狐森の怪

ストーカー被害に悩む律子はある日、不思議な空間に迷い込んだ。そこから、あまりに不可思議な出来事が彼女

走って走って走った。律子は人混みの中をかき分けてただ走った。金曜日の午後7時ということもありいつも以上にごった返す駅構内は逃げるのにとてもよい隠れ蓑となった。
 しかし、律子はそのまま沼田を巻くためにいつも乗る電車の来る6番ホームではなく改札から一番奥にある17番ホームへと階段を駆け上がり来たばかりの満員電車に飛び乗った。
 すし詰め状態の車内は息苦しくて他の人のバッグが肩にぶつかって普段なら苛立つのだが、今だけは安心できた。
 ドアが閉まりちらりと窓を覗くと階段から続々と人が湧き上がりその中に辺りを見渡す小太りで異様に肌の白い沼田の姿を見つけた。律子は急いで頭を背の高いサラリーマンの後ろに引っ込めて新宿駅から離れるのを待った。
 律子は新宿にある大手予備校の事務員をしていた。受講生やその保護者の対応をする職柄の為人当たりの良い律子は周囲からの評判が良く講師もその例外ではなかった。
 律子に想いを寄せる沼田も講師として予備校に勤めているが、小柄で醜男な上に人一倍プライドが高いために授業以外の評判が悪い。そんな中で唯一、誰とも変わらず接してくれる律子に沼田が恋に落ちるのに全く時間がかからなかった。
 沼田は今年の3月の初めから頻繁に律子を食事に誘ったりラブレターを渡したりとアプローチを続けていたが、次第に帰り道に待ち伏せしたりひっきりなしに携帯に電話が来るようになった。
 律子は自分の問題だとして周囲に相談する事なく日々を過ごしていたが、状況は良くなるどころか日に日にひどくなる一方で転職も視野に入れ始めてた。
 律子の乗る電車は中野を通り過ぎ三鷹、武蔵小金井、終点の青梅まで到着した。
「お客さん、起きてください。」
沼田を巻き安堵して眠っていた律子は駅員の若い男に肩を揺すられた。
「あ、すいません。」
律子は重たい瞼を開けて駅員に頭を下げると素早く電車から出た。
 到着した青梅駅は都内とは思えない位に人家も街灯もなく真っ暗だった。
 律子はホームにあった小さな待合室に入ると東京へ戻る電車を待ちながらスマホを取り出す。
 LINEを開くと仕事の都合上ブロックする事が出来ない沼田のアカウントから三桁を超えるメッセージが届いていた。
 律子は全身をなめくじが伝っていくような気色悪さを感じながらも沼田のアカウントを削除して他の友人のメッセージを確認する。
 仕事とは全く関係のないたわいの無いメッセージは律子の心を和ませた。
 次の電車が来るまでの間の長い時間を律子はLINEとお気に入りの猫動画の往復をしていたが、一向に東京行きの電車が来る気配がなかった。
 午後11時を回り流石の律子もおかしいと思い外に出てみると古ぼけた一両編成の電車が東京行きの電車が止まるホームに止まっていた。
 「お乗りにならないのですか、」
 先ほどとは違う駅員が目の前の電車を不審に思っている律子に言った。
「これは東京行きの電車ですか。」
「早くお乗り下さい。」
駅員はそれだけ伝えると律子をその電車に乗せると発車した。
 電車の中は冷房のせいなのかとてもヒヤリとしていた。
 外の景色も真っ暗闇で律子は駅員に急かされて乗ったはいいものの本当に東京に向かっているのか不安になってきていた。
 乗ってしまった以上駅に着くまで降りる事は出来ないので席に座り、不安を払拭する為に律子はスマホで動画やニュース記事を見ようと取り出すと画面が外の暗幕のように真っ暗闇になっていた。
 何度も電源ボタンを押してみたが反応がない。どうやらバッテリーが切れてしまったようだったので、律子は諦めてスマホをバッグにしまうと端にもたれかかり暗幕のような風景を眺める。
 電車はガタリガタリと音を立てて走り続け律子の時間感覚が麻痺して来始めた頃、電車の音が少しずつ甲高いブレーキ音を立てて駅に到着した。
 アナウンスもないままゆっくりとドアが開くと律子は立ち上がり電車を降りた。
 仄暗い街灯に照らされた古びた駅名標を見ると『狐森』と書かれており、全く聞いたことのない駅名だった。
 電車は律子が外に出るとすぐに暗闇の中に向かって走り去り、残された律子は時刻表を確認しようとホームを出て駅舎に入るが明かりのない室内は外の街灯のおかげで椅子等の存在は認識できたが、時刻表を見つけることは出来そうになかった。律子は早足に駅を出ると道を挟んだ所に一軒の灯の付いた店があるだけでそれ以外は何もなかった。
 律子は藁にもすがる思いで夜道を渡る。灯の付いた店の前に着くと年季の入った木の看板には『狐森旅館』と書かれており、律子は「ごめんください」と戸を開けた。
明るい玄関に入ると奥から割烹着を着た中年女性が出てきて律子に深々と頭を下げる。
「いらっしゃいませ、夜分遅くまでご苦労様です。」
「東京行きの電車に乗りたいんですけど電車の時間が分からなくて教えてもらえますか?」
「今からだと、電車はありませんね。タクシーを呼べたらいいのですが、片田舎ですのでかなり時間がかかると思います。」
「そうですか、あの今日ここに泊まる事はできますか。」
律子はここが旅館である事を思い出し女将に尋ねた。
「ご宿泊ですか。もちろん可能です。言いました通り田舎ですので、あまり豪華なおもてなしは出来ませんが、どうぞお上がり下さい。」
