トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~
プロローグ
――もしも「運命の出会い」というものが本当にあるのだとしたら、それは僕と彼女との出会いのことを言うのかもしれない。
僕と彼女は八つも年齢が離れているし、生まれ育った家柄も違う。それでも出会い、恋に落ちたのだ。
僕の名前は桐島貢。銀行マンの父と、元保育士の母との間に次男として生まれた。四歳年上の兄は飲食関係で働いていて、僕自身は大手総合商社・篠沢商事に勤めているごく一般的なサラリーマンだった。
一方、彼女の名前は篠沢絢乃さん。僕が勤める会社の大元・〈篠沢グループ〉の会長を父親に、元教師で篠沢家の現当主を母親に持つ(お父さまは婿養子だったらしい)大財閥のご令嬢で、出会った当時はまだ私立の女子校に通う高校二年生だった。
こんな一見何の接点もなさそうな僕たちが出会い、恋に落ちたのは、運命といわなければ一体何だったというのだろう? ちなみにこれだけは言っておくが、断じて逆玉を狙っていたわけではない。念のため。
――人間万事塞翁が馬。人生というのは、どう転ぶのかまったくもって予測がつかないものだ。僕自身も雲の上の人である彼女と出会い、恋愛関係にまでなるとは想像もしていなかった。あの夜までは――。
エピソード0:僕の過去
――その前に、僕の過去の話をしようと思う。過去に恋愛で負った、深い心の傷の話だ。
そのことがあって、僕は絢乃さんに出会うまでハッキリ言って女性不信に陥っていた。もう恋愛なんてまっぴらゴメンだと思っていたのだ。
今から二年くらい前になるだろうか。僕は一人の女性と交際していた。それを〝恋愛〟のカテゴリーに当てはめるかどうかは微妙なところだが。
彼女は僕の同期入社組で、一緒に総務課に配属された仲間のうちの一人だった。ちなみに同期のほとんどは二年目から三年目の途中で辞めてしまい、今も総務課に残っているのは久保圭人くらいのものだろう。……それはさておき。
僕は彼女に好意を持っていた。そして、彼女はそれに見合うくらい魅力的な女性だったので(絢乃さんに比べれば〝月とスッポン〟だが。ちなみに絢乃さんが月である)、そりゃあもう男にモテていた。そんな彼女から見れば、僕なんて不特定多数のうちの一人に過ぎなかっただろう。
「……なあ久保。俺にワンチャンあると思うか? 日比野と」
僕は同期の中でいちばん親しかった久保とよくそんな話をしていた。僕が好意を寄せていた相手は日比野美咲という名前だった。
「さぁ、どうだろうな。あいつにとっちゃ、男なんて誰でも一緒だろ。なんかさぁ、すでに彼氏がいるらしいってウワサもあるし」
「えっ、マジ!? 相手、この会社のヤツか?」
「いや、社外の人間。合コンで知り合ったらしくてさ、どっかの大会社の御曹司らしいって」
「えーーー……、マジかよぉ。それじゃ俺にチャンスなんかないじゃんか」
僕はそのことを聞いた時、とてつもない絶望感に襲われた。その当時で、もう大学時代から彼女いない歴四年を数えていたので、そろそろ次の春よ来い! な心境だったのだ。
「まぁまぁ、桐島。そんなに落ち込むなって。お前はまだいいよ。お父さん、銀行の支店長だろ? 確かメガバンクだっけ」
「あーうん、そうだけど。それがどうした」
「そこそこ裕福な家に育ってるじゃん? 自家用車で通勤してんだろ?」
「……ああ、まぁな。だから何だよ」
何だか意味の分からない質問ばかり重ねてくる同期に、僕はしびれを切らした。
まぁ、マイカー通勤をしていたのは間違いないのだが、学生時代にアルバイトをして貯めた自分の貯金で購入した軽自動車だった。
