だいじカノン

だいじカノン

 
 *



ひよりがドアを開けると、冬の風が家の中にすーっと入り込んだ。寒い。もうすぐ三月だと言うのに、今年の冬は雪も降って、身体の芯から冷えるほどに寒かった。東の空からはゆっくり昇り始めた太陽の光が前の道を照らして、申し訳程度の暖かさを届けている。

「琴子、早く行かないと朝練遅れるよ?」

ひよりは門扉を開けて背後に向かって呼びかけた。左肩にはスクールバッグ、右手にはクラリネットのケース。その二つとポニーテールを揺らしながら、彼女は寒さを紛らわすように地団駄を踏んだ。スカートとハイソックスの間に当たる冷たい空気がピリピリするほどに痛い。それに我慢しきれなくなった彼女は、思わず高校の方に向かって家の前の坂道を駆け上り始めた。

「ちょっとひより」

遅れて家のドアから飛び出てきた琴子は、長い黒髪を冬の風に当てながら白い息を吐いた。ひよりのものよりも一回り大きいトランペットケースを携えて、前を走る彼女を追いかける。その綺麗な両耳には白いワイヤレスイヤホンが差し込まれていた。

「ちょっとひより、お弁当」

その声にひよりは振り返って、わっと口を丸く開けたまま彼女の方を見た。

「あ」

既に坂の中腹まで辿り着いていたひよりは、ローファーのかかとをリズミカルに地面に当てながら琴子の元へと戻り走っていく。そして琴子が「はい、これ」と渡したのは、桜の花びらの模様が散りばめられた綿の巾着袋だった。

「ごめん、ありがとう」

ひよりは重いお弁当箱を受け取ると、左右のバランスをとりながらふと琴子の手元を見つめた。花びら模様が散りばめられたその巾着は琴子のものとよく似ている。琴子の方は、白い梅の花だった。

「ほらひより、早くしないと朝練遅れるんでしょ?」

「あ、そうだった」

琴子に促されてひよりはハッとした。七時半から始まる吹奏楽部の朝練。遅刻すると放課後の掃除を一人でやるというルールだ。音楽室や楽器倉庫の掃除を一人でやるのは、よっぽどの掃除好きで無いかぎり皆が避けたがる苦行。だから二人は焦るようにして、その坂道を駆け上がっていった。

「琴子、また聴いてるの?」

「うん」

「貸して?」

隣を駆ける琴子の耳に手を伸ばして、ひよりはイヤホンの半分を自分の耳に付けた。冬の朝で冷え切った右耳に琴子の微かな温もりを感じながらそこに流れ出す音楽に耳を澄ます。カノン。ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルが作曲したクラシックの名曲だ。一つの楽器が奏でる旋律に始まり、段々と様々な楽器の音色が加わりながら三つの声部が同じ旋律を繰り返していく。琴子が聴いていたそれはオケではなくブラスでありながら、それぞれの楽器が織りなすメロディーには確かな温かみがあった。

「家出る時からこれ聴いてるなんて、琴子は練習熱心だね」

手にしている楽器ケースを揺らし過ぎないようにしながら、ひよりは琴子の方に顔を向けて話しかけた。その間にもカノンは同じ旋律を重ねながら、どんどん色々な楽器が加わって、まるで違う曲のように壮大さを増していく。

「好きだからね、カノン。」

琴子は細い体でトランペットを運びながらひよりにそう返した。彼女の艶やかな唇がカノンと動く時、ひよりは琴子の女の子らしさに思わずうっとりする。琴子は自分と同じ黒髪をしていながら、どこか醸す雰囲気が違った。

「私も、好きだけどね」

でも、二人は姉妹ではなかった。双子のきょうだいでもない。ひよりと琴子は従姉妹だった。正しく言えば、元・従姉妹だった。同じ家に暮らし、同じ家に帰る。まるで本当の家族のように。

