トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~
プロローグ
――もしも「運命の出会い」というものが本当にあるのだとしたら、それは僕と彼女との出会いのことを言うのかもしれない。
僕と彼女は八つも年齢が離れているし、生まれ育った家柄も違う。それでも出会い、恋に落ちたのだ。
僕の名前は桐島貢。銀行マンの父と、元保育士の母との間に次男として生まれた。四歳年上の兄は飲食関係で働いていて、僕自身は大手総合商社・篠沢商事に勤めているごく一般的なサラリーマンだった。
一方、彼女の名前は篠沢絢乃さん。僕が勤める会社の大元・〈篠沢グループ〉の会長を父親に、元教師で篠沢家の現当主を母親に持つ(お父さまは婿養子だったらしい)大財閥のご令嬢で、出会った当時はまだ私立の女子校に通う高校二年生だった。
こんな一見何の接点もなさそうな僕たちが出会い、恋に落ちたのは、運命といわなければ一体何だったというのだろう? ちなみにこれだけは言っておくが、断じて逆玉を狙っていたわけではない。念のため。
――人間万事塞翁が馬。人生というのは、どう転ぶのかまったくもって予測がつかないものだ。僕自身も雲の上の人である彼女と出会い、恋愛関係にまでなるとは想像もしていなかった。あの夜までは――。
エピソード0:僕の過去
――その前に、僕の過去の話をしようと思う。過去に恋愛で負った、深い心の傷の話だ。
そのことがあって、僕は絢乃さんに出会うまでハッキリ言って女性不信に陥っていた。もう恋愛なんてまっぴらゴメンだと思っていたのだ。
今から二年くらい前になるだろうか。僕は一人の女性と交際していた。それを〝恋愛〟のカテゴリーに当てはめるかどうかは微妙なところだが。
彼女は僕の同期入社組で、一緒に総務課に配属された仲間のうちの一人だった。ちなみに同期のほとんどは二年目から三年目の途中で辞めてしまい、今も総務課に残っているのは久保圭人くらいのものだろう。……それはさておき。
僕は彼女に好意を持っていた。そして、彼女はそれに見合うくらい魅力的な女性だったので(絢乃さんに比べれば〝月とスッポン〟だが。ちなみに絢乃さんが月である)、そりゃあもう男にモテていた。そんな彼女から見れば、僕なんて不特定多数のうちの一人に過ぎなかっただろう。
「……なあ久保。俺にワンチャンあると思うか? 日比野と」
僕は同期の中でいちばん親しかった久保とよくそんな話をしていた。僕が好意を寄せていた相手は日比野美咲という名前だった。
「さぁ、どうだろうな。あいつにとっちゃ、男なんて誰でも一緒だろ。なんかさぁ、すでに彼氏がいるらしいってウワサもあるし」
「えっ、マジ!? 相手、この会社のヤツか?」
「いや、社外の人間。合コンで知り合ったらしくてさ、どっかの大会社の御曹司らしいって」
「えーーー……、マジかよぉ。それじゃ俺にチャンスなんかないじゃんか」
僕はそのことを聞いた時、とてつもない絶望感に襲われた。その当時で、もう大学時代から彼女いない歴四年を数えていたので、そろそろ次の春よ来い! な心境だったのだ。
「まぁまぁ、桐島。そんなに落ち込むなって。お前はまだいいよ。お父さん、銀行の支店長だろ? 確かメガバンクだっけ」
「あーうん、そうだけど。それがどうした」
「そこそこ裕福な家に育ってるじゃん? 自家用車で通勤してんだろ?」
「……ああ、まぁな。だから何だよ」
何だか意味の分からない質問ばかり重ねてくる同期に、僕はしびれを切らした。
まぁ、マイカー通勤をしていたのは間違いないのだが、学生時代にアルバイトをして貯めた自分の貯金で購入した軽自動車だった。
「だったらさぁ、日比野ちゃんにちょっとくらいは目ぇかけてもらえるんじゃねぇの? オンナは金があって、クルマ持ってる男に弱いっつうしさ」
「……あのなぁ、久保。さっきお前が言ったんだぞ。日比野は彼氏持ちらしい、って。それで、なんで俺にもワンチャンあることになるんだよ? もう振られる以前にさ、告る前から失恋確定してるじゃんか」
たったの一分ほどで言うことをコロッと変えた友人に、僕は呆れるしかなかった。コイツは僕が真剣に悩んでいるのに、他人事にしか思っていないんじゃないだろうか、と。
「いやいや、分かんねぇよ? 本命の彼氏は事情があって公にできねぇから、お前をカモフラージュにするって可能性もないわけじゃねぇだろ? んで、アイツのことが好きで、そろそろ彼女ほしいなーって思ってるお前は、どんな形であれアイツと付き合えるわけだ。これでウィンウィンじゃね?」
「〝ウィンウィン〟って、あのなぁ……」
あくまで都合のいい持論を(誰にかというと、久保自身というより僕に、なんだろうが)展開する彼に、僕は絶句しつつもついつい納得してしまうのだった。
確かに、僕はその頃本気で彼女がほしいと思っていた。学生時代の同級生が結婚ラッシュで、焦っていたせいもあるのかもしれない。そして、もしも彼女ができたらその相手は結婚相手になるんだろうと漠然と思ってもいた。だから、本当なら本命の相手がいる日比野美咲がその対象となることはなかったはずなのだが……。
男にはそういうところがあるのだ。たとえ相手に好かれていなかったとしても、一旦付き合い始めればこっちのもの、という気持ちが。それは当然のことながら、僕自身も例外ではなかった。とにかく、「彼女ができた」というちっぽけなプライドさえ満たせれば、相手がたとえ彼氏持ちだろうと僕には関係ない、という気持ちがあったということだ。
……今にして思えば、それは彼女にただからかわれていただけだったのだが。
「――ねぇねぇ、二人で何話してるのー?」
そこへ、ウワサをされていたご本人が乱入してきた。
篠沢商事に制服というものはなく、女性は基本的にオフィスカジュアルでも大丈夫なので、彼女は切込みの深いVネックのニットを着ていた。グラマーな彼女がかがむようにして僕たちの顔を覗き込んでいたので、僕は少々目のやり場に困った。
「……いや別に、野郎同士の話を少々。なっ、桐島?」
「ああ……、うん、まぁそんなところかな」
その時はすでに終業時間を過ぎ、いわゆる〝アフター5〟に入っていたのだが。
「ふーん? ――ね、桐島くん。この後時間ある?」
「……えっ? うん、何も予定ないし大丈夫だけど……」
何だか思わせぶりに、僕の予定を訊いてきた彼女。男なら期待しないわけがなかった。ましてや、その相手が意中の人ならば。
「よかった☆ じゃあ、ちょっとあたしに付き合ってくれない? 一緒にゴハン行こ。あたし奢るから」
「え…………。あー、うん。別にいいけど」
「あ、オレは遠慮しとくわ。お二人でどーぞ☆」
「……………………はぁっ!? ちょっと待て! 久保っ!?」
僕は困惑した。久保も交えて三人なら、僕も一緒に食事くらいは大丈夫だと思ったのだが。いきなり二人きりはハードルが高すぎる。
「ままま、キリちゃん。よかったじゃんよ、彼女の方から誘ってもらえて。お前から誘う勇気なんかなかったべ? これは降ってわいたチャンスだべ。行ってこい!」
そんな僕の肩をひっつかみ、久保が出身地である千葉の言い回しで囁いた。というか、「キリちゃん」なんて気持ち悪い呼び方するな! お前、そんな呼び方したことないだろ!
「お前だって、それでもいいって思ってたべ?」
「……………………あー、まぁ。そりゃあ……な」
なまじ図星だっただけに、否定できないところが悲しかった。
「ほら、行ってこい!」
彼に肩をポンポン叩かれ、僕は彼女との夕食に臨んだのだったが――。
「――で、なんで俺のこと誘ったんだよ?」
彼女と二人で焼肉をつつき合いながら(色気ないな……)、僕は首を傾げた。
「あのさぁ、桐島くん。あたしたち、付き合わない?」
「……………………は? 今なんて?」
「だからぁ、『付き合おう』って言ったんだよ。――あ、ここのハラミ美味しい♪」
「…………」
何の気なしに言い、無邪気に肉を頬張る彼女を僕は呆気に取られながら見据えた。
「だってお前、彼氏いるんじゃ……。どっかの会社の御曹司だっていう」
「うん、いるよ。でもさぁ、彼氏って何人いてもよくない? もしかしたら、その中で桐島くんが本命に昇格するかもしれないじゃん?」
「…………はぁ」
よくもまぁ、そんな小悪魔ちゃん発言をいけしゃあしゃあと。――今の僕ならそう言えたかもしれないが、その当時の僕には言えなかった。少し期待していたからだ。
「あたし、桐島くんとは相性めちゃめちゃいいと思うんだよね。桐島くんもあたしに気があるんでしょ? だったら、そっちにも損はないと思うな」
――という言葉にまんまと乗せられ、僕は日比野美咲の彼氏第2号となったわけだが、結局彼女は本命の男と結婚して会社も辞めてしまった。僕は彼女にあっさりと捨てられたのだ。
これが、僕のトラウマの全貌である。
僕に天使が舞い降りた日
1
――それ以来、僕は女性不信に陥り、結婚どころか恋愛そのものが怖くなった。のちに絢乃さんに言った、「もう何年も恋愛から遠ざかっている」というのは、日比野美咲とのことを僕自身の中で〝恋愛〟としてカウントしていないからだ。
それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。
でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。
* * * *
――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。
僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。
「――桐島君、ちょっといいかな」
「は……、はいっ!」
島谷課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。
この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。
それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常茶飯事。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。
その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。
「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」
「いえ……、特にこれといっては」
アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。
「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」
「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」
課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。
「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」
「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」
「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」
「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」
もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。
「ちょっと、たまには家族サービスをな」
「…………はぁ」
ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。
「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」
「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」
「……………………はい……」
僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。
「――お前、なんで断んなかったんだよ?」
自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。
「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」
「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」
「なんで? 彼女とデートか?」
久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。
「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」
「……もういい。お前には頼まねーよ」
この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。
* * * *
僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前咎めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。
そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。
「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」
乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。
「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」
さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
――それが、絢乃さんだった。
「誰だろう、あのコ。可愛い……」
僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。
――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
その様子が何だか微笑ましくなり、僕も丁寧なお辞儀を返したのだった。
2
僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちに遭ったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。
「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」
「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」
後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?
「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」
僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子さんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。
「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」
「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」
あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言い繕った。
「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」
「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」
「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜女子の二年生よ」
「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」
絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。
「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」
「しませんよ、そんなこと!」
僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!
「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」
「……………………」
それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。
「ところで、あなたお酒は飲まないの?」
彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。
「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」
「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」
「そうですが……」
僕がそう答えた次の瞬間、加奈子夫人はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「あら、ちょうどよかった。それじゃあ桐島くん、今日の帰り、絢乃をあなたのクルマで家まで送ってきてくれないかしら? あの子も若い男の人と接点がなかったから、あなたに送ってもらった方が嬉しいと思うのよ」
「え……。えっと」
元々断り下手な僕は、引き受けたとて自分に何のメリットもない島谷課長の雑用も断れずにいた。が、この頼まれごとは僕にもメリットがある。絢乃さんとお近づきになれるというメリットが。
「分りました。僕でよければお引き受けします」
「本当に? ありがとう。ただし、あの子のことお持ち帰りしちゃダメよ」
「ですから、しませんってば」
からかう加奈子夫人を、僕は必死に牽制した。僕たちの会話を絢乃さんに聞かれたらどうなることかとヒヤヒヤしていたのだ。……実は、少し離れたところからバッチリ見られていたらしいのだが。
「――ところで、絢乃さんは一体どなたを探していらっしゃったんでしょうか。ずいぶん焦っていらっしゃったみたいですが」
彼女の視線があちこちをさまよっていたように見えたので、僕は気になっていたのだ。
「ああ、きっと夫を探してるのね。あの人、パーティーの途中でフラッといなくなっちゃったから。あの人がこのごろ激痩せしてること、あなたも知ってるでしょ? だからあの子も心配してて」
「ええ、僕も存じていますし、社員のみんなも心配しております」
それはもちろんウソでもホラでもなく、事実だった。源一会長の痩せ方が文字どおりあまりにも病的だったので、昼休みの社員食堂ではその話題があちこちで飛び交っていたのだ。
「私は多分、あの人何かの病気なんじゃないかと思ってるんだけど。とにかく大の病院嫌いでね、どれだけ勧めても行きたがらないのよ。だからって、首にリードつけて引っぱって行くわけにもいかないじゃない? 犬じゃあるまいし」
「……確かに」
僕は思わず、大型犬になった源一会長が加奈子さんにリードで引っぱられて病院へ連れていかれるところを想像してしまった。これじゃまるで、お散歩をイヤがるワンコだ。
という話をしていると、加奈子さんがバーカウンターに目をやったところで「あ」と小さく呟いた。
「あの人、あんなところにいた。絢乃が先に見つけてたみたい。――じゃあ桐島くん、さっきのこと、よろしく頼んだわよ♪」
ご主人とお嬢さんのいるバーカウンターへ向かった加奈子さんを目で追うと、彼女は目的の場所に着くなり源一氏を叱りつけていた。なるほど、篠沢家はどうやら〝かかあ天下〟らしい。
「――あれー、桐島くん。どうしてあなたがここにいるの?」
後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くとそこに立っていたのはセミロングの髪にウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女性だった。
こういう席で、女性がビジネススーツ姿でいると目立つ。加奈子夫人でさえ、ドレッシーないで立ちをしていたというのに。
「小川先輩! お疲れさまです」
彼女は会長秘書を務めていた小川夏希さん。僕の二つ年上で、同じ大学の二年先輩だった。
なかなかの美女で面倒見もいいが、色気はあまりない。ノリが体育会系なせいだろうか。そして僕も、彼女を恋愛対象として意識したことはまったくない。
「あ、分かった。また島谷さんの嫌がらせでしょ! あの人にも困ったもんだよね」
「…………あー、はい」
またもや図星を衝かれ(今度は小川先輩にだ)、僕はコメカミをボリボリ掻いた。
「桐島くんもさぁ、イヤなら断ればいいのに。ホイホイ言いなりになってるから向こうもつけあがるんだよ」
「そりゃ、俺も分かってますけど。上司の頼みをむざむざ断れます? 会社でのポジションにも関わるかもしれないんですよ?」
「そんなの関係なくない? あの人みたいなイチ中間管理職に、人事に口出す権限ないでしょ。それは意思の弱い桐島くんが悪いよ。あたしなら絶対に断るね」
「そんな身もフタもない……」
バッサリと一刀両断され、僕はかなりヘコんだ。自分の意思の弱さは、僕自身がいちばん痛感させられているけども。思いっきり急所を衝いてこなくてもいいじゃないか!
「でもまぁ、引き受けちゃったもんはしょうがないよねー。今日は開き直ってパーティー楽しんじゃいなよ。タダで美味しいものいっぱい食べられるって思えばさ」
「……そういう先輩は食べる気満々ですよね」
歌うように言った先輩に僕は呆れた。彼女が持つプレートの上には、載せうる限りの料理がこれでもか! と盛られていたのだ。
「先輩、仕事はいいんですか? 会長の付き添いでここにいるんですよね?」
「いいのいいの☆ 『小川君も私のことはいいから、このパーティーを思う存分楽しみなさい』って会長がおっしゃったんだもん」
「へぇ、そうなんですか……」
「それにね、あれ見てたらさ。あたしの出る幕なさそうじゃない?」
先輩は篠沢家の親子水入らずの光景を、どこか切なそうに見つめていた。
3
「先輩……? もしかして、会長のことを」
「…………うん、好きだよ。でも不倫なんかじゃないから。あたしの一方通行だし、奥さまもご存じだから」
先輩が、ご主人である源一会長に片想いをしていることを、だろう。でも、源一氏はご家族のことをそれはもう大事にする方だったので、残念ながら先輩の想いが彼に伝わることはなかった。
「自分でも不毛な恋だって分かってる。けど別にいいでしょ、あたしが勝手に想ってる分には! 誰にも迷惑かけないし、かけたくないし」
「いや、別にいけないって言ってるわけじゃ……」
半ギレで返された僕はたじろいだ。どうして僕の周りには、こういう強い女性ばかりが寄ってくるんだろうか。ちなみに絢乃さんもそうだと分かるのはだいぶ先のことだが、それはさておき。
「っていうか、なんで桐島くんもあっち見つめてるわけ?」
「え……?」
実は絢乃さんのことを見つめていたのだと、先輩にバレてしまった。
「ははーん? さてはおぬし、絢乃さんに気があるな?」
「……………………」
〝おぬし〟って、アナタは一体いつの時代の人ですか? これは明らかにからかわれているのだと分かっていたので、あえて口に出してはツッコまなかったが。
「その顔は図星ね? まぁ、気持ちは分かんなくもないかな。絢乃さんって純粋だし。清らかっていうか、天使みたいな女の子だもん。あたしとか日比野さんとは大違い」
「先輩……、それ俺にとっては地雷ですから」
僕は小川先輩に釘を刺した。ちなみに、僕と日比野との一件は秘書室でもかなり有名だったらしい。
「分かってるってば。もう忘れなよ、あんなコのことなんか。気にするってことは、まだ引きずってるからなんじゃないの?」
「そ……、そんなことないですよ」
またもや地雷を踏まれた。否定はしたが、完全な否定になっていたかどうかは怪しい。
「まぁ、それはともかく。あたしも会長がいらっしゃる手前、大きな声では言えないんだけど。桐島くんと絢乃さん、けっこうお似合いなんじゃないかなーって思ってる」
「そうですかね? 俺と彼女じゃ八歳くらい年の差ありますよ? っていうか彼女まだ未成年じゃないですか」
A型という血液型ゆえか、周囲から「真面目だ」と認識されている僕はついつい気にしてしまうのだった。
実際、年の差カップルとか二十代の彼氏がいる十代の女の子なんて、世の中にごまんといるはずだ。だから僕と絢乃さんくらいの年の差なら特にあり得ないということもないはずなのだが。
「というか、選ぶのは俺じゃなくて絢乃さんですから」
「まぁ、そうなんだけどねー。期待くらいはしてもいいんじゃないの? 可能性がゼロじゃない以上は」
「…………俺、女性に期待するのはもうやめたんですよ。また裏切られるのはイヤなんで」
柄にもなく、先輩にまで食ってかかってしまったが、悲しいかなそれが本音だった。
それに、絢乃さんクラスの女性になら言い寄ってくる男も大勢いるだろう。それこそ僕みたいにごく平凡なサリーマンなんかじゃなく、青年実業家とか、どこかの御曹司とか。……とか考えていたら、その御曹司を選んで寿退社した誰かさんを思い出してムカムカした。
* * * *
――会場に異変が起きたのは、そのすぐ後のことだった。
源一会長が突然立ち上がれなくなり、絢乃さんと加奈子さんが必死に呼びかけている声が僕の耳にも届き、これは一大事だと察した。
会長がご病気かもしれないというウワサはすでに社内でも広まっていたが、それはかなり悪化していたらしい。どうしてこうなってしまう前に、誰も気づいて差し上げなかったのだろう。
本当は僕も駆け寄って絢乃さんに何かして差し上げたかったが、まだお互いに目礼を交わしただけの僕が出しゃばるのは差し出がましいと思い、遠慮した。
でも会長秘書の小川先輩なら、こういう時は真っ先に駆け寄って行くはずだ。そう思ったのだが、先輩はその場から動こうとしなかった。
「……先輩、行かなくていいんですか? 会長が――」
「分かってるよ。でも、……あたしが言ったところで何もできないし」
悲しそうに弁解する彼女を見て、僕も理解した。先輩もまた、あの親子に気を遣っているのだと。
加奈子夫人は彼女の気持ちをご存じかもしれないが、絢乃さんはどうか。高校生ということはまだ思春期で多感な時期だ。たとえ不倫関係ではなくても、自分の父親に叶わない恋心を抱いている女性がいるということを、彼女はどう捉えるのか。――それを先輩は気にしていたのだ。
そうこうしている間に加奈子さんが迎えの車を呼び、会長は加奈子さんと、会場に現れた運転手と思しきロマンスグレーの男性に体を支えられて会場から退出していった。
そのまま会場に残った絢乃さんは、困惑する招待客への対応に追われて大変そうだった。父親が倒れて、彼女自身も相当ショックを受けていたはずなのに、それでも気丈に対応していた彼女はものすごく健気だった。
――ところが、彼女もまたテーブル席へ戻る途中で軽い目眩を起こしてしまい、倒れかけた。やっぱり父親が倒れたショックは大きかったようだ。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
この時、僕の体は迅速に動いた。決して計算ずくなんかじゃなく、気がついたら勝手に動いていたのだ。彼女が倒れる寸前で、どうにか駆け寄って支えることができた。
僕と目が合った絢乃さんは、その刹那に自分を助けたのが、先刻目礼を交わした相手だと気がついたようだ。
彼女はお礼の一言と、「ちょっとクラッときただけだから大丈夫」と僕を安心させるように言った。
僕は彼女に少し休んだ方がいいと提案し、元いたというテーブル席へとお連れした。何か召し上がったか訊ねると、お父さまが倒れられる前にいっぱい食べた、という答え。
もしかしたらストレスによって、一時的な低血糖を起こしているかもしれない。もし違っていたとしても、甘いものを食べれば気持ちは落ち着かれるんじゃないだろうかと僕は考えた。……というか、僕もデザートがほしくなっただけなのだが。
というわけで、僕は絢乃さんのために(ついでに自分の分も)スイーツと飲み物をもらってくることにした。「申し訳ない」と言う彼女に気を遣わせないよう、「自分も食べたかっただけだから」と付け加えることも忘れずに言い、彼女を席に残して一人ビュッフェコーナーへ向かった。
「……あ、しまった。まだ絢乃さんに名乗ってなかったな」
二人分のデザートとドリンクを選ぶ間(彼女は「オレンジジュースがいい」と言っていた)、僕は独りごちた。僕の言動を、彼女に怪しまれただろうか? ……というか。
「俺がスイーツ男子だってこと、絢乃さんにバレたかもしんない」
大のオトナの男が甘いもの好きなんて、ダサいと思われたかもしれない。……と僕はひとりで勝手に落ち込んでいた。
とはいえ、落ち込んでいても始まらない。もしかしたら、かえって彼女に好印象を持たれたかもしれないじゃないか! と気持ちを切り替え、二枚のデザート皿に小ぶりにカットされたケーキを四種類ずつ取り分け、彼女のオレンジジュースと僕が飲むアイスコーヒーのグラスを皿と一緒に借りたトレーに載せて、僕は彼女の待つテーブル席へと戻ったのだった。
決意
1
――絢乃さんの元へ戻る途中、小川先輩に声をかけられた。
「桐島くん、あたしもう帰るね。あなたはどうするの?」
「俺、加奈子さんから頼まれたんですよ。絢乃さんをお宅まで送ってきてほしいって。なんで残ります。……絢乃さんもさっき目眩起こされたみたいで、ちょっと心配なんで」
「そっか。――で、そのトレーはそれと何の関係が?」
先輩から指摘された僕はハッとした。トレーに載った二人分のスイーツとドリンク、これをどう言い訳しよう?
「これは……、えーっと。絢乃さんに召し上がってもらおうかと思って。俺もついでにご相伴にあずかろうかなー、なんて。アハハ……」
「……………………ふーん。まぁいいんじゃない? 絢乃さんにダサいって思われなきゃいいけど」
「…………はい」
先輩は白けたような視線を僕に投げてよこした後、興味を失ったようにコメントした。彼女は昔から僕がスイーツ男子だということをよく知っているので、こうして僕のことをよくいじってくるのだ。僕ももう慣れた。
「とにかく、あたしは帰るわ。絢乃さんによろしく」
「はい。お疲れさまでした」
――そうしてテーブルまで戻ると、絢乃さんはスマホでメッセージアプリの画面を見ながら眉をひそめていた。お父さまの様子が心配で仕方なかったのだろう。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
ケーキの皿と飲み物のグラスをテーブルに置くと、僕はお礼を言って受け取った絢乃さんから名前を訊ねられた。どうやら彼女の方も、僕に名前を訊きそびれていたことを気にされていたようだ。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
僕はアイスコーヒーを一口飲むと、彼女に自己紹介をした。所属部署や、課長の代理だったことまで言う必要はあっただろうか? というのは頭をもたげるポイントだが。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
心優しい絢乃さんは、その「言う必要のなかった情報」から僕のことを気遣って下さった。
そんな彼女に、僕は事情を話した。他に引き受けてくれる人もいなかったので、課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかった、と。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
眉をひそめて問うてきた彼女に、僕はその事実をあっさりと肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
つい調子に乗って本音がポロッとこぼれてしまった僕は、絢乃さんから不思議そうな顔で見られて我に返った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
慌ててそこを強調すると、絢乃さんは「あなたがそんな人じゃないことは見ただけで分かる」と言って、声を出して笑ってくれた。「そんなに必死に否定しなくても」とも言われたが、自分ではそんなにムキになっていたつもりはなかったんだけどな……。
そして彼女は僕に、自分の名前を知っているのは加奈子さんから聞いたからかと訊ねた。僕がそのことを認め、彼女が高校二年生だということも聞いたと答えると、うんうんと頷いていた。どうやら、やっぱり彼女は僕がお母さまと話しているところを見かけていたらしい。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
疑問が解決したらしい絢乃さんは美味しそうにケーキを食べ始め、顔を綻ばせる彼女を見ていると、その可愛さに僕の心もほっこりした。
絢乃さんは感情表現が豊かな女性のようで、思っていることがすぐ表情にあらわれるところも可愛いなと思ったし、今でも思っている。
「本当ですねぇ」
僕もフォークが進み、そのまままったりとした空気が流れそうだった。が、絢乃さんにとってはお父さまが倒れられたすぐ後なのだ。心の癒やしにはなったかもしれないが、いつまでも二人で和んでいる場合じゃなかった。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
この穏やかな空気をブチ壊すのは申し訳ないと思いつつも、僕は現実的な問題を口にした。何より、絢乃さんご自身が気になっていることだと思ったからだ。
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにメッセージ送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
彼女は心配そうに眉尻を下げ、そう答えた。ケーキの甘さにも、彼女の心配を取り除く効果まではなかったようだ。
そして、テーブルに戻った時に彼女がメッセージアプリの画面を見ながら顔を曇らせていたのはそのせいだったのかと僕は理解した。
「そうですか……。実は社内でも以前からウワサされてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
僕は会場で小川先輩と話していたことを、絢乃さんにも伝えた。その時も絢乃さんはショックを受けているようだったが、僕はそんな彼女に、もっと残酷なことを告げなければならなかった。
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」
「はい?」
彼女は表情を固くしたまま首を傾げた。でも頭のいい人だから、僕が何を言おうとしているか察してはいたのかもしれない。
「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」
この宣告を聞いた時、絢乃さんは一瞬泣きそうな顔をしたが、僕にひとかけらの悪意もなく、お父さまを気遣って言ったことなのだと分ってもらえたようだ。すぐに気を取り直し、フォークを持ったまま眉根にシワを寄せた。
「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」
そうだろうな、そうなるよなぁと僕は思った。加奈子さんもおっしゃっていたからだ。「ウチの夫は病院に行きたがらない。だからといって、犬じゃあるまいし、リードをつけて無理矢理引っぱって行くわけにもいかない」と。
絢乃さんから病院での受診を勧められたとて、ヘソを曲げられて彼女が災難を被る可能性がゼロだとは言い切れなかった。もしかしたら、言い出しっぺの僕にも火の粉が降りかかるかもしれない。
「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」
彼女はそんな僕の心配も読み取ったのか、お父さまの説得を頑張ってみると言って下さった。
「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」
僕のこの言葉は決して謙遜なんかじゃなかった。僕たち社員一人一人に家族のように温かく接して下さるボスの体調を心配するのは、ごく当たり前のことだと思っていたからだ。
それに柄にもなく、想いを寄せる絢乃さんにいいところを見せたいという僕の欲というか、浅ましさもあったように思う。
2
――それから三十分ほど、僕と絢乃さんは美味しいケーキを食べながら他愛ない話をしていた。
「――ねぇ、桐島さん。こういう個人的なパーティーを会社の経費でやるのってムダだと思わない?」
お父さまのお誕生日祝いだというのに、絢乃さんの感想は率直で辛口だった。
「どう……なんですかね? 僕はそんなこと、気にしたことありませんでしたけど」
僕も素直に答えた。社会人になってから毎年、ずっと当たり前のように行われてきたので、僕も何となく「そういうものなのか」と当然のことのように受け入れていたのだが、当たり前ではなかったのだろうか?
「このお祝いの会ってね、元々は有志の人たちがお金を出し合ってやってたらしいの。それがいつの間にかこんなに大げさなことになっちゃって、しまいには貴方みたいなパワハラの被害者まで出ちゃう事態になっちゃってるんだよね」
「へぇ……、そうなんですか。知りませんでした」
実は本当に初耳だった。有志のメンバーだけで始めたお祝いの会がここまで大規模なものになるくらい、源一会長は人望に厚い人だったということだろう。役員になる前も営業部のエースと言われていたらしいし(これは小川先輩からの情報だ)。
「だからね、わたしが将来会長になった時は、思い切って廃止しちゃおうかなぁって思ってるの」
「……そうなんですか?」
「うん。わたし、大勢の人から大げさに誕生日祝ってもらうの、あんまり好きじゃないから。『おめでとう』の一言だけ言ってもらえれば十分。プレゼントは……まぁ、もらえるものなら嬉しいかな」
「なるほど……」
この時の僕は、その方がいいだろうなと思う程度だった。まさか、それがあんなにすぐ現実になるとは思ってもみなかったからだ。
「……桐島さん、ケーキ美味しそうに食べるねー。わたし、スイーツ好きの男の人って好きだよ」
「…………えっ? そ、そうですか?」
絢乃さんから天使の微笑みでそう言われた僕は、思わずドギマギした。
「うん。なんか親しみ持てる。お酒ガバガバ飲む人よりずっといいよ」
「はぁ、それはどうも……」
僕はどうリアクションしていいか困った。これは褒められているのだろうし、絢乃さんが好意的に僕を見て下さっていることは分らなかったわけじゃない。
でも、日比野のことがあったせいか、つい勘ぐってしまうようになっていたのだ。女性が何気なく言った言葉の裏に、何かあるのではないかと。
だからハッキリ言って、この時は絢乃さんの言葉も信じられなかった。彼女は裏表のないまっすぐな女性なのに――。
――と、そうこうしている間に時刻は夜八時半。絢乃さんのスマホにメッセージの受信があった。テーブルの上にカバーを開いた状態で置かれていたので、僕もチラリと画面を覗き込むと、どうやら加奈子さんに送ったメッセージの返信らしいと分ったのだが……。
〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉
という最初のメッセージだけは読み取れた。が、二つ目のメッセージが届いた途端、絢乃さんは「えっ!?」という声を上げて慌ててスマホを持ち上げ、僕の目に入らないようにしてしまった。画面を二度見していたが、何か僕に読まれるとマズいことでも書かれていたのだろうか?
「絢乃さん、どうかされました?」
「ううん、別にっ!」
僕が首を傾げて訊ねると、彼女は思いっきりブンブンと首を横に振ってごまかした。短く返信した後ですぐにスマホはクラッチバッグの中にしまわれてしまったので(これはダジャレではない)、その時は絢乃さんの慌てた理由を知ることができなかったが、彼女の首元まで真っ赤に染まっていたのは何か関係があるのだろうか。
絢乃さんは「そろそろお母さまからの任務を果たしてくる」と言って席を立った。パーティーの閉会の挨拶を頼まれていたのだ。本当は九時ごろ終了の予定だったのだが、主役である源一会長が不在になったので閉会時刻を早める決断をしたのだろう。
「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」
絢乃さんのグラスは空っぽになっていたので、挨拶を終えて喉がカラカラになって戻るであろう彼女のために僕は再びドリンクバーへ行っておくことにした。
「ありがとう」
彼女はステージの壇上で篠沢家の次期当主、そしてグループの跡継ぎらしく堂々と挨拶をして、やりきったという表情でテーブルへ戻ってきた。ように僕には見えた。
「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」
「うん。ありがとう」
オレンジジュースのお代わりを美味しそうに飲む彼女を見ながら、僕もそろそろ加奈子さんからのミッションを果たさねばと思った。
「……ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」
ちょうどいいタイミングで、絢乃さんの方からその話題を振ってきた。……なるほど、彼女が僕に見せたがらなかったお母さまからの二つ目の返信には、そのことが書かれていたのだ。
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」
「そうだよね……」
源一会長が倒れられたのは、加奈子さんにとっても想定外の事態だったはずだ。彼女はただ、可愛い一人娘である絢乃さんと僕の間に接点を持たせたかっただけなのだから。
「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」
絢乃さんは、僕がパーティーの間にアルコール類を口にしていなかったことをそう解釈した。実際はそれほどアルコールに強くないのだが、マイカー通勤をしていることも事実なのでこう答えた。
「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」
「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」
彼女は僕に家まで送ってもらえることが嬉しそうだった。だがひとつ、僕には心配なことがあった。彼女に乗ってもらうクルマがそこそこボロい中古の軽だったということだ。
父は国産メーカーながらセダンに乗っているので、そっちを借りてきた方が格好もついたかなぁ。そろそろ車検にも引っかかりそうだし、僕もセダンに買い換えようかな。……そう思ったのもその頃だったと記憶している。
「はい。……僕のクルマ、軽自動車なんですけどよろしいですか?」
「うん、大丈夫。よろしくお願いします」
彼女の返事を聞いて、僕はホッとした。軽に乗っている男を見下す女性も多い中、絢乃さんは違うのだと分って嬉しかったのだ。
でも、今度買うクルマは絶対にセダンの新車にしようという決意は揺るがなかった。
僕はそこで、パーティーのために戻ってきた時、自分のビジネスバッグをロッカーに置いてきたことを思い出した。ロッカーは鍵がかけられるし、どうせ財布に大した金額は入っていなかったので盗られる心配もなかったのだ。
「では、少しこちらで待っていて頂けますか? ロッカールームからカバンを取ってきますので」
「分かった」
テーブル席で美味しそうにジュースを飲み干す絢乃さんをその場に残し、僕はエレベーターで総務課のロッカールームがある三十階へと上がっていった。
3
「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」
僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。
「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」
彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。
「えっ、助手席……ですか?」
「うん。ダメ、かな? お願い」
その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。
「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」
「やったぁ♪ ありがとう!」
子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。
「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」
「うん。じゃあ失礼しまーす」
彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。
初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問だ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。
「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」
「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」
「そうですね」
スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせと言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。
僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。
「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」
「なるほど。確かに、こういう爽やかな香りなら品があっていいですよね。僕も好きです」
逆に、どキツいセクシー系の香水は清楚な絢乃さんに似合わない気がする。お嬢さまだから、というわけでもないだろうが。
「――ところで、このクルマってお家の人から借りてるの? それともレンタカー?」
無邪気に問うてきた絢乃さんに、僕は「いえ、自前ですよ」と答えた。というか、こんなボロいクルマを貸し出しているレンタカー店なんてあるだろうか。
「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」
彼女は僕の返事を聞いて、目を丸くした。その眼差しは「サラリーマンの分際で背伸びしちゃって」というバカにしたものではなく、「自前なんだ、スゴいなぁ」という尊敬の念がこもっているように僕には感じられた。
「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」
僕は彼女のために安全運転を心がけながら、少し謙遜もこめてそう答えた。でも走行距離はかなり行っていたし、車検をクリアできそうになかったことも事実だ。
「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」
「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金でというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」
「そっか……。大変だね」
意気込んで決意を語った僕に、絢乃さんはそんなコメントをした。
僕は同情されるのがあまり好きではないのだが、何故か彼女に同情的なことを言われるとイヤな気持ちがしなかった。それは彼女が決してお高くとまっていなくて、その言葉の端に彼女の優しさが滲んでいたからだ。
幸いにも僕には大金をつぎ込むような趣味はないし、篠沢商事は月収が高いので貯金の額もそれなりにあった。クルマの維持費やアパートの家賃(十二万円)と光熱費やら生活費やらを引いても月に五万円くらいは貯金に回せたのだ。
とはいえ、初対面の女性にお金の話をするのも野暮なので、絢乃さんにその話はしなかった。
「――ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」
その代わりに、再度そう訊ねてみると。
「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」
という無邪気な答えが返ってきた。僕にはちょっとばかり意外な返答だったので正直驚いたが、彼女のような育ちの女性なら、クルマに乗る時は後部座席というのがデフォルトなのだろう。
つまり、この夜が彼女にとっての助手席デビューということだ。もっと上等なクルマならなおよかったのだろうが、それは言わないでおこう。
「そうですか……。それは身に余る光栄です」
「え? 何が?」
思わずポツリと洩らした言葉に、絢乃さんが反応して顔を上げた。独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。
「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」
可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は誇らしい気持ちと照れ臭さ半々でそう答えた。
その後、僕は絢乃さんに自分の家族の職業や、実家近くのアパートでひとり暮らしをしていることなどを話した。
父が銀行員をしていること、母が結婚前には保育士として働いていたことにも彼女は感心されていたが、もっともリアクションが大きかったのは四歳上の兄・悠が将来自分の店をオープンさせるべく、飲食チェーンで正社員としてバリバリ働いていることだった。僕としてはちょっと面白くなかったというか、正直兄にジェラシーさえ感じていた。
「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」
と興味津々で問うてきた彼女に、大人げなく「余計なお世話だ」とも思った。放っといて頂きたい。
「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」
多分、ぶっきらぼうに答えた僕の顔にもその感情は表れていたかもしれない。絢乃さんも少々不満げだったが、もしも「昔はバリスタになりたかったのだ」と僕の夢を語っても関心を持って下さっていたのだろうか。
でも、そうなると「どうして諦めたのか」と詮索されるのもイヤだったし……。
ちなみに、彼女は今もそのことについて詮索してこない。「この会社で本当にやりたい仕事はなかったの?」と訊かれたことはあっても。
そして、このセリフはウソだが半分は僕の本心である。その当時、総務課の仕事に満足していたかといえば不満だった。総務課に配属されたことは不本意だったし、島谷氏が課長になってからは毎日不満タラタラだった。
それでも退職せず必死に会社にかじりついていた理由は、篠沢商事の平均月給が他に受けた会社よりずっと高く、福利厚生も充実していたからだ。ここを辞めたら、こんなにいい給料がもらえて待遇もいい会社にいつ恵まれるか分からなかった。
それよりも、僕にはその時、気がかりなことがあった。もし源一会長がお亡くなりになったら、この会社やグループ全体の経営方針はどうなってしまうのか、と。
篠沢グループの各社がこんなに優良ホワイト企業でいられるのが(中にはブラックな部署もありそうだが……)、源一会長の経営手腕のたまものだったのだとしたら、後継者次第で変わってしまう可能性もあった。
そして……、彼の後継者になり得るのは加奈子さんと絢乃さんだけだった。他の親族に候補者がいなければ。
4
「――そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」
僕の訊ね方のせいか、絢乃さんはちょっと戸惑いながら「うん……別にいいけど」と答えた。僕にはそんなつもりはなかったのだが……、ちょっと反省。
「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」
彼女にお父さまの死を意識させないよう、あえて言葉を選び、オブラートに包んだ質問のしかたをした。でも、そんな僕の気遣いを察して下さったようで、彼女は不愉快な様子もなく少し考えてから答えて下さった。
「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」
絢乃さんの祖父が会長職を引退された時、加奈子さんも後継者の候補に入っていたらしいという話は僕の耳にも入っていた。その当時、僕はまだ入社前だったので、聞かされたのは入社後に小川先輩からだったが。
加奈子さんも一人娘だったため、親族たちは加奈子さんが継がれるものだと思っていたらしい。が、彼女は教師という職を捨てる気がなく、彼女の婿だった源一氏が後継者となったのだという。
それでも、加奈子さんが「篠沢家」という経営者一族の現当主であることに違いはなく、経営に関わらずともその権力は絶大だった。教師としての威厳もプラスされていたのだろう。
絢乃さんの祖父がこの世を去られたのは、それから一年ほど後のことだった。引退を決意されたのも、心臓を悪くされていた奥さまに先立たれ、体調を崩されたからだそうだ。
ただ、そんな彼女ではなく入り婿の源一氏が会長に就任したことに、親族たちからの強い反発もあったようで。
「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉めることにならなきゃいいんだけど」
ウンザリとジャケットの襟元をいじりながらそう言った絢乃さんに、僕も同感だった。
資産家の一族による後継者問題、いわゆる〝お家騒動〟というものは古今東西どこにも存在する。小説や映画、TVの二時間ドラマのテーマとして扱われることも多々あるが、こんな身近なところにまで転がっているとは(失礼!)思ってもみなかった。
「名門一族って、どこも大変なんですね……」
「うん……、ホントに」
彼女の頷きには、ものすごく実感がこもっていた。そりゃそうだろう。彼女は間もなく、その〝お家騒動〟のド真ん中に放り込まれるのだから。
だからこそ、僕はそんな彼女の力になりたいとこの時心に誓ったのだ。そのためには、もっと彼女のために動きやすい部署に異動しなければ――。
それよりも、この時の僕は彼女の表情が冴えないことが気になった。お父さまが倒れてすぐだったので仕方のないことだが、僕はできることなら、大好きな彼女に笑顔でいてほしかった。
「――絢乃さん、一人っ子だとおっしゃってましたよね? ご結婚される時はどうなるんですか?」
なので、唐突にそんな質問をブッかましてみた。もちろん彼女に笑ってもらうための冗談だったが、彼女は一瞬ポカンとなった後、真剣に答えて下さった。
「やっぱり、相手に婿入りしてもらうことになるんじゃないかなぁ。パパの時みたいに」
「じゃあ……、僕もその候補に入れて頂くことは可能ですか?」
これは半分、僕の本心からの願望でもあった。が、絢乃さんが変に気を遣わないよう表向きはこれも冗談ということにした。
「…………えっ!? ……うん、多分……大丈夫だと思うけど」
彼女は戸惑いながらもそう答えてくれた。が、正直僕はこれも彼女の社交辞令ではないかと内心疑っていた。彼女は優しい人だから、僕に「無理だ」とは言えない、と思ったのではないかと。
彼女のような良家のご令嬢に、僕のような家柄も収入も平凡な(「年収が平凡」ってどんなんだ)男は釣り合わないと思っていた。お似合いの相手はもっといい家柄で、高収入で、僕よりイケメンなどこかの御曹司のはず(……ってこんな歌詞、何かの歌で聴いたことあったな)。
なので、僕は「冗談ですからお気になさらず」と言って肩をすくめたのだが、彼女が満更でもなさそうだったのは気のせいだろうか? いや、待て待て、俺。期待したってまた裏切られるだけだぞ。
――その後、恵比寿のあたりで絢乃さんのスマホに加奈子さんから電話がかかり、それを終えた彼女と不意に目が合った。
ちょっとドキドキしながら「何ですか」と訊ねると、彼女は僕にお母さまと彼女自身の「ありがとう」を言った。
「いえ……」
お礼を言われるようなことは何もしていないつもりだった。ひとりパーティー会場に残されて心細い思いをしていた十代の女の子に寄り添ってあげたいというのは、一人の大人として当然の行動だったし、ぶっちゃけて言えば自分でも認めがたい下心のようなものもあった。
でも、彼女はそんな僕の一連の言動を厚意だと受け取ってくれたらしい。彼女の純粋すぎる性格に感動しつつも、彼女はもし他の男に同じようなことをされたらコロッと騙されそうだなと心配にもなった。
――もうすぐ自由が丘。絢乃さんの家に着いてしまう。彼女との楽しかった時間ももうすぐ終わり、僕はまた課長にこき使われる現実に戻ってしまう。まるで童話のシンデレラのように、魔法が解けてしまうのだ――。
……俺はこのまま、何のアクションも起こさずに彼女との接点を失ってしまうのか? 元々はセレブ一家に生まれ育った彼女と、普通よりちょっとばかりいい家に育った僕とでは住む世界が違った。この夜の出会いは、奇跡のようなものだったのだ(だからといって、僕にこの出会いをもたらした島谷氏に感謝する筋合いはなかったのだが)。
だからせめて、彼女と連絡先の交換くらいはしておかなくては。源一会長の病状も気になっていたし、情報交換のためにもそれくらいは許されるはずだ。……彼女がそれに快く応じて下さるかどうかは別として。
絢乃さんをクルマから降ろしたら、僕の方から切り出そうと思っていた。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいね」
「うん、ありがとう。――あ、桐島さん。あの…………」
でもなかなか言い出せず、半ば「もう無理だ」と諦めながら運転席に戻ろうとしていると、彼女の方から引き留められた。
「連絡先……、交換してもらえないかな…………なんて」
まさかの展開に気持ちが逸り、僕は食いぎみに「いいですよ」と答えてしまった。期待していたと思われたらどうしよう? 彼女、引くかもしれない……。
でも、そんな僕の心配は杞憂だったようで、彼女は嬉しそうにスマホを取り出して僕との連絡先交換を済ませてしまった。
絢乃さんはその後も「ウチでお茶でも」と誘って下さったが、「明日も仕事があるので失礼します」とお断りした。これ以上期待してはいけない、裏切られた時のダメージが大きいから。
それなのに、僕は「連絡、お待ちしています」とポロッと言ってしまった。それは、お茶を断られた彼女が落胆しているように見えたからだ。でも、この言葉にはうろたえながらも嬉しそうに頷いて下さった。
クルマに乗り込んだ僕は、しばらくシートの上でスマホを見つめていた。――もう女性を信用しないと決めた。けれど。
「もう一度、信じてみようかな……。せめて絢乃さんのことは」
初々しく頬を染めながら、嬉しそうに僕とアドレスを交換してくれた彼女にはそれだけの価値があるのかもしれない、と僕は思ったのだった。
前を向け!
