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トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~
プロローグ
――もしも「運命の出会い」というものが本当にあるのだとしたら、それは僕と彼女との出会いのことを言うのかもしれない。
僕と彼女は八つも年齢が離れているし、生まれ育った家柄も違う。それでも出会い、恋に落ちたのだ。
僕の名前は桐島貢。銀行マンの父と、元保育士の母との間に次男として生まれた。四歳年上の兄は飲食関係で働いていて、僕自身は大手総合商社・篠沢商事に勤めているごく一般的なサラリーマンだった。
一方、彼女の名前は篠沢絢乃さん。僕が勤める会社の大元・〈篠沢グループ〉の会長を父親に、元教師で篠沢家の現当主を母親に持つ(お父さまは婿養子だったらしい)大財閥のご令嬢で、出会った当時はまだ私立の女子校に通う高校二年生だった。
こんな一見何の接点もなさそうな僕たちが出会い、恋に落ちたのは、運命といわなければ一体何だったというのだろう? ちなみにこれだけは言っておくが、断じて逆玉を狙っていたわけではない。念のため。
――人間万事塞翁が馬。人生というのは、どう転ぶのかまったくもって予測がつかないものだ。僕自身も雲の上の人である彼女と出会い、恋愛関係にまでなるとは想像もしていなかった。あの夜までは――。
エピソード0:僕の過去
――その前に、僕の過去の話をしようと思う。過去に恋愛で負った、深い心の傷の話だ。
そのことがあって、僕は絢乃さんに出会うまでハッキリ言って女性不信に陥っていた。もう恋愛なんてまっぴらゴメンだと思っていたのだ。
今から二年くらい前になるだろうか。僕は一人の女性と交際していた。それを〝恋愛〟のカテゴリーに当てはめるかどうかは微妙なところだが。
彼女は僕の同期入社組で、一緒に総務課に配属された仲間のうちの一人だった。ちなみに同期のほとんどは二年目から三年目の途中で辞めてしまい、今も総務課に残っているのは久保圭人くらいのものだろう。……それはさておき。
僕は彼女に好意を持っていた。そして、彼女はそれに見合うくらい魅力的な女性だったので(絢乃さんに比べれば〝月とスッポン〟だが。ちなみに絢乃さんが月である)、そりゃあもう男にモテていた。そんな彼女から見れば、僕なんて不特定多数のうちの一人に過ぎなかっただろう。
「……なあ久保。俺にワンチャンあると思うか? 日比野と」
僕は同期の中でいちばん親しかった久保とよくそんな話をしていた。僕が好意を寄せていた相手は日比野美咲という名前だった。
「さぁ、どうだろうな。あいつにとっちゃ、男なんて誰でも一緒だろ。なんかさぁ、すでに彼氏がいるらしいってウワサもあるし」
「えっ、マジ!? 相手、この会社のヤツか?」
「いや、社外の人間。合コンで知り合ったらしくてさ、どっかの大会社の御曹司らしいって」
「えーーー……、マジかよぉ。それじゃ俺にチャンスなんかないじゃんか」
僕はそのことを聞いた時、とてつもない絶望感に襲われた。その当時で、もう大学時代から彼女いない歴四年を数えていたので、そろそろ次の春よ来い! な心境だったのだ。
「まぁまぁ、桐島。そんなに落ち込むなって。お前はまだいいよ。お父さん、銀行の支店長だろ? 確かメガバンクだっけ」
「あーうん、そうだけど。それがどうした」
「そこそこ裕福な家に育ってるじゃん? 自家用車で通勤してんだろ?」
「……ああ、まぁな。だから何だよ」
何だか意味の分からない質問ばかり重ねてくる同期に、僕はしびれを切らした。
まぁ、マイカー通勤をしていたのは間違いないのだが、学生時代にアルバイトをして貯めた自分の貯金で購入した軽自動車だった。
「だったらさぁ、日比野ちゃんにちょっとくらいは目ぇかけてもらえるんじゃねぇの? オンナは金があって、クルマ持ってる男に弱いっつうしさ」
「……あのなぁ、久保。さっきお前が言ったんだぞ。日比野は彼氏持ちらしい、って。それで、なんで俺にもワンチャンあることになるんだよ? もう振られる以前にさ、告る前から失恋確定してるじゃんか」
たったの一分ほどで言うことをコロッと変えた友人に、僕は呆れるしかなかった。コイツは僕が真剣に悩んでいるのに、他人事にしか思っていないんじゃないだろうか、と。
「いやいや、分かんねぇよ? 本命の彼氏は事情があって公にできねぇから、お前をカモフラージュにするって可能性もないわけじゃねぇだろ? んで、アイツのことが好きで、そろそろ彼女ほしいなーって思ってるお前は、どんな形であれアイツと付き合えるわけだ。これでウィンウィンじゃね?」
「〝ウィンウィン〟って、あのなぁ……」
あくまで都合のいい持論を(誰にかというと、久保自身というより僕に、なんだろうが)展開する彼に、僕は絶句しつつもついつい納得してしまうのだった。
確かに、僕はその頃本気で彼女がほしいと思っていた。学生時代の同級生が結婚ラッシュで、焦っていたせいもあるのかもしれない。そして、もしも彼女ができたらその相手は結婚相手になるんだろうと漠然と思ってもいた。だから、本当なら本命の相手がいる日比野美咲がその対象となることはなかったはずなのだが……。
男にはそういうところがあるのだ。たとえ相手に好かれていなかったとしても、一旦付き合い始めればこっちのもの、という気持ちが。それは当然のことながら、僕自身も例外ではなかった。とにかく、「彼女ができた」というちっぽけなプライドさえ満たせれば、相手がたとえ彼氏持ちだろうと僕には関係ない、という気持ちがあったということだ。
……今にして思えば、それは彼女にただからかわれていただけだったのだが。
「――ねぇねぇ、二人で何話してるのー?」
そこへ、ウワサをされていたご本人が乱入してきた。
篠沢商事に制服というものはなく、女性は基本的にオフィスカジュアルでも大丈夫なので、彼女は切込みの深いVネックのニットを着ていた。グラマーな彼女がかがむようにして僕たちの顔を覗き込んでいたので、僕は少々目のやり場に困った。
「……いや別に、野郎同士の話を少々。なっ、桐島?」
「ああ……、うん、まぁそんなところかな」
その時はすでに終業時間を過ぎ、いわゆる〝アフター5〟に入っていたのだが。
「ふーん? ――ね、桐島くん。この後時間ある?」
「……えっ? うん、何も予定ないし大丈夫だけど……」
何だか思わせぶりに、僕の予定を訊いてきた彼女。男なら期待しないわけがなかった。ましてや、その相手が意中の人ならば。
「よかった☆ じゃあ、ちょっとあたしに付き合ってくれない? 一緒にゴハン行こ。あたし奢るから」
「え…………。あー、うん。別にいいけど」
「あ、オレは遠慮しとくわ。お二人でどーぞ☆」
「……………………はぁっ!? ちょっと待て! 久保っ!?」
僕は困惑した。久保も交えて三人なら、僕も一緒に食事くらいは大丈夫だと思ったのだが。いきなり二人きりはハードルが高すぎる。
「ままま、キリちゃん。よかったじゃんよ、彼女の方から誘ってもらえて。お前から誘う勇気なんかなかったべ? これは降ってわいたチャンスだべ。行ってこい!」
そんな僕の肩をひっつかみ、久保が出身地である千葉の言い回しで囁いた。というか、「キリちゃん」なんて気持ち悪い呼び方するな! お前、そんな呼び方したことないだろ!
「お前だって、それでもいいって思ってたべ?」
「……………………あー、まぁ。そりゃあ……な」
なまじ図星だっただけに、否定できないところが悲しかった。
「ほら、行ってこい!」
彼に肩をポンポン叩かれ、僕は彼女との夕食に臨んだのだったが――。
「――で、なんで俺のこと誘ったんだよ?」
彼女と二人で焼肉をつつき合いながら(色気ないな……)、僕は首を傾げた。
「あのさぁ、桐島くん。あたしたち、付き合わない?」
「……………………は? 今なんて?」
「だからぁ、『付き合おう』って言ったんだよ。――あ、ここのハラミ美味しい♪」
「…………」
何の気なしに言い、無邪気に肉を頬張る彼女を僕は呆気に取られながら見据えた。
「だってお前、彼氏いるんじゃ……。どっかの会社の御曹司だっていう」
「うん、いるよ。でもさぁ、彼氏って何人いてもよくない? もしかしたら、その中で桐島くんが本命に昇格するかもしれないじゃん?」
「…………はぁ」
よくもまぁ、そんな小悪魔ちゃん発言をいけしゃあしゃあと。――今の僕ならそう言えたかもしれないが、その当時の僕には言えなかった。少し期待していたからだ。
「あたし、桐島くんとは相性めちゃめちゃいいと思うんだよね。桐島くんもあたしに気があるんでしょ? だったら、そっちにも損はないと思うな」
――という言葉にまんまと乗せられ、僕は日比野美咲の彼氏第2号となったわけだが、結局彼女は本命の男と結婚して会社も辞めてしまった。僕は彼女にあっさりと捨てられたのだ。
これが、僕のトラウマの全貌である。
僕に天使が舞い降りた日
1
――それ以来、僕は女性不信に陥り、結婚どころか恋愛そのものが怖くなった。のちに絢乃さんに言った、「もう何年も恋愛から遠ざかっている」というのは、日比野美咲とのことを僕自身の中で〝恋愛〟としてカウントしていないからだ。
それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。
でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。
* * * *
――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。
僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。
「――桐島君、ちょっといいかな」
「は……、はいっ!」
島谷課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。
この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。
それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常茶飯事。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。
その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。
「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」
「いえ……、特にこれといっては」
アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。
「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」
「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」
課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。
「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」
「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」
「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」
「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」
もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。
「ちょっと、たまには家族サービスをな」
「…………はぁ」
ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。
「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」
「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」
「……………………はい……」
僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。
「――お前、なんで断んなかったんだよ?」
自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。
「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」
「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」
「なんで? 彼女とデートか?」
久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。
「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」
「……もういい。お前には頼まねーよ」
この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。
* * * *
僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前咎めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。
そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。
「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」
乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。
「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」
さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
――それが、絢乃さんだった。
「誰だろう、あのコ。可愛い……」
僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。
――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
その様子が何だか微笑ましくなり、僕も丁寧なお辞儀を返したのだった。
2
僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちに遭ったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。
「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」
「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」
後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?
「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」
僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子さんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。
「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」
「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」
あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言い繕った。
「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」
「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」
「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜女子の二年生よ」
「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」
絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。
「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」
「しませんよ、そんなこと!」
僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!
「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」
「……………………」
それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。
「ところで、あなたお酒は飲まないの?」
彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。
「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」
「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」
「そうですが……」
僕がそう答えた次の瞬間、加奈子夫人はイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「あら、ちょうどよかった。それじゃあ桐島くん、今日の帰り、絢乃をあなたのクルマで家まで送ってきてくれないかしら? あの子も若い男の人と接点がなかったから、あなたに送ってもらった方が嬉しいと思うのよ」
「え……。えっと」
元々断り下手な僕は、引き受けたとて自分に何のメリットもない島谷課長の雑用も断れずにいた。が、この頼まれごとは僕にもメリットがある。絢乃さんとお近づきになれるというメリットが。
「分りました。僕でよければお引き受けします」
「本当に? ありがとう。ただし、あの子のことお持ち帰りしちゃダメよ」
「ですから、しませんってば」
からかう加奈子夫人を、僕は必死に牽制した。僕たちの会話を絢乃さんに聞かれたらどうなることかとヒヤヒヤしていたのだ。……実は、少し離れたところからバッチリ見られていたらしいのだが。
「――ところで、絢乃さんは一体どなたを探していらっしゃったんでしょうか。ずいぶん焦っていらっしゃったみたいですが」
彼女の視線があちこちをさまよっていたように見えたので、僕は気になっていたのだ。
「ああ、きっと夫を探してるのね。あの人、パーティーの途中でフラッといなくなっちゃったから。あの人がこのごろ激痩せしてること、あなたも知ってるでしょ? だからあの子も心配してて」
「ええ、僕も存じていますし、社員のみんなも心配しております」
それはもちろんウソでもホラでもなく、事実だった。源一会長の痩せ方が文字どおりあまりにも病的だったので、昼休みの社員食堂ではその話題があちこちで飛び交っていたのだ。
「私は多分、あの人何かの病気なんじゃないかと思ってるんだけど。とにかく大の病院嫌いでね、どれだけ勧めても行きたがらないのよ。だからって、首にリードつけて引っぱって行くわけにもいかないじゃない? 犬じゃあるまいし」
「……確かに」
僕は思わず、大型犬になった源一会長が加奈子さんにリードで引っぱられて病院へ連れていかれるところを想像してしまった。これじゃまるで、お散歩をイヤがるワンコだ。
という話をっしていると、加奈子さんがバーカウンターに目をやったところで「あ」と小さく呟いた。
「あの人、あんなところにいた。絢乃が先に見つけてたみたい。――じゃあ桐島くん、さっきのこと、よろしく頼んだわよ♪」
ご主人とお嬢さんのいるバーカウンターへ向かった加奈子さんを目で追うと、彼女は目的の場所に着くなり源一氏を叱りつけていた。なるほど、篠沢家はどうやら〝かかあ天下〟らしい。
「――あれー、桐島くん。どうしてあなたがここにいるの?」
後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くとそこに立っていたのはセミロングの髪にウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女性だった。
こういう席で、女性がビジネススーツ姿でいると目立つ。加奈子夫人でさえ、ドレッシーないで立ちをしていたというのに。
「小川先輩! お疲れさまです」
彼女は会長秘書を務めていた小川夏希さん。僕の二つ年上で、同じ大学の二年先輩だった。
なかなかの美女で面倒見もいいが、色気はあまりない。ノリが体育会系なせいだろうか。そして僕も、彼女を恋愛対象として意識したことはまったくない。
「あ、分かった。また島谷さんの嫌がらせでしょ! あの人にも困ったもんだよね」
「…………あー、はい」
またもや図星を衝かれ(今度は小川先輩にだ)、僕はコメカミをボリボリ掻いた。
「桐島くんもさぁ、イヤなら断ればいいのに。ホイホイ言いなりになってるから向こうもつけあがるんだよ」
「そりゃ、俺も分かってますけど。上司の頼みをむざむざ断れます? 会社でのポジションにも関わるかもしれないんですよ?」
「そんなの関係なくない? あの人みたいなイチ中間管理職に、人事に口出す権限ないでしょ。それは意思の弱い桐島くんが悪いよ。あたしなら絶対に断るね」
「そんな身もフタもない……」
バッサリと一刀両断され、僕はかなりヘコんだ。自分の意思の弱さは、僕自身がいちばん痛感させられているけども。思いっきり急所を衝いてこなくてもいいじゃないか!