そんな十二年間を、彼女たちは過ごしていた。



 *



「卒業式の二日前なんだけど、このコンサートに参加したいと思ってる。」

音楽室に集まった部員たちにそう言ったのは、顧問である笠松先生だった。そんな先生の発言に、部員たちの間には「え、卒業式も演奏あるじゃん。」「今から始めて間に合うのかな」とざわめきが広がった。けれど彼はその声を特に気にする様子もなく、「はいこれ前から回して」とコンサートのパンフレットを配っていた。その中に、ひよりと琴子の姿もあった。

「はいはい、皆、聞いて。」

「いや、でも」

「まあそんなにぶーぶー言わないでよ。もちろんのこと、卒業式の日も我ら吹奏楽部は演奏を控えているし、このコンサートの本番まであと二週間強といったところなんだけどさ。

「なら、」

「是非、って言われたんだ。向こうの方から。光栄なことだろう?」

先生は中空に飛ぶ様々な声をいなしながら教壇に戻り、部員たちの顔をしっかりと見て説明を始めた。こんな冬でも暑いのか、彼の栗色のセーターの脇には大きな汗シミが出来ている。部員たちは弁明を聞いてもなお、怪訝な表情で彼を見ていた。その時、女子部員の一人が手を挙げて彼に質問をした。

「先生、これって会場、福島県って書いてありますけど?」

「うん。会場は、福島県の浪江町というところです。」

浪江町。ひよりはその言葉を聞いて手元のパンフレットにそっと目を下ろした。『会場 浪江町秋桜アリーナ』。文字を見て、ひよりは自分の腕足に鳥肌が立つのを感じた。でも、周りにそれを悟られまいと自分のクラリネットを思わずぎゅっと握った。

「え、福島まで行くんですか?」

「そうだよ。」

その生徒は制服のスカートのプリーツを指で触りながら更に怪訝な表情で先生に聞いた。

「でも、この日って…」

「そう。」

「…」

「その日は、東日本大震災が起きた日。三月十一日だ。」

その言葉を聞いて、部員たちの間に更なるざわめきが広がった。教壇前のクラリネットパートに座っていたひよりは、静かに後ろを振り返った。一番後ろでトランペットを手にしている琴子の方を、ゆっくりと顔を回して見た。彼女はそのざわめきに加わることなく、静かに教壇の方を見つめていた。

「先生、それって…その、追悼コンサート、みたいなことですか?」

「私たち、あんまり震災の事よく覚えていないんですけど…」

「今、福島ってどうなってるんですか…?」

教壇に向かって円弧を画くように並べられた席の隅々から、動揺の声が上がる。その様子を、琴子は静かに見ていた。ひよりはこの十数年で何度か彼女のそんな雰囲気に触れたことがある。それはいつも、この話で。だからひよりは触れないようにしていた。いつも穏やかで優しい琴子がまとうその空気が少し苦手で、少し怖かった。それに、自分がそこに踏み込む勇気を彼女は何も持っていなかった。

「はい皆、一旦聞いてね。とにもかくにも、僕はこのコンサートで演奏をしたいと思っています。そして、このコンサートは追悼とかそういうのではなく、福島の未来を照らす光となるようなコンサートです。」

「でも、」

「多分、皆十二年前は四歳とか、そのくらい小さかっただろうし、記憶もあまり無いと思う。あとはメディアとかそういったものを通して津波の映像とか、原発の話とかを知ってきたと思う。」

「…」

「だけど、自分の目で確かめないとね。本当はどうなのか、自分の肌で感じる機会にして欲しい。それも含めて、僕は皆にこのコンサートに参加したい。」

先生はゆっくりと皆に語りかけるように、斜陽が注ぐ音楽室に向けて言葉を発した。その窓の外では十八時を知らせる防災チャイムが鳴っている。部員たちはその響き渡る音に声を潜めて、段々とざわめきは収まっていった。時間が経つと、なかには先生の言葉を噛み締めるように微かに頷く生徒もいた。ひよりはもう一度後ろを振り向いた。琴子は、真っ直ぐと前を見据えて、ただじっと座っていた。

