下の窓の外を少しだけ眺めていた。その、繰り返しだった。
「美木さん、いらっしゃいますか」
「…」
しかし永遠に無言が続いた。それで痺れを切らして「不在なんですが、」とリリーさんに連絡を入れようと思った時だった。「はい」と薄く遠く、声が聞こえた。その声はとてもか細いもので、大人の男性には到底思えなかった。
「…え?」
まるで…子どものような…。
でも、有り得ない。
こんなサービスを、子どもが依頼してくるはずがない。
だから私は思わず笑ってしまった。それこそアウトだ。有り得ない。
なら、いたずら?
子守りは仕事じゃない。
帰ってリリーさんを問い詰めようと思った。
特命だなんだで焚きつけておいて、結局高級子守りをやらされるのかと。
当然私はベビーシッターをするためにしているんじゃない。
それで段々私は呆れを通り越して、苛立ちを覚え始めた。
大学の空きコマにハマの果てまで来て、と思っていた。
「…」
「…あの」
「…はい?」
そうやって自分の脳内に呆れとも怒りとも言えない感情が巡り走っていた時、さっきの声がもう一度ドアの向こうからしたのだった。それはやはり細くて、少年のような声だった。その声が厚いドアの向こうから蚊の鳴き声のように届いている。私が怪訝な気持ちでドアに耳を近づけると、その声が少しだけしっかりと聞こえるようになった気がした。
「…美木です」
「すみません、間違えてしまったかもしれません。」
「あ、いや……」
その子どもは自分を「美木」と名乗ったから、余計に奇妙だと思った。受け答えも子どもの割には変に大人びている。毛の生えかけた大人か、背伸びした子どもか。段々とその声の大きさも聞こえる位には大きくなって、私と扉の向こうのその人は知らずのうちに会話を交わしていた。
「…多分、合っていると思います。」
「はい?」
「……美波、さん、ですよね」
細くて消え入りそうな声で、彼は私の名を呼んだ。よく耳を澄ませば機械が動くような音もする。何で私の名前を知っているのか不思議に思った。
「…」
けれどそれを考える間も無く次の事が起きた。ドアが開いた。誰かが開けたのではなくてロックが解除されてすーっと自動で開いたようだった。大きく内側に回ったドアは、分厚くて大きく、そして独りでに開いたのだった。
「…え?」
しかし、ドアの向こうには誰もいなかった。ずっと暗闇が続いているだけだった。
「どうぞ」
その声の主は私にそう言った。すーっと、蒸し暑い外廊下に冷気が吹き出してくるのを私は肌で感じた。けれど、全く見えない。扉の向こうは薄暗くて、その中がどんな部屋なのか、どれだけ広いのかも分からなかった。ただ、長い廊下が暗闇の中に真っ直ぐ続いているだけ。無造作に開いたドアの前で立ちつくす私は、次の行動を決めかねていた。そうするしかなかった。
「あの…」
「はい?」
確かにその人は答えている。ただ私が思い描いていたイメージとは全くと言っていいほど違う。成金どころか、大人でもない。何なら同い年か年下なのではないかと思う。だから、何というか興醒めだった。あれだけリリーさんに「難アリ」と焚き付けられて、結局これかと。正直、裏社会のボスか何かだと思っていた。暴力団か、過激派か。それとも政界のフィクサーとか。そういうトップランクの人間にあてがわれて、愛人契約でも結ばれるのかと思っていた。そうなったら当分逃れられないだろうなと考えていた。むしろ逃げられる時は、この世から消されるだろうと。それに、これから何が起きるのかさっぱり予測が出来ない。気温が二度くらい低い部屋の中に片足だけを踏み入れると、より一層前の廊下は長く感じられた。その微かに灯りが見える方に向かって一歩一歩歩み始める途中で、どこからか子どもがひょこっと出てくるのを待って、私は気を確かに持っていた。けれどその兆しは無く、段々と機械と空気のような音が大きくなるだけだった。
「あの…」
「はい」
なんでこの人は「はい」としか答えないのだろう。私はふと思った。こういう意味不明な現象を前にすると、人は意味不明な事を考え始めるらしい。一歩ずつ歩みを進めながら、私はふと「まさか襲われるのでは」と、そんな事を頭に過ぎらせていた。馬鹿馬鹿しい。けれど全否定は出来ない。こういう仕事をしている人間が恰好の餌食になるのは、切り裂きジャックの頃から変わらないはずだ。でも、馬鹿馬鹿しい。
「切り裂きジャック…」
自分の思考が口から漏れ出ているのに気づきながら、私は少し歩幅を小さくした。まだそれは闇の中で、目の前に灯りが見えているだけだった。そして安直にこれから殺されるのかと想像した。やっぱり人は唐突に死ぬんだなと諦観し、それからやり残した事を連想した。でも、特に思い当たらなかった。冷蔵庫に春雨サラダを入れたまま。今月の寮費を払っていない。来月に好きな映画の続編が公開される。夢や将来よりもそんな事が先に思い浮かんだのは、私の人生の安っぽさだった。
「……あの、美木さん?」
「…」
「…ザ・ヘヴンですが…」
「切り裂きジャック…?」
刹那、私の呟きをオウム返しした人がいた。それは私がその廊下を果てまで歩き切った時、その人は私の方を見て再び問いかけた。「切り裂きジャック…ですか?」と。それも、私の顔よりも、胸よりも、腰よりも、低い位置から。か細い声で。
…その人は、大きくて機械に囲まれたベッドの上で、臥せっていた。
「…………」
「すみません、玄関まで行けずに」
「……は…」
「驚きました、よね」
「……いや…」
嘘をついた。仕事柄、嘘は上手い。けれど、驚かない訳がなかった。タワマンで豪遊をする成金相手に化粧を濃くしてきた末に、こんなにタワマンには到底似合わない人に出会った。
その人は、三十にもいかない位若く見える。
それにベッドに横たわって、線の細い、声も細い、青年だった…。
寝そべる身体を見ると、私よりも背丈は高そうだった。170くらいは優にあるだろう…。
体躯も青年と呼べるほどには幅があって、質量を感じさせた。
それに無精ひげを顎に生やしているから、少なくとも中高生ではないようだった。
文字通り私を見上げているこの人は、私に本来の目的を忘れさせた。朝、ザ・ヘヴンに行って、着替えて、リリーさんにグチグチ言われて、そのまま海の近くまで歩いてきて。私はこの後、紳士の為にご奉仕する。はずだった。それが私の仕事だったはずだと。
「美波、さんでしたか…?」
「…そうです」
「…初めまして、美木といいます」
「どうも…」
その人、いや、美木さんは、私の顔をしっかり見据えて、微かにお辞儀をするように頭を動かした。病床に臥せるという表現が的確かは分からない。けれど確かに身体をベッドに横たわらせたまま、私の方を見ていた。白い頬は病人というわりには痩せておらず、いくらか肉が付いている。それに腕もそこそこに筋肉が残り、男性らしさを見せていた。けれど、もし精一杯力を出されたらねじ伏せられそうな、そんな雰囲気も漂わせていた。
「すみません、緊張してて。気にしないでください」
「はい…」
この人は、何なのだろうか。私が最初に抱いた疑問はそれだった。病人なのか、成金なのか。この人は、何なのか。ベッドの周りをふと見ると、かなり雑多な光景が目に入ってきた。病院で見るような機械がいくつか並び、その足元にはコードが乱れて走っている。そしてそれぞれが勝手に動き、音を出し、波形とか数字とかを表示させていた。どうやらその機械の一つから空気か何かが送られているようで、繋がったチューブからさっき聞いたような音が漏れていた。その時私は、この人はこの機械達に生かされている、そう直感した。
「僕…何歳に、見えますか?」
「え」
美木さんは不意に問いを投げかけた。思わず身構えるほどその問いは唐突で、向こうに自ずと主導権を握られているような気分になった。上手だ。その美木さんの目を見ると、卑しいサービスを求めている人間には思えなかった。亜麻色の瞳、それが私を見ている。今まで接してきた人間のどれよりもその瞳は澄んでいて、無邪気さとけなげさを併せ持っていた。ただ、私はそれをすぐに信じようとはしなかった。この人がどういう人間であるのかを自分で納得しない限り、疑いの気持ちを持ち続けなければならないと身に覚えさせるようにした。
「大丈夫ですよ。成人は、とっくにしてますから。」
「ああ」
「…驚き、ましたよね…」
「…」
「驚かない訳、無いと思います。大丈夫ですよ。気にしませんから…」
「すみません…」
この人は、自分が相手にどういった印象を与えるのかというのを熟知しているようだった。それは今までの経験からなのか、洞察力が良いのか。でも、正直この様を前にしたら誰でも同じような反応をするだろうと私は思った。この、ある意味異様な光景を前にして普通にしていられる人間は感受性が皆無なのか、よほど鈍い。私が今居るこの空間は、ただ白い広い部屋で、そこにはベッドと機械しかモノが無い。本当にそれ以外は何も見当たらなかった。採光窓は縦に大きく口を開けて、そのガラスから海と反対側の横浜の街並みが見えていた。高層ビルがいくつも並ぶ中には知った場所もある。私が足を踏み入れたのはこんな、無機質で淋しい場所だった。
「美波さん…ですよね…」
「…はい」
「一つ…お聞きしたいことがあって…」
「え?」
唐突に、美木さんは話を切り出した。まだその部屋と空気感に馴染めていない私は、ワンテンポ遅れてその声掛けに反応した。彼もまた、普通よりもゆっくりなスピードで、時折咳込みながら私に話した。寝たきりの青年の弱々しさが作る空気が私をすっかり呑み込んでいた。
「僕、死ぬまでに…卒業したいんですよね」
「は?」
「童貞」
「?」
私は明らかに、病床から「童貞」という言葉が投げかけられた意外性に動揺していた。まだ遭遇して数分のうちに、この人とそのような話をするとは想像だにしていなかった。だから、私は何か答えを返そうとした。それは相手に舐められないためであり、自分を気高く保つためでもあった。私は勝手に、この人はその為に私を呼んだのだと踏んだ。ふざけているのか本気なのかはさっぱり分からない。でも、冗談にしては重すぎた。
「僕って…対象外、だったりしますかね」
「対象外…?」
「…はい」
「それは、どういう…?」
「…僕のこと…人間に見えます…?」
「?」
また質問が飛んだ。そして私は、こういった頭の良さそうな人間からの問いかけは厄介だと思った。きっと何か答えがある訳では無く、その答える人間の人となりを見ているのだと。今、私は私という人間の価値観や基準、人間性を観察されようとしているのだと感じた。それはまた、この美木という人間がよほどの不信か挑戦的な人間であるということも同時に示していた。
「人間だと思ってくれたら受け入れてくれるかなって、それで…お願いしたんです。」
「人間…ですか……?」
美木さんは鋭い表現で、自分の事を嘲った。人間だと思う。対象外。それは自虐するにも深過ぎる、自らに一切の価値を見出さないようなそんな語り口だった。
「僕は、自分じゃ起きられないし、息も…上手く出来ません。し尿も…垂れ流しです。」
「…」
「それに…起きてから…寝るまでベッドの上。きっと死ぬまでずっと。」
「死ぬまで」というフレーズが発せられた瞬間、その部屋の空気が少し締まったのを感じた。当たり前のように対していた私も、その時初めて「この人は、死ぬかもしれない人なんだ」と自覚して、このぐらいから自分の置かれている状況を客観視出来るようになっていた。その異様さを肌にピリピリと感じるようになっていた。
「もし、対象外だったら…早めに伝えて欲しくて。こう見えて、そんなに…メンタルは強い方じゃないんです。」
「はい…?」
彼は私が返す間も無く、とうとうと言葉を発した。私に結局答えて欲しいのかも分からないほどに語っていた。その声は相変わらずのか細さだったが、この人が確かに生きているというその息吹を感じるほど強い言葉だった。
「すみません…初対面なのにベラベラと。」
「…いや」
「こんな寝たきりの変な奴…初めてですよね。」
「…まあ…」
「ふふ、」
「?」
「美波さん、割とはっきり言われる方なんですね(笑)」
「あ…すみません」
「……それでも…、まだ生きてるんですけど、ね。」
質問に答えただけでどこか悪い事をしたような気持ちになる。はっきり言うのはどっちだと思いながら、私は愛想笑いでそれをかわした。きっと美木さんは頭の良い人なのだと思った。私よりも何枚も上手の、頭の回転が速い人間なのだと。しかし、意地の悪さも感じた。背後にある暗さを私は感じ取っていた。
「それで、繰り返して…あれなんですけど」
「はい」
「僕は、対象外、ですか…?」
この人はさっきから、そればかりをしきりに気にしていた。「対象外」。この言葉に彼のどんな意味が込められているのか。それを正確に読み取らない限り、どんな返しも私は賭けになると分かっていた。でも。対象外と言われても、何をもって対象なのか正直よく分からなかった。自称は成人済みで、男で、それでお金を払ってくれるならこれはサービスの範疇に入るという事なのだろうか。ただ、相手は寝たきりの素性の分からない病人だった。高級住宅地に建つタワマンの中途半端な階に住む、若い青年だった。
「対象、ですか…」
私は自分の体感よりも長い間黙っていた。きっと。対面してから詰問されるまでの時間が短すぎて、私にも思考を整理する時間が必要だった。つまり、彼が言っているのはどういう事なのか。そもそも言葉通りに捉えれば、彼の願いを叶える事は私にはできない。その、「卒業する」という行為はやすやすと法に触れる。その前までなら、仕事だと割り切れば、この人に奉仕する事も気にならないかもしれない。だが、美木さんという人は控えめに言って私の好きな人間では無いと直感していた。その知性にはどこか傲慢さと自信も見え隠れして、そのうえ美形だったから余計に癪だった。そして、この人の、そう、その、「機能」はちゃんと残っているのかと下世話な勘繰りをしてしまった。そうでなければ仕事にならないし、今日ここに来た意味も無くなる。本末転倒だ。
「…」
「…ですよね」
「…」
美木さんは答えに戸惑っている私にしびれを切らしたのか、沈黙を小さな声で破った。正直、分からない。言ってしまえばこの人は私と違うタイプの人で、社会から手厚いサポートを受けているだろう人で、私が関わった事の無い種類の人間だ。成金どころか寝そべっている。装飾煌びやかな大きな部屋の中にベッドと機械しか置かれていないその異様な光景に、私は徐々に気付いていった。呑まれていた。変。そう、変。変な状況が私を取り巻いていて、奇妙だった。気味が悪くなって、悪寒が急に走った。
……同じだ。
「…はい?」
この光景、同じだ……。
「美波さん…?」
この光景、あの時と同じだ…………!
「どうしました?」
パンと花火が弾けるように、頭の中に閃光が走った。それから、身体全体が地面にめり込みそうになるほどの重力を感じた。自分の心臓に鉛玉を結び付けられたような、そんな感覚だった。逃げたい。身の毛もよだつようなこの感覚から逃げ出したい。逃げ出したかった。それで気付いた時には、私は広間を後にしていた。何も置かれていない廊下を足早に抜けて、さっきの厚いドアを開けた。ひんやりとした部屋の空気が一転して、初夏のむっとした熱気に変わる。背後でドアが閉まる音がして私は窓に駆け寄った。ただただ眼下の海を見つめていた。逃げた。私は初めて逃げていた。あの男が怖かったからじゃない、生理的な拒絶反応。右の首筋に滴る冷たな汗を拭ってから、頭皮からもそれが噴き出すのを感じた。そのせいでメイクの上地が溶けていく。変に濃くしたせいで、いつもよりも滲む量が多かった。
「難アリ、どころじゃない」
ああいう人に奉仕したことも無ければ、この店がそんなサービスをしているという話を聞いた事も無かった。リリーさんに酷い仕打ちをされたと思った。あんな人間をあてがわれるなんて、私は予想だにしていなかった。そんなの予想出来た筈も無かった。「人」に対して気味が悪いという感情を抱くのは道徳的に悪い気もする。けれど、気味が悪かった。得体の知れないというのはこういう事だと思った。
対象とか…、……対象って、何………?
私には、何も分からなかった。
3章
あの人は…一体誰なのか。私はふと、検索エンジンに「美木浩」と入力していた。それは淡い期待を抱いてのことだった。こんな情報化の時代にも、特定の人名がヒットするほど簡単ではない。だからどうせ出てくるはずがないと諦めつつ、私はその名前を入れた。もし有名な金持ちだったら何件かヒットするかもしれないと思っていた。名前を入れた後に、自分の思考の浅はかさが恥ずかしくなった。青年実業家でもない限り、あんな病人、きっと無名だ。けれどググった矢先、ある大学のサイトが全く関係が無さそうなニュースと広告に埋もれてヒットしたのだった。
横浜大学 基幹創造理工学院 先端エピジェネティクス研究室
意外なサイトが引っ掛かって、私はさらに怪訝に思った。せめて出てくるのは若々しいベンチャー企業のホームページか、それとも投資家か何かのサイトだろうと踏んでいたからだ。しかしヒットしたそのサイトは、書いてある名前からして何の事かさっぱり分からない。知っていたのはその大学の名前くらいで、神奈川ではトップの名門大学だという知識があった。そういえば、日本の中でも上位にランクインしていたはずだ。私みたいな底辺女子大生には縁のないエリート校。私がそのサイトをタップすると、出てきたのは更に解読不能な研究説明だった。
「エピ、ジェネティクス…?」
エピジェネティクス(後成学)とは、一般的には「DNA塩基配列の変化を伴わない、あとから加わった修飾が遺伝子機能を調節する制御機構。これら細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域」である。
控え目に言って、さっぱり分からなかった。生涯文系で生きてきた自分には縁もゆかりもない学問分野だ。自分の無学さを「流石エリート大学」と溢して嘲笑うと、そこで不意に私は「美木浩」の名前を見つけた。
「あ…」
化学式や何かの羅列の隅に並ぶ研究室のメンバーの名前。美木という人には「D1」と肩書きが付いていた。ドクター、博士課程の院生、なのだろうか。ただ、これがあの寝たきりの青年という確証は何一つ無い。これがあの男と同一人物なのかは分からなかったからだ。サイトに書かれているのは名前だけで顔写真はアップされておらず、だから確認のしようもなかった。ただ有り得る、というだけだ。基幹だか創造だか紛らわしいし、理工学も私には馴染みが無い。挙句の果てにエピジェネティクスとは。さっぱり訳が分からなかった。そして不意に、私はページの隅に書かれた日付を見つけ、それが最近の更新であることを認めた。もし、あの美木という人が現役の大学院生だとしたら。仮定の話ではあるが、もしそうだとしたら。……何故…?
「…僕のこと、人間に見えます?」
あの人はそう言った。その言葉は私の耳にこびりつくように残っていた。最大限の自嘲に思えた。あの人は、何なのか。余程の金持ちでなければあんなタワマンには住めないだろうし、そのうえ、病人だ。あそこに一人で暮らしているのなら、どういう生活を送っているのか。そんなの考える義理も無いはずなのに、私の頭の中はそればかりが巡っていた。人間か屍か、生きているのか死んでいるのか。それさえもおぼつかないレベルで、中途半端な階に住んで、機械に囲まれたベッドの上に横たわる。あの人は、何なのか。私は、あの時襲われた以上の奇妙さに取り憑かれていた。もはや変な夢に思えた。あれは、変な夢で、明晰夢。そんな気までした。
「……さっぱり、ワカメ。」
これ以上考えていたら頭がおかしくなると思った。ワカメってなんだよと自分に毒づいて、私はカウンターの上にスマホを投げた。昼間のこの時間帯、リリーさん以外の嬢の人たちはまだ出勤前だ。
「美波、お昼はワカメうどんにするー?」
「聞いてたんですか」
「舐めんじゃないわよ、アタシ昔はハマの地獄耳・リリーって呼ばれてたんだから」
私がスマホ片手にずっと考えている間、リリーさんはカウンターの奥でシンクを擦って掃除していた。あれほどやめろと書かれているのに、金属たわしでガシガシと擦る音は不快以上の何物でもなく、私は片方の手で耳を塞いでいた。
「ハマの地獄耳って、ヤンキーでもあるまいし」
「ヤンキーって。確かにアタシはヤンキーではないけど、昔は二丁目の連中と相当やり合ったのよー?店の営業権利巡って。あ、でも挙句の果てに歌舞伎町のホンモノのヤクザさんも出てきちゃって。もうー、大変だったんだから!」
「本当だかどうだか」
「で、あんた、何逃げ出してきてんの?」
「…」
そう、もちろんリリーさんは見逃すはずもなかった。だから事務所に逃げ帰って早々、私を拷問するのか何か、奥からムチを取り出してきていた。それをカウンターの上でビシバシとして、どんな言い訳も受け付けないかのようなその出で立ちに、流石の私も思わず恐れ慄いていた。
「別に、逃げ出してきた訳じゃ…」
「はー?逃げ出してきたんじゃない!じゃ、何?ちゃんとサービスして、この時間に帰ってきたって事?」
「いや…」
「ほら、逃げ出してきたのよ。」
私が悪いのだろうか。大体、あんな客の所にアサインしたのはこのオカマだし、よっぽどだったら私にもその場で拒絶する権利があるはずだ。だが、そんな事を言っても焼け石に水だと知っていた私は、怒ってプルプルとしているリリーさんに「すみませんでした」と静かに溢した。
「何?聞こえないんだけど」
「だから、すみませんでした。」
「あ?」
「ハマの地獄耳なんでしょ?」
「口答えはいいんだよ。アンタ、すみませんでした、で済むと思ってんの?馬鹿じゃないの? もう…せっかくの太客だったのに。何てお詫びしたらいいか! あーん。もうアンタのせいで商売上がったりよ!」
「はいはい、すみませんでした。」
「大体ねえ、もう世の中値上がり値上がりで色々苦しいのよ?アンタ達のお給金もちゃんとあげないと、労基署の人に怒られちゃうし!」
「…怒られるで済むんですかね」
「美波、何か言った?」
「何も」
今回は、かなり店長はご立腹のようだった。普段はイージーな感じで生きているリリーさんもお店の経営に関わるような事、特にサービスに関しては厳しかった。だから店の嬢が外で何か粗相をしたり、トラブルを起こしたり、クレーム事案を引き起こしたりした時には折檻ものだ。こんな低俗な店を切り盛りしておきながら、そういうところはちゃんとしている。それがリリーさんだった。
「アンタ、来月シフト入れまくるからね?それもランダムの。覚悟しときなさい」
「分かりましたよ…」
「ねえ、返事は『はい!』でしょ⁈ アンタ親から習わなかったの!」
「覚えてません、いません」
「あーそうでした。こりゃ失敬」
「許してあげますよ。どうでもいいし」
「あーもう、やっぱ何かムカつくわ。」
「はいはい」
「ブス!ブスブスブス!」
結局、リリーさんもあの客の支払うお金にしか興味がないのだろう。私はこの話の流れからそれを察した。あの美木浩という人が寝たきりの青年で、童貞を卒業したいと思っているという事など、店長は何一つ知らないか、知っていたとしても大した興味を持たなそうだったからだ。きっと彼自身も、リリー店長に詳しい事は伝えなかったのだろう。逆に伝えれば、それは当然断られるに決まっていた。
「美波」
「はい?」
「明日、お詫び行ってきなさい。菓子折り持って。」
「は?」
「は、じゃないわよ。この店のこと、万一でも悪く書かれたりしたらオワリよ?知ってる、今ってねインターネットっていうのがあって、そこに口コミでもレビューでも何でも投稿できて、さらにそれを閲覧できるの。怖いわよー、悪い口コミ一つでその店潰れるんだから。」
「そんなの知ってますよ」
「だからこそ!フォローが大事なの!」
「はあ」
「とにもかくにも、明日もう一度タワマン行って、謝ってきなさい。そしてたっぷりご奉仕なさい。」
リリーさんは手元のムチを縦横無尽に叩きながら私にそう迫った。またあの部屋に足を踏み入れなければならないのかと、考えるだけでぞっとした。ひんやり冷たい室温と、呼吸器の音と、あの青年。数時間も前の事なのに、まるで今起きているかのように思い出される。それだけインパクトがあった。言ってしまえば、気持ち悪かった。それにあれはフラッシュバックだった。心が、アレルギー反応を起こしていた。
「…」
「なーにアンタ黙ってんのよ。ほら、明日、行きなさい。」
「でも、」
「うるさい! 分かってると思うけど、もちろん今日のお給料は無しだからね!」
どうしてこうもリリーさんは躍起になっているのか。でも、嫌なものは嫌だった。あの得体の知れない人間に近づきたいとは、例えお金が絡んだとしても嫌だった。底なしの嫌悪感を抱いた。だから妥協して受け入れようとは微塵も思っていなかった。ただ、ここで無理に抵抗してみようとしたら結果は明白だった。私がイエスと言うまで、この人はどんな手を使ってでもあのタワマンに私を行かせようとするだろう。こうなったら、むしろ断る方が野暮だった。それくらいは、子どもじゃないから分かっていた。
「…分かりましたよ」
「え?」
「だから、分かりましたって」
「はい、決まり!損害回復、名誉挽回を命じます。」
「はあ…」
「アンタ、なんか勘違いしてんじゃないでしょうね?」
「何がですか?」
「この仕事に自尊心は要らないの。関わる人全てが目上の人。」
「前に聞きました」
「目の前の人を癒して、心地よくなってもらう事が全てなの。」
「…」
「変なプライドとか持ち込んでるようだったら、有無を言わせずクビにするからね!」
この店長の主張は的外れな気もした。特に私はプライドが傷ついたから逃げ帰った訳ではなかったからだ。理由は、きっとある。でも、クビ上等と言えるほど私の経済状態は潤ってはいなかったし、また口答えするほどの気力も残ってはいなかった。だから「はあい」とどうでも良い風に返事をして、私は着替えに裏に向かった。その背中越しにリリーさんがまた吠えていた。
日が暮れかけたキャンパスの中は、サークルに向かう学生たちで少しばかり賑わっていた。結局私はその足で大学へと向かい、その日唯一の講義だった七限に出席した。隔年開講の「医と哲学」。ほとんど人気が無いその授業を履修していたのは全学年でも十数人ほどで、回を経るごとにその出席者は漸減していった。
「これは、ヒポクラテスの誓いというものです。1508年、ドイツのヴィッテンベルク大学の医学部で教育に使われて以降、現在では世界的に医学部生教育の精神的支柱として引用されています。」
とっくに年金を受給しているだろう年齢の、恰幅の良い非常勤講師がはつらつとスピーチを続ける中、大体の学生は手元で内職をしていた。階段教室の一番後ろの席からは、教室の全てが手に取るように見て分かる。パソコンの画面なんかが、私が今何をしているか見てくださいと言わんばかりにきらきらと光っていた。
「これが実際に宣誓文として使われるようになったのは、1804年、フランスのモンペリエ大学の卒業式からです。」
「…そういやゴールデンウイーク、何も予定立ててないんだけど」
「ひとつ、能力と判断の限り患者に利する養生法をとり、有害な方法を決してとらない。」
「…どうする?今度の連休、サークルでBBQでも行く?」
「これは、まあその言葉の意味するところの通りですが、患者にとって害をきたす事は厳禁だという話です。」
私語。こういう場面を目にすると、彼らは何をしに大学に来たのだろうという思いに駆られる。教壇の目の前で自分勝手に話をする数人も、こんな幼稚さが許されるのはあと残り僅かだと知らないのだろうか。
「ああ、ちなみに、この誓いの冒頭に登場する、アポロン、アスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイアはいずれも医の神であり、アスクレピオスなんかはその杖と共に象徴として各所で登場します。」
「…じゃあLINEグルで日程調整するわ。ちょっとどこのキャンプ場良いか調べといて?」
「パナケイアは、癒しの女神です。アスクレピオスの娘であり、その名には『全てを癒す』という意味があります。」
講師ももう気にならないのだろう。おでこに走る三本皺を時折掻きながら、彼は自信たっぷりと話し続けていた。それは目の前で勝手に話す彼らを空気のように扱い、意識の中にも入れていないようだった。それが、私からするとむしろ心地よかった。
「で、誓いの本文に戻りますけど、二つめ。たとえ頼まれようと、人を殺める薬を与えない。まあこれは現代における安楽死なんかを取り巻く倫理と関わるかもしれませんが、医術を施す者はそれをしてはいけないという事です。」
この教室の中で真面目に講義を聞いているのは、右端に座る眼鏡をかけた男子学生と、私の列の真ん中でただ頷いている女子くらいだった。私はといえば、ただ徐に中古で買った教科書を広げ、横にペンを一本出しただけだ。あとは流すように話を聞いていた。パナケイア。それに妙な引っ掛かりを覚えて、授業の本質とは別に口で何度か呟いた。確か英語で万能薬を意味する、panaceaはここからきていたはずだ。まあこんな知識、秀女でもない私が知る由も無く、RPGゲームが好きだった弟が昔言っていたのを覚えていただけだった。
「三つ。生涯、純粋と神聖を貫き、医術を行う。」
「…この辺だと足柄の方かなー」
「四つ。どんな患者にもその身分の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。」
「…ラフティングとかも面白そうじゃね」
「五つ。何であれ、他人の生活についての秘密を遵守する。」
「…箱根も色々ありそうじゃん!」
「以上がヒポクラテスの誓いです。生涯純粋と神聖を貫く、というのはとても難しいことです。どんな人間でも、正しい選択と誤った選択どちらかを迫られるというのを経験します。その正しさは往々にして讃えられますが、一見誤っている選択でも、正しさの片鱗を見せる。まあこれが倫理、哲学の面白みであり難しいところでもあるのですが。」
「…グランピングとかもありだな」
「ええ、最初のところはヒポクラテスの誓いの中でも特に有名な部分であり、議論のポイントにもなりますから、考査の対策としてよく覚えておいてください。今日のレポートもここについて出します。」
「え、うわ」
レポートという単語を耳にした途端に、教壇前の小集団も授業に前のめりになり始めた。滑稽だと思う。命に触れるような話をしている前で半端に生きている連中が、私は心底好きではなかった。
家賃補助を受けて暮らしている大学の寮に帰ると、私は自室のベッドにどっぷりと身を沈めた。いつもよりも長く感じられた一日の終わりには、こうする他なかった。もう既に二十一時を回って、外に干してあった洗濯物が夜風に揺れている。日が暮れた後に取り込む洗濯物ほどやる気が失せるものは無かった。
「はあ…」
室外機を置く以外の余裕が無いベランダに裸足で降りると、足に煤が付くのを肌で感じた。すぐ向かいにあるアパートの窓からは灯りが見えて談笑する声も聞こえる。この寮を建てる時にもう少し窓の向きを考えなかったのかと、私はいつも思っていた。誰か人様の家に向かって洗濯物を干す。室内干しだと独特の生乾き臭がするからと、仕方なく下着も私はそこに掛けていた。
「絶対ビッチだと思われてそ…」
取り込む下着はどれも仕事で使ったものだ。だから全く私の好みとはかけ離れていて、色と形の自己主張がひたすらに強かった。けれど仕事道具だからと割り切って丁重に畳んで、私はそれらを衣装ケースの中に仕舞っていった。そして何も食べる気が湧かず、金庫のような大きさの冷蔵庫の中からプラケースに入った絹豆腐を取り出した。ぴっと透明な蓋を剥ぐと、中から液体が溢れ出してきて靴下に小さな染みを作った。私は思わず「うわ…」と声を漏らした。
「シンクでやればよかった」
適当に賞味期限ギリギリのミョウガを切ってその上に載せると、ボトルのまま醤油を回しかける。今晩はこれくらいしか食べる気にならなかった。不思議だと思う。本当に何も食べていない時ほどあまり食べる気にならなかったり、食べ過ぎた後にまた食べたくなったり。人間の欲は不思議だと思った。そして自分を勝手な生き物だと思った。またベッドに横たわれば、あとは眠りに落ちるだけだ。着の身着のままに。
「歯磨き…」
虚ろになりつつある目をこすって、私は歯磨き粉を勢い良くシンクに吐いた。その時また不意に、あのマンションの一室を思い出した。歯磨き粉の清潔で消毒のような風味が、綺麗に保たれていたあの部屋の匂いと重なったのかもしれなかった。
「対象、ですか… か」
私があの時…なぜ逃げたのか…?
それはもう、自分で分かっていた。本番がダメなのは言うまでもない。そんな理由じゃない。後は、あの人の人柄と…あの部屋の静謐な雰囲気だ。その雰囲気は私が誰にも触れられたくない嫌な記憶を突いてこようとした。まるであの時をそのまま運んできたかのような空気が、私に悪寒を走らせた。美木という人が嫌だとか、そういうのは正直どうでもいい。リリーさんが言うようなプライドは私には無い。だからシてと言われれば私はするだろう。他のお客様と同じようにする。ただ、あの美木浩という存在が私の過去を抉り出そうとしてくる。それが存在しているだけで、佇んでいるだけで、嫌な思い出が溢れてくる。すぐにでも死に逝きそうな様だからこそ、それが余計に強かった。だから反射的に、私は逃げていたのだった。
4章
「やっぱ、高いな…」
首を目一杯曲げてもその頂上までは見られない。相変わらず何枚もガラスが縦に連なっていき、雲と同じくらいの高さにアンテナか何かが立っている。既視感のあるその光景に以前のような驚きは何一つ存在していなかった。私はリリーさんに言われた通りに菓子折りを携え、そこら辺を歩いているようなナチュラルメイクでインターホンへと向かった。車止めには黒塗りの高級車が停まっていて、丁度アルマーニのスーツに身を包んだ老年男性がその車に入っていく。それに比べて私はよほど普通の女性に見えたのか、昨日警戒感を顕わにしていた警備員はインターホンの前をうろつく私を気にも留めていないようだった。
「こんにちは…ザ・ヘヴンです。」
また同じ番号を鳴らして、私は誰かが返事するのを待っていた。海風がそっと吹いてスカートの裾を押してくる。それを感じながら、私は背中に走る悪寒をいなすようにした。
「あの、ザ・ヘヴンですけど…」
「…」
「美木さんの、お宅ですよね…」
昨日と同じように、私に聞こえたのは呼び出し音だけだった。誰かが返事をしてくるでもなく沈黙が続く。ツーという音が聞こえる前でただ突っ立っているのは苦痛だった。
「…」
「すみません、昨日のお詫びに参りました」
「…」
「あの」
「…切り裂きジャック、にお詫びは要りませんよ」
「は」
「どうぞ、今開けます」
そしてエントランスのドアが開いた。嫌味を言われたのだろうか。それとも、冗談を言えるほどに今日は調子が乗っているということなのだろうか。私は「ああ、ありがとうございます」と曖昧に言葉を返して、とりあえず華やかなロビーに入った。平日の昼間にそこを行き交うのは宅配業者とフードデリバリーくらいで、私のような若い女性は誰一人歩いていない。下手に住民に出くわすことも無く噴水の周りを回って、私はあのエレベーターホールへと抜けた。昨日そこに座っていたコンシェルジュは今日別のシフトらしい。今日は黒髪のショートカットの女性が暇そうに椅子に掛けていた。
「…十四階、だったっけ。」
上の矢印ボタンを押してドアが開くのを待っていると、掃除婦の女性が奥から出てきて私に静かに会釈をした。まるでここの住人だと思われているのだろうか。それでも誰かに不審がられるよりかはましだった。私はエレベーターの中に入り、ひとり十四階まで上がっていく時間を過ごしていた。窓の付いていない庫内では液晶表示が代わる代わる数字を回し、一から順に数を数えていった。
「……切り裂きジャック…って…私が言った、のか…」
美木さんはインターホン越しに自分をそう呼んだ。ロンドン中の娼婦を手にかけたという殺人鬼、切り裂きジャック。それは未だ解決されていないイギリス犯罪史上最大のミステリーだ。その他にも歴史上今まで、売春婦が殺しの的になってきたことは沢山あった。ゲイリー・リッジウェイ、ピーター・サトクリフ。私たちは人ともみなされない社会のゴミということ。それが私の仕事だった。
「私が、言ったのか…。」
そしてエレベーターで昇った先には、どこまでも広がる青空に暖かな陽が差していた。その階下に広がる東京湾は青さの片鱗も見せぬほど、黒く深みを帯びている。同じ海でも沖縄やオーストラリアのものとは全く違うようだ。あれらが見せる青さとは、それは全く性質が違った。そして、私はまた廊下を歩き、例の二号室を探していた。その前に辿り着くと、私は1402のドアをじっと見つめた。ただひたすらに回る電気のメーター音を前にして、私はドアベルを鳴らした。きっとまた何も返事が無いのに、私は一応それを鳴らした。でも、今度はすぐにドアが開いた。また独りでに開いたドアは、この前よりも一層に大きく感じられた。自分を気圧するように大きな存在感でいた。気のせいかもしれない。ただその向こうには誰もおらず、再び長い廊下が続いているだけだった。
「…美木さん、失礼します。」
「…」
そうやって中に向かって呼び掛けても期待するような返事は無い。無言の返事は肯定と受け取って、私はその部屋へと足を踏み入れた。外の廊下よりも空気は冷たく、しんと冷えている。そしてまたシューとまた呼吸器のような音が聞こえてきた。その度に、私の歩みは遅くなった。そしてフラッシュバックとも言えるような不快な感じが不意に体を襲った。冷や汗を背中に感じて、心拍数が耳に響くほどに上がる。動悸がした。呼吸がしづらいようなそんな気もした。一度目を瞑った。真っ暗闇の中で視界も闇に包まれて何かが落ち着くのを待った。それでも仕事だと私は自分に言い聞かせた。私には未だ得体の知れぬ客の元へと向かうしかなかった。
「美木さん?」
そう問い掛けると「はい」と薄く遠く、声が聞こえた。その声は確かにか細いもので、やはり大人の男性には到底思えない。青年というに相応しい、そんな青い声だった。
「…どうぞ」
「どうも、ザ・ヘヴンから参りました…」
「奥まで入ってもらって…構いませんよ」
「はい…」
「ご無沙汰、というほど会っていなかった訳では無いですね。昨日ですもんね」
「…ええ」
その人に誘われて奥まで進むと、そこには彼がいた。昨日と同じように色々な機械に繋がれたまま、清潔なベッドに寝そべって私を見ていた。その部屋の綺麗さも何一つ変わらない。ただ中に人が居るだけで室温は少しばかり上がるようだ。その部屋は前室よりも微かに暖かく感じられた。換気をしていないのか男性の匂いが仄かに籠っている。彼が臥せっているその部屋は、無機質でベッドしか置かれていない、ただ広い部屋。こうして今廊下を歩いてきた時も、何も家具や何かを目にしていない。やはりこの家には全体的に生活感が無かった。
「美波、さん…でしたよね」
「ああ…はい」
「切り裂きジャック、にまた何かご用でしたか…?」
「あ」
「冗談です」
嫌な冗談だ。繰り返し繰り返し人の言葉尻を捕らえるような話し方は、私はあまり好きではなかった。そして美木さんは寝たままの姿勢で私の方を見つめ、にやっと唇を曲げた。まるで悪戯っ子のようなその姿にイラっとした。けれど、大事なお客様だと思い起こして私は「お詫びに参りました」と彼にそう告げた。
「…お詫び?」
「昨日は、本来のお時間よりも相当早く失礼してしまうという大変なご無礼を働いてしまい、申し訳ありませんでした。」
「ああ…」
「こちら、うちの店長からです。これからもご贔屓にと。」
「別に、そんな事頼んでないですけど…」
「どうぞお納めください。」
どこか不服そうな美木さんをよそに、私はベッドサイドに据えられたチェストにヨックモックの紙袋を置いた。それは彼の意思とは無関係に置かれたものだ。その謝罪道具。駅ビルのお菓子詰め合わせ、というのも「あと少し」な不足感があってリリーさんらしい。反抗する私を言いくるめて持たされたそれは、そもそもこの人の口に入るのだろうか。こんな状態の人間にパサパサの洋菓子を渡す人間はよほど気が利かないと思われても仕方ない。これで正式な謝罪になっているのか私には定かでは無かった。
「すみません、わざわざ。僕が悪いのに。」
「いえ…」
「こちらがダメもとでお願いしたんですよ。こんな病人相手にしてくれる訳無いって分かってて。」
美木さんは自分を嘲笑うかのように右手をその顔に掲げると、少し癖のついた巻き毛を引っ張るようにした。彼は、綺麗な顔立ちをしていた。鼻は高く、顎のラインはシャープで、強いて言うならば無精ひげが目立つくらいだ。リビングの大きな窓から入る日光が熱いのか、目を細くしながら私の方を向いている。細い体を通している白いシャツはベッドシーツと同じように皺がついて、何日か着倒しているように見えた。それでも清潔感をそんなに失っていないのは彼のルックスのせいだろうか。
「こんな病人って、そんな事仰らないで下さい」
「じゃあ、どんな病人ですか?」
「え」
「美波さん、優しいんですね。」
「?」
「まあ皆さんにそうなんでしょうけど」
「…」
癪に障る言い方だ。他人の立場を分かったような言葉の使い方に私は思わずむっとした。その感情が顔に出ていたのか、美木さんは「すみません、僕よく無駄口叩くので」と弁明した。
「あ、その紙袋、冷蔵庫に入れておいてもらえますか。僕が食べる前に腐ってしまうと思うので。」
「冷蔵庫、ですか…。いいですけど。」
「ドアを出て、すぐ右です。まあ多分分かると思いますけど。」
「…はい」
一度置いたヨックモックを手に取り、私は言われるがままに部屋を出た。その時左手に、隅に置かれた車椅子が見えた。黒くて大きなタイヤの付いたそれは、まるでオフィスチェアーのようだった。だいぶ年季が入っているようでシート部分がかなり剥がれている。病院や何かで見る車椅子よりも随分大きそうで、重量感があった。昔ニュースで見たことがあるような、あのイギリスの、名前は忘れたが宇宙博士が乗っているのに近いようなそんな感じだった。
「美木、さん。」
「はい」
「冷蔵庫、勝手に開けていいんですか。」
「どうぞ。お好きなように。」
こうやって接するのが二回目であるにしても、美木さんの語り口はやけに馴れ馴れしかった。私は距離感の詰め方がバグっていると思った。チャラいというか何というか。どんな女性に対してもこういう態度なのだとしたら、よほどモテるかよほど嫌われているかのどちらかだろう。確かにあの整った顔立ちが好きな女子は沢山いそうだ。今流行りの塩顔にまさしくあの人は見合っていた。ただし、中身はどうなのだろう。私は裏表両方完璧な人間などこの世に存在しないととっくに見切っていた。
「では、二段目に入れさせていただきます」
彼の冷蔵庫は独り身にしては大きい家族用のものだった。野菜室も冷凍室も備えている立派なそれは新品にしては汚れていて使用感がある。この綺麗で絢爛な部屋にはどこか似合わない。高級感は無かった。そして、その大きさに比べて庫内にはほとんど何も入っていなかった。「生理食塩水」と書かれたボトルが何本か仕舞われている他に、食べ物と言える食べ物は何も無い。
「入れておきました」
「ありがとうございます」
「では、本日なんですが」
「美波さん、こっち来てもらえます?」
「はい?」
「奥の段ボールから、水二本だけ…取り出してもらえますか」
「…はあ」
そのセリフを聞いて、この人は私を馬鹿にしている、そう思った。気が付けば顎で使われていて、彼のペースに完全に乗せられている。私に本来の自分の仕事をさせるというよりか、それはむしろ雑用に近かった。この美木という男は、人を手玉に取ろうとする感じがまたいけ好かなかった。好青年ですという顔をしている割に性格が悪いのか、ああそういうタイプかと私は心中で頷いていた。彼が望めば、私はこの後この紳士の為にご奉仕するらしい。それが私の仕事だった。
「…美木さん、これで良いですか?」
「ああ、やっぱり三本で。」
「は?」
二リットルの水を何本も女に持たせるか。私は思わずそれを口に出しそうになり、喉元で言葉を理性で押さえつけた。彼は自分が動けないのを良いことに、私をこき使って楽しんでいるようにも見える。この人は、一体何を
私に求めているのか。何の為にこのサービスを注文したのか。それが全く分からないまま、私は太くて大きなペットボトルを両手に抱えて、彼に言われた通りにベッドサイドへと運んだ。意味不明だ。
「これでよろしかった、ですか?」
「すみません、ありがとうございます。重い物を運ぶのはなかなか大変なんですよ。下手すると半日かかったりして。」
「はあ…」
「それでつい、頼んでしまいました。」
「で、本日なんですが…」
と、私が自分のペースにどうにか話を持っていこうとした時、それに覆い被さるように「僕、何歳に見えます?」と美木さんは言葉を発した。
「は?」
「だから、僕の年齢…当ててみてくださいよ。」
「その質問、昨日もされてましたよね。何の意味があるんですか。」
「まあ。答えてみて…くださいよ。」
「美木さん、失礼ですけど私の事を馬鹿にされています?」
あくまでお客様である、という事を忘れて、私は美木さんに詰問してしまっていた。それほど彼の人となりは不愉快だった。
「馬鹿になんて…してませんよ。」
「はあ…」
「久々の人間で、ちょっと羽目を外してしまいました。すみません。」
「久々の?」
「ええ。」
「で、本日なんですが。」
「あ、どうぞ。美波さん。」
「昨日頂いたお代の分、きっちりサービスしろと店長から申し付かっておりますので。」
「そうですか。でも、サービスとやらは今日は良いです。」
「はい?」
「良かったら、もう少しお話に付き合ってもらえませんか。」
「話、ですか?」
「はい」
「それで…良いんですか?」
私は耳を疑った。童貞を卒業したいからと本来呼んでいたはずなのに、そういう類いのサービスは何も要求せず、ただ話すだけで良いとは。勝手の良い客にでもなったつもりなのか。私はこのような男に今まで会ったことは無かった。どんなに優しい雰囲気の人でもいざ密室で二人となれば雄を出してきた。それが男というものなのだと身体で知っていた。むしろそうでない方が逆に不気味だ。でも、美木さんは本気なようだった。その亜麻色の瞳からは、何故かそんな卑猥な気持ちを一切感じ取れなかった。
「このガラスの孤城に人間は来ません。」
「?」
「たまに訪問看護が来るだけで。だから、美波さんは久々の訪問者なんです。」
「…ガラスの孤城、ですか。」
どこかで聞いたような表現だと思った。言い得て妙だ。タワーマンションに最低限の生活用品とベッドと身一つ。その様子からきっと独りで暮らしているのだろうと想像できる。一体何があってこんなところに一人で。それも見るからに体調が悪いと分かるのに、一人でこの人はここで何をしているのだろうか。ここで生きていて、楽しいのだろうか。余計な詮索と変な勘繰りは危ないと思考を止めて、私は彼の周りを見やった。髪の毛一つ落ちていない清布に、純白の大理石の床は光沢を失っていない。その住人は気味が悪いほど清潔に自分の城を保っているようだった。それも彼自身がやっているのか、さっき言っていた訪問看護師がしているのか。家族か何かが来て、世話をしたりしないのだろうか。彼女や妻がいたって不思議ではないだろう。恐らく。
「僕の名前、一度くらいネットで検索してみたりしました?」
「は?」
「こんな変な客、どんな素性かと調べたくなるでしょう。僕だったらそうするけど。」
その美木浩という人は少々自意識過剰なようだった。その上から目線な物言いに、また私は会話の主導権を完全に持っていかれるのを認めた。ただ、彼は頭が良い。相手が何を考えているのか、何を感じているのかを見透かすように次の言葉をくべる。その言葉はいずれも鋭敏で、相手の心を貫こうという彼の意図を感じた。私には、そう感じた。
