霞ゆく夢の続きを(6)
【前回までのあらすじ】
赤井かさの君は、出版社の新人賞に応募する小説が悉く一次で落ち続けていた。駅でお手製の本を無償配布するという無謀な企ても失敗し、彼は失意のどん底にある。ある日そこへ一通のメールが届き、箱村、花菱と名乗るおかしな二人から割のいいバイトを与えられる運びに。
ところがどっこい、バイトを提供した彼らも変わっているなら、バイトの中身も一風変わっていた。かいつまんで言えば、夢茶という不可思議なお茶で酩酊し、頭に浮かんでくる映像イメージを言語化して音声入力するだけの仕事だ。しかも勤務中の大半が箱村、花菱との空疎なお喋りに費やされるという体たらく。日本一楽なバイトである。
親心から箱村と花菱は、赤井君に小説家の夢を諦めさせようと手を替え品を替え説得を試みる。だが、のらりくらりと半ば面従腹背の赤井君、まだ小説家への夢は捨てきれないようだ。
懐があたたかくなったことで、さっそく風俗嬢に熱をあげたり不穏な店でヤクザに絡まれたりとおバカな彼。そんな彼にある時、箱村が「妻といっしょに食事会をしよう」と持ちかける。
レストランに到着し、赤井君は驚く。箱村の妻は、なんと駅で箱村と待ち合わせしていたとき不自然なほど自分をじっと見つめていたあの女ではないか。まさかあの時の女が‥‥。驚きとともに、彼は一瞬にしてその美しさに虜になってしまうのであった。会食中わかったことだが、どうやら彼女だけは赤井君の作品を高評価しているようだ。彼に興味をもったのもそれが発端らしい。
食事会が終わり帰り際、ふとテーブルにスマホが置き忘れられているのに気づく。彼女のスマホだ。スマホ画面にはテロップが流れていた。
───今度は二人だけで逢いましょうよ。電話して。
(41)
それは屹立する巨大庁舎の地下にあった。黒山の人だかり。昼食どきのためだろう、県庁内の食堂は各テーブルごとに人の頭がひしめいている。
巣に群がる蜂の集団というか、盤面を占めつくす黒碁石といった具合だ。談笑している人はほとんどいない。女性職員のヒソヒソ声だけ虚ろに響いている。
食堂という名の小箱に詰められていく表情を忘れた幾つもの顔。のっぺりとしていて、まるで「へのへのもへじ」の案山子顔だ。人相の読めない能面が狭い空間にあふれている。目に見えない仮面を一様につける人たち。
皆どことなく殻に閉じこもっているようにも見える。きっとコイツらはゆで卵で、殻をむいてもツルンとしたノッペラボウが出てくるだけなのだろう。どいつもこいつも均質化していて、ピクトグラムさながらだ。
それにしても静かなもんだ。水を打ったよう。夜半、波止場に降る雪のごとき静けさである。ここでは床に落ちる針の音さえ感じ取れるのではないのか。
午後の仕事が気になるのだろう、ほとんどの人が黙々と食べている。陰鬱さが色になってこちらに伝わり、彼らの背中が全員灰色に見えてきそうだ。人は一杯いるのに何故か気配が薄い。閑散とした様相を呈している。図書館の棚にずらりと並ぶ本の背表紙を眺めているかのようだ。
───まるで墓場食堂だな。これじゃ呼吸や瞬きの音まで聞きとれるんじゃないの?
おい、鬼太郎! おまえらは生きているのか。もしかしたら死人じゃないのか。顔のないコイツら、ついでに一人ひとり影があるかどうかも確かめてみなきゃね。
そう呟けば、呟きギャグのあまりの下らなさに思わず笑い出しそうになってしまった。自分ひとり、心の中でウケている。いつのまにか目玉オヤジになった気でいた。
こりゃ箱村・花菱病がかなり伝染している。自分で自分にダメ出ししないと。
───ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲ~ 夜は墓場で運動会、楽しいな楽しいな、お化けは死な~ない(^^♪)
この食堂全体が大きな墓石で、フタを開けてみればダークマターが目一杯押し込まれていたとでもいった空気感だ。黙劇の中、どの顔もどの顔も一様に活気がない。その無表情さといったら、受験票に貼られた顔そのものだ。みんな心のどこかに炎症を起こしている。たった今、眠りから叩き起こされたばかりだといわんばかりに、平板な顔にはそこはかとなく不機嫌さも漂っている。
お前ら、棺桶の中にいなければ落ちついて眠れないドラキュラ伯爵なのか。血を吸っているのか吸われているのか、どっちなん? 置きっぱなしにされて半ば溶けかかったアイスクリームや、床に落ちてひしゃげた色粘土にも等しく、午後からその役目をきちんとはたしてくれるだろうか不安になる。
余計なお世話だが、職務のことだけで一杯いっぱい、もう既に十分疲れきっているのが窺える。まだ昼だというのに皆、運動場を何周もして顎を出しているような有様に見える。
それも無理ないか。毎日毎日、忍従の日々の繰り返し。今日も明日も明後日も疲労と苦痛がスーツの皺に刻まれていく。そのうちスーツはボロ布になってしまうのではないか。その気持ち想像できないこともない。
山口県のどこぞの町役場よろしく、何千万円も誤送金してオンラインカジノで使われないようにしてくれよな。
心の中は外から見えないので赤井君は言いたい放題、ならぬ、思いたい放題だ。さては税金で食べている連中に幾分やっかみがあるのかもしれない。公務員といっても実際はそんなにいいものではない。てんで羨むには値しないのだ。楽そう? なってみれば分かる。見ると聞くとは大違い。すべては見かけどおりではない。この社会に自分が思い描いていた通りの職業なんてほぼ無いのだ。それが有るのはほんの一握りの特権階級だけのこと。
自分は税金を払っていないくせに、そんな勘違いをする赤井君はいい気なもんである。いつも巾着袋の軽い日々を送る彼は、所得が少なすぎて余裕で非課税枠に入る北九州市民だ。貧乏丸出し、スカンピンの隙間風。社会の厳しさにもみくちゃにされる、ヨレヨレ青年である。彼の公務員へのディスりは、投票に行かずにおいて政府を批判するのと同じで、横着者の遠吠えにすぎない。
この鉄面皮がぁ! 納めるものも満足に納めてなけりゃ、さぞや文句も言いにくかろうに‥‥‥と、そんな皮肉がどこからか聞こえてきそうな按配である。
題名は忘れたが、そういえば太宰の短編で主人公が紙幣という破天荒な作品があった。お札が話しながら物語を紡いでいくのである。語り口は女。赤井君は「このお札女が一万円札の束となって自分の懐に優しくすべり込んでくれたらさぞや嬉しかろう」と色と欲まる出しでこの小説を読んだ。情けなくもあるが、それが今の彼の実態である。頭の中はお金と女とひがみ根性だけ。お札を絶世の美女と重ね合わせて、空想の中でいじくり回す変態ド助平ぶりだ。
彼は若いせいもあって、黙ってさえいれば心の中でなにを考えたって構わないぐらいに思っている。何故かと言うと、そうあってくれなければ困るからである。神が一番注意深く観察しているのが、実は人の行いよりも心の中だということをまだ理解していない。すべての行いは、それがよい行いであれ悪い行いであれ、もとはと言えば心の中から生み出されるものだからである。神は姿かたちや行動よりも、その人の思っていることこそがその人自身と見るのだ。
もちろん歳をとっても心を覗き込まれたら困る。だが歳をとれば、人間の心の中は誰しもドロドロの無法地帯であることの諦めが出てくる。人として生まれれば、これはどうしようもないことだと分かってくるのだ。その諦観がバリアを剥がし、神の求めるものが見えやすくなってくるのである。
話は変わるが、何といってもこの食堂の魅力はボリュームのわりに安いことである。セルフだからかもしれないが、やけに安い。
───まさか税金を紛れ込ましているんじゃあるまいな。
こんなふうに赤井君は最近妙に疑り深くなった。どうしてだろう。文学賞はキナ臭いなどと妄想たくましく箱村とあらぬ難癖をつけ合っているせいで、詮索癖がついたのかもしれない。架空話をでっち上げ、下衆の勘繰り、逆恨み三昧。ふがいない話だが思い当たるとすればそれぐらいだ。
叩いても埃が出ないことを知りながら叩く。何のことはない、タラレバ話で盛り上がっているだけのことだ。疑心暗鬼から被害妄想まで、あることないこと並べ立てては言いがかりをつける。
もっとも難癖とはいえ二人でケチをつけあっているだけのことで、世間に噛みついているわけではない。当人たちは少しは闘っているつもなのかもしれないが、実際のところ場外乱闘にもなっていない。行動力ゼロ。人畜無害の除草剤である。頭の中の鬱陶しい雑草がなくなってくれさえすればそれでいいのだ。二人は密かにそう思っている。
また内心、自分の心の狭さに恥じ入る気持ちも否めない。なぜならその思いが自分の欲と迷いから生まれ出たことを知っているからである。彼らの身勝手な言い分は、どう転んでもかなわない人たちへの嫉妬の裏返しだ。
どこの業界でも、成功する人というのは思い立ったりチャンスが来たりした時はすぐさま迷わず行動を起こす。口だけ番長で、行動力ゼロの二人が成功から程遠いのは無理からぬことである。
“県民レストラン”と謳ってはいるものの、分かりにくいことも手伝って民間人がこの地下食堂に来るのはややハードルが高い。昼飯時に、この海上一面に浮かぶ黒っぽく無口な風船達を一瞥すれば、尚更そうなる。
御多分にもれず、初めて県庁の地下食堂に入る赤井君も、県庁の地下ということもあって、お堅い場所という印象はぬぐえない。おずおずと終始かがむような姿勢で、体の重心を低く保っている。もっと背筋を伸ばせばいいのに。小っちゃな体がますます小さく見える。ちょこなんと畏まって座る姿は、寒さに震えて身を丸くする脹ら雀だ。
妙な緊張感がある。なんだか氷を抱いてサウナに入っているような心持がする。これからプレゼンするわけでもあるまいに、一種異様なプレッシャーだ。濃密なこの空気と重圧感。さっきから圧縮機の中にいるんじゃなかろうな。
緊張するのは、勿体なくて滅多に着ないこの一張羅のせいもあるかもしれない。ミノ虫の蓑と同じで、自分にはこんな高級スーツは生涯この一着しかつくれそうもなさそうだ。
───どうせ負け犬の僕は百均ばかりに囲まれて、万札をくずして見栄で財布をふくらます、小銭だらけの生涯を送るんだ。
そう思うと、何やら今着ているスーツがずっしり重い鎧に思えてくる。
ずっしり重いと言えば、人はストレスがずっしり重いと口数が少なくなる。次に表情が無くなる。それがさらに昂ずれば感情が無くなる。帽子の鍔に半分隠れた顔。シェードの影に表情が埋もれて、やがて個性や人間らしさまでも淡く、暗くおおわれていく。
赤井君は過去の自分の後ろ姿に思いを馳せる
これは身をもって経験した。小説を応募してはいつも一次で落とされ続け、あの学生アパートでひとり悶々と悩み、先の見通しも立たぬままいよいよ追いつめられていた頃のことである。
人は鬱屈した状況にあるほど憎しみにとらわれやすい。アパートの一室にこもりきりだった日々は、出版社への逆恨みに苦しむ日々でもあった。自分の置かれた立場の惨めさのゆえに、頻繁に憎しみの感情を刺激していたためである。何かと言えば恨みのスイッチを押して自分で自分を苦しめる。要するに憎しみの脳の回路が反復によって強化されていたわけだ。
憎しみが増幅していくのは、憎しみにとらわれた人間になりきっているからである。そこにどっぷり浸かってしまい、囚人のように拘束され、心の自由を失っているのだ。憎しみを募らせる対象だけしか頭にないので、当然ますます憎しみは募る。いま考えればそのこと自体、たいして怒り狂うほどのことでもなかったのに、拡大鏡で見て大袈裟に興奮しまくっていただけなのだ。
当の本人は、せめて一次でも通過させてくれれば、この憎しみも少しは和らぐと思っている。けれども憎しみの根本原因は、そんなことより始終憎しみを生み出す脳の部分だけ刺激し続けていることにある。したがって一次を通過しようが最終選考に残ろうが、あるいはたとえ受賞作に選ばれようが、すぐまた別の憎しみが形を変えて出てくることだろう。
問題は脳の特定の箇所だけ過活動している状態を放置していることだ。憎しみの拡大再生産により、脳内は有害ホルモンが分泌しまくっている。いち早くそれに気づき、ダダ漏れする憎しみの蛇口をしめて、脳を正常に戻すことを考えなければならなかったのだ。
今ふり返れば、ただ自惚れていただけだったような気がする。つまり自己を過大評価するあまり被害妄想におちいっていたのだ。完全な視野狭窄である。カルト信者がカルト外の人たちが無能に見えてくるように、自分だけが優れていると錯覚して「評価が不当だ」などと、ただひたすら憎しみだけを心に堆積させていたのである。
選ぶ側の立場になってみれば、「俺を不当に評価しやがって」と文句を言う輩が出てくる度に「またコイツもか」とうんざりすることだろう。もし僕がその立場なら「そこまで言うお前は、それほど立派な人間なのか」と腹立ちまぎれに言い返したくなるに違いない。
そう言えばこの前、例のとつぜん現れるお邪魔虫から「君は自分を客観視する能力に欠けている」と指摘を受けたばかりだ。すなわち自分を握りしめ過ぎているというのである。
「頭を取り、自分を外側から眺めろ。外側から眺めているのが誰かといえば、それが魂であり、それが本当の君である。本当の君はそこにはいない」と。
確かにその通りだ。その時は「自分の目で自分を見るなんて白昼夢か。そんなことをしたら自我が無くなってしまうではないか」と感じたが、思い起こせばSM嬢のカナちゃんも酷い客を相手にするときはそうすると言っていた(霞ゆく夢の続きを〈1〉)。
なるほどこれは頷ける。怨恨や憤り等のネガティブ感情に襲われるとき最初にすべきことは、その時の自分の心の状態をつぶさに観察するということなのだ。誰かを裁こうとして脳内に毒をドバドバ放出するのではなくて、その前に脳の一部が異常活動している自分の今の状態、場合によってはそれに伴う肉体的反応をも分析しようとすべきなのだ。
それさえできれば、すでにその時点でネガティブ感情の相当程度が鎮まっているはずなのである。そして視野も広がり、少しは多様な見方ができようというものだ。つまり、いま自分が執着していることがいかにどうでもいいことであるかという点に着目する余裕もでてくるというわけである。
人生は誰にとっても苦だ。そんな辛い人生で、心の波立ちを最短で収束させようとする訓練は有益である。激しい感情にけしかけられるまま理不尽に相手を責めようものなら、最悪の結果をも招きかねない。
火事は小火のうちなら容易に消火できる。だが火の勢いが強くなり過ぎればもはや自力で消すことは困難だ。憎しみもこれと同じで、最初のうちなら我慢もできようが、臨界点に達するともはや手がつけられない。一歩踏み外せば、京都アニメーション放火事件の実行犯のように、被害妄想のすえ狂気をも演じかねないのだ。
心は荒波になる前に静めなければ、悪くすると大惨事に通ずる。この世の中、落とし穴はいたるところにある。穴に落ちないためには自分をコントロールする術を少しでも身につけることだ。それが人生を大過なくくぐり抜けるコツである。
怒りや憎しみなどの有毒感情が生ずる大きな理由は、自分の不幸の原因は他人にあると思い込むことだ。箱村は「人は自分の人生の筋書きを生前書いて生まれてくる」と強弁する。百歩譲ってそれが正しいとすれば、小説を新人賞に応募し何度も一次で落とされるストーリー展開を考えたのも、元をただせば自分ではないか。己の魂の進化にとってそういう筋書きが最もよいと判断したのは、他でもない自分自身なのだ。この意味で自分の人生の全責任を引き受けるのは自分自身以外ない。したがってたとえ今の自分の境遇に不満があったとしても誰も非難してはならないのである。
花菱や箱村のハチャメチャさに笑ったり呆れたりできる今は幸せだ。最近では逆恨みの炎を燃やすどころか、すっかり湯冷め状態。自分の作品が一次で落ちるのも、本音では然もありなんと感じている。もっともこれは、あくまで「本音では」ということであるが。
真実のところはよく分からないけれども、おそらくその見方は正しかろう。どうやら金銭的なプレッシャーが少なくなった分、少しは客観的に物事を見れるようになったということらしい。
今の仕事はバイトとはいえ軽労働とも言えないような代物である。ずる休みばかりの社長のもと、箱村と僕は職場で野放し状態。まるで放し飼いのサファリパークだ。自宅でゴロリとしている時と職場にいる時が大差ない。なにしろ昼寝しながら浅い夢を見るのが仕事だからだ。たまに職場がリゾート地に思えてくる。
それなのに賃金はそれほど悪くない。五月雨式のあの仕事にしてあのお金。申し訳ないほど割に合いすぎる。それだけでも御の字だ。十分ありがたい。いまいましい面もないことはないが、不本意ながらも感謝せざるを得ない赤井君なのであった。
ここにいる大半が県職員だろう。シーンと静まり返っているところをみると、公務員も昔ほど気楽な仕事でもなさそうだ。むしろ痛々しい。悩みやストレスに苦しんでいる人も多いのだろう。
箱村がここにいなくてよかった。こんな静かな場所で、もしいたらノッポでお喋り好きの彼だけやたら浮いてしまうこと折り紙つきだ。賭けてもいい。あんな大男がベラベラと大声で喋りまくれば、どこにいたって目立つだろう。「なんの乱痴気騒ぎが始まった」となる。
いったん喋りはじめるとのべつ幕無し、底が見えない。やっと空っぽになるかと思いきや、いつの間やら何処からか話のネタが注がれている。あの人の言語野はいったいどうなっているのやら。
そう思いながら、身ぶり手ぶりを交えて民放スポアナよろしく大袈裟に話す箱村の姿が浮かんできた。実際、あの大声はどうにかならんものだろうか。「もっと小声で」とたしなめれば、きっと「俺は九州男児だ、盗み聞きしなくてもいいように大声で話すんばい!」と言い返してくるに相違ない。屁理屈だけには長けているので困る。
白ワイシャツと紺スーツだらけのこの場所に、やたら同調圧力に強い、あんな直情型のお喋り単細胞が一人でもいればどういうことになるか。推して知るべしだ。どうせ推すなら太鼓判を押したくなるほどである。
箱村さえいなければ赤井君は完全に集団に同化できる。こういうときこそ花菱からもらった小遣いで買った、この取って置きダークスーツが活きる。とうとう花菱はプラダの財布を返せとは言ってこなかった。体つき同様、気持ちも太っ腹だ。
スーツ一着の着た切り雀とはいえ、このおかげで完全に背景に溶け込んでいられる。ピン札みたいにパリッとしたスーツ。スーツの紺色は保護色だ。もはや自分はお役所風景の一部分である。
とはいうものの場違いの所にいる赤井君、目立たぬようにと自然に体が内へ内へと縮こまっていくのは致し方ない。華奢な体がますます華奢に見える。あの時のアソコでもあるまいに、そんなに硬くなってどーすんだ。八方塞がり、弱気な負け犬の哀しき性が覗く。
負け犬の性は箱村にも共通する。ネアカに見えて本性はネアカでない。ネアカはつくってるだけ。本当は自分の暗さと生きていく重みに耐えている。赤井君は初めて彼と会った日からそのことに気づいていた。
箱村と言えば、ともかく彼だけにはついて来てもらったら困る。なにしろ彼の奥さんにここから電話しようと思っているからだ。彼女のスマホは今、スーツ上着の内ポケットに入っている。貧乏暇なしと言うけれど、赤井君は貧乏なくせに、やたら暇だけはある。博多見物も兼ねてノコノコここまでやってきたというわけだ。
スマホという名の光る小箱が、今さらながら赤井君の愚かさを照らし出す。君はどこまで悠長なのだ。わずか20年そこそこの人生なのに、のんびり屋で間の抜けた君はこれまで何度エラー表示を出したことだろう。これからもテトリスのように積み上げた角砂糖の山をどれだけ崩すことになるのやら。
赤井君は彼女と会食したあの夜の出来事をコマ戻ししながら回想にふける。これまた今まで何度、回想したことか。回想するたび満ち足りた時間に包まれる。
───縁は異なもの味なもの。まさか箱村の奥さんがタコ女だったとは。それにもまして、まさかああいう形で逢瀬を誘いかけてくるとは。彼女と二人きりでデートできるなんて。そんな幸運ってあるものなのだろうか。我がほっぺたを抓ってみたくなる。これで一生分の運を使い果たしてしまったのではあるまいな。
人生たるもの、そうそう茶柱が立つものではない。とくに女と縁のないタイプの赤井君は、身に余る幸運にいろいろ妄想を膨らませ、茶柱ばかりでなくあそこまでつい立たせてしまいそうになる。いい気になるな、肉欲まみれの赤井君よ。膨らませた妄想に針でも刺してプシューとしぼませてやりたくなるほどだ。
いま思い出しても惚れぼれするほどの美しさである。姿形がひしひしと胸に迫る。心に焼きついて離れない。あの展望レストラン、彼女はこのスマホで夜景を撮影していた。赤井君はこの場で情景描写しているような不思議な感覚に陥る。もしあのとき箱村がいなくて、後ろから背中を抱きしめることができたとしたら‥‥‥‥。
───いけない、いけない。いくら魅惑的だからといって、彼女以外のことを考えなきゃ、色ボケで頭が変になりそうだ。彼女の面影を何度も思い返しては胸キュンばかり。ドキドキ心臓が踊る。そのうち心不全で倒れるんじゃなかろうか。
このスマホで夜景を撮影していた彼女。スマホの画面で見る世界は長方形に区切られている。いかに美しい景色であろうと、切り取られた矩形の外側は見えていない。
僕はいま小説にハマっている。何とかして小説家になりたい。だが僕が見ているのはスマホを通した切り取られた華やかな光景だけで、その外側にある泥臭く汚い部分に視野が届いていない。にもかかわらず、全部が見えており何もかも分かった気になっているだけなのではないのか。
そう考えると、箱村の何度も自分に言って聞かせることが妙に真実味を帯びて迫ってくる。例えば僕がある投資セミナーに行く。僕以外は全員サクラ。優柔不断な自分はまず騙されるに違いない。そして、よからぬ金融商品を買わされ一生借金に苦しむことになる。
今のめり込んでいる小説家への夢も、これとほとんど大差ないのではないか。箱村も花菱も小説家なんぞになりたいと思うなという。僕以外の人はみんなそのことを知っている。知らないのは僕だけなのかもしれない。
芥川賞にしたって直木賞だって、ある意味、本を売らんがための仕掛けの一つ、単なる権威づけの金看板なのではないのか? 大仰に錦の御旗をはためかせているだけのことなのではないのか?
