青かびの女

青かびの女

幻想ミステリーです。

 朝、女はベッドからおりると、シャワーを浴びににいった。パジャマを脱ぐと、均整のとれた、だが筋肉質ではない、やわらかな姿態が鏡に映った。
 湯をだして、手で温度を確認すると、その下にたった。頭髪のなかに、42度の湯が勢いよく注がれ、あふれて肩から背に落ちてきた。女は体の向きを変え、豊満な二つの乳房の間に流れてくる湯にくすぐったさを感じた。足の先から流れておちる湯が緑色に見える。だが、すぐに透明の湯となって、排水漕に消えていく。子どものころからいつもそうだ。
 シャワーノズルを壁からはずし、からだの隅々まで湯を打たせた。
 今日はシャンプーをする日だ。肩まで伸ばしている髪を洗うのはちょっと面倒だ。二日にいっぺんほど洗っているが、本当は一週間に一度にしたいくらいだ。
 女は風呂にはいるのも好きだし、シャワーに打たれるのも好きだが、石鹸をつけて洗うのは面倒、シャンプーで髪を洗うのも面倒、と思い込んでいる。
 仕事はシフト制なので、夜の帰りが一定ではない。遅いときは、夜の十時か十一時頃だろう。夕食をすませ、帰るとすぐに風呂にはいる。湯をちょっとからだにかけると、すぐにバスタブに飛び込んで、足をたてて、首だけだして体を沈める。眼を閉じて、十分も二十分もそのままでいて、いきなり立ち上がってバスをでる。そのまま、バスローブに身をつつみ、夕食の用意をする。夕食と言ってもつまみに毛が生えたようなもので、買ってあった出来合いをならべて、ビールを用意するだけである。
 からだが乾くと、パジャマをきて、用意したものを食べて、ビールを飲む、そのあとはウイスキーを飲みながら、テレビをみる。眠くなったら寝る。そんな毎日だ。
 それで、頭を洗うのは朝にきめていた。
 女は風呂の椅子に腰掛けると、髪にシャンプーをつけ、頭皮に爪を立てこすると、丁寧に泡立て、髪を柔らかくもみほぐす。そのあと、シャワーで念入りにシャンプーを洗いおとす。それに十分もかけることもある。そうしないと、緑のこけが落ちない。
 乾きたての、かすかに風呂場の匂いの残るさらさらした髪の毛が好きだった。
 その日も入念にかわかして、朝食の用意をした。朝は以外とまじめに、イギリスパンをチーズやハムと食べ、紅茶を飲んで、最後はヨーグルトを飲む。
 片づけ終わると、鏡の前で顔を整える。化粧はほとんどしない。口紅の代わりにグリセリンを唇にぬる。顔にはへちま水をたたいて、それで終わりである。要するにすっぴんである。
 女が鏡を見て、おやという顔をしている。
 髪の毛が緑っぽく見える。緑のこけが落ちきれなかったのかしら。いつもまっ黒な髪で、漆黒の髪ねとみなからうらやましわといわれる。
 本当に黒いね、と男がさわる。下の毛も同じである。色の白いきめの細かい肌に毛の色が映える。だが、ときに緑色がまじる。彼女は緑のこけといっている。
 今日は鏡に写っている頭がちょっと緑っぽい。子供のころから、朝顔を洗うと、ためた水が何となく緑っぽくなった。一度母親に見てもらったが、おまえの目のせいだよと相手にされなかった。
 ともかく、気分はいつもの朝とおなじだ。すかっとしている。彼女はすぐに頭のことは忘れ、出かける用意をした。今日はエレベーターガールである。
 仕事は都内の大きなデパートのベテラン案内嬢。インフォーメーションの前で客の応対をすることもあり、もようしものがあるときは、特設会場の応援に出かける。今日は土佐の物産展があるので年寄りが集まる。いつもは案内係のいないエレベーターだが、そういったときは、エレベーターの操作をして、年寄りを誘導する。
 電車で都内まで二十分、しかも駅の近くのマンションに住んでいることもあり、家を出るのはゆっくりしている。昨日は遅番で十時までだったが、今日は早番で八時半までにいかなければならない。
 用意を調えてマンションの目の前にある駅にむかった。家を出たときに、いつよりからだが重い。昨日の疲れなどはないはずだが。
 デパートの事務所に着くと、主任が、今日は予定変更よ、エレベータにはのらなくていいわ、特設会場で直接整理をお願いね、といいにきた。土佐の物産展は日曜日まで三日間おこなわれる。担当は決まっていたはずなのだが。
 子育て中の女性は、子どもの送り迎えなどがあるため固定シフトだが、彼女は独り者で、体力のある方なので、変則のシフトに対応している。最近多くのデパートは年末年始をのぞいて休むことはない。働いている人は、自分に会わせたシフトを組んでもらっている。時間が自由になる女はとても重宝がられてはいる。そういうことで、彼女の有給休暇日はずいぶんたまってしまった。
 いつもと違うのはなぜとおもい、主任の顔をみると、主任が会場案内の担当者が二人ともインフルにやられたのよ、肺炎をおこしているわ、私とあなたで代わりをやってくれと、課長から言われているのよ、と説明をしてくれた。
 女は子供の頃から風邪をひかない子だった。
 土佐の物産展だとお酒目当ての人が多いだろうから、年寄りは少ないだろうと言う思いが脳裏をかすめたが、カツオ、民芸品もを思い浮かべ、それを否定した。
 主任と会場にいって、客にわたす会場マップをみながら、参加している商店や会社のブースを確認してまわった。開店は十時である。大きな酒屋には担当者がまだきていなかったが、新規参入したと思われる日本酒の蔵元では、若い店主と中年の社員がもう準備を始めている。