「曲目は、卒業式の入退場と同じパッヘルベルのカノン。これだったら、何も問題は無いでしょう?」

「え、カノンやるんですか」

「そう。じゃ引き続き、練習を続けていきましょう。今日はもう下校時間だから解散!」

笠松先生はそれだけを言い残すと、パンフレットの余りを抱えて音楽室から出ていった。また戻った喧騒の中で、各々が思ったことを口にした。ひよりはそれを聞きたくなかった。自分勝手な言葉を。だから自分のクラリネットを手早く仕舞おうとしていた。

「ひより」

その時、背後で自分を呼ぶ声が聞こえた。そっと右肩に置かれた細い手。その優しい温もりを微かに感じながら振り返ると、それは琴子だった。

「?」

「一緒に帰ろう?」

見上げた先にある琴子の顔はいつも通りの穏やかな表情だった。ひよりはそれを見て、少し怖くなった。今琴子が何を思い、何を考えているのか。それが、何年経ってもひよりには分からなかった。



 *



「今日の晩御飯、なんだろうね」

「おばさんからさっきLINE来てたよ。今日は豆乳鍋だって。」

「お、鍋。今日みたいな寒い日には格別だねー。」

琴子は何年経っても、「おばさん」と呼び続けた。決して「お母さん」とは言おうとしなかった。



ひよりの叔父と叔母、つまり琴子の両親は、震災で亡くなった。二人が四歳の時だ。ひよりは、その日のことをおぼろげに覚えていた。母親がそろそろおやつにしようかと言った時、自宅の床がいきなり波打つように揺れ出した。彼女の住む東京も家を大きく揺するような縦揺れに襲われ、棚の上の物が落ちたり、小さなお皿が割れたりした。ひよりは母と二人で机の下に潜り、揺れが止むのを待った。幼ながらに死ぬような恐怖を感じた。そして、次に覚えていたのは、数日後に電話を掛けながら大声で泣いている父の姿だった。アニメも教育番組も止まって、テレビにはあの日空から撮られた映像が流れている。田んぼが黒い水にどんどん飲まれていく映像だった。父はそれを背に「なんで…なんで…」と嗚咽を漏らしていた。



それから少し経って、福島に住んでいた琴子は東京のひよりの家に迎え入れられた。お互い唯一の従姉妹であった二人は、その日から義理の姉妹になった。



「ひよりは、どう思った?」

「え?」

「あのコンサートの話。」

同じベージュのコートに身を包み二人で通学路を歩いていた時、唐突に琴子はそうひよりに問いかけた。琴子は左手をポケットに入れながら、首をすっと曲げてひよりの方を向いた。思わぬ質問にひよりは狼狽えた。まさか琴子からその話に触れてくるとは、彼女は思ってもいなかった。

「えーと…」

「私は、いいなって思った。」

先に自分の答えを出してしまった琴子は、長い黒髪をさらさらと冬の風にそよがせた。ひよりは息を呑んで彼女の姿をじっと見ていた。なんで、だろう。その言葉の意味がひよりにはよく分からなかった。

「ん、どうした?」

「いや…」

「?」

「でも…さ、」

「うん」

「琴子、皆が言ってること聞こえてた、よね?その…、何も思わなかったの?ああいうの。」

「ああいうのって?」

「ほら…追悼コンサートって…。」

ひよりは言葉選びに気を遣いながら、琴子の心情を探ろうとした。彼女はトランペットケースを携えながら、ローファーのつま先を真っ直ぐ揃え少し先を下っていく。でも、それは暗い無表情ではなかった。琴子があの日に触れた時に見せる無表情が今は無い。だから、その健気さがひよりには分からなかった。