とはいえ置かれた立場それぞれに事情がある。万事は一面的には測れない。それは解る。箔を維持していくためには最低限それなりの作品を選び続けなければならないだろう。その苦労は想像に難くない。また文壇への登竜門と言われるからには、作家たちにとっては自分の作品が出世作として評価される証でもあるのだろう。
けれども賞はしょせんビジネスのための賞だ。賞のための賞ではない。そんなこと半ば周知の事実なのに、それがどれだけ遠くにあるかも知らずして新人賞、新人賞と馬鹿の一つ覚えで作品を書き続けるこの僕は何なのだろう。しかも賞をとった先のことは何も考えていないのだ。
そもそも賞をとった者が勝者で落ちた者が敗者だという考え方自体、少し歪んでいないのか? 小説を一篇かき上げたということだけでも立派な勝者ではないか。応募者全員が勝者で、敗者は一人もいないのではないのか。いっそ応募者全員になんらかの賞をあげればいいのに───ついそんな現実離れしたことを考えてしまう僕はおかしいんだろうか。
さて、こうやってスーツに身を包んでいると、名札をぶら下げていないだけで姿かたちはワイシャツや背広姿の県職員そのものである。案外作家なんかにならず、この人たちのように歯車として生きた方が賢明なのかもしれない。自ら進んで、歯の欠けた使い物にならない歯車になろうとしてどうするのか。
こんなふうに平凡な大衆のなかに混じって、目立たぬよう騒がぬよう一生を貫いた方がずっと幸せな人生なのではないだろうか。卒業式の効果斉唱だって、大勢の中にいれば一人だけ歌詞を忘れても誰にも気づかれない。ところが一匹狼の小説家となるとそうはいかない。どんなことも一人で引き受けないといけないじゃないか。どうすんだ。
あれやこれや考えては、ふとそういった迷いのよぎる赤井君なのであった。まるで“お前は人か魚か”と問われて戸惑う人魚姫である。といっても傍から見れば、「小説家になる先にそんなことを不安がるお前は、アホじゃないのか。迷うなら、なってから迷え」という話だ。
虫ピンの先に偶々一匹の蚊がとまった。殺そうか。でも下手するとピンが手に刺さるかもしれない。やっぱし殺すのやめよかな。彼の迷いの元はそんな取るに足らない、一抹の不安とも呼べないほどの代物である。
作家になるより案外目立たない平凡な人生の方がいいかもしれない、と思える理由はほかにもある。それはあらかたこうだ。
あくまでも仮の、現実離れした話だが、もし僕が神様だったとしたら、もっとも評価する人間にどういう贈り物をするだろうか。その人を金持ちにして、有名にして、絶世の美女を奥さんとして迎えさせ‥‥‥と、みんなから羨望の目で見られるような運命をプレゼントするのだろうか。
多分そうではない気がする。きっと神様は最も評価する人間には何も特別なことが起こらないごく平凡な運命をプレゼントするに違いない。
宝くじにも当たらないし、そんなに出世もしないし、結婚するのも平凡な女性で、犯罪にも交通事故にも大きな人間関係のトラブルにも巻き込まれず、平均寿命に至ったとき初めて病気らしき病気を経験するか、それとも病気にかからぬまま老衰で死ぬか───そんな人生をプレゼントするに違いない。むろん文学賞をとって小説家デビューなんてことは論外、淡々と穏やかに過ぎていくだけの人生だ。
なぜか。なぜならこの世にそれ以上幸福な人生はないからである。少なからずの人がそのことを知らず、道を誤る。平凡な生活に不平を言う人は、自分が神様から認められ最上の贈り物をされていることに気づいていないだけなのだ。
さあ、それはそれとしてだ。いま赤井君には切実な悩みがある。前述したとおり相も変わらず彼女のことが頭から離れないことだ。頭蓋骨の内壁には、今もなお彼女の幻影が、岩に打ち上げられたヒトデよろしくはり付いている。
電話しなきゃ、電話しなきゃ‥‥‥そう焦れども電話するチャンスがないのだ。心は信号の点滅のように急かされている。職場で何度も試みた。だがスマホで彼女へ電話しようとすると、なぜか箱村か花菱がヌッと現れる。彼らは逃げても逃げてもベタリとはりついてくる影法師だ。
どうして電話しようとするたびに決まってどちらかが横に突っ立っているんだ! お前らは誰かの見ている夢の中に、面白がって突然入り込む妖怪なのか! やむなく職場から電話するのは諦めた。
御両人とも話し相手に飢えているらしく、やたら赤井君にべったりである。話したいなら二人で話せばよいものを、双方虫が好かないのか、二人でじっくり話し込んでいるのを未だかつて見たことがない。隙間風か通り抜ける空き家のような関係だ。それでも組んで仕事をしているということは、相互に必要する関係なのだろう。いわゆる腐れ縁というやつだ。
赤井君はやむを得ず二人の長話にうなずきながら職場内をトコトコ歩くだけの鳩ポッポになっている。電話する機会をうかがいつつ、あっちとこっちを往復するだけ。ここで御百度参りして、どーすんだ!
たった一人になれる機会には案外恵まれないものだ。仕事から解放され一人で塒にいる時などに彼女の自宅に電話することも考えたが、彼女の隣に箱村が座っている可能性は依然として低くない。こっちが塒にいるときはたいてい箱村も塒にいるのだ。
それにしても彼女は、妻にあれほど横柄な口のきき方をする旦那とよく別れずにいられるものだ。心が広い。北朝鮮が飛ばしまくるロケット残骸の墓場にされても、なお愛想を尽かさぬ日本海だ。よほど寛大なのか、よほど惚れているのか。
惚れてるのならあのスマホのテロップはなんだろう。女は相手が嫌いになるや否や、男の為すこと何から何まで愛からセクハラに早変わりするそうな。少なくとも夕食会の二人を見る限り、そんな枯れ野に凩ピューピューの関係ではない。破局の兆しがこれっぽっちもないにも拘らず、誘惑してくるとはどういうことだろう。たぶん女も人間だから浮気願望はあるんだろうな。そうだとすれば僕は見事、お眼鏡にかなったということか? いや~ぁ、色男は辛いよねぇ。
我田引水の空想に思わずニヤつく赤井君である。
そんなこんな余計なことを考えながら、結局彼女が職場にいる時刻に、箱村が絶対現れない場所から電話するのがベストだという結論に達したわけである。なにより彼女がスマホで示した電話番号自体が自宅のものではない。おそらく職場のものだろう。
「私、才能あると思う。まだ原石で将来は未知数だけど」───
赤井君は彼女のその言葉を何度も何度も思い出し、反芻してはほくそ笑む。彼女に魔法をかけられ、彼はとうとう胃がたくさんある牛やヤギにされてしまったらしい。どれだけあの時の彼女の言葉と姿を心の中で再現したことだろう。思い出すたび、ほっこりする。
彼女は赤井君の作品が二次までいけないのはおかしいとまで言ってくれた。しかし最近、箱村の影響もあって自信もかなり揺らいでいる。いくら原石だといっても鍵の壊れた宝石箱に入っているんじゃないか、それじゃぁ取り出しようがないじゃないかと。
子供のころ夕焼け空を追いかけて、よく走った。夕焼けは走れども走れども近づかず、かえって遠のいていった。小説家になるって? この迷路のいきつく先にはたして自分の姿はあるのか。ないかもしれない。夕焼け同様、求めれば求めるほど遠のいていくのではないのか。
箱村や花菱の影響かもしれないが最近、小説家のネガティブな側面ばかりが浮かんでくる。日々弱気になっていくのを感じている赤井君である。
とはいえ、と思う。とはいえ箱村も“人生とは生前に自分が書いた一篇のストーリーだ”と言っていたではないか。もし僕がその台本の主人公で、死ぬまで波風を立てず、何の変哲もない歯車の一員として物語を終えたとしたら、そんな台本、退屈過ぎてどこが面白いんだ? チャレンジして失敗して、またチャレンジして失敗して、それでも稀に成功することがあるから、そこに人間ドラマがあって面白いんじゃないのか。
人生は短い。線香花火のごとくポトリと落ちる。残った煙はいったい何処へ流れていくのやら。誰の人生も瞬時に消えて無くなるソーダ水の泡だ。みんなそうだ、みんな、葉が風に朝露を散らすように呆気なくいなくなるんだ。だったら好きなようにやらなきゃ嘘じゃないか。
どうせ散らされるなら、風に乗る火の粉になってやれ。最悪それで自殺することになったとしても、全世界が消えてなくなるわけじゃない。僕がいなくなった後も、古時計はちゃんと時を刻み続けてくれるのだ。死ぬ間際に我が人生を振り返っても、きっとこれと同じことを思うに違いない。
たとえ短くとも一生分懸命に鳴きつくした蝉は、枝をたわませ、幸せなまま地面に落ちる。その時が来るのは他の人より早くて構わない。荒い波間にこそ歓喜がのぞくんだ。長生きもほどほどでいい。
やりたいことをやり尽して短命に終わるのも、辛抱しながらダラダラと長生きするのも同じ人生じゃないか。同じ人生なら前者を選んでどこが悪い。僕の人生に書き残しはない。序文も後書きもいらない。本文で燃焼しつくすんだ。
だいたい神様に気に入られた者ほど向こうの世界に早く召されるんじゃないのか。「善人は早死にする」とよく言うだろう。死んだってまた新たなスタートラインが待ち受けているだけのことさ。
小説をやめろ、やめろと、箱村も花菱も何だ。どだい人が人を諭して変えることなど、そう易々とできるものではない。たとえその人のためと思ったとしても、変えさせようとすべきでないのだ。基本的にその人のことを一番知っているのはその人自身だ。それを差し置いてその人に変化を強いるとはどういうことなのだ。もっとあるがままに受け入れてくれよ。僕に生きている間じゅう寝たフリをしろと言うのか。
想像してみてくれ。僕たちはこの世に学びのパズルを解きにやってきた。学びのパズルを解くことは同じなのだが、人それぞれ条件が違っているので解き方は同じではない。個性もカルマも違うので解き方が変わってくるのは当然だ。他の人の解き方を批判する権利は誰にもない。「あなたの解き方は理解できない」と文句を言うのは筋違いだ。
それより何より、神様仏様は常日頃からその人がパズルを仕上げるのに最も効果的なやり方をするよう見守り、時には偶然を装って助力してくれることもあるはずなのだ。他の人の解き方を批判するのは、神様仏様をも批判することなのではないのか。
(42)
と、その時である。背後より迫りくる気配を感ずるが早いか誰かがポンと肩を叩いた。のんべんだらりと物思いにふけっていた赤井君は、思わず時間の段差につまずく。
「やっ、お前、なんでここで昼飯食べてるんだよ」
屈託のない声が、殻をかぶったようなこの場所の、膠着した空気を裂いた。
馴染みのある声、あに図らんやアイツだ。そう、もうお気づきの通り、お手製の小説を作るために小学校の印刷機を使わせてくれたアイツである。いくら静かとはいえ、さすがに響きわたる靴音とまではいかなかったか。これは意表を突かれた。
「なに目を丸くしている。僕の顔から松茸でもはえてきてるのかい?」
「松茸?」
あまりにも突飛な発想なので、赤井君は一瞬とまどう。
食堂に入ったときコイツはいなかったはずだが。動かぬ石仏が背景から浮きだし、音もたてずここまでにじり寄ってきたとでも言うのか。とんだ不意打ちをくらった。まさしく神出鬼没。意外なところで意外なときにコイツはするりと出てくる。いつもそうだ。君は心太なのか。
ゲッ、ゲッ、ゲゲゲのゲ~ 何やらお墓まわりが賑やかになってきたな。魂消たねぇ。棺桶の蓋をあけると中の骸骨が急にカタカタ笑い出したような唐突感、思わぬ展開である。
「お前、県庁に出入りできるような会社の社員にでもなったのか。驚いたぜ」
鷹揚に語りかけてくる。驚いたのはこっちのほうだぞ。
「僕だって、肩を叩かれてびっくりしたよ。不整脈になるかと思った」
赤井君は斜めにかかった額縁のような、何だか割りきれない複雑な表情を浮かべる。
───この席からちょうどレジに並ぶ数珠つなぎの人の列が見える。こんなところにコイツが突然あらわれるなんて、思いがけず数珠の紐が切れて数珠玉がバラバラと頭のうえに落ちてきた気分だ。
「この前会ったときはシケた顔して、潰れそうな町の電気店をクビになって路頭に迷ってると言ってたじゃないか。あれから劇的な人生の展開をみたのか? ビシッとしたスーツを着てるしさ。それ高かったろう、公務員になってからスーツを見る目が肥えてね」
くろぐろとした人混みの中、よく僕を特定できたものだ。いつもの気軽な調子で話しかけてくる。とはいえ、さすがに墓場食堂だけあって、さも墓石どうしがひそひそ話をしているかのように、二人の語り口は静やかだ。
「まあ、奇妙な展開はあったけどね。世の中、おかしな人がいるもんだよ。それはそうと君こそどうしてここにいるんだ。今なら児童にあわせて学校の給食を食べてなきゃいけない時刻だろう」
「いいんだよ、ここまでキンコンカンコ~ンのチャイムは聞こえてこないからな」
とアイツは満面の笑みを浮かべ、しょっぱなからギャグのラッパを吹きならす。
📯 🎶 パンパカパ〜ン
奴の上機嫌につられて、僕の耳の奥にまで金属質の高らかなチャイム音が響き渡りそうだ。
「こっちとら財布の中がスッカラカンコ~ンだ。それに福岡にはビッグベンはないしね‥‥ビックカメラだったらあるけどww」
しょーもないギャグで応戦するものの、───エヘヘ、不発に終わっちまった。この返し、ちっとも面白くないよね。ビッグバン級の下らなさだ。
「今のは挨拶がわり、かましのジョークだ。さ~て、つかみはOKと」
すべったとはいえ、アイツは僕がギャグで返したことは完全無視だ。せめて「それ、イマイチだな」とでも言って欲しかった。自分のギャグの出来しか興味がないらしい。
そして続けて言うことには、
「給料の電算書類の照合だよ、出張さ。毎月何回ここに足を運ばなけりゃいけないと思ってるんだ。知ってるか?」
かましギャグで弾みがついたのだろうか、今度は「知ってるか」攻撃である。
「何を?」
「義務教育費国庫負担制度だよ」
「なんじゃい、それ」
「教職員給与の三分の一は国が負担しなくちゃいけないって制度だ。昔は二分の一だったけどな」
「はぁ? それがどうした」
「だからぁ、面白い話だろうってこと。こういう教育公務員なら常識中の常識を、お前ら一般人は意外と知らないんだな。雑学だと思って文科省のホームページで調べてみろ、面白いから。“へ~ッ、そんなふうになってんだ”って」
「何が言いたいの?」
冷ややかな赤井君、二人の温度差はかなりのものだ。
「お前はこっち系の知識欲はからっきしだな。小中学校教職員の大半が県の職員だってのは知ってるよな?」
「ああ、なんとなく」
「だからね、教職員の給料は県と国の予算がチャンポンになってる。今日の出張もその関連だ。教職員の給料や大きな施設費は市町村内部だけでは完結しないんだよ。ほんだから、ありがたいことに県職員である僕も、こんなふうに市町村立小学校に居場所があるというわけだ。文科省に感謝しないとな。つい一週間ぐらい前にも財務省の役人二人が学校にやって来て、定数とか児童数・クラス数とかがちゃんと規則通りになってるか立ち入り調査していったばかりだ」
「それ、文科省の仕事じゃないの?」
「分からんよ、そんな雲の上のこと。たぶん財務省と文科省が互いに足の引っ張り合いをしてんじゃないのか、知らんけど」
「要は教職員の頭数が法律と合ってるか調べにくるんだな」
「単純に言ってしまえばそういうことだ」
「でもなんで児童数やクラス数まで?」
「そりゃ教職員数は児童数・クラス数その他もろもろで決まるからさ。30人学級とか40人学級とかいう言葉、よく耳にするだろう。なんせウチはマンモス校だからねぇ、児童の転出入が激しいんだ。ご丁寧にも職員の出勤簿や児童の指導要録の枚数、果ては教科書関係に至る書類まで二重三重に隅から隅までチェックしていったよ。教員給料一人分の歳費でも結構な額になるからね。どのランクの役人がやってくるのかは知らんが、天下の財務省がそんなチマチマしたことに時間を割くな、と言ってやりたいぜ。わざわざやってこなくたって、学校の書類を丸ごとオンラインでデータベース化して、したいときに中央で勝手に突合すりゃいいんだ。不突合がありゃエラー表示が自動的に出るとか、そういうシステムをつくりゃいいのに。サンプル調査とかじゃなくて、エラーが出た学校にだけ集中的に監査をかけりゃいいだけのことだろ? 縦割り横割りなんだから、もう。今はIT時代なんだ、これって何とかなんないかな。まあ、これもエリートにはエリートなりの深い見識あってのことなんだろう。実際、こんな地方の低級公務員が中央の高級公務員たちに何かを言おうとしても始まらないんだけどもね。考えてみれば、それって魚に泳ぎ方を教えようとするみたいなもんだからな」
のっけから門外漢にそんな専門的な話すんなよ、脳ミソが雲丹になるじゃないか。
「よくは呑み込めないけど、そっちはそっちでいろいろ面倒臭いんだな。それにしても食堂、混んでるね。まるで盤面を占めつくす黒碁石だ」
アイツは辺りをぐるりと見渡し、
「全員ジジババだったら、白髪頭で白碁石だけどな」
二発めのギャグが出た。面白いことを言ったつもりらしい。マッタリと得意顔、どことなく浮かれている。(●´ω`●)マッタリ‥‥
「それにここって、いつもこんなに静かなのかい? 石像が並んでいるみたいな感じだが」
「石像はあんまりだろう、動いているじゃんか。ちゃんと生きてるよ。デスマスクがずらずらと展示されてるわけじゃあるまいし。朝、通勤時に駅のプラットフォームにあふれる人達だって無表情で寡黙だろう。それが会社や官公庁で働くということだよ。ちなみにお前さん、さっきコイツらをゆで卵みたいにのっぺりしてると思ってただろう」
「え? なんでそれが分かんの?」
「ああ何となくな。それに、受験票に貼られた顔みたいに無表情だとも思っていたな。てか、これってどっちかって言うと指名手配犯の顔写真じゃね? みんな深刻そうな顔しててよ」
「同じようなもんじゃないか。でも何でそれ、分かっちゃうの? 心の中のことなのに」
するといきなり、
「僕に今どういう情景が見えていると思う?」
コイツ、藪から棒に何を言う。
「なに、それ」
「円形に区切られた世界、そこには青い海が波を立てながら水平線の彼方まで広がっている。望遠鏡で海を見ているのかもしれない。あるいは船の丸い窓から海を見ているのかもしれない。心は海だ。だからじゃないのか。海はどこまでも続いているだろう。お前の考えたことが、たまたまこっちに漂着したまでのことさ。プラ塵みたいにね」
な〜んだ、この作品の表紙画の解説をしてたのか。そりゃ作者も手間が省けてさぞや喜ぶことだろう。
「急に詩人になったな。僕の考えることはゴミなのか」
「さあね。いちいち無数の思念が溶け込んだ海の底にスポットライトを当てたりしないからな。海だからって無理して泳ぐことないじゃないか、空のペットボトルならゴミらしくぷかぷか浮かんどきゃ。人が考えることなんて、大概が知られたらチョー恥ずかしいガラクタばかりだよ。僕だってそうだ。コイツらだって、人に言えない悩みが仕事に一杯あるんだわさ。悩みがありゃ選挙ポスターみたいに愛想よくはできないって。でもさ、僕がお前にしたみたいにさ、アイツらの肩を後ろからポンと叩いてみな。ゆで卵が振り向いてニタッと笑うぜ。けっこう気さくな奴もいる。“アンタゆで卵じゃなかったのか、ちゃんと表情あるじゃんか”ってなる。考え過ぎんな。映画の『大魔神』がウジャウジャいると思っときゃいい。しかし何だな、石仏の大魔神が急に甲高い声でペラペラ喋り出したら笑うだろうな。アンタ、軽すぎやろうってね。こりゃ、おもろいやんけ」
大魔神が甲高い声でペラペラ喋り出す? やれやれ、なんという着想だ。どうしてここで大魔神が出てくるんだ。おどけ過ぎじゃないのか。あまりにも話が古くて、赤井君は苦笑いである。
ひょっとしてそのお喋り大魔神とは箱村のことなんじゃないの? 体もデカいし。軽くて軽くて飛行機雲になって飛んできそうなあのジョーク、そりゃ軽薄すぎて笑うだろうさ。風の吹くまま気の向くまま。アンタは風向きに身をまかせて人生を飄々と浮き沈みする蝶々なのか。
「でもなぁ、今日日、帳票のチェックぐらいリモートでしてくれよ。民間だったら、こんなのテレワークだ。公務員がこんなんでいいのか。民間を指導するんじゃなくて、民間から指導してもらえってんだ。わざわざ博多にまで出向いてこなきゃいけない身にもなってみろ。時間がいくらあっても足りないじゃないか。残業代はシーリング予算だからな。僕らなんて高だか事務職員にすぎないのに、どうして教員の教職調整額とおんなじ扱いなんだ。これじゃ全くの働き損だろう。学校にいるからか。どれだけサービス残業させようってんだ!」
「税金で食べさせてもらってるご身分のくせに文句いうなよ」
そうたしなめれば、
「まあまあ、そういうド正論は吐くな。税金泥棒の謗りにはもう慣れっこだ。要するにだな、上の方の連中は予算が“金銭であらわした行動計画”と定義づけされることを理解できていないんだ」
───なんだって? (‘_’) ハテナ?