女将は玄関横のスリッパ置き場からスリッパを一対律子の目の前に丁寧に置く。律子はパンプスを脱ぐとそのスリッパに履き替えて受付に置いてある帳簿に自分の名前を書いた。
「三山様はお食事はどうされますか?すぐに用意いたしますが、」
「ご飯はいいです。あまり食欲がなくて。」
律子は新宿駅からこれまでの道のりの出来事でお腹いっぱいになっていた。
「かしこまりました。ではお部屋の方にご案内いたします。」
女将は暗い廊下に電気をつけると律子を部屋まで案内した。
 通された部屋は八畳の和室で中央に年季の入ったテーブルが置かれていた。
「お風呂はすぐ入られますか?」
「はい、あとスマホの充電器ってありますか。電源が切れちゃって。」
「申し訳ありません。うちにはそういったものは置いてないんですよ。すぐにタオルと浴衣を持ってきますので、少々お待ち下さい。」
女将は頭を下げると部屋を出て行った。
 律子はカバンを隅に置くと真ん中のテーブルの前に置かれた座布団の上に座る。正面の壁を何も考えず見ていると、まもなくドアをノックして女将が部屋に入って来た。
「タオルと浴衣をお持ちいたしました。」
女将は律子に歯ブラシセットときれいに畳まれた浴衣とタオルを手渡した。
「ありがとうございます。」
「お風呂はお部屋を出て右の方にございます。ご朝食は朝の7時に予定しておりますが、よろしいでしょうか。」
「大丈夫です。」
「また何かございましたら、受付の方へいらしてください。」
女将は深々と頭を下げると部屋を出ていった。
律子は女将が出ていくとジャケットをハンガーにかけて浴場に向かった。
入口すぐの電源を付けると律子は脱衣場のかごの中に服を入れて浴場の中に入った。
 昭和レトロな緑のタイル床を歩き浴槽の前に着くと掛け湯をしてちゃぼんと全身をお湯の中につからせた。
 律子はゆずの香りのお湯の中で今週起きた出来事について考えを巡らせていた。
 毎日続く沼田からの逃れられないアプローチに為す術なく泣き寝入りをする状態に律子は限界が近づいていた。
 目を閉じるだけで思い出すあの異様に白く丸い顔の不気味な笑み、律子の目からは涙がこぼれ落ちていた。
 今まで堪えていたものが溢れ出したかのように律子は蹲るように誰もいない浴場で気の済むまで泣き明かした。
 部屋へ戻るとテーブルを端に寄せて変わりに布団が一組敷いてあった。
 律子はハンガーにタオルをかけると布団に潜り電気を消す。
普段はうまく寝付けずスマホをいじっている律子だったが、今日は瞼が重く瞬く間に夢の中に落ちていった。
翌朝律子が目を覚ますと障子の隙間から陽の光が暗い部屋に差し込んでいた。
律子は布団から出て電気を付けて掛け時計を見ると6時半になったところだった。
バッグから化粧ポーチを取り出すとファンデーションのコンパクトの鏡を頼りに軽く化粧をすると着替えて朝食の用意されている大広間に向かった。
大広間の戸を開けると既に一人分の朝食が用意されていて女将がちょうど赤い漆塗りのおひつを持ってきていた。
「おはようございます。」
女将はおひつを置くと律子に深々と頭を下げた。
「おはようございます。」
「ご飯をおつけいたしますね。」
律子が席に着くと女将は茶碗にご飯をよそり、テーブルの上に置いた。
「お味噌汁もすぐにご用意いたしますので、少々お待ちください。」
 女将が大広間から出ていくと律子は焼き鮭と漬物、ほうれん草の胡麻和え等の小鉢の朝食に手を付けた。 
 昨日の晩何も食べていなかった律子は白いご飯を一口食べると胃の中が温まり元気になったような気がした。焼き鮭も焼きたてで香ばしくとても美味しかった。
 「こちらお味噌汁になります。」
女将は律子に味噌汁を差し出すとお茶を入れ始める。
 受け取った油揚げとほうれん草の味噌汁を一口飲むと今まで食べた味噌汁で一番美味しいのでは無いかと思ってしまうくらい美味だった。
「この味噌汁とても美味しいです。」
「ありがとうございます。お味噌は自家製で私の自慢のお味噌なんですよ。」
「そうなんですか。」
「えぇ、買い物もろくに行けないので味噌は昔から手作りなんです。」
律子は味噌汁を一気に飲み干してお茶を入れ終わった女将におかわりを頼んだ。
 朝食を終えた律子は膨らんだ腹を摩りながら部屋に戻り荷物を持つと受付に行き、支払いを済ませた。
「この度はありがとうございました。」
「あの、東京行きの電車の時間って分かりますか。」
「少しお待ち下さい。」
女将はクリアファイルに入れられた時刻表を律子の目の前に差し出す。一番早い東京行きの電車は10時に狐森駅に着く電車だった。受付の後ろにある博物館にあるような振り子時計を見ると8時手前だった。
「まだお時間がございますが、いかがしますか?」
女将は律子の考えを見透かしたように尋ねた。
「こちらでお時間までこちらで過ごされてもよろしいですが、ここから少し歩いたところに狐森稲荷がありますのでそちらへお参りに行かれてはいかがですか?」
「狐森稲荷?」
「はい、この場所に古くからある神社でこの辺りの鎮守社になります。この旅館を出ていただいて左に歩くと大きな鳥居のある参道に出ますのでその道を真っ直ぐ行っていただければ狐森稲荷に着きます。」
「ありがとうございます。」
律子は女将に頭を下げると旅館にいても時間をつぶすあても無かったので狐森稲荷に向かった。