「それで、何か分かりました?」
「いや…」
「横浜大学基幹創造理工学院…先端エピジェネティクス研究室…博士課程一年、」
「…」
「確か、そのくらいはあのサイトに載ってたんじゃないかな。顔写真は載せてないと思うけど。今時怖いじゃないですか、ネットなんて。」
「…ですね」
「その様子だと、あの研究室のサイトも見てくれたみたいですね」
「まあ、少しだけ、ですよ」
ならば、彼は数個年上の大学院生ということになる…。自分の中でも有り得ないだろうと踏んでいた予想が数言で答え合わせされ、私は驚く暇も与えられなかった。それもよりによって、あのエリート大の意味不明な研究室のメンバー。それは頭が良い筈だと妙に納得しつつ、彼が片鱗を見せていた回転の速さにも合点がいった。
「そこの、美木浩といいます。」
「…どうも」
「あれくらいは引っ掛かりますよね。美木、なんて苗字、日本にそうと居ませんし。」
「確かに、珍しいお名前ですね…。美木さん。」
「百人くらいだったかと思います。まあ、僕は…この名前嫌いですけど」
「…そうですか」
その人、いや、美木さんは、私の顔を見ながらそう言った。嫌な人。綺麗な名前と綺麗な顔を持って、難アリな性格。ああ難アリってこういう事かと私は今更思い知った。予約をする時もきっと、この調子でリリーさんに絡んだのだろう。そして、寝たきり。だから店長は私にこの人を押し付けた。あの面倒くさがりな店長がやりそうなことだ。全てがはっきり見えてきて、なるほどなと私は静かに頷いた。
「美波さんは、何て苗字なんですか?」
「え?」
「字が重なるから、美川、美村もなさそうだ。まさか僕と同じ美木なんてことはないですよね。」
「さあ、どうでしょうね」
「大体名前も本名では無い可能性もありますもんね。源氏名、とか言うんでしたっけ。」
「そうですね」
「でも、良い名前ですね。美波って」
「…ありがとうございます」
美木さんは唐突にこちらに質問をした。つらつらとその口から流れるように出てくる言葉は、病人とは思えないほど知性か何かに溢れていた。無意味な会話のうちには何も生まれない。ただタワマンの中でとうとうと流れる時間を感じて、私は何をしているのだろうと疑問に感じた。ある意味これは子守りだと私の嫌悪感は次第に募っていった。なのに私は、乗せられるがままに自分の名前の話をしていた。それは不思議な事だった。本来、他人と関わり合いになりたくない話だった。美木さんが「良い名前ですね」と言った時、自分の中で変に腑に落ちてしまったのかもしれない。すとんと、その話は自分の中で消化されていった。
「美波さんは、おいくつですか?」
「は」
「どこの生まれで、本当の職業は?」
「お答えしかねます。」
「女性に歳を聞くのが失礼だって事くらい、僕も弁えています。けど、気になるじゃないですか。久々の訪問者さんなんだから…。」
「そんなの聞いても何にもなりませんよ。美木さんよりは幾らか年下です。」
「ふうん、見た目…同い年くらいかと思ってました。意外と大人っぽいんですね」
「よく、言われます」
彼に同い年に思われていたという事は、実年齢プラス五歳ほどに見えたのだろうか。良いんだか悪いんだか。昨日の厚化粧ではそう見えても仕方なかったかもしれない。嬢の素性を聞いてくる男はたまにいると前にみづきさんが言っていたが、美木さんの興味の程度はそれ以上に見えた。そういう時はあること無いことを吹き込むか、しらばっくれて逃げるのが良いらしい。この時代に、危ない仕事をしている私たちが個人情報を漏らすことほど危ないことは無いと言っていた。
「すみません、そのペットボトルから、水出してもらえませんか?」
年齢当ての話が終わったかと思うと、彼は亜麻色の瞳で私を見据えてまた願い事をした。
「水、注げば良いんですか」
「はい。お願いします」
私はこれもまたサービスだと割り切って台所に置かれていた紙コップを取りに行き、そこに先ほどの水を注いだ。どばどばと音を立てて落ちる温い水はフローリングの床に雫を沢山溢していた。
「本当の職業、当てて…みせましょうか。そうですね、年下という事は…学生?それかフリーター。」
「そんなに気になりますか。はいこれ、お水です。」
「ああ…すみません。気になる、というより、知りたいんです。信じられない人は嫌ですから。」
「信じられない人?」
「ま、気にしないで下さい。それと、またお願いなんですけど…」
「はい」
「…そこのスポイトで、口に…落としてもらえます?普通の人みたいに…僕飲めなくて。」
「え」
彼は細い腕で「そこ」を差し、置かれたスポイトへと手を伸ばさせた。まるで代行ロボットのようだと思いながら、私は口元まで運びかけた紙コップを一度下ろし、サイドチェストに置かれた長いスポイトを言われるがままに掴んだ。小学校の実験で使ったようなそのスポイトは、彼が水を飲めるように先が直角に曲がっていて、その口先には少し垢が付いていた。
「これを使ってやれば、いいんですか…?」
「ええ。一気に注がないようにだけ、お願いします。」
「?」
「誤嚥しちゃうので」
「ああ。分かりました」
勝手が全く分からないなりに、私はコップへ注いだ水へととりあえずスポイトを差した。そしておぼろげな記憶を頼りに液だめにその水を汲み上げ、ゆっくりとその先を宙に浮かせた。そして唇が乾いてひび割れた彼の口に一滴ずつ水を落としていった。そうすると、彼はそれを味わうように含んでいった。
「ああ…美味い。生き返る…。」
「そんなに美味しいですか…水。」
「何日も飲んでなかったんで、喉までカラカラに…乾いてたんですよ。」
私がまた美木さんの顔の上にスポイトをかざし、その口に水滴を垂らすと彼はそう言った。それは本当に誰もここに来ていないという事なのか、彼は本当に美味しそうに水を飲んでいた。この様を見て、私はこの人を可哀想だと思った。最低限の生をしている人間を初めて見た。自分よりも酷いと思った。
「生きてる、って感じがしますね。暑い日のビールよりも、結局人間…水が無きゃ死ぬんですよ。」
「私には、よく分からない感覚です。」
「そりゃそうでしょう。死にかけじゃ…ないんだから。」
「…」
「悪い事した気に…なりました?」
「え?」
「でも貴女にはきっと…分からない感覚です。美波さん。」
私は確かに悪い事をしてしまったと思った。不意に口を衝いて出た言葉が目の前のこの人を傷つけた可能性を、思い知った。そして、この人は卑怯だった。その言葉を誘い出すように、自分の言葉を紡いでいた。
「お詫び、にいらしたんですよね。」
「ええ…はい。」
「じゃ、このままお願いごと…聞いてもらえませんか?」
「は」
「昨日の事も含めて、償いということで。」
そう言って美木さんは、私の真下から、その整った顔で微笑みながら見据えていた。一体この人は何を私にさせる気なのか。一度サービスは断っていたが、「童貞を卒業したい」という願いを繰り返し乞う気なのか。あっという間に私を取り込んでいた彼が何を言い出すのかは、ずる賢い人間の考える事は予想も出来なかった。
「本番は…禁止なんですよね。」
「そうです、ね。」
「節穴でした。法律で守られてる性風俗にも…色々種類があるとは僕も知りませんでした。」
「そうですか。で?」
「流石にそれで…美波さんに『法を犯せ』とは頼めませんから。安心してください。そこら辺の良識は…まだ失ってないと思ってます。」
やっぱりこの事かと私は思った。詫びに来たのなら少しくらい大目に見ろと、普通の男なら言いそうなことだ。少しでも「この人は、違う」と思った自分を情けなく思った。そして私は「分かりました、勝手に安心しときます。」と返して、次に何を求められるのかと身構えていた。
「そんなに、強ばらないでください。無理に襲ったりしませんから。」
「信じられるか、自信無いですけど」
その言葉の通りだった。私には、この美木という男を信じられる自信は無い。
「昨日もお伝えしましたが、僕は…死にかけの病人です。だから襲ったとしてもきっと、一瞬で…貴女にねじ伏せられますよ。」
「大切なお客様ですから、ねじ伏せたりなんてしませんよ」
「いっそ、それで殺してくれても…良いんですよ。」
「は」
「僕はこの部屋で…ただその時を待ってるだけの寝たきりですから。」
「まだ捕まりたくありません」
冗談が好きなのか、私をまた馬鹿にしているのか。先ほどから自分のひ弱さを強調するわりには、健気な人だ。死にかけ死にかけと繰り返して、まるで余命系映画の主人公でも気取っているのか。こういう風な人間ほど余命以上に生きたりするのだろう。彼は薄幸などには一切見えなかった。
「だから、美波さん。お願いがあります。」
「何ですか」
「また…来てください。」
「え?」
「また…指名させてください。それでも嫌がらず、ここに…来てもらえませんか。」
「それが、償いですか…?」
「はい。ガラスの孤城への…ご招待、です。」
変な事を言う人だと思った。てっきり本番が出来ないなら手でしろとか、口でしろとか、ありきたりなサービスを代わりに頼んでくるものだと思っていた。ただ…美木さんは本気のようだった。私が怪訝な表情で彼を見下げていると、彼は「嘘じゃないですよ」とまた微笑みながらそう言った。
「嘘に見えます?」
「少し」
「もう、美波さんも人を信じない人なんですね」
「いや、」
「だから、嘘じゃないですから。」
「…承知しました、お客様。」
冗談交じりに返事をすると、私はふと我に返った。彼のペースと雰囲気にとっくに呑まれていた。今してしまった約束はきっと厄介な事になると、私の女の勘とかいうやつが言っていた。美木さんは細い腕で自らスポイトを取り、その水を口に運んでいた。それで気管に入れてしまったのか、ひどく蒸せていた。その喉元にはチューブが幾つか刺さっている。ベッド脇の機械から何かが送られていて、そのチューブに逆流していくように少量の水が流れていった。私は、この人はやはり孤独な病人なのだと彼を自ずと蔑んでいた。
「今日はもう、時間ですよね。」
「ええ、まあ」
「延長料金を払えるほど…僕は金持ちでは無いので、今日のところはお引き取り下さい。」
「…じゃあ、今日はこれで。」
色々頼んでおいて「お引き取り下さい」とは。失礼な言葉を投げかけられながら、私は彼の言うままに帰り支度を始めた。菓子折りを渡して、重いペットボトルを運んで、水をスポイトであげただけの一時間だった。普段の仕事に比べたらなんて陳腐で楽なのだろう。こんなの子どもでも出来る芸当だ。
「では、失礼します。またご予約の際はお電話をお願いします。」
「美波さん」
「はい?」
「何で、美波さんなんですか?」
「どういう意味ですか」
「どなたが付けたんだろうって。素敵なお名前じゃないですか。美波、って。」
「ですから、詳しい事は明かせない決まりなんですよ。美木さん。」
美木さんはやけに名前にこだわった。さっきも断ったはずなのに、そんなに気にするような事だろうか。他の客は私の身よりも体にしか興味を持っていない。だから奇妙な質問だと、私はそう思った。
「職業、大学生。こんなバイトをまだ続けている事から、学年は二年か…三年生。」
「…はい?」
帰り際、美木さんは唐突にそう言った。それはきっと、私の素性に関する推論だった。
「何のご冗談ですか」
「一年ではないでしょう、高校生らしさがすっかり抜けている。通っている大学は…県内中位レベルの、公立大。私大に行けるような経済状態ではない。奨学金を貰いながら生活をしている。そのせいで一日二食。朝は食べない。」
「人で遊ぶような男性は、あまり好かれませんよ?」
「学部は文系、史学か…哲学。友達は少なくて…ローンウルフ。人を基本的に信用していない。だからこの仕事には向いている。」
「美木さん、何を仰りたいのですか」
「美波という名前は本名。母親が付けた。家族構成は兄弟が…」
「美木さん。」
「…はい?」
「初回のお客様に、個人情報はお教えしないのがうちのお店のポリシーですので。」
私の抗弁を物ともせず、美木さんはとうとうと私への分析を述べた。彼は最後に自信ありげに「当たってる?」と聞き、私の反応を伺っていた。皮肉にも、ほとんど当たっていた。私と対面した数分間で何かを見抜いたのだろうか。それとも心理テストみたいに、誰にでも当てはまるようなデタラメを並べられただけなのか。それにしては詳しすぎる。まるで前からストーキングされていたみたいだと、私はこの男に警戒心を抱かずにはいられなかった。
「無言って事は、当たってるんだ…。僕、こういうのはほぼ百発百中なんですよ…。合コンなんかじゃ寧ろ気味悪がられたりして。」
「…悪い趣味ですね。」
「そうですか、僕はむしろ美波さんという人を知りたいだけですよ。」
「そうですか。」
「ちょっと不機嫌そうですね、お気を悪くされましたか。」
「いいえ」
「ごほっ、ごほっ」
「大丈夫ですか」
「ああ、すみません。自分で水を飲むのは、下手なんです」
「そう、ですか…」
「もう、大丈夫です」
「では…今日のところはこれで」
「あ、美波さん、」
美木さんが言葉を続ける前に、私はその大きなリビングから立ち去っていた。このままその場に居たら余計な事まで詮索される気がしたからだ。勝手に深淵まで辿り着かれたら迷惑甚だしい。人を読んでいると言うべきか、見透かしていると言うべきか。むしろ弄ばれているようにも思える。それが私は不愉快だった。だから私は「では」と静かにドアを閉めて、またあの広い廊下に出た。暑い。むっとした空気が肌にまとわりつき、じんわりと汗が滲み出した。
「淋しい、人…」
知らず知らずのうちに会話を重ね、逆に私も美木さんの何かを知った気になっていた。豪華絢爛な暮らしをしていても水一杯さえ自分で汲めない、そんな彼が不憫に思えた。珍しい訪問者である私の事を必要以上に嗅ぎまわるその様は、親に構ってもらえない子どものようだ。それは言い過ぎだろうか。私はそれからエレベーターで一階に降り、また噴水の周りを抜けると大理石の車止めへ出た。そこで自分の中に溜まっていた息を思いっ切り吐いた。「はあっ!」と声を出すとあの警備員が私の方を睨む。美木さんはまた私に来てほしいと言っていた。明らかに厄介事に巻き込まれてしまった苛立ちで私はもう一度「はあっ!」と声を出した。すると関わらない方が賢明だと思ったのか、警備員は目を逸らしテレビのリモコンを操作していた。私は自分でもよく分かっていた。嫌な予感がした。あの得体の知れない「院生」と絡んで、何か私の身に良いことが起きるのか。いや、否。
「もう一度、リリーさん問い詰めるか…」
この客をアサインした諸悪の根源リリー。あの人がきっと、美木浩について何かしらは知っているはずだ。どうせ目先のお金にクラクラしていたのだろうけど。このまま私があの人と関わっていたら、私の全てが剥がされていく気がした。冗談だったのか本気だったのか分からない的確な分析に、私は恐怖心を抱いていた。誰にも言えない偽りも、隠し事も全てが見透かされるのではないかと思ったからだ。裸にされるのには慣れているのに、身ぐるみを剥がされるのは嫌だった。全てが偽りだからこそ、この仕事は悪くなかった。なのに、その全てをあの人は壊そうとしてくるのではないか。嬉しい事は何も無い。剥がされないように、蓋をして生きてきたのだから。
「姉さん、またね」
彼が死んだ日が今年もいつかやって来る。季節が巡り秋が来れば、私はその日を思い出さずにはいられなかった。彼もまたああいう風にして、機械に…囲まれて。彼もまた、淋しい人だった。
私はハマの潮風に煽られながら臨港地区を歩いた。機嫌は良くない。彼の分析を認めれば、彼はしかと私のプライバシーに土足で踏み込んでいた。ただ、彼が推測を大きく外していたことがあった。それは、なぜ…しているか。自分でも理解したくない理由を見ず知らずの病人に晒されるわけにはいかなかった。
「…死ね」
そう声を溢した時、周囲の人がこちらを振り向いた。いつもなら気にしないその反応も、今の私にはどこか恐かった。自分の自分というものを周りからじろじろ見られている、そんな気になった。それに、病人に向かって「死ね」と言うなんて。縁起が、悪い。それであの人が死んだら、流石に私も居たたまれなくなるだろうか。あり得ない。赤の他人だ。そんな事を考えながら私は事務所へと向かっていた。結局あのタワマンには一時間以上滞在し、時は昼下がりになっていた。今日は昼ご飯も食べていない。道すがらチェーンの中華料理屋を見かけて私は「入るか…」とふと悩んだ。ただ、月末の学費引き落としを考えれば今月はもう外食する余裕など無い。少し感じ始めた空腹を忘れようとしながら、私はまたバス通りへと歩みを進めた。
5章
「これ、新横浜の駅ビルで買ってきたのよ?ほら、皆食べてー!」
リリーさんは晴れ渡った外から帰るや否や、半透明のビニール袋に入れられた白い箱をカウンターに取り出した。ドスンと音を立てて置かれたケーキボックスのようなそれは、どこかにぶつけたのか角が全て潰れていて、一体どう運んだらそうなるのかと私は思った。そうやって従業員を労う気持ちはあれど、品を丁寧に運ぶ配慮が皆無なのがいかにもあの店長らしい。
「美波も食べなー?」
「ああ、はーい」
「ちょっと美波ぃ、腑抜けた返事して。早く来ないと無くなるよ?」
「いいですよ。みづきさんたち、好きなだけ取ってください。」
「え、マジでいいの?私ら先貰っちゃうけど」
「どうぞ、みづきさんが先輩なんですから」
「嘘。じゃ、お言葉に甘えて」
私がそう言うと、みづきさんや他の先輩達が我先にと箱の中身を品定めしていた。「えーこれテレビで見た。あのパティシエのやつでしょ」「本当にクリームたっぷりじゃん」という歓声を聞く限り、どうやらそれは洋菓子か何からしい。皆さんが箱から持ち上げているのをふと見ると、それはクリームがぐるぐると高く巻かれた色とりどりのカップケーキだと分かった。
「あ、美波食べないの?ぼーっとしてると、姉さん達が全部食べちゃうわよ?」
「良いんです、私今日は気分じゃなくて。」
「気分って。甘いものに気分も何も無いでしょー!砂糖は人間にとって一番の栄養剤なのよ?」
「じゃあ冷蔵庫に入れといて下さい。あとで食べるんで」
「けっ。ぜーったいヤダ。全部アタシらで食べちゃうからね?」
「はーい」
私のノリの悪さが気に障ったのか、リリーさんはふん!とシンプルに怒って「ほら、美波要らないみたいだから二周目もいいわよー」と皆に声を掛けている。私はその様子をカウンターの端から眺め、意味も無くスマホを開いた。別に大した通知がある訳でも無い。くだらないネットニュースをブラウズしたところで変にやきもきさせられるだけだ。それでも私は甘いものを食べる気分には、今なれなかった。何となく、そんな気分じゃなかった。
「あれ、美波。今日大学は?」
「オール空きコマです。休み。」
「はーん。いいわねえ大学生っていう稼業は。一年にどんだけ休んでんのよ。さすが人生の夏休み。」
「ずーっと夏休みだったら良いんですけどね」
「ふんっ、人生そんなに甘くないわよ。ていうか、アンタが一番それ分かってるでしょ?そんじょそこらの学生よりも」
「まあ」
本当の夏休みはまだ数か月後だ。今年は春先からかなり暑さを感じていたけれど、初夏と呼べる今日の時点で既に猛暑日が数日続いていた。これが温暖化とかいうやつなのだろうか、おかげで食欲は紛らわせて助かってはいるが、せっかく事務所でセットした化粧が客先で落ちているのにはそこそこ苦労していた。
「ていうか、アンタ何で今日ここにいんのよ。仕事入ってないでしょ。」
「別に」
「あ!まさか闇営業してんじゃないでしょうね!」
「は?」
「まさか、私に隠れてコソコソお客さん取ってきてるんじゃ?そうなったら美波、それガチもんで勘当だからね!」
「リリーさん、被害妄想強すぎ。これだから人間不信のオカマは。」
「あー美波!言ったわねー?オカマは今じゃ差別用語よ!もう!」
「はいはい、店長様。」
「アンタいちいち癪に障るわね、余計なのよ一言。その一言があ。」
確かに私は今日、予約も他の仕事も入っていなかった。珍しい。こんな日は映画でも観に行ったり、服を買いに行ったりすれば良いのに、気づけば私はここにいたのだった。とても癪だ。よりによって行きつく場所がここだとは。本当に自分の居場所が無いのかもしれないと悲しいような虚しいような気分になる。それでも、私にはここに来る用事があった。この店長に何せ聞かなければならないことがあった。
「で、何の用?」
「え?」
「アタシに何か用があるから、休みの日にこんな汚い仕事場に遊びに来たんじゃないの?」
「さあ。ていうか、自分で汚いって言います?」
「譲歩してあげたのよ、譲歩。大体、仕事じゃなきゃどっかパッと遊んできなさいよ!」
「遊ぶって言われても、男遊びはしません。」
「清楚なんだか、清楚系なんだか。ま、彼氏も居ないなんて、淋しい女。ね、みづき」
「えリリーさん、私に話振らないでー?」
「だってさ、店長?」
「だから美波、タメ口!」
彼氏なんて心底どうでもいい。仕事で男の人とは必要以上に関わっているのだから、それ以上接触を増やそうという気に私は到底なれなかった。それよりも、今日ここに来たのには確実な理由があった。他でもない、あのタワマンの男のことだ。それをリリーさんに問い詰める。こないだはちょうどリリーさんの留守と被って何も聞けなかったから、姉さん達が散り散りになって聞ける雰囲気になったらそこで切り出そうと私は考えていた。あんな病人だと分かっていて私にアサインしたのだとしたら、この人は相当に性質が悪い。
「ね、美波」
「はい」
「何か悩み事?私が聞いてあげようか?」
薄汚れたグラスに水道水を入れてくるくると回していた時、みづきさんが唐突に私に声を掛けた。今日もこれから約束があるのか、ざっくり胸元の開いた服を着て、そのデコルテからは高級な香水の匂いがした。
「悩み事なんか無いですよ」
「じゃ、男?」
「だから、何も無いですって」
「ふうん、そっか。てっきり、こないだのタワマンと何かあったのかと。」
「え?」
みづきさんは私だけに聞こえるように「タワマン」と静かに強調して囁いた。その艶やかな唇は真っ赤なルージュが引かれ、エロティックを具現している。
「何かってなんですか…。もっと、最悪ですよ」
「え、そうなの」
「だって…」
「あ、ストップ!」
あの美木浩の愚痴をみづきさんに溢そうとした時、急に彼女は私の口を塞いだ。鼻腔に重なるその手のひらからも甘いハンドクリームの香りがして、その強さにむしろ窒息しそうになる。そしてみづきさんは「ほら言ったでしょ?それぞれのお客様のことは、ヒミツだって」と忠告するように私に言って、その手をすっと離した。
「あ…すみません」
「私たちは秘密でもってる商売なんだから。ま、うっかり話しちゃいがちだけどね」
「…はい」
「まあー何となく分かったわ。その客のこと」
「ああ…」
「どうせ、店長特命なんてのは売り文句で、蓋開けたらヤバい奴だったーみたいなオチでしょ?」
「え、何で分かるんですか」
「分かる分かる」
みづきさんはそう言いながら「私も昔あったわー、あのオカマに騙されてさ」と私の肩に手を回した。
「この店の女の子誰もが通る、言わば洗礼だよね。特命って。」
「洗礼にしては、ちょっとセンセーションでしたけど。」
「ふうん、じゃどんな感じ?って、私が聞いちゃ一番ダメだよねー。さっき言ったし。」
「まあ」
「ま、お客さんにも色々なのがいるよ。何ていうか、普通の人じゃないっていう人も。」
「はあ…。じゃあ、例えて言うなら『マージか』って感じです。」
「それはそれは、お疲れ様でちたねえ」
「みづきさん、本当にお疲れ様だったんですよ?」
「分かった。分かった。」
馬鹿にしながらも、この人はきっと私の事を分かってくれている。不思議とそんな安心感がみづきさんにはあった。別に私は彼女の素性を何も知らない。本当に「みづき」という名前なのか、今までどういう人生を歩んできたのか。何でこの仕事をしているのか。けれど、彼女の隠れた優しさと強さはその人となりの全てな気がした。この人には底抜けな強さを感じた。
「ほら、姉さん方は私の方で引き取るから。」
「え?」
「リリーさんと話したいならタイミング掴んで切り出しな?」
「あ、ああ…」
「だって、そうしたいって、顔にさっきから出てるもん。」
「出してないですよ」
「出てる出てる。それに、あんた予約も入ってないのにここにわざわざ来るような淋しい女じゃないでしょー?」
「まあ…」
「折角の機会なんだから聞いときなよ。ま、答えてくれるとは到底思えないけどね」
探るような彼女の語り口に素知らぬふりをしながらも、やはりみづきさんの言う通りだった。鉄は熱いうちに打て。私が「すみません」と小さくお辞儀をすると、彼女はまた騒がしい方へ戻って行って、「ねえーこないだ三百円ショップですごいコスメ見つけたんだけどさ!」と他の姉さん方の話を全て持っていった。そして列をなして更衣室へ消えていき、ここには私と、帳簿を付けていたリリーさんの二人だけが残った。流石みづきさん、と私は思った。
「あー、やっぱ矛山シェフが作るスイーツは何よりも美味しいわね。何個食べても軽くて、この歳でもガンガンいけちゃうわ」
「よかったですね」
「美波、アンタほんとに食べなくてよかったの?勿体無い。季節限定のカップケーキだったのに。」
「良いんです、私は別に。」
「あっそ」
「…」
「なによ」
「え」
「みづきとの話、全部聞こえてんのよ。何か言いたいことでもあんの?」
「いや、別に」
「あのね、ハマの地獄耳を侮らないでちょうだい。早くー言えー」
そう言ってリリーさんは、手にしていたボールペンの先を私に向けてフェンシングのように何度か前に突いていた。まるで「シュッシュッ」という効果音が付かんばかりだ。本当にくだらない。でもこの人はつくづく恐ろしい。何の気なしに帳簿の作業をしているかと思いきや、部屋の隅に居た二人の話までしっかりと聞いているとは。やっぱり侮れない。そう思った。
「じゃあ、聞きたいことがあります。」
「何よ改まって。答えられる範囲で答えてあげようじゃない」
この人は本当に答えるだろうか。甚だ信用ならなかった。ああ見えても義理堅いところもある上、コンプライアンスにも厳しい。ただそこでうじうじと気にしていても埒が明かないから、私は思うままに話を続けた。
「リリーさん、何か知ってます?」
「は?」
「あのタワマンのお客さんのこと」
「…」
「何で黙ってるんですか?」
「やっぱそれか、と思ったの。」
リリーさんは帳簿に何かを書き込みながら、こちらには一切目をくれずに返事を返した。いかにもめんどくさそうな返事をして、今までの楽しそうなテンションは不意に何処かに消えていった。店長はだるそうな声を出しながら、私の問いをかわそうとした。
「…ああー。本当に最近の子って大事な部分そっちのけで話し出すから、おじさん付いていけないわ」
「おじさん、なんですね」
「良いの!おじさんでもあり、おばさんでもあるの!」
「で、何か知ってます?」
そう畳み掛けるようにすると、リリーさんは「あー、めんど。粘着質な女は嫌われるわよ」と私を一蹴した。そして手に持っていたボールペンをカウンターに置いてすっと私の方を見た。変に空気が引き締まって、こそばゆいような気持ちになる。この人と真面目な話をすることほど奇妙な事は他に無いだろう。
「結論から言えば、知らない。」
「え?」
「多分アンタが目にしたもの以上の事は何も知らないわ。」
「…本当に?」
「本当よ。何も隠してないわ。」
「…そうですか」
「まあ、前まではああいうお客さん断ってたんだけどね。姉さん方が何か嫌がるし、うちは福祉事業所じゃないでしょ?言い方悪いけど。」
「確かに。このご時世、批判されそうなワードチョイスですね」
「そ。世知辛い世知辛い。多様性だ何だって言っといて、結局私らみたいのに人権貰えたかって言ったらそうでもないし。私みたいなのだと、何かああいう人たちに共感しちゃったりするんだけどねえ」
「私はその感覚、いまいち分かりません。」
「でも、あんただって普通ではないでしょ。色々な意味で、だけど。」
「まあ」
確かにリリーさんみたいな人は社会の表舞台に出て拍手喝采を受けるような人ではない。どちらかというと蔑まれるような人で、だからこうして陰の世界で細く長く生きている。そのしぶとさと泥臭さは馬鹿にできるものじゃない。厳しさを知っているからこその気丈さで。それに勝手に自分と線引きをしているけれど、実際のところ私もその仲間みたいなものだろう。既にやっていることは陰の仕事だし、世間一般の幸せとは程遠い人生を歩んでいる。だからリリーさんの指摘に反論する意図は何も無かった。この人はある程度私を知っている。それでああいう言葉選びをしたのだった。
「だから、癒してあげなさい。あのお客様も。」
「…また、それですか」
「そう。あんたの仕事は癒すこと。それ以上でもそれ以下でもないのよ。」
「…」
「多分ね、あの美木様は、そういうエッチなことを求めてるんじゃないと思うの。だって、ガッツもスタミナも無さそうじゃない。本当にタマ付いてんのかしらね」
「リリーさん?」
「はいはい冗談。コンプラ的にはアウト。でも何が言いたかったかって言うと、あの方は多分人を求めてるんじゃない?ってこと」
「人、ですか…?」
「あんたも薄々気づいてるでしょ。人淋しいっていうか、なんていうか。そんな感じで呼んだんじゃないかしらね。」
「…まあ」
「あんな感じであの高級タワマンに一人って、淋しい以上の何物でもないでしょ。一体何があったのかは知らないけど。あんな生き方してたらデリバリー頼みたくなるくらいには、淋しくなるもんよ。きっと。」
リリーさんの意味する「癒す」はあまりにも意味が広くて、まるでずるい魔法の呪文のようだった。この店に入った頃から、店長はずっとその言葉を繰り返している。普通なら卑しい、厭らしいと思われるこの仕事も本当は必要なものなのだと、決して汚い仕事ではないのだと、リリーさんはそう強く信じていた。それはある意味自分たちへの言い訳でもあり、モチベーションを上げるようなティップスでもあった。
「だからほら、またご予約頂いたら何であれ行ってあげなさい。この世の中、淋しい人で溢れ返ってるんだから」
「溢れ返ってる、ですか。」
「そう。皆人間関係なり色々なことに疲れ切っちゃって、もう死にそうじゃない。どうでもいいルールとか柵にがんじがらめになっちゃってさ。あーやだやだ。だから日本人嫌いなのよね。自分の気持ちも正直に言わない日本人サイテー、日本やだあ。」
「そんな事言っても何も変わりませんよ」
「美波、アンタほんとに冷めてるわね。夢も希望も無い。淋しい女。」
「じゃあ、リリーさんも、私も、あの人も、皆淋しい人なんですかね。」
「アタシは淋しいわよ。いつでも、いつまでも。まあでも、今はもうそれが様になっちゃってるんだけどねえ」
「確かに。」
「あ、美波今馬鹿にしたでしょ!」
「してないですよ」
「良い?馬鹿にしていいとは言ってないわよ?この生意気小娘!」
「はいはい、すみませんでした」
そう言っているとカウンターの電話が不意に鳴った。「あーもう」とリリーさんが受話器を取り、「はい、はい」と何かに答えている。その間、私は今の話を思い出して少し浸っていた。淋しさ。癒すって何なのだろうか。特にあの人の場合は。シモを求めていないのなら、話し相手になればいいというだけなのか。寄り添うって、何。話を聞くことなのか?果たしてそれで寄り添えているのか。私には何も分からなかった。自分の存在意義とかを考えている訳じゃない。別にそれを考えたところで何もならないのを私はよく知っていた。なら、癒しとは?ただそこに居るだけでいいのなら、あの人がそれを望んでいるのなら、それで良いのかもしれない。そこに私が疑義を挟む余地は無いだろう。こちらはお金を頂いている身、向こうの好きなように扱われるのが一番なのだ。そう私は信じていた。そして、それが私にとっても『必要とされている』という証だった。
「美波、タワマン様からよ。」
「え」
電話を切ったリリーさんはこっちを見てニヤニヤとしていた。
「来週の同じ時間、ご予約入りましたあ」
「はあ…」
そのゆっくりかつ嬉々として伝えてくる様子がどうも腹立たしくて、私は「そうですか」と無機質に返事を返した。
「噂をすれば、ってやつかしらね。美木様。一時間コースでご予約でーす」
「あーマジか」
「マジでーす。マジマジの大真面目でーす」
一体あの美木という人は何を求めているのか、それもきっと心の奥底に何か思いがあるはずだ。ガラスの孤城で独り淋しく寝そべっているうちに何かの衝動か、欲望か、感情が芽生えたのだろうか。ただ話し相手が欲しいのか、私の事を女として見ているのか。高い水やり係だとは思っていないはずで、本当に「童貞を卒業したい」という名目で私を呼んだのなら、私があの人に気後れしているのはなぜなのだろう。他のお客様と同じように接することが出来ないのはあの人の異様な出で立ちのせいなのか、それとも…自分のせいなのか。私の閉じ込めていた記憶がその時ふっと頭の中に湧き出しそうになった。ベッド、寝たきり、機械。こういうのをデジャヴと確か言うのだろう。そう、デジャヴだ。
「美波、大丈夫?」
「え」
「何か青―い顔してるけど」
「してないですよ、大丈夫です。」
「うん、ブラフ。」
「性質悪っ」
この人は鋭い。私が少しでも自分の感情を漏らしてしまったら、その瞬間にそれに気づく。リリーさんは確かに人を見ていた。その人の事を、よく見ていた。
「ちゃんとまたご予約頂いたんだから、しっかりしてきなさいよ?」
「はいはい」
「美波、」
「何ですか?」
「身体の声を聞きなさい。」
「?」
「あの人が何をアンタに求めているのか、それはあの人しか知り得ないけれど、きっとあの人の身体が伝えてくるわ。」
「…」
「身体は正直よ」
良いことを言った気になっているのか、リリーさんはご満悦な様子でペンをくるくると回し始めた。その見た目とは裏腹に、ペン回しはすごく得意らしい。対して私はその言葉を聞いて、自分の思考が止まっていた。身体は正直か。確かに、その通りだ。どんなに巧妙な嘘をついていても、ポーカーフェイスを装っていても、身体に触れてみれば偽りは分かる。「好きだよ」なんて呟いて抱いてみても、その気持ちが無かったら案外簡単にそれはバレてしまうものなのだ。逆に。「大丈夫」と言ってみても淋しい気持ちがそこにあれば、愛に飢えていることは透けて見えてしまう。
「あ、」
「何ですかいきなり」
「もしおうち行って死んでたら、警察よりも先に消防だからね⁈」
「は」
「分かってる?119番。ぜーったいに消防に連絡する事!」
「一体何の話ですか」
「アンタの客の話よ! もし警察なんかに掛けちゃったら、大変な事になるんだからね? うちはただでさえ県警の保安課から目付けられてるんだから。」
「それは悪い事してるリリーさんが悪いでしょ」
「いや、アタシは法に触れることをやってる訳じゃないの。法スレスレの稼業をしてるだけなの。」
「はいはい」
「美波、サツを甘く見ちゃいけないわよ。アイツら、嬢が第一発見者にでもなったら人殺しの犯人扱いしてくるからね。それで組織的殺人だなんだってでっち上げられて、うちも廃業に追い込まれるんだから!」
「また被害妄想…」
「本当よ? 同業でよくあるのよ、お客さんが最中に死んじゃって女の子が第一容疑者になって、芋づる式にオーナーまで疑われて…なんてのが! それで最終的にはいちゃもんつけられて、営業許可取り消しになったり、理不尽にやめさせられたりするんだから!」
「はいはい、分かりましたよ」
なんて不謹慎な会話なのだろう。今頃あの人は耳がキーンとするほど大きなくしゃみをしているに違いない。そしてリリーさんの被害妄想の強さは人一倍だ。私はそれに呆れるしかなかった。でも。次私が行った時にもしあの人が死んでいたら、私はどうするのだろうか。考えたくもない。吐いた方がマシだ。ただ案外「ああそういうものだ」と思って、その場をすっと離れるような気がした。自分は何の関係も無いと主張してそこに転がる骸を置いてくるような気がする。まだ情をかけるほど親しい訳ではないし、これからそうなる予定もつもりもない。ただ、これは有り得ない妄想でもないのだろう。行ったらあの人が死んでいる。あの状態を見ればそれは十分起き得るのだろうなと冷めた頭で私は考えていた。
6章
次の水曜日、私はまたあのタワマンに居た。初夏の装いに身を包み、手元には和菓子屋の紙袋を提げて。外気に触れるだけで滲む汗をこめかみに感じながら、傍から見ればちょっとした良家のお嬢様にも見えるかもしれない。そんなくだらない事を考えながら私はインターホンを鳴らしていた。もうここに来るのも三回目、大体の勝手は掴めた気がするし、前に抱いていたほどの緊張感は今は無かった。
「こんにちは、ザ・ヘヴンです」
いつも通り無言のまま、そのドアはすーっと開いた。エントランスの大きさにももう慣れて圧倒されることもない。その真ん中から私は中に入った。変わらない噴水に目をやりながら、コンシェルジュデスクを一瞥する。今日は初日に居た女性が当番の日らしい。エレベーターホールへ向かう途中いくつもの配達業者とすれ違い、そしてスーツを着た男性陣とも遭遇した。どこかのお偉いさんのお付きの者なのか、ぴっちりと伸びたワイシャツにネクタイを締め、誰かが降りてくるのを待っているようだ。やはりここは別世界だと思う。世間とはある意味隔絶された異世界。こんな恵まれた生活をしている人間たちにも淋しさというものがあるのだろうか。私はそう思うと不思議でならなかった。
「美木さん、開けていいですか?」
私はまた十四階まで上がり、廊下に並ぶ大きな戸のその一つの前で返事を待っていた。相変わらず返事は無い。何をするにもきっと一つ一つの動作に時間が掛かるから、このタイムラグが生まれているのだろう。陽射しが一段と強くなって廊下の温度も相当に蒸し暑い。斜め上からギラギラと降り注ぐ日光は、少し当たっただけで日焼けをしてしまいそうなほど鋭かった。
「…」
今日もやはり返事は無いのだと、私は勝手に解釈してそのドアノブを回そうとした。相変わらずジージーと音を立てているガスメーターの下で重いノブを回すと、その途端に中から冷気が足を巻くように漏れ出てきた。サンダルを履いていた私は思わず「寒っ」と声を上げた。真冬のスーパーみたいな、そんな寒さだった。
「失礼します」
ドアを開けて中へ入るとその寒さが一段と身に染みて感じられた。前に来た時よりも冷房を最大限に付けているような気がする。冷蔵庫の中を歩くように、私はその冷えた廊下を素足で抜けた。ただ紙袋の中身が溶けそうになくて良かったという他はこの寒さに恩を感じない。いくら外が暑くても、こんなに冷やしたら風邪を軽く引いてしまうだろう。あの病弱そうな体にこの温度で適切なのか、私は「あり得ない」と呟きながらあの何も無い大部屋へと辿り着いた。そこにはまた、あの人がいた。
「…美木さん、入りますよ」
「どうぞ」
「失礼します」
「どうも、ご無沙汰してます」
「本日はご予約頂き、ありがとうございます」
「まさか来てくれるとは思っていませんでしたよ」
「え?」
彼は何も変わらない部屋の中で前と同様に寝そべっていた。今日の病衣は真っ白ではなく、少しストライプの入った薄い青色だった。今時こういうバリエーションもあるらしい。周りの機械はせわしなく音を立てて、外の暑さを一気に忘れさせた。一人で淋しく見える割には賑やかなのかもしれない。
「ほら、こないだ言ったでしょ? またここに来てくださいねって。」
「ああ、はい」
「でもあんなの言わばハッタリで。はなから来てくれるなんて期待してませんでした。」
「そう、だったんですね…」
「まあ、期待して裏切られた時の方が辛いですからね。それなら期待しない方が良いんです」
「裏切るなんてそんな」
「気づかないうちに人間、裏切ってるもんですよ。だから僕は人に期待しません。」
「…そうですか」
裏切られるのが怖い。この発言はそうとも取れた。この人は性格が捻じ曲がっているのか、それとも頭が良いからこういう事を言っているのか。ただ言わんとしている事は何となく理解できる気がする。恋愛でも友情でも、何であろうと、相手に期待してしまうから破滅のきっかけが生まれるのだ。期待をしなければ裏切られるという概念はそもそも存在しなくなる。美木さんも誰かに裏切られて、それで学んだのか。そんな気が何となくした。けれど本当の事は私には到底分からない。それは憶測の域を何も出なかった。
「で、頼まれたものを買ってきました。こちらで良かったですか?」
「お、本当に買ってきてくれたんですか。ありがとうございます」
頼まれたもの、とは私が長々手にぶら提げてきた紙袋の中身だった。予約の電話があった後にまたリリーさんに連絡があって、「美木さんからおつかい頼まれたわよ」と私は申し送りを受けたのだ。流花堂という知る人ぞ知る老舗が出すデパ地下の店舗にわざわざ行き、手に入れてきた。普段なかなか行くことの無い贈答品売場の端にあったその店はリリーさんに聞いて薦められたものだ。そしてそこの水羊羹は普通見るようなカップ型ではなく、私も食べたことの無い不思議な形をしたお菓子だった。
「おー流花堂じゃないですか。そうですこれこれ、これが食べたかったんですよ。」
「水羊羹と伺っていたので、当店の店長に相談しまして。それでこちらをお持ちしました。」
「店長さん、解ってますね。これですよ。これこれ」
「お気に召されたようで何よりです。」
紙袋を手渡すと、美木さんは自らの手で箱を取り出し、シール蓋を破りながらその中身を手に取った。そこには丸い玉のような茶色の塊が入っていて、それはビニールに包まれている。これも水羊羹というものなのだと、私も購入する時に初めて知った。美木さんは、その玉を自分の顔の上にかざして、ビニールの表面が日光できらきらと輝くのを楽しんでいるようだった。子どもみたいな姿だ。その甘いマスクに無邪気な行動をすれば、きっと頭の無い女は落ちてしまうんだろう。
「美波さん、水羊羹食べたことあります?」
「いや…、多分無いですけど。」
「えー、それは人生損してますよ。絶対食べた方が良い」
「そうですか。私、そんなに甘い物食べないので」
「じゃあ、是非食べてみてください。この暑い夏にのどごし滑らかな水羊羹は最高の組み合わせです。特にこの流花堂の水羊羹は絶品ですから」
「はあ」
そう言って美木さんは箱からもう一つ玉を取り出すと、私の方へベッドの上から手を伸ばして渡してきた。その手を離れた瞬間に落ちる塊は、私の手のひらの上で一度撥ねたかと思うと、ずっしりとそこに沈んでその重みを感じさせた。
「まだ、ひんやりとしてるでしょう。」
「ええ、まあ」
「もっと冷たいのが良かったら、流水に浸すのもお薦めです。」
私の右手に乗った水羊羹の玉はじんわりとその冷たさを私に伝えてくる。彼は本当にこれが好きなのだろう。美木さんはまるでご褒美を貰った子どものように、水羊羹を心の底から嬉しがっているようだった。私はその様子を見て、謎に安心感を抱いた。そこにはあの挑発的な態度も過度な詮索も無く、一時の平和が訪れたように思えたからだ。今のうちは安心出来そうだとそんな気さえしていた。それだけ彼の喜びようは純真無垢に見えた。
「あ、美波さん。」
「はい」
「台所から黒文字、取ってきてくれませんか?」
「クロモジ?」
「はい、木の枝を削ったみたいな、楊枝に似たやつです。」
「はあ。全然見たことないんですけど」
「枝です枝。探してみてくれませんか」
「はあ、分かりました」
クロモジ、とは何か。大文字焼きの仲間かとくだらない想像を隅に追いやって、私は指差された方へと歩いて行った。クロモジとやらを私は聞いた事が無い。彼に言われた通り私は適当に引き出しを開けたが、これは初めてのことだった。美木さんの部屋と生活を一人で勝手に覗くのは。だからその一つを開けた時、私は驚いた。それは全くの空で、新聞紙が一枚敷かれているだけだった。他の引き出しの中もそんな感じで、カトラリーの類いは何も見つけられない。こんなに味気ない台所をしている人間は初めてだ。どんなに自炊をしない人間であってもいくらか調理器具は揃っているし、引き出しもそこそこに詰まっている。けれどよく台所を見渡せば、フライパンや鍋といった調理道具は何も無く、それは殺伐とした景色だった。これがあの人の生活なのだと、私はまたここで思い知ることになった。
「美波さん、ありました?」
美木さんに声を掛けられてはっとした私は、他の引き出しを探すようにした。すると、そこに割り箸を太くしたような木の枝が入っていた。きっとこれがクロモジというやつなのだろう。まるで焼き鳥の串のようだ。私はそれを念のため二本手に取って大部屋へと戻った。そして私が手にしたそれを見た美木さんは「そう、当たりです」と微笑んでいた。
「へえ、これがクロモジって言うんですね。知りませんでした。」
「その材料の木がクロモジっていう木らしいです。素材の名前そのまま、みたいな。」
「なるほど」
「お茶とかで使うんですよ。まあでも、僕は水羊羹を割るのにしか使いませんけどね」
美木さんはそう言うと、ゆっくりと私の手から黒文字を取って、反対側の手で水羊羹を宙に掲げた。彼はベッドに寝たまま自分の胸の上に水羊羹を吊っている。その様はどこか奇妙で滑稽だった。
「あ、美波さん。この下にお皿を敷いて貰えませんか」
「羊羹の、下ですか?」
「はい」
私は言われるがまま、台所から適当な皿を持って来て、宙ぶらりんにされている水羊羹の真下にそれを差した。すると彼は「よーし」と一言言ったかと思うと、水羊羹の玉に向かってすっと黒文字の尖った先を刺した。その時だ。ぷすっという破裂音が聞こえたかと思うと、中から球体の中身が飛び出した。水羊羹をさっきまで包んでいたビニールがパンと弾けて中から艶やかな茶色の玉が落ちてくる。その球は重力に従って真っ直ぐと白い皿に向かって落ちてくる。それは水風船を思いきり割ったような、そんな爽快な瞬間だった。
「びっくり、しました?」
「ええ、少し。」
「これが良いんですよねー、意外性みたいな。一瞬の楽しみです。」
「へえ…」
「慣れるまで案外時間かかるんですよ?上手く刺さらなかったり、玉がつるつる逃げちゃったりして。でもやっぱ良いですね、快感。」
「初めて見ましたよ、こんなの」
「そうなんですか。僕にとっては思い出の味なんです、これは。」
「こんなお菓子が世の中にあるなんて勉強になりました。」
私がそう言うと、美木さんは「それは良かった」と嬉しそうにしていた。そして黒文字で胸上の皿に転がった水羊羹を刺して、ぷるぷると震える手で口元へと運んでいった。流石に一口では食べられないのか、前歯で齧り取るように羊羹を口にして、その度に球はぼとっと皿に落ちた。
「ああー美味しい」
「…」
「すみません美波さん、水も汲んで貰えませんか。紙コップで良いので。」
「え、ああ…分かりました」
水羊羹を遠くのデパートまで買いに行って渡した次は水汲み。嬢の仕事というより、何?こんな事を生業にする職業は世の中には無いだろう。彼が小さく小さく水羊羹を一口ずつ食べている間に、私はこの間運んだのと同じペットボトルから紙コップに水を注ぎ、あの長いスポイトでそれを数滴取った。美木さんは、本当に水羊羹が好きなようだった。「美味しい」「美味しい」と呟きながら、そして最後には黒文字をしゃぶり取るようにして食事を終えている。これは彼にとってはおやつなのか、それとも生きるためのエネルギーなのか。部屋の隅に置かれたゴミ箱には食べ物の類は何も入っていなかった。彼はどうやって生きているのか。そんな疑念もよそに、ふと私の方を見た彼は『水羊羹はこの夏最大の栄養剤なのだ』とでも言いたいかのように、もう一つを箱から取り出していた。
「良かったですね、そんなに美味しくて」
「ええ。美味しいです。やっぱり、人間食欲ですね。それが満たされれば最低限生きられるし。」
