やさしさに包まれたなら

やさしさに包まれたなら

Não tenho tudo na vida, mas amo tudo que tenho.

人生ですべてを手にいれることはできない。しかし持っているすべてを愛している。

葡萄牙〈ポルトガル〉の諺より

そろそろ部屋へと戻らねばならないらしい子供達が、自分達の拵えた砂のお城を名残惜しそうに見つめ乍ら各々の家族の側へと一歩一歩近付いていくひと気が一旦薄れた夕闇迫る午后五時半のビーチ。
良く冷えた海水に、迚も綺麗な両足を浸し乍らひと言、如何しようか、此れから、と静かに呟いたのは、日除けの為のカンカン帽、真新しく且つ真っ白なワイシャツ、膝の辺り迄捲り上げた黒のロングパンツ、ホテルの免税店で購入をしたグッチのビーチサンダルを右手に持ったクーだった。

屋上のレストランが開く迄まだ時間がある筈だ。其れ迄海を眺めていようじゃないか。

心地良い潮風が日焼け止めをたっぷり塗った肌をサッと撫でる中、クーの言葉にそう反応をしたのは、クーとお揃いのカンカン帽、フリート・ウッドマックの名盤『噂』のジャケット写真がプリントされた黒のTシャツ、紺色のジーンズに丸眼鏡、カンカン帽同様、お揃いのグッチのビーチサンダルを履いたモクレンだった。

珍しいね、キミが団子より花を優先するだなんて。

ざぶん、ざぶんと言う寄せては返す波が、誠に少しずつではあるけれど、砂のお城を土台の部分から侵食をしていく中、敢えて意地悪そうな口調と表情でクーがそう述べると、とんだご挨拶だと言いたげにモクレンは、お前に合わせてやっているだけだ、と言い乍らフンと鼻を鳴らしたのち、クー同様に裸足になったかと思うと、食前の運動だと言わんばかりに其の場で軽くステップを踏み始めた。
『花ほどく』の鼻歌と、踊ろう、クー、と言う言葉と微笑を添えて。

あゝ、喜んで、モクレン。

手に持っていたビーチサンダルを自身の眼の届く範囲に置いたクーは、自身に向けて差し出されたモクレンの手をそっと握り締め乍らそう返事をするなり、所謂阿吽の呼吸でステップを踏み始めた。
此のホテルに滞在をし始めて早三日目。
「ステージの感覚を忘れたくはないから」と言う理由から、夕食前を迎えると、こうしてひと気の薄れた夕刻の浜辺に於いてチームCの公演楽曲を丸々一曲通しで踊るのが朝のロードワーク同様、二人の習慣と言うか日課であった。
尚、二人の間で此の日課をこなす事が決定をしたのは、二人が同棲をしているマンションのバスルームに於いて半身浴をし乍ら、ザ・ムーン・グロウズの『愛の十戒』に耳を傾けつゝ冷蔵庫から持ち込んだミネラルウォーターを飲んでいた時の事で、良い意味で甘ったるい歌詞に耳を傾け乍らクーが、地球の裏側迄行ってダンスの練習か、やっぱりキミは真面目なヒトだよ、と言ってから、まるで習い事に対して真摯な態度で取り組んでいる子供へ愛を注ぐ母親の様に空いた左手でそっとモクレンの頭を撫でると、モクレンは鼻高々な態度でひと言、私は誰にも負けない、此の先ずっとだ、と戦場に鳴り響くラッパの様に高らかに宣言をしたのだった。
其れから二人は部屋に戻るや否や、軽めのシャワーを浴び、履き物から何から屋上のレストランへやって来る紳士淑女達の纏っている色とりどりの衣装に負けず劣らずの衣装へと着替えたのち、エレベーターに乗り込んだ。