「だったらさぁ、日比野ちゃんにちょっとくらいは目ぇかけてもらえるんじゃねぇの? オンナは金があって、クルマ持ってる男に弱いっつうしさ」
「……あのなぁ、久保。さっきお前が言ったんだぞ。日比野は彼氏持ちらしい、って。それで、なんで俺にもワンチャンあることになるんだよ? もう振られる以前にさ、告る前から失恋確定してるじゃんか」
たったの一分ほどで言うことをコロッと変えた友人に、僕は呆れるしかなかった。コイツは僕が真剣に悩んでいるのに、他人事にしか思っていないんじゃないだろうか、と。
「いやいや、分かんねぇよ? 本命の彼氏は事情があって公にできねぇから、お前をカモフラージュにするって可能性もないわけじゃねぇだろ? んで、アイツのことが好きで、そろそろ彼女ほしいなーって思ってるお前は、どんな形であれアイツと付き合えるわけだ。これでウィンウィンじゃね?」
「〝ウィンウィン〟って、あのなぁ……」
あくまで都合のいい持論を(誰にかというと、久保自身というより僕に、なんだろうが)展開する彼に、僕は絶句しつつもついつい納得してしまうのだった。
確かに、僕はその頃本気で彼女がほしいと思っていた。学生時代の同級生が結婚ラッシュで、焦っていたせいもあるのかもしれない。そして、もしも彼女ができたらその相手は結婚相手になるんだろうと漠然と思ってもいた。だから、本当なら本命の相手がいる日比野美咲がその対象となることはなかったはずなのだが……。
男にはそういうところがあるのだ。たとえ相手に好かれていなかったとしても、一旦付き合い始めればこっちのもの、という気持ちが。それは当然のことながら、僕自身も例外ではなかった。とにかく、「彼女ができた」というちっぽけなプライドさえ満たせれば、相手がたとえ彼氏持ちだろうと僕には関係ない、という気持ちがあったということだ。
……今にして思えば、それは彼女にただからかわれていただけだったのだが。
「――ねぇねぇ、二人で何話してるのー?」
そこへ、ウワサをされていたご本人が乱入してきた。
篠沢商事に制服というものはなく、女性は基本的にオフィスカジュアルでも大丈夫なので、彼女は切込みの深いVネックのニットを着ていた。グラマーな彼女がかがむようにして僕たちの顔を覗き込んでいたので、僕は少々目のやり場に困った。
「……いや別に、野郎同士の話を少々。なっ、桐島?」
「ああ……、うん、まぁそんなところかな」
その時はすでに終業時間を過ぎ、いわゆる〝アフター5〟に入っていたのだが。
「ふーん? ――ね、桐島くん。この後時間ある?」
「……えっ? うん、何も予定ないし大丈夫だけど……」
何だか思わせぶりに、僕の予定を訊いてきた彼女。男なら期待しないわけがなかった。ましてや、その相手が意中の人ならば。
「よかった☆ じゃあ、ちょっとあたしに付き合ってくれない? 一緒にゴハン行こ。あたし奢るから」
「え…………。あー、うん。別にいいけど」
「あ、オレは遠慮しとくわ。お二人でどーぞ☆」
「……………………はぁっ!? ちょっと待て! 久保っ!?」
僕は困惑した。久保も交えて三人なら、僕も一緒に食事くらいは大丈夫だと思ったのだが。いきなり二人きりはハードルが高すぎる。
「ままま、キリちゃん。よかったじゃんよ、彼女の方から誘ってもらえて。お前から誘う勇気なんかなかったべ? これは降ってわいたチャンスだべ。行ってこい!」
そんな僕の肩をひっつかみ、久保が出身地である千葉の言い回しで囁いた。というか、「キリちゃん」なんて気持ち悪い呼び方するな! お前、そんな呼び方したことないだろ!