「まあ」
変な話だ。私は食欲を満たすための仕事をしているのではない。あくまで、性欲だ。なのに、この人はそれを感じさせない。表に出さない。男なら誰でも醸しているあの『女が欲しい』という感情みたいなものが、この美木という人からはあまり感じられなかった。そう考えると、もはや私は騙されているように思えた。いくら襲う力が無いといっても、所詮男だ。あえてこういう風にはぐらかしておいて後でヤってやろうと思っているのだとしたら、やはりこの人は相当性質が悪い。そう考えてしまうのは、私はこの人の事をまだ信じていなかったからだった。私は基本的に他人の事を信じていなかった。
「あの…水、早く貰えませんか」
「あ、すみません」
「いえ」
私は美木さんの言葉で我に返り、ベッドサイドへと水を運んで行った。そしてその口元へまたスポイトで水を垂らした。滴が一つ一つ落ちていきながら、また日光を浴びてきらきらと舞っていく。その時、羊羹の残りが唇の端に付いているのが見えた。甘くてべとべとになった口へ水を垂らしていると、そのテカリが水をいくらか弾いてしまうようだった。
「あー染みる」
「そうですか」
「あ、もう少しスポイトの先、口元に近づけて貰えませんか。水が逃げちゃってて」
「ああ、すみません。それよりお口、お拭きしましょうか?」
「え?」
「べとべとなので」
「あ…すみません。恥ずかしい」
美木さんは少し顔を赤らめて、唇を横一文字に結んだ。私は別に彼を辱めたかった訳ではない。サイドチェストに乗っていたティッシュを一枚とって、そこにスポイトで水を含ませた。そして緩く脆くなったティッシュで彼の唇に触れた。最初、かさかさとひび割れているのが感触で分かった。ティッシュを横にずらしていく時に引っ掛かるほど、彼の口は乾いていた。
「痛く、ないですか?」
「ああ…はい」
私はベッドの脇にひざまずくようにして彼に近づいた。そうすると彼の線の細さをより認識できた。まるで布が身体を着ているような、そんな感じだった。右手を美木さんの顔の上に掲げると、その鼻孔から息がすーっと抜けてくるのが分かる。皮肉にも「ああ、生きてるんだな」と私は思っていた。確かに彼は生きていた。そして唇に付いていた羊羹の残りを綺麗に拭き取ると、唇は元の血色へと戻っていった。美木さんの割れた唇は水分を得て、いくらかその潤いを取り戻したかのように見えた。
「ありがとうございます」
「…いえ」
変な空気だと私は思った。急に距離が近づいたような、そんな錯覚を感じさせる空気感だった。私はそのティッシュを隅の屑箱へ捨て、また彼の近くでそっと立っていた。
「あと、どれくらいですか?」
「え?」
「今日の時間。一時間でお願いしてましたよね」
「ああ。あと、三十分くらい、でしょうか」
「じゃあ、一つ、お願いごとしても良いですか」
「…まあ」
美木さんは適当に水羊羹のゴミを端にやると、私の目を見据えてそう言った。やはりその瞳は綺麗だと思った。亜麻色の瞳だ。純真無垢で透けて見えるのに、その身体と頭はどこか醜い。どちらを信じていいのか、私はまだ決めかねていた。こんなに危うい人は他にあまり見たことがない。あのブランド女子ならば、きっとこの整った顔を一目見ただけで惚れてしまうのだろう。顔が良ければ世の中大体許される。そんなものだ。
「髪の毛、切ってもらえませんか?」
「はい?」
その彼が私に言ったのは、全く予期せぬ頼みだった。髪を、切る。別に美容師になったことは無いから経験は皆無だ。よりにもよって私にそれを頼むかと、私は内心むっとした。面倒な頼みだった。
「ずっと切ってないから髪、ちょっと伸びちゃって。切って欲しいんです」
「いや…」
「ま、お願いしますよ。このままじゃ頭の上で鳥の巣作ってるのか、みたいな事になっちゃうので」
「はあ…」
この人は一体何を言い出すのかと私は思っていた。次から次へと様々な雑用を依頼してくると思ったら、まるで彼の身の回りの世話をする従者にでもなったかのような気持ちだ。挙句の果てに髪を切れとは、大層なご身分だこと。やはり金持ちは周りの人間を全て下に見ているのか。その不愉快な感情を顔に出さないようにと努めながら、正直なところ私は更にイラつき始めていた。
「うち、何でも屋じゃないんですが」
「分かってますよ。デリバリーヘルスってやつですよね。一応違法じゃない。」
「…そうですけど。」
面と向かって言われると、デリバリーでもヘルスでも気恥ずかしい、というか晒し者にでもなった気分になる。いくら頑張ったところで世の中からは穢れた仕事で一蹴されるのがオチだ。キャバ嬢、ソープ嬢、デリヘル嬢。嬢が付く仕事に良い仕事はあまり無い。本来その穢れた仕事でお宅に伺っているんですが、と胸倉でも掴んでやりたい気分だった。雑用ならヘルパーか家事手伝いにでも頼めば良いだろうに。
「まあ、堅いことは言わずにお願いしますよ」
「もちろん、出張ヘアカットでもないんです。お分かりですか」
「はいはい。でも、まだあと三十分は僕はお客ですから」
爽やかな顔で美木さんはそう言い切った。もしこの人が客じゃなかったらどうしていたか。金さえ払っていれば何をしても許される。そんな客もたまにはいる。その権化、というか悪い所だけを抽出したようなのがこの男だ。この人が病人で、実は弱っているという事実の意味が分からない。むしろ私は本当に人殺しの第一容疑者になっていたかもしれないと私は思った。
「…」
「美波さん、怒ってます?」
「で、鋏はどこにありますか」
「ああ。多分無いので、キッチンバサミでいいです。どうせ誰かにこの先会う訳でも無いので。」
「は、キッチンバサミですか? あんな粗雑なもので良いんですか」
「良いですよ。だって切れるでしょ?馬鹿と鋏は何とやら、ってやつです。」
「はあ…」
この人は本当に私にキッチンバサミで自分の髪を切らせようとしているのか。やっぱりエリートだか頭の良い人間は少しズレているんだなと私は嘲笑った。横浜大だろうがキッチンバサミで髪を切る奴がいるのか。私はあの虚無な台所にそもそもキッチンバサミがあったことに驚きつつ、またそれを探しに部屋を出た。自分は何のために日々身体のメンテに気を遣っているのか。今日も何かしら食われるのだろうと覚悟して、仕事用の装いでここに来た。床屋のバイトをするんだったらあんな派手な下着は全て要らなかったし、大人の化粧を学ぶ必要も無かった。知らないうちに自分の存在意義を見失ってしまいそうで、私は寒気を感じた。
「ハサミ、見つかりました?」
「ちょっと待ってください。今、探してますから」
さっき開けた引き出しをもう一度開けて、私はどんな色形かも知らないキッチンバサミを探していた。まああんな一日中ベッドに横たわる生活をしているのならば、髪も勝手に伸び伸びと生えていくのだろう。実際美木さんの頭は鳥の巣のように巻き毛が繁茂していた。前髪はまつ毛の辺りまで下りてきていて、その瞳を確かめるのに少し覗かないといけないくらいだった。ただ、ご所望のキッチンバサミはなかなか見つからなかった。シンクの下まで開けて見てみたくせに、結局それは壁のフックに掛かっていて、私は無駄に時間を使ってしまったと後悔した。
「あ、ありましたか」
「ええ。髪、どのくらい切ればいいですか?」
「うーん、全部?頭が軽くなって、数日間洗わなくても臭わないくらいで。」
「それってどれくらいですか…」
「適当でいいですよ、適当で。」
美木さんはベッドに横たわったまま、そのもじゃもじゃとした頭を回すようにして私の方に向けた。彼が言っていたようにそれはまるで鳥の巣のように広がり、本当にぼさぼさだった。一体どれだけの間髪を伸ばし続けていたのだろう。下手なミュージシャンみたいにカールの付いたロングヘアーになりかけて、野良犬か栄養失調のオスライオンに私には見えていた。
「どれだけ放置してたんですか、これ。」
「うーん、半年?訪問看護の人に、『髪切ってください』とは言えないでしょ。」
「いや、よく分かりませんが。私は逆に良いんですか」
「美波さんは優しそうだったから、怒らないかなって」
「怒っていないように見えてます?」
「怒ってる?」
「ええ、少し。」
ここで変に繕っても意味は無い。私は素直に彼の質問に答えるようにした。それがこの不可思議な人間に対する唯一の対抗策に思えたからだ。そして、ベッドサイドに近づき彼の癖毛に触れると、刹那美木さんはびくっと震えるようにした。それが痛かったのか、不快だったのか。枕にもたげていた頭をぐるっと傾け、私の方をいたいげな様子でじっと見ていた。
「あ、すみません…」
「どうかされましたか」
「いや、何でもないです」
また奇妙な間が生まれて二人はそっと離れた。変に心拍数が上がって、男と女の雰囲気が流れそうになるのを私は感じる。そう、頭は敏感だ。いわゆる性感帯、と言われることもある。そこに私の手が触れたからなのか、美木さんは少し緊張しているように見えた。頭を誰かに触れられる事がそうそう無いのは、そういう事だからなのだろうか。彼の気持ちがこれで変に雄へと傾く前にと、私は一度下げた鋏をもう一度持ち直した。これで何かが始まってしまうのは正直心の底から御免だった。
「切りますよ?」
「一思いに、どうぞ」
「はい」
私は彼の髪の毛にもう一度触れ、その真ん中に鋏を通した。変な躊躇は無い。サクッと音がするように切り出すと、目を覆うように伸びていた前髪も少しずつ短くなっていった。その丸々としていた頭が次第に小さくまとまっていく。床に敷いた新聞紙の上にどんどん落ちる髪の毛が私の足に当たるのを感じながら、私は無心に鋏を走らせた。そういえば、こんな風に誰かの髪を切った事なんてあっただろうか。誰かの髪の毛に、こんなにも触れた事はあっただろうか。普段相手をしている男の人にも、頭に触れた事なんて無かった。誰もそんなのは必要としていない。彼らは皆、私の身体を求めているだけで、私と何か繋がるなんて事は考えてもいなかった。それが普通だった。、でも。私は今、この美木浩という人の髪に触れて、何かが脈々と流れてくるのを肌で感じていた。彼の髪に触れるだけで、何故かこの人の生きている形を指でなぞっているような気になった。普段とは違う時間を、私と彼は共に過ごしていた。
「案外雑ですね、美波さん」
「あ、すみません」
「毛根が引っ張られて…ちょっと痛いです」
「…それは失礼しました」
「冗談です」
「…」
本当にこの人は冗談が好きだ。それも悪い冗談が。誰かが構ってくれないと死んでしまう悪ガキみたいに、いやらしい事ばかりを並べ立てて。このまま鋏を喉元にでも立てたら黙るのだろうか。あんたの喉仏を切り裂いてやろうか?とでも。否、絶対にそれもまた弄ばれるはずだ。そんな気が私はした。
「髪の毛、だいぶ痛んでますよ。ちゃんとトリートメントとかしないと」
「美波さん、馬鹿にしてます?僕がトリートメントなんて出来るはずないじゃないですか。」
「確かに。別にそんなつもりは無かったですよ。でも枝毛ばっかりで。」
「枝毛?」
「そうです。毛先が二つとか三つに分かれちゃってて。ダメージ受けてる証拠ですよ」
「そうなんだ」
「髪の毛もね、栄養不足とか精神不調とか全部出るらしいですから」
「へえー。じゃあ僕は身体だけじゃなくて、メンタルもボロボロってことですか」
「あ…すみません」
「ちなみに僕、どのくらい身体悪いと思います?」
「え?」
「当然、ボロボロなんですけどね」
美木さんは自嘲するように笑いながら、私が鋏を入れているのを気にせずに体を揺らした。その様子に私はヒヤヒヤとしながら「知りませんよ」と答えを返す。すると美木さんは「さあお得意のクイズです」とまた私を試すようにした。
「この機械たちを見れば、まあそんな事くらい分かると思いますけど。どれくらいですかね、僕の病状は。」
「不謹慎なクイズ出すの、やめて頂けませんか。答える側も困るので。」
「不謹慎?その言葉こそ不謹慎ですよ。現に僕は病人として生きているんですから。まだ死人じゃありません。」
「それは失礼致しました。」
「ちなみにこの僕の喉仏に刺さっているのは酸素チューブ。寝たきりだから自分で上手く呼吸出来ないんですよ。赤ちゃんみたい。それでこっちの機械は心拍数や血圧をモニタリングするやつで、こっちは血中の酸素飽和度を測るやつ。これは、尿を回収してくれるパックです。あ、これ痛いんですよ?管が…」
「美木さん、そんなにおしゃべりしてると間違って首でも切っちゃいますよ」
「おー、それは困りますね」
そう言うと美木さんは大人しく黙って、私の方にまた頭をもたげた。こんなにべらべらと喋れるのにそんなに身体の調子は悪いのだろうか。正直機械の名前と役割をつらつらと言われても、医学の知識が無い私にはさっぱり何の事か分からない。リリーさんみたいにしぶとく生きているこの人が明日にでも死ぬとは、この時到底思えなかった。
「答え、言っちゃって良いですか?」
「え?」
「さっきの話です。何か、美波さんには話したくなって。」
「はあ」
一通り長さを短く揃えていくとまた美木さんは口を開いた。それは自分の病状の事で、まるで彼は隠そうというつもりは無いようだった。けれど、その病名に関しては彼は何も触れようとしなかった。
「何かね、明日明後日、すぐに死ぬようなやつじゃないんです。残念ながらね。医者からあと何年とかあと何か月とか言われれば楽なんですけど、そういうんじゃなくて。今の医学でも分からないらしいですよ。聞いた話だと診断されてから孫が生まれるまで生き延びた人もいるし、映画みたいに数か月後に死んだ人もいるし。だから僕の主治医も分からないと。皮肉ですよね。死ぬとは分かっていても、いつ死ぬかは予言できない。」
「…そうですか」
「でもね、きついんですよ。色々薬の副作用とかあるし、ただ病気は段々進行していくからだるくなったり、出来ない事も増えていくし。あーめんどくさい運命に巻き込まれちゃったなって感じ。そう、いつかは死ぬという運命。まあ、こんなの皆同じなんだけど。」
「運命、ですか」
「それで今は自分の全財産をはたいて、残りどれくらいか分からない余生をめくるめく過ごしているという訳です。ま、その金もいつ尽きるかって感じなんですけどね。」
「…へえ」
ああそういう事か、と私は勝手に納得していた。何だか分からない病気に罹って、死にはしないけど色々な路を閉ざされて、それでガラスの孤城に辿り着いた。そんなところなのだろう。もう少し話に緊迫感があれば私も少しは同情していたかもしれない。ただ彼はのんびりと、自分の時間を消費していっているようなそんな気がした。死までの時間を彼なりに楽しんでいる。もしくは死の恐怖をそれで紛らわしているのかもしれなかった。
「でも、死ぬんですよ。そのうち。それは決まってます。他の人よりはきっと長く生きられないし、周りが結婚とかをしていく中で僕はこれからも独りです。死ぬ時もきっと、独りで。」
「大体世の中そうじゃないですか」
「確かに。美波さんも?」
「さあ」
「ま、僕はじりじり神様か何かにいたぶられながら、じんわりと自分は死ぬという事を頭に刷り込まれながら死んでいくんです。もっとすぐ、パッと一瞬で死んじゃえば良いのに」
「縁起悪いですよ」
「今さら、縁起もゲン担ぎもありません。」
ゆっくりじわじわと、彼の身体は病魔に侵されているのだろう。きっと一年前のこの人は今よりもっと肉付きがよくて、水も一人で飲めていたのかもしれない。どうやら私が今まで蔑んだり、「可哀想」と思っていたほどには、彼は病人として追い込まれているようだった。彼の話を聞く限り、明日明後日は生きているだろう。けれど半年後は分からない。一年後は更に分からない。そんな運命に彼は巻き込まれたのだと私は勝手に理解した。
「あの、」
「はい?」
「あ、いや。」
私はその時「ご家族は?」と聞こうとしていた。けれど出かけたその言葉を喉元で抑えた。それは刹那自分の事を顧みたからだった。彼にはその影が無かった。こんなタワマンに独り閉じ籠もっている大学院生に「親は?」と聞くのはいかにも野暮だ。絶対に何かしら禍根か因縁が背後には渦巻いているはずで、私みたいな第三者がそこにずかずかと足を踏み入れたら厄介な事になるに決まっている。それにこの人はそういうのを望むような人間には見えなかった。だから私は偽った。
「何でもないです。」
「そうですか、別に聞きたいことがあったら何でもいいんですよ?彼女はいるんですか、とか。」
「遠慮しときます」
「それは残念だ」
私は微笑を湛えながら彼の申し出を断って、まだ長さがそろっていない襟足の部分を丁寧に切っていった。やはり素人で初の散髪だから、全くといって良いほど綺麗な髪型にはなっていない。いかに美容師さんたちの技術が凄いかをしみじみと私は感じていた。私が切り進めた美木さんの頭は少しずつきのこの傘のようになっていって、韓流スターみたいに見えてくるのが可笑しくなってきていた。それだけ私の散髪は下手だった。
「美波さん、何笑ってるんですか。そんなに僕、変ですか」
「いや、すみません。大丈夫ですよ、変じゃありませんから。」
「そうかなあ…」
美木さんに鏡を見せないように、あえて私は前髪の方へ手を伸ばして目を塞ぐようにした。すると美木さんは自ずと目を瞑って、髪の切れ端が目に入らないように静かにしていた。前髪はとても難しい。どこかに揃えようかと思うと、いわゆる「ぱっつん」になるし、下手に鋏を入れようものならギザギザになってしまう。まあ初めに量が減れば良いと言っていたから、私はその通りにとにかくもわっと突き出している重い髪を梳くように切っていった。もう十五分くらいは経っていただろうか。お金を貰っている時間はあと十五分、残りは適当に過ごして床に落ちた髪の毛を片付けるだけだ。
「あ、きのこみたい。」
「え」
「美波さん、隠そうとしても無駄ですよ。そこの窓に反射して、僕のきのこ頭見えてますから」
「あ、あー」
美木さんはそう言って、ベッドの向こうにある縦に大きなガラス窓を指差した。そこには確かに頭が丸くなってしまった美木さんと、その近くでキッチンバサミを持って佇んでいる私の姿が歪んで映っている。何とも奇天烈な光景だ。私は「バレちゃいましたか」と一応悪びれながら鋏を下ろした。
「まあ大丈夫ですよ。さっき言った通り、誰も来ませんから」
「すみません、ご容赦ください」
「ふふ、本当に大丈夫ですから。」
まあここに来るのはきっと訪問看護の人くらいで、大学の関係者に会うという事もこの期に及んでは無いのだろう。私は罪悪感を仄かに覚えながら、言葉だけは「すみません」と平謝りをしていた。そして何となくでまたその髪を整えて、私は初めての散髪を終えたのだった。
「では、今日はそろそろ…」
「あ、あの」
「はい」
「最後にひとつ、ダメもとで。」
「?」
キッチンバサミを台所に片付けてまた大部屋に戻ってきた時、美木さんが私を見つめて何かを言い出そうとしていた。持ち時間ぎりぎりに何を言い出すのだろうと私は少し身構えて、またそのベッドサイドへと歩み寄る。すると美木さんは「お願いがあります」と私に告げた。
「何ですか?」
「……撫でてもらえませんか」
「?」
「頭、撫でてもらえませんか」
「…はい?」
何の事かと私は思った。頭を、撫でる。散髪の次は色仕掛け。この人は、何を求めているのか。ますます私は分からなくなった。けれど、頭を撫でて欲しいと告げた張本人は伏し目がちにしていて、その表情がふざけている訳ではないと示しているようだった。だから私は訝しみながら、無理に自分を納得させることにした。お金を貰っている時間の間は、私の身はお客様のものだった。
「…良かったら、お願いします」
彼は呟くようにそう言った。それは彼の純朴な願いのように思えた。ただ異性との触れ合いを求める雄の欲望には私は思えなかった。真剣そうな美木さんの表情に押されて、そして急に醸された雰囲気に呑まれた。ゆっくりとベッドの横の床にひざまずき、伸ばした右手を彼の顔の上にかざした。その手の甲にはさっき切った美木さんの小さな毛が付いている。お金を貰っているから、何でも出来るのだろう。きっとキスをしろと言われたらこの人にもするし、舐めろ触らせろと言われても許すだろう。ただ、この人は何かが違った。やはりあの欲を何も感じなかった。私に何を求めているのか、ふとリリーさんとの会話を思い出していた。その違いだろうか、厭らしい感じが無いのは。それよりももっと複雑で面倒な、そう、心の繋がりを求められているようなそんな気がした。
「…分かりました」
私はまた手を彼の頭に伸ばして、そっと髪にもう一度触れた。私はその短くまとまった頭をさするように触れていた。頭を撫でる事を求められたのは初めてだ。こうやっていざ求められてみると変に力が入って奇妙な気持ちになる。そして美木さんは、まるで母親に甘える息子のように目を閉じてその時間に浸っていた。私が母親、と自分で言うのは幾分おかしいかもしれないけれど。
「これで、良いですか?」
「…はい」
私はその癖毛を戻すように髪を流した。彼の頭はしっかりとしていて質量感があり、それでいて痩せている頬を見れば今にでもひしゃげてしまいそうな弱さも併せ持っていた。彼は何のために頭を撫でて欲しいと言ったのだろう。私はそれを考えながら、ゆっくりゆっくりと彼の頭を撫でた。男の人の頭にこれほどまでに触れたのは、きっと初めてだ。すると美木さんは、すーっと寝息を立て始めていた。手を少し伸ばせば当たる鼻孔から、すやすやと心地良さそうな音が聞こえているのに気づいて、私は「寝ちゃった、の?」と思わず言葉を溢した。
「…」
彼は何も答えなかった。息はしているから別に死んでいる訳ではない。それでもこの部屋にいれば、何か自分が殺めてしまったような気持ちにさせられてしまう。もし殺めてしまったら、私は何の罪に問われるのだろう。頭を撫でていたら死んでしまいました、と正直に言うだろうか。
「…」
変な妄想をして、もう時間が過ぎていると気づくまで私は機械的に彼の頭を撫で続けていた。その向こうの、中途半端に高いタワーマンションの窓辺から階下に広がる横浜の街を眺めながら、その右手で右に左にとただ動かしていた。きっとこれは、美木さんの求めている何かだった。私の手からきっと何かが彼の中に注がれて、それが息づいている。ああこれが癒すって事なのか、と私は静かに思った。
「手、離しますね…」
そして時間がいくらか過ぎた頃、私はその手を離し、そっと帰り支度を始めた。美木さんはそのまま本当に眠ってしまったのか、変わらず寝息を静かに立てていた。けれど流石にずっとここに居る義理も無く、無課金で優しくするほど私は良い人間ではなかった。だから申し訳なさを覚えつつ私は身なりを整えていた。サービス残業なんてしていたら、逆にリリーさんに怒られてしまうだろう。
「では、失礼します」
そっとドアを閉めて私は彼の家を出た。一応のしるしと思い、私は持っていた付箋に『お時間になりましたので、失礼させていただきました』と書き、ベッドサイドに貼り付けておいた。知らないうちに彼に優しくしている自分に気づいて、私は気恥ずかしさを覚えた。
頭を撫でる事、その意味を考えながら私はまた事務所への道を辿っていく。もう手元には重い水羊羹はぶら提がっていなかったから、軽くなった身で海風がそよぐワールドポーターズを歩いた。平日の昼間、お客は疎らで休日のような賑わいは無い。その道すがら、ふと私の中に昔の古い記憶が湧いてきた。自分がいつか誰かに頭を撫でられた記憶。それは思い出すだけで壊れてしまうほど脆くて、儚いものだ。もしかしたらそんな記憶、勝手に作り出したもので、存在すらしないのかもしれない。私にも、頭を撫でて欲しいと思った時があった。それは誰にでもでは無くて、ある人にだった。でもそれ以上はもう、思い出したくなかった。
「もう…終わり。」
美木さんも、きっと。誰かに撫でて欲しくて、人の温もりを思い出したくて、それで私に頼んだのだと思った。きっと私と同じではないのだろうけれど、死ぬ前に誰かに愛されたいとでも思っていたのかもしれない。私の頭も、美木さんの頭も、誰かの掌の記憶を今も憶えているのだから。
7章
春学期の中頃、期末テストが少しずつ見えてくるようになってきた初夏。階段教室を構成する人数は逓減してゆき、六月の末には本当に数えるほどしかいなくなっていた。私の好きな哲学の授業は自由履修だったからか、受ける学生の誰もが必要としている訳では無く、まるで閑古鳥が鳴いているのだ。こんな、と言ったら授業を毎週してくれている非常勤講師に失礼かもしれないが、こんな講義を面白いと思ってそこそこ真面目に聞いている自分がどこか可笑しくて、私はそれを隠したくもあり「あの哲学の授業、楽単だった。ラッキー」と友人に嘯いていたのだった。
「今日扱う題材は、死です。死というものは遥か古の時代から時には崇められ、時には畏れられてきました。そして哲学者たちもまた、この題材に様々な思索を通じてアプローチしてきました。死を終焉と取るか、再生と取るか、これはある意味宗教観や文化的思想の違いで一部を説明できることでしょう。」
そんな講義の始めに講師が放ったのは「死」というセンセーショナルなワードだった。ほとんどいない履修生の中でもざわざわと声の波が広がり、好奇心か不安か、教室の空気が少し引き締まる。
「まあ、皆さんはどう思いますか。死、と聞いて。ええ何を思い浮かべるか。普通、天国とか終わりとかそんなところでしょうかね。そこの、いつも一番前で聞いてくれてる君、どう思う?」
「は、はい」
珍しく老講師は最前列の学生に話を振り、自分に話が飛んでくると予想もしていなかったのだろう、その学生はしどろもどろになっていた。その様子を見ながら先生は「ああ、何でもいいんですよ。死、と聞いて思い浮かべるもの、こと。」と言葉を促した。
「えーっと、」
彼は答えに詰まっていた。私なら…何と答えただろう。これをふと考えながら、自分が当てられなくて良かったと私は息をついていた。なぜなら、これは私があまり好きではない話だからだ。予めシラバスを見ておけば良かったと、内心今さら私は後悔していた。自分にとっての嫌悪刺激に曝されるくらいなら、一日くらい私もバックレた方が精神衛生上正しかったかもしれない。
「じゃあ…終わり、ですかね。」
「終わり? うん。それは、死イコール、ゴールだという考え方ですか?」
「まあ、はい」
「なるほど。じゃあ、今日はここから始めていきましょうか。キルケゴールとハイデガーの対立です。」
階段教室の一番後ろにいつも通り座っていた私は、その問答を聞きながら窓の向こうの暗闇を眺めていた。そして消えてしまうか、気逸らしをしながらやり過ごすかを考えていた。どんどん話が進んでいけば、ふっと心が寒くなるような話題にいずれ辿り着いてしまう。けれど、このタイミングで教室の前の扉から出ていけるほどの図々しさは私には無い。そこまでは強くなかった。だから、私はその講師の話をそぞろに聞いていた。そのままここに居座っているしかなかった。
「キルケゴール、知ってますよね。デンマークの哲学者で、実存主義者。哲学ファンからは美形イケメンと呼ばれていたり。あれかこれか、死に至る病なんかはタイトル位聞いたことあるでしょう。ああ、折角皆さんは大学図書館でタダで本を読めるんですから、先人達の名著に学生のうちに目を通しておくといいですよ。」
今日は、この長い話の邪魔をするおしゃべり集団は揃って欠席していた。だからなのか講師の語り口がやけに巧妙で話は弾むように流れていく。彼はいつも通り、茶色の服を着ていた。
「このキルケゴールは実存主義的立場から、まあというか、神を信望していましたから、死は通過点に過ぎず、目的地は天国若しくは神であると主張していました。つまり、死は終わりではないということです。どうですかね。皆さんが何教を信じているかは分かりませんが、一般的な日本人にとって「神」というのは親和性が低い存在ですし、「天国」というのも仏教で言うところの「極楽浄土」とはちょっと性質が違いますから、ちょっと理解がしづらいかもしれません。まあとにかくキリスト教ベースの話です。これは。」
私は、神を信じていない。講師から発せられた「神」というワードに触れて、私はこんな事を思っていた。生まれた時から特段何かに信奉させられた覚えは無いし、あえて言うなら八百万の神々にあやかろうという程度だった。だから欧米的な「神が」「神が」というのは、その講師の言う通り、馴染みにくい文化であり主張だった。そして、神にすがろうとする人間の浅ましさが一番嫌いだった。現実は何も変わらないのに救われると錯覚している人々を私は愚かだと思っていた。
「まあ彼が立てたイデオロギーとして有名な『実存の三段階』においても、三番目は宗教的実存ですからね。神との一対一での対話というものがその宗教的実存です。裏を返せば、我々のような非キリシタンからすると馴染みが悪くても、キリシタンにすれば親和性が極めて高いと言えましょう。ですから、死の向こう側には神がいる。我々を超越する存在が、そこには待っているのです。」
「えへん」と咳払いをして、講師はまた教壇の上に置いた別の本を取り、一番後ろに座っている私たちの方にも見えるようにとその本を掲げてみせた。色と大きさが分かるだけでタイトルも何も分からなかったが、講師のその仕草から、初めて私は自分もこの教室の構成員として向こうに認識されていた事を理解したのだった。
「では、ハイデガーは死を何と言ったか。ハイデガー、分かりますよね。ドイツの哲学者で、存在論や実存主義において活躍し、西洋哲学全体にも大きな影響を与えた人物です。『存在と時間』、これもまた読んでみると良いでしょう。名著ですよ。君、読んだことある?」
「あ、いえ…」
また講師は最前列の学生を当てた。黒髪に眼鏡を掛けたその男子学生も、どうやら名著とやらを読んだことが無かったらしい。一番前に座っているのは意欲を見せつけるだけのパフォーマンスなのかと、私は冷淡にその様子を眺めていた。
「では、ハイデガーは死をどう捉えていたか。彼は、死はゴールであり、そこまでの過程やすなわち人生にこそ意味があるのだと主張したんですね。どうでしょう。聞こえはかなり良いですよね。」
何というか道徳的、自己啓発的な主張だ。死ぬまでの間にどれだけやりたい事をやるか、充実した人生を過ごせるか、友人や家族に恵まれるか、社会的に高く評価されるか。そういう事だろう。どこかで聞いた事があるような話だった。でも、死んだら自分の人生がいかに幸せだったかなんて遡って評価することは出来ない。私は心の中でそう反駁した。本当に死ぬ寸前にそんな事を思い返すのだろうか。出来ればそれが出来る余裕を持って死期を見つめたい、そんなところなのだろうか。そう出来ればこそ、本当の幸せ者だと思う。
「私は、このハイデガーの考え方は一理あるとは思います。なぜなら、死後のことを考えて、神の為にあたふた生きるよりも、死ぬまで精一杯生き切る方が楽しそうに思えませんか。」
冗談なのか本気なのか、講師のその発言に教室は微笑と苦笑いが局所的に起きた。死ぬまで精一杯生き切るという表現はなんて青臭いのだろう。だから私は、もちろん後者だった。だが、そこで講師は「ただ、」と再び口を開いたのだった。
「ただ、この超高齢社会において、八十歳九十歳を超えても『まだまだ人生頑張るぞ』なんて言えますかね。私は先ほど『精一杯生き切る』と言いましたが、皆さん知っていますか? 今、日本の平均寿命は、女性は九十くらいです。そのうちどれだけの人が、最後の最後までピンピンしていられるでしょうか。」
「…」
「私事にはなりますが、私の母は九十一で亡くなりました。大往生だと思います。けど、最後の十年間は認知症でした。ねえ…本当に我々家族も看護師さんたちも大変でした。果たして彼女は九十一という寿命を精一杯生き切ったのでしょうか。彼女にとって死は輝かしい人生の終着点だったのか。哲学的に思考すれば、もう既に十年前に彼女は死んでいたとも言えるのではないでしょうか。こういう経験をしてしまうと、死というゴールを目指して生きていこうみたいな上昇志向は…考えものなのかなと思ってしまいます。つまり、生命としての終わりが今はうんと遠いですからね?まして意識がしっかりあるうちは、自分の身体の衰えとかを感じながら日々生きていくわけです。いわば、それは『生かされている』とも言えませんか。」
「…」
確かに、そうかもしれない。そう教室にいた皆が同意したように、教室は一段と静まり返った。高齢者になれば、今私たちが俎上に上げている「死」というものの意味合いがだいぶ変わってくるだろう。もう満足したからいつでも逝って良いと思えても生かされる人生など、非の打ち所がない人生など、この世には存在しないのかもしれない。
「でもね、ここでコペルニクス的展開を差し込みましょう。」
急に差し込まれたカタカナ語に、最前列の学生は小さく「え?」と声を上げた。今日の論調は流れるように滑らかで、また意外性と含蓄に富んでいた。そしてここで登場した「コペルニクス的展開」は、まだ何かが説かれることを明に表現していた。
「サルトルはこう言いました。『突然死と老年死は性質が異なる。老年での死は自分自身を欺き騙して作っているイメージである。突然死の可能性に目を瞑り、騙し騙しで生き続けているだけである。』そう、突然死という概念を差し込んだとしたら、今までの話はどうなりますか?」
私はそれを聞いて、静かに鳥肌を立てた。階段教室の一番上で誰にも見られることなく、小さく震えていた。だから、この講義を聞きたくなかった。突然の死。その言葉で弾かれるように、抉られるように取り出される悪の記憶が、私を…そうさせていた。
「全て、無に帰す。キルケゴールの話もハイデガーの話も、全て現世と死と来世が一本の線で繋がっていて、それを前提に話していました。でも、その線がどこかでプツリと切れたら、どうなるのでしょうか。我々はどこに行くのか、そして周囲の人々はどう受け入れるのか。…例えば、それはどんな死があるでしょうか。では、君はたくさん答えてもらったから、その三段目の女性。お願いします。」
講師はまた質問をするつもりだった。前から順番に人を当て始め、次に当てたのは三列目に座っていた長髪の女子だった。その女子は少し思考した後、「交通事故、とかですか?」とか細い声で答えを返した。
「うん、そうだね。事故。これはよくある、と言ったら表現があれかもしれませんが、ひとつのケースですよね。事故。色々種類はあると思いますが、アクシデント、と形容されるものでしょう。では他にもまだあると思います。少し飛んで君、どうですか。」
「え、はい」
そして、次に当てられたのは出口の近くで内職をしていた男子だった。「えっと、何の質問ですか?」と恐る恐る尋ねる彼に、講師は注意を述べることも無く「突然、死んでしまうこと。どんなのある?」と再度質問を投げかけた。
「…うーん」
「何でもいいですよ」
「…そうですね、戦争とか。」
「うん。いいでしょう。」
私はそれを、少し斜めからの答えだなと思っていた。まだありきたりな答えが溢れていそうなのに、重箱の隅を突くような選択をした彼に、勝手に人柄を推察した。しかし彼のその答えに講師はさらさらと流れるようにフォローを返した。
「ちょうど今も、世界のある国とある国が戦争をしていますよね。うちの大学にも、避難してきた学生を受け入れていることはきっと皆さん知っているでしょう。戦争は知らないうちに始まっていて、人々を知らないうちに死の淵へと追いやります。ある意味、国民レベルで言えば不可抗力の死と言えるでしょう。また、広島や長崎の原爆もそうですね。ある日、空から大きな爆弾が落ちてきて、一瞬で焦土に化した。当たり前の日常を営んでいた人々がそのうちに消えるように、焼けるように亡くなりました。」
講師はそれからまた、まだ例を挙げたいのか、中腹くらいに座っている女子二人組を当てた。その二人は最初「え」と顔を見合わせて、まるで「あり得ないんだけど」と言いたいばかりに小さく首を振っていた。
「お二人さん、何でもいいですよ。折角の機会ですから、この大きな教室で声を出してみましょう。もしかしたらそれもこの先長い人生を豊かにするヒントかもしれませんしね。」
「はあ…」
そうして二人はぶつぶつと言葉を交わしながら、まるで降参したかのように、片方のショートカットの女子が「震災とか」とぽつりと呟いたのだった。
「うん、災害。震災。…皆さんの世代だと東日本大震災が記憶に新しいかもしれません。僕も実は福島県のいわき市ってところの出身で、当時は福島の大学で教鞭をとっていたものですから、地震に津波に原発に、恐ろしい日々でした。身内は皆無事でしたけど、東北地方全体で、二万人もの死者行方不明者が出ました。その皆さんは同じく、ある日突然亡くなられた方たちですね…。」
「あと、」
「はい?」
「病気も…」
先生が一通り話し終えたタイミングで切り出したのは、もう片方のロングの女子だった。話を遮るようにしたわりには、そっちも弱々しい感じで、蚊の鳴くような声で自分の答えを発表していた。
「病気、そうですね。ある日突然脳梗塞とか、心筋梗塞とかで亡くなる人もいます。こういうのは皆さんのような若者には馴染みが無いかもしれませんが、急性白血病とか、あまり詳しくは無いですけど、そういった予後が良くない病気もあります。それに、未知の感染症が発生して、直ちに死んでしまうということもあるでしょう。歴史を遡っても、チフス、結核、コレラ、ペスト。これらも一瞬にして広がり、多くの人々を死に追いやりました。」
去年だったか、一昨年だったか。同年代の若手女優が感染症にかかり、数日のうちに亡くなった。発症から亡くなるまで、本当に短い期間だったと記憶している。マスコミもセンセーショナルに報道をしていただろう。確かに人は、色々な原因で突然死んでしまう。それはある意味人が生物であるからであり、完璧ではないからだ。自分の予期せぬ災厄に巻き込まれて、まだ生きたくても死を突き付けられる。当然のことであってもこうやって考えてみると、残酷な、この世の定めだった。
「では、皆さん。ここでもう一度考えてみましょうか。今皆さんに挙げてもらった例には、共通点があります。実はさっき少し話してしまいましたが、誰か分かる人いるでしょうか。もちろん突然のことである、というのではなく、死因についてです。」
死についての話を深めていき、すっかりどんよりとした教室に講師が投げかけたのは、また話を深入りさせるような質問だった。でも、私はその答えを知っていた。私が最初の問いかけを聞いた時、思い浮かべた死に方は事故でも戦争でも災害でも病気でもなかった。そんな、綺麗な死に方じゃなかった。その答えこそが私をひるませていた。
「では、また当ててみましょうか。すみませんね、今日は当てちゃって。人数も少ないし、コミュニケーションが欲しくてね。…えっと、一番上の女性。あなた、お願いできますか」
「?」
その指の向く先に、教室の皆の視線が集まる。そう、講師が当てたのは私だった。
「さっきの例の共通点、分かりましたか?」
遥か下にある教壇から、その講師は見上げるようにして私に問うた。その柔らかな瞼に付いた瞳でこちらを真っ直ぐ見据えると、私の発言を促すように左手を挙げている。そして、「さあ、どうぞ」と穏やかな声でまた問うた。優しくも退路を断つようなその語りかけ方に、逡巡する余裕は無いのだと私は感じた。
「どうでしょう、分からなかったらそれでも大丈夫ですが。」
「いえ」
だから、私は答えた。
「…皆、不可抗力です。」
「不可抗力、つまり自分以外の原因で泣く泣く亡くなった、という事ですね。」
「はい」
講師はうんと頷いたかと思うと、「そう、正解ですね。ご名答」と遥か上の私に向かって拍手を送った。それに合わせて周囲の学生がまばらに拍手をする中、私はどことない居心地の悪さを感じていた。考えれば別に、誰にても分かるような答えのはずだった。
「一昨年の授業では、こんな綺麗な回答は出ませんでした。皆、人間か人間じゃないか、とか自然が…みたいな話をしていましたからね。そう、不可抗力なんです。不可抗力による死、なんですねこれらは。」
謎に興奮したような語り口でその講師はその後も喋り続けた。不可抗力というものの哲学的な捉え方について、ギリシャ哲学を起点に運命論的なボードレールまでひと通り話し、ついには初めのキルケゴールに戻っていった。チャイムが鳴って解散となる時も、鳴り終わるその時まで彼は話し続けていた。
「あ、もうこんな時間でしたか。今日はちょっと脱線しすぎましたかね。本当は仏教思想まで足を踏み入れたかったんですが…。」
そう言いながら、講師はこれから長い出席簿を読み上げ始め、ほとんどに×印を付けていった。チャイムギリギリまで話をしていたせいで今日は帰りが遅くなるのが確定だ。最終の七限だから休み時間や他の授業のことを気にする必要は無いのがせめてもの救いだった。
「では、今日はこれで終わりにします。お疲れ様でした。もちろん今日の部分も期末テストの範囲となりますから、講義内で取り上げた書籍などは一読しておくと良いかもしれませんよ。」
全てが終わり、授業前のざわざわがまたすぐに戻った。いつも私語をしている集団が今日はいないせいで、その差が大きく感じられる。今日の講義は静かで、内容の濃い物だった。そして自分の教科書をショルダーバッグに入れていた時、講師が階段教室に向かってこう言った。
「あ、ちなみにさっきの話なんですが。不可抗力によらない死、とは何だと思いますか?」
唐突な質問に「また質問かよ」「早く帰りたいんだけど」と辟易する声が周囲から上がる。それは至極全うな声だと思った。ただでさえ超過しているのに必要以上話を広げる必要はないだろうと感じていた。
「さっき答えてくれた、一番上の君、分かりますか?」
「はい?」
周りの喧騒に紛れて教室を後にしようと考えていた時、だがその講師は、私を当てたのだった。また遥か下の教壇から私を温かな微笑みと共に見つめ、その答えを待っているようだった。もしかしたら、さっきの答えに何かを見出されて変に気に入られてしまったのかもしれない。厄介だ。だから私は息をひとつ衝いた。そして、
「自殺です。」
と階段教室の端まで聞こえるように答えた。
これが…、私が一番最初に思い浮かんだ死に方だった。
「…君は、ちゃんと分かっているようですね。」
その人は、また穏やかな口調で言葉を残すと、そして何事も無かったかのように前の出口から去っていった。
「…はい?」
私は正直意味が分からなかった。試されたのか、何かを見透かされたのか。周りの学生はこの光景を見やりつつ、また自分の日常へと歩みを戻していった。変なしこりを残したまま、階段教室の上で私は一人立っていた。そして、それ以前に、私は自分の口を疑っていた。私がその言葉を人前で、しっかりとした声で告げられたという事に、私は慄いていた。
なぜなら、それは、私が一番嫌いな言葉だった。
8章
「美波、何やってんの?さっきからずっと、スマホ片手にぼーっとしてるけど。」
「あ、すみません。すぐ支度します。」
その日、大学終わりに私が向かったのは「ザ・ヘヴン」だった。今日は夜の予約が入っていて、それもみづきさんと二人で指名された、いわゆる複数でのサービスだった。大体は一対一でご奉仕をしているから、こういう注文は珍しいと言えば珍しい。一応常連さん向けに、お店の中でオプション扱いになっているサービスだった。
「何か、嫌なことでもあったあ?悩み事とか。お姉さんに何でも話しな?」
「あ、いや、そういう訳じゃないんですけど。」
「そっかあ」
私は別に、嫌な事があったからスマホを見ながらカウンターでぼーっとしていた訳ではなかった。確かに悩んでいたと言えば悩んではいたのだろうが。今日、リリーさんは外に出払っていた。どうやら私の後に新しく入ってきた女の子がお客様とトラブルを起こしたらしい。警察沙汰になりかけたか何かで、私がここに来る前に店長は慌ただしく出ていったのだと、みづきさんがさっき嬉々として教えてくれた。だから私はぼんやりとカウンターに座れていた。いつもなら「何若いのが座ってんの!」と檄が飛ぶはずだ。こんな静かなザ・ヘヴンは逆に怖くなるほど、それはとても異様な事だった。
「じゃ、何眺めてたの?急ぎの用事?」
「いや…大学のレポートで。すみません。後でにしますね。」
「ああレポートか。大変だねえ、大学生とやらは。勤労学生、兼業だもんね。」
「学業とこっち、どっちが本分なのか分からなくなってますけど。」
「確かに。最近美波、そこそこ入っているもんね」
みづきさんはそう言いながら、ブランドバッグからメイク道具を取り出して裏の更衣室へと歩いていく。私もそれに遅れまいと、さっさとスマホを仕舞ってみづきさんに付いて行った。
「みづきさん、今日の方は派手な感じより清楚系が良いんでしたっけ?それなら、メイク落とし目が良いですよね」
「あーそうそう。マスカラ、強めに引いたりしないでね。そういう微妙なところでも、ちょっとご機嫌ナナメになっちゃうからさ。」
「はい」
何でメイク落とし目なんかをご所望するのか。そのお客様は清楚系が好みだった。清楚系なんて女子は真には存在しないのに、わざわざデリバリーでそれを頼むところに男の矛盾を私は見出していた。素の嬢の姿を見たら、そんなお客さんたちは何と言うのだろう。「今度からすっぴんで良いよ」「もっと素の美波ちゃん、見せてよ」という台詞は私も何回か掛けられたことがあるけれど、素の自分を見せたら失望されることを十分私は知っていた。何せ、冴えない貧乏な女子学生の姿など、向こうは見たくも知りたくもないだろう。
「だから今日はご自慢の谷間も隠してるんですね。私もそうしようかな」
「あ、美波。男みたいな目で私を見ないでよー。そう、清楚系でーなんて言われたら、フェロモンも抑え目じゃないとダメでしょ?だから、ご自慢も諸刃の剣なの。」
「なるほど…」
「なるほど…ていうか、美波ちゃんには無いでしょ?いいのよ、そんなのは勉強しなくても。大学でちゃんと勉強しなさい。」
「みづきさん…、それ、案外気にしてるんですよ?」
私を習慣のようにからかうみづきさんは今日、いつもに比べてうんと落ち着いた大人の女性の様相を呈していた。水色のふわりとしたワンピースに、首元にワンポイントのネックレスを留めている。香水の香りも爽やかで、こういうの男の人が好きだろうなという姿そのものだった。相手のためにここまで尽くせるみづきさんを、ある意味私は尊敬していた。私には、出来ない。相手に尽くしたという自信が今まで一度も無かった。全ては自分の自己満足か、偽りのおもてなし、癒しだった。
「ごめんごめん。美波はもう十分可愛いんだから、そんなの気にしなくていいでしょ?現にたくさんのお客さんから好かれてるんだし。」
「それ…フォローになってます?結局私が求められてるのは、若さだけ、じゃないんですか。」
「私にとっては若さも十分羨ましいんだよー?もう嫉妬しちゃうくらい。だってあのタワマンからも、継続的に受注してるんでしょ?気に入られてるんじゃん。」
「受注って…。」
急に振られた「タワマン」の話題に、私は気持ちを少し切り替える必要があった。まあ、タワマンからは継続的に注文を受けていた。一週間に一度、水曜日にあの部屋に行き、何でもない雑用を延々と頼まれて、まるで介護のような時間を過ごす。それが美木浩からの注文だった。それでも私は仕事だからと割り切って、あの場所に通っていたのだ。まるでトラウマに触れるような初めての出会いも、今はもうぼんやりとかき消されて、人間の記憶の都合の良さに私は半ば救われていた。彼との時間を勝手に積み重ねている自分がいて、そのうち何かが変わってしまうのを内心恐れている自分もいた。
「でも、美波は繕わないし、そのままの美波をお客さんに好かれてるんだと思う。」
「何の話ですか?」
「変に着飾ったり、高い香水を付けたり、ブランドもので身を固めてる私とは全然違うよ。だから、自分を嫌いにならないでよ。」
「はあ…」
