ゆずる
友人と食事の約束をして、早めに店に着いたので文庫本を読みながら待っていた。
ややあって現れた友人は、席につくなり鼻息荒く「ちょっとちょっと、さっき乗ったバスで、若い子に座席譲られちゃったのよ」と言った。
「で?座ったの?」
「まさか!」
だろうな、と私は思う。
彼女は私より年上の六十代だがとても元気で、お年寄り、という雰囲気の正反対。ただし、客観的には孫がいてもおかしくない年齢であり、若者から見れば多分、シニア女性の枠に振り分けられるはずだ。
「バスはけっこう混んでたから、スムーズに降りられるように移動してたのね。それでちょうど、優先座席のそばに来たら、座ってた男の子が慌てて立ち上がって、どうぞとか言うから、冗談じゃないわと思って」
そこで友人は出されたグラスの水を飲む。
「私がそんなお婆さんに見える?大体あなたそこ、お年寄りと身体の不自由な人の座る席なのよ、判ってる?って注意してやった」
「へーえ」と相槌を打ちながら、得意げな彼女の顔を見る。
正しい事を成し遂げたという達成感で晴れやかだけれど、言われた側の若者はさぞかし面食らっただろう。
「でも、そうやって譲られたら、断るのも悪い気がするから座るかも。でなければ、すぐ降りますから結構です、って言うかなあ」
私の煮え切らない答えに、友人は確固たる口調で「優先座席に私が座らないのには、理由があるの」と言った。
「まだ働き出してすぐの頃だけどね、全てにおいて目標にしていた憧れの女性上司がいたのよ。ある日、その上司と客先に行くことになったの。初めての客先だった事もあって、帰りは本当に疲れちゃって、地下鉄で座った途端に眠りそうになったわ。
でも上司と並んで座ってるのに、それはない!と思って、必死で耐えてたの。そしたら急に彼女が立ち上がってさ、何だろうって驚いてたら、目の前に立ってたおじいさんに席を譲ったの」
「あなたはおじいさんに気づいてなかったの?」
「そう。眠気と戦うのに必死で」
「それはちょっと気まずいね」
「気まずいなんてもんじゃないわよ。穴があったら入りたいって、ああいう状況を言うのよ。もう、いたたまれないじゃない。大学出たての私がちーんと座ってて、三十代の上司が立ってるの。それに言うまでもないけど、客先で仕事の話してたのは上司だけでさ、私は横にいて、自己紹介して名刺渡した後はずっと、そうですねーって頷いてただけだもん。それだけでもうバッテリー切れてたの」
「そこはまあ、新人あるあるじゃない?」
「駄目。もう完全トラウマよ。その上司って、部下の過ちをいちいち正そうとしない人でさ、ただ、自分が手本を見せてそこから学ばせるっていうやり方なの」
「それはでも、できる奴だけついて来いで、一番厳しいやり方かもね」
「かもしれない。とにかく、私はそれ以来絶対に優先座席には座らないと決めたのよ」
なるほど、と私は少し納得する。しかしだからといって、自分に席を譲ってくれた若者に、その対応はないだろう、とも思う。
彼女が抱えているのは自責の念であって、他人を責める理由にそれを使えば、攻撃だと受け取られかねない。
それに加えて、混雑したバスの車内で、迷惑な乗客の上位に入るのが、何がなんでも優先座席に座らない人、だとも思う。
ぎゅうぎゅうに人が詰まっているのに、ここには絶対座りません!と言わんばかりに空いた優先座席をブロックして立ち続ける。周りは「早く、早くその優先席に座って、少しでも通路の空間を増やしてくれえ!」と願っているのに。
もしこういう人が過去に、優先座席に座ってしまったせいで注意された、という経験をしていたなら、何とも因果な話である。
この事を友人に伝えるべきか、否か。答えが出る前に注文していた日替わりランチが来て、私たちは全く別の話題にとりかかった。
ゆずる