魔に憑かれて

ラディゲの「肉体の悪魔」は元々このタイトルの予定だったそうです。二作に合うと思ったので拝借します。

  1 柘榴と悪魔 


 わたし、古色蒼然な森の奥にひっそりとたたずむ、「夜と愛の美術館」という妖しげな館に住みついた、優美なる黒猫である。月夜の霧さながらに陰翳うつろわせる漆黒の毛並に、むっと蠱惑めいて爛熟した緋色の柘榴の実、よくにあう。
 名前はまだない──と、いいたいところだけれども、館長がつけてくれた名前を、わたしはもつ。
 髪結い。それが、わたしの呼び名である。
 この美術館、館長の趣味であるエロティックにして耽美なるアートばかりを蒐集された──そう、訪れるひとはみなヘンタイ──、知るひとぞ知る、淪落の魔空間なのである。
 わたしはそこを、ピアニストのゆびが鍵盤にふれるような繊細かつ大胆なあしどりで渉猟し、優美にしてしなるような躰のうごきで周囲を挑発し、訪れるすべてのひとびとからの愛をいっぱいに受け、そしてそのことごとくを、ふいっと猫らしいコケトリーで避わしているのであった。

  *

 嘗てわたし、海辺の町を自由に放浪する、誇りたかき野良であった。
 わたしはしばしば海の傍の花畑に身をよこたえ、そのしなやかな美しい躰を憩めた。
 夏、燦爛たる金の陽光が射しこんで、広大なしろい砂浜を灼き、音楽さながら立ち昇る風景の熱気はわたしを酔わせるにはじゅうぶんであって、青い海はしずかに波うち、眩暈のような光景の美しさに歓び、空に焦がれ青を映しさえした躰のおもて、悦楽にふるわせている。まるで男性性の希む女性の幻のすがた、反復するかのように。風が吹くたび、わたしの頬をなでるのは色とりどりに鮮明な花々、こんなときわたしは、大自然とわが身が身一点になったように感じられる。
 そんな長閑な日々はすでに過去のもの、いまの居場所、人工の頽廃の世界、わたしがこのエロティックでデカダンな美術館を訪れたきっかけ、それは、小鳥たちの囁き声であったのだ。
 木の葉が濾過し柔らかな蜂蜜いろにとろけた陽光の下、そのかわいらしい小さな躰を緑のちりばめられる枝にとまらせ、こっそりと秘密を交換しあう小鳥たちの姿には、なんだか水浴びをする裸の少女たちをみたときのように、うしろめたい感情をともない惹きつけるものがある。
 彼女らが、こんなことを言っていたのである。
「森の奥にある湖のことをご存じ?」
「え? 知らないわ」
「そのおもては磨かれぬいた鏡面さながら、青みを映す湖は漣ひとつ立たず、真夜中は星空を反映して、群青を帯びた暗い水面に、星々の翳が、ラピスラズリのように燦めきうつろうのです」
 気分屋、そして美しいものを愛しているわたし、すぐさま湖を探す旅に出たのだった。
 しかし湖は見つからず、森の奥の暗闇で泣いていたところを館長に保護され、そしてかれの所有欲のままに、わが身、美術館に幽閉されたのであった。
 まあ、わたしにとっても、わるくない生活なのだけれど。だって、食べ物にこまらず、しかもたくさん愛されるもの。

  *

常連の「詩人」は、よくわたしの耳元で、「きみのために、魂を燃やしつくしてしまいたいんだ」と、はや脅迫めいた求愛をするのだった。浪漫派文学に、かれ、かぶれているようだった。
 詩人、といってかれは詩人として生計を立てているのでもなければ、詩集を出版し名が知れているというわけでもない──ただ、詩を書いているから、詩人である。ふだんは、心を無にして怒涛のレジをこなす、大型店舗勤務の書店員。雑誌に投稿をし、落選を待つだけの身である。
「薄々感づいているんだけれども、いや、はや明確に知っているんだ、自分に才能がないってこと。だがぼくには、詩を書きたくて書きたくてしようがなくさせる衝動というものがあって、それに、仕方なしに従って書きつづけているというのが正しいのかもしれない。報われることなんて望んじゃいないさ。無名のまま、書いている途上でぼくは死ぬつもりだよ。しかし、そう考えてみると、ぼくは案外すでに詩人なのかもしれない。しかも純粋な、ね。才能だけが欠けた、純粋な詩人」
 ああ、心のカラクリ。わたしにはそれが透けて見えるのだ。ほんとうに報われることを望まないのならば、投稿なんてせず、エミリ・ディキンソンのように、抽斗に仕舞えばいいのに。
 かれはおそらく、淋しがりやなのである。自分の心から湧きあがる、つよいなにかを他者にぶつけて、過剰な自意識で恐るおそる反応をうかがう、いうなれば、幾分誇大妄想のみられる、ひと懐っこい迷惑者なのである。
「ぼくは肉欲の不在した恋というものをしてみたかった、すると髪結い、きみはすごく美しくてセクシーだけれども、人間ではない。性交不能。そう、きみは猫だ。そうであるのに、ぼくはきみに恋している。ぼくはこの恋に、なんて名前をつけようかなあ!」
 わたしはかれの話がつまらないので、ふいっと尾を鞭のようにしならせて、その場から逃げだそうとしたのだった。
「ああその態度! もっとぼくを拒んでおくれ! きんと硬く撥ねかえしておくれ! まるで美そのもののように! おお、わが自己憐憫の焔! ぼくのハートに火をつけておくれ!」
 ああ、煩い。
「ああ髪結い、ぼくの心はきみだけのものだよ。ぼくが好きなのは、貴女だけなんだ」
 わたしはその甘ったるい常套句を背でうけながしつつ、優美にすべりこむようにしてその部屋を去った。
 わたし、「あなただけ」という言説は好きじゃない、なぜって、わたしはわたしのあらゆる快楽を、あらゆるひとびとと共有したいから。悦楽の音楽にひらかれたわたしの躰はだれのものでもあり、そして、わたしだけの玩具でもあるのだ。

  *

 ひとびとは──といって、ほとんど男性だけれども──わたしをマノン・レスコーやホリー・ゴライトリー、あるいは「恋をしにいく」の信子さながらの、「天性の娼婦」のようにみていたのだけれども、まあ、ああいう蠱惑的な女性、果たして人間にいるのかしらともうたがわれるので、こんなにも人間の男性に有難がられること、わからないことはない。あれ、男がかってに創りあげた、都合のよすぎるくらいに都合のわるい、架空の女神なんじゃないかしら。
 たとえば、色香のある美しい人間の女性が、ふっと男性からの求愛を優美なる振舞で避わすと、男性は深く誘惑されていると錯覚し、むしろ情欲は燃えあがって、アプローチにも熱が入るけれども、じつは女性、ほんとうに嫌がっている場合が多いようにおもう。しかし女性、肉体的なつよさの差もあって、あるいは対立を避けたがる性格もあって、やんわりとしか拒めないのである。まさかそれを「娼婦性」と呼び魅力を感じているのなら、愚かとしかいいようがない。
 優美は、高貴に似ている。様式美である。本心は、仮面のそれとちがうのだ。ボオドレールのダンディズム、そいつに牢獄されている人間性は、たいしてちがわないのではないか。
 翻ってわたし、ほんとうに好かれることを愉しんでいるから、ただ気ままに誘惑し甘えたいときだけ躰をすりよせ、ひとりでいたいとき拒んでいるだけなのだから、それをたくさんの男性に素直な心のままにやっているのだから、「天性の娼婦」といわれても、あながち誤りではないのかもしれない。
 なぜ人間の男性、こんなにもわたしが好きなのだろう。なぜ、こんなにも愛されるんだろう。ふしぎ。
 ところで、処女はお好き?