 石畳の参道に入ると奥に鳥居と神社が奥に鎮座しており、稲荷神社ということで両脇には数軒の土産物屋と茶屋が並んでいた。土産物屋では狐の面や狐に関する物や稲荷ずしを売っており、茶屋の奥で腰の曲がった老女が店の奥でテレビを見ていた。
 律子は『狐森稲荷』と書かれた扁額のついた真っ赤な鳥居をくぐり、狐森稲荷の境内に入ると周りは森に囲れており空気が冷たくなったような気がした。
 狛犬がわりに拝殿の左右には狐がおり、睨みつけているようだった。
 律子は財布から50円玉を出して賽銭箱に入れて鈴を鳴らし手を合わせる。
「お願いします、お願いします」
律子はいつの間に声を出して沼田の事を口出していた。
「あいつをあいつを殺してください、私を助けてください。」
声を震わせながら律子は頭に浮かぶあの醜い顔に対する怒りを込めて願を掛ける。今までの事が瞼の裏で走馬灯のように頭の中を駆け巡り、それ以外考えられなくなっていた。
 一通り吐き出して強く閉じていた瞼を開けて軽く拝殿に会釈をすると律子はスッキリした気持ちになっていた。
「お参りですか?」
律子は後ろを振り返ると袴姿の初老の男が立っていた。
「えぇ、はい。」
律子は今の独り言が聞かれてしまったような気がして声が裏返る。
「驚かせてしまったようですいません、別に盗み聞きなんてしませんよ。それにしても、こんなお若い女性が1人でいらっしゃるなんて珍しい。」
「昨日、間違えてここに来ちゃって。東京行きの電車まで2時間位時間があるようだったので、お 参りにしに来たんです。」
「それはご苦労さまです。私はこの狐森稲荷の宮司をしている宮下と言います。お嬢さん、もしよろしければ社務所の方にいらっしゃいませんか?外からの人が来るなんて珍しいので色々お話を 聞いてみたいのですが。」
「いいですよ。」
律子は一つ返事で答えると宮下は社務所に律子を連れ行った。
社務所の応接室に通されるとお茶と木の入れ物に入ったキットカットやハッピーターン等のお菓子が出された。
「ありがとうございます。」
律子は出されたお茶を飲んだ。
「こんな辺鄙な場所に来てしまうとは災難でしたね。」
「来た時は街灯がなくて暗くってびっくりしましたけど、駅前の旅館に泊まってよく眠れたし料理も美味しかったのでとても良かったです。」
「結果オーライといったところですね。あそこの女将さんの作る料理はどれもとても美味しいです。特に稲荷ずしは右に出る者はいない位絶品ですよ。」
「稲荷ずしですか。」
「この神社は稲荷社なので、狐が神様の使いなんです。狐の好物は油揚げなので、稲荷ずしがこの辺りの名物なんですよ。」
稲荷ずしと聞いて律子は子供の頃、祖母が作ってくれた甘い稲荷ずしを思い出した。祖母は稲荷神社を深く信仰しており、例祭になると必ず稲荷ずしを作り律子はいつもお相伴に預かっていた。
「稲荷ずしはありませんが、こちらのお菓子はお嫌いでしたか?」
宮下は用意したお菓子を全く手をつける気配のない律子に言った。
「いえ、そんな事ないですよ。」
律子はキットカットの封を開けて一口かじる。
「美味しいです。キットカットなんて本当に久しぶりに食べました。」
「あまりお菓子は食べないんですか?」
「今はあまり食べたいなんて思わなくなりましたね。子供の頃は好きでボリボリ食べてました。特にキットカットとハッピーターンが大好きで。」
そこまで言い終わると律子は出されたお菓子が全て小学生の頃すごく好きだったお菓子だという事に気付く。
「このお菓子は氏子さん達が供物としてうちの神社に上げていたものなんです。口にあわなかったのかと思ってしまい心配になってしまいました。」
宮下は軽く笑いながら律子と同じキットカットを手に取ると一口で食べてしまった。
「そう言えば、お参りされているお姿を見た時とても思い詰めた表情で手を合わせていらしたみたいですが何か悩み事があるのですか。」
「えぇ、まぁちょっと俗に言うストーカーの被害にあっていてそれに関してお参りしていました。」
「ストーカーとはあまりいい話ではありませんね。律子さんぐらいにお綺麗な方はとても大変ですね。」
「そういうのじゃないと思うんです。ただ仕事上愛想よくしてたら好意と間違われて、人間関係って難しいですね。」
「それは大変でしたね。もしかしてこちらに来られたのも何か関係がありますか。」
「はい、昨日駅でストーカーが私を待っていたので巻くために中央線に乗って青梅まで着いたは良かったのですけど、乗る電車を間違えてここまで来てしまいました。」
律子は冷めてしまったお茶をすすりながら言った。
「この神社は稲荷様を祀っております。稲荷様はどんな願いも叶えてくれる神様なので必ず、律子さんのお願いも叶えてくれますよ。」
「何でも叶えてくれるんですか。」
律子は宮下に必ず叶うと言われて沼田を殺してくれと懇願した事に後悔を覚えた。
「優しいんですね、律子さんは。ストーカー相手に憐れみを持つなんて。」
宮下はボソリと独り言のように言うと急須を取って空になった律子の茶碗にお茶を淹れ直した。
「何でもとは言い過ぎでしたね。うちの氏子さんは高齢の方が多いのでここでお願いすると無くしものが見つかるとかよく聞くんですよ。願いが叶うなんてそんな些細なものです。」
「そうですよね。私ったら、何考えているんだか。」
律子は冷や汗をかいている額にハンカチを当ててそっと拭った。
「おや、もうこんな時間ですね。」
宮下は時計の時間を見て言った。時間の針は9時半を指していた。