「でもまぁ、引き受けちゃったもんはしょうがないよねー。今日は開き直ってパーティー楽しんじゃいなよ。タダで美味しいものいっぱい食べられるって思えばさ」
「……そういう先輩は食べる気満々ですよね」
歌うように言った先輩に僕は呆れた。彼女が持つプレートの上には、載せうる限りの料理がこれでもか! と盛られていたのだ。
「先輩、仕事はいいんですか? 会長の付き添いでここにいるんですよね?」
「いいのいいの☆ 『小川君も私のことはいいから、このパーティーを思う存分楽しみなさい』って会長がおっしゃったんだもん」
「へぇ、そうなんですか……」
「それにね、あれ見てたらさ。あたしの出る幕なさそうじゃない?」
先輩は篠沢家の親子水入らずの光景を、どこか切なそうに見つめていた。
3
「先輩……? もしかして、会長のことを」
「…………うん、好きだよ。でも不倫なんかじゃないから。あたしの一方通行だし、奥さまもご存じだから」
先輩が、ご主人である源一会長に片想いをしていることを、だろう。でも、源一氏はご家族のことをそれはもう大事にする方だったので、残念ながら先輩の想いが彼に伝わることはなかった。
「自分でも不毛な恋だって分かってる。けど別にいいでしょ、あたしが勝手に想ってる分には! 誰にも迷惑かけないし、かけたくないし」
「いや、別にいけないって言ってるわけじゃ……」
半ギレで返された僕はたじろいだ。どうして僕の周りには、こういう強い女性ばかりが寄ってくるんだろうか。ちなみに絢乃さんもそうだと分かるのはだいぶ先のことだが、それはさておき。
「っていうか、なんで桐島くんもあっち見つめてるわけ?」
「え……?」
実は絢乃さんのことを見つめていたのだと、先輩にバレてしまった。
「ははーん? さてはおぬし、絢乃さんに気があるな?」
「……………………」
〝おぬし〟って、アナタは一体いつの時代の人ですか? これは明らかにからかわれているのだと分かっていたので、あえて口に出してはツッコまなかったが。
「その顔は図星ね? まぁ、気持ちは分かんなくもないかな。絢乃さんって純粋だし。清らかっていうか、天使みたいな女の子だもん。あたしとか日比野さんとは大違い」
「先輩……、それ俺にとっては地雷ですから」
僕は小川先輩に釘を刺した。ちなみに、僕と日比野との一件は秘書室でもかなり有名だったらしい。
「分かってるってば。もう忘れなよ、あんなコのことなんか。気にするってことは、まだ引きずってるからなんじゃないの?」
「そ……、そんなことないですよ」
またもや地雷を踏まれた。否定はしたが、完全な否定になっていたかどうかは怪しい。
「まぁ、それはともかく。あたしも会長がいらっしゃる手前、大きな声では言えないんだけど。桐島くんと絢乃さん、けっこうお似合いなんじゃないかなーって思ってる」
「そうですかね? 俺と彼女じゃ八歳くらい年の差ありますよ? っていうか彼女まだ未成年じゃないですか」
A型という血液型ゆえか、周囲から「真面目だ」と認識されている僕はついつい気にしてしまうのだった。
実際、年の差カップルとか二十代の彼氏がいる十代の女の子なんて、世の中にごまんといるはずだ。だから僕と絢乃さんくらいの年の差なら特にあり得ないということもないはずなのだが。
「というか、選ぶのは俺じゃなくて絢乃さんですから」
「まぁ、そうなんだけどねー。期待くらいはしてもいいんじゃないの? 可能性がゼロじゃない以上は」
「…………俺、女性に期待するのはもうやめたんですよ。また裏切られるのはイヤなんで」
柄にもなく、先輩にまで食ってかかってしまったが、悲しいかなそれが本音だった。
それに、絢乃さんクラスの女性になら言い寄ってくる男も大勢いるだろう。それこそ僕みたいにごく平凡なサリーマンなんかじゃなく、青年実業家とか、どこかの御曹司とか。……とか考えていたら、その御曹司を選んで寿退社した誰かさんを思い出してムカムカした。
* * * *
――会場に異変が起きたのは、そのすぐ後のことだった。
源一会長が突然立ち上がれなくなり、絢乃さんと加奈子さんが必死に呼びかけている声が僕の耳にも届き、これは一大事だと察した。
会長がご病気かもしれないというウワサはすでに社内でも広まっていたが、それはかなり悪化していたらしい。どうしてこうなってしまう前に、誰も気づいて差し上げなかったのだろう。
本当は僕も駆け寄って絢乃さんに何かして差し上げたかったが、まだお互いに目礼を交わしただけの僕が出しゃばるのは差し出がましいと思い、遠慮した。
でも会長秘書の小川先輩なら、こういう時は真っ先に駆け寄って行くはずだ。そう思ったのだが、先輩はその場から動こうとしなかった。
「……先輩、行かなくていいんですか? 会長が――」
「分かってるよ。でも、……あたしが言ったところで何もできないし」
悲しそうに弁解する彼女を見て、僕も理解した。先輩もまた、あの親子に気を遣っているのだと。
加奈子夫人は彼女の気持ちをご存じかもしれないが、絢乃さんはどうか。高校生ということはまだ思春期で多感な時期だ。たとえ不倫関係ではなくても、自分の父親に叶わない恋心を抱いている女性がいるということを、彼女はどう捉えるのか。――それを先輩は気にしていたのだ。
そうこうしている間に加奈子さんが迎えの車を呼び、会長は加奈子さんと、会場に現れた運転手と思しきロマンスグレーの男性に体を支えられて会場から退出していった。
そのまま会場に残った絢乃さんは、困惑する招待客への対応に追われて大変そうだった。父親が倒れて、彼女自身も相当ショックを受けていたはずなのに、それでも気丈に対応していた彼女はものすごく健気だった。
――ところが、彼女もまたテーブル席へ戻る途中で軽い目眩を起こしてしまい、倒れかけた。やっぱり父親が倒れたショックは大きかったようだ。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
この時、僕の体は迅速に動いた。決して計算ずくなんかじゃなく、気がついたら勝手に動いていたのだ。彼女が倒れる寸前で、どうにか駆け寄って支えることができた。
僕と目が合った絢乃さんは、その刹那に自分を助けたのが、先刻目礼を交わした相手だと気がついたようだ。
彼女はお礼の一言と、「ちょっとクラッときただけだから大丈夫」と僕を安心させるように言った。
僕は彼女に少し休んだ方がいいと提案し、元いたというテーブル席へとお連れした。何か召し上がったか訊ねると、お父さまが倒れられる前にいっぱい食べた、という答え。
もしかしたらストレスによって、一時的な低血糖を起こしているかもしれない。もし違っていたとしても、甘いものを食べれば気持ちは落ち着かれるんじゃないだろうかと僕は考えた。……というか、僕もデザートがほしくなっただけなのだが。
というわけで、僕は絢乃さんのために(ついでに自分の分も)スイーツと飲み物をもらってくることにした。「申し訳ない」と言う彼女に気を遣わせないよう、「自分も食べたかっただけだから」と付け加えることも忘れずに言い、彼女を席に残して一人ビュッフェコーナーへ向かった。
「……あ、しまった。まだ絢乃さんに名乗ってなかったな」
二人分のデザートとドリンクを選ぶ間(彼女は「オレンジジュースがいい」と言っていた)、僕は独りごちた。僕の言動を、彼女に怪しまれただろうか? ……というか。
「俺がスイーツ男子だってこと、絢乃さんにバレたかもしんない」
大のオトナの男が甘いもの好きなんて、ダサいと思われたかもしれない。……と僕はひとりで勝手に落ち込んでいた。
とはいえ、落ち込んでいても始まらない。もしかしたら、かえって彼女に好印象を持たれたかもしれないじゃないか! と気持ちを切り替え、二枚のデザート皿に小ぶりにカットされたケーキを四種類ずつ取り分け、彼女のオレンジジュースと僕が飲むアイスコーヒーのグラスを皿と一緒に借りたトレーに載せて、僕は彼女の待つテーブル席へと戻ったのだった。
決意
1
――絢乃さんの元へ戻る途中、小川先輩に声をかけられた。
「桐島くん、あたしもう帰るね。あなたはどうするの?」
「俺、加奈子さんから頼まれたんですよ。絢乃さんをお宅まで送ってきてほしいって。なんで残ります。……絢乃さんもさっき目眩起こされたみたいで、ちょっと心配なんで」
「そっか。――で、そのトレーはそれと何の関係が?」
先輩から指摘された僕はハッとした。トレーに載った二人分のスイーツとドリンク、これをどう言い訳しよう?
「これは……、えーっと。絢乃さんに召し上がってもらおうかと思って。俺もついでにご相伴にあずかろうかなー、なんて。アハハ……」
「……………………ふーん。まぁいいんじゃない? 絢乃さんにダサいって思われなきゃいいけど」
「…………はい」
先輩は白けたような視線を僕に投げてよこした後、興味を失ったようにコメントした。彼女は昔から僕がスイーツ男子だということをよく知っているので、こうして僕のことをよくいじってくるのだ。僕ももう慣れた。
「とにかく、あたしは帰るわ。絢乃さんによろしく」
「はい。お疲れさまでした」
――そうしてテーブルまで戻ると、絢乃さんはスマホでメッセージアプリの画面を見ながら眉をひそめていた。お父さまの様子が心配で仕方なかったのだろう。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
ケーキの皿と飲み物のグラスをテーブルに置くと、僕はお礼を言って受け取った絢乃さんから名前を訊ねられた。どうやら彼女の方も、僕に名前を訊きそびれていたことを気にされていたようだ。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
僕はアイスコーヒーを一口飲むと、彼女に自己紹介をした。所属部署や、課長の代理だったことまで言う必要はあっただろうか? というのは頭をもたげるポイントだが。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
心優しい絢乃さんは、その「言う必要のなかった情報」から僕のことを気遣って下さった。
そんな彼女に、僕は事情を話した。他に引き受けてくれる人もいなかったので、課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかった、と。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
眉をひそめて問うてきた彼女に、僕はその事実をあっさりと肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
つい調子に乗って本音がポロッとこぼれてしまった僕は、絢乃さんから不思議そうな顔で見られて我に返った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
慌ててそこを強調すると、絢乃さんは「あなたがそんな人じゃないことは見ただけで分かる」と言って、声を出して笑ってくれた。「そんなに必死に否定しなくても」とも言われたが、自分ではそんなにムキになっていたつもりはなかったんだけどな……。
そして彼女は僕に、自分の名前を知っているのは加奈子さんから聞いたからかと訊ねた。僕がそのことを認め、彼女が高校二年生だということも聞いたと答えると、うんうんと頷いていた。どうやら、やっぱり彼女は僕がお母さまと話しているところを見かけていたらしい。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
疑問が解決したらしい絢乃さんは美味しそうにケーキを食べ始め、顔を綻ばせる彼女を見ていると、その可愛さに僕の心もほっこりした。
絢乃さんは感情表現が豊かな女性のようで、思っていることがすぐ表情にあらわれるところも可愛いなと思ったし、今でも思っている。
「本当ですねぇ」
僕もフォークが進み、そのまままったりとした空気が流れそうだった。が、絢乃さんにとってはお父さまが倒れられたすぐ後なのだ。心の癒やしにはなったかもしれないが、いつまでも二人で和んでいる場合じゃなかった。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
この穏やかな空気をブチ壊すのは申し訳ないと思いつつも、僕は現実的な問題を口にした。何より、絢乃さんご自身が気になっていることだと思ったからだ。
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにメッセージ送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
彼女は心配そうに眉尻を下げ、そう答えた。ケーキの甘さにも、彼女の心配を取り除く効果まではなかったようだ。
そして、テーブルに戻った時に彼女がメッセージアプリの画面を見ながら顔を曇らせていたのはそのせいだったのかと僕は理解した。
「そうですか……。実は社内でも以前からウワサされてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
僕は会場で小川先輩と話していたことを、絢乃さんにも伝えた。その時も絢乃さんはショックを受けているようだったが、僕はそんな彼女に、もっと残酷なことを告げなければならなかった。
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」
「はい?」
彼女は表情を固くしたまま首を傾げた。でも頭のいい人だから、僕が何を言おうとしているか察してはいたのかもしれない。
「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」
この宣告を聞いた時、絢乃さんは一瞬泣きそうな顔をしたが、僕にひとかけらの悪意もなく、お父さまを気遣って言ったことなのだと分ってもらえたようだ。すぐに気を取り直し、フォークを持ったまま眉根にシワを寄せた。
「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」
そうだろうな、そうなるよなぁと僕は思った。加奈子さんもおっしゃっていたからだ。「ウチの夫は病院に行きたがらない。だからといって、犬じゃあるまいし、リードをつけて無理矢理引っぱって行くわけにもいかない」と。
絢乃さんから病院での受診を勧められたとて、ヘソを曲げられて彼女が災難を被る可能性がゼロだとは言い切れなかった。もしかしたら、言い出しっぺの僕にも火の粉が降りかかるかもしれない。
「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」
彼女はそんな僕の心配も読み取ったのか、お父さまの説得を頑張ってみると言って下さった。
「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」
僕のこの言葉は決して謙遜なんかじゃなかった。僕たち社員一人一人に家族のように温かく接して下さるボスの体調を心配するのは、ごく当たり前のことだと思っていたからだ。
それに柄にもなく、想いを寄せる絢乃さんにいいところを見せたいという僕の欲というか、浅ましさもあったように思う。
2
――それから三十分ほど、僕と絢乃さんは美味しいケーキを食べながら他愛ない話をしていた。
「――ねぇ、桐島さん。こういう個人的なパーティーを会社の経費でやるのってムダだと思わない?」
お父さまのお誕生日祝いだというのに、絢乃さんの感想は率直で辛口だった。
「どう……なんですかね? 僕はそんなこと、気にしたことありませんでしたけど」
僕も素直に答えた。社会人になってから毎年、ずっと当たり前のように行われてきたので、僕も何となく「そういうものなのか」と当然のことのように受け入れていたのだが、当たり前ではなかったのだろうか?
「このお祝いの会ってね、元々は有志の人たちがお金を出し合ってやってたらしいの。それがいつの間にかこんなに大げさなことになっちゃって、しまいには貴方みたいなパワハラの被害者まで出ちゃう事態になっちゃってるんだよね」
「へぇ……、そうなんですか。知りませんでした」
実は本当に初耳だった。有志のメンバーだけで始めたお祝いの会がここまで大規模なものになるくらい、源一会長は人望に厚い人だったということだろう。役員になる前も営業部のエースと言われていたらしいし(これは小川先輩からの情報だ)。
「だからね、わたしが将来会長になった時は、思い切って廃止しちゃおうかなぁって思ってるの」
「……そうなんですか?」
「うん。わたし、大勢の人から大げさに誕生日祝ってもらうの、あんまり好きじゃないから。『おめでとう』の一言だけ言ってもらえれば十分。プレゼントは……まぁ、もらえるものなら嬉しいかな」
「なるほど……」
この時の僕は、その方がいいだろうなと思う程度だった。まさか、それがあんなにすぐ現実になるとは思ってもみなかったからだ。
「……桐島さん、ケーキ美味しそうに食べるねー。わたし、スイーツ好きの男の人って好きだよ」
「…………えっ? そ、そうですか?」
絢乃さんから天使の微笑みでそう言われた僕は、思わずドギマギした。
「うん。なんか親しみ持てる。お酒ガバガバ飲む人よりずっといいよ」
「はぁ、それはどうも……」
僕はどうリアクションしていいか困った。これは褒められているのだろうし、絢乃さんが好意的に僕を見て下さっていることは分らなかったわけじゃない。
でも、日比野のことがあったせいか、つい勘ぐってしまうようになっていたのだ。女性が何気なく言った言葉の裏に、何かあるのではないかと。
だからハッキリ言って、この時は絢乃さんの言葉も信じられなかった。彼女は裏表のないまっすぐな女性なのに――。
――と、そうこうしている間に時刻は夜八時半。絢乃さんのスマホにメッセージの受信があった。テーブルの上にカバーを開いた状態で置かれていたので、僕もチラリと画面を覗き込むと、どうやら加奈子さんに送ったメッセージの返信らしいと分ったのだが……。
〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉
という最初のメッセージだけは読み取れた。が、二つ目のメッセージが届いた途端、絢乃さんは「えっ!?」という声を上げて慌ててスマホを持ち上げ、僕の目に入らないようにしてしまった。画面を二度見していたが、何か僕に読まれるとマズいことでも書かれていたのだろうか?
