戀人たちの時間
Love is like a virus. It can happen to anybody at any time.
恋はウイルスのようなもの。だれでも、いつでも恋の病にかかることがある。
Marguerite Annie Johnson
(April 4, 1928 – May 28, 2014)
十人が十人共、口を揃えて「感じがいい」と言うに決まっているぱっと見二十代前半のウェイトレスが円卓へと運んで来た冷珈〈アイスコーヒー〉の注がれたグラス越しに、物憂げな八月初旬の陽光が降り注ぐ表通りをじっと見据えていると、青々と生い茂った街路樹の下をアバンチュールの為の待ち合わせ場所に決めていたと思われるティーンネイジャー達が、良い意味で何の責任も感じられない爽やかな笑顔を浮かべ、そして軽い足取りで石畳の敷かれた表通りを闊歩する様子が所謂予約席であるバルコニー席に腰掛けたリコの眼に映った。
彼女の目 夏空よりも輝いている
会えば分かるさ
なぜ僕がロレインちゃんに
戀してしまったことが
店内に設置された勝色のスピーカーから流れて来るナット・キング・コールの歌う『愛しのロレインちゃん』の歌詞同様、甘酸っぱさに溢れた風景を流し目気味に見つめていたリコは、こゝろの中に於いて若いなと言う気持ちを抱くと同時に、好きでやっているとはいえ、潜入捜査だ囮捜査だ踏み込みだ捜索だと言った様な、矢鱈滅多ら血腥い事に雀の涙程の安月給で従事をせねばならない此の身には何と縁なき世界であろうと言う、ある種の羨ましさも抱き乍ら、メトロで移動をして来たとはいえ、此処に来る迄にすっかり渇いてしまった喉を冷珈で軽く潤した。
そして首からぶら下げた瑞西〈スイス〉製の懐中時計の文字盤の方へと視線を向けていると、円卓に敷かれた真っ白なテーブルクロスにフッと見覚えのあるどころか、見覚えがあり過ぎる人影が差し込んだので、挨拶代わりと言わんばかりに、時間通りだね、相変わらず、と人影の主へと向けて呟いた。
あゝ、一刻も早くお前に逢いたくてな。
人影の主はそう返事をするなり、口に含んでいた林檎味のガムを円卓の真ん中に置かれている紙ナプキンの中に包み込むと、其れを屑籠〈くずかご〉の中へと放り込み乍ら、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
人影の主はケイと言う名前で、リコを今の世界に引き摺り込んだ張本人であると同時にリコの戀人であった。
又何か案件を片付けていたみたいだね、其の様子だと。
相変わらずなケイの「台詞」に対して何と言えぬ擽ったさを感じ乍ら、ケイが「偶にはこう言う贈り物も」と拵えてくれた青紫色の半袖シャツの胸ポケットに入れているメタルシガレットケースの中から取り出した紫煙を口に咥えると、何、大した事じゃない、麻薬の売人を二、三人締め上げただけの事だ、とケイは言い乍らリコの咥えた紫煙に海老茶色のスーツの左の内ポケットから取り出した燐寸で紫煙に火を点けた。
で、何か得られたの?。
紫色の煙と言う名のスクリーンに、ケイ御得意の精神的にキリキリと追い詰めていく取り調べの様子をしっとりと映し出し乍ら、リコが言った。
表向きは何処にでもある酒屋を経営して居ながら、裏では麻薬を売り捌いていた人物と其の部下数名を捕まえた。
へぇ、やるじゃん。
其の言葉はチームの連中に言ってやれ。
俺は飽く迄もチームが動き易い様に裏で根回しを施しただけに過ぎん。
そう言い乍らケイは、何処の飲食店にも置いていそうな銀色の灰皿の上に燐寸の燃え殻を