「こんな老いぼれの話し相手になっていただきありがとうございます。鳥居の前までお送りします。」
宮下は立ち上がると律子を鳥居の前まで見送った。
「道中お気をつけて。」
律子は宮下に深く頭を下げると駅の方に歩き出した。
 狐森駅に着くとちょうど電車が来たところで律子は少し早足で電車に乗り込んだ。
 車窓から狐森の集落が見えなくなると辺は山々と森が延々と続いた。
 律子はバッグを抱え席に座ってしばらくは景色を眺めていたが、疲れがまだ残っていたようで目を閉じてそのまま眠ってしまった。
 次に目を開けて見えた車窓は先程と同じ山々の風景だったが、先程と違い民家や畑ががチラホラと見えて人の住む場所に着いたという安心感があった。
青梅駅に着くと列車は律子を下ろすと再びどこぞへと走り出した。
律子は大きく伸びをすると丁度来ていた東京行きの中央線に乗り込んだ。
乗客は律子を含めた数人で年寄りや近くの中学生位の男女がグループに別れて個々に座っていた。
律子は1番端の座席に座り何をするでもなく発車前の駅の様子を眺めていたが、電池の切れていたはずのスマホが震えだし通知が来たことを律子に知らせる。
驚いた律子はスマホを手に取り電源ボタンを押した。
すると、昨日は全くびくともしなかった画面に友達とディズニーランドに行った時の写真が映り、私宛に来た数えきれない通知が画面を埋め尽くす。
 律子は送り主の名前を見るとすぐにスマホをしまい目を閉じて家に帰ったら何を食べようかと考えた。
 月曜日になり、律子は憂鬱な気分を抱えてタイムカードを押した。
「律子。全然連絡くれなかったけど大丈夫。」
律子を待ち伏せていた沼田が甘ったるいまとわりつくような声で言った。しかし、律子は沼田と目を合わせる事をせず「おはようございます」とだけ言って通り過ぎる。沼田は他にも何か言っているようだったが、律子は無視を決めて机のパソコンの電源を付けた。
「三山さん、今日随分塩対応だね。」
沼田との様子を見ていた隣の席の佐々木が律子に言った。
「色々考えてみた結果、相手にしないのが一番いいかと思いまして」
「そうだね、三山さんは丁寧に相手にしすぎだもん。少しぐらい、自分の意思表示をしてもいいと思うよ。」
彼女はそう言ってチョコバーを差し出してくれた。
 沼田は一限目の授業が終わると当然のように事務所に入り込んでパソコンに向かい合ってる律子に声をかける。
「律子、今日俺と一緒にランチでも行こうよ。お前の好きそうな店見つけたからさ。」
しかし、律子は今朝同様に沼田を相手にする様子もなくただ黙々と作業をする。沼田は「機嫌直してくれよ」と律子の髪を撫でるが一向に反応がない。律子の態度に理解を示そうとしない沼田は遂に怒りそばにあったゴミ箱を蹴飛ばした。
「おい、さっきから何だよ。無視するんじゃねえぞ。」
沼田は全く見向きもしなくなった律子に鼻息を荒くしながら言った。
「沼田先生、仕事中ですので邪魔するようでしたら出て行ってもらえませんか。」
「お前何様のつもりだ。」
沼田は律子の胸ぐらを掴むと顔を真っ赤してツバを飛ばしながら怒鳴りつける。
「沼田先生何やってるんですか。」
近くの席の若い事務員が止めに入るが、沼田は更に暴れ出し手当たり次第に物を投げ始める。そのうちに、騒ぎを聞きつけた数人に沼田は取り押さえられて事態は収束した。
沼田が数人の職員に取り押さえられて事務所から出ていくと我に返ったように静かに泣き始めた。
「三山さん、大丈夫?」
席を外していた佐々木が戻ると床にへたり込んだ律子を椅子に座らせた。
「大丈夫です。すいません、迷惑かけちゃって。」
「いいのよ。怪我とはしていない?」
「私が我慢出来ていたらこんな事にならなかったのに。」
律子はことの発端となった今朝からの沼田に対する態度を思い出し、両手を顔に当てた。
「三山さんは何にも悪くないわ。今日は仕事が出来ないでしょう。私から言っておくから帰りなさい。」
佐々木は律子の肩を擦って泣き止むまでずっと付き添ってくれた。
涙が止まり、赤く腫れた目元を気にしながら予備校から出ると新宿駅から埼京線に乗って家に帰った。
家に帰ると母親も祖母も誰もおらず律子は化粧を落として布団に潜り、今日起きた事を振り返る。
今まで刺激しないように沼田と接していたにも関わらず今日に限ってはあからさまな態度で沼田と接して沼田を逆上させて周りに迷惑をかけてしまった。
律子はなるだけ周囲の空気を読んで行動する人間だったので、今日のような事は自分でも驚いていた。
頭の中をぐるぐると色んな考えが浮かんでは来たが、沼田が再び自分を襲いに来たらと考えると怖くて仕方がない。
律子はこんな騒ぎになる前に職場や警察に相談するべきだったと後悔しながら、スマホを見て沼田からの着信がない事に安堵した。
夕食になり、律子は母親の作ったとんかつを食べていた。
「律子、今日は食欲ないの?」
母親は全く箸の進まない律子に言った。
「うん、ちょっとね。」
律子は家族に心配をかけまいと笑顔を作る。律子の祖母は顔の青い律子を見て不安な気持ちを隠せないようだった。
「りっちゃん、具合でも悪いの。」
「大丈夫、少し疲れているだけだから。」
「それなら、早く寝ちゃいなさい。」
律子は母親の言葉に従い、再び布団に潜り目を閉じた。
その夜、律子は息苦しさで目を覚ました。胸の上に何かが乗っかっているようで、何かボソボソと言っているようだった。 乗っかっている何かを払いのけようと律子は手を動かそうとするが体は全く動かない。