「絢乃さん、どうかされました?」
「ううん、別にっ!」
僕が首を傾げて訊ねると、彼女は思いっきりブンブンと首を横に振ってごまかした。短く返信した後ですぐにスマホはクラッチバッグの中にしまわれてしまったので(これはダジャレではない)、その時は絢乃さんの慌てた理由を知ることができなかったが、彼女の首元まで真っ赤に染まっていたのは何か関係があるのだろうか。
絢乃さんは「そろそろお母さまからの任務を果たしてくる」と言って席を立った。パーティーの閉会の挨拶を頼まれていたのだ。本当は九時ごろ終了の予定だったのだが、主役である源一会長が不在になったので閉会時刻を早める決断をしたのだろう。
「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」
絢乃さんのグラスは空っぽになっていたので、挨拶を終えて喉がカラカラになって戻るであろう彼女のために僕は再びドリンクバーへ行っておくことにした。
「ありがとう」
彼女はステージの壇上で篠沢家の次期当主、そしてグループの跡継ぎらしく堂々と挨拶をして、やりきったという表情でテーブルへ戻ってきた。ように僕には見えた。
「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」
「うん。ありがとう」
オレンジジュースのお代わりを美味しそうに飲む彼女を見ながら、僕もそろそろ加奈子さんからのミッションを果たさねばと思った。
「……ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」
ちょうどいいタイミングで、絢乃さんの方からその話題を振ってきた。……なるほど、彼女が僕に見せたがらなかったお母さまからの二つ目の返信には、そのことが書かれていたのだ。
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」
「そうだよね……」
源一会長が倒れられたのは、加奈子さんにとっても想定外の事態だったはずだ。彼女はただ、可愛い一人娘である絢乃さんと僕の間に接点を持たせたかっただけなのだから。
「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」
絢乃さんは、僕がパーティーの間にアルコール類を口にしていなかったことをそう解釈した。実際はそれほどアルコールに強くないのだが、マイカー通勤をしていることも事実なのでこう答えた。
「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」
「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」
彼女は僕に家まで送ってもらえることが嬉しそうだった。だがひとつ、僕には心配なことがあった。彼女に乗ってもらうクルマがそこそこボロい中古の軽だったということだ。
父は国産メーカーながらセダンに乗っているので、そっちを借りてきた方が格好もついたかなぁ。そろそろ車検にも引っかかりそうだし、僕もセダンに買い換えようかな。……そう思ったのもその頃だったと記憶している。
「はい。……僕のクルマ、軽自動車なんですけどよろしいですか?」
「うん、大丈夫。よろしくお願いします」
彼女の返事を聞いて、僕はホッとした。軽に乗っている男を見下す女性も多い中、絢乃さんは違うのだと分って嬉しかったのだ。
でも、今度買うクルマは絶対にセダンの新車にしようという決意は揺るがなかった。
僕はそこで、パーティーのために戻ってきた時、自分のビジネスバッグをロッカーに置いてきたことを思い出した。ロッカーは鍵がかけられるし、どうせ財布に大した金額は入っていなかったので盗られる心配もなかったのだ。
「では、少しこちらで待っていて頂けますか? ロッカールームからカバンを取ってきますので」
「分かった」
テーブル席で美味しそうにジュースを飲み干す絢乃さんをその場に残し、僕はエレベーターで総務課のロッカールームがある三十階へと上がっていった。
3
「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」
僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。
「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」
彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。
「えっ、助手席……ですか?」
「うん。ダメ、かな? お願い」
その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。
「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」
「やったぁ♪ ありがとう!」
子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。
「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」
「うん。じゃあ失礼しまーす」
彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。
初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問だ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。
「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」
「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」
「そうですね」
スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせと言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。
僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。
「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」
「なるほど。確かに、こういう爽やかな香りなら品があっていいですよね。僕も好きです」
逆に、どキツいセクシー系の香水は清楚な絢乃さんに似合わない気がする。お嬢さまだから、というわけでもないだろうが。
「――ところで、このクルマってお家の人から借りてるの? それともレンタカー?」
無邪気に問うてきた絢乃さんに、僕は「いえ、自前ですよ」と答えた。というか、こんなボロいクルマを貸し出しているレンタカー店なんてあるだろうか。
「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」
彼女は僕の返事を聞いて、目を丸くした。その眼差しは「サラリーマンの分際で背伸びしちゃって」というバカにしたものではなく、「自前なんだ、スゴいなぁ」という尊敬の念がこもっているように僕には感じられた。
「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」
僕は彼女のために安全運転を心がけながら、少し謙遜もこめてそう答えた。でも走行距離はかなり行っていたし、車検をクリアできそうになかったことも事実だ。
「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」
「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金でというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」
「そっか……。大変だね」
意気込んで決意を語った僕に、絢乃さんはそんなコメントをした。
僕は同情されるのがあまり好きではないのだが、何故か彼女に同情的なことを言われるとイヤな気持ちがしなかった。それは彼女が決してお高くとまっていなくて、その言葉の端に彼女の優しさが滲んでいたからだ。
幸いにも僕には大金をつぎ込むような趣味はないし、篠沢商事は月収が高いので貯金の額もそれなりにあった。クルマの維持費やアパートの家賃(十二万円)と光熱費やら生活費やらを引いても月に五万円くらいは貯金に回せたのだ。
とはいえ、初対面の女性にお金の話をするのも野暮なので、絢乃さんにその話はしなかった。
「――ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」
その代わりに、再度そう訊ねてみると。
「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」
という無邪気な答えが返ってきた。僕にはちょっとばかり意外な返答だったので正直驚いたが、彼女のような育ちの女性なら、クルマに乗る時は後部座席というのがデフォルトなのだろう。
つまり、この夜が彼女にとっての助手席デビューということだ。もっと上等なクルマならなおよかったのだろうが、それは言わないでおこう。
「そうですか……。それは身に余る光栄です」
「え? 何が?」
思わずポツリと洩らした言葉に、絢乃さんが反応して顔を上げた。独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。
「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」
可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は誇らしい気持ちと照れ臭さ半々でそう答えた。
その後、僕は絢乃さんに自分の家族の職業や、実家近くのアパートでひとり暮らしをしていることなどを話した。
父が銀行員をしていること、母が結婚前には保育士として働いていたことにも彼女は感心されていたが、もっともリアクションが大きかったのは四歳上の兄・悠が将来自分の店をオープンさせるべく、飲食チェーンで正社員としてバリバリ働いていることだった。僕としてはちょっと面白くなかったというか、正直兄にジェラシーさえ感じていた。
「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」
と興味津々で問うてきた彼女に、大人げなく「余計なお世話だ」とも思った。放っといて頂きたい。
「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」
多分、ぶっきらぼうに答えた僕の顔にもその感情は表れていたかもしれない。絢乃さんも少々不満げだったが、もしも「昔はバリスタになりたかったのだ」と僕の夢を語っても関心を持って下さっていたのだろうか。
でも、そうなると「どうして諦めたのか」と詮索されるのもイヤだったし……。
ちなみに、彼女は今もそのことについて詮索してこない。「この会社で本当にやりたい仕事はなかったの?」と訊かれたことはあっても。
そして、このセリフはウソだが半分は僕の本心である。その当時、総務課の仕事に満足していたかといえば不満だった。総務課に配属されたことは不本意だったし、島谷氏が課長になってからは毎日不満タラタラだった。
それでも退職せず必死に会社にかじりついていた理由は、篠沢商事の平均月給が他に受けた会社よりずっと高く、福利厚生も充実していたからだ。ここを辞めたら、こんなにいい給料がもらえて待遇もいい会社にいつ恵まれるか分からなかった。
それよりも、僕にはその時、気がかりなことがあった。もし源一会長がお亡くなりになったら、この会社やグループ全体の経営方針はどうなってしまうのか、と。
篠沢グループの各社がこんなに優良ホワイト企業でいられるのが(中にはブラックな部署もありそうだが……)、源一会長の経営手腕のたまものだったのだとしたら、後継者次第で変わってしまう可能性もあった。
そして……、彼の後継者になり得るのは加奈子さんと絢乃さんだけだった。他の親族に候補者がいなければ。
4
「――そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」
僕の訊ね方のせいか、絢乃さんはちょっと戸惑いながら「うん……別にいいけど」と答えた。僕にはそんなつもりはなかったのだが……、ちょっと反省。
「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」
彼女にお父さまの死を意識させないよう、あえて言葉を選び、オブラートに包んだ質問のしかたをした。でも、そんな僕の気遣いを察して下さったようで、彼女は不愉快な様子もなく少し考えてから答えて下さった。
「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」
絢乃さんの祖父が会長職を引退された時、加奈子さんも後継者の候補に入っていたらしいという話は僕の耳にも入っていた。その当時、僕はまだ入社前だったので、聞かされたのは入社後に小川先輩からだったが。
加奈子さんも一人娘だったため、親族たちは加奈子さんが継がれるものだと思っていたらしい。が、彼女は教師という職を捨てる気がなく、彼女の婿だった源一氏が後継者となったのだという。
それでも、加奈子さんが「篠沢家」という経営者一族の現当主であることに違いはなく、経営に関わらずともその権力は絶大だった。教師としての威厳もプラスされていたのだろう。
絢乃さんの祖父がこの世を去られたのは、それから一年ほど後のことだった。引退を決意されたのも、心臓を悪くされていた奥さまに先立たれ、体調を崩されたからだそうだ。
ただ、そんな彼女ではなく入り婿の源一氏が会長に就任したことに、親族たちからの強い反発もあったようで。
「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉めることにならなきゃいいんだけど」
ウンザリとジャケットの襟元をいじりながらそう言った絢乃さんに、僕も同感だった。
資産家の一族による後継者問題、いわゆる〝お家騒動〟というものは古今東西どこにも存在する。小説や映画、TVの二時間ドラマのテーマとして扱われることも多々あるが、こんな身近なところにまで転がっているとは(失礼!)思ってもみなかった。
「名門一族って、どこも大変なんですね……」
「うん……、ホントに」
彼女の頷きには、ものすごく実感がこもっていた。そりゃそうだろう。彼女は間もなく、その〝お家騒動〟のド真ん中に放り込まれるのだから。
だからこそ、僕はそんな彼女の力になりたいとこの時心に誓ったのだ。そのためには、もっと彼女のために動きやすい部署に異動しなければ――。
それよりも、この時の僕は彼女の表情が冴えないことが気になった。お父さまが倒れてすぐだったので仕方のないことだが、僕はできることなら、大好きな彼女に笑顔でいてほしかった。
「――絢乃さん、一人っ子だとおっしゃってましたよね? ご結婚される時はどうなるんですか?」
なので、唐突にそんな質問をブッかましてみた。もちろん彼女に笑ってもらうための冗談だったが、彼女は一瞬ポカンとなった後、真剣に答えて下さった。
「やっぱり、相手に婿入りしてもらうことになるんじゃないかなぁ。パパの時みたいに」
「じゃあ……、僕もその候補に入れて頂くことは可能ですか?」
これは半分、僕の本心からの願望でもあった。が、絢乃さんが変に気を遣わないよう表向きはこれも冗談ということにした。
「…………えっ!? ……うん、多分……大丈夫だと思うけど」
彼女は戸惑いながらもそう答えてくれた。が、正直僕はこれも彼女の社交辞令ではないかと内心疑っていた。彼女は優しい人だから、僕に「無理だ」とは言えない、と思ったのではないかと。
彼女のような良家のご令嬢に、僕のような家柄も収入も平凡な(「年収が平凡」ってどんなんだ)男は釣り合わないと思っていた。お似合いの相手はもっといい家柄で、高収入で、僕よりイケメンなどこかの御曹司のはず(……ってこんな歌詞、何かの歌で聴いたことあったな)。
なので、僕は「冗談ですからお気になさらず」と言って肩をすくめたのだが、彼女が満更でもなさそうだったのは気のせいだろうか? いや、待て待て、俺。期待したってまた裏切られるだけだぞ。
――その後、恵比寿のあたりで絢乃さんのスマホに加奈子さんから電話がかかり、それを終えた彼女と不意に目が合った。
ちょっとドキドキしながら「何ですか」と訊ねると、彼女は僕にお母さまと彼女自身の「ありがとう」を言った。
「いえ……」
お礼を言われるようなことは何もしていないつもりだった。ひとりパーティー会場に残されて心細い思いをしていた十代の女の子に寄り添ってあげたいというのは、一人の大人として当然の行動だったし、ぶっちゃけて言えば自分でも認めがたい下心のようなものもあった。
でも、彼女はそんな僕の一連の言動を厚意だと受け取ってくれたらしい。彼女の純粋すぎる性格に感動しつつも、彼女はもし他の男に同じようなことをされたらコロッと騙されそうだなと心配にもなった。
――もうすぐ自由が丘。絢乃さんの家に着いてしまう。彼女との楽しかった時間ももうすぐ終わり、僕はまた課長にこき使われる現実に戻ってしまう。まるで童話のシンデレラのように、魔法が解けてしまうのだ――。
……俺はこのまま、何のアクションも起こさずに彼女との接点を失ってしまうのか? 元々はセレブ一家に生まれ育った彼女と、普通よりちょっとばかりいい家に育った僕とでは住む世界が違った。この夜の出会いは、奇跡のようなものだったのだ(だからといって、僕にこの出会いをもたらした島谷氏に感謝する筋合いはなかったのだが)。
だからせめて、彼女と連絡先の交換くらいはしておかなくては。源一会長の病状も気になっていたし、情報交換のためにもそれくらいは許されるはずだ。……彼女がそれに快く応じて下さるかどうかは別として。
絢乃さんをクルマから降ろしたら、僕の方から切り出そうと思っていた。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいね」
「うん、ありがとう。――あ、桐島さん。あの…………」
でもなかなか言い出せず、半ば「もう無理だ」と諦めながら運転席に戻ろうとしていると、彼女の方から引き留められた。
「連絡先……、交換してもらえないかな…………なんて」
まさかの展開に気持ちが逸り、僕は食いぎみに「いいですよ」と答えてしまった。期待していたと思われたらどうしよう? 彼女、引くかもしれない……。
でも、そんな僕の心配は杞憂だったようで、彼女は嬉しそうにスマホを取り出して僕との連絡先交換を済ませてしまった。
絢乃さんはその後も「ウチでお茶でも」と誘って下さったが、「明日も仕事があるので失礼します」とお断りした。これ以上期待してはいけない、裏切られた時のダメージが大きいから。
それなのに、僕は「連絡、お待ちしています」とポロッと言ってしまった。それは、お茶を断られた彼女が落胆しているように見えたからだ。でも、この言葉にはうろたえながらも嬉しそうに頷いて下さった。
クルマに乗り込んだ僕は、しばらくシートの上でスマホを見つめていた。――もう女性を信用しないと決めた。けれど。
「もう一度、信じてみようかな……。せめて絢乃さんのことは」
初々しく頬を染めながら、嬉しそうに僕とアドレスを交換してくれた彼女にはそれだけの価値があるのかもしれない、と僕は思ったのだった。
前を向け!
1
――僕はその後、アパート近くのコンビニに寄って夜食用のパン買い込んだ。この店は実家からも近く、僕が子供の頃からよく利用していた。
「――はい、五百四十円ね。貢くん、アンタたまにはもっと栄養のあるもの食べなさいよ?」
店員のおばちゃんが、レジで会計をしていた僕にまるで母親のようなことを言った。ちなみに彼女は、家族経営をしていたこの店の店長の奥さんだった。
「実家のご両親とかお兄ちゃん、心配してるんじゃないの?」
「おばちゃん、実家には毎週末帰ってますよ。今日はもう夕飯済ませてきたから、軽く夜食で食べとこうと思っただけです」
「そうなの? だったらいいんだけど……。はい、千円お預かりで四百六十円のお返しね」
「……どうも」
「アンタ、早くお嫁さんもらいなさいよ? いつまでも実家やお兄ちゃんアテにしてたら、いつまで経っても自立しないわよ」
「それ言うなら兄貴の方が先だと思いますけど」
余計なお世話だ、とばかりに僕は反論した。この当時で兄はすでにアラサーだった。が、兄に恋人がいると知ったのはその四ヶ月ほど後のことだった。ちなみにその彼女は、今兄嫁である。
「まぁ、そうよねぇ。ゴメンねぇ、おばちゃん余計なこと言っちゃったわね。はい、ありがとう」
会計の済んだカレーパンとクリームパン、そして五〇〇ミリペットボトルのカフェラテを有料のレジ袋に入れてもらい、僕はコンビニを出た。
* * * *
「――ただいま」
アパート二階のいちばん奥にあるドアを開けると、僕は誰もいない(ひとり暮らしなんだから当たり前なのだが、家族全員がこの部屋の合鍵を持っているため誰かが来ている可能性もあった)部屋の玄関でくたびれた革靴を脱いだ。
篠沢家の大豪邸を外から眺めた後なので、風呂とトイレが一体になったユニットバス付きの1Kの部屋がものすごくちっぽけに見え、絢乃さんとの格差をイヤでも思い出させられた。でも社会に出てからその当時で二年半、ずっと暮らしてきた住まいでもあったので、愛着がまったくないというわけでもなかった。
ベージュのラグを敷いたフローリングの床に通勤用のカバンを置くと、とりあえず着ていたジャケットを脱いでベッドの上に放り投げ、ネクタイを緩めた。もちろんそのままほっぽり出しておくわけがなく、後からスーツは一式まとめてハンガーにかけるつもりだった。
「あー、腹減った。いただきます」
ポリ袋から買ってきたパン類とカフェラテを出して座卓の上に置き、まずはカレーパンの封を開けてかぶりついた。
ラテの甘さでカレーの辛さを中和しつつモグモグやっていると、座卓の上に出してあったスマホが鳴り出した。
「…………ぅおっ、絢乃さんから電話!? マジか!」
画面に表示された発信者の名前を見た途端、僕は喉を詰まらせそうになった。そして、自分の口がまだモゴモゴしていることを思い出し、パニックになった。
咀嚼中に電話に出るのは失礼にあたるが、早く出ないと切られてしまう! ……いや、僕からかけ直せばよかっただけの話なのだが、いかんせん冷静さを欠いていた僕はそんなことさえ思い至らなかった。
「――はい、桐島です」
とにかく出ねば、と通話ボタンをスワイプし、まだ若干モゴモゴしている状態で応答した。 絢乃さん、怒るだろうな……と不安だったので、声は少々震えていたかもしれない。
『……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?』
カンの鋭い彼女にはすぐに見抜かれてしまったが、その声からはお怒りの様子も呆れられている様子も感じられなかった。むしろ笑うのを必死でこらえられている、という感じがしたのは僕の気のせいか? 僕が無事に帰れたことにホッとされていたからだろうか。
「ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから」
バカヤロー、俺。何を食べてたかなんていちいち報告する必要ないだろ。絢乃さんとは初対面だったのに、気を許しすぎだ。
……と心の中でセルフツッコミを入れていると、彼女は笑いながら「ああ、そうなんだね」と言った。めちゃめちゃ笑われてるじゃん、俺。
『――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの』
ひとりで勝手にヘコんでいると、次の瞬間彼女の声のトーンが真剣なものに変わった。僕は「そうですか」と相槌を打ってから、もういい加減モゴモゴをやめなきゃいけないと思い、「ちょっと待って下さいね」と彼女に言い置いて急いで口に残っていたものをカフェラテで流し込んだ。
「――で、どうでした?」
早く話の続きが聞きたくて、僕はそう訊ねた。果たして彼女は、お父さまを説得することに成功したのか。……まぁ、おっかない夫人も一緒に説得を試みただろうし、源一氏が子煩悩だというのは有名な話だったので、うまくいかなかったとは考えにくかったが。
『明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって』
するとやっぱり、説得には成功されたと思しき返事が返ってきて、その声の明るさに僕もとりあえずホッとした。
それにしても、ご友人にドクターがいらっしゃるなんて源一会長は環境に恵まれている。医者に診てもらうにしても、まったく見ず知らずのドクターが相手よりは知人のドクターが担当になってくれる方がハードルがグンと低くなるだろう。
「そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった」
『うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?』
絢乃さんはまず第一関門を突破できたことに安心されたようで、次に僕が助言したことについてお父さまに話した方がよかったのか否かを確かめられた。心優しい彼女はきっと、説得がうまくいかなくてお父さまがご機嫌を損なわれた場合に僕がとばっちりを受けないよう、あえてそのことを伝えなかったのだと思う。
「いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです」
あのパーティー会場で、僕が源一会長と直接言葉を交わすことはなかったが、彼の方は僕の顔を物珍しげにチラチラとご覧になっていたような気がする。「あれ、あんなに若い社員が来ているなんて珍しいな」という感じだったのだろう(ちなみに、会社では接点があった)。
そのことを伝えると、絢乃さんはお父さまの並外れた記憶力に驚愕されていた。
「――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?」
僕がそう訊ねると、彼女は「パパのことはママに任せて、わたしは学校に行くことにした」と答えられた。お友だちに心配をかけたくないし、自分が一緒に行ってもかえって両親に気を遣わせるだけだから、と。まだ十七歳なのに、こういう時の判断がしっかりできるなんてスゴい人だなと思った。
彼女はどうやら入浴前だったようで、電話口から微かに水音も聞こえていた。もしや、室内にバスルームまで完備されているのか……!?