1
――僕はその後、アパート近くのコンビニに寄って夜食用のパンを買い込んだ。この店は実家からも近く、僕が子供の頃からよく利用していた。
「――はい、五百四十円ね。貢くん、アンタたまにはもっと栄養のあるもの食べなさいよ?」
店員のおばちゃんが、レジで会計をしていた僕にまるで母親のようなことを言った。ちなみに彼女は、家族経営をしていたこの店の店長の奥さんだった。
「実家のご両親とかお兄ちゃん、心配してるんじゃないの?」
「おばちゃん、実家には毎週末帰ってますよ。今日はもう夕飯済ませてきたから、軽く夜食で食べとこうと思っただけです」
「そうなの? だったらいいんだけど……。はい、千円お預かりで四百六十円のお返しね」
「……どうも」
「アンタ、早くお嫁さんもらいなさいよ? いつまでも実家やお兄ちゃんアテにしてたら、いつまで経っても自立しないわよ」
「それ言うなら兄貴の方が先だと思いますけど」
余計なお世話だ、とばかりに僕は反論した。この当時で兄はすでにアラサーだった。が、兄に恋人がいると知ったのはその四ヶ月ほど後のことだった。ちなみにその彼女は、今兄嫁である。
「まぁ、そうよねぇ。ゴメンねぇ、おばちゃん余計なこと言っちゃったわね。はい、ありがとう」
会計の済んだカレーパンとクリームパン、そして五〇〇ミリペットボトルのカフェラテを有料のレジ袋に入れてもらい、僕はコンビニを出た。
* * * *
「――ただいま」
アパート二階のいちばん奥にあるドアを開けると、僕は誰もいない(ひとり暮らしなんだから当たり前なのだが、家族全員がこの部屋の合鍵を持っているため誰かが来ている可能性もあった)部屋の玄関でくたびれた革靴を脱いだ。
篠沢家の大豪邸を外から眺めた後なので、風呂とトイレが一体になったユニットバス付きの1Kの部屋がものすごくちっぽけに見え、絢乃さんとの格差をイヤでも思い出させられた。でも社会に出てからその当時で二年半、ずっと暮らしてきた住まいでもあったので、愛着がまったくないというわけでもなかった。
ベージュのラグを敷いたフローリングの床に通勤用のカバンを置くと、とりあえず着ていたジャケットを脱いでベッドの上に放り投げ、ネクタイを緩めた。もちろんそのままほっぽり出しておくわけがなく、後からスーツは一式まとめてハンガーにかけるつもりだった。
「あー、腹減った。いただきます」
ポリ袋から買ってきたパン類とカフェラテを出して座卓の上に置き、まずはカレーパンの封を開けてかぶりついた。
ラテの甘さでカレーの辛さを中和しつつモグモグやっていると、座卓の上に出してあったスマホが鳴り出した。
「…………ぅおっ、絢乃さんから電話!? マジか!」
画面に表示された発信者の名前を見た途端、僕は喉を詰まらせそうになった。そして、自分の口がまだモゴモゴしていることを思い出し、パニックになった。
咀嚼中に電話に出るのは失礼にあたるが、早く出ないと切られてしまう! ……いや、僕からかけ直せばよかっただけの話なのだが、いかんせん冷静さを欠いていた僕はそんなことさえ思い至らなかった。
「――はい、桐島です」
とにかく出ねば、と通話ボタンをスワイプし、まだ若干モゴモゴしている状態で応答した。 絢乃さん、怒るだろうな……と不安だったので、声は少々震えていたかもしれない。
『……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?』
カンの鋭い彼女にはすぐに見抜かれてしまったが、その声からはお怒りの様子も呆れられている様子も感じられなかった。むしろ笑うのを必死でこらえられている、という感じがしたのは僕の気のせいか? 僕が無事に帰れたことにホッとされていたからだろうか。
「ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから」
バカヤロー、俺。何を食べてたかなんていちいち報告する必要ないだろ。絢乃さんとは初対面だったのに、気を許しすぎだ。
……と心の中でセルフツッコミを入れていると、彼女は笑いながら「ああ、そうなんだね」と言った。めちゃめちゃ笑われてるじゃん、俺。
『――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの』
ひとりで勝手にヘコんでいると、次の瞬間彼女の声のトーンが真剣なものに変わった。僕は「そうですか」と相槌を打ってから、もういい加減モゴモゴをやめなきゃいけないと思い、「ちょっと待って下さいね」と彼女に言い置いて急いで口に残っていたものをカフェラテで流し込んだ。
「――で、どうでした?」
早く話の続きが聞きたくて、僕はそう訊ねた。果たして彼女は、お父さまを説得することに成功したのか。……まぁ、おっかない夫人も一緒に説得を試みただろうし、源一氏が子煩悩だというのは有名な話だったので、うまくいかなかったとは考えにくかったが。
『明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって』
するとやっぱり、説得には成功されたと思しき返事が返ってきて、その声の明るさに僕もとりあえずホッとした。
それにしても、ご友人にドクターがいらっしゃるなんて源一会長は環境に恵まれている。医者に診てもらうにしても、まったく見ず知らずのドクターが相手よりは知人のドクターが担当になってくれる方がハードルがグンと低くなるだろう。
「そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった」
『うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?』
絢乃さんはまず第一関門を突破できたことに安心されたようで、次に僕が助言したことについてお父さまに話した方がよかったのか否かを確かめられた。心優しい彼女はきっと、説得がうまくいかなくてお父さまがご機嫌を損なわれた場合に僕がとばっちりを受けないよう、あえてそのことを伝えなかったのだと思う。
「いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです」
あのパーティー会場で、僕が源一会長と直接言葉を交わすことはなかったが、彼の方は僕の顔を物珍しげにチラチラとご覧になっていたような気がする。「あれ、あんなに若い社員が来ているなんて珍しいな」という感じだったのだろう(ちなみに、会社では接点があった)。
そのことを伝えると、絢乃さんはお父さまの並外れた記憶力に驚愕されていた。
「――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?」
僕がそう訊ねると、彼女は「パパのことはママに任せて、わたしは学校に行くことにした」と答えられた。お友だちに心配をかけたくないし、自分が一緒に行ってもかえって両親に気を遣わせるだけだから、と。まだ十七歳なのに、こういう時の判断がしっかりできるなんてスゴい人だなと思った。
彼女はどうやら入浴前だったようで、電話口から微かに水音も聞こえていた。もしや、室内にバスルームまで完備されているのか……!?
「お風呂に入るところだったから」と通話を終えようとしていた彼女に、湯冷めしないよう諭してから僕は電話が切れるのを待った。
――彼女は何度も僕に「ありがとう」を言っていた。けれど、〝ありがとう〟を言いたいのは僕の方だった。
もう一度、女性を信じようという気を起こさせてくれて。そして僕を裏切らないでいてくれて。
「絢乃さん、ありがとうございます……」
僕はスマホを見つめながら、前を向く勇気が湧いてくるのをひしひしと感じていた。
2
――翌朝、僕はトースト一枚と自分で淹れたコーヒーで簡単に朝食を済ませ、いつもどおり出社した。
「――おっす、久保」
「おう。……桐島、なんか今日ご機嫌だな。ゆうべ何かいいことでもあったん?」
総務課のオフィスに入ってすぐ久保に声をかけると、フリードリンクの抹茶ラテを飲んでいた彼がバケモノでも見たような口ぶりで言って首を傾げた。
「俺が機嫌いいとなんか不都合なことがあるのか、お前は」
「うん、なんか気味わるい」
「…………」
僕もフリードリンクのマシンでブレンドコーヒー(微糖・ミルク入り)を紙コップに注ぎながら質問返しをしてやると、ヘラヘラ笑いながらヤツは答えた。
「あっ、ウソ! 冗談だって! 怒んなよぉ、桐島ぁ」
「…………あのなぁ」
ふつふつと怒りがこみ上げ、ものすごい形相で睨むと「冗談だから怒るな」ときたもんだ。
「……それはともかく。どうなのよ、桐島? いいことあったのか?」
「別にいいだろ、そんなの何だって。お前には関係ないし」
僕はブスッと答えながら席に戻ってコーヒーをすすり始めたが――。次の瞬間、この男は特大の爆弾を投下しやがった。
「分かった! 会場にものすごい巨乳の可愛いコがいたんだろ!」
「……………………ブホッ!」
僕はその後しばらく盛大にむせ、ゴホゴホやっていたが、落ち着くとツッコミを入れた。
「おまっ、なんでそこで巨乳が出てくるかなぁ? 脈絡なさすぎだろ」
「だってさぁ、巨乳は男のロマンだぜ? 日比野もそうだったじゃん」
「……お前、それ思いっきり地雷踏んじまってるからな?」
僕は思いっきり久保を睨んだ。胸ウンヌンの話はともかく、彼女の名前を僕の前で出すのは自爆するのに等しい行為だとこの男は分かっていないのだろうか?
絢乃さんは巨乳というほどではないが、まぁまぁグラマーな方ではあった。高校生だったにしては発育がいい方ではなかったかと思う。……が。
「だいたい、胸の大きさなんかいちいち気にしてないって、……あ」
僕はうっかり口が滑ってしまい、「やべぇ」と口元を手で押さえた。が、「遅かりし由良之助」。久保にはバッチリ聞かれた後だった。
「〝あ〟? 〝あ〟って何だよ? まさかマジで女の子絡みか?」
ここまでバレてしまっては僕も引っ込みがつかないので、仕方なく久保に絢乃さんとの出来事を白状した。源一会長が倒れられたことは、話そうかどうか迷った。僕から聞き出さなくても、そのうち会社の誰かが話すだろうと思ったのだ。
「…………実はさ、昨夜、絢乃さんと知り合って。帰りは俺がクルマで家まで送っていったんだ。連絡先も交換してもらって」
「へぇー、マジ? つうか『絢乃さん』ってまさか、会長のお嬢さま?」
「そのまさかだよ。んで、絢乃さんの方から『連絡先交換したい』って言われて」
「マジか。ってことはだ、待てよ。……お嬢さまの方もお前のこと気になってんじゃねぇの?」
「やめてくれよ、期待させるようなこと言うの。久保、お前面白がってねぇか?」
僕はプラスチックのホルダーをはめた紙コップをデスクに置き、腕組みをして久保を睨み付けた。コイツには、人のゴシップをイジっては喜ぶという悪いクセがあるようだ。
「いやいや、面白がってなんかいませんよ、オレは。ただ友人としてだな、お前がやっとまた女の子と関わり始めたことが嬉しいってだけで」
「まだ深く関わっていくって決まったわけじゃ……。連絡先交換しただけだぞ」
口ではそう言ったものの、実際には自分がこの先、絢乃さんと深く関わっていくだろうことが分かっていた。お父さまがおそらくは命に関わる重病で、彼女の心はグラついていた。そんな彼女には支えになる存在が必要で、それが僕である可能性はほぼ百パーセントといっても過言ではなかったからだ。
「んでもさぁ、それがキッカケで恋愛に発展して、いずれは逆玉とかもあるんじゃね?」
「別に……、俺は逆玉なんか狙ってないけどさ。絢乃さんのために何かしてあげたいっていうのはホントかもな。だから、このまんまじゃいけないんじゃないかとは思ってる」
「このまんま、っていうと?」
「総務課で、課長にいいように使われたままじゃダメだって。でさ、俺、近々異動しようと思ってるんだ」
「異動? っつうと……、会社ん中で部署だけ別のところに変わるっていう意味か?」
「そう。まだどこの部署に行くか、具体的には何も決めてないんだけどな」
絢乃さんのすぐ近くで、彼女の力になれる部署に異動すると決意こそしたものの、それができる部署が一体どこなのかまでは分かっていなかった。
「そっかそっか。お前もここからいなくなるのか。淋しくなるなー。けどまぁ、その方がいいのかもな。お前はこんなところで燻ってるような男じゃないって、オレ前から思ってたもん。異動先でも頑張れよ」
「おう。サンキューな、久保。俺、もう課長から何言われても怖くねぇわ。これからはイヤなことは『イヤです』ってハッキリ言うよ」
覚悟を決めた人間は強いのだ。じきに別の部署に変わるんだと思えば、あんな人に怯えていた自分がバカみたいに思えてきた。もうヘイコラする必要なんかない。異動前にキッチリ引導を渡してやろうと僕は心に決めた。
* * * *
――「源一会長が重病らしい」という話はその日の午前のうちに会社中に広まり、あの島谷課長でさえ「会長は大丈夫なんだろうか」と心配そうな面持ちをしていた。
もちろん、前日のパーティーに代理で出席していた僕に「昨日はご苦労だった。急に頼んですまなかったな」としおらしい言葉までかけてくれて、僕はある意味「この世の終わりなんじゃないか」と思った。これはもう、天変地異の前触れに違いない。
というわけで、この日は課長の雑用を押し付けられることなく自分のすべき仕事だけに励んだ僕は、昼休み、社員食堂にいた。
「――桐島くん、お疲れさま」
真ん中あたりのテーブルでカツ丼を食べていると、向かいの席に小川先輩が座った。彼女が選んだのは唐揚げ定食らしい。
「お疲れさまです……って先輩! なんでいるんですか!? 今日、会長はお休みですよね?」
「うるさいなぁ。秘書っていうのは、ボスがお休みの時にもやることいっぱいあるんだって」
彼女は僕に顔をしかめつつ、白いご飯をかきこんだ。
「へぇー、そうなんですね。知らなかったな」
同じ社員という立場なのに、秘書という職種のことを僕はあまり知らずにいたのだ。……まぁ、秘書室は人事部の管轄だし、オフィスも重役専用フロアーである最上階に置かれているので、めったに近寄ることもなかったのだが。
「……あ、先輩。実は俺、近々部署を変わろうと思ってるんですけど、秘書室の人員に空きってあったりしますか?」
「えっ、桐島くん、秘書室に来てくれるの? 人員はそりゃもうガラ空きだよ。働き者のあなたが入ってくれるなら百人力だね。あたしから広田室長に話通しといてあげようか?」
「すいません、ありがとうございます」
「いいってことよ☆ あたしと桐島くんの仲じゃない♪ …………ん? 奥さまからメッセージ?」
先輩は食事中にポケットで振動したスマホのメッセージアプリを開き、ニヤリと笑った。
「そんなあなたに、加奈子さまからご指名がかかったよ。絢乃さん、今日早退することになったから、学校まで迎えに行ってあげてほしい、って」
「学校……って、八王子の茗桜女子に? でも、どうして俺が」
「奥さまは奥さまで、お膳立てしてあげたいんじゃないの? ほら、愛しい絢乃さんが待ってるから、行ってらっしゃい。島谷さんには、あたしも一緒に事情を説明してあげるから」
――かくして、僕は会社を抜け出し、絢乃さんが待つ茗桜女子学院までクルマを走らせることとなったのである。
3
――僕に「少しの間だけ仕事を抜けさせてほしい」と告げられた島谷課長は、あからさまに顔色を変えた。「そんなこと、許可するわけがないだろう」と言うだろうと僕は察した。
「――私からもお願いします、島谷さん」
「誰だね、君は」
「会長秘書の、小川と申します。彼は会長の奥さまから急な用件を承ったので、抜けさせてほしいと申し上げてるんです」
この部屋に本来いるべきではない小川先輩に怪訝そうな顔をした島谷氏。でも、先輩はそれに臆することなく堂々と発言していた。……先輩カッコよすぎ。俺、女性不信じゃなかったら絶対惚れてます。
「会長秘書? 会長の奥さまから……」
島谷氏は典型的な中間管理職――つまり「長いものには巻かれろ」主義なので、先輩の〝会長秘書〟という肩書きに明らかにうろたえていた。
「ええ。直接ご指名があったんです。ぜひ彼に、と。もちろん、ダメだとはおっしゃいませんよねぇ? あなたの今後の査定にも響くでしょうし?」
彼女はニッコリ笑って言っているように見えるが、そのニッコリ顔が島谷氏には氷点下の笑顔に見えたらしい、要するに「顔は笑っていても目が笑っていない」というヤツだ。
「お願いします、課長! 用が済み次第、ちゃんと戻ってきますんで!」
「そう言われてもなぁ……」
この人が悩み始めたら、これは長期戦になる可能性大だ。こっちにはそんなことに付き合っているヒマはないのに!
「……桐島くん、絢乃さんをお待たせしちゃいけないから、あなたは行ってきなさい。この人はあたしが説得するから。学校の住所はナビで調べたら分かるよね?」
「先輩、ありがとうございます。じゃあ、ここはお任せしますね。――とにかく、僕行ってきます!」
僕はその場を先輩に任せて、絢乃さんを迎えに八王子まで向かうことにした。
* * * *
クルマのナビは古すぎてアテにならないので、スマホのナビアプリを頼りに茗桜女子学院の門の前までどうにか辿り着いたのは午後一時半すぎ。そこで待っていた絢乃さんは、当然のことながら学校の制服姿で立っていた。髪もストレートで、焦げ茶色のヘアゴムでハーフアップにしてあった。
クリーム色のブレザーに、赤の一本ラインが裾に入ったブルーグレーのプリーツスカート、そして胸元には赤いリボン。スカート丈がキッチリ膝丈なのと、黒のハイソックスを穿いているのが誠実な彼女らしい。
前日の大人っぽいドレス姿もよかったが、制服姿はやっぱり可愛いなと思った。……いやいや、これは断じて〝制服萌え〟なんかじゃないぞ。
「――絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」
シルバーの軽自動車から降りた僕を見てなぜか驚いていた絢乃さんに、僕は助手席のドアを開けながら声をかけた。
「桐島さん……? どうして」
困惑している様子の彼女に、小川先輩を通してお母さまからお迎えの依頼があったことを伝えると、彼女は「そう、なんだ」と頷きながらもまだ理解が追いついていないようだった。が、乗車拒否をすることはなく、前日と同じように助手席に乗り込んで下さった。
絢乃さんは車内で何だかソワソワしていて、「迎えに来たのが寺田さんではなく僕でビックリした」と言っていた。前日、パーティー会場まで源一会長を迎えに来ていたロマンスグレーの男性こそが篠沢家のお抱えドライバー・寺田さんだという。もう三十年以上、篠沢家に仕えているのだそうで、彼女は自分の迎えにも彼が来るものだと思っていたらしい。
僕は彼女のことや、彼女のお家に関することなら何でも知りたいと思っていたので、こんな他愛もない話題にもちゃんと相槌を打った。何より、話してくれたということが嬉しかったのだ。
「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」
僕はその一言に、自分の耳を疑った。彼女は僕の迎えが嬉しかったと言ったが、本当なんだろうか? またもや、女性の言葉に裏があるのではと勘ぐってしまう、僕の悲しい性が発動してしまったようだ。でも、彼女自身も自分が言ったことに動揺して赤面していたので、この言葉に裏なんてないのだとすぐに分かったのだが。
彼女は続いて、僕と小川先輩との関係について訊ねられたが、そこから嫉妬のようなものは感じられず、これは好奇心からきた質問だと思われる。
「ただの大学時代の先輩・後輩の関係で、小川先輩には好きな人がいるはずだ」と答えると「小川さんに、好きな人……?」と絢乃さんの興味はそちらに移ったようだった。考え込むような仕草をされていたので、もしかしたら彼女にも分かったのかもしれない。先輩の好きだった相手が、自分のお父さまだったということが。
僕は早く源一会長の病気のことが知りたかったが、絢乃さんはなかなか切り出そうとしなかった。それだけ受けたショックが大きすぎて、気持ちの整理が追いつかなかったのだろうと思い、僕は急かさずにいたのだが――。
「ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」
もしかしたら、自分で切り出す勇気が湧かないので僕からキッカケを作ってもらうのを待っているのかとも思い、とりあえず僕から促してみると、彼女は「ちょっと待って」と呼吸を整えてから口を開いた。
お父さまは末期のガンで、余命三ヶ月だと。
「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」
「…………そう、ですか」
そのまま泣き出した彼女に、僕はそれだけ言うのが精一杯だった。
彼女はきっと、お父さまが余命宣告を受けたことにショックを受けて泣いているのだと思ったが、それは違うとすぐに分かった。泣きながら、「どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか」「どうして自分じゃなかったのか」とご自身を責めていたからだ。
僕はそんな彼女の優しさに心を打たれ、同時に慟哭する彼女の姿に胸が締めつけられる思いだった。でもこういう状況の時、どう慰めていいのか分からず、気の済むまで泣かせてあげることしかできなかった。
しばらく泣き続けた後、彼女はクルマに積んであったボックスティッシュで鼻をかみながら「ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」と真っ赤に泣き腫らした顔を上げた。
健気な彼女に前を向いてほしい。そして、僕自身も前を向かなければ……。そんな想いから、僕は彼女にこんなアドバイスをした。
「お父さまの余命をあと三ヶ月しかないと悲観せず、あと三ヶ月もあると前向きに捉えてみてはどうでしょうか」と。
「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」
実を言うと、こんなに偉そうなことを言ってのけた僕自身が同じ立場になった時、同じように前を向けるかどうか自信がない。他人の僕だから言えたのかもしれない。
でも、絢乃さんはこの無責任な僕の言葉で笑顔を取り戻して下さった。お父さまの三ヶ月という余命だけではなく、僕のアドバイスすら善意として前向きに捉えて下さったのだ。
――篠沢邸の前で「会社に戻らなければ」と言った僕に、絢乃さんはお礼プラス口止め料として五千円札を握らせた。一度は断ろうとしたが、彼女の強い意志に負けて結局は突っ返すことができなかった。
紙幣を握らせた時、重ねられた彼女の手のひらのぬくもりがまだ残っているような気がして、僕は彼女がくれた五千円札を大事な宝物のようにそっと自分の二つ折り財布にしまった。
4
――僕は会社へ戻るクルマの中で、改めて秘書室へ異動する意思を固めた。
「――もしもし、桐島です。小川先輩、今話して大丈夫ですか?」
ハンズフリーでスマホから先輩の携帯に電話をかけると、彼女はすぐに出てくれた。とっくに昼休みは終わっていて仕事中だったはずなのに大丈夫だろうか? と電話した張本人が心配したところで、「お前が言うんかい」という感じだが。
『桐島くん? ――うん、大丈夫だけど。ミッションは完了したの?』
「はい。今戻るところなんですけど。――俺、秘書室に異動しようと思います。で、先輩から人事部の山崎部長に根回ししてもらってもいいですか? ホントは自分で言わないといけないと思うんですけど、事情が事情なんで」
『事情が事情、って。つまり島谷さんからの嫌がらせが原因じゃないってことね?』
時間的に、小川先輩のところにも加奈子さんから連絡が行っているはずだと思い、僕はその「事情」を彼女に話した。
「そうなんです。……先輩のところにも連絡行きました? 会長が末期ガンで、あと三ヶ月しか生きられないらしいって」
『うん、奥さまから電話があったよ。……で?』
「これ、あくまでも最悪の事態を考えておかないと、っていう話で聞いてほしいんですけど。会長が亡くなった後、多分後継者になられるのは絢乃さんだと思うんです。で、俺はその時、秘書として絢乃さんのことを支えたいと思って。……ただ時間があまりないんで、正規の手続きを踏んでたら間に合わないと思うんです。だから……」
これじゃまるで、僕は源一会長が亡くなるのを待っているみたいな言い方だ。でも、僕には全然そんなつもりはなく、あくまで備えとしてそう決めたに過ぎないのだ。
『……分かった。それはあくまで、万が一の時に備えてってことね? で、正規の手順をすっ飛ばして異動したい、と。そういうことなら、あたしも力貸すわ。可愛い後輩の頼みだしね』
「えっ、ホントですか!?」
『うん。山崎部長の秘書の上村さんと親しいから、彼女から部長に話通しといてもらうね。桐島くんとしては早いほうがいいでしょ? 明日……は土曜日か。じゃあ週明けにでも面談セッティングしてもらう?』
「ええ、それで大丈夫です。先輩、あざっす!」
僕は小川先輩にお礼を言った。話の分かる先輩を持てて僕は幸せだ。
――会社に戻れば、またいつもどおりの仕事に追われる。先輩がどの程度島谷氏の説得に成功したのか定かではないが、もしかしたら普段以上に風当たりがキツくなるかもしれない。が、異動の意志を固めたことで、正直そんなことはどうでもよくなっていた。
「――ところで先輩、課長の説得ってどうなりました?」
『ふっふっふ、あたしを誰だと思ってるの? 「今後の出世に響きますよー」って言ったら、あの人真っ青になってた。チョロいもんだわ♪』
「…………先輩、それって〝脅迫〟とか言いません?」
嬉々として語った彼女に、僕は頭が痛くなった。うまく説得してくれたのは非常にありがたいのだが、少々やり過ぎな気もする。
会長秘書はいわば会長の執務を代行する立場にいて、その発言力や影響力も会長のそれとほぼ等しいのだ。ヘタをすれば、パワハラに該当しかねない。……まぁ、相手も部下たちにハラスメント行為を働いていたのでこれでおあいこになるだろうが。
僕がそのことを指摘すると、先輩は案の定「これでおあいこでしょ?」と不敵に言ってのけた。
『とにかく、あなたは会社に戻ってきても課長さんからネチネチ言われる心配なくなったから。安心して戻ってらっしゃい。さっき頼まれた件は任せといて』
「はい、何から何までありがとうございます、先輩。――じゃ、もうすぐ社に着きますんで」
安心して会社に戻れることが分かり、ホッとした僕は通話を切った。
「――今日の夕飯、久々に兄貴の店で食べようかな。今日は遅番だって言ってたし」
兄は新宿にある洋食系レストランチェーンで店長として働いている(ちなみに現在進行形である)。毎週末は実家に泊まり、食事も家族と一緒に摂っている僕だが、実家暮らしの兄は時々僕のアパートまで食事を作りに来てくれていた(そしてしばしば僕にも手伝わせていた)。何だかんだ言って弟に世話を焼きたい兄は、ひとり暮らしの僕の栄養管理に気を遣ってくれていたりするのだ。
「せっかく臨時収入も入ったしな……」
絢乃さんから頂いた五千円を、使わないという選択肢もあったが、使わなければ彼女に申し訳ないなと思った。……僕はその時点では、絢乃さんの涙を見た唯一の男だったわけだし。口止め料も含まれていたのなら、使ってしまわなければ「誰にも話しませんよ」という証明にならないかも、という思いもあったのだ。
〈兄貴、今晩兄貴の店に行ってもいいか? たまには夕飯にいいもの食いたい〉
――会社に戻ると、自分のデスクで兄にメッセージを送信した。時間的に、兄はまだ職場には着いていないはずだと思った。
するとすぐに既読がついて、返信がきた。
〈オレは何時でも大歓迎♪
予約席用意して待ってっけど、一応来る前に連絡よろしく〉
「……〝予約席〟って何だよ」
僕はスマホの画面にツッコミを入れた。チェーン店のレストランに席をリザーブするシステムなんてあっただろうか。
* * * *
――その日は無事、定時で帰ることができた。
島谷課長も小川先輩からの脅しがよっぽど堪えたと見え、僕に残業を押し付けなかったどころか、「今日は定時で上がりなさい」と気持ち悪いくらい僕に優しかった。
「――いらっしゃい! 早かったな、貢」
兄の勤務先であるレストランに入ると、出迎えてくれたのはホールのスタッフではなく店長の兄だった。というかコックコートで接客って……。
「うん、今日は珍しく残業なかったから。……つうかなんで兄貴が接客してんだよ? 兄貴、キッチンがメインじゃなかったっけ?」
「ああ、まぁな。今、学生バイトのみんなはテスト前やら学祭前やらで忙しくてバイト入れないらしくてさぁ。仕方ねぇからオレとフリーターのメンバーでホール回してんの。――ま、座れや。お冷や持ってってやるから」
「うん……」
兄は本当に予約席を用意していた。そこで僕は、兄にミラノドリアとボロネーゼパスタをオーダーした。「そんなに食って金大丈夫か」と訊かれたので、臨時収入があったのだとだけ答えた。
「――で、臨時収入ってどこから入ったんだよ?」
運ばれてきた料理を(運んだのはもちろん兄だ)美味しく頂いていると、兄は僕の向かいの席にドッカリ座って興味津々で訊ねてきた。どうでもいいが、仕事サボってていいのかよ?
「ちょっと……人の送迎を頼まれてさ。臨時収入はそのお礼で、五千円もらった」
あまり根掘り葉掘り訊かれるのもウザいので、簡潔にそう答えた。が、思わずニヤけてしまったのを兄にはバッチリ見られてしまった。
「……なぁ、それって女の子か? そこんところ、もっと詳しく聞かせろ」
僕は仕方なく、それが会長令嬢である絢乃さんだったこと、会長のご病気のこと、そして僕自身が秘書室に異動しようと決意したことを話した。
「そうかそうか! お前が前向いてくれて兄ちゃんは嬉しい! 頑張れよ!」
「う……うん。頑張る……けど」
僕は困惑した。兄は何に対して頑張れと言ったのだろう? 新しい仕事……にしてはなんか話がズレているような。
「秘書になりたいと思ったの、そのコのためなんだろ? これがキッカケで、お前のトラウマが治るといいな」
「え……いや、まぁ。うん……」
僕の決意を聞いて、絢乃さんへの恋心が兄にもバレてしまったようだった。それ以来、兄は僕の恋の後押しをしてくれるようになったのだった。
秘書としての覚悟
1
――僕はその翌週のうちに秘書室への異動が認められ、秘書としての研修がスタートした。
ちなみに、転属には所属していた部署の上長の承認が必要なのだが、島谷氏はあっさりと承認印を押してくれた。前もって社長や人事部長・秘書室長の承認印が押されていたので押さざるを得なかったのだと聞いたが、実は加奈子さんから何らかの圧力がかかったのだと僕は勝手に思っている。
とはいえ、十月の異動シーズンからも少しズレていたので、僕のこの時期の異動はイレギュラーな特例だったらしい。
「――桐島くん、秘書の仕事でいちばん大事なことって何だか分かる?」
室長から指導係に任ぜられた小川先輩が、僕に優しく問いかけた。
研修が始まってから、僕は秘書の業務もそつなく覚え、こなしてきた。が、先輩にこう訊ねられたということは、僕にはまだ何かが欠けていたということだ。
「えーと……、時間に正確であること……ですかね」
首を傾げながら、思いつく答えを言ってみた。あとは命令に忠実なこと、口が堅いこと、このあたりだろうか。
「まぁ、それも正解かな。ボスのスケジュール管理は秘書にとって大事な仕事だからね。でも、時間に縛られたくないボスもいるし、あまりにも忙しすぎるとかえってストレスを与えちゃうよね。だから、そのあたりはあまりナーバスになる必要はないとあたしは思ってる。大事なのは時間配分と匙加減」
「要するに調整能力ってことですね。じゃあ、それが正解なんですか?」
僕がそう解釈すると、先輩は「う~ん」と唸ってから「それも違うかな」と答えた。
「えっ、違うんですか?」
「うん。正解はね、どれだけボスに気持ちよく仕事をしてもらえるか考えて、工夫すること。まぁ、簡単に言えばボスへの愛、ってことね」
「愛、ですか……」
彼女の源一会長への想いを知っていた僕には、この言葉にものすごい説得力を感じた。
「先輩が言うと、何か重みがありますよね」
「……あっ、違う違う! あたし、そういう意味で言ったんじゃないからね!? 愛っていうのは、信頼とかリスペクトとかそういう意味!」
首元まで真赤にして弁解する先輩だが、ここは給湯室で僕以外には誰もいないので、そんなにムキに必要もないのではないだろうか?
「あたしは会長のこと人として尊敬してるし、秘書として信頼されてるのが嬉しいの。それは仕事のやり甲斐にも繋がっていくから」
「なるほど……。まぁ、先輩のこと茶化しちゃいましたけど、俺だって同じようなもんですよね。絢乃さんのために秘書室に異動したわけですし」
小川先輩は違うかもしれないが、僕が異動を決意した裏には間違いなく絢乃さんへの下心……もとい恋心があったのだから。もちろん、篠沢絢乃さんという一人の女性を尊敬する気持ちもあるし、信頼関係を築きたいというのも本当なのだが。
「そうだよねぇ、桐島くんは絢乃さんのこと好きなんだもんね♪ でも不倫じゃないでしょ? ……あたしも違うけど」
「そりゃ、不倫ではないですけど。相手、まだ高校生ですよ? 未成年ですよ? やっぱりそういうところって気にしちゃうじゃないですか。『ロリコンだと思われて気味悪がられるんじゃないか』とか」
僕は至極まっとうなことを言ったつもりだったのだが、小川先輩はケラケラと笑い出した。……もしかして、こんな考え方しかできない僕はチキン野郎なのだろうか?
「それはあなたの考えすぎなんじゃない? だって、別に元々ロリコン趣味があって絢乃さんのこと好きになったわけじゃないでしょ? 好きになった相手がたまたま高校生だったってだけのハナシでしょ? だったら問題ないよ」
「そうですかねぇ……」
「そうだよ。――まぁ飲みなって、コーヒー。せっかく淹れたんだし」
先輩は休憩も兼ねて、僕のためにコーヒーを淹れてくれていたのだ(ちなみにインスタントである)。
僕は「いただきます」と言ってマグカップに口をつけた。……が。
「熱っつ! 先輩、これ沸騰したお湯で淹れたでしょ!」
「えっ? うん。そうだけど……何か問題ある?」
「コーヒーは、沸騰させたお湯で淹れたら薫りが飛んじゃうんですよ。それはインスタントでもおんなじです。美味しく淹れるには、お湯を少し冷ますのがポイントなんで覚えて下さいね」
僕は講釈を垂れながら「あ、ヤベっ!」と我に返った。昔っからこうなのだ。自分の好きなもの――主にコーヒーやクルマについて語るとついつい熱くなってしまうという、悪いクセが出てしまうのである。
「……分かった、ありがと。ちゃんと覚えとくわ。っていうかそれ、桐島くんにとって絢乃さんへの愛になるかもね。秘書としての」
「……えっ?」
「絢乃さん、大のコーヒー好きなんだって。よかったねー、引かれずに済みそうで」
「そうなんですか。教えて下さってありがとうございます!」
小川先輩のアドバイスが、大切な絢乃さんのために何ができるかという僕の悩みに対する答えになりそうだと思うと嬉しかった。
* * * *
「――む? ケータイ鳴ってる。……あ、俺のだ」
スーツの胸ポケットからスマホ(ちなみにカバーなどは着けておらず、裸のままだ)を取り出して画面を確認すると、登録していない携帯番号からの着信だった。
横から覗き込んでいた小川先輩が「あ」と声を上げた。
「桐島くん、電話出なよ。これ多分、奥さまの番号」
「……へっ? ――はい、桐島……ですが」
『ああ、桐島くん? 私、加奈子です。分かるかしら』
通話ボタンをスワイプすると、果たして発信者は会長夫人の加奈子さんだった。でも、僕はあの人に連絡先を教えた記憶がない。一体どうやってこの番号をお知りになったんだろう?