 そこを通りかかったときに、女は茶色のTシャツに黒色の半纏をを羽織った若い店主と眼があった。
 女は主任とともに、ごくろうさまです、と挨拶をした。
 店主はわざわざコーナーからでてきて、始めてなので、よろしくお願いします、と頭をさげた。案内の者にわざわざ頭を下げるような人は少ない。大店の人は物産展慣れしている。
 明るい気持ちのいい青年である。女は自分よりだいぶ年下だなと思って、青年の左手の指に指輪があるのをちらっとみた。銀色に光っている。きっと結婚したてだ。後ろにいた社員が番頭のようだ。落ち着いた感じだ。私より十も年上だろうと見当をつけた。
 番頭らしき人物が社長より前にでると、隣の主任に、できて十年目の新しい酒屋で、ご贔屓にお願いします、と頭をさげた。客をここに誘導してほしいという挨拶である。主任は女より五つほど年上だが、若く見え、どちらかというと、女の方が主任のようにみえる。それを見極めて、本当の主任に挨拶をした。この男がこの酒屋の大黒柱に違いない。
 主任とともに、こちらこそよろしくおねがいします、と頭をさげ、海産物店が集まっているコーナーにむかった。
 十時の開店から少したつと、以外と若い男性の客が最初に会場にはいってきた。
 案内テーブルにおいておいた会場のマップを片手に、とある日本酒のメーカーのところにいった。なかなか手に入らない酒が出品されているようで、それだけを買うと会場をあとにしていく。
 酒のコーナーにいってみると、日本酒をあまり飲むことのない女でも知っているメーカーで、売れていたのは、五合瓶で一万円に近いものである。見本に出されている一本を見ると、ウイスキーかブランデーと見間違えるほどの凝った容器で、茶色のフラスコ型だ。
 これだと、洋酒を飲ませるような店に置いておいても目を引くだろう。外人にも受けがいいに違いない。
 女が視線を感じ、振り向くと、少し離れたコーナーの、朝に挨拶を交わした新規参入の酒造所の若い社長が女を見ていた。試飲用の紙コップを載せたお盆を持ちブースの前でたっている。あたりに客はいないが、まだ開店したてである。酒に興味のある客は仕事が引けてからの時間にくるだろう。
 午前中と午後早くは年のいった女性が、食品や衣類を買いにきたついでによるといった風景がみられたが、夕方になると、女が思ったとおり、仕事を引けた男性がふえてきた。酒の店をのぞき込んでいる中年男性が店員とやりとりをしている。あの新しい店でも、試飲をさせてもらっている背広姿があった。
 金曜日だから、会社をすこしはやくでる人も多いのだろう。若い人たちは町に飲みに繰り出すのだろうが、家庭持ちの中年男性は、家でゆっくり好きな酒を飲みたいという人も多いようだ。
 閉店は夜の八時半である。女はその日、特に問題もなく仕事を終えた。
 主任からあと二日間、会場を担当するように言われて仕事場をでた。九時をすぎている。今日も残業になった。
 その日は新宿でいつもいく食事処で定食を食べた。店をでて、ちょっと飲みたい気持ちもあったが、家で飲むことにしようと駅に向かった。
 並びの店から、数人の男女が楽しそうに話ながらでてきた。気持ちのいい飲み方をした集団だ。そう思って彼らのほうをみると、その中の男が二人、いきなり彼女に視線を向けた。
 彼らは、あ、っという顔をして、女のほうに近づいた。
 誰かと見ると、物産展で始めて出店していた、新しい酒造所の社長と社員の顔が、飲み屋からもれる明かりで浮かびあがった。
 「今日はお世話になりました」
 中年の男が、そういっておじぎをすると、若い男も頭をさげながら、
 「おかげさまで、かなり売れました、ありがとうございました」
 と言って顔を上げた。柔和な顔をした人だ。
 一緒に飲んでいたと思われる、一緒に店から出てきた男と女たち集まってきた。
 「うちの社員です、東京ははじめてで、みな喜んでまして」
 若い社長が言って、中年の男が
 「明日も会場にいらっしゃるのですか」と聞いた。
 女は「ええ、よろしくお願いします」と軽くお辞儀をして立ち去ろうとしたのだが、中年の男が、「どうでしょう、よろしかったら、どこかでちょっとビールでも、物産展ははじめてでして、様子など教えていただければ、ほんの三十分でも、若、いいですよね」、
 そう言って若と呼ばれた男と女を見た。 
 番頭さんが会社を思う気持ちで誘ってきたのだろう。何となく迷っていると、中年の男は「あんたたち、好きなところで遊んどいで、明日も頼むよ」
 ほかの社員に財布から札をわたした。東京は初めてという社員たちはお礼を言って、どこに行こうかなどと言いながら駅の方に歩いていった。
 こうなるとつきあうしかないか、女はきめた。今日はちょっと飲みたいとも思っていたところでもあった。
 「少しならいいですよ」
 女は酒が強いし好きである。
 「私も東京は久しぶりで、店を知らないのですが、ご存じのところがあれば」
 中年の男は丁寧なもの言いだ。
 「それじゃ、知っているところご案内しますわ、お泊まりになっているのはどちらです」
 「そこの、プリンスです」
 「そうですの、その近くです」