  *

「パンクロッカー」なる男の愛し方は、わるくなかった。
 パンクなる価値観というもの、それを浅学なわたしには語ることはできないのだけれども、かれの言説を逆さにし塩胡椒のように振ってみると、酒びたりなニヒルの呻き声ばかりがぱらぱらと落ちてくるような、そんな、まるで無頼派めいてフラットな息遣いが幻聴した。
「俺はね、」と、かれはいう。
「自分に正直に生きたいんだ。しかしエゴイストを全うするのもまた、俺に正直ではない。自分に正直に他者に献身し、そして愛したいんだ」
 思春期である。すばらしく秩序と相性がわるそうで、わたしにはむしろこのましい。
「ぼくは二十歳だった、」と、とおくを眺めて──展示されている、虐待を被るO嬢を模した像のさらに向こう側をみすえて──こう言う。
「それがひとの一生でもっとも美しい時だなんて、だれにもいわせない」
 かれは三十七であった、ロックスターが死ぬ齢、はや十年も超していた。太宰が死んだ年齢、そうでもあった。ポール・ニザンのかの名言をいうには、もはや格好がつかない。かわいいひと。そう想った。目元の皺、疲れた額、刻まれたほうれい線、うすい肩にやや突き出たお腹、そのすべてが淋しいほどに澄んだ眸と乖離していて、なんとなしに哀れげであった。青い翅をきずつかせ土を這う蛾、そんな印象があった。
 周囲への威嚇をともない、艶やかな孤独を照りかえす黒のダブルライダース、さながらイノセンスを蔽いかくす重たい鎧、それはむしろ、不良な暴力の印象を凌駕して、奥にあるピュアな脆さを際だたせているようなのだった。
「愛して」
 わたしはかれのみみもとで、そう囁いたのだった、くちからこぼれる音韻、”Miaou”にすぎないのだけれども。しかしわたしのこえの周囲でふるえ踊っている、かれの髪のさきをそっと引くような優艶な香水の薫、色香を曳くなめらかな調べ、人間のそれなんかに、負けるはずもないのである。
 そうわたし、愛されるために生まれてきたの。
「わたしのこと、愛して」
「動物ってかわいいよな」と、聞こえないふりをしていう。
「ひたすらに自分に正直で、愛なんか微塵もないのに愛される、かわいらしくて、小さなちいさなエゴイスト」
 あら、不服である。動物にだって、愛はありますことよ。人類の貴族性への信仰、動物(性)への軽蔑、わたし、好きじゃない。魂なるもの、人間も動物もどうように、ひとしく実在として睡り、不在としてめざめているはず。されどわたし、魂の視線、美と悪へむけているの──あるいは蠱惑的な虚空へ──ただ、それだけなの。
 愛っていうのは、けっして貴くて自己犠牲を伴うような特別な感情ではなくて、わたしにいわせれば、慈しみの暴力のようなもの、倫理観やら理性やらという怪しげな観念からひとを離れさせ、ついに仮面さえも剥ぎとり対象と融けあい共に滅ぼされんとする、おそろしく可憐な、いうなれば殺意ですことよ。
 愛とエゴを対立させるかんがえ方、パンクロッカーよ、そろそろ、やめてはいかが。苦しくは、ないかしら。人間──社会秩序との折合、ないし倫理と照らし合わせて、感情に優劣や貴賤をつくるけれど、あらゆる感情、肉体の体液の迸る衝動、猫なんかにいわせれば、なべて等価である。わたし、わたしと他者が愉しく暮らせたら、はやそれでいいのです。その為ならば、わたしはなんだってするし、なんだって売淫る。そんな、女です。
 無益なくるしみを背負うこと、わるくはないのだけれど、後ろめたさ──罪悪意識の近代病、むしろ、他者や秩序に迷惑で、それだってエゴであるのだし──だって明るく朗らかにしてるほうが、周りも幸せじゃない?──もう、愉快に暮らし愛し愛されて、それに満足してしまうのはいかが?
 愛されないひとはどうすればいいって? 知らない。なぜってどんな状態なのか、わたしには解らないから。
 レイモン・ラディゲだってこう言っていました、在りもしない罪を希んで背負いたがる傲慢さ、耐えがたいと。はた迷惑な、ナルシスト。そうなのである。
「かわいいね」
 少年さながらの眼をして、そういう。撫でるてつき、気持がいい。わたしはいつまでもそうされたいという気分でおとなしくていたが、ふいに飽きてしまったので、するっとそこから抜け出て、さっとはしり去ったのだった。
 振りかえると、かれ、茫然たる眸をしていた、つめたい砂漠のようなものが宿っているよう、くわえて、こつぜんと火がきえたような印象でもあった。へんな眸。わたしはそれを気にもかけず、部屋の隅でまるまって睡りこんでしまった。

  *

 パンクロッカーはその数日後、自殺した。

  *

 さてここで、漸く「館長」の話をしようとおもう。
 館長、知的で、謎めいている。そういうのって、色っぽくて、だいすきである。はや四十を過ぎているけれど、からだつきも細くて優美だし、関節がごつっと男性っぽいのがエロティック、つかれたような翳りを宿す中年の貌はセクシーだって、フランソワーズ・サガンも書いていました。だいすき、だいすきなの。かれもわたしを愛している、そうでしょう? 知っているの。
 わたし、優劣や貴賤の概念がだいきらいで、あらゆる相対的な価値基準、憎くてにくくてたまらない。価値。この言葉すら、アレルギー的にキライ。好き嫌いだけで、わたしはものごとを語っていたい。ワイルドの登場人物が言っていたように、魅力的か退屈か、その尺度だけをもっていたい。あとはすべて、くろぐろとした虚空になげ棄てていたい。だってわたし、黒猫だもの。それが、赦されるはずなの。人間って、たいへん。同情する。していないけれど。
 たとえばわたし、館長のわが身を撫でるゆびさきが好き。つめのさきまで清潔で、すっと綺麗な造形にととのったそれでゆったりと愛撫されると、わたし、そのままかれの魂がわたしのそれにめりこんで、ほうっと解けあい連続することを希んでしまう。
 この部屋、青みがかったグレーを基調とした内装であって、額縁はシルバーで統一され、青・蒼・碧の絵画が壮麗に飾られている。さながら霧がかった群青いろの夜空で、幻の象徴派絵画がゆらめいているかのよう。わたし、ありとある部屋で、此処がいちばん好きなの。オスベール、シュテュック、デュルメル、だいすき。しずかに流される鮮血、すこぶる似つかわしい。
 この「夜と愛の美術館」、エドガー・ポーの『赤き死の仮面』を模して、おのおのの部屋、単色を基準に内装をかんがえられているのだった。赤、黄、橙、青、緑、灰、白、そして黒。粋である。
 それにしても、かれ、いつも沈鬱な貌をしている。不機嫌、というのもちがう、無気力、ともいいきれない。なにかを憂いているような、そんな眸をしている。
「髪結い、きょうも絶賛されたね。ぼくの蒐集したアートたちを」
 そうね。凄く素敵な芸術たちだもの。
 そういったのち、かれはしずかにその部屋を去って往った。