「りっちゃん、りっちゃん。」
乗っかっているものは男の声で律子の名前を延々に呟いていた。
「りっちゃん、りっちゃん。」
段々と両方の胸の上に乗るものが重くなる。それと同時に律子は呼吸ができなくなり、そのまま 気絶して朝まで目を覚まさなかった。
律子が目を開けると頭痛と倦怠感がひどかった。無理矢理体を起こし体温計で熱を測っても平熱だったが、昨日の事があり職場には行きたくなかったので枕元のスマホを取って休む旨を伝えた。
職場では当然昨日の事は、話題にもなっていたので電話の相手も落ち着くまで休むよう律子に伝えた。 スマホを枕元に戻すと律子は横になり、再び目を閉じた。
二度寝から起きて、リビングに降りると祖母がお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「りっちゃん、おはよう。体の調子はもう大丈夫かい。」
「うん、心配かけちゃってごめんね。もう大丈夫。」
律子は台所にあった食パンをトースターに入れて水を入れたやかんに日をかける。
「それにしても、りっちゃんが元に戻って安心したわ。土曜日帰って来た時は別人みたいになって いたからみんな心配してたのよ。」
「別人?」
「りっちゃん、土曜日ただいまも言わずに家に帰って来たと思ったら部屋に入ってご飯の時でさえ顔を出さないんだもの。何かあったんじゃないかって、」
律子の祖母は焼き上がった食パンを皿にのせている律子に言った。
「色々考えてたからかな。」
「何かあるんだったら、おばあちゃんに何でも話してね。」
「ありがとう、」
律子はやかんの注ぎ口から湯気が出ると火を止めてマグカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐとテーブルに向かった。
律子は焼き上がったトーストとコーヒーをテーブルで食べながら、土曜日帰って来てからの自身の行動を振り返ってみた。狐森駅から電車に乗って青梅駅から中央線に乗った事は覚えているが、それから月曜日の以前の記憶があいまいだった。改めて考えると沼田の一件以前の自分の行動は例えるなら自分の意志ではない何かに操られているような感覚であったように思えてくる。
律子は自分が起こした行動なのに自分の行動とは思えない事に頭が混乱する。
「りっちゃん、大丈夫かい。」
気難しい顔をして頭を抱える律子に言った。
「おばあちゃん、土曜日帰って来てからの私ってそんなにおかしかった。」
「そうね、目が虚ろでりっちゃんが昔狐憑きにあった時を思い出した。」
「狐憑き?」
律子は聞き慣れない言葉に思わず聞き返した。
「りっちゃんが小学生の時不登校になった時期があったじゃない。その時大鷲さんの所で狐を憑けてもらった時と様子が似ていたわ。」
「そんな事あったっけ。」
「私も詳しい事はよく分からないけど、大鷲さんの所に行ったら何も話さないりっちゃんの話し相手に狐を憑けあげるって言われたのよ。」
律子は小学生の時、ひどいいじめを受けて家族にも話せないで苦しい思いをしていた。学校に行かなくなっても家族ともうまく話せなくなって、何をするにも怯えてしまっていた。外に出て同世代の子供と目が合うものなら直ぐに泣き出してしまっていた。
しかし、それも時間が解決してくれるもので家族ともいつの間にか話せるようになっていた。学校もいじめについて真剣に取り組んでくれたのといじめていた同級生が不登校の間にいなくなっていたおかげで学校にも戻る事が出来たと自分ではそう思っていた。
「りっちゃんが不登校になってからいじめの事を知ってずっとお母さんと一緒になって泣いていたのを今でも覚えてるよ。半年してもりっちゃんは心を閉ざしたままで、見ていて本当に辛かった。」
祖母は思い出して涙を流し、そばにあったティッシュで拭う。
「そんな時に大病を患っていた大鷲さんが帰って来たっていう話を聞いてりっちゃんと一緒にご自宅へ行ったの。」
律子はその時の事を覚えていた。帽子を深く被った小学生の律子は祖母に連れられて無数の狐の置物のある神社に連れて行ってもらった事があった。社の隣の平屋の建物の中に入り座敷の座布団に座る肌の白い痩せこけた大鷲に会うと律子は手を握られてた。大鷲は何も言わない律子に対して涙を流して「辛かったね」と声をかけて今までの事を全て言い当て律子を驚かせた。そして、社の中に連れて行かれて大鷲が呪文のようなものを唱えていたところまでの記憶は律子にあったが、その後の記憶が曖昧な事に初めて気がついた。
「りっちゃんは家に帰ると1人で誰かと楽しそうに話したり、遊んだりするようになってね。お父さんもお母さんも不気味がって病院に連れて行った方がいいとか話をしていた位よ。だけど、その日からりっちゃんは少しずつ私達に話をしたり笑ってくれるようになったものだから独り言を言ったりするのはすぐにみんな気にしなくなったわ。」
律子は寝耳に水な祖母の話に耳を傾けている事しか出来なかったが、うっすらと心を許せる遊び相手がいて話したり遊んでいたような気がしていた。
「土曜日のりっちゃんの目がその時の目とよく似ていたから、おばあちゃんびっくりしたわよ。でも、今回は変な事言わなかったから安心したわ。」
「変な事?」
律子は誰もいないのに笑って話している以上に不気味な事をしたのだろうかと思わず聞き返す。
「あれは、大鷲さんの所に行ってから1ヶ月位経ってからね。りっちゃん、リビングで絵を描いてたりしていたのに突然真剣な顔で目の前にいる誰かさんの話をして私の所に来てさっき見ていた所を指さして、『私、この人と結婚するの』って言ったの。」
祖母は律子がよく遊んでいた窓のそばを見た。
「大鷲さんの所に行ってからずっと相手をしてくれる狐さんの話をよくするものだからその延長だと思ってはいたのだけど、りっちゃんと私しかいないはずなのに変な視線がりっちゃんの指差す方からしたのは今でも忘れられないよ。」
窓の外では雨が降っているようで雨音がリビングに響いた。律子は窓を見ると自分と祖母の姿が映り込んで2人共、じっと外の様子を見ていた。
「でも、その翌日から狐さん狐さんって言っていたりっちゃんが狐さんについて話さなくなったのよね。私が狐さんについて聞いても分からないって言うだけで、それからりっちゃんは元のりっちゃんに戻って学校も行けるようになったのよ。」
祖母は立ち上がると緑茶を淹れる準備をし始めた。
「りっちゃんも飲む?」
祖母は2人分の湯呑を出しながら律子に尋ねた。律子は「飲む」と一言答えると言葉通り狐につ ままれたような事柄が以前も起こっている事を知り背筋を凍らせた。
 この日の夜も金縛りに律子はあった。
「りっちゃん、りっちゃん」
昨夜と違うのは乗っかっている何かの熱く苦しそうな息が律子の顔に当たって顔に汗が出ている 事だった。
「りっちゃん、りっちゃん」
何かは律子の顔に近づけていく。
「りっちゃん、りっちゃん」
その生臭い息が口元に迫って来るところで律子は意識を失った。
沼田の件から職場に行かなくなって1週間が過ぎた。流石に次週の月曜日になっても仕事に行かないのは不審だろうと考えた律子は意を決して日曜の昼、全員揃った家族に職場であった事を伝えた。律子の家族は、全員涙ぐんで「辛かったね」と「今までよく頑張って来たね」等を律子に言った。
「そうすると、仕事は辞めるのか?」
律子の父親は尋ねた。
「そのつもり。職場はいい人達ばっかりだったけど、あそこに戻るのはすごく怖い。」
「まぁ、3年同じ場所で働いていたんだ。心機一転、別の仕事を探すのも悪くないだろう。」
父親はお茶を啜るとテレビを付けた。
テレビでは茨城のどこかの駅で今朝起こった飛び降り自殺について報じていた。現場へやって きたリポーターが中継しており、事件の起こった駅周辺は田んぼしかない場所だった。駅には中が見えないように仕切りがしてあり、騒然とした雰囲気である。
中継からスタジオの映像になり、飛び降り自殺をした人物の顔写真が出た時律子は思わず言葉を失った。
白い丸顔の男、まさしく律子にストーカーを繰り返していた沼田本人だったのだ。
「あら、随分と不健康そうな人ね。仕事が嫌でこんな休日に飛び降りたのかしら。」
母親の呑気な言葉なぞ律子の耳には全く入らなかった。
律子は狐森稲荷でお願いした沼田を殺して欲しいというお願いをした事が頭に過ぎる。 普段の律子の考えではたまたまこういう事故が起こったという感覚でいただろうが、狐森から帰ってから不審な事が立て続けに起きた。
狐森から帰って来てからの律子の行動、今現在起きている奇妙な金縛り、そして子供の時の狐憑きが律子には偶然ではないのではと律子は考えずにはいられなかった。
夜になり1階の祖母の部屋に入ると祖母は布団に入る所だった。
「おばあちゃん、ちょっといい?」
「りっちゃん、どうしたの。」
祖母は心配そうな面持ちで律子を見る。
「月曜日に話していた大鷲さんの家はまだあるの?」
「あるわよ。大鷲さんのおじいさんは亡くなられてしまったけど、娘さんが今も拝み屋さんをしているわ。」
「その人の所に行きたいんだけど、連絡先を教えてもらえたりする?」
律子は歯切れが悪く祖母に尋ねた。祖母は律子の頼みについて察して理由を聞く事はなく、手書きの電話帳を棚から出してチラシの裏に電話番号を書いた。
「平日ならいつでもつながると思うから、明日にでも電話してみるといいわ。」
「夜遅くごめんね。」
「りっちゃん1人で大丈夫?おばあちゃんもついていこうか?」
「ありがとう、でも大丈夫。明日電話してみるよ。」
律子は祖母の部屋を出ると自分の部屋に行き、眠気が襲ってくるまでベッドの上でスマホをいじった。
「りっちゃん、りっちゃん」
今夜も律子の身に金縛りが起きたが、いつもと様子が違っていた。
「りっちゃんのお願いを叶えたよ。りっちゃんを苦しめていた奴は私が殺したよ。」
何かは目をつぶり動けない律子に向かい言った。何かは律子に向い延々と話しかけているが、身動きの取れない律子はただただ聞いてるしか出来ない。
「もうすぐだよ、結納の準備が出来たらりっちゃんを迎えに行くからね。」
そう言うと布団の上から律子の下半身を撫で回し熱い息を律子に吹きかける。
「りっちゃん、りっちゃん」
何かの荒い吐息が律子の顔に近づく。律子はあまりの気持ち悪さに必死で振り払おうと体が動くように意識しているとようやく右手だけが動かせるようになり、上に乗っかっている何かを掴んで力いっぱい払いのけた。何かは音もなく律子の上から離れて、それと同時に律子の身体は自由になった。
律子は左手で部屋の電気を付けて先程まで乗っかっていた者の正体を確かめようとした。しかし、部屋の中には小学生の時に買ってもらった学習机とお気に入りのぬいぐるみがあるだけで荒らされたり、外から入って来た様子はなかった。
律子は何かを追っ払ってからずっと拳を作ったままの右手に目がいく。ゆっくりと開かれた手の中には銀色の毛が無数にあり、それが狐の毛である事はすぐに察しがついた。
 朝になり、律子は祖母から教わった電話番号にかけてみた。5コール程続いた呼び出し音の後、不機嫌そうな女の声がスマホから聞こえてきた。
「どちら様。」
「はじめまして。私は三山律子と言います。祖母がいつもお世話になっております。」
「三山さんの所のお孫さんね。こんな朝っぱらか何の御用かしら。」
相手の女はいやみったらしく律子に言うが、律子はそんな事を気にしている暇はなかった。
「急にお電話してしまいすいません。実は狐に関する事で聞きたい事がありまして、出来るだけ早くお会いしたいんです。」
「狐?」
「説明のしようがないのですが、変な事に巻き込まれてしまっているみたいで。」
律子が順をおって話をしようとすると電話越しで女は急に態度を変えて「すぐにいらっしゃい」と言って電話を切った。
律子は身支度を済ませると祖母から教わった住所をカーナビに入力して、大鷲のところに向かった。
車を走らせて10分程走った閑静な住宅街に目的地はあった。
そこは小さな神社で中に入ると奉納品の白い狐が道以外の全てのところに所狭しに置かれていた。小さな駐車場に車を停めると律子は記憶にある社の隣の平屋の戸を叩いた。すぐに中年のツリ目の女性が出てきて律子を十畳程の座敷に招き入れた。
「手を出してちょうだい。」
女はそう言うと差し出された律子の両手を取り、静かに目を閉じる。それはかつて律子が大鷲の老人にしてもらった事と重なった。
「あなたの周りに狐の匂いがする。あなた最近、変な事が起きてるでしょう。」
「はい、実は最近毎晩、金縛りにあっていて、横になる私の上に乗って私の名前を呼ぶんです。昨晩は必死でもがいていたら右手が動かせたので振り払ってみたらこんなのを掴んでいて。」
律子は小さなビニール袋に入れた狐の毛を女に見せた。
「間違いなく狐だね。しかも、相当年老いた狐だ。金縛りにあう前に稲荷神社とか狐に関係する場所に行ったりした?」
「実は、先々週電車を乗り間違えて狐森という場所に行きました。そこの狐森神社にお参りをしました。」
女はそれを聞くとすぐに律子を連れ出して社の中に入れた。
社の中はとてもひんやりとして身体中の体温が抜けていくようだった。
「ここに座って、」
女は簡易的な椅子を出して律子を座らせると律子の背中に手を当て何か呪言のようなもの唱え始めた。後ろで女は体を揺すったりすすり泣き、何がどうしたのか律子は混乱しながらもじっと終わるのを待った。
女の手が肩に移動すると肩の上に大きな重圧がかかったようになった。
あまりの重さに引き剥がそうかと思ったが、その場の雰囲気なのか何かがそれを許してはくれなかった。
ようやく肩から手が離れると律子の肩も途端に軽くなった。
「あなたは招かれて狐森に行ったのね。そして、そこでした願い事の対価としてあなたが欲しいみたい。」
「対価?」
「神様に頼むというのに無償という訳にはいかないの。特に狐ならなおさらね。」
律子は後ろを向いて女を見ると、女は不可思議と言わんばかりに律子をじっと見ていた。
「一体、どこであなたは狐に見初められたのかしらね。自ら招いて合法的に取引するなんて初めて見たわ。」
「あの、祖母から聞いたのですけど。昔、こちらのおじいさんに私、狐をつけてもらっていたみたいなんです。その時に何か『この人と結婚する』って、言っていたみたいで。」
「父の事があなたに狐をつけた?」
女は寝耳に水というふうに律子に聞き返した。律子も自分の記憶にはない事で何とも言えないが、祖母の話だとそうだと伝える。
「私の父はね、とても力のある人だったの。狐を何匹も従えてたくさんの人を救ったわ。その狐の中でも一番力の強くて賢かった狐がいたみたいで、よく彼を困っている人の元に行かせていたそうよ。話を聞く限りだとあなたが昔憑けてもらった狐と今回の狐は同じものね。」
「従えていたなら、大鷲さんの力で何とかなりませんか。」
「私には狐を操るだけの力はないの。それに父に従っていた狐は父が亡くなるとどこかへ行ってしまったみたいで、私もあなたが来るまで存在を忘れていたわ。口約束だけじゃなく、願いを叶える事で対価としてあなたが欲しいなんて相当な執念ね。」
「どうにもならないという事ですか?」
律子はこのまま昨晩言っていた通り得体のしれないケダモノのものになってしまうという絶望感に打ちひしがれる。
「私に出来る事はこれくらいなものね。」
そう言うと女は首にかけていた赤色匂い袋のような物を律子の首にかけた。
「これは狐除けのお守りで、中にはオオカミの毛が入っているの。ごめんなさいね、私ではなんの力にもなれそうにないわ。」
頭を下げる女に律子は「ありがとうございました」と礼を言うとそのまま家に帰った。
しかし、律子の心配とは裏腹に大鷲の所に行ったその日から金縛りは起きなくなった。 しばらくは用心をしていた律子であったが、2週間が過ぎてもおかしな事が起こらなくなったのでいつの間にか狐の事を気にしなくなっていた。 再就職先を探しながら、日々を過ごしていた律子は久しぶりに大学時代の友人から飲みに誘われた。 不安要素から開放された律子は友人達と楽しく飲んで気づけば時刻も11時を回っていた。
友人達と別れた律子はいつもよりも酔いが回っており、川越駅に着くと一休みのつもりでベンチ座って眠ってしまった。
