雨の我がまま
北乃蒼は、体育館の壁際でバレーボールの授業を見学していた。見学していたといっても、ただ目を開けて前を向いているだけ。なにも見てはいない。その開いているだけの目の中で、右から左、左から右へと、バレーボールがいったりきたりしていた。バチン、バチン、とものすごい音を立てながら、ボールを叩きつけ、ぶつけられ、何が楽しいのだろう。ただの虐めあいっこじゃないか。そんなことをしてはしゃいでいる笑顔に虫唾がはしってしまう。誰か転ばないかな。足首でも挫いて捻挫でもしないかな。そしたら暇つぶしに保健室まで私が付き添ってあげるのに。連れていく途中に足でも引っ掛けてわざと一緒に転んでやろう。転んだ拍子に踏んづけてやろうかな。頭の中でくだらない空想を楽しんで喜んでいたが、退屈で仕方がない。あぁ、暇だ。
体育館の屋根を大きな雨の粒が激しく叩きつけていた。外は大雨、大雨警報発令中。のん気にバレーボールではしゃいでる場合なのか、こいつら正気じゃないよな。誰か一人が、それもイケてるグループの誰かが「きゃぁ、やばいよ」なんて騒ぎだした時が、こいつらの不安になるタイミングなんだろう。それまでは、みんなでみんなに合わせて呼吸をして、同調してるかのように振る舞っているが、いざとなれば我先にと自衛本能むき出しで慌てふためき逃げ出してしまう。いっそ、みんな流されてしまえ。不意ににやけてしまっていた顔を、無理やり崩した。
授業の終了を告げる体育教師の鳴らした笛の音が耳をつんざく。みんな一斉に動きを止め、それぞれ各々が顔を見合わせ片付けに取り掛かった。さっきまでの生き生きとした動きとは裏腹に、ぶらぶらとやる気のない態度で仕方なさそうにバレーボールやネットを片付け始めた。ニヤニヤと喋ってばかりで何にもしていないのはイケてるグループだった。邪魔ばかりして、あれじゃ見学してたほうがまだましだ。蒼はフンっと鼻を鳴らし、ちょっとだけ誇らしげな顔で観察していた。すると片付けもまだ終わっていないのに、イケてるグループはさっさと見切りをつけて引き上げていってしまった。それに付属するグループも、後を追うように引き上げていった。そして一様に「雨やばぁい」「やばいよ、雨やばぁい」と、同じような言葉をみんなで繰り返しながら賑やかさが去っていった。あれに何か意味があるのだろうか、可笑しくなってしまう。意味不明。でも、あっちからしたら、こっちのほうが意味不明と思われているんだろうな。お互い様か。片付けもただ見てただけで、何もしなかった。蒼は最後の一人になってから体育館を引き上げた。
外は大雨だった。予想以上に酷かった。渡り廊下に架かるトタンの屋根に、大雨が激しく叩きつけていた、まるでデスメタルのリズムの様に。気が付くと無意識のうちに、うつむき加減で髪を振り乱しながら、頭を上下に激しく振り続けていた。やばい、やばい。誰かに見られていなかっただろうか。きょろきょろと右と左、前と後ろを確かめ、食いしばった笑顔を真顔に戻した。あぁあ、帰って早くギター弾きたい。
空井茜は、教室の窓際の一番前の席で猛烈に降る大雨を眺めていた。このまま降り続けたら、どうなってしまうのだろう。きっと校庭は池になってしまうだろうな。校門までボートを漕いで行ったりして。楽しそうかも。そうなると、あの体育館まで続いている渡り廊下が桟橋のようになってしまいそう。もっと降り続いて渡り廊下も浸水してしまったら、体育館は孤立してしまうのかな。そしたら、いま体育館で体育の授業をしているクラスは取り残されてしまう。あぁあ、可哀想に。体育館から、はしゃいだ楽しそうな声が大雨の隙間をかいくぐりながら届いてきた。時折吹き付ける突風が、大雨のリズムを変えていた。その時だけは、雨の音が風の音に様変わりしていた。ちょっとしたギターソロのようにも聞こえてしまう。知らぬ間に、左手の指が風の音に合わせて動いていしまう。帰りに今村楽器に寄っていこうかな。でも、雨、大丈夫かな。無事に帰れるのだろうか。まだ四時間目か。