竹下登首相なみに言語明瞭、意味不明瞭だ。「ア~ウ~総理」の大平正芳の方がよほどましではないか。(古くてゴメン、分かる世代なら分かる)
「何や、それ。素人相手にやたらめったら難しいことを言うなよ」
「なら、やさしく言ってやるよ」
「やさしくしてもらっても御免こうむる」
「まあ、そう言うな。つきあえ。僕らの仕事は言ってみればアレだな、江戸時代に参勤交代ってのがあったろう。アレにちょっと似てる。不定期の参勤交代だ。幕府の命ずるまま、あっち行ったりこっち行ったりの外様大名だ。市町村立学校に来ても、すぐ戻る者もいる。来たまんまの者もいる。最初から最後までいる者もいる。最初から最後までいない者もいる。いろいろだよ。江戸幕府はどういう匙加減で決めているのやら。要するに僕らは生かさず殺さずの人質みたいなもんだよ」とアイツ。
「どっちの? 県教委の? 学校の?」
「両方だ。けど人質にされるなら小学校の先生たちのほうがいいよ」
「なんで?」
「何て言うかな、あの人たちは超多忙のわりに優しくて思いやりがあるからだ。もちろん中には変なのもいるがね。説明が難しいんだけども、あの世では下に行けば行くほど地獄は深くなるだろう。でもこの世では上に行けば行くほど地獄は深くなる。国会の乱闘劇や飛び交う言葉の刃の応酬、政治家同士の足の引っ張り合い───あんなの見てみろよ、もろ地獄だろう。修羅地獄だ。一番上に立つ者がああなんだ。たぶん霊界の階層とこの世の階層は真逆の関係にあるんだろうね」
「へえェ、君がそんな突飛な話をしだすとはねぇ」
「だってそうだろ? たとえばだな───最近、政治家の裏金問題が取り沙汰されてるよな。残念だが、この日本にも権力構造や貧富の配列が色濃く残っている。政治家はジャパン・ヒエラルキーのトップに君臨する権力集団だろ? 彼らは社会階層の頂点から主導権を振るいまくる。その政治家達がなんと政治資金パーティーの裏金をかすめ取り、それを隠して税金逃れまでしているんだ。僕もたいした人間じゃないが、奴ら、ほんと無茶しよるで。他方、社会の底辺にいる非力な貧乏人が生活を切り詰めて、少ない年金や賃金から介護保険料や健康保険料や税金をどうにかやり繰りして納めている。これ、どう思う?」
「どう思うって、そんなワイドショー的政治ネタにコメントを求められてもねぇ。そういう政治家達を選んだのは誰かい? 僕たちじゃないか。北朝鮮やロシアの政治に比べりゃ、そんなのかわいいもんじゃないの? 今でもガザやウクライナは阿鼻叫喚の地獄絵図だ。多くの民間人が殺されて血と涙の雨が降っていることに比べれば、たかがそれぐらいの事と思わない?」
「ひねくれてるな、そんな見方するなんて。お前と僕とはレンズの厚みがまるで違うんだな」
「しかし大した正義感じゃないか。公の仕事についたから、現実と理想の狭間でフラストレーションでも抱きだしたのか。そういう青臭い正義感もいつまでもつかねぇ。若い時だけじゃないのか? 期待して見ててやるよ」
「お前の答えはせいぜいその程度だと思っていたよ。でももしこれがお前じゃなくて、神様が彼ら彼女らの心の内を見透かしたらどう思うかな? “ピラミッド、逆じゃね?”と思うに違いない。であるからして、この世の価値観があの世でぜんぶ裏返ったとしても何ら不思議はない」
この話はどこかで聞いたことがある。そうだ、箱村だ。確かこう言っていた。
───いいこと教えてやるよ。あの世に行ってみろ。アッと驚くぞ。あっちを見てもこっちを見てもこの世の序列と真逆になってる。この世の格付けやランキングはあの世では通用しないってことだ。どうしてかっていうと、あの世は心の世界だからだよ。心ありようで序列がぜんぶ決まっちゃうんだ。地位とか役職とか収入とか職業とか学歴とか容姿とか、そういったもんで誤魔化しようがない───
そうか、新味なく感じたのは箱村の二番煎じだったからか。でもこれって、本当なんだろうか。どう考えても眉唾物で、妄想の類としか思えない。箱村もコイツも何を考えているんだろう。
「ほう、君はあの世を信じているのか。あの世のことは根拠を確かめようがないから何とでも言える───ホントはそう思ってない? だってこの世に生きている人で、実際に自分の目で地獄とか天国とかを見たことある人なんていないだろう。いない以上、どちらかといえば理系タイプの君が信用するとは思えないんだが」
「そういうお前はあの世を信じてないの?」
「いや、その、実は信じているんだが」
「ほら、そうだろう。フィーリングと情緒だけで生きているド文系のお前だから、信じないはずはないと思ったよ。これはあくまで仮定の話だ。物語だよ。みんな頭ん中で描いたこと。なにごとも証拠がなければ通用しない。言う通り、あの世なんてあるのかないのか確かめようがないよ。あの世があるかないかは、あの世の住人にきいてくれ。霊や魂があるのかないのかだってそう、霊や魂にきいてくれだ。医者や科学者だったら“頭を林檎の皮のようにどこまで剥いていっても魂らしきものは何処にもなかった”と否定するんじゃないか?」
「そりゃ間違ってるね」
「なんで?」
「魂というのは宿るものではなくて在るものだからだよ。魂は箱の中に納まっているボールじゃないんだ。彼らはIQが高いせいで論理的に考え過ぎている。MRI検査で脳をいくら輪切りにしたところで、その人の思い出や記憶を見ることはできないし、取り出すこともできないだろう。霊魂はそれと同じさ」
「低偏差値男が、なにを偉そうに分かったふうな口きいてんだ。魂が宿るものではなくて在るものだって? なんとも捉え所のない理屈だ。“在るけど無い”の空の思想か。霊魂はもちろん神様や仏様にしたって、いるのかいないのか自分が直接神様や仏様のいる所に行ってこの目で確かめなきゃ信用できないんとちゃうか。今んとこ実際にその姿が見えないんだからさあ、しょうがないよ。死んで西方浄土にでもいけばホンマモンの姿が拝めるかもしれないけどな。それだって浄土があるかどうかさえ分かんないんだから、お話にならんよ」
「へぇ、そうなのかい? 無いものは見えない、見えないものは無い、ただの幻、現実じゃない。そう言いたいわけ? そういうのが数学的思考だと思ってるわけ? それって変じゃないのか? 君は火星に行って火星人を見たことはないだろう。それでも火星が実在することは信じて疑わないよね、火星人がいるかいないかはともかくとしても」
「ん?」
アイツが口ごもる。
「電気だって磁力だって目に見えないだろう。けど、目で確かめることができなくてもその力を疑う人はまずいない。要するにどれだけの人数が存在を確信してるか、あるいは発言力のある人がどう言っているかで全て決まっちゃうんだ。人間なんて自分勝手な生き物だよ。これは科学だけでなく、文学・芸術を含めてあらゆる分野でそうだ。前者は観測や実験で確認できるが、後者はできない。したがって優れた文学・芸術作品と言われるものは、恣意的に誰か発信力のある者にその評価を刷り込まれているだけという場合もあり得る」
「ふぅ〜、何を言ってんだ? 僕って頭わるいのかな? 最初のほうは分かったが、最後のほうの意味がとれないぞ。相変わらずお前の考えることは変わっているな。癖字が強すぎて読めない。真実は偉い人が事実をいじくることでいくらでも作り上げられるとでも言いたいのか。それって雲か霞か。なんの禅問答だ。ときどき引き出しを開けてみれば、場違いのビックリ人形が飛びだす。そういう子供騙しの屁理屈はいいから」
ビックリ人形は君だろう、今日も突然あらわれて‥‥‥‥。
「別に頭は悪かぁない。分からなきゃ分からないままでいいよ。君は書くたび書くたび一次ではねられた経験がないからピンとこないだけさ。それにね」
「それに?」
「実際に君が天国に行って神様に会ったとする。実際に神様は目の前にいる。君はその目で確認した。でもその人がほんとに神様だってどうして分かるんだ。偽者かもしれないじゃないか」
「そりゃ『そうです、わたしが神様です』って名乗るだろう、志村けんみたいに」
「君はそんなに間抜けなのか。自分は神様だと偉ぶって名乗る人が、神様のわけないじゃないか。そんなの“私は仏陀の生まれ変わりだ”と宣う大川隆法や麻原彰晃と同じじゃないか。『変な神さ〜ま、だから変な神さ〜ま♪ だっふんだ!!』とズッコケ落ちをつけるってか!‥‥‥www」
赤井君は形態模写をしてみせる。するとアイツは、下手すぎる志村の口真似に唖然としたのか、それともプライドを傷つけられたのか、
「う~~ん、面倒くさい。そんなことよりもだな、いま僕が腹を立ててることは何だと思う? いつもいつも出張のおかげで外食だってことだ。給食費はちゃんと払っているのに出張の度に一食分損する。これ、何とかなんないかな。学校でのんびり相棒達と一緒に食いたいよ」
と、急に関係のない話題に飛んだ。どうやら話に辟易してしまったらしい。
───ふっ、ザッピングかよ。会話が面白くなくなると次々にチャンネルを変えるとこあたり、コイツ、箱村にどことなく似ているな。
「しみったれてんな。仕事にあんまり文句いうなよ。僕に言わせれば、そんなの贅沢だ。働かせてもらえるだけ有り難いと思えよ。おまけに税金から給料をもらってさ。これ何度も言ってしつこいけど。結構なご身分じゃないか」
(43)
話しながら、小学校の頃の思い出が一瞬脳裏をかすめ嫌な気分になる。アイツの“給食”というワードが記憶を刺激したためだろう。嫌な気分になったというのは、小学生の頃は黒歴史だからである。これまで生きてきた中でその期間だけが、暗く汚い色で塗りつぶされている。どこかに追いやってしまいたい出来事、いっそ燃やし尽くしてしまいたい過去だ。
僕は悪質なイジメのターゲットにされていた。早くも人生の坂道を一瞬にして滑り落ちたのである。あの数年間、僕の過去には印画紙の白い影が吸着し、自分の顔が見えないでいた。
思えば、ややもすると妄想や幻覚に逃げ込みやすい性向もこの頃つくり上げられたのかもしれない。イジメによる持続的な精神の苦痛で脳のどこかのピースが外れてしまったのだろう。
事実あのころ、冷酷な現実から離れて想像上の友達を何人もつくりあげた。想像の世界で彼らと遊んでいる限り優しさに接していられたからである。何をおいてもこの辛い現実から逃げたいという欲求が根強くあったため、想像上の閉鎖空間にこの身を置かざるを得なかったのだ。ひょっとしたら今現在だって架空の友達と付き合っているのでは───ふとそんな気がしてくるほどである。
経験した方なら分かってくれるだろうが、イジメが人をして日常から乖離させるのは紛れもない真実だ。やや誇張のすぎる表現だが、恐怖や疎外感にこの身がしぼみ、別の世界を求めて精神が体から脱け出しやすくなる‥‥‥たとえば妄想や幻覚の世界へ。そういった震える触覚にふれるような繊細な感覚なのである。
この世のすべての人から自分の姿が見えなくなってほしい。そう願った。「この先、辛い事があっても透明人間になって生きていこう」と悩んだ末、幼心に決心したのもこの頃である。自分の人生に対峙できるのは自分だけだからだ。他人に頼ってもどうにもならない。自分の人生は自分の責任である。
ちなみに僕は他人から「あなたはすごい」と言われてはじめて「自分はすごい」と思えるタイプの人間である。本来自分がすごいかどうかを決めるのは自分自身であるべきなのに。
「なぜ自分はこうまで他人によく思ってもらうことを求めるのか。なぜここまで他人が自分をどう思っているかを気にするのか」───そう自問するとき、これまた小学校時代のイジメに突き当たらざるを得ないのである。周囲から疎外されることによる愛情の欠如、そして加虐への恐怖が、他人から認められないと不安だという心理を形成し、それが意識の奥底に根づいてしまったからなのではないか。今はそのように推測している。
なぜイジメの標的になってしまったかは不明である。あまりこのことには触れたくないのだが、あるいは母が死んで天涯孤独になってしまったことが原因ではあるまいか。残忍さは弱さに向かうからである。
イジメられた経験のある人なら分かると思うが、常習的にイジメられると人と会話するのが怖くなり、無口になる。無口になれば孤立する。それが弱さに拍車をかけ、ますますイジメの餌食になる。まさに悪循環、イジメが凶悪化するサイクルである。
善良な人は、自分とは全く異質な人間を自分と同類だと信じ込む癖がある。そして、往々にして相手を見誤ることで痛い目に遭う。凡人は目に見えるものだけで相手の本性を理解したと思わないことだ。この世には自分と真逆の人間がいるということをしっかりと心得ておかなければならない。
彼ら彼女らは君が同情するときに嘲笑う。君が耐え忍んでいるときに怒鳴り散らす。そして君が弱いものを庇い助けようとするとき、それと反対に舐めあげてイジメ倒す。すべて逆の感情がわき、逆に考え、逆に行動する。これを肝に銘じておかないと、君も条件が整えば、いつ弱さを突かれて慰みものにされてしまうかしれない。
人をイジメて面白がるような品性下劣な輩は、弱い人間を目ざとく見抜く。相手の弱さにすぐに気づき、徹底的につけ込んでくる。僕がイジメられた理由もこの点にあるのではなかろうか。そう思う。悪人は弱さに敏感である。しかし善人は悪事に鈍感なのである。勝負にならない。「悪貨は良貨を駆逐する」だ。
実際のところイジメのことは思い出したくもないし、触れたくもないというのが本音だ。当て推量で原因を探ることがせいぜいで、今もってイジメの標的になった真の理由には到達していない。真剣に検証する気になれないのだ。いまだにあの過去をきちんと折りたためていない。真相は水底に揺らぐ己の姿のように曖昧で、うまく掴もうにも掴めない。あの忌まわしい出来事はタイムカプセル化して地中に埋めてしまった。いつか将来、フタを開けることがあるのかないのか。
大切なことは、あわやのところで崖っぷちから落ちそうになった自分が、今も落ちずに生きながらえていることである。それさえあれば他はどうでもいいというのが正直な心境だ。あのとき思いとどまって本当によかった。
本来ならば、このような特異な経験をしたのであれば、相手を憎んだり不運を嘆いたりする前に、これを通じて自分が何を学んだか熟考すべきである。せっかく辛い思いをしたのに、それを将来の糧にできなければ実にもったいない話だからだ。
自分の行動や弱点がイジメという好ましからぬ事態を招いたとすれば、今後同じ事態を招かないように最低限その種の行動は避け、弱点も克服すべく努める。イジメた連中にはどのような特徴があったか、どのようにして近づいてきたか、どのような形でイジメを始めようとしたか、また自分はそれに対してどのように対応してしまったか、あるいはそのときどういう対応をしていればイジメは未然に防げただろうか───そういったあらゆる今後の課題が見えてくるはずなのだ。そういった考察を十分しておけば、イジメに苦しんでいる人を救う力に将来なってくれるかもしれないのである。
それなのに今の僕はイジメのことなど思い出したくもないし、触れたくもない。総括する気にも検証する気にも全くなれないのだ。省みれば、そんな自分を責めたい気持ちにもなる。だが起こってしまったことは起こってしまったことだ。そんなことでいたずらに自分を責めるべきではない。できないものはできない。できるまで待つしかないのだ。
イジメた連中の顔は今でも鮮明に覚えている。忘れようとしてもとても忘れられるものではない。イジメた当人は忘れても、イジメられた側は生涯忘れることができないものなのである。記憶は風化する。しかし、ことイジメの被害者に限ってはそうではない。体の傷は月日が治しても、イジメによって受けた心の傷はいつまでも治らないのだ。
ただし報復したいという気持ちは不思議にない。傷つけた者は傷つけられるという因果の法がいずれ彼らに働くであろうことに疑いをはさむ余地はないからである。誰にとっても運命の因果律はほんの少しの狂いも生じない。「すべて神様にまかしておけ」という心境だ。
では彼らに仕返ししうる縁が自分にたまたま訪れた場合はどうだろうか。それでも仕返ししないように思う。下手に仕返しして負の業因を抱え込みたくないというのが本音だからである。「倍返しだ」と軽々しく言えるのは、どうやらドラマの中だけらしい。
たとい報復のチャンスが訪れたとしても、恨みの河に泥を落とせばさらに濁る。時の流れが全てを忘却の淵に運び去るのを粘り強く待つのがよい。道はそれしか残されていない。普通の人なら仕返しをするだろう。優れた人ならイエスのように許す。だがそんなことはできない。できないのなら、せめてスルーして神様にまかせてしまおうではないか。いつになるかは分からないが、あの人達にはもっとも正しいやり方で必ず裁きが下るはずである。なぜならそれが法則であり、イジメた本人達にとっても一番よいことだからである。
人は自分のあり様に応じて他人を裁く。そして裁いた当の者になっていく。僕は奴らのようにはなりたくない。だから裁きはすべて神に任せよう。人は自分の天秤で正邪を測るが、裁きの目盛りが狂っていないと誰が言い切れようか。きっと誰も言い切れまい。
そもそも自分がイジメを受けたというのも、過去───おそらくそれは前世のことだろう───どこかの時点で誰かを傷つけた報いがきたからだろうと思う。もちろん、どういう原因が今世のイジメを引き寄せたのかは、とても人智の及ぶところではない。ましてやそれが前世の出来事であればなおさらだ。
だが自分が他人に何かの過ちをおかしたことは確かなはずである。原因のない結果などというのはあり得ないからだ。自分が前世、そんな人間だったとは信じたくないが、たぶんそれが正解なのだろう。我が身に降りかかったこの災難も、本性の歪みをただそうとする神の荒療治だと思って受けいれるしかない。
原因と結果の法則を信じるならば、イジメた連中を現にいま恨んでいるということは、自分もまた前世を含めてどこかの時点で誰かを虐げて恨みを買ったことがあるということだ。ある意味、ここに人を許す鍵がある。「なんだ、結局お前も僕も同類じゃないか」という視点である。人を許すなんて割を食うだけのように思える。が、許すということは言い換えれば愛を与えるということだ。これまた原因と結果の法則により、結果的にさらに多くの愛を受け取ることになるのである。
この世の中、他者が自分を映しだす鏡の像であることが多いものだ。すなわち、私たちは他人の行いを非難するが、それがそのまま自分自身に当てはまることが少なくないということだ。たとえば他人の欠点を批判したり叱責したりしている人をよくよく観察してみると、当人も同様の欠点を持っていることがよくある。「感情的になるな」と言う人は、たいてい感情的にそう言う。無礼だと他人を非難する人はたいていその人も無礼である。
他人を裁き報復したいと思った時は、鏡に映った自分の姿に対して「決してお前を許さない」と言えるかどうか考えてみるとよい。それで耐えがたい憎しみや恨みを手放し、取り返しのつかない愚かな過ちを未然に防ぐことができればしめたものではないか。
ずっと遡れば、許せないと思える連中と同列のこと(たとえば面白がって昆虫や小動物をイジメたりしたようなこと)に、はたと思い当たる場合もあろう。つまるところ連中の残虐性は君の中にもあったかもしれないということだ。
僕がイジメられた話に戻ろう。幼少期から小学生を卒業する頃までに人はパーソナリティーの骨格を形成する。僕に対人恐怖症的な側面があるのも、当然主張すべきことを主張できず知らず知らずに相手の言いなりになってしまう傾向があるのも、小学校時代にいじめられ、周囲に隷属しなければならなかった環境に起因している。トラウマが脳の奥深いところに植えつけられてしまったのだ。
実際に暴力をふるった者はごく一部だったとしても、その周囲には多くの嘲笑と黙殺があった。今さらながら過去へ頁をめくりかえせば、あの体験の中でよく異常な精神構造が生成されなかったと思う。いやいや、よくよく考えればやっぱり僕の脳ミソはちょっぴり変か。ながらく現実に直面できず空想の世界に逃げ込むことが日常化していたからだろう。何もかもイジメのせいにするのもいかがなものだが、妄想幻覚体質は生まれつきばかりとも言えなさそうだ。
今あの頃を振り返り悔やまれるのは以下である。イジメに負けないためのイロハのイは、ノーと言うべきときにノーと言えることだ。相手が怖くて嫌と言えそうもないならば、「ここで闘わなければ、今日も明日も明後日もずっとイジメられ続けるぞ。それでお前はいいのか」と自分を鼓舞して、何が何でも行動にうつすべきだったのだ。逃げ出す道があれば逃げればよいが、あの時の僕には逃げ道がどこにも見つからなかった。だとすれば、それ以外選択肢はないではないか。しかし哀しいかな、それができなかったのである。
若い頃うけた加害ショックは、後々よほど自覚して消し込まない限り、生涯わたしたちを心理的に従属させる。何度季節がめぐれども、あの辛い思いは枯葉のように記憶からひらひらと舞い落ちていくことはない。当初、月日が心の傷を癒してくれるだろうと思っていた。だが今もなお痛みは消えない。傷ついた裂け目は虚ろな穴。深くてとても埋まらないのである。精神科医でもなければ詳しくは語れないだろうが、いわゆるこれがPTSDと呼ばれるものなのだろうと思う。
あの時どうしても発せられずに我慢して呑み込んでしまった言葉が、今になってますます重くのしかかる。イジメの傷跡は深い。誰だって嫌な記憶は残しておきたくないものだが、ことイジメに関しては心を守る脳の防御システムがうまく働いてくれないようだ。二十歳をとうに越して、虐める者も虐められる弱みも一掃された今でも、事ある度に小学校のとき虐められた状況を自動的に再現してしまう。
あるいは再現こそしないまでも相変わらず周囲に得体のしれない恐怖をいだく、それも無自覚のままに。再現したり恐れたりすることをやめればいいだけのことだが、脳の回路が固まってトラウマが岩盤化しているので、そう簡単にやめられないでいるのだ。
体は今ここにあるのに、心があの忌まわしき過去に飛んでいる。二十歳を過ぎた周囲の現実を、小学生だった頃の現実とダブらせている。しかもダブらせていること自体、往々にして意識できないでいるのだ。自分は既にイジメの届きようのない遠くにいるのに、まだ小学校のあの教室内にいると脳が錯覚している。
暗いトンネルはずっと昔ぬけだしたはずなのに、今になっても日光に目が慣れないのは何故? 手袋はあのとき脱ぎ捨てたはずだ。それでも手袋がわさわさと床を這い、夜ごと僕の首を絞めに来るのは何故? それは虐められた過去がいつの間にか化け物になり、思いのままに自分をなお支配しているからだ。
山道を歩いていると、草木がざわざわ動いて大きな熊が現れた。鼓動はバク打ちして、手の平は冷や汗じっとり。向かってくる熊から這う這うの体で逃れて、今は電流柵に囲まれた安全な場所にいる。だけど鼓動の波打ちは収まらず、まだ手の平に冷や汗をかいている。やっとこさ逃れたのに、どうして? 目の前にとつぜん現れた熊の恐ろしいイメージにいまだに縛られ、コントロールされ続けているからだ。命の危険すら感じたあの時の熊との体験は、どれだけ時間が経とうが鮮烈なイメージを保つ。いつまで待とうが、愛くるしい小熊のぬいぐるみには変わってくれないのである。
今すべきことは何か。往時の人間関係は全て消え去り、今の自分が白紙の状態にあることを何度も何度も意識化することだ。砥石で精神を研げ。そして「やられっぱなしじゃ駄目だ。今後どんなに悪質な加害に遭ったとしても決して服従せず、いくら殴られてケガを負おうとも、へたれパンチを出し続けるぞ」と決意することである。
とはいうもののコイツが大学で友人らしき人物になってくれたおかげで、やたら無意識的に過去を追体験する傾向が改善された。大学時代は小説を書き始めたせいもあり、丸一日ひと言も発しない日々が続いていた。それが闇雲にトラウマを引き寄せた要因かもしれない。トラウマを消し込むためには、毎日毎日自分に言い聞かせることで脳に新たな回路をつくっていくことも大事だが、それ以上に生身の人間との温かい絆が欠かせないのに相違ない。