「お風呂に入るところだったから」と通話を終えようとしていた彼女に、湯冷めしないよう諭してから僕は電話が切れるのを待った。
――彼女は何度も僕に「ありがとう」を言っていた。けれど、〝ありがとう〟を言いたいのは僕の方だった。
もう一度、女性を信じようという気を起こさせてくれて。そして僕を裏切らないでいてくれて。
「絢乃さん、ありがとうございます……」
僕はスマホを見つめながら、前を向く勇気が湧いてくるのをひしひしと感じていた。
2
――翌朝、僕はトースト一枚と自分で淹れたコーヒーで簡単に朝食を済ませ、いつもどおり出社した。
「――おっす、久保」
「おう。……桐島、なんか今日ご機嫌だな。ゆうべ何かいいことでもあったん?」
総務課のオフィスに入ってすぐ久保に声をかけると、フリードリンクの抹茶ラテを飲んでいた彼がバケモノでも見たような口ぶりで言って首を傾げた。
「俺が機嫌いいとなんか不都合なことがあるのか、お前は」
「うん、なんか気味わるい」
「…………」
僕もフリードリンクのマシンでブレンドコーヒー(微糖・ミルク入り)を紙コップに注ぎながら質問返しをしてやると、ヘラヘラ笑いながらヤツは答えた。
「あっ、ウソ! 冗談だって! 怒んなよぉ、桐島ぁ」
「…………あのなぁ」
ふつふつと怒りがこみ上げ、ものすごい形相で睨むと「冗談だから怒るな」ときたもんだ。
「……それはともかく。どうなのよ、桐島? いいことあったのか?」
「別にいいだろ、そんなの何だって。お前には関係ないし」
僕はブスッと答えながら席に戻ってコーヒーをすすり始めたが――。次の瞬間、この男は特大の爆弾を投下しやがった。
「分かった! 会場にものすごい巨乳の可愛いコがいたんだろ!」
「……………………ブホッ!」
僕はその後しばらく盛大にむせ、ゴホゴホやっていたが、落ち着くとツッコミを入れた。
「おまっ、なんでそこで巨乳が出てくるかなぁ? 脈絡なさすぎだろ」
「だってさぁ、巨乳は男のロマンだぜ? 日比野もそうだったじゃん」
「……お前、それ思いっきり地雷踏んじまってるからな?」
僕は思いっきり久保を睨んだ。胸ウンヌンの話はともかく、彼女の名前を僕の前で出すのは自爆するのに等しい行為だとこの男は分かっていないのだろうか?
絢乃さんは巨乳というほどではないが、まぁまぁグラマーな方ではあった。高校生だったにしては発育がいい方ではなかったかと思う。……が。
「だいたい、胸の大きさなんかいちいち気にしてないって、……あ」
僕はうっかり口が滑ってしまい、「やべぇ」と口元を手で押さえた。が、「遅かりし由良之助」。久保にはバッチリ聞かれた後だった。
「〝あ〟? 〝あ〟って何だよ? まさかマジで女の子絡みか?」
ここまでバレてしまっては僕も引っ込みがつかないので、仕方なく久保に絢乃さんとの出来事を白状した。源一会長が倒れられたことは、話そうかどうか迷った。僕から聞き出さなくても、そのうち会社の誰かが話すだろうと思ったのだ。
「…………実はさ、昨夜、絢乃さんと知り合って。帰りは俺がクルマで家まで送っていったんだ。連絡先も交換してもらって」
「へぇー、マジ? つうか『絢乃さん』ってまさか、会長のお嬢さま?」
「そのまさかだよ。んで、絢乃さんの方から『連絡先交換したい』って言われて」
「マジか。ってことはだ、待てよ。……お嬢さまの方もお前のこと気になってんじゃねぇの?」
「やめてくれよ、期待させるようなこと言うの。久保、お前面白がってねぇか?」
僕はプラスチックのホルダーをはめた紙コップをデスクに置き、腕組みをして久保を睨み付けた。コイツには、人のゴシップをイジっては喜ぶという悪いクセがあるようだ。
「いやいや、面白がってなんかいませんよ、オレは。ただ友人としてだな、お前がやっとまた女の子と関わり始めたことが嬉しいってだけで」
「まだ深く関わっていくって決まったわけじゃ……。連絡先交換しただけだぞ」
口ではそう言ったものの、実際には自分がこの先、絢乃さんと深く関わっていくだろうことが分かっていた。お父さまがおそらくは命に関わる重病で、彼女の心はグラついていた。そんな彼女には支えになる存在が必要で、それが僕である可能性はほぼ百パーセントといっても過言ではなかったからだ。
「んでもさぁ、それがキッカケで恋愛に発展して、いずれは逆玉とかもあるんじゃね?」
「別に……、俺は逆玉なんか狙ってないけどさ。絢乃さんのために何かしてあげたいっていうのはホントかもな。だから、このまんまじゃいけないんじゃないかとは思ってる」
「このまんま、っていうと?」
「総務課で、課長にいいように使われたままじゃダメだって。でさ、俺、近々異動しようと思ってるんだ」
「異動? っつうと……、会社ん中で部署だけ別のところに変わるっていう意味か?」
「そう。まだどこの部署に行くか、具体的には何も決めてないんだけどな」
絢乃さんのすぐ近くで、彼女の力になれる部署に異動すると決意こそしたものの、それができる部署が一体どこなのかまでは分かっていなかった。
「そっかそっか。お前もここからいなくなるのか。淋しくなるなー。けどまぁ、その方がいいのかもな。お前はこんなところで燻ってるような男じゃないって、オレ前から思ってたもん。異動先でも頑張れよ」
「おう。サンキューな、久保。俺、もう課長から何言われても怖くねぇわ。これからはイヤなことは『イヤです』ってハッキリ言うよ」
覚悟を決めた人間は強いのだ。じきに別の部署に変わるんだと思えば、あんな人に怯えていた自分がバカみたいに思えてきた。もうヘイコラする必要なんかない。異動前にキッチリ引導を渡してやろうと僕は心に決めた。
* * * *
――「源一会長が重病らしい」という話はその日の午前のうちに会社中に広まり、あの島谷課長でさえ「会長は大丈夫なんだろうか」と心配そうな面持ちをしていた。
もちろん、前日のパーティーに代理で出席していた僕に「昨日はご苦労だった。急に頼んですまなかったな」としおらしい言葉までかけてくれて、僕はある意味「この世の終わりなんじゃないか」と思った。これはもう、天変地異の前触れに違いない。
というわけで、この日は課長の雑用を押し付けられることなく自分のすべき仕事だけに励んだ僕は、昼休み、社員食堂にいた。
「――桐島くん、お疲れさま」
真ん中あたりのテーブルでカツ丼を食べていると、向かいの席に小川先輩が座った。彼女が選んだのは唐揚げ定食らしい。
「お疲れさまです……って先輩! なんでいるんですか!? 今日、会長はお休みですよね?」
「うるさいなぁ。秘書っていうのは、ボスがお休みの時にもやることいっぱいあるんだって」
彼女は僕に顔をしかめつつ、白いご飯をかきこんだ。
「へぇー、そうなんですね。知らなかったな」
同じ社員という立場なのに、秘書という職種のことを僕はあまり知らずにいたのだ。……まぁ、秘書室は人事部の管轄だし、オフィスも重役専用フロアーである最上階に置かれているので、めったに近寄ることもなかったのだが。
「……あ、先輩。実は俺、近々部署を変わろうと思ってるんですけど、秘書室の人員に空きってあったりしますか?」
「えっ、桐島くん、秘書室に来てくれるの? 人員はそりゃもうガラ空きだよ。働き者のあなたが入ってくれるなら百人力だね。あたしから広田室長に話通しといてあげようか?」
「すいません、ありがとうございます」
「いいってことよ☆ あたしと桐島くんの仲じゃない♪ …………ん? 奥さまからメッセージ?」
先輩は食事中にポケットで振動したスマホのメッセージアプリを開き、ニヤリと笑った。
「そんなあなたに、加奈子さまからご指名がかかったよ。絢乃さん、今日早退することになったから、学校まで迎えに行ってあげてほしい、って」
「学校……って、八王子の茗桜女子に? でも、どうして俺が」
「奥さまは奥さまで、お膳立てしてあげたいんじゃないの? ほら、愛しい絢乃さんが待ってるから、行ってらっしゃい。島谷さんには、あたしも一緒に事情を説明してあげるから」
――かくして、僕は会社を抜け出し、絢乃さんが待つ茗桜女子学院までクルマを走らせることとなったのである。
3
――僕に「少しの間だけ仕事を抜けさせてほしい」と告げられた島谷課長は、あからさまに顔色を変えた。「そんなこと、許可するわけがないだろう」と言うだろうと僕は察した。
「――私からもお願いします、島谷さん」
「誰だね、君は」
「会長秘書の、小川と申します。彼は会長の奥さまから急な用件を承ったので、抜けさせてほしいと申し上げてるんです」
この部屋に本来いるべきではない小川先輩に怪訝そうな顔をした島谷氏。でも、先輩はそれに臆することなく堂々と発言していた。……先輩カッコよすぎ。俺、女性不信じゃなかったら絶対惚れてます。
「会長秘書? 会長の奥さまから……」
島谷氏は典型的な中間管理職――つまり「長いものには巻かれろ」主義なので、先輩の〝会長秘書〟という肩書きに明らかにうろたえていた。
「ええ。直接ご指名があったんです。ぜひ彼に、と。もちろん、ダメだとはおっしゃいませんよねぇ? あなたの今後の査定にも響くでしょうし?」
彼女はニッコリ笑って言っているように見えるが、そのニッコリ顔が島谷氏には氷点下の笑顔に見えたらしい、要するに「顔は笑っていても目が笑っていない」というヤツだ。
「お願いします、課長! 用が済み次第、ちゃんと戻ってきますんで!」
「そう言われてもなぁ……」
この人が悩み始めたら、これは長期戦になる可能性大だ。こっちにはそんなことに付き合っているヒマはないのに!