そんな時、体育館から甲高い笛の音が響いてきた。一瞬だけ静かになり、がやがや声が聞こえ始めた。すると、きゃぁきゃぁ、言い合いながら、隣のクラスの可愛くて活発なグループが体育館から飛び出してきた。渡り廊下を校舎に向かって駆け出してくる。それでも前髪だけは守ろうと、一様に左手をおでこの前にかざしていた。あとは全身ずぶ濡れ。そんなに大事なんだろうな、前髪が。ぼんやり眺めていると、その後を追うように、それに付属するグループも左手で前髪を守りつつ、なんとか縋り付こうと右手をできるだけ前へと伸ばしながら追いかけていった。やはり全身ずぶ濡れ。あぁあ、滑って転べば面白いのに。心の中で笑ってしまった。少し間が空いてから、大人しめのグループがゆっくり出てきた。あぁやって落ち着いて行動していれば、濡れずに済むし、転ぶこともないのに。まともなのは、あのグループだけだな。そして、全員出てきて誰もいなくなった。と思ったその後から、一人がポツンと出てきた。かと思うと、なにやら足を肩幅より広めにに開いて腰を落とし、手を膝の上にかけてヘッドバンキングを始めた。「えぇっ」思わず声が出てしまった。即座に口を手で塞いで横目で隣を確かめ、背中をレーダーにして状況を感じ取ってみたが、誰にも聞こえてはいなかったようだ。少し焦った。いや、だいぶ焦った。鼓動が激しく高鳴っていた。
四時間目終了の鐘が鳴りやむと同時に、校内放送が始まった。
「今日は大雨警報発令のため、四時間目で授業は終了になります。部活もすべて中止とします。公共交通機関も直にストップするようなので、皆さん速やかに帰宅するようにしてください」
「やったぁ」そこいらじゅうで上ずった歓声が湧き上がってくる。わいわい、わいわい、これからどうするかと盛り上がっていた。それよりも、ちゃんと帰れるのか心配はしないのか。こいつらやっぱり可笑しい。教室に戻ってきたばかりの蒼は、呆れた顔を素気顔の奥に隠していた。が、誰からも見つからないように右手では小さくガッツポーズをしていた。さっさと帰ってギターを弾ける。顔がにやけてしまわないように、口を少しだけ尖らせていた。
それより、お腹が空いた。弁当はどうするんだろう。食べてから帰ってもいいのかな。周りを見渡すと、着替えを終えたイケてるグループを中心に早くも帰り支度が進んでいる。こいつらにとっては、思いがけず浮かんできた自由な空き時間を、どう過ごそうかで頭がいっぱいなんだろう。授業がこれで終わりってとこだけ聞いて、速やかに帰宅するようにってとこは全く聞こえていなかったのか。どこまで能天気というか、自分本位なんだ。蒼は一人で弁当を食べ始めた。かく言う自分も自分本位か。弁当の美味しさと相まって顔が綻びそうになるのを、お茶を一口飲んで濁した。
弁当を食べ終えると、教室には蒼ひとりだけになっていた。がらんとしていて、ぽっかり空いた教室に動くものは何もない。ただ大雨の重くて速いリズムだけが断続的に鳴り続けていた。大きな雨粒が突風に吹きつけられて、窓ガラスが割れてしまいそうなほどに打ち付けられている。どんどん激しさが増してきているような気がする。背筋がヒヤッとした。なんだか怖くなってきた。早く帰らないとやばそうだ。そそくさと帰り支度を急いで、教室を出た。教室は全くの空っぽになってしまった。
校舎の出口に立つと、呆然としてしまった。どうやって帰ればいいんだ。傘なんて役に立つとは思えない。いざ大雨を目の当たりにして、立ちすくんでしまった。しばし大雨を見ていた。そして、大雨の音を聞いていた。見ていると怖くて足がすくんでしまうが、聞いていると、その中に飛び込んでいきたくなってしまう。いってみようか。何故だか急に力がみなぎってきて、覚悟を決めるように傘を開き、大雨の中へ飛び込んでいった。するとその瞬間、頭のすぐ上で急にデスメタルのライブが始まった。疾走感あふれるオープニングチューンが大音量で一気に畳みかけてきた。開いた傘が大雨を受け止め重くて速いリズムを叩き出し始めた。
「おぉーっ!」
思わず目を見開いて喜んでしまった。素直な笑顔が込み上げてきた。口をいっぱいに開けて叫びだしそうになってしまったが、思いとどまった。透明のビニール傘の下から、空を見上げてみた。傘に向かって大きな雨粒が次々に落ちてくる。その勢いと重みで、傘の柄を握る右手が震えてきた。叩きつぶされそうだ。見ていると怖い。両手でしっかりと傘の柄を握りしめ、校庭から跳ね返ってくる雨を足元に浴びながら、蒼は駅へと向かって歩きだした。
「茜、一緒に帰ろうよぉ」