「ああ…」

「ごめん、私変なこと」

「ううん。でも私、最近思うんだよ。」

「…え?」

「…どこかで線を引かなくちゃって。」

琴子は何かに想いを馳せるように、ひとつ先の街灯を見やりながら呟いた。それは静かで、彼女の優しい声だった。

「時は流れるんだよ。前に向かって。」

「…前?」

「そう。一年ってぐるぐる循環して、またあの三月がやって来るけど、同じ三月なんてない。だから、いいなって思った。ああいうの。線が、また引けるから。」

坂道の途中で振り返って、琴子はひよりにそう答えた。琴子は微笑んでいた。首元に巻いたマフラーに街灯の明かりが当たってその朱色が濃く見える。ただ彼女が発するサンガツの響きでさえ、ひよりはどこか怖かった。



二人はいつも一緒だった。琴子がひよりの家に来た時も、母に「今日から二人はきょうだいになるんだよ」と言われた時も。琴子はひよりにとって遊び相手であり、学友であり、時にはよき相談相手でもあった。ずっと二人で楽器もやってきた。だからひよりは分かろうとした。分かってみたかった。ずっと触れられなかった彼女の感情に、指一つ触れられるような気がして。それがひよりの気持ちだった。義理の家族としての思いだった。



 *



放課後の教室にクラリネットの音が響く。丸く温かみのあるその音が吹き出されると、流れている時間がどこかゆっくりと感じられた。ひよりはその心地よさが好きだった。

「ひよ、今日一年生来ないんだっけ?」

カノンの終部の一節を吹き終えた時、ひよりに話しかけたのは同じパートの愛奈だった。彼女は二つ結びにした髪を揺らして、隣に座るひよりに甘い匂いを香らせた。

「そう、校外学習だって。今年は鎌倉だってさ。」

クラリネットパートはひよりと愛奈を入れて八人。今日一年は校外学習で鎌倉に行っていておらず、他の二年は三者面談が当たっている。つまり、クラパートの教室にはひよりと愛奈の二人が残っていた。

「いいなあ…。私たち去年浅草だったじゃーん、都内も悪くなかったけどさあ」

「まあ、ね」

愛奈は高校からクラを始めた初心者だった。けれど見かけの軽さとは裏腹に、フィーリングでコツを掴んでしまう天性の持ち主だ。そして彼女は良くも悪くも純真無垢なところがある。いわゆる思ったことを口にしてしまうタイプだった。

「それが今度は福島かあ。高速でも三時間とかもっとかかるんでしょう?」

「うん。笠松先生言ってたよ、朝六時に学校前集合だって。楽器係は積み込みあるからもっと早いらしいけど。」

「うわー、大変じゃん。よかったあ私庶務係で。」

少ない人数でパート練をしていると、ついこんな風に道が逸れてしまう。ひよりは自分の楽譜にさっきの反省点を書き込みしながら、クラリネットを抱えてげんなりとしている愛奈の話を聞いていた。予定時間を大幅にオーバーしている同級生の面談は、まだまだ終わらないようだった。

「ひよさ、行ったことある?」

「?」

「福島」

愛奈は唐突にひよりにそう聞いた。「え」と思わず声が漏れる。きっと何の他意も無い愛奈のそんな質問も、今のひよりにはどこか触れがたいものに思えた。

「うーん、ないかな…。多分。」

「そっか」

ひよりは右肩にかかる自分の髪を触りながら、小さな嘘をついた。それは反射的な嘘だった。福島には、何度か行ったことがある。彼女の祖父母の家も福島にあった。琴子はそこで、祖父母と両親と共に暮らしていた。だからひよりも幼い時に親に連れられて行ったことがある。そこは海に近い、緑豊かな町だった。祖父は漁師で、シラスを沢山獲っていたらしい。祖母は地域の民生委員をしていたと物心がついた後に聞いた。幼いひよりも、祖父の漁船に乗せてもらったことがある。大きな大漁旗が青空にはためいている写真がひよりのフォトアルバムに残っていた。けれど、二人とも震災の前に病気で亡くなっており、琴子の父がその後家業を継いでいた。