  *

 その暁、わたしは狂おしい夕暮れのそらに蔽われた森で、詩人に誘拐されたのだった。
「きみは悪魔だよ、」と、わたしを大事そうにがしと抱いて奔りながら、わざわざ伝えてくる。
 夕陽の橙いろを反映する、わがつめたく燃ゆるけなみ、爛々と照りかがやいて。わるくないでしょ。
「きみは人間を唆し、落伍者の言説──ニヒルの甘美なる息を吐いて、無我夢中に愛されそれを愉しんでいるけれど、じつは、なにをだって信じていないんだろう。絶望しているのだろう。しかも絶望すらしていないんだろう。ぼくはきみを愛しているけれどね、それ以上に、きみを憎んでいるんだ。いっしょに死のう、髪結い」
「それならば、」
 とわたし、なんだか愉しくなって言ってみた。
「湖に行きたい。かの死のむっと薫る、硬質な燦りを反映する湖上で、わたしは果てたい」
「にゃあにゃあ煩いね。まあ、ここまで森の深くに往けば、幾ら鳴いても、だれにも見つからないと思うけれど。どこへ行こうかな。そうだ、湖、あそこがいい。あそこは滅びには相応しい。そこで身を投げよう」
 あら、通じた。偶然ね。
「聴いてくれるかい? 髪結い。
 生というものはね、死に含まれているんだよ。逆じゃないんだよ。生は弧をえがいてすすむ点であり、それがはじまりに往き着いて円になるとき、その生の連続した円はまさに死と名づけられるんだ。いいかい? 死によって、生は完成されるんだよ。美しく死ぬことによって、はじめて生は美しく耀くんだ」
 あら素敵な考え。豊かに腐爛した、かぐわしい匂いがする。わたし、それ好きよ。なぜってグラマラスだもの。グラマラスとデカダンス、永遠の恋人よ。退廃は、過剰でなくっちゃ、ダメ。
 道はだんだんひらけていった、水の匂いがし、わたしは期待に胸をふくらませた。水の薫、わたしには、死のそれとおんなじであった。胸おどらせる、豊潤な美酒の爛熟した薫。よくいわれている、猫は水をきらうもの。そうわたし、ふつうの猫じゃないのです。黒猫。そうなのです。
 こつぜんと燦爛たる蒼い光、眩暈の如くに、めいいっぱいに照りかえした。群青の夜空に蔽われた、沈鬱にはりつめた湖のおもて、それにはさまざまの蠱惑、水面をあしさきすべらせる舞踏のようにおよいでいて、さながら神の指のままにうつろう彫刻めいた夢の陰影、それ、ぞっとわたしたちを誘いこむようにゆらめいていたのだった。
 天には月燦り、蒼ざめた銀いろをしていて、おそろしいほどに純潔ないたみ、あたかも象徴しているかのよう。悪の恩寵。森はそれらを額縁さながらに縁どられて、この風景が、地上のありとあるものから疎外されているという印象をつよめていたのだった。
 殉教の風景画。そんなことばがおのずと躰から浮びあがり、殉死、そんなこと生物に可能なのかしら、そう、わたしは嗤ってみたのだった。
 詩人よ。貴方、自尊心に捧げたいだけじゃないのかしら。
 かれ、脚をがたがたと揺らし、声は恐怖にふるえていた。砂に曳かれたようにざらついた声。死の兆しに、わたしの心は浮きだった。
「ポーの小説に出てきそうだ」
「そうね」
 とわたし、同意してあげた。
「死のう、髪結い」
「いいわ」
 ひた、と優美な曲線をえがくあしさきを湖にしずめる。かれ、息があらい。性行為のまえみたい、そう想って、わたしは微笑した。
「人間にはね、縛られたいという欲望があるんだ。それは社会通念でもいいし、おのが倫理でもいい。単純に紐でもいいさ。無秩序に耐えられないという、そんな脆さがあるんだよ。ぼくには社会の道徳は向いていない。あそこを訪れる人間、たいていがそうさ。ぼくはぼくの死によって、わが倫理を実現し、そして貫徹する所存だ。もう生きていてはいけない、そういうものをね」
 そしてかれはポケットから、大量のしろい錠剤が入った袋をとりだし、すべてをくちにふくんでかがみ、水面にそっとくちづけをし、湖の水で流しこんだ。ふらとかれの躰はゆらめき、そのまま失神するように、ゆらめく水のおもてに呑みこまれていった。
 刹那、狂人がくちを巨きくひらき無言の叫びをあげたような印象で、ぽっかりと穿たれたようながらんどうの虚空、どうしようもない、轟然たる虚無を響かせる不在が出現したのだった、なべての宿命はそいつに呑まれて往って、気づくとかれの躰、水底へぐいと引き摺りこまれて往った。……

