トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

プロローグ

 ――もしも「運命の出会い」というものが本当にあるのだとしたら、それは僕と彼女との出会いのことを言うのかもしれない。
 僕と彼女は八つも年齢が離れているし、生まれ育った家柄も違う。それでも出会い、恋に落ちたのだ。

 僕の名前は桐島(きりしま)(みつぐ)。銀行マンの父と、元保育士の母との間に次男として生まれた。四歳年上の兄は飲食関係で働いていて、僕自身は大手総合商社・篠沢(しのざわ)商事に勤めているごく一般的なサラリーマンだった。

 一方、彼女の名前は篠沢絢乃(あやの)さん。僕が勤める会社の大元・〈篠沢グループ〉の会長を父親に、元教師で篠沢家の現当主を母親に持つ(お父さまは婿養子だったらしい)大財閥のご令嬢で、出会った当時はまだ私立の女子校に通う高校二年生だった。
 こんな一見何の接点もなさそうな僕たちが出会い、恋に落ちたのは、運命といわなければ一体何だったというのだろう? ちなみにこれだけは言っておくが、断じて逆玉を狙っていたわけではない。念のため。

 ――人間万事塞翁(さいおう)が馬。人生というのは、どう転ぶのかまったくもって予測がつかないものだ。僕自身も雲の上の人である彼女と出会い、恋愛関係にまでなるとは想像もしていなかった。()()()までは――。

エピソード0:僕の過去

 ――その前に、僕の過去の話をしようと思う。過去に恋愛で負った、深い心の傷(トラウマ)の話だ。
 そのことがあって、僕は絢乃さんに出会うまでハッキリ言って女性不信に(おちい)っていた。もう恋愛なんてまっぴらゴメンだと思っていたのだ。


 今から二年くらい前になるだろうか。僕は一人の女性と交際していた。それを〝恋愛〟のカテゴリーに当てはめるかどうかは微妙なところだが。
 彼女は僕の同期入社組で、一緒に総務課に配属された仲間のうちの一人だった。ちなみに同期のほとんどは二年目から三年目の途中で辞めてしまい、今も総務課に残っているのは久保(くぼ)圭人(けいと)くらいのものだろう。……それはさておき。
 僕は彼女に好意を持っていた。そして、彼女はそれに見合うくらい魅力的な女性だったので(絢乃さんに比べれば〝月とスッポン〟だが。ちなみに絢乃さんが月である)、そりゃあもう男にモテていた。そんな彼女から見れば、僕なんて不特定多数のうちの一人に過ぎなかっただろう。

「……なあ久保。(おれ)にワンチャンあると思うか? 日比野(ひびの)と」

 僕は同期の中でいちばん親しかった久保とよくそんな話をしていた。僕が好意を寄せていた相手は日比野()(さき)という名前だった。

「さぁ、どうだろうな。あいつにとっちゃ、男なんて誰でも一緒だろ。なんかさぁ、すでに彼氏がいるらしいってウワサもあるし」

「えっ、マジ!? 相手、この会社のヤツか?」

「いや、社外の人間。合コンで知り合ったらしくてさ、どっかの大会社の御曹司(おんぞうし)らしいって」

「えーーー……、マジかよぉ。それじゃ俺にチャンスなんかないじゃんか」

 僕はそのことを聞いた時、とてつもない絶望感に襲われた。その当時で、もう大学時代から彼女いない歴四年を数えていたので、そろそろ次の春よ来い! な心境だったのだ。

「まぁまぁ、桐島。そんなに落ち込むなって。お前はまだいいよ。お父さん、銀行の支店長だろ?  確かメガバンクだっけ」

「あーうん、そうだけど。それがどうした」

「そこそこ裕福な家に育ってるじゃん? 自家用車(マイカー)で通勤してんだろ?」

「……ああ、まぁな。だから何だよ」

 何だか意味の分からない質問ばかり重ねてくる同期に、僕はしびれを切らした。
 まぁ、マイカー通勤をしていたのは間違いないのだが、学生時代にアルバイトをして貯めた自分の貯金で購入した軽自動車(ケイ)だった。

「だったらさぁ、日比野ちゃんにちょっとくらいは目ぇかけてもらえるんじゃねぇの? オンナは金があって、クルマ持ってる男に弱いっつうしさ」

「……あのなぁ、久保。さっきお前が言ったんだぞ。日比野は彼氏持ちらしい、って。それで、なんで俺にもワンチャンあることになるんだよ? もう振られる以前にさ、告る前から失恋確定してるじゃんか」

 たったの一分ほどで言うことをコロッと変えた友人(ダチ)に、僕は呆れるしかなかった。コイツは僕が真剣に悩んでいるのに、他人事(ひとごと)にしか思っていないんじゃないだろうか、と。

「いやいや、分かんねぇよ? 本命の彼氏は事情があって公にできねぇから、お前をカモフラージュにするって可能性もないわけじゃねぇだろ? んで、アイツのことが好きで、そろそろ彼女ほしいなーって思ってるお前は、どんな形であれアイツと付き合えるわけだ。これでウィンウィンじゃね?」

「〝ウィンウィン〟って、あのなぁ……」

 あくまで都合のいい持論を(誰にかというと、久保自身というより僕に、なんだろうが)展開する彼に、僕は絶句しつつもついつい納得してしまうのだった。
 
 確かに、僕はその頃本気で彼女がほしいと思っていた。学生時代の同級生が結婚ラッシュで、焦っていたせいもあるのかもしれない。そして、もしも彼女ができたらその相手は結婚相手になるんだろうと漠然と思ってもいた。だから、本当なら本命の相手がいる日比野美咲がその対象となることはなかったはずなのだが……。
 男にはそういうところがあるのだ。たとえ相手に好かれていなかったとしても、一旦付き合い始めればこっちのもの、という気持ちが。それは当然のことながら、僕自身も例外ではなかった。とにかく、「彼女ができた」というちっぽけなプライドさえ満たせれば、相手がたとえ彼氏持ちだろうと僕には関係ない、という気持ちがあったということだ。

 ……今にして思えば、それは彼女にただからかわれていただけだったのだが。

「――ねぇねぇ、二人で何話してるのー?」

 そこへ、ウワサをされていた()()()が乱入してきた。
 篠沢商事に制服というものはなく、女性は基本的にオフィスカジュアルでも大丈夫なので、彼女は切込みの深いVネックのニットを着ていた。グラマーな彼女がかがむようにして僕たちの顔を覗き込んでいたので、僕は少々目のやり場に困った。

「……いや別に、野郎同士の話を少々。なっ、桐島?」

「ああ……、うん、まぁそんなところかな」

 その時はすでに終業時間を過ぎ、いわゆる〝アフター(ファイブ)〟に入っていたのだが。

「ふーん? ――ね、桐島くん。この後時間ある?」

「……えっ? うん、何も予定ないし大丈夫だけど……」

 何だか思わせぶりに、僕の予定を訊いてきた彼女。男なら期待しないわけがなかった。ましてや、その相手が意中の人ならば。

「よかった☆ じゃあ、ちょっとあたしに付き合ってくれない? 一緒にゴハン行こ。あたし奢るから」

「え…………。あー、うん。別にいいけど」

「あ、オレは遠慮しとくわ。お二人でどーぞ☆」

「……………………はぁっ!? ちょっと待て! 久保っ!?」

 僕は困惑した。久保も交えて三人なら、僕も一緒に食事くらいは大丈夫だと思ったのだが。いきなり二人きりはハードルが高すぎる。

「ままま、キリちゃん。よかったじゃんよ、彼女の方から誘ってもらえて。お前から誘う勇気なんかなかったべ? これは降ってわいたチャンスだべ。行ってこい!」

 そんな僕の肩をひっつかみ、久保が出身地である千葉(ちば)の言い回しで(ささや)いた。というか、「キリちゃん」なんて気持ち悪い呼び方するな! お前、そんな呼び方したことないだろ!

「お前だって、それでもいいって思ってたべ?」

「……………………あー、まぁ。そりゃあ……な」

 なまじ図星だっただけに、否定できないところが悲しかった。

「ほら、行ってこい!」

 彼に肩をポンポン叩かれ、僕は彼女との夕食に臨んだのだったが――。


「――で、なんで俺のこと誘ったんだよ?」

 彼女と二人で焼肉をつつき合いながら(色気ないな……)、僕は首を傾げた。

「あのさぁ、桐島くん。あたしたち、付き合わない?」

「……………………は? 今なんて?」

「だからぁ、『付き合おう』って言ったんだよ。――あ、ここのハラミ美味しい♪」

「…………」

 何の気なしに言い、無邪気に肉を頬張る彼女を僕は呆気に取られながら見据えた。

「だってお前、彼氏いるんじゃ……。どっかの会社の御曹司だっていう」

「うん、いるよ。でもさぁ、彼氏って何人いてもよくない? もしかしたら、その中で桐島くんが本命に昇格するかもしれないじゃん?」

「…………はぁ」

 よくもまぁ、そんな小悪魔ちゃん発言をいけしゃあしゃあと。――今の僕ならそう言えたかもしれないが、その当時の僕には言えなかった。少し期待していたからだ。

「あたし、桐島くんとは相性めちゃめちゃいいと思うんだよね。桐島くんもあたしに気があるんでしょ? だったら、そっちにも損はないと思うな」

 
 ――という言葉にまんまと乗せられ、僕は日比野美咲の彼氏第2号となったわけだが、結局彼女は本命の男と結婚して会社も辞めてしまった。僕は彼女にあっさりと捨てられたのだ。

 これが、僕のトラウマの全貌である。

僕に天使が舞い降りた日

     1

 ――それ以来、僕は女性不信に陥り、結婚どころか恋愛そのものが怖くなった。のちに絢乃さんに言った、「もう何年も恋愛から遠ざかっている」というのは、日比野美咲とのことを僕自身の中で〝恋愛〟としてカウントしていないからだ。

 それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。

 でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。


   * * * *


 ――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一(げんいち)会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。

 僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。

「――桐島君、ちょっといいかな」

「は……、はいっ!」

 島谷(しまたに)課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。

 この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
 いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。

 それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常()(はん)()。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
 ……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。

 その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。

「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」

「いえ……、特にこれといっては」

 アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。

「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」

「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」

 課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。

「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」

「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」

「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」

「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」

 もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。

「ちょっと、たまには家族サービスをな」

「…………はぁ」

 ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
 課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
 とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。

「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」

「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」

「……………………はい……」

 僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。

「――お前、なんで断んなかったんだよ?」

 自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。

「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」

「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」

「なんで? 彼女とデートか?」

 久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
 彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。

「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」

「……もういい。お前には頼まねーよ」

 この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。


   * * * *


 僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前(とが)めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。

 そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。

「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」

 乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
 自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
 ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。

「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」

 さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
 ――それが、絢乃さんだった。

「誰だろう、あのコ。可愛い……」

 僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
 もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛(まつげ)、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。

 ――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
 ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
 その様子が何だか微笑ましくなり、僕も丁寧なお辞儀を返したのだった。


     2

  僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
 たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちに()ったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。

「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」

「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」

 後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?