「……桐島くん、絢乃さんをお待たせしちゃいけないから、あなたは行ってきなさい。この人はあたしが説得するから。学校の住所はナビで調べたら分かるよね?」
「先輩、ありがとうございます。じゃあ、ここはお任せしますね。――とにかく、僕行ってきます!」
僕はその場を先輩に任せて、絢乃さんを迎えに八王子まで向かうことにした。
* * * *
クルマのナビは古すぎてアテにならないので、スマホのナビアプリを頼りに茗桜女子学院の門の前までどうにか辿り着いたのは午後一時半すぎ。そこで待っていた絢乃さんは、当然のことながら学校の制服姿で立っていた。
クリーム色のブレザーに、赤の一本ラインが裾に入ったブルーグレーのプリーツスカート、そして胸元には赤いリボン。スカート丈がキッチリ膝丈なのと、黒のハイソックスを穿いているのが誠実な彼女らしい。
前日の大人っぽいドレス姿もよかったが、制服姿はやっぱり可愛いなと思った。……いやいや、これは断じて〝制服萌え〟なんかじゃないぞ。
「――絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」
シルバーの軽自動車から降りた僕を見てなぜか驚いていた絢乃さんに、僕は助手席のドアを開けながら声をかけた。
「桐島さん……? どうして」
困惑している様子の彼女に、小川先輩を通してお母さまからお迎えの依頼があったことを伝えると、彼女は「そう、なんだ」と頷きながらもまだ理解が追いついていないようだった。が、乗車拒否をすることはなく、前日と同じように助手席に乗り込んで下さった。
絢乃さんは車内で何だかソワソワしていて、「迎えに来たのが寺田さんではなく僕でビックリした」と言っていた。前日、パーティー会場まで源一会長を迎えに来ていたロマンスグレーの男性こそが篠沢家のお抱えドライバー・寺田さんだという。もう三十年以上、篠沢家に仕えているのだそうで、彼女は自分の迎えにも彼が来るものだと思っていたらしい。
僕は彼女のことや、彼女のお家に関することなら何でも知りたいと思っていたので、こんな他愛もない話題にもちゃんと相槌を打った。何より、話してくれたということが嬉しかったのだ。
「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」
僕はその一言に、自分の耳を疑った。彼女は僕の迎えが嬉しかったと言ったが、本当なんだろうか? またもや、女性の言葉に裏があるのではと勘ぐってしまう、僕の悲しい性が発動してしまったようだ。でも、彼女自身も自分が言ったことに動揺して赤面していたので、この言葉に裏なんてないのだとすぐに分かったのだが。
彼女は続いて、僕と小川先輩との関係について訊ねられたが、そこから嫉妬のようなものは感じられず、これは好奇心からきた質問だと思われる。
「ただの大学時代の先輩・後輩の関係で、小川先輩には好きな人がいるはずだ」と答えると「小川さんに、好きな人……?」と絢乃さんの興味はそちらに移ったようだった。考え込むような仕草をされていたので、もしかしたら彼女にも分かったのかもしれない。先輩の好きだった相手が、自分のお父さまだったということが。
僕は早く源一会長の病気のことが知りたかったが、絢乃さんはなかなか切り出そうとしなかった。それだけ受けたショックが大きすぎて、気持ちの整理が追いつかなかったのだろうと思い、僕は急かさずにいたのだが――。
「ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」
もしかしたら、自分で切り出す勇気が湧かないので僕からキッカケを作ってもらうのを待っているのかとも思い、とりあえず僕から促してみると、彼女は「ちょっと待って」と呼吸を整えてから口を開いた。
お父さまは末期のガンで、余命三ヶ月だと。
「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」
「…………そう、ですか」
そのまま泣き出した彼女に、僕はそれだけ言うのが精一杯だった。
彼女はきっと、お父さまが余命宣告を受けたことにショックを受けて泣いているのだと思ったが、それは違うとすぐに分かった。泣きながら、「どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか」「どうして自分じゃなかったのか」とご自身を責めていたからだ。
僕はそんな彼女の優しさに心を打たれ、同時に慟哭する彼女の姿に胸が締めつけられる思いだった。でもこういう状況の時、どう慰めていいのか分からず、気の済むまで泣かせてあげることしかできなかった。
しばらく泣き続けた後、彼女はクルマに積んであったボックスティッシュで鼻をかみながら「ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」と真っ赤に泣き腫らした顔を上げた。
健気な彼女に前を向いてほしい。そして、僕自身も前を向かなければ……。そんな想いから、僕は彼女にこんなアドバイスをした。
「お父さまの余命をあと三ヶ月しかないと悲観せず、あと三ヶ月もあると前向きに捉えてみてはどうでしょうか」と。
「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」
実を言うと、こんなに偉そうなことを言ってのけた僕自身が同じ立場になった時、同じように前を向けるかどうか自信がない。他人の僕だから言えたのかもしれない。
でも、絢乃さんはこの無責任な僕の言葉で笑顔を取り戻して下さった。お父さまの三ヶ月という余命だけではなく、僕のアドバイスすら善意として前向きに捉えて下さったのだ。
――篠沢邸の前で「会社に戻らなければ」と言った僕に、絢乃さんはお礼プラス口止め料として五千円札を握らせた。一度は断ろうとしたが、彼女の強い意志に負けて結局は突っ返すことができなかった。
紙幣を握らせた時、重ねられた彼女の手のひらのぬくもりがまだ残っているような気がして、僕は彼女がくれた五千円札を大事な宝物のようにそっと自分の二つ折り財布にしまった。
4
――僕は会社へ戻るクルマの中で、改めて秘書室へ異動する意思を固めた。
「――もしもし、桐島です。小川先輩、今話して大丈夫ですか?」
ハンズフリーでスマホから先輩の携帯に電話をかけると、彼女はすぐに出てくれた。とっくに昼休みは終わっていて仕事中だったはずなのに大丈夫だろうか? と電話した張本人が心配したところで、「お前が言うんかい」という感じだが。
『桐島くん? ――うん、大丈夫だけど。ミッションは完了したの?』
「はい。今戻るところなんですけど。――俺、秘書室に異動しようと思います。で、先輩から人事部の山崎部長に根回ししてもらってもいいですか? ホントは自分で言わないといけないと思うんですけど、事情が事情なんで」
『事情が事情、って。つまり島谷さんからの嫌がらせが原因じゃないってことね?』
時間的に、小川先輩のところにも加奈子さんから連絡が行っているはずだと思い、僕はその「事情」を彼女に話した。
「そうなんです。……先輩のところにも連絡行きました? 会長が末期ガンで、あと三ヶ月しか生きられないらしいって」
『うん、奥さまから電話があったよ。……で?』
「これ、あくまでも最悪の事態を考えておかないと、っていう話で聞いてほしいんですけど。会長が亡くなった後、多分後継者になられるのは絢乃さんだと思うんです。で、俺はその時、秘書として絢乃さんのことを支えたいと思って。……ただ時間があまりないんで、正規の手続きを踏んでたら間に合わないと思うんです。だから……」
これじゃまるで、僕は源一会長が亡くなるのを待っているみたいな言い方だ。でも、僕には全然そんなつもりはなく、あくまで備えとしてそう決めたに過ぎないのだ。
『……分かった。それはあくまで、万が一の時に備えてってことね? で、正規の手順をすっ飛ばして異動したい、と。そういうことなら、あたしも力貸すわ。可愛い後輩の頼みだしね』
「えっ、ホントですか!?」
『うん。山崎部長の秘書の上村さんと親しいから、彼女から部長に話通しといてもらうね。桐島くんとしては早いほうがいいでしょ? 明日……は土曜日か。じゃあ週明けにでも面談セッティングしてもらう?』
「ええ、それで大丈夫です。先輩、あざっす!」
僕は小川先輩にお礼を言った。話の分かる先輩を持てて僕は幸せだ。
――会社に戻れば、またいつもどおりの仕事に追われる。先輩がどの程度島谷氏の説得に成功したのか定かではないが、もしかしたら普段以上に風当たりがキツくなるかもしれない。が、異動の意志を固めたことで、正直そんなことはどうでもよくなっていた。
「――ところで先輩、課長の説得ってどうなりました?」
『ふっふっふ、あたしを誰だと思ってるの? 「今後の出世に響きますよー」って言ったら、あの人真っ青になってた。チョロいもんだわ♪』
「…………先輩、それって〝脅迫〟とか言いません?」
嬉々として語った彼女に、僕は頭が痛くなった。うまく説得してくれたのは非常にありがたいのだが、少々やり過ぎな気もする。
会長秘書はいわば会長の執務を代行する立場にいて、その発言力や影響力も会長のそれとほぼ等しいのだ。ヘタをすれば、パワハラに該当しかねない。……まぁ、相手も部下たちにハラスメント行為を働いていたのでこれでおあいこになるだろうが。
僕がそのことを指摘すると、先輩は案の定「これでおあいこでしょ?」と不敵に言ってのけた。
『とにかく、あなたは会社に戻ってきても課長さんからネチネチ言われる心配なくなったから。安心して戻ってらっしゃい。さっき頼まれた件は任せといて』
「はい、何から何までありがとうございます、先輩。――じゃ、もうすぐ社に着きますんで」
安心して会社に戻れることが分かり、ホッとした僕は通話を切った。
「――今日の夕飯、久々に兄貴の店で食べようかな。今日は遅番だって言ってたし」
兄は渋谷にある洋食系レストランチェーンで店長として働いている(ちなみに現在進行形である)。毎週末は実家に泊まり、食事も家族と一緒に摂っている僕だが、実家暮らしの兄は時々僕のアパートまで食事を作りに来てくれていた(そしてしばしば僕にも手伝わせていた)。何だかんだ言って弟に世話を焼きたい兄は、ひとり暮らしの僕の栄養管理に気を遣ってくれていたりするのだ。
「せっかく臨時収入も入ったしな……」
絢乃さんから頂いた五千円を、使わないという選択肢もあったが、使わなければ彼女に申し訳ないなと思った。……僕はその時点では、絢乃さんの涙を見た唯一の男だったわけだし。口止め料も含まれていたのなら、使ってしまわなければ「誰にも話しませんよ」という証明にならないかも、という思いもあったのだ。
〈兄貴、今晩兄貴の店に行ってもいいか? たまには夕飯にいいもの食いたい〉
――会社に戻ると、自分のデスクで兄にメッセージを送信した。時間的に、兄はまだ職場には着いていないはずだと思った。
するとすぐに既読がついて、返信がきた。
〈オレは何時でも大歓迎♪
予約席用意して待ってっけど、一応来る前に連絡よろしく〉
「……〝予約席〟って何だよ」
僕はスマホの画面にツッコミを入れた。チェーン店のレストランに席をリザーブするシステムなんてあっただろうか。
* * * *
――その日は無事、定時で帰ることができた。
島谷課長も小川先輩からの脅しがよっぽど堪えたと見え、僕に残業を押し付けなかったどころか、「今日は定時で上がりなさい」と気持ち悪いくらい僕に優しかった。
「――いらっしゃい! 早かったな、貢」
兄の勤務先であるレストランに入ると、出迎えてくれたのはホールのスタッフではなく店長の兄だった。というかコックコートで接客って……。
「うん、今日は珍しく残業なかったから。……つうかなんで兄貴が接客してんだよ? 兄貴、キッチンがメインじゃなかったっけ?」
「ああ、まぁな。今、学生バイトのみんなはテスト前やら学祭前やらで忙しくてバイト入れないらしくてさぁ。仕方ねぇからオレとフリーターのメンバーでホール回してんの。――ま、座れや。お冷や持ってってやるから」
「うん……」
兄は本当に予約席を用意していた。そこで僕は、兄にミラノドリアとボロネーゼパスタをオーダーした。「そんなに食って金大丈夫か」と訊かれたので、臨時収入があったのだとだけ答えた。
「――で、臨時収入ってどこから入ったんだよ?」
運ばれてきた料理を(運んだのはもちろん兄だ)美味しく頂いていると、兄は僕の向かいの席にドッカリ座って興味津々で訊ねてきた。どうでもいいが、仕事サボってていいのかよ?
「ちょっと……人の送迎を頼まれてさ。臨時収入はそのお礼で、五千円もらった」
あまり根掘り葉掘り訊かれるのもウザいので、簡潔にそう答えた。が、思わずニヤけてしまったのを兄にはバッチリ見られてしまった。
「……なぁ、それって女の子か? そこんところ、もっと詳しく聞かせろ」
僕は仕方なく、それが会長令嬢である絢乃さんだったこと、会長のご病気のこと、そして僕自身が秘書室に異動しようと決意したことを話した。
「そうかそうか! お前が前向いてくれて兄ちゃんは嬉しい! 頑張れよ!」
「う……うん。頑張る……けど」
僕は困惑した。兄は何に対して頑張れと言ったのだろう? 新しい仕事……にしてはなんか話がズレているような。
「秘書になりたいと思ったの、そのコのためなんだろ? これがキッカケで、お前のトラウマが治るといいな」
「え……いや、まぁ。うん……」
僕の決意を聞いて、絢乃さんへの恋心が兄にもバレてしまったようだった。それ以来、兄は僕の恋の後押しをしてくれるようになったのだった。
秘書としての覚悟
1
――僕はその翌週のうちに秘書室への異動が認められ、秘書としての研修がスタートした。
ちなみに、転属には所属していた部署の上長の承認が必要なのだが、島谷氏はあっさりと承認印を押してくれた。前もって社長や人事部長・秘書室長の承認印が押されていたので押さざるを得なかったのだと聞いたが、実は加奈子さんから何らかの圧力がかかったのだと僕は勝手に思っている。
とはいえ、十月の異動シーズンからも少しズレていたので、僕のこの時期の異動はイレギュラーな特例だったらしい。
「――桐島くん、秘書の仕事でいちばん大事なことって何だか分かる?」
室長から指導係に任ぜられた小川先輩が、僕に優しく問いかけた。
研修が始まってから、僕は秘書の業務もそつなく覚え、こなしてきた。が、先輩にこう訊ねられたということは、僕にはまだ何かが欠けていたということだ。
「えーと……、時間に正確であること……ですかね」
首を傾げながら、思いつく答えを言ってみた。あとは命令に忠実なこと、口が堅いこと、このあたりだろうか。
「まぁ、それも正解かな。ボスのスケジュール管理は秘書にとって大事な仕事だからね。でも、時間に縛られたくないボスもいるし、あまりにも忙しすぎるとかえってストレスを与えちゃうよね。だから、そのあたりはあまりナーバスになる必要はないとあたしは思ってる。大事なのは時間配分と匙加減」
「要するに調整能力ってことですね。じゃあ、それが正解なんですか?」
僕がそう解釈すると、先輩は「う~ん」と唸ってから「それも違うかな」と答えた。
「えっ、違うんですか?」
「うん。正解はね、どれだけボスに気持ちよく仕事をしてもらえるか考えて、工夫すること。まぁ、簡単に言えばボスへの愛、ってことね」
「愛、ですか……」
彼女の源一会長への想いを知っていた僕には、この言葉にものすごい説得力を感じた。
「先輩が言うと、何か重みがありますよね」
「……あっ、違う違う! あたし、そういう意味で言ったんじゃないからね!? 愛っていうのは、信頼とかリスペクトとかそういう意味!」
首元まで真赤にして弁解する先輩だが、ここは給湯室で僕以外には誰もいないので、そんなにムキに必要もないのではないだろうか?
「あたしは会長のこと人として尊敬してるし、秘書として信頼されてるのが嬉しいの。それは仕事のやり甲斐にも繋がっていくから」
「なるほど……。まぁ、先輩のこと茶化しちゃいましたけど、俺だって同じようなもんですよね。絢乃さんのために秘書室に異動したわけですし」
小川先輩は違うかもしれないが、僕が異動を決意した裏には間違いなく絢乃さんへの下心……もとい恋心があったのだから。もちろん、篠沢絢乃さんという一人の女性を尊敬する気持ちもあるし、信頼関係を築きたいというのも本当なのだが。
「そうだよねぇ、桐島くんは絢乃さんのこと好きなんだもんね♪ でも不倫じゃないでしょ? ……あたしも違うけど」
「そりゃ、不倫ではないですけど。相手、まだ高校生ですよ? 未成年ですよ? やっぱりそういうところって気にしちゃうじゃないですか。『ロリコンだと思われて気味悪がられるんじゃないか』とか」
僕は至極まっとうなことを言ったつもりだったのだが、小川先輩はケラケラと笑い出した。……もしかして、こんな考え方しかできない僕はチキン野郎なのだろうか?
「それはあなたの考えすぎなんじゃない? だって、別に元々ロリコン趣味があって絢乃さんのこと好きになったわけじゃないでしょ? 好きになった相手がたまたま高校生だったってだけのハナシでしょ? だったら問題ないよ」
「そうですかねぇ……」
「そうだよ。――まぁ飲みなって、コーヒー。せっかく淹れたんだし」
先輩は休憩も兼ねて、僕のためにコーヒーを淹れてくれていたのだ(ちなみにインスタントである)。
僕は「いただきます」と言ってマグカップに口をつけた。……が。
「熱っつ! 先輩、これ沸騰したお湯で淹れたでしょ!」
「えっ? うん。そうだけど……何か問題ある?」
「コーヒーは、沸騰させたお湯で淹れたら薫りが飛んじゃうんですよ。それはインスタントでもおんなじです。美味しく淹れるには、お湯を少し冷ますのがポイントなんで覚えて下さいね」
僕は講釈を垂れながら「あ、ヤベっ!」と我に返った。昔っからこうなのだ。自分の好きなもの――主にコーヒーやクルマについて語るとついつい熱くなってしまうという、悪いクセが出てしまうのである。
「……分かった、ありがと。ちゃんと覚えとくわ。っていうかそれ、桐島くんにとって絢乃さんへの愛になるかもね。秘書としての」
「……えっ?」
「絢乃さん、大のコーヒー好きなんだって。よかったねー、引かれずに済みそうで」
「そうなんですか。教えて下さってありがとうございます!」
小川先輩のアドバイスが、大切な絢乃さんのために何ができるかという僕の悩みに対する答えになりそうだと思うと嬉しかった。
* * * *
「――む? ケータイ鳴ってる。……あ、俺のだ」
スーツの胸ポケットからスマホ(ちなみにカバーなどは着けておらず、裸のままだ)を取り出して画面を確認すると、登録していない携帯番号からの着信だった。
横から覗き込んでいた小川先輩が「あ」と声を上げた。
「桐島くん、電話出なよ。これ多分、奥さまの番号」
「……へっ? ――はい、桐島……ですが」
『ああ、桐島くん? 私、加奈子です。分かるかしら』
通話ボタンをスワイプすると、果たして発信者は会長夫人の加奈子さんだった。でも、僕はあの人に連絡先を教えた記憶がない。一体どうやってこの番号をお知りになったんだろう?