「あのさ、ひよにちょっと聞きたいことがあるっていうか、そうなんだけどさ…」

ひよりが過去の記憶に思いを巡らせていた時、愛奈はどこか改まったような口調で彼女に切り出した。その目はまた澄んでいた。「ごめん、何か噂で聞いちゃったんだけど」と断りを入れる彼女の口調には好奇心と小さな躊躇ためらいの両方が含まれている。それをひよりは察していた。

「ひよりと…、トランペットパートの琴子ちゃんって一緒に住んでるんだよね?」

「え」

彼女の口から飛び出したのは、琴子の名だった。ひよりは分かりやすく狼狽えた。けれどうつむきながら、愛奈は「でも、本当の家族じゃないんだよね?」と言葉を続けた。

「…」

「ごめん、ちょっと気になっちゃって…。」

愛奈は悪気なく、ひよりにそれを聞いた。でも、

「それに…、琴子ちゃんって、その…震災で親を失くして東京に引っ越してきたっていうのも本当…?」

と彼女が聞いた時、ひよりは冷や汗が体の端々に伝うのを感じた。彼女は、黙っていた。瞬間的にそれしか出来なかった。

「…」

「ひよ?」

「…」

「あ…私、やっちゃった…?」

「いや」

「…ごめん。いや、そんなつもりなかったんだ。ひよは琴子ちゃんとずっと今まで一緒に過ごしてきたんだよね。ごめんね、詮索するようなこと。」

「いや…」

「優しいよ、ひよ。私だったらそういうの…受け止めきれないっていうか、抱えきれなくなっちゃうかも。」

「え?」

「だって、何ていうか、かわいそうっていうか…」

「愛奈、かわいそうって何?」

気づいた時ひよりは言葉を返していた。刹那、愛奈の目が怯むのを認めた。きっと普段見せていない自分の表情に、ひより自身も動揺していた。

「優しいって何?」

「…」

「愛奈に、愛奈に、琴子の何が分かるの? 私だって、私だって…」

「ご、ごめん」

「琴子は、琴子はさ…!」

ひよりは何かを言い返そうとした。けれど、言葉が続かなかった。口を開いたまま彼女は顔を強ばらせていた。自分の中に何も言葉を持っていないことに、自分が何も発せられないことに気づいた。隣に座る愛奈の驚いた顔を見つめたまま、我を失っている自分に何とか平静を取り戻そうとした。琴子は、琴子は…

「ひより?」

その時、教室のドアの向こうから誰かの声がした。それはいつも聞いている声。クラリネットよりもずっと細くて、綺麗な声だった。

「…愛奈ちゃん、ひよりどうかしたの?」

「琴子、」

「いや、あの、琴子ちゃんごめん。私がちょっとひよを怒らせるようなこと言ったの。」

「え?」

「本当に、ごめんね」

愛奈はクラリネットを手にしたまま、思わず教室を飛び出した。彼女は琴子の問いかけに何も答えようとしなかった。ひよりはその姿をただ目で追っていた。逃げられたと思った。琴子は何があったのか分からない様子で、ただ困惑の表情を浮かべてひよりを見ていた。

「ちょっとひより、何があったの。怒ってるの…?」

「いや」

「あんな愛奈ちゃん私見たことない…。大丈夫かな。私、見てこようか?」

「いいよ、」

「え?」

「琴子には…、いや、琴子が関わると余計にややこしくなるから」

「?」

「何、どういうこと?」

「関係ない」

「ねえひより」

「だから関係ない!」

ひよりは椅子から立ち上がり、琴子に向かって枯れるほどに叫んだ。刹那、教室の空気が止まった。ゆっくりと流れていたはずの放課後の時間が凍りついたようにして、二人の間に冷たい距離が出来た。