  *

 わたしはかれの肉体が沈むまではその場でじっとしていたが、かれが見えなくなり奥へと流されてしまうと、面白くなくなってきて、地上へともどった。
「髪結いー! 髪結いー!」
 館長。探しにきてくれたのね。わたしは愛の衝動のまま、かれに飛びついた。佳い薫り。かれ、いつもスパイシーで、セクシーな香水をつけている。お似合いである。
「なんだい、この靴は。詩人のそれじゃないか」
 わたしはその棘のあるいいかたが嫌だったので、ふいっと尾をしならせた。
「……髪結い、ひとつ、きみに説教をしよう」
 と館長、冷たい眼をしていうのだった、わたしはそれが鬱陶しくて、ほんとうに鬱陶しくて、耳を垂らしてふさいだ。
 するとかれ、わたしの耳をぐいと引っ張ったのだった。動物虐待! ──こういうときだけ道徳をもちだすわたし、可愛くて笑っちゃいませんか? え、そうでもない? わたし、わたしのこと好きにならないひと、キライ。
 仕方なしに、館長の言葉に耳を傾けた。
「愛──肉体から迸る真紅の鮮血ともいえる感情、そいつをね、垂れ流してはいけないんだよ。愛はたしかに暴力だ、それゆえに、その感情のままにうごいてはいけないんだ。愛は、太陽とおなじいろをしていけない。黄いろいばらの不吉な花言葉をご存じ? 聴いてるかい? 髪結い」
 聴こえている。そしてかれ、こうつづけた。
「美と善の落す翳のかさなる処、かの仄青い領域に、そいつを包まなければいけないんだ。むっと気品の薫る菫いろ、沈鬱に天空を照りかえし、しずかに燦るアメジストの感情、そうでなければいけないんだよ。善く美しく、その法則と照らし合わせながら、注意ぶかく、注意ぶかくひとを愛するんだよ。もっとも美しい色、ぼくには、静謐な紫いろだと想えてならない。だからぼく、この美術館に紫の部屋をつくらなかったんだ。しかしその赤と青は、交じりあってはいないんだ。切ないね。紫とは人工の色であり、しかしそれは、デカダンスのそれとは異なる人工性でもある。純潔なゆきげしきにひとしずく垂らされた真紅の鮮血、そんなものにもちかいのかもしれない。
 美と悪の落す翳のかさなる処、たしかに表面は美しいけれどもね、じつは、それほど深くもなんともないんだ。なぜって、識っているから。肉をえた瞬間に、うちがわに所有してしまうものだからね。暴力的なデカダンス芸術、みんな、手放しに褒めすぎなんだ。あれは悲しいんだ。切ないんだ。なべての人間にこれが睡っていること、それを憂いなきゃいけないんだ。すき。キライ。それだけじゃダメなんだよ、髪結い。デカダンスにも悪にも善にも真実にも暴力にも惹かれる人間の心、どうしても美を欲する人間の心、その複雑さに佇み、注意ぶかく、注意ぶかく思慮をかさねなきゃいけないんだよ。
 ぼくはうんざりだ。ぼくの蒐集したアートを絶賛する連中に。悲しめよ。そう想う。なぜ縛られて鞭打たれ人権を剥奪されたような女性の銅像をみて、こころから悦べる? こんな欲望がみずからに在ること、悲しめよとぼくはつよく想う。その悪の心を所有した人間が、如何に美と善の光へ向かうか、けんめいに櫂を漕ぐか、ぼくの蒐集した芸術は、その素材とするべきなんだ。
 キライ、きもちわるい。そう突き放すのはたしかに浅薄だけれど、そっちの意見のほうが、どんなにマシだとさえ思う。良識的。そうさ。良識を突き放してはいけないんだ。とくに芸術家であれば、猶更であると想っているよ。
 いかに悪と退廃に対峙するか。そんな意欲で、ぼくはこの美術館をひらいた。しかしもうすぐ、ぼくはこの美術館をたたむよ。理解されないということは、なによりも淋しいからね。
 良識的なことをいうよ。自分ばかりじゃダメなんだよ、髪結い。たとえ芸術家であっても、自分ばかりを凝視めてはダメなんだ。月というのはね、美と善のかさなる処というものはね、ぼくたちの、心のそとにあるんだ。心を照らす美と善は、そとにあるんだよ。溶けあい摂りいれることは、不能なんだ。影絵さながら善を模する人間、善くあろうとする人間、だから人間は、美しいんだよ。脆いから、人間は可憐なんだ。切ないんだ。
 髪結い、きみの感受性は、幼稚だ。それはきみが猫であることで、赦されることでもないんだ」
 ああ。煩い。宗教と、倫理のニオイ。しかも、オトナの悪臭がする。キライなのである。精神的成熟、そんなもの、わたし、信じたこといちどもない。精神年齢なんて、悉くが社会秩序との相性の問題に帰するはず。生物は、どう存在しても好いのだ。感情の真実。あるいは、真実の感情。それらのみを、私は愛する。
 かれ、デカダンだと想ってたのに、強くて悪いひとだとイメージしてたのに、けっきょく、退屈の極であった。ああ善人。魅力、皆無であった。
 貴方、紫が好き。了解。されどわたし、黒猫である。なべてをどっと吸いこみ、ぞっと蠱惑めいた艶で悉くを等価に照りかえす、おおいなる虚空の色、すべてをのっぺりと等価に抱く義母なるやさしい虚無の色彩、おしなべてを価値-零として愛する「天性の娼婦」、生粋の淪落天使、そうわたし、黒猫である。堕ちぬいた処、いわく「地獄」に、わが身在るのかもしれぬ、されどわたし、その場所にあって、心から幸福なのである。そうであるならば、わたし、やはり悪魔であるのかもしれない。
 わたしは館長の言葉をしずかにききながし、すっとかれの腕からすり抜け、その場から去ろうとした。足場がわるい。ああ。苛々する。
 人間、どうにもやさしくて脆いから、わたしを本気で抱きすくめるには、余りによわすぎるようである。堕ちる勇気が、ないのだ。堕ちても、さいごまで、堕ち切れないのだ。だらしない。すぐ転ぶのだ、「善」というしろものに。転んでよこたわれば、頭上にはめいっぱいの青空、そんなものを、美しいだなんて想っちゃうのだ。尊敬しちゃうのだ。つい、愛してしまうのだ。なんてだらしがない。根性がない。詩人だって、そうであった。ふとりすぎた自尊心が、おそらくや、ああいう死を、あたかも善に見せかけたのだ。善への欲望、そんなくだらないものがあるから、人間って、おもしろくない。
 わたし、欲望を実現する為だけに、争っているのです。つまり、徹頭徹尾、生と戯れているのです。いい生き方。そうでしょう。「猫みたいに生きたい」、幾度も、いくどもひとの口から聞いたのですけれど。されどけっきょく、自分をおしころしてでも、人間は、善く生きたいんでしょう。退屈ね。
 群青の夜空をけなみにちらちらと照りかえす、優艶なる藍いろの黒猫が最上の愛を享けるんじゃないんなら、わたし、かの美術館から、去る所存であります。どうせ、閉館するようでもあるし。なんどもいうけれど、わたし、愛されたいの。程々に愛されるのって、キライなの。中庸とかそういうの、わたし、大キライ。極端がいいの。薔薇の花びらでいっぱいの宮殿さながら、いわく、過剰のグラマラスを、愛しているのです。わたし、情愛にとろけた血の海の裡に、どっと溺れていたいの。お解り?
 さようなら、愛してくれた、人間たち。
 さようなら、愛してくれた、かの死者たち。
 ふたたびさようなら、美と善、そして倫理。
 さようなら、「夜と愛の美術館」。
 背徳とデカダンの仮面を被っても、人間、けっきょくは、善に屈するのでありました。残念です。ボオドレールは、善人です。
 ふたたびこんにちは、美と悪の配合した狂想、アブサンの酩酊垂流しの、群青いろした壮麗な夜空。
 わたし好きよ、あなたのこと。色っぽくて、音楽的で、とってもエロティックだもの。
 わたし、月夜を照りかえし、青みを霧さながら陰翳ぶかきおもてにうつろわせる、優美なる黒猫である。お解り? わたしのことがどうしようもなく好きなくせに、わたしをきちんと抱き締めもできない人間、はや愛する気、毛頭ありません。せいぜい善なる玩具と、戯れていてはいかが?

  *

 と想った刹那、ふいに眼がくらみ、わが身ふらふらと揺れ、すればわたしの躰、誘いこまれるように湖へ落っこちて、するすると蛇が穴に還るような自然さで、不穏な水音を曳きながら、きんと冷たい暗闇へと呑みこまれていったのだった。
 まあ、すべてそれでいい。そう、想っただけ。わたしにあらゆるものを軽蔑させず、つまりは、すべてをまるっと等価に軽蔑させる、魔のキーワード。
 すべてそれでいい。
 こうなる運命、わたし、識っていたのだった、なぜってわたし、いちど飼われてしまったから。人間のシステムに、とりこまれてしまったから。この秩序のなかでは、わたし、つねに銃口に絡まりエロティックに舞踊って媚を売り、愛らしさゆえに死刑を留保されつづけていた、背徳に腐爛した淋しき花束であったから。
 地獄の悪魔の滅び、悲しくもなんともなく、美しくさえなく、ただ、幽かに、かすかにきこえてくる、「髪結い、髪結い」、そうわたしの名をよび、湖へ潜ってみじめに濡れながらわが身をとりもどうとする、卑しい館長の咽び泣く声が、すこぶる煩かった。




  2 詐・カラシイ


 おば様。
 ぼくは、邪悪です。
 ご存知ですか? 実にじつに邪な魂をぼくは秘めているのです、おば様。機嫌のよい時にかぎるなら、柔かな物腰で慎ましく笑みを浮べているひとだと云っていただけるのですけれども、その内奥、ずっしりと密度のある黒蛇のたうつ如くの邪悪がひっそりと棲んでいる、紛うことなくそれがぼくという人間であるのです。わが身はその重みを抱え込むにはまるで向いていません、何故と云い、ぼくはその心に抵抗し改善のため形状を変容させようと良心を働かせること甚だ覚束なく、その邪悪な蛇とするする愛撫しあっているような自覚さえあるのですから。ぼくは邪悪です、と、上から俯瞰し視線を粘液にすべらせるようにわが罪さらり平然と書きえるのが、その証拠ではないかしら。
 “Se carasserer”
 仏蘭西語で、「愛撫する」という意味なのは、英語教師の貴女ならばご存知でしょう。
 この頃、ぼくは文学への趣味が高じて仏蘭西語に凝っているのです。いや、のらりくらりと進んでは休憩し、気付けば前の勉強内容の殆どをわすれ、亦はじめからやるようなきがるさでやっているに過ぎないのですが、この、日本人の耳には過度に気取ってきこえる、ダイヤモンドのカットさながらに硬質な響きを光らせる「セ・カラ」の発音、それに追い縋るまるでバニラ・シガレットの吐息曳く「シイ」の余韻に頬を寄せる安息、それ、さながら別れ際の恋人の踵の影にキスをするような甘ったるさ、気恥ずかしさ。そう想いませんか? こういう経緯で、ぼくはまるでぼくに安住して了っているのですよ、おば様。