「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」

 僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子(かなこ)さんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。

「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」

「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」

 あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言い(つくろ)った。

「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」

「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」

「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜(めいおう)女子の二年生よ」

「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」

 絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。
 
「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」

「しませんよ、そんなこと!」

 僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!

「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」

「……………………」

 それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。

「ところで、あなたお酒は飲まないの?」

 彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。

「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」

「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」

「そうですが……」

 僕がそう答えた次の瞬間、加奈子夫人はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「あら、ちょうどよかった。それじゃあ桐島くん、今日の帰り、絢乃をあなたのクルマで家まで送ってきてくれないかしら? あの子も若い男の人と接点がなかったから、あなたに送ってもらった方が嬉しいと思うのよ」

「え……。えっと」

 元々断り下手な僕は、引き受けたとて自分に何のメリットもない島谷課長の雑用も断れずにいた。が、この頼まれごとは僕にもメリットがある。絢乃さんとお近づきになれるというメリットが。

「分りました。僕でよければお引き受けします」

「本当に? ありがとう。ただし、あの子のことお持ち帰りしちゃダメよ」

「ですから、しませんってば」

 からかう加奈子夫人を、僕は必死に牽制(けんせい)した。僕たちの会話を絢乃さんに聞かれたらどうなることかとヒヤヒヤしていたのだ。……実は、少し離れたところからバッチリ見られていたらしいのだが。

「――ところで、絢乃さんは一体どなたを探していらっしゃったんでしょうか。ずいぶん焦っていらっしゃったみたいですが」

 彼女の視線があちこちをさまよっていたように見えたので、僕は気になっていたのだ。

「ああ、きっと夫を探してるのね。あの人、パーティーの途中でフラッといなくなっちゃったから。あの人がこのごろ激()せしてること、あなたも知ってるでしょ? だからあの子も心配してて」

「ええ、僕も存じていますし、社員のみんなも心配しております」

 それはもちろんウソでもホラでもなく、事実だった。源一会長の痩せ方が文字どおりあまりにも病的だったので、昼休みの社員食堂ではその話題があちこちで飛び交っていたのだ。

「私は多分、あの人何かの病気なんじゃないかと思ってるんだけど。とにかく大の病院嫌いでね、どれだけ勧めても行きたがらないのよ。だからって、首にリードつけて引っぱって行くわけにもいかないじゃない? 犬じゃあるまいし」

「……確かに」

 僕は思わず、大型犬になった源一会長が加奈子さんにリードで引っぱられて病院へ連れていかれるところを想像してしまった。これじゃまるで、お散歩をイヤがるワンコだ。

 という話をっしていると、加奈子さんがバーカウンターに目をやったところで「あ」と小さく呟いた。

「あの人、あんなところにいた。絢乃が先に見つけてたみたい。――じゃあ桐島くん、さっきのこと、よろしく頼んだわよ♪」

 ご主人とお嬢さんのいるバーカウンターへ向かった加奈子さんを目で追うと、彼女は目的の場所に着くなり源一氏を叱りつけていた。なるほど、篠沢家はどうやら〝かかあ天下〟らしい。

「――あれー、桐島くん。どうしてあなたがここにいるの?」

 後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くとそこに立っていたのはセミロングの髪にウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女性だった。
 こういう席で、女性がビジネススーツ姿でいると目立つ。加奈子夫人でさえ、ドレッシーないで立ちをしていたというのに。

()(がわ)先輩! お疲れさまです」

 彼女は会長秘書を務めていた小川(なつ)()さん。僕の二つ年上で、同じ大学の二年先輩だった。
 なかなかの美女で面倒見もいいが、色気はあまりない。ノリが体育会系なせいだろうか。そして僕も、彼女を恋愛対象として意識したことはまったくない。

「あ、分かった。また島谷さんの嫌がらせでしょ! あの人にも困ったもんだよね」

「…………あー、はい」

 またもや図星を衝かれ(今度は小川先輩にだ)、僕はコメカミをボリボリ掻いた。

「桐島くんもさぁ、イヤなら断ればいいのに。ホイホイ言いなりになってるから向こうもつけあがるんだよ」

「そりゃ、俺も分かってますけど。上司の頼みをむざむざ断れます? 会社でのポジションにも関わるかもしれないんですよ?」

「そんなの関係なくない? あの人みたいなイチ中間管理職に、人事に口出す権限ないでしょ。それは意思の弱い桐島くんが悪いよ。あたしなら絶対に断るね」

「そんな身もフタもない……」

 バッサリと一刀両断され、僕はかなりヘコんだ。自分の意思の弱さは、僕自身がいちばん痛感させられているけども。思いっきり急所を衝いてこなくてもいいじゃないか!

「でもまぁ、引き受けちゃったもんはしょうがないよねー。今日は開き直ってパーティー楽しんじゃいなよ。タダで美味しいものいっぱい食べられるって思えばさ」

「……そういう先輩は食べる気満々ですよね」

 歌うように言った先輩に僕は呆れた。彼女が持つプレートの上には、載せうる限りの料理がこれでもか! と盛られていたのだ。

「先輩、仕事はいいんですか? 会長の付き添いでここにいるんですよね?」

「いいのいいの☆ 『小川君も私のことはいいから、このパーティーを思う存分楽しみなさい』って会長がおっしゃったんだもん」

「へぇ、そうなんですか……」

「それにね、あれ見てたらさ。あたしの出る幕なさそうじゃない?」

 先輩は篠沢家の親子水入らずの光景を、どこか切なそうに見つめていた。


     3

「先輩……? もしかして、会長のことを」

「…………うん、好きだよ。でも不倫なんかじゃないから。あたしの一方通行だし、奥さまもご存じだから」

 先輩が、ご主人である源一会長に片想いをしていることを、だろう。でも、源一氏はご家族のことをそれはもう大事にする方だったので、残念ながら先輩の想いが彼に伝わることはなかった。

「自分でも不毛な恋だって分かってる。けど別にいいでしょ、あたしが勝手に想ってる分には! 誰にも迷惑かけないし、かけたくないし」

「いや、別にいけないって言ってるわけじゃ……」

 半ギレで返された僕はたじろいだ。どうして僕の周りには、こういう強い女性ばかりが寄ってくるんだろうか。ちなみに絢乃さんもそうだと分かるのはだいぶ先のことだが、それはさておき。

「っていうか、なんで桐島くんもあっち見つめてるわけ?」

「え……?」

 実は絢乃さんのことを見つめていたのだと、先輩にバレてしまった。

「ははーん? さてはおぬし、絢乃さんに気があるな?」

「……………………」

 〝おぬし〟って、アナタは一体いつの時代の人ですか? これは明らかにからかわれているのだと分かっていたので、あえて口に出してはツッコまなかったが。

「その顔は図星ね? まぁ、気持ちは分かんなくもないかな。絢乃さんって純粋だし。清らかっていうか、天使みたいな女の子だもん。あたしとか日比野さんとは大違い」

「先輩……、それ俺にとっては地雷ですから」

 僕は小川先輩に釘を刺した。ちなみに、僕と日比野との一件は秘書室でもかなり有名だったらしい。

「分かってるってば。もう忘れなよ、あんなコのことなんか。気にするってことは、まだ引きずってるからなんじゃないの?」

「そ……、そんなことないですよ」

 またもや地雷を踏まれた。否定はしたが、完全な否定になっていたかどうかは怪しい。

「まぁ、それはともかく。あたしも会長がいらっしゃる手前、大きな声では言えないんだけど。桐島くんと絢乃さん、けっこうお似合いなんじゃないかなーって思ってる」

「そうですかね? 俺と彼女じゃ八歳くらい年の差ありますよ? っていうか彼女まだ未成年じゃないですか」

 A型という血液型ゆえか、周囲から「真面目だ」と認識されている僕はついつい気にしてしまうのだった。
 実際、年の差カップルとか二十代の彼氏がいる十代の女の子なんて、世の中にごまんといるはずだ。だから僕と絢乃さんくらいの年の差なら特にあり得ないということもないはずなのだが。

「というか、選ぶのは俺じゃなくて絢乃さんですから」

「まぁ、そうなんだけどねー。期待くらいはしてもいいんじゃないの? 可能性がゼロじゃない以上は」

「…………俺、女性に期待するのはもうやめたんですよ。また裏切られるのはイヤなんで」

 柄にもなく、先輩にまで食ってかかってしまったが、悲しいかなそれが本音だった。
 それに、絢乃さんクラスの女性になら言い寄ってくる男も大勢いるだろう。それこそ僕みたいにごく平凡なサリーマンなんかじゃなく、青年実業家とか、どこかの御曹司とか。……とか考えていたら、その御曹司を選んで寿退社した()()()()を思い出してムカムカした。


   * * * *


 ――会場に異変が起きたのは、そのすぐ後のことだった。
 源一会長が突然立ち上がれなくなり、絢乃さんと加奈子さんが必死に呼びかけている声が僕の耳にも届き、これは一大事だと察した。
 会長がご病気かもしれないというウワサはすでに社内でも広まっていたが、それはかなり悪化していたらしい。どうしてこうなってしまう前に、誰も気づいて差し上げなかったのだろう。

 本当は僕も駆け寄って絢乃さんに何かして差し上げたかったが、まだお互いに目礼を交わしただけの僕が出しゃばるのは差し出がましいと思い、遠慮した。
 でも会長秘書の小川先輩なら、こういう時は真っ先に駆け寄って行くはずだ。そう思ったのだが、先輩はその場から動こうとしなかった。

「……先輩、行かなくていいんですか? 会長が――」

「分かってるよ。でも、……あたしが言ったところで何もできないし」

 悲しそうに弁解する彼女を見て、僕も理解した。先輩もまた、あの親子に気を遣っているのだと。
 加奈子夫人は彼女の気持ちをご存じかもしれないが、絢乃さんはどうか。高校生ということはまだ思春期で多感な時期だ。たとえ不倫関係ではなくても、自分の父親に叶わない恋心を抱いている女性がいるということを、彼女はどう捉えるのか。――それを先輩は気にしていたのだ。