四時間目が終わり、大雨のため授業はこれで終わりになり早く帰宅するようにとの校内放送が流れてから、教室内はそわそわしだした。
「ん、ちょっと寄りたいとこあるから、今日は一人で帰るよ」
「そっかぁ。でも大丈夫?気を付けてねぇ」
「うん、じゃぁ、また明日」
「またねぇ、ばいばぁい」
顔の前で手を小刻みに横に振りながら、それぞれのグループごと、がやがやと教室を後にしていった。それぞれのグループが、それなりに声をかけてきてくれるのは嬉しかった。そのがやがやに紛れるように、茜も教室を後にした。どこそこのグループに属して、その中で一緒になってやっていける気はしない。でもだからといって、一人ぼっちでやっていける気もしない。だから茜はどこそこのグループの近くで、いつもうろうろしていた。
校舎の出口で、みんな一様に外に出るのをためらっていた。思っていたよりも、遥かに雨は激しかった。それと時折吹き付ける突風が、大雨警報を現実として叩きつけてきた。それでもみんな、きゃぁきゃぁ、騒ぎながら傘を開き、つまさき歩きで大雨に飛び込んでいった。大きな水たまりをなるべく避けながら、校庭に無数の足跡を作っていく。茜も傘を差し、靴を泥んこにして大雨の中に飛び込んでいった。転ばないように気を付けながら。思わず笑みがこぼれていた。
今村楽器に寄っていこう。今日は早く帰れたから、いつもよりゆっくりできるかな。でも、その後、ちゃんと家まで帰れるのかな。茜も口を半開きにしたまま、周囲の喧騒とは裏腹の思考を巡らせていた。右手で傘の柄をしっかり握り、左手は傘の柄の下の、お腹の前のあたりで、指を開いたり閉じたりを繰り返していた。今日はジャクソンのソロイストを弾かせてもらおう。帰りの心配よりも、目先の楽しみのほうが勝ってしまう。鼻の穴が熱くなってきた。あぁ、それにしてもお腹空いてきたな。今村楽器で弁当食べさせてくれないかな。ぐぅぅぅ、と、お腹の虫が鳴ってしまった。チラチラと傘の隙間から周りを見たが、誰もこっちを見てはいなかった。それよりも、雨がすごい。雨の音以外、何も聞こえてこない。傘から少しでも出てしまったら、あっという間にびしょ濡れになってしまいそう。肩をすくめるように、傘の中に体を仕舞った。大雨で助かったかも。少しだけホッとした。
校門を出て少し先のバス停には、可愛くて活発なグループが最前列に並んでがやがやしていた。そのすぐ後ろに、それに付属するグループが取り囲んでいた。どれだけ一緒のバスに乗れるんだろう。取りこぼれてしまった人たちはどうするんだろう。そのまま取り残されて、次のグループと一緒に乗っていくのかな。惨めだろうな。笑いそうになってしまった。にやけてしまった顔を、バス停とは逆のほうに向けた。危ない、危ない。
駅の改札へと、がやがやが吸い込まれていく。茜はそのまま駅を素通りして直進し、赤信号で立ち止まっていた。大雨の降りしきる交差点を、行き交う車が水しぶきを盛大に上げて走り去っていく。その車のワイパーも、降り付ける雨を全力で掃っていた。この交差点も、もうすぐ冠水して水浸しになってしまいそうだ。その信号を渡った角に、今村楽器店が見えていた。傘を揺らしながら駆け出して行った。青信号が浮かび上がるように光っていた。
「こんにちは」
びしょびしょになった傘をとんとんと店先で鳴らし、雨を落とした。
「あれ茜ちゃん、いらっしゃい。今日は早いね」
茜は大雨警報で学校が早く終わったことを伝え、よければ弁当を食べさせてもらえないかと尋ねてみた。
「いいよ、食べな。この雨じゃ、他にお客さんも来ないよ。ゆっくり食べなよ」
今村店長、いい店長だ。普段は口数の少なめな茜も、今村店長にだけは気軽に話せてしまう。それにギターの超絶テクニックにも惚れ込んでいた。なんでも弾けてしまう。いつかあんな風にギターを弾けたらいいだろうなと、目標でもあった。弁当を食べている最中も、他愛もない話で盛り上がっていた。このままお客さん来なければいいな、店長には申し訳ないけれど。そう思いながら弁当の時間を楽しんでいた。タコさんウインナーを一つ、店長にあげた。嬉しそうに食べてくれた。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました」
「こちらこそ、ご馳走様。今日も何か弾いてみる?」