いまだに突発的によみがえる奴らの罵声や哄笑───それらはいくら耳を塞ぎ理性の力で遮音しようとしても不十分だ。トラウマはちょっとした心の隙間からいくらでも滲みだす。思春期のニキビと同じで、消えてもまたすぐ現れる。毒牙にかかった原体験は容易に消し去れるものではない。記憶の内側に固くはりついて剥がせないのだ。邪悪な悪魔の幻影は自分の力では到底制御できるものではない。
ならば優しい人たちの思いやりで外側から中和させてしまおうではないか。悪意は善意で打ち消そう。そういった心意気が大事なのである。
その意味で花菱や箱村と係わりを持てたことは大きい。人間味ある彼らのおかげで古傷が痛みだすことがさらに少なくなった。二人は太陽のように明るい。渋柿も吊るして天日干しすればかなり渋みがぬけるものだ。彼らのあまりのアホさ加減にイジメの亡霊どももたじろいだのだろう、最近ではめっきり影が薄い。
あの夢茶がイジメの後遺症にまで効いているんじゃないかとさえ思えるほどだ。そういえば夢茶がいざなう幻想は心的外傷を浄化するというか、ある種のカタルシス効果がある。まるでダメージヘアを整えるトリートメントだ。当初、薬物依存で精神が崩壊するのではないかと夢茶を恐れていた自分が嘘のようである。結果は逆だった。考案者の箱村の婆さんはたいした人物だ。
全体としてこれまでの人生は暗いものだった。だが最近、なぜか明るい出来事が続く。これも箱村と花菱に出会って以降のことだ。とはいえ貧乏性というか何というか、良いことが続いたら続いたでぼんやりした不安につきまとわれてしまうのも正直なところ。生まれつき損な性分である。
箱村には自分が小学校時代にイジメられていたことを打ち明けている。憶えている読者もいると思うが、彼に初めて会った日のことだ(霞ゆく夢の続きを〈1〉)。そのせいかどうか、箱村の僕にたいする接し方はそれを踏まえてのことのように感じられる。
箱村は鈍感そうに見えて、ときどき僕のすべてを見透かすがごとき発言をする。おそらく心の深いところまで覗かれているということだ。すべてを貫いて進むニュートリノのように僕の胸の内に浸透し、イジメの傷跡の深さを察知しているのだろう。
というのも、見て見ぬフリを装いつつも、彼の言動の一つ一つからあの時のトラウマを何度も何度も重ね塗りして書き換えようとする善意が感じ取れなくもないからである。ぶっきらぼうな言い方ながら、そこには過去に冷えきった心を何とか温めてあげたいという優しさが見える。思い過ごしだろうか。さて箱村といえば───
(44)
赤井君はアイツに問う。
「ついでに意見を聞いてみたいんだけどね。君と同じようなことを言っていたノッポのオッチャンと最近知り合いになったんだ。その人いわく、“人生は生前に自分が書いた台本どおりになる”ってんだけど、コレどう思う?」
「ほう、ノッポのオッチャンねぇ、興味がわくな。どんな人なんだ」
「優しい人だってのは間違いないんだけどね、福袋みたいに何が入ってるかよく分かんないオッサンでね」
「お前と仲良くやっていけるんなら、そんなに悪い人じゃなかろう」
「異常なお喋りでねぇ。比喩と例え話をズラズラ並べるもんだから、内容がどんどん抽象的にボケていって、最終的に結論がズレまくりなんだ。延々と続くオバチャンの井戸端会議がどんどん本題から逸れていく、あんな感じ。面白いだろう」
「ふむ、面白そうだ」
「会ってみたら驚くよ。話が次から次へと出てきて終わらない。聴いてると言葉で窒息しそうになるんだから。思考回路がどうなってんだか」
「ほう、そりゃ魅力がある。そういう規格外の人物が結構世の中には埋もれてるものなんだな。今どき貴重だ。突出しすぎてるのかもしんないな。誰もその価値を見積もれないから値札を貼れない。値札を貼ってもらえないから、結局ひとりだけ在庫として残り続けて、社会に埋もれたままやがて廃棄されることになる」
影響を受けたわけでもないのに、なぜかコイツも例え話口調だ。おいおい、なんでアンタが対抗意識を燃やすんだ。
「そんな物凄い人じゃないよ。ただの変わり者だ」
「さてと───“人生は生前に自分が書いた台本どおりになる”ねぇ。やっぱり変わり者か。世の中は広いんだ。そういう考え方をする変わり者は少なくないと思うよ。僕には分からないな。そんな気もするし、そうでない気もする。あの世に帰って確認するわけにはいかないだろう。帰ったとしても、もう戻ってこれないからな」
「ほんとに戻ってこれないのかなぁ」
「当り前だろう。あの世から戻ってきた奴なんてただの一人もいない。臨死体験の実例なら何件もあるんだろうがね。臨死じゃホントに死んだことにはならないだろう」
「黙っているだけで、死んで返って来た人たちが実は一杯いたりして」
「この世にイエスキリストもどきが一杯いるっていうのかい。お前さっき『実際に自分の目で地獄とか天国とかを見たことある人なんていない』って言ってなかった? あれ? これ僕がいったのかな? 混乱してきたけど、まあ、どっちでもいいや。そんなふうに勝手に馬鹿げた妄想を膨らませるのは自由だから」
「やっぱ馬鹿げてるのかぁ」
「ただ言えることは、“人生は生前に自分が書いた台本どおりになる”というのが正しいとすれば、その台本とやらを書いた生前の自分の魂は、今も心の奥深くに潜んでいるんだろうな。そんな気がするよ。人生の岐路で難しい選択を迫られた時も、どちらを選ぼうとどうせ台本通りになるんだったら、迷う必要はまったくなくなる。考えてみりゃ便利で都合のいい解釈だ。選んだものが全部、いくら自由意志で選んだつもりになっていても、結果的に台本通りになるなら、結局どちらを選んでも構わないということになっちゃうだろう。お気楽な人生観だよ。辛い人生だったら、そういう宿命論に逃げるのも悪くないな。最初から人生ストーリーが決まっているのなら、将来自分の夢を叶えたいとか、過去に別の道を選べばよかったとか、そういうのが全部無意味になる。過去も未来も、起こること選ぶこと全てベストということだな。何故って、どんなひねくれた魂だって、生まれた後の自分の人生にとってベストの台本を書くだろうからね」
「なるほどそういう見方もあるのか。今まで出てこなかった視点だ。これは大発見だぞ!」
「んな、大仰な。大して中身のあることを言ったつもりはないが。その人生の台本とやらに僕なりのト書きを少し入れてやったまでだ」
「いいんだ、いいんだ。こっちの話だから」
「こっちも向こうもないだろう。まあ、台本は台本にすぎないから、そこには善悪はない。だから淡々と過ぎていく現実をなすがままに見てりゃいいんじゃないの? 映画監督みたいにさ‥‥‥というか、どちらかといえば観客だな。そう、観客みたいにさぁ。だってそれ、自分が書いた台本なんだろ? 山田洋次や倉本聰じゃないんだ。僕らが書く台本なんて高が知れてるよ。いずれにしても僕はそんなおとぎ話にはついて行けないねぇ。残酷すぎる話じゃないか。生まれたらすぐ人生の台本を目の前にデンと置かれる。置かれるのはいいんだけれども、それを一行も読むことを許されないまま生きて、そして死んでいくんだからな」
「それはそうと、この前はアリガトね」
「この前って何のこと?」
やはり忘れていた。
「印刷機だよ」
「ああアレか、アレか。誰一人気づいてない。市役所のうるさ型もPTAが怖くて何も言えない。大丈夫だよ。知ってるか? あの印刷機はPTA活動でも使ってるんだ。児童のお母さんたちがPTA総会の資料や広報なんかも刷ったりしている。使用量や頻度はハンパないよ。おかげでいい抑止力になってくれてるんだ。インクや用紙やなんかはお前もちだっただろう。だからあんな枚数ぐらい刷ったところで、ヘヘヘのへだ。安心しな。で、結果は?」
「玉砕だ」
アイツが大口を開けてカンラカンラと高笑いを響かせた。食堂の森閑とした空気に亀裂が走る。
「そうだろな、はじめから予想はついたよ。お前はお前なりに賭けに出たつもりなんだろうがな。で、どこで配ったんだ」
「駅だよ、小倉駅だ」
「そりゃ、玉砕だろうな。あそこで配るなんて魚のほとんどいない池に釣り糸を垂れているようなもんだからね。たまに食いつく魚がいても、そんなの紛れ当たりだ。いい教訓になったろう」
「身の程知らずであることがよく分かった。いい勉強になったよ。ま、いいや。かりにあの本が笑い話のネタとして広まったところで、ペンネームで書いてるから誰が書いたかなんて特定できない。まかり間違っても噂レベルで晒し者にされることはないさ」
「甘いな、お前って。“バレたかな”と思った時には既に隣近所みんな知ってるとしたものだ。気づかぬうちに、“面白人間登場、こんなアホが駅で変な本を配ってました”てな感じでネットに写真入りで晒し首にされてたりしてな。果報者だよ、平凡な一般人がそんなふうにバズるなんてことはめったにないもんな」
「そんな、まさかぁ。不倫を文春に暴露された有名タレントじゃあるまいし」
「アハ、分かんないぞ。お前は自力で夢をかなえられると思った。だけど結果は大恥をかいただけだった、なんてね───まあそれはともかく、教えてやりたかったのはこういうことだ。お前が配る小説を誰も読もうとしない、それどころか受け取ってさえくれない。世の中たるもの、思い描いた通り事が運んでくれるようなそんな甘いもんじゃない。それを知ったときは誰だって多かれ少なかれ落ち込む。もし思い描いた通りうまくいったとしたら、一時的には他人が褒めたり拍手したりしてくれるかもしれない。だが忘れてならないのは、この度のお前みたいに全くうまくいかず屈辱にあえぐときは、それこそ見えないところで神様が褒めたり拍手したりしてくれているということなんだぞ。他人の称賛の裏にはどんな打算が隠れているか知れたものではない。ある者は内心嫉妬や憎しみの炎を燃やし、またある者は天狗になったお前を利用して甘い汁を吸おうする。あまり言いたくないが、世の中とはそういうものなんだよ。そういう人たちは一定割合で必ずいる。それとは対照的に神様の称賛はどうか? なにものにも代えがたいだろ? うまくいかず苦しみにあえぐ時こそ、真に魂の糧が得られるからだ。だから神様は拍手するんだよ。その魂の成長が神様からの成功報酬というわけだ」
「君もひとかどの口を利くんだな。いいこと言うじゃないか、誰の受け売りなんだ」
「失敬な。僕はお前よりずっと辛い思いをしたから身をもって学んだんだよ」
「そういう意図があってあえて印刷機を使わせてくれたのなら、前もって言ってくれたらよかったのに」
「言っただけじゃ納得しないだろう、実際に経験してみなくちゃ。お前に心底分からせるためだ。たとえば僕が雪景色を見て感動し、その気持ちをお前に伝えようとした。だがお前が生まれてからこのかた、ずっと常夏の国に住んでいて雪を一度も見たことがない。だとすればいくら言葉を費やそうが、僕の胸を打った感動は伝わらないだろう。なにごとも体験してみなけりゃ真の意味はわからないってことよ。体験して感じ取ることが学びの大前提だ」
「なるほど、人が何度も生まれ変わって、嫌なことも含めて様々な体験をするのも学びのためか」
「そういうスピリチュアル的な話はともかくとしてだな、もう一つ」
「もう一つ理由があるの?」
「ああ。欲は人間、生まれながらに誰でも持っているけど、優しさは生まれつき持ってはいない。生まれた後の体験や思索によって個々につくり上げられていくものだろう。みんな手作りで、人によってそれぞれ違うんだ。だから優しさがあからさまだと、誤解されたり偽善だと思われやすい。優しさはこれ見よがしにしちゃいけない。だから本当の意図は分からないように隠しておいたんだ」
「君も悟ったな。たしかに教訓にはなったよ。おまけにあれが縁で、底抜けに明るいジイさんやオッサンと顔なじみになれたことだしね」
「それなりに楽しくやってるようだな。詳しくは訊かない」
コイツはいつもそうだ。こっちが話せば聞く。話さなければあえて聞いてこない。尋ねれば答える。尋ねなければ答えない。近からず遠からずのスープの冷めない距離だ。深く入り込もうとしない。いつも肩透かし。お年寄りに席を譲ろうとすれば、「かわらなくても大丈夫ですよ」が返ってくる。
そう言えばこっちのコイツに対する態度も同じだ。向こうが話してこなければ聞かない。話してきたら聞く。尋ねられれば答える。尋ねられなければ答えない。
お互い詮索せずとも通じ合えるから、今こうやって付きあっている。なぜか馬が合う、そういう間柄だ。強引に例えれば、二人は非対称に割った林檎だ。姿かたちは違えども、中身は同一人物であるかのような。
家庭環境や日常や過去、そういったことは互いにほとんど知らない。にもかかわらず大学で友人といえるのはコイツただ一人だ。たしかコイツもいつか同じことを言っていた。
鏡に映った自分の像みたいな奴だ。我がイジメの件に際して先ほど鏡の像の話に触れたが、どうやら神様というお方は、似た者を鏡として当人に近づけ、己の生身の姿をそこに映し出すことで、自分の修正すべき点に気づかせようと仕組むことを好むらしい。だからたぶんコイツも鏡なんだろうな。
きっとコイツも僕のことを鏡の像だと思っているに違いない。コイツが法学部で僕が外国語学部。なんの関連もない。しかしあるとき傍らに何故かコイツがいることを知る。
地獄に行ったらたぶんコイツもいるだろう。コイツが天国に行ったらたぶん僕も───いや、さすがにそれはないな。僕みたいなのまで天国にいけるなら天国は人だらけで大混雑だ。歩行者天国かよ。
いつ何をきっかけにして繋がったのだろう。記憶の糸をたぐり寄せるが、一向に思い出せない。考えてみればコイツのことをほとんど知らない。信じられないことだが名前すら知らない。いつも僕はコイツを“君”と呼び、コイツは僕を“お前”と呼ぶ。それだけだ。それ以上はない。一体こんな珍しい友達関係が他にあるものだろうか。
コイツが大学を卒業してかなり経つ。にもかかわらず今日のように不思議な接点が時おり生ずる。まるで絵本の中の住人だ。絵本を開いてパラパラめくれば、あるページに登場人物として急にコイツが現れる。童話の中にいるのは確かなのだが、何の役やらはっきりしない。そしてたまにポップコーンのように本から飛び出てくる。ただし出てくるのはいいんだけれども、僕を助けに来てくれるのか、迷わせに来ているのかサッパリ分からない。
「さすがに小説家になりたい夢は潰えただろう。この際、きっぱり車線変更しな。そのまま走り続けて事故るよりマシだろう」とアイツ。
「それが、そのお~‥‥‥まだ」
「なんだ、まだ夢追い人なのか。相も変わらず浮世離れしてるな」
「逆境の今だからこそ真価を問われているような気がしてね」
「誰が誰に問うんだ。お前がお前に問うてるだけだろう。言っちゃ悪いが、お前の小説なんてきっと半額シールをはっても見向きもされないレベルだろう。そのことをせっかく思い知らせようとした、あの試みは何だったんだ。これはお前だけじゃない。今はほとんどの人の作品がそうなんだ。小説家なんてもう昔みたいに花形の職業じゃない。若者のテレビ離れが進んでいるというが、小説なんてテレビよりもっと前の娯楽だろう。生まれてこのかた一冊も小説を読んだことのない若者は一杯いるんじゃないのか? 僕だってほとんど読まない。小説なんて、月日とともにどんどん消えゆく古い活字世代のシェア奪いあいなんじゃないのか。斜陽産業の典型だよ。お日様が沈んでしまうのは目と鼻の先だ。かつては小説がバカ売れして億単位の金に手が届いた人もいただろう。けど小説はもはやスロットマシンじゃない。小説というジャンルじゃ今のご時世、よほど運に恵まれてラッキーセブンが並んだところで、コインがじゃらじゃら出てくることなんてないよ。そんな時代はとっくに過ぎた。差し出がましいことを言うが、小説家なんて商売、お前には荷が重すぎる。そんな荷物をかついで人生を渡りきれると思ってるのか。ぎっくり腰になるぞ。このまま行き当たりばったりの旅を続けていくつもりとはな。天橋立を股のぞきしてるのか。人生観・世界観が社会通念と逆さまだぞ。学生気分がいつまでもぬけてないなぁ」
「実際にまだ学生だからねぇ。これ言うの、ちょっと体裁悪いけどさ」
「え? そんなのが通るのか? 在籍できるのは通常の在学期間の倍だろう。だから最長八年だったはずだ。仕事柄、何かの法律の条文でチラッと読んだことあるぞ。どういう名の法律だったかは忘れちゃったけどな」
「法律、法律って、いっぱしの公務員気取りか。法律なんてもん、信用ならないよ。だって一番それを守らない政治家がつくってるんだもん」
「話がそっちに行っちゃうのか。僕だって痩せても枯れても公務員の端くれだ。実質的に法律をつくってるのは政治家じゃない、中央官庁の高IQの官僚たちだろう」
「そんなの知らん」
「なんだ、随分とつっけんどんな物言いだな。お前から話をふってきたんじゃないか。そんなことよりもう在学できる期限が切れてるんじゃないの? 大学に確認してみろ。自分が知らないだけで、もう除籍されてんじゃないんか」
「休学二年してるし、もちろん留年もしてるし───なので、どういうわけか、まだ尻に火がついてない」
「おいおい、なんて呑気な大学生だ。そうか、そうなんだな。まさかとは思ったが、お前が休学したのは小説を書くためなんだな。日本に大学生が何人いるか知らないが、そんな豪傑にはなかなかお目に掛かれるもんじゃないぞ。ほんでもって、まだ性懲りもなく出版社の賞かなんかに応募してるというんだな。あきれた奴だ。あんなの膨大な時間のロスだぞ。人生に時間ほど大事な資源はないんだ、分かってんのか」
「分かってるよ。とりあえず今は出してない」
「そんなもん、ずっとこれからも出すな。要するにどうするか迷ってるわけだな。どちらにしようか迷ったときは‥‥‥」
「楽しそうな方を選べ、だろ?」
「そんなこと言ったの誰やねん。さっきの奇妙奇天烈なことを言うオッサンか。そりゃ違うよ。迷ったら何もするな、それが無理なら手堅い方を選べだ」
「コンビニおにぎり。塩昆布味にしようか、ツナマヨネーズ味にしようか。迷ったら両方とも食べりゃいいんだ」🍙
「そりゃ二つとも食べられればの話だ。二兎追う者は一兎をも得ず。お前にとって今が人生で一番大事な時期なんだぜ。この時期を逸したら全人生がパアになるぞ。前言は撤回する。お前に関してだけは“迷ったら自分を信じるな”に変更だな」
「僕、迷ってなんかないもん」
「なんだって、迷っていないって? 小説家なんて、それ、ほんとにお前の自由意志で選んだのか。メディアのイメージ作りや宣伝広告に踊らされてるだけと違うんか。アレさ、アレだ、煮立ったら浮き上がって踊る鍋のフタってな」
「そうじゃないよ、自分の選択だ。どうして踊らされてると言い切れるんだ」
「お前が野糞をカリントウと見間違えてるからだ」
「野グソ? 小説が野グソって言うのか。その例え、ちょっと下品じゃないのか」
「お前と僕の間に下品もクソもあるもんか」
「そら、また糞って言った。きったねぇ、食べてる最中なのに」
「なに言ってんだ。入れたら出さなきゃなんないだろが。それが生きていくってことだ」
「そりゃそうだけど、なにも食堂でそんな話しなくても」
「あのな、だいたいお前、今までに何作ぐらい応募したんだ。まだ4、5作も送ってないんだろう」
「うん」
「そんな少しぐらい齧ったぐらいで何だ。ビギナーズ・ラックがそうそうあるもんか。よく言うだろう“生兵法は大怪我のもと”と」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。十分気をつけてるから」
「気をつけたって駄目だ。作家になるなんてギャンブルはやめとけって」
「なんでさぁ」
「ただでさえ人生全体がギャンブルみたいなもんじゃないか。それなのにギャンブルの重ね塗りをするつもりか。お前さん、いつからギャンブル依存症になった」
「ぜんぜん説得力を感じないんだけど」
「どう考えるかはお前の勝手だが、どうせ何かのサブリミナル的なメッセージに導き操られて小説なんて代物を選ばされているのに違いない。それに気づかないでいるだけだろう、そのうち野糞を食わされる羽目になるぞ」
「違う。自由意志で選んだ。糞、糞とえらく挑戦的だな」
「そういやぁ、この前に会った時、本庁にいたほうが世間体もいいし偉そうに見えるとかナントカ言ってたよな。そんな見栄えばかり気にするちっぽけな人間だとすりゃ、名をはせたいという動機だけで小説家をめざしてるんじゃないのか? ただみんなの前で輝きたいだけだろう。そう疑いたくなる。鏡に自分を映してみろ。タレント性ゼロの外見のくせに恥ずかしくないのか。ギンギラギンにさりげなく輝くつもりでいると、そのうち雷が狙って落ちてくるぞ。お前は近藤真彦か。それとも矢沢の永ちゃん気取りで“俺はビッグになる”とでも言いたいのか。いい加減にしとけ。熟れすぎた柿は必ず地に落ちて砕け散る。いま自分が小さな人間だと嘆くのは勝手だが、よしんば周囲から囃されて巨木になったところで、なったらなったでいずれ切り倒されちまう運命だ。それが世の習いというものだぞ」
「お生憎様。なるほど僕はちっこいけど、いまさら鉄棒にぶら下がっても背は伸びないよ。もともとビッグになれないDNAなんだ」
「ほらほら、マズくなるとそうやって安っぽいボケでズルッと滑って逃げようとする。逃げ口上が政治家みたいに姑息だぞ。お前は受け狙いひとすじの麻生太郎か」
「君だってさっきからギャグ、すべりたい放題じゃないか。学生時代、君ってそんな軽い人間だった? もっと堅物だった気がするんだけども」
「人は変わるんだよ。そんなことより知ってるか?」
あら、また「知ってるか」攻撃だ。
「ん? なに? 知ってるか攻撃?」とアイツ。
しまった、また思いが口に出た。
「ゴメン、ゴメン、こっちの話」
「あのな、人生で真に成功するということはどういうことか知ってるか?」
「そりゃ解釈は人それぞれだろう」
「成功するってことは、世間で華々しく目立って多くの人から評価されることかぁ? 違うんだよな。成功するということはだな、自分に満足することなんだ」
「それも君のひとつの解釈だろう」
こっちの発言を気にも留めず、アイツは我関せずで続ける。
「成功をそういうものだと考えてれば、自分の実力に合った山に登ろうとするだろう。けど人の評価が成功の証と考えていれば、大袈裟な話、無理してエベレストに登ろうとして遭難しちまうんだ。理想の自分を演じてみせようとするあまり、実際の自分を置いてきぼりにしちまう。そうだな、ここいらだった九重連山あたりに登っとけ。あれだって全部のぼったら、かなりの体力がいるんだぜ。自分を大多数に少しでもよく印象づけようとスケベ心を出すのがいけないんだ。そんなの、かえって本当の成功から遠ざかる。つまり現実に生きろってことだ。ありのままの自分でいるときだけが現実なんだ。仮想空間に生きるのはゲームだけにしとけ。でないと終いには健康や心を犠牲にしてまで成功しようとしだすぞ」
「今の時代、小説家はかつてほどスポットライトを浴びる花形職業じゃないだろう。むしろ純粋に仕事として見るならブラックだ。小説の道を目指すのは、他に満足にできそうなことが何もないからだよ」
「お前がか」
「うん」
「そんなことがあるもんか。そういうのを取り越し苦労と言うんだ。人間、五体満足なら何だってできる。五体満足でなくてもできる。乙武洋匡から学べ。それでも自発的に選んだと言い張るのなら、それも結構なことだ。けど、自分の意志で選んだとしても、そんな小説なんていうヤクザな脇道に入ろうとすんな。王道をちゃんと歩け。知らない道をハラハラしながら奥に進んでいくと、そのうち迷子になって戻れなくなるぞ。深く踏み入るほど痛い目に遭うに決まりきっている。もっと真剣に自分の立たされている足許を見つめなおせ」
「この社長にもらった小遣いで買った革靴、けっこう値がはったんだけどなぁ。足許って、僕に道端のタンポポになれってこと?」
「そらそら、またわざとボケた。どこかやましいと感じている証拠だ」
「そうなのかなあ」
「自分のことなのに分からないのか。他人の僕が分かるのに。おい、しっかりしろ。いま言ったろう、手堅い方を選べって。生涯ボーナスのもらえない非正規臨時労働者でもいいじゃないか。つつがなく生涯を終えることだけ考えろ。人生の細い糸、ちょん切れたら最後だぞ。ミスしないように手堅く縫い付けていかなきゃな」
「君の人生じゃなくて僕の人生だろう。僕独自の人生訓でいくよ。なんでこう会う人みんな“やめろ、やめろ”って言うんだろうか」
「さっきの奇妙奇天烈なことを言うオッサンも“やめろ”って言うだろう」