 女はほんのたまに食事をしたあとにウイスキーバーにいく。知った男がマスターをやっている。目立たない路地の角の地下にある。
 先に立って階段を下りると、木の重い扉を引いた。数人座れるカウンターとテーブル席が二つあるだけでの店だ。男の客が一人、奥の端に腰掛けて飲んでいる。
 「いらっしゃい」
 カウンターにいた背の高いおとなしい眼をした男が女を見た。
 「ひさしぶりです」
 「ほんとだね」
 この男は、十数年もまえのことだが、ちょっとつきあっていた。女にとって初めての男である。大学生のときだ。そのころ男は司法試験の勉強をしていた。仲良くなって彼のアパートにいくと、彼も初めての経験で、震える手で女の体をまさぐった。君の体は緑色だね、そういいながら、弱々しく女をだいた。その後何度か逢瀬を重ねたが、男が肺炎から結核になり女から離れた。大学をいつ卒業したのか知らなかったが、女が新宿のデパートに勤めるようになって五年ほどたったとき、ウイスキーが好きだった女が、たまたま見つけたこの目立たない店に入り再会した。まさかバーテンになっているとは思っていなかった。それからたまにくるようになった。今はそれだけの付き合いである。
 女がカウンターに腰掛けると、隣に若主人、その隣に中年の男がこしかけた。
 「僕はウイスキーはわからないので、こういうところに来たことがありません」
 若主人がいうと、「私もです」と中年の男がうなずいた。
 マスターがなににしますとたずねると、中年の男が、女に、「なにがいいでしょうか」と聞いた。
 「私はいつも最初はローズバンクだけど、マスターにおまかせしたらいかがです」
 女がいうと、「それじゃ、マスターそれおねがいします」と若主人が頼んだ。
 「水割りですか」
 マスターが聞くと、若主人も番頭もうなずいた。
 女はいつもロックである。
 女が「土佐の酒造りの社長さんと、おそらく番頭さん」マスターに二人を紹介した。
 「ええ、その通りで、私が番頭です」と、中年の男が笑った。
 「日本酒の方ですか、何という酒です」とマスターがきくと、「地酒のようなものでまだできたての酒造所です、名前は知られていないのですが、室戸蔵といいます、酒は一種類のみ、風渦、かざうず、といいます」
 「ああ、大きな台風がありましたね」
 マスターが首を縦にふる。室戸台風のことだ。
 「そうです、僕の実家があります、今は高知に会社をかまえていますが、これです」
 若主人がザックの中から、180mlの小瓶をだした。
 「ウイスキーの店だとおかしいですが、マスター飲んででみてください」
 カウンターにおいた。もう一本出すと、女に、差し上げますとわたした。
 「すみません」
 女は受け取ると、ラベルをみた。大吟醸もなにもなくただ風渦とかかれている。絵は女の長い髪が風になびき、後ろで大きな渦を巻いている。白黒でとてもシンプルだ。
 マスターは「それじゃいただきますね」と180mlの小瓶を手にとって眺めた。すぐにショットグラスをカウンターにだすと、風渦ミニ瓶のふたをあけた。グラスに少し注ぐと口に含んだ。
 「うん、濃い、辛口だ、潮風のようなこくがある、冷やしたらもっといいかもね」
 そう言うと、新しいショットグラスをだし、酒をつぎ、奥にいた客に、どうですか、と差し出した。
 ウイスキーを飲んでいた客は、初めて顔を三人の方に向けた。ミドルエイジかと思っていたら、老人のようだ。
 薄い縁のメガネをかけた客はうなずいて「いただきます」と三人の方にグラスをちょっとかかげた。一気に口に入れ、ちょっと間をおいて、ごくっと飲んだ。
 「うん、いい、マスターの言うとおりだね、肉感的だ、深みがある、わしは熱燗にしても言いと思うよ、肉料理、すき焼きか」と言った。
 「そうですか、先生」
 マスターは返事を返した。
 「うまいですよ、どうも」
 飲み干した老人は、ちらっとこちらを見て、水をくちにすると、またカウンターの前に顔を向けた。自分のウイスキーを口に含んだ。
 女はあれは誰とマスターに目を向けた。
 マスターは小声になって、名前はいえないけど、どこの国の酒でもよく飲んでいる酒の評論家、と教えてくれた。
 番頭が立ち上がって、老人の方に向かおうとしたら、マスターが黙って手でおしとどめ、首を横に振った。
 「人とは関わらない方です、飲んでくれないと思ったら、飲んだと言うことは、きっと香りがよかったからです」
 番頭はそういわれて、うなずくとまた席に座った。
 マスターはまた老人の前に行って話を始めた。
 番頭が「いいところにつれてきていただきました」と女に礼を言った。
 女も笑顔になった。若社長の眼がその笑顔に引きつけられている。
 番頭が酒蔵のことを話し始めた。
 「私どもの酒蔵は再起して五年、その昔は江戸時代から酒造りをしておりました、先先代より前のまでは羽振りがよかったのですが、明治の終わり頃になると、土佐の町の酒が日本全国にしられるようになり、評判だけを頼りに酒造りをしていたうちはとりのこされて、とうとう細々と酒を売る店だけになってしまったのですわ。宣伝べたでしたな、若のおじいさんは戦争でなくなり、父親は酒屋を営みながら、市議となり、市長までやった方です、私の祖父が酒造りをしていたころの杜氏でして、父は酒屋の番頭でした。