そうやってみづきさんが自分を見下げるのは、珍しい事だった。色々な道具を準備しながら「ふふ」と大人らしく笑う彼女の背中は、どこか虚しく見えた。そう見えてしまったのは、自分の欺瞞に違いない。私にとってみづきさんは憧れそのものだったから、そういう風に弱みを軽々しく見せたのは私が少し不安になるくらいだった。それに、私は繕っていないのか。それは違うと思った。私は繕っている。素の姿を見せた事は無い。きっと、リリーさんにも、みづきさんにも。そして、あの男にも。私は私を隠している。本当の私など、誰かに見せるようなものでは無かった。とても見せられるものでは無かった。私は素直で清楚では、決して無かった。
「お客さんも、私たちの前では身ぐるみを剥がされて、自分の欲望や思いのままに素直でいる。普段虚勢を張ってる人はいるけど、結局皆、悲しいほどに素直になるじゃん。皆、分かってるんだよ。美波も素直でいることに。相手が素直でいてくれるから、安心して本当の自分をさらけ出せるんだよ。」
「私、素直じゃないですよ?だって、」
「そうだよねえ。ずーっと、私にも、リリーさんにも嘘、ついてるでしょ?」
「…」
「分かる。」
「え?」
「私知ってるもん。」
「…はい?」
「美波が、この仕事してる理由。」
みづきさんはローションのボトルを人差し指で擦りながら、静かにこう呟いた。その指がキュッと音を立てた時、私は思わず彼女から目を逸らし、鳥肌がすっと立つのを感じた。唐突なその言葉に、私は身構える準備も出来ていなかった。
「お金のためじゃない。もっと、人にとって根源的な理由で、誰しもが持っている感情のはず。きっと私には全ては分からないけど、半分くらいは分かるんじゃないかな…。ただのビッチでこの仕事してる子なんて、そんな多くないんだよ。」
「…」
彼女は私に語りかけるように、ひとつひとつの言葉を考えながら、すらっとした顔を私の方へ向けていた。
「でも、その心が、やっぱりお客さんに伝わってるんだよ。求める心と、求められる心が引き合わされて、それで美波は出来てる。」
「みづきさん、」
「これ以上は言わない。私だって詳しくは知らないから。」
私は更衣室で後ろのチャックに手を掛けたまま、隣で言葉を発していたみづきさんにそっと目を移した。その目は、少し潤んでいた。知らない。その通りだ。誰も、知らない。知らないままでいい。私は話すつもりはない。たとえみづきさんであっても、どんなに優しくされても、何百万と積まれても、私は私の胸の奥にその記憶を留めておきたかった。…それまで、は。
「みづきさん、誰かを送ったこと、ありますか?」
「え?」
「誰かの死に顔、見たことありますか?」
「何の話。」
「まあ」
「…あるよ。親しい人ではなかったけど。」
私の畳み掛けるような問い掛けにみづきさんは優しく答えた。どこか温かな微笑みを浮かべて、その艶やかな頬をすーっと掻いていた。私の唐突な質問返しにも何も狼狽えてはいないようだった。
「そうですか。」
「どうした?何の脈絡?」
「いえ。大学のレポートの参考に、と。」
「そっか」
そんなのはまるで嘘で、私が取り繕っただけだ。ふと、聞いてみたくなった。他の誰かに、その事を聞いてみたくなった。誰かと感情を共有してみれば、たとえ私の心を切り開こうとしたその相手でも、不意に沈みかけた心も切り替えられると思ったからだった。
「レポート、大変だね。私は大学には行かなかったから、それがどんなものなのかとか、どういう感じなのかはさっぱり分からないけどね。」
自嘲するように笑うみづきさんを私は憐れには思わなかった。みづきさんにはみづきさんの人生があって、私には私の人生がある。それは他人に評価されるものでも認められるものでもない。そこにただ、とうとうと続いているべきものなのだから。
「それに私、この仕事する前は葬儀屋で少し働いてたから。」
「え?」
「何の話、だよね。『故人様は生前、この業界で多大な功績を残され…』みたいな台詞を告別式で言ったりする、黒服の人。」
「そう、だったんですか」
脈絡も無く、みづきさんは何故か私に話し始めた。本当か嘘かは彼女にしか分からない。私には決して、分からない。だから私は、その話をただ信じるしかなかった。
「だから、死に顔見たよ。」
「はい?」
「たくさん。綺麗な人ばっかじゃなかったけどね。」
「…」
「何かね、私には合わなかったの。皆誰であれ大切な人を失ったわけで、そこに笑顔なんて無いでしょう?毎日毎日誰かの悲しみに触れて、天真爛漫な私にはちょっときつかった。」
「そう、ですよね」
「それぞれにそれぞれの生活があって、遺族の人なんかは喪失感に襲われる。そもそも私にはそんな経験がなかったから、というかするような人もいなかったから、何か分かり合えなくて。ま、結局は陰鬱な雰囲気に気圧されちゃって、気づけば水商売に来ちゃった訳だけど。誰かさんに比べて、身体もすぅごく魅力的だったからね。」
「確かにみづきさんは魅力的ですよ。」
私はそう返すしか出来なかった。みづきさんの最後の冗談だけを拾って、それに答えるしか私の考えにはなかった。
「ありがと」
「そういうの、間主観性世界って言うんですよ。フッサールの。」
「はー?学の無い私にそういうマウントとるの、やめてくれない?分からないってー。」
「残された人は、葬儀屋っていう第三者を介して、死という現実を受け入れるんです。その手助けを、みづきさんはしてたんですよ。」
私は静かに哲学をひけらかした。それは相変わらずみづきさんの心に真正面から向き合わず、少し斜めの姿勢から自分を偽った証だった。自分は何をしているのだろうと穏やかな心で私は自分を責めた。私なんかよりもみづきさんの方がいくらも大人で、子どもな私を顔色ひとつ変えぬまま受け入れてくれるほど、懐が深く、大きかった。
「ふうん、そっか。案外私、人の役に立ってたのかな?(笑)」
「はい、きっと」
「ふふ」
「じゃ、そろそろ出ようか」とみづきさんが言った時、私は黄色のスリップの上からベージュの羽織を掛けた。そしてそのまま二人は言葉を交わさないまま、更衣室からそれぞれが綺麗な格好で出て行った。
「美波のそういうところ、嫌いじゃないよ。」
「え?」
「レポート、とか言って、自分の本心を静かに打ち明けてくれるところ。」
「…」
みづきさんは誰もいない更衣室の電気を消し、それからカウンターの上に置きっぱなしにされていた表の鍵を手に取った。そして私をドアへと促して、自分は最後に出るようにしてその戸をガチャリと締めた。
「あの、」
「ごめん。また私深入りしようとしちゃった。これで、終わり。」
「…はい」
「さ、お客様のところへ行こう。」
薄暗く足元がおぼつかない雑居ビルの階段を一段一段降りるようにして、やがて二人は路地から表通りへと抜けた。夜の山風を背に受けながら、私たちはその通りで流しのタクシーを待った。みづきさんがパッと手を上げると、滑るように一台がウィンカーを出して目の前に止まる。開いた後部ドアから乗り込む二人は、どちらも綺麗な装いに身を包んでいた。運転手が一目こちらを見て「へえ」と顎を上げたのが分かる。けれど、それは本当ではなかった。その下に秘めた思いや過去は、他の誰にも分からない。誰にも知られずに、日々を流れていくものだった。
9章
高いところから眺める大都会は、何てちっぽけで、また空虚なのだろう。小学校の遠足で登ったランドマークタワーは、無限に続くビルを私に見せて、「この中にたくさん人がいるんだなあ」と幼いながらにぼんやりと思わせた。今やあべのハルカスにも、スカイツリーにはおよそ半分も抜かされて、西区の建物街と都市高速に囲まれたただのオブジェと化したのに。幼い記憶の中にある大きなタワーはもう私の目には見えない。誰かに抜かれた後はその意匠すらも恥ずかしく見えて、でも、そう見せているのは、私のくすんでしまった二つの目だった。
「何、見てるの?」
「え?」
「何見てるのかなあって。」
「…ランドマークタワー。」
「ふうん。さっきからずっと、窓の外見てるからつい、気になっちゃった。」
「いや、すみません。」
大きなガラスに手をかざして、私は横浜の街を見ていた。足下で縦横無尽に蠢く人々と車の流れ。海のすぐそこに開かれた港町は、今日もどこまでも青く見えた。そんな私に声を掛けたのは美木さんだった。猛暑日と言われている外の世界とガラス一枚で隔てられた室内は、今日もキンキンに冷えている。その寒さは身体を冷やして更に具合でも悪くならないのだろうかと、私を心配させるほどだった。しかし彼はそれを気にもかけていないようで、いつもの調子で私に話しかけていた。
「それで、よく見えました?ランドマークタワー。」
「まあ」
「ここからじゃ、てっぺんまで見上げるようにしか見えないんじゃないですか。きっと。僕は見たことが無いから分からないけど。」
「うん、見えないですね。少し首を上に曲げてみても、てっぺんまでは。」
やはり十四階という中途半端な階数は、この横浜の壮大で壮観な景色を一望するには不十分だった。赤レンガもハマスタも、その屋根が少し切り取られて見えるだけで真上から覗き込む事は出来ない。半端で残念な高級タワーマンションに、このまま、いつまでこの人は暮らしていくのだろう。つくづく変な人だと私は思った。今日の予約を入れた際も、リリーさんに「チューペットアイスを買ってきて」と言伝ていたらしい。私はそれに従わないわけにもいかず、当然のこととしてチューペットを店の近くの商店街にある駄菓子屋で買ってきて、今日も彼にそれを届けたのだった。
「何で今日はチューペットなんですか。」
「はい?」
「前も水羊羹を頼んだじゃないですか。美木さん、甘い物お好きなんですね」
「ああ。別に、好きという訳では無いんですよ。特段ね。でも、死ぬまでに色々食べておきたくて」
「死ぬまでに、って…。変な冗談はもうやめてくださいよ」
「冗談…ね」
私の後ろでベッドに寝そべっている彼は、いつもよりも上半身を起こして自分の手でアイスを食べている。ただ握って、それを吸うという事は出来るらしく、水を飲む方が難しいのかとふと私は意外に思っていた。「案外、歯に染みますね」と言いながらそれを食べる美木さんを右目の端に見やりながら、私はまた窓の向こうに目を戻した。今日はまだ、半分以上時間が残っていた。
「美波さんは食べなくて良いんですか?美味しいですよ。」
「私は大丈夫です。まだお仕事中なので」
「また堅いことを。美波さん、本当に真面目ですよね。」
「どうだか。」
「ほら、一本どうぞ」
そう言って美木さんは、左腕に抱えるように持っていたチューペットの束から水色の一本を抜いて、私の方へと差し出した。
「これ、何味だろう。」
「水色だから、ソーダ味、じゃないですか。」
「ああ、ソーダ味か。美波さん、これで良かったですか? 適当に抜いちゃいましたけど」
「そんなの気にしませんよ。もう子どもじゃないんですから。」
「ふふ、子どもじゃない、か。」
私の手に乗ったそれはキンキンに冷えていた。表面の霜が自分の肌に密着するようにしてむしろ痛かった。金棒のように固い。その感触は何年もとうに忘れていたものだった。
「だから私はソーダ味でもメロン味でも、イチゴ味でも何でも良いですよ」
「そっか。でも、本当のソーダって水色じゃないですよね。」
「はい?」
「だって水色のソーダなんて、存在しない。」
「何の話ですか?」
「色の話です。僕らが見ている世界の。」
「美木さん、難しい事言いますね。」
私はその言葉を聞きながら、水色のソーダ味の先をぴっと手で切って、その口にひやりとした塊を舌で感じた。せっかく引いてきた口紅が少し落ちてしまう事を気にしながら、偽りのソーダの味を染みるようにじんわりと、その甘ったるさを腔内でぐるぐると回した。懐かしい。私はそう思った。この味も、この色も、確かに私の記憶の奥底に存在していて、私はそれを思い出していた。
「でもこういう風にいちいち突っ込むの、めんどくさいですよね。下らない事にいちゃもん付けちゃうの、何というか嫌な奴みたいだ。」
「確かに。良い奴、とは言えないかも。」
「言いますね、美波さん。」
「でも私は嫌いじゃないですよ、こういう風に目の前のものを疑ったり、当たり前を信じずに頭をこねくり回したりすること。」
「へえ、悪趣味だ。」
「お互い様です。」
「ま、僕たちは偽りのソーダを魅せられているんですね。そもそも水色なんて色も、偽りな訳ですけど。」
「水に色なんて無いから?」
「そう。」
本当のソーダは無色透明で、ただ炭酸がシュワシュワと泡を立てているだけだ。美木さんの言うように私たちは偽りの「ソーダ」を見ている。真のソーダはイデア界にでも存在しているかのように信じながら。二人はそんな言葉遊びを楽しむように、目の前でじゅんじゅんと溶けていくチューペットを眺めていた。私はふと、彼にはどんな世界が見えているのだろうと思いをはせた。それぞれが握っているこのアイスも、その見た目も感触も温度も、きっと私のものとは違うのだろう。彼は、なぜこのチューペットを食べたいと私に頼んできたのだろう。言葉通り、死ぬ前に食べてみたいと思ったのか。なら、私が何も感じずに飲み下したその味と、彼がしゃぶるようにしたその味はきっと違って感じられるはずだ。でも、それは私には絶対に分からない世界で、そんな世界を美木さんは今生きていた。
「ねえ」
「?」
「…美波さんにとっての水色は、何色ですか?」
「はい…?」
「水色は、水色ですか?つまり、ライトブルー?」
「それ、どういう質問ですか? 心理テストか何かですか。」
「いえ。いつまで経っても僕を信じようとしてくれませんね。真面目に質問してるんですよ、僕は。」
「すみません」
「じゃあ、美波さんには透明で、無色の水が見えていますか? ちゃんと透き通った世界が見えて、いますか。」
彼は私の顔を覗き込むようにして、その細い首を少し右へ傾けた。また均整な唇を曲げて微笑みながら、私にそう問いかけていた。きっとまた、私はからかわれている。そう思った。顔に「?」を浮かべている私の反応を見て、意地悪く面白がっているのだろう。でも、彼から発せられたその言葉はいつもよりもどこか温かった。他人をどこか気にかけるような、そんな温もりがその言葉には込められていた。私はそれを感じていた。その言葉が何か意味を持って私に投げかけられたものなのだと、私は心で感じていた。
「いや…そんな事言われても」
「僕は、どぶ色。」
「え…?」
「ライトブルーでも、無色透明でもなく、どぶの色。」
美木さんの意外な回答に私は身構えた。その綺麗な顔から「どぶ」という言葉が紡がれた事に、少し驚いてしまっていた。その濁音が作る濁った響きが乾いた部屋にこだまして、それは私の耳の奥の方までしかと届いていた。けれどその驚きを私は彼に悟られたくはなかった。まだこの人の前では、そうやって自分を作らなければならないという気持ちの方が大きかった。だって、少しでも弱みを見せたらすぐさまつけ込んできそうだから。だから自分を作っていることが正しいと私は信じていた。いつもは。
「何でどぶなの、って聞かないんですね。流石、美波さんだ。」
「褒めてます、それ。」
「褒めてますよ。その図々しく人の事情に踏み込んだりしないところが、僕は好きです。」
「どうも。でも、ちょっと動揺してるんですよ。美木さんの闇を垣間見てしまった気がして。」
「闇、ね。ふふふ。確かに。」
「こんな良い部屋に住んで、お金もそこそこ持ってて、女も侍らせて。非の打ち所がない人が、そんな事言うんだって。」
「非の打ち所がない、というのは言い過ぎだと思いますけど。」
「まあ、人使いが荒いのは、たまに嘆息ですもんね。」
ただ後から考えれば、私はこの時調子に乗っていたのだろう。自分の胸の中だけで留めておけばいいものを、不意に声に出してしまっていた。人はどんなに繕っていても、強くあろうと偽っていても、ふっと弱みを見せてしまう事がある。それは自分の信条や信念に槍を差し込まれた時か、それか、センチメンタルに大切にしているもの、思い出に心が触れてしまった時だ。…何故か、私は少しずつ、美木さんに心を開いてしまっていた。
「でも、私はライトブルーです。」
「…はい?」
「さっきの話です。聞いたのはそちらじゃないですか。」
「ああ、水色の話か。」
「そう。私にとっての水色は、このソーダの色ですから。」
「ふうん。ライトブルー…」
私も、このアイスを食べた事がある。それだけの事だ。でも、私にとってこの光沢の無いソーダの水色は、深く今も頭の奥に残っていた。十本入りで数百円で。今となっては姿を少しずつ減らし始めたが、私が小さな頃はこれこそがアイスだった。高いバニラよりもチョコよりも、駄菓子屋さんで買えるこれがアイスだと思っていた。逆に言えば、ちゃんとバニラアイスを食べたのは大人になりかけた頃だった。冷凍庫に少し入れておけば完全に固まって、それはまるで冷えた金棒のようになる。パキッと真ん中で割るとより食べやすくなって、どうしても中身が凍って出てこない時は太陽の下でころころと転がしていた。私はそれを、よく覚えていた。
「夏の暑い日、学童から帰って家の冷蔵庫に駆け寄ると、いつもこれがあったんですよ。」
「へえ」
「私はメロンよりもイチゴよりも、ソーダが好きで。」
「だから、か」
「そうです。でも、男の子ってやっぱ水色、好きじゃないですか。ピンクは女の子の色、みたいなのまだあったし。」
「まあ、確かに。」
「それでよく弟と喧嘩してました。水色を争って。だから最終的には緑とピンクしか残らなかったんですけど。」
「そうだったんですか」
私は気づくと、流れるように話していた。そして美木さんはそれを静かに聞いていた。そこには心地良い時間が流れていた。何故だろう。何か、馬鹿だった。まるで外の暑さに頭をやられてしまったのか、惑わされてしまったのか。心地良さなど感じるはずが無かったのに、私は話していた。自分の事は何も打ち明けない嬢の決まりも、水色のアイスを手にして、その味を思い出しただけで、はらはらと溶けていった。この時初めて、私は自分の事を省みていた。未だ信じていないはずのこの人に、何故か、私は話してしまっていた。
「すみません、余計な事言いました。」
「え」
「今のは、忘れてください。」
そう言うと彼は「安心してください。しっかり、覚えましたから。」と言って、ニヤリと気味の良い笑みを浮かべた。まあ、そうだろう。私がいくら忘れてくださいと言ったところで、この人は意地でも記憶に残そうとするはずだ。つくづくこの人のこういうところが嫌いだった。「どぶ」と淋し気に言った彼の余韻はもうどこにも無く、すっかり私に勝ったような顔をして、彼は自分のチューペットを隅まで味わうように咥えていた。
「ソーダ味の思い出、ですか。」
「美木さん?もう、終わりです。私の話は。」
「別に、良いじゃないですか。隠すような事じゃないと思いますけど。」
「良いんです。隠さなくても、知られない方が良かったんです。」
「ふうん。そっか」
顎先の髭を触りながら、美木さんはつまらなそうによそへ目線を移した。今の話で私の何かを知った気にでもなっているのだろうか。私があなたをきっと理解出来ないように、私の事もあなたは理解出来ないはずだ。私はそう言い捨てた。きっと聞こえない心の声で美木さんを切り捨てながら、私はまた首をすっと伸ばして、虚勢を張るように肩に力を入れた。でも、私が悪かったのは明らかだった。
「最近、大学はどうですか?」
「は」
「別にまた、探りを入れてる訳じゃないですよ。ただの世間話です。」
「そうですか」
「僕は、美波さんのこと、もっと知りたいと思ってますけどね。」
「私は、違いますよ」
「三年生ともなると、就活とかやったりするんですかね。ま、僕はそっちじゃなくて、終活、ですけど。」
「自分自身の事はお教え出来ない決まりですから。」
「その決まり、別に純に守らなくてもいいのに」
「お客様、残りのお時間はどうしますか?今日もまた、何か雑用でもやりますか。」
美木さんのいやらしい探りとブラックジョークを適当にはぐらかしながら、私はアイスで一段と冷えた体をねじるように回して彼に聞いていた。何回かここに通ううちに、色々な事が当たり前になってしまっている。前までは「終活、なんて悪い冗談はやめてください」と取り合っていただろうに、今はもう気にせずその言葉を無視していた。失礼、という概念を私は忘れてしまったのだろうか。寝たきりの客と話し、談笑することにも何の不思議さも抱かなくなった自分を徐々に私は認識していた。これは、別に望ましい変化ではない。この人と仲良くなったところで私には何も残らないし、何も生まれない。ただ無駄な時間をまた過ごしているという感覚には、決して変わりは無いのだから。
「雑用って。僕がまるで美波さんをいつもこき使っているようじゃないですか。」
「え、違うんですか。ずっと私、こき使われてたものだと。」
「まさか。お願い、してただけです。」
「物は言いよう、ですね。」
でも、変わったことがあった。
「確かに。じゃあこれからも、こき使われてください。」
「嫌です。美木さん、私の本業分かってます? 家政婦でも、シッターでもなく、そういう嬢ですよ?」
「分かってます。知ってて呼んでるんですから。」
「なら、」
「大丈夫です。僕、シたら死んじゃいますから。」
美木さんのそのセリフはいつもの自虐だった。「死ぬ」「余命」「最期」。そのフレーズを隙あらばと使うこの病人の相手をしているうちに、私が最初抱いた抵抗感や嫌悪感は次第に薄らいでいった。それは、きっとこの人はすぐにでも天に召されるような人では無いと私が内心思っていたからだ。ここまでしぶとそうな人間が、ちょっとやそっとの事で軽く夭折したりするはずがない。世の中がそんなドラマに満ちている訳が無いと、私が思っていたからだった。
でも。
「シたら死んじゃいますから」の言葉には、確かに彼の抱く現実味が滲んでいた。自分はそのうち死ぬのだと、身をもって彼は告げていた。重い。その重みが少しずつ重くなっていることに、私は薄々感づいていた。もちろん、その言葉の本当の重みは、彼とその周りの人間にしか分からないはずだ。ただの召し使いの私が分かり得るものでは到底なかった。それでも、最初この人に出会った時と比べれば、確かに美木さんの姿は少しずつ小さくなっていた。腕は前腕の方から肉が細く削げていき、無精ひげを蓄えていた顎のそのラインもより鋭いものへと変わっていった。週に一度しか見ないその姿でも、いやだからこそより一層、彼が変わっていく様を私は静かに感じ取っていた。
「もうね、最近、ただの水がどぶみたいに不味く感じるんですよ。薬の副作用で。」
「?」
「無味無臭、無色透明のはずなのに、どぶの味がする。だから、僕にはどぶ色に見えます。ライトブルーなんて綺麗な色、とっくのとうに、いつの間にか、僕の世界からは姿を消してしまいました。」
「じゃあ、まさか」
「うーん。このアイスも、ちょっとどぶみたいな味がします。でも、甘味料とお砂糖が沢山入っているから、いくらかはマシですよ。ビターチョコみたいな感じ。」
「そう、でしたか…」
「まあね。ま、そうじゃなくても、他のとこでもじりじりと、僕は死に際へと追い込まれているんですよ。ディフェンスラインを毎日少しずつ、下げられてるんです。自分の力の及ばない奴らが、じわじわと僕に近づいてくるんですよ。」
「…ええ」
「だから、シたら死んじゃうんです」
そうあからさまに告げられて、私は自分の存在意義を見失いかけた。自分が何のために着飾って、身を整えて、この人の元に来ているのか。この人とそういう行為を致すことは無いだろうというのは、最初出会った時から直感的に分かっていたはずだった。だから、今しがた「嬢ですよ?」とまるで美木さんに迫ったような自分自身にすっと嫌気が差した。この人は何を求め、何を欲しているのか。それを再度思い知らされたような気分だった。やっぱりこの人はいつか死ぬのだと、そう私は思い知った。
「…」
「すみません、暗い話になってしまいましたね。こんな湿っぽいのはやめにして、今日はちょっと郵便物の整理を手伝って貰えませんか。」
「郵便物、ですか。」
「はい。玄関の脇の棚の上に、訪問看護の人がひと山置いていってくれたんですよ。それをここまで持ってきてくれればと。」
重苦しい雰囲気を振り払うように、私はまた、美木さんに指図されるがままに玄関まで歩いていた。「え」と反抗することも無く素直に指示に従うようになったのは、自分がその立ち位置を知ったからなのか、それとも慣れてしまったからなのか。ただ、これを考える事は野暮だと思った。美木さんが求めているのは私の身体そのものではない。私という身体とその心なのだと、そう思っていたからだった。
「全部持ってくればいいんですか」
「はい、全てお願いします」
薄暗い廊下を抜けてあの大きなドアの前まで近づくと、美木さんの言った通り、棚の上に山のように溜められた郵便物が置かれていた。大半は封筒で、たまにハガキも混じっている。淋しい生活をしている割に、こんなにもあの人に頼りが来るのか。自分よりはよっぽど淋しくないなと嘲笑った。途中で落とさないようにと耳をしっかり揃えてから、私は両手でそれを抱えた。およそ三十通は軽くあるだろうそれは、まるで彼の生活の止まった時間そのものを表していた。
「こんなに溜め込んでたんですか。私でもここまではしませんけど。」
「一緒にしないでください、すたすたポストまで歩いて取りに行けはしないんですから。」
「すみません、つい。」
「冗談ですよ。気にしないでくださいね。」
意地の悪い冗談を吹かしながら、美木さんは私の手から大量の郵便物を受け取る。そしてそれは彼の両手からこぼれ落ちて、ベッドシーツの上にまで広がり落ちていった。
「ああ、すみません。奥のやつ、取ってくれませんか」
「はい」
一番下まで落ちていった封筒を手に取ると、それは一面真っ青な色をした長形封筒だった。美木さんの身体に下手に触れないように優しく手を添えて、私はそれを美木さんの手の届くところへとそっと置き直した。
横浜大学 基幹創造理工学院 学生サポート担当
「大学から、みたいですよ」
「ああ。どうでもいいやつだ。」
その封筒を見た途端、美木さんの目は冷ややかになった。それは一瞬の事で、隣にいた私にも伝わるほど、美木さんの冷たさが伝わってきた。
「捨てといてください。」
美木さんは私を見た。「え」と戸惑う私をよそに、その目はいつもの微笑みも意地悪さも含んでおらず、ただ冷淡で血の気の無い目をしていた。思わず怖いと思うほど、彼はそれに興味を示していないようだった。
「…分かりました」
そして私はその封筒を美木さんの胸元から取り上げて、部屋の隅にあるゴミ箱にそっと落とした。別に見ようと思った訳では無い。けれど不意に見てしまった封筒の下部には、『復学支援制度案内 在中』と赤字で色濃く刻まれていた。
「すみません、本当にどうでもいいやつなんです。」
「…ええ」
「まだ手に力が残っていたら、破り捨ててましたけど」
彼は本気かどうか分からない台詞を吐きながら、屈託のない笑顔を浮かべて私にそう言った。それが強がりであることなど、もう私には分かっていた。冗談は好きなくせにこの人は嘘が下手だった。自分の気持ちを過剰に鎧で覆って、それで相手に気づかれないようにする。まるで子どもみたいな強がりだった。
「…美木さん、もう大学、戻らないんですか?」
「…え?」
「せっかく、横浜大なんてエリート校、入れたのに。」
子どもみたいな質問だった。私もだ。我ながら失態を犯したと口を開いた時にはもう気づいていた。お互いに深入りしない事で上手く回る客と嬢の関係を、私は逸脱しようとしている。最近の私はどこか危うかった。それはきっと、美木さんに突き付けられた自分の無価値さへの反抗だった。報われない無力感からの腹いせだった。
「美波さんは、大学、楽しいですか?」
「はい?」
「僕は、楽しかったですよ。」
楽しかった、と過去形で語る彼はまた口元に微笑みを残し、ベッドの足側を真っ直ぐと見据えていた。彼は今、何を思っているのだろう。ただ、含みを持ったその言葉と表情に私はそれ以上踏み入る事は出来なかった。この人の思いや気持ちを理解する自信は何もなかった。やはりこの人を前にして、私は無力で、無価値だった。ただ存在だけが消費されている。その中身には何も関係が無いのだと思った。
「美波さんは、文系でしたっけ。どんな事、やってるんですか。」
「…いや」
「もう良いですよ、変に隠さなくても。別に僕、晒したりしませんよ。大学に連絡したりもしませんから。」
「そういう訳じゃなくて。」
「ふーん。もうその時点で、大学生っていうのは認めちゃってますけどね」
「美木さん、」
私はまた美木さんに弄ばれていた。ただ前のような不愉快な気持ちはそこには無くて、美木さんが不意に見せた冷徹さが元に戻った安心感か何かで、私は安堵を覚えていた。私は思ったよりも単純だった。そんな掌返しでふっと優しさが湧き出てしまうほど馬鹿な女でいる覚えは無かったのに。冷たくされるのは苦手だった。これは、私の弱点かもしれない。自分は他人に冷たくするくせに、その他人から冷たくされると何処か不安になる。でも、それは私の根源にある。「愛されたい」という感情のせいだった。それが私のドクトリンだった。だから、必要とされない事を忌み嫌い、少しでも求められる事を望んだ。これが私の本質だった。
「で、美波さんはどんな事、やってるんです?」
「どんな事?」
「ほら、専攻とか、研究とか」
「面白くないですよ、きっと。世の中の人の大半が面白くないと思うような事ですから。」
「へえ。学問なんてそんなもんじゃないですか。別に気負うことありませんよ。」
私は自分の思考を頭の中で畳んでいくように収めていった。外に言葉を飛ばしていくことで、漏れ出しそうになった本当の自分をもう一度檻に仕舞っていった。何もそれとは関係の無い言葉が、何事も無かったかのように振る舞うことを容易くさせた。
「じゃあ…哲学です。」
「はい?」
「哲学。アリストテレスとかの。」
「ああ…。確かに、面白くなさそうだ。」
「…言いますね」
「だって、あれ面白いんですか?」
「いや…。面白いとか、そういう話じゃないんですけど」
美木さんは好きなように言って私を怒らせようとしているかのように見えた。「具体的にどういうの?」という質問に対し私が「死、とか」と控えめに言うと、彼は「死を哲学するんですか。暇ですね」と言い切った。それは彼が私と違う畑を生きてきたからなのか、私にはよく分からなかった。
「それで、今は死に関するレポートを書いてます」
「へえ。そりゃ大変だ。著しく退屈そう。」
「美木さん、哲学嫌いなんですか? だいぶ攻撃的ですね。」
「別に嫌いじゃないですけど、無駄だなあって思うだけです。」
「無駄?」
「はい。だってあんなの哲人とか貴族の戯れ事で、庶民の生活を豊かにするわけでも、誰かの心やまして命を救うわけじゃないでしょう。だから、僕は苦手、というか好きじゃない、ですかね。」
「そんなに、言います?」
「ええ。アリストクラシーとかブルジョワの遊びに思えるので。」
「…なるほど。さもありなん、って感じですか」
「あ、レポート、僕を題材にしたら良いじゃないですか。そのうち死にますから、良い実験台になりますよ」
「悪い冗談はもう、やめてください」
「冗談じゃなくて、僕は本気です。」
それからというものの、私たち二人の間に流れる空気はどこか緩慢になって、残り時間の全てがそれで埋め尽くされてしまった。その時間が終わりを迎えた時、私は静かに立ち上がり、「それでは今日は失礼しますね」と美木さんに告げた。彼もまた「また来週、お願いします」とだけ呟いて、私に向かって手を微かに振った後は窓の方を向いていた。そのまま、私が部屋を後にしていくのを背中で感じているかのようだった。
この人は、心の中では冷めている。そう次第に私は分かってきたのだった。青い封筒を見た時に彼が見せたあの冷めた態度は、きっと彼の本性そのものだ。哲学は賢者の戯れで、それが生死など扱えてたまるものかと言わんばかりにせり出した否定も、ある意味それは何かへの諦観に思える。そうやって何も信じていないような諦めた心を、私は知っていた。人など、世界など、何も信じないと固く心に誓っているその様を、私自身も知っていた。
私は、同じなのだと思った。彼の知らぬ過去が作った今の諦念も、その冷たさも、私と同じなのだと思った。ただ一つ違うのは、彼がもう私の知り得ぬ世界に接しているのだということだった。だから私は彼との間に線を引いた。死を目の前にしなければ分からない事が、きっとあるのだと私は驕る自分を戒めた。そして、私はふと、先ほどの封筒の束を思い出していた。広告のDMや公共料金の通知に紛れて一通だけ、誰か人が直接送り出したであろう手紙を私は見つけていた。
神奈川県横浜市中区 … 美木 浩 様 美木 …
白い厚手の封筒に手書きで宛名が書かれて、その差出人の名もまた『美木』とあった。私はそれに触れなかった。大学からの青封筒よりも、一層何か深いものを感じてしまったからだ。それはまた、家族、親類のあれこれほど、厄介で複雑で面倒な事は無いと自分の経験則からよく分かっていたからだった。そう、自分の経験から、分かっていたからだった。
10章
「流石に、付き合う前にヤるは無い。」
「だよね!やっぱ、身体目当てだったってことだよね!」
「多分、そうなんじゃない?」
我ながら残酷なことを相手に伝えていると、学内の売店で買ったアイスコーヒーを啜りながら私は思っていた。昼の営業が終わって自由解放されている学食に、私はあの友人に誘われて、というか連れてこられて、彼女の話を聞いていた。
「あー、何か思い出すだけでもムカついてきた。最初、『僕は、そういう経験あんまり無いから』とか爽やかな顔して言ってきたんだよ?それが二人きりになった瞬間どうよ。すぐに太ももに手伸ばしてきて、『ホテル、行かない?』だよ? …うっわ、思い出しただけでも殺してやりたい。」
「それが男だって。この年頃の男なんて、頭の中ヤるかヤらないかだから。」
「ありがとう、よく覚えとく。」
有名ブランドの夏の新作に身を包み、彼女はどこで買ってきたか分からない高そうなレモネードを煽るように飲んでいた。周りからはハイブラお洒落女子として通っているこの子でも、こうやって怒り狂いたい日はあるらしい。まだ人間的なんだなと、彼女とそこそこに関わっている私は謎の安心感を覚えていた。
「ねえ美波、美波はいいの?彼氏とか。」
「へ?何の話」
「だーかーら、いつもそういう風に『私、哲人しか興味ないんで』みたいな顔キメちゃってさ。せっかく大学生なんだし、ていうかもう折り返し始まっちゃってるんだから、羽目のひとつやふたつくらい外そうよ。」
「私、そういうのは向いてないからさ」
「またー。社会人になったら、相手とっかえひっかえなんて出来ないんだよ?結婚とかそういうのが自ずとまとわりついてくるもんなんだよ?」
この子に一体世の中の何が分かるのだろうかと思いながら、私は何回目かも分からない彼氏購入のセールストークを右から左に聞き流していた。けれど彼女はそれにも気づいていない様子で、うんうんとただ頷いて課題をしている私に恋愛の良さを吹き込もうとしていた。どうだろう、人数で言ったらこの子と私、どっちが多いのだろう。一度蔑んでしまった相手に敬意を表すことは難しい。私はなかなか抜けない思考の癖に嵌まりながら、いつもの自分をまた装っていた。
「美波って、冷めてるよねホント。」
「え?」
「何か、淋しくならないの?一人の家帰ったら、誰かと話したいって思ったりするもんじゃん。バイトでヘマしたら、誰かに慰めて欲しいってならない?」
「うーん、ならないかな。」
「誰かにハグして欲しいなとか、たまには抱いて欲しいなとか。皆思うものじゃないのかなあ。やっぱり私が恋愛体質なのかなあ」
彼女が恋愛体質であることに間違いは無い。それは断言できた。ただ、淋しいかと言われれば、私は淋しいとは思わなかった。自分のそういう気持ちは全て、お客さんが満たしてくれていた。けれどそんな答えを伝える事はこの子には出来なかった。彼女は私を何も知らない。私がどんなバイトをしているかも、こちらが慰める側であるという事も、何も知らなかった。
「私が恋愛体質じゃないだけだよ。そういう人間もいるってこと。」
「そっかあ。今はダイバーシティな世の中だもんなあ…」
私は彼女に「ダイバーシティって、そういう事…?」と内心溢しながら、ふとパソコンの脇に置いたスマホの電源を入れた。パッと点いた画面にはどうでもいいセールスメールが一覧となって現れて、私はその一つ一つを手作業で削除していった。あとはニュース速報とLINEの通知が数件入っているだけだ。落ち着いた時に返信はしようと誰からのメッセージかだけチェックして、私はまたスマホの電源を切った。するとその時、スマホがバイブレーションを鳴らしながら音声着信が入っていることを知らせた。
「電話?誰から?」
「ごめん、あ…知り合いから。ちょっと出るね。」
「うん」
私はその画面が見えないように手で覆って、近くのガラス戸から池のある中庭へと出ることにした。出た後に「暑っ」とその夏の暑さを真正面から感じたが、今はとりあえずその着信に出る事が先決だった。
「もしもし、何の用ですか」
「あーもしもし、美波!」
「何ですか、今日オフですよね。大体、大学ある日にそれも電話で、掛けてこないでくださいよ。」
「うるさいわよ、うじうじうじうじ。それより、ちょっと困ったコトになってんの!」
「はい?」
「ねえ、今からヘヴン来れる?可及的速やかに。」
「はあ?今からですか?何で」
「何でもよ!もう、色々説明するのもめんどいから、とにかく来なさい!早く!」
電話口から耳をつんざくように飛び出したのは、紛れもなくリリーさんの声だった。私を急かすように事務所へと来させようとするその電話の中身は突拍子も無いもので、一体何が起きているのか、どんな意図なのかもよく分からなかった。
「いや、今日これから友達とみなとみらいの紅茶屋に行く約束してたんですけど。」
「…え?」
「え、じゃなくて。だからみなとみらいの紅茶…」
「いや、そんなのどうでもいい。……アンタ、友達いたの?」
「は?」
「…マジウケるんだけど。はーーーーーーっ、はははははは。美波、アンタ友達いたんだ!」
「リリーさん、切りますよ?あと、今日は事務所行きませんから」
「あーちょっと!アンタ、待ちなさいよ!止まりなさい。とにもかくにも、すぐに事務所に来なさい!」
「何の義理があって、それも今から。」
「うるさい!来ないとクビだからね!」
「あ、ちょ」
自分で好きなだけまくし立てておいて、リリーさんは自分のタイミングで通話を切った。本当に自己中心的な人間だ。私は今事務所で何が起きているかよりも、友達いない認定されていた事と、それを散々馬鹿にされた事の方が腹立たしく、何の用事だったかさえ忘れかけていた。ただ、リリーさんにそうやって怒っていたのは、あの彼女の事を「友達」と呼んでしまった自分の甘さが恥ずかしかったからでもあった。
「どしたの、だいぶ怒ってる風に見えたけど。」
「ごめん。今日の予定、キャンセルしていい?」
「えー、またあー?」
「ごめん。」
中に戻って彼女にやむを得ず、と伝えると、彼女はお得意の残念がりで私に少しの罪悪感を覚えさせた。正直リリーさんからの呼び出しに答える義理は何も無かった。が、後々色々考えたら、今はこうしておくのが賢明だろう。店長はしつこい。かなり根に持つタイプだし、休みの日にわざわざ緊急で電話を掛けてくるにはそれなりの理由があるはずだと、私は勝手に踏んでいた。
「なに、バイト?」
「うん…。店長が、勝手にシフト入れたの。それで今から来いって。」
「うーわ、美波のとこ、前から思ってたけどちょっとブラックだよね。大丈夫?血の契約書とか交わしちゃったんじゃない?」
「大丈夫。まともじゃないけど、ブラックでは無いから。」
そう、ブラックでは無い。そもそも社会に存在が出てもいない会社だからだ。ある意味グレーで、無色透明。それに労働環境とお給金は下手なブラック企業よりもマシかもしれなかった。
「美波、いつでも言ってね。私のお父さん、厚労省の役人と知り合いだから。」
「え」
「だから、労基署の人間電話一本で動かせるから」
「ありがと、気持ちだけ受け取っておく。」
世間知らずな彼女に一応詫びをして、私は学食を後にした。書きかけだったレポートも今日終わらせることは難しいだろう。この出勤に呼び出し手当は付けてくれるのか。否、あのリリーがそんな厚遇をしてくれるはずが無いととうに私は知っていた。
「美波、遅かったじゃない!」
「あんたがこれから来いって言ったんでしょうが」と昂る気持ちを心の中に留めておきながら、私は事務所の中へ入っていった。カウンターにはいつものようにリリーさんが立っていて、そこら辺にあっただろうおしぼりを手癖悪くぶんぶんと振り回していた。
「遅くなって、どうもすみませんでした。」
「もう、何十分待ったと思ってんの?待たせる女は嫌われるわよ!」
「はいはい。どうも。」
いつものように繰り広げられる私とリリーさんの舌戦は、いつも通りそのままに変わらなかった。それにリリーさんが何か物を振り回しているのもいつもの事で。事務所の汚さも、雰囲気も何も変わっていなかった。ただ、一つ違うところがあった。私がそれに気づくのには入ってから少し時間が掛かった。
「美波、お客様よ。」
「…はい?」
ひと通り私を罵倒し終えると、リリーさんは唐突に私に誰かを紹介した。その誰かはよく見るとカウンターの奥の席に座っていて、その人は私の方へ体を回すと「すみません、どうも」とお辞儀をした。私は恐る恐るその人に礼を返した。
「烏丸隼人さん。」
「カラスマ…?」
「そ。アンタに用があるんだって。」
「用事?」
「あとは烏丸クン、アンタから。」
「あ、はい。烏丸、と申します。突然押しかけて、またお呼び立てしてしまって、すみません。」
烏丸と名乗ったその人は私の方を見てまた深々とお辞儀をすると、すっと私の方へ近づいてきた。見た目、歳は私よりも少し上なくらいだろうか。どこにでも居そうな平凡な顔立ちに、この時期には堅苦しい襟シャツを着ている。ただ身長はすらっと高く、もう少し服に気を遣えば女ウケも良いだろうにと、内心勝手に私は彼のことを査定してしまっていた。
「あの、ご用件は?」
「ああ、それは…」
どこの誰かも分からない人間にしおらしくするほど私は優しくは無かった。まるでオタクのような姿をした烏丸に対して、私は見上げるように顔を近づけた。その目は冷えていて、まるで彼を蔑んでいるかのようにした。
「烏丸クン、別にいいわよ。もうあとは、美波と二人で話しなさい。」
「…分かりました」
「二人、ってリリーさんどういう事?」
「そういう事。私は聞くべきじゃないから。」
その烏丸という男は何故かリリーさんに少し怯えているように見えた。こういう場所に来るのは初めてだったのか、それとも真のオカマを目にしたのが初めてだったのか。そしてリリーさんは味気なくそう言い切って、部屋を私と烏丸さんの二人だけにしようとした。今から何が起きるのか、私には想像すら出来なかった。
「じゃ、美波。掟だけはちゃんと守りなさい?最近世の中、プライバシープライバシーうるさいから。」
リリーさんはそう言って、タバコの箱をポケットに突っ込みながら店の外へと出て行った。プライバシー? それがこれから起きる事と何の関係があるのか。やはり私には皆目見当がつかなかった。
「…」
「改めまして、烏丸隼人といいます。突然のお願いだったんですが、店長と美波さんには感謝しています。」
「はい…? 私、何もあなたに感謝されるような事、した覚えが無いんですけど。」
「いや、あ、そうですよね。すみません。」
「はあ」
「これから話す事も、先ほど店長が仰っていた通り、その掟?を守って頂くか頂かないかは、もちろん美波さんが判断してもらって構いません。」
「は」
「僕はそれ以上は、何もお願いをしません。」
「あの、烏丸さん…。申し訳ないんですけど、私やっぱりよく訳が…」
「僕、横浜大学の院生なんです。」
「…は?」
横浜大学。そう聞いて私の頭の中には「エリートか、この人」という蔑みしか浮かんでいなかった。けれどその響きを耳が確かに覚えていた。横浜大学…。この時、私の中の疑問符が一つ、パチンと弾けるように消えた気がした。私をわざわざ呼び出したこの男の正体は、あの横浜大学の大学院生で…、……横浜大学と言えば…あのタワマン男のいるところだ……。もしかしたら、タワマンとこの人は何か関係が。そんな内なる思考を彼に悟られないように、私はただ「頭、良いんですね」とだけ彼に返した。
「いえ、そんなことないですよ。」
「エリートさんだったら、こういうところに来るのは初めてなんじゃないですか。」
「まあ…。さっきの、あのリリーさん?にはこっぴどく叱られてしまったんですけど。『客だと思ったら探偵かい!』『アンタに教えることは何も無いよ、早く帰りな!』って。」
「ああ…すみません。」
「僕、探偵では無いんですけどね…。」
烏丸さんは綺麗なハスキーボイスで私に語り掛けていたが、リリーさんの台詞のところだけはあのダミ声が容易に想像できて、私の頭の中には怒り狂うリリーさんの姿がうるさく回っていた。確かに客のことを嗅ぎ回るよく分からない男が現れたら、あの人はまさしく門前払いをするだろう。
「あの店長、おかしいんです。頭も。非礼をお許しください。」
「いや、非礼だなんてそんな。非礼だったのはむしろこっちですから。」
確かに、と内心私は思っていた。世間にも公表していない、情報も出していない事務所の住所を一体どうやって突き止めたのか。それもわざわざ踏み込んできて、それでこれから何かを頼もうというのだろう。穏やかそうな見た目にそぐわず図々しく、また侮れない人なのだなと私は感じていた。
「で、どのようなご用件ですか?」
「…はい」
この人と社交辞令のような会話を何ターンも繰り返す気は私には無かった。出来ることならなるべく早く、その魂胆を突き止めて、自分の立ち振る舞い方を決めたかった。この人に対してどのような態度で接すればいいのかを決めてしまいたかった。
「知ってますよね、美木浩のこと…。」
「…」
「やっぱり…、何もお話しできないですよね」
言葉を促した先で告げられたのは「美木浩」というよく聞いた言葉だった。正直、私はそうだろうと思っていた。横浜大学でここに来たという事は、まあ他に同じ大学のお客がいる事もあるだろうけれど、その暑苦しそうな格好とオタク感が、あの人と同じ理系の扱いづらい雰囲気そのものだった。この烏丸という人からは、あの美木と同じような空気を私は感じていた。
「分かってるんです。それもさっき…店長に伺いましたから。掟、ですよね。もちろん、その通りだと思います。僕が客だったら、他の人にベラベラと自分の事を喋るような人には相手をして欲しくありません。」
「…」
純な瞳で私を見つめながら、烏丸さんはそう言った。この人はきっとそういう恋愛経験が無いのだろう。ベッド事情を周りに触れ回るのが女子のある意味特徴でもあるのに、彼はそういうのも知らず純粋にそう語っているようだった。ただ、仕事として触れ回るつもりは私には何も無かった。
「でも、浩は、ああ、美木浩は、僕の友人で、というか幼馴染で。ずっと昔から一緒で。大切な親友なんです。だけどあいつ、突然大学から消えちゃったんです。だから今どうしているのか、僕は…知りたいんです。」
手汗が滲んだ拳を両方ぎゅっと握りながら、烏丸さんは語気を強めた。本当にこの人の言う事が真なのならば、きっと美木さんは烏丸隼人という人と古くからの知り合いで、同じ大学院に通っているのだろう。あの人にもこんな友達がいたのだと、冷めた頭で不意に私は意外に思っていた。
「やっぱり、浩のこと、知ってますよね…?」
「…」
「あいつ…今、どうしてますか?」
「…」
「元気にしてはいるんですよね?あのタワーマンションに暮らしてるってのは本当なんですか?」
「烏丸さん…」