「いいですか、じゃぁ、ジャクソンのソロイスト弾かせてもらいたいです」
「いいよ。待ってて、準備してくるから」
リュックを下ろして、指を組んで手首を回した。それから肩と首も回して、強張りを解した。なんだかスタートラインに立つ陸上選手みたいだ。私、やる気だな。自分に可笑しくなってしまった。リュックの中からピックを取り出した。
外は相変わらず大雨。店の前の交差点が、大きな水たまりになっていた。人が歩いていないどころか、車も通らなくなってきた。電車はいつ止まるのかな、そうなったらどうやって帰ろう。なんだかドキドキしてきた。
「準備できたよ」
店長からジャクソンのソロイストを手渡された。
「わぁ、かっこいい」
弾く前から分かる。これはいい。何の気なしに左手を添えたネックの握りが、よく手に馴染んでいる。ボディもちょっと小さめで、軽いしちょうどいい。欲しい。まだ弾いてもないのに、欲しくなってしまった。
「どうぞ」店長がストラップを肩にかけてくれた。
ぴったりだ。自然と体に収まった。そしてシールドをアンプに繋げてくれた。ウー、と唸るような電気音を発し、整ったようだ。
少し汗ばんだ右手の人差し指と親指を制服のスカートで拭って、ピックを握った。そして左手の指を、ぎゅっと握って、パッと開いて、ネックに添えた。鼻から息を吸いこんで、フゥーっと口から吐きだし、そしていきなりメガデスのホリーウォーズを冒頭から弾き始めた。真剣な眼差しで、口元だけが微笑んでいた。その横で今村店長が、歯に挟まったウインナーの皮を爪楊枝でほじくりだしていた。
蒼が校門を出るころには、もう誰の姿も見えなくなっていた。ただ大雨が激しさを増しながら降っているだけだった。少し歩いた先にあるバス停には、目立たないグループの生徒たちが取り残されたようにバスを待っていた。まだバスは動いているんだ、安心した。電車も動いてそうだ、このまま駅まで行ってみよう。バス停の横をバスを待つ生徒たちに目をやりながら通り過ぎたが、誰とも目は合わなかった。こっちを見てすらいなかった。もしかすると目だけを動かして、こっちを見ていたのかもしれない。それか通り過ぎてから顔を上げていたのかもしれない。どっちにしても、それほど興味はなかったのだろう。そういうあたしも、興味を持って見ていたわけではないんだけどね。ツンとした顔で、にやけてみた。それも誰にも見えていないんだろうけど。
蒼は大雨の中を、早足で駅まで急いだ。駅に近づいてきても、いつもの賑やかさが感じられず、変な感じがしてきた。すると駅の中は、がらんとしていて空っぽになっていた。「げげげっ」さすがに声が出てしまった。大雨警報発令のため全線運休という張り紙が改札口の前に貼ってあった。遅かったか。のんきに弁当なんか食べてる場合じゃなかったかな。どうしよう。誰もいない待合室のベンチに座ってみた。ベンチに座りながら駅の中をぐるりと見渡してみたが、何もなさそうだ。何を探しているのかも分からないが、何かを探すように、立ち上がってぶらぶらと歩きまわってみた。何も見つけられないまま、駅の外へ出てみると、大雨は激しさをさらに増してきていた。これは本格的にやばいぞ、焦りが体を硬くした。
バス停まで戻ろうかとも考えてみたが、これから向かってもバスが来るという保証もないし、なんとなく今から学校の方に戻るのも気が引けてしまう。踵を返した先の交差点の角には、行きつけの今村楽器の看板に灯りがついていた。行く当てもないし、今村楽器に行ってみよう。店長に家まで送ってもらっちゃおうかな、なんて、ほのかな期待を抱きながら池のように浸水した交差点をバシャバシャと渡っていた。
近づくにつれ大雨の音をかき消すように、騒音ともとれるような電子音が聞こえ始めた。ギターの音かな。店長、暇でギター弾いてるのかな。大雨をいいことに、ここまで聞こえてくるような爆音で。口を半開きにして笑ってしまった。一緒に弾かせてもらおうかな。
「こんちは」
蒼が、店先から顔を覗かせた。
「あれ、蒼ちゃん。いらっしゃい」
今村店長が爪楊枝を咥えたまま、右手を上げて挨拶をしてきた。
「あっ」
蒼は、爪楊枝を咥えた今村店長のその横で、ソロイストを気分良く弾いている茜の方に目がいってしまった。同じ制服だ。それに、なに、なんでメガデスのホリーウォーズなんて弾いてんの、なにそれ。そのあとの言葉を失ってしまった。