「…私、分かんないよ。」

「分かんないって…何が? ひより、大丈夫?」

「だから分かんないの、琴子のことが!」

琴子は固まっていた。まるで赤の他人だと突き放したようなそれは、十二年の二人の日々の中で初めてのことだった。小さな喧嘩は何回かあっても、互いの関係に線を引くような仲違いはしたことは無かった。だから琴子は静かに後ずさりをした。

「私の、こと…?」

琴子の背後で誰かが話している声が聞こえた。面談が終わった他の二年生と、愛奈の声だ。ひよりは彼女らにこの空気を知られたくなかった。ただでさえ愛奈に当たってしまったことを恥に感じていた彼女にとって、自分が自分でなくなっている様をこれ以上他人に見られたくなかった。けれど、そこで話を続けようとしたのは琴子だった。

「私のことが分からないってどういうこと?」

「…だから」

「ひより、隠さないで言って。愛奈ちゃんに何をしたの。ちゃんと説明してよ。」

「何が。もう、私どうしたらいいか分かんないんだって…」

「ひより、ちゃんと言葉にして。」

昂るひよりを琴子は遮った。そして教室の中に一歩ずつ足を踏み入れた。その真っ直ぐな瞳に思わずひよりは目を逸らした。何と言えばいいのか、彼女の頭の中も混乱していた。

「愛奈が…」

「愛奈ちゃんが、何?」

「愛奈が、言ったの。」

「え、何を?」

「…そうって…」

「そう?」

「だから、琴子のことが、かわいそうだって。…震災で親を失くしてかわいそうだって!」

「…」

琴子は何も言わず、ひよりの前に立っていた。何も表情を変えずに、ただ立っていた。

「琴子は、いいの…?コンサート。あの町なんでしょう」

「ひより、」

「私には分からないよ…。周りからそういう風に思われても、コンサートをいいなって言った琴子が。それなのにニュースとかが流れた時に見せる、琴子の悲しげな表情が!」



ひよりは、琴子の過去にこれまで何も触れてこなかった訳ではない。毎年三月が来れば、父と琴子は二人で浪江に帰り、弔いへ行っていた。それに、テレビでその話題が流れる度にどこか暗い表情を浮かべる琴子の姿をひよりは何度も目にしていた。ひよりはあの時何があったのか、琴子の身に何が起きたのかを知らなかった。琴子は自分のきょうだいなのだと、家族の一員なのだと母親に言い聞かせられて育っただけで、両親はその子細を教えようとはしなかった。そして琴子も、きっと内側に秘めているだろう何かを決してひよりには見せようとはしなかった。その何かを分かろうとしてみたこともある。琴子の気持ちに近づきたいと思ってきた。でも、どんなに月日が経っても大人になっていっても、それは出来なかった。だからひよりは自分で描いていくしかなかった。琴子との関係性を。彼女との関わり方を。ひよりにとって琴子は家族だった。そのはずだった。でも、どこかで本当のきょうだいだとは今も思えなかった。



「ひより、さ」

取り乱すひよりを制すように、琴子は無表情に呟いた。ひよりはドアの脇に立つ琴子の目を見つめていた。その透き通った瞳で見返される今この瞬間が、ひよりにとっては苦しいほどに耐えがたかった。

「私が一番嫌なのは、変な気遣いだよ。」

「…?」

「琴子には分からないよ。分かるわけがない。」

「…」

「だから私は普通にしたい。」

「…」

「もう、普通に生きていたいんだよ。」

毛先までピンと伸びた黒髪がひよりの目に焼き付いたのは、琴子の静かさゆえだった。その時、彼女はどこか悟った目をしていた。ニュース映像を前にした時に見せる、あの無表情だった。だから、ひよりはもう何も言わなかった。何も、言えなかった。



 *



バスは常磐道をひた走る。茨城県を抜けた頃から道幅は狭くなり、辺りの景色も人家が少なくなった。まだ朝日が注ぐガラスの向こうから、ひよりは外を眺めていた。心のざわつきを撫でるように頭の中でカノンの音色を奏でても、目に映る緑はどれもそれには合わなかった。