 社長で市議だったお父さんが急に亡くなったのが五年前、そのとき、若は北海道の大学の大学院をでて、助手をなさってましてね、農学博士さんなんですよ、発酵の研究をいていましてね、日本酒じゃなくて、チーズを作る菌の研究です、先代がなくなると、お母さんも具合が悪くなり、わたしが若をひきもどしたんですわ」
 番頭の話は終わりそうにもないと思ったのだろう、若と呼ばれている社長が、「もういいでしょう、ウイスキーをいただきましょう」
 水割りを手に取った。
 「あ、こりゃ、すみません、そんなことで、若に帰っていただいて、また酒造りをはじめたというわけで」
 番頭が笑顔になった。
 「いつもウイスキーですか」
 若主人が女にたずねた。
 「日本酒も飲みますよ」
 彼女のグラスはもう氷しか残っていない、マスターに「いつものちょうだい」と言った。
 マスターは新しいグラスに氷を入れ、酒をそそいた。
 若主人が話をかえた。
 「明日土曜日だし、デパートに来る人も多いでしょうね」
 「そうですね、いつもだと、おばあさん連中が、特設会場の自分の好きなコーナーに集まります、物産展のときには、だいたいお菓子だとか、お弁当、名のしれたもののところにきます。お酒のところは、やはり男の人ですね、くるのは」
 「今日は金曜だけどお思ったより売れました」
 「夕方会社帰りのお父さん風の人ではありませんでいたか」
 「その通りです、なぜわかったのでしょうな」
 番頭がうなずきながら女を見た。
 「金曜日は仕事を早く引けて、飲みにいく人も多いけど、ああいうもようしがある時は、珍しいお酒を買ってかえって楽しもうという人もかなりいますから」
 「そういうもんですか、土曜日だともっとふえるでしょうな」
 番頭の問いに、「男性はわざわざ休みの日に出かけてこないのじゃないでしょうか、くるとすると、よほどマニアックな方でしょうね、それか土佐を懐かしんでいる方」と女は答えた。
 「そういうわけですか、うちの酒はふつうの麹を使っていないので、何とか飲んでもらいたいと思いまして、独特な味だと思います、それも、若が研究してきた青かびの仲間を使ったらうまくいったもんで」
 そこから、若が話を引き継いだ。
 「実はうちは、チーズも作っています、日本酒に合うチーズです、まだ試作の段階です、次の物産展には出すつもりです、僕はそちらの方が専門だったのですが、専務に日本酒をもう一度復活させたいといわれ、土佐に戻りました。それでチーズの開発と、日本酒の開発を平行して行っていたのですが、日本酒の方が先にできて、ここに持ってきたわけです。
 青かびがペニシリンを作り出すことはみなしってますけど、麹の仲間であることを知っている人はあまりいません、それで青かびの一種をつかって、日本酒を作ってみたわけです、青かびは毒を出す奴もいるんですよ」
 そういって、水割りを一口のんだ。
 「いずれ、蒸留酒、焼酎にもチャレンジしたいと思います」
 「若、今日は元気にになられましたな、おかげです、五年前に戻ってきていただいたときは、しおれていらっしゃった、大学院の時に同級生と結婚なさいましてね、きれいな方だった、だけど、急に脳出血でなくなりましてね、まあそれも引き金になって、戻ってくる気になられたのでしょうね」
 女は若社長の左手の指輪の意味が分かった気がした。
 「よしなよ、そんな話、めいわくですよね」
 若が番頭の話をさえぎった。
 「それより、明日もよろしくお願いします」
 若は女に向かって頭を下げた。女は笑ってうなずいた。二人はそろそろ帰りたいようだ。女は「私は明日も早くでなければなりませんので、そろそろ失礼します」
 立ち上がって、マスターを見て、バッグから財布をだした。
 「お二人はどうぞごゆっくり」
 番頭があわてて立ち上がった。
 「今日はお引き留めしまして、こんないいところも紹介していただいて、ありがとうございました。ここのところは私どもの必要経費で落ちますので、お気になさらないでください」
 二人のグラスにはウイスキーが半分ほどのこっている。やはり洋酒にはなれていないようだ。
 女はすこしばかりまよったが、「それじゃあ、お言葉に甘えまして」といって、奥を見ると、評論家の老人がみていたので、「ありがとうございました」と一言かけて店をでた。
 女は駅に向かった。
 二人の男はショットグラスの残っていたウイスキーをくっと飲み干すと、若が「おいしかったです」とマスターに言い、奥の客にやはり「ありがとうございましたと声をかけ、番頭が金を払って出て行った。
 「あのお客たちさん、結構飲めるんですね」
 「女の人の接待できたんだな、あの日本酒は動物の味だったな」
 「どういうことです」
 「うん、日本酒のさわやかさは米の発酵、植物だから、動物である人間にはとても軽やかだ。だが、ウイスキーなんかは、動物の脂を感じさせる、蒸留しても、肉を主食としている西洋人の味が残る。そういう好みで発達したからだ、きっと黴の違いだろう」
 「先生じゃないとそこのところはわからないのでしょうね」
 「そんなことはないさ、あそこの店の日本酒は、新しい麹でもみつけたのだろう」
 「そこまでわかるのはすごいですね」
 マスターはラガブーリンをだした。
 「その潮渦の味はサーモンか、鱈だな」
 評論家の言ったことに、マスターはなるほどとうなずいた。