「はい。ですが、よくこの番号がお分かりになりましたね」
『絢乃から聞いたのよ。この先、私からあなたに連絡を取らなきゃいけなくなることもあるだろうと思って。――お仕事中にごめんなさいね』
「ああ、いえ。――どうされました?」
ちなみにこの頃、加奈子さんはすでに僕が秘書室へ異動していたこともご存じだった。小川先輩から伝え聞いていたのだという。
『あの子のことで、あなたにお願したいことがあるのよ。……多分、あなたにしか頼めないことなの。もちろんあなたには断る権利もあるし、無理にとは言わないけれど』
「僕にしか頼めないこと……ですか?」
それも愛しの絢乃さん絡みだという。加奈子さんもおっしゃったとおり、僕にはお断りする権利もあった。が、絢乃さん絡みだとすれば僕には断る理由がなかった。
『ええ。桐島くん、本当に、ムリに引き受けなくてもいいのよ? あなたも部署が変わったばかりで大変なのはこっちも重々承知しているから――』
「いえ、ぜひともお引き受けします! ――で、僕は一体何をすればよいのでしょうか」
『あのね、これから時々でいいの。学校帰りの絢乃を、あなたのクルマでどこかに連れ出してあげてほしいのよ。あの子いま、学校と家の往復しかしてないから、気が滅入ってると思うの。だから時々、気分転換のつもりでドライブにでも、と思って』
「えっ、そうなんですか?」
僕はそれまで、絢乃さんの生活パターンについて聞いたことがなかった。加奈子さんのお話によれば、お父さまが倒れられるまでは放課後にお友だちと連れ立って、お茶やショッピングくらいはしていたのだというが、それどころではなくなっていたらしいのだ。お友だちも彼女の心情を慮って遠慮していたのだろう。
何とも優しくて真面目な彼女らしいとは思ったが、そんな彼女にも多少の気分転換が必要だというのは僕も同感だった。
2
「分かりました。そういう事情でしたら、僕も絢乃さんのためにひと肌脱ぎましょう。……あ、ですが一つ問題が」
僕は二つ返事で承諾しようとしたが、肝心なことを忘れていた。社会人である僕と高校生だった彼女とでは生活パターンが違ったのだ。絢乃さんを学校帰りに迎えに行くということは、僕は会社を早退しなくてはならないということだ。僕が仕事を終えるまで彼女に学校で待ってもらうわけにはいかないのだから。
そのことを加奈子さんに伝えると、「そのことなら心配要らないわよ」という返事が返ってきた。
『あなたが会社を早退するかもしれないことは、もう室長の広田さんに伝えてあるから。あなたが仕えるべきボスは絢乃なのよ。だからそこは気にしなくてよろしい』
なんと、いつの間にそういうことになっていたのか。さすがは元教師の加奈子さん、色々と手回しのいいことで。
「つまり、根回しもバッチリというわけですね。分かりました」
『ま、そういうことだからよろしくね。あ、そうだ。あなたが部署を変わったこと、まだあの子には話してないわよ。あなたもまだ伝えてないでしょう? でも、私から伝えるのもおかしな話だものね』
「……そうですか」
『じゃあ、とにかくそういうことで。そろそろ失礼するわね』
僕も「はい、失礼致します」と言って通話を終えたが、小川先輩が怪訝そうな顔で僕を見ていた。
「…………先輩、何ですか?」
「桐島くんさぁ、絢乃さんにまだ異動したこと話してないの?」
「はい。別に隠しているわけじゃないんですけど、何ていうか……。俺が部署を変わったって聞いたら、絢乃さんはきっと理由を知りたがるじゃないですか。でも、その理由を話したらきっと、あの人はお父さまの死が近づいていることをイヤでも意識してしまうんじゃないかと思うと……」
せっかく前向きに、お父さまの残された命の期限と向き合うようになった彼女の明るさを、そんなことで奪ってしまいたくなかった。
「でも、いつかは話さなきゃいけないっていうのはあなたも分かってるんだよね?」
「それは分かってます。ただ、今じゃないかな……って。あくまでタイミングの話で」
こういう大事なことは、言うタイミングを間違えると相手に大きな誤解を招いてしまう。――これはあくまで僕個人の経験から学んだことだが。
いよいよお父さまの死期が迫ってきたというタイミングで言わなければ、僕が源一会長の死を望んでいるのではないかというあらぬ疑惑を絢乃さんに抱かれる恐れがあったのだ。もちろん、彼女がそういう人ではないことは僕にも分かっていたが、いかんせんこういう時にも女性不信が出てしまうのが、僕の忌まわしい部分でもあった。
「それってさぁ、ただ単に絢乃さんに嫌われたくないだけなんじゃないの?」
「…………うー」
小川先輩の指摘は、僕の痛いところに思いっきりクリティカルヒットした。自覚があっただけに、反論の余地もない。
「桐島くん、それ、かえって逆効果なんじゃないかな。リミットギリギリになって言う方が、『この人、パパが危なくなるタイミングを狙ってたんじゃないか』って絢乃さんに思われるとあたしは思うんだけど」
「…………確かに、そうかもしれないっすね」
「でしょ? だったら早い方がいいと思うけどなぁ。タイミングを遅らせれば遅らせるほど、あなたも言いにくくなるだろうし」
「……分かりました。じゃあ……とりあえず、秘書室だってことは伏せて、異動したってことだけは早めにお伝えしようと思います」
僕の中で葛藤はあったものの、とりあえず僕側が譲歩する形でこの話題は終わった。
「――ところで先輩。源一会長が亡くなられた後、先輩はどうするんですか? 会長秘書は二人も要らないですよね」
源一会長亡き後、後継者となられるのは絢乃さんの可能性が大だった。僕が彼女の秘書に付くことになれば、源一会長の下で秘書として働いていた小川先輩はハブられる形になる。……ちょっと言い方は間違っているかもしれないが。
「そのことなんだけどね、あたし、どうやら村上社長に付くことになりそうなの。何でも、社長秘書の横田さんが年内一杯で会社を辞めることになったらしくて。……実家の家業を継ぐんだって」
「そうなんですか。横田さんのご実家って確か、湯河原の温泉旅館でしたっけ」
横田司さん(ちなみに男性である)は当時三十二歳で、温泉旅館を営むご実家の長男だったらしい。六十代のご両親がお元気だったので、家業は継がなくていいと言われて東京で就職したが、女将だったお母さまが体調を崩され、急きょ家業を継ぐことになったそうだ。
「うん。ウチの社員旅行でもお世話になったよね。まぁでも、あたしは会社を辞めるわけじゃないし、会社に残るから、何かあったらいつでも相談に乗るよ」
「はい」
まだ慣れない秘書の業務に追われる中で、小川先輩というよき相談相手が身近にいてくれて、僕は恵まれているなぁと思う瞬間だった。
* * * *
僕は十一月の初旬、自動車メーカーの正規ディーラーを訪れ、新車の購入契約をした。外側の塗装や内装をカスタムしたこともあり、納車には半月から一ヶ月ほどかかると言われた。
その分費用はトータルで四百万円ほどかかってしまったが、それが僕の秘書としての覚悟の証明になるなら安いものだと思えた。
シートのカラーが自分で選べたので、僕は数あるカラーの中から上品なワインレッドをチョイスした。絢乃さんのイメージなら、どキツいピンク系よりもそちらだろうと思ったからだ。それに、ワインレッドだとシートの生地がベルベット地になるので乗り心地もよくなるだろうと。
新車と引き換えに、それまで散々こき使いまくったオンボロのシルバーの軽自動車は下取りしてもらうことにした。納車前に売っ払ってしまうと、僕の通勤手段がなくなってしまうからだ。当然のことながら、絢乃さんをドライブにお連れすることも不可能になってしまう。
「売っ払っちまうくらいなら、なんでオレに譲ってくんなかったんだよ!?」
兄は(もちろん普通自動車の免許は持っている)文句タラタラだったが、だったら兄貴が車検代とか維持費払えるのかと訊いたところ、反論がなかった。どうやらそっちの経費は僕に丸投げするつもりだったらしい。いくら篠沢商事の給料が飲食系よりいいとはいえ、二台分のクルマの維持費を払うなんて冗談じゃない。こっちの生活が成り立たなくなるじゃないか。
――なんてことがありつつ、僕は時々絢乃さんを放課後のドライブにお連れするようになったのだが……。
「異動しました」の一言を彼女に告げるタイミングがなかなか掴めないまま、一ヶ月近くが経過した。気がつけばその年もあと一ヶ月を残すところとなり、クリスマスが近づいていた。
小川先輩の言ったとおり、大事なことは話すタイミングをズルズルと引き延ばせば引き延ばすほど言いにくくなる。そんな中で源一会長の命にもタイムリミットが迫っていて、僕は焦り始めていた。
せめて、よく会社を早退するようになった僕に疑問を抱かれた絢乃さんの方から切り出してはくれないだろうか、と何とも他力本願なことまで考えるようになっていた。が、ある日それが叶ってしまった。
3
ある日の午後、僕は例によって八王子まで学校帰りの絢乃さんをクルマでお迎えに行った。仕事は三時で切り上げ、早々に退社して。
その日は世界一の高さを誇る墨田区の電波塔に行きたいという彼女のために、クルマを走らせていたのだが。
僕が新車を購入したという話に驚を隠せなかった彼女は、どういう話の流からか僕がいつも会社を早退していることへの疑問を口に出された。
「……っていうか桐島さん、今日も会社早退してきたんだよね? 大丈夫なの?」
もしかしたら、自分のためにいつも会社を早退しているから僕の会社内での立場が危うくなるのでは、と心配に思われたのかもしれない。
なかなか言い出せなかった僕に助け船を出して下さる形になった絢乃さんには感謝したが、内心では「なんで早く言わなかったんだ、俺のバカヤロー!」と自分自身に罵声を浴びせたくなった。そのせいで、彼女に余計な心配をかけてしまったかもしれないのだ。
「大丈夫ですよ。……実は僕、以前から総務課で上司のパワハラ被害に遭ってまして、部署を異動することにしたんです。で、今は異動先の部署の研修中で早く退勤させてもらってるんです。お母さまの計らいで」
僕のパワハラ被害のことは、初対面の時にそれとなく匂わせていたので、ここまでは無難にスラスラと言葉が出てきた。
案の定、彼女は僕の異動先も知りたがった。ここで話してしまえば僕は心のつかえが下りて楽になれたかもしれないが、絢乃さんの心を曇らせてしまうのは本意ではなかったため、「言えるタイミングが来たら、真っ先に絢乃さんにお伝えします」とお茶を濁した。でも聡明な彼女は、その言葉の裏で「その時が来ないでくれればいのに」と僕が思っていたことに気づいて下さったようだ。それ以上詮索されることはなかった。
「あと、新車も真っ先にあなたにお披露目しますね。楽しみにしていて下さい」
取り繕ったように新車の話題に戻すと、「楽しみにしてる」と彼女は笑顔でおっしゃったので、どうやら話を逸らすことには成功したようだった。
そして、僕は漠然とだが気がついた。絢乃さんはどうやら、本当に僕に好意を抱いているらしいことに。――それまでは女性の真意を信じられなかった僕も、これだけは信じてもいいのかもしれないと自然と思えた。
* * * *
タワーの入館チケットは、絢乃さんが僕の分までお金を出して買って下さった。社会人が女子高生に奢ってもらうのはどうなのかと思ったが、そこは大人として彼女に花を持たせるべきだろうと判断して、素直にご厚意に甘えることにした。
それにしても、この人は月々のお小遣いをいくらもらっているんだろう? ――僕はそんな疑問に頭をもたげた。チケットを購入している時に彼女の長財布の中がチラッと見えたが、千円札や五千円札の他に一万円札が何枚も入っているように見えた。多分、十万円に少し欠けるくらいでサラリーマンの僕の所持金より多い。一般的な女子高生が持ち歩く金額ではないよな……。
そんな些細なことからも自分と彼女との格差を感じ、僕は落ち込むのだった。
「――わぁ……、スゴくいい眺め!」
地上三百五十メートル地点にある天望デッキのガラス窓にへばりついた絢乃さんは、女子高生らしく無邪気に歓声を上げた。彼女はどうやら高いところも苦手ではないらしい。
ちなみに、源一会長には高所恐怖症の気があったらしいと絢乃さんがおっしゃっていた。そんなお父さまに遠慮して、生まれて十七年以上このタワーに上ったことがなかったのだと。
窓の外に広がる、まるでジオラマ模型のような東京の街並みを見下ろす彼女の姿を見て、やっぱりこの人は生まれながらにして大きな組織のトップに立つべき人なんだと僕には思えた。
「気分転換できました?」
「うん! 来てよかった。桐島さん、連れてきてくれてありがとね!」
僕が訊ねると、満足そうに頷く彼女の表情は明るかった。普段とは違う景色をご覧になれば気分も変わるし、息が詰まりそうな過酷な現実から、彼女をひとときの間だけでも解放して差し上げられる。彼女はきっと、本当は日ごとに近づくお父さまとの別れに心を痛められ、泣きたいのを堪えて必死に明るくふるまっておられたのだろう。だからせめて、僕の前だけでも等身大の女の子でいてほしいと願っていた。僕はそのために、秘書になろうと決めたのだ。
そこでそれとなく、絢乃さんに毎月のお小遣いの額を訊ねてみると、彼女は「毎月五万円」と屈託なく答えて下さった。でもブランドものは好きではないし、高校生の交際費なんて限られているから多すぎるくらいだとおっしゃった。だから財布の中があんなにパンパンになっていたのだ。
「お嬢さまは金使いが荒い」というイメージしか持っていなかった僕は正直驚いたが、絢乃さんは人並みの金銭感覚を持ち合わせているらしく、なかなかの節約家であるらしい。お嬢さま育ちとはいっても、婿養子だったお父さまは元々一般社員だったし、お母さまも教師だった頃にはご自身で給料を管理していたそうなので、その堅実なご両親のDNAを立派に受け継がれているからだろう。
お父さまとは以前よりよくお話をされるようになったらしい。
父親と娘というのはどこの家庭でも没交渉というか、あまりいい距離感ではないと思っていたが(いわゆる「パパウザい!」的な?)。絢乃さんとお父さまの場合はそれに当てはまらなかったようだ。夕焼けに染まりながら目を細めて話される絢乃さんは、お父さまへの愛情が全身から溢れ出していて神々しいくらいだった。
「余命宣告された時はショックだったけど、今はパパと過ごす時間の一分一秒が尊く思えるの。そう思えるようになったのは貴方のおかげだよ。桐島さん、ホントにありがと」
そう語られたように、彼女はお父さまの命のリミットと真摯に向き合われているのだと分かり、僕も嬉しかったし、そんな彼女のことがより愛おしく感じた。「感謝されるようなことは何も」と謙遜で返したが、本当はベタ褒めされるのが照れ臭かっただけだ。
「――そういえば、もうすぐクリスマスですね。絢乃さんはもう予定が決まってらっしゃるんですか?」
こんな質問をしたのは、あわよくば彼女が僕と一緒にクリスマスを過ごしてくれるのではないか、という淡い期待もあったからかもしれない。デートなんておこがましいことは言えないが、せめてメッセージアプリで繋がって、同じ時間を共有するくらいならバチは当たらないだろう、と。正直、もう〝クリぼっち〟からは脱却したかったのだ。
絢乃さんは「まだ特にこれといっては」という答えの後、僕に「彼女と過ごしたりするの?」と質問返し。
こんなことを訊くということは、もしかして……!? 彼女も僕と過ごしたがっているのか!? 待て待て俺! 女性不信はどこに行った!?
「いいえ、僕もまだ何も。というか彼女はいないので、今年もきっとクリぼっちですね……」
肩をすくめ、余裕をぶっこいて答えたつもりだったが、本当は心臓バクバクだった。ちなみに脳内BGMは超ロングヒットのクリスマスイブの歌である。
彼女はホッとしたように「……そう」と言ったので、僕に交際相手がいないことに安心していたのは間違いないようだった。
絢乃さんは毎年、イブにはお友だちとお台場のツリーを見に行かれるそうだが、その年はお父さまと過ごされる最後のクリスマスだけに、お友だちも遠慮されているらしかった。そしてきっと、彼女自身も悩まれていたのだろう。
4
「――絢乃さん、寒くないですか?」
帰りのクルマの中で、僕は何やら助手席で考え事にふけっていた彼女に声をかけた。
「ん? 大丈夫だよ。コート着てるし」
そう答えながらも、両手の指先をこすり合わせていた彼女は少し寒そうに見えた。ああ、でもコートの萌え袖、可愛い……。
この日は朝から寒く、僕は寒さに強い方なので大丈夫だが寒さに弱そうな絢乃さんのために暖房を効かせて差し上げたかったのに、廃車寸前でバッテリーが上がりかけていた車内での暖房の効果はイマイチだった。新車に変われば、彼女にもっと快適なドライブを楽しんでもらえるのだが……。
「それならいいんですが……。すみません、このクルマ、ポンコツなんで。暖房の効きが悪くて」
「でも、もうすぐこのクルマとはお別れなんでしょう? だったらもうちょっとのガマンだね」
「……そうですね。ところで、先ほどから何を悩まれていたんですか?」
「うん……、クリスマス、どうしようかなーって。何もアイデアが浮かばないの。家族とも、親友とも、桐島さんとも一緒に楽しめる方法、何かないかなぁ……」
……あれ? 今、俺の名前出てこなかったか? 僕は一瞬、自分の耳を疑った。彼女はやっぱり、クリスマスを共に過ごす相手に僕もカウントして下さっていたらしい。
「僕のことはお気になさらず。今はお父さまのことを気にかけて差し上げて下さい。それにまだ時間はありますから、ゆっくり考えて下さって大丈夫ですよ」
「…………そう、だね。ありがと」
その時点で、クリスマスイブまでは半月以上もあった。その間にご両親やお友だちと相談して頂ければ、何かいいアイデアが浮かぶかもしれない。そしてあわよくば、僕もその仲間に加えてもらえるかも……なんて思ったのだ。
――僕は僕で、運転しながら源一会長の病状について思いを馳せていた。
彼はその頃、すでに体力的にかなり衰弱されていて、車いすで出社されていた。
その前には辛うじて歩くこともできたが、足腰がかなり弱っておられたので社内でフラついておられることも多かった。廊下で倒れそうになっていた源一氏を、僕が慌てて支えることもしょっちゅうで、「桐島君、いつもすまないね。ありがとう」と感謝されることもしばしばあった。
そんな体になっても、源一会長は無理をおして出社し、PCに向かって一心不乱に何かをされていたと僕は小川先輩から聞いた。
一体何をされているのか先輩が訊ねると、「あの子のために、これだけは死ぬ前にどうしてもやっておかなければいけないんだ」とお答えになったそうだ。
きっと彼の中ではもう、絢乃さんが自身の後継者だと決められていたのだろう。ただ、そこに彼女のハッキリとした意志が組み込まれているのかどうかまでは、僕も小川先輩も分からなかったが……。僕の感じていた限りでは、絢乃さんにも「お父さまの後を継ぐ」というしっかりした意志があるようだったので、源一氏が命を削られてまでされていたことは決してムダではなかったのだろう。現に、そのおかげで絢乃さんは会長の仕事を始められてからも困ることがなかったのだし。
「――桐島さん、今日も付き合ってくれてありがと。楽しかったよ」
ご自宅の前で車を降りられた絢乃さんは、屈託のない笑顔で僕にお礼を言った。でも、僕はひっそりと思っていた。これってまるで、デート帰りのカップルの別れ際じゃんか。
「楽しんで頂けて何よりです。僕も忙しくなったので、毎日というわけにはいきませんが。また一緒にどこかへ行きましょうね」
「うん。あと、クリスマスイブのことだけど……」
「それは、ちゃんと予定が立ったらまた連絡を下さい。先ほども申し上げましたが、僕に気を遣われる必要はないので」
絢乃さんと一緒に過ごせたら……というのはあくまで僕の勝手な願望というか妄想であり、特に何もなければ実家で過ごすという手もあったのだ。ただし、そこには漏れなくやかましい兄が付いてくるのだが。
「分かった。じゃあ決まったら連絡するね」
――絢乃さんはその後、僕のクルマが走り出すまでずっとその場から見送ってくれていた。というか、これは後々から知ったことだが、いつもそうして下さっていたらしい。
* * * *
――そして、その翌朝。
「おはようございます、室長。小川先輩もおはようございます」
「おはようございます」
「おはよう、桐島くん」
僕の出社の挨拶に最初に返事をしたのが秘書室のボス・広田妙子室長。背中までの長い黒髪をひっつめ、パッと見はキツそうな顔をしているが、本当はすごく部下思いの優しい女性だ。その当時で四十二歳。どこの部署だったか忘れたが、ご主人は同じ社内にいらっしゃるらしい。ご結婚が遅かったので、まだお子さんはいらっしゃらなかった。
そして、室長の次に返事をしてくれたのは小川先輩だ。この二人は上司と部下という関係を超えて、女性同士で馬が合うらしい。ちなみに、我が秘書室には男性社員も数人在籍しており、後に広田室長につくことになる藤井さんも僕の一つ年上の男性である。
「ちょっと桐島くん! 『小川先輩も』ってどういうことよ!? ……まぁいいや」
気心知れた相手なので、先輩がこうして僕の言うことにいちいち茶々を入れてくるのは挨拶代わりのようなものだったし、僕もいちいち気にしていなかった。
「いいんですかい。……あ、コーヒー淹れてきましょうか? 僕も飲みたいんで」
とはいっても、この頃はまだ自前の豆やら道具やらは会社に持ち込んでおらず、給湯室にはインスタントコーヒーしかなかったのだが。
「いいの? じゃあお願い。あたし、ブラックの濃いめで」
「じゃあ私もお願いしようかな。薄めのお砂糖多め。ミルクはなしで」
「分かりました」
給湯室へは、秘書室から直通の通路で行ける。あと、会長室側からも同じような通路が設けられている。
僕は手際よく三人分のコーヒーを淹れ、マグカップをトレーに載せて秘書室に戻った。ちなみに僕はミルク入りの微糖が好みだ。
「――はい、お待たせしました」
「ああ、ありがとう、桐島くん」
「ありがとー。いただきま~す♪ ……ん、美味しい♡」
「でしょ? 温度が大事って言ったの、分かってもらえました?」
僕は得意げに肩をそびやかし、自分もカップに口をつけた。
「――ところでさ、桐島くん。昨日絢乃さんとデートしてきたんでしょ? どうだったの?」
「……………………ブホッ!」
ホッと一息ついたところで、先輩がサラッと爆弾のような質問を投下してきた。僕はしばらくゴホゴホとむせた後、やっとのことで反論した。
「デ……っ、デートじゃないですよ!? そんなおこがましい!」
「えーー? そうかなぁ? あたしはデートだと思うけど」
先輩も大概しつこい。こっちが否定してるのにまだ言うか。
「…………どうしてそう思うんですか? 絢乃さんが俺のこと好きかどうかなんて分からないじゃないですか」
「だってあたし、分かるもん。絢乃さんも桐島くんのこと好きだって、絶対」
「……………………」
この人はどうしてこんなに自信満々なんだろうか。そもそも、ちゃんと根拠があっての発言なのか?
「……先輩、それ、何か根拠があって言ってるんですか?」
「女のカン、っていうのは冗談だけど。傍から見ればあなたたち、付き合ってるようにしか見えないもん」
「え…………、マジっすか」
確かに僕サイドはそのつもりだった。「おこがましい」と口では言っても、秘書室に異動したのも新車に買い替えたのも全部、愛する絢乃さんのためだった。が、彼女の気持ちがどうだったのかまでは、僕には分からなかった。
リミット
1
「……で? どうだったのよ、昨日?」
そうだった。僕と先輩はその話をしていたのだ。先輩が急に変なことを言い出したから話が脱線したのだった。
「昨日は世界一のタワーに行きました。そのあとクリスマスイブの話題になったんですけど」
「うんうん。それで?」
「昨夜、絢乃さんからお電話があって。『イブの夕方六時からウチでクリスマスパーティーをやるんだけど、あなたも来ない?』ってお誘いを受けました。……何でも、源一会長が俺も招待したいっておっしゃったそうで」
「…………へぇ。いいじゃん! で、あなたは当然参加するんでしょ?」
僕の話を聞いて、先輩は大はしゃぎだった。が、最初の溜めは多分、自分にお誘いがかからなかったことを残念がっていたのだろう。
「ええ、最終的には。でも、最初は渋ってたんですよ。『俺が言ったら場違いなんじゃないか』って思って、お断りしようとしたんです。最初は会長からのご招待だとは知らなかったんで」
「えっ、そうなの? もったいない」
「なんか、絢乃さんと個人的に親しくさせて頂いてることを後ろめたいっていうか……。付き合っているかどうかは別としても、俺が彼女に好意を抱いてることは事実ですし。相手がまだ高校生だから、とか年の差とかやっぱり気にしちゃって。…………ただでさえ体調がすぐれない会長のご気分まで害してしまったら、とか思うと」
一般的には、父親というものは自分の娘と親しくしている男の存在が気に入らないらしい。ウチの父親には二人の息子しかいないので何とも言えないが。
「桐島くんってばそんなこと気にしてるの? あたしが思うに、会長はあなたのこと気に入ってるはずよ? あたしの知ってる限りじゃ、あの人は世間一般の父親とは違うから。だからクリスマスにもあなたを招待したんじゃないかな」
「ああ……、そっか。そうですよね。気に入らない相手を招待なんかしませんよね」
「そうそう。まぁ、あなたに下心があることまでご存じかどうかは分かんないけどねー」
「したっ……!? だからそんなんじゃないって言ってるじゃないですか!」
僕は顔を真っ赤にして猛抗議した。絢乃さんへの恋心は事実だし、それは百歩譲って認めるとしよう。だが。決して恋心=下心ではないのだ。別に僕は、絢乃さんをどうこうしようなんて思ったことはなかった。ただ僕が勝手に想う分にはいいじゃないか、と思っていただけで……。
「――そういえば会長、最近会社であまりお見かけしませんね」
少し前まで、車いすになっても無理をおして出社されていたのだが。それもできないくらい弱られていたということだろう。
「うん……。あたし、奥さまから連絡頂いたんだけど、このごろは朝起きられないくらいつらそうなんだって。でも起きられないわけじゃないらしいの。お昼くらいに起きて、ご自宅の書斎でお仕事されてるらしいんだけど。自由ヶ丘から丸の内までクルマを運転してくるのもつらいんじゃないかなぁ」
「もう……そんなにお悪いんですか。えっと、お仕事っていうのはこないだ先輩が話してくれたヤツですか? 絢乃さんのためにやっておきたいって、会長がおっしゃってたっていう」
僕が先輩からその話を聞いたのは、それより一週間ほど前のことだった。
「ううん、そっちはもう終わられたみたい。会長がご自宅でなさってるのは通常業務の方。決裁とか色々ね」
「ああ、そっちですか」
会長としても、とりあえず一つの大きな仕事を終えられたのだからひと安心、といったところだっただろう。
「……でもさ、桐島くん。そろそろリミットって考えた方がいいかもよ? あなたも覚悟決めないと」
「…………ですね」
先輩の言わんとしていることが、僕にはハッキリと分かった。会長の命の期限がもうすぐそこまで迫ってきている――つまり、絢乃さんが会長になられる日も近いということだ。
「ここだけの話だから、他の人にはまだ言わないでね? あたし、会長から直接伺ったんだけど、会長の中ではもう、絢乃さんを後継者に決めてらっしゃるみたい。遺言書も作られたって聞いたよ。正式なヤツ」
「そうなんですか? じゃあ……もう絢乃さんが次の会長ってことでほぼ決まりじゃないですか!」
〝ほぼ〟と言ったのは、正式に就任が決まるまでには株主総会という関門があり、他の候補者がいなければ、という条件もプラスされるからである。
「そういうこと。だから、あたしは今、あなたにも会長秘書としての心構えを説こうとしてるの」
……そうか、もうそんなことになっていたのか。とすれば、僕もそろそろ移動先が秘書室だということを絢乃さんに打ち明けなければと思った。
ちょうどもうじき新車も納車される頃だったし、クリスマスパーティーの日がちょうどいい機会だろう、と。……ただ、僕が源一会長の死期を待っていたかのように絢乃さんから誤解されたら……という心配はまだ残っていたが。
この頃になってもまだ、絢乃さんのことを百パーセントは信用できていない自分がいた。
僕は別に、「会長秘書をやりたい」と小川先輩や室長、先輩たちに公言していたわけではないのだが。自分の中では「絢乃さんに付く」=「会長秘書」という理屈ができあがっていた。だって、絢乃さんが会長以外のポストに就くことはあり得ないのだから。
そして、彼女以外の人が会長に就任された場合、僕は会長秘書のポストを辞退するつもりでいた。僕は彼女の支えになりたくて秘書室に入ったのだ。彼女以外の人に付くなんて冗談じゃなかった。
* * * *
それから二週間ほどしたクリスマスイブ直前の土曜日、僕の新車が納車された。と同時にオンボロ車はお役御免となり、僕はピカピカの新しいセダンを運転してアパートに帰った。ちなみに、前のクルマとカラーリングを同じにしたのは、僕のクルマがシルバーだと絢乃さんに憶えて頂くためだった。
セダンは父も乗っていたので運転させてもらったことがあったが、自分の愛車はまた愛着が違う。ハンドルが若干重く感じたのは、ローンの返済が重くのしかかっていたからだろうか。
軽の時とは違い、助手席との間が少し広いので、絢乃さんを乗せるたびに感じるドキドキ感はほんの少し緩和されたと思う。
「絢乃さん、このクルマ見て何ておっしゃるかな……」
購入の報告をした時、彼女は嬉しそうに「楽しみにしている」とおっしゃっていたので、喜んで下さるだろうとは容易に想像がついた。が、それと同時に僕は気を引き締めた。
その時には、秘書室へ異動したことを彼女に話さなければならないのだ、と。
彼女はきっと、あの三ヶ月間を有意義に過ごされ、もうある程度は覚悟ができていただろう。お父さまの死後、ご自身がどういう立場に置かれるのかを。元々芯の強い女性だったようだし。
でも、きっとその裏で人知れず涙を隠してもいたと思う。その涙を、僕の前では隠さずにいてほしかった。彼女が涙を見せられる唯一の存在が僕であってほしいと願っていた。
「……っていうか、当日何着ていこう?」
僕はそこで頭を抱えた。僕の私服は決してダサくはないと思うのだが、果たしてよそのお宅(ましてやあんな大豪邸だ)に着ていってもいいレベルのものかどうか……。
こういう時、誰を頼るか? 兄にだけは相談したくない。ハッキリ言って、センスの〝セ〟の字もないから。
「……………………しょうがない、ここは小川先輩に相談するか」
絢乃さんに嫉妬されるかもしれないと思いつつ、僕は先輩に電話したのだった。
2
――そして迎えた、クリスマスイブ当日。
その日はたまたま日曜日だったため、僕は朝からソワソワとした気持ちで小川先輩と一緒に渋谷のデパートへ出かけた。
デート、ではない。この日招待されていた篠沢家のクリスマスパーティーに着ていく服を、先輩に選んでもらうためだ。
『――先輩、俺、絢乃さんのお宅のクリスマスパーティーにどんな格好で行ったらいいか分かんないんで、選んでもらっていいっすか?』
あの日、電話で先輩に頼んでみると、「あたしも忙しいから、土日なら一緒に選びに行ってあげられるけど。っていうか当日って日曜だよね」と言われ、当日になってやっとこういう状況になったというわけだ。
「っていうかさ、桐島くんの部屋にある服見せてもらったけど。ハッキリ言って地味だね。っていうかモノトーン好き?」
「……そんなにバッサリ斬り捨てなくても」
僕は情け容赦のない先輩のコメントに呻きながら、紳士服売り場で手にしていた黒のニットを棚に戻した。
「あんまり色で冒険したくないんですよ。それで失敗したら大惨事でしょ。だから無難にモノトーンを選んじゃうんです」
「誰に対しての大惨事よ? ……でも、色はともかくセンスは悪くないと思うな。パーティーって言ってもホームパーティーなんだから、あんまり気張ってオシャレする必要もないし。あれくらいの感じで行けばいいんじゃないかな? まぁ、色はあたしがチョイスしてあげるとして」
「そうっすか。じゃあ色は先輩にお任せします」
そう言って頭を下げると、彼女は張り切って僕のコーディネートを選んでくれた。
アイテムこそ普段の僕が好んで着るようなものばかりだったが、さすがは女性というか、シャツの色なんかは僕が選ばなそうな明るい色をチョイスしてくれた。
「――先輩、今日は俺の頼みを聞いて下さってありがとうございました!」
「いやいや、いいよぉ。誰でもない可愛い後輩の頼みだからね。あたしも、桐島くんを着せ替え人形にできて楽しかったし。でも、このこと絢乃さんには言わないでね? 嫉妬されるのイヤだから」
小川先輩は、何だかんだ言って学生時代からの後輩である僕に頼られたのが嬉しそうだった。が、頼むから僕で遊ぶのはやめてほしい。……頼んだ僕が言えた義理ではないかもしれないが。
「着せ替え人形……って。言いませんよ、俺だって」
僕だって、絢乃さんにあらぬ誤解をされたくはなかったのだ。
「うん、そりゃよかった。――じゃあ、あたしはこれで。パーティー楽しんでおいで。あと、絢乃さんにちゃんと異動先のことも話しなよ? これが最後のチャンスかもしれないんだからね?」
「分かってますよ。――じゃあ、お疲れさまでした」
先輩にしつこいくらいに念を押され、僕は半ばウンザリしながら頷いた。とはいえ、これが最後の機会かも……と思っていたのは僕も同じだった。
どうにか絢乃さんと二人きりになれるチャンスを作って、打ち明けなければ――。この際、彼女にどう思われるか、とか泣かせてしまったら、とか考えている場合ではなかった。
* * * *
そして、夕方――。僕は先輩にコーディネートしてもらった服に着替え、アパートの駐車場で新車のエンジンをかけた。
〈当日、パーティーが始まるのは夕方六時からだからね♪ 待ってます〉
その数日前に絢乃さんからスマホに送られてきたメッセージを見返す(もちろん、車載ホルダーにセットして、である)。その一行に、僕にも参加してもらえるんだという彼女の喜びがダダ漏れだった。
篠沢家の豪邸にお邪魔するのは緊張するし、会長のご存じないところで絢乃さんと親しくしているという後ろめたさから敷居が高いとも感じていた。といって、別に疚しいことをしていたわけでもないのだが。
でも、そこで「行くのやーめた」ってなワケにもいかなかった。お義理で行くわけでもなかったが、絢乃さんをガッカリさせたくなかったし、僕には彼女に伝えておかなければならないことがあったのだ。
「――さて、絢乃さんはこの服を見てどう思われるかな……」
思えば、彼女に僕の私服姿を披露するのはこの日が初めてだった。彼女にお会いする時はいつもスーツ姿だったからだ。初めてご覧になった語句の私服姿にどんな反応を示されるか、僕は不安と楽しみが半々だった。
そういう僕も、彼女のドレス姿と制服姿は見ていたが、普段の姿は見たことがなかった。――果たして彼女の私服は一般的な女子高生と変わらないのか、それともいかにも「お嬢さまでござい」みたいな感じなのか?
「でも絢乃さん、『ブランドものは好きじゃない』って言ってたような……」
ということは、私服もゴージャス系ではなく一般的な女子高生スタイルなのだろうか。どちらにしろ、恵まれたプロポーションをお持ちの絢乃さんは何を着ていてもお似合いだろう。
「……って、一体何の想像をしてるんだ、俺は」
自分で自分にツッコミを入れつつ、僕は自由が丘へと真新しいセダンを走らせたのだった。
* * * *
――夕方六時少し前。緊張に震える指で篠沢邸の門に取り付けられたドアチャイムを押すと、応答してくれたのはお手伝いさんなどではなく、なんと絢乃さん本人だった。
『――はい』
「あ、桐島です。今日はお世話になります。――クルマ、カーポートに勝手に停めさせて頂きましたけど」
この家のカーポートはかなり広く、そこに停められていたのは黒塗りの高級セダンと小型車、そして僕にも見覚えのある紺色の〈L〉のセダン――これは源一会長の愛車だ――の三台だけだった。
来客用かどうかも分からず、とりあえず空いているスペースにクルマを停めてしまったのだが、よかったのだろうか?
『いらっしゃい、桐島さん! 全然オッケー☆ 門のロック開いてるからどうぞ入って』
ところが、そんな僕の心配はただの杞憂だったようで、絢乃さんはとびっきり元気な声で僕を歓迎して下さった。でも、その声からは彼女がかなりムリをして明るく振舞っていることも窺えた。
「――絢乃さん、今日はご招待、ありがとうございます。おジャマします」
「いらっしゃい! 来てくれてありがとう。どうぞ、これに履き替えて。会場はリビングダイニングなの」
ニコニコしながら僕を出迎えて下さった絢乃さんは、タートルネックの赤いニットに深緑色のジャンパースカートという少しピッタリとした服装だった。それまで見てきた制服姿やドレス姿はわりとゆったりしていて体型がよく分からない感じだったので、彼女の恵まれたプロポーションが見た目にも分かる私服姿に僕は内心ドキッとした。この時ほど「自分は男なんだな」と意識したことはなかったかもしれない。
玄関には僕が履いていった茶色のレザースニーカーの他に、女性ものと思われるカーキ色のウェスタンブーツが一足揃えて置いてあった。絢乃さんをはじめ、ご家族の靴はシューズクローゼットにしまわれていただろうから、このブーツは一体誰のものだろうと僕は首を傾げた。
勧められた来客用のモコモコスリッパ(色はネイビーだった)に履き替え、リビングへ向かう廊下を進んでいる途中で絢乃さんにブーツの主について訊ねてみると、親友の中川里歩さんという方のものだと教えて下さった。彼女は早くから篠沢家に来ていて、パーティーの準備を手伝って下さっていたのだと。
絢乃さんからは柑橘系とは違う甘い匂いがしていて、思わず「何の匂いですか?」と訊ねてしまったが、この問いにも屈託なく「さっきまでケーキを作ってたから、多分その匂いだよ」と答えて下さった。
3
「えっ、ケーキを手作りされたんですか? スゴいですねー」
僕は正直驚きを隠せなかった。まさか絢乃さんがお菓子作りの趣味をお持ちだったなんて。……まぁ、ものすごく女の子らしくて彼女らしいといえばらしいのだが。
「うん。お菓子作りだけじゃなくて、お料理全般得意なの。今日は里歩からのリクエストと、パパと一緒に過ごす最後のクリスマスだから久しぶりに作ってみたんだよ。桐島さんのお口にも合うといいんだけど」
「そうなんですね……、それは楽しみです」
僕は彼女の話に相槌を打ちながらも、気がそぞろだった。もちろん僕はれっきとした招待客だったのだから、堂々としていればよかったのだ。が、絢乃さんと親しげにしていることを源一会長に怪しく思われはしないかと不安に思っていたのだ。そもそも、会長が何を思って僕を招かれたのかもよく分からなかったし。
「――ねえ桐島さん。わたしとちょくちょく会ってること、パパに後ろめたいと思ってるなら大丈夫だよ? パパも知ってるもん」
そんな僕の様子に気がつかれた絢乃さんが、僕の機先を制した。
「え…………、そう……なんですか?」
「うん」
そうだったのか……。源一会長は、どうやら絢乃さんに対する僕の想いをとっくにご存じだったようだ。
「ああ、そうだったんですか。よかった……」
僕はそう呟きながら、その数日前に会長と交わした会話のことを思い出していた。だからあの人は、あの時僕にあんなことをおっしゃったのか――。
『――桐島君、わざわざ来てもらってすまないね。まぁ座りなさい』
その日、会社に顔を出されていた会長から会長室に呼ばれた僕は、入室するなり応接スペースのソファーを勧められた。いかつい革張りではなく、温かなグリーンのベルベット地が張られた、会長お気に入りのソファーだ。――ちなみにこのソファーはその後、絢乃さんのお気に入りにもなっている。
『はい。――それで、会長。僕に何のご用でしょうか?』
秘書室は会長室と同じフロアーにあるので、呼ばれたからと馳せ参じるのは苦にならないが、一体どんな用件で呼ばれたのか不思議で仕方がなかった。
『小川君から聞いたんだが、君が秘書室に異動したのは絢乃のためらしいね』
「……えっ!? はぁ、そうです……」
もしや、僕の絢乃さんに対する下心に(そんなもの、実際はなかったのだが)お気づきになられたのかと、僕は縮こまった。……が。
『いやいや、別にそのことを咎めようと呼んだわけじゃないんだ。それを確かめたうえで、君にぜひとも頼みたいことがあるのだが』
『はい、何でしょうか』
『私亡き後、君に会長秘書をやってもらいたいんだ。――君も小川君から聞いているだろうが、私は遺言状で絢乃を正式に後継者として指名した』
『はい、存じております』
ということは、これは源一会長直々のご指名なのだ。絢乃さんが会長になったら、それすなわち僕が会長秘書に就任するのだ、という。
『うん、それなら話は早い。桐島君、ぜひとも絢乃の支えになってやってくれ。君になら安心してあの子を任せられる』
『はい。僕などでよろしければ』
それは僕にとっても願ったり叶ったりだった。……が、会長のお話にはまだ続きがあった。
『そうかそうか。だがね、桐島君。それは仕事のうえだけの話ではないんだよ。……ひとりの男としても、絢乃に寄り添っていてやってほしいんだ』
『……は? と……おっしゃいますと?』
『いずれはあの子の伴侶となってほしい、ということだ。まぁ、君の意思だけではどうにもできないだろうがね』
それはそうだ。僕がそこで「承知しました」と言ったところで、結婚話は絢乃さんの気持ちを無視して進められないのだ。
『……はい。それは……すぐにどうこうできることではないので。ここでの返事は保留にさせて頂いてもよろしいでしょうか?』
『もちろんだよ、桐島君。じっくり考えたうえで、返事をしてほしい。が、私にはもう時間がないから、なるべく早い方がいいな。無理を言ってすまないが』
『……いえ、そんなことは』
『私にはもう分かっているんだよ。――君は、絢乃に惚れているんだろう?』
会長はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、僕に特大の爆弾を投下された。
『…………はい』
僕は素直に認めた。この人にはどんなごまかしも通用しないような気がしたからだ。
『やっぱりそうか。私の目に狂いはなかったようだね。ではさっきの件、考えておいてほしい。――桐島君、仕事中に呼び立ててすまなかったね』――
――僕はこの日、源一会長にあの二つ目の依頼の返事をしようと思っていた。それも、絢乃さんのいないところで、会長と男ふたりだけになった時に。
「……桐島さん? どうしたの、なんかボーッとしてたよ?」
ふと我に返ると、前を歩いていた絢乃さんが僕を振り返り、不思議そうに首を傾げていた。
「ああ、いえ、何でもないです。――ところで今日、お父さまの具合は……? もう会場にいらっしゃるんですか?」
「まだ部屋にいるみたい。具合は相変わらずかな。気分がよければ顔出してくれるって言ってたけど」
「そうですか」
絢乃さんの表情が少し暗かったように見えたのは、きっと僕の気のせいではなかったと思う。彼女くらいの年代の女の子にとってはショックが大きかっただろう。自分の父親が、間もなく死を迎えようとしているなんて。精一杯強がったところで、そのショックが和らぐことはないはずである。
いくら今の抗ガン剤が優れていて、副作用もほとんど出ないとはいえ、源一会長の命は確実に削られていたのだから。……その証拠に。
「……もう、わたしもママも覚悟はできてるの。パパは十分頑張ったんだから、旅立った時は『お疲れさま』って見送ってあげようね、ってママと話してて」
そう言った彼女の目は、少し潤んでいた。「覚悟はできている」と口ではおっしゃっていても、きっと心の中では葛藤があったに違いない。努めて明るい口調にしていらっしゃったのは、僕に心配をかけまいと気を遣っていたからだろう。
「……って、なんかゴメンね! 今日はこんな湿っぽい日じゃないよね」
そう言ってまだ強がる彼女が、僕には何だかとても痛々しく見えた。僕に気を遣わなくてもいい。無理に笑ったりしなくていいのに……。
どうして僕はまだ絢乃さんの彼氏じゃないんだろうと、恨めしく思ったことを今でも憶えている。彼氏だったら、「強がらずに泣いていいんだ」と彼女をそっと抱きしめることもできたのに。
「絢乃さん……、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫! ――あ、ここがリビングダイニングね。どうぞ」
月並みの言葉しかかけられなかった僕に、彼女はカラ元気で答えた。もっと気の利く言葉は出てこなかったのかよ、俺。情けない。
パーティー会場に入ると、すでに車いすに座られた源一会長がいらっしゃっていて、絢乃さんの親友だと思しきショートボブカットの女性にサンタ帽を被らされていた。彼女は水色のタートルネックに黒いデニムのミニスカート、黒のタイツというスポーティーなファッションで、身長は百七十センチ近くありそうだと僕は感じた。
「会長、今日はお招き頂いてありがとうございます。お邪魔させて頂きます」
「桐島君、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。よく来てくれたね、ありがとう。楽しんでいきなさい」
「はい」
会長が温厚な笑顔で僕を歓迎して下さったおかげで、僕の緊張はどこかへ吹き飛んでしまい、なぜだかリラックスした気持ちになった。というか、緊張の対象が会長からそこにいるショートボブで長身の彼女に移った、というべきか。
4
「――それで、こちらが絢乃さんのお友だちの」
「中川里歩です。初めまして、桐島さん。絢乃がいつもお世話になってます」
僕は絢乃さんに紹介してもらおうとしたのだが、それより先に里歩さん自らが口を開いた。彼女は控えめな絢乃さんと対照的に、積極的な女性らしい。そしてちょっと世話焼きなところもあるのかな、というのは僕の個人的な感想だが、あながち間違ってもいないようである。
「ああ、いえ。初めまして、里歩さん。桐島貢と申します。よろしく」
きっと里歩さんも絢乃さんと同い年だが、僕はキッチリと敬語で彼女に挨拶をした。その時点ではまだ、絢乃さんをお世話していたわけではなかったが、その後に実際秘書としてそうなったので、これも間違いではなかった。
そして僕が敬語だったのは、この日が初対面だった里歩さんのことを信用するに値する人かどうか判断しきれていなかったからでもあった。
「桐島さん、もっと肩の力抜いて。里歩はわたしと同い年だよ」
「そうですよー。ほら、リラーックスして」
そんな僕の態度に絢乃さんは苦笑いされ、里歩さんと二人して僕の肩やら背中やらをポンポン叩き始めた。身長的に背中を叩いていたのは絢乃さんで、肩を叩いていたのは里歩さんだろう。
「……はあ」
この時に僕が困った顔をしたのは、肩に感じる衝撃が強くて痛かったからである。彼女の腕力がなぜこんなにも強いのか、その理由を知ったのはこのすぐ後だった。
――僕がソファーに腰を落ち着けると、絢乃さんと里歩さんは「テーブルのセッティングがまだ残っているから」とリビングを抜け出した。加奈子さんやお手伝いさんの姿も見えなかったことから、女性陣はみんなキッチンにいるものと思われた。
……というわけで、リビングには僕と源一会長の二人きりになった。
「――桐島君、例の件、考えてくれたかな?」
そう質問された時、僕は覚悟を決めた。あの依頼の返事をするのに、このタイミングが絶好の機会だと思ったのだ。もちろん、僕の中でもうすでに答えは出ていた。
「はい。僕が全身全霊、一生涯をかけて絢乃さんを支えていきます。会長秘書としても、一人の男としても」
「そうかそうか! ありがとう、桐島君」
「ですが、絢乃さんのお気持ちを第一に考えたいと思っておりますので。もし絢乃さんが他の男性を好きになられたら、僕は潔く身を引かせて頂きます。それでもよろしいですか?」
「それはもちろんだ。……では桐島君、絢乃のことを頼む。ずっとあの子の味方でいると約束してくれるか?」
「はい、お約束します」
僕は力強く頷いた。きっとこれは、源一会長から僕への遺言だと思ったからだ。
「――ん? なになに、何の約束?」
そこへ、真っ白なデコレーションケーキの載ったワゴンを押した絢乃さんが戻ってきた。後からたくさんの料理や食器の載ったワゴンを押す加奈子さんとお手伝いさんと思しき五十代くらいの女性、そしてなぜかフライドチキンがどっさり盛られたバスケットを抱えた里歩さんも続いた。
「いやなに、男と男の約束をな。……なぁ、桐島君?」
「ええまぁ、そんなところです。――ところで里歩さん、そのフライドチキンは何ですか?」
僕は源一会長に頷いてから、里歩さんに訊ねた。
「ああ、コレですか? あたしからの差し入れです。っていっても手作りじゃなくて、ファストフードのお店で買ってきたパーティーパックのを温めただけなんですけどねー」
あたし料理あんまり得意じゃないんでー、と彼女は笑いながら答えて下さった。……いや、いくら料理が得意な人でも、フライドチキンまで手作りできる人は少ないんじゃないだろうか。
兄の場合はどうだろうか……って、ここでは関係なかった。
「里歩のお家では、クリスマスは毎年コレが欠かせないんだよね。ウチも助かったよー。今日は人数も多いし、コレのおかげで食卓が賑やかになるから。ありがとね」
どういたしまして、とドヤ顔で言った里歩さんに、絢乃さんも笑っていた。こうして見ると、自然体の絢乃さんはやっぱりごく普通の高校生のお嬢さんで、里歩さんとは本当に仲がよろしいんだなと僕も微笑ましく思った。
* * * *
――こうして、篠沢家のクリスマスパーティーが始まった。クリスマスソングをBGMにしてごちそうを囲み、楽しい時間が流れていった。
「――絢乃さん、けっこうワイルドなんですね」
彼女が豪快にフライドチキンを頬張る姿に、僕は正直驚いた。お嬢さまだから、もっと上品に召し上がるのかと思っていたのだ(まぁ、フライドチキンの食べ方に上品な食べ方なんてあるのか、とツッコまれそうだが)。
「え、そう? でもわたし、普段からこんな感じだよ?」
「そうそう。ハンバーガーとか平気でかぶりついてるよね」
「……そうですか。ちょっと意外だな、と思って。でも、おかげで自然体の絢乃さんが見られて親近感が湧きました」
自然体な絢乃さんは気取りがなくて、本当に可愛い人だ。そんな彼女を見られて僕は嬉しかった。
絢乃さんご自慢の特性ケーキはシンプルなイチゴのホールケーキで、スポンジ生地に香りづけとして少量のリキュールが練りこまれていたらしい。源一会長が、甘いものがあまりお好きではなかったからだという。そういうところからも、絢乃さんのお父さま思いなところが窺えた。
――たっぷりのごちそうがなくなった頃、プレゼント交換が行われた。
絢乃さんは里歩さんにマフラーと手袋を、お父さまにクッションを、そして僕にもネクタイを下さった。……が、赤いストライプ柄の入ったネクタイに僕は正直困ってしまった。僕の持っているスーツはほとんどがグレーの地味なものだったので、この柄はちょっと合わないんじゃないかと思ったのだ。
「えっ、そうかなぁ? 濃い色のスーツに合わせたらステキだと思うけど」
僕にはちょっと派手じゃないか、と感想を漏らすと、彼女からはそんな答えが返ってきた。
濃い色のスーツ……、持っていないから新調するしかないか。会長秘書になるんだし。でもちょっと痛い出費だな……と僕はこっそり心配していた。
里歩さんは絢乃さんにコスメを贈っていたが、僕と源一会長は何も用意していなかった。
二人してそのことを申し訳なく思い、弁解すると、「二人は参加してくれただけで十分」と絢乃さんは笑いながらおっしゃった。
「そうですか? 何だか、招待されたのに手ぶらで来たのが申し訳なくて。……あ、そうだ。絢乃さん、後ほど少しお付き合いして頂けませんか? お見せしたいものがあるので」
せめてプレゼント代わりに、絢乃さんとお約束していたとおり、新車のお披露目をしようと思い立った。そのことを彼女に耳打ちすると、「……えっ? うん、いいけど」と頬を染めながら頷き、その光景を加奈子さんと里歩さん、源一会長とお手伝いさんまでもがニヤニヤしながら眺めていた。
もしやこの人たちはみんな、僕と絢乃さんが親しくしていることをご存じなのか……!? 僕はこの時、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
ヒーローになる時
1
――その後、僕は絢乃さんと里歩さんと三人で、部活の話題で大いに盛り上がった。
里歩さんは中等部に上がってからずっとバレーボール部に所属されていて、中等部でもキャプテンを任され、その当時もキャプテンとしてチームを引っ張る立場におられたらしい。……ただ、茗桜女子は強豪校ではないため、あくまで「バレーボールは楽しくプレイできればいい」というスタンスでいたそうだ。
そのうえ、ポジションも花形のウィングだったというから、僕にしてみれば華やかすぎて(?)羨ましい限りである。やっぱり、目立つ絢乃さんには同じくらい目立つ里歩さんのような友人ができるのだろうか。……ん? ちょっと違うか。
彼女が長身でスタイルもいいので、思わず口に出して褒めたところ、絢乃さんから「それ、セクハラだよ」とお咎めを受けた。――里歩さんは笑いながら「ありがとうございます」と軽く流されただけだったが。
「――ねえ、桐島さんは何か部活やってたんですか?」
逆に里歩さんから質問を受け、「わたしも聞いたことなかったな」と絢乃さんにまで乗っかられて、僕はたじろいだ。
中高の六年間、ずっと帰宅部だったなんて答えたら、このお二人はガッカリするだろうか。……特に絢乃さんが。
僕はけっこう身長が高い方で、しかもほどほどに筋肉もついているのでスポーツをやっていたのでは、と誤解されがちなのだが、実はかなりの運動オンチだ。筋肉がついたのは社会人になってから、総務課でこき使われていたためだ。
「…………いえ、何にも。中学高校とずっと帰宅部だったので」
とはいえ、ウソをつくのがキライな性分なので正直に白状すると、絢乃さんにガッカリされている様子はなかった。
「なぁんだ。じゃあわたしと同じだね。ちょっと……嬉しいな」
むしろ、僕とご自身の間に共通点を見つけられて嬉しそうにはにかんでいた。
でも、同じ帰宅部でも多分、僕と彼女とでは事情や理由が違っていたはずだ。
絢乃さんは放課後も習いごとやら何やらでお忙しかったから、部活になんて入っている余裕がなかったのだろうが、僕はただ単に先輩後輩の関係に煩わされるのが面倒で入りたくなかっただけなのだ。
それに、元々僕は平和主義者なので、部活内での揉め事なんかゴメンだったし。……これは運動部・文化部問わず、どちらにも言えることだ。
「え~っ!? なんか意外~!」
対して、里歩さんのリアクションはなかなかにオーバーだった気がする。この人も僕が帰宅部だったことが意外だと思っていたクチか。
* * * *
――午後八時少し前にパーティーはお開きとなり、源一会長は「疲れたから先に休む」とおっしゃって、加奈子さんに車いすを押されて寝室にお戻りになった。
そして加奈子さんがリビングに戻ってこられると、お手伝いさん(お名前は安田史子さんとおっしゃるそうだ)も含めた僕たち五人で後片付けをし(「男手があって助かる」と絢乃さんや加奈子さんからものすごく感謝された)、それがすっかり済んだ八時半ごろ、里歩さんが帰られた。外は粉雪が舞っていて、ミニスカート姿だった里歩さんはちょっと寒そうに見えた。
加奈子さんは会長の様子を見に寝室へ行かれており、安田さんも何やら別の用でリビングからいなくなっていて、気がつくとそこには僕と絢乃さんの二人きり。――秘書室に異動したことを彼女に打ち明けるなら今しかない! 僕は腹を括った。
「――あの、絢乃さん。僕もそろそろ失礼しようかと思ってるんですが、よかったら今から僕の新車、ご覧になりますか?」
「えっ?」
僕は明らかに、この話題の導入部分をミスった。これじゃ口説こうとして言ったみたいじゃないか!