  *

 先日、ぼくは友達を失っちまいました。
 ぼくはかれを口汚く罵っちまい、恰も古い友人であるが故に知るかれの傷へ刃を突き立てるが如くの言葉を選びました。ぼくは情緒的には錯乱に近い状態でありながら、細心の注意を払ってもっとも残酷な言葉を精緻なゆびづかいでとりだして、外科手術にも似た冷然な手捌きで毒にぬらぬらと照るメスをかれの心に刺したのです。そこが古傷だと識っているが故に。かれがその言葉を至極怖れていると識っているが故に。
 肺が痛い。どうやら、ぼくは煙草を吸いすぎているようです。圧迫されたような、膨張に痛むような感覚があります。時々、激痛火の如く奔り抜ける。怖いですね。然しぼくは、久坂葉子を模して煙草なしに書かなくなったら──あのダウナーでやさぐれた灰のかかる蔓に秘められた硬質な少女性には、どうも頽廃に憧れる少年少女の心の琴線を刺激するものがあるようです──ほんとうにそれなしには書けなくなったたちでありますから、ここで、一端手をとめます。あす、亦つづきを書こうと想っています。

  *

 病院の庭園はしんと緑にしずまったように閑静でありましたが、時々、毀れこぼれおちる情念さながらの鮮明な花が咲いていて、それひっそりと熱を帯びる涙を落すような印象、或いは、まるで狂乱が瞳孔をひらかせるような異様な象徴がされているように想われることがありました。
 ふ、そんなささやかな音が立ったようです。それはふだん明るく振舞う鶴のように淋しげなひとが、魂の華奢さを暗示させる道化人が眼差を不意に憂いに沈ませる、それをみとめた時のわれわれの情緒のもたらす音のようでもありました。
 それというのは後ろめたげに茎の背を葉群の奥へ反らせた先に咲いている紫の菫の花があったのでありまして、ぼくはそれを一種残酷な気持のままに茎のほうから引っこ抜いてしまったのですが、それを花だけの状態に千切って、噎び泣きたくなるような心情でうずくまるように背を折りまげ、しろく硬化してゆくわが背骨を想い、ぼくにはその菫が病院から盗んだという罪悪のある故に、さながら芸術のようなものだと感じもいたしました。
 菫の花は、芸術です。
 真紅の情と青の理を綾織らせた、柔かい紫の美です。それを盗むのが、表現です。
 ぼくはそれをうす重たく被さる空へ抛りましたが、空圧によわい形状をした菫の花はたいして舞い上がりもせず重力に従って、ざらついた土へ落ち横臥わりました。ゆびについた紫の染みはぼくにはヤニのそれのようにいとおしく、翳に濡れたようなゆびさきを匂うのは、まるで後ろめたい悪戯の高揚をもたらすようでした。…

  *

 ぼくは一年前の悲しい恋愛を終え、亦ふたたび、精神病院の入院病棟で知り合った年上の女性と恋愛関係にありますが、然し、ぼくは彼女と恋人どうしになった刹那に恋が冷め果てたのです、自己本位にも。それは彼女のその時の表情故でありました、あの期待に潤み熱の漲るような眸は、どうもぼくのこのみではないようであります。それをぼくなぞに向けるという浅はかさに、わが身はまるで耐えかねて了うのです。
 ぼくは酷い男なんです、というのも、ぼくはいま働いているところにいる夏木さんというひとに片想いをしているのです、それをしながらの恋愛なのであります。それは退院し元の職場に戻った後に始まったものでもなくその前からでありまして、追憶より仄かに薫り曳くささやかな恋──それは年上の女性と知り合ってからも幾分は残りつづけたものでした──それが炎えあがり身を折るが如くになったのは、つい最近のことでございますけれども。
 えたいのしれない口惜しさ、怒り、轟々と唸る空白のような劇しい淋しさがぼくにございます。それは理不尽というものに対するそれ等であることは共通していますでしょうが、ぼくはそれへの対処を拒んでもいるのです、何故といいぼくの「わたし」を歪めうるなにものかを許容しそんな言説に含まれた状態で「わたし」を重力に落してしまえば、いったいぼくのような野原を彷徨うやつれた抒情詩人に、なにを書くことがありましょうか?
 ぼくはぼくを理不尽に従属させ、「わたし」をけっして言葉に追従させず、唯自分じしんの言葉を求めてきたつもりです。疵つき擦り減ってゆくぼくを想うのはぼくには自恃を積雪させたのであり、ようよう我の声がささやかに、やがては口さえきかなくなったことに安息すらえていたことがございました。されどそれは誤りであった、然り誤りでありました。
 その努力故にぼくは所謂臆病で受け身、大人しい人種だとみなされており、以前の臆病ではあるものの好戦的で気性の荒いエゴイストのぼくは余り外へ出なくなり、なにをいわれても謝り、自分ばかりを責めたて、どんな命令にも従い、さすれば点のような視線を呆然と泳がせる、風景に黒く穿たれたような一頭の奴隷ができあがりました。当時バッハを聴いた日にはいまにも平伏してすべてを投げだしたくなるような心持に駆られていたのでありまして、しかしそれは、自己を無へ飛ばしてしまいたいという現代の生き方に反するそれであったでしょう。ぼくの元来の狂暴な血はやがて黒々と固着し心臓をがしと脚を蟠らせるようになり、心臓は生きる意欲の欠損した血を供給して、うずくまり涙すら出ぬ幾夜を約束想い起こし想い起こしやりすごすだけの日々、心的状況をいえばこんなところでありましょう。やがては躰の方に限界があらわれて、そういう経緯で入院をしたのであります。
 退院したのはついこのまえ、冒頭の事件はそのすぐあとでした。

  *

 今夜は筆がのります。くたばっちまうまでは書きましょう、ぼくの邪悪を、怒りを、口惜しさを、憧れを。
 と書くと、どっとのしかかる倦怠。終えましょう。気分屋のぼくにはこんな書き方しかできないのです。
 セ・カラシイ。セ、カラシイ。実に、じつに気が利いている。賢しい響きでしょう、そう想いになりませんか?

  *

 ぼくの初めての恋人は、それは気の利く、思考の明晰な、男を夢中にさせることお上手でけだしさかしき女性でありました。彼女は氷のような冷然な光でぼくを打つかと想えば、火のような憎悪にくるみとるようにぼくのとろむ淋しさを抱きとめるのでした。ぼくは必要とされているという錯覚に完全に陥っていて、その轟然な火をそれの証左と見紛っていたのでありました。
 ぼくは彼女の情緒にまるでふりまわされ、別れて暫く経っても彼女の激情を懐かしみ、恋心は消えなかったのでありますが、それが萎めば今度は彼女を憎むまでになりました。されどふと気付けば、最近のぼくは当時の恋人になんだか似ているようであるのです。
 彼女は苦しんでいるひとでした、彼女はぼくに頼り、寄りかかって愛の言葉をささやき、ぼくはそれに支配の期待を隠した恋ごころでこたえたのでした。弱く、慎ましく、ひかえめで、卑屈な可憐さに満ち、されど火の獅子の如き魂を抱えていた彼女、甘えられる相手には激しい暴言を吐き、浮気をくりかえし、ぼくは気弱さと惚れた弱みゆえに恋人に云いかえすことすらできなかったのでありました。果して、彼女はそれにぼくのような自責をしているのかしら? それはいまだに残る疑問であります。
 いま、彼女への怒りが社内での我慢と結びつき、蟠って、いいえ、いいえ、ひとのせいにしてはいけない、けれどして了うのです、ぼくはひとのせいにして了うのです。どうも、そういう悪癖を巧く対処できません。天命だとか、いろいろ事情があるからスルーせよとか、そういう言語がいまいち解らない。原因を解明して、白黒すっきりと説明したいという意欲がつよいのです。いまのような情緒のときは、ついひとのせいにして了う。
 ぼくは加害・被害という問題が白黒はっきりつかないと知っているから、正常な心情の時はいつまでもみずからの悪いところを考え込み、そして病んで了う。奴隷の心情であった入院前はある種麻痺していたので徹頭徹尾自責の人間でありましたが、それ、ころりとうらがえったようであります。最早、どうにも誰かを攻撃したいという、低劣な悪質な気持になって了っています。それがあろうことかその時一番優しくしてくれる友人へ向ったのだとしたら、とんでもない当てつけでとしか云いようがない。自卑。自卑の念に苛まれ、ぼくはうずくまるばかりです。
 他責の思考への反省。たとえば、対処を調べます。じっくりと読みます。ぼくの文学的態度を、侵すものばかり。ぼくは独自の道徳改善、性格改善を行います。そこに、自己否定がどうしても介入、いいえ、出発点すらそれであるのです。ぼくは、わが身を、まるごと壊したいという欲心から、どうも逃れることができない。
 おば様。
 知性家のあなたなら、この自卑、悶え、変えられないものを固持しながら変わりたいという葛藤、これらの気持を、解ってくださるかしら?