「すみません、僕は知りたいんです。突然親友が目の前から居なくなって、ちょっと動揺してるんです。あいつ、そんな奴じゃなかったのに」
「申し訳ありませんが、その方がもしうちのお客様であったとしても、何もお話し出来ない決まりなんです。」
「分かってます!」
「…」
「でも、でも、…教えてください。今、あいつ、どうしてますか。ちゃんと生きてますか。また、大学に戻ってきますか?」
「それは…」
「美波さん!」
烏丸さんは食い入るように私の前腕を掴んだ。その手はとても熱く、何かが融けてしまうのではないかと思うほど熱を帯びていた。私は咄嗟に「烏丸さん、離してください」と手を振り払った。すると彼は我に返ったように目を大きく見開いた。そして顔面を白くさせながら「すみません、すみません僕…」と謝罪の言葉を繰り返した。
「烏丸さん、落ち着いてください。」
「すみません、熱が籠もってしまって、すみません」
「大丈夫です。お水、淹れてきますから」
私はカウンターの椅子から立ち上がり、奥のシンクでコップに並々と水を注いだ。それを彼の前に差し出すと、彼は「ありがとうございます」と呟いて、自分を鎮めるかのようにぐびぐびと音を立てて飲んでいった。
「すみません…僕、不安症で。もし何か大変なことになっていたらって想像しちゃうと、頭がもう追い付かなくなっちゃうんです…。」
「…分かりましたから。別に私は何も怒っていませんから。気にしないでください。」
「すみません」
この人はきっとリリーさんに対してもこんな調子でかかっていったのだろう。それでも店長は相手にしなかったはずだ。あの人が一番そういうところはしっかりしている。それでも烏丸さんには到底納得出来ないことで。この調子で続けていたらリリーさんも折れた、というところだろうか。だから私に電話が掛かってきた。この事態を鎮めるためには、もう私を呼ぶ他無かったのだろう。
「…あの、話だけでも聞いてもらえませんか?」
「え?」
「無理に美波さんの口から浩のことを聞き出そうとは思いません。でも、もし、美波さんが今も浩と会っているのなら、聞いてほしいんです。あいつ…誤解されやすい奴だから。」
「誤解?」
「そう、きっと意地の悪い冗談を吹っ掛けたり、人を弄んでみたり。あいつ、そういうの好きだから…」
「ああ…」
「だから、あいつの本当の話、聞いてくれませんか・」
「…はい」
コップの半分以下になった水を一気に飲んで、烏丸さんは静かに襟を正した。水色のシャツには皺がたくさん刻まれていて、こういうがさつなところは彼と違うのだなと私はそれを見つめていた。そしてそっと何かを話し始めた。それはあの美木浩のことで、私の知らない彼に関する話だった。
「あいつ、小さい頃からめちゃくちゃ優秀で、頭も良かったんです。いっつも学年トップで、全国模試なんかにも何度も名前が載って。それにスポーツ万能。サッカーにハンドボールに、陸上、武道まで。何をやってもあいつの右に出る人はいませんでした。」
「…」
「だから、もう皆の憧れの的で。異性からだけじゃなくて、同性からも人気だったんですよ。まあ、性格はちょっと扱いづらいっていうか、歪曲してるところがあるから、女の子関係は上手く続きませんでしたけどね。顔とスペックは良いのに、中身は残念だって。よく言われてました。」
「…そうですか」
「それで、高校も県内トップの進学校に行って、大学も帝大ですからねあいつ。本当に非の打ち所がない。理学部を首席で出てるんです。幼馴染である僕は何が違ったのかな。こっちはそこそこの高校を出て、地元の公立大に進学して、何とか色々なコネとかで今の横浜大の院に滑り込んだんです。まあ、周りの人が皆優秀過ぎて、今も舌巻いてますけど。」
「…」
「あいつには敵いませんよ。だってあいつ、学部出る時も海外の有名大の研究室からスカウト来てたんです。卒業研究が海外誌で賞獲るほど認められて。それもあっての首席だったんですけど。でも何故だかそれを断って、僕と同じ横浜大に進んで。海外苦手だったんですかね…。そうは見えなかったけどな、英語も出来るし。」
「…へえ」
「もちろん横浜大でも結果残してるんですよ。修士の間にも何本も論文投稿して、将来はとりあえず助教確定だろうって同期の間じゃ話題だったんです。助教に限らず帝大の教授までは余裕だろうって。」
「…」
「…でも、半年くらい前、あいついきなり大学来なくなって。それまで海外の大学と共同で進めてた研究も途中で放り出して、どこかに消えちゃったんです…。」
そうだったのか、と私の中で色々なピースが繋がっていった。赤の他人の話を聞いているように装いながら、私は静かに深くその話を聞いていた。今の私にとってはそれはどうでも良い話ではなく、何か大切な話だった。あの人がそこまで優秀な人間だったのかは何となく分かっていた。頭の良さはあらゆるところに滲み出ていたから。それに異性からモテる、というのも何となく理解できる。中身を知らなければあの甘いマスクに騙される上辺だけの女子は沢山いるはずだ。ただ。あの人の生きてきた様を実際に耳にすると、私の中での美木浩が自然と完成されていった。私の中に生きているあの人が、ゆっくりと大きく次第に形作られていった。
「だから、僕心配で。あいつに何があったのかさっぱり分からないし。もう音信不通でどこにいるか分からないし、消息も不明。警察に失踪者として届け出ようかと大学で話してたんですけど、何かあいつの親は居場所を知ってるみたいで。だから探すにも探せなくて。…あいつ、親とあんまり上手くいってないというか。そんな感じなんです。」
「…」
烏丸さんはそう打ち明けてから一つ胸のつっかえが取れたのか、自分の右手を左手で包むように撫でていた。それからまたひと呼吸置いて、私の方を見た。
「…あいつの家、皆政治家の家系なんです。」
「は」
「おじいさんは民権党の幹事長だったとかで、父親は今も衆議院議員やってます。知りませんか、美木耕三って。ここら辺の小選挙区で。」
「いや…」
「そう言えば、下の外壁にも貼られてました。あいつの親父のポスター。」
「そうだったんですか…」
「それに兄貴は二人とも政治家の秘書。母親の家も元総理だとか何とか。だからあいつにも、政治学とか法律とか、そっちの道を歩ませたかったらしいです。でもあいつはそうしなかった。自分の好きだった理系に進んで、生物学の分野でしっかり功績を残した。」
そういえば、と私は思い出していた。美木、浩。昔どこかで「美木」という苗字を耳にしたことがあった気がする。ニュースだったか、新聞だったか。内閣改造か、党内の選挙か。もしかしたら失言かスキャンダラスな話だったかもしれない。でも、政治の世界などまさしくあの人が好まなそうなものだ。あれだけ哲学をこき下ろしてみせたのに、政(まつりごと)に興味がある訳が無い。まして彼が秘書になってせこせこと働いている様など、想像すら出来なかった。
「でも、親は全然認めなかった。長男でもないくせに、自分の意のままに子どもを育てようとしたんでしょうね。だから結局根性ひね曲がった、天才生物学者が出来上がっちゃったわけですけど。」
「天才生物学者、ですか」
「そう。あいつは天才ですよ。政治の世界なんかに進んじゃったら、才能が丸潰れになる。むしろ生きていけないと思います。」
「…だから美木っていう苗字、嫌ってそうだったんですね…」
「え?」
「あ、いや、すみません」
私は不意に吐露してしまった言葉を取り戻そうと、より一層平静を装った。最初に会った時だろうか、あの人が私の苗字を聞いたのは。『美波さんは、何て苗字なんですか?』と白々しく聞いて、自分の苗字を『美木、なんて苗字、日本にそうと居ませんし。』と虐げてみせた。あの言葉の裏にはそういう事情があったのかと、今私は知ったのだった。
「そうですか…。確かに、あいつは嫌ってましたよ。あの苗字がついてくるだけで、自分に関係の無い親父や祖父の栄光まで無駄にまとわりついてくるって。」
「…」
「確かにそうですよね。美木、なんて苗字珍しいし、どこかで聞いた事あるような…って誰でもなっちゃいますよね。」
「まあ…」
「…僕、美波さんに謝らないといけないことがあるんです。」
「え?」
烏丸さんはそう言うと急に畏まったように姿勢を正した。再び私の方へ体を向け、その拳を膝の上に乗せた。感謝をされた後は謝罪かと、私は何を言われるのか再び身構えて、その言葉を待った。
「僕、あのタワーマンションに張り込んでたんです。」
「はい?」
「浩を、探すために。」
「…ああ」
それで、ここを突き止めたのか…。きっと私はつけられていたのだろう。張り込みだなんて本当に彼を追いかけていたのか。その執念は私には異常に思えたが、これが私の知らない友情の姿なのだろうと、私は自分で自分を嘲笑った。
「何か大学のうわさで、あいつがあのタワマンにいるらしいって聞いて。これは本当か分からないですけど、親父の逢引き用の部屋だとか。まあ政治家一家だからあり得そうな話ではありますけど。」
「え…」
「知りませんでした?まあ、そうですよね。最初は僕も、そのうわさ信じてませんでしたから。でも、どんなに探してもあいつのこと見つけられなくて。それで藁にも縋る思いで、あのマンションに出掛けて行ったんです。」
「…そんなに、大事に思ってるんですね」
「まあ…。幼馴染っていうか、親友ですからね。あいつがいなくなったら、実験も研究発表も完璧に助けてくれる何でも屋が居なくなっちゃいますし。」
「え?」
「冗談です。それで、何日かあのエントランスに張り込んでた時に…美波さん、あなたがやって来たんです。」
「…」
「珍しい人でした。平日の昼間に、ちょっと装いが派手だなって思いました。すみません、僕も男なのでついそういう方に目がいってしまって。それで気になって近づいてみたら、インターホンのところで「美木さん」と、あなたが呼んでいました。」
あの日、きっと初めてあのタワーマンションに行った日、この人に私は見られていたのだ。突如失踪をした友人を懸命に探す烏丸さんに私は見つけられていた。そしてきっと、私は「ザ・ヘヴンですが…」とでも言っていたのだろう。いや、言っていた。覚えている。何も答えが返ってこない通話口に向かって私は何回も呼び掛けていた。だから、それで、今日ここに。
「それで、お店の名前か何かも一緒に仰っていたので、僕は必死にメモしました。きっと彼はここに居るに違いないと思って、それからその名前を懸命に調べました。でも、なかなか出てこなくて。いや、最初から出てきてはいたんです。でも…その…アダルトな感じで。まさかと思って、他のサイトを探してたんですけど、綺麗な女の人が入っていったし、もしかするのかもしれないと、最終的には辿り着きました。このお店に。」
「…そうですか」
「まるでストーカーみたいですよね。すみません。でも、僕は本気です。もし、出来るのならば、今浩がどうしているのかを知りたい。どうして大学から急に居なくなってしまったのかを知りたい。僕には、何も理由が思い浮かばないんです。全て順風満帆だったあいつにとって、何も消える理由が無いんです。もちろん、親とのいざこざはあったけど、あいつが居なくなる理由が僕には分からないんです。」
「…」
「僕には…分からないんですよ……」
「…」
「だから、もし、もし、美波さんが許してくれるのなら……、僕に教えてくれませんか。」
「…烏丸さん、」
「はい」
「あなたのご友人は、死にかけの病人です。」
私はそう、言えただろうか。
友人のことを思い、得体の知れない雑居ビルに勇気を出して踏み込んだこの人に向かって、幼少期からの付き合いで彼を親友と呼び、ずっと彼に憧れを抱き続けてきたこの人に向かって、共に同じ大学院に進み、親の定めに逆らう彼と等しく研究に人生を懸けていたこの人に向かって…私はそう告げられただろうか。
きっとこの人は、彼の病気も、現状も、何も知らない。というか知らない方が良いのかもしれない。私がもし全てを話してしまったら、きっとこの人は崩れてしまう。そう直感的に分かった。それは考えなくても分かる事だった。そして私が話していい理由は何も無かった。店のルール以前に、美木さんがそれを望んでいるのか私には何も分からない。もしかしたらそれを望まないかもしれないし、というか大体がそうなのではないか。あんな場所に一人閉じこもって暮らしている人間が、それを誰かに告げて欲しいなどと言うとは思えなかった。もし私だったらそれを望まないだろう。そうやっていつものように合理化した。それが私の言い訳だった。
だから、私は
「私からは、何もお話し出来ません。」
こう答えるしか、選択肢を持っていなかった。
「ああ……」
「美木さん、という方が当店のお客様であろうとなかろうと、私からは何もお話し出来ません。すみません、ご容赦ください。」
「…」
「本当に、すみません。」
私は立ち上がり、丸椅子に座っていた烏丸さんに向かって頭を下げた。これが私に出来る精一杯の誠意だった。
「………」
これ以上は、何も出来なかった。きっといつか、この人は全てを知るのだろう。美木浩が死んだ時、何があったのかを全て知るはずだ。その時私を思い出して、あの時何故話してくれなかったのかと心底恨むかもしれない。けれど、私には何も出来ない。いつか彼に降りかかる絶望も、悲しみも、それは私には分からない事だった。いつ来るのかも、そもそも来るのかも。私には関係無いのだから。あの人が死のうと、周りの人間が悲しもうと、私の知るところではない。
「…そうですよね…。」
「…え?」
「いや、分かりました。」
「…」
「ありがとうございます。」
「…?」
「美波さんのお立場も、一応理解しているつもりでいます。何様だって感じかもしれないけど。だから、分かりました。分かった気でいます。」
「…すみません。」
「いえ。こちらこそ、いきなり押しかけてすみませんでした。不躾でした。」
「いえ……」
「きっとまだ、浩はこの世界のどこかで彼なりに元気にしてるんだろうなって思えるような気がします。」
「?」
「もし美波さんが真実を知っていて、それを話せないとしても。浩が何らかの意図を持って僕に隠し事をしていたとしても。僕は誰も恨みません。自分自身を恨みますから。大事な親友の機微に何一つ気づいてやれなかった自分を恨みますから。」
「………」
「だから、ありがとうございました。」
その言葉を聞きながら、私はゆっくりと頭を上げた。烏丸さんは私の顔を真っ直ぐ見据えながら、今にでも涙を溢しそうな堅い笑顔で私に微笑んだ。そうやって思い切り頬を上げていないと涙が、嗚咽が溢れてしまいそうだった。その言葉は彼なりの踏ん切りだった。これ以上私には何も望めないと諦めて、無理矢理私から情報を得ることも手段から放り捨てて、自分なりの答えをつけた。これ以上の長居は迷惑だと思ったのかもしれない。さっきまでの図々しさは消えるように、烏丸さんは帰り支度をし始めた。涙を堪えながらシャツの袖口のボタンを留めている姿を、私は見ていられなかった。彼の姿は、覚悟を決めた人間の姿だった。
「…最後に一杯だけ、お水を頂いてもいいですか。」
「はい。」
そう言われて私はもう一度シンクまで歩いていき、彼の使ったグラスに並々と水道水を注いだ。カウンターの向こうから彼の目の前にそれを差し出して置くと、烏丸さんはぐっとグラスを握り首を思い切り上げた。そして、咳込みながらそれを体に流し込んだ。「ぷはあ…」と声を出して飲み切るとグラスを静かにカウンターに戻した。
「美波さん、」
「?」
「無味なはずなのに、何か、苦い気がしますね」
「…」
烏丸さんは笑った。両方の頬に涙を伝わらせながら。そして彼はザ・ヘヴンから去っていった。きっとこの先、私があの人に会う事はもう無いだろう。あの人もまた、現実に一区切りを打って元の生活へと戻っていくのだ。もし出会うことがあるとすれば、それは彼がまだ未練を残して美木浩を探し求める時。彼の中でとうとうと美木さんが生き続けている時だ。
「あの子、帰ったの?」
「はい。お帰りになりましたよ。」
「あ、お代とりっぱぐれちゃった!」
「は?」
「だって美波とおしゃべりしてる時間も、サービスみたいなもんでしょ?」
「うっわ。リリーさん、つくづく人間かって疑いますよ。」
口からタバコの煙をくゆらせながら事務所に戻ってきたリリーさんは、この出来事を何も気にしていないようだった。「はあー」と当たり前のようにため息をつきながら、謎に烏丸さんの座っていた椅子にお清めの塩を振りかけて「悪霊退散!悪霊退散!福は内!」と叫んでいた。
「烏丸さん、そんな悪い人じゃなかったですけど?」
「ああいう辛気臭い男はダメ、もっとフェロモンむんむんに感じさせてくれないと。」
「それはリリーさんの趣味でしょ。」
「うるさいわよ美波。もう終わったんだからさっさと帰りなさい!アタシ今晩は東京で接待なの。」
「帰りなさいって、そっちが無理矢理来させたから今ここに居るんですけど。あ、ていうか、今日の分の諸々、あとで請求しときますからね?覚悟しておいてくださいよ。」
「えー?何のことかワカラナーイ。聞こえなーい!」
烏丸さんはきっと悪い人ではないのだろう。傍から見ればちょっと友情に粘着質な、熱血な青年という感じだけど。だからこそ、私は言えなかった。あの人はきっといつか死ぬ。それは医者ではない私ですら分かる事だった。美木さんの変化を見ていれば、自ずと分かった。
そうやって突然の死が烏丸さんに降りかかる時、彼は絶望の底に突き落とされるだろう。現実を拒み、どうにもならない世の中に対し怒りを抱き、そして自分の無力さに罪悪感を覚え、いつかは…彼の死を受け入れていくのだろう。ただそれがいつなのかは誰にも分からない。私はただ、そんな彼に呼ばれている。一時間という時間の中で雑用をこなし、他愛もない会話の相手をする。そのいつの日かを待つということに寄り添いながら、彼の残り少ない日々を共に過ごしてあげるためにいるのだ。たとえお金で繋がったつれない関係性だとしても、彼が求める以上、私はそこにいなければならない。それが私の仕事だった。奉仕でも自己犠牲でもなく、これは仕事なのだと、私は胸に刻んだ。
11章
ただ、その水曜日は、いつもとは違った。
「浩、お父様といつまでそうやっていがみ合っているの? もう子どもじゃないんだから。お父様はあなたに歩み寄ってくれているのに!」
「帰ってくれ。もうあんたの顔も、親父の顔も見たくない。」
「だから、お父様はあなたの為を思って、このホスピスに枠を作ってくださったの。東大病院の先生方がいつも居てくださって、質の高い医療を受けられるのよ?」
「僕の為?聞いて呆れるよ。どうせ、この部屋で僕が死んだら資産価値が下がるからだろう? それに選挙期間中に僕が何か邪魔をしないように、面倒を掛けないように、そこで囲っておくつもりだろ!」
「…浩! あなた、いつからそんなに不躾な人間になってしまったの! お母さんもう…」
「どうせ選挙が近いから今日も来たんだろう。僕の事なんか気にも掛けてないくせに笑えるよ。この偽善者が。」
「浩!」
その日、マンションには先客がいて、中から言い争う声が聞こえた。彼の元に週に一回定期的に通うようになってからは、私は合鍵を持たされるようになっていた。まるで、同棲している恋人のようだと思いながらも、いちいち解錠するのに待たせては悪いからと美木さんが私に渡してくれたのだった。客との距離が近いと店長に何か言われそうだったから、私は先にそれを伝え、「まあ馴染みのお客さんだから」と了承を得ていた。その鍵でドアを開けた時に、私はその場面に出くわしたのだった。
「うるさいよ。身体に響くから、甲高い声を出さないでくれ。」
「でも、」
そしてそれは、東京湾に大型の台風が近づいていた日でもあった。電車も計画運休が発表され、大学も臨時休講になった。それほどその勢力は大きいらしく、不要不急の外出は避けるようにとテレビで気象庁の誰かが言っている。けれど私にとってこれは仕事だった。むしろ美木さんにとっても不要ではないだろうと勝手に言い訳をする。それでも廊下の窓から見下げた海と空は低く垂れこめた黒とグレーで覆われて、私の気分をどんよりと落ち込ませていた。
「だから、帰れ。早く。」
「お父様の部屋に勝手に居座って、自分の好きなようにして。親をなんだと思ってるの!お兄さん達はあんなにも国のために頑張っているのに。あなたはこうやって…」
「帰れ!」
「早くここから出なさい!」
美木さんの怒鳴る声は遠い玄関にまで強く響いていた。私は初めて彼の怒りという感情に触れた。あの冷ややかな美木さんが、ここまで声を荒げた様は見たことが無かった。だから私は少し慄いていた。それだけこの親子関係は拗れに拗れ、血生臭いものになっているということだった。不意に私の脳裏には、数日前に会った烏丸さんの話が思い出されていた。政治家一族の名家、美木家。その三男である彼は両親の期待を裏切って、自分の進みたい道に進んだ。しかしその結果、親子関係に大きな禍根を残した。それを今、私は目の当たりにしていた。彼の話の裏付けがこんな形で取れるとは予期していなかったけれど。
「だから帰れ!」
「浩!」
「僕の名前をその穢れた口で呼ぶな!」
「……」
その叫び声は今までで一番大きかった。その直後に美木さんが大きく咳き込む音が聞こえて、私は少し心配になった。そして母親と思われるその人は、それ以降声を全く出さず黙っていた。きっと美木さんの迫力に気圧されたようだった。
「…早く、僕の目の前から、失せろ。」
「……分かりました」
「失せろ!」
「…帰ります。もう勝手になさい。」
その話し声から、母親と思わしき人物がこれから自分の居る玄関に向かってくる事を私は察知した。だが私には隠れる時間も外に出る猶予も無かった。母親は体当たりするようにドアを開け、何かをぶつぶつと言いながらこちらに向かって歩いてきた。甘ったるい香水の匂いが先に香ってきて、その小柄ながらも堂々とした体躯を後に私は認めた。だが、暗闇の中ではお互いに相手の姿をよく見ることが出来なかった。
「あ」
「…」
向こうがこちらに気付いたのはその時だった。暗がりの中で、白のブラウスを着た私の姿がぼんやりと見えたのだろう。着物姿の彼女は少し後ろに後ずさりをしながら、部屋の方へ振り返り彼女は「浩?」と息子の名前を呼んでいた。私が不法侵入者か何かにでも思えたのだろうか。子猫のような高い声でそう息子に問い掛けると、美木さんは「知り合いだから。」と何も気にしていないような声でベッドから母親に返していた。私はそのまま立ち尽くしていた。
「…あの、どちら様?」
「いや…」
「浩の、大学のご友人か何かかしら。」
「……」
「それとも、彼女…さん?」
「いえ…」
私は何と答えるのが正解なのか、分からなかった。私はあの人にとっての何でも無い。ただの、デリバリー嬢だ。
「なら、どちら様? どうしてここに?」
「…」
「答えなさい」
「あの…」
「その人は、僕が頼んで来てもらってる人だよ。」
私が逡巡していたその時、美木さんは病床からはっきりと聞こえるようにそう言った。
「!」
母親は「頼んで?」と訝しむようにしながら、私を品定めするように足下からじろじろと見ていった。それは侮蔑に近いような目で、私は心地良さを感じる訳も無く、そのまま立っているしかなかった。まるで捕食者に睨まれた餌のような気分になった。お互いに顔がはっきりとは見えない中で、私たち二人は気まずい距離感を保っている。今思えば、誰か先客が居た時点で私がここを去ればいい話だった。下手に居座って、話を盗み聞きしようとしたのがいけなかった。それが、最大の失敗だった。
「頼んで、ってどういう事かしら。訪問看護の人には見えないけど。」
「…」
「あなた、浩とはどんな関係?」
「…いつも美木さん、いえ浩さんにはお世話になっております。」
「お世話?あ、そう。」
彼女は私の正体を未だ分かっていないようだった。ただ、普通の友人だとは思っていないようだった。それに一般的な恋人だとも。彼女の狐のような目が私を貫くように詮索して、何かを掴んでやりたいという女の闘志が、離れた私にもひしひしと感じられた。私たちはまだ、お互いに近づくことも無く、真っ直ぐと相手を見据えていた。
「それで、今日は浩に何か用?こんな台風が近づいている日に、わざわざ。」
「それは…」
「素敵なブラウスね、どこのかしら。」
「…ありがとうございます。」
「別に貴女は褒めてないわ。貴女じゃなくて、服を褒めただけなんだから。」
「…」
「まあいいわ。浩はもう少し、女を見る目を養った方が良さそうね。」
「…今日は、また出直します。失礼します。」
「いいわよ。」
「?」
「私はもう、お暇しますから。」
「…そうですか」
美木さんの母親は段々と前から近づいてきて、私の後ろにあるドアへと向かっていった。台風でいくらか気温が下がっているとはいえ、夏の暑い日に山吹色の着物姿で身を固めているその姿がまさに政治家の妻というところだ。予想通りのその姿が次第にはっきり見えてくるにつれて、私は背中に力を入れ直した。そうでもしていないとこの人に食われると、そう思った。まるでプレデターだ。
「貴女、お水のお仕事の方でしょう?」
「…え?」
そしてその人がすぐ横をすり抜けた瞬間、彼女は私の耳元で「裏の、方よね」と囁いた。
「…」
「私もこの世界長いから、分かるのよ。水商売の女は格好も匂いも、汚らしいから…。」
「……」
「派手に固めたつもりでも、その内側は透けて見えるのよ。貴女みたいな不埒な女は、その不埒さを隠せない。」
「不埒、ですか…」
「そう。貴女、浩の何なの?あの子に頼まれて来ているの?」
「…」
この母親からは、言葉に言い表せないほどの根深い嫌悪が感じられた。私たちのような女に対する、同性としての、そして気高い人間からの蔑みと貶しを覚えた。彼女はそれをたっぷりと言葉に乗せて、私のすぐ横で話を続けた。私はただ立ったまま、美木さんが居る部屋の灯りを真っ直ぐと目に焼き付けていた。
「あの子、死ぬわよ?」
「…」
「それでも健気にこうやって来るのね。まあ、お金目当てですものね。汚らしい稼業だこと。」
「…死ぬって、分かっているんですね。」
「ええ。親だもの。」
「親、ですか…。」
私はその言葉に、言い表せないほどの嫌悪感を抱いた。
「何?」
「今日は、何をしにここへいらしたんですか。」
「はい?」
「何の為に、浩さんに会いに来られたんですか。」
「それは、」
「まさか本当に、浩さんをここから追い出すつもりだったんですか?」
「…」
「軽く、殺したくなりますね。」
「貴女、浩の何なの…?」
私は負けじと彼女の嫌悪感に抗った。背けていた彼女に顔を向け、真正面から対峙していた。この母親に対して私は心の底から侮蔑していた。私はこの人を、勝ち誇った気にさせたくはなかった。
「風俗嬢です。デリバリーの。」
「!」
「これで、ご満足ですか?」
「破廉恥な!」
彼女は私の鮮烈な言葉に動揺を隠せていなかった。水のお仕事、と鎌をかけてきたのはそっちなのに、いざ言葉にされるとそれを受け入れようとする事に拒絶反応を表しているようだった。
「貴女、本当に浩が頼んで来ているの」
「はい」
「卑猥な…やっぱり美木家の恥だわ…」
「やっぱり…?」
「…」
「私は、浩さんに頼まれて来ています。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「何を…」
「これで、ご満足ですか?」
「…死に際まで、男の人って馬鹿なのね。女のケツばかり追いかけ回して。」
「どういう意味ですか」
「貴女も分かってるはずでしょう。女なら」
その言葉には彼女の実感が込められているような気がした。相手が私でなければ、「馬鹿」には収まらない感情を溢していたのだろうと思った。息子に対する軽蔑の感情だけではなく、他の男に対する蔑視も含まれているように感じた。それはここが夫の逢引き部屋であるからだろうか。真偽は別にしても、だからより一層その言葉は強く私には聞こえた。
「ハイエナみたい。」
「…はい?」
「死骸にも貪欲に群がる、ハイエナみたいな女ね、貴女。」
「ハイエナ、ですか?」
「ええ。そんなにお金困っているの?見たところ浩よりも幼そうじゃない。二十歳かそこらじゃないの。」
「お答えする義理はありません」
「親御さんは何て言っているの?こんな淫らな仕事をさせるために、貴女を産んだわけではないのよ。親不孝ね。」
「もう私にそんな文句を言うような親は居ません。自分の中で、消しました。」
「そう。大変ね。若いのに。」
あなたには関係無いと、心の底から思った。実の子どもの死を軽々しく口にするような人間に敬意は必要無い。親は生を願うべきものだ。死を、たとえ過ったとしても口にするべきではない。恐れるべきものだ。なのに、この人は、悪びれもせず美木さんの人生に対してピリオドを打った。言葉だけだとしても、それは到底許されるような事ではなかった。私は、許すつもりは皆目無かった。この人間を最大限の言葉で軽蔑した。この一瞬で、あなたの事が痛いほどに嫌いだと、そう分かった。
「大変ですよ、あなたの息子さんのお相手をするのは。死にかけでも、まだ下の力はよく残っているようです。湧き出てくるように。」
「はっ」
「よろしかったら、見ていかれますか。あとどれだけ元気な姿を見られるか、分からないですからね。」
「貴女!何を言っているの!」
「淋しい人です。浩さんも、あなたも。」
「…っ」
息子のシモの事など、実の親なら尚更聞きたくないだろう。勿論のこと、私は美木さんと身体を交わした事は無い。強がりのブラフは、この女に一泡吹かせてやりたいという私の敵意そのものだった。この人に蔑まれる事、見下される事は屈辱的だった。むしろ、蔑んでやりたかった。こっちがこの世から消えてしまえば良いのに。こんな人間が存在しているからこそ誰かが虐げられて、ついには死んでいく。不条理と言われればそうかもしれない。けれど、私はこんな人間を許せなかった。一番許せなかった。許したくも無かった。子をモノのように扱う、この女を。
「もう貴女には二度と会わないわ。この世でも、あの世でも。」
「望むところです。」
そして母親は私の背後に立つ大きなドアを一思いに開け、湿気で蒸した廊下へと直ちに飛び出していった。クーラーで最大限まで冷やされたその家に外から湿気が入り込んできて、私の足首に数滴の結露を作った。それがどこか気持ち悪かった。私は何故、あの人にここまでの大口を叩いたのかは分からない。誰かを庇う義理は私には無かった。救わなければならない人は、私にはいないはずだった。もしかしたら、同族嫌悪を相手に投射したような、そんな気分だったのかもしれない。子を産み墜とした後、子どもは一人の人間として人との関わりの中に独立していく。子どもはもう、産まれたらその後は一人の人間なのだ。その親に、何の存在意義があるのか。自分勝手に命を作っておいて、その命をめんどくさがり、時に放棄し、そして見捨てる親に。一体、何の存在意義があるのか。私は一切理解が出来なかった。
「美波、さん?」
「…はい」
「まだ、居ます?」
「…ええ」
強ばった首筋を何度か息をして鎮めながら、思い出すだけで湧いてくる怒りを私はいなすようにした。遠くの部屋から美木さんが呼んでいる。そう、今日はまた彼に呼ばれてここに来ただけのはずだった。
「すみません、居ます。」
「ああ、良かった。お見苦しいところを見せてしまったかと」
部屋に入るといつもの場所に美木さんは寝ていた。曇り空のせいでどんよりとした部屋の明るさは、まるで夜のように暗かった。照明を点けていても美木さんの姿がはっきりとは見えないほどにその大窓は今日、光を捉えていないようだった。
「そんな、大丈夫ですよ」
「とか言ってきっと、僕と母親の会話もしっかり聞いていたんでしょう。美波さん、そういうところ抜け目無いですからね。」
「…まあ」
「やっぱり。」
「聞いてはいました。すみません、つい耳に入ってしまって。」
「知ってました。じゃあ、僕について色々バレちゃったかな。兄がどうとか、選挙がどうとか。」
「ええ…」
「ま、大丈夫です。そちらの会話も、しっかり聞こえてましたから。」
「え」
美木さんはそう言うと、以前よりもより細くなった顔で私に向かってニヤリと微笑んだ。
「浩さん、でしたっけ?」
「は」
「ほらさっき」
「何の事ですか」
「呼び名」
「あ、ああ…。どちらも美木さんなので、紛らわしいかと。」
「そんなつれない理由ですか?てっきり僕は、心を近づけてくれたのかと。」
「変な冗談はやめてください」
「というか、よく母親だと分かりましたね。僕は母さんとかお袋とか言わなかったはずだけど。」
「ああ、話の感じから親子喧嘩だと勝手に思い込んだだけですよ。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「そうですか。」
彼の明らかな探りを私は分かりやすい嘘でかわそうとした。烏丸さんの事は彼にも隠しておくのが無難だろう。何か厄介ごとに更に巻き込まれるのは自分としても御免だ。
「僕は嬉しかったですよ。すごく、嬉しかったです。」
「はい?」
「浩さん、って言ってくれて。」
「そうですか」
「ええ、とても。」
彼は本当に私と彼の母親との会話を一部始終聞いていたらしい。リリーさんではないけれど、彼も地獄耳というやつなのだろうか。私の弱みを握ってやったと、ここぞとばかりに嬉しそうに彼は笑っていた。相変わらず意地が悪い。
「苗字呼び、本当は凄く嫌なんですよ。反吐が出るくらい。」
「反吐、ですか」
「話聞いてたら何となく分かりましたよね、僕いやーな政治家の家系なんです。父親は国会議員、兄貴二人も議員秘書。母親の祖父は元総理。それが美木家です。」
「…へえ」
「へえって。何か、前から知ってたみたいな反応ですね。普通だったらもっとびっくりするのにな。」
「そんな事ないですよ」
やはりこの人は鋭かった。どんなに身体が朽ち果てても、人の事はよく見ていた。私の微妙な表情と、声音と、その雰囲気からすぐに何かを感じ取って相手に確かめる。臆病なのか、野心家なのか。ただ、私はそうする人に覚えがあった。誰かを信じる事が出来ないからそうする人に。だから、私には前者に見えた。それは彼があんな親に全うな愛を注がれていたとは思えなかったからだった。そうやって愛に飢えた人間は自分を守るために相手の顔色を伺うようにする。裏切られたら怖いから。期待通りにならなかったら恐ろしいから。そうやって、感性が敏感になる。
「僕をホスピスに閉じ込めようって話も、本当ですよ。」
「はい?」
「ここに来る前もね、大学病院の病棟に強制的に入れられてたんです。僕は何とかそこから出てきて、うちの資産であるこの部屋に無理矢理転がり込んだ。色々大変でしたけど。根回しとか。鍵を手に入れるのにも相当苦労しましたから。」
「なるほど…」
「まあ美木の家にとって、こういう病弱で薄幸な人間は足枷なんです。支援者にも勢いが付きませんから。縁起が悪いんです。落ちるとか死ぬとか、そんな言葉遊びでもああいう連中は毛嫌いしますからね。馬鹿みたいでしょう。そんな迷信信じて。」
「迷信、ですか」
「そう。それに、親父からしたら自分の後継者にもならない無駄な子どもは消えてくれた方が良いらしいですよ。運が良いですよね、彼らは。そんなクソ息子が死に至る病に罹って病床に臥せっているんですから。」
「本当の、話ですか?」
「え?」
「ほら、美木さん…、あ、浩さん、本当みたいな嘘をつきそうだから。」
「ふふ、美波さん僕のことまだ信じてくれてないんですか。薄情だなあ。嘘みたいだけど半分本当。政治家はゲンを担ぐんです。非科学も当選の為なら信じるし、票の為なら実の子どもも陰へ追いやるんですよ。」
「…そうですか」
「それに、ここは親父の逢引き部屋なんですよ。表向きは資産としてのマンションの一室ですけど。だから本当に僕がここで死んだら事故物件になる。それで母親は追い出そうと躍起になっているんです。でもね、親父は違う理由。愛人と安全に逢う場所が僕に取られたから、それで追い出そうと躍起になってます。」
「…最悪ですね」
「え」
「あ、すみません。…他人の親御さんなのに。つい。」
「美波さん、案外毒舌ですね。良いですよ、あんなの親だとも思ってませんから。確かに、最悪です。あいつらの顔を見れなくなるから、案外死ぬのも楽しみです。」
「美木さん?」
「すみません、また悪い冗談だ。」
死ぬのが楽しみ何ていう言葉を、一体人は何をされたら吐くのだろう。誰かに裏切られて、見限られて、愛を注がれなければ人は希も夢も失ってしまう。誰かを思いやる心も、信じるという気持ちも、誰かに優しくされたから生まれるものなのに。そうでなければ、現実を諦め、観念して、そっと死を待つだけ。ただ、待つだけだった。
「僕の研究分野はね、DNAの塩基配列で人生決まらないよね、って事をやってるんです。」
「はい?」
「エピジェネティクス。」
「エピ、ジェネティクス?」
「ええ。話しませんでしたっけ?横浜大学、先端エピジェネティクス研究室。」
「ああ…」
「馬鹿みたいな横文字でしょう。DNAで決められない人生を、なんてまるっきし夢見てるみたいで。」
「すみません、私生物とかそういうのは詳しく無くて」
「後生学って言うんです。後から、生まれてくるって書いて。所与の身体が全てを決めるのではなくて、そこから細胞分裂をしていった自分の身体が自分のその後を決めていく。そんな学問です。夢想かもしれませんけど。」
「そうですか…」
「でも実際のところ、出自とか、周りの環境とか、先天的な色々なもので決まっちゃうんですよね。」
「…」
「例えば親が癌だとしたら、それが遺伝する確率は50%。まるでコイントスみたいだ。だけど人は二度生きることは出来ない。もし良い方の50%を取れたらラッキーだけど、悪い方を取ってしまったら、もうその運命からは逃れられない。」
「運命、ですか…」
「僕は、経済的には恵まれてたと思います。小さいころから身の回りには食べ物が溢れていて、人並み以上に海外旅行とか高級な経験を与えられて。お金は、沢山、腐るほどありました。まあその元を辿れば、国民の血税か、企業か有力者からの裏金なんですけど。」
「…」
「ただ、別の人生を歩んでみたかったなって、ふと今も思うんです。当たり前のように親父に叱られてみたり、テストで良い点を取って母親に褒められてみたり。兄貴たちともっと仲良く出来た世界線もあったかもしれない。情けないですよね、いい年こいて、こんな子どもみたいな事言って。」
「いや、」
「でも美波さんも、分かるんじゃないですか。きっと」
「?」
「親は、変えられない。僕の身体には、親からもらったDNAがしかと刻まれてるんです。それが、僕の細胞を今まで作っては殺して、ついには僕の病気と戦いつつも、時に進行を助け、死へと導いていく。」
「…」
「僕が生きているということは、僕の中に親が息づいているということですから。」
私の方に顔を向けて、彼は静かにこう言った。
「僕が死んだら……、親も半分ずつ、殺したってことになりますかね?」
何の感情も込められていない冷たい言葉だった。そしてその瞳は冴えるように透き通っていた。まるで一切の同情を拒むようなその姿に、私はただ黙っているしか出来なかった。彼の言葉の重みを受け止める自信など、私には無かった。
「っ…」
「美木さん、大丈夫ですか?」
彼は突然顔をしかめ、左手で自分の右腕を抑えるようにした。いつの間にか点滴針が何本も刺さっているその右腕は、その皺が目立つほどに薄くなり、ぷるぷると小刻みに震えるように痙攣をしていた。彼の容態はおかしかった。普通では無かった。
「大丈夫、です…。最近、ちょっと…痺れることが、多くなっちゃって……」
「本当に大丈夫ですか、私何か」
「…水、とって、くれませんか…?」
「え」
「いつもの、ところに、あるので…」
「わ、分かりました。」
私は咄嗟に、あの2Lペットボトルが置かれている場所に駆け寄って、脇にあったスポイトとコップを手に取った。ふと見やった彼の様子はやはり只事では無かった。救急車を呼びますかと声を掛けても彼は頑なにそれを拒んだ。私がまたベッドサイドに戻ってきた時、彼は「大丈夫です」と訴えかけた。薄暗い部屋でよく物が見えない。手探りでキャップを開けながら、床に置いたコップに向かって私は水を注いだ。落とすところがズレて、最初は自分のストッキングにぬるい水が垂れるように掛かった。その間も美木さんは、目をシバシバとさせながら自分の身体の疼きを収めるように深呼吸をしていた。痛いのか、辛いのか、何が彼の身体に起きているのかは私には分からなかった。私に出来る事は、ただ一杯の水をコップになみなみと汲んであげる事だった。
「浩さん、水、準備しましたよ?」
「すみ、ません…」
「?」
「……僕、もうスポイトからも、…飲めないんです。」
「…」
「窓の近くの、箱の中に…、脱脂綿が…入ってます。それで…お願いします…」
「え?」
「向こう、です…」
彼の指差す先には確かに段ボール箱があって、その中には白いふわふわとした脱脂綿が入っていた。彼に言われるまま、私はその脱脂綿を手に取って、そして手元のコップに一気に浸けた。まとまらない糸くずがコップの中で散らばるように浮いていき、水を含んだ大きな塊だけを人差し指と親指で丁寧に掴んだ。水をいっぱいに含んだそれが今の彼の命の源だった。そのコットンを私は彼の口元へ運んだ。彼の上半身はまだ震えるようにしていた。彼の様子は決して変わらぬままだった。
「口に、つければ良いんですか?」
「…はい、お願いします…」
乾いて割れた唇に触れるようにして、私は水をたくさん含んだ脱脂綿を彼の口に当てた。美木さんはそれから一滴一滴を搾り取るようにして痛々しい唇を前後に小さく動かした。まるで哺乳瓶を咥える赤子のように。弱々しいその姿は、以前私が見た彼の健勝さとはかけ離れている。さっきまであんなに明朗快活に自分を蔑んでいた彼が、刹那病者へと変わった。時が、進んでいた。彼の中に蠢く病魔とやらは誰にも観察されないうちに支配を拡大しているようだった。それは確かに彼の身体を蝕んでいた。震える彼の右腕には、前には見なかった茶色いシミがポツポツと浮き上がっていた。
「やり方、これで合ってますか?」
「…はい…大丈夫です。」
水を与えても、彼の身体の震えは収まる気配が無かった。最初は右腕だけだった震えが右肩、左肩、そして左腕にまで移っていき、上半身が波打つように彼の動きは大きくなった。その顔には滝のように汗が噴き出していた。私は手元にまだ残っていた脱脂綿でその汗をなぞるように拭いた。けれど、その汗は私が驚くほどに冷たかった。それは人のものと思えないほどに冷たい水だった。
「美木さん、浩さん、大丈夫ですか? 誰か呼びましょうか?」
「や、やめて、ください…大丈夫だから…」
「でも、本当に救急車とか呼んだ方が良いんじゃ」
「…痛い、痛い…」
彼の身体は血の気が引いていくように紫色から青色へと変わっていった。そして彼の顔を見ると、思い切り閉じていた瞼が少しずつ開き始め、白目を剥いているように見えた。それからその乾いた口で何かを言い始めた。言葉にならないような
「あー」
「うー」
といった唸り声を上げて、呪文のように、まるでエンジンの音のように高低をつけながら彼は声を出していた。私は、怖かった。彼がもしかしたらこのまま逝ってしまうのではないかとそんな事すら過った。本当に死に目を見ているような、その怖さが胸の奥からせり出してきた。
「浩さん!」
「…さん」
「浩さん、浩さん?」
「ごめn…なさい…さn…」
「浩さん、大丈夫ですか?」
「ごめんなさい…おとう、さn…」
「?」
美木さんはその口で、「ごめんなさい」と何度も謝っていた。私が何度呼び掛けても、それを繰り返した。まるで譫妄状態のように我を失いながら、彼はその言葉を繰り返した。私はひたすらに彼の肩を揺すった。そのまま向こうへ逝ってしまわないように、彼に戻ってきて欲しいと、必死だった。
だから私は何回も、「浩さん!」と呼び掛け続けた。
「…美波、さん?」
「…」
「美波さん…?」
「…え」
そして次に私が記憶していたのは、陽が暮れて真っ暗になったベッドサイドだった。私は美木さんの胸の上に覆いかぶさるようにして、彼に上体を預けていた。その右耳に聞こえていたのはトクトクとゆっくり動く、彼の心臓の鼓動だった。彼はもう震えてはいなかった。
「大丈夫ですか…?」
「いや、私、すみません。何で。いや、すみません。」
自分でも何も覚えていない。どうしてこうなったのか。美木さんが急変して、彼の口元に水を届けて、そして身体を思い切りに揺すって。それから…どうしたのだろう。きっと数時間も経って今になっていた。辺りの景色が変わっている。私は思わずふっと彼の身体から身を起こして、ブラウスに付いてしまった皺を縦に伸ばした。そして動揺を隠すように「すみません、何も記憶が」と言い訳を溢した。
「大丈夫、です。」
「え」
「僕も…何も覚えていませんから。」
「…」
床に座り込んだ私をベッドの上から見るようにして、美木さんは静かにそう呟いた。あれは本当に起きた事だったのか、悪夢だったのか。まるでこの部屋から逃げ出したい気分だった。私の額に走っていたのは冷や汗だった。恐怖を目の前にした時のそれだった。
「…何…?」
「…どういう事…?」
私の耳にはまだ彼の鼓動が残っていた。とんとんと打つように響く、まだ太く叩いている彼の鼓動が。私は「すみません、お手洗いお借りします」と廊下に出て、灯りの点いていないその中で自分の頬を両手で擦った。自分が自分で無いような、そんな自意識を恥ずかしく思った。出来ることならば記憶から消して、イチから。身を交わしていなくても、裸を見せていなくても、彼に触れられていなくても、私の素を不意に晒してしまったようなそんな気分だった。
「美波さん…どうしましたか…?」
「…大丈夫ですか?」
「あの…」
廊下で立ち尽くす私をよそに、美木さんは床から部屋の外に向かって声を掛けていた。私はその問い掛けに答えることも出来ず、ただただ小さくなっていた。私の胸も、高鳴っていた。左胸の上にそっと手を当てるといつもよりも早く脈打つ鼓動が手に伝わってきた。そのどくどくとした音が首筋を伝ってこめかみにも響いた。何故か、私は緊張していた。
「すみません、もう少しだけ、時間をください…」
「え、ああ…分かりました…」
ぽつりとそう呟いて、私は地べたに座り込んだ。しゃがむようにして自分の足を腕で包んで、その頭を膝頭につけた。そうしていないと何か変になってしまいそうだった。怖かった。あの人が逝ってしまうかもしれない事が、私は本当に怖くなった。誰かが目の前で死ぬことが本当に怖かった。そしてあの人にまた触れられる事が…嬉しかった。それが、その恐怖を和らげるように温めていった。
「…美木さん、やっぱりモテますね…」
「…はい?」
「いえ…。独り言です。」
この人にはどこか分からない魅力がある。性格は捻じ曲がっていて、人を玩具のように弄ぶ悪趣味な人間なのに。それなのに、どこか生きていて欲しいと思う人だった。
誰かを失う事は想像するよりも恐ろしい事だ。その人が、自分の世界から姿を消す。今まで存在していた全てを残さずに、何もかも消していく。後に残るのは思い出と、目に映る憧憬だけだ。けれどそれもいつの日か薄れていってしまう。皮肉なことに人は忘れる生き物だ。自分の身体と心を守るために、必要無いことは全て忘れていく。だから都合の悪いことはすぐに忘れてしまう。必要なのに、その記憶でさえ克明に思い出せなくなる。段々と擦り減っていって、何度も見倒したビデオのように元の映像は戻ってこない。愛していたとしても、親友だったとしても、尊敬する人だったとしても、その人はもう戻ってこない。実体としても記憶としても、もう一度逝ってしまったらそれが最後なのに。
「あの、美波さん」
「…はい?」
「泣いてるんですか?」
「え」
私は、泣いていた。訳も分からずその頬に涙を流していた。雫は静かにつーっと落ちていく。新しく卸した白のブラウスの肩に一滴分の染みを作って、その部分がそれからじんわりと広がっていった。