「ああ」
「みんな、お前のことを心配して言ってくれてるんだ。世間知らずの甘々だからだよ」
「そういえば彼も僕のことを甘々と言ってたな」
「そりゃそうだろう。誰だってお前の話を聞きゃあ、異口同音に反対を唱える。みんな考えることは同じだ。小説家になるなんて変なこと言わずに、地道に尺取り虫の人生を歩めよ。僕がどうして危ない橋を渡ってまでして、お前に印刷機を使わせたと思っているんだ。適材適所というだろう。自分が適材かどうか真剣に問うたことがあるのか。それを分からせるために、あえてお手製の本を作らせたんだぞ」
「印刷機を使わせてくれたのは感謝してる。でも僕の人生なんだ」
「さすがド文系人間だよ。数学も苦手なら人生設計の計算も苦手だな。実現不可能な夢を描いて血が騒ぐ気持ちは分からんこともない。だけど現実を見ろ。“ここ掘れワンワン、大判小判がざっくざく”というのは昔話の中だけのことだ。お前が賞をとるなんて万に一つもありゃせんぞ。阪神が優勝するような奇跡だ。そんな奇跡が起きようものなら、カーネル・サンダース人形みたいに道頓堀川に投げ込まれるぞ」
このセリフ、どこかで聞いたな。どこだったっけ。
「阪神ってこの前、日本一になったばかりじゃないか」
「38年ぶりにな。シャレだよ、こういうシャレが通じないほど野暮でもあるまい。阪神ファン独特の愛情表現だ」
「福岡じゃ珍しいな、ソフトバンクホークスじゃないの?」
「ああ、関西人気質に憧れがあってね」
「堅物の君が?」
「そうだよ。まあそれはともかく、どんな作品を書くか知らんが、いずれにせよお前が投稿して当選する確率は飛行機事故に遭って死ぬ確率より低い。宝くじ並みだ。いやそれ以下だな。サイコロをいくら振ろうが双六に上がりなし、いつもお前はふり出しにいる。限りなくゼロに近いんだ。いやゼロだな。割り込む隙は毛ほどもないよ。お前なんか出版社にあまりに下らない作品を出し続けるから、NGリストにでも載ってないか?」
それは箱村さんだよ、と赤井君は心の中でつぶやく。
「独り言にしては声がデカいな。箱村? それって誰だい?」
「あ、僕、口にしてた? すまん、こっちの話」
「そうか。それはよしとしてだ、よしんば宝くじで何億円か当たったとしても、お前、億がどれぐらいの金額か全くリアリティーないだろう。小説家がどんな仕事なのか、少しはリアリティーあんの?」
「宝くじなんて、『一万円も当たっちゃった』と大騒ぎするのが庶民の感覚だもんね。そこ、同感だ」
「おっとっと、自分がマズくなるとそうやって話を本筋から逸らそうとする。相撲じゃないんだ、猫騙しは通用しないぞ。僕が言いたいのはそっちじゃない」
「でも、いくら何でも当選する可能性はゼロじゃないだろう。ゼロじゃなければ、やってみる価値はあるんじゃないか?」
「いいや、ゼロだよ。お前には距離感というものがないのか。九州福岡から遥か東京まで、投げたロングシュートが入ると思うのか。ゼロだよ。出版社ってのは、自分には当選する力があると思っている自惚れ屋から商品をできるだけ多くタダで仕入れて、その中で使えそうなものだけピックアップしてあとは廃棄、そういう元手のあまりかからない利口な商売をしているんだ。自分の応募作はまず廃棄商品になるということを客観的に分析できない馬鹿さかげんの方が悪い。当選の可能性のあまりの低さが分からない馬鹿さかげんだ」
「当選の可能性?」
「その言葉がお気に召さなければ、当選の夢と言い換えてもいいよ。あの人たちはバクだからね。夢を食べている」
「利いたふうな事ぬかすじゃないか。ずいぶんと出版社に失礼な言い方だな。なんでそんな自信を持ってゼロだと断言できるんだ?」
「ジャニーズへのテレビ局側の忖度でわかるように、芸能界が依怙贔屓だらけの世界であることは今や誰だって知ってるよな」
「ああ、最近ではSNSの発達でもろバレだね、誰でも簡単に発言できるから。だけどみんなが発言するから、誰の言うことが正しいんだか分かんない」
「小説の世界と芸能の世界とどこが違うってんだ? エンタメの裾野は広い。石原慎太郎以来、小説が大衆化されてからは、もはや小説も芸能の一ジャンルに過ぎないんじゃないかね。だからぁ、ゴーストがチラホラまじってるかどうかは知らんが、よく芸能人が小説を書いて出版してもらってるだろう。忖度と依怙贔屓だらけの世界だよ。お前が忖度や依怙贔屓してもらえるタマだと思うのか。どうあがいても、しょっぱなから零れ落ちるのは自明の理だ」
「そうかなぁ、でも‥‥‥」
「でも、なんだ」
「でも、公務員の君こそ、寄らば大樹に前をふさがれて、本当の幸せが何たるか見えなくなってんじゃないの? たった一度きりの人生なんだよ?」
「たった一度きりの人生なんだよ? なんじゃい、そのありきたりの定番セリフは。テレビドラマの熱血シーンでも切り抜いてるのか。何度も出し続けていればそのうち特異点に達する時が来るなんて幻想だぞ。そりゃ無理だ。数学や物理学とごっちゃにするなよ。いっそ夢が叶うよう祈祷師にでも拝んでもらうか。拝んでもらったってゼロはゼロだ。本の虫の我が畏友が、どうしてこんな単純なことが見抜けなくなっちゃったんだ。貧すれば鈍するというが、いつからそんな天然キャラになったんだ。本好きの世間知らず、とはお前のことだ。物事の上っ面だけ活字でなぞって分かった気になっている。知識をいくらため込もうが経験がともなわなければただのガラクタ、知恵にはなってくれないんだ。クイズ王や雑学王になってテレビ番組で活躍したいのなら別だが、円周率を小数点以下何桁まで諳んじていようが社会に出て少しも役に立たないよ。お前を見てて、つくづく人間ってのは身体を通してでないと何も学べないんだなあと思うよ。虹が何処からはじまるか、探しに行ってもそこにはないぞ。自分の手の届かない場所にあるものを思い通りにしようとするから、苦しみや悩みが生ずるんだよ。自分の作品を選んでもらおうなどチャンチャラおかしい。そげな絶対に手の届かないことなんか何処かにうっちゃっとけ。そげなチャンスなんぞ銀河をこえた光年の彼方にでも行かなきゃ無い。そげな宇宙の果ての幻じゃなくて、今の自分自身が地に足をつけてどう生きていくかということのみに集中しような。お前は今いる所にい続けるべきなんだ」
「“そげな”って“どげな”? 夢で食っていくのは難しくて辛いことぐらい分かるよ。でもゼロだなんてヒドい」
「ゼロはどこまでいってもゼロだ。ゼロはどんな数字を掛けてもゼロだろう。そげな夢、さっさと断捨離して軽くなれ。機械に何回紙幣を差し込んでも戻ってくる。どうしてか。紙幣が偽札だからだよ。彼らは紛い物を掴まされたらたまらんと思っているんだ。お前は本物じゃないんだよ」
「そんなぁ〜、それってカラッと揚った豚カツがキャベツに向かって“お前は偽物だ”と言ってるようなもんじゃないか。同じ皿の上にのっているのに」
「え? どういうこと?」
どうやらコイツには花菱流のナンセンス屁理屈は通じないようだ。
「いや、いい、いい、深く考えなくても。これは聞き流してくれ、まだソースもかけてないから」
「ソース?」
「ソースがお気に召さなければマヨネーズでもいいよ。なんでもかんでもマヨネーズをドボドボかけるから、何を食べてもマヨネーズの味しかしないけどね。出版社や選考者の舌なんてせいぜいそんなとこだろう。勘違いして買いかぶることも稀にはあるさ。万に一つにせよ運さえよければ、編集者か選考者と波長がピタコンと合って、選ばれることだって全くないとは言いきれないだろう。もち、運が悪かったらダメだけど」
「こりゃますます分からん。何が言いたいんだ、含意がまったく読み取れんな」
そりゃ分かんないだろうな、僕も花菱流の理屈が何をいわんとしてるのかサッパリ分かんなかったもんな。けどずっと後になって、ふと思い当たることがあるのに気づく。彼は結構そのことを計算に入れて喋っているのだ。
「池上彰レベルの解説がいるか?」
「そげなもんはいらん。キャベツ? 豚カツ? なんだそりゃ。ここで辛子レンコンのメインは辛子なのかレンコンなのかを議論をしても始まらんだろう。それにお前、運がいいとか悪いとか言ってるが、それってどうなんだ? ジャンケンが強い弱いと言ったって、そんなこと確率論的にはナンセンスだろう。お前が話してること、それと同じじゃないか。それよりもっと大事なことがあるだろ、忘れてないか? 言っときたいのはだね、出版社に応募するなんてタダで商売人にプライバシー情報をくれてやるようなもんじゃないか。いったんプライバシーを洩らせば、相手によってはどんどんほじくってくるぞ。そうでなくとも、どこに横流しするか知れたもんじゃない。彼らがお前のプライバシー情報を利用しないことを祈るよ。おそらく出版社はそんなふざけた体質じゃないと思うが、不正アクセスで情報が流出することはあり得る。NTT西日本の子会社は、十年間で900万件をはるかに凌ぐ顧客データが抜かれたそうじゃないか。お前、スマホに全然知らない所から怪しいメールが届くことないか」
「僕、スマホ、持ってないから」
「え? そんなんで仕事が務まるの?」
「働いてないから‥‥‥いや、働いてることは働いてるけど、スマホなんていらない、ゆる~い職場だ」
「なんだい、そりゃぁ。じゃパソコンに変なメールが‥‥‥」
「パソコンもネットと繋がってない」
「え? ネットに繋がってないの? じゃ、お前のパソコンは何のためにあるんだ」
「文字を打つだけだよ。だってネットとつないだら毎月お金がいるだろう」
「えっ?! 驚いたな、前世紀の遺物か。恐れ入ったな」
「褒めるなよ、照れ臭いじゃないか」
「何でそうなるの? 別に褒めちゃおらんが」
‥‥‥これと全く同じ会話をどこかでしたな。どこだったっけな。デジャヴだろうか。誰と話したんだっけな。そう言えば、いま気づいたんだがコイツ、誰かに似てるな。誰だったろう。
「県庁にいたとき口を酸っぱくして何度も言われたんだ。プライベート情報は極力だすなとね。とくに守秘義務のある公務員は、社会と繋がりをもとうとしてSNSをするのはもちろんのこと、ネットで買い物したりするのだって極力控えろとね。厳しいようだがこれは職務の性質上、当然のことだ。今やリモート操作で詐欺や強盗が横行するネット社会なんだ。オープンソースの時代だよ。ブログで不特定多数の目にさらされるなど狂気の沙汰だ。今の世の中、家の近くの景色をのせただけで住所は簡単に特定される。目に見える相手でもなかなか本性がつかめないのに、目に見えない相手にどういう悪人がいるか知れたもんじゃないだろう」
「ちょっと小説応募の件と話がズレてきてないかい? 君に何を言われようと出したいものは出すよ」
「“無事これ名馬なり”って言葉、知ってるか?」
またしても出た、「知ってるか」攻撃。
「なんだよ、雑学クイズか? 菊池寛の言葉だろう」
「そうだ、よく知ってるじゃないか。競馬好きのあの作家だ。お前の憧れの芥川・直木賞の創設者の一人だよ。おまけに菊池寛賞までつくっちまって。あらまあ、自分の賞を自分でつくっちゃうのか。図々しい。ふざけたジジイだ」
「で、なにが言いたいの?」
赤井君は例のごとく「なにが言いたいの」ディフェンスだ。
「つまりだね、人生たるもの派手に活躍しなくたっていい。怪我なく無事に長く走り続けられる馬こそ人生の名馬なんだ。そういうこと。だからプロの作家さん達が集う訳の分からん賞をめざすんじゃなくて、地道に尺取り虫の人生を歩めと僕は忠告するんだ。ええ恰好すんな、泥臭く生きてけばいい。汚れてひん曲がったキュウリだって、齧りついてみたら大体おなじ人生の味がする」
「それって、持って回ったこじつけじゃないの? そういう類の例え話は件のオッチャンから飽きるほど聞いてるんだ。僕にいくら論点ずらしの詭弁を弄したところで無駄さ。でも菊池寛が今の文学界の現状を見たらどう思うだろうかな」
「さあね、“そんなの知った事か”って思うんじゃないのか、ギャンブルに忙しくて。ついでにもう一つ、菊池寛についての役に立たないミニ知識だ。“不幸のほとんどは金でかたづけられる”───これも菊池寛の有名な言葉だ。作家の久米正雄が夏目漱石の令嬢と失恋した時、そう言って慰めたそうだ。クヨクヨしているお前にいま一番必要なものは原稿料だとね。確かにド真ん中の正論で異を唱えにくいが、所詮その程度の人物だということだよ。だからギャンブル好きなんだ」
「実際は教科書に載るほど立派な人じゃなかったりしてね。それだけ聞く限り、小説家として形而上的に芸術性を追い求めていく人物とは思えない。筋金入りのリアリストで、どっちかと言えば政治家か実業家タイプに見える」
「おい、鬼より怖い文藝春秋社を敵にまわす気でいるのか。そりゃ僕ら民間人でも危ないんじゃない? ネタにされたらどうすんの?」
「何の力もない民間人の戯言を誰がネタにするんだ、そんなの誰が読む」
「あらま、真に受けてら。ど馬鹿まる出しだな。ジョークだよ、ジョーク。お前さん、いつから政治家や芸能人になったんだ。そのうえ不倫してるわけじゃなし」
赤井君は“不倫”という言葉にハッとして息を呑む。箱村の奥さんの件を思い出してしまった。想像力たくましく先走りしてしまう彼である。
「でもお前が言うように小説家というより実業家ってイメージもあるな。実態は周囲の奴らが“やれ小説家様々”とゴマすってただけなのかもね。それで彼も気持ちよく筆が進んだ。後世の関係者も飯の種で作品を誉めそやす。よくあるパターンだよ。芥川・直木賞を創設したのも、権威への先入観で大衆を誘導して一儲けしてやろうと企んだだけだったりしてな。そのリアリストぶりが今の芥川・直木賞にも反映されているとまでは言わんがね。人間なんて大なり小なり欲望の塊だよ。欲望に手足が生えて歩いてるだけだ。お前だってそう、僕だってそう、菊池寛だってそうだよ。肉欲から金銭欲、名誉欲にいたるまで、欲は歳相応に形を変えて来世まで僕らに付きしたがう。阿弥陀様にでも救いあげてもらわなきゃ、欲は消えることはないよ」
「でも阿弥陀クジが当たる確率は低いと」
「そうだ。童話の白雪姫じゃないが、ここに欲のない人しか映らない鏡があったら、鏡の中は全員透明人間だ。あったろう、“鏡よ鏡よ鏡さん”ってのが」
「それって、うつみ宮土理のロンパールームじゃなかった?」
「なんだっていい、そんなこと知るか。そんな大昔のこたぁ、70歳以上のジジババにきけ。要するに言いたいのは、小説なんて菊池寛にとっちゃギャンブルの一つに過ぎなかったってことさ。今だってそうだろう。小説は出版社と作家の金儲け、当たるか当たらないかはギャンブルだ。菊池寛の時代はハッタリで本を売ることもできたんじゃないの? まあ、ハッタリで偶像崇拝させて本を買わせるのもギリギリ平成までさ。令和になってからはメディア宣伝戦略がいよいよ通用しにくくなってるもんな。本当に“いいもの”でなきゃ売れない。また“いいもの”の定義だって人それぞれ多様化しちまってバラバラだ。もう何が何だか分からない」
「で、もう一回尋ねるけど何が言いたいの?」
「質問ばっかりだな。“議論に勝ちたけりゃ質問攻めにしろ”なんていう俗説を信じてるんじゃないだろね。議論するまでもない、答えは最初からでてるんだ。小説なんて書くのやめろってことさ。お前が余計なこと言い出すから横道に逸れただけだ。ただでさえ人生は目隠しされて歩かされているようなもんだろう。それをプロの小説家なんぞと、目隠して綱渡りするつもりか。悪くすりゃ落下して一巻の終わりだぞ」
「人生という綱渡り。独りぼっちの綱渡り。僅かでも道を誤れば転落する。命綱もなければ下にネットもはられていない。男は渡りはじめたばかりだった」「なんだ、それ」
「僕の小説、プロローグのワンフレーズさ。生年と没年の間にロープをわたしてみたんだ。エピローグはまだ先だけど」
「なに訳の分かんないこと言ってんだ。要するにお前はヒマワリなんだよ」
「ヒマワリ?」
「そう、ヒマワリはいつもお日さまの方を向いているだろう。だからヒマワリは自分の影を見ることができないんだ。お前もキラキラ輝く小説家というお日様の方ばかり向いているから、刻々と迫りくる背後の闇が見えないんだ。社会はそんなに甘くないぞ」
「お、なかなかウマい表現じゃないか。奥行きがある。君もひとつ、小説を書いてみたら?」
「おだてて逃げるつもりなんだろう。僕は筆不精だから小説を書くなんて気はさらさらないよ。お前が筆まめなのは評価してやるが、だからって賞をとって小説家になるなどと、それって権威に迎合しているかあるいは洗脳されてるかのどっちかだよな。権威なんぞ、そこにどういう力学が働いているか知れたものではないよ。ナントカ賞どうのこうのっていうのは結局アレだろ。たとえば芥川賞をとってみても、純文学村なら純文学村で、村民どうし身内でゴソゴソやっとるだけとちゃうんかね。一部の特権者だけ参加が許される、年二回の楽しいお祭りだよ。石原慎太郎以来まだニュースバリューがありそうなんでマスコミもまだ取り上げてるが、それもいつまで続くのかねぇ」
「でも芥川賞とか直木賞とか、ああいった賞は長い歴史もあるし伝統もあって‥‥なんていうか、文化が連綿と息づいていくというか」
「それって伝統芸能だろう」
「違う、違う。そういう意味では言ってない」
「なら“腐っても鯛”だとでも言いたいのか」
「まあ、強いて言えばそうかな」
「お前、腐りかけていても鯛なら食うのか」
「ん?」
「さぁ~てねぇ、そこまで擁護したいのなら受賞作は賞に足るだけの価値があると認めてやっていい。だけどもね、いずれにせよあちら界隈の出来事だよ。ああいう仕事は人脈に大きく左右されるんと違うんかね。鳥籠の扉をあけてもらって純文学村に羽ばたいていっても、どうせお前はそこじゃ独りぼっちだ。泣けど叫べど探し物はみつからない。夢破れてまた鳥籠にもどってくるよ。お前の住める世界はここしかないんだ。もともとあそこは有刺鉄線で囲まれた国だ。鳥でもないお前が中に入るためには手足を血だらけにしなければならない。その覚悟はあるのか。いやもう半分ぐらい手足が血だらけになってるのかもな。尋ねるが、お前は文学村の住民なのか? 違うだろう。あのお仲間たちに全くかすりもしないただの凡夫じゃないか。だいたい、こんな地方の片隅にくすぶっていて何だ。メジャー文学の東京一極集中に一石投じようとでもしてるのか。そんな大それたこと、余人にできるわけないだろう。それともアレか、何かの薄い繋がりでもあるのか。東京に出ていって、何度も足繁く売り込みに通い、人間関係をつくるためにヘイコラと胡麻をすり倒し、何とか取り入ろうとしている。たとえ出禁を言い渡されたって、図々しくまた現れる。決してめげない。どこまでもしつこい。“ここで人脈をつくって文壇への足掛かりにしてやるぞ”と鼻息荒く、相手が根負けするぐらい押しの強さがある───そういうのなら少しは話が違ってくるんだろうがね。もともと実力だけでのし上がれる世界じゃないんと違うかね、そういう世渡り上手というかブルトーザー的というか、そんなのがなきゃ。もっともこれも最低限実力があっての話だ。お前の作品を読んでるわけじゃないが、そこにも疑問符が付く。あれでも最終選考にいつも残り選者をうならせるほどの力があるというんなら、そこから先は袖の下を使うとかいろいろ狡くて汚い遣り口があるんかもしれん。でも、それだってポッケに無い無いしちゃう不埒者がいてくれてやっと、ということだ。いつも一次で門前払いとくりゃ、こりゃ仕方ないわな。気持ちは分からんでもないが、住む世界が違うんだからお話にならない。そうだな、例えばこう考えてみろ。ここにスーパーで買った果物と田舎の母親が送ってくれた果物がある。その品質はともかくとして、お前はどちらが美味しいと思うだろうか」
「どう考えても故郷のお袋が送ってくれたほうだな」
「人の評価はどうしてもそうなる。味覚にも情が入るんだ。小説も果物もおんなじだよ。情実に全くとらわれない人なんてほとんどいない。僕だってお前だってそうだ、人間なんだもんな。血の通っていないAIとは違う。日本の会社の九割以上が同族経営の会社だ。出版社もほとんどそうなんだろ? 非上場の同族経営なら身内びいきになりがちなのが当然だろう。誰を受賞させるかは出版業界が決めることだ。どこの馬の骨とも知れぬ部外者のくせして、藪から棒に、祭の櫓に上って音頭を取る了見か。誰もお前の登場なんて期待してないよ。海の物とも山の物ともつかない奴に音頭取らせてたまるかというのが本音だろう。櫓にはお気に入りに上ってもらいたいんだよ。だいいちお前も僕も超平凡な人間だ。生まれてから死ぬまで、あの人達とは住む世界が違うんだよ。お互い世間様の脚光を浴びていい器か? 僕たちが有名にでもなったら、それこそウィキペディア先生がサイトに書きこむ事柄が何もないと困りはてるぞ」
「♪ハアー、ちょいと出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で‥(^^♪)」
「おいおい、なんで歌い出すんだ」
「アッ、すまんすまん」
また知らないうちに口ずさんでしまった。例のごとく条件反射だ。
「僕は目利きじゃないんで、お前の作品を読んでも評価できない。けど商業作家にお前が向いているとはとても思えない。作品以前の問題だ」
「どうして言い切れるんだ。どうも釈然としないな。僕のすべてを知っているわけじゃないだろう」
「言い切れるさ。小説家は人間のあらゆるドロドロした感情を描き出さなければならないだろう。男で、しかも純文学をめざしているのなら尚更のことだ。社会秩序からはみだしたアウトローじゃなきゃ務まらないよ。お前はまともな人間すぎる。曲がりながらも社会にしっくり調和している時点で失格だ。そこに飛び込んだって“水を得た魚”とはいかないぞ。泥水のなかをスイスイ泳いでいけるか? すぐ泥水をウェッと吐きだして『環境に馴染めません。参りました』になること、請け合いだ」
「そうかなぁ、そうでもないんじゃないかと思うんだが。泥水でも何でも、浮かび上がりたければ、ゴボゴボと沈めるだけ沈んで底をキック。これって甘いのかなぁ」
「はっきり言うけど、甘い。小柄なお前にそんな肺活量があるもんか。文学賞を取りたいなんて、頭の線が一本とんでるぞ。もちろんジャニーズみたいに賞を取りたければカマを掘らせろ、なんてことは無いにもせよだ。おっと、これは不規則発言だ」
「不規則発言とか暴言ってのは、たいがい本音だよ」
「まあまあ、本音というよりは世相にあわせたブラックジョークだ」
「似たようなもんじゃないか」
「そんな小さなことをほじくるな。小説家への夢なんて、放っておけばそのうり消える虹だよ。お前の“小説、小説”というのは一度決めたらやめられない大阪万博なのか。上げたら最後、二度と下がらない消費税なのか。着工したら中止できない公共事業なのか」
「お、ずらずら出てきたじゃないか。その調子、その調子」
「あ〜ぁ、なに茶化してくれるんだ。何度も落とされることが不満なら、やめればいいだけのことだろう。この世界で夢を諦めた人が何億人いると思うんだ。小説の世界なんて、いったんプロになった人も含めて屍累々なんじゃないのか」
「ふうむ、死体の山か。なるほどここは墓場食堂だからな」
「何わけのわからないこと、言ってるんだ? それより今フッと思いついたんだけれども、いただろう、有名作家で。芥川賞が欲しくて何度も選考委員に嘆願書を送った奴が。ちょっとド忘れした。『人間失格』を書いた有名作家だ」
「太宰治だろう」
いくぶん心証を害した赤井君は、そっけなく言い捨てる。
「そうそう太宰だ。お前を見てると太宰を思い出すよ。そうまでして賞がほしいのか。恥ずかしくないのか、矜持はないのかと思うよ」
「太宰が? それとも僕が?」
「ここは太宰ということにしておこう。まあ、そういう恥知らずの変わり者だからこそ、今でも残り続ける秀作が書けたんだろうね。女と入水自殺するような尋常ならざる人物でなけりゃ、ああいう名作は書けないってことさ。なので実直で清貧なお前は最初から埒外なんだってば。人を揺さぶる作品なんて書けっこない。安っぽい自尊心は捨てろ」
───実直で清貧だって? たしかに貧乏臭くはあるが、コイツ僕の何を見ているんだ。節穴か。このスーツ姿に目眩ましされたのか。まだ僕が夢茶で与太っていることも、風俗に入り浸っていることもぜんぜん感じとれてないんだな。知らぬが仏、いい気なもんだ。