サッと投げ棄てると、ご注文は、と聲を掛けて来た伯剌西爾〈ブラジル〉人のウエイターに向かって西班牙〈スペイン〉語で、サンドイッチと冷珈〈アイスコーヒー〉を、と告げたのち、プカプカと煙を吐いていたリコに対し、お前も一緒に何か注文をするか?、とアイコンタクトを飛ばしたので、リコは待っていましたと言わんばかりに、ナポリタンとガーリックトースト、でもってイタリアンサラダを、と英語で伝えた。
畏まりました。
ウエイターが恭しく其の場を去ると、真新しい朱色の眼鏡拭きで掛けていた眼鏡のレンズに付着をした細かな塵〈ごみ〉を拭き取り乍ら、お前もお前で何やら片付ける事があったらしいな、腹を空かせていた所を見ると、とケイが呟く様に言った。
アンタの言い草じゃ無いけれど、売れっ子のストリッパーが首を絞められて殺されていた一件の犯人逮捕の手伝いをちょっと、ね。
其れは御苦労だったな。
で、犯人は何奴だったんだ?。
予想通り、店の人間か。
あゝ、同僚の女の子で贔屓の男を寝取ったの寝取らなかったので揉めた挙げ句、ついカッとなって絞め殺したんだってさ。
良くある話だな。
あゝ、良くある話。
でもおっかなかったな、何となく。
ほう。
其の理由〈わけ〉は?。
乗り掛かった船だから、一応取り調べにも付き合ったんだけど、コッチからの質問に対して実に淡々と口述するんだコレが又。
すんなり喋ってくれたから手間は省けたけれど、其の淡々と口述する様子はまるで機械じかけの人形だったな。
まぁ、其れが其の子なりの精一杯の強がりだったんだろうけどさ。
そう言ってリコはもう此の話は終わりだと言わんばかりに灰皿の上で吸っていた紫煙の火をゆっくりと揉み消すと、グラスに残っていた冷珈を一気に飲み干し、先々月盗まれた高価な宝石と同じ位キラキラと光り輝くケイ様の瞳を覗き込み乍ら、いただきます、と言って、伯剌西爾人のウエイターによって運ばれて来たばかりのガーリックトーストにガブリと齧り付いた。
ケイは眼の前の愛しい戀人が出来たてのガーリックトーストを美味しそうに頬張る様子を冷珈の注がれたグラス片手にじっと見据えたのち、此のレストラン『モンテカルロ』で初めて食事をした際も、生々しくはあるものの興味深さ溢れるリコの話に耳を傾け乍ら冷たい珈琲を飲んでいた事を思い出し乍らグラスに口を付け、自身もリコ同様、サンドイッチをぱくつき始めた。
あゝ、そうだ。
花束のメッセージカード、ちゃんと読んでくれた?。
二つ目のガーリックトーストを齧り乍ら、リコが言った。
リコの言う花束とは、同棲をし始めて五年の月日が経った事を祝う為にケイに手渡した花束の事で、其処にはリコなりの愛の言葉がケイがプレゼントをした万年筆で綴られたメッセージカードが添えられていた。
勿論。
ケイは紙ナプキンを一枚取ると、リコの左の口元に付着をしガーリックトーストの滓〈かす〉を其の長い腕を使って綺麗に拭き取り乍ら即答をし、時には相手の顔面を容赦無く殴り飛ばす事にも用いる両手で使い終わった紙ナプキンをくるくると丸め、屑籠の中へと其れを放り込んだ。
感心、感心。
お前には何かと世話になっているからな。
所帯染みた台詞。
ま、言われないよりかはマシだけど。
ケイの言う世話になっているとは、一度事件に首を突っ込むと、ケイ自身「良くない事」と思い乍らも、ついついうわの空になりがちなケイを現実世界の方へと引き戻す役割と言うのをリコが担いがちな事を指しており、其の際リコはケイに対してぶつくさ説教をし乍ら、眼の前の自分の事をほったらかしにしてくれるな、と言わんばかりの態度をケイに対して取る事を迚も愛おしく思う反面、何時迄も此れではいかんなぁ、とケイはこゝろの奥底で静かに反省をするのが二人の間でのある種の恒例行事みたいなモノになっているのだった。