何時もの席?。
其れとも別な席?。

コーティングがしっかりと施された鏡の前でネクタイの位置を改めて確認をし乍ら、自身の髪色に近い淡藤色のスーツに身を纏ったクーが遠くの方の夜景を見つめるモクレンに話しかけると、臙脂〈えんじ〉色のスーツを羽織ったモクレンは、くるりとクーの方へと身体を向けるなり、何時もの席で良い、と言った。
そして鏡越しにクーが身に付けているネクタイと、クーに結ばせたネクタイとを猫の様に瞳をコロコロとさせ乍らじっと見比べた。

うん、ピッタリだ。

モクレンはそう言ってニヤッと笑みを浮かべた。
クーが身に付けているネクタイは、去年のクーの誕生日、青桐からのアドバイスをもとにモクレンがクーの為に購入をしたネクタイであった。
金色のモノクルを身に付けたクーは、正確なデジタル時計の秒針の様に数字を刻み乍らずんずんと屋上へと進んで行くエレベーター箱の中に設けられた手摺へと凭〈もた〉れ掛かるなり、口の中でくるくると転がしていたミンティアをガリッと噛み砕くと、そう言うキミも、とってもお似合いだよ、と囁く様に言った。

これだけは確信できる
君しかいないんだ
ずっと僕のこゝろを占めてるのは
あとにも先にも、君だけだよ
だから悪いことなんかできっこない
君のためなら我慢できる

ポン、と言う機械音と共にエレベーターが開いたのち、靴音を響かせ過ぎぬ様、手を繋いだ二人が朱色のカーペットの上へとゆったりと降り立つと、人々が各々の國の言葉で会話を交わす聲が其処彼処から耳に入って来た。
こじんまりとしたステージでは、嘗てモクレンが亜米利加にダンス留学をしていた頃、下宿先の近くの酒場で毎夜演奏されていた新阿爾列盎斯〈ニューオーリンズ〉の香り漂うファット・ウェラーの『浮気はやめた』が流れており、其れに合わせて各々御自慢の衣装に着替えて来たらしい老若男女が、何ともスローなテンポのダンスをまるで壁に文字を刻み込むかの様に時にゆったりと、時に力強く踊っていた。

一昨日はお肉。
昨日は魚。
今夜は何を?。

琥珀色のライトが二人の選んだ隅の方の円卓をしっとりと照らす中、滞在も三日目を迎えると、すっかり見慣れたメニュー表をパラパラと捲り乍らクーが、年恰好が自分達とそう変わらない赤毛のウエイターが運んで来た水の入ったグラスを手に持ったばかりのモクレンにそう質問をすると、モクレンはグラスを軽く握った自身の右手の掌〈てのひら〉をひんやりとした水滴がポタリと垂れていくのを感じつゝ、肉が良い、と答え、グラスを口に運んで喉を潤した。

了解。

モクレンの言葉を聴いたクーが金色に輝く手元のベルをリンリンと鳴らすと、年恰好から察するに、昨日今日漸く二十歳になったばかりのあどけなさたっぷりの青年が葡萄牙〈ポルトガル〉訛りの英語で、御注文は、と話しかけて来た。

フェイジョアジータ、ポン・デ・ケージョ。
シュラスコ、コシーニャ、タブレ。
後、ハバータも頼もうかな。
一先ず是等の料理を二人分。

クーは注文をしたいメニューの名前がキチンと伝わる様、ゆっくりとしたテンポの口調で喋り、かの「ロゼッタ・ストーン」に刻まれた「ヒエログリフ」を読み解く学者よろしく一つ一つメニューの名前を右手の人差し指で丁寧に指差した。

御呑み物は何をお持ちいたしましょう。

照明が熱いらしく、褐色の広い額に薄らと汗を浮かべた青年が言った。
青年からの言葉に対しクーは、宛ら星の瞬きの様に身に付けたモノクルのレンズをキラリと光らせると、『スターレス』に足繁く通うヘビーユーザー達相手に時折垣間見せる笑みをニコッと浮かべるや否や、葡萄酒を、デザートは後で又、と告げた。