  *

 石川は、「ひとの自尊心や自意識を許さないタイプ」、といっては余りにいいすぎでありましょうか、しかし、ぼくにはそういう云い方をしても仕方がないと想われるのです、ぼくは幼少期よりの稀代な倨傲さを所有しておりますから、自画自賛はあたりまえ、頻繁な卑屈な言動、けっきょくは尊大さのうらがえしでありますし、或いは世俗の通説へ逆説をむけた、「おまえらからすればぼくはこうなんだ」とでもいいたげな嫌味なそれ。文体からも伝わるとおり、脹れあがるアンスリウムの如き自意識を抱え込んでおります、石川にはそれが、不潔で不潔で耐えがたかったのでしょう。天狗になった芸能人、鏡で服装を直す若者、皆みんな許せないような態度をとっておりましたかれには、ぼくをそれ等ひっくるめて歪みきったひねくれもののように映っていたのかもしれません。
 ええ、石川というのは友人です、ぼくが暴言を吐いた、そのひとです。
 石川のひとの自尊心を許せない感情というのは、うらをかえせば、みずからの自尊心を許せないからだということになるでしょう、そうでない場合もあるでしょうが、かれと数年ぼくが友達であったのですから、なんとなしにそれが伝わるのであります。
 なんとなし、と書くと、なにも書けていません。ぼくはこの手紙を文学的なそれにしようと企んでおります、ここに、一条の人性の真実が暗みとして引き揚げることができるなら、それで甲斐はあると考えております。ぼくにとり他者とは人性追求の実験対象なんです、ええ、酷い人間でしょう。了解しております。そしてぼくにとってのぼくとは解剖手術の実験台であり、病状報告の素材であり、血塗れの手により掴まれ投げだされた人性の宿る肉体なのです。ぼくは企み・思惑の邪推激しき心理をすいすいと脳裏で泳がせて、恰も自意識を我に与えられた疵にのたうたせるのが趣味のような男、こういう心のうごきというのは、やめようとしてやめることなぞできやしません、ご存知でしょう? 何故って貴女も亦、文学が好きでいらっしゃるから。
 それならば独りで自分と話していればいい、ひとにその牙と血塗れのうでを向けるなと貴女はいうかもしれません、いわないかもしれませんが、ぼくがそう会話をシミュレーションいたしました。それに反論致します。
 ぼくはですね、「人間は、みな、同じものだ」という酒場の無頼どものアルコホル臭芬々な息の言説をまるで支持、他者への邪推と自己への批判等を素材に推論・類推等を重ねみずからの肉を台に置き敢えて傷を至る方向から様々な加減で与えて実験、心の状態の推移を観察、すれば人間というものをまっさらへ剥けえるのではないかと考えている。そして、それを作品にしたいのです。それが、レイモン・ラディゲに触発され心理小説家をめざすぼくの人生の第一の目的なのであります。しかし、どうでありましょう、このように書くと、「俺は生粋の人間追究家で、だからその仕事を為すために他者をすら実験材料とみなしている、それは生業としてあるものであるため仕方がないもので、だからひとを大切にすることができないのだ」といいたげでありますが、ええ、そのとおり。亦更に狡いことには、前述のうごきというのは、ぼくの欠陥を補う後付のコジツケでもあるのです。
 ぼくは、自己否定をしている。それが、ぼくの文学の素材だから。その自己への暴力に、痛みを感じている。苦しみにより心は荒み、何故俺だけが、という低劣な意欲が生れ、それに従って、他者に自己否定をさせたいという悪の意欲が生れる。俺とおなじ苦しみを苦しめという、人間のもっとも低劣で荒んだ心のうごきに、まるでにゅると辷るように従って了ってしまう。そのうごきを定めづけているのが、わが文学である、と。改善の努力から、逃げている。作家になれてもいないのに。
 自覚しろ、おまえの真実の悪に。そう、他者の心を撲りたいのです。
 我ながら怖ろしい、されどぼくは、そのように考えて了います。人間の真実の悪。様々な人間に発症する、それの様々な表象の仕方。それをこの手に一握だけでも暗みの光として掴んでいると己惚れているがゆえに、ぼくは、他者へ人格非難のようなものを為して了います。俺はちょっとばかし物事を考えている方だという自惚れ、それがございます。他者の心の悪なんて解らないのに、ぼくは、それを為す。想えばこれは両親と初めての恋人に屡々やられていたこと、想ってもいない悪の心を決めつけられる邪推に暴力を受けるのは、たしかに日々の日常でありました。ぼくは自己を憎み、にくみ、しかし、人間を信じたいから信じようとし、内奥の光を眸にやきつけたいと悲願し、心理小説書きを志した。
 従って、ぼくが石川へ「あいつはみずからの自尊心や自意識を許さないタイプ」だと書いたことに秘められる本音は、ぼくじしんその気持がある程度は解る、みずからの人生や現在に至る心の推移を逆算していけばおなじものが見付かるから、というかってな邪推によってつくったこれを、復讐のように突き付けてやりたい、おまえが俺を傷つける数々の言葉は、こんな意欲で(わが推測に過ぎません)吐かれていると自覚して欲しいというもの──おそらくや、そういう感情の順序によって推測されるでありましょう。
 石川は、ひとを軽蔑してはいけないといいます。悪口はダメだといいます。俺はしていないとものしずかに豪語します。軽蔑にもさまざまな定義があるのである種のそれは実現しえるとはぼくも考えますが、かれのわが身を安全圏に立たせ時代風潮の風を纏い、ぼくの風刺的言語を「それをいわせる心が誤りだ、悪だ」と指摘します。ぼくにはそれがむしろ背をぐんと伸びあげてぼくの首根っこを掴み、正しい自分を信じてわが身を卑しめる軽蔑そのものに想えるのでした。まるでぼくを裁判にかけるかのような態度を感じ、いくら考えても石川が軽蔑をしない人間であるという風には想えませんでした。石川がたとえばひとの自慢を「気持わるい」と断じ、俺は悪口をいわないと自負しているのは、ぼくには矛盾のようにしか想えません。心の内の苦痛は物凄いことでありましょうが、それは「正しく善い自分」という自画像が先にあり、しかしその根では自己そのものに不信があり、それであるからその壮麗な自画像を必要としていて、それが疵つけばすぐさま心に蔽いを張りはじめる。他者にすこしても指摘されれば、腕で自己を覆い抱き、背をふるわせる。かれには自己への恐れがある、それを注視しない勇気のなさは、感受性の鋭さも原因の一つでありましょう。いたみを感じやすいのだ。かれは自尊心と自意識の怖ろしさに激しい恐怖がある、けだしその肥大の仕方はともすれば加害だ。かれは「正しく善い道徳」を守る自己を大切にし、それから克服できていると錯覚している。或いは「俺には軽蔑という感情が生れついてない」とさらり云ったこともありました。そんな人間が、自己の道徳を掲げひとを裁くわけがない。かれには「穢れ」への嫌悪がつよすぎるほどにある。無機的な光を愛し、体臭の欠損した数学に夢中になり、理知的な仏蘭西語の文法に玻璃細工の幾何学をみる、これ等はむろん良く美しいものではありますが、しかし、かれの愛するものはどうも人間の体臭がない。石川はどうもイノチを怖れているようでありまして、生あたたかい血と肉に肌を粟立たせるようなところがある。ひとの如何にとび出るか判らない意欲を不安がり、みずからの推測できる言動をする他人に安心をえる。