「はい。ですが、よくこの番号がお分かりになりましたね」
『絢乃から聞いたのよ。この先、私からあなたに連絡を取らなきゃいけなくなることもあるだろうと思って。――お仕事中にごめんなさいね』
「ああ、いえ。――どうされました?」
ちなみにこの頃、加奈子さんはすでに僕が秘書室へ異動していたこともご存じだった。小川先輩から伝え聞いていたのだという。
『あの子のことで、あなたにお願したいことがあるのよ。……多分、あなたにしか頼めないことなの。もちろんあなたには断る権利もあるし、無理にとは言わないけれど』
「僕にしか頼めないこと……ですか?」
それも愛しの絢乃さん絡みだという。加奈子さんもおっしゃったとおり、僕にはお断りする権利もあった。が、絢乃さん絡みだとすれば僕には断る理由がなかった。
『ええ。桐島くん、本当に、ムリに引き受けなくてもいいのよ? あなたも部署が変わったばかりで大変なのはこっちも重々承知しているから――』
「いえ、ぜひともお引き受けします! ――で、僕は一体何をすればよいのでしょうか」
『あのね、これから時々でいいの。学校帰りの絢乃を、あなたのクルマでどこかに連れ出してあげてほしいのよ。あの子いま、学校と家の往復しかしてないから、気が滅入ってると思うの。だから時々、気分転換のつもりでドライブにでも、と思って』
「えっ、そうなんですか?」
僕はそれまで、絢乃さんの生活パターンについて聞いたことがなかった。加奈子さんのお話によれば、お父さまが倒れられるまでは放課後にお友だちと連れ立って、お茶やショッピングくらいはしていたのだというが、それどころではなくなっていたらしいのだ。お友だちも彼女の心情を慮って遠慮していたのだろう。
何とも優しくて真面目な彼女らしいとは思ったが、そんな彼女にも多少の気分転換が必要だというのは僕も同感だった。
2
「分かりました。そういう事情でしたら、僕も絢乃さんのためにひと肌脱ぎましょう。……あ、ですが一つ問題が」
僕は二つ返事で承諾しようとしたが、肝心なことを忘れていた。社会人である僕と高校生だった彼女とでは生活パターンが違ったのだ。絢乃さんを学校帰りに迎えに行くということは、僕は会社を早退しなくてはならないということだ。僕が仕事を終えるまで彼女に学校で待ってもらうわけにはいかないのだから。
そのことを加奈子さんに伝えると、「そのことなら心配要らないわよ」という返事が返ってきた。
『あなたが会社を早退するかもしれないことは、もう室長の広田さんに伝えてあるから。あなたが仕えるべきボスは絢乃なのよ。だからそこは気にしなくてよろしい』
なんと、いつの間にそういうことになっていたのか。さすがは元教師の加奈子さん、色々と手回しのいいことで。
「つまり、根回しもバッチリというわけですね。分かりました」
『ま、そういうことだからよろしくね。あ、そうだ。あなたが部署を変わったこと、まだあの子には話してないわよ。あなたもまだ伝えてないでしょう? でも、私から伝えるのもおかしな話だものね』
「……そうですか」
『じゃあ、とにかくそういうことで。そろそろ失礼するわね』
僕も「はい、失礼致します」と言って通話を終えたが、小川先輩が怪訝そうな顔で僕を見ていた。
「…………先輩、何ですか?」
「桐島くんさぁ、絢乃さんにまだ異動したこと話してないの?」
「はい。別に隠しているわけじゃないんですけど、何ていうか……。俺が部署を変わったって聞いたら、絢乃さんはきっと理由を知りたがるじゃないですか。でも、その理由を話したらきっと、あの人はお父さまの死が近づいていることをイヤでも意識してしまうんじゃないかと思うと……」
せっかく前向きに、お父さまの残された命の期限と向き合うようになった彼女の明るさを、そんなことで奪ってしまいたくなかった。
「でも、いつかは話さなきゃいけないっていうのはあなたも分かってるんだよね?」
「それは分かってます。ただ、今じゃないかな……って。あくまでタイミングの話で」
こういう大事なことは、言うタイミングを間違えると相手に大きな誤解を招いてしまう。――これはあくまで僕個人の経験から学んだことだが。
いよいよお父さまの死期が迫ってきたというタイミングで言わなければ、僕が源一会長の死を望んでいるのではないかというあらぬ疑惑を絢乃さんに抱かれる恐れがあったのだ。もちろん、彼女がそういう人ではないことは僕にも分かっていたが、いかんせんこういう時にも女性不信が出てしまうのが、僕の忌まわしい部分でもあった。
「それってさぁ、ただ単に絢乃さんに嫌われたくないだけなんじゃないの?」
「…………うー」
小川先輩の指摘は、僕の痛いところに思いっきりクリティカルヒットした。自覚があっただけに、反論の余地もない。
「桐島くん、それ、かえって逆効果なんじゃないかな。リミットギリギリになって言う方が、『この人、パパが危なくなるタイミングを狙ってたんじゃないか』って絢乃さんに思われるとあたしは思うんだけど」
「…………確かに、そうかもしれないっすね」
「でしょ? だったら早い方がいいと思うけどなぁ。タイミングを遅らせれば遅らせるほど、あなたも言いにくくなるだろうし」
「……分かりました。じゃあ……とりあえず、秘書室だってことは伏せて、異動したってことだけは早めにお伝えしようと思います」
僕の中で葛藤はあったものの、とりあえず僕側が譲歩する形でこの話題は終わった。
「――ところで先輩。源一会長が亡くなられた後、先輩はどうするんですか? 会長秘書は二人も要らないですよね」
源一会長亡き後、後継者となられるのは絢乃さんの可能性が大だった。僕が彼女の秘書に付くことになれば、源一会長の下で秘書として働いていた小川先輩はハブられる形になる。……ちょっと言い方は間違っているかもしれないが。
「そのことなんだけどね、あたし、どうやら村上社長に付くことになりそうなの。何でも、社長秘書の横田さんが年内一杯で会社を辞めることになったらしくて。……実家の家業を継ぐんだって」
「そうなんですか。横田さんのご実家って確か、湯河原の温泉旅館でしたっけ」
横田司さん(ちなみに男性である)は当時三十二歳で、温泉旅館を営むご実家の長男だったらしい。六十代のご両親がお元気だったので、家業は継がなくていいと言われて東京で就職したが、女将だったお母さまが体調を崩され、急きょ家業を継ぐことになったそうだ。
「うん。ウチの社員旅行でもお世話になったよね。まぁでも、あたしは会社を辞めるわけじゃないし、会社に残るから、何かあったらいつでも相談に乗るよ」
「はい」
まだ慣れない秘書の業務に追われる中で、小川先輩というよき相談相手が身近にいてくれて、僕は恵まれているなぁと思う瞬間だった。
* * * *
僕は十一月の初旬、自動車メーカーの正規ディーラーを訪れ、新車の購入契約をした。外側の塗装や内装をカスタムしたこともあり、納車には半月から一ヶ月ほどかかると言われた。
その分費用はトータルで四百万円ほどかかってしまったが、それが僕の秘書としての覚悟の証明になるなら安いものだと思えた。
シートのカラーが自分で選べたので、僕は数あるカラーの中から上品なワインレッドをチョイスした。絢乃さんのイメージなら、どキツいピンク系よりもそちらだろうと思ったからだ。それに、ワインレッドだとシートの生地がベルベット地になるので乗り心地もよくなるだろうと。
新車と引き換えに、それまで散々こき使いまくったオンボロのシルバーの軽自動車は下取りしてもらうことにした。納車前に売っ払ってしまうと、僕の通勤手段がなくなってしまうからだ。当然のことながら、絢乃さんをドライブにお連れすることも不可能になってしまう。
「売っ払っちまうくらいなら、なんでオレに譲ってくんなかったんだよ!?」
兄は(もちろん普通自動車の免許は持っている)文句タラタラだったが、だったら兄貴が車検代とか維持費払えるのかと訊いたところ、反論がなかった。どうやらそっちの経費は僕に丸投げするつもりだったらしい。いくら篠沢商事の給料が飲食系よりいいとはいえ、二台分のクルマの維持費を払うなんて冗談じゃない。こっちの生活が成り立たなくなるじゃないか。
――なんてことがありつつ、僕は時々絢乃さんを放課後のドライブにお連れするようになったのだが……。
「異動しました」の一言を彼女に告げるタイミングがなかなか掴めないまま、一ヶ月以上が経過した。気がつけばその年もあと一ヶ月を残すところとなり、クリスマスが近づいていた。
小川先輩の言ったとおり、大事なことは話すタイミングをズルズルと引き延ばせば引き延ばすほど言いにくくなる。そんな中で源一会長の命にもタイムリミットが迫っていて、僕は焦り始めていた。
せめて、よく会社を早退するようになった僕に疑問を抱かれた絢乃さんの方から切り出してはくれないだろうか、と何とも他力本願なことまで考えるようになっていた。が、ある日それが叶ってしまった。
3
ある日の午後、僕は例によって八王子まで学校帰りの絢乃さんをクルマでお迎えに行った。仕事は三時で切り上げ、早々に退社して。
その日は世界一の高さを誇る墨田区の電波塔に行きたいという彼女のために、クルマを走らせていたのだが。
僕が新車を購入したという話に驚を隠せなかった彼女は、どういう話の流からか僕がいつも会社を早退していることへの疑問を口に出された。
「……っていうか桐島さん、今日も会社早退してきたんだよね? 大丈夫なの?」
もしかしたら、自分のためにいつも会社を早退しているから僕の会社内での立場が危うくなるのでは、と心配に思われたのかもしれない。
なかなか言い出せなかった僕に助け船を出して下さる形になった絢乃さんには感謝したが、内心では「なんで早く言わなかったんだ、俺のバカヤロー!」と自分自身に罵声を浴びせたくなった。そのせいで、彼女に余計な心配をかけてしまったかもしれないのだ。
「大丈夫ですよ。……実は僕、以前から総務課で上司のパワハラ被害に遭ってまして、部署を異動することにしたんです。で、今は異動先の部署の研修中で早く退勤させてもらってるんです。お母さまの計らいで」
僕のパワハラ被害のことは、初対面の時にそれとなく匂わせていたので、ここまでは無難にスラスラと言葉が出てきた。
案の定、彼女は僕の異動先も知りたがった。ここで話してしまえば僕は心のつかえが下りて楽になれたかもしれないが、絢乃さんの心を曇らせてしまうのは本意ではなかったため、「言えるタイミングが来たら、真っ先に絢乃さんにお伝えします」とお茶を濁した。でも聡明な彼女は、その言葉の裏で「その時が来ないでくれればいのに」と僕が思っていたことに気づいて下さったようだ。それ以上詮索されることはなかった。
「あと、新車も真っ先にあなたにお披露目しますね。楽しみにしていて下さい」
取り繕ったように新車の話題に戻すと、「楽しみにしてる」と彼女は笑顔でおっしゃったので、どうやら話を逸らすことには成功したようだった。
そして、僕は漠然とだが気がついた。絢乃さんはどうやら、本当に僕に好意を抱いているらしいことに。――それまでは女性の真意を信じられなかった僕も、これだけは信じてもいいのかもしれないと自然と思えた。
* * * *
タワーの入館チケットは、絢乃さんが僕の分までお金を出して買って下さった。社会人が女子高生に奢ってもらうのはどうなのかと思ったが、そこは大人として彼女に花を持たせるべきだろうと判断して、素直にご厚意に甘えることにした。
それにしても、この人は月々のお小遣いをいくらもらっているんだろう? ――僕はそんな疑問に頭をもたげた。チケットを購入している時に彼女の長財布の中がチラッと見えたが、千円札や五千円札の他に一万円札が何枚も入っているように見えた。多分、十万円に少し欠けるくらいでサラリーマンの僕の所持金より多い。一般的な女子高生が持ち歩く金額ではないよな……。
そんな些細なことからも自分と彼女との格差を感じ、僕は落ち込むのだった。
「――わぁ……、スゴくいい眺め!」
地上三百五十メートル地点にある天望デッキのガラス窓にへばりついた絢乃さんは、女子高生らしく無邪気に歓声を上げた。彼女はどうやら高いところも苦手ではないらしい。
ちなみに、源一会長には高所恐怖症の気があったらしいと絢乃さんがおっしゃっていた。そんなお父さまに遠慮して、生まれて十七年以上このタワーに上ったことがなかったのだと。
窓の外に広がる、まるでジオラマ模型のような東京の街並みを見下ろす彼女の姿を見て、やっぱりこの人は生まれながらにして大きな組織のトップに立つべき人なんだと僕には思えた。
「気分転換できました?」
「うん! 来てよかった。桐島さん、連れてきてくれてありがとね!」
僕が訊ねると、満足そうに頷く彼女の表情は明るかった。普段とは違う景色をご覧になれば気分も変わるし、息が詰まりそうな過酷な現実から、彼女をひとときの間だけでも解放して差し上げられる。彼女はきっと、本当は日ごとに近づくお父さまとの別れに心を痛められ、泣きたいのを堪えて必死に明るくふるまっておられたのだろう。だからせめて、僕の前だけでも等身大の女の子でいてほしいと願っていた。僕はそのために、秘書になろうと決めたのだ。
そこでそれとなく、絢乃さんに毎月のお小遣いの額を訊ねてみると、彼女は「毎月五万円」と屈託なく答えて下さった。でもブランドものは好きではないし、高校生の交際費なんて限られているから多すぎるくらいだとおっしゃった。だから財布の中があんなにパンパンになっていたのだ。
「お嬢さまは金使いが荒い」というイメージしか持っていなかった僕は正直驚いたが、絢乃さんは人並みの金銭感覚を持ち合わせているらしく、なかなかの節約家であるらしい。お嬢さま育ちとはいっても、婿養子だったお父さまは元々一般社員だったし、お母さまも教師だった頃にはご自身で給料を管理していたそうなので、その堅実なご両親のDNAを立派に受け継がれているからだろう。
お父さまとは以前よりよくお話をされるようになったらしい。
父親と娘というのはどこの家庭でも没交渉というか、あまりいい距離感ではないと思っていたが(いわゆる「パパウザい!」的な?)。絢乃さんとお父さまの場合はそれに当てはまらなかったようだ。夕焼けに染まりながら目を細めて話される絢乃さんは、お父さまへの愛情が全身から溢れ出していて神々しいくらいだった。
「余命宣告された時はショックだったけど、今はパパと過ごす時間の一分一秒が尊く思えるの。そう思えるようになったのは貴方のおかげだよ。桐島さん、ホントにありがと」
そう語られたように、彼女はお父さまの命のリミットと真摯に向き合われているのだと分かり、僕も嬉しかったし、そんな彼女のことがより愛おしく感じた。「感謝されるようなことは何も」と謙遜で返したが、本当はベタ褒めされるのが照れ臭かっただけだ。
「――そういえば、もうすぐクリスマスですね。絢乃さんはもう予定が決まってらっしゃるんですか?」
こんな質問をしたのは、あわよくば彼女が僕と一緒にクリスマスを過ごしてくれるのではないか、という淡い期待もあったからかもしれない。デートなんておこがましいことは言えないが、せめてメッセージアプリで繋がって、同じ時間を共有するくらいならバチは当たらないだろう、と。正直、もう〝クリぼっち〟からは脱却したかったのだ。
絢乃さんは「まだ特にこれといっては」という答えの後、僕に「彼女と過ごしたりするの?」と質問返し。
こんなことを訊くということは、もしかして……!? 彼女も僕と過ごしたがっているのか!? 待て待て俺! 女性不信はどこに行った!?