かしこまりました。
では先ず葡萄酒をお持ちいたしますで、少々お待ちを。

青年が軽やかな足取りで店の奥へと消えて行く様を、メニュー表に眼を通し乍ら横目でクーが追っていると、水が空っぽになって氷だらけのグラス片手に螢火の様に夏の夜空へパッと浮かび上がった人工衛星に向け、ボンヤリと視線を向けていたモクレンが、いつか二人で行くか、宇宙旅行にでも、と呟く様に言った。
読み終えた書籍を閉じるが如く、パタリと言う微かな音と共にメニュー表を閉じて元の位置へと戻したクーは、モクレン同様、人工衛星に向けて視線を持っていくなり、生憎と宇宙ステーションではダンスは踊れないと思うけれど、其れでもキミが宇宙へ飛び立ちたいと言うのなら、やぶさかでは無いかな、と言って、グラスの中の水を半分程飲み干し、グラスをテーブルの上に置いた。

あゝ、でももう一つ問題があったな。
宇宙旅行の為の訓練に「二人して」耐えられるかどうかと言う重大な問題が。

クーは其処に気がつくなり、自身の方へと向き直ったモクレンに対し、フッと苦笑いを浮かべた。

其処は如何にかなるだろ、お前が良く言う所の「愛のチカラ」とやらで。

モクレンが良い意味で意地悪げにそう述べた途端、余計な言葉を覚えさせてしまったモノだ、とこゝろの奥底でクーはボヤきつゝ、はいはい、何とかしますよ、何とかね、と今一度苦笑いを浮かべた。
軈て葡萄酒が円卓の上へと運ばれて来た。
トクトクトクと言う、心臓音にも良く似たグラスに葡萄酒を注ぐ音が二人の世界に響き渡り、仄かな葡萄酒の香りが鼻腔を擽る中、では乾杯、とクーが乾杯の音頭を取った。

あゝ、乾杯。

グラスとグラスがコツンと言う音を立ててぶつかり合い、其々が其々のペースで葡萄酒を呑んでいると、次から次へと料理が円卓へと運ばれて来て、ひと目で美味しそうな雰囲気の料理の匂いが胃袋を刺激した。
其れから二人はケニー・ブリュッセルの『リル・ダーリン』をBGMに此れからの時間の過ごし方等を話し合ったりしつゝ、誰にも急かされる事の無いゆったりとした食事の時間を楽しんだ。

此処の葡萄酒は口当たりが円〈まろ〉やかだから、直ぐに一本空いちゃうね。

デザートと称し、仏蘭西麵麭に葡萄酒を浸したモノをぱくぱくと頬張り乍らクーがそう言うと、バニラアイスを栗鼠よろしく口の中に於いてもぐもぐとさせ乍ら食していたモクレンは、『スターレス』で呑む葡萄酒とは段違いの値段を支払った上で呑んでいるんだ、美味くないと困る、と言った。

ははは、其れもそうだね。

『マザーグース』の『クックロビン』にでも登場をしそうな小鳥の囀りの様な軽やかさ溢れる微笑い聲をクーは響かせると、今夜も踊るかい、とステージの方へと視線をチラリと動かした。

勿論。

モクレンは最後のひと口となったバニラアイスを、グラスに残っていた葡萄酒で一気に胃袋の中へと流し込むと、ゆっくりと黄褐色の椅子から立ち上がったクーは、ひと言、了解と言い乍ら、スーツの内ポケットから取り出したシャネルのコンパクトミラーへ、自身とは対照的にスクッと立ち上がったモクレンの口元を映し出すと、円卓の上の紙ナプキンでモクレンの口元をこなれた手付きでサッと綺麗に拭き取り、使い終えた紙ナプキンをくるくるっと丸め塵箱の中へと放り込んだ。