「お前だって、それでもいいって思ってたべ?」
「……………………あー、まぁ。そりゃあ……な」
なまじ図星だっただけに、否定できないところが悲しかった。
「ほら、行ってこい!」
彼に肩をポンポン叩かれ、僕は彼女との夕食に臨んだのだったが――。
「――で、なんで俺のこと誘ったんだよ?」
彼女と二人で焼肉をつつき合いながら(色気ないな……)、僕は首を傾げた。
「あのさぁ、桐島くん。あたしたち、付き合わない?」
「……………………は? 今なんて?」
「だからぁ、『付き合おう』って言ったんだよ。――あ、ここのハラミ美味しい♪」
「…………」
何の気なしに言い、無邪気に肉を頬張る彼女を僕は呆気に取られながら見据えた。
「だってお前、彼氏いるんじゃ……。どっかの会社の御曹司だっていう」
「うん、いるよ。でもさぁ、彼氏って何人いてもよくない? もしかしたら、その中で桐島くんが本命に昇格するかもしれないじゃん?」
「…………はぁ」
よくもまぁ、そんな小悪魔ちゃん発言をいけしゃあしゃあと。――今の僕ならそう言えたかもしれないが、その当時の僕には言えなかった。少し期待していたからだ。
「あたし、桐島くんとは相性めちゃめちゃいいと思うんだよね。桐島くんもあたしに気があるんでしょ? だったら、そっちにも損はないと思うな」
――という言葉にまんまと乗せられ、僕は日比野美咲の彼氏第2号となったわけだが、結局彼女は本命の男と結婚して会社も辞めてしまった。僕は彼女にあっさりと捨てられたのだ。
これが、僕のトラウマの全貌である。
僕に天使が舞い降りた日
1
――それ以来、僕は女性不信に陥り、結婚どころか恋愛そのものが怖くなった。のちに絢乃さんに言った、「もう何年も恋愛から遠ざかっている」というのは、日比野美咲とのことを僕自身の中で〝恋愛〟としてカウントしていないからだ。
それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。
でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。
* * * *
――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。
僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。
「――桐島君、ちょっといいかな」
「は……、はいっ!」
島谷課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。
この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。
それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常茶飯事。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。
その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。
「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」
「いえ……、特にこれといっては」
アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。
「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」
「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」
課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。
「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」
「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」
「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」
「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」
もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。
「ちょっと、たまには家族サービスをな」
「…………はぁ」
ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。
「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」
「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」
「……………………はい……」
僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。
「――お前、なんで断んなかったんだよ?」
自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。
「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」
「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」
「なんで? 彼女とデートか?」
久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。
「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」
「……もういい。お前には頼まねーよ」
この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。
* * * *
僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前咎めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。
そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。
「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」
乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。