「大丈夫です。僕は、もう少し生きていますから。」
「…」
「これは嘘じゃありません。きっと、本当の事です。」
「浩…さん」
「もう、変な冗談、じゃなかったんですか」
「え」
「名前」
「ああ…」
「でも、美波さん…愛を売るお仕事ですよね。」
「…え?」
「偽りの相手に、偽りの愛を魅せる仕事。」
「…偽り、ですけどね。」
「僕にも…嘘でもいいから、僕にも、売ってくれませんか?」
「…?」
「僕に、愛を売ってください。」
彼の言葉は暗い部屋に静かに響いた。彼のリップ音が乾いて宙を漂った。外は、雨が降っていた。遠くのガラス窓に叩きつけるように雨粒は当たり、低い唸り声を上げながら風は葉を飛ばしていた。もう、横浜は夜だった。コスモワールドの観覧車は止まったままきらきらと電飾を光らせていた。愛を、売る。私はその言葉の意味を考えた。一人歩く横浜の夜道でも、下宿先の一人の部屋でも、私がその日瞼を閉じるまで、その言葉の意味を私は考えていた。
12章
茅ヶ崎。それは神奈川の湘南中部にある街だった。サーファー達が集う海岸沿いに街が広がり、下手な和製ハワイのようにいつからかお洒落な雑貨店がその軒先を固めるようになった。役所の役人までアロハシャツに身を包んで、それで町おこしをしようという事らしい。私はそれをチンケだと思っていた。私は、その街に生まれた。
「台風、何事もなく過ぎ去って良かったですね」
「ああ…」
「途中通り過ぎた東北の方は凄かったみたいですよ、雨で町が水浸しになってしまったようで。」
「みたいですね…。でも、まだ海は今日荒れてると思いますよ。低気圧が後引いてると思います。」
「美波さん、詳しいんですか。そういうの。ま、僕にはそんなの関係無いですけど。海がどんなに荒れていようと、高波が凄かろうと僕は行きますからね」
「何で、そんなにこだわるんですか。そんなに海、お好きでしたっけ。」
「いや。何となく。ずーっとあの孤城にいたから、そろそろ気が滅入りそうだったんです。それにもう動けなくなる前に外へ出ておかないと、この世界の中にある美しいものまで忘れてしまう気がしたんですよね。」
「そうですか…」
「さあ、行きますよ」
美木さんは、私の先を行っている。一歩一歩を踏みしめながら、私は彼の影を追いかけるようにした。
「…本当に、身体は大丈夫なんですか?いつも付いている機械も、今日は付いていないみたいですけど。」
「ふふ、大丈夫です。看護の人にはちゃんと許可取りましたから。半日くらいなら大丈夫だろうって。」
「信じていいんですか?嫌ですよ、こんな所で野垂れ死ぬの。」
「信じてください。僕もそれは流石に嫌ですから。」
関東一帯に大雨をもたらした台風は東北を通過した後大陸の方に抜けていき、残したのは九月にしては酷い残暑だった。数日前の垂れこめた雲は何も無かったかのように消えて、今は一面の青空が広がっている。それはもう雲一つない晴天だった。
「あと、これ、地味に重いんですけど。」
「ああ、すみません。そればっかりは車イスにも乗せられないので。もう少しですから、頑張ってください」
「…分かりましたよ」
私の背中にはギターケースが乗っていた。それは私の背丈とほぼ同じくらいに大きくて、米袋と大して変わらないくらいにはしっかりと重かった。だから私は浩さんと、彼のギターケースを背中に背負いながら茅ケ崎の海岸通りを歩いていた。彼は武骨で大きな車椅子に乗り、不自由な右手でトグルを押して、モーターをぐんぐん鳴らしながらそれを走らせている。私は生まれて初めてギターという物を背にした。あんなに軽やかに弾き鳴らすわりに重くずっしりとしたものなのだと、真上から降り注ぐ日光の熱を額に感じつつ私は思っていた。
それから、浩さんの病状は次第に悪くなっていた。今まで以上に咳込んだり、「痛い」と溢す事が増えた。それに肌の色がどんどんくすんでいくのが分かった。まるで至る所にシミが出来てしまったかのように、小さな茶色の斑点がぽつぽつと体表に浮かんでいる。それが痛みの原因らしかった。そして、譫妄が増えた。認知症の老人になってしまったかの如く物を忘れたり、場所・時間が分からなくなったり、時には意味不明な言葉を唐突に羅列し始めたりするようになった。それでも私は彼の元へ通っていた。それは同情からではなかった。ただ、彼が私を求めていたから。週に一度、きちんと予約を入れてくれていたから。それが理由だった。そのはず、だった。そう、私は自分で思っていた。
「浩さん、電動車椅子は狡くないですか。速すぎますって。」
「美波さんまだ若いんだから。体力も有り余ってるでしょ?ほら、頑張って」
「もう…」
国道が走るこの海岸通りは平日でも東西を移動する車がひっきりなしに行き交っていた。私と彼の横を容赦なく制限速度を超えて走り抜けていく車は、時折私たちに涼しい風を届けている。そんな私の五歩先を浩さんの車椅子が走っていた。後ろから眺めるその背中は、もう骸のようだった。頭を少し右に傾けて、「よそ行きの服ですから」と意気込んでいたベージュの半袖シャツは、その袖が頼りなさげにはためいている。まるで空気を運んでいるかのように車椅子は軽々と彼を乗せていき、帰りの心配をよそに、その充電をどんどん食い散らかしているかのようだった。
「美波さん、茅ケ崎、来たことありました?」
「え?」
「ち・が・さ・き」
「聞こえてますよ。」
「良かった。車の音で、僕の声が届かないかと。」
「…ありますよ。」
「何?」
「ありますよ!ち・が・さ・き!」
「ああー。」
「だから、何ですか?」
「いやー特に。質問してみたかっただけです。」
数メートル離れた私に向かって、浩さんは精一杯の声で前から話しかけていた。その声は時折車の走行音に遮られたが、まだ太く強く私には聞こえていた。
「あの、どこまで行くんですか?」
「え?」
「このまま行っても、トンネルに当たりますよ?もうその先は、歩道が無くなっちゃうんです。」
「ほお」
「ほお、って…」
「美波さん、やっぱここら辺に詳しいんですね。昔住んでたとか?旅行にでも来た事ありました?」
「詳しいも何も…」
そんな風に婉曲的に聞いていても、きっと浩さんは分かっているのだろう。私は知っていた。それに、詳しいも何も、私はこの街で育った。だからこの海岸通りも、駅からの道も、この先のトンネルも、全てを知っていた。今はもう私の帰る家はここには無い。けれど昔その家はこの海岸通りから山の方へ少し上がった先に存在していたのだった。それは、私と家族が住むのに十分な小さなアパートの一室で、私と、弟と、…あの母親の三人が暮らしていた。彼に比べたら、暮らし向きは相当悲惨なものだっただろう。電気や水道を止められたり、立ち退きや取り立てに怖い大人がやって来たり。でもきっと、そのアパートはもう建て壊しになっている。私が住んでいた頃でさえ老朽化で倒れかけていたのだから。もし残っていても、綺麗さっぱりリフォームでもされているのだろう。もうこの街を出てからは、そんな過去を思い出すような事も無かった。だから、私はそれ以上何も知らなかった。
「私、この街で育ちましたから。」
「え?」
「嘘かもしれませんけど。」
「美波さん、バレバレですよ。ま、変に詮索する気もありませんけど。」
「一応、嬢は素性を明かさないのが掟ですから。」
「一応ね」
「でも、この道も、この海岸も。知ってますよ。何度も歩いたし、遊びに来ましたから。」
「へえ。やっぱり、いいところですよね。ここ。」
「さあ」
「あれ、嫌いですか?美波さんは。」
「今日お誘い頂いた時、何もよりによって茅ケ崎に行かなくてもって。そう思ってました。」
「ふふふ。それは失礼しました。」
ギターケースとTシャツの間を伝っていく汗を感じながら、段々勾配がついてきたアスファルトの道を私は上っていく。すぐ右を見れば小さな黒い磯が真下にあって、太平洋の青く大きな波が護岸に叩きつけるように打ち寄せていた。いつもとは違う、自然の怖さを教えるような強さだ。今日サーフボードで海に繰り出せば、たちまち波にさらわれて一海の塵芥と化すのだろう。そんな日に海に行きたいという人はやはり変わっている。台風の影響はまだこの海に色濃く残っているようだった。
「美波さんは、どんな子どもだったんですか?」
「はい?」
「だから、どんな子ども時代をここで過ごしたんですか?」
「どんなも何も、普通ですよ。普通。」
「普通な人間なんていませんよ。」
「確かに。好例が目の前にいますもんね」
「はい?」
「何でもないです」
「じゃあ、小学校もこの街で?」
「そうかもしれないですね」
「中学、高校も?」
「それも、そうかも」
「それから横浜に出てきたんですか?」
「ま、そういう事になるんじゃないですか」
「ふうん」
「何か、ためになりました?」
「はい。美波さんは、この街で青春を過ごしたんだなあって。」
「青春?」
「ええ。だって学生時代、ここで生きてたんでしょう。何か、画になる街ですよね。自転車で駆ければ首元をくすぐるように海風が吹きそうだし、夕陽が沈むビーチで語ればその二人は結ばれそうだし。」
「随分、詩的な事を仰るんですね。」
「たまには、ね。じゃあ、美波さんの初恋も、この街でした?」
「…はい?」
「だから、初恋。」
「そんなの聞いて、何になるんですか?」
「僕にとっては、大事な話です。美波さんという人間を知るための。」
「覚えてませんよ、そんなの。」
すぐに調子に乗って私を詮索しようとする。彼は下らない話をしながら、どうでも良いような口調で前から私に呼び掛けていた。ギターケースのベルトが左肩に段々食い込んできて、私は彼の質問に少し面倒くさがって返事をしていた。やはり初めて身体に触れるものは、自分に慣れるまで手間と時間が掛かるようだった。
「じゃあ美波さん、彼氏は居ました?」
「いません」
「へえ、意外ですね」
「何でですか。私、そんな男好きに見えます?」
「ちょっとだけ?」
「帰ります?」
「すみません。じゃ、どんな女の子でしたか。今みたいに人から距離を置いて、人の事を信じないで、本当の自分を奥底に隠すような子でしたか?」
「私、そんな風に見えてたんですか。」
「ええ。」
「なら浩さんも、どんな幼少期を…。あ、すみません。聞くのは野暮でしたね。」
「ふふ、良いですよ別に。逆に大した話もありませんから。」
「私からしたら、大した人生だと思いますけど」
「そんなそんな。ただエスカレーターのように人生を進められていただけです。」
「エスカレーター、ですか。」
「ええ。そういえば、ここの近くに、というかもっと静岡の方に行った所に、美木家の別荘がありました。今は祖父母が隠居生活をしていますけど。だから何となくこの街の記憶もあるような気がして。もしかしたら、美波さんとすれ違ってたりしてたかもしれませんね。昔。」
「さあ。どうでしょうね。」
「僕は、あなたの子ども時代が気になってしまいます。どんな人だったのかなって。」
「相変わらず、趣味悪いですね。」
「気色悪いと言われてないだけ、まだマシですかね(笑)」
いつものような笑い声が前から聞こえてきて、それに呼応するように私の頭上でカモメが鳴いていた。何か餌をくれるとでも思っているのか、彼らは二人の上を円を描くように羽ばたいて、海風に乗って漂っていた。
「良いですよね、海の近くって。」
「そうですか?」
「海って、良いじゃないですか。電車とか乗ってても、海が見えた途端にそれまでの疲れが全部吹き飛んだりするでしょう。何でだろう、日本人だからですかね。島国の宿命的な」
「毎日見てたら、飽きますよ。好きな物でも毎日は食べられないみたいに。」
「そっかあ。僕は好きですけどね、海。」
「高潮の日はここら辺の道路封鎖されるし、海風が強い日は自転車に乗ってるだけで髪パサパサになるし、それに湿気がすごいから洗濯物も乾きにくいし。」
「やっぱり詳しいですね」
「まあ、良いことばっかりじゃないですって。」
「へえ、そうなんですね。僕はこういうところ、住んだことが無いからなあ。のどかで自然に溢れていて良いなあと思っちゃいます。」
「それ、遠回しに田舎って言ってますよね。」
「あ、バレました?」
「良いですよ、別に。そんな事で怒るほど、この街にアイデンティティー感じてませんから。」
「…そうですか」
彼はどこに向かっているのだろう。気づけば私たちはトンネルを抜け、歩道の無い車道の隅を身を庇うようにしながら歩いていた。人ひとりが通るのに精一杯な不親切な白線を信じて、真向かいから走ってくる車に目を向けながら緩い坂道を上っていった。浩さんは延々と私に話しかけていた。私の素性を探るかのように、小さな質問を何個も重ねながらその話は続いていった。そして坂道が峠に辿り着いた時、そこは海から遥か高く離れた岸壁だった。下を見れば荒れた波と無機質な岩だけが広がっていて、ここから落ちればひとたまりも無いだろうと私は余計な事を考えた。それでも彼はまだ進んでいった。上り坂が下り坂に変わったその後も、私にギターを背負わせたまま、ただひたすらに車椅子を走らせていた。
「浩さん、どこまで行くつもりですか?このまま行ったら辻堂の方まで行っちゃいますよ。」
「もう、すぐですから」
彼は自信ありげにそう言うと、私の方をちらりと振り向いてまた前を目指した。その緩やかに続く坂道の先に何があるのか、この街で何年も過ごした私でさえそれは知らなかった。
「帰りのタクシーとか、大丈夫ですか。予めああいうのって予約取っておかないといけないんじゃ。」
「大丈夫です。そこは悪しき美木の家のコネというものを使っていますから。電話で呼べば、すぐに来てくれるはずです。」
「良いですね、高いご身分は。」
「もう、僕は落ちぶれてますけどね。あ、それより、帰り一緒に横浜までタクシー乗っていきます?その方が楽でしょう。」
「いや、折角ですけど、お断りします。大学に寄らなくてはいけないので。」
「そうですか。ではまた今度。」
「私は帰りも大人しく電車で帰りますよ。」
「ふふ、分かりましたよ。…あ、美波さん!ほら、ここです!」
「…え…?」
突然彼は叫んだ。まるで何かに大はしゃぎする子どものように、車椅子から身を乗り出して私にそれを指差した。浩さんに促されて視線を送った先には、一面の白い砂浜と水色の海が広がっていた。さっき見かけた紺碧の海とそれはまるで違う。透き通るように底まで見える波打ち際のライトブルーは、海水にソーダ飴が溶けてしまったかのように感じる。きっと奥で繋がっているはずなのに、同じもののはずなのに、入江のように外と中を区切るようにしてそびえる岩々がその碧と青の間に綺麗な線を引いていた。そして白い浜は陽の光を浴びて水晶のようにきらきらと輝いていた。私は、こんな場所がある事を何も知らなかった。本当に息を呑むような、そんな光景だった。
「ここは、知ってました?」
「…いえ…」
「そっか。良かった。」
その波は囁くように静かにたゆたんでいた。ざーっと白い浜をくすぐるように打ち寄せて、そして歌うように消えていく。あの強い波はここには無かった。そして二人は、その浜に続いていくコンクリートのスロープをゆっくりと下りた。浜には誰もおらず、正真正銘のプライベートビーチだった。こんなに綺麗な場所があるのに、誰も気づいていないのだろうか。国道をひた走る車たちは私たちの斜め上を忙しく駆けていく。その騒音も優しい波の音に包まれれば、次第に心地よく聴こえていた。そっと浜辺に足を下ろすと、刹那その細かな砂粒が私の足形をしっかりと白く囲った。どこかの浜で歩いた時よりも、まるで粉雪の上を歩いているかのようにサクサクとその浜は音を立てた。神奈川の片田舎の海とは思えない異世界に私は包まれていた。だから一人、踏み入るようにして、そしてその浜を弾むように歩いていた。
「美波さんー?」
「…」
「あの、美波さん!」
「え、はい」
「すみません、僕、タイヤが砂の上を走れないので、あんまり遠くに行かないでもらえると嬉しいです…」
「あ、はい、すみません。」
気づけば私は浩さんを追い抜かして、一人で勝手に歩いていた。黒くて重いケースを背負ったまま、そんなケースの重さも忘れて、そして浩さんの事も私は忘れてしまっていた。だからふと我に返って、遠目にスロープ下で取り残されている彼を見つけた。子どもみたいにはしゃいでしまった自分を恥ずかしく思いながら、私は彼の元までゆっくりと戻っていった。
「すみません、つい。」
「もう、このままここに置いていかれるかと思いましたよ。」
「ごめんなさい。置いていきませんから。」
浩さんはコンクリートで固められた遊歩道の上で車椅子を海の方に回転させ、私に「それ、降ろしてもらっていいですよ」と声を掛けた。そう言われて初めて、私は茅ヶ崎の駅から背負ってきたギターケースを砂浜の地面に降ろした。今思えば肩が微かに突っ張って、首が少し痛くなっている。普段慣れない物を背負ったせいで、体は多少疲れていた。
「いやー死ぬ前に、ここ、来てみたかったんですよね。」
「え?」
「前に聞いた事があったんです。天国に一番近い場所。」
「天国に、一番近い…?」
「そう。ほら、世の中にそういうの案外沢山あるじゃないですか。カリフォルニアの天国の扉とか、ハワイの天使の海とか。それにニューカレドニア。あれは天国に一番近い島でしたっけ。オーストラリアにはホワイトヘブンビーチっていうのもあるみたいですよ。」
「ああ…」
「日本にも色々あるらしくて。香川の小豆島にはエンジェルロードっていうのがあるとか。まあ、どれも遠くて僕には到底行けない場所にあったんですけど。」
「ええ」
「それで見つけたんです。ここ。まさか神奈川にもこんな所があったとは、僕もちょっと驚きましたけど。」
「私も、です。」
「天使浜っていうらしいです。地元の人とか、そういう秘境マニアの人にしか知られていない場所なんですって。」
「へえ…」
何で天使浜というのか、私には分かった気がした。天使の無垢な白布のような砂浜に、どこまでも透き通った海が目の前に広がる。これを最初に「天使浜」と呼んだ人は、さぞこの光景に胸を打たれたのだろう。天使浜。その名はまるでここが本当に天国だと錯覚させるような、不思議な語感を持っていた。
「一度こういう所、来てみたかったんですよ。天国の内見っていうか。」
「はい?」
「内見ですよ、内見。だって部屋を借りる時も予め中を見学するでしょう。」
「ああ…」
「だから確かめてみたかったんです。自分が逝った先と、そう呼ばれているものが、どれだけかけ離れているのか。それとも丸っきり同じなのか。前までは胡散臭いなあって思ってたんですけどね、こういうの。観光のために下手な名前を付けただけだろうって。でもいざ『自分もそのうち逝くんだよなあ』って思うと、怖くなっちゃうものなんです。心構えっていうか、自分を納得させるための物見遊山というか。こんな綺麗なところだったら後腐れなく向こうでも呑気に暮らせるかなあって。」
「浩さん、」
「もう、悪い冗談じゃないんですよ。僕には分かります。そのうちだって事。自分の身体だから、よく分かるんです。」
「…」
「美波さんも、もう分かっているでしょう。普通人間、こんな肌に点々出ませんからね。カフェオレみたいなドット柄、お洒落なんだか何なんだか。女の子からしたら羨ましかったりします、こういうの。」
「…羨ましい訳無いですよ」
「そうですか。」
天国の内見。彼らしい皮肉だと思った。これが天国だとしたら、彼は心置きなく逝くのだろうか。死は、彼にとっての終着点なのだろうか。彼は、今まで実りある人生を歩んでこれたのだろうか。もう後悔は無いと言えるほど活き活きとした生を全う出来たのだろうか。私の胸の中には色々な問いが浮いては沈み、畳み掛けるように姿を現していった。天国なんて、神奈川の片田舎に瓜二つな訳が無い。もしそうだとしたら神は世界の創造を誤ったに違いない。なら、どんな所なのだろうか。そこへ行ったら、その先はどうなっているのだろうか。先に逝ってしまった人とまた会う事は出来るのだろうか。天国の、向こう側は?この人は、どこへ向かっているのだろうか…。
「美波さん、天国の向こう側には何があるのでしょうか。」
「…?」
彼はソーダ色の海を見つめて、私にそう問いかけた。
「ほら、僕みたいな無神論者が行き着く先は極楽浄土なんでしょうか。それともヘヴンなんですかね。神に救われたりするんですかね。もしそうなれば、もう一度誰かになって…生まれ変われたりとか出来たりするんですかね。」
「…分かりませんよ、そんなの。」
「でも僕が天国に行けるとは限りませんよね。煉獄かも。もしや地獄かも。あー、あんまり善を尽くしてこなかったからなあ。徳も積んでこなかったし。大体一族皆、天国に行けるような所業をしていないし。むしろ国民からは地獄に墜ちろと思われてるんじゃないですかね。ふふ」
「少なくとも私は、思ってないですよ。」
「…そうですか。」
「それに、例えば浄土真宗以外の仏教では、死んだら人は七回裁きを受けるらしいです。」
「裁き?」
「そう。生前の罪を洗いざらい、あの世で七日ごとに裁きを受けて、そして四十九日目に極楽へ行けるかどうか判決が下されるそうですよ。」
「へえ…何だか怖い話だな」
「だから四十九日って言うんです。成仏するまでの。」
「なるほど。」
人は死んでから四十九日まではその行き先を求めて魂が地上を彷徨うと言われている。あくまでそれは仏教の一部の宗派での話だ。けれど、私は何となくその話を信じていた。生まれてこの方仏道に入った事も、何かに入信した事もないけれど、その話だけは信じていた。たとえ死んでしまっても、その間だけは私たちの周りをふわふわと飛んでくれているような気がして、そう信じたかった。それはある意味遺された人々への救いでもあると私は思っていた。
「じゃあ、死んでも四十九日はそこら辺を彷徨ってるかもしれないって事ですね。何かちょっと長いなあ。二ヶ月近くもこの世に居ないといけないのか。この世でもあの世でも、お役所は仕事が遅いんですね。」
「でも、きっと、家族とか友達とか、大切な人にとっては拠り所になるような事でもあるんです…。きっと。まだ近くに居てくれているんだなって思える事が、何よりも心を癒してくれるはずですから。」
私は天使浜を彼の隣で眺めながら、独りでに語っていた。九月に似合わぬ暑さの事も、さっきまで痛かった肩の事も、全て忘れて話していた。
「美波さん、」
「はい?」
「何か…、いえ、やっぱり…何でもないです。」
「?」
「いや、僕が聞くべき事ではないと思ったので。」
「そうですか…」
そう繕いながら、私は彼の優しさに静かに触れていた。今の私の言葉を聞いて、彼はきっとそこに込められた実感を感じ取ったはずだ。何か過去を回想しながら話している事に気づいたはずだ。頭の良いこの人の事だから、それを見逃す訳が無い。でも、彼は触れようとしなかった。触れるのを止めた。もしかしたら、前だったら触れていたかもしれない。ここぞとばかりにしたり顔で「美波さん、そういうご経験が?」と不躾に聞いてきたかもしれない。それでも触れようとしなかったのはきっと、彼の諦念であり、また静観であった。そこで触れても、もう何にもならないと彼には分かっていたのだ。
「幽霊になっても、また会いに来てくれますか?」
「はい?」
「僕が行き先を彷徨っている間、また相手をしてくれますか。」
「相手って…。大体、魂と幽霊はきっと違いますよ。成仏出来なかったのが幽霊でしょう。浩さん、まだこの世にそんな未練があるんですか。」
「おう…鋭い正論ですね。」
「ご容赦ください」
「でも、何か淋しそうじゃないですか。独りこの世を二か月もふらふらしている間。」
「確かに、そうかも。」
「だから、どうぞお相手を。カンニングとかのお手伝いとかしましょうか、それとも欲しい物とかあったら万引きしてきますよ。あ、裁きを受けている間に罪を犯しては、執行猶予取り消しってやつですね。そりゃまずいか。」
「良いですよ、そんなの。私、困ってませんから。」
自分で言ったことを当たり前のように自分で笑って、そしてその笑いに混じりながら浩さんは時折咳込んだ。横浜からここまで、福祉タクシーをチャーターしてやって来たのだという。一時間以上は間違いなくかかるであろうその道のりをこの人はわざわざ辿ってきたのだった。私を呼び寄せてまで。
この人の瞳には、今何が映っているのだろう。彼が見たかった天国の姿はその心象と相違なかったのだろうか。その様を見て安心できたのだろうか。死ぬ前に、最後、もう二度と。自ずと彼の死期を定めてしまっている自分に気づいたのは、そう彼と話している時だった。誰の死も願わなかったはずなのに、それを当然のことのように受け入れようとしている自分自身に、私は冷ややかな視線を送った。慣れ、なのか。彼と同じ諦め、なのか。人の浅はかさに私は悶えるしかなかった。何もかも、全て、人は忘れてしまう。覚えておかなければならないことも、全て。
「幽霊と言えば、最初…美波さん逃げ出しましたよね。まるでエイリアンに遭遇したかのように。」
「え?」
「ほら、覚えてませんか。春、僕の部屋に最初に来てくれた時のこと。」
「ああ…」
唐突に何を言い出すのかと思うと、彼は私が彼の部屋を訪れた春の日の事を話し始めた。それがどんな文脈で何と繋がっているのか私には分からなかったけれど、私は静かに彼の話を聞いていた。
「そう、切り裂きジャック、でしたっけ。マンションの一室に謎の男に呼び出されて、いたぶられた末に殺されるんじゃないかって想像して。」
「それ、だいぶ脚色入ってませんか」
「そうでしたっけ。切り裂きジャックって言われた時のこと、忘れませんよ。この人は一体何を言ってるんだろうって、もう本当に面白かったんだから。変な人が来ちゃったのかなって逆にこっちが心配でした。」
「変な人、って酷くないですか」
「すみません、でもそう思ったんですよ。僕も。まあ、緊張してましたからね。拒絶されたらどうしようって。」
「…はい?」
「だってあんなベッドに寝たきりで、今にも死にそうな男がいきなり現れたら、誰でも避けようとするでしょう。まあ当たり前なんですけど、自分の身を守るための正当防衛で。」
「まあ…」
「拒絶されるのが、怖かったんです。」
「?」
「僕は、拒まれるのがすごく怖かった。」
浩さんはゆっくりと顔を私の方へ向けた。その動作は今までよりもかなり緩慢で、まるで錆びついた機械のようにかくかくと関節を動かすようにして体勢を変えていた。私はその隣に腰を下ろした。高いところから降り注ぐ日光のせいで、座った先のコンクリートは溶岩のように熱くなっていた。それでもデニムがじりじりと焼かれるのを感じながら、私は彼の横に座っていた。
「怖く、ないですか?」
「え…」
「僕は、怖いです。拒まれる事が。この世の何よりも、もしかしたら死ぬことよりも。僕は怖かった。」
「…」
「誰かに愛されることって、奇跡みたいなものだなって思うんです。誰かがかけがえのない愛情を自分に注いでくれるなんて、そんな上手い話そうそう無いって。」
「奇跡、ですか…」
「僕、奇跡って言葉嫌いなんですけどね。皆、奇跡奇跡って使いがちじゃないですか。でも、愛は奇跡だと思ってます。無条件の愛は、なおさら。」
「…」
「何となく分かってると思いますけど、僕は両親から愛されない人生を送ってきました。もしかしたら、愛されてはいたのかもしれないけど…僕はその愛を感じなかった。まあ、単純ですよね。自分に逆らったり歯向かう人間に、どうやったら無条件の愛を注げるのかっていう話なんです。当然、僕は幼少の頃から兄貴たちと比べられ…家柄が決めた道を行くように躾けられ…そうしなければ愛を与えられなかった。」
「…」
「だからかな。ちょっと歪んじゃったんですよ、性格。人を伺うというか、疑うというか。人間というものを信じられなくなった。一番頼りたかった親に…拒絶されたんです。拠り所になるはずだった彼らに、拒まれ、蔑まれ、嫌われ、挙句の果てに捨てられた。まあ、そんな感じになったら…誰でもそうなると思います。信じられませんよね…人間なんて。」
「…」
「こんな一人語り、痛い奴ですよね。でも…これが本当の自分です。僕は、愛を買いました。」
「?」
「正確には、愛を買おうとしました。」
彼は私の目を真っ直ぐ見据えて、こう言った。
「あなたがここに居る理由は、それです。」
「…」
「最初に『人間に見えますか?』って美波さんに聞いたのは、自分を愛しうる人間かどうか怖かったからです。せめて人だと思ってくれたら、自分に思いやりとか、そういう温かなものを注いでくれるのではと思ったからです。」
「…」
「すみませんでした。会って間もなく、そんな失礼な事を。お許しください。」
「でも…」
「大丈夫です。同情も、労いも、何も要りません。僕は自分の死期を認めて、あがこうとしました。最後に愛されてみたいって安直に思いました。もし誰かに愛されてみたら、この世も捨てたもんじゃなかったなって思えるかもしれない。そう思ったまま逝けるかもしれないって。…馬鹿みたいですよね。ていうか、馬鹿だと思います。自分の不安と悔恨を慰めるために、あなたを呼びました。それでも何か見透かされるのが怖いから、剥がされて自分の弱さに気付かれるのが怖いから強がって、偉ぶって、こき使うようにして。…すみません。」
「浩さん、」
「弱い人間なんです! …本当は。勉強だって、兄貴と比べられるのが怖いから、両親に見限られるのが怖いから取り憑かれるように頑張って。天才なんかじゃ…無いんです。まるで愛を試すように歯向かって生物学の道に進んで。僕なんかよりもよっぽど、同期や研究室の奴らの方が優秀です。彼らは純粋に…学問を志している。僕みたいな不健全な理由で営んでいない!」
「浩さん、身体に、」
「良いんです!もう、死ぬんだから!良いんです!どうなっても。…もう、良いんです…。良いんですよ…。」
「だから!」
「もう、僕のことはどうでも良いんです!」
彼は私の手を振り払うようにして叫んだ。それはあの日母親に見せていたのとは違う表情で、きっとこの人の本当の姿だった。彼は、大粒の涙をその額に流していた。細くなった喉から金切るように声を上げて泣き叫んでいた。私は車椅子から倒れかけるようにしたその身体を押さえた。それしか出来なかった。一面の海と天井の無い空に、虚しく彼の心の声が響いていた。
「浩さん、身体に負担がかかりますよ。一度、落ち着いて」
「うっ…」
「深呼吸、しましょう。ね」
「…うっ」
「息を、吸って」
「す…」
「吐いて…」
「はあ…」
「大丈夫ですか、落ち着いてきましたか…?」
「烏丸…」
「え」
「……烏丸って奴がいるんですよ。」
「あ、ああ…」
「…僕の同期にね…。彼はね、僕と比べれば茨の道を歩んできました…」
「…」
「でも今、猛烈な努力の末に…彼の研究が結実しようとしているんです…。…素直に凄いなって思いました…。それを風の便りで聞いた時…悔しかったです。…もう一回、あったらなって。」
「?」
「もう一回、生きられたら、もっと…正しい道を僕は生きたい…」
「…正しい、道?」
「そう…」
「…」
「誰かの為に生きるんじゃなくて…、自分の為に生きる人生を歩んでみたい…」
「…」
「戯言ですけど…そう思います…」
「…」
「すみません、もう大丈夫ですから」
「…きっと、そうなりますよ。」
「…?」
「何も、確証は無いですけど…きっとそうなりますから。」
私は考えるよりも先にそう言っていた。何の根拠も無い非科学を彼の前で唱えていた。まるでおまじないのような言葉は、彼の心よりも私の心に深く染み渡っていた。そうしたら自分が浮かばれるような錯覚に魅せられて、でも私はそう信じたかった。私だって、信じたかった。
「美波さん…、」
「はい…?」
「今はもう…人として見てくれていますか…?」
「…」
私の愛は、この人に買われたのだ…。本当は何も愛を知らない私の愛を求めて、この人は生きようとした。それが全てだった。淋しい話だと思った。偽りの愛を夢見て、それで良いと諦めて、この人は私を呼んだ。それ以上でもそれ以下でも無かった。私の身体を求めた訳じゃない。何か快感を得るために私を必要としたのではない。もっと複雑で、難しい感情を私に求めていた。もし、「いいえ」と答えたら。それは彼にとって何を意味するのか、私は分かっていたはずだった。そしてもうその答えが「いいえ」でない事を私は…知っていた。彼を人として見て、彼の温もりを肌で感じて、それで自分の中に取り戻して。そうする事でこの数か月を生きていられたことを私は知っていた。彼から貰ったものは沢山あった。私は、彼を拒むつもりはなかった。私も拒まれる事の怖さを分かっていたから。だから…私は彼の手をそっと握った。鳥の脚のように長く細くなった彼の左手を包むようにして、小指からゆっくりと握っていった。温かかった。彼の手は、狂おしいほどに温かかった。まだ生きているのだと、その血がそこに通っているのだと確かに示すかのように温かかった。彼は、生きていた。まだ生きようとしていた。私はその温もりを肌に刻んだ。もう忘れたくないと、その体温と質感も全て肌で覚えようとした。
「…はい」
「…?」
「あなたは、私にとって人に見えています。しっかりと…まだ私の中で生きています。」
「…」
「だから、もう少しだけ。」
「?」
「…あなたの傍に、居させてください。」
「……」
誰かに拒まれることは、怖いことだ。それが愛を拒まれたとしたら。その怖さは、そうされたその人にしか分からない。私は、拒みたくなかった。この人を拒絶したくなかった。もう、この人を独りにさせたくなかった。誰かが最期まで独りで生きていく姿など、もう見たくなかった。
「…だから…だと言って…天使になって…」
「…?」
「…そして笑って…もう一度…」
ぼんやりとした眼で海を見つめながら、浩さんが口ずさみ始めたのは何かの歌だった。歌というには小さな声で、掠れそうな歌声で呟くように歌っていた。どこかで、聴いた事がある。それは夏の海の曲で、有名な五人組のロックバンドが歌っているものだった。音楽に疎い私でもサビの旋律は覚えているほど慣れ親しまれた、茅ケ崎の海の曲だった。
「…せつない胸に波音が打ち寄せる…ですか…?」
「…あれ」
「?」
「美波さんも…知ってます?…サザン」
「まあ…。地元の大スター、ですからね。」
「あ、そっか…」
そのバンドのボーカルは、この茅ヶ崎の出身だった。サザンオールスターズの、波乗りジョニー。この曲は彼が東京の大学に通う電車の中で思いついたものだと、昔どこかで聞いた。そんな歌を何故ふと浩さんが口ずさみ始めたのか、それは私には分からなかった。でも、切なく沈みかけた空気が少しずつ彩りを取り戻していった。彼のギターは私の左横に寝そべって、わざわざ私が運んできた意味もなさずに静かにしている。落ち着いた静謐な雰囲気を壊さぬようにと私も黙っていた。
「…美波さん、暗い顔してたから…」
「だから、サザンですか?」
「はい。この曲、元気が出るでしょう…?」
「…そうですね。」
「好きなんですよね…。サザン」
「へえ…意外です。」
「え…?」
「何か、そういうロックとかじゃなくて、クラシックとかジャズとか嗜みそうだから。」
「クラシック…か…。美波さん、僕はそんな誰かみたいに堅苦しい人間じゃありませんよ…。」
「だから、意外です。」
「まあ…ジャズは、ちょっと好きだけど。」
「やっぱり。」
「でも、ロックも良いじゃないですか…。心が弾んで。」
「私はあんまり、知りません。」
音楽はその人の人となりを表す。偏見みたいに「お金持ちだったらクラシックかな」と思っていた自分を戒めながら、私は彼の好きなものの話を聞いていた。水羊羹に、チューペットに、エピジェネティクスに、サザンオールスターズ。ああ、本当に好きなのは水羊羹とサザンだけかもしれない。けれど、その人の好きなものはその人の事を教えてくれる。もう何度も会っているはずなのに、サザンの事を嬉し気に語り始めた彼が、私には新鮮に見えていた。
「美波さん、そのギター、取り出して…くれませんか。」
「え、これですか…?」
「はい」
彼はそこで、初めてギターの事に触れた。彼がギターを弾けるという事もまた初めて知った事だった。熱せられて熱くなった黒い大きなケースの端からジッパーを縦に解いていくと、その中から年季の入ったアコースティックギターが現れた。それはところどころ傷がついていて、一目見ただけで彼がきっと大事にしてきたのだろうという事が伝わってきた。
「これも、最期にやりたかったことです。」
「…」
「美波さん、弾けます?」
「は」
「何か、楽器とかやってました…?」
「いや、私はそういうのは…」
「そっか…。良いですよ、音楽。音楽があるだけで、人生がちょっとバージョンアップしたみたいに…変わって見える。」
「へえ…」
「…そう。辛いことがあっても、嫌なことがあっても、音楽は癒してくれますから…。」
「癒し、ですか…?」
「うん。癒し。愛、みたいなもの…ですかね。自分を包み込んで、何にも無しにしてくれる…。またゼロに戻してくれるんです…。」
「ふうん」
「取って」と彼に言われて、私はギターのネックを右手で掴んだ。片手で持つには少し重いそれは、弦に触れた途端低くて疎らな音を立てた。ああギターってこんな音だったのかと思いながら彼にそれを渡そうとすると、「ああ…やっぱ、持てるかな…。」と彼は弱音を吐いた。けれどそれは本当だった。このギターを両手で抱えられるほどの力がこの人に残っているようには私には見えなかった。だから私は「支えて、ますから。」と彼の下からそのギターの胴を持つようにして、車椅子のすぐ脇に身体を移した。しゃがむような体勢で震える足を感じながら、彼がそのコードにそっと手を伸ばす瞬間を私は静かに眺めていた。
「下手でも、笑わないでくださいよ…」
「笑いませんよ…」
「…」
すっと息を吸う音が聞こえた。引いては寄せる波音が一瞬止まったようになって、目の前の水色が一段と瞳に映えた。
「青い渚を走り…恋の季節がやってくる…夢と希望の大空に…君が待っている…
熱い放射にまみれ…濡れた身体にキッスして…同じ波はもう来ない…逃がしたくない…
君を守ってやるよと…神に誓った夜なのに…弱気な性と裏腹なままに…身体疼いてる…
だから好きだと言って…天使になって…そして笑って…もう一度…
せつない胸に波音が打ちよせる…
いつか君をさらって…彼氏になって…口づけ合って…愛まかせ…
終わりなき夏の誘惑に…人は彷徨う…恋は陽炎…嗚呼…蘇る…」
彼が歌っている間、私は彼が弾くギターを支えながらそのか細い歌声を耳にしかと刻んでいた。頼りなさげにぶらりと垂れ下がった腕とその手は、太い弦を前にしてむしろ弾かれるように跳ね返っていた。けれどそのギターは確かに、コードを一つずつ捉えてメロディーに厚みを加えた。彼の歌声に重なるように、調和するように音を
紡いでいた。
「浩さん…案外歌上手いですね」
「そう?」
「はい。」
「人前でこんな歌ったこと、そういえば無かったかも…」
「へえ」
「美波さんも、弾いてみます…?」
「は」
「ギター」
「…は?」
「ほら…どうぞ」
突然の提案に狼狽えながら、私はそのまま手にギターを乗せられて、しゃがんだ身体にずしんと重みを受け取った。ギターなんて触れたことも弾いたこともない。それでも彼はもう私に弾かせるつもりしかないようだった。
「ここと、ここを押さえて…。これで、Cです。」
「へえ」
彼に教えられた通りにフレットを押さえ、右手で胴の辺りを流すように弾いた。するとどこか落ち着くようなダーンという音が響いて、「ああ、ギターみたいだな」と素人ながらに音楽を知った気になった。これが和音のコードというやつなのだろうか。私はコンクリートの上にまた腰を下ろして、彼のギターをまるで自分のもののように抱えていた。
「次は、ConB ここと…ここを押さえて。」
「はい…」
「もう少し、上かな…。」
「こうですか?」
「そう。」
「それで…次はAm7か…。少し指を移動して、ここ。」
「なるほど。」
「鳴らしてみたら、多分合ってると…」
「ああ…これで良いですか?」
「ちょっと指を直して、これで良いです。」
「はあ」
「最後はEm7、ほとんど変わりません。この指でこの弦を押さえて。」
「はい。」
「そう。それでOKです。じゃあ四つ、繋げてみてください。」
「え、もう覚えてませんけど…」
「じゃあ僕が、指添えますから。」
そう言うと浩さんは左腕を私の後ろから伸ばして、肩のすぐ横からネックを支えるようにした。車椅子から身を少し乗り出すようにしながら、彼は私の指を正しい位置にそっと戻した。彼の肌と私の肌はぴたと着いていた。
「最初から、鳴らしてみてください。」
「はい…」
私が最初のコードを鳴らすと、それは下手に聞こえた。彼がさっきまで弾いていた音色とは何かが違う。芯が抜けたように空疎な音が二人だけの天使浜に響いた。
「こう、でしたっけ。」
「そうです。上手ですよ。」
「ありがとう、ございます」
指をどこに置くのか、弦はどうやって弾くのか、ギターに初めて触れる人間にとっては全てが未知で、むしろ面白かった。私がそうやっても何とか音を出せていたのは彼のおかげだった。私の指に、彼の指が触れている。まだおぼつかずフレットの上を彷徨う指を誘うようにして、彼は正しい位置に私を導いた。すー、すーと彼の呼気を背に感じる。彼の息遣いがそこにあった。私の胸もその吸って吐いてに合わせるように上下する。そして彼は歌った。私の下手なギターを咎める事なく、私の弾くままに低く細い声でまたあの歌を歌っていた。
「うん、いい感じですよ」
「そうですか…?」
「ええ。初めてにしては。」
「先生の教え方が良かったからじゃないですか。」
「ふふ、照れますね。」
「冗談です。」
「あ、やられましたね…。じゃあ美波さんも、最初にしてはまずまずです。」
「まずまずって」
「まずまずは、まずまずです」
「下手でどうもすみませんでした。これ、もう仕舞っていいですか?」
「もう、終わりですか」
「まだ、弾かれます?ていうか、何でわざわざこんな所にギターなんて持ってきたんですか。重いし、かさばるのに。」
「ああ…。何か、してみたかったんですよ。」
「え?」
「綺麗な海の前で、思い切り好きなようにギターを鳴らしてみるっていうことが。」
「へえ」
「じゃ、一思いに歌ったし、お終いにしますかね。」
「はい」
彼は言葉通り何フレーズかを歌ってもう気が済んだのか、私の背中から回していた腕をゆっくりと戻して、ギターが入っていたケースをそっと指差した。彼の手を離れたギターはまた私の手にずしりと沈んで、その重みを感じさせる。傍らに置いた黒いギターケースは、日光を全面に吸収して触れるだけでじりじりと熱くなっていた。海風がそよいでいるから暑くは感じなかったけれど、台風が行ってしまった後の海は照り返しもギラギラと刺すようだ。ここが天国と言われる所以は何なのだろうとギターを丁寧に仕舞いながら私は考えていた。純白の浜に、外海と隔てられたエメラルドグリーンの海。私はまるでソーダの色だと思った。私にとっての水色が、そこにはあった。
「やっぱり、コード進行が良いですよね…」
「?」
「うん。サザンは何を書いても、全部が名曲なんです。」
「へえ…」
「美波さんは、好きな歌手とかそういうの無いんですか?」
「好きな、歌手ですか…?いや…」
「へえ。珍しいですね。あんまり音楽とか、聴いてこなかったとか?」
「まあ。…弟は、すごくそういうの詳しかったんですけど。」
「弟さん?」
「はい。ゲームとか、ボカロとか、そういうサブカルチャーに精通してたので。あれが良いとかこれが良いとかって薦められましたけどね。」
「お、面白そうな男子ですね。良いじゃないですか、健全で。」
「健全ですかね。弟が二次元のキャラでシてたの見ちゃった時は、コイツ馬鹿なのかなって思いましたけど。」
「え、それってつまり…、そういう事ですか…?」
「そういう事ですよ。」
「うわ、男の沽券に関わるやつだ…。最悪ですね、美波さん。そういうのは見ても見なかったことにしないと。」
「もう良いですよ、この話。じゃあ、私のターンです。」
「ターン?」
「はい」
弟の変な思い出のせいで変な空気になりかけた事を呪いながら、私は会話の主導権を無理矢理握ろうとした。ここで例えば「浩さんも、そういう経験あったんですか?」とでも聞いてみれば、少しは嬢らしくなったのかもしれない。大人の話とフェロモンで性愛を売るのが私の仕事だった。の、はずだった。なのに今私は横浜から離れた海に居て、お客さんのギターを携えている。よく考えたら不思議な感覚だ。あの日寝たきりの状態だったこの人を見て、その気味悪さとトラウマに逃げ出して、それで嫌味な彼をあしらっていた私が何故、彼の手を握り、彼にもう少しと…願ったのか。私の貞操観念が赤ちゃん返りをしてしまったような、そんな気がした。大人に早くなりたいと思っていたなりかけの私の欲と身体が何処に往ってしまったのか。私は、何処に…。
「浩さんは、何でサザン、好きなんですか。」
「え」
「たまには私から質問しても良いじゃないですか。」
「ああ。」
「で、何でですか?」
「…うーん…カッコいいし、元気出るし、良いから、ですかね。」
「なるほど。」
「美波さんは、サザン嫌いでした?」
「いや…、好きとか嫌いとかそういうのは…。まあ、何かエロティックなバンドだなあって思ってましたけど。」
「ふふ、確かに。そういう歌も有るには有りますけどね。」
「だからそれ以上でもそれ以下でもありませんよ。」
「僕はそういうのも含めて好きですよ。だって人間、性は切っても切り離せないものだから。」
「?」
「生まれたという事は、誰かが交わったという事。誰かを好きになるという事は、誰かの子孫を残したいと思えるという事。だから愛だの恋だの綺麗な言葉に収めないで、エロチシズムも含めて生き様を歌ってるのが、僕は良いなあと思うんです。」
「…へえ」
「美波さんの考え方はきっと違うと思いますけど。僕は、そうです。」
「私の考えなんて、透視でも出来ない限り分からないんじゃないですか。」
「確かに。」
「きっと、見えませんけどね。私の心の中は。」
「そんなつれない事、言わないでくださいよ。悲しいじゃないですか。」
「すみません。」
「まだ、他にも聞きたい事、ありますか?今なら、何でも答えますから。」
「何でもって…」
「さあ、どうぞ」
いきなり何かを聞けと言われても、良い質問はすぐには浮かばない。本当に、彼は偽りなく何でも答えてくれるのだろうか。まだ彼を疑おうとする自分がいる。一度拒まれた人間は、そう簡単に人を信じない。その傷は深く心に刻まれるのだから。
「…じゃあ、愛を売るって、何ですか?」
「え?」
「言ったじゃないですか、この間。…私に、愛を売ってくださいって。」
「ああ…」
「その…シて欲しいって…事ですか?」
「…」
私がそう問い掛けると、彼は黙っていた。我ながら不躾なことを聞いたと思った。
「…そういう事じゃ、ありませんよ。前にも言ったでしょう?」
「はい?」
「僕にはもうそんな気力も精力も残っていませんから。それに、本番はダメだって言ったの、美波さんじゃないですか。もう忘れちゃったんですか?」
「ああ…」
「ふふ、美波さん案外、自分の言ったこととか覚えてないんですね。もっと周到そうだなって思ってましたけど。」
「いや…」
「僕がサザンを好きなのは、きっと父親の影響です。」
「…何の、話ですか…?」
「あの親父、根っからのサザンファンなんですよ。選挙区もここら辺だし。何回かメンバーに会った事があるって自慢してました。ま、政治家のコネと社交は侮れないってとこですよね。」
「はあ…」
「皮肉ですよね。音楽とか、そういうのって親が聴いてたものの影響を子どももモロに受けちゃったりするんです。」
「…」
「ほらよくあるでしょう、タイトルも歌い手も分からないけど、小さい時に車の中でかかっていた音楽は大人になっても忘れられないって。それをふと耳にすれば、その時の情景が目の前にぱっと浮かんでセンチメンタリズムを引き起こす。人って、そういう記憶の仕組みになってるみたいですよ。学部の頃、心理学をやっていた彼女が言ってました。音と匂い、そして味は他のどんな事よりも人の記憶に残るんだって。」