 かれには世界が、かれの怖れるであろう風景、どす黒い肉と真赤な血のどろどろに入り混じり迸り跳ねのたうち飛沫の粘膜を外部へ放出させようとするひとの体内のように見えていて、それを地獄だと感じているのかもしれない。こういう人間は、生きていることが後ろめたいのです。それは、じつは石川の慎ましさ、優しさゆえでもあるのです。
 むろん、これはぼくの一領域を説明する文章でしかない。
 かれは、物質や心の形状を変えることを怖れ、それを、申し訳なく感じる人間だ。それはかれが、優しいからです。傷つけることが、できないのです。それによって、自責しすぎてしまう人間であるのです。だから人一倍ひとを傷つけるかれ、その時その時に、相手、そして自己への傷を減らそうと、問題から自己を切りはなします。傷つけていない自己のイメージを、守ろうとします。であるから、ぼくと石川のただの云いあいにすぎないのに、ぼくと道徳どうしのみの問題をつくりあげ、それを上から断罪する。それがむしろひとの心をくるしめるということを、見据えることはできていない。かれのわが身への過剰な忖度は、たとえばぼくたちへの思慮深い寛容さとして現れることがありますが、ぼくらの抱える猛獣がすこしでも爪を立てれば、パニックになる。
 石川によって固定されたかれの硬質な世界観は、ぼくのような傲慢さ、非難にみるも無残に砕かれる軟らかい質感であり、けだしダイヤモンドのそれに似ている。切りはなされカッティングされたダイヤとは、たしかに、かれ個人の道徳に似ている。
 石川は、うごきを怖れる。わが身がうごいて、その結果傷を負うことに消耗をしすぎる。傷を与えることに傷を負いすぎる、それによって、「美しく善い自分」が揺らぐからでありましょうか。けだし生きるとはうごくということで、抑々がかれ、憐れなことには、生きていたくないという人間だ。ぼくは死にたい人間であり、かれは生きたくない人間で、これは殆ど真逆といってもいいかもしれない。死にたい人間とは、死ぬほどに生きなければいけないと心の内奥からの声があるひとであり、その自己本位な義務に耐えかねているだけであるようだ。しかし出発点の人性は屹度おなじであるでしょう、おば様、そうお考えになりますか? あなたの見解もおききしたいのです。
 有機が不潔の泥とみえる石川は、みずからの根がそれであることを恐怖している。現実という実態が、そのままの血と泥と体液の大河であることに慄いている。現実はうつろい、夥しい感情を孕み、どっとのたうっているのですから。
 ぼくが指摘したかったことを観念的にいえばこれだ、石川という肉を、世界という肉に抉りこめ、やりたいことをやれ。ぼろぼろに疲弊せよ、エゴを世界という肉体に打って、打って、然り、やりたいことをやって生きるのは困難だ、だが君は一度でいいからそれをしてほしい、わがエゴを大切に抱いて無我夢中にうごいてほしい。そして、もし双方が熔けあい互いの形状が変容する刹那があれば、ひとたび還ってみるがいい、みずからの肉体の海に。炎の燈される、湿り穢れた生臭いぬるさに。イノチが肉体と相克し綾織るこの稀有なうごきに、美をみいだせるかもしれない。人間が生きていることは、美しい。美しいと、想えるかもしれない。石川。おまえは、美を愛している。
 ぼくは、人格を非難なんてせずに、次のように云えばよかったのだ。こう云えばよかったのだ、泣き喚きながら。はや、ぼくの元にはいない君へ、叫んでみせるよ。
 おまえの躰は、美しい。
 しかも、そんなに綺麗な眸をしている。しずしずと昇る水晶の優美な香気が、しゃなりしゃなりと眸に水波をうつろわせている。うごくために発達した君の四肢は如何にもしなやかだ。きみの身振りは綺麗な弧をえがいてするりと旋回、そしてやさしげにぼくの顔を覗き込む。教えてくれ。なにが醜い。なにが、悪い。
 自分を愛し自尊心を育てることへの抵抗はある種の優しい弱さに由来するかもしれないが、かれには自尊心を細分化できていないのだ。ぼくはそれをここで多くは語らない。しかし、一つだけぼくの信念を云おう。
 ひとと比べるな、自恃だ。自恃をもて。
 肉欲はけだし加害だ、どこまでも他の肉に侵入しようとし、破壊しようとし、滅ぼそうとし、だが、それすらも肉の孕む切なさとして抱き締めるほかはないのである。悪の心の存在を、否定しないでほしかったのだ。躰を信じることができれば、現実とのぼこぼこと形状を打ち合う相克の裡で、その推移を幾らでも工夫できる。不断にうごくしかない面倒なものだが、そもそも生きるといううごきこそが不断なものだ。現実に対応し、善くうごこうとする。美をみすえながら。それが生きるといううごきであり、うごくという生き方だ。
 そして、お前はそれを誰よりもしているのだ。他者を慮りおもんばかり生きているのだ。ただ、躰を信じ労ってやればそれでいいのだ。
 ひとに付属したやさしい気持の大きく純粋なおまえの肉体は、信じるにあたいするに、決まっているのだ。勇気とは舟を漕ぐ有機のうごきであり、有機とは勇気を櫂とする。その出発点が優しさであるなら良いと想われるけれども、石川にはそれが既にたっぷりとある。そして、かれ自身充分にじゅうぶんにうごいてきた、それが無駄なものだっただなんてぼくはいわない。唯、不信であった。変容を避け、避けて通ってきた。現実を変容させる意欲に従ううごきへの賛美は、たしかに強者の理論として怖ろしいものへ導く可能性をはらむ、それはかれの怖れた自尊心の一つの本性だ。だが、美をみすえれば、善くうごくことに徹すれば──しかし、どう転ぶかも判らぬのが人生であり、そのなかで生きることが生の俗悪美であり、果敢なさであり、それとまるっと対決するという荒療治が、石川を救ったのではないかと、そう想いもするのです。
 おば様。
 ぼくは、おばさまに語り掛けているという意識を喪失しておりました。