「御託宣、しかと承りました。人の一生は落葉、されど時には葉っぱも裏返って落ちることがあってもいいと思ってね」
呆れてそう皮肉めかせば、どうやら真に受けてしまったらしく、
「いざ落ちてみたら、とんだ虫食い落葉だったってなるぞ。でも誤解しないでもらいたいんだが、小説を書くなと言ってるんじゃないよ。裏返りたかったらヒラリといくらでも裏返れ。趣味で小説を書くんならどんどんやったらいい。葉陰から見ていてやるよ。楽しむだけなら悪くない。人生、楽しんでなんぼだからな」
と、懐柔に出てきた。
「楽しんでなんぼ、か」
「そうだ。明石家さんまがよく『生きてるだけで丸儲け』なんて言ってるだろう。でもそのためには人生を楽しまないといけない。お釈迦様いわく“人生は苦”だ。お釈迦様が言うぐらいなんだから、一面それは真実なんだろう。だけど僕たち、神様から『いっちょ、向こうで思い切り楽しんでこい』と言われて生まれてきてると思うんだよね。だからこそ苦の中にあっても、なんとか楽しみぬかなきゃ嘘なんだ」
「おっ、金言が出たじゃないか」
「生きるのが辛くて、こんな感じの言葉を求めている人たちにとってはな」
「いや僕、そんな言葉なんて求めてないけど、金言だと思う」
「そうなのか? 照れるなぁ」
「照り焼き醤油煎餅か」
「え? 何のことだい?」
やっぱりコイツにはまだ箱村・花菱流のナンセンスギャグは通じない。
「あ、いいんだ、いいんだ、今のスルーしてくれ」
「まあナンダカンダ話したが、要するに結論は出版社にもう投稿するなということだ。神がいるとすれば‥‥‥あくまでも神がいるとしたらの仮定だよ、既に神にはお前の願いは聞こえているはずだ。聞こえているのにお前の出版社に送った作品はことごとく一次で落ちる。どうしてか。願いが叶わないほうがお前自身にとって望ましいということを神が知っているからだ。そんな願い、実現しないほうがより幸福への近道だということだよ。さっき人生の台本って話、僕にしてきたよな。小説家になりたいなんていう願いそのものが、人生の台本が描く目的に背くことなんだよ、きっと」
「う~ん、何かはぐらかされてる。納得できるようなできないような‥‥‥なんだか話が漠然としてて」
「ところでお前、絵なんか描いたりするんか、もちろん趣味でだぞ」
「どうしてここで絵が出てくるんだ。僕の書く小説は絵に描いた餅、そんな努力は画餅に帰すとでも?」
「いやそんなことは言ってない。シンプルに描くかどうか訊いてるんだ」
「描かない、鑑賞するのは嫌いじゃないけど。自慢じゃないが絵の素養は全くないよ」
「素養なんて無くたって関係ない、個展を開くわけじゃなし。誰だって描けるさ。知ってるか? スリランカの象が鼻に挟んだ絵筆で描いた絵が二千ドルで売れたって話。二千ドルが相場としてどうなのかは知らんが、ニュースになるぐらいだから、あっちでは結構な値段なんだろう。タイにも絵を描く象は一杯いる。日本だって千葉県にいるそうだぜ。象だって絵を描くんだ。象が描けるのにお前が何で描けないんだ」
「へぇ〜、才能のある象もいたもんだ、日本にもいたなんて知らなかったよ。今まで人と猿を分け隔てるのは道具だと考えてた、進化論的にね。象が絵筆を使いこなすなんてダーウィンもびっくりだな。けど僕、いまさら絵を一から勉強するなんて面倒だから嫌だよ」
「僕はストレスでどうにもならない時に描くんだ。なんてったって没入して何もかも忘れられるからね。とくに細部を入念に描きこんでいくときなんか完全に忘我の境地だ。知らぬ間に何時間も経っている。恥ずかしい話、もう描き始めてかなりの年月が経つんだが、いっこうにプロ顔負けの抜きんでた筆致とはいかない。独学がいけないのか、それとも才能が全くないのか。いつまで経っても、きっとお前の小説にすら遠く及ばないド素人レベルだ」
「日の当たらぬ職場に回されたのを奇貨として君も絵筆をにぎったと。けど、それと小説と何の関係があるんだよ」
「まあ急ぐな、最後まで聞け。よくは知らないが、このご時世、画像生成AIがプロ級の精緻な絵を瞬時に描くそうだな。でもAIに絵を描かせてどこが楽しいんだ。カンバスにせよパソコン画面にせよツールは人それぞれだが、絵画というのはじっくり時間をかけて少しずつ仕上げていくのが楽しいんじゃないのか? たっぷり時間をかけたってド素人のすることだ、たいてい色むらがあったり、形が不自然だったりする。けどそこが味があっていいんだよ。不要なノイズが一杯あるから芸術は面白んだ。AIにはルノワール風の絵は描けてもルノワールの絵は描けないんだ。いくらエンジニアがアプリを駆使して精密で洗練された絵画をAIに描かせたところで、よく分かんないが、どれもこれも膨大な既成画像バンクから検索で拾ってきたものを組み合わせただけなんだろ? ビッグデータからパターンを幾つも拾い上げて、手の込んだ切り貼り作業を機械的にするだけのことじゃないか。そんなのただ絵が上手なだけで、そこにオリジナリティーもなければ遊び心もなし。個性が欠けてんだろう。芸術は個性が命だ。AIといえども使う人の個性まで描くことはできない。しょせんコピペの先端超絶技巧でしかないんだよ。それでも商売にして食っていくのならAIの手を借らざるをえないこともあるだろう。儲けなきゃなんないからな。でも趣味でやるなら、どんなに下手っぴであろうとも自分で絵筆を握って描けよ。どんだけ時間がかかろうとどんなにお粗末な技量であろうと、それが僕であり、それが楽しむということなんだ。明日があるやもしれぬ蝉のごとく思い切り今この時を鳴きつくせ。人間も蝉と同じだ。いつ死ぬか分からないんだから、一瞬一瞬を燃え尽きようぜ。パソコン画面でクリックしていくらウインドウを開こうが、本物の青空は見えてこない。だから僕は部屋の本物の窓を開いて本物の青空を見る。外に出て太陽の下で思う存分カンバスに油絵の具を塗りたくるのが好きなんだ。ほんとうの空の青さを感じられるからな。お天道さまの下で、日焼けしながらカンバスの青空に太い絵筆でサーッと一気に雲を描き込んでみろ。空を指でなぞるように太線がそのまま油彩の白になる。こたえられんぞ、これは。上手下手関係なく、あの爽快さは誰だって同じだ。没入すれば流れゆく浮き雲に身をまかせていく気分になる。ちょいと暗い色を雲に塗り重ねれば、その仄暗き色合いが雨の匂いをさそい、彼方から遠雷も聞こえてくる。疲れたら筆を休めて草むらに寝転がる。目には、空が揺れているような鱗雲の模様。この感じ、分かるかなあ、分かんないだろうな。描けばきっと病みつきになる。お前も人生を楽しむ人であれ。そんな暗い色で描くな。楽しみは小説の他にもたくさんある。もっと明るく鮮やかな色のクレヨンを選べ。画用紙をハッピーな色彩で埋めつくそうじゃないか。お前はまだまだ若い。余白は描きつくせないほどある」
赤井君は想像のカンバスに青空を思い描く。地球のまるみを感じさせるほどの広い空。そこに蹴とばせば動いてしまいそうな雲が浮かんでいる。
ふんわりとした雲の純白が胸の奥に沁み入ってくる。雲海の上に寝そべっている気持ちだ。見上げる雲と子供みたいにお喋りするのもいい。雲に乗って心の旅をするのもいいな。蹴とばした雲は天国へと流れていくのだろうか。この雲に乗れば天国へ行けるのだろうか。
赤井君には今、形を徐々に変えて動く雲が白い大地に薄っすらと影を走らせている情景が浮かんでいる。
───なるほど雲は印象的なイメージを喚起するな。これを絵画にできれば結構面白いだろう。
「聞いていると確かにバーッと白色絵の具で雲を描くのは痛快そうだな。心がポカポカして、この空に母親が住んでいるような気にもなってくる。うん、なんとか僕でも描けるんじゃないかな」
「いや、下手っぴの僕が言うのもなんだが、あれはあれでかなり難しいんだ。雲はね、手ごわいよ。単純そうで複雑だ。雲が風にほぐれていくあの感じは、上手く出せないもんだよ。形がどんどん変化していく。まさに自然の造形美だ。なかなかイメージどおり描けないんだ。雲ってのはね、お前の新人文学賞同様、追えば追うほど遠ざかっていく」
「───雲切れて あれは僕だと軋む空」
「なんだ、ぶっきらぼうに。それ、俳句かなんかか。軋む空? そうじゃなくて“春の空”とかなんかの詠み違えだろう」
「いや、揺れる心をちぎれ雲で表現したくてねぇ。なんとなく叙情的じゃないか」
「叙情的? そういう抽象的な言葉はさっぱり理解できん。空が軋むのか? どんな天変地異だ。軋むってな、お前の心はボロ家の廊下なのか。そういうセンスがわかんないんだよな。僕が歌人とか詩人とか小説家を理解できないのはそういうとこだ」
「創作意欲に水を差してくれるじゃないか。いま生まれたばかりだけど、これだって僕の可愛い作品の一つだ。産み育てた我が子みたいなもんだよ」
「へぇ~、お前は男なのに子供が産めるのか」
「ほら、君だってそうやって茶々を入れてくるだろう。タツノオトシゴは雄が妊娠して子供を産むじゃないか」
「“ああ言えばこう言う”の上祐史浩か。そういやぁお前の顔容、どことなく上祐に似てるな」
と、アイツはしげしげと顔を見つめながら余計な一言。
「何とでも言え」
「ふ~ん、そんな安っぽい一句がそこまで御大層なものなのか。積ん読主義の僕が言うのもなんだが、やっぱお前、小説家を目指さない方がいいよ。大衆に受け入れられない。飛び過ぎだよ。スケボーで宙を舞うオリンピック選手なのか」
スケボーで宙を舞うだって? ありゃまあ、よくすべる滑走路だ。航空母艦だったら海に落ちまんがな。
「それってギャグなの?」
「ちょっと挟んでみたんだ。面白くなかったか、すまん。なあ、ここで雲になぞらえてちょっと考えてみようぜ。ずっと昔から、青空にただ一つとして全く同じ形の雲が浮かんだことはないだろう。そして僕がカンバスに描く雲もこの世に一つだけだ。これってスゴいことじゃないか? そこがオリジナリティーを持ち合わせないAIと基本的に違うところだよ」
「そんな熱弁ふるって、やっぱり小説書く代わりに絵筆を持たせようとしてるな。青空を見上げたら流れる雲を描きたい、秋がくれば鮮やかな紅葉を描きたい───そういう絵ごころは僕にはないぞ」
「なに外れまくっているんだ。僕に言わせれば絵描きも物書きも大差ないが、だからって無理に絵を描かそうなんて思ってない。これは例えだよ。話の肝はともかく楽しむことだけ考えろということだ。結局なにが正しくてなにが正しくないかなんて、人が推し量って分かるものじゃないだろう。見方は人によって違って星の数ほどあるからね。だから楽しいことが正しいことだと割り切っちまえ。もちろん楽しむったって、イジメとか性加害とか、そういう卑劣で陰湿なのはダメだよ。ああいうのを除けば、楽しくさえ生きていれば、それは正しく生きていることなんだと信じろ」
「うん、それは何となく分かる。同感だ。人に迷惑さえかけなけりゃね」
「ゆえに商業作家なんて目指すなって結論になる。だって商業作家なんて日々苦しみや悩みの連続で少しも楽しくないからだ。ただでさえ今後、AIの登場で商業クリエーターには厳しい時代が到来するだろうに、そげな仕事、今のお前には無理だし、正しく生きていることにもならない。むしり取られるだけだよ。AIの波が押し寄せるのは小説も例外じゃないんだ。芸術も文学もAIに席巻されるのは時間の問題だよ。ありとあらゆる表現やプロットはほぼ出尽くしてるだろう。あとは同じプロットをシチュエーションだけズラしたりいじくったりして使い回すぐらいしかないんだよ。同じ筋書きを登場人物や時代背景や場所などの状況設定だけ変えて平行移動させるのさ。そんな順列組み合わせはAIの方がよほど得意だろう。そのうちAI作家が出てくるぞ」
「小説家、全員ロボット化説でも唱える気なのかい?」
「そうだ。だからそんな場所には行こうとするな。変なプロ意識に縛られて無駄に緊張するのも嫌だろう。メーテルリンクのかの有名な『青い鳥』にもある。幸福の鳥は身近なところにいるんだ。捜しまわっていたメガネは自分の頭の上にのっていた。幸福さがしのキーをドアの鍵穴に挿しっぱなしにしたまま、この部屋を出ていくのか。商業作家になるなどと、そんな遥か彼方まで幸福を探しに行くな。まずは小説を楽しむ事だけ考えろ。それ以外は何もするな。素人作家のままでいいじゃないか。素人でいる限り一円ももらえない代わりに一円も取られないだろう。それで楽しめるんだったら収支はプラスだ。悪い話じゃない」
「でもAIってことで言えば、それって公務員にもいえることじゃないの?」
「ああ、公務員もいずれ高度の政治的判断が求められる上層部以外は、AIに取って代わられるだろう。事務作業しかしていない下っ端はお払い箱だね。覚悟はしている、首を洗って待ってるよ。そもそもだ、より公務員試験に受かりやすい人間ってのは、よりAIに近い人間だろう。いくら人として薄っぺらでも、要領のよさと記憶力さえあれば試験に受かる。こう考えれば、AIの登場で篩にかけられたとしても、ある意味それは運命の揺り戻しに過ぎないとも言えるな。さぁ〜てと、肩たたきにあったら画家にでも鞍替えするか。でもそんなことしたら、商業小説家になったお前よりもっと悲惨な人生を送ることになるだろうな。どうやら僕とお前はチルチルとミチルらしい」
「どっちがチルチルで、どっちがミチルかな?」
「しょーもないことを訊くな。まぁ首になった時はそのときだよ。幸せとは財布の中にどれだけお札が入ってるかでなくて、ハートにどれだけ満足と愛と安らぎが入っているかということだからな」
「うまい! 座布団一枚! で、どこから拝借してきた」
「おやおや、またそれか。これは自分のためというよりは、お前のために言ってるんだぞ。一応いまんとこ僕の方は、親方日の丸で安定収入があるからね」
「お互い働かずとも生きていける国にでも行きたいね」
「行きたくても金欠で交通費がないよ」
ずっこけネタしか持ち合わせない堅物公務員が、待ってましたとばかりに再び定番ボケを放った。さては予め用意していたな。
「なんやねん、それ」
さすがにこれはベタすぎる。大笑いだ。かつてスケベ心のなかった奴が、こういう具合に仕掛けたような軽口をポンポン叩き始めると、外れまくりのぎこちなさに思わず笑い興じたくなるものだ。(*^▽^*)ワッハッハァ〜
まあ、ギャグは下手くそでズッコケないとね。うますぎるギャグは何となく白ける、笑えない。それにしてもコイツ、変わったなぁ。変わりすぎだ。
「金欠野郎は遠出せずに近場ですませ。そのほうが生涯、楽で安全に暮らせるってこと。お前への助言だ。どや、なかなか切れのいい変化球だろう。あららぁ〜、でもちょっとこれ、強引すぎるかもね」
どういう心境の変化だろうか。早くも出世競争からはじかれたからか。ツンとすましてはいても、コイツも根本のところでは“IQがタランチュラ!”のお仲間なんだ。
「なんや、そんなに可笑しいのか。めずらしいな、お前が声をあげて笑うなんて。やけに明るい性格になったじゃないか。いま付き合ってる人たちの影響かな?」
赤井君は声、高らかに笑っている。今にも笑い声がひっくり返ってしまいそうだ。
「学生時代に堅物だった君がさっきからチョコチョコ面白セリフを言うからだよ」
「人は環境で変わるんだよ。まぁ、辛かったから変えたというかね」
「お互い金欠どうし、健康には気をつけような。だって懐が寒くなると低体温になるだろう。将来ガンにならないといいけどね」
「今の僕って柔らかくて、堅物じゃないだろう。それが証拠に、お前、見事に壺にはまってゲラゲラ笑ってるじゃないか。ビートたけしと比べてもいいぐらいセンスあるんじゃね?」
「ほらほら、そうやって堅物と言われてもなかなか受け入れないところが堅物じゃないか」
「そうなのかい?」
「そうだよ、根はクソ真面目だ。それに、まだおやじギャグを連発する歳でもないだろう」
「いいじゃないか、ボケ防止にもなるし。勤めだしてから神経の磨り減る単純事務作業ばかりで、ぜんぜん頭を使わない。創造性もへったくれもないんだ。ボケ防止だって早くから始めるに如くはないだろう」
「だったら君も小説を書けばいいじゃないか。コメディ小説で下らない駄洒落をズラズラ並べればいい。さっきからぽちぽちボケかましてるけど、なかなかいい線いってるじゃないか。文章を書くのは、いい脳トレにもなるよ」
「アホらし。僕だってたまにポッとギャグが浮かんだら言いたくなるんだよ。はてさて、この性分、誰に似たんだろうね」
───なるほど言われてみれば、その雰囲気、誰かに似てる。誰だったっけなあ。
赤井君は懸命に思い出そうとする。記憶の小箱のなかを神経伝達物質が小人となって駆けずり回る。う~ん、思い出せない。
そのとき、どこからか咳払いが聞こえた。注意を向ければ、そこかしこで囁き声がする。全員、僕たちのことを話している気がしてくる。
───もしかしたら今、周囲の視線が僕たちに集中してるんじゃあるまいな。
あたりをきょろきょろと見まわす。視線の合った一人が目を伏せた。
───そうか、ここは食堂だったな。忘れていた。あまりはしゃぐなと言うことか。売れない芸人どうしギャグを言い合い馬鹿笑い、周りはシラ〜ッと静かなまんま‥‥‥ってな具合だろうな、たぶん。反省。
「ねえ、ちょっと。ちょっと、ちょっと」
「なんだい? そういやぁ、そんなおもしろギャグを言う双子のお笑いコンビがいたな。誰だったっけ」
「ザ・たっち、だよ。僕らちょっとはしゃぎ過ぎじゃないか? もうちょっとボリューム、しぼろうや。ちょっと、ちょっと」
「ここって墓場食堂なんだろ? いいじゃないか、灰色のお墓に色鮮やかな一輪の菊花を供えたって。僕は九州男児だ、盗み聞きしなくてもいいように大声で話すんばい!」
周囲に見つめられるのもかまわず、アイツは声をたてて笑う。
それにしても、なんだかコイツ、箱村に似てきた。彼と同じで、働き出してから道化にならなければ耐えられないほどの辛い経験をしたんだろうか。もしかして僕って、気づかぬまま会う人全員に箱村的キャラクターを植え込んでいるんじゃあるまいな。
「ともかくお前に言って聞かせたいことは、人生たるもの、バリアフリーとはいかないということだ。何が起こるか分からない。想定外を想定して生きていてもなお想定外はやってくる。お気楽に思われてる公務員にだって、いま言ったみたいにちゃんとお先に段差はひかえているんだ。ましてや小説家なんてフリーランスだろう。ジェットコースターの人生だぞ。パワハラの嵐、無理難題おし付けられ放題だ。簡単には首にならない公務員の世界ですら、かつては悪質なパワハラが蔓延していたぐらいだからな。僕だって事務局や県立高校にいた頃は、パワハラを全部録音して出る所へ出てやろうと何度思ったかしれない」
「そりゃ穏やかじゃないね」
「義務制に来てからかなり経つのに、いまだに皆がいる面前で上司から叱責されてる夢をみるんだ。恐怖と威圧で支配しようと目論む馬鹿がいるんだよ。あげな奴らの顔なんぞもう金輪際、見たくないばい!」
アイツが気炎をあげる。思い出したくない人間関係の記憶がよみがえったのだろう。
「お、気を吐くじゃないか。鼻息荒いねえ。闘おうと思ったのか。♪そいつぁ豪気だねぇ」
「実際、歳いってても魂年齢の低い奴がどこの世界にもいるもんだな。一度『あなたはそういうふうに人格否定をすることによって、恐怖と威圧で私をコントロールしようと考えてるんでしょう』とそのものズバリをボソッと言ってやったら、鳩が豆鉄砲を食った顔してやんの。こげな奴らは本性をさらしてやると黙るんだ。策略を見破られ、試みが失敗することを一番恐れてるからな」
「みんながいる目の前で君を面罵するってことは、たぶん生贄にされてたんだろうね。それって他の職員への牽制にもなるし。君以外の人はあまり叱られなかったんだろ? そういうのに限って“見どころがあるから鍛えてやってるんだ”などと御託を並べる。ホントは自分のエゴに好都合な人間に白羽の矢を立ててるだけなのにね。“お前のために鍛えてやってる”だなんて嘘八百だよ。自分の子供でも大切な人でもない赤の他人に、普通そんなことわざわざしてくれるもんなのかぁ? こっちからそうしてくれと頼んでるわけじゃなし。罵詈雑言は憂さ晴らしさ。優越的立場を利用したただのイジメだよ。ジャニーズの性加害といっしょだ」
「辛辣だな」
「罵倒するのは相手を思いどおりにしたいからだよ。それが証拠に、従順そうに思えた相手が反抗してこようものなら、説得しようとせず、すぐに矛先を変えて別の獲物をさがす。そうだろ? 効率重視だ。これで“見どころがあるから鍛えてやってるんだ”とは片腹痛い。県ではそんな人の方が出世が早いんと違う?」
「それは何とも言えん。統計をとったわけじゃないからな。見ている人は見ているんじゃないの? そう期待したいよ」
「そもそもどうして君が生贄に選ばれたと思う?」
「僕がいい男すぎて嫉妬されたのかなあ」
そう言いながらアイツは照れ臭そうに頭を掻く。
「いや、冗談ぬきで」
「そうさなぁ、あの頃、嫌なことを嫌と正直に伝えることを我儘だと思っていたもんなあ。そんな弱っちいところを突かれたのかも知んねえな。冷静に考えれば、嫌なことを頼んできたり、ましてや嫌なことをしてきたりする方がよっぽど我儘だよな。そんな単純なことも気がつかなかったなんてね。なんだ、犠牲を払うのはこっちばかりじゃないかってね。ふつう他人の願いをきいてあげるのは親切だと思うよな。だけど、ひょっとしたらそれ、ずるい連中の刷り込みじゃないかと最近思うようになってね。他人の言うことを何でもきいてしまうのは、自分の意思がないことだよな。他人の思惑ばかり気にして右顧左眄していることが態度に出ちゃってたんだな。もっとしっかりとした自分自身を持つべきだったよ。ひいてはそれが自分を守ることにもなる。もっとしっかりした自分があれば狙われることもなかっただろうね」
部下を大勢のいるところで罵倒したりネチネチと苛んだりする上司の心理を、僕らはまったく理解できない。「ほかにも適切な指導法がいくらでもあるはずだ、どうして相手を深く傷つける手段をあえて選ぶのか」と思う。
話を聞く限りコイツもそうだろうが、僕らがこういう心理を理解できないのはおそらく幼少期に愛情深い家庭で育ったからであろう。僕には母がいた。「自分の弱みを見せても、少なくとも母親からは拒絶されたり、責められたり、見捨てられたりしない。それどころか守ってもらえる」───そういう安心感が幼い頃、潜在意識の深いところに刻まれている。
片や彼ら上司の少なからずが幼少期このような安心感を与えられなかったのではないだろうか。だから不必要な安全欲求が大人になっても心の底に根づいているのだ。彼らは自分の安全を確保するためには、自分を強く見せなければならないと考える。傍からみれば短絡的で滑稽ですらあるのだが、彼らはみんなから恐れられる存在でなければならないと考える。
しかし実際の自分には他に優越して一目置かれる能力も内容もない。ここに恐怖が生ずる。また決して表にあらわすことのない深刻な劣等感も生ずる。そこでその恐怖や劣等感を払いのけるため、弱そうで怒り返してこないであろう者をピックアップして怒鳴り上げたり、自分の強さや能力を演出するため利用したりするのだ。そうすれば周囲が平伏し、恐怖や劣等感に苦しまなくてすむと錯覚する。
だがそういう心の世界には癒しがない。真の防衛力なら価値があるが、所詮ハッタリ劇の中で演じているだけだからである。恐怖と劣等感はどこまでいってもなくならない。
それどころか攻撃する意図もない人の言動まで攻撃されているように思えてくる始末だ。果ては心労で夜も眠れぬ騒ぎになる。これはどういうことかと言うと、人は自分の内にあるものを無意識に他人に投影してしまうのだ。彼は弱きものを自分の利益のために攻撃することを良しとする。それが他人に投影されて、周囲の人も誰彼なしに自分を攻撃するような気がしてくるのだ。
かくして普通の人なら何とも思わない他人のちょっとした言動に怯えることになる。例えば相手が不愛想に見えたり、ちょっと表情が険しくなっただけのことで怯える。そして、これによりますます弱いものを攻撃することで心のバランスを取ろうとするのだ。悪魔のループは永遠に閉じない。
アイツは満面の笑みを浮かべて、
「お前も言うなあ。奴らに聞かせてやりたいよ。自分の悪意を自覚しないでそうするのならまだしも、連中は悪意のソロバンをはじきながらそうするから始末が悪い」
と、我が敵の悪口をいっしょになって言ってくれる僕を頼もしそうに見つめる。