「…」
「あ、安心してください。もうその彼女とはとっくの昔に別れてますし、向こうはただ僕の余裕に惹かれただけの人間でしたから。」
「いや…」
「ふふ、どうでも良いですよね。すみません。でも今の話は本当です。音のことも、匂いのことも、味のことも。逆に言えば、僕たちが見ているものって死ぬ頃にはきっとほんの数パーセントしか覚えていないんですよ。毎日色々なものに囲まれて、ある日は夕陽を見て感動したり、またある日は満月を見て『月が綺麗だね』なんて言ってみるのに。だから多分、僕が逝く頃にはこの浜の姿はもう忘れてしまっているんでしょうね。残念、本当の天国と瓜二つか確かめたかったのに。」
「…」
「味も、僕はよく覚えています。」
「え?」
「ほら、前に買ってきてもらったでしょう。流花堂の水羊羹。それに、チューペット。」
「ああ…」
「あれも、親父の大好物でした。チューペットは、母親が貧乏くさいと言いながら、ねだる僕にたまに買い与えてくれました。」
「そう、だったんですか…」
「美味しかったでしょう?…って、水羊羹は美波さん食べなかったんでしたっけ。もったい無いなあ。あれは色々な思い出やバイアスを抜きにしても本当に美味しいのに。」
「でも、チューペットは覚えてますよ。」
「ああ。…美波さん、話してましたよね。水色のチューペットは思い出の味だって。さっきの弟さんと取り合ってたって。」
「…ああ、そういえば…そうでしたね。」
「だから、美波さんの中にもしっかりその味が刻まれてるんですよ。過去の記憶として。」
「…」
「また、僕の頭を撫でてくれませんか?」
「…え」
「愛を売ってくださいっていうのは、こういう事です。」
そう言って浩さんは私の右手を取るように左腕を伸ばし、その手でそっと掌を包んだ。
「肌の記憶っていうのは、すぐに忘れてしまうみたいです。」
そして彼は私の手を彼の頭の上にそっと導いた。
「昔、一度だけ、親父に頭を撫でられたことがあるんです。本当に一度だけでしたけど。」
「一度だけ…」
「はい。何でかは全く覚えていないんです。水羊羹も、サザンもよく覚えているのに、それだけはよく思い出せなくて。でも確かに、そこに愛があったのかもなあ…って。それだけを信じて、今まで生きてきたようなものですから。ほら、淋しいでしょう。」
「淋しい?」
「そう。美波さんも、うちのお袋に言ってたじゃないですか。淋しい人だって。正しいです。あなたの言っている事は、正しいです。だって、そうですから。」
「…すみません。」
「でも今は、美波さんの温もりを感じます。あなたがここに居て、その身体の温かさを感じます。きっとそのうち、分からなくなってしまうのだろうけど、今はまだ、感じます。感じていますから。だからもう、淋しいなんて言わないでください。」
「浩さん、」
「美波さんも、自分の事を卑下しないでください。淋しいなんて思わないでください。」
「…」
「あなたは、独りじゃないんだから。」
彼はそう言ったまま、何度か私の手を自分の頭の上で撫でるようにした。彼の頭はその細い首が何とか支えていた。彼の言葉が、この手に込められているような気がした。彼のその手が私にゆっくりと、そしてしっかりと私に伝えていた。私を案じていた。
「…」
彼はゆっくりと私の右手を彼の頭から離して、指を一つずつ解いていくように元の場所に戻した。彼の頭は相変わらずの天然パーマで、ふわふわとしたその髪を押さえてしまうように私は彼の頭に触れていた。その頭から手が離れても、その感触は私の手のひらに残っていた。確かに、残っていた。
「…さあ、帰りましょう?」
「…はい。」
私は促されて、彼のギターをまた背負った。その表面はもう焼けるように熱くなっていて私はその熱を背中で感じながら、前で坂道を上っていく浩さんを眺めていた。電動の車椅子はモーターを唸らせながら力強く勾配のある坂を走っていく。その姿を後ろから見ていた私も遅れないようにとスニーカーで一歩一歩砂を踏んだ。私はきっと、彼と同じだと思った。愛を求めて愛を買おうとした彼と何も変わらないのだと知っていた。だから…私は彼の傍に居たいと思った。
「そんなに先に、行かないでください。」
「…え?」
「急がなくても、いいじゃないですか。」
「何の、ことですか?」
「全部です。」
「全部…?」
「…はい。」
「心配しないでください。」
「?」
「美波さんを置いてけぼりにするつもりは…ありませんよ。」
「…」
「その時が、来るまでは。」
私はまた、きっと忘れてしまうのだろう。あの子のように。今日見たこの海のことも、砂浜のことも。いつか全て忘れてしまうのだろう。あの日食べたチューペットのことも、今日聞いたあのギターと歌声も、忘れてしまうのかもしれない。それが、今は怖かった。また誰かが自分の前からこっそりと居なくなってしまうことが、私は怖かった。
「ちなみに、今日の分はちゃんと延長分頂きますからね。」
「え、サービスじゃないんですか」
「まさか。ちゃんと徴収しないと店長に絞られちゃいますから。」
「うわー、それは困りますね。安心してください、あとでしっかりお支払いしますから。」
「ありがとうございます。」
私と浩さんはまた国道に出て、車が行き交う道を歩いた。今度は自分の後ろから、何かを追い立てるようにしてバイクやトラックが駆けて行った。でも、もう身体を縮こまらせることはなかった。何かに支えられたように堂々として、白線を半分跨ぎながら私は歩いた。それは強がりでもあった。誰かと同じで弱い自分の虚栄でもあった。そうでもしないと負けてしまうと思ったから…。茅ヶ崎の駅は遠かった。トンネルを抜けて、見慣れた護岸沿いを歩いてもそれは雑貨屋街には繋がらなかった。いつまでも、駅には辿り着かなかった。
そうなればいいと、私は思っていた。
13章
水色のワンピースを着て、私は階段教室に入った。それは少し自分らしくない。いつもは地味で目立たないような格好を心掛けているのに、もうとうに夏を過ぎたその日、私は大学にもそれを着て講義に出ていた。秋になれば海風も冷たくなり、そのうち冬がやって来る事を予感させる。それなのに数センチだけ外に晒された素足が、罰せられるようにその寒さを凍みて感じ取っていた。
「えー、夏休み前に課していたレポートは、採点が全て終了しました。今回は秋学期当初の講義にあたる訳ですが、まあ最初から飛ばしていても皆さんも私も疲れてしまうと思うので、今日は春学期に扱った哲学・思想を振り返りながら、これから何をやっていくのかを説明するイントロダクションにしたいと思います。」
「…」
「まあ、この様に受講者の顔ぶれがあまり変わらないので、そんなに説明を尽くす必要があるのかと言われたら、それもその通りなんですけどね。」
春学期と同じ教室の教壇で、また変わらぬ非常勤講師が受講生に向かって話していた。その額をぽりぽりと掻いている先には数人の学生がいる。春学期でさえその数は次第に減っていったのに、今学期初めに教室に来ていたのは哲学専攻の数名と、春学期にも真面目に毎回受講していた少しの学生だけだった。こんな大教室を押さえなくても小教室で事足りるほどその数は少ない。そんな光景を目の当たりにしながら、講師は心なしか淋しげにしているように私には見えた。
「今学期は先に出欠を取るようにしましょうかね。顔と名前を一致させた方が良いでしょうし。これだけ少なかったら。」
「…」
「ええと、じゃあ、哲学専攻の雛形さん。居ますか?…ああ、はい。居ますね。次は…同じく哲学の、木島くん。…うーんと、木島くん。彼はどうやら居ないようですね。」
そのまま出欠を取り進めて、結局講師はぬるっと講義に入っていった。「最初から飛ばしていたら疲れるから」と言っていたのに、その言葉をまるで忘れてしまったのか。彼は真面目に教科書を読み下していき、その九十分はいつものように進んでいった。私はまた、階段教室の一番上からそれを眺めていた。メンバーが少し変わって、無駄話をする男子たちも内職をする女子たちも居なくなっている。だからかどこか心地良かった。それで真面目に授業に取り組む訳では無かったけれど、居心地は確実に前よりも良かった。
「ああ…、もうこんな時間ですか。この章を全て終わらせるのは無理そうですね。」
「…」
「はい、では今日はこれで終わりにします。出席代わりのミニレポートを課しますから、今日から一週間後までに提出をしておいてください。提出場所はいつも通り文学部棟三階の教官室です。部屋番号は、305ですから。」
「…」
この講師は今の時代になぜか、抗うように紙のレポートを課していた。この大学でもメール提出を求める教授がほとんどなのに古臭く紙を好き好んだ。間違ったら消すのが面倒なペーパーレポートにこだわる理由が私にはよく分からない。けれど頑なにそれを貫こうとするのだから、卒業単位に関わる私は素直にそれに従う他無かった。
「あ、忘れかけていました。春学期の最終レポートの返却をします。」
「あー」
「評価については表紙に五段階で書いています。秀、優、良、可、不可です。可以上は合格ですから、まあどうであれ気落ちしないでください。」
チャイムが鳴り終わった後に、講師はまた思い出したようにレポートを返し始めた。それは夏休み前に課されていた、半ば修了試験と同じものだ。テーマは……「死」について。それは私が何度も考え、書き直し、そして締切ギリギリに提出したものだった。
「はい…、えーまた名前を呼びますから、前に来て受け取ってから帰ってくださいね。」
そう言うと講師は順番に学生の名前を呼んでいった。けれど、呼んでも居ない人間が多い、というか最終的にそのレポートを受け取ったのは私と一番前にずっと座っている眼鏡の男子だけだった。私は自分の名前が呼ばれた後に気だるく階段の一番上から一番下へと降りていった。その一段一段が下手に高いから、裾を踏んで転ばないようにしながら慎重に降りる。もう教室には私と、私の直前に呼ばれた男子と講師しか残っていなかった。教壇の前で待っていると、その男子の表紙がふと見えた。そこには「優」と書いてあって、彼が容易くこの単位を取っていったのを私は認めた。
「…はい、これね。」
そして後ろに立っていた私にもレポートが渡された。真面目に頑張って書いたわりにはA4数枚のペラにしかならなかったそれは私と講師の手を渡って皺だらけになっている。けれど、そのしわしわになった表紙の上に書いてあった文字は意外なものだった。その表紙には、「秀」と書いてあった。
「よく、書けていましたよ。」
「…はい?」
この大学に入学して三年、初めて見た一文字だった。よくても優。良と可ばかりが並んだ成績表を見慣れていた私にとって、これは青天の霹靂というやつだ。
「非常に文章に説得力があって、また様々な思想をきちんと区別し批判的に指摘しながら、含蓄に富んだレポートに仕上げられています。」
「ああ…、ありがとうございます。」
「上出来でした」
あまり慣れない褒め言葉が私には奇妙な感じだった。私はそんな褒められるようなものを書いたつもりはない。ただ思うままに、自分なりの考えと思想を何となくの型に当てはめて書いただけだった。だからその後の講師の言葉も併せて、私は過剰に評価されたのではないかと自分を疑った。
「この後…、少し時間はありますか?」
「…はい?」
「一度、お話ししてみたかったんです。」
「…?」
「不真面目な学生のように一番上に座って、そっぽを向いていながら、こんな芯の強いレポートを書いてくるあなたと。」
「…」
私はそう言われて、最初誘われてでもいるのかと思った。歳が二回り以上も離れたこの人に、何かそういう対象として見られているのかと最初は思った。そう思ってしまったのは職業病なのだと思う。年上の男の甘い言葉を一旦疑ってみるのは言わば鉄則だ。けれど、その話し方が示唆していたのは私の考えている事が的外れだという事だった。彼は何か、私の本質を既に掴んでいるように見えた。私は非礼を胸中で侘びながら、「少しなら、大丈夫ですけど」と何事もなかったかのように返事を返した。
「立ち話は何ですから…、そこどうぞ」
「…はい」
講師は私に教壇の近くにあった椅子を勧めて、自分は教壇に一番近い普段学生が座っている席へと腰を掛けた。これから一体何を聞かれるのかと構えながら私は言われるがままにその椅子へと腰を下ろした。彼と私は机を一つ挟むようにして向かい合い、その魂胆をどこか探り合うようにした。もう教室には他の学生はいない。以前よりも真っ暗になった闇夜が大ガラスの窓の向こうには広がっていた。
「こんな話は、本来教員としては首を突っ込むべきではないのかもしれない。でも、哲学的な対話として、君に投げかけてみようと思いました。」
「?」
彼はこんな言葉から会話を始めた。哲学的な対話など怪しい言葉を実直に用いている様は些か好感が持てる。彼は私の方をちらりと見やりながら、年齢に根差した落ち着き払った態度で私に接していた。しかし次に発した言葉は、全く私の予期していなかったものだった。
「…あなたは、誰かの死を目の前にしたことがあるんじゃないかと。」
「…はい?」
「それも、かなり近しい人で、その記憶が今も色濃く残っている。」
「…」
「だから、あなたの主張には説得力が痛いほどにあったのではないかと、私はそう感じられたのです。」
「……」
「本当に、そう…みたいですね。」
私の反応を見て、彼は何故か申し訳無さそうに顔を暗い表情へと変えてしまった。私は何かこの人に気を遣われるような事はした覚えはないと、少し気を張ってその様を眺めていた。ただ、彼は私の予想を超えて自分のパーソナルスペースに一気に足を踏み下ろした。だからそれに防御線を張る間もなく、私はただ沈黙を守るしか出来なかった。
「私は…教員として、あのような課題を出したことを少し反省したんです。」
「?」
「学生の過去を映してしまう…言わば鏡のような課題は、その評価に用いるには不適切なのではないかと。」
「…」
「どうしても、こちらもそちらも先入観というものを介在させてしまいますからね。」
「…」
「それに、無知で良いことも世の中には有るんです。…だから、もし本当にそうなのだとしたら、謝ります。申し訳なかった。」
「…いえ、」
「?」
「…大丈夫です、別に。」
「…そう、ですか?」
「そんなので折れるほど、今はもう、ヤワでは無いですから。」
二人の間には、静かな空気が流れていた。互いに怖がって刃を向け合うのではなく、探り探り相手がどんな人間なのかを知ろうとする微かな歩み寄りが、その教室の中では行われていた。
「…分かりました。でもきっと、そのご経験が今のあなたを形作ったのですね。」
「…はい。」
私はしっかり聞こえるようにそう返事をした。知らなくても良いことも世の中にはある。それはその通りだ。むしろ知らない方が良いことづくめだ。近しい人間にほど、そうやって自分の心の中だけに思い出を閉じ込めて他人に悟られないように殊勝に振る舞って生きようとする。でも他人がそれを突いてしまった時、彼らはそれを後悔する。本当は自分にそれを受け止める勇気も強さも無いことに気づいて。
「…先生にとって、死は終着点ですか。」
「…はい?」
「それとも、死の向こう側には何かがあると思いますか。」
「…何故、それを。」
「聞いてみたくなっただけです。どう考えておられるのかを。」
「…なるほど」
私の質問に、彼は暫し思考していた。今ここでどんな思想を広げるべきなのか、どんな言葉と表現を用いるべきなのか。きっとそれを考えていた。度々老眼鏡の鼻元の位置を戻しながら、彼は沈思黙考していた。
「私は…、終着点では無いと思っています。講義の中では色々なことを言いましたけれども、ゴールではないと、そう考えています。」
「…そうですか」
「あなたは、どうですか?」
「?」
「まあレポートでその考えをとっくに目にしてはいますけれど、私にもう一度あなたの生の言葉で聞かせてください。」
「…はい?」
「無理に、とは言いませんが。あなたから始めた問いです。それを解けるのは私ではなく、あなた自身ですから。」
「…」
「裏庭に、鈴虫でも居るのですかね…鳴いていますね。」
講師はゆっくりとそう語ると、夜闇に包まれた窓辺の方に耳を傾けるようにした。彼の言う事に何一つ矛盾は無かった。正しい。いやらしいほどの正しさだった。私は彼に何を聞きたかったのか、どんな答えを求めていたのか。それは自分でもよく分からない。きっとただのやっつけだった。自分の鎧を破られないための、防御線だった。
「…私は…」
「はい」
「…私は、何かが向こう側にあるって、信じています。」
「…」
「誰か神の教えを得ているわけでも、ユートピア的なものを夢想しているわけでもありませんが、そうすれば死者は浮かばれるだろうって、そう信じています。」
「…なるほど」
彼は私の答えを聞いて、その言葉一つ一つを噛み砕くように頷いていた。そんな味わえるほど私は何か重いことを言ったわけでは無い。それはまさしく気恥ずかしい夢想だった。夢を語るような、そんな不確かなものだった。
「…先生は、お母さまを亡くされたのでしたか。」
「はい?」
「そう、以前講義で仰っていたので。」
「…ああ。そうです、私は母を亡くしていますよ。まあ、父もですが。もう私も古希ですからね。」
「そうでしたか。」
「それが…何か?」
「私は、弟を亡くしました。」
「…?」
「だから、私が亡くしたのは弟です。実の。それも自分の目の前で死んでいきました。」
唐突な告白に彼は正直に狼狽えた。私はこの数年で初めて、あの死を他人に正面から告げたのかもしれない。私は別にこの人を怖がらせたかった訳でも、驚かせたかった訳でも無かった。ただそれが何も変わらぬ事実なのだった。何年時が経っても決して変わることのない出来事なのだから。
「ご想像の通りです。彼が中学生、私が高校二年の頃でした。」
「……そう、でしたか」
「今から、四年前のことです。」
「…もし、辛いなら、話さなくても良いですよ?」
「いえ…。私が話を進めたのだから、私には答える義務があります。もう、辛くないですから。」
「そう、ですか…」
彼の心配に乗じた優しさを撥ねつけるようにして、私は話を進めようとした。子どもじみた反抗だった。ただ一つレポートを読んだだけで自分を解ったような気になっていると思って、その人をそのままにしておく優しさを私は兼ね備えていなかった。私の甘いところは、そういうところだった。
「うちは母子家庭で、それも母親は精神疾患でした。…アルコール依存症です。いつも身体にお酒が入っていないといけないような人間で。だから、子ども二人だけで生活を回すような、そんな家でした。」
「……」
「父親のことは何も知りません。出稼ぎ労働者として九州の製鉄所に行っていたということしか、私は聞かされていません。」
「…」
「弟は、良い奴でした。…性格も真面目で、実直で、素直な人でした。依存症で仕事も出来ない母親をいつも労わりながら、家の手伝いもよくしてくれました。歳が四つ、離れているんです。だから、私も彼のことを幼少の頃から可愛がっていました。元基(もとき)って、いうんですけどね。…すみません、どうでも良いと思いますけど。」
「いえ…。」
「まあでも、何というか。女々しいというか、頼りがいが無いというか。体格も小さかったし、スポーツは何をやらせてもダメで。ひ弱で可愛い系の男子、みたいな。そんな感じで。チワワみたいなそんな弟でした。」
「…」
「元基…、弟が通っていた中学校は荒れていたんです。…私、茅ケ崎が地元なんですけど。まだあの辺りってヤンキーとかそういう文化が何となく残ってて。まあ、私もその中学に通っていたんですけどね。色々市内外で問題を起こしたり、地域の評判は最悪で。ついには警察沙汰になるような事も起きていました。…そういう奴らが今どうしているか、私は知りません。どうでも良いです。……でも、弟はそいつらに殺されました。」
「…ころ、された?」
「私にとっては、です。本当は…、自分で自分を殺めました。横浜のビルから、ある日飛び降りました。」
「……なるほど」
「弟は中学に入学してから、その純朴な人柄を買われて、クラス委員とかを担任にやらされるようになったんです。まあ、言ってみれば教員の手先ですよね。…クラス内にスパイを送り込むような。私はああいう人間は好きではありませんでした。何たら委員、みたいなのは。…でも彼は、本当に心からそうしたかったのかは分かりませんけど、それを引き受けて、教師がして欲しいように行動していたみたいです。親に似て、後先を考えられない馬鹿だったから。それできっと、悪い同級生に対してもそのままに、素直ストレートで振る舞っていたんだと思います。」
「善い、弟さんだったんですね。」
「どうでしょう。」
「え?」
「善い人だったかもしれませんけど、良い人だったかは分かりません。馬鹿ですよ、彼は。」
「そんなに、蔑まなくても…。」
「それが、引き金になったんですから。」
「はい?」
「その、素直さが。」
「…不良の癪に障った、と?」
「そうです。」
「それは、悲しいですね。」
「…当時、クラスにいじめられていた同級生がいたらしいです。女の子。よりによって女を虐めるかって思いますけど、ああいう奴らって馬鹿なんでしょうね。そういうの分からないから。それで弟は、その子を助けようとした。きっと好意とか下心とかそういうんじゃなかったんだと思います。純粋に、助けたいと思った。…その女の子も、家庭環境があまり良くなくて、親に性的な虐待を受けていたらしいです。挙句に服とかをまともに買い与えてもらえず。それで制服も毎日同じワイシャツを着ているから、それに目を付けられたらしくて。幼稚だなって思いますけどね、他人の事気にしてる暇あったら自分の将来の心配をしろって。」
「…」
「ある時、その女の子が虐められている場面に彼は出くわしたらしいです。それできっと、居ても立っても居られずに飛び出して庇った。それから一気にいじめの刃が弟に向かって、意地の悪い奴らに目を付けられて、物を隠されたり、靴に画鋲を入れられたり。挙句の果てに体操着を便器の中に突っ込まれて。次第に身体にも危害を加えられていました。私は、それを知っていました。弟本人から聞いていたし、その周りからも話を聞いていました。それで、一度彼の中学に行った事がありました。教師はどこまで知っていて、どうしてくれているのか。弟の担任は、新任の年端もいかない若い女でした。きっと母親が殴り込みにでも来たと思ったんでしょう。職員室で会った時、たかが高校生の自分を一目見て、『…よかった』と息をついていました。」
「…」
「弟が何をされているか知っていて、全て分かっていて、あの人はそう言ったんでしょう。でも、うちの母親はもっと酷かったです。…何も知らず、気にせず、外で遊んでいました。弟が痣だらけで家に帰った時、『いいねえ、男の子はやっぱ喧嘩して強くなるんだから!』って言っていましたから。……殺意しか湧きませんでしたけどね。本当に親を殺してやりたいって、何度も思いました。」
「…」
「でも、結局殺されたのは弟でした。それは突然の事でした。あいつ、いつものように家を出たんです。秋の深まった、何でも無い平日の朝に。それで学校には登校せず、電車に乗って、遥か遠くの街まで出掛けて行って。それで何の所縁もない場所に建つ何の変哲もない雑居ビルの屋上から飛び降りて。中途半端な階数だったんです。三階建てで。三階って、人が微妙に死ぬか死なないかの高さじゃないですか。それでも彼はそこから飛び降りた。」
「………」
「彼は、ほぼ死にました。ほぼっていうのは、まだ脳の一部はやられていなかったんです。それに、そのビルの人がすぐに通報してくれて。…でも、病院に運ばれて、手術や治療を受けて。私が駆け付けた時には医者から『もう、何も出来ません』と言われました。身体は外科的に整えられて、何とか顔を判別出来るくらいにはなっていました。でも頭は二倍くらいに膨れて、身体も土のような色になっていて。まるで人間じゃないみたいでした。土偶のような。……その数時間後、彼は死にました。私の目の前で蘇生処置をされて、それでも戻ってこずに、死にました。」
「…」
「母親は、そこにも現れませんでした。実の息子の死を知ったのも葬式のその日です。子ども二人がなかなか家に帰ってこないと思ったら、近所の噂で弟が死んだ事を知ったとか、そう言っていました。…告別式も上だけ黒いTシャツ姿で、下はダメージジーンズでしたから。何にも泣かず、声高に『献杯!』と言って式に使うお酒を飲み倒して。…葬儀のお金は知り合いに工面してもらって、彼の骨は近くの山に立つお寺の納骨堂に収めました。それからは、知りません。もう四年近く前の事ですから。母親が今どこで何をしているのかも、生きているのかさえ知りません。私だって、奨学金頼みでこの大学に入って、これから待ち受けるのは借金地獄ですから。何でもっと勉強せずに下手な私立大に入っちゃったかなって思ってますけど。」
「…下手な、私立大ね。」
「あ、すみません。先生の手前で。」
「いえいえ。私も下手なこの大学に頼ってしまっているせいでひもじい生活をしている訳ですから。非常勤で仕事をしていくっていうのは、なかなか大変なものですよ。」
「…そうですか」
「すみません、話を遮ってしまいました。」
「いえ。もうお話しする事は何もありませんから。」
「…分かりました」
「これが全てです。」
「?」
「これが、私の死生観を育てた諸悪の根源です。」
「諸悪の根源、ですか。」
彼はまた、その言葉を味わうようにしながら何かに思いを巡らせているようだった。こんな話、他人が聞いたらきっと胸焼けを起こすだろう。不味くハイカロリーな、こんな誰かの死の話を。それは飲み込むのに時間を要するに決まっている。そして、簡単に飲み込まれてはあの子が浮かばれなかった。だから、私はそれでよかった。
「…でも、」
「はい?」
「そういえば、彼は生前、『姉さん、またね』と言って家を出て行きました。行ってきます、ではなくて、またね、と。」
「…またね、ですか」
「ええ。…そのせいかもしれません。もしかしたら。」
「?」
「もしかしたら、私が死を終着点だと思いたくないのは。きっとその向こう側には何かがあって、そこでまた会えるんだと。私は、そう信じているんだと思います。」
「…」
「彼は独りで、何も言わずに死んでいきました。それは突然の別れでしたけど、不可抗力だったとは思いません。彼が意思を持ってその突然を願ったのだから…。だから、私にはもう、今更何かを言う事は出来ません。」
「…うん」
「ただ、今自分を自分で終わらせようとする人間が目の前に居たとしたら、最大限の言葉で侮蔑します。愚かだって。その後に遺された人間の痛みも苦しみも分からないのなら、自分だけ楽になるなんて狡過ぎると。」
「…」
「これが、私の考え方です。」
私は好きなだけ話すと、講師の返事を待たずにその大教室を後にした。これが、全てだった。弟もまた、誰かの愛を求めていた。いわゆるお姉ちゃん子だった。姉弟揃って親の愛をまともに受けないまま育った。その結果、私は彼の母親代わりのようになった。彼は私を必要としていて、私も彼を必要としていた。けれど、彼は自分の意思で逝った。低俗な奴らから攻撃をされて、もうこの世に居るのが辛くなったのか。周囲を見渡す目さえも無くして、現実に存在する全ての光よりもその苦しみが上回ったのか。私には分からない。彼を助けようとした私がそんな風に切り捨てるのはきっと無責任なのかもしれない。でも、確かめることは出来ないのだから。彼しか答えを知らず、彼だけがその真意を持っている。また逢えなければ、私はこのまま何も知らないままだ。
「死ね…」
口を衝いて出るこの言葉の意味を、私は知っている。過去への決別、彼を守れなかった自分への侮蔑、そして愛への飢えたような憧れ。けれど本当の死は、口に出来るようなものではない。きっと。だから独りでそれに向き合い決めた彼の面影を、私は畏怖の念で、今も心に宿している。
14章
彼はまた、弱っていった。
「…うう…」
「浩さん、大丈夫ですか」
「…ああ…」
「口、また湿らせますよ?」
「は…い……」
彼もまた、死に近づいていた。私は彼がどんな病気なのか、どういう診断名がついているのか、何も知らなかった。彼は頑なにそれを教えようとしなかった。もしかしたら、病名を聞いて他人に勝手な想像をされるのが嫌だったのかもしれない。だからあの母親にも、誰にも何も伝えていないと彼は言っていた。けれど、素人目でも彼の余命がもう残り長くない事は容易に分かった。身体に局所的に出来ていたシミのような斑点は段々と大きくなっていき、身体全体の色が変わってしまうのではないかと思うほど、彼の体表を覆いつくそうとしていた。そして実際にそれらは彼の血肉を体内で食い散らかしているように見えた。広がりに伴って彼の身体はどんどん小さくなり、軽く咳をすればその骨にひびが入ってしまうのではというほどに痩せこけていった。医者の助けも得ず、訪問看護師とやり取りをするだけで、彼はきっと独りで自分の人生に蹴りをつけようとしていた。最初何も刺さっていなかった右腕には今や三本のルートが取られ、彼を囲む機械は全てが始終音を立てて動き、全力で抗って彼を生かそうとしていた。その音の大きさが、彼の力の無さを皮肉にも部屋中に教えてくれていた。
「コットン、口を触りますよ」
「はい…」
今日は水曜日では無かった。そして、今日私がここに居る事はリリーさんもみづきさんも与り知らぬ所だった。私はそれでも良いと思っていた。彼に呼ばれたら行かなくてはならないと思った。もしそれで断り、それが彼の最期になってしまったとしたら。その方が、私にとっては耐えられない事だった。
「どうしますか、酸素の量、増やしますか?」
「…おねがい…します…」
「分かりました。」
直下で苦しみ悶える彼の願いを聞き、私は枕元のすぐ脇に立っている酸素ボンベのバルブを緩めるように大きく回した。そこから出るホースに繋がった箱のような機械が一層音を立てて、彼の口元のマスクから大量の酸素を届けていく。私はまた脱脂綿に水を含ませながら、少し息が楽になったような彼の姿をじっと見つめていた。
「…美波さん……」
「はい…?」
「…ワンピース…」
「ワンピース?」
「はい…。きれい、だなって…」
「あ、これ…ですか?」
「…そう」
彼は話すのも身体が痛むと言っていた。筋肉を動かすと全身が張るように痛んでいくらしい。それでも浩さんは辛そうに目を開けながら、私の身を包むその水色の生地をじっと見てそう言った。私はそれに答えて、声がよく聞こえるようにと彼の枕元に立ったまま顔を近づけた。
「実はこれ、私物じゃないんです。」
「…え?」
「みづきさん、あ、えーと、知り合いの人に貸して貰っているんです。これ。」
「へえ…」
「何か、貸してくれて。これこそ、ソーダ色?というか、水色ですよね。」
「…チューペットの…?」
「そう。」
「ほんとう、だ…。」
そう言うと彼は、骸のような手を引きずるように伸ばして、私の左ももの生地をそっと摘まむようにそのワンピースに触れた。私の膝下までをすっぽりと隠す長い裾が少し持ち上がって、その部屋の変わらぬ冷気が私の肌にすっと当たる。彼が摘まんで所在なさげになった左ももの辺りは、くすぐったいようなじれったさを覚えて、私の身体は少し、少しだけ、ドキドキとしていた。
「あ、すみません…。女の子のスカートを、引っ張るようなこと…」
「あ、いや。大丈夫ですよ。それにこれ、スカートじゃなくて、ワンピースですから。」
「難しいですね、女の子は…」
「そう、難しいんですよ。女の子は。」
それでも私は嬉しかった。この人に、布一枚を隔てていても、触れられているということが。嬉しかった。じんと身体に沁みるような気持ちは、今まで誰にも経験した事が無い感情だった。これが…そういうものなのかもしれない。何度誰かに身を委ねても、満たされたと錯覚するだけで空虚だった胸の内もこれなら、これなら満たしてくれるのかもしれない…。馬鹿みたいだ。馬鹿だ、私は。本当は分かっている。この一時の感情など、この人が消えてしまえば何の意味も無い事をよく分かっている。この人はそのうちに逝く。自分の手の届かない遠い所へと自分勝手に翔けてしまう。なのに。私は夢を見ようとしていた。自分の心地よさをそこに求めようとしていた。愛を、ここに見出そうとしていた。私にそれをくれる人は皆、消えていってしまうのに。
「…浩さん。」
「はい?」
「何か、したいことはありませんか」
「…え?」
「何か食べたいものとか、どこか行きたいところとか。ありませんか。」
「…唐突ですね…美波さんは。」
「何かもし有るんだったら、聞いてあげたいと思って。」
「…ありがとう、ございます。…やっぱり優しいですね、美波さんは。」
「何ですか、何度も。」
「うーん…そうだなあ…。でも…やっぱり、いきなり言われても…出てこないものですね…」
「本当に、何も無いんですか。私でも、一つや二つありますよ。」
「うーん…」
私の投げやりな質問に浩さんはじっくり目を瞑るようにして答えを考えているようだった。その様子を見つめながら、私は使い終わった脱脂綿に残った水を小さなボールへと絞り出した。力の限り潰されたそれはまた乾いたようになって、ほつれた繊維が指にまとわりつくようにしていた。
「……に、会いたいかな。」
「え?」
「したいこと」
「何て、言いましたか…?」
「…カラスマに、会っておきたいです…」
「烏丸…?」
「そう。…僕の幼馴染で、親友で、学友で…悪友でもあります…。」
「あの烏丸さんですか…?」
「あの?」
「いや、あ…すみません。」
彼の口から出てきた願いは意外なものだった。カラスマと聞いて、最初私はどんな場所だろうと勝手に思い出そうとしていた。けれど数か月前の記憶がふと頭をよぎった。その名前が記憶の片隅に残っている。その彼の友人の顔と名を私は確かに覚えていた。
「…美波さん、あいつの事…知ってるんですか…?」
「知っているというか…何というか…。」
「美波さん、この期に及んで隠し事はダメですよ…?」
ワンピースの裾からゆっくりと指を離すと、虚ろな身体を起こすようにして浩さんはこちらを向いた。その目はしっかりと私を見据えていた。今、この人に嘘をついても何の意味があるのだろうかと私は考えた。何も、無かった。たとえここで私が嘘をついたとしても、烏丸さんも彼も浮かばれる訳では無いのだから。彼が度々口にしていたその名を、そしてその人はまた彼の名を。彼らの間にはきっと真の友情があった。私には見えない何かが。
「……」
私は絞り終わったコットンをゴミ箱に捨て、またベッドサイドへと身体を戻した。膝を折って床に座るようにして、そしてゆっくりと、あの日の事を彼に語りかけた。
「実は、烏丸さんにお会いしたんです。」
「…え?」
「事務所まで、訪ねていらして…。」
「事務所…?」
「ああ…事務所っていうのは、その、デリバリーの元締めっていうか…。」
「ああ…」
「それで、知っていました。彼のこと。」
「…そう、でしたか…。これはまんまと嘘をつかれましたね…。」
「すみません…」
「冗談です…。謝らないでください。」
「嘘をつくつもりも、隠すつもりも無かったんですけど…。口は災いのもと、ですから。それに何か、烏丸さんに浩さんの事を聞かれた時、何もお答え出来ませんと撥ね返してしまったんです。だから、烏丸さんにも…少し、申し訳ない事をしました。」
私の告白を聞いて、彼は頬の強ばりを少し緩めたように見えた。何も責める意思が無いと、彼のその表情が言っていた。
「そうですか…。気にしないで…ください。美波さんの気遣いに…むしろ感謝します。あいつ…、ちょっと感情的なところがあるから…きっと僕の現状を聞いたら…卒倒しますよ。それに…僕のことを外でべらべら喋られたら…僕もちょっと嫌ですからね。」
「はい…」
「あいつ、元気そうでしたか…?」
「え」
「僕が…国際共同研究…投げ出して来たから、怒ってたんじゃないですか…?」
「ああ…。でも、むしろ心配されていました。後処理が大変だとは言ってましたけど、やっぱり突然いなくなってしまったから。」
「そうですか…」
「私でも心配しますよ。大事な人間が急に消息不明になったら。」
「大事な、人…?」
「あ…いや、」
「?」
「そういう意味では無いですから。一般的な話です。」
「ふふ、そうですか…」
「何か、無いんですか?他に、やりたいこと。食べたいものとか、無いんですか?」
「だから…急に言われても…」
「もう…。私、洗濯物干してきますから、その間に考えておいてくださいね。」
「はい、わかりましたよ。」
私がそう彼を問い詰めるようにした時、風呂場の方から洗濯機の音が鳴った。いつからだろう、彼の洗濯物を干すようになったのは。まるで私は彼のデリバリー嬢ではなく家事手伝いになったかのように、最近は訪問看護の人の手が回らないところは自ずと私が引き受けるようになっていた。食事、掃除、洗い物、買い物、洗濯、そしてゴミ捨てまで。彼に頼まれた時はなるべく時間を開けてここに来て、彼と共に過ごした。
「浩さん、全部ベランダに干していいですか?」
「…ああ…、はい…。」
洗濯機から一週間分の服をバスケットに取り出し、私はそれを右腕に抱えながらベランダに向かった。そのベランダはあの大きなガラス窓の向こう側に付いていた。端のガラス戸を横にスライドさせて外に出ると、海風が爽やかに私の服を揺らした。もう季節は秋だ。前線のせいで毎日変わる天気はその度に心を浮かべたり沈めたりする。今日は幸運なことに晴れの日だった。だからパンパンと彼の服をはたいて、私はそれを太陽に向かって干した。眼下には横浜の街と、本牧のドックが広がる。あの日見えなかったランドマークタワーも、赤レンガも、そのベランダから身を乗り出してみると辛うじて見える気がした。十四階は中途半端な高さではあったけれど、死ぬには半端な高さでは無かった。思わず身を乗り出した時、不意に下の景色を覗くと遥か遠くに人の頭が見えた。ここから落ちたら…。いや、と思いとどまって私は続きの洗濯物を干していった。変な想像は無駄な悲しみを誘うだけだった。
「これも、外干しで良かったですか…?」
「…」
窓ガラスを一つ挟んだ向こうの浩さんに話しかけても、彼はよく聞こえていないようだった。だから私は彼の下着を手にして彼に見えるようにと目の前で少し揺らした。こんな滑稽な光景を客観的に眺める視点は無しに、まだ気付かない浩さんをよそにして、彼の下着を物干し竿に吊るした。
「まあ、外でいいか。」
ふと窓枠のサッシに腰を下ろして、風にそよぐ洗濯物と、柵の隙間からその向こうの海を眺めた。誰かと暮らしている時の記憶が不意に身体に蘇る。その空気感とか、共に居る感じとか、そういう夢見心地は長いこと忘れていた。あの子が居なくなった時から、私はずっと独りだった。独りで生活を回して営んで、自分で自分の世話をして、むしろそのためにあくせくして働いた。勉強よりも生きることが大優先で、それさえ何とかなれば他はどうでも良かった。だから今、その気持ちがじんわりと溶かされて風化していく。誰かと息を揃えること。誰かと同じものを食べること。誰かと色々な話をすること。それが当たり前にそこにあることがいかに幸せなことか。今、下を歩いている人達のどれだけがそのありがたみを解っているのだろう。私は甘えていた。まるでその幸せをここに見出せたかのように、私は自分を思い込ませようとしていた。馬鹿みたいに。
「……さん。」
「?」
「美波…さん、」
「あ、はい。」
「せんたく、終わりましたか…?」
気づくと私の後ろのガラス窓がこつこつと叩かれていた。ベッドから右手を伸ばして微かにガラスを叩く彼は、透き通った亜麻色の目で私を呼ぶようにしていた。
「はい。今、行きますね」
彼のその言葉を聞いて、私は黄昏れていたベランダから部屋に戻り、そのベッドへと近づいていった。自分の手に仄かに残った柔軟剤の香りが少しきつく感じて、彼に届かないようにと私は自分の手を擦るようにした。
「どうしましたか?」
「あの…」
「浩さん…、大丈夫ですか…? また水、用意しましょうか?」
「ありました…」
「…え?」
「頼みたい…こと…」
「あ、はい」
「…怒らないで…くださいよ…?」
私がその枕元に立った時、彼は唐突にそう溢した。まるで母親の顔色を伺う子どものように、彼は私からわざと目を逸らしてそっと呟いた。彼はガラス窓の方を向いて、静かにこう言った。
「…もう、いっそのこと…僕を殺してください」
その言葉は囁きのように、微かに私の耳に届いていた。
「…」
「…」
「…はい?」
「その、言葉の…ままです。」
「いや、」
「だから…」
「…何故ですか?」
「…何故って…」
「何で、そんな言葉を聞かなきゃいけないんですか…」
「はい…?」
「何で……、何で、そんなことを軽々しく言うんですか……」
「…軽くなんて…ありませんよ…」
「…いいです……」
「…?」
「もう、言わなくていいです…」
「美波…さん…?」
「だからもう言わなくていいです!」
「…」
私の上げた大きな声に彼は一瞬慄くようにして身を縮めた。それはまるで飼い主に怒られた時の小型犬のようだった。
「美波…さん、」
「もう何も言わないでください」
「…」
「また悪い冗談ですか。また、私を弄んでいるんですか」
「いや…、本気ですよ…。」
「何でですか、何でそういう事をさらっと言ってしまうんですか。何で、」
「何でも何も、無いんですよ…」
「…はい…?」
彼は一つ一つ言葉を区切りながら、冷静さを失っている私を正しさで説き伏せるようにした。
「もう、何も無いんですよ…。やり残したことも…、食べたいものも…。
「……」
「…行きたい場所も…。それでも、まだ僕の心臓は…弱く細く脈打っていて…。あと数日の命だろうに…生かされて、生かそうとしている…。そのうえ、もう身体じゅうが痛いです。顔を掻こうと指を曲げるだけで…。あなたに触れようと、手を伸ばすだけで……。……こんな…こんな辛いことはありませんよ…。こういうのを…生き地獄って言うんですかね…」
「でも、」
「……あなたに…何が分かるんですか…?」
「………」
私は額から血の気が引いていくのが分かった。彼は全てを悟ったような聡明な顔をしていた。それは今まで見せたどんな表情よりも暗く、怖かった。あの甘いマスクの面影は何処にも無い。蝋人形のように熱を失っていた。
「当たり前のように息をして…水を飲んで…。……歩いて…美味しいものを食べて…誰かと話して…。」
「浩さん!」
「そんなあなたに…何が分かるんですか…?」
「?」
「…冗談じゃ…ないんです。これは…」
「…」
「僕は、本気ですよ…」
彼は、全てを受け入れようとしていた。それは、死への覚悟だった。きっと死を目の前にした人間にしか分からない、強い覚悟だった…。
「姉さん、またね」
それも、恐怖というよりこれから来る現実を受け入れたかのような、落ち着き払った顔だった。そう。あの子が最後に見せた表情も、日常とどこかが違った。諦め、だった。生きることへの諦念だった。もう何も信じるものも無く、この世に一切の希望を見出さないという失望だった。これから自分に降りかかることも運命なのだと、定めなのだと言いたいような、自分で全て蹴りをつけてしまおうとする人間の最期の顔だった。残酷な事実だった。誰の救いも届かない。どんなに声を届けようと、どんなにあなたのことが大切だと訴えても聞き入れない。それが自分で死を決めた人間のけじめに思えた。
「もう…良いんです…」
彼の目は、同じ目をしていた。もう綺麗な亜麻色の瞳は消えていた。私がこの人に最初出会った時に見つめられたあの澄んだ目はどこにも無かった。それは同じ目だった。あの日私が玄関先で見た、あの子の目だった。
「もう…いい…」
「あの、」
「僕はもう…何も望むことはありませんから…。ここから何かが変わることが無いことを…自分でちゃんと…分かっていますから…」
「……」
「だから、もう、僕を殺してください……!」
「いい加減にしてください!」
「…」
「…分かりませんよ」
「…?」
「だから、分かりませんよ」
「…何が…ですか?」
「あなたのことがですよ!」
私は彼の右手を乱暴に取って、自分の両手でそれを咄嗟に包み込むようにした。そしてその握り拳を自分の眉間に当てた。冷たかった。秋にも関わらず冷房を盛夏のように付けたその部屋のせいで、その手は氷のように冷え切っていた。私の額を伝った汗が彼の拳に下りていく。その滴は彼の腕から肩へと消えていった。
「…美波さん、」
「分かりません…。私には分かりません……。自分は死ぬような目に遭ったことも無いし、死んだこともありません。…だからあなたが今どんな気持ちでいるかとか、あなたが今どれだけ辛いかとか、私には分かりません…!」
「……」
「分からないんですよ! 分かりたくても、分かってあげたくても、分からないんです! 無理なんです、それは。どうやったって、どんなに頑張ったって無理なんです! 私はあなたじゃないんだから!」
「…みなみ…さん…」
「何ですか、今更名前で容易く呼ばないでくださいよ。自分の生に責任も持てない人間が、他人にその生を委ねようとしないでくださいよ! 私、今、きっと怒ってますよ…。怒ってるというか、もう自分の感情も分かりませんよ。…分かりませんよ。あなたのことも、あの子のことも、全部分かりませんよ! それでも分かれって言うんですか? あなたには分からないだろうって自分から突き放しておいて、それで勝手に死んでいくんですか? 殺してください? 何で他人に命を委ねるんですか。あなたはあなたなんですよ。あなたを必要としている人は、あなたのことを愛している人は、この世界にはきっと居るんです! どんなに境遇が悪くても、生まれついた運命が過酷で虚しいものだったとしても、生きなきゃいけないんです! あなたにはあなたのことを思ってくれる人がいるんです! どんなに憎くても、因縁があったとしても、家族がいるんです。友人がいるんです。あなたのことを大切にして、親友だって言ってくれる人がいるんです。その人達に何て言えばいいんですか? 何て申し訳をすればいんですか! 分かりませんよ! 私には分かりません! あなたが…、あなたが…そんな言葉を吐いて縋ろうとする理由が、私には分かりません!」
「……!」
「…自惚れないでください。自惚れないでくださいよ! 自分はどうせあと少しで死ぬからとか、人間に見えますかとか、運命だからとかそんな御託を並べて…。それで何ですか、エピジェネティクスですか。運命は変えられるんでしょう? 親から貰った遺伝子で全部が決まる訳じゃないんでしょう? 自分の細胞が未来を変えてくれるんでしょう? それなのに、それなのに……、分かったような素振りで他人を疎んで! あなたが言ったんです、私に。自分の事を卑下するなと、淋しいなんて思うなと。あなたは、独りじゃないんだからって! それが何ですか、終活だとか、ガラスの孤城だとか、自分を見下げて。それで自分の頭を自分で撫でるようにして! それで、心地良いですか。幸せですか。報われましたか。もう…本当に、殺して欲しいんですか?」
「…うぬぼれてなんか…」
「自惚れです! 自惚れですよ! 醜いです。淋しいですよあなたは! 何で分からないんですか? 何で、何で、分かってくれないんですか…。…嫌です。嫌なんですよ…私は………」
「?」
「嫌なんですよ! もうあんな思いを味わうのは!」
「!」
「あなたにだって、分かるはずです。愛が消えた悲しみを。愛が無くなってしまうことの苦しみを…。自分に愛をくれた人間が居なくなることが、自分が愛を注ぐべき人間が目の前から消え失せることの怖さが……!」
「みなみさん、もう…」