で、メッセージカードは今如何してんの?。
まぁ、物持ちの良いアンタの事だからどうせ飾ったりなんだりしているんだろうけど。
ナポリタンを食べ乍らリコが言った。
今度書斎に飾ろうと考えている所だ。
額は?。
近いうちに。
ケイは最後のひと口となったサンドイッチを頬張ると、冷珈で其れを先祖代々頑丈だと言われている胃腸の中へと流し込んだ。
今日買いに行こうよ。
どうせ此の後部屋に帰ってもやる事無いんでしょ?。
資料整理とか以外にさ。
オレも新しい化粧品欲しいし。
一行残らずこゝろに刻みたい
あなたの名前に口づけて
リコが此の手の提案をする際は、一時的でも構わないから、仕事をこなす上での彼れや之やを忘れたいが為の気分転換をしたいと言うケイに向けたサインであるのを身をもって知っているケイは、ジュリー・ロンドンの『ラヴ・レター』の歌詞を噛み締め乍ら、いいだろう、とひと言リコからの提案を承諾した。
此の後出掛けるとなると、今夜はウチに泊まる事になるが其れでも構わないか?。
リコの好物であるバナナとヨーグルトのパンケーキ、そして冷珈のおかわりを注文する為にベルを鳴らしたケイが、ナポリタンとサラダを食べ終えたばかりのリコに言った。
良いよ、どうせ最初から其の気だったし。
其れにアンタの事、やっぱりほっとけないしさ。
今一度ケイに紙ナプキンで口元を拭いて貰い乍らそんな事を言ってのけたリコの姿は、宛ら世話女房の様であった。
何時も有難う。
どういたしまして。
生粋の亜米利加人で、且つ地方出身者らしく言葉に訛りのある老齢のウエイターに注文をしたのち、アンニュイな夏の風が会話を交わす戀人たちの両の頬を優しく撫でる中、先程新しい化粧品が欲しいと聴いたが、他に欲しいモノは?、とケイが言った。
急に言われてもねぇ。
あゝ、そうだ。
新しいステンドグラスを買おうよ。
アンタが良く呑むお高めのお酒にも合う様なのをさ。
お前が見繕ってくれるなら。
任しといて。
此れでも多少は勉強したんだから。
一昨年の丁度今頃、高価な食器類を自身の勤め先である所のさるホテルから横領をしていた人物を逮捕する際、変装術を見込まれて横流しをメインに行う業者の役を務める事になったリコは、代々貿易商を営んで来た家柄出身故に、其の方面に関しては人一倍明るいケイのチカラを借りる事無く其れ相応の知識を独学で培っていた。
流石だな。
何のかんのボヤきつゝ、仕事にひたむきなリコの生き方に対し、微笑を浮かべたケイがそんな風な褒め言葉を添えると、リコは相変わらずこそばゆさを感じ乍ら、午后の陽射しを浴びてギラギラと光るナイフを出来たてのバナナとヨーグルトのパンケーキにグサリと刺し、フォークで口へと運んだ。
そしてケイの顔を見つめ乍ら、アンタが其の気だったらだけど、オレも何かアンタに買ってあげようか、と言った。
もっとも美しいものは君
本当にぴったりな君 誓うよ
何で君なのか 僕にも全然分からないんだ
カエスターノ・ヴェゾーロの『もっとも美しいもの』の甘美なサウンドが、他愛無い会話を交わす二人を朝靄の様に包み込む中、ケイはほんの数秒考える素振りを見せたのち、新しいTシャツを所望しよう、出来ればお揃いの、と言ってグラスを口に運んだ。
リコはケイがTシャツを所望した意味を直ぐに察したが、其の事を口は勿論、顔にも出さず、了解とだけ答え、パンケーキに齧り付いた。〈終〉
戀人たちの時間