「いいえ、僕もまだ何も。というか彼女はいないので、今年もきっとクリぼっちですね……」
肩をすくめ、余裕をぶっこいて答えたつもりだったが、本当は心臓バクバクだった。ちなみに脳内BGMは超ロングヒットのクリスマスイブの歌である。
彼女はホッとしたように「……そう」と言ったので、僕に交際相手がいないことに安心していたのは間違いないようだった。
絢乃さんは毎年、イブにはお友だちとお台場のツリーを見に行かれるそうだが、その年はお父さまと過ごされる最後のクリスマスだけに、お友だちも遠慮されているらしかった。そしてきっと、彼女自身も悩まれていたのだろう。
4
「――絢乃さん、寒くないですか?」
帰りのクルマの中で、僕は何やら助手席で考え事にふけっていた彼女に声をかけた。
「ん? 大丈夫だよ。コート着てるし」
そう答えながらも、両手の指先をこすり合わせていた彼女は少し寒そうに見えた。ああ、でもコートの萌え袖、可愛い……。
この日は朝から寒く、僕は寒さに強い方なので大丈夫だが寒さに弱そうな絢乃さんのために暖房を効かせて差し上げたかったのに、廃車寸前でバッテリーが上がりかけていた車内での暖房の効果はイマイチだった。新車に変われば、彼女にもっと快適なドライブを楽しんでもらえるのだが……。
「それならいいんですが……。すみません、このクルマ、ポンコツなんで。暖房の効きが悪くて」
「でも、もうすぐこのクルマとはお別れなんでしょう? だったらもうちょっとのガマンだね」
「……そうですね。ところで、先ほどから何を悩まれていたんですか?」
「うん……、クリスマス、どうしようかなーって。何もアイデアが浮かばないの。家族とも、親友とも、桐島さんとも一緒に楽しめる方法、何かないかなぁ……」
……あれ? 今、俺の名前出てこなかったか? 僕は一瞬、自分の耳を疑った。彼女はやっぱり、クリスマスを共に過ごす相手に僕もカウントして下さっていたらしい。
「僕のことはお気になさらず。今はお父さまのことを気にかけて差し上げて下さい。それにまだ時間はありますから、ゆっくり考えて下さって大丈夫ですよ」
「…………そう、だね。ありがと」
その時点で、クリスマスイブまでは半月以上もあった。その間にご両親やお友だちと相談して頂ければ、何かいいアイデアが浮かぶかもしれない。そしてあわよくば、僕もその仲間に加えてもらえるかも……なんて思ったのだ。
――僕は僕で、運転しながら源一会長の病状について思いを馳せていた。
彼はその頃、すでに体力的にかなり衰弱されていて、車いすで出社されていた。
その前には辛うじて歩くこともできたが、足腰がかなり弱っておられたので社内でフラついておられることも多かった。廊下で倒れそうになっていた源一氏を、僕が慌てて支えることもしょっちゅうで、「桐島君、いつもすまないね。ありがとう」と感謝されることもしばしばあった。
そんな体になっても、源一会長は無理をおして出社し、PCに向かって一心不乱に何かをされていたと僕は小川先輩から聞いた。
一体何をされているのか先輩が訊ねると、「あの子のために、これだけは死ぬ前にどうしてもやっておかなければいけないんだ」とお答えになったそうだ。
きっと彼の中ではもう、絢乃さんが自身の後継者だと決められていたのだろう。ただ、そこに彼女のハッキリとした意志が組み込まれているのかどうかまでは、僕も小川先輩も分からなかったが……。僕の感じていた限りでは、絢乃さんにも「お父さまの後を継ぐ」というしっかりした意志があるようだったので、源一氏が命を削られてまでされていたことは決してムダではなかったのだろう。現に、そのおかげで絢乃さんは会長の仕事を始められてからも困ることがなかったのだし。
「――桐島さん、今日も付き合ってくれてありがと。楽しかったよ」
ご自宅の前で車を降りられた絢乃さんは、屈託のない笑顔で僕にお礼を言った。でも、僕はひっそりと思っていた。これってまるで、デート帰りのカップルの別れ際じゃんか。
「楽しんで頂けて何よりです。僕も忙しくなったので、毎日というわけにはいきませんが。また一緒にどこかへ行きましょうね」
「うん。あと、クリスマスイブのことだけど……」
「それは、ちゃんと予定が立ったらまた連絡を下さい。先ほども申し上げましたが、僕に気を遣われる必要はないので」
絢乃さんと一緒に過ごせたら……というのはあくまで僕の勝手な願望というか妄想であり、特に何もなければ実家で過ごすという手もあったのだ。ただし、そこには漏れなくやかましい兄が付いてくるのだが。
「分かった。じゃあ決まったら連絡するね」
――絢乃さんはその後、僕のクルマが走り出すまでずっとその場から見送ってくれていた。というか、これは後々から知ったことだが、いつもそうして下さっていたらしい。
* * * *
――そして、その翌朝。
「おはようございます、室長。小川先輩もおはようございます」
「おはようございます」
「おはよう、桐島くん」
僕の出社の挨拶に最初に返事をしたのが秘書室のボス・広田妙子室長。背中までの長い黒髪をひっつめ、パッと見はキツそうな顔をしているが、本当はすごく部下思いの優しい女性だ。その当時で四十二歳。どこの部署だったか忘れたが、ご主人は同じ社内にいらっしゃるらしい。ご結婚が遅かったので、まだお子さんはいらっしゃらなかった。
そして、室長の次に返事をしてくれたのは小川先輩だ。この二人は上司と部下という関係を超えて、女性同士で馬が合うらしい。ちなみに、我が秘書室には男性社員も数人在籍しており、後に広田室長につくことになる藤井さんも僕の一つ年上の男性である。
「ちょっと桐島くん! 『小川先輩も』ってどういうことよ!? ……まぁいいや」
気心知れた相手なので、先輩がこうして僕の言うことにいちいち茶々を入れてくるのは挨拶代わりのようなものだったし、僕もいちいち気にしていなかった。
「いいんですかい。……あ、コーヒー淹れてきましょうか? 僕も飲みたいんで」
とはいっても、この頃はまだ自前の豆やら道具やらは会社に持ち込んでおらず、給湯室にはインスタントコーヒーしかなかったのだが。
「いいの? じゃあお願い。あたし、ブラックの濃いめで」
「じゃあ私もお願いしようかな。薄めのお砂糖多め。ミルクはなしで」
「分かりました」
給湯室へは、秘書室から直通の通路で行ける。あと、会長室側からも同じような通路が設けられている。
僕は手際よく三人分のコーヒーを淹れ、マグカップをトレーに載せて秘書室に戻った。ちなみに僕はミルク入りの微糖が好みだ。
「――はい、お待たせしました」
「ああ、ありがとう、桐島くん」
「ありがとー。いただきま~す♪ ……ん、美味しい♡」
「でしょ? 温度が大事って言ったの、分かってもらえました?」
僕は得意げに肩をそびやかし、自分もカップに口をつけた。
「――ところでさ、桐島くん。昨日絢乃さんとデートしてきたんでしょ? どうだったの?」
「……………………ブホッ!」
ホッと一息ついたところで、先輩がサラッと爆弾のような質問を投下してきた。僕はしばらくゴホゴホとむせた後、やっとのことで反論した。
「デ……っ、デートじゃないですよ!? そんなおこがましい!」
「えーー? そうかなぁ? あたしはデートだと思うけど」
先輩も大概しつこい。こっちが否定してるのにまだ言うか。
「…………どうしてそう思うんですか? 絢乃さんが俺のこと好きかどうかなんて分からないじゃないですか」
「だってあたし、分かるもん。絢乃さんも桐島くんのこと好きだって、絶対」
「……………………」
この人はどうしてこんなに自信満々なんだろうか。そもそも、ちゃんと根拠があっての発言なのか?
「……先輩、それ、何か根拠があって言ってるんですか?」
「女のカン、っていうのは冗談だけど。傍から見ればあなたたち、付き合ってるようにしか見えないもん」
「え…………、マジっすか」
確かに僕サイドはそのつもりだった。「おこがましい」と口では言っても、秘書室に異動したのも新車に買い替えたのも全部、愛する絢乃さんのためだった。が、彼女の気持ちがどうだったのかまでは、僕には分からなかった。
リミット
1
「……で? どうだったのよ、昨日?」
そうだった。僕と先輩はその話をしていたのだ。先輩が急に変なことを言い出したから話が脱線したのだった。
「昨日は世界一のタワーに行きました。そのあとクリスマスイブの話題になったんですけど」
「うんうん。それで?」
「昨夜、絢乃さんからお電話があって。『イブの夕方六時からウチでクリスマスパーティーをやるんだけど、あなたも来ない?』ってお誘いを受けました。……何でも、源一会長が俺も招待したいっておっしゃったそうで」
「…………へぇ。いいじゃん! で、あなたは当然参加するんでしょ?」
僕の話を聞いて、先輩は大はしゃぎだった。が、最初の溜めは多分、自分にお誘いがかからなかったことを残念がっていたのだろう。
「ええ、最終的には。でも、最初は渋ってたんですよ。『俺が言ったら場違いなんじゃないか』って思って、お断りしようとしたんです。最初は会長からのご招待だとは知らなかったんで」
「えっ、そうなの? もったいない」
「なんか、絢乃さんと個人的に親しくさせて頂いてることを後ろめたいっていうか……。付き合っているかどうかは別としても、俺が彼女に好意を抱いてることは事実ですし。相手がまだ高校生だから、とか年の差とかやっぱり気にしちゃって。…………ただでさえ体調がすぐれない会長のご気分まで害してしまったら、とか思うと」
一般的には、父親というものは自分の娘と親しくしている男の存在が気に入らないらしい。ウチの父親には二人の息子しかいないので何とも言えないが。
「桐島くんってばそんなこと気にしてるの? あたしが思うに、会長はあなたのこと気に入ってるはずよ? あたしの知ってる限りじゃ、あの人は世間一般の父親とは違うから。だからクリスマスにもあなたを招待したんじゃないかな」
「ああ……、そっか。そうですよね。気に入らない相手を招待なんかしませんよね」
「そうそう。まぁ、あなたに下心があることまでご存じかどうかは分かんないけどねー」
「したっ……!? だからそんなんじゃないって言ってるじゃないですか!」
僕は顔を真っ赤にして猛抗議した。絢乃さんへの恋心は事実だし、それは百歩譲って認めるとしよう。だが。決して恋心=下心ではないのだ。別に僕は、絢乃さんをどうこうしようなんて思ったことはなかった。ただ僕が勝手に想う分にはいいじゃないか、と思っていただけで……。
「――そういえば会長、最近会社であまりお見かけしませんね」
少し前まで、車いすになっても無理をおして出社されていたのだが。それもできないくらい弱られていたということだろう。
「うん……。あたし、奥さまから連絡頂いたんだけど、このごろは朝起きられないくらいつらそうなんだって。でも起きられないわけじゃないらしいの。お昼くらいに起きて、ご自宅の書斎でお仕事されてるらしいんだけど。自由ヶ丘から丸の内までクルマを運転してくるのもつらいんじゃないかなぁ」
「もう……そんなにお悪いんですか。えっと、お仕事っていうのはこないだ先輩が話してくれたヤツですか? 絢乃さんのためにやっておきたいって、会長がおっしゃってたっていう」
僕が先輩からその話を聞いたのは、それより一週間ほど前のことだった。
「ううん、そっちはもう終わられたみたい。会長がご自宅でなさってるのは通常業務の方。決裁とか色々ね」
「ああ、そっちですか」
会長としても、とりあえず一つの大きな仕事を終えられたのだからひと安心、といったところだっただろう。
「……でもさ、桐島くん。そろそろリミットって考えた方がいいかもよ? あなたも覚悟決めないと」
「…………ですね」
先輩の言わんとしていることが、僕にはハッキリと分かった。会長の命の期限がもうすぐそこまで迫ってきている――つまり、絢乃さんが会長になられる日も近いということだ。
「ここだけの話だから、他の人にはまだ言わないでね? あたし、会長から直接伺ったんだけど、会長の中ではもう、絢乃さんを後継者に決めてらっしゃるみたい。遺言書も作られたって聞いたよ。正式なヤツ」
「そうなんですか? じゃあ……もう絢乃さんが次の会長ってことでほぼ決まりじゃないですか!」
〝ほぼ〟と言ったのは、正式に就任が決まるまでには株主総会という関門があり、他の候補者がいなければ、という条件もプラスされるからである。
「そういうこと。だから、あたしは今、あなたにも会長秘書としての心構えを説こうとしてるの」
……そうか、もうそんなことになっていたのか。とすれば、僕もそろそろ移動先が秘書室だということを絢乃さんに打ち明けなければと思った。
ちょうどもうじき新車も納車される頃だったし、クリスマスパーティーの日がちょうどいい機会だろう、と。……ただ、僕が源一会長の死期を待っていたかのように絢乃さんから誤解されたら……という心配はまだ残っていたが。
この頃になってもまだ、絢乃さんのことを百パーセントは信用できていない自分がいた。
僕は別に、「会長秘書をやりたい」と小川先輩や室長、先輩たちに公言していたわけではないのだが。自分の中では「絢乃さんに付く」=「会長秘書」という理屈ができあがっていた。だって、絢乃さんが会長以外のポストに就くことはあり得ないのだから。
そして、彼女以外の人が会長に就任された場合、僕は会長秘書のポストを辞退するつもりでいた。僕は彼女の支えになりたくて秘書室に入ったのだ。彼女以外の人に付くなんて冗談じゃなかった。
* * * *
それから二週間ほどしたクリスマスイブ直前の土曜日、僕の新車が納車された。と同時にオンボロ車はお役御免となり、僕はピカピカの新しいセダンを運転してアパートに帰った。ちなみに、前のクルマとカラーリングを同じにしたのは、僕のクルマがシルバーだと絢乃さんに憶えて頂くためだった。
セダンは父も乗っていたので運転させてもらったことがあったが、自分の愛車はまた愛着が違う。ハンドルが若干重く感じたのは、ローンの返済が重くのしかかっていたからだろうか。
軽の時とは違い、助手席との間が少し広いので、絢乃さんを乗せるたびに感じるドキドキ感はほんの少し緩和されたと思う。
「絢乃さん、このクルマ見て何ておっしゃるかな……」
購入の報告をした時、彼女は嬉しそうに「楽しみにしている」とおっしゃっていたので、喜んで下さるだろうとは容易に想像がついた。が、それと同時に僕は気を引き締めた。
その時には、秘書室へ異動したことを彼女に話さなければならないのだ、と。
彼女はきっと、あの三ヶ月間を有意義に過ごされ、もうある程度は覚悟ができていただろう。お父さまの死後、ご自身がどういう立場に置かれるのかを。元々芯の強い女性だったようだし。
でも、きっとその裏で人知れず涙を隠してもいたと思う。その涙を、僕の前では隠さずにいてほしかった。彼女が涙を見せられる唯一の存在が僕であってほしいと願っていた。
「……っていうか、当日何着ていこう?」
僕はそこで頭を抱えた。僕の私服は決してダサくはないと思うのだが、果たしてよそのお宅(ましてやあんな大豪邸だ)に着ていってもいいレベルのものかどうか……。
こういう時、誰を頼るか? 兄にだけは相談したくない。ハッキリ言って、センスの〝セ〟の字もないから。
「……………………しょうがない、ここは小川先輩に相談するか」
絢乃さんに嫉妬されるかもしれないと思いつつ、僕は先輩に電話したのだった。
2
――そして迎えた、クリスマスイブ当日。
その日はたまたま日曜日だったため、僕は朝からソワソワとした気持ちで小川先輩と一緒に渋谷のデパートへ出かけた。
デート、ではない。この日招待されていた篠沢家のクリスマスパーティーに着ていく服を、先輩に選んでもらうためだ。
『――先輩、俺、絢乃さんのお宅のクリスマスパーティーにどんな格好で行ったらいいか分かんないんで、選んでもらっていいっすか?』
あの日、電話で先輩に頼んでみると、「あたしも忙しいから、土日なら一緒に選びに行ってあげられるけど。っていうか当日って日曜だよね」と言われ、当日になってやっとこういう状況になったというわけだ。
「っていうかさ、桐島くんの部屋にある服見せてもらったけど。ハッキリ言って地味だね。っていうかモノトーン好き?」
「……そんなにバッサリ斬り捨てなくても」
僕は情け容赦のない先輩のコメントに呻きながら、紳士服売り場で手にしていた黒のニットを棚に戻した。
「あんまり色で冒険したくないんですよ。それで失敗したら大惨事でしょ。だから無難にモノトーンを選んじゃうんです」
「誰に対しての大惨事よ? ……でも、色はともかくセンスは悪くないと思うな。パーティーって言ってもホームパーティーなんだから、あんまり気張ってオシャレする必要もないし。あれくらいの感じで行けばいいんじゃないかな? まぁ、色はあたしがチョイスしてあげるとして」
「そうっすか。じゃあ色は先輩にお任せします」
そう言って頭を下げると、彼女は張り切って僕のコーディネートを選んでくれた。
アイテムこそ普段の僕が好んで着るようなものばかりだったが、さすがは女性というか、シャツの色なんかは僕が選ばなそうな明るい色をチョイスしてくれた。
「――先輩、今日は俺の頼みを聞いて下さってありがとうございました!」
「いやいや、いいよぉ。誰でもない可愛い後輩の頼みだからね。あたしも、桐島くんを着せ替え人形にできて楽しかったし。でも、このこと絢乃さんには言わないでね? 嫉妬されるのイヤだから」
小川先輩は、何だかんだ言って学生時代からの後輩である僕に頼られたのが嬉しそうだった。が、頼むから僕で遊ぶのはやめてほしい。……頼んだ僕が言えた義理ではないかもしれないが。
「着せ替え人形……って。言いませんよ、俺だって」
僕だって、絢乃さんにあらぬ誤解をされたくはなかったのだ。
「うん、そりゃよかった。――じゃあ、あたしはこれで。パーティー楽しんでおいで。あと、絢乃さんにちゃんと異動先のことも話しなよ? これが最後のチャンスかもしれないんだからね?」
「分かってますよ。――じゃあ、お疲れさまでした」
先輩にしつこいくらいに念を押され、僕は半ばウンザリしながら頷いた。とはいえ、これが最後の機会かも……と思っていたのは僕も同じだった。
どうにか絢乃さんと二人きりになれるチャンスを作って、打ち明けなければ――。この際、彼女にどう思われるか、とか泣かせてしまったら、とか考えている場合ではなかった。
* * * *
そして、夕方――。僕は先輩にコーディネートしてもらった服に着替え、アパートの駐車場で新車のエンジンをかけた。
〈当日、パーティーが始まるのは夕方六時からだからね♪ 待ってます〉
その数日前に絢乃さんからスマホに送られてきたメッセージを見返す(もちろん、車載ホルダーにセットして、である)。その一行に、僕にも参加してもらえるんだという彼女の喜びがダダ漏れだった。
篠沢家の豪邸にお邪魔するのは緊張するし、会長のご存じないところで絢乃さんと親しくしているという後ろめたさから敷居が高いとも感じていた。といって、別に疚しいことをしていたわけでもないのだが。
でも、そこで「行くのやーめた」ってなワケにもいかなかった。お義理で行くわけでもなかったが、絢乃さんをガッカリさせたくなかったし、僕には彼女に伝えておかなければならないことがあったのだ。
「――さて、絢乃さんはこの服を見てどう思われるかな……」
思えば、彼女に僕の私服姿を披露するのはこの日が初めてだった。彼女にお会いする時はいつもスーツ姿だったからだ。初めてご覧になった語句の私服姿にどんな反応を示されるか、僕は不安と楽しみが半々だった。
そういう僕も、彼女のドレス姿と制服姿は見ていたが、普段の姿は見たことがなかった。――果たして彼女の私服は一般的な女子高生と変わらないのか、それともいかにも「お嬢さまでござい」みたいな感じなのか?
「でも絢乃さん、『ブランドものは好きじゃない』って言ってたような……」
ということは、私服もゴージャス系ではなく一般的な女子高生スタイルなのだろうか。どちらにしろ、恵まれたプロポーションをお持ちの絢乃さんは何を着ていてもお似合いだろう。
「……って、一体何の想像をしてるんだ、俺は」
自分で自分にツッコミを入れつつ、僕は自由が丘へと真新しいセダンを走らせたのだった。
* * * *
――夕方六時少し前。緊張に震える指で篠沢邸の門に取り付けられたドアチャイムを押すと、応答してくれたのはお手伝いさんなどではなく、なんと絢乃さん本人だった。
『――はい』
「あ、桐島です。今日はお世話になります。――クルマ、カーポートに勝手に停めさせて頂きましたけど」
この家のカーポートはかなり広く、そこに停められていたのは黒塗りの高級セダンと小型車、そして僕にも見覚えのある紺色の〈L〉のセダン――これは源一会長の愛車だ――の三台だけだった。
来客用かどうかも分からず、とりあえず空いているスペースにクルマを停めてしまったのだが、よかったのだろうか?