「先ほど、『お見せしたいものがある』と言ったでしょう?」
「あ……」
絢乃さんは戸惑っておられたが、プレゼント交換の時に僕が言ったことを口実に使うとすぐにピンときたようだった。やっぱり、絢乃さんは頭の回転が速い人なのだ。
「やっと納車されたので、今日乗ってきたんです。絢乃さんに真っ先にお披露目するとお約束していたもので」
「そういえば……、そうだったね。じゃあちょっと待ってて。部屋からコート取ってくるから」
確かに、絢乃さんの服装では寒そうだったので、彼女がリビングを出ようとしているところへタイミングよく、彼女のダッフルコートを手にした安田さんがやってきた。……もしや、僕と絢乃さんの会話をどこかに隠れて聞いていたのだろうか?
「ありがとう、史子さん。じゃあ、ちょっと出てきます」
「今日はお世話になりました。楽しかったです。それじゃ、僕はこれで失礼致します」
絢乃さんがお手伝いさんに手を振ると、僕も彼女に丁寧なお礼を述べ、バッグと新車のキーを掴んで絢乃さんをカーポートまでお連れした。絢乃さんは、茶色のロングブーツ――これも多分、安田さんがシューズクローゼットから出しておいて下さっていたのだろう――を履いて。
玄関からカーポートまではそれほど離れていない。歩幅は明らかに僕の方が広いが、絢乃さんの歩幅に合わせてゆっくりめに歩いた。彼女がちゃんとついてこられるように。
「――これが僕の新車です」
「わぁ、カッコいい! これってけっこう高いヤツだよね?」
僕の新車を紹介すると、絢乃さんはそれがすぐにお父さまの愛車と同じメーカーのものだと分かって下さった。それと同時に、「これなら四百万くらいかかっても当然だ」と理解して下さっただろうか。
僕が新車として購入し、今も愛車となっている〈L〉はいわば高級車の部類に入る。絢乃さんに乗って頂くならせめてこれくらいのグレードでないと、と選んだのだが、かえって気を遣わせてしまっただろうか?
「はい。内装も、絢乃さんに乗って頂くことを考えてこの色を選びました。どうですか?」
「うん、すごくステキだし、乗り心地もよさそう。でも、どうしてわたしのためにそこまで?」
彼女はすぐに、僕の言葉の裏にある事情を汲んで下さったらしい。――僕がこのクルマを購入したのがご自身のためである、と。だとしたら、そういう決断をした理由を僕もキチンと打ち明けなくては。
「実は……ですね、こうしたのは僕の異動先にも関係があって……。もう、絢乃さんには申し上げた方がいいかもしれませんね。僕の異動先というのは、人事部・秘書室なんです」
「秘書……?」
絢乃さんは僕の言葉に瞬いた。ご自身がお父さまの正式な後継者となっていること――ひいては次期会長候補であることを、彼女はまだご存じないはずだった。が、首を傾げずに瞬いたということは、きっとそのことにも気づかれているはずだと僕は思った。
ただ、やっぱりこのタイミングまで引っ張ったのは失敗だったかな、と僕は内心自分に舌打ちした。もしかしたら、彼女は僕が意図的にこのタイミングを狙っていたと気を悪くされたかもしれないのだ。
「はい。こういう言い方は誤解を招きそうですが、お父さまの跡を継がれるのは十中八九あなたでしょう。僕は万が一そうなってしまった時のために、異動や新車購入を考えていたんです。あなたを支えるため、あなたのお力になるために」
僕は少々言い訳がましくなったが、慎重に言葉を選んでその経緯を彼女に打ち明けた。彼女を傷付けてしまったらどうしよう、という思いで指先が冷えていくのを自分でも感じていた。
2
「本当は、話すべきかどうか、ここに来るまで迷ってたんです。でも、絢乃さんが『もう覚悟はできている』とおっしゃったので、僕も打ち明ける決心がつきました」
こう言った時、僕の声が少し震えていたことに絢乃さんは気づかれていたようだ。優しく、そして落ち着いた声で僕にこう言って下さった。
「うん、大丈夫。パパのことはもう覚悟できてるし、貴方がパパの死を望んでたなんて思うわけないよ。だってわたし、貴方がそんな人じゃないってちゃんと知ってるから」
やっぱり、この人はただ者ではないと思った。どっしり構えているというか、肝が据わっているというか、女子高生にしてこの落ち着きはさすがとしか言いようがなかった。ご両親どちらに似てもきっとこうなるだろう。
「だから桐島さん、これから先、わたしに力を貸して下さい。わたしのことを全力で支えて下さい。よろしくお願いします」
彼女は真剣な眼差しとともにそう言い、僕と同じくらい冷えた右手を僕に差し出した。
「はい。誠心誠意、あなたの支えになります。こちらこそよろしくお願いします!」
その生半可ではない覚悟を受け止めた僕は、両手で彼女の右手を包み込むようにして握り返した。
指先が冷たい人は、温かい心の持ち主なのだと聞いたことがある。僕はそんなところからも、彼女のお父さまに対しての優しさや深い愛情を感じ取ることができた。
「ご存じですか? 手が冷たい人は温かい心の持ち主なんですよ。僕はよく知っています。絢乃さんがお父さま思いの心優しいお嬢さんだということを。そんなあなただからこそ、僕もあなたのお力になりたいと思ったんです」
僕がそう言った時、彼女は少し俯いた。が、その時少し涙ぐんでいるように見えたのはきっと僕の気のせいではないだろう。
だって、僕は知っていたから。お父さまが倒れられた時にも、余命宣告を受けた時にも、絢乃さんがどれほど心を痛めておられたかを。どれほどお父さまのことを心配され、残された親子の時間を大切に過ごしてこられていたかを。どれだけ前向きでいようとしても、彼女の小さな胸(※物理的にではない)には抱えきれないほど大きな悲しみがすぐ間近に迫ってきていたのだから――。
「――絢乃さん、僕はそろそろ失礼します。明日も出勤なので。また何かあったら連絡下さいね」
そんな彼女に別れを告げるのは後ろ髪を引かれる思いだったが、僕は断腸の思いで自分の現実と向き合った。
「うん。そっか、明日もお仕事じゃ、風邪ひいたら大変だもんね。気をつけて帰ってね。また連絡します」
「はい。――それじゃ、また」
僕がそう言って、クルマに乗り込む前に健気な彼女をチラリと振り返ってみると、彼女は人知れず涙を流していた。
* * * *
――その後、絢乃さんとお父さまとの間でどんな会話がなされていたのか、僕は知る由もなく。
翌日、アパートで出勤の支度をしていた僕は、絢乃さんから驚くべき連絡を受けた。
「――絢乃さん、おはようございます。どうされました?」
『ごめんね、朝の忙しい時間に。……実はね、パパが目を覚まさなくて。このまま入院させることになりそうなの。ママがさっき救急車を呼んで』
「…………えっ? そうですか……。じゃあ、今は救急車の到着を待たれているところなんですね?」
彼女の焦燥感漂う声に、僕はショックを受けた。前日の夜まで、源一会長は僕ともお話をされていたのに。クリスマスパーティーだってあんなに楽しまれていたのに。やっぱり前夜のあの言葉は、彼から僕に向けての遺言だったのか……。
『うん。あと二~三分で来ると思う。でもね、わたし思ったの。パパはもう、このまま目を覚ますことはないんじゃないか、って』
「そんな……。絢乃さん、気を強く持って下さい。まだそうと決まったわけでは」
絢乃さんは泣いていなかったが、すでに最悪の事態も覚悟されているようだった。でも、病院に――それも主治医であるドクターが勤務されている大学病院に搬送されれば、わずかでも助かる可能性が残されていたのだ。
『ううん。わたしね、昨夜パパから言われたの。「絢乃、ママと篠沢グループの未来をよろしく頼む」って。多分あれ、パパからの最後のメッセージだったんだよ。パパはあの時、自分がもう助からないんだって悟ったんだと思う』
「…………そう、ですか……」
絢乃さんが淡々とおっしゃったのが痛々しく感じて、僕は返す言葉に困った。ここは月並みな言葉でも何か言って慰めるべきだろうか? それとも、同情した方がいいのか――。
『――あ、救急車が来たみたい。じゃあ、また連絡します。桐島さん、これから出勤だよね? ホントに忙しい時にごめんなさい』
僕が悩んでいるうちに、電話の向こうから救急車のサイレンの音が聞こえ、絢乃さんが慌ただしく僕に謝って電話を切ってしまわれた。
「…………会長が入院? マジか……」
僕は会社へ向かうクルマの中でも、まだ信じられずにいた。だって前日まであんなにお元気そうだったじゃないか。いくら何でも急すぎる。
そして、僕は無理をして気丈にふるまっておられた絢乃さんのことが気がかりでならなかった。
出社した僕は、朝の挨拶もそこそこに小川先輩に声をかけた。
「――先輩、会長が病院に搬送されたそうです。出勤前に絢乃さんから連絡を頂いて」
「…………そう。で、ご容態は?」
先輩は明らかにショックを受けている様子だった。彼女が会長に道ならぬ恋をしていたことを知っていた僕は、会長の病状についてどう話そうか躊躇した。
「昨夜から昏睡状態で、朝目を覚まさなかったそうです。絢乃さんがおっしゃるには、このまま二度と目を覚まさないかもしれない、と。――昨夜、絢乃さんにおっしゃってたそうですよ。『加奈子さんと、篠沢グループの未来をよろしく頼む』って。絢乃さんはそれがお父さまの遺言なんじゃないかって」
「……そっか。もう助からないんだ、会長。…………参ったなぁ」
「すいません、先輩。俺、こんなこと先輩に話すべきじゃなかったっすよね」
今にも泣きそうに顔を歪ませていた先輩に、僕は申し訳ない気持ちになった。
「ううん、桐島くんのせいじゃないよ。話してくれてありがとね。あたしの方こそごめん」
――先輩がその日一日ボロボロで、仕事にならなかったのは言うまでもない。広田室長も小川先輩の会長への想いには気づかれていたらしく、彼女がミスを咎められることはなかった。
* * * *
会社は二十九日から年末年始の休暇に入り、僕は実家で正月気分に浸っていた年明けの三日――。
『桐島さん、……パパが、今朝早くに亡くなりました。すごく穏やかな最期だった』
絢乃さんが、僕に電話で会長のご逝去を伝えて下さったのは、午前九時ごろだった。
お父さまが入院されることになったと連絡を下さった時と同様、彼女は泣いていなかったが、それが彼女なりの精一杯の強がりだということを僕は分っていた。
「そうですか……。わざわざご連絡ありがとうございます」
だからあえて、僕もそんな心境でわざわざ連絡を下さった彼女にお礼だけを伝えた。泣かなかった――もしくは泣けなかったのには、彼女なりの事情があったのだろう。そんな彼女に同情するのも、ヘタな慰めの言葉をかけるのも違うなと思ったのだ。
その事情というのは、ご葬儀の時に明らかになったのだが――。
絢乃さんは僕に、お父さまのご葬儀は社葬になると思うけれど参列してくれないかと訊ねた。もちろん、僕はそのつもりでいたので、こう答えた。気持ちのうえでは、すでに絢乃さんの秘書だったからだ。
「もちろんです。その時には、絢乃さんの秘書として参列させて頂きますね。まだ正式な辞令は下りていませんけど」
3
――というわけで二日後(源一会長がお亡くなりになった日が友引だったのだ)、僕は黒のスーツに黒のネクタイを締め、篠沢商事二階の大ホールで営まれた源一会長の社葬に参列した。
葬儀は総務課が取り仕切っていて、司会進行は久保が行うことになった。もしもまだ総務課にいたら、僕もまた島谷課長にこき使われていたことだろう。
前日の夜に絢乃さんから電話があり、お通夜で公開された遺言書によって、彼女が正式に源一会長の後継者として指名されたと聞かされた。それに反発した親族によって、加奈子さんだけではなく絢乃さんまで敵視される事態になったことも。
それでも彼女は「大丈夫」と気丈におっしゃって、マイナスの言葉を決して吐き出そうとしなかった。
親族から目の敵にされることは怖かっただろうし、お父さまやご自身のことであることないこと言われるのは腹立たしいことだったろうに。内心では相当ストレスを溜め込んでいたことだろうと思う。
そんな彼女を守るために、僕は秘書になったのだ。それまでごく平凡に人生を送ってきたこんな僕が、ヒーローになる時がやってきたのだと、葬儀当日の朝、身支度を整えながら武者震いしたことを今でも憶えている。
受付で芳名帳に記入をして香典を渡すと、総務課時代の先輩だった女性が「桐島くん、ご苦労さま」と頭を下げてくれた。
「聞いたわよ。あなた、絢乃お嬢さまの秘書になったんだって?」
「はい、今日も絢乃さんのことが心配で来たんです。源一会長とはちょっとしたご縁もありましたし。――絢乃さんはもう中に?」
「うん。加奈子さまとお二人で、弔問客を出迎えてらっしゃると思う。……そういえばほんの少し前、お嬢さまのご友人だっていう女の子が来てたわ。背の高い、ボブカットの」
彼女が挙げた特徴から、その女性は里歩さんだろうと確信した。里歩さんとは一度お会いしただけだったが、彼女がとても親友想いな女性だということを僕も感じていた。そんな彼女なら、お父さまを亡くされてショックを受けておられた絢乃さんを慰めに葬儀にも参列されるだろうと僕は思った。
「それ、多分僕も知ってる方だと思います。ありがとうございます」
――ホールの中へ入っていくと、ブラックフォーマルのスーツに身を包んだ加奈子さんとシックな黒のワンピース姿の絢乃さん、そして大人っぽいダークグレーのワンピース姿の里歩さんを見つけた。
喪服というのは、着ている人の魅力を自然とアップさせるのだろう。この日の絢乃さんからは、十七歳とは思えない、何ともいえない色香が漂っているように見えた。
彼女の目に涙はなく、僕はその理由をすべくホール内を見まわし、考えを巡らせた。
まず気になったのが、そこに流れていた禍々しい空気。お電話でも聞かされていたが、絢乃さんたち親子に対する親族の憎悪は相当なものらしい。他人の僕でさえ不快に感じるほどだった。
そして、そんな悪意の目に晒されている絢乃さんを守るようにピッタリと側に寄り添う里歩さんの姿。彼女もきっと、葬儀会場とは思えないほど殺伐とした雰囲気に不快感を抱いていたに違いない。だからこそ、絢乃さんをその殺気立った空気から守ろうと睨みをきかせていたのだと思う。
そしてまた、絢乃さんご自身もこの人たちの前では泣かずにいようと心に決められていたのだろう。弱みを見せないことで、この人たちからご自身のメンタルを守ろうとして。……もちろん、理由はそれだけではないかもしれないが。
……なるほど。これじゃ絢乃さんも泣いていられないわけだ。――納得できた僕は、絢乃さんたちのすわっていらっしゃる親族席の方へと歩いていった。
「――桐島さん、ご苦労さま」
そんな僕に気づき、絢乃さんが声をかけて下さった。やっぱり彼女は無理をしているな、と僕は思い、心が痛んだ。本当は笑えるはずなんてないのに、うっすらと笑顔を張り付けていたからだ。こんな時は無理に笑顔を作らなくても、何なら真顔だって僕は別に構わなかったのに。
「絢乃さん、この度はご愁傷さまです。――ああ、里歩さんも来て下さったんですね。ありがとうございます」
僕は殊勝にお悔やみの言葉を述べ、小さく会釈して下さった里歩さんにも参列して下さったことへのお礼を言った。
里歩さんはどうやら、(もちろん、ご自身が参列したかったお気持ちもあっただろうが)中川家の代表としていらっしゃっていたようだ。彼女のご両親は経営コンサルタントの事務所を開いておられて、亡くなった源一会長とも仕事上のお付き合いがあったのだとクリスマスパーティーの日に絢乃さんから聞いていた。
「ああ、いえいえ。ウチの両親も絢乃のお父さんにはお世話になってましたから。桐島さん、絢乃の秘書になったそうですね」
里歩さんは真面目な顔で、僕にそう切り出した。が、どうして彼女がそのことをご存じなのか、僕は疑問に思った。絢乃さんからお聞きになったのだろうか?
「はい。絢乃さんはこれから篠沢グループを背負って立つ人ですから、僕でお役に立てることがあればと思って」
僕がこう答えると、里歩さんの表情が厳しいものに変わった。ちょっと答え方を間違えてしまったかもしれない。
「桐島さん、ちょっと厳しいこと言いますけど。絢乃の秘書になるってことは、この子に自分の生活全部をささげるってことだって分かったうえで決めたんですよね? あたし、あなたにいい加減な気持ちでそんなこと軽々しく言ってほしくないんです」
その言葉に困惑されたらしい絢乃さんがすかさず「それは言い過ぎだ」と里歩さんを咎められたが、彼女の言葉は間違っていなかったし、僕には分かっていた。里歩さんはおそらく、僕の覚悟がどの程度なのかを問いたいのだと。絢乃さん思いの彼女らしいと僕は思った。
「いえ、いいんです。もちろん、僕もそのつもりでいますよ。絢乃さんのことは僕が全身全霊お守りすると決めましたから」
なので、僕は里歩さんに気を悪くすることなく、真正面から自分の覚悟を言葉にして伝えた。これで納得してもらえるかどうか自信はなかったが、これが僕の精一杯の覚悟だったから。
「……それならいいんです。ごめんなさい、偉そうなこと言っちゃって。絢乃のこと、これからよろしくお願いします。――絢乃、ホントごめん」
里歩さんは納得して下さったようで、僕に謝られた後、改めて絢乃さんのことを託された。
「ううん、いいよ。ありがと」
親友に謝られた絢乃さんは、これにも笑顔で応じられていたが、彼女のメンタルはきっと壊れるか壊れないかギリギリのバランスを保っていたのだろう。彼女はそれほどタフではないから。というか、父親を亡くしたばかりの十七歳の女の子がそんなに強いわけがないのだ。
だからこそ、僕が秘書として彼女を守らなければ――。平和主義者だし、格闘技なんかやったこともないし、頼りないヒーローで申し訳ないが。メンタルの強さにだけは自信がある。彼女が親族たちから集中砲火を浴びせられた時の盾くらいにはなれるだろう。
――会長の社葬は一般的な献花式で行われた。篠沢家は無宗教だからだそうだ。
出棺前になって里歩さんがお帰りになり、僕は自分の愛車で加奈子さんと絢乃さんを斎場までお連れすることにした。
「うん。桐島さん、よろしくお願いします」
「桐島くん、ありがとう。安全運転でよろしくね」
お二人を後部座席にお乗せすると、僕はハンドルを握って霊柩車のすぐ後ろをついていった。
4
――斎場まで一緒に来ていたのは他に、村上社長とご家族――奥さまと十四歳のお嬢さん、社長秘書となった小川先輩、篠沢商事を始めとするグループ企業の幹部たち、そして篠沢一族の面々がズラズラと。ちなみに、小川先輩は社長一家のクルマに同乗していた。
一般的な葬儀なら、これだけの大人数になるとマイクロバスを数台チャーターすれば済むのだが。この人たちは黒塗りのハイヤーやら高級車(ではないクルマもあったような……)などでズラズラと何台も連なってついてきていたので、何だか異様な光景に思えた。一族はプライドの高い人が多いので、マイクロバスに乗り合うことをよしとしなかったのだそうだが、後ろからついてこられた僕にとっては威圧感がハンパなかった。
社長たち幹部のみなさんは最後の挨拶もそこそこに引き揚げられ、小川先輩も帰ることになった。
絢乃さんたち篠沢一族のみなさんは火葬中の振舞いの席で親族会議を行うらしく、僕も絢乃さんの秘書としてそこに同席させて頂くことになっていた。
「――じゃあね、桐島くん。あとは頼んだよ」
絢乃さんたちと話した後、タクシーを手配した先輩は僕に話しかけた時涙ぐんでいた。
「先輩……、大丈夫ですか? 泣いてるみたいですけど」
「大丈夫……ではないけど、まぁ何とかね。あたしも気持ち切り替えなきゃ。――あ、そうだ。絢乃さんも何となく気づかれてたみたい」
心配して訊ねた僕に気丈に答えてくれた先輩が、真顔になってポロっと言った。
「気づかれてたって、何にですか?」
「あたしが、お父さまに想いを寄せてたこと。頭のいいお嬢さんだから、もしかしたらとは思ってたけどね」
「うん、なるほど……」
僕もそんな気はしていた。絢乃さんはカンが鋭い人だから、そうだろうなと。でも、彼女はそれと同時に相手への気遣いもすごい人なのだ。小川先輩にそのことを問い質さなかったのは、彼女の優しさからだったのだろう。
「先輩、余計なお世話かもしれないですけど。先輩はこの先、きっといい恋ができると思います。俺のよく知ってる人だと……そうだな、営業二課の前田雄斗さんとかどうですか?」
「前田くん? どうして?」
僕が名前を挙げた前田さんというのは先輩の同期入社組で、僕が見た限りでは先輩に気があるらしい。イケメンだが硬派な人でちょっと近寄りがたい雰囲気を持っているが、もちろん営業マンなので愛想が悪いわけでもない。逆にそういう無骨な感じがいいという女性もいるらしい。
「前田さん、先輩が元気ないの気にしてるみたいでしたから。もしかしたら、先輩にその気があるんじゃないかな、って。いきなり恋愛は難しいかもしれませんけど、お友だちから始めてもいいんじゃないですかね」
「……桐島くん、ホントにお節介だね」
先輩が呆れたようにそうコメントした。もしかしたら僕に怒っているかもしれない、と思ったが、次の瞬間彼女は笑っていた。
「すいません」
「ううん。ありがと。――あ、タクシー来たから、あたし帰るね。桐島くん、絢乃さんのことちゃんとお守りするのよ」
「はい、分かってます。先輩、今日はお疲れさまでした」
こうして、小川先輩はタクシーに乗り込んで帰っていき――。
「桐島さん、いたいた! これから座敷で親族一同の話し合いなの。一緒に来て」
「あ、はい!」
僕のボスである絢乃さんが呼びに来た。横で加奈子さんも「早く早く!」と手招きしていたので、僕はお二人の後をついていった。――ここからが、ヒーロー桐島の出番だ。あまりカッコよくはないかもしれないが……。
* * * *
――葬儀後の振舞いの席とは本来、美味しい仕出し料理などを頂きながら、故人を偲ぶ場のはずである。が、この時の〝振舞いの席〟は違っていた。源一会長の遺言書の内容について話し合う場、といえば聞こえはいいが、その実態は加奈子さん・絢乃さん親子に対して親族が言いたい放題言う場になっていたのだ。
僕も絢乃さんの秘書という立場で、彼女の隣でご相伴にあずかっていたのだが、場の空気が悪すぎて料理の味が分からないどころか胃が痛かった。……胃薬、持ってくればよかったな。
絢乃さんは何の感情も表に出さず、黙々と機械的にお箸を動かしていたが、お父さまの悪口に耐えかねてとうとう爆発してしまった。
「……………………うるさい」
「絢乃?」
「絢乃さん?」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
加奈子さんと僕が呼びかけると、血を吐くようにヒステリックな声で叫んだ彼女は過呼吸を起こしそうになった。こんな状態になるまで、彼女はストレスをご自身の中に溜め込まれていたのか……。俺の出番はここじゃないのか、桐島貢!
このままではいけないと、僕は迅速に動いた。彼女の背中をゆっくりさすりながら、そっと深呼吸を促した。
そして、彼女をこの場にいさせるわけにはいかないと思い、退出して頂くことにした。
「……加奈子さん、絢乃さんの具合があまりよくないみたいなので、ちょっと外へお連れします。よろしいですか?」
加奈子さんに一応お伺いを立ててみると、「ええ。桐島くん、ありがとう。お願いね」と僕の機転を感謝された。
「では行きましょう」と絢乃さんを促していると、「何なんだ君は! 赤の他人が出しゃばるんじゃない!」と親族からの偉そうな野次が飛んできたが、僕はそんなことに構っていられなかった。確かに僕は他人だが、親族のくせに身内を追い詰めるような人に言われる筋合いはなかったのだ。
「彼はこの子の秘書なんだけど、何か問題ある?」
加奈子さんがすかさず援護射撃して下さって、僕に手でシッシッと合図した。まるで犬でも追い払うようだが、「早く行きなさい」という意味なのだと僕は理解した。
絢乃さんは座敷にお戻りになるつもりはないらしく、キチンとコートとバッグまでお持ちになっていた。
* * * *
絢乃さんを待合ロビーまでお連れした僕は、彼女をソファーに座らせて自分も隣に腰を下ろした。
自販機やトイレなどがあり、ほどよく暖房も効いていたロビーには僕たち以外に誰もいなかった。たまたまこの日、午前に火葬炉の予約が入っていたのが篠沢家だけだったからだろう。
「――絢乃さん、もしかしてお父さまが亡くなられてから一度も泣かれていないんじゃないですか?」
僕は過呼吸が治まっていた絢乃さんに優しく問いかけた。身近な人が亡くなった時、思いっきり泣くのがいちばんのストレス解放の方法だと思うのだが、責任感の強い彼女はそれができなくてこうなっているのではないかと思ったのだ。
「うん……。だって、ママの方が絶対悲しいはずだもん。ママが先に泣いちゃったら、わたしは我慢するしかなかったの」
そこで聞かされた、彼女の悲しい本音。なるほど、優しい彼女はお母さまに遠慮して泣くことができなかったのか……。
でも、彼女のストレスの原因はそれだけではなかった。ご自身やお父さまに対する親族からの罵詈雑言に耐えかね、ご立腹だったのだ。
彼女には、心の中に溜まったマイナスの感情――毒を思いっきり吐き出して頂かなければ。そう思った僕は、彼女に「ここなら僕以外に誰もいませんから、思いっきり泣いていいですよ」と言った。僕はあなたの秘書だから、全部受け止めますよ、と。
ヒーローになりたいのに、彼女のためにこんなことしかできない自分を情けなく思いつつ優しく背中をさすると、彼女は大粒の涙を流しながら声を上げて泣き出した。
体を折り曲げ、泣きながら吐き出したお母さまや親族への恨み節も、僕は鷹揚にして受け止めた。
彼女には泣く権利も、恨み言を言う権利もあったのだ。だってまだ子供だったのだから――。そして、彼女がそんな姿をためらわずに見せられる相手が、この先もずっと僕であってほしいと願うのだった。
新しい日々の始まり
1
――篠沢一族の後継者争いの決着は、二日後に行われる臨時の株主総会まで持ち越されることになったそうだ。泣き止んだ絢乃さんと二人で缶コーヒー(彼女はカフェオレで、僕は微糖だった)をすすっていた時、ロビーへ戻られた加奈子さんからそう聞かされた。
絢乃さんはお母さまにも泣きながら訴えていた。「わたしだって悲しかったのに、ママが先に泣いちゃうから泣けなくなったんだ」と。
僕は彼女の言うに任せていた。親子の間で遠慮は無用、言いたいことはちゃんとおっしゃった方がお二人のためだと思ったからだ。加奈子さんは加奈子さんで、絢乃さんの泣く権利を奪ってしまったことを申し訳ないと思われていたようだった。
そのうえで、絢乃さんは涙ながらに宣言された。「わたしはありのままで、お父さまを超える篠沢のリーダーになっていくんだ」と。だから、僕とお母さまにも力を貸してほしい、と。もちろん、僕にも加奈子さんにも異存はなかった。母親と秘書という立場の違いはあれど、彼女を支えたいという気持ちは同じだったから。
「――ところでママ、話し合いはどうなったの?」
そんなことがあっての、絢乃さんのこの問いかけである。その答えとして、加奈子さんがおっしゃった結論が冒頭の一文だった。
何でも、絢乃さんが後継者として指名されたことがどうしても気に入らない親族がいて――その人は加奈子さんのいとこにあたるらしいが――、経営に関してはド素人の自分の父親を対立候補に立てたらしいのだ。
何故わざわざそんなことをしたのかといえば、その人――名前は宏司さんとおっしゃるらしい――が男尊女卑・年功序列という古臭い考え方に固執しているからで、女性の絢乃さんよりも男性で六十代後半の父親の方が会長としてふさわしいと考えたから、らしいのだが。
「……ふーん? 何考えてるんだろ、あの人」
絢乃さんはワケが分からない、という顔で首を傾げられた。そして、僕もまったく同感だった。
「今の時代、そんな考え方ナンセンスよね。というわけで、今日の話し合いは見事に決裂。あの人たちはみんな先に帰っちゃいました」
「…………なるほど」
加奈子さんもやれやれ、と呆れたように肩をすくめ、この話を締め括られた。どうりで、加奈子さんお一人でロビーまでお戻りになったわけである。座敷から駐車場までは直接出られるため、ロビーを通らずに帰ってしまったということらしい。
あの人たちに絢乃さんをこれ以上傷付けられてはたまったもんじゃなかったので、早くお帰り下さって僕もせいせいした。
「――桐島くん、ありがとね。あなたの機転のおかげで、絢乃があれ以上傷付かずに済んだわ」
加奈子さんも僕と同じ気持ちだったようだ。本当はご自身がそうしたかったが当主というお立場上そうもいかなかったので、代わりに僕が行動を起こしたことを評価して下さった。……僕はただ、絢乃さんのヒーローになりたくてああしただけだったのだが。
「いえいえ。秘書として、あの状況ではああするのが最善だと思いましたので」
とはいえ、秘書としてボスを守ろうと起こすアクションは誰でもそう変わらないだろう。たとえ僕ではなくても、ああいう行動に出るのが最も無難ではないかと思ったまでだ。
「うん、ホントにありがと。わたし自身、あれ以上あそこにいたら自分がどうなっちゃうか分かんなくて怖かったもん。連れ出してもらえてよかった」
絢乃さんにも感謝されたが、こちらは僕が思っていた理由とは少し違っていたようだ。これ以上傷付きたくなかった、というよりはむしろ、怒り狂うと何をしでかすか分からなかったというニュアンスに聞こえたのは、女性が怖いと思っている僕の考えすぎだったろうか?
* * * *
――それから一時間ほど経ち、係員の人が「火葬が終了した」と呼びに来られたので、絢乃さんと加奈子さんは収骨室へ行かれることになった。
「桐島さんはどうするの? 一緒に来る?」
絢乃さんが僕のことを気にして声をかけて下さったが、他人の僕がご一緒するわけにはいかなかった。
「いえ、僕は表のロビーで待っています。お骨上げはお母さまとお二人でどうぞ」
「…………分かった。じゃあ行ってくるね」
「お帰りの際も、僕のクルマでお宅までお送りしますから」
絢乃さんは「ありがとう」と僕にお礼を言って、お母さまと一緒にお骨上げへ向われた。この日も寒かったので、僕はそんな彼女と加奈子さんのために車内の暖房を効かせておこうと考えた。
――その帰り、僕は斎場へ向かう時と同じく絢乃さんと加奈子さんの親子を愛車の後部座席にお乗せした。
加奈子さんは源一会長のお骨が入った小さな骨壺を(大きな骨壺だと重くなるので持って帰れない、という理由で小さい方を選ばれたらしい)、絢乃さんはお父さまの遺影を大事そうに抱えられていた。
「――井上の伯父さまも、今日のお葬式に来たかっただろうなぁ。お悔やみのメールはもらったけど」
絢乃さんが唐突に、僕がそれまで耳にしたことがなかったお名前を口にした。そういえば、亡くなった源一会長の旧姓は確か井上っていったよな……。ということは、源一会長のお兄さまのことかと僕には理解できた。
何でも絢乃さんの伯父さま・井上聡一さんはご家族でアメリカにお住まいらしく、絢乃さんはお父さまの訃報をメールでお知らせしたらしい。聡一氏も帰国したかったのだが航空チケットの手配が間に合わず、葬儀に参列することが叶わなかったのだそうだ。絢乃さんはお悔やみのメールだけ受け取られたそうだが。
僕もまだお会いしたことがなかったが、今日の結婚式には出席して下さっているそうだ。どんな方なのか、実際にお会いできるのが楽しみである。――それはさておき、当時のことに話を戻そう。
「――ねえママ、これからのことで、ちょっと相談があるの。桐島さんにも聞いてもらいたいんだけど」
しばらく俯いていらっしゃった絢乃さんが唐突に顔を上げ、決意に満ちた表情で口を開いた。
「なぁに?」
「僕は運転中ですけど、ちゃんと耳だけは傾けているので大丈夫ですよ。おっしゃって下さい」
加奈子さんはお嬢さんに向き直り、僕も後ろを向けば事故を起こしてしまうので耳だけ傾けた。
絢乃さんが語られた決意はこうだった。彼女は高校生と会長兼CEOの二刀流でいこうと思っているので、お母さまには学校へ行かれている間の会長の仕事を代行してほしい、そして僕にはご自身と加奈子さんと二人の秘書として働いてほしい、と。
加奈子さんは、先ほど偉そうにしていた宏司さんも当主である彼女には偉そうに言えないだろうからとそれを快諾。僕もそれをお受けした。二人分の仕事をこなすことになるけれど大丈夫なのか、と絢乃さんは心配されていたが。
「大丈夫です。お任せください。総務でこき使われていたことを思えば、それくらい何でもないですよ」
総務課の島谷課長は人使いは荒いわ、そのくせ労いの言葉もかけてくれないわで、僕は「やってらんねーよ!」と正直思っていた。それを思えば、これくらいどうということはなかった。少なくとも絢乃さんと加奈子さんはお優しいし、遠慮というものをきちんと心得ていらっしゃるので、頑張った分はキチンと労っても頂けるはずだと思ったのだ(そして実際にそうだった)。
ついでに絢乃さんが学校からオフィス、オフィスからご自宅へお帰りになる際の送迎も加奈子さんから依頼されたが、それも僕はあっさりお受けした。むしろ僕の方から申し出たいくらいだったので、願ったり叶ったりだったのだ。
2
絢乃さんは大号泣されたおかげで、すっかりふっ切れたらしい。心のデトックスをしたおかげで、気持ちが軽くなられたからだろう。僕が小川先輩の請け売りで「ボスに気持ちよく出社して頂き、快適にお仕事に励んで頂くのが秘書の務めですから」と大真面目に言ったところ、この日初めて朗らかな笑顔を見せて下さった。
やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。お父さまを亡くされた悲しみが消えることはないと思うが、僕の前では笑顔でいてほしい。……いや、彼女がそういられるように、僕が頑張らなければ。それが僕の務めなのだ。
ミラー越しなのをいいことにそれを口に出して言うと、彼女のお顔は真っ赤になった。「あ…………、うん。ありがと。よろしく」とおっしゃる絢乃さんは、きっと照れていらっしゃったのだろう。……っていうか俺、めちゃめちゃキザだな。自分でもすごく恥ずかしい。
* * * *
――お二人を無事にご自宅の前まで送り届けると、加奈子さんが僕の母親のような口調でおっしゃった。
「桐島くん、今日はお疲れさま。明日も出勤でしょう? 家に帰ったらゆっくり休むのよ。お清めの塩も忘れないようにね」
多分、ウチの母も同じようなことを言うだろう。元保育士で礼儀やしつけには厳しい人だから。……そういえば加奈子さんも元教師だったっけな。
「はい。加奈子さん、絢乃さん。これから何かと忙しくなりますが、三人で頑張っていきましょう」
「うん。今日はホントにありがと」
僕が微笑みかけると、絢乃さんは可愛らしくはにかまれた。この先、僕にも新しい日々が待っているが、この笑顔ひとつあればすべて報われるんじゃないかと思わせてくれる笑顔だった。好きな人の笑顔には、それだけの力があるのかもしれない。
――二日後に行われる株主総会の日には、寺田さんが送迎をされるので僕は送迎しなくてもいい、と加奈子さんに言われた。当日が土曜日だったので、僕に休日出勤させるのが申し訳ないと思われたのだろう。僕は別にそれでも構わなかったのだが、加奈子さん(と多分絢乃さんも、だろう)のお気遣いに甘えさせて頂くことにした。
「――桐島さん。今日から貴方を正式に、会長秘書に任命します。正式な辞令ではないけど、心して受けるように」
別れ際、絢乃さんは胸を張って僕にこうおっしゃった。正式な書面での辞令は人事部を通してになるだろうが、次期会長が直々に任命されたのだから、それは僕にとってれっきとした〝辞令〟に他ならなかった。
「はい。謹んで拝命致します」
僕はそれに、神聖な気持ちでお応えしたのだった。
* * * *
――その日の帰りには喪服姿だったのでどこへも寄れず、そのままアパートに帰った。昼食代わりだったはずの仕出し料理もあんな状況だったので食べた気がせず、まだ夕方にもなっていないのに空腹だった。
「あー、腹減ったな……。家に何か食うもんあったっけ」
兄の出勤日なら店に食べに行こうと思っていたが、その日は兄も休みだと聞いていた。だからといって、喪服でコンビニに行くのも気が引けるしな……。
そう思いながらアパートの外階段を上がり、玄関のドアノブを回すと鍵が開いていた。
「――よう、貢! おかえり!」
「兄貴、来てたんだ? ただいま」
ドアが開いて出迎えてくれたのは兄だった。ちょうどよかったので、僕は兄に頼んで斎場から持ち帰ったお清めの塩を振りかけてもらった。
「サンキュ、兄貴。でもどうしたんだよ? 今日来るなんて俺聞いてなかったけど」
部屋に入ると何やらいい匂いがして、僕の腹がグゥと鳴った。多分、この匂いはデミグラス系か?