 そうこうしている間に加奈子さんが迎えの車を呼び、会長は加奈子さんと、会場に現れた運転手と思しきロマンスグレーの男性に体を支えられて会場から退出していった。

 そのまま会場に残った絢乃さんは、困惑する招待客への対応に追われて大変そうだった。父親が倒れて、彼女自身も相当ショックを受けていたはずなのに、それでも気丈に対応していた彼女はものすごく健気(けなげ)だった。

 ――ところが、彼女もまたテーブル席へ戻る途中で軽い目眩(めまい)を起こしてしまい、倒れかけた。やっぱり父親が倒れたショックは大きかったようだ。

「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」

 この時、僕の体は迅速に動いた。決して計算ずくなんかじゃなく、気がついたら勝手に動いていたのだ。彼女が倒れる寸前で、どうにか駆け寄って支えることができた。
 僕と目が合った絢乃さんは、その(せつ)()に自分を助けたのが、先刻目礼を交わした相手だと気がついたようだ。

 彼女はお礼の一言と、「ちょっとクラッときただけだから大丈夫」と僕を安心させるように言った。
 僕は彼女に少し休んだ方がいいと提案し、元いたというテーブル席へとお連れした。何か召し上がったか訊ねると、お父さまが倒れられる前にいっぱい食べた、という答え。
 もしかしたらストレスによって、一時的な低血糖を起こしているかもしれない。もし違っていたとしても、甘いものを食べれば気持ちは落ち着かれるんじゃないだろうかと僕は考えた。……というか、僕もデザートがほしくなっただけなのだが。
 というわけで、僕は絢乃さんのために(ついでに自分の分も)スイーツと飲み物をもらってくることにした。「申し訳ない」と言う彼女に気を遣わせないよう、「自分も食べたかっただけだから」と付け加えることも忘れずに言い、彼女を席に残して一人ビュッフェコーナーへ向かった。

「……あ、しまった。まだ絢乃さんに名乗ってなかったな」

 二人分のデザートとドリンクを選ぶ間(彼女は「オレンジジュースがいい」と言っていた)、僕は独りごちた。僕の言動を、彼女に怪しまれただろうか? ……というか。

「俺がスイーツ男子だってこと、絢乃さんにバレたかもしんない」

 大のオトナの男が甘いもの好きなんて、ダサいと思われたかもしれない。……と僕はひとりで勝手に落ち込んでいた。
 とはいえ、落ち込んでいても始まらない。もしかしたら、かえって彼女に好印象を持たれたかもしれないじゃないか! と気持ちを切り替え、二枚のデザート皿に小ぶりにカットされたケーキを四種類ずつ取り分け、彼女のオレンジジュースと僕が飲むアイスコーヒーのグラスを皿と一緒に借りたトレーに載せて、僕は彼女の待つテーブル席へと戻ったのだった。

決意

     1

 ――絢乃さんの元へ戻る途中、小川先輩に声をかけられた。

「桐島くん、あたしもう帰るね。あなたはどうするの?」

「俺、加奈子さんから頼まれたんですよ。絢乃さんをお宅まで送ってきてほしいって。なんで残ります。……絢乃さんもさっき目眩起こされたみたいで、ちょっと心配なんで」

「そっか。――で、そのトレーはそれと何の関係が?」

 先輩から指摘された僕はハッとした。トレーに載った二人分のスイーツとドリンク、これをどう言い訳しよう?

「これは……、えーっと。絢乃さんに召し上がってもらおうかと思って。俺もついでにご(しょう)(ばん)にあずかろうかなー、なんて。アハハ……」

「……………………ふーん。まぁいいんじゃない? 絢乃さんにダサいって思われなきゃいいけど」

「…………はい」

 先輩は白けたような視線を僕に投げてよこした後、興味を失ったようにコメントした。彼女は昔から僕がスイーツ男子だということをよく知っているので、こうして僕のことをよくいじってくるのだ。僕ももう慣れた。

「とにかく、あたしは帰るわ。絢乃さんによろしく」

「はい。お疲れさまでした」

 ――そうしてテーブルまで戻ると、絢乃さんはスマホでメッセージアプリの画面を見ながら眉をひそめていた。お父さまの様子が心配で仕方なかったのだろう。

「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」

 ケーキの皿と飲み物のグラスをテーブルに置くと、僕はお礼を言って受け取った絢乃さんから名前を訊ねられた。どうやら彼女の方も、僕に名前を訊きそびれていたことを気にされていたようだ。

「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」

 僕はアイスコーヒーを一口飲むと、彼女に自己紹介をした。所属部署や、課長の代理だったことまで言う必要はあっただろうか? というのは頭をもたげるポイントだが。

「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」

 心優しい絢乃さんは、その「言う必要のなかった情報」から僕のことを気遣って下さった。
 そんな彼女に、僕は事情を話した。他に引き受けてくれる人もいなかったので、課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかった、と。

「桐島さん、それってパワハラって言わない?」

「そう……なりますよねぇ」

 眉をひそめて問うてきた彼女に、僕はその事実をあっさりと肯定した。

「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」

 つい調子に乗って本音がポロッとこぼれてしまった僕は、絢乃さんから不思議そうな顔で見られて我に返った。

「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」

 慌ててそこを強調すると、絢乃さんは「あなたがそんな人じゃないことは見ただけで分かる」と言って、声を出して笑ってくれた。「そんなに必死に否定しなくても」とも言われたが、自分ではそんなにムキになっていたつもりはなかったんだけどな……。

 そして彼女は僕に、自分の名前を知っているのは加奈子さんから聞いたからかと訊ねた。僕がそのことを認め、彼女が高校二年生だということも聞いたと答えると、うんうんと頷いていた。どうやら、やっぱり彼女は僕がお母さまと話しているところを見かけていたらしい。

「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」

 疑問が解決したらしい絢乃さんは美味しそうにケーキを食べ始め、顔を綻ばせる彼女を見ていると、その可愛さに僕の心もほっこりした。
 絢乃さんは感情表現が豊かな女性のようで、思っていることがすぐ表情にあらわれるところも可愛いなと思ったし、今でも思っている。

「本当ですねぇ」

 僕もフォークが進み、そのまままったりとした空気が流れそうだった。が、絢乃さんにとってはお父さまが倒れられたすぐ後なのだ。心の癒やしにはなったかもしれないが、いつまでも二人で和んでいる場合じゃなかった。

「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」

 この穏やかな空気をブチ壊すのは申し訳ないと思いつつも、僕は現実的な問題を口にした。何より、絢乃さんご自身が気になっていることだと思ったからだ。

「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにメッセージ送ってみたんだけど、まだ返信がないの」

 彼女は心配そうに眉尻を下げ、そう答えた。ケーキの甘さにも、彼女の心配を取り除く効果まではなかったようだ。
 そして、テーブルに戻った時に彼女がメッセージアプリの画面を見ながら顔を曇らせていたのはそのせいだったのかと僕は理解した。

「そうですか……。実は社内でも以前からウワサされてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」

 僕は会場で小川先輩と話していたことを、絢乃さんにも伝えた。その時も絢乃さんはショックを受けているようだったが、僕はそんな彼女に、もっと残酷なことを告げなければならなかった。

「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」

「はい?」

 彼女は表情を固くしたまま首を傾げた。でも頭のいい人だから、僕が何を言おうとしているか察してはいたのかもしれない。

「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」

 この宣告を聞いた時、絢乃さんは一瞬泣きそうな顔をしたが、僕にひとかけらの悪意もなく、お父さまを気遣って言ったことなのだと分ってもらえたようだ。すぐに気を取り直し、フォークを持ったまま眉根にシワを寄せた。

「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」

 そうだろうな、そうなるよなぁと僕は思った。加奈子さんもおっしゃっていたからだ。「ウチの夫は病院に行きたがらない。だからといって、犬じゃあるまいし、リードをつけて無理矢理引っぱって行くわけにもいかない」と。
 絢乃さんから病院での受診を勧められたとて、ヘソを曲げられて彼女が災難を被る可能性がゼロだとは言い切れなかった。もしかしたら、言い出しっぺの僕にも火の粉が降りかかるかもしれない。

「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」

 彼女はそんな僕の心配も読み取ったのか、お父さまの説得を頑張ってみると言って下さった。

「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」

 僕のこの言葉は決して謙遜なんかじゃなかった。僕たち社員一人一人に家族のように温かく接して下さるボスの体調を心配するのは、ごく当たり前のことだと思っていたからだ。
 それに柄にもなく、想いを寄せる絢乃さんにいいところを見せたいという僕の欲というか、浅ましさもあったように思う。


     2

 ――それから三十分ほど、僕と絢乃さんは美味しいケーキを食べながら他愛ない話をしていた。

「――ねぇ、桐島さん。こういう個人的なパーティーを会社の経費でやるのってムダだと思わない?」

 お父さまのお誕生日祝いだというのに、絢乃さんの感想は率直で辛口だった。

「どう……なんですかね? 僕はそんなこと、気にしたことありませんでしたけど」

 僕も素直に答えた。社会人になってから毎年、ずっと当たり前のように行われてきたので、僕も何となく「そういうものなのか」と当然のことのように受け入れていたのだが、当たり前ではなかったのだろうか?

「このお祝いの会ってね、元々は有志の人たちがお金を出し合ってやってたらしいの。それがいつの間にかこんなに大げさなことになっちゃって、しまいには貴方みたいなパワハラの被害者まで出ちゃう事態になっちゃってるんだよね」

「へぇ……、そうなんですか。知りませんでした」

 実は本当に初耳だった。有志のメンバーだけで始めたお祝いの会がここまで大規模なものになるくらい、源一会長は人望に厚い人だったということだろう。役員になる前も営業部のエースと言われていたらしいし(これは小川先輩からの情報だ)。

「だからね、わたしが将来会長になった時は、思い切って廃止しちゃおうかなぁって思ってるの」

「……そうなんですか?」

「うん。わたし、大勢の人から大げさに誕生日祝ってもらうの、あんまり好きじゃないから。『おめでとう』の一言だけ言ってもらえれば十分。プレゼントは……まぁ、もらえるものなら嬉しいかな」

「なるほど……」

 この時の僕は、その方がいいだろうなと思う程度だった。まさか、それがあんなにすぐ現実になるとは思ってもみなかったからだ。

「……桐島さん、ケーキ美味しそうに食べるねー。わたし、スイーツ好きの男の人って好きだよ」

「…………えっ? そ、そうですか?」

 絢乃さんから天使の微笑みでそう言われた僕は、思わずドギマギした。

「うん。なんか親しみ持てる。お酒ガバガバ飲む人よりずっといいよ」

「はぁ、それはどうも……」

 僕はどうリアクションしていいか困った。これは褒められているのだろうし、絢乃さんが好意的に僕を見て下さっていることは分らなかったわけじゃない。
 でも、日比野のことがあったせいか、つい勘ぐってしまうようになっていたのだ。女性が何気なく言った言葉の裏に、何かあるのではないかと。
 だからハッキリ言って、この時は絢乃さんの言葉も信じられなかった。彼女は裏表のないまっすぐな女性なのに――。


 ――と、そうこうしている間に時刻は夜八時半。絢乃さんのスマホにメッセージの受信があった。テーブルの上にカバーを開いた状態で置かれていたので、僕もチラリと画面を覗き込むと、どうやら加奈子さんに送ったメッセージの返信らしいと分ったのだが……。


〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
 あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉


 という最初のメッセージだけは読み取れた。が、二つ目のメッセージが届いた途端、絢乃さんは「えっ!?」という声を上げて慌ててスマホを持ち上げ、僕の目に入らないようにしてしまった。画面を二度見していたが、何か僕に読まれるとマズいことでも書かれていたのだろうか?