「ひよ、今浪江って看板に書いてあったよ。あと五キロだって。」

隣に座る愛奈が前方を指さすと、ひよりは段々と自分を取り戻した。トランペットの琴子は離れた席に座っていて、時折同じパートの部員と談笑する彼女の声が聞こえる。その声はいつも通りで、静かで優しい声だった。だからひよりは「あと五キロか」と自分を落ち着けるように呟いた。



会場となる秋コス桜モスアリーナは比較的新しい建物だった。それを気にした部員が笠松先生に聞くと、先生は

「ここは震災の年に完成する予定だったんだよ。でも、事故があってこの辺りは人が暮らせなくなったからね。」

と辺りを見回しながらしみじみ答えた。部員たちはバスから楽器を下ろし、建物の中にどんどんと運び込む。ひよりも自分の楽器を両手で持ちながら、ふと町の方を見ていた。事故で一度は誰もいなくなった町。でもそれはどこか見覚えのある景色で、ひよりの心の中に小さな懐かしさを芽生えさせた。ここに来たのは、十二年振りのことだった。

「ひより」

その時、またあの声がひよりを呼んだ。まだ人通りの少ない道路を見つめていた彼女を呼び止めたのは、トランペットケースを抱えた琴子だった。

「終わったら、付き合って。」

琴子はいつも伸ばしている黒髪を一つに結び、普段はしない色付きリップを唇に朱く塗っていた。珍しい。化粧の類いを好まない彼女がそんな姿をしているのは初めてだった。

「約束だから」

あの日から、二人の間に会話は無くなっていた。互いが互いから距離を置き、隣で歯磨きをする毎日も、夜な夜な宿題の答えを教え合うことも消えるようにしていった。朝の登校もどこかで途切れてしまった。こんなにも口を利かなかったことは無かったのに。

だからひよりは、無理やり約束を取り付ける琴子にどこか気圧されていた。自分のクラリネットケースを握るその手は、雪解けの春風に揺れて小さく震えていた。



 *



カノン。金管が全体をリードするようにお馴染みの旋律を吹き出すと、会場からは穏やかな歓声が上がった。

コンサートは、そのまま何事もなく終わった。会場には町民百人ほどが足を運び、様々な団体が演奏する音楽を出演者も含めた全員で分かち合った。ブラス版のカノンもその一つとなり、ひよりはそのメロディーと会場の様子を思い出していた。広大な太平洋を背に。目の前はまだ端々に雪が残る一面の野原だった。

「無理やり、ごめんね」

そう言いながら、琴子はひよりの隣に腰を下ろした。そこは下を見下げるほどに高いコンクリート塀で、震災後に津波対策でかさ上げされたものだった。その上に、二人は並んで座っていた。

「こんなに遠くに来て、集合時間までに帰れるの?」

「それは、分からないかな」

「え」

「その時は、ひよりが笠松先生に怒られてね」

琴子は冗談を言いながら、目の前に広がる大地をじっと見ていた。あれから十二年が経っても、まだあの時の賑わいや彩りがここに全て戻ったわけではない。琴子の家があったのはこの近くだった。漁港に近い年季の入った木造の家で、そこに祖父母と両親と暮らしていた。でも、その名残を感じられる場所は今どこにも無い。壊されたものと新しく造られたものが、この大地には併存していた。

「ねさ」

「?」

「私は…ここで、この場所で、カノンを吹きたかった。」

琴子は前を見据えたまま、トランペットケースの表面をかじかむ手で擦りながらひよりにそう言った。

「お母さんが、好きだったんだよ。カノン。料理をする時も洗濯物を干す時もいつも口ずさんでて。」

その言葉を聞いてひよりは幼い頃の記憶を呼び覚ました。カノン。それは波江の駅から向かう車の中での思い出。迎えに来てくれた琴子の母が、車の中でカノンを流していた。叔母は窓を少し開けて海風にそれを口ずさんで歌っていた。