「お前今日、篠沢会長のお葬式だって言ってたじゃん? 例の絢乃ちゃん? のお父さんだろ」
「うん、……そうだけど」
確かにそうだが、絢乃〝ちゃん〟って。兄貴、会ったこともないのに馴れ馴れしくないか? 僕だって〝さん〟付けしかできないのに。
「んで、きっと腹空かして帰ってくるんじゃねぇかと思ってさ、メシ作って待ってたんだよ」
「そっか。んで、メシなに? 何かデミ系のいい匂いするな」
「お前の大好きなビーフシチューとポテサラ。今日寒みいし、温ったけぇモンの方がいいかと思ってさ。ちゃんと白メシも炊いてあるぜ」
いや、ポテトサラダは温かくないが。それを言いだしたらキリがないのでそこはツッコまずにいた。
「ありがとな。俺、ちょうど腹ペコだったんだ。仕出しも頂いたんだけど、雰囲気悪い中だからどこに入ったか分かんねえし。じゃあちょっと早いけど、食おうかな」
僕はおいしそうなに匂いの誘惑に負けて、白旗を揚げた。兄は「ほいきた」と狭いキッチンに立ち、甲斐甲斐しく僕の食事の支度を始めた。
「――さ、たーんと食え! おかわりしてもいいぞ」
「いただきまーす。……ん、美味い!」
――僕は兄が作ってくれたビーフシチューで白飯をかきこみながら、この日正式に絢乃さんの秘書に任命されたことを兄に話した。
「そっかそっか、よかったじゃん? お前、これから忙しくなるな」
「うん。いよいよ、って感じがするよ」
これから僕の新しい日々が始まるんだと思うと、何だか気が引き締まる思いだった。
* * * *
ビーフシチューはなんと、夜食の分まであった。兄貴、作りすぎだっつうの。……それはともかく。
――翌日出勤すると、小川先輩は少し元気を取り戻したようだった。
「おはようございます。――先輩、もう大丈夫なんですか?」
「おはよ、……まぁね。社長が、普段どおりに仕事をしてる方が気が紛れていいだろうっておっしゃるから」
そういえば、前日から先輩は会長秘書の任を離れ、村上社長に付いていたのだ。
「そっすか。でも、よく社長秘書を引き受けましたよね。会長秘書から降格したようなもんじゃないっすか」
「別に降格したワケじゃないよ、桐島くん。秘書に格なんか関係ないの。たとえ誰に付こうと、秘書はただ自分の仕事をすればいいだけ。ただ、会長秘書だけの特別待遇は受けられなくなったけど」
「特別待遇って?」
僕は首を傾げた。そんなものがあるなんて初耳だ。ということは、会長秘書になったら僕も同じような待遇を受けられるということだろうか?
「それはこれから分かると思うよ、桐島くん。お楽しみに♪」
「へぇ……、そっすか」
小川先輩にははぐらかされたが、それは実際に受けてみると、経済的にかなり厳しい生活を送っていた僕にはものすごくありがたい待遇だった。
「でも、まだ絢乃さんが正式に会長に就任されるって決まったわけじゃないんですよね」
「えっ、そうなの?」
僕は前日に篠沢家の親族会議がどうなったのか、先輩に話した。加奈子さんのいとこという人が、最後の抵抗で自分の父親を絢乃さんの対立候補に立てたのだ、と。そして、明日の株主総会で決選投票が行われることになったのだ、とも。
「ホンっト、絢乃さんじゃないけど、その人何考えてるんだろうね」
「ね? 先輩もそう思うでしょ? でも多分、かなりの高確率で絢乃さんが会長に就任されるって決まったようなもんですよ。先代の遺言で正式に指名されてるわけですし、株主のみなさんだってそれを無視することはないでしょうから」
「だよねー。そんなワケの分かんない人より、絢乃さんが会長になって下さった方が絶対いいもんね」
「――おはよう、桐島くん。ところで、室長の私にまだ挨拶なしとはどういうことかしら?」
温度の低ぅい声に慌てて振り返ると、ブリザード化した広田室長がそこにいた。小川先輩としゃべることに夢中で、室長の存在が頭の中からスッポリ抜け落ちてしまっていたのだ!
「わぁぁぁっ!? すみません室長! おはようございますっ!」
3
そして、翌日の昼過ぎ。僕がアパートの部屋で、昼食のカップうどんを作ろうとキッチンでお湯を沸かしていた時に、スマホに絢乃さんから電話があった。
「――はい。絢乃さん、今日は株主総会、お疲れさまでした」
『うん、無事に終わったよ。――でね、桐島さん! わたし、新会長に決まったよ』
「本当ですか? おめでとうございます! では、僕の会長秘書拝命も無事に決まったということですね」
興奮ぎみに会長就任が決まったことを告げた絢乃さんに、僕はその一点を再確認した。これで僕の肩書きは絢乃さんの個人秘書兼、篠沢グループ会長秘書となったわけである。
『うん。明後日にも人事部から正式な辞令が下りると思う。というわけで改めて、これからよろしくお願いします』
僕は「はい」と頷いた後、総会の内容そのものについてお訊ねしてみた。すると、彼女はまだ興奮冷めやらない様子で語って下さった。
絢乃さんは会長の就任するうえでの心構えや高校生活との二刀流に挑むこと、お父さまのような会長を目指されることをスピーチで語られたそうだ。もちろん加奈子さんや、本部の執行役員も務めていらっしゃる村上社長も援護に入って下さったらしい。特に社長の応援演説が圧巻で、株主の皆さんの心を打ったのだろうと。
一方、絢乃さんの大叔父にあたるという方のスピーチでは、自身はご子息に頼み込まれて仕方なく会長候補に立ったが、本当は引き受けたくなかったのだと打ち明けたそうで、年功序列だけを理由にして擁立されたことを心から迷惑がっている様子だったと絢乃さんはおっしゃった。
当然、決選投票の結果も火を見るよりも明らかで、絢乃さんが大差をつけて勝利されたのは言うまでもない。
そして、彼女は本社幹部の人事にも言及されていて、村上社長の留任・広田室長の常務就任および兼任・山崎修人事部長の専務就任および兼任が決まったそうだ。
普通なら(何が普通なのか、と訊かれても返事に困るのだが)、常務と専務の人選は逆になるのではと言われそうだが、あえて女性である広田室長の方を上役に選ばれたところが何とも絢乃さんらしい。それが女性ならではの発想なのか、はたまたまったく別の考えからなのかは僕にも分からないが。
「そうですか、社長が味方について下さったのは大きかったですね。村上社長は確か、お父さまの同期組でしたよね。営業部でいいライバルだったとか」
これは社内でもけっこうな語り草になっていて、源一氏が村上氏を社長に就任させたのは、恋に破れた彼への罪滅ぼしだったとか何とか。
『そうなの。彼を社長に任命したのもパパだったんだって。若い頃はどっちがママのハートを射止められるか争ってたらしいよ』
僕はその逸話をすでに知っていたが、初耳だったふりをして「へぇ……、そんなことが」と相槌を打っていると、電話の向こうから「その話はもう時効だから続けないでほしい」という加奈子さんの声が聞こえてきた。
「――それはともかく、明後日は朝十時から就任会見が開かれるんですね。スピーチの原稿は用意しておいた方がよろしいですか?」
僕は気を取り直し、これが秘書としての初仕事だと考えて絢乃さんにお訊ねした。
篠沢グループほどの大企業グループで新会長就任の記者発表が行われるとなれば、当然TVやネットなどで生中継されるはずである。それだけ世間の注目を集めるトピックスなのだ。そんな公の場で、絢乃さんに恥をかかせるわけにはいかなかった。
だって、彼女の会長デビュー=僕の秘書としての初陣だったのだから。
『そうだなぁ、わたしとしてはあった方が気持ち的に助かるけど。大まかな内容で作っておいてくれたら、あとは自分で考えて話すから』
それはいかにも彼女らしい答えだった。僕もこれまで何度も彼女のスピーチや記者会見などを側で拝見してきたから分かるのだが、絢乃さんは自分のお言葉を大切にされる方だ。誰かが書いた原稿どおりに話しても、ご自身が本当に伝えたいことは伝わらないから、きちんとご自分の言葉で伝えたいのだと。お父さまも生前そうされてきたように。――それが彼女の信条なのだという。
「かしこまりました。では、簡単な内容の原稿だけ、僕の方で作成しておきます」
とはいえ、すべて彼女に丸投げでは僕の仕事がなくなってしまうし、彼女も負担が重いだろうと思ったので、僕はそう答えた。すると、「ありがと。じゃあよろしく」という感謝の言葉が返ってきた。
電話を終えると、ちょうどケトルのお湯が沸騰していた。僕は昼食のうどんをすすり終えるとすぐ、座卓の上でノートPCを開いた。さっそく絢乃さんのためのスピーチ原稿を作成しようと思い立ったからだ。「善は急げ」というヤツである。
彼女がどんなお気持ちで会長就任を決められたのか、またどういう覚悟を持って高校生活との二刀流に挑まれるのかを僕はすでによく理解していたので、それを文字に落とし込めばいいだけだった。あとは、それを彼女らしい誠実な内容にどうまとめるか――。
悩んだ末に書き上げた原稿は、どうにかA4サイズの用紙二枚分にまとまった。
* * * *
――その翌日の朝、珍しい人物から連絡があった。同期入社の久保である。僕が異動してからも同じ社内にはいるのだが、こうして連絡を取り合うことはなくなっていたのだ。
『――よう、桐島! 久しぶり!』
「久しぶり、ってなぁ。先代の社葬の時にも会ったじゃん」
僕は呆れてツッコんだ。三日前に会ったばかりなら「久しぶり」とは言わないだろう。
『ん……、まぁそうなんだけどさぁ。あん時はゆっくりしゃべるヒマなかったじゃん? お前忙しそうだったし。おたくの小川先輩から聞いたよ、お前が会長秘書になったって』
小川先輩と久保は入社当時から顔見知りだったので、ヤツが彼女から聞いたことも僕は不思議に思わなかった。
「うん、そうなんだよ。で、明日が俺と絢乃会長の初陣』
『らしいな。でさ、その就任会見の司会進行、オレがやることになったからよろしく』
「……………………はぁっ!? なんでお前が?」
僕は自分の耳を疑った。記者会見の司会は普通、広報課の仕事のはずなのに。なぜ総務課所属の久保が!? まさか、あの課長が仕事を横取りしたのか!?
『うんまぁ、こっちにも色々と事情があんのよ。細けぇことは気にすんな?』
「……………………あっそ」
ところが、久保には答えをのらりくらりとはぐらかされたので、僕には何だかそれ以上追及する気が失せた。
『――とにかくそういうことだからさ、明日はよろしく。新会長さんにもよろしく言っといてくれよ』
「へいへい、伝えとく。じゃあな」
僕は一方的に電話を切ったが、久保からの折り返しはなかった。
この時、僕は出かけようとしていたのだった。クリスマスプレゼントに絢乃さんから頂いたネクタイに合う色のスーツを新調しに、紳士服店まで。
僕が持っていたグレー系のスーツに、あのネクタイは合わない。せっかく正式に秘書就任が決まったので、新しいスーツ姿でビシッと決めて初陣に臨もうと決めていたのだ。
愛する人の側で、カッコいい僕でいるために――。
オフィスラブ、スタート!
1
――そして迎えた、絢乃会長就任会見の当日。僕はおろしたての真っ白なワイシャツとまっさらな濃紺のスーツ、そして絢乃さんから送られた赤いストライプ柄のネクタイでビシッと決め、黒いコートを羽織ってアパートを出た。足元はこれも新品の、ブラウンの革靴だ。
この日は朝九時ごろに、篠沢邸まで絢乃さんと加奈子さんの親子をお迎えに行くことになっていた。
すでに愛車となっていたシルバーのセダンを運転して、篠沢邸のカーポートに到着したのは九時少し前だった。
「――おはようございます。桐島です。お迎えに上がりました!」
インターフォンを押し、「はい」と彼女のキレイな声で返事があったので張り切ってそう伝えた。「すぐに出られるから待ってて」と言われて待っていると、ほんの数分でお二人が出てこられた。……が、コートの下はおそらくグレーのパンツスーツである加奈子さんに対して、絢乃さんの黒いピーコートの下からは裾に赤い一本線の入った膝丈のブルーグレーのスカートが見えていた。このスカート、見覚えがあるけどまさか……?
それを確かめる前に挨拶を交わすと、絢乃さんが「あ、そのスーツ……」と僕の新品のスーツに気づいて下さった。
「ああ、これですか。絢乃さんがプレゼントして下さったネクタイに合わせて新調したんですよ。どうです、似合いますか?」
僕は気づいてもらえたことが嬉しくて、彼女からのプレゼントだったネクタイに手をやった。彼女は「すごくカッコいい」と褒めて下さったが、まさかスーツを新しく買うとは思っていなかったと驚かれ、「それ高かったんじゃない?」と心配して下さった。
僕は「量産品なのでそんなにかからなかった」と答えたが、実はそれでも三万円くらいかかっていた。ちょっとばかり痛い出費である。一応、ダメもとで経費で落としてもらえないかと領収書はもらっておいたのだが。
「それならいいんだけど。桐島くん、その時の領収書かレシートがあったら、その分絢乃に清算してもらえるわよ」
加奈子さんがサラッとすごいことを教えて下さった。目からウロコが落ちるとはこのことかと思った。というか、小川先輩が言っていた「会長秘書だけの特別待遇」ってこのことだったのか……!
でも、特別待遇はそれだけではなかった。送迎にかかった交通費やガソリン代も、経理部を通さず会長から直接清算されるのだという。つまり、僕の場合は絢乃さんのポケットマネーから、ということだ。
このシステムは、今は亡き源一前会長が始められたらしい。が、それ以前の歴代会長も社員たちのために色々な工夫をして下さったと聞く。たとえば、秘書室と会長室からそれぞれ伸びる給湯室への通路。これも、絢乃会長のお祖父さまが秘書の負担を軽減するために設計してもらったのだとか。
きっと絢乃会長も、この先僕たち社員が働きやすくなる工夫を色々として下さるに違いない。
「へぇ……、それは助かります。会長秘書って仕事量も多そうですけど、それに見合ったメリットもあるわけですね」
僕は彼女に心から感謝している。もちろん会長秘書だけの特権に関してもそうだが、僕にここまでやる気を漲らせて下さったことにも。
思えば僕が男女問わず、誰かのために一生懸命に何かをしようと思ったのは、絢乃さんに対してが初めてだった。本気で恋をしたらそう思えるようになるのだと、この時初めて分かったのだ。
クルマを買い換えたのも、スーツを新調したのも、すべては絢乃さんをお支えするためだったのだから。
「そう。たからこれから一緒に頑張ろうね!」
「はいっ! では、車内へどうぞ。ここでは寒いですから」
僕はお二人を、暖房を効かせたクルマの後部座席へ誘導した。
そして、実は内心、早く絢乃さんに助手席にも乗って頂きたいなぁと思っていた。
* * * *
僕はクルマをスタートさせる前に、絢乃さんたちにIDカードを手渡した。それはネックストラップ付きのパスケースに入れてあって、それぞれ絢乃さんと加奈子さんのカタカナ表記のお名前と十二ケタのナンバーが刻字してある。
僕たち社員が携帯している社員証とほぼ同じものだが、社員証に入っている顔写真がないところが大きな違いだろう。
絢乃さんの会長ご就任が決まってすぐ、我がグループ傘下の〈篠沢セキュリティ〉から発行されたもので、僕はその前日、スーツを買いに行った帰りにカードができたと連絡を受け、その足で受け取りに行ってきたのだった。
「紛失されると再発行の手続きが面倒なので、くれぐれも失くされないようにお願いします」
お二人に言ったこの言葉は、実は僕自身の本音でもあった。受け取りに行った時、セキュリティ会社の担当の人からイヤというほど念を押されてウンザリしたからだ。
「分かりました。失くさないように気をつけるね」
絢乃さんが苦笑いしながらもそうおっしゃってくれた時、僕はホッと胸を撫で下ろした。彼女が「うるさい!」と機嫌を損ねるようなボスでなくてよかったなと思った。
ふとルームミラーに視線を移すと、絢乃さんは視線を落としてスカートの裾のラインを見つめておられた。車内ではコートを脱がれていたので、僕にも彼女の制服姿の全身がはっきりと見え、彼女がどんな想いでこの日、この服装を選ばれたのか僕にも理解できた。
彼女は意志の強い女性だが、やっぱり少なからず迷いや心配はあったのだろう。それは少し憂いを帯びた彼女の表情から窺い知ることができた。
「――ところで絢乃会長。そのお召し物は……、通われている学校の制服……ですよね」
僕がそのことを指摘すると、彼女は「ん? そうだよ」と顔を上げられた。きっと、僕からご自分の服装がどのように見えているのか気にされていたのだろう。もしかしたら、批判的な目で見られているのではないか、と。
でも、僕には彼女の覚悟が手に取るように分かったし、お亡くなりになった彼女のお父さまと約束したのだ。僕はいつでも絢乃さんの味方でいると。
「……それが、あなたの並々ならぬ覚悟の表れということですね。どんな批判も甘んじて受け止める、と」
もちろん、そうなった時は彼女一人に非難を浴びせるつもりはなく、秘書である僕も一緒にと思っていた。それくらいしか、彼女をお守りする術を知らなかったのだ。
彼女は僕に「理解してもらえて嬉しい」とおっしゃった。やっぱり、秘書である僕に反対されたらどうしようかと気を揉まれていたらしいので、ご自身の信念を受け入れられたことを喜ばれたのだと。
「まぁ、いくら反対したところで無駄なんだけどね。この子、あの人に似て頑固だから」
加奈子さんのこの辛辣なコメントに絢乃さんは困惑し、僕も「何もそこまでおっしゃらなくても」と思ったが、絢乃さんからの反論がないところを見るにこれは図星だったのだろうか。
僕も正直心配ではあるが、秘書の立場でボスがお決めになったことに異議は唱えられない。だからできる限り応援はしたいと自分の気持ちをお伝えすると、絢乃さんは花が咲いたような明るい表情で「ありがとう!」と言って下さった。
「――では、そろそろ参りましょうね」
出発まで少し時間がかかってしまったが、僕は丸ノ内へ向けてクルマを発進させたのだった。
しばらく走らせたところで、僕は練習していた秘書らしい口調で、ちゃんとスピーチの原稿を用意しておいたので会見前に確認してほしい、と絢乃会長に言った。
僕としては、ただ自分の仕事をキッチリしておいただけだったのだが。彼女からは「最初からそんなにマメすぎると後からストレスで胃がおかしくならないか」とかえって心配されてしまった。総務にいた頃の僕がどんな思いをしていたかをよくご存じだったからだろう。彼女は本当に優しい方だと胸が熱くなった。
2
「大丈夫ですよ。僕はこう見えて、けっこうメンタル強いんで。そうでもなければ、僕はとっくに会社を辞めてます」
絢乃会長を安心させたくて、ついそんなことまで言ってしまった。
前の部署で、あんな上司の下で散々こき使われてきて、お前はよく会社を辞めずにいられたなと自分で自分に感心してしまう。何人もの同僚や先輩たちが退職していくのを身近で見てきたにもかかわらず、だ。やっぱり僕はメンタルが強靭にできているのだろうか。
でも、大好きな女性のためならどれだけ大変な仕事も苦に思わない。これはもう、愛の力としか言いようがないだろう。
それに対して絢乃さんが「桐島さん、前の部署で相当ひどい目に遭ってたんだね」と表情を曇らせておられると、加奈子さんが横から「なになに、何の話?」と口を挟まれ、首を傾げられた。加奈子さんはどうやら、総務課のパワハラの事実をご存じなかったらしい。ということは亡き源一前会長もそうだったということになる。
絢乃さんからその話を一通りお聞きになった加奈子さんは「う~ん」と唸った後、「あら……、あなた苦労してたのねぇ」と眉をひそめられた。
「多分、あの人も知らなかったんじゃないかしら。知っていたらもっと早く助けてあげられたのに」
加奈子さんのこの言葉から、やっぱり先代はパワハラのことを把握されていなかったのだと僕は理解した。そして、彼がご自宅では会社や仕事に関する話題を避けておられたのだとも。
とはいえ、僕は異動したことで島谷課長との接点がほぼなくなり、完全に彼のターゲットからは外れたようなので、僕の中ではもう終わったも同然だった。
「いえいえ、お気になさらず。もう終わったことですから」
少なくとも自分ではそう思っていて、自分にそう言い聞かせていたので、もう蒸し返してほしくなかったというのが本音だった。
それよりも、この先絢乃会長の姿勢が世間からどのように評価されるのか、ということの方が僕には重要だった。
「――そういえば、今日の会見はTV中継されるだけでなくネットでも同時配信されるそうですよ。そしたら絢乃会長は一躍有名人になりますね」
そうなのだ。僕もその朝、久保から電話で聞かされて驚いた。
ネットで配信されるということは、TV中継だけされる場合よりも世間的に注目を集めるということ。ネット社会の現代では、昨日まで一般人だった人が一夜にして有名人になり得てしまう時代なのだ。
加奈子さんも「母親として鼻が高い」と悪ノリして盛り上がっていらっしゃったが、絢乃さんはそのことに苦言を呈しておられた。「グループの評判が上がるのはいいけど、わたし個人まで有名になっちゃうのはちょっと……」と。
そして、それは僕も同感だった。彼女が大企業のトップとして表舞台に立つことは僕も秘書として大賛成だったが、有名人になってしまうことで彼女が妬みの対象となることは避けたかったのだ。
ボスである絢乃さんのスケジュール管理は、僕の仕事になる。万が一捌ききれない数の取材を受けてしまうとその皺寄せは僕に来てしまう、つまりは自分で自分の首を絞めてしまうということを意味していた。
だから、彼女から「受ける取材の数は最低限に絞ってほしい」と懇願された時、僕はこう答えたのだ。
「分かってますよ。あなたが忙しくなりすぎたら、秘書である僕自身の首も絞めることになってしまいますからね。そこはこちらでどうにか調整します」
「よかった! ありがとう!」
絢乃さんは満面の笑みで僕にお礼の言葉をおっしゃった。……そう、僕は彼女がこうしていつも笑顔でいられるようにしたいと思っていたのだ。お仕事中でもそれは変わらない。小川先輩の請け売りだが、それこそが僕の会長秘書としての〝愛〟なのだから。
「僕は秘書として、あなたに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、これから色々な工夫をしていこうと考えてます。――絢乃さん、コーヒーお好きですよね?」
これも先輩から仕入れた情報だったが、僕は絢乃会長にこんな質問をしてみた。
彼女がそれに対して「どうして知ってるの?」と首を傾げられたので、僕は小川先輩から聞かされたという本当の理由を伏せて、お父さまの火葬中に缶入りのカフェオレをお飲みになっていたからだと答えた。
「僕も大のコーヒー好きなので、同じコーヒー好きの人は何となく分かるんです。実は昔、バリスタになりたいと思っていたこともあったので、淹れる方にも凝っていて……。それで、絢乃会長がご休憩される時に、僕が淹れた美味しいコーヒーをぜひ飲んで頂こうと考えているんです。ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが」
彼女に喜んで頂きたいと思うあまり、僕は秘書としての決意を語りながら、つい自分がかつて抱いていた夢までもポロっと話してしまった。初対面の夜にはからかわれてしまうのがイヤで話すことを拒んでいたのに、弾みとはいえ言えるようになったのはきっと、彼女のことを信頼できるようになったからだと思う。
絢乃さんは顔を綻ばせながら「それは楽しみ」とおっしゃったが、その前に少しの間があった。もしかしたら、これが僕の夢だったのだとお気づきになったかもしれない。
そうこうしているうちに、窓の外にJR東京駅の赤レンガ造りの駅舎が見えてきた。篠沢商事の本社ビルまではあと数分、というところだった。
* * * *
――入構ゲートをくぐった後、記者会見の行われる二階大ホールへ向かうエレベーターの中で、僕は絢乃さんにさりげなく司会進行役が久保であることを伝えた。
「……ああ、何となく憶えてるかも。ちょっと軽い感じの人だよね、確か」
彼女もお父さまの社葬の時、彼が司会を務めていたことを憶えておられたようで、その時のヤツに対する彼女の評価がコレだった。……久保、お前、絢乃さんからもチャラチャラしてるって思われてるぞ。
「……う~ん、確かにアイツはちょっとチャラチャラしてますよね。特に妙齢の女性に対しての態度が」
僕もその辛辣なコメントに賛同した。入社した時からの長い付き合いなので、ヤツの女性遍歴はよく知っていた。今の彼女と付き合うまでにも色々あったのだ。そんな男なので、絢乃さんにも色目を使ったりしやしないかと、僕は不安で仕方がなかった。
「――っていうか、司会って広報の人がやるんじゃないんだね」
「確かに、そこは僕も不思議なんですよね。もしかしたら元々は広報の仕事だったのに、総務課長が手柄を横取りしたのかもしれません。あの人ならやりかねない」
絢乃会長も僕と同じ疑問を口にされた。
久保は結局そのあたりの経緯を話してくれなかったので、僕は一番あり得るだろう可能性を持ち出して苦々しく吐き捨てた。
彼女に島谷課長の話をしたことは一度もなかったが、僕のこの毒舌から彼が一体どういう人物なのかを彼女も想像できたのではないだろうか。
ただ、あくまでもこれは可能性の問題であって、後から違うと分かったのだが。「目立ちたがりの久保が自分から名乗りを上げたかもしれない」と僕が言うと、絢乃さんは「なるほど」と曖昧に頷かれただけだった。
そこで僕が彼女について分かったことは、彼女が親族を除く誰かのことを、決して悪く言わない人だということだった。
彼女は相手を貶したり、傷付けるようなことを決して言わないのだ。それは彼女の生まれ持った性格なのか、ご両親の教育の賜物なのか、どちらなんだろうか。もしかしたら両方かもしれない。
3
――僕は絢乃会長と加奈子さんのお二人をステージ側面のドアからホール内へ誘導し、バッグとコートをお預かりした。
スピーチの原稿は「この内容で大丈夫」とすぐにOKを頂いたが、絢乃さんはカーテンで仕切られた向こう側にズラズラと詰めかけていた大勢のメディア関係者に緊張されているようで、制服のスカートの裾をギュッと握りしめられていた。
「――絢乃さん? もしかして緊張されてます?」
僕はあえて「会長」とはお呼びせずにお名前で呼び、彼女に声をかけた。会長としてのプレッシャーと必死に戦っておられる人を追い詰めてしまうようなことはしたくなかったのだ。
すると、彼女は会場にあるカメラの向こうにいるであろう何万人、何十万人という人たちのことを気にされているようだった。元々人前に出ることがあまり得意ではなく、パーティーの締めの挨拶で少しは克服できたものの、さすがにあの時とケタ違いの人々から注目されている状況は怖くてたまらなかったのだろう。
「う~ん、なるほど……。僕、こういう時によく効くおまじないを知ってますよ。よろしければお教えしましょうか?」
子供の頃から極度のあがり症だった僕にも彼女の気持ちはよく理解できたので、僕は彼女に母直伝のおまじないを伝授して差し上げようと思い立った。大人になった今では、ちょっとバカバカしいとも思っているので少々恥ずかしくもあったが。
「はい。子供の頃に、母から教わったベタなおまじないなんですけど。『目の前にいるのは人間じゃなく、カボチャだと思え』だそうです」
「カボチャ……。確かにベタだね」
それを聞いた途端、彼女は朗らかに笑い出した。母さん、やっぱりこのおまじない、ベタベタすぎるって……。でも、絢乃さんが笑って下さったからいいか。
そして多分、彼女の中で僕の好感度は爆上がりしたはずだ。別に計算したわけじゃないが。
「ありがと、桐島さん。もう大丈夫! 貴方のおかげで、おまじないなしでもやれそうな気がしてきた」
僕の想定とは違う形ではあるものの、彼女の緊張を解すことができたので、僕の秘書としてのスタートは上々と言っていいだろう。特別何をしたというわけでもないが。
司会進行を務める久保の呼びかけを受け、加奈子さんとお二人でステージへ向われる新会長の背中はすごく頼もしく見えた。
絢乃新会長の就任スピーチを、僕はステージ横で見守っていた。
時に原稿どおりに、時にはご自身の言葉で語られる彼女の姿は本当に凛々しく、それは彼女だけでなく僕も待ち焦がれていた瞬間だった。彼女はまさに、この瞬間のために生まれてきた人なんだと思えた。
僕が驚いたのは、亡き源一氏が絢乃さん個人に宛てた(後から知ったことだが加奈子さん宛てのもあったそうだ)遺書を遺されていたことで、その存在については僕も知らされていなかった。
そこには、絢乃さんのご意志で会長の職を誰かに譲ってもいいと書かれており、まだ高校生だった彼女が会長としての重責に縛られることを源一氏は望んでいなかったのだと僕も初めて知った。彼女はそれでも会長としての責務を立派に果たしていくと明言され、加奈子さんも母親としてそんなお嬢さんを全力で支えていきたいと語られていた。
その後の質疑応答でも、絢乃会長は一つ一つの質問に――時には少々意地の悪い質問もあったが――丁寧に受け答えされていた。その姿からは、二刀流を果たしていくことへの覚悟がポーズだけではないことをひしひしと感じ取れた。
そんな彼女に、僕は「お疲れさまでした」の気持ちを込めて心からの拍手を送った。
* * * *
――会見が終わった後、加奈子さんは「今後の打ち合わせがあるから」と、先に村上社長とご一緒に重役フロアーである三十四階へ上がって行かれ、僕と絢乃さんは二階にしばらく留まっていたのだが。絢乃さんは無事に司会の任務を終えた久保のところへ駆け寄って行った。
……一体、ヤツに何をおっしゃる気だろうか。僕は彼女が他の男に声をかけに行ったのが正直面白くなかったので、半ばイヤイヤながら彼女について行った。
「――あ、久保さん。司会進行お疲れさまでした!」
「会長! お疲れさまです。桐島も。わざわざどうされたんですか?」
突然雲の上の人から声をかけられた久保は、普段の彼からは想像もつかないくらいピンと姿勢を正していた。お前、普段はそんなんじゃないだろ。っていうか桐島「も」って何なんだ。人をオマケみたいに言いやがって。
「貴方の進行がよかったおかげで、記者会見がスムーズにできました。ありがとうございました。父もよくこうして社員の頑張りを労っていたそうなんで、わたしもそれに倣ってみたんです」
彼女がどうしてコイツに声をかけたのか疑問だったが、何のことはない。ただお父さまの葬儀に続いて司会を頑張ってくれた(少なくとも彼女の中では)この男に、労いの言葉をかけたかっただけだったのだ。今は亡きお父さまも生前そうされていたように。……嫉妬心剥き出しだった俺、なんかみっともない。
「ところで、どうして広報の人間じゃなくて総務の僕が司会をやってたんだ、って思ったでしょう? 桐島、お前もそう思ったよな?」
久保がそこで、僕と彼女もいちばん疑問に思っていたポイントを話題にした。
僕の認識でも広報活動の一環である記者会見の司会進行は広報部の人間がやるものだと思っていたし、その点は絢乃会長も同様だった。そこへきて、どうして総務課所属のこの男がわざわざしゃしゃり出てくるんだと、僕にはそこが引っかかっていたのだが。
「俺は、あの課長が広報から手柄を横取りしたんじゃないかって思ったけど……。違うのか、久保?」
彼も絢乃会長には言いづらい理由でも、僕になら同期のよしみではなしやすかろうと思い、その可能性をぶつけてみた。……そういえば、絢乃さんの前で初めて「俺」って言ったかもしれない。
すると、返ってきた答えはこうだった。当初司会を務める予定だった広報部にいる僕たちの同期が急に体調を崩してしまい、久保は本人から個人的にピンチヒッターを頼まれたのだと。久保は元々イベントごとなどで司会をやることに慣れているので打ってつけだと思われたのだろう。……つまり、島谷氏は何の関係もなかったわけである。
僕と久保は絢乃さんそっちのけで、つい同期のノリで盛り上がってしまったが、彼女は「あなたは司会に向いている」と久保のことを褒めちぎっておられた。本当に、この男が総務にいるなんてもったいないと僕も思う。
彼は別れ際に会長の前で僕のことを絶賛し、「桐島のことをよろしくお願いします」と頭を下げていた。僕にとっては付き合いの長い同期からの、このうえない餞の言葉だった。
久保と別れてから、絢乃さんは会長として部署ごとに仕事が割り振られる会社のシステムを見直さなければ、とおっしゃった。社員一人一人が部署の括りに囚われることなく、やりたい仕事ができるようにしたい、と。
「桐島さんだって、入社前にはこの会社でやってみたいと思った仕事があったでしょ? 総務課に配属されたのは貴方の意志じゃないはずだよね」
そう訊ねられた時、僕は初めて入社当時のことを彼女に打ち明けた。本当はコーヒーに関わる部署で働きたかったのだと。
そこで「今はもう未練はないの?」と訊かれたが、「秘書としてなら望んでいた形ではないけれどコーヒーに関わる仕事もできるので、それはそれで満足です」と僕は答えた。
今は大好きな絢乃さんのために働きたい、というのが僕の噓いつわりない本心である。
4
――会長室は、篠沢商事ビル最上階である三十四階のいちばん奥に位置している。このフロアーにある部屋の中でもっとも広い執務室だ。
西側の大きなガラス窓――ちなみに断熱・遮光ペアガラスが使用されている――を背にする形で会長のデスクがあり、ドアのすぐ側に配置されている秘書席とは少し離れているが、位置取りとしては向かい合う形になっている。どちらのデスクにも専用のデスクトップPCが備え付けられている。
この他に室内にあるのは大きな本棚とキャビネット、共用プリンターが一台、そして応接スペースのソファーセット。主の趣味が反映されるものといえば、大きなアンティーク調の飾り時計くらいだ。ゴルフのパターマットや帆船模型、木彫りのでかいクマの置物みたいないかにも「会長室でござい」というものは一切置かれておらず、シンプルだが高級感漂う空間になっている。
ちなみに、このフロアーの給湯室を除く各部屋には、専用の化粧室も完備されている。
「――さ、会長。どうぞ」
僕は自分の社員証のIDを認証させてロックを開け、絢乃会長を初めて会長室の中へお通しした。僕も過去に一度だけ亡き源一会長に通されたことがあったが、彼女もお父さまのかつての職場を感慨深そうに見まわされていた。この室内のシンプルながら品のある調度品を、彼女もお気に召したようだった。
「――では、僕はコーヒーを入れて参ります。会長はデスクでお待ち下さい。お好みの味などあればおっしゃって下さいね」
「うん、分かった。じゃあミルクとお砂糖たっぷりでお願い」
「かしこまりました」
僕は彼女のオーダーを聞くと、専用通路を通って給湯室へ入っていった。
コーヒーを淹れるための道具やマグカップ、豆などは前もってここに持ち込んであった。実は土曜日の午後、絢乃会長の就任スピーチの原稿を作成し終えた後に、クルマに積んで運び込んであったのだ。
『――桐島くん、その大荷物なに!? 今日は出勤日じゃないよね?』
ちょうどその日も休日出勤していた小川先輩が、その光景にビックリしていた。
『コレっすか? 絢乃会長のために美味しいコーヒーを淹れて差し上げようと思って、わざわざ俺ん家から持ってきたんすよ』
それを聞いた先輩は、「会長のために何もそこまで……」と呆れていたが。
ちなみに、コーヒー豆は実家近くの馴染みのコーヒー専門店から分けてもらったちょっとお高い豆である。愛する絢乃さんに喜んで頂きたくて、少々張り込んだのだ。もちろん僕の自腹で。会長に申告すれば、この代金は経費で落としてもらえるだろうか?
マグカップもまた、絢乃さんの好きそうな色のものをわざわざ選んで買ってきた。こちらはそんなに高価ではなく、インテリアから雑貨まで揃ってしまう「お値段以上」の某チェーン店のものだが。ついでに僕の分として、色違いのブルーのマグカップまで買ってしまったのだが、これくらいの無駄遣いは許されるだろう。どうせ自腹だし。
カップではなくガラスポットにセットしていたドリッパーのペーパーフィルターに豆を計って載せ、沸騰後に少し冷ましておいたケトルのお湯を静かに少しずつ注いでいく。最初は少し多めのお湯で豆を全体的に蒸らして薫りを引き出し、あとは少量ずつじっくりと。――昔バリスタになりたくて勉強していた美味しいコーヒーの淹れ方が、こんなところで役に立つとは。でも、どんな経験も決してムダにはならない。必ず何かの役には立つのだと僕は気づいた。
じっくり丁寧に淹れると、それなりに時間はかかるものだ。カップ一杯分をドリップするだけで約五分、その前にお湯を沸かしていた時間も含めると十分近くが経っていた。あとは絢乃さんのお好みどおりに多めの砂糖と牛乳を注ぎ入れたら完成だ。
「――お待たせしました。……会長、どうかされました?」
できあがったカフェオレのカップをトレーに載せて会長室へ戻ると、絢乃会長はPCの画面に釘付けで僕がお声がけしてもしばらく返事がなかった。
「あっ、桐島さん、おかえりなさい。ちょっとこれ見てみて!」
ようやく僕に気づかれたらしい彼女は、興奮気味にお顔を高揚させて僕をデスクの側まで手招きされた。どうやらさっそくPCにログインして、動画配信サイトをご覧になっていたようだが……。
ちなみに〈Ayano0403〉というPCのパスワードは源一会長が設定されたもので、絢乃会長もそれをそのまま引き継いで使用されている。お仕事用のPCのパスワードとしてお嬢さんのお誕生日を設定されたあたり、彼は絢乃さんのことを心から大事にされていた証ではないだろうか。
「おお! これは……」
ディスプレイを覗き込んだ僕も、そこに表示されていたコメントに感動の声を上げた。
会長がご覧になっていたのは記者会見の様子が配信された動画への、視聴者からのコメント欄。そこで、最も「いいね」がつけられたコメントがこれだった。
『放課後トップレディ、誕生! 彼女のこれからに期待!!』
このコメントを投稿したのはどうやら有名なインフルエンサーらしいが、だから「いいね」をたくさんもらえているわけではないだろう。それだけ絢乃さんが世間から受け入れられたのだと僕は解釈することにした。
もちろん好意的なコメントばかりが寄せられたわけではなく、中には批判的な書き込みもいくつか目についたが、この賛否両論さえ彼女は想定していたはずで、それも覚悟の上だったのだからこれは当然の結果と言えた。
そんな中でひと際目を引いたのがこのコメントというのは、僕たちにとって上々の滑り出しだと言っていいだろう。
「――これって最上の褒め言葉ですよね、会長」
「うん、嬉しいよね。――あ、コーヒーありがとう。いただきます。……わぁ、いい薫り!」
絢乃さんは僕の淹れて差し上げたカフェオレを美味しそうにすすり始めた。とりあえず、喜んで頂けたようで何よりだ。
「ところで会長、午後からさっそく取材が数件入っておりますが。その前に昼食はどうされます?」
僕が質問すると、彼女はカップを両手で抱えるようにして持ったまま天を仰いだ。
「…………実はなんにも決めてないんだよね。わたしは桐島さんと一緒に社員食堂で食べたいけど、ママが戻ってきてから相談しようか」
「かしこまりました。では、午後からも頑張りましょうね」
「うん!」
やる気満々で頷いた彼女を、僕はものすごく可愛いなと思った。二人きりでいる時は、彼女の可愛さを独占できる。それは会長秘書としての特権かもしれない。
――こうしてこの日、僕のオフィスラブは本格的に幕を開けたのだが。それは同時に、僕の苦悩と悶絶の日々のスタートでもあった――。
抑えきれない想い
1
――こうして、絢乃会長と会長秘書である僕・桐島貢の多忙な毎日が始まった。
会長は就任当日の午後から意欲的に取材を受けられ、その媒体は新聞社・経済誌・ニュースサイトから果てはTV局まで多岐に渡った。学校が忌引きでお休みの時はほぼ一日中、それが明けてからは加奈子さんと交代された夕方から退勤までの間、受け得る限りの取材をこなしておられた。
彼女はどんな質問にも真摯に受け答えされていたが、あまりにもプライバシーに踏み込まれるような質問が来ると、「取材はここまでです」と僕が途中で打ち切ることもあった。
中には、「その取材はおやめになった方が……」と僕がストップをかけた取材もあったが、彼女から「お願い、受けさせて」と言われてしまったら僕もそれ以上ダメだとは言えず。
――それが、TVのニュース番組の取材だった。
「――会長、TVの報道番組から取材の申し込みがあったんですが、どうされますか?」
それは絢乃さんが会長に就任された半月ほど後のことだった。その頃は放課後からの出社だった彼女に、僕は午前中に受けていた取材交渉の電話のことをお伝えした。
「報道番組? それって全国ネットの?」
「はい。夕方のニュース番組で、若手経営者の特集を組みたいとかで。絢乃会長をその第一弾に、と」
「へぇ……。でも、わたしなんかが第一弾でいいのかな? 自分の力で起業した人もいっぱいいるのに」
彼女は困ったようにおっしゃったが、どうも取材を受けることには前向きなようだった。そうなれば、お悩みの彼女の背中をうまく押して差し上げるのが秘書として、そして彼女を愛する一人の男としての僕の役目だと思った。
「…………会長は、お受けしたいんですね? 何か引っかかっていることがおありなんですか?」
「うん、受けたいとは思ってるよ。ただ、社内にTVカメラが入るとなると、社員のみなさんのプライバシーにどこまで配慮してもらえるかな……と思って」
「かしこまりました。それも含めて、局に僕から連絡しておきます。一度打ち合わせも兼ねて、TV局の方をお呼びしましょう」
「そうしてくれる? ありがと!」
――というわけで、TV局の人と実際にお話をしてから取材をお受けるすかどうか決めましょう、ということになった。
ご自身がTVに映られることにもまだ抵抗はあったと思うのだが、それよりも社員のプライバシーのことを心配されるなんて、絢乃会長は本当に優しくて社員思いな方だなぁと僕は思ったのだった。
* * * *
――翌日の夕方、TV局の女性記者が時間を作って篠沢商事の会長室を訪ねて来て下さった。
「この度は取材を申し込んで下さってありがとうございます。会長の篠沢絢乃です」
「会長秘書の桐島と申します」
自己紹介と名刺の交換を終えると(絢乃会長の名刺は、この日やっと刷り上がったものが届いたのだ)、僕はさっそく本題に入った。
「実はですね、今日ここへおいで頂きましたのは、会長から取材を受けるにあたり質問させて頂きたいことがあるからなんです」
「質問ですか?」
「ええ。桐島から取材の概要は伺いました。今回はわたしへのインタビューだけじゃなく、社内の様子も撮影したいということでしたが、当然そのカメラに一般社員の顔も映り込むこともありますよね? それで、社員たちのプライバシーにはどの程度まで配慮して頂けるんでしょうか?」
絢乃さんの質問を隣で聞きながら、僕は考えていた。この取材、お断りした方がいいのかもしれないな、と。
これはあくまでも僕の偏見でしかないのかもしれないが、TVの関係者は「カメラに映ってなんぼ」という考え方をする人が多い。それは芸能人でも一般人でも同じことだ。「TVに映れたならラッキー、それでいいじゃないか」ということである。
もちろん、業界人のみんながみんなそんな考え方をしているわけではないだろう。この女性記者は報道部の人だから、そんなバラエティー番組のノリで取材をしたりはしないだろうが、局の上層部にはそういう考え方の人もいるかもしれない。それでウチの大事な社員たち――僕にしてみれば大事な同僚や先輩たちだ――のプライバシーを蔑ろにされてはたまったもんじゃないと思った。
「もしそうなった場合は、映り込んでしまった社員さんのお顔にぼかしを入れるなどの加工をさせて頂きますので。あくまでも取材対象は会長お一人ですから。――桐島さんのお顔にぼかしは必要ですか?」
「いえ、この人の顔は映っちゃって大丈夫です。ね、桐島さん?」
……にゃろう、と僕は思ってしまった。会長相手だから口に出しては言えないが、せめて僕の意思を確かめたうえで返事してほしかったな……。
「……はぁ、まあ。会長と僕は二人1セットみたいなものなんで」
ボスが先に返事してしまったら、僕はこう答えるしかないじゃないか。
――というようなやり取りがあり、絢乃会長はすっかり取材をお受けする気になっておられたのだが。
「…………会長、僕はこのTVの取材、お断りした方がいいんじゃないかと思うんですが」
「どうして?」
僕が呈した苦言に、絢乃さんは首を傾げられた。が、それにはちゃんと理由があったのだ。
彼女はこの頃まだSNSをやっておられなかったが、僕はバリバリやっていた。就任会見の動画はSNSでも拡散されていたようで、そこに書き込まれていたコメントは好意的なものが多かったが、中には攻撃的なコメントもいくつか書き込まれていた。
『女子高生が会長とか、お嬢さまの道楽かよww』
『どうせ「可愛い」って言われてチヤホヤされたいだけだろ』
――僕はこれらのコメントのことを、彼女にはお伝えしていなかった。秘書として、また彼女に想いを寄せる男として彼女の笑顔を奪うようなことはしたくなかったのだ。
「TVに出て悪目立ちするのは、会長の本望ではないでしょう? 僕は反対です。雑誌の誌面などはともかく、TVは多くの人の目に留まりやすいんですよ? それだけ悪意に晒される可能性が高いということです」
「……貴方がわたしのことを心配して言ってくれてるのは分かるよ。でも全国ネットだよ? ウチのグループのこと、全国の人に知ってもらえるチャンスでもあるんだよ? だったら、多少のリスクを抱えてもわたしは受けたい。だからお願い、受けさせて」
「……………………分かりました。 会長がそこまでおっしゃるなら、お受けしましょう」
加奈子さんがおっしゃっていたが、絢乃さんにはお父さまに似て頑固なところがおありらしい。一度言い出したら聞かないというか、なかなか引っ込めないらしいのだと。
わがままな上司というのは迷惑このうえない存在だし、僕ももう懲り懲りだと思っていたが、絢乃会長の場合は可愛いからまだ許容できる。
「えっ、ホントにいいの? よかった! 桐島さん、ありがとね!」
――こうして彼女が笑顔を花を咲かせるたび、僕は彼女に対して抑えきれない恋心を募らせていく。ただの同僚となら何ということもないオフィスラブも、上司――それも雲の上の人が相手だと後ろめたくなる。ましてや相手はまだ未成年で、おいそれと手を出せない。
それプラス、僕は心に〝女性不信〟という厄介な爆弾を抱えていたので、彼女が僕に想いを寄せているような素振りを見せられても果たしてそれが本物なのかと、どうしても穿った見方しかできなかった。
――この想いを自分の中でどう消化していけばいいのか、この頃の僕は悶々とした毎日を送っていたのだった。
2
――一月末、絢乃会長が取材を受けた報道番組がTVの全国ネットで放送された。
僕を除く社員や幹部の人たちの顔にはちゃんとぼかしが入れられており、会長と僕が心配していたプライバシー保護もきちんとなされていたので、さすがはプロの仕事と二人で感服したものだ。
SNSでは――いい意味でも悪い意味でも騒がれることもなかったので、これは喜んでいいのか悲しむべきことなのか……。
でも、このTV取材が要因となったのか、取引先が数社増えたことは大きな反響といえるかもしれない。TVで絢乃会長の誠実さに触れ、ぜひとも篠沢商事と仕事がしたい、と言ってきたのだ。
「ほらね、桐島さん。TVのインタビュー、受けてよかったでしょ?」
会長は嬉しそうに、そして若干得意げにこうおっしゃっていた。――「多くの人の目に晒されるのは苦手だ」とおっしゃっていたのはどこのどなただったでしたっけ?