「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」
さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
――それが、絢乃さんだった。
「誰だろう、あのコ。可愛い……」
僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。
――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
その様子が何だか微笑ましくなり、僕も丁寧なお辞儀を返したのだった。
2
僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちに遭ったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。
「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」
「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」
後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?
「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」
僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子さんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。
「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」
「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」
あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言い繕った。
「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」
「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」
「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜女子の二年生よ」
「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」
絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。
「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」
「しませんよ、そんなこと!」
僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!
「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」
「……………………」
それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。
「ところで、あなたお酒は飲まないの?」
彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。
「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」
「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」
「そうですが……」
僕がそう答えた次の瞬間、加奈子夫人はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「あら、ちょうどよかった。それじゃあ桐島くん、今日の帰り、絢乃をあなたのクルマで家まで送ってきてくれないかしら? あの子も若い男の人と接点がなかったから、あなたに送ってもらった方が嬉しいと思うのよ」
「え……。えっと」
元々断り下手な僕は、引き受けたとて自分に何のメリットもない島谷課長の雑用も断れずにいた。が、この頼まれごとは僕にもメリットがある。絢乃さんとお近づきになれるというメリットが。
「分りました。僕でよければお引き受けします」
「本当に? ありがとう。ただし、あの子のことお持ち帰りしちゃダメよ」
「ですから、しませんってば」
からかう加奈子夫人を、僕は必死に牽制した。僕たちの会話を絢乃さんに聞かれたらどうなることかとヒヤヒヤしていたのだ。……実は、少し離れたところからバッチリ見られていたらしいのだが。
「――ところで、絢乃さんは一体どなたを探していらっしゃったんでしょうか。ずいぶん焦っていらっしゃったみたいですが」
彼女の視線があちこちをさまよっていたように見えたので、僕は気になっていたのだ。
「ああ、きっと夫を探してるのね。あの人、パーティーの途中でフラッといなくなっちゃったから。あの人がこのごろ激痩せしてること、あなたも知ってるでしょ? だからあの子も心配してて」
「ええ、僕も存じていますし、社員のみんなも心配しております」
それはもちろんウソでもホラでもなく、事実だった。源一会長の痩せ方が文字どおりあまりにも病的だったので、昼休みの社員食堂ではその話題があちこちで飛び交っていたのだ。
「私は多分、あの人何かの病気なんじゃないかと思ってるんだけど。とにかく大の病院嫌いでね、どれだけ勧めても行きたがらないのよ。だからって、首にリードつけて引っぱって行くわけにもいかないじゃない? 犬じゃあるまいし」
「……確かに」
僕は思わず、大型犬になった源一会長が加奈子さんにリードで引っぱられて病院へ連れていかれるところを想像してしまった。これじゃまるで、お散歩をイヤがるワンコだ。
という話をっしていると、加奈子さんがバーカウンターに目をやったところで「あ」と小さく呟いた。
「あの人、あんなところにいた。絢乃が先に見つけてたみたい。――じゃあ桐島くん、さっきのこと、よろしく頼んだわよ♪」
ご主人とお嬢さんのいるバーカウンターへ向かった加奈子さんを目で追うと、彼女は目的の場所に着くなり源一氏を叱りつけていた。なるほど、篠沢家はどうやら〝かかあ天下〟らしい。
「――あれー、桐島くん。どうしてあなたがここにいるの?」