「だから、いいなって思ったんだよ。同じ気持ちで過ごす三月十一日なんていらない。」

「…?」

琴子は静かにそう言うと、右手でケースの金具を外し、中からトランペットを取り出した。どんな日でも金ぴかに光るように磨かれたそれは初春の曇り空の下でも映えていて、立ち上がった琴子はマウスピースにそっと唇を当てようとした。その時、小さく言葉を発したのはひよりだった。

「私はずっと、どう関わればいいか分からなかった…。」

「…え?」

「絶対私には理解してあげられないって知ってたから、どんなに考えたってその気持ちには近づけないって理解してたから。だから、私には琴子が分からなかった。この町のコンサートに出るってなった時に、いいなって言った琴子が。」

「…」

「私は怖かった。琴子とこの町に来ることが。私が触れちゃいけない琴子の何かに、琴子の心の奥に踏み入ってしまう気がした。」

ひよりはうつむいたまま、その口からは今まで言葉にならなかったものが溢れるように外へ流れ出していった。

「でも…琴子を分かりたいって思いもあるんだよ。琴子がうちに来た時、お母さんから琴子も家族になるんだよって言われた。それ以上は何も教えてくれなかった。だから私は深入りしちゃいけないんだって。義理の姉として、今日から新しく始めるんだって。それで今までやってきた。でも、やっぱりちょっといびつなんだよ。どんなに頑張っても、妹になったとしても、私と琴子の間には越えられない壁がある。だからもう意味が分からなかった。」

琴子は、その様子をじっと見ていた。それからもう一度、トランペットを顔の前に掲げた。



十四時四十六分。



行政無線のスピーカーから、誰もいない大地にサイレンが響き渡る。ひよりは、そっと目を瞑った。あれ以来初めて訪れた自身にも所縁のある場所で。琴子はサイレンが鳴り止むのを待たずに、すっと息を吸ったかと思うと、目の前の大地に向かってトランペットを吹き始めた。カノンは繰り返す。同じメロディーを繰り返す。でも、どんどん新たな楽器が加わって、広がりが大きくなっていく。だから同じように聞こえても一つとして同じ時は無かった。

「…私も。」

ひよりはケースから黒いクラリネットを取り出すと、ゆっくりと草原に向かって立ち上がった。リードを口先で舐めて調整した後に、琴子が奏でる旋律を追いかけるように彼女はカノンを吹き始めた。海風が、二人の黒髪を揺らす。イチエフから曇天に突き出す塔はそれを遠くからそっと見守っていた。

「きっと、私も分からないんだよ。今も、そしてこれからも。」

二人のメロディーが揃った時、琴子はひよりの顔を見てそう言った。

「え…?」

「でも、時は前に流れる。どんなに繰り返すカノンでも、終わりがあるように。」

「…」

「忘れちゃいけないことだけを忘れないでいたい。」

「琴子、」

「…私はここに居るよ。」 

「え?」

「ひよりは、私の家族だから。」

「…」

「だいじだから。だいじな、家族。」

琴子はトランペットを胸まで下げて、風になびく草木を見ていた。そのマウスピースには朱いマークが付いている。彼女も、本当は怖かった。この町を訪れることが。あの日を思い出すことが。だから、気丈な自分でいたかった。

「ひより、」

「…」

「帰ろう?」

でも、大丈夫。もう大丈夫だと、そう思った。



琴子は先に塀を下り、上に立つひよりに手を伸ばした。ひよりと二人なら。ひよりはそれに返すように、「私も、だいじだよ」と彼女に呟いた。二つの手は熱を分け合いながら、そっと繋がっていた。

だいじカノン

だいじカノン

東京に住む高校生「ひより」は、幼い頃から従姉妹で同い年の「琴子」と共に暮らしていた。 それは、12年前のあの日から。 同じ屋根の下で過ごしながらも近くて遠い二人の関係は、ある時部活で参加することになったコンサートで紐解かれるように変わり始める。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted