心の真ん中
母と娘のはなしです。
主人公の祐美は二十三才のときに母に死なれます。祐美は母の死の以前から何か心に空虚なものを抱えていました。それは思春期の半ばあたりからのものでした。原因は不明です。特に原因と呼べるものはないのかもしれません。
祐美は母の死後東京の方へと移ります。相変わらず心のなかは空虚なままです。
時は流れ、三十三才になった祐美は、ある日ふと亡くなった母の写真が見たくなります。亡くなってから一度も、祐美は母の写真を見ていませんでした。祐美は押し入れから写真を引っ張り出します。そして母の写真を見てゆきます。
その後すぐに祐美は十年ぶりに地元の町へと帰ります。それは小学生まで母と買い物帰りによく訪れた公園と、そこにあった東屋にゆくためでした。
祐美は自分はあの東屋にゆくために、三十年四十年五十年、何十年も歩いてきたのだ、というようなことを、公園のなかの、木々に囲まれた遊歩道を歩きながら、感じます。祐美は東屋にたどり着きます。そしてベンチに座り、母に語りかけます。
【】で囲ってあるところはほんとうは傍点を振りたかったのですが平仮名は振れなかったのでそうしました。
ここから本文です。
祐美が二十三才のときに、母親は亡くなった。体調不良が続き、医者にゆくと、検査の結果乳がんのステージ3と告げられた。
即手術となり右の乳房を切除したが、他の臓器への転移も見つかった。抗がん剤治療をすることになった。
母ひとり子ひとりの家庭だったので、祐美が仕事から戻るまで、母とはあまり仲の良いとはいえない、母の姉が母の世話をすることになった。
祐美は子供のころ、ある意味異常なほどのお母さんっ子だった。
母の仕事の帰りが少しでも遅いと、何かあって死んでしまったのではないかと不安になって、泣き出すような子供であった。
そして玄関の鍵が開くがちゃりという音がして、扉が開き、母の姿が見えると、安堵のあまりまたさらに泣くのだが、そんなとき、母の祐美に対する態度は日によってまちまちなのだった。買い物袋を床に置いて同じように涙ぐみ、祐美を招き寄せ抱きしめることもあったし、別の日には近所の人にみっともないと言って怒りで顔を固く強張らせ、祐美の手からヌイグルミを奪い取ると癇癪を起して踏みつけたこともあった。
しかし祐美は母の愛を疑ったことは一度もなかったし、事実、彼女は祐美を愛していた。
そしてそれはほんとうに、感謝すべきことなのだ。
さて、祐美は小学校を卒業すると隣の県にある中高一貫の女子校に通い始めた。
そして祐美はそこでの六年間、なんと、ひとりも友達ができなかったのだった。
いやはやまったく、そのような事態は祐美自身、入学以前には想像すらできないことであった。小学生のころには友達がたくさんいたので、それがあたりまえで、友達がいない、できないという事態というものは、まさに、想像の範疇の外側にあるものだったのだ。それは歩くことができるだとか夜眠ることができるだとかと同じで祐美にとってしごく当然のことであった。よって、いくらか人見知りをするという自覚はあったが、中学に上がっても友達ができるということを疑う気持ちはまったくなかったのである。
しかし蓋を開けてみると、事前に予期していたものとはまったく違う方向に、祐美の学校生活の歯車は回り始めたのだった。
教室では、日が経つごとにあちこちにグループが形作られていった。
そこからは、気の置けない笑い声やふざけ合いの声、手をとったり抱擁したりおんぶしたりなどのスキンシップ、宿題を見せ合う、腕を組んで肩を押し合い、きゃははと笑い合いながら連れ立ってトイレにゆく、そんな光景が、どんどんあたりまえのものになっていったのだった。
振り返ると、最初の日、みんなの、緊張した、固い表情。
どちらかというと進学校といえるかもしれない学校だけに、公立の学校に比べてみなおとなしくてまじめそうである。どうやら以前からの友達である、ひとつやふたつの対なんかを除いては、最初の日には教室内のどこにもつながりは見られず、四十弱の個々の者たちは、トイレにゆくにも固い表情でひとりで向かい、教室の四角形のなか四十に区分けされた己の狭いテリトリーのなかで、静かに神妙に息を潜めながら、周囲の様子をうかがっている。次の日。ひとりひとりを物色する。なんらかの動きが起きるのに目を光らせる。次の授業の教科書を出してそれをパラパラとめくりながらも、意識はすぐに周囲の動静へと戻ってゆく。(あっ。あっ! あちらで、見知らぬ者同士が会話を交わしている! たしかにあのふたりは見知らぬ者同士のはずだ! 前からの友達同士ではないはずだ! やばい!)みんなの意識も、そちらへ注がれているのがわかる。そしてみんなも思っている。やばい! と。
数学の教科書の数式などに意識を注いでいるふりをしながら、さらに意識を教室のあちこちに向ける。(あっ! あっちでも話してる! しかも三人で! ちいさい声だけどすごく楽しそうに! あっ! 笑いながら前の子の頭にチョップした! あの三人は前からの友達じゃない。昨日始業式で初めて会った人たちのはず。なに? うそでしょ? もうそんな仲になってるの? やばい! 教科書なんて見てる場合じゃない! 話しかけないと! 隣の子…… だめだ…… あんまり仲良くなれそうなタイプじゃないな。なんとなく…… こっちの子は…… うん、よし、いけ!
「あのさあ…… 坂本さんだっけ? どっからきてるの?」
さて、そんな感じに、クラスは動き始め、初めの日、ほぼ四十にくっきりはっきり分かれていた教室の内部は、日が経つごとに徐々に混ざり始め、混沌としてきて、グループが生じ、そしてどんどんと活気を帯びて賑やかになっていったのだった。
もちろん、そんななかでもなかなかどのグループにも入れず、ぽつんとしている子たちもある時期まではいた。しかしそんな子たちも、一学期が終わるころには、ようようなんらかのグループに吸収されていったのだった。
ひとりを除いては。
そのひとりがそう、祐美である。
友達がいないという事態。
しかもクラスで【自分だけ】友達がいないという事態。
どのグループにも所属できていないという事態。
【この自分】が、そんなふうになっている。
さてとりあえず、他のことはさておき、祐美は母にこの事態がばれるのを怖れた。
というのも、母が「そういう類の子」を【認めない】ことを祐美は知っていたからである。
しかしいつまでも隠しおおせるものではない。
まず、五月に行われた初めての参観日である。
その日の夕方、帰ってきた母が祐美に言った。
「あんた、ずっとぽつんとしてたけど、友達できてないの?」
さきほども言ったように、母が、友達のいない子の母であることを受け入れられないことを祐美は知っていた。
生まれてから十二年も生活を共にしていると、その人がどういった子供を望み、どういった子供を忌避するかというのは、だいたいわかるものである。
そんな母の祐美に向けたその声音には、強い不安と、幾ばくかの苛立ちが滲んでいた。
祐美は適当にはぐらかした。
しかしいつまでもごまかしきれるものではない。
そしてそのうち事態は発覚した。
母はある日、夕食の最中に、箸をテーブルのうえにかたりとおくと、はあっ!と息を強く吐きだした。それから「友達のいない子ってたまにいるけど、まさか自分の子がそうなるなんて!」と吐き捨てるように言った。
かくして、祐美は学校にも家にも居場所がなくなったのだった。
ところで、なぜ祐美は友達ができなかったのだろうか?
今となってはそれはよくわからない。
もともと人見知りをするところはあった。
かしいったん打ち解けると、その後はとことん気安い仲になれる性格のはずだったのである。
まあいずれにしろ、事実として祐美はその後誰とも打ち解けることができなかった。
学年が変わり、クラスが変わっても、そして高校に上がってもそれは変わらなかった。
祐美は結局思春期という激動の時代を、友達がひとりもいないというかなりヘビーな状態で過ごすことになったのだった。
実際、その時代は激動の時代だったのだろう。
高校を卒業するころには、もはや祐美は以前の祐美とはちがっていた。
祐美の目には、かつてとは世界がちがったふうに見えるようになっていた。世界をちがったふうに感じるようになっていた。
そういった変化のなかでもわかりやすいものとしては、まず「他者への関心の減退」があげられるだろう。
少なくとも中学までの祐美には、友達はいなかったとはいえ、まだまわりの者たちへの強い関心があった。
しかし高校を卒業するころには、どうやらそれはちがってきていたようだった。
いや、「関心」というのとはまたちがうのかもしれない。
「誰のこともちゃんとしっかりと求めることができなくなった」
これが祐美の変化の一端を表す、一番適切な表現になるかもしれない。
そういったことを含めて、祐美はほんとうに子供のころとは別人になってしまったのである。
ではどんなふうに別人になったかというと、それは性格的なものというよりも、おかしな言い方になるかもしれないが、「世界との関係性が変わった」、という言い方が、一番ぴったりくるかもしれない。
かつて、子供のころ、祐美は世界と共にあるような気がしていた。
いや、そんなことは特に意識などしていなかった。
ただそんなふうにしてあった。
しかし思春期を通過したあとの祐美にとって、世界は【異物】であった。
不可解極まりない【異物】であった。
そしてそんな世界のなかで、人々のなかで、当然、祐美自身は【異物】であった。
しかし、だとすれば、祐美はなぜそんなふうになってしまったのだろうか。思春期という極めて重要な時期を、ひとりぼっちで過ごしてしまったからであろうか。
そして、居場所が与えられなかったからだろうか。
まああるいは、そういったことも幾分かは関係しているのかもしれない。
しかし祐美自身は、自分は、こういうふうになるべくしてなったのではないかという気が、するのであった。
原因などというものがあるのだとすれば、それはずっと昔、ほんのちいさいころ、あるいはもしかすると生まれるずっと以前、そんなところにあるような気が、するのであった。
大洪水による水の流れが周囲の地形をまるっきり変えてしまうように、そこから溢れ出した巨大な流れが、私を今あるような私にしたのだ。私はこうなるべくしてなったのだ。決まっていたのだ。原因となる【それ】は時期が来るのをじっと待っていた。そして私が思春期にさしかかったあたりで【それ】は芽吹き、そこから溢れ出した有無を言わせぬ流れが、私を今ある私にしたのだ。必然だった。善いとか悪いとか言ったところでしかたがないのだ。
そんなふうなことを祐美は漠然と思うのだった。
祐美は母の看病をした。
しかし祐美はいったいどれほど、ほんとうに、親身になれたのだろうか。
六年間、居場所を与えてくれなかったことに対して、あるいは多少恨む気持ちはあったかもしれない。
しかし実際には、そんなことは今更たいした問題ではなかった。
祐美は高校を卒業してファミリーレストランでバイトを始めた。
最初は苦労したが、徐々に仕事にも慣れ、同僚との付き合いの方も無難にそれなりに、こなせるようになっていったのだった。
学生時代、教室のなかでは、もう完全に開き直って、ひとりで本を読んだりして過ごしていたわけだが、社会に出てもそういう態度を継続するというわけにはいかないことはわかっていた。
それで最初は必死になった。
すると自分がそれなりに(あくまでそれなりにではあるが)なんとかうまくできるということがわかった。
もちろんなかには苦手な人もいたが、そういう人とは適当に距離をとって、それなりにつきあった。
そして祐美はそういう職場での人間関係も仕事も楽しいとさえ感じるようになっていたのだった。
そんなふうに日々は過ぎ、祐美は二十三才になった。
そして母が病気になった。
かつて、小学五年生の夏休み、母と、従姉のお姉ちゃんと、トランプ遊びをした日のことを、祐美はふと思い出すのだった。
西日の射す、蒸し暑い、気怠い空気の立ち込めるリビングルームで、テーブルを囲み、汗をかきながら、頭に白い手拭いを巻き、赤い半ズボンにダボッとした白いティーシャツ姿の化粧っ気のない母と、真っ黒でさらさらの髪を首の真ん中あたりできれいに切り揃え、黒地に襟と袖の部分が白く縁取られたワンピースを涼し気に着こなし、横座りに座る従姉、そして祐美の三人は、楽しくトランプ遊びをしていた。
時間帯のせいもあるのだろう。夕暮れ時であった。祐美はぐらぐらと気持ちが、揺れ動き始めたのだった。
喜々たる気持ちであふれていた祐美の胸のなかに、つよい寂莫の思いが広がり始めた。
すると祐美には死神の黒い影が、目の前の母のすぐそばにあるように見えた。
ニコニコしながら手元のカードに目をやっている母の向こうに、真っ黒い死が、はっきりと見えた。
この笑顔もやがて消えて、あとには冷たい死だけが残る。
それが何年何十年後のことかはわからないが、いずれにしろ、祐美にはそれはもうすぐ目の前のことであるような気がした。
そして、この自分自身の死も、すぐ目の前のことであるような気がした。
すべての楽しいあたたかい時間は過ぎ去り、あとには冷たい暗い死の沈黙だけが残る。
祐美は三人での楽しいトランプ遊びの最中に、向かい合う母に対する愛しさの思いの絶頂のなかで、母がいずれいなくなってしまうということを、そして二度と会えなくなるということを、生まれて初めてはっきりと意識したのだった。
祐美はその日の夕食の席で、しくしくとすすり泣き始めた。
母は心配してどうしたのかと尋ねた。
祐美は泣きながら「死にたくない」というようなことを言った。
母は「あんたは幸せなんだね。幸せだからそんなことを思うんだね。世の中には不幸な子もいっぱいいるんだよ」というようなことを言った。
もっと昔、四つか五つの、祐美がまだほんのちいさいときのことだった。祐美は同じようなことを母に訴えたことがある。夜中のことだった。暗いなかで目が覚めて、突然己の「死」というものを生まれて初めて意識し、恐ろしくなったのだ。
母に泣きつき、そしてそのとき母が娘にかけた言葉は「大丈夫大丈夫。あんたのことはかみさまがなんとかしてくれる」というようなものだった。
そしてちいさい祐美は安らかに眠った。
小学五年生の祐美も、安らかな気持ちに戻った。
入院から四か月ほどで母親は亡くなった。
早い段階で積極的な治療から、痛みなどの身体的苦痛を取り除くことを中心とした治療に切り替えていた。
母は生きることに対する執着が少なく、死をあまり怖れていないようだった。
そしてあまり苦しまず、静かに息を引き取った。
祐美は母の死というものを、母がもうこれまで、というところにくるまで、うまく感じることができなかった。意識もしっかりしていたし、自分で立って歩いて、食事なども自分でちゃんと取ることができていた。がんの進行も落ち着いていて、だからか祐美はうかつにも、なんだかこのまま母はずっと生き続けるんじゃないかという気になっていたのだった。
しかし、突然母の様態が急変した。
意識が朦朧として、いよいよ、という状態になった。
すると祐美の目に初めて涙が溢れた。そして母に取りすがった。
母はその後持ち直し、一週間生きた。
そして、亡くなった。
亡くなったのはお昼だった。
亡くなってしばらくは涙は出なかった。
夜になって急に涙が溢れ出して、暗い外の散歩道を泣きながら歩き、その後車を運転しながら、二時間ほど泣いた。
母の死後、祐美は東京に移住した。
故郷に未練は特になかった。
東京は自分のような根無し草にも生きていきやすいところかもしれない、と、祐美は以前からなんとなく思っていたのだった。
そして東京に移ったわけだが、生活は以前と特に変わらなかった。
仕事はずっとアルバイトで過ごした。
職場はいくつか変えた。
コンビニや介護の仕事もした。
仕事はきついこともあったがそれなりに楽しくもあった。
そして彼氏もできた。
祐美は、母が亡くなって最初の三年ほどは、しょっちゅう母の夢を見た。
夢のなかで母はふつうに台所に立って食事の支度をしていたり、あるいは病気で寝ていたりした。
そして病気で寝ている母も、普段どおり活動しているように見える母も、そして夢全体も、祐美が実際に目の当たりにした現実の母の死よりずっと濃い、「死」を感じさせた。
夢全体が「死」だった。
「死」の夢だった。
祐美は「死」の夢のなかで、母に死んでほしくないと思った。
夢のなかでも、母の背後に死が差し迫っていることはわかった。いや、すでに母が死によって根こそぎにされてしまっていることをどこかでわかっていた。心の底で母の死を知っていながら、夢のなかの祐美は、苦しい、さみしい、そしてどうにもやりきれない希望を持って、母と向き合っていた。
目が覚める。
そして数秒ほどののち、母がもう死んでしまっていることに気づく。
夢のなかでは、まだ母は生きていたので、もう取り返しがつかないのだなという思いに、しばし静かに茫然とする。
そして起き上がって顔を洗い、トイレにゆき、コーヒーを淹れてダイニングの椅子に腰かけるころには、夢が残していった死の匂いも、母への強い思慕の念も、現実の音や光や手触りのなかで、徐々に薄くなり、どこか奥深くへ、沈み込んでゆくのであった。
ときおり、自分はこのまま年をとってゆくのだろうか、なんてことを考えた。
こんなふうにして年をとって、そして死んでゆくのだろうか。
かつて、自分の心の真ん中には、母がいた。
世界の中心には、母がいた。
そしてその母が、世界を照らしていた。
しかしその母は徐々に他の者たちと同じところ、周縁へと、いつのまにか退いていた。
祐美は、では今そこには何があるのだろうかと、自分の心の真ん中を覗いてみた。
するとそこにはなにもないのだった。
からっぽなのだった。
ときおり自分が存在していることが、無性に恐ろしくなることがあった。
それは休みの日の夕方に浴室で目を瞑って髪を洗っている時や、特に、夜中にふと目が覚めたときなどに起こるのだった。
深い眠りから、ふと目が覚める。
そうすると、目線の先に、暗闇が横たわるのが見える。
目覚めたばかりの意識が捉えるのは、深い暗闇。
祐美のまわりは薄暗い部屋と、机や本棚やテレビなどがあった。
しかしそれらにはなんの意味もなかった。
目覚めたばかりの意識の前では、「現実」は、まだしっかりと【実体めかせて】いないのであった。
祐美の視界に映るそれらは、その本来の、虚像でしかない本性を、覗かせている。
すーすーという、自分の呼吸の音が聞こえる。
眠りから覚めて最初に飛び込んできたのは深い闇。
「現実」の背後にある底知れぬ闇が、周囲を、ずっしりと取り囲んでいる。
その深い眠りから目覚めたばかりの意識の前では、「現実」は霞のように弱弱しく、「暗闇」は、ほとんど世界のすべてなのであった。
軽く、パニックを起こしそうになる。
実際起こしかけたこともある。
しかし徐々に慣れた。
時計を見る。
たいがい、午前一時から三時の間であった。
夜明けはまだ遠い。
祐美は嘘でもいいから、早く「現実」が【実体めかせて】、暗闇を向こうに押しやってほしいと願う。
トイレに向かう。
便座に座り、小便をし、また布団へと戻る。
その間もずっと、暗闇はずっしりとあり続ける。
暗闇は外にも内にもある。
それは繋がっている。
外も内もない。
その暗闇の中に、虚像である、朧な現実があった。
なんの意味もない。
あの、トイレのちいさな空間を照らす明るい黄色い光の、なんと白々しく、無意味なことであったろうか。
祐美はこんなとき恐ろしくなるのである。
自分のちっぽけさが。
闇の底知れなさが。
自分が存在していることが。
闇は永遠であり、永遠とは闇である。
そして自分はその闇に繋がれた、永遠の虜囚。
時は流れていった。
祐美は仕事をし、帰りにはたまにみなで飲みに行ったり、カラオケに行ったりした。
連休には家でのんびりしたり、ときにはスキーに行ったり、キャンプに出かけたりした。
絵や書道を習いに行ったりもしたが、これはあまり続かなかった。
でもジム通いは自分のペースで続けている。
男も幾人かできて、そして別れた。
祐美は三十三才になった。
そしてある日曜日に祐美はふと、母の写真を見てみたいという気になった。
母が亡くなってからというもの、一度も見ていなかった。
押入れの奥にしまい込んだ母の写真の入ったお菓子の箱を引っ張り出した。
そして箱を開け、写真を手にして、一枚一枚目を通していった。
見始めてすぐに、祐美の目から涙がぼろぼろと流れた。
止まらなくなった。
それは、祐美には予想外のことであった。
写真を一枚一枚繰ってゆくうちに、祐美の喉の奥からは、嗚咽まで上がり始めた。
この人はたしかに以前いたのだ。私のそばに。
そして私のことを大切に思っていてくれた。
私はこの人に育まれた。
この人から愛を与えられた。
この人から【すべて】を与えられた。
なぜ今まで忘れていたのだろうか。
私はこの人にこんなに愛されていたのに。
そして私はおかあさんをこんなに愛していたのに。
祐美は母の前にひれ伏したい気持ちになった。
そうしてすべてを与えてくれた母にお礼を言いたかった。
母はすべてを与えてくれた。
欠けたものはひとつもない。
ただただありがたく、その前に、ひれ伏したい。
写真を見てゆくうちに気づいたのは、母が単に「母」であるだけでなく、彼女が「ひとりの人間」であることであった。
そこには若い時代の母もいた。
若い、まだ二十代後半ぐらいの母が、ちいさい、せいぜい三つか四つぐらいの祐美を隣に従えて、壁にもたれるようにしながら、カメラの方を見ていた。
その、少し険のある、幾分欲求不満を抱えたような目つきは、いかにも母らしいものであった。
それは祐美がよくおぼえている母の目つきであった。
そんな母がよく見せる顔も、今の今まで思い出すこともなく、忘れてしまっていた。
赤ん坊の祐美を抱いている写真もあった。
この人は私を産んでくれたんだなあと、祐美は思った。
この人はただ私の母であるという理由だけで、これだけ私を愛し守ってくれたんだなあと思った。
どんな時も、祐美は母にだけは気兼ねなく接することができた。
家にも居場所がないと思っていた時期でも、母だけは「他人」ではなかった。
母は「特別」だった。
それは母の心がどんな時も、絶対に、自分を見捨てずそばにいてくれるということを、祐美が知っていたからだった。
祐美は母だけは絶対に自分を見捨てないと知っていた。
それはなんとありがたいことであろうか。
母はそんなふうに、すべてを与えてくれていたのだった。
そしてそれをしてくれたのは、言ってしまえば、ただの、「ひとりの人間」だった。
その他の人たちと同じただの「ひとりの人間」が、それをしてくれたのだった。
その事実が、よりいっそう深く、祐美の心を母の前にひれ伏せさせるのだった。
十五才ぐらいの頃の母の写真もあった。
前髪をピンでとめた母が、友達らしき女の子と並んで、ちょっとカメラの方を斜めにちらっと見るようにして写っている。
他にも十才ぐらいの、正面を向いた、おかっぱ頭の母の写真もあった。
どちらも白黒の写真だ。
この頃はまだ、私のことなど何も知らないのだなと祐美は思った。
しかし何の因果かその後私をその身に宿し、生み、母になり、それだけの理由で、【すべて】を与えてくれた。母から与えられたもので、欠けたものはなにもない。私は「すべて」を与えられた。大切なものはすべて、この人から与えられた。
この、私とは何の関係もなかった少女が、時を経て、私の母となった。
他の者たちとおんなじ「ひとりの人間」、なんてことのない「ひとりの少女」が、私という者の母となり、これだけよくしてくれて、すべてを与えてくれた。
それはなんと不思議で、厳かで、愛しく、そして畏るべき、この世界の在りようであろうか。
縁とはなんとも不思議なものだ。
でも母にとっては、それはあまり良いものではなかっただろう。
私は母だけには「気兼ね」がなかった。
母だけは、「他人」ではなかった。
母は、「特別」だった。
中学に入学して、友達はできなかったけれども、家にもあまり居場所がなかったけれども、私は母に見捨てられたと思ったことは一度もなかった。
あまりその頃の写真はない。
高校を卒業してからの写真はいくらかある。
若い頃より、母は少し表情が穏やかになっているように見える。
一枚一枚の写真を見ていて思うのは、母が決して私から逃げ出さなかったということ。
「母」というものは、子供から逃げることができないのかもしれない。
時に私を憎み、嘆き、失望しながらも、逃げることができない。
私はそれを知っていて、どこかでそれに甘えていた。
そして私の方は、母を見捨てていた。
しらずしらず、
いつのまにか、
私の意思とは無関係に、
自分でも気づかぬうちに、
見捨てていた。
そして母が病気になり、母と向き合ったとき、そのことに気づいた。
私の真ん中には、すでに母はいなかった。
誰も、何も、いなかった。
からっぽだった。
二週間ほどが経った。
祐美は土日を利用して、故郷に帰った。
頭のなかには、ある公園の姿があった。
それはこどものころ、母について買い物に行った日の帰りに、よく立ち寄った公園であった。
その公園はまわりが高い常緑樹の木々で囲まれ、そのなかはいくつかのちいさな木立ちと、大小ふたつのささやかな池を配した青い芝生が、ゆったりと広がっていた。
そのなかを通る、密に茂った常緑樹が左右から迫る幅二メートル程の遊歩道は、その木々の青い葉に日の光をあらかた遮られており、道を風が通ると、夏でも少し二の腕がひんやりとして、足元に敷き詰められた鼠色の砂利は、昼間でも、まるで石炭の粒みたいに黒いのだった。
そしてその公園の片隅に、東屋があった。そこには二人掛けのつるつるしたグレーの石のベンチが据えられてあった。
鉄骨でできた四つの柱はペンキで白く塗られており、屋根の方は日が入るように十センチ幅ほどのこちらも白に塗られた鉄骨が、それと同じほどの幅の間隔を空けて、幾本か連なっていた。
その、頭上の、空の蒼と、鉄骨の白の縞々には、一面に蔦がもじゃもじゃと絡まっていた。
祐美は母の写真に触れ、母を思い出してからしばらくして、この公園を思い出した。
今までもときおりふと、公園の様子が頭をかすめてゆくことはあったけれども、祐美はそれに拘泥することはなかった。かすめてゆくに任せていた。かすめてゆくそれをひっつかんでその様子を仔細に眺めてみたり、そのなかへ入り込み、遊歩道の砂利道を踏む足裏の感触や、池のぬらりとした黒い水面のうえの、日の白い輝きや、東屋のところどころペンキの剥がれた鉄柱の、ひんやりと、そしてざらざらとした手触りなんかを、わざわざ自分のなかに蘇らたりするようなことはなかった。
しかし今、祐美は思い出していた。
あの公園を。
中学が住んでいた場所からだいぶん離れた場所だったので、それを機に学校の近くに引っ越しをした。それっきり訪れることのなかったあの公園を、思い出していた。
そして訪れてみたくなった。
あの公園を。
あの東屋を。
すぐに、祐美は次の連休に、新幹線で故郷に向かった。
そして駅を降りると電車を乗り換え、まっすぐに公園を目指した。
電車を降り、バスに乗った。
七つほどの停留所を過ぎ、その次の停留所でバスを降りた。
公園は目の前の道をまっすぐ三百メートルほど行って、左に曲がったら、正面に見えるはずだ。
訪れたその日、季節は五月の下旬で快晴、初夏の爽やかな日差しのなか街はすっきりと明るかった。
ひさしぶりに訪れる十二才までを過ごした故郷のこのちいさな街を、祐美はきょろきょろしながら歩いた。
街並み自体はほとんど変わっていないように思えたが、それを構成するいちいちのものは、ずいぶん入れ替わっているようであった。ドコモショップやヤマダ電機なんかは以前はなかった。
そしてなくなっている店もたくさんあるようだった。
とくに祐美にとって一番思い出深い本屋さんが牛丼屋に変わっていたのはかなりショックであった。
しばらく行って交差点を左に曲がった。
すると、目の前ニ三百メートルほどの正面に、緑の森が見えた。
祐美の心はざわざわと騒いだ。
目の前、もうすぐのところに、あの公園がある。
母とよく通ったあの公園が。
あの東屋が。
あの、グレーのつるつるした石のベンチが。
祐美は走り出したい気持ちを抑えてゆっくり歩いた。
それでもいつのまにか早足になり、目の前まで木々の緑と入口の石段が迫ってくると小走りになり、そしてその十数段ほどの石段を一気に駆け上がった。
目の前は少し窪地になっていて、広々と青い芝生が広がっていた。
ほとんど何も変わっていない。
祐美は今度はゆっくりと階段を下りていった。そしてそこから少し行ったところにある遊歩道に足を踏み入れた。
祐美の心はあの東屋を目指していた。
母と買い物帰りによく立ち寄り、そこのベンチに座って色々とたわいもないはなしをしたあの東屋に。東屋は、この薄暗い遊歩道を抜けると、すぐそこにある。
遊歩道は相変わらず暗い。
そして寒い。
なんだか無性に寒い。
そんななか、黒い、石の粒を踏みしめながら、たんたんと歩く。
頭上も、葉っぱが密に覆っている。
はたと、ずいぶん歩いたことに気づく。
前方から吹いてきたちいさな風に、祐美の視線の先の、道の上の木の葉が、かさかさと運ばれた。
前方の道は、すぐ五六メートルほど先で、右にカーブしている。
そしてその向こうには、白い光が、ぼんやりと射していた。
祐美は迷ったかと不安になった。
あたりを見回した。
左側はどうやら丘になっているらしく、茶色い土の壁が後方につづき、十メートルほど先で、それは左にカーブしていた。
しばらくそのように、あたりを見回して、すぐにここが公園であることに思い当たり、そして公園の全体像と、同時にそのなかにおけるこの遊歩道の位置、遊歩道をどのように歩いてきたのかも思い浮かんだ。
遊歩道の入口から入って、そして丘に登る低い階段を上り、少し歩いて下りて、しばらく行って分かれ道を左に進んだ。
カーブも二つ三つあった。
祐美は思う。
たしかに、私はその道をここまで歩いてきたし、それはそのとおりだ。
そんなに長い距離ではない。
だけど、私のなかには、すごく長く歩いた実感みたいなものも、ある。
さっきはたと気づいたとき、一瞬、どこにいるのかわからなくなった。
目の前で、地面のあたりを、ちいさな透明な風がさあっと通って、それにすっぽりと包まれた道の上の葉っぱが、その透きとおった風のなかを揺れながら左に流れて、そして右前方にぼんやりとした白い光が見え、その瞬間、私は、ここまで来るのに、三十年、四十年、五十年、何十年も歩いたと思った。
何十年もかけてここへ来た、と思った。
そして迷って、なんだか、何かのわけのわからないどんづまりへ来たか、と思った。
それからあたりを見回し、ここが公園であることに気づいた。前方の、右のカーブから差す光も、よく見ると、ぼんやりとしたものではなく、ちゃんと、くっきりとしたものだった。
それまでこことは関わりのない人生を送り、そして先日この公園を思い出し、公園を訪れ、遊歩道に入り、そこを歩き、ここまでやってきた自分。
たしかにそれはそのとおりだ。
でも同時に、私のなかには、さっきの、あの瞬間ほどではないにしろ、たしかにまだしっかりと、ここまでやってくるのに何十年も歩いてきたという実感が残っている。
祐美は前方、右にカーブした向こう、あの白い光の向こうの、東屋に、ゆくために、何十年も歩いてきた、と思った。
祐美は右足を踏み出した。
じゃりっと小石の擦れる音がした。
祐美はその白い光の方へと進み、そしてカーブを曲がり、木の葉に覆われた道を抜けた。
遊歩道を抜けると、すぐ目の前にあの東屋があった。
右手には青い芝生の広場。
向こうの方に、公園の出口が見える。
その出口の数段の階段を下りた向こうに、歩道と車道があった。しかし角度の関係で、そこから覗けるのはほんの狭い範囲だった。
公園は緑の葉をいっぱいに茂らせた木々が、取り囲んでいる。
そしてその木々の手前には生け垣があり、それも公園の内側を取り囲むようにしてあった。しかし見える範囲においては、向こうに見える出口の右側を少しいってそこから数メートルほどの間はその生け垣は途切れており、その途切れた背後の木々の、幹の間から、外の様子が窺えた。歩道を人が歩き、車が走ったり停車したりしている姿がちいさく見えた。あと、ここから外に見えるのは、周囲に散在するマンションなどのビルの、上の方の部分だけだった。祐美の背後にも、公園に迫るように、白い、幅の広い、大きなマンションが建っていた。
天気はとてもよかった。目の前の芝生の上は、透明な光の洪水で溢れていた。ほんの少し傾いただけの眩しい太陽から注がれる光を反射して、広場の芝生は白く青く輝き、初夏らしいさわやかな草の匂いをあたりに発散していたが、そこに人影はほとんど見られなかった。
よく目を凝らすと、ずっと向こうの方に、ブランコに乗る女の子らしき子供と、そのそばに立つ母親らしき女性の姿が目に入った。
人影といえばそれぐらいで、あとはそこには無人の明るい広がりがあるばかりだった。
祐美は目の前の東屋に向かった。
東屋の真横に立つと、例の二人掛けの石のベンチが見えた。
祐美はそちらに向かい、手前の方の席に腰を掛けた。
そこがいつも祐美の座る席だった。母はその左側だった。
東屋は、以前とあまり変わっていなかった。
公園自体も、それほど変わってはいなかった。
柱の錆も、以前より特にひどくはなっていないようだったし、かといって以前に比べてきれいになっているというわけでもないようだった。全体にそんなふうに、公園も東屋も、あまり変わらない姿のままそこにあるようであった。
天井の、十センチぐらい間隔の鉄骨の白と空の蒼の縞々、その蒼から、蔦を透して日が射していた。
石のベンチはあいかわらず固くつるつるしていた。
そしてベンチがそこからすぐ左前方にある大きなクスノキの影になっているからか、あたりは初夏の陽気のなかにあったが、ベンチはひんやりとしていた。
このクスノキの巨樹も、あの当時とそれほど変わっていないように見えた。こういった巨樹からしてみたら、二十年やそこらの年月など、それほどのものではないのかもしれないが。
左手の方にずっと並ぶ生け垣の背後には、葉のいっぱい茂った木々が立ち並んでいる。
そこには背の高い下草が鬱蒼と伸びていて、生け垣から身を乗り出しても、木々の向こうの公園の外側は見えなかった。
祐美は左手の指先で隣のベンチをそろそろと撫でた。
そして、語りかけた。
おかあさん
お世話になりました
育んでくれて、ありがとうございました
必要なものを全部与えてくれて、ありがとうございました
裏切ってしまい、ごめんなさい
いつもそばにいてくれてありがとう
あなたはいつもそばにいてくれました
あなたにきつい言葉を言われたときも
わたしはあなたの愛を疑ったことはありませんでした
そしてそのことにあまえていました
あなたは、いつもそばにいてくれました
そんな人は他にいません
あなたという人がたしかにいました
なんだか夢のような気がします
まぼろしのような気がします
ついこのあいだまでいたような気もするし
じつはあなたがいただなんて
うそであるような
気もするのです
わたしには
わたしの心のそばにいつもいてくれた人が
いたんですね
そしてそのことが
わたしには、途中から、わかりませんでした
なぜならわたしの心の真ん中は
からっぽになっていたからです
ごめんなさい
あなたという人がたしかにいました
あなたという「ひとりの人」がたしかにいました
あなたという「ひとりの人」がいました
死にゆくあなたにごめんなさいと言ったわたしに
あなたはわたしの目をじっと見つめて
首を横に振りました
わたしの目をじっと見つめて
首を横に振りました
わたしはそれを【永遠に忘れません】
あなたは不幸にもわたしの母になった
「ひとりの人」でした
わたしはそんなあなたを
永遠に忘れません
祐美は涙をぼろぼろ流しながら母がかつていたその席を撫で続けた。
ひとりの人。
かけがえのない「ひとりの人」であった。
ほんとうにかけがえのない「ひとりの人」であった。
だから、
永遠に忘れない。
祐美は席を立った。
そして前方の出口に向かった。
祐美
振り返った
駆けだした
ママ!
飛びついた
祐美の背中を、二本の手が包んだ
それは母の手だった
母の手を思い出した
それは忘れていた母の手だった
たしかに、それは母の手だった
辛かったでしょうね、おかあさん
孤独だったでしょうね
わたしはばかでした
愚か者でした
これがすべてなんですね
ここにあるものが
すべてなんですね
これが生きて在ることの
命の
すべてなんですね
祐美の心の真ん中に
あたたかいものが満ちていった
そして祐美は自分のなかのありったけのあたたかさを
母に送った
それがすべてだった
それ以上でもそれ以下でもなく
それが〈すべて〉だった
おかあさん
ありがとう
ありがとう
ありがとう
全部与えてくれてありがとう
あなたはわたしにとってかけがえのない
〈ひとりの人〉でした
かけがえのないおかあさんでした
ありがとうございました
さようなら
祐美は三十四才になりました。
そして三つ年上のある会社員の男性と結婚しました。
翌年男の子が生まれました。
そしてその翌年今度は女の子が生まれ、そしてさらに三年してまた男の子ができました。
子供はどんどんおおきくなり、やがて進学や就職、結婚などで家を出てゆきました。
そして家には祐美と夫が残されました。
子供たちは自分たちの興味、仕事、家族のこと、生活に忙しく、めったに家には帰ってきませんでした。
たまに電話がかかってきたかと思うと、子供の進学やマンションを買うために足りないお金の無心だったりするのでした。
そして年月がさらに過ぎて祐美の夫は亡くなり、祐美は家でひとりになりました。
長男が、「家に来るかい? まあだいぶん遠くになるし、うちも狭いし子供もちいさいのもいてうるさいしで、あんまり落ち着かないかもしれないけど」と、長男であるということで一応形式的に祐美に提案しましたが、祐美は首を横に振りました。
結局祐美はその後十年ほどを、四十年ほど前に購入したマンションの部屋にひとりで住み、そして九十才の誕生日の前日に、くも膜下出血で亡くなりました。
その日の朝、高齢者の見守りをしてくれている地域の人がチャイムを押しても祐美は出て来ませんでした。その人はしばらく待ってみたのですが、やはり返事もなければドアも開かず、いつもならとっくに起きているはずだし少なくとも返事はあるはずだということで不審に思い、すぐに兄弟のなかで一番近くに住んでいる祐美の長女に連絡しました。それで鍵を持って来てもらい、長女とその人がドアを開けてなかに入ると、祐美がダイニングテーブルのそばに倒れていました。
すぐに救急車を呼びましたが、そのときにはすでに祐美は事切れていました。
その後長男と次男も駆けつけ、三人は母の亡骸の前で泣き、母をひとりで死なせてしまったことを嘆き、もっと親孝行すればよかったと後悔しましたが、子供たちの心をいくらか慰めたのは、母の死に顔が安らかで、すこし微笑んでいるようにさえ見えたことでした。
そしてその手元にはちぎられた新聞紙の切れ端と、鉛筆が転がっていました。
その紙片には震える文字でこう書かれてありました。
みなさんありがとうございました
お世話になりました
お元気で
さようなら
心の真ん中