「絢乃さん、どうかされました?」

「ううん、別にっ!」

 僕が首を傾げて訊ねると、彼女は思いっきりブンブンと首を横に振ってごまかした。短く返信した後ですぐにスマホはクラッチバッグの中にしまわれてしまったので(これはダジャレではない)、その時は絢乃さんの慌てた理由を知ることができなかったが、彼女の首元まで真っ赤に染まっていたのは何か関係があるのだろうか。

 絢乃さんは「そろそろお母さまからの任務(ミッション)を果たしてくる」と言って席を立った。パーティーの閉会の挨拶を頼まれていたのだ。本当は九時ごろ終了の予定だったのだが、主役である源一会長が不在になったので閉会時刻を早める決断をしたのだろう。

「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」

「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」

 絢乃さんのグラスは空っぽになっていたので、挨拶を終えて喉がカラカラになって戻るであろう彼女のために僕は再びドリンクバーへ行っておくことにした。

「ありがとう」

 彼女はステージの壇上で篠沢家の次期当主、そしてグループの跡継ぎらしく堂々と挨拶をして、やりきったという表情でテーブルへ戻ってきた。ように僕には見えた。

「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」

「うん。ありがとう」

 オレンジジュースのお代わりを美味しそうに飲む彼女を見ながら、僕もそろそろ加奈子さんからのミッションを果たさねばと思った。

「……ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」

 ちょうどいいタイミングで、絢乃さんの方からその話題を振ってきた。……なるほど、彼女が僕に見せたがらなかったお母さまからの二つ目の返信には、そのことが書かれていたのだ。

「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」

「そうだよね……」

 源一会長が倒れられたのは、加奈子さんにとっても想定外の事態だったはずだ。彼女はただ、可愛い一人娘である絢乃さんと僕の間に接点を持たせたかっただけなのだから。

「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」

 絢乃さんは、僕がパーティーの間にアルコール類を口にしていなかったことをそう解釈した。実際はそれほどアルコールに強くないのだが、マイカー通勤をしていることも事実なのでこう答えた。

「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」

「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」

 彼女は僕に家まで送ってもらえることが嬉しそうだった。だがひとつ、僕には心配なことがあった。彼女に乗ってもらうクルマがそこそこボロい中古の軽だったということだ。
 父は国産メーカーながらセダンに乗っているので、そっちを借りてきた方が格好もついたかなぁ。そろそろ車検にも引っかかりそうだし、僕もセダンに買い換えようかな。……そう思ったのもその頃だったと記憶している。

「はい。……僕のクルマ、軽自動車(ケイ)なんですけどよろしいですか?」

「うん、大丈夫。よろしくお願いします」

 彼女の返事を聞いて、僕はホッとした。軽に乗っている男を見下す女性も多い中、絢乃さんは違うのだと分って嬉しかったのだ。
 でも、今度買うクルマは絶対にセダンの新車にしようという決意は揺るがなかった。

 僕はそこで、パーティーのために戻ってきた時、自分のビジネスバッグをロッカーに置いてきたことを思い出した。ロッカーは鍵がかけられるし、どうせ財布に大した金額は入っていなかったので盗られる心配もなかったのだ。

「では、少しこちらで待っていて頂けますか? ロッカールームからカバンを取ってきますので」

「分かった」

 テーブル席で美味しそうにジュースを飲み干す絢乃さんをその場に残し、僕はエレベーターで総務課のロッカールームがある三十階へと上がっていった。


     3

「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」

 僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。

「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」

 彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。

「えっ、助手席……ですか?」

「うん。ダメ、かな? お願い」

 その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。

「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」

「やったぁ♪ ありがとう!」

 子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。

「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」 

「うん。じゃあ失礼しまーす」

 彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。

 初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問(ごうもん)だ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。

「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」

「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」

「そうですね」

 スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせ(ハラスメント)と言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。
 僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。

「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」

「なるほど。確かに、こういう爽やかな香りなら品があっていいですよね。僕も好きです」

 逆に、どキツいセクシー系の香水は清楚な絢乃さんに似合わない気がする。お嬢さまだから、というわけでもないだろうが。

「――ところで、このクルマってお家の人から借りてるの? それともレンタカー?」

 無邪気に問うてきた絢乃さんに、僕は「いえ、自前ですよ」と答えた。というか、こんなボロいクルマを貸し出しているレンタカー店なんてあるだろうか。

「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」

 彼女は僕の返事を聞いて、目を丸くした。その眼差しは「サラリーマンの分際で背伸びしちゃって」というバカにしたものではなく、「自前なんだ、スゴいなぁ」という尊敬の念がこもっているように僕には感じられた。

「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」

 僕は彼女のために安全運転を心がけながら、少し謙遜もこめてそう答えた。でも走行距離はかなり行っていたし、車検をクリアできそうになかったことも事実だ。

「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」

「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金(キャッシュ)でというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」

「そっか……。大変だね」

 意気込んで決意を語った僕に、絢乃さんはそんなコメントをした。
 僕は同情されるのがあまり好きではないのだが、何故か彼女に同情的なことを言われるとイヤな気持ちがしなかった。それは彼女が決してお高くとまっていなくて、その言葉の端に彼女の優しさが滲んでいたからだ。
 幸いにも僕には大金をつぎ込むような趣味はないし、篠沢商事は月収が高いので貯金の額もそれなりにあった。クルマの維持費やアパートの家賃(十二万円)と光熱費やら生活費やらを引いても月に五万円くらいは貯金に回せたのだ。
 とはいえ、初対面の女性にお金の話をするのも野暮なので、絢乃さんにその話はしなかった。

「――ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」

 その代わりに、再度そう訊ねてみると。

「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」

 という無邪気な答えが返ってきた。僕にはちょっとばかり意外な返答だったので正直驚いたが、彼女のような育ちの女性なら、クルマに乗る時は後部座席というのがデフォルトなのだろう。
 つまり、この夜が彼女にとっての助手席デビューということだ。もっと上等なクルマならなおよかったのだろうが、それは言わないでおこう。

「そうですか……。それは身に余る光栄です」

「え? 何が?」

 思わずポツリと洩らした言葉に、絢乃さんが反応して顔を上げた。独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。

「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」

 可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は誇らしい気持ちと照れ臭さ半々でそう答えた。


 その後、僕は絢乃さんに自分の家族の職業や、実家近くのアパートでひとり暮らしをしていることなどを話した。
 父が銀行員をしていること、母が結婚前には保育士として働いていたことにも彼女は感心されていたが、もっともリアクションが大きかったのは四歳上の兄・(ひさし)が将来自分の店をオープンさせるべく、飲食チェーンで正社員としてバリバリ働いていることだった。僕としてはちょっと面白くなかったというか、正直兄にジェラシーさえ感じていた。

「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」

 と興味津々(しんしん)で問うてきた彼女に、大人げなく「余計なお世話だ」とも思った。放っといて頂きたい。

「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」

 多分、ぶっきらぼうに答えた僕の顔にもその感情は表れていたかもしれない。絢乃さんも少々不満げだったが、もしも「昔はバリスタになりたかったのだ」と僕の夢を語っても関心を持って下さっていたのだろうか。
 でも、そうなると「どうして諦めたのか」と詮索されるのもイヤだったし……。
 ちなみに、彼女は今もそのことについて詮索してこない。「この会社で本当にやりたい仕事はなかったの?」と訊かれたことはあっても。

 そして、このセリフはウソだが半分は僕の本心である。その当時、総務課の仕事に満足していたかといえば不満だった。総務課に配属されたことは不本意だったし、島谷氏が課長になってからは毎日不満タラタラだった。
 それでも退職せず必死に会社にかじりついていた理由は、篠沢商事の平均月給が他に受けた会社よりずっと高く、福利厚生も充実していたからだ。ここを辞めたら、こんなにいい給料がもらえて待遇もいい会社にいつ恵まれるか分からなかった。

 それよりも、僕にはその時、気がかりなことがあった。もし源一会長がお亡くなりになったら、この会社やグループ全体の経営方針はどうなってしまうのか、と。
 篠沢グループの各社がこんなに優良ホワイト企業でいられるのが(中にはブラックな部署もありそうだが……)、源一会長の経営手腕のたまものだったのだとしたら、後継者次第で変わってしまう可能性もあった。
 そして……、彼の後継者になり得るのは加奈子さんと絢乃さんだけだった。他の親族に候補者がいなければ。


     4

「――そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」

 僕の訊ね方のせいか、絢乃さんはちょっと戸惑いながら「うん……別にいいけど」と答えた。僕にはそんなつもりはなかったのだが……、ちょっと反省。

「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」

 彼女にお父さまの死を意識させないよう、あえて言葉を選び、オブラートに包んだ質問のしかたをした。でも、そんな僕の気遣いを察して下さったようで、彼女は不愉快な様子もなく少し考えてから答えて下さった。

「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に(たずさ)わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」

 絢乃さんの祖父が会長職を引退された時、加奈子さんも後継者の候補に入っていたらしいという話は僕の耳にも入っていた。その当時、僕はまだ入社前だったので、聞かされたのは入社後に小川先輩からだったが。
 加奈子さんも一人娘だったため、親族たちは加奈子さんが継がれるものだと思っていたらしい。が、彼女は教師という職を捨てる気がなく、彼女の婿だった源一氏が後継者となったのだという。
 それでも、加奈子さんが「篠沢家」という経営者一族の現当主であることに違いはなく、経営に関わらずともその権力は絶大だった。教師としての威厳もプラスされていたのだろう。
 絢乃さんの祖父がこの世を去られたのは、それから一年ほど後のことだった。引退を決意されたのも、心臓を悪くされていた奥さまに先立たれ、体調を崩されたからだそうだ。

 ただ、そんな彼女ではなく入り婿の源一氏が会長に就任したことに、親族たちからの強い反発もあったようで。

「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また()めることにならなきゃいいんだけど」

 ウンザリとジャケットの襟元をいじりながらそう言った絢乃さんに、僕も同感だった。 
 資産家の一族による後継者問題、いわゆる〝お家騒動〟というものは古今東西どこにも存在する。小説や映画、TVの二時間ドラマのテーマとして扱われることも多々あるが、こんな身近なところにまで転がっているとは(失礼!)思ってもみなかった。

「名門一族って、どこも大変なんですね……」

「うん……、ホントに」

 彼女の頷きには、ものすごく実感がこもっていた。そりゃそうだろう。彼女は間もなく、その〝お家騒動〟のド真ん中に放り込まれるのだから。
 だからこそ、僕はそんな彼女の力になりたいとこの時心に誓ったのだ。そのためには、もっと彼女のために動きやすい部署に異動しなければ――。

 それよりも、この時の僕は彼女の表情が冴えないことが気になった。お父さまが倒れてすぐだったので仕方のないことだが、僕はできることなら、大好きな彼女に笑顔でいてほしかった。

「――絢乃さん、一人っ子だとおっしゃってましたよね? ご結婚される時はどうなるんですか?」

 なので、唐突にそんな質問をブッかましてみた。もちろん彼女に笑ってもらうための冗談だったが、彼女は一瞬ポカンとなった後、真剣に答えて下さった。

「やっぱり、相手に婿入りしてもらうことになるんじゃないかなぁ。パパの時みたいに」

「じゃあ……、僕もその候補に入れて頂くことは可能ですか?」

 これは半分、僕の本心からの願望でもあった。が、絢乃さんが変に気を遣わないよう表向きはこれも冗談ということにした。

「…………えっ!? ……うん、多分……大丈夫だと思うけど」

 彼女は戸惑いながらもそう答えてくれた。が、正直僕はこれも彼女の社交辞令ではないかと内心疑っていた。彼女は優しい人だから、僕に「無理だ」とは言えない、と思ったのではないかと。
 彼女のような良家のご令嬢に、僕のような家柄も収入も平凡な(「年収が平凡」ってどんなんだ)男は釣り合わないと思っていた。お似合いの相手はもっといい家柄で、高収入で、僕よりイケメンなどこかの御曹司のはず(……ってこんな歌詞、何かの歌で聴いたことあったな)。
 なので、僕は「冗談ですからお気になさらず」と言って肩をすくめたのだが、彼女が満更でもなさそうだったのは気のせいだろうか? いや、待て待て、俺。期待したってまた裏切られるだけだぞ。
 
 ――その後、恵比寿(えびす)のあたりで絢乃さんのスマホに加奈子さんから電話がかかり、それを終えた彼女と不意に目が合った。
 ちょっとドキドキしながら「何ですか」と訊ねると、彼女は僕にお母さまと彼女自身の「ありがとう」を言った。

「いえ……」

 お礼を言われるようなことは何もしていないつもりだった。ひとりパーティー会場に残されて心細い思いをしていた十代の女の子に寄り添ってあげたいというのは、一人の大人として当然の行動だったし、ぶっちゃけて言えば自分でも認めがたい下心のようなものもあった。
 でも、彼女はそんな僕の一連の言動を厚意だと受け取ってくれたらしい。彼女の純粋すぎる性格に感動しつつも、彼女はもし他の男に同じようなことをされたらコロッと(だま)されそうだなと心配にもなった。

 ――もうすぐ自由が丘。絢乃さんの家に着いてしまう。彼女との楽しかった時間ももうすぐ終わり、僕はまた課長にこき使われる現実に戻ってしまう。まるで童話のシンデレラのように、魔法が解けてしまうのだ――。
 ……俺はこのまま、何のアクションも起こさずに彼女との接点を失ってしまうのか? 元々はセレブ一家に生まれ育った彼女と、普通よりちょっとばかりいい家に育った僕とでは住む世界が違った。この夜の出会いは、奇跡のようなものだったのだ(だからといって、僕にこの出会いをもたらした島谷氏に感謝する筋合いはなかったのだが)。
 だからせめて、彼女と連絡先の交換くらいはしておかなくては。源一会長の病状も気になっていたし、情報交換のためにもそれくらいは許されるはずだ。……彼女がそれに快く応じて下さるかどうかは別として。

 絢乃さんをクルマから降ろしたら、僕の方から切り出そうと思っていた。

「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいね」

「うん、ありがとう。――あ、桐島さん。あの…………」

 でもなかなか言い出せず、半ば「もう無理だ」と諦めながら運転席に戻ろうとしていると、彼女の方から引き留められた。

「連絡先……、交換してもらえないかな…………なんて」

 まさかの展開に気持ちが逸り、僕は食いぎみに「いいですよ」と答えてしまった。期待していたと思われたらどうしよう? 彼女、引くかもしれない……。
 でも、そんな僕の心配は()(ゆう)だったようで、彼女は嬉しそうにスマホを取り出して僕との連絡先交換を済ませてしまった。
 絢乃さんはその後も「ウチでお茶でも」と誘って下さったが、「明日も仕事があるので失礼します」とお断りした。これ以上期待してはいけない、裏切られた時のダメージが大きいから。
 それなのに、僕は「連絡、お待ちしています」とポロッと言ってしまった。それは、お茶を断られた彼女が落胆しているように見えたからだ。でも、この言葉にはうろたえながらも嬉しそうに頷いて下さった。

 クルマに乗り込んだ僕は、しばらくシートの上でスマホを見つめていた。――もう女性を信用しないと決めた。けれど。

「もう一度、信じてみようかな……。せめて絢乃さんのことは」

 初々しく頬を染めながら、嬉しそうに僕とアドレスを交換してくれた彼女にはそれだけの価値があるのかもしれない、と僕は思ったのだった。

前を向け!

     1

 ――僕はその後、アパート近くのコンビニに寄って夜食用のパン買い込んだ。この店は実家からも近く、僕が子供の頃からよく利用していた。

「――はい、五百四十円ね。貢くん、アンタたまにはもっと栄養のあるもの食べなさいよ?」

 店員のおばちゃんが、レジで会計をしていた僕にまるで母親のようなことを言った。ちなみに彼女は、家族経営をしていたこの店の店長の奥さんだった。

「実家のご両親とかお兄ちゃん、心配してるんじゃないの?」

「おばちゃん、実家には毎週末帰ってますよ。今日はもう夕飯済ませてきたから、軽く夜食で食べとこうと思っただけです」

「そうなの? だったらいいんだけど……。はい、千円お預かりで四百六十円のお返しね」

「……どうも」

「アンタ、早くお嫁さんもらいなさいよ? いつまでも実家やお兄ちゃんアテにしてたら、いつまで経っても自立しないわよ」

「それ言うなら兄貴の方が先だと思いますけど」

 余計なお世話だ、とばかりに僕は反論した。この当時で兄はすでにアラサーだった。が、兄に恋人がいると知ったのはその四ヶ月ほど後のことだった。ちなみにその彼女は、今兄嫁である。

「まぁ、そうよねぇ。ゴメンねぇ、おばちゃん余計なこと言っちゃったわね。はい、ありがとう」

 会計の済んだカレーパンとクリームパン、そして五〇〇ミリペットボトルのカフェラテを有料のレジ袋に入れてもらい、僕はコンビニを出た。


   * * * *


「――ただいま」

 アパート二階のいちばん奥にあるドアを開けると、僕は誰もいない(ひとり暮らしなんだから当たり前なのだが、家族全員がこの部屋の合鍵を持っているため誰かが来ている可能性もあった)部屋の玄関でくたびれた革靴を脱いだ。
 篠沢家の大豪邸を外から眺めた後なので、独立した風呂・トイレ付きの(ワン)Kの部屋がものすごくちっぽけに見え、絢乃さんとの格差をイヤでも思い出させられた。でも社会に出てからその当時で二年半、ずっと暮らしてきた住まいでもあったので、愛着がまったくないというわけでもなかった。

 ベージュのラグを敷いたフローリングの床に通勤用のカバンを置くと、とりあえず着ていたジャケットを脱いでベッドの上に放り投げ、ネクタイを緩めた。もちろんそのままほっぽり出しておくわけがなく、後からスーツは一式まとめてハンガーにかけるつもりだった。

「あー、腹減った。いただきます」

 ポリ袋から買ってきたパン類とカフェラテを出して座卓の上に置き、まずはカレーパンの封を開けてかぶりついた。
 ラテの甘さでカレーの辛さを中和しつつモグモグやっていると、座卓の上に出してあったスマホが鳴り出した。

「…………ぅおっ、絢乃さんから電話!? マジか!」

 画面に表示された発信者の名前を見た途端、僕は喉を詰まらせそうになった。そして、自分の口がまだモゴモゴしていることを思い出し、パニックになった。
 ()(しゃく)中に電話に出るのは失礼にあたるが、早く出ないと切られてしまう! ……いや、僕からかけ直せばよかっただけの話なのだが、いかんせん冷静さを欠いていた僕はそんなことさえ思い至らなかった。

「――はい、桐島です」

 とにかく出ねば、と通話ボタンをスワイプし、まだ若干モゴモゴしている状態で応答した。 絢乃さん、怒るだろうな……と不安だったので、声は少々震えていたかもしれない。

『……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?』

 カンの鋭い彼女にはすぐに見抜かれてしまったが、その声からはお怒りの様子も呆れられている様子も感じられなかった。むしろ笑うのを必死でこらえられている、という感じがしたのは僕の気のせいか? 僕が無事に帰れたことにホッとされていたからだろうか。

「ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから」

 バカヤロー、俺。何を食べてたかなんていちいち報告する必要ないだろ。絢乃さんとは初対面だったのに、気を許しすぎだ。
 ……と心の中でセルフツッコミを入れていると、彼女は笑いながら「ああ、そうなんだね」と言った。めちゃめちゃ笑われてるじゃん、俺。

『――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの』

 ひとりで勝手にヘコんでいると、次の瞬間彼女の声のトーンが真剣なものに変わった。僕は「そうですか」と相槌を打ってから、もういい加減モゴモゴをやめなきゃいけないと思い、「ちょっと待って下さいね」と彼女に言い置いて急いで口に残っていたものをカフェラテで流し込んだ。

「――で、どうでした?」

 早く話の続きが聞きたくて、僕はそう訊ねた。果たして彼女は、お父さまを説得することに成功したのか。……まぁ、おっかない夫人も一緒に説得を(こころ)みただろうし、源一氏が子煩悩(ぼんのう)だというのは有名な話だったので、うまくいかなかったとは考えにくかったが。

『明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって』

 するとやっぱり、説得には成功されたと思しき返事が返ってきて、その声の明るさに僕もとりあえずホッとした。
 それにしても、ご友人にドクターがいらっしゃるなんて源一会長は環境に恵まれている。医者に診てもらうにしても、まったく見ず知らずのドクターが相手よりは知人のドクターが担当になってくれる方がハードルがグンと低くなるだろう。

「そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった」

『うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?』

 絢乃さんはまず第一関門を突破できたことに安心されたようで、次に僕が助言したことについてお父さまに話した方がよかったのか否かを確かめられた。心優しい彼女はきっと、説得がうまくいかなくてお父さまがご機嫌を損なわれた場合に僕が()()()()()を受けないよう、あえてそのことを伝えなかったのだと思う。

「いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです」

 あのパーティー会場で、僕が源一会長と直接言葉を交わすことはなかったが、彼の方は僕の顔を物珍しげにチラチラとご覧になっていたような気がする。「あれ、あんなに若い社員が来ているなんて珍しいな」という感じだったのだろう(ちなみに、会社では接点があった)。
 そのことを伝えると、絢乃さんはお父さまの並外れた記憶力に驚愕されていた。

「――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?」

 僕がそう訊ねると、彼女は「パパのことはママに任せて、わたしは学校に行くことにした」と答えられた。お友だちに心配をかけたくないし、自分が一緒に行ってもかえって両親に気を遣わせるだけだから、と。まだ十七歳なのに、こういう時の判断がしっかりできるなんてスゴい人だなと思った。
 
 彼女はどうやら入浴前だったようで、電話口から(かす)かに水音も聞こえていた。もしや、室内にバスルームまで完備されているのか……!?
「お風呂に入るところだったから」と通話を終えようとしていた彼女に、湯冷めしないよう諭してから僕は電話が切れるのを待った。

 ――彼女は何度も僕に「ありがとう」を言っていた。けれど、〝ありがとう〟を言いたいのは僕の方だった。
 もう一度、女性を信じようという気を起こさせてくれて。そして僕を裏切らないでいてくれて。

「絢乃さん、ありがとうございます……」

 僕はスマホを見つめながら、前を向く勇気が湧いてくるのをひしひしと感じていた。


     2

 ――翌朝、僕はトースト一枚と自分で淹れたコーヒーで簡単に朝食を済ませ、いつもどおり出社した。

「――おっす、久保」

「おう。……桐島、なんか今日ご機嫌だな。ゆうべ何かいいことでもあったん?」

 総務課のオフィスに入ってすぐ久保に声をかけると、フリードリンクの抹茶ラテを飲んでいた彼がバケモノでも見たような口ぶりで言って首を傾げた。

「俺が機嫌いいとなんか不都合なことがあるのか、お前は」

「うん、なんか気味わるい」

「…………」

 僕もフリードリンクのマシンでブレンドコーヒー(微糖・ミルク入り)を紙コップに(そそ)ぎながら質問返しをしてやると、ヘラヘラ笑いながらヤツは答えた。

「あっ、ウソ! 冗談だって! 怒んなよぉ、桐島ぁ」

「…………あのなぁ」

 ふつふつと怒りがこみ上げ、ものすごい形相で睨むと「冗談だから怒るな」ときたもんだ。

「……それはともかく。どうなのよ、桐島? いいことあったのか?」 

「別にいいだろ、そんなの何だって。お前には関係ないし」

 僕はブスッと答えながら席に戻ってコーヒーをすすり始めたが――。次の瞬間、この男は特大の爆弾を投下しやがった。

「分かった! 会場にものすごい巨乳の可愛いコがいたんだろ!」

「……………………ブホッ!」

 僕はその後しばらく盛大にむせ、ゴホゴホやっていたが、落ち着くとツッコミを入れた。

「おまっ、なんでそこで巨乳が出てくるかなぁ? 脈絡なさすぎだろ」

「だってさぁ、巨乳は男のロマンだぜ? 日比野もそうだったじゃん」

「……お前、それ思いっきり地雷踏んじまってるからな?」

 僕は思いっきり久保を睨んだ。胸ウンヌンの話はともかく、彼女の名前を僕の前で出すのは自爆するのに等しい行為だとこの男は分かっていないのだろうか?
 絢乃さんは巨乳というほどではないが、まぁまぁグラマーな方ではあった。高校生だったにしては発育がいい方ではなかったかと思う。……が。

「だいたい、胸の大きさなんかいちいち気にしてないって、……あ」

 僕はうっかり口が滑ってしまい、「やべぇ」と口元を手で押さえた。が、「遅かりし由良之助(ゆらのすけ)」。久保にはバッチリ聞かれた後だった。

「〝あ〟? 〝あ〟って何だよ? まさかマジで女の子絡みか?」

 ここまでバレてしまっては僕も引っ込みがつかないので、仕方なく久保に絢乃さんとの出来事を白状した。源一会長が倒れられたことは、話そうかどうか迷った。僕から聞き出さなくても、そのうち会社の誰かが話すだろうと思ったのだ。

「…………実はさ、昨夜、絢乃さんと知り合って。帰りは俺がクルマで家まで送っていったんだ。連絡先も交換してもらって」

「へぇー、マジ? つうか『絢乃さん』ってまさか、会長のお嬢さま?」

「そのまさかだよ。んで、絢乃さんの方から『連絡先交換したい』って言われて」

「マジか。ってことはだ、待てよ。……お嬢さまの方もお前のこと気になってんじゃねぇの?」

「やめてくれよ、期待させるようなこと言うの。久保、お前面白がってねぇか?」

 僕はプラスチックのホルダーをはめた紙コップをデスクに置き、腕組みをして久保を睨み付けた。コイツには、人のゴシップをイジっては喜ぶという悪いクセがあるようだ。

「いやいや、面白がってなんかいませんよ、オレは。ただ友人としてだな、お前がやっとまた女の子と関わり始めたことが嬉しいってだけで」

「まだ深く関わっていくって決まったわけじゃ……。連絡先交換しただけだぞ」

 口ではそう言ったものの、実際には自分がこの先、絢乃さんと深く関わっていくだろうことが分かっていた。お父さまがおそらくは命に関わる重病で、彼女の心はグラついていた。そんな彼女には支えになる存在が必要で、それが僕である可能性はほぼ百パーセントといっても過言ではなかったからだ。

「んでもさぁ、それがキッカケで恋愛に発展して、いずれは逆玉とかもあるんじゃね?」

「別に……、俺は逆玉なんか狙ってないけどさ。絢乃さんのために何かしてあげたいっていうのはホントかもな。だから、このまんまじゃいけないんじゃないかとは思ってる」

「このまんま、っていうと?」

総務課(このぶしょ)で、課長にいいように使われたままじゃダメだって。でさ、俺、近々異動しようと思ってるんだ」

「異動? っつうと……、会社ん中で部署だけ別のところに変わるっていう意味か?」

「そう。まだどこの部署に行くか、具体的には何も決めてないんだけどな」

 絢乃さんのすぐ近くで、彼女の力になれる部署に異動すると決意こそしたものの、それができる部署が一体どこなのかまでは分かっていなかった。

「そっかそっか。お前もここからいなくなるのか。淋しくなるなー。けどまぁ、その方がいいのかもな。お前はこんなところで(くすぶ)ってるような男じゃないって、オレ前から思ってたもん。異動先でも頑張れよ」

「おう。サンキューな、久保。俺、もう課長から何言われても怖くねぇわ。これからはイヤなことは『イヤです』ってハッキリ言うよ」

 覚悟を決めた人間は強いのだ。じきに別の部署に変わるんだと思えば、()()()()に怯えていた自分がバカみたいに思えてきた。もうヘイコラする必要なんかない。異動前にキッチリ引導を渡してやろうと僕は心に決めた。


   * * * *


 ――「源一会長が重病らしい」という話はその日の午前のうちに会社中に広まり、あの島谷課長でさえ「会長は大丈夫なんだろうか」と心配そうな面持ちをしていた。
 もちろん、前日のパーティーに代理で出席していた僕に「昨日はご苦労だった。急に頼んですまなかったな」としおらしい言葉までかけてくれて、僕はある意味「この世の終わりなんじゃないか」と思った。これはもう、天変地異の前触れに違いない。

 というわけで、この日は課長の雑用を押し付けられることなく自分のすべき仕事だけに励んだ僕は、昼休み、社員食堂にいた。

「――桐島くん、お疲れさま」

 真ん中あたりのテーブルでカツ丼を食べていると、向かいの席に小川先輩が座った。彼女が選んだのは唐揚げ定食らしい。

「お疲れさまです……って先輩! なんでいるんですか!? 今日、会長はお休みですよね?」

「うるさいなぁ。秘書っていうのは、ボスがお休みの時にもやることいっぱいあるんだって」

 彼女は僕に顔をしかめつつ、白いご飯をかきこんだ。

「へぇー、そうなんですね。知らなかったな」

 同じ社員という立場なのに、秘書という職種のことを僕はあまり知らずにいたのだ。……まぁ、秘書室は人事部の管轄だし、オフィスも重役専用フロアーである最上階に置かれているので、めったに近寄ることもなかったのだが。

「……あ、先輩。実は俺、近々部署を変わろうと思ってるんですけど、秘書室の人員に空きってあったりしますか?」

「えっ、桐島くん、秘書室に来てくれるの? 人員はそりゃもうガラ空きだよ。働き者のあなたが入ってくれるなら百人力だね。あたしから(ひろ)()室長に話通しといてあげようか?」

「すいません、ありがとうございます」

「いいってことよ☆ あたしと桐島くんの仲じゃない♪ …………ん? 奥さまからメッセージ?」

 先輩は食事中にポケットで振動したスマホのメッセージアプリを開き、ニヤリと笑った。

「そんなあなたに、加奈子さまからご指名がかかったよ。絢乃さん、今日早退することになったから、学校まで迎えに行ってあげてほしい、って」

「学校……って、(はち)(おう)()の茗桜女子に? でも、どうして俺が」

「奥さまは奥さまで、お膳立てしてあげたいんじゃないの? ほら、愛しい絢乃さんが待ってるから、行ってらっしゃい。島谷さんには、あたしも一緒に事情を説明してあげるから」