後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くとそこに立っていたのはセミロングの髪にウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女性だった。
こういう席で、女性がビジネススーツ姿でいると目立つ。加奈子夫人でさえ、ドレッシーないで立ちをしていたというのに。
「小川先輩! お疲れさまです」
彼女は会長秘書を務めていた小川夏希さん。僕の二つ年上で、同じ大学の二年先輩だった。
なかなかの美女で面倒見もいいが、色気はあまりない。ノリが体育会系なせいだろうか。そして僕も、彼女を恋愛対象として意識したことはまったくない。
「あ、分かった。また島谷さんの嫌がらせでしょ! あの人にも困ったもんだよね」
「…………あー、はい」
またもや図星を衝かれ(今度は小川先輩にだ)、僕はコメカミをボリボリ掻いた。
「桐島くんもさぁ、イヤなら断ればいいのに。ホイホイ言いなりになってるから向こうもつけあがるんだよ」
「そりゃ、俺も分かってますけど。上司の頼みをむざむざ断れます? 会社でのポジションにも関わるかもしれないんですよ?」
「そんなの関係なくない? あの人みたいなイチ中間管理職に、人事に口出す権限ないでしょ。それは意思の弱い桐島くんが悪いよ。あたしなら絶対に断るね」
「そんな身もフタもない……」
バッサリと一刀両断され、僕はかなりヘコんだ。自分の意思の弱さは、僕自身がいちばん痛感させられているけども。思いっきり急所を衝いてこなくてもいいじゃないか!
「でもまぁ、引き受けちゃったもんはしょうがないよねー。今日は開き直ってパーティー楽しんじゃいなよ。タダで美味しいものいっぱい食べられるって思えばさ」
「……そういう先輩は食べる気満々ですよね」
歌うように言った先輩に僕は呆れた。彼女が持つプレートの上には、載せうる限りの料理がこれでもか! と盛られていたのだ。
「先輩、仕事はいいんですか? 会長の付き添いでここにいるんですよね?」
「いいのいいの☆ 『小川君も私のことはいいから、このパーティーを思う存分楽しみなさい』って会長がおっしゃったんだもん」
「へぇ、そうなんですか……」
「それにね、あれ見てたらさ。あたしの出る幕なさそうじゃない?」
先輩は篠沢家の親子水入らずの光景を、どこか切なそうに見つめていた。
3
「先輩……? もしかして、会長のことを」
「…………うん、好きだよ。でも不倫なんかじゃないから。あたしの一方通行だし、奥さまもご存じだから」
先輩が、ご主人である源一会長に片想いをしていることを、だろう。でも、源一氏はご家族のことをそれはもう大事にする方だったので、残念ながら先輩の想いが彼に伝わることはなかった。
「自分でも不毛な恋だって分かってる。けど別にいいでしょ、あたしが勝手に想ってる分には! 誰にも迷惑かけないし、かけたくないし」
「いや、別にいけないって言ってるわけじゃ……」
半ギレで返された僕はたじろいだ。どうして僕の周りには、こういう強い女性ばかりが寄ってくるんだろうか。ちなみに絢乃さんもそうだと分かるのはだいぶ先のことだが、それはさておき。
「っていうか、なんで桐島くんもあっち見つめてるわけ?」
「え……?」
実は絢乃さんのことを見つめていたのだと、先輩にバレてしまった。
「ははーん? さてはおぬし、絢乃さんに気があるな?」
「……………………」
〝おぬし〟って、アナタは一体いつの時代の人ですか? これは明らかにからかわれているのだと分かっていたので、あえて口に出してはツッコまなかったが。
「その顔は図星ね? まぁ、気持ちは分かんなくもないかな。絢乃さんって純粋だし。清らかっていうか、天使みたいな女の子だもん。あたしとか日比野さんとは大違い」
「先輩……、それ俺にとっては地雷ですから」
僕は小川先輩に釘を刺した。ちなみに、僕と日比野との一件は秘書室でもかなり有名だったらしい。
「分かってるってば。もう忘れなよ、あんなコのことなんか。気にするってことは、まだ引きずってるからなんじゃないの?」
「そ……、そんなことないですよ」
またもや地雷を踏まれた。否定はしたが、完全な否定になっていたかどうかは怪しい。
「まぁ、それはともかく。あたしも会長がいらっしゃる手前、大きな声では言えないんだけど。桐島くんと絢乃さん、けっこうお似合いなんじゃないかなーって思ってる」
「そうですかね? 俺と彼女じゃ八歳くらい年の差ありますよ? っていうか彼女まだ未成年じゃないですか」
A型という血液型ゆえか、周囲から「真面目だ」と認識されている僕はついつい気にしてしまうのだった。
実際、年の差カップルとか二十代の彼氏がいる十代の女の子なんて、世の中にごまんといるはずだ。だから僕と絢乃さんくらいの年の差なら特にあり得ないということもないはずなのだが。
「というか、選ぶのは俺じゃなくて絢乃さんですから」
「まぁ、そうなんだけどねー。期待くらいはしてもいいんじゃないの? 可能性がゼロじゃない以上は」
「…………俺、女性に期待するのはもうやめたんですよ。また裏切られるのはイヤなんで」
柄にもなく、先輩にまで食ってかかってしまったが、悲しいかなそれが本音だった。
それに、絢乃さんクラスの女性になら言い寄ってくる男も大勢いるだろう。それこそ僕みたいにごく平凡なサリーマンなんかじゃなく、青年実業家とか、どこかの御曹司とか。……とか考えていたら、その御曹司を選んで寿退社した誰かさんを思い出してムカムカした。
* * * *
――会場に異変が起きたのは、そのすぐ後のことだった。
源一会長が突然立ち上がれなくなり、絢乃さんと加奈子さんが必死に呼びかけている声が僕の耳にも届き、これは一大事だと察した。
会長がご病気かもしれないというウワサはすでに社内でも広まっていたが、それはかなり悪化していたらしい。どうしてこうなってしまう前に、誰も気づいて差し上げなかったのだろう。
本当は僕も駆け寄って絢乃さんに何かして差し上げたかったが、まだお互いに目礼を交わしただけの僕が出しゃばるのは差し出がましいと思い、遠慮した。
でも会長秘書の小川先輩なら、こういう時は真っ先に駆け寄って行くはずだ。そう思ったのだが、先輩はその場から動こうとしなかった。
「……先輩、行かなくていいんですか? 会長が――」
「分かってるよ。でも、……あたしが言ったところで何もできないし」
悲しそうに弁解する彼女を見て、僕も理解した。先輩もまた、あの親子に気を遣っているのだと。
加奈子夫人は彼女の気持ちをご存じかもしれないが、絢乃さんはどうか。高校生ということはまだ思春期で多感な時期だ。たとえ不倫関係ではなくても、自分の父親に叶わない恋心を抱いている女性がいるということを、彼女はどう捉えるのか。――それを先輩は気にしていたのだ。