さあ、御手をどうぞ。

右手を差し出したクーが言った。

宜しく頼む。

モクレンは独特の温もりが感じられるクーの手をそっと握ると、まるで晩餐会の招待客よろしく、ほんの少しだけ早歩きでステージへと向かった。

イヤリング、とっても似合ってるよ。

クーがモクレンの事を見下ろし乍ら言った。

似合う様に見繕ったのはお前だろうに。

モクレンは下からクーの瞳を覗き込み乍らバンドの演奏に合わせ、しなやかなステップを踏み始めた。

言いたかったんだよ、こう言う事を。

『スターレス』の舞台程では無いにせよ、降り注ぐ照明に対し、何となく眩しさを感じ乍らクーがモクレンの耳元で囁き気味にそう述べると、モクレンはクーの吐息に対して何とも言えぬ擽ったさを感じ乍ら、分かったから黙って踊れ、と返事をしたので、クーは子供をあやす様に、はいはい、とステップを踏み始めた。
ダンスが終わると、二人はレストランを出て一旦部屋へと戻ってラフな格好に着替えたのち、呑み直しと称して地下のBAR『輪舞〈ロンド〉』へと向かった。

今日も今日とてワタシ達への視線が凄かったね。

行きと同様、二人きりの空間となったエレベーターへと乗り込むなり、レストランの売店にて購入をした葡萄味のガムをモクレンの口へと運び乍ら、クーが言った。

強請〈ねだ〉れば良かったな、チップ。

モクレンが猟犬が御褒美の肉を噛み砕くが如く、クーが自身の口へと運んだガムを噛み乍らそう言うと、キミらしい言い草、とほんの少しだけ呆れ気味に返事をしたのだが、モクレンは其れを意に介さないと言わんばかりに
私は本気だぞ、と言った。
BARに辿り着くと、団体客が出て行った後らしく、中は閑散としていた。
如何したもんかいな、と思い乍らゆったりと腰掛けられるBARの隅の席へと二人がやって来ると、其処には日本でもおなじみのカラオケの機械があった。
モクレンは其れを目敏く見つけるや否や、お前、一曲歌え、とクーに目で合図をした。

先ずは一杯呑んでからね。

了解する様な素振りを見せたクーは、二人の側にやって来た日系人の女性店員に、グリーンスパイダーを二つ、と空港で使用をする以来の日本語を使って注文した。
グリーンスパイダーはモクレンの誕生日である二月九日の誕生酒であり、酒言葉は「愛に包まれて幸せな気分になる人」であった。

で、何を歌って欲しいの?。

まさか此処に来て演歌を歌えとはリクエストはしないさ、何時もみたいに。

じゃあポップスだね。

さあ、お待ちどうさま。

ご丁寧に日本語でも操作可能なカラオケの機械を操作し乍らそんな風な軽い会話を二人が交わしていると、女性店員がそう言って二人分のグリーンスパイダーをテーブルに運んで来た。

では、呑み直しに。

乾杯。

程良い空調の風が、ダンスを踊り終えたばかりの二人の身体を吹き抜け、敢えて薄暗く設定された照明の下、グリーンスパイダーの名前に相応しい翠〈みどり〉色の液体が注がれたグラスとグラスを高く掲げると、二人は其れを半分程呑み干し、又カラオケの画面へと視線を向けた。

じゃあユーミンでも歌うかな。

まるでTVのチャンネルを操作する時よろしく、適当に機械を操作しているうちに選択肢の中に「荒井由実」の項目がある事に気が付いたクーは、演奏テンポのゆったりな『やさしさに包まれたなら』のシングル・ヴァージョンを選曲をした。
クーが歌い始めるなり、音を立てない様に持っていたグラスをテーブルに置いたモクレンは、今よりもっとクーがマイクを握る機会が多かった頃の記憶に想いを馳せ乍ら、クーの歌う姿をじっと見つめるのだった。〈終〉

やさしさに包まれたなら

やさしさに包まれたなら

食べて踊って歌って愛して。地球の裏側で繰り広げられる愛のクーモク小説。題名は「ユーミン」こと松任谷由実の同名楽曲から引用。 ※本作品は『ブラックスター -Theater Starless-』の二次創作物になります。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-11

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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