 スコッチバーをでた二人は、すぐ近くのホテルにもどった。二人とも何もいわずに三十階にある、展望バーにはいった。
 二人はオールドパーの水割りを頼むと、闇の中に浮かぶビルの明かりが見渡せる窓際のカウンターにすわった。
 「見た?」
 「私にはよくわからなかったのですが、若の眼が異様に輝いていたので、きっとそうだと思いました」
 「うん、あの女の頭の毛の中は緑だった、家内もそうだった」
 「やりますか」
 「うん」
 「調べておきます」
 そこに、水割りを持ったウエイターがやってきた。

 次の朝、女は朝のシャワーを浴び、頭を洗って、いつものように、家をでた。
 昨日の二人は今日もがんばるだろう。少しは客を誘導してやろう、そう思って事務所に向かった。
 すでに一日経験したので、売場の混雑具合も想像できた。
 十時開店と同時にはいってきたのは、やはり女性の老人たちである。お目当てはお菓子なら、かんざし、あたらしいもので半分洋風な人気のあるものだ。噂だけで食べたことのない老人が、口にしたいと思うと、いてもたってもいられないらしい。牛皮最中もある。女はもっと古典的な菓子の方が好きだ。塩芋ケン、鰹パイなどは個性がある。
 やはり女性たちはそういった菓子売場や、鰹の店に流れていく。男性はちらほらだ、酒と酒の肴、そんなとこだ。少ないが、刃物、包丁類を目当てのプロまたは修行中の若い人もやってくる。塩はかなりマニアックな人たちがくる。土佐の塩売場は昨日もにぎわっていた。
 女は昨日スコッチバーに案内した酒蔵の前を通ったときに、若社長とちょっと挨拶をした。店員の方からは特定のところの人と話し込むのは御法度だ。番頭はおらず、若い女の子が二人手伝いに来ていた。
 その日、忙しいこともあったが、土佐の新しい酒造所のブースのことは忘れていた。何度か前を通ったが、若社長と目を合わすこともなかった。
 閉店時間が過ぎ、事務所に戻ると、主任が、明日は臨時の二人がくることになったから、物産展にはでなくてもいいことを女に言った。ずいぶん有給がたまっているでしょう、休みを取っても大丈夫よ、とも言ってくれた。
 しばらくフルにでなければならないと思っていた女は、拍子抜けもしたが、日曜日に休めるとは何年ぶりだろうとちょっと期待もした。どこに行きたいといったこともないのだが、昼日中、家で寝ころんでいれるのも極上の幸せと思えた。
 「それじゃあ、休ませていただきます」
 そういった女の言葉は、主任の聞いた最後のものとなった。