そうこうしている間に加奈子さんが迎えの車を呼び、会長は加奈子さんと、会場に現れた運転手と思しきロマンスグレーの男性に体を支えられて会場から退出していった。
そのまま会場に残った絢乃さんは、困惑する招待客への対応に追われて大変そうだった。父親が倒れて、彼女自身も相当ショックを受けていたはずなのに、それでも気丈に対応していた彼女はものすごく健気だった。
――ところが、彼女もまたテーブル席へ戻る途中で軽い目眩を起こしてしまい、倒れかけた。やっぱり父親が倒れたショックは大きかったようだ。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
この時、僕の体は迅速に動いた。決して計算ずくなんかじゃなく、気がついたら勝手に動いていたのだ。彼女が倒れる寸前で、どうにか駆け寄って支えることができた。
僕と目が合った絢乃さんは、その刹那に自分を助けたのが、宣告目礼を交わした相手だと気がついたようだ。
彼女はお礼の一言と、「ちょっとクラッときただけだから大丈夫」と僕を安心させるように言った。
僕は彼女に少し休んだ方がいいと提案し、元いたというテーブル席へとお連れした。何か召し上がったか訊ねると、お父さまが倒れられる前にいっぱい食べた、という答え。
もしかしたらストレスによって、一時的な低血糖を起こしているかもしれない。もし違っていたとしても、甘いものを食べれば気持ちは落ち着かれるんじゃないだろうかと僕は考えた。……というか、僕もデザートがほしくなっただけなのだが。
というわけで、僕は絢乃さんのために(ついでに自分の分も)スイーツと飲み物をもらってくることにした。「申し訳ない」と言う彼女に気を遣わせないよう、「自分も食べたかっただけだから」と付け加えることも忘れずに言い、彼女を席に残して一人ビュッフェコーナーへ向かった。
「……あ、しまった。まだ絢乃さんに名乗ってなかったな」
二人分のデザートとドリンクを選ぶ間(彼女は「オレンジジュースがいい」と言っていた)、僕は独りごちた。僕の言動を、彼女に怪しまれただろうか? ……というか。
「俺がスイーツ男子だってこと、絢乃さんにバレたかもしんない」
大のオトナの男が甘いもの好きなんて、ダサいと思われたかもしれない。……と僕はひとりで勝手に落ち込んでいた。
とはいえ、落ち込んでいても始まらない。もしかしたら、かえって彼女に好印象を持たれたかもしれないじゃないか! と気持ちを切り替え、二枚のデザート皿に小ぶりにカットされたケーキを四種類ずつ取り分け、彼女のオレンジジュースと僕が飲むアイスコーヒーのグラスを皿と一緒に借りたトレーに載せて、僕は彼女の待つテーブル席へと戻ったのだった。
決意
1
――絢乃さんの元へ戻る途中、小川先輩に声をかけられた。
「桐島くん、あたしもう帰るね。あなたはどうするの?」
「俺、加奈子さんから頼まれたんですよ。絢乃さんをお宅まで送ってきてほしいって。なんで残ります。……絢乃さんもさっき目眩起こされたみたいで、ちょっと心配なんで」
「そっか。――で、そのトレーはそれと何の関係が?」
先輩から指摘された僕はハッとした。トレーに載った二人分のスイーツとドリンク、これをどう言い訳しよう?
「これは……、えーっと。絢乃さんに召し上がってもらおうかと思って。俺もついでにご相伴にあずかろうかなー、なんて。アハハ……」
「……………………ふーん。まぁいいんじゃない? 絢乃さんにダサいって思われなきゃいいけど」
「…………はい」
先輩は白けたような視線を僕に投げてよこした後、興味を失ったようにコメントした。彼女は昔から僕がスイーツ男子だということをよく知っているので、こうして僕のことをよくいじってくるのだ。僕ももう慣れた。
「とにかく、あたしは帰るわ。絢乃さんによろしく」
「はい。お疲れさまでした」
――そうしてテーブルまで戻ると、絢乃さんはスマホでメッセージアプリの画面を見ながら眉をひそめていた。お父さまの様子が心配で仕方なかったのだろう。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
ケーキの皿と飲み物のグラスをテーブルに置くと、僕はお礼を言って受け取った絢乃さんから名前を訊ねられた。どうやら彼女の方も、僕に名前を訊きそびれていたことを気にされていたようだ。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
僕はアイスコーヒーを一口飲むと、彼女に自己紹介をした。所属部署や、課長の代理だったことまで言う必要はあっただろうか? というのは頭をもたげるポイントだが。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
心優しい絢乃さんは、その「言う必要のなかった情報」から僕のことを気遣って下さった。
そんな彼女に、僕は事情を話した。他に引き受けてくれる人もいなかったので、課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかった、と。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
眉をひそめて問うてきた彼女に、僕はその事実をあっさりと肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
つい調子に乗って本音がポロッとこぼれてしまった僕は、絢乃さんから不思議そうな顔で見られて我に返った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
慌ててそこを強調すると、絢乃さんは「あなたがそんな人じゃないことは見ただけで分かる」と言って、声を出して笑ってくれた。「そんなに必死に否定しなくても」とも言われたが、自分ではそんなにムキになっていたつもりはなかったんだけどな……。
そして彼女は僕に、自分の名前を知っているのは加奈子さんから聞いたからかと訊ねた。僕がそのことを認め、彼女が高校二年生だということも聞いたと答えると、うんうんと頷いていた。どうやら、やっぱり彼女は僕がお母さまと話しているところを見かけていたらしい。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
疑問が解決したらしい絢乃さんは美味しそうにケーキを食べ始め、顔を綻ばせる彼女を見ていると、その可愛さに僕の心もほっこりした。
絢乃さんは感情表現が豊かな女性のようで、思っていることがすぐ表情にあらわれるところも可愛いなと思ったし、今でも思っている。