とはいえ、まさかこんなに早く仕事の成果に直結するとは思ってもいなかったので、確かに取材を受けたことは正解だったのだろう。絢乃会長さまさまである。
――そんなことがあっての二月初旬。絢乃会長に篠沢グループの化粧品メーカー・〈Sコスメティックス〉のCM出演のお話が来た。春の新作ルージュのCMにぜひ出てほしい、と。
彼女はコスメを始め、スキンケアからヘアケア、ボディケアに至るまでこのブランドを普段から愛用されており、僕は当然、彼女がこのオファーを受けられるものと思っていた。
ところが、給湯室へお客様――〈Sコスメティックス〉の販売促進部と広報部の部長さんらしく、どちらも三十代くらいの女性だった――と会長のためにお茶を淹れに行っていた僕が会長室へ戻ると、思わぬ展開が待っていた。
「き……っ、キスシーン!?」
それまでの話の流れを僕は知らなかったのだが、絢乃会長が素っ頓狂に声を上ずらせていたのだ。それも、僕が耳をダンボにしたくなるような単語を叫んで。……何ですと!? キスシーンとな!?
どういう話の流れでそうなったのかと僕が首を傾げると、会長は何だか気まずそうにモジモジし始めた。そして、「キスシーンがあるならこの話はお断りします」とおっしゃったのだ。
……これはどういうことだろう? たったそれだけの理由で、愛用しているコスメブランドのCM出演を断ってしまわれるなんて、何というか絢乃会長らしくないなと僕は思った。
でも、絢乃さんにはどうも恋愛経験がなかったらしいので、もしかしたら初めて好きになった人に申し訳なくてお断りしたのかもしれないな、とも思った。
「――どうしてCMの話、お断りしたんですか?」
〈Sコスメティックス〉からのお客さま方がお帰りになってから、僕は応接スペースで冷めたお茶をお飲みになっていた絢乃会長に訊ねた。この日までは知らなかったのだが、彼女は猫舌らしいのだ。
すると、このCMに出演される俳優さんが撮影でもリアルにキスをする人だからだというお答えが。
「だからといって、そんな無碍に断るなんて……。そんなの会長らしくないです」
僕は思わず、彼女に対してこんな上から発言をしてしまった。まだ出会って四ヶ月しか経っていなかった僕が、彼女の一体何を知っていたというんだろう?
「……わたしね、ファーストキスは絶対、好きな人としたいの。だから断ったの」
僕はこの返しに目をみはった。……やっぱり、彼女にはキスの経験がなかったのだ。というか、「好きな人」って言わなかったか?
「好きな人と……って、えっ? ファーストキスなんですか」
「うん」
僕の聞き間違いかと思い、改めて訊き返すと思いっきり頷かれた。 しかも、何だか僕の顔をじっと見つめられているような……。気のせいかな? 「好きな人」って、まさか僕じゃない……よな?
「……そうでしたか。それならお断りしたのも仕方ないというか、納得できますね。ですが、会長の好きな人か……」
僕はそれがまさか本当に自分のことだとは思わずに、ひたすらうろたえていた。
彼女の言葉を百パーセント信用できなかったというのも、ままあった。信じれば裏切られる、期待すればダメだった時にダメージを受けると、僕は日比野の件で刷り込まれてしまっていたのだ。絢乃さんだけがそうじゃないなんて、とても思えなかった。
でも、そんな挙動不審な僕を、彼女はまだ見つめていて。
「…………何ですか? 僕の顔に何かついてます?」
「えっ? ううん、何でもない!」
僕が問いかけると、慌てて目を逸らされた。これは僕に好意を持って下さっているのと、やっぱり僕のことではないのに勝手にうぬぼれていた僕に呆れていたのと、どちらの意味に捉えればよかったのだろう?
* * * *
――その日、絢乃さんをお宅までお送りした帰り、僕は恵比寿にある書店に立ち寄り、女性向けの恋愛小説がズラリと並ぶコーナーをウロウロしていた。「〝オフィスラブ〟とは何ぞや?」ということを研究するのに参考になりそうな本を探していたのだが……。
「なんでこういう小説に出てくる男って、Sとか上司って大体相場が決まってんだよ……。俺、どれにも当てはまってないじゃんか」
手に取った本のページをパラパラめくっては、グチをこぼす。
僕はどちらかといえばSよりMだと思うし、絢乃さんが上司で僕は部下である。オフィスラブものの王道からは完全にズレていたのだ。
「――聞こえたわよ~、桐島くん」
「…………ぬぉっ!? せっ、先輩! こんなところで何してんすか!」
フッフッフッという笑いとともに聞こえてきた声に、僕は飛び上がった。
「失礼な。あたしだって本くらい読みますぅー。っていうか、あなたこそこんなところで何してるの?」
「あー……えっと、ちょっとオフィスラブの参考までに……」
「別に男がこういうの読んだって、あたしには偏見なんかないからいいけど。もっとムフフ♡ な展開を期待したいなら、あたしのおススメはこっちのレーベル」
「だぁーーーっ!? ちょっ……センパイ!?」
彼女が面白半分に棚から取り出した本を、僕は引ったくって吠えた。それはよりにもよって、女性向け恋愛小説の中で最も内容が濃厚な〝TL〟といわれるジャンルのレーベルのものだった。
「……これはいくら何でも生々しすぎますって。俺にはムリっすよ」
「でしょうねぇ。分かってるって、冗談だから。からかってゴメン」
先輩は僕から返された本を棚に戻し、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「にしたって冗談キツいでしょ。俺の悩みを知っていながらあんなの勧めるなんて」
「だから謝ってるでしょ。――そんなことより、絢乃会長をお送りした帰り?」
「はい、そうっすけど」
「じゃあゴハンまだでしょ? あたしが奢ってあげるから、一緒にどう? すぐそこの牛丼屋さん」
どうしようかと迷っていると、僕の腹がグゥゥゥ……と鳴った。
「決まりみたいね。じゃあ行こ」
牛丼チェーンに入り、それぞれ特盛チーズ牛丼と並盛豚丼+温玉サラダセットを注文した僕らは(どちらがどちらの注文したメニューかは想像がつくだろうと思うが)窓際のテーブルに向かい合って座った。
「――で、絢乃会長との関係はどう? 進展ありそう?」
先輩にそう訊かれ、僕は食べる手を止めて彼女を睨んだ。
「先輩、その質問は俺には苦にしかならないです」
「そうだよねー、桐島くんって女性不信だもんね。愚問だったか。……でもさぁ、絢乃会長が相手ならあなたも大丈夫だと思うけどな」
「……俺もそう思います、けど」
確かに先輩の言うとおりで、絢乃さんは純粋でまっすぐな人だから、もし僕に好意を持っておられたとしてもそれは疑いようもなく本心なのだろう。
……と、頭では理解できているのだが。心の方はそうもいかない。やっぱり、誰かさんが僕に植え付けたトラウマは相当根深いようだった。
3
「でも、会長が俺のこと好きかもしれない、っていうのは納得できるかもなぁ。――今日、会長のところに〈Sコスメティックス〉から春の新作ルージュのCM出演オファーが来たんですけど、会長お断りになったんすよ」
僕はお冷やで口の中のモゴモゴを流し込んでから、先輩にもあの話を切り出した。
「ん? どうして?」
「今度のCM、キスシーンがあるらしくて。『ファーストキスは絶対に好きな人としたいから』っていうのがその理由だったんすけど、その時に俺の顔をじっと見つめられてた気がして……。あ、もしかしたら俺の勝手なうぬぼれかもしんないんすけどね」
ハハハ、と照れ笑いなどしつつ、僕はまたチーズ牛丼を匙ですくった。
「……いや。桐島くん、それってあなたのうぬぼれなんかじゃないと思うな。会長は間違いなく、あなたのこと好きなんだよ」
「…………へっ? どうしてそういう結論になるんすか?」
僕は匙を咥えたまま、先輩に思いっきりアホ面を晒してしまった。これで相手が気心の知れた小川先輩だったからまだよかったが(お互いに異性だと思っていないし)、こういうところではイマイチ決まらない男・桐島貢である。
「だってさぁ、好きでも何でもない異性に、わざわざそんなこと言う必要あると思う? あなたのことを意識してるから、会長もあなたにそんなことおっしゃったし、あなたの顔をじーっと見てたのよ。『その相手はあなたなのよ」っていうメッセージを込めて」
「…………なるほど」
かつて絢乃会長のお父さまに不倫すれすれの恋心を抱いていた小川先輩が言うと、何とも言えない説得力がある。彼女も同じように、源一会長のことを見つめていたのだろうか。
「っていうか、桐島くんと絢乃会長の関係って究極のオフィスラブだよね。まぁ、立場が思いっきり逆転しちゃってるけどさぁ。……あー、それでさっきのあのボヤキか」
「……………………」
食べる手を止めもせず、いけしゃあしゃあと言ってのけた先輩を、僕はジト目で睨んだ。反論したいが痛いところを衝かれていたので何も言えないのが悔しい。
「でも、もうじき絢乃会長のホントの気持ち、分かっちゃうんじゃない? ほら、もうすぐバレンタインデーだし」
「……あ。そういえばそうっすね。すっかり忘れてました」
――バレンタインデーか。僕もスイーツ好きではあるので苦に思ったことはない。
まぁ、自覚はないがまあまあモテるので、毎年チョコレートはドッサリもらっていた。……全部義理だが。
「絢乃会長って、お菓子作りが得意なんだってね。じゃあ、もしかしたら手作りチョコとか考えてらっしゃるかもよ?」
「…………いや、どうでしょうか」
僕はお茶を濁す意味で首を傾げた。先輩の言葉を疑ったからではなく、本当にどちらか分からなかったからだ。
絢乃さんは会長に就任されてからというもの毎日お忙しく、手間暇のかかる手作りチョコなんぞに割いている時間なんてないんじゃなかろうかと思ったのだ。
「分かんないよー? 高校生ならテスト期間っていうのもあるし、あたしたち社会人より時間に余裕があったりするから。まして、好きな人のためなら尚更だね」
「……………いやいや、まっさかー」
僕は笑いながら軽く否定したが、少しくらいは期待する気持ちもあったかもしれない。それに、まさかこの翌日、絢乃さんと里歩さんが同じ話題で盛り上がるなんて思いもしなかったのだ。
「――ところで、先輩の方はどうなんですか? ちょっとは新しい恋、する気になりました?」
言われっぱなしも悔しいので、僕は逆襲のつもりで先輩に恋愛の話題をお返しした。
「どう、って言われてもなぁ。あたし、そんなに早く気持ちの切り替えできないもん。今は仕事に燃えてるの。社長があたしのことすごく気遣って下さってね」
「まさか今度は社長に……とか」
「それだけは絶対にないから。っていうか桐島くん、あたしのことナチュラル不倫体質だと思ってない?」
ほんの冗談で言ったつもりだったのだが、思いっきり睨まれた。
「いや、そんなことないっすよ。冗談ですって」
「…………どうだかねー。でも、前田くんとはたまにゴハンに行ったりしてるよ。あくまで友人としてね」
「そっすか」
前田さんの話をしているとき、先輩は嬉しそうだった。
男女間の友情から恋に発展することもある。大切な人との永遠の別れを経験した先輩には、幸せになってほしいと僕は心から願ってやまない。
* * * *
「――じゃあね、桐島くん。お疲れさま。もっと自分に自信持ちなよ?」
店を出たところで、僕は先輩から謎の励ましを受けた。
「ごちそうさんでした。……って、何がっすか?」
「たとえテンプレから外れてても、あなたと絢乃会長の関係は立派なオフィスラブだから。『自分はどの型にもはまってない』なんて落ち込む必要ないのよ」
「…………ああ、そういうことか。そうっすね。先輩、あざっす!」
これは先輩なりの、僕への慰めであり励ましだったらしい。テンプレに囚われることなく、僕なりのオフィスラブを目指していけばいいんだということが言いたかったんだと思う。
* * * *
――翌日の午後は、冬とは思えない暖かさだった。
「では、僕はそろそろ会長をお迎えに行って参ります」
「ええ、お願いね。行ってらっしゃい」
僕は三時前に会社を出た。加奈子さんはいつも、絢乃さんが出社されるまで会長室で待たれていた。直接仕事を引き継ぎたかったから、だそうである。
――それはともかく、丸ノ内からクルマを走らせること二十分、八王子の茗桜女子の校門前に到着すると、絢乃さんはちょうど里歩さんとガールズトークに花を咲かせながら歩いて来られるところだった。それも、よくよく聞き耳を立ててみるとちょうどタイムリーにバレンタインチョコの話をされているではないか。
「――んじゃ、告るのは別にいいとして、チョコだけでもあげたら? 桐島さんってスイーツ男子だし、絢乃の手作りチョコなら喜んで受け取ってくれると思うよ」
「手作りねぇ……。やってる時間あるかなぁ」
里歩さんからのアドバイスに対して、絢乃さんはチョコを手作りされることにお悩みのようだった。その前に、里歩さんが何かサラッとトンデモ発言をされていたように聞こえたが、それは聞き流すことにした。
「そこはまぁ、来週はテスト期間だし。休みの日もあるし? あたしも部活休みだし準備とか手伝ってあげられるから」
「うん……、じゃあ……考えてみようかな」
「――『考えてみる』って何のお話ですか? 絢乃さん」
僕は彼女たちの会話をその部分からしか聞いていなかったことにして、僕の存在にまだ気づいておられなかった絢乃さんに声をおかけした。すると、オフィスでは冷静で落ち着いておられる彼女が思いっきり驚いて飛び上がっていた。
「早かったねー」と彼女が声を上ずらせたことも、いつもは部活に出ていてご一緒ではない里歩さんが一緒だったことも、僕はあえてスルーした。ガールズトークに男がおいそれと首を突っ込んではいけないのだ。
会社へ向かう車内で、僕は絢乃さんに訊ねてみた。小学校からずっと女子校だった彼女に、チョコを差し上げる相手がいらっしゃるのかを。
すると、里歩さんや広田常務、小川先輩など女性たちの他に社長と専務のお名前も挙がったがそこに僕の名前はなく、僕の分はないのかと肩を落としかけると、最後にこう言われた。「あと……ね、貴方にも。一応手作り……の予定」と。
「……えっ? 本当ですか!?」
その言葉に、僕が小躍りしそうになったのは言うまでもない。
4
――バレンタインデーの前に、また絢乃さんに惚れ直すような出来事があり、僕の彼女への抑えきれない恋心はますます深まった。僕もひどい目に遭わされた総務課のパワハラ問題解決のために、彼女自ら動き出されたのだ。
彼女はどうしてご自身のためではなく、僕やほかの人のためにここまでできるのだろう? それも自己犠牲なんかじゃなく、前向きな理由から。彼女のそういうところに、僕は一人の異性としてだけでなく一人の人間としても惹かれていたんだと思う。
――そして迎えたバレンタインデー。その日、絢乃会長は学年末テストの最終日ということで、僕は午前十一時半ごろに学校までお迎えに上がった。
クリスマスイブと同じく粉雪が舞うほど寒い中待っていると、彼女は黒いピーコートの肩から提げている通学用バッグの他に、何やら大きめの紙袋を手にして出てこられた。――紙袋の中身はもしかして、彼女がもらった大量のチョコだろうか。
スカートの裾から覗く、剥き出しの膝のあたりが赤くなっていて寒そうに見えた。
「会長、学年末テストは今日まででしたよね。お疲れさまでした。――で、その紙袋は何ですか?」
助手席に乗り込まれた彼女に訊ねてみると、案の定後輩たちや里歩さんから頂いたチョコだというお答え。お一人では食べきれないので、会社の給湯室で保管しておいてほしい、とのことだった。
世間に「女子校バレンタイン」なるものがあるということは僕も知っていたが、実際に目の当たりにするのはこれが初めてだった。まるでどこかの某有名歌劇団のようだ。
里歩さんは絢乃さん以上の数のチョコをもらっていて、「女の子にモテまくるのも困る」と笑っておられたらしい。彼氏持ちらしいが。
「でも安心して。もらうばっかりじゃなくて、わたしもちゃんとチョコ用意してあるからね」
「えっ? もしかして僕の分は……」
もしや本当に手作りだろうかと、僕は期待を膨らませた。絢乃さんは有言実行の人だから、「手作りする」と言っておきながら「やっぱりやーめた」なんてことはないはずだ。
そして、彼女に対しては何の疑いもなく期待を抱くようになった自分に少し驚いていた。
「それはナイショ♪ じゃあクルマ出して下さ~い」
「はい!」
僕はワクワクする気持ちを抑えられず、鼻唄でも歌いそうになりながらクルマを発進させたのだった。
――この数時間後、僕はとんでもない大失態をやらかしてしまうのだが、この時にはそんなことを夢にも思わなかった。
* * * *
――オフィスに到着してすぐ、僕は絢乃会長から紙袋にたんまり入ったチョコの保管をお願いされた。ちなみに手作りだった分もあったらしく、それらは別に分けられていた。さすがに手作りチョコまでお裾分けするのは、作って下さった方々に申し訳ないと思われたのだろう。
一人では食べきれないから、秘書室のみんなで分けてもらってもいいと言われたので、僕はそのご厚意に甘えさせて頂くことにした。
そしてその時、僕は彼女からチョコを受け取った。明らかに手作りだと分かる、小ぶりなギフトボックスに入ったそれを受け取り、僕はすっかり舞い上がってしまっていた。
バレンタインデーがこんなに幸せな日だなんて、この時初めて思った。僕にとって、それ以前のバレンタインデーは一体何だったんだろう?
「――では、僕はちょっと給湯室へ行って参ります」
絢乃さんから頂いたチョコをビジネスバッグにそっとしまい、大量のチョコを保管するために給湯室へ向おうとしていると、会長が「わたしもちょっと出てくる」とおっしゃった。社長や常務、小川先輩などにチョコを配りに行くのだそうだ。が、それらのチョコは市販品の大袋チョコを小分けしただけのものだった。
僕が不思議に思って訊ねてみると、「細かいことはいちいち気にしないの」とごまかされたが、これはつまり、僕の分だけ彼女にとって特別だったのだと解釈してもいいのだろうか……?
実は給湯室で、僕にひと騒動起きていた。例の「義理チョコこれでもか攻撃」を受けたのである。両手でも抱えきれないくらいの義理チョコを押し付けられ(秘書室の人の分だけでなく、その人たちが他の部署の友人から預かったものもあったと思われる)、どうしたものかと頭を抱えながら秘書席に戻ると、少し後に戻ってこられた会長がデスクの上に積まれた大量のチョコに顔を曇らせた。
「へー……。桐島さん、人気あるんだね。それだけもらえるなら、わたしからのチョコはいらなかったかもなぁ」
彼女がふてくされたようにそうおっしゃったので顔を上げると、彼女は「ごめん、何でもない」と小さくかぶりを振った。
「会長が下さったチョコって、もしかして……」と訊ねた僕に、「あなたはどっちだと思う?」と質問返しをされた彼女は、僕から見れば少し傷付いているように見えた。初めて好きになった相手(もちろん僕のことだ)が女性にモテるのだと知ったらショックだったろうし、嫉妬だってしたくもなるだろう。
* * * *
――その日の退社後、ついに僕は暴走してしまった。絢乃さんへの気持ちが抑えきれなくなってしまったのだ。
彼女が無邪気に、久保の分のチョコを用意し忘れたなんて言うものだから、思わずイラっとなってしまったらしい。この人も他の女と同じなのか、男なんてみんな同じだと思っているのかと。
そりゃ、絢乃さんは恋愛初心者だし、男心をよくご存じないのも仕方ないと僕も分かっているが、ここまで鈍感だとは思っていなかったからイラっときたんだろうと今は思う。
「……絢乃さんって、まだお気づきになっていないんですか? だとしたらかなり鈍感ですよね」
「…………えっ?」
戸惑う彼女の唇を、僕は衝動的に、そして強引に奪ってしまった。それが彼女のファーストキスだと分かっていながら、だ。彼女が本当に僕のことを好きなら怒られはしないだろう、という計算も働いていたかどうか。
「……これでも、まだお分かりになりませんか? 僕の気持ちが」
僕の苛立ち紛れの問いに、彼女はすぐに理解が追いつかない様子だった。……というか、何やってんだ俺! こんな告白の仕方、違うだろ! そりゃ、彼女だって困って当然だ。
彼女が戸惑いながら、「これがわたしのファーストキスだって、あなたも知ってるよね?」と訊ねてきたが、ただ戸惑っているだけなのか怒りの感情も混ざっているのか僕には判断がつかなかった。
「はい、知っています。それから、絢乃さん。あなたが僕のことをどう思われているのかも」
「……………………ええっ!?」
僕だけのために手作りされたチョコと、義理チョコをたくさんもらった僕に対する傷付かれた様子から、すでに僕は確信を持っていた。小川先輩も言っていたとおり、彼女は僕のことが好きなのだと。
「…………あああの、ゴメン! わたし今、頭混乱しちゃっててどう言っていいか分かんない。……えっと、ちょうど週末だし、明日と明後日で頭冷やすから、今日はこれでっ! また来週ね! おっ、お疲れさま!」
「…………はぁ、お疲れさまでした」
彼女は混乱からかお怒りからか、あちこちに視線をさまよわせ、結局僕の顔をまともに見ようとしないままバタバタとクルマを降りて行ってしまわれた。
「――……………………はぁ~~~っ、ホントに何やってんだよ俺は……」
僕は自分が情けなくて、その場で運転席に突っ伏した。
こんな展開、僕自身も望んでなんかいなかった。せっかく彼女と両想いになれるチャンスを、みすみす自分の手で潰してしまうなんて僕はバカだ。
「終わった…………」
頭の中で、チーンと仏具のお鈴が鳴った気がした。
思い込みと誤算、そして
1
――その日も週末だったため、僕はすっかり絢乃さんに失恋したものと思い込んでしまったまま実家に帰った。
「ただいま……」
「貢、おかえりなさい。……どうしたのあんた、この世の終わりみたいな顔してるけど」
リビングで出迎えてくれた母は、背中にキノコでも生えていそうな僕を見てそんなコメントをした。どうでもいいが、実の息子相手に何という言い草だろうか。いや、他人にそんなことを言う方が問題だが。
「今日、バレンタインデーでしょ。なのにそんな縁起の悪い顔して。……今年はチョコ、ひとつももらえなかったの?」
「いや、そんなんじゃないけど……。チョコなら今年もドッサリ」
「おう、貢。おっかえり~♪ ぅおっ、今年もチョコ大量だなー。ま、オレには負けるけどな」
続いて顔を出した兄が、ローテーブルの上にドサッと置いた紙袋を見て能天気にそんな自慢をぶっ込んできた。誰も兄貴のもらったチョコの数になんか興味ねえよと毒づきたくなる。こっちはそれどころじゃないというのに。……元はと言えば自分が蒔いた種だが。
「…………へぇ。こんなに大量のチョコ、俺一人じゃ食べきれないからみんなで分けていいよ。兄貴も好きなだけ持ってっていいから」
「えっ、マジでいいのかよ? お前、くれた子たちに申し訳ないとかそういう気持ちはねえのか?」
「別に、どうでもいい」
いちばん好きだと思っていた絢乃さんにふられたと思い込んでいた僕は、不機嫌に吐き捨てた。……が、僕はすっかり忘れていた。帰宅時になって、絢乃さんから頂いた分まで一緒に紙袋へ放り込んでいたことを。
「…………あれ? これ一個だけなんか手作りっぽいのあるけど。これ、もしかして絢乃ちゃんから?」
「………………だぁぁぁ~~~~っ!? 兄貴っ、それだけはダメ!」
僕はハッとして、兄からギフトボックスを引ったくった。
「これは、俺の! 絢乃さんが、俺のためにわざわざ手作りしてくれたんだよ!」
大事に大事に箱を開けると、見るからに手の込んでいそうなチョコレートが六粒、茶色い紙のカップに収まって入っていた。プロのショコラティエが作ったもののように見えたが、お菓子作りの得意な彼女ならこのクオリティーでも頷けた。
「あ、それ六個も入ってんじゃん。オレにも一個くれよ」
「ぜってーイヤ! これは俺が全部食うの! 感想聞かせてって言われてるし」
僕はそう言ってから気がついた。……そうだよ、絢乃さんは俺のことが好きだってハッキリ分かったばっかりじゃん。なんでふられたなんて勝手に思い込んでたんだろう……。
「――ところで貢、あんたゴハンは? 今日は寒いからクリームシチューにしたんだけど」
「うん、腹減ってるからすぐ食うよ。その前に部屋で着替えてくる」
「分かった。もうあんたの分だけだから温め直すわね。お兄ちゃんも早く帰ってきてたから、先に食べちゃったし」
「サンキュ、母さん。そっか、兄貴今日は早番だったんだ」
僕は絢乃さんからのチョコのフタを閉め、それとカバンを手にして二階の自室へ上がって行った。
* * * *
――僕の実家は銀行の社宅ではなく、父の持ち家である戸建てだ。絢乃さんのお宅ほど立派ではないが、ちゃんとした二階建て。暮らしぶりでいえば、中の上くらいだろうか。
社会人になってからひとり暮らしをしていたものの、毎週末には帰っていたので僕の部屋もちゃんと残っていた。兄とは別々の一人部屋である。
夕飯を済ませてからもう一度部屋に戻った僕は、デスクの椅子に腰かけて絢乃さん手作りのチョコをじっくり味わっていた。
「美味い…………。これが手作りなんて信じられないな」
いくつかの層で形成されたチョコはただ甘いだけではなく、ビターチョコのほろ苦さもパンチとして残っていて、なかなか複雑な味だった。
彼女が材料選びからラッピングに至るまで、どれだけの愛情を込めて下さったのかが一粒食べただけでありありと伝わってきた。
でも、それと同時に無理矢理奪ってしまった彼女の唇の甘さまで甦ってきて、僕は自分が何という暴挙に出てしまったんだろうという後悔の念に苛まれた。……まあ、自業自得なのだが。
「…………そうだ。絢乃さんにチョコの感想を伝えないと」
デスクの上で充電していたスマホを手に取ると、メッセージアプリを開いた。
電話で伝えてもよかったのだが、あんなことがあった後なので出てもらえない可能性もあったのだ。
実際、彼女からは何の連絡もなかった。チョコの感想を催促されなかったのは、彼女なりの優しさだったのかどうか。
〈手作りチョコ、ありがとうございました。すごく美味しかったです。〉
「…………なんかありきたりだな」
そう思ったのがそもそもの間違いだったかもしれない。そのせいで、あの後あんな余計な一言まで送信してしまったのだから。
〈でも、僕には絢乃さんの唇の方が甘かったですけどね。〉
「……………………だぁーーーーっ! 何書いてんだ俺は!? こんなの俺のキャラじゃねぇー!!」
ひとり悶絶してジタバタしていたら、隣の部屋から兄に「うるせぇぞ!」と怒鳴られた。
* * * *
――僕はその後部屋まで飛んできた兄にさんざんからかわれ、根掘り葉掘り訊かれ、グッタリ疲れた状態で朝を迎えた。
兄は絢乃さんに、僕が情緒不安定っぽかったと言ったそうだが(これはだいぶ後になって知った事実だったが)、誰のせいだよと抗議したくなる。……それはさておき。
やっと目が覚めて、一階のリビングダイニングへ下りて行ったのは十時近くになってからだった。僕は普段からけっこう早起きな方で、こんなに遅く起きることはめったになかったので、それはやっぱり兄のせいだと思う。もしくは、絢乃さんに対して愚かな行為に及んだ僕自身のせいか。
「――母さん、おはよ。……あれ、父さんは?」
平日ならともかく、土曜日の朝から父が不在なのは珍しかったので、僕は母に訊いた。
「朝早くから釣りに行ってるわよ。あんたがこんな朝寝坊なんて珍しいわね」
父の唯一の趣味が海釣りである。僕も兄も、高校生くらいの頃まではよく一緒に連れて行ってもらっていた。ただ、二人とも父に似ず、釣りのセンスはイマイチだ。
「うん……、夜遅くまで兄貴と色々あってさ。っていうか兄貴、今日も早番って言ってたような。あれでちゃんと起きて仕事行ったのか」
「店長だからでしょう。責任ある立場だから休んだり遅刻したりできないのよ。貢、あんたもそうでしょう?」
「うん、まぁそうかな」
会長秘書というのは管理職というわけではないが、会長と同じ権限を持っている分重責を伴うのだと小川先輩から聞いた。僕が抜けると絢乃会長の仕事が回らないというのは、そういうことである。彼女の手が回らない分を、僕と加奈子さんとでフォローしているからだ。
「――貢、コーヒー飲む?」
「ああ、自分でやるよ。――母さん、俺も今日出かけてきていいかな?」
「それはいいけど……、どこに行くの?」
自分でインスタントのコーヒーを淹れて戻った僕は、ふと思い立って母にそう言った。別に行きたい場所がこれといってあったわけでもなかったのだが、家に引きこもっていても何も始まらないんじゃないかと思ったからだ。
「都内のカフェ巡りと……、あとは映画観るとか……かな。昼ゴハンも外で済ませるから。場合によっては夕飯も」
「分かった。昨日からなんか元気なかったものね。好きなだけ気分転換してらっしゃい」
――というわけで、僕はこの日、クルマで都内を巡ることになったのだった。夕方に、嬉しい誤算が待っているとは夢にも思わずに。
2
――朝食を済ませてから、僕は家を出た。まずはいつも絢乃さん用のコーヒー豆を提供してもらっている、実家にほど近いコーヒー専門店へ。
「――いらっしゃい……あ、貢くん。おはよう。いつものでいいかな?」
「おはようございます、マスター。お願いします」
カフェ巡りの時、僕は決まってブレンドをオーダーする。それプラス店によってはたまにスイーツも。
ブレンドコーヒーには店それぞれのこだわりが表れていて、その店の味が出ていると思うからだ。ちなみに、絢乃さんに飲んで頂いているのもここのブレンド豆である。
「……いつ飲んでも美味いっすね、ここのブレンド。明後日の朝、また豆もらいに来ます」
「ありがとう。君のところのボスも、ウチのコーヒーを気に入ってくれてるんだって? 嬉しいねぇ」
五十代前半のマスターが目を細めた。絢乃さんもこの店のコーヒーのファンになってくれたことを、心から喜んでいるようだった。
「はい。って言っても、ここの豆だってこと、まだ会長には話してないんですけど。僕から宣伝しておきましょうか?」
「ありがとうね。それも嬉しいが、いつか彼女と二人で飲みにおいで」
「…………はい、一応考えておきます」
彼女には昨日嫌われたかもしれないのに、と思った僕はお茶を濁した。飲んでいたのはコーヒーだが。
――結局、朝までソワソワしながら待っていたが、絢乃さんからメッセージの返事は来なかった。既読がついていたのに、である。それを世間では「既読スルー」というのだが、されて当然のことをした自覚はあったので僕に怒る資格はなかった。
彼女は絶対に怒っているんだと、その時の僕は思っていた。そして、週明けに待っているであろう最悪の事態まで想像してひとりで勝手に震えあがっていた。
『桐島さん、貴方には会長秘書の任から外れてもらうから。要するに、秘書をクビってこと』
『貴方には失望した。そんな人だと思わなかった。サイテー』
よくよく考えれば、絢乃さんがそんなことを言うような人ではないと分かっていたのに。彼女から既読スルーをくらったせいで、勝手に失恋フラグどころかクビフラグまで立ってしまったと思い込んでいたのだ。
その後は都内のあちこちでカフェに立ち寄り、ランチも済ませ、フラリと映画館に入った。たまたま上映時間に間に合った恋愛映画のチケットを買って一人で観ていると、ふとこんな呟きが漏れた。
「絢乃さんも一緒に観られたらよかったなぁ……」
ものすごく勝手だが、一人でいると考えるのは絢乃さんのことばかりだった。コーヒーを飲むのも、映画も、彼女と一緒ならどれだけ楽しかっただろうと。
「……会いたいなぁ」
どの面さげてと言われそうだが、無性に彼女に会いたくなった。
僕がこんなにも心から惹かれた女性は、絢乃さんが本当に初めてだった。彼女に出会ってから、どんな時にも頭に浮かぶのは彼女の笑顔だけだった。
いくら女性不信だと口で言っていても、自分の心にウソはつけない。僕は絢乃さんのことなら信じられる……、いや、信じようと決めたのだ。彼女は僕が信用するに値する女性だから。心から愛せる人だから。
ただ、拒まれたらどうしようという恐怖心から、自分から連絡を取る勇気は出なかった。
* * * *
――そんな愛しの絢乃さんか電話がかかってきたのは夕方四時半ごろ、僕は市谷のカフェにいた頃だった。
「…………ん、電話? 絢乃さんから……マジか」
スマホの画面を確かめた僕は、信じられなくて思わず表示された名前を二度見した。
会長に就任されてから、絢乃さんとのやり取りは主にメッセージアプリだった。そんな彼女からの電話はレアだったが、レアだからこそ僕は不安を募らせた。
「まさか、クビ宣告の電話……とかじゃないよな」
もう僕の顔を見たくないから電話にしたとか? だとしたら最悪の事態である。が、常識で考えて、休日である土曜日にそんな連絡をするだろうか?
でもボスからの電話だから出ないわけにもいかず、そして僕自身が彼女と話したいという気持ちもあったので、僕は通話ボタンをスワイプした。
「――はい。絢乃さん、どうされたんですか? お電話なんて珍しいですね」
どんな用件か予想がつかずにビクビクしていたので、僕の声は若干震えていたかもしれない。
『桐島さん、お休みの日にごめんね? 今、どこで何してるの?』
そう言った彼女の声は穏やかで、どう聞いてもクビ宣告をする悪魔の声には聞こえなかった。どうやら僕が怯えすぎていただけだったらしく、ホッとした。
「今は……市谷ですかね。今日は朝から都内のカフェ巡りをしていたんです。ちなみに、僕が会社でお出ししているコーヒーの豆も、実家近くのコーヒー専門店から仕入れてるんですよ。……っと、長々と失礼しました」
安心した僕はつい熱く語ってしまい、ついでのように実家近くのコーヒー専門店の宣伝までしてしまった。これで何度、好きになった女性や歴代彼女にドン引きされたことか。
そんなことよりも、前日の暴挙について詫びるべきじゃないのかと思ったが、電話で謝ったとて誠意が伝わらないだろうと思い直した。
「それはともかく、絢乃さんは今どちらに?」
電話の向こうは何だか騒がしくて、彼女はもしかしたら外にいらっしゃるんじゃないかと思った。
そういえば、僕は絢乃さんが休日にどんな過ごし方をしていらっしゃるのか知らなかった。彼女は料理やお菓子作りが好きだということは知っていたが、それ以外の趣味の話を伺ったことはなかった。彼女が僕のことをあまりご存じなかったように。
それに、学校がお休みなら里歩さんにどこかへ連れ出されている可能性もあった。あんなことが起きた翌日だったのだから、絢乃さんが親友である彼女と連絡を取っていらっしゃらないわけがないと思ったのだ。
『わたしは今、新宿にいるの。里歩と一緒にランチして、ボウリングして、別れた後貴方のお兄さまに声かけられてね。ついさっきまで一緒だったの』
里歩さんとボウリング……と納得しかけた僕は次の瞬間、絢乃さんの口から思いがけない名前が飛び出して卒倒しかけた。兄貴と!? ウソだろ!? っていうかなんで!?
電話に出る時、店のエントランスまで出ていたからよかった。もしコーヒーを飲みながら聞いていたら、コーヒーを噴き出して店の人にそれはそれは迷惑をかけていたかもしれない。
僕が「えっ、兄にですか!? それってナンパじゃ……」と言うと、「ナンパじゃないよ。仕事帰りに偶然見かけたから声をかけられただけ」という呑気なお答え。偶然ならナンパじゃないのか、と僕は首を傾げた。
『そんなことより、わたしが今日電話したのはね、貴方と話がしたくて。電話じゃなくて、直接会って話したいの。あと、昨日の既読スルーについても弁解させてほしい。だから……、今から会えないかな? 新宿まで来られる?』
前日あんなことをしでかしてしまった僕に「会いたい」と言ってもらえたことは意外だった。そして彼女も、メッセージを既読スルーしてしまったことを気にされているのだと知って正直驚いた。そのおかげで、僕の中の悪い予感がすべてふっ飛んだのは言うまでもない。
「そこは〝謝りたい〟じゃなくて〝弁解させてほしい〟なんですね」
僕もお人好しよく言われるが、彼女もたいがいお人好しだよなぁと僕は思った。この時笑ったのはそれが理由である。彼女に謝る必要なんてなかったのだ。むしろ謝るべきは僕の方だった。
彼女に「あと十分くらいで着けると思います」と言い、通話を終えると僕は店を出た。セルフ式の店だったし、コーヒーはすでに飲み終えていたから。
ふと電話で、絢乃さんの服装について訊くのを忘れたことを思い出したが、僕は彼女がどんな服装をしていても見分ける自信があったので必要なかった。
3
――それから約十分後。僕はJR新宿駅前のベンチに座っていた、私服姿の絢乃さんを見つけた。
本当は路上駐車はいけないのだが、彼女の目の前の路上にクルマを停めて運転席の窓を開け、声をかけた。
「――絢乃さん、お待たせしてすみません」
本当はそんなにお待たせしていなかったと思うのだが、一応礼儀としてそう言っておいた。
「ううん、待ってないよ。っていうか謝らないで。呼びつけたのはわたしの方なんだから」
このセリフは何とも心優しい絢乃さんらしい。別に呼びつけられたなんて僕は思っていなかったのに、彼女は自分を悪く言うことで僕に気を遣われたのだと思う。
「あ……、ですよね。絢乃さん、あまり長くクルマを停めておけないので、とりあえず乗って下さい。どこかへ移動しましょう」
僕はそんな彼女を立て、彼女に乗って頂くために一旦クルマを降り、助手席のドアを開けた。
* * * *
「あの、絢乃さん。――昨日は本当にすみませんでした」
運転席に乗り込んだ僕が、クルマのエンジンをかける前にまず彼女に謝罪すると、彼女は「ううん」と首を振っただけだった。彼女の様子からして、これは「わたしは怒ってないよ」という意味だと僕は解釈した。
僕は彼女の服装に注目した。
この日の絢乃さんの装いはピンク色のアーガイル柄が入ったベージュのハイネックニットに茶色いコーデュロイのロングスカート、焦げ茶のロングブーツにライトブラウンのダッフルコートというコーディネート。やっぱり、清楚系のファッションがお好みと見えた。が、ちょっと待てよ? 彼女はこの日、何をして過ごされていた?