 日曜日の朝、いつもより二時間遅く目を覚ますと、女はいつものようにベッドの上から素はだかになって、シャワーを浴びるため浴室にむかった。
 ゆっくり寝たせいだろう、肌が青い粉にまぶされているように見える。これが子供の頃からの体質だ。好きになった男と一晩を過ごすと、男は必ずと言っていいほど、肺炎を起こし入院をした。あの新宿のスコッチバーのマスターは、その最初の男だった。数人の男が同じようになったとき、自分のからだに気がついた。子供の頃からの、この青というか緑色の粉は、他の人にいけないものであることを悟った。これが出てくる限り、家庭を持つことなど考えられない。女は男をあきらめたのである。
 裸になった女は風呂の戸を開けた、そのとき、首に白いタオルが巻き付き、ぐぐぐと締め付けられ、あっという声も出ない前に気を失った
 女が風呂場のタイルの上にくずれおちた。
 女の肌は青い粉でまぶされていた。
 女はこときれた。
 女は担ぎ上げられ、ずだ袋の中に押し込められた。袋は女の部屋から持ち出されると、台車につまれ、一階に運ばれ道路にでた。
 袋の乗った台車には青いビニールシートがかぶせられ、がらごろがらごろと、二十分ほどおされていくと、一台の冷凍車に積み込まれた。
 車はそのまま、女の勤めるデパートの搬入車用の地下駐車場にはいっていった。