「あなたには分かって欲しかった! そんな言葉を吐いて欲しくなかった! あなたは…自分と同じだと思った。やっと、やっと分かり合える人間に出逢えたと思った。やっと…自分が愛を注げる人に巡り逢えたと思った…。なのに、…なのに、あなたは死んでいくんです。そんなの私も分かってますよ! あなたのこんな身体を見たら、あなたの辛そうな表情を見たら、あなたの苦しむ声を聞いたら! …でも、…でも、…それでも私はあなたに生きていて欲しいんです! あなたに…、ここに居て、あなたの温もりを、…私に伝えていて欲しいんです! ダメですか? こんなに私が叫んでいるのに、あなたに思いを伝えているのに、それでもダメですか? それでもあなたは逝ってしまいたいんですか…? それでもあなたは、私に殺めて欲しいと言うんですか…?」
「…あの、」
「…人って、居なくなったらさざ波のように周りの心をざわめかせていくんです。後を濁さずなんて、そんなの有り得ないんです。誰かの心には、残ってしまうんです。そしてその波が静まるまで、想像できないような時間を費やす人もいるんです…。」
「だから、もう…」
「嫌です! 子どもみたいだって思ってるかもしれませんけど、私は嫌です! 私はあなたが居なくなることが、あなたが死ぬことが…怖いです。また誰かの面影を追うような人生を過ごしていくことが、何よりも怖いです! 私の心の中に残る記憶がいつかは消えてしまうことが、あなたと過ごした時間を忘れてしまうことが怖いんです。こんなの、失格だって知ってます。嬢としてもう掟破りなのは分かってます。…ふふ、きっと店長にこっぴどく叱られます。いや、叱られるじゃ済まないと思います。クビです、クビ。…でも、…でも、嫌なんです。嫌なのは、嫌なんです! どんなに繕っても、装っても、私の心は…あなたを想ってる…。私は…それに嘘をつけません…」
「美波さん、」
「もう私の名前を呼ばないでください!」
「!」
「そんなに消えてしまいたいなら、私の与り知らぬところで消えてください! …もう私が引きずらないように、私の記憶に一切残らないように、淋しく死んでください! それがあなたに出来るなら…、そうしてください。出来るのなら、私が…痛みを感じぬ間に消えてください!」
「…」
「私、帰りますから…。」
「美波さん!」
彼の声は私の背中に強く響いた。けれど私はそれに答えることは無かった。私は広間を後にしていた。何も置かれていない廊下を足早に抜けて、目前の厚いドアを開けた。ひんやりとした部屋の空気からさらに凍てつくようにして、秋の冷たい風がエレベーターホールの空いた窓から吹いていた。背後でドアが閉まる音がして私はその窓に駆け寄った。溢れる嗚咽を堪えるようにして、その窓の隙間から一思いに私は泣き叫んだ。自分が自分でないようなこの状態に、後ろを通る誰かは何も気に留めようとはしなかった。もうこれが最期だとしたら、そんな悪い想像がふっと湧いてその度に私の背中を冷たくさせた。でも、もう私にあの部屋に戻ることは出来なかった。それも私の覚悟だった。私の中の、いつかを受け止めようとする足掻きでもあった。
もう甘えてはいけないんだ。また、甘える人は、居なくなるんだ。
そう自分に言い聞かせた。自分の中の何かを断ち切るようにして、私は涙を拭いた。彼のために着てきたワンピースに何滴も零れ落ちて、涎を垂らしたかのように大きな染みが出来た。もう自分の涙で色が暗くなっていた。映えるソーダの色が染みるように黒くなっていた。それはまるでグレーのような、どこまでも深い悲しみの色だった。
15章
数週間後、私はザ・ヘヴンにいた。
「で、私のワンピースをこんなにもくしゃくしゃかつ鼠色にしてくれたと?」
「…すみません」
「美波さん、どうやったらこうなるか説明してくれますー?」
「…はい…」
そのワンピースの主は私が返したものを見た途端、顔色を変えてそれを凝視していた。自分が予想していたものとあまりにも違ったのだろう。クリーニングに出しても消えない私の涙の跡は、みづきさんのワンピースに斑点のように強く残っていた。もうそこは色を失っていた。元のソーダ色は戻らなかった。
「…美波、号泣した?」
「え」
「これ。そうでもないと、こんなならないでしょう。それか何かぶちまけたか。クリーニングしても消えないって、一体何を掛けたのよー本当にー。お気に入りだったのにぃ…。」
「すみません…」
「大体涙だったとしても落ちるか。なら合コンに来て行って、酔い潰れてこの上に吐いた?あ、それともお客さんのとこに着て行って…まさか、アレ、かけられた…?」
「いや…」
「そうか。アレも一応タンパク質だもんな。落ちるか…。」
「…」
みづきさんは怒っているというよりかは、ただただ唖然としていた。呆れ返ったように私を見て何があったのかを雑に聞きながら、それでいて下手に踏み込もうとはしなかった。何があったのかをまくし立てるように聞くことで、むしろその場の少し沈んだ空気を上向きにしようとしてくれていた。その空気を作ったのは私だ。…きっとみづきさんから見た私は、もういつもの私では無かった。
「まあ、何があったかは知らないけどさー。正直に言ってくれたし、一応クリーニングもしてくれたから許すわ。」
「え?」
「だって、可愛い後輩これ以上せっついてもしょうがないでしょうよ。何か出てくる?弁償でもする?」
「いやでも私、本当に弁償します…」
「いいよ、美波。」
「?」
「私もさ、後輩にたかるほど貧乏してる訳じゃないからね。それに元はと言えば、私がこれ美波似合うんじゃない?って言って貸したんだし。だからこの話はこれでおしまい。今度はちゃんと自分のお金で買うんだよ?」
「…はい」
その日、ザ・ヘヴンには私とみづきさんしか居なかった。リリーさんは外回りの営業に行っているとかで、最近はなかなか会えていない。だからいつもよりもずっとそこは静かだった。私はみづきさんにワンピースを返すために、今日は一度事務所に立ち寄ることにした。本来は何も予約も無く大学の講義も何も無いオフの日。彼女の予約が入っていることをシフト表でうっすらと覚えていたから、ワンピースを返してから今日は午後ある場所に行くつもりだった。いつも受動的に予定を立てる自分には珍しい、能動的な予定だった。
「美波、このワンピース可愛いでしょ?」
「え…?」
「鮮やかな水色でさ。綺麗だし、シルエットもふんわりしてるし。女の子に生まれたからにはこういうの着てみたいよねーって感じでさ。」
「はい…」
「こういうの着て、好きな男に会いに行きたくなるもんだよね。」
「…?」
「あ、ごめん。何か詮索してる訳じゃないよ。もう無罪放免なんだから。」
「すみません」
「でも、私ちょっと嬉しかったの。」
「?」
「私がこれを美波に貸した時、あんた凄い喜んだ顔してた。初めて見たよ、そんなに喜ぶ姿。こんなに人生を、世の中を冷めた目で下に見て、自分にも他人にも何の期待もしていません、みたいな子が素直にこれを着て、誰かに会いたいのかなって思ったら。」
「…」
「だって、やっぱり、女の子のそういう力って凄いんだよ。私たちがいつもしてるみたいな、ああいう綺麗さとか可愛らしさとかは全部心がこもってない。外面だけは良くして、あとはサービスだからって偽りの思いやりを振りまくでしょう?だから、本当に心から誰かに可愛いって思ってもらいたいとか、綺麗に見られたいっていう心は何にも負けないよ。無敵なんだから。」
みづきさんはゆっくりと、それでいて芯があるように私に語りかけた。着替える前の黒い革ジャンの腕がキュッと擦れて、どこか彼女の優しさが引き締まった。けれど、嬉しかったという彼女の感情の吐露を聞いて、私は素直にその言葉を受け取れていなかった。きっとそれは半分本当で、半分嘘だから。彼女を見ていれば分かった。本心でそんな事を言っていないことを。彼女のその言葉の裏には、きっと何かがあることを。
「無敵、なんだよね。そう。どんな意欲よりも感情よりも自分を駆り立てていく。その心があれば、あるからこそ、盲目と呼ばれるほどに何かを追いかけちゃうんだけどね。それで私も何度失敗したか。まああれは、若かりし頃の何たらってやつだけどね。」
「そう、ですね…」
「…美波さ、」
「はい?」
「その相手、お客さんじゃないよね」
「…」
みづきさんは私を手招きしていた。私はその言葉に何も返事を返せなかった。彼女の優しい瞳が私を見ていた。そして、みづきさんはカウンターの前の丸椅子に私を誘うように座らせた。彼女は私のすぐ隣に座った。パーソナルスペースをお互いに犯して、だから余計にみづきさんの香りが私に届いた。それはいつもと変わらない高い香水の匂いだった。
「…あんまり触れるつもりはなかったし、本当は触れたくなかったけど。他人のそういうの。」
「…」
「でも、リリーさんから美波に会ったら伝えておいてって言われたの。」
「…リリーさん、ですか…?」
「そう。最近あの人忙しくしてるでしょう、美波に会う機会も無いからって。それで私に言づてを頼んでいったの。」
「…はい…」
「勘違いするなって。」
「…え?」
「『勘違い女が、自尊心なんか持ちやがって。闇営業なんかして男に付け込んだ先に待ち受けるのは破滅よ。』だって。」
その言葉は私を貫いた。勘違い。私たちの仕事は、男の人を勘違いさせる仕事。でも。リリーさんは何もかも丸わかりなのだと、私は自分の浅はかさを認めざるを得なかった。隠しているつもりでいた自分を省みた。みづきさんの口真似はリリーさんの嗄れ声によく似ていた。その息の吐きどころも、イントネーションも全て。きっとリリーさんは一言一句そのまま言ったのだろう。全てをあの人は見抜いていた。きっと全てを、あの人は知っていた。
「…」
「身に覚えあり、って感じ?その反応は。」
「いや…」
「私も知ってたもん。何となくだけど。」
「…?」
「予約も入っていない日にあのタワマンのところに行って、何かしてるんでしょう。」
「…いや」
みづきさんは革ジャンの袖から伸ばすように手を出して、すっとその拳をカウンターに落とした。コンと乾いた音がして、静まり返っていた空気が引き締まる。その横顔は私に何か物言いたげな表情をしていた。
「忠告する。私からも。客と近づき過ぎたら、死ぬのは自分だよ。」
「…私は、」
「私は何人も見てきた。男に貢がせるのが仕事なのに、結局自分がカモになって夢中になって人生ダメにしてきた女を何人も見てきた。一人は死んでった。男のために全財産つぎ込んで、それで消費者金融にも手を出して。挙句、ムダ毛処理のカミソリで自分の動脈切ってね。よりによって商売道具で。この仕事してる限り、そういう目に遭うことは珍しい訳じゃない。向こうを取り込むか、こっちが取り込まれるか。そういうシーソーゲームみたいなものだから。」
「私、そういうのじゃ」
「美波!」
「…?」
「自分は違うって、そう言いたいの?」
「…」
「あんた…呑まれてるよ。もう、呑まれてる。」
「……」
「どうしたの、美波らしくないじゃん。あんた、誰にもそんな感情抱かないような女じゃなかったの?誰にも期待しないような、そんな女じゃなかったの?」
「…」
「ごめん、あんたにワンピース貸して泳がせたような私も悪い。十分悪い。」
「…それは、」
「でも、いくらゴミみたいな仕事してる私たちでも、自分の身の振り方は自分で決められるの…」
「?」
「自分で決めなきゃいけないの。最低限の掟を守れば、自分も守られるの。」
「…掟、ですか」
「そう。掟。お客さんと私的な関係を持たない。それ以上に踏み込まない。」
「…」
「タワマンと今、美波がどういう関係なのかは知らないけど、もしお金を貰って癒してあげる以上の関係になろうとしているなら、もうなっているなら、…私は止める。」
「……」
「美波、私はあんたを止めたい。最後に憂き目を見るのは私たちなんだから。誰にも守られずに、誰にも気づかれずに静かに生きているだけの私たちなんだから……。」
「でも、」
「私は、あんたにそうなって欲しくない。破滅、して欲しくない。」
「?」
「あんたに、向こう側に行って欲しくない。」
「…」
「今日、この後はどうするの。……またあのタワマンのところ行くの?」
「……」
「美波」
「…いいえ」
「ん?」
「…墓参りに行ってきます。」
「墓?」
「はい。…今日は弟の命日なので。」
「…そっか。」
みづきさんはそう言い残して裏に捌けていった。革ジャンを雑に脱ぎ捨てる音が聞こえて、それからはもう何も覚えていない。今日という日は私にとって何でも無い、何の意味も持たないただの平日では無かった。むしろ私にとって大切な日だ。忘れてはいけない、あの日。四年前、それは私にとってのターニングポイントだった。
小守谷(こもりや)元基(もとき)。彼の骨は茅ケ崎の小高い丘に建つ、小さな寺の中に収められていた。その敷地の端にある納骨堂に、その他大勢の骨と共に眠っていた。そこは無縁仏が多かった。独り亡くなっていった人間たちが、今は身を寄せ合って過ごしていた。
「…」
納骨堂は古い木々が支え合うようにして建っていた。柱の一本一本を見ると虫食いの傷や、朽ちて欠け落ちた跡が容易に見つかる。まるで古い社のようで、その隙間からは山風が走るように吹いている。
「…水、換えないとね」
私はお堂の床に膝をついて、彼の位牌の前にじっと座った。位牌と言っても何か戒名が書かれている訳でも、立派な板が立っている訳でも無い。段ボールに半紙が付けられているだけだ。その骨壺が誰のものか分かるように、そんな事務的な理由で付いているだけのそれには、彼の名前が鉛筆で乱雑に記されている。時間が経つにつれてその文字は色褪せていき、半紙も黄ばんで端が虫か何かに食われていた。私はその前にただ置かれたペットボトルを、下の寺務所で買った常温のペットボトルと取り換えた。きっと彼はコーラとかオレンジジュースが良いと言うのだろう。けれどそんなものを置いたら、きっと誰かに取られて無くなっているのがオチだった。
「…元気…?」
そんな言葉を投げかけても、何かが返ってくる訳でも無い。私は誰もいないお堂の中で一人、彼の目の前に座っていた。周りの骨壺を見ても誰かがお参りに来たような形跡は見当たらない。むしろ誰かがお供えにと置いていっただろう缶ビールは中身を飲まれて、その空き缶が墓前に横倒しに置かれていた。そう。これを墓と呼べるのかと言われれば、こんなに淋しい場所はないと思う。墓石がある訳でも無く、どこの誰かも分からない人間の骨と一緒に並べられて。でも、これが精一杯だった。私が彼にしてあげられる精一杯だった。彼を焼くのも、その骨を収めるのも、ここの住職に懇意で手配してもらったものだ。それはせめてもの救いだった。彼を何とか墓のような場所に眠らせることが出来たことは、私にとっての罪滅ぼしだった。私が生前彼にしてあげられなかったことへの、切実な償いだった。
「どうなの、そっちは。…可愛い女の子とか、いるの?…ほら、もう元基、あの時の私と同い年でしょう。…彼女の一人や二人くらい作らないと、大人になってから、顔だけの女の子に騙されちゃうよ…?」
私は埃が付いた古いペットボトルを右手で握りながら、「小守谷元基」とだけ書かれた半紙に向かって話しかけていた。彼の生前の写真は残っていなかった。うちはそういう家じゃなかった。そもそもカメラなんてものが存在していなかったし、幼き頃を写真に撮って将来幸せに見返そうなんていう思想が生まれるような家では無かった。今もどうしているか分からない毒親は、私たちを記憶に残そうだの、思い出を大切にしようだのそんな高貴な考えを持てるほど頭が良くなかったからだ。はっきり言って馬鹿だった。その後出会ってきたどんな大人よりも馬鹿で、能無しで、浅はかだった。自分の人生を自分で破壊して、他人に挙句の果てに迷惑を掛けるような非人間だった。私に人の愚かさも醜さも全て教えてくれたのもあの人だった。何であんな人間はのうのうと生き続けて、彼のような善良な人間が死ななくてはいけないのか。私には分からなかった。到底理解できなかった。理解したくもなかった。それが運命とか定めとかだとしても、私は受け入れたくなかった。けれど彼は逝った。逝ったのだ。自分で自分の道を決めて、もう手の届かないところに。
「私はね…最近…どうだろう。何にも無いや。元基に話せるような話は何も無い。だって、あんた私が色んな男に情愛売ってるって話、聞きたくないもんね。まるであの人と同じみたいだもんね。…私も社会のゴミになって誰かに消費されてる姿なんて、あんた見たくないもんね…。」
彼の屍が焼かれて骨となって出てきた時、私は死とはこういうものなのかと悟ったような気がした。全てが無に帰す。何処かへ身体は還ってゆき、後に残る無機物は何も語ってくれない。そこにはもう何も無いのだ。頭蓋骨を眺めてみても、手の骨を握るようにしてみても、彼の声は聞こえなかった。それはただのモノだった。塊だった。だから、こんなものかと思った。彼の骨を箸で摘まんで独り骨壺に収めていく時も、私は今後これだけを頼りに彼を弔っていくのかと不安に感じた。自分の中に残る彼の姿も息吹も失われた今、何を道標にして生きていけばいいのかと思った。こんなにも頼りないものに縋らなくてはならない自分を情けなく感じた。でも、それが死というものだった。
「あ…美波」
その時、誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。その声は、彼の墓前で静かに感傷に浸っていた自分を即座に現実に戻した。その声に良い記憶は一切結びついていなかった。その声音に、何一つ良い思い出は残っていなかった。私は左に振り向いて、その方をゆっくりと見上げた。そして立ち上がった時、その顔が見えた。その、顔が。
「……?」
「久しぶりじゃん。生きてんだ。」
「何で…」
…小守谷由美子……。その人こそ、私と元基をこの世に産み墜とした張本人だった。
私の前に現れたその人は、何日洗っていないのかも分からないボロきれのようなTシャツを着て、下は膝に穴の開いたジャージを着ていた。そして左手にカップ酒を携えて、季節外れのビーチサンダルを履いていた。こんな人間が街中を歩いていたら、きっと警官は職務質問をするはずだ。どこからこんな山までわざわざ来たのか、私は全く見当がつかなかった。そして、その人は私の顔を一目見て、吐き捨てるようにこう言った。
「何でも何も無いでしょう。久しぶり、美波ちゃん。」
「何の用…?」
私は防御姿勢を取るように一歩後ろへ下がって身構えた。この人に対する凄まじい拒否反応が私の身体を動かした。この人に近づきたい心など、何一つ無かった。
「…何の用って。」
「何しに来たの…?」
「久々に会った母親にそんな口の利き方はないでしょうよ。墓参りよ、墓参り。」
「…は?」
「だって今日、命日でしょ?あの子の。暇だったから来たの。今日は身体の調子も良かったし。」
「…暇だったから…?」
「何、文句ある?来てあげたんだから、感謝しなさいよ。」
「は…? 何の感謝? 自分が今、何言ってるか分かってる…?」
「逆にあんたが何言ってるか分からないけど。」
「…あっそ…」
「あ、あんたも?命日にお参りだなんて、律儀な姉ちゃんだねえ。さすが私の子。良い子に育ったねえ。」
「……ふざけんなよ……」
「あ?」
「…帰る」
「そう、せっかくの親子対面だっていうのに。残念だなあ。」
「…」
「今、どうしてるのー?大学生やってんだっけ。いっちょ前に大人になろうとしちゃって。それで就職して、全うな暮らしするんだ?いいねえ、あんたは私と違って真っ直ぐだもんねえ。元基もそうだったっけねえ。あの子は純真無垢過ぎたけど。」
「…その名前を口にしないで。」
「え?」
「だから、あの子の名前を、口にするな。」
「何よ…、私の息子よ?あんたにそんな事を言われる筋合いはないでしょ。」
「…自分の子にろくに相手をせず…、酒に漬かって…、私たちを捨てたあんたが…、彼の名前を口にする権利は無い…。」
「何、まだ根に持ってるの?私が元基の死に目にもやって来なかったことを。」
「だから!」
「へえ。弟思いのお姉ちゃんだねえ。惚れ惚れするわ。」
「……ね」
「は?」
「…死ねよ」
「何だって?」
「だから、死ねよって言ってんだよ!」
「…」
彼女はその缶を掴む左手から、刹那数滴を地面に落とした。コンクリートの地面に日本酒が染みて、その甘い匂いが私とあの人の間に漂った。私は鋭く睨むように彼女を見た。その目は赤く充血していた。酒の飲み過ぎで真っ赤になっていた。こんな人間に、元基の事を語られる筋合いは無い。こんな人間に、彼の名前を口にする権利など無い。子を産み墜とした後に何の手もかけずに他の人生に興じた親に、何の存在意義があるのか。自分勝手に命を作っておいて、その命をめんどくさがり、時に放棄し、そして見捨てる親に。一体、何の存在意義があるのか……。
「…何、私が死んだら満足するの?」
「…は?」
「そんなんで満足するんだ。まだまだ子どもだね…」
「は?何言ってんの。」
「子どもだって言ってるんだよ。美波ちゃん。」
「…」
その人は一歩一歩私に近づくようにして、私の直ぐ目の前で止まった。その吐く息からも甘ったるい酒の匂いがして、覗かせた口腔には欠けた歯が並んでいた。「はあー」と私に息を吹きかけた時、私はより鋭い目で彼女を睨んだ。この女を殺してやりたい……、そう思った。
「私が死んだって、何も変わりやしないよ。元基は自分で死んだんだ。もう還ってこないことくらい、お姉ちゃんにも分かるでしょうよ。」
「…そんなの、分かってる」
「なのに、こんなにもうじうじして、亡霊を追うように悲しく生きて。それで腹いせに私を攻撃して。目の敵にして。単純だね。単純。馬鹿なの?あんたは。」
「あんたが、馬鹿だよ」
「私と元基は関係無い。あいつも馬鹿だっただけ。自分にそんな権力も地位も無いのに、センコウの真似事して反感買って、それで自分を慰めるように死んだだけ。私に何が出来た?そんな馬鹿を産んだこと以外に、何か責める事出来るの? あんた。出来ないでしょうよ。せっかく大学に通ってるなら、ちゃんとお勉強しましょうね。それでも分からないなら、私が分からせてあげるよ。荒療治でもね。」
「…だから何?」
「は?」
「だから、何って言ってんの。」
「はい?」
昔、この人にも触れられたことがあった。それは何をして褒められたのか、いつの事だったのか、何も覚えていない。夏だったのか、それとも冬だったのか。どんな場面だったのかも覚えていない。けれど、匂いだけは覚えていた。また米の甘い香りだった。大人になって分かった、それが日本酒の香りだということを。彼女が私に触れた肌の記憶はその匂いに結びついている。私はそれを…今も追い求めていたはずなのに。
「…なに命日にこんな所来てんの。よりにもよって当日に、何でこんな所来てんの…。…馬鹿はどっちだよ。…忘れてないんでしょう。本当は。本当は、あの子のこと、ちゃんと覚えてるんでしょう…? 酒で縮みまくった小さい脳みそでも、この日の事は忘れられないんでしょう…?」
「……」
「本当の事、言えばいいじゃん。思ってること、気持ち、吐けばいいじゃん。だから酒にハマるんだよ。外面だけ繕って生きるようなことしてるから、酒に溺れるんだよ! 愚か。浅はかだし、淋しいね…。あんたこそ、淋しい人間だよ! 遅いんだよ。もう。もう、遅いんだよ。…今日の日に、ここに来てること、それが愛って言うんじゃないの! 何、今更。今更そんなの始めたって遅いんだよ! 死んでから目覚めてどうするんだよ。十何年もその時間はあったのに。あの子、あんたにそれを求めてたんだよ。あんたに、それを求めてたんだ。母親だから。それはどんなに頑張っても、何をしても曲げられない事実だから。母親であるあんたに、愛情を求めてたんだよ。…あんたに、守って欲しかったんだよ。何でそれも分からないんだよ! あんた、同じ人間なの? 私と同じ人間なの? 母親なんだったら、守れよ。息子が誰かに傷つけられてたら、自分の命に代えてでも守ってみせてよ! それが母親だろうがよ! 私には、私には無理だった。無理だったんだよ! どんなにあの子を守ろうとしても、あの子の味方になって優しくあろうとしても、私には超えられなかった。私は、所詮きょうだいだから。母親じゃないから。あの子にどんなにそれを注ごうとしても、偽物だから。…偽物だから!」
「美波、」
「私の名前も呼ぶなよ! 軽々しく、娘みたいに呼ぶなよ! 子どもはね、そんなに馬鹿じゃないんだよ。親が頼れないって分かったら、自分一人で強く生きようとするもんなんだよ。私も、元基も。そうだよ。あんたに関係無く、今日まで生きてきたんだよ!」
「美波…」
「うるさい! もう顔を見せるな、ここに来るな、二度と私の前に現れるな。」
「美波!」
「私があんたに感謝することは、その綺麗な名前をつけてくれた、その事だけだよ!」
私は墓地の坂を駆け下りるようにして逃げていった。外は雨が降っていた。雨雲で敷き詰められた空から、しとしとと雨が降り注いでいた。昔、この人にも触れられたことがあった。それは何をして褒められたのか、いつの事だったのか、何も覚えていない。夏だったのか、それとも冬だったのか。どんな場面だったのかも覚えていない。けれど、匂いだけは覚えていた。また米の甘い香りだった。大人になって分かった、それが日本酒の香りだということを。彼女が私に触れた肌の記憶はその匂いに結びついている。私はそれを…今も追い求めていた。
終章
十一月の半ば、世の中では衆議院選挙が行われていた。家の周りでも、大学の周りでも、そして事務所の周りでも街宣車が毎日うるさくひた走り、投票日までその騒音は鳴りやまなかった。事務所に置かれていた新聞に挟まれた選挙公報には見慣れた名前が書いてあった。
美木 耕三
この近くの選挙区から十三回目の当選を目指しての出馬らしかった。経歴の欄には党の要職を一通り舐め倒した文字が並ぶ。ゆくゆくは義理の先祖と同じく、総理を目指しているのか。どうせ何があってもこの人は通るのだろう。その白い歯を見せた顔写真は、確かに目元や鼻先が彼に似ていた。
「美波」
「…」
「ちょっと、美波、アンタ聞いてる?」
「…」
「美波!」
「あ、はい」
「何アンタ、選挙公報なんか見て、ぼーっとしてんの」
「いや…」
「いつからそんな真面目ちゃんに?」
「…」
「で、何だっけ。アンタのせいで忘れちゃったじゃない…。」
「…はあ」
「あ。…美波、またあのタワマン様から予約頂いたけど、どうする?」
「…?」
「だから、よ・や・く。」
「…え?」
リリーさんが事務所に居た私にそう告げた時、私は意外に思った。タワマン様。それはきっと、あの人のことだ。いや、間違いなく。あれだけ自分の感情を下手にぶつけておいて、喧嘩別れのような雰囲気にしておいて、それでもそんな自分をまた呼ぼうとしているあの人の気持ちが、私は良く分からなかった。正直、もう次は無いと思っていた。あれだけの衝突をしてそれでも私を求めるほど、あの人も馬鹿なはずがない。逆に私がそうやって考えている事も全て見通しているはずなのに。気づけば、あの日から数週間が経っていた。私は忘れようとしていた。こうやって今、冷ややかな目で自分を顧みる事が出来ているのはきっとそのおかげだった。率直に、まだ生きていたのだと思った。あの状態のままでは長くても年は越せないだろうと勝手に予期して、最後に失礼を働いてしまったと勝手に反省をした。そして、取り返しのつかない事をしてしまった自分を責めていた。あんな最後にしてしまったこと。彼にとっても、私に…とっても。それは心の底から、自分を責めていた。
「どうする?」
「…?」
「もう、最後にします…って言ってたけど。」
「…最後、ですか…。」
「だから、どうする?さっさと答え出してくれないと、アタシが困るんだけど。」
リリーさんは急き立てるように私に答えを求めた。カウンターの中で空のワインボトルをぐるぐると回しながら、私のじれったい様に苛立ちを隠すことをしなかった。けれど、リリーさんは私に聞いていた。命令でも指示でもなく、私に選択を迫っていた。
「…リリーさんは、いいんですか?」
「は?」
「…リリーさんは、こんな私に行かせて、いいんですか?」
私は店長をじっと見つめ、その答えを待つようにした。私は答えを委ねていた。自分で決める自信など、もう何処にも無かった。
「なに、自分でちゃんとわかってんの。」
「…え?」
「だから、アンタがもうおかしくなっちゃってるってこと。」
「…」
「アタシに何て答えて欲しいの。行けとでも言ってほしいわけ?」
「いや…」
「はあー。めんどくさ。」
「…?」
リリーさんは持っていたワインボトルをドンと置き、睨むように私の目を見た。両手をはたくようにパンパンと音を立てると、少しずつ私ににじり寄った。そして私の目の前まで来て、私にこう言った。
「アンタは、どうしたいの?」
「…」
いつものおちゃらけた調子も明るいテンションも無く、店長はいたって真面目だった。私はむしろその態度に気圧されていた。リリーさんは真剣な面持ちで私を見ていた。
「どうせ、行きたいんでしょ…?」
「…いや」
「外身はそんな気無いですみたいな顔しちゃって。あー辛気臭い!臭い臭い!換気に窓開けないといけないくらいじゃない。そ、結局こうなのよ。アンタみたいな若いのは、むしろしょうがないけど。」
「…どういう、事ですか…?」
「アンタは隠蔽工作も下手だし、自分の気持ち隠すのも下手。何もかも下手なクソブス。おまけにプロ意識ゼロ。正直今すぐにでもクビ。クビ一直線よ。」
「なら、」
「なら何?私はあくまでアンタの雇用主。アンタの親でも、教師でも無い。アンタが何考えてようと、何思っていようと、アタシには知ったこっちゃないわ。」
「…」
私の眼前でリリーさんはそう言い切った。それは私を否定する言葉でも促す言葉でも無かった。その言葉通り、自分は何も関与したくないという思いが全面に出ていた。
「何年だっけ。」
「…はい?」
「アンタの弟がここから飛び降りてから。」
「…」
「もう、四年くらいになるか。あれから。」
「…はい」
リリーさんは全てを知っていた。私が生きてきたこの四年も、そしてそれ以前の過去も。
元基は、このビルの屋上から飛び降りた。よりにもよって横浜の外れの汚いビル街からこのビルを選んで。その屋上についた細いフェンスを乗り越えて、アスファルトの地面に向かって飛び降りた。彼は足から落ちた。死にたければ頭から落ちれば一瞬なのに。だから発見された時、彼は瀕死だった。まだ息はしていたらしい。そう、リリーさんが言っていた。
「こないだ、命日だったでしょ。」
「…ああ…」
「ちゃんと、墓参り行ってあげたの?」
「…まあ」
「そう。アンタもホントに弟思いね。」
「…」
「あの時から、何も変わらない。顔がブスなのも性格がブスなのも。ぜーんぶ、ブスなのも。家に恵まれなくても雑草みたいに生きて、それで弟も守ろうとして。今度は自分の生活のためにこんな社会の掃き溜めにみたいなところに来て、クソみたいな男相手に働いて、お金稼いで。」
「…」
「まだ、恨んでんの?」
「…?」
「あのクソバア。弟の葬式にジーンズで来たアマをよ。」
「…」
「ていうか、まだ生きてんの?アイツ。ああいうのがのうのうと生き残るのがこの世の中の不思議よね。七不思議。まあ、ああいうの、にはアタシみたいのも含まれるのだろうけど。」
「…生きてますよ」
「ん?」
「居ました。こないだ墓参りに行ったら。」
「…ああ、そう。最悪だわそれは。」
「最悪でした。…まだのうのうと、生きてましたから。あの人。」
「そんなもんよ、人生は。死んで欲しい人間は死なずに、死んで欲しくない人間が死んでいく。そんなもん。」
「…そう、ですね。」
リリーさんは、私に問うた。
「アンタ、行きたい?」
「…」
「あの人に、見つけられたの?」
「何を、ですか…?」
「ああーもう、勘が効かない鈍いブスも嫌い。皆まで言わせないで、皆まで。」
「…」
「だから、アンタにずっと欠けてたもの。アンタが生まれてこの方追い求めてきて、また無くして、探してたもの。」
「…ああ…」
「見つけたの?そこに。」
「…」
「みづきから聞いた。ていうか、アタシも気づいてた。美波、元々変わってるけど、最近はもっと変。この頃は最悪に変。」
「…」
「どうする、タワマン。アンタじゃなくて、みづきに行かせようか?」
「いや、」
「じゃあどうするの、早く決めてちょうだい。」
「…やっぱり、高い」
首を目一杯曲げても、その頂上までは見られない。何枚もガラスが縦に連なっていき、雲と同じくらいの高さにアンテナか何かが立っている。秋の強い北風がそれを大きく横に揺らしていた。私はベージュのコートに身を包み、初冬の寒さを額で感じていた。東京湾から吹いてくる海風は嫌というほどに冷たくて、そこに含まれた湿気も氷のように肌をピリピリとさせた。
「最後、か…」
それもまた水曜日だった。その日まで何事も無く、キャンセルも出なかった。それはきっとあの人がまだ生きているという証だった。あの孤城に独り、今も寝ているのだろうか…。その日が近づくにつれて私はどこか憂鬱な気分になった。それは様々な感情が混ぜ合わさった結果だった。恥も淋しさも切なさも慕情も、全てがそこに詰まっていた。
「寒い…」
何を以って彼は最後と言ったのか。その言葉に込められた意味を私は探していた。何故、どうして。…彼はもうきっと、あと数日というところなのだろう…。彼は自分の死期を、ちゃんと知っているはずだ。数週間前でも…、あれだけ苦しんでいたのだから。それを考えると、彼の嘆願を一蹴してしまった自分が…ますます恥ずかしくなった。自分の小ささが自分でも痛いほどに染みて感じられた。
「…ザ・ヘヴンです。」
見慣れた大きなエントランスで、私は何度も打った彼の部屋番号をインターホンに押した。玄関横に据え付けられた呼び出し機は今日も表面がしっかりと磨かれ銀色に渋く光っている。部屋番号を押すとすぐに呼び出し音が鳴って、私はそこでまた返事が来るのを待っていた。もう、警備員は私のことを詮索するようにじろじろ見てくることはしない。何度もやって来る私の顔に見慣れてしまったのか、脇からすっと顔を見せると私を一瞥して、すぐに自分の仕事に戻っていった。
「…」
「美波です…」
「…」
すると、不意にエントランスのドアが開いた。私よりもはるかに背丈の高い二枚ドアが左右に大きく開き、私はその中へと招き入れられた。いつも通り、何も声は聞こえなかった。そして華やかなロビーには噴水が高く水を上げて、木枯らしの季節にも緑と花々がその周りを囲っていた。今日もその片隅でコンシェルジュが座り、誰かからの電話を受けていた。
「何階、だっけ」
エレベーターで昇った先には、曇り空に薄く陽が差していた。雲の隙間から漏れ出た日光は光の筋のように地上に届き、そこだけ小さな日向を作っていた。中途半端な十四階から見える景色は何の変哲もない景色だった。
「1402…」
廊下を歩き二号室の前に辿り着くと、私は一度ドアベルを鳴らした。本来の機能を失っているのに、私は無意識にそれを押していた。不注意な自分に気づいてから、何も返事が無いのを確認してドアノブを回した。頭上で電気のメーターがじりじりと音を立てて、中でまだ誰かが生きていることを無機質に刻んでいた。そして、ドアを開けると凍えるような冷気が足元を通り抜けてゆき、季節を無視してエアコンを点け続けていることの変わりなさを私は知った。
「浩さん、入りますよ。」
私はヒールを丁寧に脱いで、その廊下をゆっくりと歩いていった。
「失礼、します」
様々な記憶が蘇る。
初めてここに来た日、その豪華な建物にまずは驚き、勝手が分からずに疑心暗鬼のまま部屋まで進んで。そう、切り裂きジャックの事を思い出した。自分がこのまま殺されるのならと考えた時、自分の未来の薄さと無気力さにふと気づいた。そして現れたのは…寝たきりの青年だった。まるで誰かが仕組んだいたずらのように。その人は、顔は整っているのに性格が捻じ曲がっていて、私のことを執拗に詮索し、自分を蔑んでは他人を困らせるような質問や発言をして、独りを楽しんでいるようだった。そうやって人に対している様が、まるで弄ばれているような気分だった。そう。私は一度、逃げ出した。そのあまりの異様さに、そして過去の自分のフラッシュバックに怯え、ここから逃げ出したのだった。元基と…彼が重なった。ここは、死ぬ間際あの子が寝かしつけられていた光景そのものだった。清潔なベッドを雑多に機械が囲んでいる様も、そこで薄幸に寝ている様も、全てあの時と同じだった。でも、彼は私を呼んだ。私を呼びつけて、この孤城にまた来て欲しいと言った。そのくせに雑用を押し付けて、暇さえあれば余計な詮索をして。ある時は私に水羊羹を頼んだ。ゴム風船に包まれた水羊羹を楽しげに割って、美味しいと唇を汚しながら食べていた。彼はそれを思い出の味だと言った。大きなペットボトルから水を汲ませて、それを難しい方法で飲ませろと言い。私は彼の乾いた唇を拭いてあげた。髪も切った。台所のキッチンバサミでそのパーマのような髪を無心に切った。その髪型は可笑しかった。我ながらやってしまったと、そう思った。そしてある時は、アイスのチューペットを買って来させた。水色は何色かと彼は聞いた。難しい、哲学的な質問だった。私はソーダ色と答えた。それは私にとって思い出と結びついた大切な色だった。あの子との、大切な思い出の。それから、ソーダ色の海を見た。よりにもよって生まれ育った茅ケ崎に連れ出され、誰も知らない天使浜に案内された。彼は死にかけの身体を車椅子に乗せながら、私一人にギターを背負わせて、海辺を走っていった。私は天国のような浜辺で彼のギターを聴き、彼の音の記憶をこの耳に宿した。サザンオールスターズ。彼は言っていた。音と匂い、そして味は他のどんな事よりも人の記憶に残るのだと。でも、肌の記憶も、この掌の中にある。彼は、それを求めた。私の手を取って、頭を撫でられることを。それは親との記憶だ。彼が追い求めていた愛の源だ。彼と私は天と地ほどに生まれ墜ちた環境も何もかもが違うのに、同じものを追い求めていた。誰かによって与えられなかった愛を。誰かが満たしてくれるはずだった、欠けてしまった愛を。しかし、彼と私は違った。彼は時に死を求めた。その死期を悟って。その生から逃げ出したいと思った。そして望んだ。……誰かに殺めてもらうことを。
「…」
「…みな…み…さん…」
「…」
部屋に入ると、何一つ変わらないその場所で彼が小さくなって横たわっていた。そのベッドの上には薄い掛け布団が一枚だけあって、それ以外は病衣に身を包んだ彼がそこに居るだけだった。機械の音は以前よりも大きく、速くなっていた。ボンベから送られる酸素の量も目盛りを見ればそれが最大値であることが容易に分かった。そして彼の身体も、まるで日に焼けてしまったかのように茶色い肌が全面を覆いつくしていた。まるで日焼けマシンにずっと入っていたのかというほどに、彼の肌は全てがシミで染まっていた。
「…きて…くれたんですね…」
「…はい」
「…ありが…とう…ございます…」
「当たり前、ですよ…」
私は彼のその手を握った。何の躊躇も無く、何の戸惑いも無く。その手を取って自分の掌と掌で温かく包むようにした。冷たい。氷のように冷たかった。この温度だけでは生きているか死んでいるのか判断するのが難しいほどに、彼の身体は冷えていた。そして、ほろほろと溶けてしまいそうなほどにその手は腑抜けていた。全てが細い飴で出来ているかのように。それを折らないように私は彼の指に触れた。関節という関節が黒くなって、まるで小枝のように見えた。細い木の枝を握っているような、そんな感覚だった。
「……は……です…」
「…はい?」
「…きょうは…さいごです…」
「…」
「……あなたと、あうのは…これで…さいごです…」
「…はい」
「いろいろと…あやまらないと…いけませんね…」
「…?」
浩さんは私の手を握り返すようにしながら、私の目を見てそう言った。発する言葉全てが粉雪のようにすぐに溶けて無くなってしまいそうだった。私はそれに耳を傾けて、彼の速度に自分を合わせた。
「……ぼく…は…ずっと…いなくな…りたいと…おもって…ました……」
「…?」
「…はやく……きえて、たい……くつで…たん……ちょうな……ひびと、…いた……いたしい…うん……めいから…にげ……だし……たいと…おもって……いまし……た……」
「…」
「でも、……くちほど…いく……じはない……から…じぶ……んで…いのち……をたつ……ことも…こ……こからとび……おり……るとか………そん……なことも…でき……ないまま………このが……らすの…こじょうで…すう……かげつを…すご……しました………」
「…」
「…ほんと……うに、いく……じなしだと…おも……いま……す…。このよ……なんて…どう……でもい……いとか…うそぶい……てる…くせに………じぶんに…けりも…つけられ……なくて………。やっぱり…ぼくは…くちだ……けの…にんげ……んでし……た………」
「…浩、さん…」
「それで、きづ……けば…だ……れかを…もと……めて…まし……た………。おもい……きって…とび……だした…さきの…こじょ……うでの…くらし……が、だん……だん…ぼく……のさび……しさを…ぞ……うちょう…させて……、この……まま…ひ……とりで…しに……たく……ないと…お……もった……。」
「浩さん、」
「……そし…て、し……ぬまえに、…に……せもの……でも…いい……から………ぎじ…で……もい……いから、…だれ……かに…あいさ……れてみ……たいと…おもっ……た……。…ふれ……られた…いと…お……もった…。…だから、…みなみ…さんを…よびま……した…………」
「…ねえ」
「さい……しょに…そつ……ぎょう…した……いって…いった……のは、…はんぶ……ん…ほんと……うです…。…そう……したら、いちば……んらくに…しね……る…かな……って…。ふふ……。…もし…それ……が…じぶ……んを…あいし……てくれる…ひとだ……ったら…………、もっ……と…しあ……わせに………、おも……いのこし…なく…いけ……るかな…って………」
「…ねえ、浩さん……」
「……いけ……るかな……っ……て」
「………それが……、願いですか………?」
「…」
「それが……、それが、浩さんの…最期の……願いですか………?」
「………」
私が問いかけても、彼は何も言わなかった。彼は確かに目を開いていた。意識はまだあるようだった。朦朧としていても、私の声は微かに聞こえているようだった。
「…みな…み…さん…」
「…はい?」
「…ぼく…に…」
「…はい」
「ぼ…くに…、…あい…を…くだ…さい…」
一つ、能力と判断の限り患者に利する養生法をとり、有害な方法を決してとらない…。…二つ、たとえ頼まれようと、人を殺める薬を与えない…。…その何が、何が正解だと言うのだろう。その正しさで、誰を救えると言うのだろう。私は……、私は、彼に死んで欲しくなかった。決して、彼の死を導くことなど、自分がすることは出来なかった。したくなかった。彼に、まだ目の前で息をしていて欲しかった……。ここに居て、私の傍にいて欲しかった……。けれど。それを彼は求めていなかった…。彼が求めているのは、愛だった……。
「…ぼ……く…は…」
「…?」
「ぼ…くは……、あな…」
「…」
「……ぼ…くは……あな……た…と…、」
「?」
「……あなた…を…おぼ…えて…い……たい…」
その言葉に、私の感情は堰を切ったように止めどなく溢れ出した。混じり合って訳が分からなくなっていたその全てが、嗚咽となって外に漏れ出した。彼にもたれ掛かるようにして、彼の清布に顔を押し当てるようにして、その爆発する感情を外に当て散らかした。
「…好きです。私は、どうしようもなく、あなたを好きになってしまいました! 好きで、好きで、それが苦しくて。そんな人が消えるのが……心臓を抉られるように痛くて、苦しくて。どうして。何故。なのにあなたは、もう逝こうとしていて……。…愛している。愛しているのに…。なぜ。なぜなぜなぜ! 好きとかそんな簡単な二文字で言い表せないほどに、私はあなたを愛しているんです! なのに。なのに、なんで!」
「…みなみ…さんの…にお……いも…、…こえも…、きっと…おぼ……えて…います……から…」
「ねえ!」
「…そして…いっしょに…みた…けし……きも…、…あ…なた……が…ふれて…くれた…ての…ぬくもりも…、きっと…わすれ…ません……から…」
「浩さん!」
「……みな…み……さ…ん…?」
「…あなたは………あなたは…、……それで良いんですか…?」
「…?」
「…本当に、あなたはもう……、逝ってしまいたいんですか………?」
「……」
「それは本当に、…あなたが心の底から望むことなんですか…? 私がどんなに逆らっても、歯向かっても、貫き通したい意志なんですか……?」
「…」
「この一時間は…この、一時間は、最後の時間は、あなたの時間です…。だから、私はあなたのものです…。あなたが、決めてください…。私は…、私は、それを受け止めますから……。多分簡単には受け入れられないけど、…受け入れられないけど……受け入れます。だって、あなたの願いだから…。大切なあなたの…、最期の願いだから……。」
「…」
「だから……もう一度聞かせてください……。…あなたの願いを、私に聞かせてください!」
「…!」
「…」
「…ぼく…は…」
「…?」
「……ぼく…は…それ…でも…、あ…なたの……こと…を……、みなみ…さんの…ことを…おぼえ…て…いたい…」
「…え」
「…あな……た……の、きお……くを……この……からだ……すべて……で……おぼ……えて……いたい……です……」
「…」
私は彼の頬に触れ、それから彼の青紫の口にそっと唇を落とした…。乾いていた。それでも微かに押し返す肉感が彼の生と性を象徴していた。私は瞳を閉じた。その唇に感じるもの全てを心で感じ取ろうとして。鼻腔から漏れる彼の吐息も、人差し指に触れている剃り残した青髭も、私の五感が味わうように感じていた。彼の瞳を見つめた。彼はその亜麻色の瞳をそっと閉じて、私はもう一度彼の唇に口づけをした。これは彼への誘いとなってしまうことを私は自覚していた。それでも、たとえそれが死を招いたとしても、誰かと繋がることが愛されている証であり、自身の存在証明であるから。それは彼も私も…同じなのだから。
「…すき……だ」
「?」
「……みなみ……さんが…すきだ…」
「…!」
私は自分の感情を忘れて、彼の肌に自分の肌を塗り込むようにその熱を彼に与えようとした。少しでもいいから、少しでいいから、彼がまだ近くに居られますように。そう願いながら私は彼に触れた。…彼は笑っていた。その強ばった皮膚に小さな皺を作って、はにかむように笑顔を見せた。それを見て私は、また彼を抱くようにその胸へと飛び込んだ。彼の心臓の音が聞こえた。トクトクと小さな音を立てて動いている、彼の源の音が聞こえた。そして彼は透けた私の胸元を見て、「…それ…かわいい…ね…」と呟いた。それは私が着けていた下着だった。私は左肩を少し捲るようにして、その肩紐とその先を少しだけ彼に見せた。彼は「…にあって…るよ…」と似合わない言葉を私に吐いて、私はそれに「今日のために、新調したんですよ」と冗談で返した。
「…ふふ……」
「私も、好きです…」
「……?」
「私も、あなたが好きで、好きで、好きでたまりません。…だから、だから、……あなたと繋がりたい。あなたの全てを知りたい……。私の全てを知ってほしい……。それが許されない事であっても……、あなたを連れていくことであったとしても。…でも、私は……あなたと、……あなたを覚えていたい……。自分の身体に、あなたを残したいです……」
彼は私を細い腕で抱いた。私の重みも熱さも全て受け止めるようにして、私は彼に与えるようにして。
「…あり…がとう……」
「……」
「さよ…なら……」
彼の瞳は、澄んでいた。
その骸も、何もかも、…彼は綺麗だった。
たとえもう手の届かない場所に逝ってしまったとしても。
私の中の彼は聡明な美木浩、そのものだった。
…私に愛をくれたその時のままだった。
完
向こう天
この物語はフィクションです。
もし同一の名称があった場合も、実在する人物、団体とは一切関係ありません