 ――かくして、僕は会社を抜け出し、絢乃さんが待つ茗桜女子学院までクルマを走らせることとなったのである。


     3

 ――僕に「少しの間だけ仕事を抜けさせてほしい」と告げられた島谷課長は、あからさまに顔色を変えた。「そんなこと、許可するわけがないだろう」と言うだろうと僕は察した。

「――私からもお願いします、島谷さん」

「誰だね、君は」

「会長秘書の、小川と申します。彼は会長の奥さまから急な用件を(うけたまわ)ったので、抜けさせてほしいと申し上げてるんです」

 この部屋に本来いるべきではない小川先輩に怪訝そうな顔をした島谷氏。でも、先輩はそれに臆することなく堂々と発言していた。……先輩カッコよすぎ。俺、女性不信じゃなかったら絶対惚れてます。

「会長秘書? 会長の奥さまから……」

 島谷氏は典型的な中間管理職――つまり「長いものには巻かれろ」主義なので、先輩の〝会長秘書〟という肩書きに明らかにうろたえていた。

「ええ。直接ご指名があったんです。()()()()、と。もちろん、ダメだとはおっしゃいませんよねぇ? あなたの今後の査定にも響くでしょうし?」

 彼女はニッコリ笑って言っているように見えるが、そのニッコリ顔が島谷氏には氷点下の笑顔に見えたらしい、要するに「顔は笑っていても目が笑っていない」というヤツだ。

「お願いします、課長! 用が済み次第、ちゃんと戻ってきますんで!」

「そう言われてもなぁ……」

 この人が悩み始めたら、これは長期戦になる可能性大だ。こっちにはそんなことに付き合っているヒマはないのに!
 
「……桐島くん、絢乃さんをお待たせしちゃいけないから、あなたは行ってきなさい。この人はあたしが説得するから。学校の住所はナビで調べたら分かるよね?」

「先輩、ありがとうございます。じゃあ、ここはお任せしますね。――とにかく、僕行ってきます!」

 僕はその場を先輩に任せて、絢乃さんを迎えに八王子まで向かうことにした。


   * * * *


 クルマのナビは古すぎてアテにならないので、スマホのナビアプリを頼りに茗桜女子学院の門の前までどうにか辿り着いたのは午後一時半すぎ。そこで待っていた絢乃さんは、当然のことながら学校の制服姿で立っていた。
 クリーム色のブレザーに、赤の一本ラインが裾に入ったブルーグレーのプリーツスカート、そして胸元には赤いリボン。スカート丈がキッチリ膝丈なのと、黒のハイソックスを穿()いているのが誠実な彼女らしい。
 前日の大人っぽいドレス姿もよかったが、制服姿はやっぱり可愛いなと思った。……いやいや、これは断じて〝制服萌え〟なんかじゃないぞ。

「――絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」

 シルバーの軽自動車から降りた僕を見てなぜか驚いていた絢乃さんに、僕は助手席のドアを開けながら声をかけた。

「桐島さん……? どうして」

 困惑している様子の彼女に、小川先輩を通してお母さまからお迎えの依頼があったことを伝えると、彼女は「そう、なんだ」と頷きながらもまだ理解が追いついていないようだった。が、乗車拒否をすることはなく、前日と同じように助手席に乗り込んで下さった。

 絢乃さんは車内で何だかソワソワしていて、「迎えに来たのが(てら)()さんではなく僕でビックリした」と言っていた。前日、パーティー会場まで源一会長を迎えに来ていたロマンスグレーの男性こそが篠沢家のお抱えドライバー・寺田さんだという。もう三十年以上、篠沢家に仕えているのだそうで、彼女は自分の迎えにも彼が来るものだと思っていたらしい。
 僕は彼女のことや、彼女のお家に関することなら何でも知りたいと思っていたので、こんな他愛もない話題にもちゃんと相槌を打った。何より、話してくれたということが嬉しかったのだ。

「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」

 僕はその一言に、自分の耳を疑った。彼女は僕の迎えが嬉しかったと言ったが、本当なんだろうか? またもや、女性の言葉に裏があるのではと勘ぐってしまう、僕の悲しい(さが)が発動してしまったようだ。でも、彼女自身も自分が言ったことに動揺して赤面していたので、この言葉に裏なんてないのだとすぐに分かったのだが。

 彼女は続いて、僕と小川先輩との関係について訊ねられたが、そこから嫉妬のようなものは感じられず、これは好奇心からきた質問だと思われる。
「ただの大学時代の先輩・後輩の関係で、小川先輩には好きな人がいるはずだ」と答えると「小川さんに、好きな人……?」と絢乃さんの興味はそちらに移ったようだった。考え込むような仕草をされていたので、もしかしたら彼女にも分かったのかもしれない。先輩の好きだった相手が、自分のお父さまだったということが。

 僕は早く源一会長の病気のことが知りたかったが、絢乃さんはなかなか切り出そうとしなかった。それだけ受けたショックが大きすぎて、気持ちの整理が追いつかなかったのだろうと思い、僕は急かさずにいたのだが――。
 
「ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」

 もしかしたら、自分で切り出す勇気が湧かないので僕からキッカケを作ってもらうのを待っているのかとも思い、とりあえず僕から促してみると、彼女は「ちょっと待って」と呼吸を整えてから口を開いた。
 お父さまは末期のガンで、余命三ヶ月だと。

「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」

「…………そう、ですか」

 そのまま泣き出した彼女に、僕はそれだけ言うのが精一杯だった。
 彼女はきっと、お父さまが余命宣告を受けたことにショックを受けて泣いているのだと思ったが、それは違うとすぐに分かった。泣きながら、「どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか」「どうして自分じゃなかったのか」とご自身を責めていたからだ。
 僕はそんな彼女の優しさに心を打たれ、同時に(どう)(こく)する彼女の姿に胸が締めつけられる思いだった。でもこういう状況の時、どう慰めていいのか分からず、気の済むまで泣かせてあげることしかできなかった。

 しばらく泣き続けた後、彼女はクルマに積んであったボックスティッシュで鼻をかみながら「ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」と真っ赤に泣き腫らした顔を上げた。
 健気な彼女に前を向いてほしい。そして、僕自身も前を向かなければ……。そんな想いから、僕は彼女にこんなアドバイスをした。
「お父さまの余命を()()()()()()()()()と悲観せず、()()()()()()()()と前向きに(とら)えてみてはどうでしょうか」と。

「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」

 実を言うと、こんなに偉そうなことを言ってのけた僕自身が同じ立場になった時、同じように前を向けるかどうか自信がない。他人の僕だから言えたのかもしれない。
 でも、絢乃さんはこの無責任な僕の言葉で笑顔を取り戻して下さった。お父さまの三ヶ月という余命だけではなく、僕のアドバイスすら善意として前向きに捉えて下さったのだ。

 ――篠沢邸の前で「会社に戻らなければ」と言った僕に、絢乃さんはお礼プラス口止め料として五千円札を握らせた。一度は断ろうとしたが、彼女の強い意志に負けて結局は突っ返すことができなかった。

 紙幣を握らせた時、重ねられた彼女の手のひらのぬくもりがまだ残っているような気がして、僕は彼女がくれた五千円札を大事な宝物のようにそっと自分の二つ折り財布にしまった。


     4

 ――僕は会社へ戻るクルマの中で、改めて秘書室へ異動する意思を固めた。

「――もしもし、桐島です。小川先輩、今話して大丈夫ですか?」

 ハンズフリーでスマホから先輩の携帯に電話をかけると、彼女はすぐに出てくれた。とっくに昼休みは終わっていて仕事中だったはずなのに大丈夫だろうか? と電話した張本人が心配したところで、「お前が言うんかい」という感じだが。

『桐島くん? ――うん、大丈夫だけど。ミッションは完了したの?』

「はい。今戻るところなんですけど。――俺、秘書室に異動しようと思います。で、先輩から人事部の(やま)(ざき)部長に根回ししてもらってもいいですか? ホントは自分で言わないといけないと思うんですけど、事情が事情なんで」

『事情が事情、って。つまり島谷さんからの嫌がらせが原因じゃないってことね?』

 時間的に、小川先輩のところにも加奈子さんから連絡が行っているはずだと思い、僕はその「事情」を彼女に話した。

「そうなんです。……先輩のところにも連絡行きました? 会長が末期ガンで、あと三ヶ月しか生きられないらしいって」

『うん、奥さまから電話があったよ。……で?』

「これ、あくまでも最悪の事態を考えておかないと、っていう話で聞いてほしいんですけど。会長が亡くなった後、多分後継者になられるのは絢乃さんだと思うんです。で、俺はその時、秘書として絢乃さんのことを支えたいと思って。……ただ時間があまりないんで、正規の手続きを踏んでたら間に合わないと思うんです。だから……」

 これじゃまるで、僕は源一会長が亡くなるのを待っているみたいな言い方だ。でも、僕には全然そんなつもりはなく、あくまで備えとしてそう決めたに過ぎないのだ。

『……分かった。それはあくまで、万が一の時に備えてってことね? で、正規の手順をすっ飛ばして異動したい、と。そういうことなら、あたしも力貸すわ。可愛い後輩の頼みだしね』

「えっ、ホントですか!?」

『うん。山崎部長の秘書の(うえ)(むら)さんと親しいから、彼女から部長に話通しといてもらうね。桐島くんとしては早いほうがいいでしょ? 明日……は土曜日か。じゃあ週明けにでも面談セッティングしてもらう?』

「ええ、それで大丈夫です。先輩、あざっす!」

 僕は小川先輩にお礼を言った。話の分かる先輩を持てて僕は幸せだ。

 ――会社に戻れば、またいつもどおりの仕事に追われる。先輩がどの程度島谷氏の説得に成功したのか定かではないが、もしかしたら普段以上に風当たりがキツくなるかもしれない。が、異動の意志を固めたことで、正直そんなことはどうでもよくなっていた。

「――ところで先輩、課長の説得ってどうなりました?」

『ふっふっふ、あたしを誰だと思ってるの? 「今後の出世に響きますよー」って言ったら、あの人真っ青になってた。チョロいもんだわ♪』

「…………先輩、それって〝脅迫〟とか言いません?」

 嬉々として語った彼女に、僕は頭が痛くなった。うまく説得してくれたのは非常にありがたいのだが、少々やり過ぎな気もする。
 会長秘書はいわば会長の執務を代行する立場にいて、その発言力や影響力も会長のそれとほぼ等しいのだ。ヘタをすれば、パワハラに該当しかねない。……まぁ、相手も部下たちにハラスメント行為を働いていたのでこれでおあいこになるだろうが。
 僕がそのことを指摘すると、先輩は案の定「これでおあいこでしょ?」と不敵に言ってのけた。

