なじる

　詰る、という字の読みは「つまる」と言いそうだが、正解は「なじる」。
　まあ、「つめてやった」という言葉に近いであろう、相手をどんどん追い込み、釈明の余地を与えないという行為だ。
　状況としては痴話げんか、それも相手の浮気が発覚した時などに、この「詰る」が発動される。相手の過失ほぼ百パーセント、自分の被害者度マックスなのだから当然だろう。

　私は先日、同僚の女性Lさんから詰られた。
　理由は、当番制で回ってくる、朝一番の留守電チェックを忘れていたから。
　いや、単に忘れていたのが問題ではない。滅多にメッセージの吹き込まれない留守電。なのにその日の朝、メッセージを入れていたのがLさんだった、というのが重要だ。しかもその内容が、人身事故で通勤電車が運行見合わせとなり、遅刻するかもしれない、というものだったから。
　しかし待て、私も経験があるが、電車には延着証明というものがあり、これによって遅刻は本人の過失ではないと証明されるので、大手を振ってのんびり出社しても何の問題もないはずだ。
　ともあれ、Lさんは真面目な人なので、何とか定時出社しようとした。運行再開を待たず、最寄り駅の手前で下車して、そこからバスを使っての別ルートで職場を目指した。
　バスに乗る前に、まずは会社に電話！時刻は八時三十五分。留守電に遅刻するとのメッセージを入れる。
　これでとりあえず大丈夫、だと思っても別におかしくはない。
　しかしLさんはまだ安心していなかった。なぜなら、このメッセージが九時までに社長に伝わらないと、自分の遅刻が人身事故によるものではなく、「単なる遅刻」だと思われてしまう。
　いや待て、事故だから鉄道会社の延着証明もらえるんでしょ？
　そう思ったあなたはLさんの真面目さを判っていない。それよりも定時出社の方が大事なのだ。そしてLさんは二度目の電話をする。時刻は八時四十分。もう大半の社員は出社して、掃除をしている時間だ。
　しかし願いも空しく、電話は留守電のままだった。
　絶望と焦りに苛まれながら、Lさんは二度目のメッセージを入れ、更に、周囲にいるであろう社員に向かって「誰か電話とって下さい！」と叫んだ。
　どうやら電話をとる者はいなかったらしい。そしてその頃、留守電解除の当番だった私は、バスに乗り遅れて未だ出社せず。
　何ともタイミングの悪い話だが、物事というのは大体そういう風に流れてゆく。
　怒りに打ち震えながら、Lさんは三度めの電話をかけた。つながった！
　電話をとってくれた天使のようなＰさんに、社長に代わってもらうよう頼む。
　しかし社長はいない。たまにある、無断重役出勤だが、こういう事もやはり、絶妙の巡りあわせで発生する。
　だがしかし、今この瞬間にも社長が出社するかもしれない。LさんはＰさんに頼んで、「人身事故による延着で遅刻します」、というメモを社長の机に置いてもらった。
　ちなみに留守電を解除したのは当番の私ではなく、電話のそばに座っている人。実はふだん、留守電の解除はほとんどこの人が行っていて、録音がある時は当番の人に「録音チェックしてください」と声をかけてくれる。
　さて、そういった一連の事柄が起こった後に私が登場。
　ふだんより遅い出社なので急いでいて、留守電は素通りで、まず出勤簿にハンコ（タイムカードの存在しない世界線）を押し、これまた当番の掃除機を転がす。社長のデスク前を掃除しながらＰさんの置いたメモを見て「へー、Lさん延着で遅刻か、大変だな」と、呑気に考える。
　そして九時直前、Ｌさんが奇跡のゴールを果たす。

　それから三時間後、昼休みの留守電をセットしに行った私は、Ｌさんの字で謎のメモが貼られていることに気づく。「留守電消さないでください」
　何だこれ。再生したら、Ｌさんの「遅れます」メッセージだった。しかも二回。遅刻しなかったんだからもういらないよね、と消そうとしたら、「消さないでください！」とＬさんの鋭い声が飛んだ。

　そこから延々と詰られた。当番のくせに留守電解除忘れて平気でいるとは何事だ。私は「誰か電話とって下さい！」って叫んだのよ。なのに、なのに。
　はいすみません。当番の任務を忘れていたのは私ですから。
　しかしなあ、遅刻しなかったんだし、だいたい、延着なんだから堂々と遅刻できるし、なんでそこまでヒートアップするかね。さらに言えば、社長にダイレクトに連絡したければメールでも大丈夫なんですけど。私はずっと、メール派ですよ。
　などと反論したいのは山々だが、Ｌさんは真面目なだけに融通もきかない。他人の考えるオプションなんて彼女の世界には存在しないのだ。
　ただ一つ、彼女が「誰か電話とって下さい！」と叫んでいた時、私はまだ出社していなかった。だからそれだけは違うと判って！と懇願してみたが、そんなの関係ないです！と一蹴された。ちなみに、「留守電消さないでください」の真意は、後で社長の奥様に聞いてもらって、何があったか報告するため、だった。

　でもまあ、Ｌさんは真面目で正義感が強いだけに、ため込んでるものも多いんだろうな。そう思って、ここはとことん吐き出してもらおうと「Ｌさんは今回の事で、何が一番嫌だったんですか？」ときいてみた。
　すると彼女は泣き出しそうなほどに顔を歪めて、「こんな重大な事なのに、私が正しい手順で遅れるかもしれないと連絡をしていたのに、それを社長に判ってもらえないのは嫌なんです！私が連絡なしに遅刻するような人間だと、誤解されるのは嫌なんです！」と答えた。
　すみませんでした。
　ボーナスも査定も人事評価もない会社で、ここまで社長への心証を気にかけている同僚の気持ちにとんと無関心だった私。社長？知らねえよ、というやさぐれた己の根性を反省した。
　というわけなんで、社長にお願いです。一日の大半を無断外出で過ごし、デスクにいても携帯をいじっているか新聞を読んでいるか、という勤務態度を改め、Ｌさんの気持ちに応えるような敏腕経営者になって下さい。以上、責任転嫁にて終了。