「逆じゃない? 自覚できない方がもっと深刻じゃないの? だって自覚できてなきゃ改めようがないだろう」
「どっちでもいいよ、好きに考えな。もしかしたらこっちの買いかぶりで、アイツら、事務処理能力や交渉力には秀でているが、案外オツムは空っぽだったのかもな。昔から“飴と鞭”というが、本当に相手を心理的に支配したけりゃ、極端に叱って極端に褒めるを交互に繰り返すはずだからな」
「はあ? 褒めて叱って子供をのばす。小学校の先生と児童の関係を言ってんの?」
「違う、違う。子供の教育の仕方を言ってるんじゃない。僕は小学生か? 大の男だろう。飴と鞭を交互に反復するのが最も効果的に部下を従属させる方法だと言ってんだ。鞭だけじゃ効果は薄い。そう思うだろう」
「なるほど確かにそうだな」
「僕は怒鳴られるばっかりで、ただの一度も褒められたことがなかった。そうか、アイツらやっぱ計算してない。単純にカッときて、すぐに怒鳴り散らかすだけの愚物だったんだ。感情が統御できない安物の瞬間湯沸かし器だ。だいたいだな、強い人ほどよく耐えるだろう。あんなにイージーに怒りだすってことは、強そうにふるまいながら実は弱虫なんだぜぇ、情けない」
行動は思いを強化する。人は多かれ少なかれ皆、エゴイストだ。だが世間には度を越したエゴイストがいる。そういう人も最初から極端なエゴイストであったわけではない。少しずつ利己的な行動を繰り返し、その都度少しずつ自分の行動が正しいことのように思えてきたのだ。錯覚も繰り返せば真実に見えてくる。
コイツの上司も最初からそういう人間であったわけではない。部下を怒ることの成功体験が積み重なって、その万能感から自分のしている行動が正しいことのように思えてきたのだろう。
「そうなら“自覚できない方がもっと深刻だ”と言った僕は正しいね。行動は必ずしも動機を強化しない。だけど行動の反復は思いを強化させていくんだ。感情のおもむくまま君を罵倒すればするほど、その人達はますます君が罵倒に値する人間に思えてくるんだよ。そんなの大迷惑だろう。彼らにはまずそのことを自覚するところから始めてもらわないとね」
そう言う赤井君。なにやら難しそうなことを話している。とはいえ話している内容は至極まっとうで、本質に近い。
「何はともあれ、学んだんだよ。言うべき相手には言わなきゃな。他人の目を気にして言うべきことを言わないからダメだったんだな。言わなきゃ、どんどん服従から脱け出せない人間になっていくんさ」
「うん、分かる分かる。僕も子供の頃イジメられたし、人から嫌われるのを怖がるタイプだから」
「ああ、そうだったのか。だったらイジメられっぱなしじゃ、ますます事態が悪くなっていくことは身をもって体験してるな。セクハラだって女の娘が黙っていたら、いずれ舐められて性暴力になるだろう。イジメられっぱなしじゃ絶対にダメだ。威嚇にひるんじゃいけない。スポーツ競技にも威嚇はあるじゃないか。競技で相手の威嚇に怯えたら肉体的緊張をよび、負ける確率を上げてしまう。スポーツだけじゃないぞ。交渉事で相手に怯えれば、それだけで議論に負ける公算が大きくなる。相手の言いなりになりたくなければ、脅しに心理的に屈しないことが何より重要だ。怯えるのは単なる反射心理にすぎない。太古、狩猟で猛獣と対峙したときの恐怖感のなごりだよ。現代に生きている僕たちはそれで命まで取られるわけじゃない。そのことを意識して怯えの反応を抑えようぜ。相手は戦略として威嚇してくるんだ。戦略じゃなくて単純にカッとして威嚇してくる愚か者もいるだろうが、怒鳴られる側の身になってみればどちらも同じで、そんなの問題にすべきことじゃない」
「なるほど、理屈は通っている」
「いざ勇気をだして対立してみれば、さほど恐れるほどのものではなかったことが分かってくるよ。身をもって経験したんだ。いったん殻を破っちまえば、次からは行動にうつす時の心の重圧も小さくなっていくしね。お前も嫌われることを恐れず、こういう体験を積みかさねていけば、そのうち嫌われることが全く気にならない日がやってくるよ。自分をおし通し続けるんだ。子供の頃イジメられてたんなら、なおさら僕の言ってることがストンと落ちるだろ?」
「俗に言う自己確立ってやつか」
「そうだ。お前、イジメられた過去を未だにきちんと折りたためてないだろう。まだ引きずってる」
「よく分かるな」
「そりゃ見てれば、感じで分かる。人生は折り紙だ。折り方を忘れたままだと先へ進めないぞ。ここいらでケジメをつけろや」
「イジメにケジメ? シャレ言ってんの?」
「たはっ、シャレじゃないってば。ちっとはマジメに考えろ」
「やっぱりシャレじゃないか」
「てへっ、バレたか。それはともあれ、子供のころイジメられたのなら、ちゃんとこのことを覚えとけ。イジメられるような控えめで無抵抗な人間は、怒鳴られたら逆切れするぐらいでちょうどいいんだ。大人の世界にもイジメはある。子供であろうと大人であろうと、同一人物なんだから魂の根はいっしょだ。イジメられた過去の延長線上に今のお前がいるんだ。子供のころ起こったことは大人になっても大いに起こり得る。どんな悪辣なイジメが前途に待ち構えているか知れないぞ。いいか、そのときのために備えておくんだ。強くなれ」
赤井君は話を聞きつつ、コイツが早々と最果ての地に追いやられた理由が分かった気がした。通常、ストレス負荷は部下より上司のほうが大きい。人間は利己的な生き物だ。誰だって扱いやすい人物を周りに置きたがる。コイツの上司達も多分そうだったんだろう。
学生時代、コイツはこんなにお喋りではなかった。どちらかと言えば物静かで生真面目、冗談などあまり口にするタイプではなかった。「三つ子の魂百まで」というが、性格はよほどのことがない限り変わることはない。きっと仕事でかなり辛い思いをし続けたのだ。
当初、上司はコイツがもっとも従順そうに見えたのだろう。打ってつけのスケープゴートだ。だがコイツは叩かれる度に自分を改造し、世にいう「面倒くさい部下」になっていった。平気でパワハラができる人というのは表面と裏腹、たいてい蚤の心臓だ。面倒くさい部下の首をすげ替えたくなるのも無理はない。
たぶんコイツの上司達は上昇志向の強い連中だったのだろう。こういう人たちが往往にして人を操ろうとしたり支配しようとしたりするのは、そうすることによってしか自分の権力や地位を誇示する方途がないからである。
彼らは自分が自分自身であることに疲れている。なんとなく自分が自分によそよそしくて、しっかりと馴染んでいないのだ。自分が自分の人生の主人公になっていない。もしなっているなら、操るとか支配するとか、そういった自分の外側にあるパワーゲームに何の関心も示さないはずである。
自分をコントロールできなくなるほど、人は他者をコントロールしようとするものである。自分の心理や感情をコントロールできない分、他者をコントロールして帳消しにしようとするのだ。そしてここが恐ろしいところなのだが、実は県の最上層のマインドコントロール下で自分もまた意のままに操られていることに彼らはまったく気づいていない。というか、気づこうとしていない。
片やコイツはそのことを知っている。もしやそれを逆手に取ったのではあるまいな。法律上はともかく少なくとも運用上は、公務員は犯罪をおかさない限りペナルティーはあっても免職されることはほぼない。そのことを意図的に利用したのではないのか。そういう小狡い人間でないことを願いたいが。
水は低きに流れる。上昇志向が最初からなかったのか、それとも早々と捨てたのか、どっちにしろ水に合う今の職場に居座り、梃子でも動かぬつもりであろう。彼は自分の人生を生きようとしているのだ。
「いいな、世の中には僕らとは全く異質な連中がいる。生贄にされて僕が学んだことは二つだ。一つは相手の好意を期待する甘えが命取りになるということ。そしてもう一つは、自分は特別な存在で皆からそのように扱われるだろうという過信が命取りになるということだ。ずる賢い奴らは即座に見ぬき、そういう弱みにつけこんで利用したり搾取したりしようとするわけさ。あのとき僕が辿った道だよ。小説、小説と言うお前も自分を特別な存在だと思い込んでるだろう。実際はどこにでもいる、ぼんくらニイチャンなのにもかかわらずな。そういう愚かしい所につけこまれて、僕みたいにしゃぶりつくされないよう注意しな」
───言っていることはまともだが、何もそれを小説と結びつけなくてもいいじゃないか。
赤井君は癪に障り、
「で、“パワハラを全部録音して出る所へ出てやる”の話はどうなった?」
と憎まれ口をたたいてみれば、
「ありゃ、してない」とアイツ。
「どうしたんだ? 尻込みか。つまり君へのパワハラの件は永久に黒塗りというわけだ。さすがお役所仕事だな」
「あん?」
アイツが苛立っている。逆だつ神経線維が、何枚ものセロファンの帯となって頭の中で捻じれ合うのが見えるようだ。無数のヒューズが電気をおびて怒りの心棒に絡みつく。
「日和って何もしなかったのか、大組織に盾突く度胸が無くて。逃げ腰だな」
赤井君も人が悪い。調子に乗って畳みかける。何もそこまで侮辱的な言葉を連ねなくても。
「日和ったんじゃない! 堪忍袋の緒が切れなかったから、行動にうつさなかっただけのことだ!」
さも威信が傷つけられたと言わんばかりにアイツが血相を変える。怒りに緊張した神経が、ついに張り詰めたギターの弦のようにちぎれた。声を荒らげ、地団駄を踏んでいる。
君も瞬間湯沸かし器ではないか、よく他人のことが言えたもんだ。“他人は自分を映し出す鏡の像である”というのは本当だな。
「ほんとかぁ? 怖かったんだろう」
そう赤井君が突っかかれば、アイツはたまりかねて喚き立てた。
「なんだと!!」
カチンときて完全に頭に血がのぼったようだ。顔を熟れ柿よろしく赤くしている。鬼の形相だ。コイツが顔面鬼瓦になるのは珍しい。屈辱感からなのか? それとも敗北感からか? とにかく一種異様な絵面である。
これは以前も述べたが、図星を指されたらカッとなるのは人の本性だ。痛い所を突いてしまったらしい。
「まあまあ抑えて。上司に同情心がわいて止めたんだよな。ほら、怖い上司にも、後ろで糸を引いているもっと怖い奥さんがいるんだからね」
「何の話だ。うわすべりジョークか。何のフォローにもなってないぞ!」
───困ったな、簡単には機嫌をなおしてくれそうもない。
「エヘヘヘ‥‥」と赤井君はお追従笑いするばかり。
「それに何で僕の話にすり替えようとするんだ。もともとこれってお前の小説の話だったよな。核心を逸らすな!」
腹立ちは収まらないようだ
「ねえ、自分から逸れて行ったんじゃないの」
「そうやって焚きつけて、矛先を変えさせようとしても魂胆はまる見えだぞ」
やれやれ企みもバレてしまった。
「まあまあ、君を怒鳴ったりネチネチとさいなんだりした上司も20年もたてば県組織からいなくなる。50年たてばこの世からもいなくなる。諸行無常、はかないもんさ。人を傷つけた者は傷つけられる。パワハラ上司がどういう死に方をするかは神様にまかせときな。人間というのは判断を誤る。その上司だって本意じゃなかったもしれない。上から命じられてやむを得ず君に嫌がらせをした───そういう稀なケースもないとは限らないよね」
「また僕の話に引き戻そうとしてるな。人を傷つけた者は傷つけられる? なんでそんなことが言えるんだ。非科学的だろう」
「それが法だからだよ。君だってそうなんだぞ。法は全員に等しく働く。永久に変わることのない定理だ」
「はあ?」
「不安そうな顔すんな。何かやましいことでもあるのか。そんなふうには見えないけどな。心配ご無用、死んでから自分の借金がどれぐらいあるか知らされるよ。そして、自ら進んで帳尻合わせのために再びこの世に生まれて、借金返済しようとする。それだけのことだから。あのね、歪みを正したくなるのは魂の性なんだよ」
アイツは思案顔、理解に苦しむ表情だ。僕の答えに迷いがなかったことが意外だったようだ。しばらくして不承不承うなずく。
「まあ、それもこれまで生きてきた経験則から推し量れば、全く的外れとも言えんな。僕のことはもういい、それよりも大事なのはお前のことだ。いつまで小説という鎖に繋がれたままでいるつもりだ」
得意のザッピングが出た。せっかくチャンネルを変えたのに元に戻されちまった。
アイツが続ける。
「あえて強く言わせてもらえば、お前は現実から顔を背けて生きている。それなりの原稿料をもらえた昭和じゃないんだ。出版不況ただ中のこの令和に、原稿一枚書いていくらもらえると思っているんだ。どうせ雀の涙だろう。ただでさえ抵抗なくまとまった分量の活字を読める人は限られていくというのに、小説って今どれぐらいの人が読んでるんだ? 風前の灯火じゃないのかい? 一歩あやまると、これまでの日常がいっぺんに断たれてしまうぞ。小説家なんかになろうとするな。あんな世界に近づけばロクなことはないぞ。強要はしたくないが、見て見ぬフリはできないんだよ。ところで、お前、結婚してるのか」
おや? またしてもザッピング。チャンネルを変える頻度が多すぎない? それまで話してたことはどうなるんだ、蒸発してしまうのか。それとも後からつながるの?
そんなにたびたび遮断機を下してもらってもねぇ、混乱するじゃないか。君は開かずの踏切なのか。
「なんだ急に。♪かもね、かもね、恋かもね───そんな感じならあるよ」
赤井君は脊髄反射的に箱村の奥さんのことを思い描く。
「古いな、シブがき隊の懐メロか。若い男だったら女に恋することは誰にもある。僕が言ってるのは結婚だよ、結婚」
「まだ若いし、それにこんな文無し風来坊が結婚できるわけないじゃないか」
「やっぱそうか。男女ってのは“逃げれば追う、追えば逃げる”の関係だからな。お前は逃げもしなけりゃ追いもしないタイプだもんな。ちとラブゲームからは縁遠い性格か」
「“逃げれば追う、追えば逃げる”っての、獣の話だろう」
「人間も獣のなかの一種類じゃないか、同じだろ?」
その言葉に久方ぶりにカナちゃんのことが思い浮び、妙に納得させられてしまう。
「そうか、言われてみれば」と赤井君。
───カナちゃん、いい女だったなぁ。コイツの言う通りだ。あん時、しつこくしなきゃよかったよ。
箱村の奥さんやらカナちゃんやら、彼は気移りに忙しい。
「そうだろう、メスの取り合いをするのだって人も畜生も変わりないだろう。下半身に関して言えば人間も動物もいっしょだよ」とアイツ。
〈赤井君、なにを考えているのか。カナちゃんなんて束の間すれ違ったロープウェイでしかないではないか。向こうはとっくに君のことなど忘れている。君はまだ子供だ。色恋沙汰のイロハが十分理解できていない。いいかげん風俗に行くのも卒業したまえ。そこで逢う人逢う人、次から次へとのぼせていたら、君の指にはちょん切れた赤い糸ばかり巻かれることになるぞ〉
え? 誰? 正体不明の呟きが聞こえてきた。やんなっちゃうな、またあのお邪魔虫が出てきた。
むろんアイツはそんなことなど気づかない。構わず話し続ける。
「いやね、なんで結婚のことを言い出したかというと、お前みたいなタイプは意外と超気の強い女とくっつくんだ。だからさ、一応訊いてみたんだよ。そうか、まだ鍵穴に合うキーが見つからないわけだな。よかった、よかった。不幸中の幸いだ。もし小説にのめり込んでる今の状態で結婚でもしようものなら、それこそこの世の地獄になりかねないからな」
「そういう自分こそ、結婚のこと考えてないの? 低空飛行とはいえ安定した職についてるのに」
「そのうえ僕は男前だから、引く手数多だろうと‥‥」
「どこがぁ」
「まあ冗談はともかくとして、僕は面食いだから見かけだけ美しい毒キノコにたぶらかされそうだもんね。騙されて骨までしゃぶられるのは御免だよ。毒キノコに中らないためにはキノコを食べないことだ。幸運にして美人でしかも気立てのいい女と結婚できたとしても、それはそれで心配と気苦労がついてくるときたもんだ。まあ当面、“女には近づかない、近づけない”でいくつもりだ」
「そんな悠長なこと言ってると、生涯結婚できないぞ」
「ふっ、自分を棚に上げて。最近、蛙化現象って言葉よく聞くよな」
「うん、よく聞く。よく聞くけど、それってどんな意味だったかな。何度も聞くけど、うわの空だからすぐ忘れちゃうんだ」
「僕も詳しくは知らんけど、要はアレだ、好きな相手から好意を示されると手の平返しで嫌いになっちゃうという女の心理のことなんだとよ。“私なんかそんなに幸せになっちゃいけない”なんて思うんだとさ。幸せ恐怖症だな。幸せ恐怖症は無意識に生じて自覚がないから始末が悪い。何故か分からないが自然にそういう気持ちが沸き起こるんだ。こういうのは昔からいるが、今ほどは多くなかった。ワケわかんないよ。いかれてるよな。一種のマゾヒスト的心理から派生したものとちゃうかね。そげな理解に苦しむ女たちが巷にうようよしてるとしたら、それこそ恐ろしい話だと思わんか。そげな女と知らずに結婚することになったらと思うと暗澹たる気持ちになるよ」
「マゾヒスト? それってSMだよね。いわゆる“あなた、ご飯にします? お風呂にします? それとも‥‥‥縄とローソクにします?”ってやつだよな」
「え? 何のことだ。それのどこが“いわゆる”なんだ」
「これ、知らないのか、御免。じゃ、いい、いい。もうスルーしてくれ」
───2チャンネルのAI大喜利ネタだよ。ピンとこないなんてコイツは世間のことはなんにも知らないんだな。天狗になって物知り顔で話しているが、しょせん堅物だ。僕の方がずっと大人だな。風俗に通いつめるのも無駄じゃなかったよ───
妙な優越感をもつ赤井君。ちょっと前まで君だって何にも知らなかったじゃないか。SM店で大恥をかいたのは誰だ。そんなの病人の病気自慢や、飲んだくれの酒量自慢と同じだろう。トホホ、いったい何のマウンティングをしてるのやら。まったく気が知れない。
「うん分かった。お前は危険な女についてよく知らないんだな。なら、役に立つ生きた知識のない、本好きの世間知らずのお前にレクチャーしてやろう」
「世間知らずはどっちだ」
「ん? いま何て言った?」
「いや、ただの独り言」
「いま言った幸せ恐怖症の女は、一見奥ゆかしくて自己犠牲的精神に富んだ女に思える。だかぜんぜん違うんだ。蛙化現象ど真ん中の女と間違って結婚して、一緒に暮らすようになってみろ。途端に豹変する。豹変するのは本人の責任のようであって本人の責任でない。なんせ無意識がそうさせるんだからな。自覚があってなきがごとしだ。自動的に魔性の女や鬼ババに変身しちまうんだ。人の心理ってのはバランスをとるんだろうな。きっつ〜い反動があるぞ。痛い目に遭うこと請け合いだ。もちろん男の側にも常軌を逸したサディストがいる。男の性欲は異常性を帯びれば、それは恐ろしいからな。それに比べりゃずっとマシだが、だいたいにおいて男は女よりストレートで単純だ。大半が頭空っぽの性欲マシーンに過ぎない。けど女は複雑怪奇だよ。色々なのがいる。男の脳ミソでは到底理解不能だ。決して見抜けない」
「そんな女の人なんて、増えたとはいえまだごく一部でしょ」
「なら、いいけどな。男が人生でつまずくのは、金と女だ。僕はエリートじゃないけど、女で破滅したエリートはいっぱいいるだろう。毒虫女にとってエリートは旨みがあるからな。女ってぇのはアレだよ、アレだ、持ち家だよ。やっとローンが済んだと思ったら、今度は修繕費ってな。生涯、不良債権をかかえ込むようなもんだよ。いいのは最初の頃だけで、あとは死ぬまでガミガミ叱られっぱなしだ。まあそれも人によるだろうが、欲深くなくて心優しい女はアッという間に売れちまって、もう残っちゃいない」
「女に随分と失礼な言い方するんだな。失恋でもして女に恨みでもあるのかい💔」
「ほな、アホな。失恋なんかしてねぇよ。仕事に忙殺され、ほんでもって悩みだらけで、そんな暇はなかったよ。まあ悟ってしまえば、結婚なんてのは血の繋がっていない者を愛せるようになるための修行に思えてくるんだろうな。自分しか愛せないエゴイストの修練場だ。神様が強烈なエゴのぶつかり合いである結婚生活というリングを提供するわけだよ。僕みたいに魂の過酷なトレーニングをしなくても学べる人間は、あえて結婚を必要としない」
「我田引水、言いたい放題だな」
「お前サン、もしかしたら生涯、独り者かもな。どうもそんな気がしてきた。でもいいや。結婚式を何度もあげる浮気者だって葬式は一度きりだ。生死を明らむることの重さにくらべれば、結婚するしないなんて軽い軽い、どうだっていいことだ」
コイツも箱村と同じことを言い出した。どうして僕の将来まで決め打ちできるんだ。君は箱村のミニチュア版か。
「ま、それはそれとしてだ。お前、小説家になるなどと、いつまで自分探しの旅をしてるんだ。かてて加えて、あのつまらん大学にも何年いるつもりなんだ。あの無名三流大学がそんなに価値があるとも思えんだろう。もっと真剣に将来のことを考えろ、このモラトリアム人間が」
なんだ。せっかく離れたと思ったら、また小説の話に戻ってきやがった。
「余計なお世話だよ。多少先行きが仄暗いが、そんなの何とかなる、何とかなるって。いまの結婚の話だってそうだ」
「恐れ入ったな。たいした楽観バイアスだ。お前がお気楽な自分探しをしている間、僕はすでに額に汗して働いてたんだぞ。もう働き出してどれぐらい経つかな。四、五年は経つな。短い間だったけどいろんなことがあったよ。きっとお前が夢追い人でいられるのはまだ将来のレールが敷かれてないからだろう。僕みたいに敷かれてしまえば、もう夢なんか追わなくなるよ。そこで、レールを敷かれた立場から夢追い人のお前サンに忠告だ」
「なんだい、それって」
「“自分が将来どうなりたいか”じゃなくて“将来どうなりたくないか”を目標にしてみたらどうだろうか。“将来これだけはしたくない”とか“それをせずに済ますにはどうするか”とかお前にもあるだろう。これからはそれを目標にしてみたらいいんじゃないかな。それを避けるためにこれからどういう手段を講じ、どういう努力をしていけばいいのか、ということだよ。これだって口で言うのは容易いが、実際にしてみると大変だよ。長い時間を要するかもしれない。つまり足し算でなくて引き算で考えるって言うかね。お前見てると危なっかしいんだよ。小説家は小説家でいい。だけど今はその時じゃない。それはいったんどっかに置いといて、今は別の選択肢も視野に入れてもいいんじゃないかな。笹を食べて寝てるだけで、働かずとも生きていけるパンダじゃないんだからね。まずは足場をかためろ。小説がなんぼのもんじゃい。やたら“小説さま、小説さま”とかしこまるな。膝をくずせ。そんなの、何が何でも今やりぬかねばならないもんじゃないだろうが。肩の力をぬこうぜ」
またしても出ました、パンダか~~い🐼! パンダは竹藪のどこに隠れて、いつ現れるか分からないもんだ。さすがだよ、裏側から考えるのか。切れ味がいいじゃないか。当り前のことなのだが、みんな意外に気づかない。コロンブスの卵だな。
赤井君はナルホドと膝を打つ。
「なるほど一理ある。竹藪から出てきました、パンダか~~い🐼!」
「なに? パンダ?」
「あ、スマン。また心の内が口に出た」
「出てきたのがパンダでなくて熊だったら?」
急に思わせぶりな質問をしてくる奴だ。
「パンダも熊も同類だろう、白いか黒いかだけの違いで。その質問、なにか意味あるの?」
「意味はない」
アイツは澄まし顔である。
───意味ないって? これって、単にからかわれているだけじゃないのか? なんだかコイツにクレーンに吊り下げられて、もて遊ばれているような気がする。
癪にさわった赤井君が、
「小説はどっかに置いとくっていうけど、いつまで置いとくんだい?」と皮肉れば、
「さあね、意外と長い時間かかることもあるからな。まあ、お前のチョビ髭に白いものが混じる頃には片が付くだろうがね」
涼しい顔をしている。やっぱしコイツ、からかってるな。
「そこまで待つのか」
「そうだよ、日本人の平均寿命はのびてるからな。小説を書きたけりゃ、人生終盤で消化試合でもすりゃいいんだ。セルフレジに頭が混乱する爺さんだって文字ぐらいは書けるさ。“急いては事を仕損ずる”というだろう」
うそぶくアイツ。味も素っ気もない態度だ。爺さんになったら、もうとっくに仕損じた後だろう。笑止千万、それで言い含められると思ったら大間違いだ。この野暮天がぁ!