「……というか、里歩さんとボウリングに行かれてたんでしたっけ。まさかその格好で?」
言ってしまってから。「ヤベぇ、地雷踏んじまった」と思った。……が。
「『このロングスカートで?』って思ったでしょ。里歩にもおんなじツッコミされた」
「…………すみません」
「ううん。わたし自身、明らかに服選びミスったなって思ってるから」
絢乃さんはそうおっしゃって、小さく肩をすくめられた。ロングスカートじゃ、さぞボウリングなんてしにくかったろう。
そういえば、彼女は運動全般が苦手だとご自身でおっしゃっていたような……。多分、彼女も気にされているはずだし、今度こそ地雷を踏んでしまいそうだったので、ボウリングのスコアについて訊ねるのはやめておいた。
* * * *
「――ところで、どこに行きますか?」
僕は絢乃さんがシートベルトを締めるのを見届けながら、行き先を訊ねた。こうしてプライベートで彼女とドライブをするのは初めてだったので、どうせなら思い出というか記念に残りそうな場所に行きたいと思った。
「う~ん……、じゃあ久々にあのタワーに行きたいな」という答えが返ってきたので、隅田川方面へクルマを走らせることにした。「あのタワー」とは他でもない、その二ヶ月半ほど前に訪れた高さ世界一の電波塔のことである。
「――そういえば、会社の往復以外にこうやって桐島さんのクルマでおでかけするの、久しぶりだよね」
彼女がしみじみとおっしゃったので、僕も気がついた。絢乃さんが会長になられてから、二人でドライブらしいドライブをしていなかったのだということに。それまでは色々な場所へお連れしていたというのに。
秘書として送迎を依頼された手前、出社時はともかく退社後は一分一秒でも早くお家へお送りすることが僕の使命だと思い込んでいて、途中でどこかへ寄り道する余裕なんてなくなっていたのだ。「これは仕事だから」と四角四面に考えてしまっていたせいだろう。
それに、彼女がボスになってしまったために、部下である僕がプライベートでも彼女をお誘いすることが難しくなったというのもあった。……多分これは、逃げ腰な僕の言い訳でしかないのだろうが。
本音は多分もっと別のところにあって、オフィス以外の場所で二人きりになったら、僕は彼女に対する男としての部分が抑えきれなくなると思ったからだろう。
「そうですね……。もう二ヶ月ぶりくらいになりますか? あれから僕と絢乃さんとの関係も変わってしまいましたからねぇ。僕もおいそれとお誘いすることがためらわれてしまって」
「わたしは別に何も変わってないよ? だから貴方も、自分の立場がどうとか気にする必要ないんだよ」
そう、彼女は何も変わっていない。立場云々勝手に気にしていたのは僕の方で、彼女を相手に暴走して醜態を晒したくなかっただけだ。まだ、絢乃さんが僕のことをどう想って下さっているのか知らなかったから。
僕は「……はぁ」と頷いたものの、すぐには変われないだろうなと思った。絢乃さん、こんなアタマの堅い男ですみません。
そういえば、お互いの私服姿を見たのはクリスマスイブ以来だった。
僕は家にいる時にはスウェットの上下などラフな格好だが、絢乃さんと知り合ってから外出着はちょっとオシャレ度が増した。というか小川先輩のおかげでもあるのだが、男だって本気で恋をしたら服装や身だしなみに気を遣うようになるのだ。好きな女性に「ダサい男だ」と思われたくないから。
その一方、兄の私服姿はどこへ行く時にも(出勤時でさえ)カジュアルスタイルだ。冬場はだいたいダボッとしたトレーナーにカーゴパンツか色褪せたデニム、その上からダウンジャケット。もう三十になるんだから、もうちょっと何とかならないのかよというのが弟の感想である。
「うん。カジュアルっていうか、ちょっとルーズな感じ? でも、出勤の時まであれって社会人としてどうなんだろう?」
絢乃さんにその話をすると、僕と共通したそんな疑問が出てきた。兄はいい加減、周りからどういうふうに見られているかを自覚すべきである。こと女性は、けっこうシビアな目で見ているものだから。
「飲食チェーンですし、制服があるから大丈夫なんじゃないですか。あれできちんとTPOはわきまえてるんですよ」
でも一応、弟としてそこはフォローを入れておいた。が、僕の口調が若干不機嫌になっていたのは、絢乃さんが兄から何を言われたのか気になって仕方がなかったからだ。僕の前日の様子を一体どんなふうに彼女に吹き込んだのか気が気ではなかった。
だいたい、兄が僕のいないところで絢乃さんと話していたこと自体気に入らなかった。今にして思えばこれも嫉妬だったのだろうか? だとしたら俺、めちゃめちゃ器の小いさい男だな。
「あのね、桐島さん。もしかして、お兄さまにヤキモチ焼いてる? だとしたらホントに心配いらないからね? お兄さま、彼女がいらっしゃるらしいから」
そんな僕の気持ちを、絢乃さんにはバッチリ見透かされていた。……というか何だって? 兄に彼女? おい待て、俺そんなこと聞いてないぞ!
「彼女、いるんですか? ……何だよもう、兄貴のヤツ! 話してくれたっていいのに、水臭い!」
そのせいで余計な心配しちまったじゃねえか。一人で勝手に嫉妬して、めちゃめちゃみっともないじゃん、俺。……と独り言を言っていたつもりが絢乃さんの耳にも入ってしまっていたようで、僕を見つめる彼女には「すみません」と小さくお詫びを言った。
こんな素の自分丸出しの僕をご覧になって、絢乃さんはどう思われたのだろう? 今度こそ幻滅されたかもしれない。こんなカッコ悪い自分を見られたくなかったのに……。
そんな心配をしながら彼女の顔をチラリと横目で見ると、彼女は何だか楽しそうに笑っていた。もしかしたら、僕はまったく的外れな心配をしていたのだろうか……。
4
――真冬の夕暮れは早く、タワーに着いた五時ごろにはもう日が沈み始めていて、あたりはオレンジ色と薄紫色に染められていた。
休日だったためかその日の天望デッキは人でごった返しており、西側の窓辺はキレイな夕焼けの写真をSNSにアップすべくスマホをかざす女の子のグループやカップルたちで賑わっていた。
「――ホントは、こんな人が大勢いるところで言うようなことじゃないと思うんだけど……。昨日はライン、返事返さなくてごめんなさい!」
絢乃さんはその景色を楽しむことなく、大勢の人たちの目がある中で開口一番で僕にガバッと頭を下げられた。
彼女はすでにかなりの有名人だったはずで、悪目立ちしてしまったらどうしようかとうろたえた僕は「頭を上げて下さい」と言おうとしたが、その前に彼女の方から顔を上げて下さったので少しホッとした。
「でもね、それにはちゃんと理由があるの。……最初のメッセージで返信しようとしたら、その後あんなこと書かれるんだもん。わたし、どう返していいか分かんなくなっちゃって。ただ、それは怒ってたわけじゃなくて、気が動転してたっていうか、パニクってたっていうか……。とにかく頭の中が真っ白になっちゃってて」
僕の顔色をチラチラと窺いながら、誠実に理由を話してくださる彼女は本当に純真で可愛らしかった。
初めて男性(僕のことである)からキスをされて、気が動転していたのは本当だろうし、そこがピュアな絢乃さんらしい。僕がチョコの感想だけを送っていればよかったのに、あんな余計なことまで送信したせいであの時の記憶が甦ってしまって余計に動揺してしまったのだろう。何だか申し訳ない。
僕もそのアンサーとして、自分の想いをお伝えした。もしかしたら絢乃さんから嫌われてしまったんじゃないかと心配していたのだと。だから電話を下さった時は驚いたけれど嬉しかった、と。
そこで彼女は、人を好きになったのが初めてだから、あなたの気持ちはちゃんと言葉にしてくれないと分からないとおっしゃった。キスなんて遠回しな行動では、彼女に僕の気持ちは伝わらなかったのだ。
それでもわざとすっとぼけると、「初めて会った日から貴方のことが好き。好き好き好きっ!」と半ばシャウトのような告白を受けた。顔を真っ赤にしてゼイゼイ息を切らしている彼女も可愛くて、この人を好きになって本当によかったと思った僕は、自分からも改めて愛の告白をした。
「それまでの恋愛がすべて布石だったと思えるくらいに、絢乃さんのことが好きです」と。
「――僕と、お付き合いして頂けますか? 僕をあなたの彼氏にして下さい。お願いします」
このセリフを僕から言ったのは、これが初めてではなかった。それまでの恋愛でも、告白したのは決まって僕からだったはずなのに、絢乃さんに対して言うのはそれと違う感覚だった。
一生この女性について行きたい、彼女のことを守っていきたいという気持ち。――そういう気持ちが芽生えたのはきっと、彼女が僕の運命の人だったからだと今は思う。
「はい……、喜んで。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
彼女は可愛くはにかみながら、それでもしっかりと頷いて下さった。生れて初めての彼氏が、こんな頼りない男でいいのだろうかと自虐的な気持ちが湧きつつも、大好きな女性と両想いになれて本当に嬉しかった。
思えば日比野の時、こんな気持ちにはならなかった。遊ばれていることを承知の上で付き合っていたのだから、あの頃の僕はそこまで本気じゃなかったのだろう。なのに裏切られたと傷付き、女性不信になった僕はバカだ。もう、あの黒歴史はこれで忘れようと思った。それでも一度植え付けられてしまった女性不信というトラウマは、なかなか消えてはくれなかったが……。
でも、絢乃さんは絶対に僕を裏切らないという確信があったので、僕の胸に飛び込んできた彼女をしっかりと抱きしめた。この人を絶対に離さないという決意を込めて。
僕たちの関係は、社内では秘密にしようということになった。会長と秘書が恋愛関係だというのは世間的にスキャンダラスだし、社員たちに示しがつかないと絢乃さんが気にされていたのだ。
「そうですよね……。僕は別に気にしなくていいと思いますけど、秘密の恋愛の方がスリルがあっていいと思います」
二人の年齢差のこともあるし、秘密のオフィスラブを楽しんでみるのも悪くないかなと僕は思ったのだった。
* * * *
――その日の帰りにも、僕は絢乃さんをお家の前までお送りしたのだが、そこで嬉しい誤算が待っていた。
「……ねえ、桐島さん。よかったら、ウチで一緒に夕飯食べて行かない? ママにも今日のこと、報告したいから」
なんと、思いがけない夕食のお誘い! 彼女と両想いになる前ならおこがましいと辞退していただろうが、晴れて彼氏となった僕にお断りする理由はなかった。彼氏が彼女の家にお邪魔するのは、カップルではごく普通のことなのだから。
「ええ、ではお言葉に甘えてお邪魔します」
というわけで、僕は篠沢家の夕食のテーブルに加えて頂くことになった。
篠沢家のその日の夕食は、パングラタンに鮭のムニエル、サラダというわりと庶民的なメニューだった。パングラタンは前日の夕食メニューだったクリームシチューの残りをアレンジしたものらしい。
「偶然ですね。ウチも昨日はクリームシチューだったんですよ」
寒い時にはみんな考えることが同じなんだなぁと、僕は妙なところで感心してしまった。
「――あのね、ママ。わたしと桐島さん、今日からお付き合いすることになったの」
絢乃さんがそう報告すると、加奈子さんは早い段階からこうなると思っていたのだとあまり驚かれていないようだったが、母親としてお嬢さんと僕との交際を許して下さった。
そして、二人の関係を社内では秘密にしておきたいという絢乃さんの希望を僕からお伝えした時には、「まぁいいんじゃない?」とクールに述べられ、優雅に白ワインなど飲んでおられた。
「――絢乃さん、今夜はごちそうさまでした。では、僕はこれで」
すっかり暗くなった夜七時過ぎ、食事を終えて帰ろうとする僕を、絢乃さんは玄関の外まで見送りに来て下さった。が、そこでもう一つの嬉しい誤算が僕を待っていた。
「うん。……ねぇ、桐島さん。ファーストキスの上書きなんて、してもらえたりする?」
「は、はい!?」
何なんだ、この可愛すぎる提案は? 上目づかいに訴えられた僕は妙にドギマギしてしまった。
「えっと……、昨日のあれが初めてのキスって言うのはわたしも何か後味悪いし、貴方に後悔させたまんまなのも何だか申し訳ないから」
「ああ……、そういうことですか。――いいですよ」
彼女はあくまで、僕のために提案して下さったらしい。本当に優しい人だ。――そんな彼女の願いを聞き入れ、今度はちゃんと向き合い、彼女が目を閉じてから優しく唇を重ねた。
「……ありがと、桐島さん。わたし、これからは今日のキスがファーストキスだったことにしようかな。昨日のは事故みたいなものだったし」
「…………そうですね。あれはなかったことにして頂いて」
僕もその方がいいと思った。あんな暴挙はさっさと忘れてもらいたかったというのは僕も同じだ。
「それじゃ桐島さん、おやすみなさい。――これからは恋人同士ってことでよろしく。また来週ね!」
「はい、こちらこそよろしくお願いします! おやすみなさい!」
僕たちはそれまでと違う気持ちで、別れの挨拶を交わしたのだった。
秘密の恋愛と過去との決別
1
――僕と絢乃さんが晴れて恋愛関係となった翌週、絢乃さんの学年末テストの結果が返ってきた。
「へぇ、学年トップですか……。絢乃さん、本当にスゴいですね」
オフィスへ向かう途中なので本当は「会長」とお呼びしなければならなかったのだが、ここではあえてお名前で呼ばせて頂いた。学校の話題だったし、ここは彼氏として彼女と向き合うべきではないかと思ったのだ。
「ありがと! でも体育の実技テストがあったら、わたし間違いなく学年トップから陥落してたわ」
「…………はぁ。その点についてのコメントは差し控えさせて頂きます」
恥ずかしそうに暴露された彼女に、僕はそれだけ述べた。やっぱり運動神経はよろしくないようで、学校でも体育の成績だけははかばかしくなかったらしい。
「――あ、ところで桐島さん」
「何でしょうか」
「わたし、プライベートでは貴方の呼び方を変えようと思ってるんだけど。だって、プライベートでも『桐島さん』っていうのは……ちょっと違和感あって。で、どう呼んでほしいか希望ある?」
訊ねられた僕は、しばし考えた。……恋人からの呼ばれ方か、そんなの気にしたことなかったな。
思えばそれまでの恋人は同い年がほとんどで、年下――それもここまで歳の離れた女性と交際したことはなかった。
過去の恋人たち(まぁ、そりゃそれなりの人数はいるわさ)からは当たり前のように「貢」とか「桐島くん」と呼ばれていたが、絢乃さんは年下といっても立場は彼女の方が上なのだ。どう呼ばれるのがしっくりくるだろう? いくら考えても答えは浮かんでこなかった。
「…………特にこれと言っては。絢乃さんは何と呼びたいんですか?」
「じゃあ…………、『貢』で。……ダメかな?」
まさかの呼び捨てに、僕は目を見開いた。が、不思議とイヤではなかったし、むしろしっくりきた。
「わたしもね、最初は『貢さん』って呼ぼうかと思ったの。でも、プライベートでも〝さん〟付けってなんか他人行儀だし違うなぁって。……やっぱり、呼び捨てはダメだよね? ゴメン!」
「……いえ、ダメじゃないですよ。どうぞ遠慮なく『貢』と呼んで下さい」
しどろもどろになりながら弁解する絢乃さんがあまりにも可愛くて愛おしいて、僕はあっさりと呼び捨てを受け入れた。
「うん。ありがと、貢! ねえねえ、じゃあ貢もわたしのこと呼び捨てにしてみて?」
……なんと、ここへ来て無茶振りとは。でも一応挑戦してみた。
「あ……ああ絢乃、…………さん」
見事に玉砕。ダメじゃん、俺。でも、彼女が笑ってくれたからいいか。
* * * *
――僕たちはオフィスではあくまでも会長と秘書という距離感を保ちつつ、仕事から離れればカップルとして一緒に過ごす時間が増えた。
たとえば退社後。交際を始める前には、僕は絢乃さんをまっすぐお家まで送り届けるだけだったが、交際スタート後には一緒に夕食を摂ってからお家までお送りするようになった。支払いは毎回、絢乃さんがして下さっていた。僕から割り勘を提案したことも何度かあったのだが、「まぁ、いいからいいから」と断られていた。
絢乃さんにしてみれば、一般的なサラリーマンで懐事情もよく知っている僕にたとえ半額でも支払わせるのは忍びなく、ご自身が全額支払う方がいいとお思いだったのだろう。彼女は現金もかなりまとまった額が毎日おサイフに入っていたようだし、加奈子さん名義のクレジットカードの家族カードもお持ちだったので、ちっとも懐が痛むことはなかっただろうが、毎回ごちそうしてもらうのも男の沽券に関わるので正直心苦しくもあった。いつか、僕がごちそうする側になれたら……と密かに思っていた。
そして週末には、土日のどちらかで二人の都合が合えばドライブデートにも行くようになった。
行き先はお台場など東京都内がほとんどだったが、時々は埼玉や横浜方面まで足を延ばすこともあり、それらの行き先はすべて絢乃さんのリクエストだった。
* * * *
――兄には、絢乃さんと交際を始めたことをその日の夜に報告した。
「ただいま。遅くなってゴメ…………、兄貴!?」
実家の玄関ドアを開けると、母が出迎えてくれるのかと思いきや、そこに立っていたのは兄だった。
「おかえりー、貢♪ 遅かったじゃん。晩メシ済ませてきたのか?」
「あー……、うん。絢乃さんのお家でごちそうになってきた」
「ほうほう、絢乃ちゃん家でか。ってぇと、つまり?」
兄が何を訊きたがっているのか、僕にはすぐにピンときた。絢乃さんとどうなったのか、キューピッド役を買って出た身として知りたかったのだろうと。
「……俺、今日から絢乃さんと付き合うことになったから」
「おー、そっかそっか! よかったじゃん! おめでとう、貢!」
僕の報告を聞いた兄は、してやったりという顔でそう言った。何だかんだで、可愛い弟にやっと彼女ができたことが嬉しかったようだ。
「うん、ありがとな、兄貴。……なぁ、絢乃さんに何言ったの?」
「…………別に、何も? オレが何かしなくても、お前と絢乃ちゃんは最初っから両想いだったんだよ」
お前はそんなことにも気づかなかったのか、と兄は続けた。何か「超がつく鈍感」と言われたような気がしてムッとしたが、鈍感……なのだろうか。
「……まぁ、とにかく家ん中入れよ。親父とお袋、リビングにいるから」
「うん……」
いつまでも玄関でグダグダやっているわけにもいかないので、スリッパに履き替えて家に上がった。
「…………そういえば兄貴、彼女いるって何で言ってくんなかったんだよ? そのせいで俺、兄貴に妬いちまったじゃん」
廊下を歩きながら、僕は兄に不満を漏らした。もっと早くにその情報を聞いていたら、あんなにヤキモキする必要もなかったのに。
「妬いた、って……。彼女のことは、そのうち話すつもりでいたんだよ。それに、絢乃ちゃんはお前のことしか眼中にないって分かったしさ。そこが一途で可愛いなってオレ思ったんだ」
「…………あっそ」
どうやら兄は本当に絢乃さんを口説くつもりがなかったらしいと分かり、とりあえず安心した。
「ところで、彼女のことはどのタイミングで話すつもりだったんだ? まさか孕ませ婚の報告するつもりじゃないだろうな?」
「〝孕ませ婚〟ってお前、勝手に言葉作ってんじゃねぇよ」
兄はこの時呆れていたが、実際にこの約一年後、その彼女と授かり婚をした。僕はある意味、予言者なのかもしれない。
* * * *
「――おはよ、桐島くん。最近、会長がなんかすごくキラキラしてるねーって社内でウワサになってるよ。彼氏でもできたんじゃないか、って」
三月に入ったある日の朝。僕が出社すると、秘書室で小川先輩が何だかはしゃいでいた。
「おはようございます、先輩。――室長も、おはようございます」
以前、室長に挨拶するのを忘れたことがあったので、ついでで申し訳ないと思いつつ挨拶をしてから先輩の話に乗った。
「……そりゃ、まぁそうでしょうけど。まさか先輩、その彼氏が俺だって言いふらしたりしてないでしょうね!?」
僕は小声で先輩に詰め寄った。当時、僕と絢乃会長の関係を知っているのは彼女だけだと僕は思っていたのだ。
「そんなことするわけないじゃない。……ああでも、社長と専務と室長はどうもご存じみたいよ」
「えっ、なんでですか!?」
先輩の爆弾発言に、僕は目を剥いた。我が社のトップ3がどうして知っているんだ!?
「社長と室長はどうも、山崎専務から聞いたらしいのよ。ほら、先月、会長が専務に何かお願いされたでしょ? それで、専務はピンとこられたらしいの。『これはもしかして、会長が桐島くんのこと好きだからなんじゃないか』って」
2
なるほど、専務からか……と納得しかけた僕は首を傾げた。小川先輩がどうしてそのことを知っているのか。少なくとも、僕からは話していなかったはずだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい! なんで先輩、そのこと知ってるんすか? 俺、話してなかったっすよね?」
「ああ、あたしは会長から聞いたの。愛する桐島くんのためにそこまでされるなんて、健気な方よね~♡ そしてそんな彼女に甲斐甲斐しく尽くす桐島くんも可愛すぎ!」
「…………はぁ、どうも」
僕はおかしな褒め方をされて、何だかむず痒かった。でも、世の中に恋する純情少女がいるなら、恋する純情青年がいたって不思議ではないと思う。
「…………そう、なんですか? 室長。でもいいんですかね? 職場恋愛なんて、社内の風紀が乱れるんじゃ?」
「いいんじゃないかしら。私も職場恋愛で結婚したし、仕事中に濃密なラブシーンでも披露されない限りは」
「…………僕に限ってそれはないです」
少なくとも、オフィス内ではキチンと節度や適切な距離感をわきまえて絢乃会長に接していたのだ。スキンシップもほどほどに、肩をお揉みしたり、髪やお肌に触る程度で抑えていた。行き過ぎて頭ポンポンくらいのものだ。たまに呼び方が「会長」ではなく「絢乃さん」になってしまうのはご愛敬である。
と言っている間に、もうじき加奈子さんが出社される頃だ。社長もそろそろ出勤されるというので、僕と先輩はそれぞれの執務室へ向かうために腰を上げた。
「――ところでさ、桐島くん。もうすぐホワイトデーでしょ。チョコのお返しは何か考えてるの?」
「…………まぁ、一応は。ただ、会長の分をどうしようかと思ってて」
絢乃会長は「チョコのお返しは要らない」とおっしゃっていたのだが、それでも何か用意しておいた方がいいのだろうかと悩んでいた。
「そういうのは気持ちの問題だからね、どんなささやかなものでもいいと思う。会長だって、口では『要らない』っておっしゃってても内心では期待してるはずだから、ご迷惑にはならないと思うよ」
「…………そうなんすか?」
「うん、オンナ心ってそういうものよ。だから、女性の言葉を額面どおりに受け取っちゃダメ」
「……なるほど。肝に銘じておきます」
「ま、女性不信のあなたには難しいだろうけどねー」
「…………」
この人はまた余計な一言を。先輩なので申し訳ないと思いつつ、ちょっとイラッときた僕は彼女をひと睨みしたのだった。
* * * *
――さんざん迷った結果、僕は絢乃さんにもホワイトデーにチョコのお返しを用意することにした。
とはいえ、他の人の分もあるため相当な数を用意しなければならなかったので、一つ一つに金額はかけられない。というわけで、品物は手頃な価格のタオルハンカチにした。あとは、絢乃さんの分のプラスアルファをどうするか……。
「絢乃さんといえば、やっぱりスイーツかな。……お? これなんかいいかもな」
ホワイトデーの贈り物を購入するため久々に入ったファンシー雑貨の店の片隅に、お菓子の売り場を見つけた。そこにはアルミホイルに包まれた小粒のチョコレートのプラスチックケースがあり、一粒二十円で購入できるようになっていて、ハート型のチョコはキレイな桜色のアルミホイルに包まれていた。絢乃さんのお好きなピンク色だ。
僕は迷わずハートのチョコを二粒購入し、絢乃さんへの贈り物のプラスアルファにした。
* * * *
――そして迎えた三月十四日、絢乃会長は放課後の出社だった。
僕はお仕事を始めた彼女のためのコーヒーを用意しに給湯室へ行き、戻ってくると彼女は何やら英語で電話に応答されていた。
絢乃さんって英語ペラペラなんだな。羨ましい……。それも絶対にビジネス英語だ。俺なんか、大学時代に英会話スクールに通ってたけど日常会話が精一杯だぞ。
……なんて感心していると、突如会話の雲行きが怪しくなり、絢乃会長は何やら早口でまくし立てて怒ったようにガチャンと受話器を置かれた。僕が聞いた限りでは、彼女がまくし立てていたのはおそらく英語の俗語だ。おおよそ彼女には似合わない、品のない言い回しである。
「…………あの、会長。先ほどの電話、最後に何ておっしゃったんですか?」
「……あ、桐島さん。コーヒーありがと。あれはねぇ、英語で『おととい来やがれ』って言ったの。厳密に言うとちょっと違うけど、ニュアンスはまぁそんな感じ」
「おと……」と僕は絶句した。いつも穏やかな性格の彼女が、そんなことをおっしゃるなんて。
「会長、相当ご立腹のようですね。一体、先方はどのようなご用件で?」
「アメリカの大企業からだったんだけど、ウチのグループを買収したいって言ってきたんだよ! ホント、バカにしてるにもほどがあるよね!」
絢乃会長がご立腹なのも納得できた。
篠沢グループはまだグローバルな企業グループではないにしても、日本国内では屈指の規模を誇る財閥なのだ。絢乃さんはそんなグループの会長であることに誇りを持たれているからこそ、小もの扱いされたことに腹が立ったのだろう。
「こうなったら、何が何でもウチのグループを世界規模の大企業にしてやるんだから!」
声高らかに宣言された彼女は、いつもプライドを持ってお仕事をされているからカッコいいんだと思う。
その後、お返しを渡すためにしばらく会長室を抜け出して戻ってきた僕は、そんな彼女にスーツのポケットに忍ばせていた贈り物を差し出した。
「――絢乃さん、バレンタインチョコありがとうございました。これは僕からのお返しです」
お返しを「要らない」とおっしゃっていた絢乃さんも、小川先輩が言っていたとおりでやっぱり嬉しかったようだ。ものすごく喜んで受け取って下さった。
ちょうどその日、総務課のパワハラ問題にも進展があった。会長から依頼されていた調査を終えられた山崎専務が、会長室へ調査結果を報告しに来られたのだ。
この問題を公表するつもりでいらっしゃった絢乃会長は、翌日からハラスメント被害に遭って退職した人たちや休職中の人たちのお宅を訪問し、実際の被害状況について話を聞き、「問題が解決したら会社に戻って来てほしい」と頭を下げて回られた。
僕も運転手としてお供したが、みなさんは元同僚の僕がいた方が話しやすそうだった。そして、ほとんどの人が会社へ戻ってくることに前向きな答えを下さった。
そして年度末である三月末、絢乃会長はマスコミ向けに記者会見を開き、ハラスメント問題を世間に公表した。
会見の時、彼女は学校の制服ではなく大人っぽいスーツをお召しになっていた。彼女のスーツ姿が見たいと思っていた僕には願ったり叶ったりだったがそれはともかく。
ハラスメントを働いていた島谷会長への処分が解雇ではなく依願退職扱いだったことには厳しい指摘を受けておられた会長も、そこは「罪を憎んで人を憎まず」の信念を貫いておられたことに僕は感服した。
彼氏である僕のため、そしてこの会社で働くすべての社員たちのために世間の矢面に立って下さった若き会長に、僕は心からの感謝の気持ちを述べ、頭をポンポンして彼女を労った。
「よく頑張りましたね、会長」
「……うん。ありがと」
それを嬉しそうに受け止め、頬を染めた彼女は財閥の偉大な会長ではなく、一人の女の子だった。素直でまっすぐな、本当に普通の女の子だった。そんな彼女を、僕はより一層愛おしく思うのだった。
3
――新年度を迎える前日の三月三十一日。この日、僕は絢乃さんとのデートを断り、朝から一人で買い物をしていた。目的は、三日後に控えた絢乃さんの誕生日プレゼント選びだ。
記者会見が行われた前日の朝、彼女に欲しいものを訊ねてみると、高級ブランド品はもらっても嬉しくないとの答えが返ってきた。それはきっと、僕のサイフ事情を鑑みておっしゃったのだと思う。それに、「ブランド物には興味がない」ということをそれ以前にもおっしゃっていたからだ。
コスメはどうだろうかと提案してみたが、言ってしまってから思い出した。僕には、デパートのコスメ売り場にイヤな思い出があったことを。
大学時代のことだ。当時交際していた彼女から誕生日に口紅が欲しいとねだられたことがあり、真っ赤なルージュを選んで贈ったら「こんなどキツい色を選ぶなんて、桐島くん、どういうセンスしてるの!」と思いっきりドン引きされたのだ。
それ以来、女性へのプレゼントにコスメという選択肢は僕の中から消えたのだった。
「――コスメはともかく、コロンはどうだろう? ……ってダメかぁ。コスメと売り場一緒だしな」
一階にコスメ売り場のあるデパートに入りかけ、頭を抱えた。
絢乃さんのお好きな柑橘系の香りのコロンを贈ろうと思い立ったのだが、コロンや香水が売られているのはトラウマのあるコスメ売り場だ。僕としては、あまり立ち入りたくない場所である。それも男ひとりでは。
それに、柑橘系ならどれでもいいというわけでもないだろうし。彼女がどのブランドのものを愛用されているのかまでは聞いたことがなかったから。
「…………ここは無難にアクセサリーかな」
デパートに入るのをやめ、恵比寿にある宝飾店へ向かった。
問題は、どんなアクセサリーを選ぶか。まだ付き合い始めて間もなかったので、指輪はさすがに重いだろう。絢乃さんにブレスレットを着けるイメージはないので、ネックレスなんてどうだろうか? ゴテゴテしていなくてシンプルなものなら、制服の時にも着けやすいだろう。
「……あの、すみません。彼女へのプレゼントなんですけど、シンプルでも可愛いネックレスなんてあったりしますか?」
女性店員さんに声をかけ、お手頃価格で買えるネックレスを選んでもらった。チャームもチェーンもプラチナで、オープンハートのチャームが可愛らしく、これなら絢乃さんに似合いそうだ。
僕はそれを一目で気に入り、彼女にプレゼントしようと即決した。
* * * *
――そしてやってきた、絢乃さんの十八歳のお誕生日当日。
学校はまだ春休み中だったため、彼女は朝からスーツ姿で出社されていた。元は僕の願望でありワガママだったのだが、それを叶えて下さった絢乃さんは本当に僕のことを愛して下さっているのだと思うと嬉しかった。
新年度を迎えて三日目。絢乃さんは入社の挨拶に訪れる新入社員の応対をしたり、新入社員たちのリストに目を通したり、社内の改革を進めるための根回しをしたりしながら通常業務をこなされ、なかなかにハードな一日を過ごされていた。
そして、お疲れの中迎えた夕方六時。
「――桐島さん、今日は夕飯どうしようか?」
彼女がOAチェアーの背もたれに身を預けて伸びをしながら飛んできた問いかけに、僕は「待ってました」と小さく拳を握った。
「それでしたら、僕の方で決めて、すでに予約してある店があるのでそこでディナーにしませんか? 僕からのお祝いということで」
実は前日のうちに、ネットで見つけたおしゃれだがリーズナブルな洋食屋さん(注:兄の店ではない)を予約してあったのだ。いつも絢乃さんにごちそうになりっぱなしだったので、たまには僕が美味しいものをごちそうしようと思っていて、彼女のお誕生日はそのいい口実だったのだ。「用意周到だ」と笑いたければ笑ってくれ。
絢乃さんは僕が支払いを持って大丈夫なのかと心配されていたが、「たまにはいいでしょう? 僕に花を持たせると思って」と言ったら、そこは素直に折れて下さった。彼女は僕のプライドをへし折らないよう、そこは僕を立てようとして下さったらしい。
プレゼントもちゃんと用意してあるというと、彼女は無邪気に「やったぁ♪」と喜んで下さって、この人は本当に可愛いなぁと僕はこっそり鼻の下を伸ばしていた。
何だかんだ言ったとて、僕は健全な大人の男なのだ。彼女との関係はまだキス止まりだったが、十八歳ということは法律上成人となった彼女と、そろそろ次のステップに進みたいなと思い始めていたのはこの頃からだ。体の関係も、二人の関係でも――ただの恋人同士ではなく、結婚に向けてということだ。
食事の最中、彼女にプレゼントのネックレスを渡すと、「一生の宝物にする」とものすごく喜んで下さった。
シンプルだが可愛いデザインのネックレスは華奢な彼女の首元にピッタリ収まり、やっぱりこれに決めて正解だと思った。
ネックレスを着けて差し上げる時、彼女の白いうなじにドキッとなったのは僕だけの秘密にしておこう。
* * * *
――それから一ヶ月後の、五月の大型連休が終わりに近づいたある日。絢乃さんが、少し早めに僕のアパートで誕生日を祝って下さることになった。
午後から豊洲のショッピングモールでビーフカレーの材料とケーキを買い込み、プレゼントとして僕がリクエストしたスポーツウォッチも買って下さるという。そして、僕の部屋で一緒に料理をしてささやかなパーティーをしよう、ということだった。
絢乃さんは十八歳になって間もなくご自身名義のクレジットカードを作られ、その日の買い物の代金も遅めのランチ代もすべてカード決済して下さった。彼女の気前のよさが、いつか災いするのではないかと僕はヒヤヒヤしているのだが……。
その日、僕は絢乃さんから新学年になってできたというお友達を紹介された。短めのポニーテールと赤いフレームの伊達メガネがキュートな彼女・阿佐間唯さんは、篠沢グループの顧問弁護士である阿佐間先生のお嬢さんだという。
唯さんからの情報ではその日、あの小坂リョウジさんが映画の舞台挨拶を行っていたらしい。でも、絢乃さんが僕以外の男は眼中にないと言って下さったので、僕は安心した。だから、あの人が原因で後にあんな事態に陥ることになるなんて思ってもみなかった。
* * * *
――僕もお手伝いして完成した美味しいビーフカレーとチョコレートケーキで、二人だけのパーティーをして、ちょっとした新婚気分を味わった。……そういえば、二人でサイダーを飲んでいたが、絢乃さんは「炭酸が苦手だ」とおっしゃっていたような。
それはともかく、僕はそれが次のステップへ進むチャンス到来のように思ってしまい、いや待て待てと自分を諫めていた。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、絢乃さんが「結婚についてどう思う?」と逆プロポーズのような質問を投げかけてきた。
僕は彼女がまだ高校生だったことや、実家の家柄が篠沢家ほど裕福ではないことなどを言い訳にしてはぐらかそうとしたが、次の瞬間絢乃さんが本気を見せてきた。
「わたし、本気だよ」
彼女は真剣な目で僕を見つめた後、初めて彼女から僕にキスをした。その時の彼女は少し大人びて見えて、僕の鼓動が早くなった。
それでも、僕はまだ結婚に対して前向きになれなかった。彼女を愛していないからではなく、愛しているからこそ。過去のトラウマを引きずったままでは前に進めなかったのだ。それでは、彼女の本気に応えることができないと思ったから――。
4
――それからまた一ヶ月間、僕は絢乃さんからの逆プロポーズの返事を延ばし延ばしにしていた。
その間に絢乃さんの学校は衣更えをして、僕は彼女の夏服姿を初めて見た。
「それが夏服ですか。可愛いですね。よくお似合いです」
さすがは名門お嬢さま学校だけあって、夏服もオシャレだった。少しピンクがかった半袖のブラウスに白地に赤のタータンチェック模様が入ったプリーツスカート、それに冬服と同じ赤いリボン。僕が通っていた公立高校のダサい夏服とは雲泥の差である。
それはともかく、僕は絢乃さんとの結婚に向け、どうやったら過去のトラウマ――日比野美咲とのことに終止符を打てるのか、そればかり考えていた。
あれを僕自身は〝恋愛〟としてカウントしていないが、僕の家族――とりわけ母はあの失恋に当人である僕以上に心を痛めており、何かと僕を気遣ってくれていた。そのため、僕にちゃんとした恋人ができるのか、僕が結婚できるのかといつも心配していたのだが。
「――母さん、俺さ、今お付き合いしてる人がいるんだ」
そんな母を安心させたくて、僕はある日の夜、実家に電話した。絢乃さんとお付き合いしていることを報告するために。
いや、もっと早く報告しろよと言われそうだが、これも僕の方で覚悟が決まらずにズルズルと先延ばしになっていたのだ。……もっとも、兄から先に聞いていただろうが。
すると母は「どんな女性なのか紹介してほしい」と言ってきて、絢乃さんとウチの両親を引き会わせることになった。
翌日の勤務中、その話を絢乃会長に切り出すと、最初はプロポーズの返事を聞けると期待されていたらしい彼女は拍子抜けされていたが。
「いいよ。わたしも、貴方のご両親には一度お目にかかりたいなって思ってたから」
そう快諾され、僕の実家を訪れる日程まで決めて下さった。「サプライズ訪問の方がいいか」という小ボケも挟みつつ。
そういえば、僕は絢乃さんのご両親のことを――お亡くなりになったお父さまも含めて――よく知っていたが、彼女を兄以外の僕の家族に会わせたことがなかったので、これは不公平だなと思っていた。
その後、痺れを切らしたらしい彼女から、僕が結婚に踏み切れない理由が僕自身にあるのではないかとズバリ指摘され、僕はショックを受けた。心の傷は思っていた以上に深く、まだカサブタにすらなっていないのだと。
そのせいで絢乃さんを謝らせてしまったが、彼女は何も悪くなかった。悪いのは、いつまでもあんなことをウジウジ引きずっていた僕の方だった。
* * * *
絢乃さんの桐島家訪問が実現したのは、その週の土曜日だった。
「――じゃあ俺、絢乃さんをお迎えに行ってくるから」
「行ってらっしゃい、貢。お母さん、今日はウチのキッチンで、絢乃さんと一緒にお料理しようかしら」
午後三時ごろ、雨の降る中僕を送り出そうとしていた母の言葉には、息子の恋人への願望が込められていた。
「あー、うん。そうなるといいね、母さん」
僕もそうなってくれたらいいなと思った。僕の母と絢乃さんは相性がよさそうなので、良好な嫁姑の関係が築けると思う。絢乃さんがお嫁に来てくれるわけではないが。
そういえば、日比野を両親に紹介したことはなかった。二股をかけられていたから、紹介しづらかったというのもある。
この日、絢乃さんは可愛いワンピースの上からオフホワイトのカーディガンを羽織り、足元は真っ白なサンダルという爽やかなスタイルだった。そういえば、豊洲に行った時には珍しくパンツスタイルだったっけな。
クルマの中で、母が彼女と一緒に料理したがっていることを伝えると、「桐島家の一員になれるみたいで、わたしも楽しみ」と顔を綻ばせておられた。やっぱり彼女と母は気が合いそうだと思い、僕も嬉しかった。
でもそのためには、僕の中にある過去への蟠りを早く清算してしまわなければ……。
途中のパティスリーで手土産のいちごショートを五個購入し、桐島家で僕の両親に挨拶する絢乃さんはさしずめ結婚の挨拶に来たようだった。
早番で出勤していた兄も夕方には(それも、みんなでケーキを頂いていた時だ)帰宅し、夕食の準備は母と絢乃さんの二人ですることになった。
「――貢、お前は手伝ってやらなくていいのか?」
キッチンでの手伝いを申し出てあえなく断られたらしい兄が、リビングで父と一緒にTVを観ていた僕にそう言った。
「いいよ、俺は。どうせジャマになるだけだし。嫁姑の二人きりにしてあげた方がいいかな、と思ってさ」
きっと女同士でしか話せないこともたくさんあるだろう。まさかその時に、母が絢乃さんに僕のトラウマのことを暴露していたとは思わなかったが。
一緒にきのこデミグラスソースのハンバーグの夕食を囲んでいた時、絢乃さんの目が少し赤くなっていたことが僕は気になっていた。もしかして、僕のために涙を……?
帰りの車内でそれとなく訊ねてみると、そのとおりだった。僕のために心を痛めて下さるなんて、絢乃さんは本当に心のキレイな人だ。彼女となら生涯を共にしていけると、僕は心から思えた。
* * * *
絢乃さんとの結婚の意思を固めて間もない日の仕事帰り、僕は思いがけず日比野美咲と再会した。いや、結婚していたから苗字は変わっていたが。
「――桐島くん?」
「日比野……いや、今は違うか。美咲って呼ばないとダメかな」
「ううん、別にいいよ」
彼女はセレブ妻になったはずなのに、ちっとも幸せそうに見えなかった。結婚生活がうまくいっていなかったのだろうか?