 日曜日、物産展は土曜日ほどにぎわうことはなかったが、それなりの盛況のうちに閉店時間をむかえた。
 死んだ女の積み込まれた冷凍車は、首都高から東名へ、さらに西へと夜の高速道路をひた走っていた。
 運転しているのはあの番頭だ。
 名古屋、大阪、神戸西、鳴門から四国の徳島、七時間もかかっただろうか、さらに、走らせ、四時には目的の家についた。
 「若、家を開けておいてください」
 番頭は疲れも見せず運転台から飛び降り、若は鍵をだすと自宅の玄関をあけた。
 海の見える室戸の丘の上、一軒の家に明かりがつく。
 若は、地下室へ続くドアの鍵を開け、階段を下りると、日本酒の倉庫の中に入り、中程まで進んで、さらに下に降りるドアの鍵を開けた。
 電気をつけると、階段の下にさらにドアが見える。
 若はそのドアの鍵を開け中に入った。木で作られた、どこか古風な家にはそぐわない、カプセルホテルのように、カプセルが棚に並べられている。
 番頭がずだ袋を担いでおりてきた。
 「ごくろうさま」
 若が声をかけ、番頭が担いでいた袋をおろすと、一緒にもちあげて、ドアを開け次の部屋の中にあるステンレス製のテーブルの上に載せた。回りにはいうなれば医学の実験機械が整理されておかれている。棚には何本もの薬のビンがのっている。
 袋のひもをほどき、女をテーブルの上に引き吊り出した。若が500ccの茶色の薬瓶をテーブルに載せると、中の液体を脱脂綿にしませて、女の頭から顔をふきはじめた。アルコールの匂いがぷーんと立ち込める。番頭も同じことを足先からはじめた。
 「きれいな女ですな」
 番頭が足を拭き、股間にアルコールを垂らし、丁寧にふき取る。若は眼を閉じた女の顔から顎、のど、胸、乳房、腹、凡てを丁寧に拭く。耳の穴や鼻の穴、口の中にはアルコール液を直接流し込む。
 三十分もかけただろう、拭くのをやめた。
 「もういいだろう、あまりふきすぎると、もとがだめになる」
 若は大腿の白く張った皮膚にメスで切り込みを入れほんの少しだが切り取って、実験機器の一角にある培養装置から取り出したシャーレの培養液の上に浮かせ、シャーレを素早く元の装置に戻した。
 そのあと、二人は女をその部屋から運び出し、前室にあるカプセルのふたを開け中に寝かせた。
 閉じると、若が前面にあるスイッチを押した。機械の動く音がして、カプセルの中に蒸気が立ちこめた。
 「一週間で結果がわかりますな」
 「うん、きっとそうだと思う」
 「若がそういうのならそうでしょう」
 「そうだったら、今度は黴だけでなく、皮膚の細胞を増やすことを考える」
 女のはいったカプセルの下の段のおかれたカプセルのスイッチを若が押すと、中に明かりがついた。そこにも一体の半分崩れた女が横たわっていた。全身が赤っぽい細い毛のようなもので覆われている。
 「奥様はもうあと五年ほどでしょう」
 「うん、よく働いてもらった」
 若の妻だった女は、父親が亡くなって一年後死んだ。女の体をよく知っていた夫である若主人は、棺を納めた遺体をとりだし、自宅に隠した。寒い北海道のこと、冷気のあるところにおいておけば腐ることはなかった。若は妻の皮膚に未知の黴が住み着いていることを知っていた。時に皮膚の一部が赤く粉を吹き、短いものだが赤い柔らかな毛のようなものが伸びてきた。妻も研究者である。ともにその黴を調べた。顕微鏡下で見ると、確かに毛黴の仲間でもあるが、酵母にも似ていた。その培養を二人で試みた。妻の皮膚を培養液に入れると、よく繁殖し、シャーレの中に赤い毛をはやした。その性質を分析した結果、米を酒にする力をもっていた。
 そこまで調べて妻は死んだ。若は番頭から土佐に帰り、酒造りをしてくれないかと、懇願されているときである。
 番頭は若のために室戸の海の見えるところに個人宅のような、研究施設を包含した家をたてた。妻のからだはその家に運ばれた。
 彼の妻のからだかは赤い黴におおわれた。その皮膚の一部と赤い毛黴で発酵させた酒が、物産展で売り出した新たな酒、風渦となった。毛黴だけでは酒がつくれない、皮膚が必要である。死蝋化した妻の皮膚がなくなれば、この酒はつくれなくなる。若主人はそんな皮膚を持つ女をさがしていた。
 そういう女がいたら、今度は皮膚の細胞の培養を成功させたい。
 若と番頭はその部屋の扉を閉めると、階段を上り始めた。
 「何か飲んでいく」
 酒の貯蔵庫から出ると、さらに階段をあがって、廊下にでた。
 「いえ、酒蔵の方に車をもどします、明日の出社は遅れます」
 「もちろん、ゆっくり休んでくれ、ありがとう、またいい酒が造れる」
 「若の研究成果ですよ」
 「明日にはかびが生える、青い黴だ、どんな味の酒ができるか」
 「酒ができなくても、おいしいチーズをつくることができるかもしれなですよ」
 番頭は玄関で、「それでは、若もお疲れでしょう、ゆっくりお休みください」と言ってでていった。
 若主人はシャワーをあびると、寝室のベッドによこになった。
 