「はぁ〜」
「溜息をつくな。だからぁ、年代物のトースターでもちゃんとパンは焼けるってことだ。高級ワインは───な、あえて高級ワインって持ち上げてやるよ、熟成する時間が必要だろう。大丈夫だよ。長びいても後から利息や手数料は取られないから」
そんな悠長な。そこまで待つなんて目眩がしてきそうだ。轆轤でクルクル回される陶芸品にでもなった気分だ。コイツの言うことも結論は箱村とまったく同じ。
「老いてから、自分をどこかに置き忘れていないかと後ろを振り向きたくないんだよ」と赤井君。
「ほ~ら、ほら、また小説家っぽい表現をする。柄じゃないぞ。いいか、元気を出せ、しょげた顔すんな。少しは政治家みたいに狡くなれ、面倒なことは先送りすりゃいいんだよ。暮れそうで暮れない夕暮れもいつかは暮れる。明けそうで明けない長い夜もいつかは明ける、ってな。理想的な人生ってのはな、自分を苦しめるものより一歩先を行く賢明な生き方をし続けていたら、知らないうちに歳くっちまってた───そんな感じの人生のことを言うのよ。さあ、これからだ。円熟きわまり、不死鳥のごとく復活だ」
なにが不死鳥だ、九官鳥みたいな顔しやがって。
「ほんで何が言いたいの?」
「またそのセリフか。頭わるいなぁ、小説は今お前を苦しめてるだろう。要するに“待て”ということだよ。大相撲だって、アレだ、優勝決定戦が千秋楽まで持ち越されることが多いじゃないか」
「はあ? 僕は“はっきよい、のこった”ってわけなの?」
「そうだ、試しに“どすこい”と四股ふんでみな」
「もう制限時間いっぱい、“待ったなし”なんだって!」
「その前に相撲取りならもっと太れ」
「‥‥‥‥」
思わず絶句してしまった。赤井君は呆れて目をしばたたく。コイツ、なにスカタン言っている。
「そうだろ? 小説家なんざお前には荷が重すぎるよ。力士がひょんなことから優勝したとしても、胴上げしようとすんな。押しつぶされちまうぜ」
「ねえ、ちょっとこの会話、不毛なんじゃない? それに僕、力士じゃないし」
「不満なのか。じゃ精一杯、譲歩してやろう。小説を書くのは、せめて生涯食べていけそうなちゃんとした職業についてからにしろ。わざわざ人生に陰翳に富む文章を書きこむ必要はない。堅実でありさえすれば、僕みたいに平板で穴埋め的な職業でもいいじゃないか。靴紐を結ぶのは軍手を脱いでからにしな。まずは生活の足場を固めてからだ」
アイツは有無を言わせぬ姿勢だ。
「手袋なのに足場なのか。手なの? 足なの?」
ちょっとスネてやった。
「それがどうした、アホくさ。ほら、またそういうふうに詰まらない点をほじくって逃げようとする。なにボケかましてんだ、すっとぼけるなよ。自分の将来がかかっているのに、ちっとは真剣になれんのか」
───さぁ〜て、と。コイツにしても箱村にしても花菱にしても、みんな同じような忠告をする。これが世間一般の見方というものか。やはりズレているの僕だけなんだろうか。いやそんなことはないだろう、彼女はちゃんと背中を押してくれてるじゃないか。だいたいコイツら、なんで「やめろ」に一点張りすんだ。小説を書くと不幸になると決めつけている。この世は数学の世界とは違うんだ。正答が一つとは限らんだろう。
将来を心配してもらっているのにもかかわらずそれを取り違え、我儘にも周囲から石を投げつけられている気になる赤井君である。
「あのな、こんなの小学生でもわかる道理だろう。いいか、人生は水加減が肝心なんだ。大事なのは緩急をつけて、肩ひじ張らず、ちょうどいい按配でいくことだ。そしてグツグツ時間をかけて炊く。ふっくらご飯を食べたけりゃ、そうしろ。気長にいけ」
「───電気釜あけてガックリ生煮えだ」
「なんだそれ、ボケの次はサラリーマン川柳か。下手っぴだな、それでよく小説家になれると思えたもんだ」
「わが人生、生煮えで終わるんじゃ嫌なんだ。この情熱で炊き上げてみせる!」
「そうカリカリ熱くなりなさんな。ギリシャ神話に有名な話があるだろう。ケンタウルス座のイカロスは太陽に近づきすぎて、翼を燃やして死んじまったって言うじゃないか。なあ、熱くなるなって。夢はどこまでいっても夢のままでいいんだよ。霞ゆく夢のままで」
「何でここでイカロスなんて突拍子もない話がでてくるんだ。とにかく不完全燃焼のままじゃ終われない!」
「ガキみたいに熱くなるのは結構だが、その情熱の炎、終いには大火事になるぞ。小火のうちにさっさと消しちまえ。そう意地を張るな。晩ご飯の献立に悩む主婦じゃないんだ、さっさと踏ん切りつけろ。人生をなめちゃいけない。幸福は持続しないが、不幸は一度かけ違うと死ぬまで持続するんだ。ア~ぁ、こんなことも分からんなんて、もう面倒見きれんばい」
それにしても、みんなどうして僕なんかのことをこう親身になって考えてくれるのだろう。まるで自分自身のことであるかのように。
そこにお邪魔虫、ふたたび。
〈そりゃ、実際に自分のことだからだよ〉
「どうした?」
「いや、ちょっと天の声が聞こえてきたもんだから。幻聴かなにかだよ、気にするほどのもんじゃない。毎度のことだ」
「毎度幻聴が聞こえるって大丈夫なのか。下らん小説なんかにのめり込むもんだからイカれてきてんじゃないのか。そのうちどっかの教祖みたいに神のお告げが聞こえたって言い出すんじゃないだろな」
「いや神とは違う。神様ってのはね、行いはもちろんのこと、心のなかまで映し出す監視カメラのことなんだ。その監視カメラを擬人化したのが神様ってこと」
〈赤井君、何でそこに絡むんだ。訳知り顔で神様の話か。ズレまくりじゃないか〉
「あん? お前ほんとにちょっとイカれてきてないのか? 言ってることが常人離れしてるぞ。そんなの神様じゃなくて、自撮り棒を伸ばせるだけ伸ばして自分を撮影してるだけのことだろう」
〈何でコイツまで神様の話になるんだ〉
「なあ、ふざけた神学論争は置いといて、どうして僕なんかのことをそう親身になって考えてくれるんだ」
「窮鳥入懐って四字熟語、知ってるか?」
突然アイツが変化球を投げてきた。チェンジアップ「知ってるか」攻撃だ。趣向を変えたな。
「いや、初めて聞く」
赤井君はあっさりと空振りだ。
「あまりメジャーじゃないけど、この言葉好きなんだ。窮地に陥るであろう鳥が懐に入ってきたら見捨てずに救え、ってことだよ。人の道だ。当然のことじゃないか」
「鳥って僕のことなの? さっき僕は鳥じゃないと言ってた気がするが」
知ってか知らずか、あえて重箱の隅を楊枝でほじくる赤井君である。
「あったり前じゃないか、他に誰がいる。脳ミソに雑草がはえ出したんじゃないのか。除草剤まいて、いったん全部枯らしちまえ」
「雑草って? それ───」
「そうだ、小説にまつわる偏執的なお前の思いだよ。ぜんぶリセットしちまえということだ。メンタルヘルス上な」
「除草剤は自然にあまりよろしくない」
「おい、そっちに行っちゃうのか。除草剤をなめちゃいけない。除草剤だって過激派の手にかかれば爆弾の原料になるんだ」
「なるわけないじゃんか」
「バカ、かの有名な『腹腹時計』を知らんわけでもあるまい、常識だぞ」
「で、君、何をいいたいの?」
と、赤井君は毎度おなじみのフェイントをかける。
「あれ? 何だったかな。そもそも何で除草剤の話をしてるんだ?」
フェイント成功!
「ともかく除草剤なんかじゃ駄目だ。一度はとことん掘り返して根絶やしにしなきゃ、また生えてくるよ。だから今、汗をたらしながら掘り返しているんじゃないか。ホントにプロの小説家に手の届かない人間なのかどうかを確かめるためにね。♪線路は続くよ、どこまでも~、だ。僕はもうワンウェイ・チケットを買ってしまったんだ。払い戻しなんてできない」
粘る赤井君、歌い出してしまった。
「なんだ、音痴のくせに歌うな。なに分かんないこと言って力んでるんだ。ただ気まぐれで書いてるだけじゃないか、大げさに言うな。ぜんぜん説得力ないし、面白くもないぞ。なあ、お前ってスタートダッシュ派じゃないよな。どちらかといえばラストスパート派だ。いや、最初から最後までチンタラいく派かな? まあ、そんなことはどうでもいいや。とにもかくにも時間は全てを変えてしまうんだ。“変わるものは変わるし、変わらないものは変わらない”じゃないんだ。ぜんぶ変わってしまうんだ。諸行無常だよ。今はお前、“小説、小説”と熱に浮かされているが、若い頃ぐつぐつ煮立っている情熱も、老いていくにつれて、ぬるま湯になり、水になり、やがて死と共に蒸発してしまうんだ。だけど失うことによって得るものはたくさんあるんだぞ。失った時の本人の思いや辛さとは裏腹に、そこには神様の贈り物が隠されている。小説を失ったって大丈夫だ」
なあんだ、結局僕に小説をやめさせようとうまく誘導しようとしてるのがバレバレだぞ。“大丈夫”だって? やんわりとノーを突きつけているだけだろう。どいつもこいつも邪魔しやがって。なんで目の前の道が急に消えてしまうようなことを言うんだ。みんな保身に汲々する爺のメンタリティーなのか。
「とりあえず今、書きたいことがあるんだ。今この時しかないんだよ、今でなきゃダメなんだ。今この身が空っぽになるまで書き尽くしたいんだ。この若さにして早々と人生の負け犬が決まりかけている者にとって、希望があるとすればそれは小説しかないんだ。どうせ僕は天涯孤独で失うものがない。たとえ小説で野垂れ死んだとしても誰も悲しむ者なんかいないよ」
「捨て鉢になるな。冷たいぞ。僕もいる、それにノッポの変なオッサンだっているじゃないか。世の中の温かい面にも少しは目を向けろや」
「ゴメン、今のは言い過ぎた」
「だから気持ちは分からんこともないと言ってるだろう。けどこの日本では、その今が人生で一番大切な時期だってことを忘れるな。噛み砕いた飴玉はもう二度と戻らないんだ。いくら金を積んでも過ぎ去った時間は買い戻せないぞ。ここでボタンを掛け違えると大変なんだ。そう教えてやりたいわけよ。差し出がましい言い方だが、いま書きたいことっていうのも、長い期間ねかせれば渋みが抜けてもっといい感じになるんとちゃう?」
「いつもスープの冷めない距離にいた君が、この度は何でそんなにしつこいんだ。小説をいま書くか書かないかなんてこと、長い人生からみれば些細なことじゃないか」
「些細なことじゃない! もし地球の位置が今よりほんの少しずれていたとしたらどうなってたと思う? おそらく人類はここに存在していない。これはお前にとってそれほどの死活問題なんだ。 『今度こそ少しは売れる本を書かなきゃ』といつも逼迫感にさらされている───そんな厳しい業界でお前が耐えていけるとはとても思えない。いつも角番にいて怯えている相撲取りだ」
やれやれ、どうしても僕を力士にしたいらしい。
「文学や芸術の衣装をまとってはいるが、あんなの詰まるところ人気商売だよ。数字がすべての世界だ。いま原稿用紙にインクを垂らせば、その黒が滲んでやがて闇となり、お前は生涯その影を曳くこととなるんだ。ずっと難しい顔をしたまま一生を送りたくないだろう。僕はお前の笑顔を見ていたい。だからしつこいんだよ。マスコミがたれ流す虚飾の刷り込みで、ことさら小説にこだわる姿は哀れだ。いま自分が落とし穴におちている自覚があるのか? 穴に落ちた際、やらなければならないことは何だ。穴から這い上がることだろう。なのにお前はさらに深く穴を掘ろうとしている」
コンプレックスのある人は、お節介屋になりやすい。あれやこれや人に有難迷惑をほどこすことで劣等感を一時的に癒す。献血するときだけ自分がいい人になった気がする心理と同じだ。箱村も花菱もコイツも馬鹿の一つ覚えで「やめろ、やめろ」と、君らはコンプレックス人間なのか。
みんな、同情から焚き火をおこしてくれるのは分かる。おかげで十分あったかいよ。けど炎が風に乗ってこの身に降りかかってくるんだ。度を越しているんだよ。小説を書くことを応援してくれるのは彼女だけだ。やっぱし味方は彼女だけだな。
───と、都合よく箱村の奥さんを味方に引き入れてしまう赤井君である。スケベ心、丸出しだ。また夜な夜な善からぬこと妄想するのであろう。相手は人妻だ。妄想とはいえ人の道に反している。
さらに赤井君は考えを巡らせる。
‥‥‥しかし立ち止まって冷静に考えてみよう。たとえば僕に子供がいたとする。その子が学生になり、自分は小説家になると突然言ってきた。その時お前はどうするか。
仮定の話だとなかなか想像しづらいが、おそらく“やめとけ”と言うだろう。どうしてか。小説家になるという重荷を背負えるのは本人だけだからだ。親である僕には何もできない。子供の重荷を、そのとき小説家とは全く無縁となっている僕が代わって背負ってやるわけにはいかんだろう。なるほどそういうことか。やはりずれているの僕だけだったのかもしれない。
すかさずそこにお邪魔虫が出てくる。
〈赤井君、その通りだ。彼女と箱村やコイツとの違いはこうだ。例えばこんなことを考えてみたまえ。君は会社員で、あるプロジェクトに際して独断専行で動き、会社に損失をもたらした。上司は「俺の顔に泥を塗りやがって!」と烈火のごとく君を罵倒する。同僚のA君は「自分がよく監督していなかったのを棚に上げて、あんなに怒り狂うなんてひどい。ろくに指導助言もしなかったくせに、あのパワハラは何だろうね」と慰めてくれた。
かたやB君は「君は僕の忠告を素直に聞かなかったろう。そういうとこ、きちんと反省しろ!」と苦言を呈しながらも、自ら進んで迷惑をかけた関係各所にいっしょに謝りに回ってくれた。
どちらも君にとっては優しい同僚だが、どちらか一方を選べと言われたなら、間違ってもA君を選んではならない。A君は言葉でこそ癒してくれたが、具体的に行動してくれたわけではない。もしかすると君に好かれたくてそう言っただけなのかもしれない。ところがB君は君に嫌われてもかまわないと、あえて君のために苦言を呈している。いわばこれは子供を叱る親の気持ちに近い。いつもA君のような人を優先する人間関係を築いていくと、ついには真に君のことを思ってくれる人が周りに一人もいなくなってしまうかもしれない。
もう分かるだろうが、A君というのが彼女でB君というのが箱村やコイツだ。もちろん彼女が君に好かれたくて小説への道を後押ししてるとまでは言わないけどもね。
赤井君、人はみんな出来損ないだ。人の力なんて高が知れてる。この世では愛する人を救おうとどんなに必死に行動しても、どうにもならないことが多いんだ。君のお母さんが亡くなった時もそうだったろう。箱村やコイツはそのこと知っているんだよ。だから全力を尽くして君を押しとどめようとするんだ。君と同じように彼らも重荷を背負って生きている〉
アイツは言う。
「どうせ小説家への熱はすぐ冷めると思うが、そういうふうにムキになって人の忠告をしりぞけるのはお前の悪い癖だ。対立を避けて人生を楽に生きるのと、自分の正しさを証明しようと躍起になって無益な衝突を招くのと、どっちが得かよくよく考えなきゃな」
「ふう、ご教示しかと承りましたwww」
「ちゃんと素直にきけるじゃないか。小説家なんぞになろうとするな。夢は叶わないから夢なんだぞ。夢は夢だけにしとけ。いずれは霞ゆく夢だ」
まったく。アイツとお邪魔虫と両方相手にしなければならないので疲れる。
「生きていくことが辛いときは間違った道を歩いている。お前、いま辛くて行き詰ってるだろう」
「まあね、以前ほどじゃないけど」
「生きるのが苦しい時は今と正反対が正しいんだ。いま自分が信じていることを根底から疑え。いまと真逆の道を歩むんだ。いやが応でもお前にそうさせたい。以上、最後っ屁だ」
「淡泊だった君が、えらく今日に限ってはねちっこいな。なんでさぁ?」
「僕はお前だからだよ」
え? どういうこと?
「ゴメン、これで失礼するよ。立て込んでて審査、午後に回されちゃってな。もう行かなきゃ。まったくどれだけ待たせりゃ気が済むんだ。人員ふやせよ、もっと人員を」
アイツが焦りだした。
「ちょっと待って」
「なんだ、最後っ屁と言っただろう、何度オナラをさせるつもりだ。臭くてたまらん」
「ちょっと訊きたいことがあるんだ。今さら恥ずかしいんだけど‥‥‥」
「いいから、なんだ。言ってみろ」
「君の名前、なんていうの?」
アイツがニヤリとする。
「それはこっちのセリフだよ、こっちもお前の名前、知らないんだ。不思議だな、結構仲が良かったはずだが、お互い知らないなんてなぁ。まずは尋ねる方から名乗れよ、礼儀だろう」
「みんな赤井って呼ぶ、小説のペンネームだよ」
「下の方は?」
「かさの。“赤井かさの”だ」
「妙に中性的な名前だな。変テコな名前だ、なんでそんなの付けた。それにしても赤井は赤井でも赤井英和とは似ても似つかないなあ」
「それって僕がイケメンすぎるからってこと?」
「お、そりゃまた微妙な発言だ。最近鏡で自分の顔を見たことあるのか。きっと鏡の中には別人のお前がいるぞ」
そう言うと、アイツはせせら笑った。
「上祐は男前じゃないか」
「お前は崩れ上祐フェイスだ。上祐とお前の顔ねぇ、AIがいくら加工修整をほどこしても追いつきそうもないな。その顔、平べったすぎて裏表が分かんないぞ。だいたい身長が何センチある? 色男にはチョー程遠いぜ。上祐というよりはパンダとかナマケモノとか、あっち系だ。間の抜けた珍獣顔だよ」
ぶっきらぼうな言い方だ。そんな、人の容姿をケチョンケチョンに。無神経すぎるぞ。
「結局どういう顔なんだ。言ってることがさっぱり分からん」
「あのな、上祐は頭がいいだろう。けどお前は彼に比べりゃ、ずっとIQが低い。だからぁ、上祐のずっと先祖をたどっていって縄文時代に行くわけよ。上祐の縄文人版、それがお前の顔だよ。縄文人がどんな顔なのか、よくは知らんが」
なんだ、ますます分からん。さっき怒らした敵討ちか。リモコンの消音ボタンを押したくなる。
アイツは性懲りもなく続ける。片や赤井君はしかめっ面だ。
「要するにゆる~い顔、人間の顔というより珍獣の顔だ。タレパンダならぬタレ上祐だ。お前にとっての小説は上祐にとってのオウム真理教だな。後になって実態を知り、マインドコントロールが解けた際には、“なんてものを信じ込んでしまったのか”と愕然とすること請け合いだ」
耳をふさぎたくなる。どうして、そんないちいち感情を煮えたぎらせるような言葉を吐くんだ。僕は湯豆腐か。君の口からたれ流される、その排泄音を音姫でマスキングしてもらいたいぐらいだ。
「はあ?」
拍子はずれの僕の声がよほど面白かったんだろう、せせら笑いがコロコロ転がる大笑いに変わる。アイツの笑い風船がはじけた。こんなことの何がそんなに可笑しいのだろうか。相好を崩した顔はしわくちゃで、まるで紙屑だ。これが他人様の顔にアレコレ言える面かよ。
赤井君は餅を焼いたような膨れっ面である。頭の中の鉄芯が怒りの熱でグニャグニャと折れ曲がる。(`・・_´)怒プンスカ!!
赤井君、君だって彼女と会食してた時、花菱社長の頭を“ずる剥け”などと大笑いのネタにしていたではないか。因果応報だよ。
「なあ、そんな怒った顔すんな。肝っ玉の細さが透け透けだぞ。あのさ、お前が赤井英和と似ても似つかないと言ったのは、イケメンどうのこうのじゃなくて、男のくせに何となくナヨナヨとしてるからさ。何を勘違いしている」
コイツ、どうしてこんなに上から目線なんだ。鼻持ちならない奴だ。小馬鹿にされた鬱憤をそのしわくちゃ顔に包んで、丸めてゴミ箱に捨ててやりたくなる。
君だって笑ったら表情がシワに埋もれて、股の下にぶら下がる陰嚢みたいな顔になってるくせに。猥褻すぎてボカシを入れたいぐらいだ。生意気なその顔にアイアンクローしてやろか!‥‥‥おっと失礼、これはプロレスマニアでなければ分からない。
「浪速のロッキーと比べられてもねぇ。小説のペンネームをリングネームと一緒くたにされても困る」と赤井君。
するとアイツが、「それはそうと本名は? 尋ねてるのは本名のほうだぞ」
「うん、それが‥‥‥あの」
「なんだ、芸名なら出てくるのに、本名はスッと出てこないのか」
「名前なんて人を識別するための符号だろう。そこに言霊が宿っているわけでもあるまい」
「ここで何で屁理屈なんだ? ほんとに出てこないの? さっきからどうした。からかってるのか、イカれちまったのか。まさか栄養失調で認知機能が衰えてるんじゃないだろうな。お前、痩せすぎだぞ。栄養失調になるまで小説にはまっちまったのか。そりゃ重症だ。ぽこぽこ浮かんではすぐ消される───そんな運命のアブク小説にいちいち入れ込んでる場合じゃないぞ」
「●▼◇□だよ」
「なんだ忘れたわけじゃなかったのか、驚かせるなよ。それ、どこにでも転がっているような名前だな。期待して損した。だから言いたくなかったんだな」
「で、君は?」
「花菱だよ、花菱太郎だ。むかし花菱アチャコっていう漫才師がいたんだ、そのハナビシだよ。その字を書くんだ。そんなこと言ったってピンとこないか。悪い悪い、生まれるずっと前のことなんか分かんないよな」
衝撃波だ。心がブランコになって揺れる。ただならぬマグニチュードである。
───花菱?
その言葉に一瞬こわばる。女のむき出しの肩のように冷たく心が凍り、墓石に僕のデスマスクを埋め込んだ気がする。
───まさかあの花菱社長の?
目の奥に花菱の二文字が浮かび上がる。両足も錆びつき固まる。色を失い、そのまま総身が液状化でこの場に溶け落ちてしまいそうだ。
「どうした、お前はガガーリンか」
「ん? 何なの、それ」
「地球は青かった。顔が真っ青になったぞ。びちびちウンコが出そうなのか。ウンコしたさに金縛りってわけだな。ここで脱糞すんなよ、みっともない」
「またぁ、食堂で糞の話をする。やめてくんないかなぁ」
赤井君はそう咎めることで、努めて事も無げにふるまう。だが平静をよそおっても無駄な抵抗。さすがにここは墓場食堂だけあって、心の中は驚きで幽霊坂を転がり落ちていく気分だ。
───そう言えばさっきからずっと気になっていた答えはこれなのかも。本のページが擦れてできた指先の小さな傷、そんなちょっとした気がかり。その正体はこれだったのか。
風体も性格も雰囲気も似ていないが、どことなく共通するものを感じる。魂の型というか色というか、何かそういう不可視の関連を。強いてこじつければ、表面にはあらわれないが心の奥底に目立たず流れている優しさというか、そういったもの。
けど、たしか社長は子供ができなかったと言っていたはずだが。
とにかくあまりにも突然すぎる。地平線の向こう側に断崖があった。サン・テグジュペリではないが、肝心なことは目に見えない。目に見えない断崖に一気に落ちたような気がする。
現実には絶対あり得ない意外なことが、たったいま奇跡的に起こったとでもいうのか? さりとて名前が偶然一致しただけかもしれないだろう。トンチンカンな比喩で恐縮だが、スプーンの窪みに誰かの尻がはまって抜けなくなった擬きの、現実には起こり得ない話だ。そんな奇想天外なことがあろうはずがない。例のごとく狐や狸に化かされているだけのことだろうさ。
「もう行かなきゃ。これ以上、道草を食ってられない。せっかく午前中に順番とったんだ、抜かされて最後に回されたらたまらん。これ以上お前の人生に足を踏み入れたくないが、くれぐれも小説のことだけは考え直せよ。麻薬中毒者みたいに小説の沼にはまっていくのはよせ。小説は書くな、読むだけにしとけ。今日はちと老婆心が過ぎたが、お前がそれだけ大切だということを分かってくれ。最後に念押ししとく」
「あの、もうちょっとだけいいか。君のお父さん今どうしてる?」
「なんで?」
「いいからさぁ」
「オヤジのことは知らないんだ。名前も憶えてない。物心がついた頃にはお袋だけだったよ。お袋も何も話さないから、あえては訊かないよ。大切なお袋だ、そんなことで傷つけたくないからね。おっとギリギリだ。急ぐんで失礼するよ」
「もうちょっとだけ、スマン」
「な、なんだ。ま、いいか。叱られるだけのこった。どんなペナルティーがあろうと僕はこれ以上落ちようがないからな」
「ねえ、それって戸籍証明書なんか見りゃ分かるだろう」
「そりゃ区役所で書類とりゃ、名前や歳ぐらいは分かるだろうけどさ。それがお前に何の関係があんの?」
「県に採用されたとき、そんな感じの証明書がいったんじゃないの? 憶えてない?」
「そんなもんいったかな? ずっと前のことなんで忘れちゃったよ。書類の中身にも関心がないし。まったく記憶のないオヤジなんて、最初からいないも同然だよ。僕は常に前を向いているからな。過去の嫌な思い出とはおさらばだ。お前がとれば? だめなのか。委任状でもなけりゃ、本人や親族以外は請求できないのか。言っとくけど、お前の酔狂にゃ付き合うつもりはないよ。ここは古巣だからな。見知った元上司や同僚と出くわしたくないんだよ。仕事がたまってるんだ、用務は早く済ませたい。じゃ、また会おうな」
───これは何かのドッキリじゃないだろな。もうワケわかんねぇ。先の読めない筋書きだ。
戸惑う赤井君を尻目にアイツは慌ただしく去っていく。フットワークが軽い。まるでロビンフッドだ。そういえば箱村の話じゃ、社長は“ワシの若い頃は痩せてて、ロビンフッドみたいに俊敏だった”と言ってたそうだな。
気づけば食堂にいたはずの人達はほとんど消えている。昼休みはとうに過ぎているらしい。こっちが引き留めたのも悪いが、アイツだって勤務時間に入っても僕としばらく喋り続けていたたわけだ。さすが親方日の丸の公務員、結構ルーズじゃないか。
いったい花菱親子はいるのか、いないのか。ああでもないこうでもないと雑念の塵が心の底に降り積もっていく。考えるほどにますます謎めく。まことに精神衛生上よろしくない。頭ん中にも空気清浄機がいるな。
考えあぐねて終わりの見えない迷路をさまよううち、最後には思案にあまって赤井君は放心の態だ。中身の抜けた籾殻になってしまった。
〈赤井君、いくら考えても分からないときは、考えるのをやめて感じてみるといいんだよ〉
何度繰り返せども謎解きの縫い目はほころぶ。思考が空回りする。混乱する僕の意識に脚が生え、これまたフットワーク軽く地平線の彼方へ走り去る。走れども走れども何処までいっても地平線は近づかず、越えることはできない。
最後までお読み下さり、ありがとうございました。
霞ゆく夢の続きを(6)