「本当ですねぇ」
僕もフォークが進み、そのまままったりとした空気が流れそうだった。が、絢乃さんにとってはお父さまが倒れられたすぐ後なのだ。心の癒やしにはなったかもしれないが、いつまでも二人で和んでいる場合じゃなかった。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
この穏やかな空気をブチ壊すのは申し訳ないと思いつつも、僕は現実的な問題を口にした。何より、絢乃さんご自身が気になっていることだと思ったからだ。
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにメッセージ送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
彼女は心配そうに眉尻を下げ、そう答えた。ケーキの甘さにも、彼女の心配を取り除く効果まではなかったようだ。
そして、テーブルに戻った時に彼女がメッセージアプリの画面を見ながら顔を曇らせていたのはそのせいだったのかと僕は理解した。
「そうですか……。実は社内でも以前からウワサされてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
僕は会場で小川先輩と話していたことを、絢乃さんにも伝えた。その時も絢乃さんはショックを受けているようだったが、僕はそんな彼女に、もっと残酷なことを告げなければならなかった。
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」
「はい?」
彼女は表情を固くしたまま首を傾げた。でも頭のいい人だから、僕が何を言おうとしているか察してはいたのかもしれない。
「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」
この宣告を聞いた時、絢乃さんは一瞬泣きそうな顔をしたが、僕にひとかけらの悪意もなく、お父さまを気遣って言ったことなのだと分ってもらえたようだ。すぐに気を取り直し、フォークを持ったまま眉根にシワを寄せた。
「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」
そうだろうな、そうなるよなぁと僕は思った。加奈子さんもおっしゃっていたからだ。「ウチの夫は病院に行きたがらない。だからといって、犬じゃあるまいし、リードをつけて無理矢理引っぱって行くわけにもいかない」と。
絢乃さんから病院での受診を勧められたとて、ヘソを曲げられて彼女が災難を被る可能性がゼロだとは言い切れなかった。もしかしたら、言い出しっぺの僕にも火の粉が降りかかるかもしれない。
「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」
彼女はそんな僕の心配も読み取ったのか、お父さまの説得を頑張ってみると言って下さった。
「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」
僕のこの言葉は決して謙遜なんかじゃなかった。僕たち社員一人一人に家族のように温かく接して下さるボスの体調を心配するのは、ごく当たり前のことだと思っていたからだ。
それに柄にもなく、想いを寄せる絢乃さんにいいところを見せたいという僕の欲というか、浅ましさもあったように思う。
2
――それから三十分ほど、僕と絢乃さんは美味しいケーキを食べながら他愛ない話をしていた。
「――ねぇ、桐島さん。こういう個人的なパーティーを会社の経費でやるのってムダだと思わない?」
お父さまのお誕生日祝いだというのに、絢乃さんの感想は率直で辛口だった。
「どう……なんですかね? 僕はそんなこと、気にしたことありませんでしたけど」
僕も素直に答えた。社会人になってから毎年、ずっと当たり前のように行われてきたので、僕も何となく「そういうものなのか」と当然のことのように受け入れていたのだが、当たり前ではなかったのだろうか?
「このお祝いの会ってね、元々は有志の人たちがお金を出し合ってやってたらしいの。それがいつの間にかこんなに大げさなことになっちゃって、しまいには貴方みたいなパワハラの被害者まで出ちゃう事態になっちゃってるんだよね」
「へぇ……、そうなんですか。知りませんでした」
実は本当に初耳だった。有志のメンバーだけで始めたお祝いの会がここまで大規模なものになるくらい、源一会長は人望に厚い人だったということだろう。役員になる前も営業部のエースと言われていたらしいし(これは小川先輩からの情報だ)。
「だからね、わたしが将来会長になった時は、思い切って廃止しちゃおうかなぁって思ってるの」
「……そうなんですか?」
「うん。わたし、大勢の人から大げさに誕生日祝ってもらうの、あんまり好きじゃないから。『おめでとう』の一言だけ言ってもらえれば十分。プレゼントは……まぁ、もらえるものなら嬉しいかな」
「なるほど……」
この時の僕は、その方がいいだろうなと思う程度だった。まさか、それがあんなにすぐ現実になるとは思ってもみなかったからだ。
「……桐島さん、ケーキ美味しそうに食べるねー。わたし、スイーツ好きの男の人って好きだよ」
「…………えっ? そ、そうですか?」
絢乃さんから天使の微笑みでそう言われた僕は、思わずドギマギした。
「うん。なんか親しみ持てる。お酒ガバガバ飲む人よりずっといいよ」
「はぁ、それはどうも……」
僕はどうリアクションしていいか困った。これは褒められているのだろうし、絢乃さんが好意的に僕を見て下さっていることは分らなかったわけじゃない。
でも、日比野のことがあったせいか、つい勘ぐってしまうようになっていたのだ。女性が何気なく言った言葉の裏に、何かあるのではないかと。
だからハッキリ言って、この時は絢乃さんの言葉も信じられなかった。彼女は裏表のないまっすぐな女性なのに――。
――と、そうこうしている間に時刻は夜八時半。絢乃さんのスマホにメッセージの受信があった。テーブルの上にカバーを開いた状態で置かれていたので、僕もチラリと画面を覗き込むと、どうやら加奈子さんに送ったメッセージの返信らしいと分ったのだが……。
〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉
という最初のメッセージだけは読み取れた。が、二つ目のメッセージが届いた途端、絢乃さんは「えっ!?」という声を上げて慌ててスマホを持ち上げ、僕の目に入らないようにしてしまった。画面を二度見していたが、何か僕に読まれるとマズいことでも書かれていたのだろうか?