次に律子が目を覚ますとよく知る川越駅のホームではなく、古びた電車の中にいた。 律子も最初は酔いが回って変な夢を見ているのだと思っていたが、意識がはっきりしていくうちに本当に電車に乗っている事が分かった。
しかも、この車内にはとても見覚えがあった。木の床に赤いビロードの座席、この電車は狐森に行った時に乗った電車だったのだ。
だが、車窓は前回とは違い天気雨が降っているようで空は青々として美しかった。 電車のスピードが遅くなるとあの古めかしい狐森駅の駅舎が見えて来て、まもなく無人のホームに止まった。 ドアが開くと湿気を帯びた空気が律子にまとわりついて「外に出ろ」と促しているように思えた。
「お客さん、降りてください。」
青梅駅でこの電車に乗せた車掌が車内に入り全く降りようとしない律子に言った。
「降りてください」
律子は降りたくない思いで必死だったが、車掌が腕を掴んで無理矢理ホームに出す。車掌は運転席に戻ると電車は再び走り出して行ってしまった。行ってしまった電車を小さくなるまで見送っていると駅舎から複数の人がきて律子を取り囲んだ。
「お待ちしておりましたよ。」
一夜を過ごした駅前旅館の女将さんが現れて律子の手を引くと連れ立った人達を連れて旅館の中に入っていった。
食事を取った広間に入ると律子は身ぐるみを剥がされて純白の打掛に着替えさせられる。そして鏡台に座らせられると参道で土産物屋をやっていたおばあさんが律子に白粉を塗って唇に赤い紅をさした。
「やっぱり花嫁さんは、綺麗だや、」
出来上がった花嫁姿の律子を見て周りにいる女達が楽しそうに笑った。律子は抵抗する事は何も出来ずただされるままだった。
「あれま、花嫁さん。泣いとるよ。よっぽど宮司さんのとこに行くのが嬉しいんだな。」
周りは律子の事などお構いなしにことを進めて行き、角隠しを被せると律子を外に出した。
外には駅から迎えに来て旅館に入った年寄り連中とは違う若衆が律子に頭を下げる。
「行きましょう。」
いつの間にか紋付きに着替えた女将が律子の手を引くと、若衆のひとりが律子の頭上に番傘をさした。そして、先頭の若い男が手に持った銀色の錫杖を付きながら歩き出した。
一行は狐森神社への参道をゆっくりと進み、律子の後ろには着飾った10人ほどの人が続いた。
「あまり泣いてしまいますと、お化粧が崩れてしまいますよ。」
女将が白いハンカチで律子の目元を拭う。
律子は今すぐにでも逃げ出したい一心だったが、魔力というものなのだろうか全く体が言う事を効かない。
「こんな美しい天気雨は久しぶりです。神様もこの祝言を祝っているのでしょう。」
女将は社の後ろの虹を見ながら言った。
階段を登り、狐森神社の境内に入ると紋付袴の男が現れて深々と頭を下げる。そのまま、男に導かれるまま本殿に入ると宮下が律子の姿を見てにこやかな表情をする。
「とても綺麗だよ、りっちゃん。」
その声は金縛りにあった時に聞いた声と重なり律子は悪寒を感じずにはいられなかった。
花嫁道中に参加していた人が全て座ると本殿に案内をしていた男が装束に着替えて神前に立った。
低い声で祝詞を唱えているようで大幣を宮下と律子の前で振り回す。
男は全て唱え終えると漆塗りの盆の上に置かれた金色の容器から盃にお神酒のようなものを注いで宮下に差し出す。
宮下はそれを飲み干すと盃を返して再びお神酒を注いで律子の方を見てうやうやしく差し出した。
「りっちゃん、受け取って。」
律子はその言葉に操られるようにお神酒を受け取って口に運ぼうとするが、首にかけていた大鷲から受け取ったお守りの事を思い出す。 それと同時に体の自由が戻り、盃を捨てるとお守りを取り出して宮司に向かって投げた。
その瞬間にお守りの中に入っていた灰色の毛のようなものが飛び出して無数のオオカミの姿になり、宮司もろとも全ての人に襲いかかる。
「オオカミだ、」
本殿の中はひっちゃかめっちゃかになり、椅子でオオカミを追い払おうとするものもいれば噛みつかれて泣き叫ぶ人もいる。
律子は自由になった体で必死に重い白打掛を引きずって外に出ようとすると数匹のオオカミに襲われている宮下と目が合う。
恨めしく思うでもなく、悲しそうでもなく、ただ「どうして」と言わんばかりに律子を見ていた。律子が外へと走ると、地面がぶよぶよと柔らかくなって空間も歪み始める。閉められた戸に手をかけて外へ出ると同時に律子は真っ逆さまに地面に落ちてしまった。
 衝撃で身動きが取れないでいたが、動けるようになり周囲を見渡すとあの神社も狐森の駅も跡形もなくなくなってただの広い野原が一面に広がっていた。律子の荷物も服も濡れた草の上に散らばって、打掛と角隠しを取ると元の服に着替えた。
バッグからスマホを取り出して現在地を確認すると、奥多摩の方だと分かったので道に出てタクシーを呼ぶ事にした。脱いだばかりの打掛と角隠しに目をやると石の祠が置いてあった。
石の祠には小さな白い狐が祀られており、狐はじっと律子を見ていた。

狐森の怪

狐森の怪

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  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-09

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