『いらっしゃい、桐島さん! 全然オッケー☆ 門のロック開いてるからどうぞ入って』
ところが、そんな僕の心配はただの杞憂だったようで、絢乃さんはとびっきり元気な声で僕を歓迎して下さった。でも、その声からは彼女がかなりムリをして明るく振舞っていることも窺えた。
「――絢乃さん、今日はご招待、ありがとうございます。おジャマします」
「いらっしゃい! 来てくれてありがとう。どうぞ、これに履き替えて。会場はリビングダイニングなの」
ニコニコしながら僕を出迎えて下さった絢乃さんは、タートルネックの赤いニットに深緑色のジャンパースカートという少しピッタリとした服装だった。それまで見てきた制服姿やドレス姿はわりとゆったりしていて体型がよく分からない感じだったので、彼女の恵まれたプロポーションが見た目にも分かる私服姿に僕は内心ドキッとした。この時ほど「自分は男なんだな」と意識したことはなかったかもしれない。
玄関には僕が履いていった茶色のレザースニーカーの他に、女性ものと思われるカーキ色のウェスタンブーツが一足揃えて置いてあった。絢乃さんをはじめ、ご家族の靴はシューズクローゼットにしまわれていただろうから、このブーツは一体誰のものだろうと僕は首を傾げた。
勧められた来客用のモコモコスリッパ(色はネイビーだった)に履き替え、リビングへ向かう廊下を進んでいる途中で絢乃さんにブーツの主について訊ねてみると、親友の中川里歩さんという方のものだと教えて下さった。彼女は早くから篠沢家に来ていて、パーティーの準備を手伝って下さっていたのだと。
絢乃さんからは柑橘系とは違う甘い匂いがしていて、思わず「何の匂いですか?」と訊ねてしまったが、この問いにも屈託なく「さっきまでケーキを作ってたから、多分その匂いだよ」と答えて下さった。
3
「えっ、ケーキを手作りされたんですか? スゴいですねー」
僕は正直驚きを隠せなかった。まさか絢乃さんがお菓子作りの趣味をお持ちだったなんて。……まぁ、ものすごく女の子らしくて彼女らしいといえばらしいのだが。
「うん。お菓子作りだけじゃなくて、お料理全般得意なの。今日は里歩からのリクエストと、パパと一緒に過ごす最後のクリスマスだから久しぶりに作ってみたんだよ。桐島さんのお口にも合うといいんだけど」
「そうなんですね……、それは楽しみです」
僕は彼女の話に相槌を打ちながらも、気がそぞろだった。もちろん僕はれっきとした招待客だったのだから、堂々としていればよかったのだ。が、絢乃さんと親しげにしていることを源一会長に怪しく思われはしないかと不安に思っていたのだ。そもそも、会長が何を思って僕を招かれたのかもよく分からなかったし。
「――ねえ桐島さん。わたしとちょくちょく会ってること、パパに後ろめたいと思ってるなら大丈夫だよ? パパも知ってるもん」
そんな僕の様子に気がつかれた絢乃さんが、僕の機先を制した。
「え…………、そう……なんですか?」
「うん」
そうだったのか……。源一会長は、どうやら絢乃さんに対する僕の想いをとっくにご存じだったようだ。
「ああ、そうだったんですか。よかった……」
僕はそう呟きながら、その数日前に会長と交わした会話のことを思い出していた。だからあの人は、あの時僕にあんなことをおっしゃったのか――。
『――桐島君、わざわざ来てもらってすまないね。まぁ座りなさい』
その日、会社に顔を出されていた会長から会長室に呼ばれた僕は、入室するなり応接スペースのソファーを勧められた。いかつい革張りではなく、温かなグリーンのベルベット地が張られた、会長お気に入りのソファーだ。――ちなみにこのソファーはその後、絢乃さんのお気に入りにもなっている。
『はい。――それで、会長。僕に何のご用でしょうか?』
秘書室は会長室と同じフロアーにあるので、呼ばれたからと馳せ参じるのは苦にならないが、一体どんな用件で呼ばれたのか不思議で仕方がなかった。
『小川君から聞いたんだが、君が秘書室に異動したのは絢乃のためらしいね』
「……えっ!? はぁ、そうです……」
もしや、僕の絢乃さんに対する下心に(そんなもの、実際はなかったのだが)お気づきになられたのかと、僕は縮こまった。……が。
『いやいや、別にそのことを咎めようと呼んだわけじゃないんだ。それを確かめたうえで、君にぜひとも頼みたいことがあるのだが』
『はい、何でしょうか』
『私亡き後、君に会長秘書をやってもらいたいんだ。――君も小川君から聞いているだろうが、私は遺言状で絢乃を正式に後継者として指名した』
『はい、存じております』
ということは、これは源一会長直々のご指名なのだ。絢乃さんが会長になったら、それすなわち僕が会長秘書に就任するのだ、という。
『うん、それなら話は早い。桐島君、ぜひとも絢乃の支えになってやってくれ。君になら安心してあの子を任せられる』
『はい。僕などでよろしければ』
それは僕にとっても願ったり叶ったりだった。……が、会長のお話にはまだ続きがあった。
『そうかそうか。だがね、桐島君。それは仕事のうえだけの話ではないんだよ。……ひとりの男としても、絢乃に寄り添っていてやってほしいんだ』
『……は? と……おっしゃいますと?』
『いずれはあの子の伴侶となってほしい、ということだ。まぁ、君の意思だけではどうにもできないだろうがね』
それはそうだ。僕がそこで「承知しました」と言ったところで、結婚話は絢乃さんの気持ちを無視して進められないのだ。
『……はい。それは……すぐにどうこうできることではないので。ここでの返事は保留にさせて頂いてもよろしいでしょうか?』
『もちろんだよ、桐島君。じっくり考えたうえで、返事をしてほしい。が、私にはもう時間がないから、なるべく早い方がいいな。無理を言ってすまないが』
『……いえ、そんなことは』
『私にはもう分かっているんだよ。――君は、絢乃に惚れているんだろう?』
会長はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、僕に特大の爆弾を投下された。
『…………はい』
僕は素直に認めた。この人にはどんなごまかしも通用しないような気がしたからだ。
『やっぱりそうか。私の目に狂いはなかったようだね。ではさっきの件、考えておいてほしい。――桐島君、仕事中に呼び立ててすまなかったね』――
――僕はこの日、源一会長にあの二つ目の依頼の返事をしようと思っていた。それも、絢乃さんのいないところで、会長と男ふたりだけになった時に。
「……桐島さん? どうしたの、なんかボーッとしてたよ?」
ふと我に返ると、前を歩いていた絢乃さんが僕を振り返り、不思議そうに首を傾げていた。
「ああ、いえ、何でもないです。――ところで今日、お父さまの具合は……? もう会場にいらっしゃるんですか?」
「まだ部屋にいるみたい。具合は相変わらずかな。気分がよければ顔出してくれるって言ってたけど」
「そうですか」
絢乃さんの表情が少し暗かったように見えたのは、きっと僕の気のせいではなかったと思う。彼女くらいの年代の女の子にとってはショックが大きかっただろう。自分の父親が、間もなく死を迎えようとしているなんて。精一杯強がったところで、そのショックが和らぐことはないはずである。
いくら今の抗ガン剤が優れていて、副作用もほとんど出ないとはいえ、源一会長の命は確実に削られていたのだから。……その証拠に。
「……もう、わたしもママも覚悟はできてるの。パパは十分頑張ったんだから、旅立った時は『お疲れさま』って見送ってあげようね、ってママと話してて」
そう言った彼女の目は、少し潤んでいた。「覚悟はできている」と口ではおっしゃっていても、きっと心の中では葛藤があったに違いない。努めて明るい口調にしていらっしゃったのは、僕に心配をかけまいと気を遣っていたからだろう。
「……って、なんかゴメンね! 今日はこんな湿っぽい日じゃないよね」
そう言ってまだ強がる彼女が、僕には何だかとても痛々しく見えた。僕に気を遣わなくてもいい。無理に笑ったりしなくていいのに……。
どうして僕はまだ絢乃さんの彼氏じゃないんだろうと、恨めしく思ったことを今でも憶えている。彼氏だったら、「強がらずに泣いていいんだ」と彼女をそっと抱きしめることもできたのに。
「絢乃さん……、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫! ――あ、ここがリビングダイニングね。どうぞ」
月並みの言葉しかかけられなかった僕に、彼女はカラ元気で答えた。もっと気の利く言葉は出てこなかったのかよ、俺。情けない。
パーティー会場に入ると、すでに車いすに座られた源一会長がいらっしゃっていて、絢乃さんの親友だと思しきショートボブカットの女性にサンタ帽を被らされていた。彼女は水色のタートルネックに黒いデニムのミニスカート、黒のタイツというスポーティーなファッションで、身長は百七十センチ近くありそうだと僕は感じた。
「会長、今日はお招き頂いてありがとうございます。お邪魔させて頂きます」
「桐島君、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。よく来てくれたね、ありがとう。楽しんでいきなさい」
「はい」
会長が温厚な笑顔で僕を歓迎して下さったおかげで、僕の緊張はどこかへ吹き飛んでしまい、なぜだかリラックスした気持ちになった。というか、緊張の対象が会長からそこにいるショートボブで長身の彼女に移った、というべきか。
4
「――それで、こちらが絢乃さんのお友だちの」
「中川里歩です。初めまして、桐島さん。絢乃がいつもお世話になってます」
僕は絢乃さんに紹介してもらおうとしたのだが、それより先に里歩さん自らが口を開いた。彼女は控えめな絢乃さんと対照的に、積極的な女性らしい。そしてちょっと世話焼きなところもあるのかな、というのは僕の個人的な感想だが、あながち間違ってもいないようである。
「ああ、いえ。初めまして、里歩さん。桐島貢と申します。よろしく」
きっと里歩さんも絢乃さんと同い年だが、僕はキッチリと敬語で彼女に挨拶をした。その時点ではまだ、絢乃さんをお世話していたわけではなかったが、その後に実際秘書としてそうなったので、これも間違いではなかった。
そして僕が敬語だったのは、この日が初対面だった里歩さんのことを信用するに値する人かどうか判断しきれていなかったからでもあった。
「桐島さん、もっと肩の力抜いて。里歩はわたしと同い年だよ」
「そうですよー。ほら、リラーックスして」
そんな僕の態度に絢乃さんは苦笑いされ、里歩さんと二人して僕の肩やら背中やらをポンポン叩き始めた。身長的に背中を叩いていたのは絢乃さんで、肩を叩いていたのは里歩さんだろう。
「……はあ」
この時に僕が困った顔をしたのは、肩に感じる衝撃が強くて痛かったからである。彼女の腕力がなぜこんなにも強いのか、その理由を知ったのはこのすぐ後だった。
――僕がソファーに腰を落ち着けると、絢乃さんと里歩さんは「テーブルのセッティングがまだ残っているから」とリビングを抜け出した。加奈子さんやお手伝いさんの姿も見えなかったことから、女性陣はみんなキッチンにいるものと思われた。
……というわけで、リビングには僕と源一会長の二人きりになった。
「――桐島君、例の件、考えてくれたかな?」
そう質問された時、僕は覚悟を決めた。あの依頼の返事をするのに、このタイミングが絶好の機会だと思ったのだ。もちろん、僕の中でもうすでに答えは出ていた。
「はい。僕が全身全霊、一生涯をかけて絢乃さんを支えていきます。会長秘書としても、一人の男としても」
「そうかそうか! ありがとう、桐島君」
「ですが、絢乃さんのお気持ちを第一に考えたいと思っておりますので。もし絢乃さんが他の男性を好きになられたら、僕は潔く身を引かせて頂きます。それでもよろしいですか?」
「それはもちろんだ。……では桐島君、絢乃のことを頼む。ずっとあの子の味方でいると約束してくれるか?」
「はい、お約束します」
僕は力強く頷いた。きっとこれは、源一会長から僕への遺言だと思ったからだ。
「――ん? なになに、何の約束?」
そこへ、真っ白なデコレーションケーキの載ったワゴンを押した絢乃さんが戻ってきた。後からたくさんの料理や食器の載ったワゴンを押す加奈子さんとお手伝いさんと思しき五十代くらいの女性、そしてなぜかフライドチキンがどっさり盛られたバスケットを抱えた里歩さんも続いた。
「いやなに、男と男の約束をな。……なぁ、桐島君?」
「ええまぁ、そんなところです。――ところで里歩さん、そのフライドチキンは何ですか?」
僕は源一会長に頷いてから、里歩さんに訊ねた。
「ああ、コレですか? あたしからの差し入れです。っていっても手作りじゃなくて、ファストフードのお店で買ってきたパーティーパックのを温めただけなんですけどねー」
あたし料理あんまり得意じゃないんでー、と彼女は笑いながら答えて下さった。……いや、いくら料理が得意な人でも、フライドチキンまで手作りできる人は少ないんじゃないだろうか。
兄の場合はどうだろうか……って、ここでは関係なかった。
「里歩のお家では、クリスマスは毎年コレが欠かせないんだよね。ウチも助かったよー。今日は人数も多いし、コレのおかげで食卓が賑やかになるから。ありがとね」
どういたしまして、とドヤ顔で言った里歩さんに、絢乃さんも笑っていた。こうして見ると、自然体の絢乃さんはやっぱりごく普通の高校生のお嬢さんで、里歩さんとは本当に仲がよろしいんだなと僕も微笑ましく思った。
* * * *
――こうして、篠沢家のクリスマスパーティーが始まった。クリスマスソングをBGMにしてごちそうを囲み、楽しい時間が流れていった。
「――絢乃さん、けっこうワイルドなんですね」
彼女が豪快にフライドチキンを頬張る姿に、僕は正直驚いた。お嬢さまだから、もっと上品に召し上がるのかと思っていたのだ(まぁ、フライドチキンの食べ方に上品な食べ方なんてあるのか、とツッコまれそうだが)。
「え、そう? でもわたし、普段からこんな感じだよ?」
「そうそう。ハンバーガーとか平気でかぶりついてるよね」
「……そうですか。ちょっと意外だな、と思って。でも、おかげで自然体の絢乃さんが見られて親近感が湧きました」
自然体な絢乃さんは気取りがなくて、本当に可愛い人だ。そんな彼女を見られて僕は嬉しかった。
絢乃さんご自慢の特性ケーキはシンプルなイチゴのホールケーキで、スポンジ生地に香りづけとして少量のリキュールが練りこまれていたらしい。源一会長が、甘いものがあまりお好きではなかったからだという。そういうところからも、絢乃さんのお父さま思いなところが窺えた。
――たっぷりのごちそうがなくなった頃、プレゼント交換が行われた。
絢乃さんは里歩さんにマフラーと手袋を、お父さまにクッションを、そして僕にもネクタイを下さった。……が、赤いストライプ柄の入ったネクタイに僕は正直困ってしまった。僕の持っているスーツはほとんどがグレーの地味なものだったので、この柄はちょっと合わないんじゃないかと思ったのだ。
「えっ、そうかなぁ? 濃い色のスーツに合わせたらステキだと思うけど」
僕にはちょっと派手じゃないか、と感想を漏らすと、彼女からはそんな答えが返ってきた。
濃い色のスーツ……、持っていないから新調するしかないか。会長秘書になるんだし。でもちょっと痛い出費だな……と僕はこっそり心配していた。
里歩さんは絢乃さんにコスメを贈っていたが、僕と源一会長は何も用意していなかった。
二人してそのことを申し訳なく思い、弁解すると、「二人は参加してくれただけで十分」と絢乃さんは笑いながらおっしゃった。
「そうですか? 何だか、招待されたのに手ぶらで来たのが申し訳なくて。……あ、そうだ。絢乃さん、後ほど少しお付き合いして頂けませんか? お見せしたいものがあるので」
せめてプレゼント代わりに、絢乃さんとお約束していたとおり、新車のお披露目をしようと思い立った。そのことを彼女に耳打ちすると、「……えっ? うん、いいけど」と頬を染めながら頷き、その光景を加奈子さんと里歩さん、源一会長とお手伝いさんまでもがニヤニヤしながら眺めていた。
もしやこの人たちはみんな、僕と絢乃さんが親しくしていることをご存じなのか……!? 僕はこの時、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
トップシークレット☆桐島編 ~お嬢さま会長に恋した新米秘書~