  *

 かれは随分に不安定なところがあって、いつ自殺するかわからないようなあやうさがあって──それ故にぼくはつよく云いかえすことが殆どできず、亦苛立ちが積みあがったのです──幾たびも一年前後の引きこもりをやり、おそらく、自分の真実というものを誰よりも怖れていたがゆえでしょう。どうしても自己批判ができない人間といいましょうか、鏡を眺め一点の染みすらも認められない態度を心の問題に転化したようなひと、度々ぼくはわが好戦的な風刺をする性格を根から否定し、ぼくの欲心を「絶対に想ってはいけないことだよ、その感情は間違っている」と裁くので、苦しくて苛立ち、「お前だってこういうところがある」といいかえすのですが、かれは断じてそれを認めず、「違う」と一言云い張って話すのをやめる、背をふるわせひっしで自分の認めたくない領域を視ないよう目元を掌に蔽う、そんな印象がかれにありました。それはぼくには腹立たしく想うことが多かったのですが、やはり、いたましく想えました。
 たしかにぼくの他者への攻撃性は頗る悪質、その対処を亦文学と思想に縋り研究しておりますが、どうにも見つからない。ぼくが心理小説書きとしてのぼくでありつづけながら病気を治す方法が、見つからない。
「おまえのその言葉は、俺には不快だから聞きたくない」
そう、いってくれればいいのです。そうであれば、ぼくはすべて納得した。あのときも、逆上しなかった。ぼくたちふたりの関係の問題であるのに、かれはかれの開催する裁判所の関係者に、わが身をいれないのです。いつでも事件はかれの外にあります。ぼくの心と道徳の関係性のみを語り、ぼくの心の状態を否定するのです。ぼくは、現在の心を否定されることが、辛い。自己否定家のぼくでありますが、いまある心を、否定してはいけない、そう想う。その心をどういう軌道にのせ、どううごかしてゆき、いかによりよきかたちへ変容させるかといううごき、或いはその意欲の有無に本人の責任が宿ると想うのであり、それを工夫しながら擦り合わせて生きていくというほか、人間によりよき人間を求める方法はないのではないかしら。心を否定されても、どうしようもない。
 たとえばぼくは、かれを罵りえたという低劣な状態を、対処し変容させなければいけない。
 こう書いてくると、暴言を吐いたぼくにだって言い分・事情があるんだと言訳染みますが、仰るとおりです。しかし、この手紙の全体の構成における一つの効果を与える要素として、ぼくはこの文章を外せないと考えております。そしてこんな自己批判も、自分の欠点を自覚しようとしているよという煩いうるさい自己への注釈も亦それなのです。
 ぼくは、かれに暴言を吐き、かれは、ぼくの元から去りました。
 これだけが、物語です。あとのすべては、注釈です。なぜってこの手紙は、自卑と好戦がべったりと付着した、不純なる病状報告書でありますから。
 ぼくはかれが恋しい、なぜってぼくの文学の話を聴いてくれたのはかれだけであり、ぼくにあんなにも思い遣りをくれたのはかれだけであり、石川は、まぎれもなく優しいひとだったのだから。その怖れからくる思慮を、他者への思い遣りに重ねえるひとで、ぼくとちがって、むろんひとから愛されておりました。
 よりよき人間になりたいという悲願がこんなぼくにもございます。その願いはたびたびぼくの文学に裂かれます、ぼくという肉と、文学という肉との争いは、前述の現実の相克とやや重複した状態で炎が宿りえますが、しかし、人間関係はようよう崩壊してゆき、立派な人間から、ひとを幸福にする人間から、ぼくは更に離れていくようです。ぼくは誰だって大切にすることができないようです。ぼくは自己を大切にしないという態度を、信条にしちまいましたから。幻想の憧れへの執着を、はや約束しちまいましたから。ぼくはひとを大切にできない。自己を砕き血を流すのをみて歓ぶことを、はやぼくはやめられない。ぼくにはやめられない。
 だが、否、であるからこそ、そのうえで、やさしくなりたい。
 その人性の状態だからこそ実現しえるやさしさというものを追究し、一条でいいから、現実という大河へ零してみたい。文学を抱き締めるぼくとより善き人間になりたいぼくというのは、すでに引き裂かれて了いまいそうです。なぜってぼくの淋しき文学とはけっきょくは他者と結びつきたいという愛への追究であり、そしてぼくの文学こそが他者とわが身を引き離しているのですから。
 おば様。
 どう御思いになられますか。
 こんなことは認められた作家だからこそ云えるのでしょうが──ぼくは、文学をやるのなら、人間を、やめなければいけない。



  返信

 自己へのセ・カラシイ。それが、凄まじい。
 どう御思いになるって、そう想いますね。
 久しぶり。
 相変わらず、自分と自分とのお喋りの恥部晒しのような文章ですね。
 わたしはいま東京に住んでいて、東大卒の研修医と結婚して、かわいい子供がいます。かれはとても優しくて、余裕があり、わたしに女らしい気持をあたえてくれるひとです。いちいち自分の欠点を並べて相手を困らせたりしないし、仏頂面で己に閉ざされた自己中心的なあなたとちがって、素直な優しさによって他者へおのずと手をのばす、あたたかい心遣いがあります。己の悲しみを周囲へ泣き喚きながら振り撒くのでなく、わが喜びを分け与える優しさと心の余裕があります。たしかにわたしは以前そういう余裕がなく、愛情を欲していて、他者をふりまわしてしまっていましたが、かれと結ばれて幸福になり、あなたの卑しげな言葉には一切共感できなくなってしまいました。
 でも、なんのカモフラージュ、或いは宛先の詐称なのかしら? まさか親戚への手紙を間違えて送ったと思って読んでいたのですが、この手紙、わたしに向けて書いたのですね。周到、邪推の蛇、自己憐憫、他者への責任転嫁の鬼ですね。どうせ、小説的効果も狙ったのでしょう、それが作家の宿命だと自己へ言訳したんでしょう。
 あのね、わたしに”おば様”なんていうのやめてくれる? あなたの元知人と結婚しただけでしょう。そんな不気味な呼び方をされる筋合いは、ありませんけれど。
「同じ苦しみを味わえ」と云うような心のよわいひとのジタバタな暴力なんて、わたしの生活には自他含めいまありませんから、すこし、驚きました。
「ぼくを罵った後に、あなたはここまで自己を苦しませえましたか」
 そう、あなたはわたしにメッセージしていますね? 罪悪感を、与えたいのですね?いったい、克服する気ほんとうにある?
 答え──いいえ。
 あなたの考えでは、自己を苦しめるから、反動で他者を苦しめるんでしょう。下らない執着心を克服するどころか、それに青くさい意味をもたせていると、それを自覚しているとアピールしているんでしょう。まっとうな人間なら、そんな生き方をしません。そんなふうに考えません。したいのなら、かってにしなさい。嫌われていなさい。誰からも相手にされない人間でいなさい。
 この手紙も、冷たくわたしの眼を辷ったみたいなもの。打たれなかったわ、あなたの文章。胸を打たなかった、あなたの人間洞察力アピール芬々のビョウジョウホウコクショ。もう、連絡してこないでください。あなたにとっては初めての恋人でも、わたしにとっては、昔旅の途中にみた、翳りを帯びるわたしにとってだけ素敵な湖のようにみえていて片足を突っ込んでみて、実質臭い水たまりのようなもの。すぐさま足を引っこ抜いて綺麗に洗い、つぎの彼に購ってもらったシャネルのハイヒールを履いたので、殆ど覚えておりません。現在のわたしには、幸福と、憩いと、大学の英語講師というひとから認められる仕事がある。愛がある。与え合うそれがある。あなたみたいな男は気付いてくれなかったけれど、こんなわたしにも、余裕のあるウィットに富んでいるところがあるって、かれは褒めてくれます。
 ご披露しましょうか? あなたが喉から手が出るほど欲しい、小説的効果を差し上げましょう。あなたの詐りのお手紙は、文学の為に魂を傷つけるという名目の自尊心・自意識への愛撫は、文学として、あなたの地方の方言いわく──セカラシイ。以上。

魔に憑かれて

魔に憑かれて

【短編小説集】 1 柘榴と悪魔 2 詐・カラシイ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-04-08

Copyrighted
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