立ち話も何なので、彼女とはファミレス(兄の店ではない)で話すことにした。僕のクルマの中で、二人きりで話すなんてまっぴらゴメンだったし。
「――あの……ね、あたし、離婚したの」
「えっ、もう!? だって、まだ一年半も経ってないだろ?」
いきなりの爆弾発言に、僕は飲んでいたガムシロップ少なめのアイスカフェオレを噴き出しそうになった。
「うん。でもダメだったんだ。あたし、セレブ妻には向いてなかったみたい。子供もできなかたったし、お姑さんのイヤミ攻撃にも耐えられなくなって」
「あー……、なるほど」
男に媚びることしかしてこなかっただろう彼女ならそうだろうな、と僕は妙に納得できた。
「というわけで、あたしまた独身に戻ったの。だから……桐島くん、あたしたちまた付き合わない? 今度は桐島くんが本命だよ。どう?」
「悪いけど俺、結婚したい相手がいるから。男あさりたいなら他のヤツ当たって」
あまりにも勝手すぎる美咲の言い分に、僕はブチ切れた。この女は僕の気持ちなんてちっとも分かっていないのだ。
「え……結婚するの? 相手はどんな人?」
「篠沢絢乃さん。今の篠沢グループの会長だよ。俺いま、彼女の秘書なんだ。で、二月からお付き合いしてる。彼女はまだ高校生だから、結婚するのは卒業後になると思うけど」
彼女に口を挟まれるのはムカつくので、一気にまくし立てた。
「そっか、会長さんと……。それって逆玉ってヤツ?」
「逆玉なんか狙ってねぇよ。俺、本気だから。こないだも両親に会って頂いた。――彼女は俺の過去なんか気にしない、過去なんかなかったことにしてあげるって言って下さったんだ。だから俺も、美咲とのことにそろそろ決着つけたい。彼女のためにも」
「……………………分かった! もういいよ、もう桐島くんには会わない! あ~~、声かけるんじゃなかった! せいぜい可愛い会長さんと仲良くすれば!? お幸せにっ!」
美咲はイライラと捨て台詞を吐きながら、店を出て行った。おかげで会計は僕が二人分するハメになったが、そんなことはまったく気にならなかった。
何はともあれ、僕はこうして過去の苦い恋愛と決別することができたのだった。
彼女に出会えたことの意味
1
僕の両親との顔合わせを済ませた六月下旬、絢乃さんは二泊三日の修学旅行で韓国へ行かれた。
僕にも楽しい旅行の様子を写真とともにメッセージで知らせて下さり、中でも貸衣装だという朝鮮王朝の宮廷衣装に身を包んだ写真は、本当によくお似合いだった。
そして、通訳を兼ねたガイドさんも同行していたのに、韓国語も堪能な絢乃さんがしばしば通訳として駆り出されていたらしい。それだけ彼女が頼りにされていたということだろう。やっぱり彼女は生まれながらにしての、グローバル企業の経営者なのだと思った。
そんな絢乃さんとこんな平凡な僕が恋人同士になり、結婚にまで漕ぎつけようとしていたのはやっぱり運命だったのだろう。
八月には夏季休暇を利用して、絢乃さんと二人で神戸旅行へ行った。厳密に言えば〝出張を兼ねての旅行〟で、メインの目的は仕事の方だったのだが。
「――絢乃、桐島くん。あなたたちに、夏季休暇の間に出張をお願いしたいの。一泊二日で神戸まで行ってきてほしいのよ」
加奈子さんからそう言われたのは八月の頭のことだった。十月に新規開業する篠沢商事・神戸支社の視察をしてきてほしい、と。
「視察自体はすぐに終わると思うから、空いた時間は二人で観光でも楽しんでらっしゃい♪ 婚前旅行ってことで」
〝婚前旅行〟と聞いて、絢乃さんの顔が火を噴いたことは言うまでもない。僕と二人きりで、泊まりの旅行に行くのだから。当然、そこでどんなことが待っているかも想像はされていたのだろう。
僕もそのつもりではあったが、恋人とはいえまだ高校生だった絢乃さんにおいそれと手を出すわけにはいかないし、あくまでも仕事が名目だった。
「…………あの、桐島さん。ホテルの部屋なんだけど……」
ホテルの手配は秘書である僕の仕事だったため、いざ部屋を予約しようとしていると、まだ耳たぶまで真っ赤だった絢乃さんがおずおずと僕の顔を窺いながら切り出した。
「一緒の部屋というわけにはいきませんよね。出張なんですから、シングルルームを二部屋取りましょうか」
「……うん、その方がいい」
僕の答えに、彼女はホッとされたようだった。僕が初恋であり、生れてはじめての彼氏だった絢乃さんはやっぱり、早急に関係を進めようと思われていなかったらしい。
「ですが、淋しくなったら僕の部屋に来て下さっても全然構いませんからね?」
「……………………うん」
イタズラ心が働いて彼女をちょっとだけからかってみると、彼女の方も満更でもなさそうだった。
* * * *
――出張の日の朝はJR品川駅で待ち合わせをして、新幹線で神戸へ向かった。新幹線のチケットもホテルの部屋を予約した後に予約してあったもので、二人ともグリーン車の指定席だった。
「出張でグリーン車なんてもったいないよね。普通車でよかったのに」
絢乃さんはそうおっしゃっていたが、これには僕も同感だった。彼女にとってはこれもテコ入れすべき点だったのだろう。
篠沢商事・神戸支社のビルは三宮の一等地に建てられていた。
このあたりはオフィス街で、他にも保険会社のビルやらメガバンクの神戸支部やらのビルが林立しているエリアだった。それでも少し足を延ばせば旧居留地やポートエリアなどの観光地へ行ける立地で、ビジネスと観光が上手く融けこんでいる神戸という街ならではだなぁと思った。
神戸支社長は川元隆彦さんというまだ三十代半ばの男性で、もちろん会長であらせられる絢乃さんが任命されたのだそうだ。同じ兵庫県の淡路島のご出身だという川元支社長はとても気さくで人懐っこい方で、視察前に接待として僕たち二人にランチをごちそうして下さった。
そうして視察は早く終わってしまい、まだ外も明るかったので、どこか観光にでも行こうかということになった。神戸支社を訪れる前に、ホテルのチェックインも済ませてあったし。
川元支社長に、「どこかおすすめのスポットはありますか?」と絢乃さんがお訊ねになると、
「ここから近いところですと、ポートターミナルにオシャレな水族館がありますねぇ。そこへ行かれはったらどないでしょう」
と教えて下さったので、僕たちはその水族館へと足を延ばすことにした。
〝アートな水族館〟と銘打たれたこの水族館は、一階に大きなフードコートのあるミュージアムの二階から上にあった。
フロアーごとにコンセプトが違う水槽が展示されており、海の生き物以外にも哺乳類が飼育されていたり、通路をリクガメがのっしのっしと〝お散歩〟していたりする。和の雰囲気漂うフロアーや巨大な球体水槽が鎮座するフロアーもあり、SNS映えのためにあるような場所だった。
「わたしもインスタやってたら、間違いなくここの写真いっぱいアップしてるだろうなぁ……」
思いっきりプライベートモードになった絢乃さんのボヤきがすごく微笑ましく思えたので、今度は絶対、仕事抜きで彼女を連れて来ようと僕は決意したのだった。
* * * *
――水族館を思う存分堪能し、一階のフードコートで夕食も済ませた僕たちは夜の七時半ごろホテルに戻った。
各々部屋に入り、僕はシャワーを浴びて持参していた部屋着に着替え――多分、絢乃さんもそうだっただろう――、テーブルの上にノートPCを広げて視察の報告書をまとめていた。
とりあえず一段落したので休憩していると、ドアチャイムが鳴った。
……おかしいな、ルームサービスなんか頼んだ憶えないけど。そう思いながら「はい?」とドアを開けると、そこに立っていたのは真っ白なTシャツにショートパンツと黒のレギンス、その上からパーカーを羽織った絢乃さんだった。足元は素足に室内履きと思しきミュールで、何やら小さなビニール袋を手にしていた。
鼻をかすめるのは、僕と同じボディソープとシャンプーのいい香り。ボディソープはホテルの備え付けだが、シャンプーはおそらく自前のものだろう。
「……絢乃さん! どうしたんですか?」
「湯上りのカップアイス、一階の売店で買ってきたから一緒に食べたいなぁと思って。入っていい?」
ちょっとばかり色っぽいシチュエーションを期待したが、すごく無邪気な訪問理由に僕は拍子抜けしてしまった。
「アイス……ですか。頂きます。……どうぞ」
「おジャマしま~す♪」と言って入室してきた彼女は、ベッドの縁に腰掛けると僕にアイスを選ばせて下さった。僕はバニラ、彼女はストロベリーを選んだ。
「……貢、仕事してたの?」
「ええ。報告書を」
「ありがと。ホントはわたしがやらなきゃいけないのにね、いつもゴメンね」
「……いえ、別に。これくらいお安い御用です」
二人きりの部屋で、甘いアイスを食べながらなのに会話はまったく甘い内容ではなく、僕は「色気ないよなぁ」とこっそりため息をついた。
「――貢が今何考えてるか、わたし分かるよ。この状況、『色気ないなぁ』って思ってるでしょ?」
「……………………はい」
自分の浅ましさに自覚のあった僕は、神妙に頷いた。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。
「貴方も大人の男の人だもんね。その気持ちは分からなくもないよ。……ゴメンね。わたしがまだ子供だから、貴方にガマンさせちゃって」
「そんなことは……。僕もそこらへんはキチンと理性で抑えてるつもりだったんですけど」
「わたしもね、ホントは貴方と早く次に進みたい。貴方と同じ気持ちなんだよ。だけど……もう少しだけ待ってね」
知らなかった。彼女にも、僕とそうなりたいという願望があったなんて……。絢乃さんは僕が思っていた以上にオトナだった。
「分かりました。大丈夫ですよ、体の関係の方は焦らなくても。僕たち気持ちはちゃんと繋がってますから」
彼女は「うん」としっかり頷き、部屋を出る時、僕といつもより深く長い口づけを交わしたのだった。
2
出張という名の神戸旅行二日目。朝食はルームサービスを二人分取って絢乃さんのお部屋で二人で頂き(支払いも彼女のルームナンバーにつけてもらった)、午前中から二人で神戸観光に繰り出した。
前日に満喫した水族館のあるミュージアムから少し足を延ばし、四月にリニューアルオープンしたばかりのポートタワーの展望デッキへ上がっていった。その日は天気にも恵まれ、そこからは明石海峡大橋やその先に続く淡路島――川元支社長の出身地だ――、さらには四国のあたりまで一望できて、二人して「わぁ、スゴいねー!」「すごいですねー」と歓声を上げていた。
タワーの中にはショップやアトラクションも色々あって、僕たちみたいな大人もお子さんも楽しめるようになっている。
展望フロアーの三階には三百六十度回転するカフェがあり、僕たちは展望デッキから見た景色を眺めながら大好きなコーヒーを楽しんだ。
「――さて、この後はどうします?」
神戸という街にはまったく土地勘がないので、コンビニで買ったガイドブックを広げながら絢乃さんに次の予定を訊ねると、ポートアイランドにある〝どうぶつ王国〟に行きたいとリクエストがあった。三宮まで戻れば新交通システム一本で行けるらしい。ここでしか見られない、珍しい動物もたくさん飼育されているようだ。
「じゃあ、そこに行きましょう」
ガイドブックをよく見ると、同じ人工島にはコーヒー博物館もあるらしい。僕のリクエストでそこにも行って、博物館の近くで昼食を済ませてから東京に帰ろうということになった。
絢乃さんは動物がお好きなようで、神戸どうぶつ王国では可愛い動物たちにほっこりと癒され、動かない鳥ハシビロコウが動いた瞬間には大喜びされていた。
コーヒー博物館はかつて神戸で海洋博覧会が行われた時の、パビリオンだった建物を利用したコーヒーのミュージアムだそうだ。コーヒー好きとしては、一度は訪れてみたい場所だった。
僕もかつてはバリスタを目指していた身だが、その夢を諦めてしまった理由を絢乃さんに話したことはなかったので、この機会に打ち明けようと思った。
僕がバリスタになりたいと思っていたのは高校時代のことだが、その頃すでに自分で飲食店をオープンさせるべく働いていた兄が、「兄弟で一緒に店をやろう!」としつこく言っていたのでウザくなり、僕は自分の夢を諦めるに至ったのだ。
実に下らない理由だったので絢乃さんに呆れられるかと思ったが、彼女は「なぁんだ、そんなことかー」とバカウケして下さった。
* * * *
――新幹線で品川駅に着いたのは夕方五時ごろで、僕と絢乃さんは駅前で解散となった。
「絢乃さん、どうやって帰られるんですか?」
僕が訊ねると、寺田さんにお迎えを頼んだとの答え。そういえば、新幹線の車内で誰かにメッセージを送っていたような気がするが、あれはお母さまにだったのだろう。それとも寺田さんに直接送信していたか。
「僕も、実家には連絡しておいたので。誰か迎えに来ると思います。もしくはタクシーでも拾うか」
平日だったので、父はムリだろう。母も一応運転免許は持っているし、兄はこの日休みだと言っていたので、どちらかが迎えに来てくれるだろうと僕は思っていた。
「――じゃあ、出張お疲れさま。今日はゆっくり休んでね。また明日」
「はい、お疲れさまでした。また明日」
寺田さんが黒塗りのセダンで迎えに来られ、絢乃さんと別れて数分後。僕の目の前に見慣れない白の軽自動車が停まり、クラクションを鳴らされた。そして、運転席の窓から顔を出したのは……。
「出張お疲れさん、貢! 迎えに来てやったぜ」
「兄貴! どうしたんだよ、このクルマ」
「バカやろう。オレにだって中古車買うくらいの貯金はあるっつうの。店の開店資金とは別にな。――いいから乗れよ。あ、スーツケースは後ろの席に乗せときな」
「うん……、サンキュ」
僕は荷物を後部座席に放り込み、助手席に乗り込んだ。
「――どうだった、絢乃ちゃんとの婚前旅行は?」
「な……んっ!? さっきは出張って言ってたじゃんか!」
「まあまあ、言い方なんかどうでもいいだろ。……んで、どうだったんだよ? 昨夜、絢乃ちゃんとやったのか?」
兄のド直球すぎる質問に、兄の性格を知り尽くしていた僕もさすがにたじろいだ。
「……………………やってねぇよ。俺の部屋で、一緒にアイス食べて話しただけ」
「かぁーーっ! お前、そこは強引に押すところだろ! とんだチキン野郎だなお前は」
「やかましいわ!」
さんざん好き勝手言ってくれた兄に僕は吠えた。
「でも、絢乃さんも俺とそうなりたい気持ちはあるって。ただ、もう少しだけ待ってほしいって言われた」
「へぇ……。絢乃ちゃん、意外と考えてることオトナだな。まぁ、お前ら二人が今はそれでいいってんなら焦る必要もねえよな。でも、案外近いうちにそうなるんじゃねえの?」
「うん……、そうだといいけど。俺にもガマンの限度ってものがあるし」
この一泊二日で、僕は彼女の色香に完全にやられてしまったのだ。あとどれくらい自分の理性が働いてくれるのか、ちょっと心配だった。
たとえば、僕の部屋で二人横並びになってカップアイスを食べていた時。ベッドに腰掛け、わりと密着していたあのシチュエーション。彼女の髪から香ってくるシャンプーの匂いや、手を伸ばして触れたくなるような、ツルツルスベスベの白い肌。時々見せてくれるアンニュイな表情……。それだけで、僕の理性はあっという間に吹っ飛びそうになった。
そして、首元には僕がお誕生日に贈ったあのネックレス。――彼女は本当に、あれから肌身離さず身に着けて下さっているそうだ。もちろん、制服姿の時にも。それだけでも十分、彼女の僕への愛を感じられた。
それでもって、彼女にも僕との体の繋がりを求める気持ちがあったという告白だ。十八歳といえばもう法律上は立派な大人の女性で(飲酒や喫煙の話はまた別の問題だが)、お互いの意思が一致しているならあの場で関係を持っていても問題はなかったはずである。そこは〝出張〟という名目と、彼女がまだ高校生だったということを気にしすぎていた僕がカタブツすぎたせいだろう。
彼女もあの後、ご自身の部屋で僕への熱をどう処理していいか分からずに悶々としていらっしゃったのだろうか? もしかしたらベッドの中で、一人で……? あの細い指で、あんなところやこんなところを弄っては艶っぽい声を発していたり……するのか?
あの絢乃さんが、人知れず一人で乱れている光景か……。何だか想像がつかない。
「……お前さ、今とんでもねぇ想像してなかったか? なんか顔赤いぞ?」
兄の存在をしばし忘れ、一人でムフフ♡ なアレやコレやを想像していたら、兄にバッチリ見抜かれていた。 ただしこれは、明らかに僕にTL小説を勧めていた小川先輩のせいである。
実はあの後しばらくしてから、別の書店で思いっきり濃密なTL小説を数冊購入して、すっかりハマってしまったのだ。そのヒロインたちはしばしば、自分の熱――欲望を自分の手でかき乱していた。だから絢乃さんも……とついつい妄想を膨らませてしまったのだ。
「…………別に、何でもない」
「いや、オレは別に呆れてるとかそんなんじゃねぇのよ。やっぱお前もオトコだったんだなーって」
「そうだよ」
絢乃さんと交わりたい、それが僕の本能に基づいた願望だった。彼女は僕の愛すべきボスで、女王さまだ。だから――、本当は、早く彼女の欲望を満たしてあげたかった。
でも彼女には僕が初めての相手だから、そうなった時には僕の方がちゃんとリードして差し上げなくては。
3
――翌日も、僕は絢乃さんと会うことになっていた。会社はまだ休暇中だったが、デートのついでに出張の報告書を彼女に渡すつもりでいたのだ。
「――おはようございます、絢乃さん。さっそくですがこれ、神戸出張の報告書です」
彼女が僕のクルマに乗り込まれると、僕はダッシュボードに置いていた大判のクリアファイルを彼女に手渡した。
「ありがと。でも、報告書くらいメールで送ってくれたらよかったのに。わざわざ持ってこなくても」
「いいんです。僕が絢乃さんに会いたかったんで。報告書はあくまでもついでです」
僕がそう言って笑うと、絢乃さんも照れくさそうに「……そう」と言ってはにかまれた。……ああ、やっぱり可愛い。
でも、この日の彼女は可愛いだけでなく、何とも言えない色香をまとっているように感じた。朝シャワーを浴びられたのか、柑橘系のコロンの香りに交じってシャンプーやボディソープの香りもしていた。
……やっぱり、僕も前日想像したとおり、彼女もひとりで自慰行為を……? この清純系の絢乃さんが?
「――あの、絢乃さん。ええと……、その、……絢乃さんにもやっぱり男性に対してムラムラしたりする気持ちってあるんですか?」
勇気を振り絞って訊ねてみると、絢乃さんは「えっ!?」と声を上げた後かすかに顔をしかめられた。そして本当にかすかにだが、下半身をモゾモゾと動かしていた。
僕にも女性経験はあるので分かったのだが、これは女性の性的な反応なのだ。美咲も僕との行為の前に、同じように下半身をモゾモゾ動かしていた。ということは……。
「そ、そりゃあ……わたしもオンナだからね。それなりには」
絢乃さんはモゾモゾをごまかすようにそう答えた。そのため、僕の「もしかして」は確信に変わった。
「そうですよね……。じゃあ、そうなった時はどうされてるんですか? たとえば昨日とか一昨日の夜、やっぱりご自分で……その……」
さすがに自慰行為をしているのかとはっきり訊ねる勇気はなかったので、オブラートに包んだような訊ね方になってしまった。が、その時僕は見た。彼女のモゾモゾした動きが、より激しくなっていたのを。ということは、彼女の性的反応が強くなったということだろう。
動揺を隠せなかったらしい彼女に、僕はもう一度「絢乃さん?」と呼び掛けてみると、少し長い間が空いたあと「それはノーコメントで」とだけ答えが返ってきた。
神戸では「もう少し待って」とおっしゃっていたが、本当は彼女だってすぐにでも僕と交わりたがっていたのだろう。でも言いだした手前引っ込みがつかなくなり、僕に対してムラムラした気持ちを人知れず自慰行為で晴らしていたのだ。
映画でも観ようと入ったショッピングモールで、絢乃さんが唐突に「お手洗いに行きたい」と言いだした。
「ちょっと時間かかるかもしれないけど、心配しないで待っててね。じゃあ、行ってくる!」
「はぁ……、どうぞ。行ってらっしゃい」
彼女はその後手近な女性用化粧室へ駆け込み、戻って来られるまで七~八分くらいかかった。
僕が思うに、多分そこで体のムラムラを解消されていたのだろう。戻ってこられた時、スッキリした顔をされていたから。僕があんな余計な質問をしたせいで……と思うと、何だか申し訳ない。
その頃大人気だった恋愛映画のチケットを購入して二人で観た。R18指定作品だったが、絢乃さんも十八歳になっていたので何ら問題はなかった。ただ、濃厚なラブシーンが多かったので、ちょっと気まずくなったことだけは確かだ。いつか、僕も彼女とそういう行為に及ぶのかと思うと……。
絢乃さんはといえば、映画のあとにまたムラムラきたらしく、再び七~八分くらいトイレにお籠りされた。
* * * *
翌日の土曜日は、絢乃さんに会わなかった。
実はこの少し前から、僕には新たに始めたことがあったのだ。下北沢にあるキックボクシングのジムに通っていたのである。
元々は、彼女と体の関係にまで進んだ時に貧相な体つきだとちょっとみっともないから、少しでも逞しくなりたいと思って始めたことだったが(そんなにいうほど貧相でもないのだが、女性はやっぱり逞しい男の方が好きだろうと思うので)、この頃の目的は「彼女を守りたい」に変わっていた。
実はこの前日の夜、実家で兄からあるものを見せられていたのだ。それはSNSにアップされた、写真付きのある投稿だった。
『――貢、ちょっとこれ見てみ? これヤバくねぇか?』
僕の部屋にやってきた兄が、難しい顔で僕に自分のスマホを突き付けてきた。
『うん、何だよ? ……ちょっ、これって』
『な、ヤベぇだろ?』
僕も顔をしかめたその投稿は、豊洲で隠し撮りされたらしい僕と絢乃さんの2ショット写真が添付された誹謗中傷だった。
〈篠沢グループ会長のスキャンダル発覚! 隣に写ってるのは彼氏か!?
大してイケメンでもないのに逆玉を狙った不届き者! 男のシュミ最悪!!
#この男見つけたら制裁 #この男は社会のゴミ 〉 ……
『何だよこれ……。めちゃめちゃ悪意あるじゃん。誰だよ、こんな投稿したの』
隠し撮りされたことも許せなかったが、この悪意ある投稿内容にも怒りと恐怖をおぼえた。この頃はあまり拡散されていなかったが、約二ヶ月後にはとんでもないことになっていた。
『――なぁ、貢。絢乃ちゃんってSNSやってんのか?』
『いや、やってないけど』
兄がどうしてこんなことを訊くのか、僕にもだいたい分かっていた。もしも彼女がこの投稿を目にされていたら、きっと僕以上に怒りをおぼえていただろうし、それ以上に怖くてたまらなかっただろうと。
『この投稿のこと、彼女には言わない方がいいよな。知ったら絢乃さん、絶対に傷付くし』
『いや、絢乃ちゃんだって自分でSNSやるようになったらイヤでもこれ見ることになるだろ。でも、お前から聞いた限りじゃあの子、これくらいじゃ何とも思わないんじゃねぇ? お前が思ってるよか強いぞ、あの子』
『……………………』
案外そうかもしれない、と僕は思った。動画投稿サイトに書き込まれた悪意のあるコメントだって、彼女が目にされていないはずがないのだ。でも彼女はきっと、そういう見方も世間にはあるのだと真正面から受け止められているのだろう。僕のよく知る彼女は、そういう芯の強い女性だった。
『しかもこれ、向けられてる悪意はお前にだぞ? 絢乃ちゃんなら、これ見た時お前のこと守ろうとするんじゃね? なぁ、お前さ、守られてばっかでいいのかよ?』
『そりゃあ、俺だって彼女のこと守りたいよ。だからキックボクシング始めたようなもんだし。……まだ初心者だけど』
『ウソつけ。お前、絢乃ちゃんとヤる時に貧相な体じゃみっともないって思ってるだけだろ!』
『やかましいわっ!』
――なんていう兄とのやり取りを思い出しながら、僕はひたすらサンドバッグに向かってハイキックの特訓をしていたのだが……。ちなみにこの頃、ローキックくらいはサマになっていた。
「――うぅ……、股関節が痛い……。初心者にハイキックなんてムチャなのかな……」
練習帰りにクルマに乗り込むと、僕は激しい筋肉痛を訴えてハンドルに突っ伏した。
「俺、こんなんで絢乃さんのこと守れんのかよ……」
自分の不甲斐なさに泣きたくなった。こんなんだから俺、彼女に守られてばっかりなんだよな……。
――ただ、兄の予想はおおかた当たっていて、それどころか予想以上で。あの投稿を見た後すぐに調査事務所を頼り、投稿主が俳優の小坂リョウジだと突き止めたのだった。
僕のためならどんなことでもできてしまう彼女の行動力にはいつも感服するが、この時はそれ以上に怖くなってしまった。
4
絢乃さんはその調査をお願いした時に、五十万円もの大金を料金として支払ったという。
僕は「絢乃さん、金銭感覚バグってるでしょう絶対!」と呆れたが、「あなたを守るためなら、百万円だって一億円だって安いものだよ」と言い切られた。要は金額の問題ではないのだと。僕を守りたいというその気持ちだけは、ものすごく嬉しかったのだが。何だか自分が弱い人間のように思われていたのがショックだった。
この誹謗中傷には加奈子女史もかなりお怒りだったので、調査を依頼したこと自体は妥当な方法だったと僕も思う。が、その後から絢乃さんが僕の知らないところでコソコソとその探偵と連絡を取り合っていたのが気に入らなかった。絢乃さん、まさかその探偵と浮気してるんじゃないだろうな……!?
ともかく、僕はその探偵……というか調査事務所が本当に信頼できるのか確かめるべく、一度訪ねて行った。ちなみにこのことを絢乃さんはご存じない。
ネットでホームページを検索して住所を調べ上げ、新宿にある一階にコンビニの入った三階建てビルに辿り着いた僕は、二階にある事務所のドアチャイムを押した。
「…………はい? どちらさん?」
ガチャリとドアが開き、顔を出したのは野太い声をした、僕より背の高い男性だった。年齢は兄と同じくらい。髪は短くてガタイがよく、ちょっと強面だった。
「あ……、あの。こちらが〈U&Hリサーチ〉で間違いないでしょうか?」
「そうだけど。――あ、アンタ、もしかして桐島さん? 篠沢絢乃会長の彼氏の」
「はい、そうですけど……。僕のことご存じなんですか?」
「そりゃあな、調査の当事者だからさ。――立ち話もなんだし、中へどうぞ」
おジャマします、と事務所の中へ通された僕が茶色いソファーに腰を下ろすと、男性――この人が所長の内田さんだという――がグラスに入った冷たい緑茶を出して下さった。奥では絢乃さんと年齢が同じくらいの女性がデスクトップPCに向かった何かされていた。彼女もここのスタッフだろうか。
「……ありがとうございます。いただきます」
「すいませんねぇ、こんなもんしか出せなくて。オレ、元刑事だからさ、お茶くみとか苦手なんだよ」
「はぁ」
「ウッチーが苦手なのはそれだけじゃないじゃん。デジタルオンチのくせに。だから調査は専らあたしの仕事なんですよー」
「…………っ、にゃろう」
女性――葉月真弥さんと内田さんはいいコンビで、何となくそれ以上に親しい間柄のようにも見えた。もしかして、このお二人は恋人同士なのだろうか。年齢差はありそうだが。
「すみません、突然押しかけてしまって。もう事務所を閉められる頃だったんじゃないですか?」
「いや、別に構わねえよ。個人でやってる事務所だから時間の融通はきくし」
内田さんはそう答えて下さった。一般企業ではないから、特に閉所時間なんていうのは決めていないのかもしれない。
「――誹謗中傷の投稿をしたのは、俳優の小坂リョウジさんだったそうですね。動機は僕への逆恨みだったとか」
「ええ。あの男、調べた限りじゃ所属事務所もクビになってて相当焦ってるみたいですよ。絢乃さんには会長就任の記者会見を見てからずっと目をつけてたみたいですね。彼女に取り入れば大きな仕事が転がり込んでくるって」
答えて下さったのは真弥さんの方だった。「ふてぇ野郎だよな」と内田さんも同調して、彼女と視線を交わしていた。どうでもいいが、来客の目の前で恋人同士の空気を出すのはやめてほしい。
「……あの、今日、こちらへ訪ねてきたのはですね。調査が終わった後なのに、絢乃さ……会長が僕に内緒であなたと頻繁に連絡を取り合っているようなので、ちょっと気になって」
「……………………」
本題を切り出すと、内田さんは何か後ろめたいことがあるように僕から目を逸らした。
「もしかしてあなた、彼女と浮気してるんじゃないですか?」
「「…………~~~~っ、アハハハっ!」」
僕が指摘すると、彼も真弥さんもなぜか大爆笑した。どうして僕はこの二人からこんなに笑われているんだろうか。
「あー、ごめんごめん! なんかあんたに誤解させちまったみたいで申し訳ない! でも、それは絶対にねえから。依頼人には手を出さない、これ探偵の鉄則な。――絢乃会長と連絡を取り合ってるのは、三人でちょっとした作戦を立ててるからで……、あんたには内緒にしてほしいって言われてんだけどな」
「作戦?」
「ああ。あんたに話したら絶対に反対されるから、って。そんだけヤベえ作戦ってことなんだけどな、それでも彼女はやりたい、だからオレたちにも協力してほしいって」
つまり、それだけ危険を伴う作戦ということだろうか。ケガをさせられる、もしくは彼女の貞操にも影響が……? だから彼氏の僕にも言えなかったのか?
「そんなに危険な作戦なら、あなた方も止めて下さいよ。分かっていて協力するなんて、そんな……恋人である僕を差し置いて」
「おっ、それがあんたの本心だな。でも、彼女の気持ちも考えてあげてほしい。彼女は心からあんたのことを守りたいって言ってた。『彼はわたしの大事な人だから』って。危険なことも承知でさ。ここまで言ってくれる女の子はなかなかいねえと思う」
それだけあんたのことを愛してるからだろ、と内田さんは続けた。
確かに、彼女が篠沢グループのトップに立ってからずっと、僕は彼女に守られてばかりだった。最初は社員の一人として守られているだけだと思っていたが、それは違った。彼女は最初から、僕のことを愛しているから守って下さっていたのだ。
「もうちょっと自分の彼女のこと信用してあげなよ、桐島さん」
「信用はしてますよ、ずっと」
「まぁオレも、偉そうなことは言えねぇんだけどな。――オレは、ここにいる真弥に救われたんだ」
内田さんが思わぬカミングアウトをしたので、僕は彼の過去――この事務所を開く前のことが気になった。
「あの……、ホームページで拝見したんですけど。内田さんって前は警視庁の刑事さんだったんですよね? どうして退職されたんですか?」
「警察組織に嫌気がさしたから、だよね」
まず最初に口を開いたのは真弥さんで、内田さんも「ああ」と頷いた。彼女も事情をよく知っているらしい。
「真弥とはある事件をとおして知り合ったんだけどさ。彼女、実はスゴ腕のハッカーで、捜査に協力してもらってたんだ。それで犯人は逮捕できただけど、彼女に協力してもらったことで監察官に目をつけられてさ。真弥は警察組織のお偉いさんがある事件を揉み消してたことを突き止めてた。そのことをうやむやにしたかったらしい上にクビにされかけて、逆にオレの方から辞表を叩きつけてやったんだ。こんな腐った組織なんかクソだ、ってな」
「んで、警察を辞めたこの人にあたしから言ったの。『二人で調査事務所やろうよ』って」
「そうだったんですか……」
「だからオレは、そこに彼女――真弥と出会えた意味があるんじゃないかと思ってる。桐島さん、あんただってそうじゃないのか?」
「僕が、彼女に出会えたことの意味……か」
絢乃さんに出会えたことで、僕は会社を辞めなくて済んだ。彼女の秘書になったことで、自分の仕事を好きになれたし誇りも持てるようになった。バリスタになるという夢にも一歩近づけた。
そして、彼女を好きになったことで女性不信も克服できた。あんなに消極的だった結婚も前向きに考えられるようになった。
それはすべて、絢乃さんに出会えたからだ。これこそ、僕が彼女に出会えたことの意味に他ならなかった。
5
――絢乃さんと〈U&Hリサーチ〉のお二人とで立てられた作戦決行の日は土曜日だった。
土曜日はキックボクシングの練習がある日なのだが、僕も作戦の行方が気になっていたのでその日は練習を休んで決行場所に行くことにした。絢乃さんにはお知らせせずに。
『――桐島さん。あんたも作戦のこと気になるだろ? だったら、篠沢会長には内緒で見届けに来ればいい。今度の土曜日、新宿の駅前で決行することになってるから』
事務所を訪ねた日の帰り、内田さんがそう声をかけて下さったのだ。作戦の内容についても、その時に説明されたのだが……。
別れた女性には必ずリベンジポルノを仕掛けていたという小坂リョウジを絢乃さんがわざとデートに誘い、そこで彼の本性を暴いてその様子を真弥さんが乗っ取った彼の裏アカウントからライブ配信するという作戦に、僕は卒倒しそうになった。大丈夫なのか、この作戦!? 絢乃さん、まだバージンのはずだろ!?
彼女に何かあった時のために、武闘派刑事だった内田さんと空手の有段者だという真弥さんがボディガードも兼ねるというが、その役目は僕じゃダメだったのだろうか……。
その日、絢乃さんは背中のパックリ開いたシースルーのミニワンピースをお召しになり、その上からレザージャケットを羽織っていた。そういえば、夏に胸元と袖の部分だけがシースルーになっているワンピースをデートに着て来られたことがあったが、もしかしたらその服と一緒に購入されたのかもしれない。どうでもいいが、遠目から見ても目のやり場に困る。
やがて、何も知らないであろう小坂さんがのほほんとした様子で現れ、普段より大胆な格好をした絢乃さんをナンパし始めたが、絢乃さんは堂々と彼に啖呵を切った。
「わたしが貴方を誘惑するわけないじゃないですか! 彼を傷つけた相手を好きになるわけないでしょ? 貴方の頭の中、お花畑ですか? ……わたし、貴方なんか大っっっキライです!」
彼女のおっしゃった「彼」というのは僕のことだとすぐに分かった。僕を守るためにここまでして下さっているんだと、僕の胸が熱くなった。
やがて内田さんと真弥さんも姿を現し――二人とも、どこに隠れていたんだろうか――、この状況がSNSでライブ配信されていることを暴露したことで、作戦は無事成功したようだった。
小坂さんが意気消沈して去っていった後、内田さんたちが絢乃さんに、僕も現場に来ていたことを伝えたようだった。
僕は絢乃さんにどんな顔をして会えばいいのだろう? 危険な作戦が何事もなく終わったことにホッとしつつも、僕に何も言わずに危険を冒したことに怒りの感情がこみ上げてもいた。人というものは、心配が過ぎると怒りに変換されるのだろうか。
「――絢乃さん!」
彼女を呼んだ時の自分の感情を、僕はうまく言い表せない。でも、「お、怒ってる……よね?」とオドオドと僕の顔色を窺う彼女を抱きしめて飛び出した言葉は「あなたが無事で、本当によかった……」だった。
とりあえず、彼女には僕のクルマの後部座席に乗って頂き、僕も同じく後部座席へ移動した。
僕へ謝罪する彼女も、やっぱり何かあった時にはあのお二人に守ってもらうつもりでおられたらしい。僕はそれが面白くなく、「あなたが他の人に守られるなんて、僕はイヤなんです。あなたを守るのは僕じゃないとダメなんです」とダダっ子みたいなことを言ってしまった。
だって、そのせいで(原因はそれだけではなかったのだが)せっかくキックボクシングを習ったのにその苦労がムダになってしまったのだ。
それはともかく、僕を守るためというなら、あえて僕と距離を置いて中傷の目を遠ざけるという方法もあったはずだが。彼女はそれがイヤだったとおっしゃった。多少危険があったとしても、お金がかかっても僕の側にいて守る方がいいと思ったと。それだけ、彼女の僕への愛は深かったということだ。
「…………まぁ、絢乃さんに何もなかったからもういいです。その代わり、僕に心配をかけるのはこれで最後にして下さいね? 約束ですよ?」
「うん、分かった。もう二度と、こんなことはしないって約束するから」
僕たちは指切りをして微笑み合った。彼女はウソをつけない人なので、信じて大丈夫だ。こう思えるようになったのも、もちろん彼女のおかげだった。僕もずいぶん変わったなと思う。
そして、僕はちゃんと言葉にして彼女からのプロポーズの返事を――プロポーズ返しをした。
「――絢乃さん、僕、覚悟を決めました。あなたのお婿さんになりたいです。僕と結婚して下さい。お父さまの一周忌が済んで、絢乃さんが無事に高校を卒業して、そうしたら。……で、どうでしょうか」
「はい。喜んでお受けします!」
彼女は万感の思いで頷いて下さり、僕たちは晴れて婚約関係となった。指輪はクリスマスイブに改めて贈ることになった。
* * * *
――そして迎えた、絢乃さんと二人きりで過ごす初めてのクリスマスイブ。
僕たちは会社帰りにお台場のツリーを見に行き、オシャレなレストランで夕食を摂った。ちなみに絢乃さんはすでに学校が冬休みに入っていたので、朝から冬物のスーツで出社されていた。
「――絢乃さん、クリスマスプレゼントも兼ねてこれを。まだ渡せてませんでしたけど、エンゲージリングです。サイズは加奈子さんから伺ったので、多分ピッタリだと思うんですけど」
「わぁ、ありがとう! ……うん、ホントにピッタリだわ。さすがはママ」
小さなダイヤがあしらわれたプラチナリングを左薬指にはめて差し上げると、絢乃さんはものすごく喜んで下さった。
「……絢乃さん、実は……。僕、お父さまから一年前のクリスマスイブに頼まれていたんです。『絢乃さんのことを頼む』って。それには、生涯のパートナーとしてという意味も含まれていたんです。僕はやっとお父さまとの約束を果たすことができそうです。……こういうと、お父さまの言いなりでプロポーズをしたように思われそうですが」
「でも、貴方は貴方自身の意思でわたしとの結婚を決めたんでしょ? ホントにありがとう」
「はい。それはもちろんです」
「だったらいいの。パパのことは持ち出さないで」
結婚を決めたのはあくまでも僕たち自身だった。お父さまがお決めになったわけではなく。
* * * *
その夜、絢乃さんは僕の部屋に泊まって行かれることになった。それは僕たちにとってずっと待ち焦がれていた瞬間だった。――僕と彼女が初めて体の関係を持つという。
着替えがないというので急きょ購入したモコモコのルームウェアと真新しい下着を脱がせた時は緊張した。僕自身、女性を抱くのは美咲以来のことだったから。
丁寧に秘部を指や舌でほぐし、避妊具を着けて挿入する時、彼女は一瞬痛そうに顔をしかめておられたが、「大丈夫、続けて」と躊躇する僕を促して下さったので、僕はそのまま行為を続けた。
「……絢乃、気持ちいい?」
行為の間は名前を呼び捨てにしてタメ語で、という彼女のお願いを聞き入れた僕が耳元でそう訊ねると、彼女は喘ぎながら「うん」と頷いた。
彼女の声はやっぱり艶っぽくて、僕の脳までとろかしていった。僕に抱かれるまで、ずっと一人でこんな声を漏らされていたのだ。でも、他の男に聞かれていなくてよかった。この声はこれからも一生涯ずっと僕だけのものだ。
「絢乃さん……、僕はもう……っ」
「あぁ……っ、わたしも……っ」
大事な部分を繋げ合ったまま、僕たちは幸せな気持ちで二人同時に絶頂を迎えたのだった。
エピローグ
――絢乃さんと初めて交わった翌朝。僕が目を覚ますとベッドに中に彼女の姿はなく、代わりにキッチンから何やら水音がしていた。……ん、キッチン? ユニットバスじゃなくて?
「おはよ、貢。コーヒー、淹れようと思って」
ベッドから出てキッチンへ行くと、キレイに身支度を済ませていた彼女はケトルでお湯を沸かそうとしていた。前夜のことがまだ鮮明に残っていたせいか、ちょっと気まずそうにされていた。
「……ああ、おはようございます。コーヒーなら僕がやりますよ」
「あ、ありがと……。じゃあわたし、朝ゴハン作ってあげようかな。トーストと……ベーコンエッグでいい?」
彼女は冷蔵庫を開け、中の食材を確かめながらそうおっしゃった。
その頃には僕も朝食など簡単な料理くらいはできるようになっていたので(これも兄弟の血筋のせいなのだろうか)、必ず何かしらの食材は入っていた。
「はい、それで大丈夫です。……あの、絢乃さん」
「ん?」
「体、大丈夫ですか? 腰とか股関節とか」
女性は初めての性交渉のあと、体を痛めることがあるらしい。僕にはそれが心配で、それと同時に僕のせいでそうなってしまったのではという申し訳ない気持ちもあった。
「大丈夫だよ、何ともない。……もしかして貢、責任感じてるの?」
「……えっ?」
食パンを二枚オーブントースターにセットし、ベーコンエッグを焼きながら絢乃さんはまるで母親みたいにこうおっしゃった。
「貴方は何も悪いことしてないでしょ? そんなことでいちいち責任感じてたら胃に穴開いちゃうよ?」
「…………はぁ」
「だから、貴方は何も気にしなくてよろしい。……これからもよろしくね」
「はい」
――二人で座卓を囲み、朝食を摂る。神戸出張の時にも同じようにしていたのに、前夜にベッドで抱き合っていたというだけであの時とは違う甘い空気が二人を包んでいるような気がした。
* * * *
絢乃さんが生まれて初めての朝帰りをした数日後、篠沢家の喪が明けた。
そしてそれから約二ヶ月後の三月。絢乃さんは無事に初等部から十二年間通われた茗桜女子学院を卒業された。
卒業式の日には、加奈子女史が篠沢商事の会社そのものを一日休みにされた。
「卒業式の日は、絢乃会長の新たな出発の日になるんだもの。社員一丸となってお祝いするのは当然のことでしょう?」
「ママ……、何もそこまでしなくても」
お母さまにそう提案された時、絢乃さんは呆れておられた。でも、僕は親子のそんな微笑ましい光景をみることができて、実はちょっと楽しかった。
卒業式には僕も参列させて頂いた。普段のスーツに白い礼服用のネクタイを締め、愛車で学校へ向かうと来客用の駐車場にクルマを停めさせてもらった。ビシッとパンツスーツで決め、胸に白いコサージュを着けた加奈子さんともそこで合流した。
「――絢乃、卒業おめでとう。パパが亡くなってから今日までよく頑張ってきたわね」
「絢乃さん、ご卒業おめでとうございます」
「ママ、ありがとう! 貢も来てくれたんだね。ありがと」
お母さまと一緒に僕もいたことに、絢乃さんは大変喜ばれていた。僕は彼女の最後の制服姿をこの目に焼き付けておこうと思い、じーっと凝視していたのだが。
「……ん? どうしたの、貢。わたしのことじっと見つめちゃって」
「ああ、いえ。これで絢乃さんの制服姿も見納めかと思うと」
「そうだよね……。これからはただのコスプレになっちゃうもんね。よかったら写真撮る?」
彼女のご厚意に甘えてスマホで撮影させて頂き、2ショットでの自撮りにも応じて頂いた。
彼女は卒業後、大学へは進学せず篠沢グループの経営だけに専念されている。やっぱり彼女は経営者になるべく生まれてきた人なんだなと思う。
ちなみに里歩さんは体育教師を目指すべく大学へ進まれ、唯さんはアニメーターを目指して専門学校に通われている。絢乃さん曰く、三人の友情はこれからもずっと続いていくのだそうだ。
四月には両家顔合わせを兼ねた食事会が篠沢邸で開かれ、僕の両親と兄が初めて絢乃さんのお宅を訪れた。そして、兄と一緒に訪れたもう一人の女性は栞さんといって、なんと兄と授かり婚をした奥さんだ。絢乃さんも「いつの間に……」と驚かれていた。
テーブルに並んだ数々の料理は絢乃さんと加奈子さん、家政婦さんとコックさんの四人で作られたそうで、どれも美味しくて両親と兄夫婦もたいそう満足していた。
デザートとして出されていったイチゴのシフォンケーキはスイーツ作りが得意な絢乃さんのお手製で、母が「絢乃さんってお菓子も作れるのね」とえらく感服していた。私も教えてもらおうかしら、なんて後から言っていた。やっぱりこの二人はいい嫁姑になれそうだ。
* * * *
――その後間もなく僕はアパートを引き払って篠沢家に同居することになり、迎えた今日、六月吉日。朝からよく晴れた今日は、絢乃さんと僕の結婚式当日である。
僕たちが式を挙げるこの結婚式場は新宿区内にあり、ここは篠沢グループの持ち物だ。
白のモーニングにブルーのアスコットタイを結んだ僕は、式の前に新婦控室で真っ白なベアトップのウェディングドレスに身を包んだ絢乃さんと向き合っている。僕たちの出会いから今日に至るまでのあれこれを二人で思い出しながら話していたのだ。
ちなみに、ブルーのタイを選んだのは僕が婿入りする立場だからで、一応「サムシング・ブルー」になぞらえてみたのだ。絢乃さんも少し呆れていたのものの、「今は多様性の時代だし、いいんじゃない?」と受け入れて下さった。これが僕たちの結婚の形だと思えば、これもアリなのだろう。
僕たち二人の出会いが運命だったのだと嬉しそうに語った絢乃さんに、僕も同意した。僕を変えて下さったのは紛れもなく彼女だったのだから、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
「僕も、絢乃さんに出会えてよかったです。もう二度と恋愛なんてゴメンだと思ってましたけど、そんな僕をあなたが変えて下さったんです。ありがとうございます」
万感の思いを込めてそう言うと、彼女は静かに、でも大きく頷いて下さった。
「絢乃さん、こんな僕ですが、末永くよろしくお願いします」
「……何かそれ、もう完全に花嫁さんのセリフだよね」
一般的なカップルとは立場が逆転したセリフのやり取りに、二人で笑い合う。でもこれでいい。
そうこうしているうちに、加奈子さんが僕を呼びに来た。フォトスタジオで撮影の準備が整ったらしい。
「はい、今行きます! ――絢乃さん、では僕は先に行っていますね。フォトスタジオでお待ちしています」
絢乃さんに「じゃあまた後で」と送り出され、控室を後にした僕は、入れ違いに加奈子さんと一緒に控室へ入っていった紳士のことが気になった。亡くなった源一会長によく似た顔の彼は、もしかしてアメリカにお住まいだという絢乃さんの伯父さんだろうか。
そして今、僕はスタジオで絢乃さんが来られるのを、これまでに感じたことのない大きな喜びの中で待っている。生まれて初めて心から本気で愛した女性と、今日人生で最良の日を迎えられた喜びを噛みしめながら。
――源一会長、僕はあなたとの約束をようやく果たせます。僕はこれから、絢乃さんと二人で絶対に幸せになりますよ。
僕はこの先もずっと、彼女のことを大切に守っていきます。
だって彼女は、僕の人生において最愛の人だから――。
E N D
トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~