「絢乃さん、どうかされました?」
「ううん、別にっ!」
僕が首を傾げて訊ねると、彼女は思いっきりブンブンと首を横に振ってごまかした。短く返信した後ですぐにスマホはクラッチバッグの中にしまわれてしまったので(これはダジャレではない)、その時は絢乃さんの慌てた理由を知ることができなかったが、彼女の首元まで真っ赤に染まっていたのは何か関係があるのだろうか。
絢乃さんは「そろそろお母さまからの任務を果たしてくる」と言って席を立った。パーティーの閉会の挨拶を頼まれていたのだ。本当は九時ごろ終了の予定だったのだが、主役である源一会長が不在になったので閉会時刻を早める決断をしたのだろう。
「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」
絢乃さんのグラスは空っぽになっていたので、挨拶を終えて喉がカラカラになって戻るであろう彼女のために僕は再びドリンクバーへ行っておくことにした。
「ありがとう」
彼女はステージの壇上で篠沢家の次期当主、そしてグループの跡継ぎらしく堂々と挨拶をして、やりきったという表情でテーブルへ戻ってきた。ように僕には見えた。
「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」
「うん。ありがとう」
オレンジジュースのお代わりを美味しそうに飲む彼女を見ながら、僕もそろそろ加奈子さんからのミッションを果たさねばと思った。
「……ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」
ちょうどいいタイミングで、絢乃さんの方からその話題を振ってきた。……なるほど、彼女が僕に見せたがらなかったお母さまからの二つ目の返信には、そのことが書かれていたのだ。
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」
「そうだよね……」
源一会長が倒れられたのは、加奈子さんにとっても想定外の事態だったはずだ。彼女はただ、可愛い一人娘である絢乃さんと僕の間に接点を持たせたかっただけなのだから。
「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」
絢乃さんは、僕がパーティーの間にアルコール類を口にしていなかったことをそう解釈した。実際はそれほどアルコールに強くないのだが、マイカー通勤をしていることも事実なのでこう答えた。
「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」
「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」
彼女は僕に家まで送ってもらえることが嬉しそうだった。だがひとつ、僕には心配なことがあった。彼女に乗ってもらうクルマがそこそこボロい中古の軽だったということだ。
父は国産メーカーながらセダンに乗っているので、そっちを借りてきた方が格好もついたかなぁ。そろそろ車検にも引っかかりそうだし、僕もセダンに買い換えようかな。……そう思ったのもその頃だったと記憶している。
「はい。……僕のクルマ、軽自動車なんですけどよろしいですか?」
「うん、大丈夫。よろしくお願いします」
彼女の返事を聞いて、僕はホッとした。軽に乗っている男を見下す女性も多い中、絢乃さんは違うのだと分って嬉しかったのだ。
でも、今度買うクルマは絶対にセダンの新車にしようという決意は揺るがなかった。
僕はそこで、パーティーのために戻ってきた時、自分のビジネスバッグをロッカーに置いてきたことを思い出した。ロッカーは鍵がかけられるし、どうせ財布に大した金額は入っていなかったので盗られる心配もなかったのだ。
「では、少しこちらで待っていて頂けますか? ロッカールームからカバンを取ってきますので」
「分かった」
テーブル席で美味しそうにジュースを飲み干す絢乃さんをその場に残し、僕はエレベーターで総務課のロッカールームがある三十階へと上がっていった。
3
「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」
僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。
「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」
彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。
「えっ、助手席……ですか?」
「うん。ダメ、かな? お願い」
その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。
「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」
「やったぁ♪ ありがとう!」
子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。
「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」
「うん。じゃあ失礼しまーす」
彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。
初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問だ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。
「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」
「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」
「そうですね」
スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせと言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。
僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。
「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」
トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~