 若は八時になると目を覚ました。ほんの三時間も寝ただろうか。だが壮快な気分で、まず地下二階の部屋にいった。
 昨日女を入れたカプセルの明かりのスイッチをおした。蒸気は収まっていて、温度と湿度は予定のところにたっしている。
 雑菌が増えすぎなければうまくいくだろう。
 裸の女が緑っぽくなって横たわっている。
 うまくいきそうである。
 若はキッチンにもどると、朝食を済ませ、町に新築した醸造所に車ででかけた。

 醸造所では、社員たちがいつもの仕事についている。
 「社長おかえりなさい」
 受付の女の子が愛想良く挨拶した。
 「ああ、ただいま、留守中ありがとう」
 「東京の物産展どうでした」
 「ああ、結構売れたよ」
 若主人が社長室に入ると、テーブルの上に荷物がおいてあった。昨日、番頭がいれておいてくれたのであろう。従業員十五人のうち、今回は五人をつれて新宿に行った。その五人は出張扱いで、明日まで遊ばせている。明後日帰ってくるだろう。この荷物は留守を頼んだ十人へのみやげである。それぞれにあったものを番頭がとりそろえてくれた。
 若は従業員たちに配った。
 昼近くに番頭がでてきた。
 「若、おそくなりました」
 「いや、昨日はご苦労様でした」
 「うまくいきそうですか」
 「うん、皮膚の培養は問題ないだろうが、あの女から、かびが生えてこなければ振り出しに戻る」
 「そうしたらまたさがしましょう、風渦はあたりました、注文が殺到すると思いますよ、五年以上は作り続けられる、それに、チーズは培養された黴だけで作ることはできます」
 「そうだね、毛かびの生える女を探すのは容易ではないが」
 
 一週間後、若主人の家の地下では、彼と番頭が、カプセルに入っている女を見ていた。
 青い黴に覆われている女の裸体が横たわっている。
 「この菌をしらべたら、酵母の性質は十分に持っていたよ、新たな酒造りを始めることができる」
 そのころ、新宿のデパートの事務所に、案内係の主任を訪ねて刑事がやってきた。
 「連絡を受けてすぐに、マンションに行ったのですが、いませんでした。鍵はかかっていなかった。荒らされたあともありません、ただ、寝室のベッドの上に、脱いだ衣服、下着がちらかっていました。自分で脱いだものとおもわれます。スマホもおいたままです。あなたのメッセージが残されていました、本人ははだかのままどこかに消えてしまったようだ。事件であることは確かです、まだそれだけしかわかっていません、実家もあたりましたが、帰っていませんでした、今山形から両親がこちらにむかっています、もう少し詳しくいなくなる前日のことをきかせてください」」
 二日の有給休暇をとっていたのだが、それから二日たってもでてこないことから、主任が彼女に電話をいれた。応答もなく、警察に通報したのだ。

 数ヶ月が経った。
 土佐の室戸の再起した酒造所では、若主人が新たな黴を使った酒の仕込みと、チーズの作成の指揮をとっていた。酒はかなり濃い味の強いものができそうだ。
 家に戻った若主人は地下におりた。
 このように、毎日、夜中に地下室に行く。
 カプセルの上から女をのぞいた。
 全身くまなく青い黴に覆われている。きれいだ。
 若の眼がくるくると回り始めた、抱きしめたい。この激情がたまらない。かろうじてカプセルのふたを開けたい衝動から踏みとどまった。若主人は頭の中を台風が吹きまくっているのを感じていた
 おさまったとき、若主人のズボンの股間に凍みができはじめた。妻に赤い黴がはえたときのように。射精をした。
 酒の名前はもう決まっている。
 狂った台風。狂風(くるいかぜ)にしよう。
 和9年の室戸台風の中心気圧は684ミリバールとすさまじく低く、今でもその記録は破られていない。この台風の被害は死者2700人、負傷者1500人と大きな被害をもたらし、日本の三大台風の一つとして記憶されている。この酒も日本中に吹き荒れる。
 青かびの女は死蝋化がはじまっている。
 若は地下二階から階段を上り始めた。

青かびの女

青かびの女

その日、デパートに務める女は、病欠が二人でたことから、土佐の物産展の担当を頼まれた。会場では新規参入した酒蔵の若い社長が開店の準備をしていた。

  • 小説
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  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-04-26

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