『とにかく、あなたは会社に戻ってきても課長さんからネチネチ言われる心配なくなったから。安心して戻ってらっしゃい。さっき頼まれた件は任せといて』

「はい、何から何までありがとうございます、先輩。――じゃ、もうすぐ社に着きますんで」

 安心して会社に戻れることが分かり、ホッとした僕は通話を切った。

「――今日の夕飯、久々に兄貴の店で食べようかな。今日は遅番だって言ってたし」

 兄は渋谷にある洋食系レストランチェーンで店長として働いている(ちなみに現在進行形である)。毎週末は実家に泊まり、食事も家族と一緒に摂っている僕だが、実家暮らしの兄は時々僕のアパートまで食事を作りに来てくれていた(そしてしばしば僕にも手伝わせていた)。何だかんだ言って弟に世話を焼きたい兄は、ひとり暮らしの僕の栄養管理に気を遣ってくれていたりするのだ。

「せっかく臨時収入も入ったしな……」

 絢乃さんから頂いた五千円を、使わないという選択肢もあったが、使わなければ彼女に申し訳ないなと思った。……僕はその時点では、絢乃さんの涙を見た唯一の男だったわけだし。口止め料も含まれていたのなら、使ってしまわなければ「誰にも話しませんよ」という証明にならないかも、という思いもあったのだ。


〈兄貴、今晩兄貴の店に行ってもいいか? たまには夕飯にいいもの食いたい〉


 ――会社に戻ると、自分のデスクで兄にメッセージを送信した。時間的に、兄はまだ職場には着いていないはずだと思った。
 するとすぐに既読がついて、返信がきた。


〈オレは何時でも大歓迎♪ 
 予約席用意して待ってっけど、一応来る前に連絡よろしく〉


「……〝予約席〟って何だよ」

 僕はスマホの画面にツッコミを入れた。チェーン店のレストランに席をリザーブするシステムなんてあっただろうか。


   * * * *


 ――その日は無事、定時で帰ることができた。
 島谷課長も小川先輩からの脅しがよっぽど(こた)えたと見え、僕に残業を押し付けなかったどころか、「今日は定時で上がりなさい」と気持ち悪いくらい僕に優しかった。

「――いらっしゃい! 早かったな、貢」

 兄の勤務先であるレストランに入ると、出迎えてくれたのはホールのスタッフではなく店長の兄だった。というかコックコートで接客って……。

「うん、今日は珍しく残業なかったから。……つうかなんで兄貴が接客してんだよ? 兄貴、キッチンがメインじゃなかったっけ?」

「ああ、まぁな。今、学生バイトのみんなはテスト前やら学祭前やらで忙しくてバイト入れないらしくてさぁ。仕方ねぇからオレとフリーターのメンバーでホール回してんの。――ま、座れや。お冷や持ってってやるから」

「うん……」

 兄は()()()予約席を用意していた。そこで僕は、兄にミラノドリアとボロネーゼパスタをオーダーした。「そんなに食って(カネ)大丈夫か」と訊かれたので、臨時収入があったのだとだけ答えた。

「――で、臨時収入ってどこから入ったんだよ?」

 運ばれてきた料理を(運んだのはもちろん兄だ)美味しく頂いていると、兄は僕の向かいの席にドッカリ座って興味津々で訊ねてきた。どうでもいいが、仕事サボってていいのかよ?

「ちょっと……人の送迎を頼まれてさ。臨時収入はそのお礼で、五千円もらった」

 あまり根掘り葉掘り訊かれるのもウザいので、簡潔にそう答えた。が、思わずニヤけてしまったのを兄にはバッチリ見られてしまった。

「……なぁ、それって女の子か? そこんところ、もっと詳しく聞かせろ」

 僕は仕方なく、それが会長令嬢である絢乃さんだったこと、会長のご病気のこと、そして僕自身が秘書室に異動しようと決意したことを話した。

「そうかそうか! お前が前向いてくれて兄ちゃんは嬉しい! 頑張れよ!」

「う……うん。頑張る……けど」

 僕は困惑した。兄は何に対して頑張れと言ったのだろう? 新しい仕事……にしてはなんか話がズレているような。

「秘書になりたいと思ったの、そのコのためなんだろ? これがキッカケで、お前のトラウマが治るといいな」

「え……いや、まぁ。うん……」

 僕の決意を聞いて、絢乃さんへの恋心が兄にもバレてしまったようだった。それ以来、兄は僕の恋の後押しをしてくれるようになったのだった。

秘書としての覚悟

     1

 ――僕はその翌週のうちに秘書室への異動が認められ、秘書としての研修がスタートした。
 ちなみに、転属には所属していた部署の上長の承認が必要なのだが、島谷氏はあっさりと承認印を押してくれた。前もって社長や人事部長・秘書室長の承認印が押されていたので押さざるを得なかったのだと聞いたが、実は加奈子さんから何らかの圧力がかかったのだと僕は勝手に思っている。
 とはいえ、十月の異動シーズンからも少しズレていたので、僕のこの時期の異動はイレギュラーな特例だったらしい。

「――桐島くん、秘書の仕事でいちばん大事なことって何だか分かる?」

 室長から指導係に任ぜられた小川先輩が、僕に優しく問いかけた。
 研修が始まってから、僕は秘書の業務もそつなく覚え、こなしてきた。が、先輩にこう訊ねられたということは、僕にはまだ何かが欠けていたということだ。

「えーと……、時間に正確であること……ですかね」

 首を傾げながら、思いつく答えを言ってみた。あとは命令に忠実なこと、口が堅いこと、このあたりだろうか。

「まぁ、それも正解かな。ボスのスケジュール管理は秘書にとって大事な仕事だからね。でも、時間に縛られたくないボスもいるし、あまりにも忙しすぎるとかえってストレスを与えちゃうよね。だから、そのあたりはあまりナーバスになる必要はないとあたしは思ってる。大事なのは時間配分と(さじ)加減」

「要するに調整能力ってことですね。じゃあ、それが正解なんですか?」

 僕がそう解釈すると、先輩は「う~ん」と唸ってから「それも違うかな」と答えた。

「えっ、違うんですか?」

「うん。正解はね、どれだけボスに気持ちよく仕事をしてもらえるか考えて、工夫すること。まぁ、簡単に言えばボスへの愛、ってことね」

「愛、ですか……」

 彼女の源一会長への想いを知っていた僕には、この言葉にものすごい説得力を感じた。

「先輩が言うと、何か重みがありますよね」

「……あっ、違う違う! あたし、そういう意味で言ったんじゃないからね!? 愛っていうのは、信頼とかリスペクトとかそういう意味!」

 首元まで真赤にして弁解する先輩だが、ここは給湯室で僕以外には誰もいないので、そんなにムキに必要もないのではないだろうか?

「あたしは会長のこと人として尊敬してるし、秘書として信頼されてるのが嬉しいの。それは仕事のやり甲斐にも繋がっていくから」

「なるほど……。まぁ、先輩のこと茶化しちゃいましたけど、俺だって同じようなもんですよね。絢乃さんのために秘書室に異動したわけですし」

 小川先輩は違うかもしれないが、僕が異動を決意した裏には間違いなく絢乃さんへの下心……もとい恋心があったのだから。もちろん、篠沢絢乃さんという一人の女性を尊敬する気持ちもあるし、信頼関係を築きたいというのも本当なのだが。

「そうだよねぇ、桐島くんは絢乃さんのこと好きなんだもんね♪ でも不倫じゃないでしょ? ……あたしも違うけど」

「そりゃ、不倫ではないですけど。相手、まだ高校生ですよ? 未成年ですよ? やっぱりそういうところって気にしちゃうじゃないですか。『ロリコンだと思われて気味悪がられるんじゃないか』とか」

 僕は()(ごく)まっとうなことを言ったつもりだったのだが、小川先輩はケラケラと笑い出した。……もしかして、こんな考え方しかできない僕はチキン野郎なのだろうか?

「それはあなたの考えすぎなんじゃない? だって、別に元々ロリコン趣味があって絢乃さんのこと好きになったわけじゃないでしょ? 好きになった相手がたまたま高校生だったってだけのハナシでしょ? だったら問題ないよ」

「そうですかねぇ……」

「そうだよ。――まぁ飲みなって、コーヒー。せっかく淹れたんだし」

 先輩は休憩も兼ねて、僕のためにコーヒーを淹れてくれていたのだ(ちなみにインスタントである)。
 僕は「いただきます」と言ってマグカップに口をつけた。……が。

()っつ! 先輩、これ沸騰したお湯で淹れたでしょ!」

「えっ? うん。そうだけど……何か問題ある?」

「コーヒーは、沸騰させたお湯で淹れたら薫りが飛んじゃうんですよ。それはインスタントでもおんなじです。美味しく淹れるには、お湯を少し冷ますのがポイントなんで覚えて下さいね」

 僕は講釈を垂れながら「あ、ヤベっ!」と我に返った。昔っからこうなのだ。自分の好きなもの――主にコーヒーやクルマについて語るとついつい熱くなってしまうという、悪いクセが出てしまうのである。

「……分かった、ありがと。ちゃんと覚えとくわ。っていうかそれ、桐島くんにとって絢乃さんへの愛になるかもね。秘書としての」

「……えっ?」

「絢乃さん、大のコーヒー好きなんだって。よかったねー、引かれずに済みそうで」

「そうなんですか。教えて下さってありがとうございます!」

 小川先輩のアドバイスが、大切な絢乃さんのために何ができるかという僕の悩みに対する答えになりそうだと思うと嬉しかった。

トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~

大財閥〈篠沢(しのざわ)グループ〉本社・篠沢商事に勤める25歳の桐島貢(きりしまみつぐ)。 彼は秋のある夜、上司の代理で出席した会社のパーティーで、会長令嬢で高校2年生の篠沢絢乃(しのざわあやの)に一目惚れ。 その三ヶ月後、会長・篠沢源一が末期ガンでこの世を去る。 葬儀の日、父の遺言により会長の後継者となった絢乃を支えるべく、秘書室へ転属する旨を彼女に伝える。 絢乃は無事、会長に就任。会長付秘書として働くことになった貢はある日、会社帰りの愛車の中で絢乃に衝動的にキスをしてしまい――!? 草食系男子の年上秘書×キュートな10代の大企業総帥による、年の差オフィスラブストーリーのヒーローサイド。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. エピソード0:僕の過去
  3. 僕に天使が舞い降りた日
  4. 決意
  5. 前を向け!
  6. 秘書としての覚悟