「蒼ちゃん、どうぞ」
今村店長が手招きをして、蒼を店内に招き入れた。
蒼が申し訳なさそうに、そろりと店内に入っていくと、
「あっ」
茜が蒼の姿に気づき、演奏をやめてしまった。そして蒼の方を視つつ、無造作に頭を下げた。同じ制服だ。同じ高校なのかな。それよりも、お客さん来ちゃった。ちょっとだけ残念な顔が出てしまっていた。改めて顔を上げて、相手の顔をうかがう様に覗いてみると、えっ、もしかして、さっきのヘッドバンキングの人、かも。えぇ、誰なんだろう。あの時、体育館から出てきたってことは、もしかすると隣のクラスだったりして。気になって仕方なかった。話してみたい。どうしよう、どうしよう。もじもじしてきた。
「こんちは」
蒼も顎を突き出すようにして、茜に一応な挨拶をした。が、その後の言葉が繋がらない。聞きたいことは既に山ほどもあるのに。正面でソロイストを抱えている茜に興味津々なのに。言葉が詰まってしまう。二人の間には、人見知り同士特有な沈黙が続いていた。大雨の音だけが、大きな音で鳴っていた。
「ソロイスト、どうだった?」
沈黙を割くように、今村店長が茜に感想を求めた。
「店長さん、ありがとうございました。とっても良かったです」
茜が、蒼との視線をそらすように、今村店長にソロイストを肩から外して渡した。
「気に入ってもらえてよかったよ」
「じゃあ、私、帰りますね。電車の時間もあるので」
壁にかかった時計を気にしながら、茜はリュックを肩にかけて店を出ようとした。
「電車、もう止まってるよ。全線運休だって」
茜を引き留めるように、蒼が思い切って声をかけてみた。
「えぇ、うそ。さっきは動いてたみたいだけど」
どんぐりのように目を見開いて、茜が振り向いた。話が通って良かった。もっと会話を続けたいのに、どうしよう。キョトンとしてしまった。思わず、俯いてしまう。
「あれぇ、電車、もう止まっちゃったの?」
今村店長が割って入ってきた。二人はそれぞれに、ホッとしたような、がっかりしたような、分からない感情が滲んでいた。そして二人とも、店長に視線を向け、それから続く言葉を待っていた。
「帰り、一緒に送っていってやるよ」
「えっ、いいんですか」
「えっ、いいんですか」
二人がハモるように応えた。そして二人がお互いの顔を見合って、肩を挙げながらニヤニヤとにやけ合っていた。息がピッタリ。なんだか嬉しかった。そして互いが前のめりになり、口を開けかけて、話し出そうとしたのだが、なかなか話し出せない。何を話せばいいのか、もどかしくなってしまう。
「雨、すごいね」
どちらからともなく話しかけてみたが、
「そうだね」
素気なく応えただけだった。
そうじゃないだろ。聞きたいのは、そんなことじゃないだろ。話したいことは、もっと他に山ほどあるだろう。なのに、何故、どうでもいいようなことを話してしまったんだ。そして、気のない返事をしてしまったんだ。残念でならない。お互いがそう思っていた。それで会話も途切れてしまい、また沈黙がやってきてしまった。
「弁当、食べた?」
思いついたように、茜が聞いてみた。が、茜も、うわぁなんてことを聞いてんだぁ、と後悔してしまった。
「うん、学校で食べてきた」
蒼は、答えてはみたものの、いま、そんなこと聞くのか、と仰天してしまった。こいつ天然か。でもギターは上手いよな。それは認めざるを得ない。しかもジャクソン弾いてるなんて、メタルなのかな。だけど、あたしだってジャクソンだもんね。しかもランディⅤ。どうだ参ったか。へへぇんだぁ、と声には出さず、腹の中だけで呟いていた。そして、そっぽを向くように壁にかかっているギターを眺め始めた。
茜は、弁当をここで食べたことを話そうか、どうしようか、戸惑っていた。でも、なんとなくやめておいた。あえて秘密にしておこうと。フフッ、と顔を俯かせて、今村店長の足元を見ていた。するとその今村店長の足元が動き出し、えええっ、ちょっと待って、と茜が胸の内で唱えるも歩き出していってしまい、店の外に出て行ってしまった。
「うわぁ、一瞬でびしょ濡れだよ。参った参った。雨、酷いね」
出たと思ったら、すぐに戻ってきた。それはそうだ。雨が降ってるというより、店先はちょっとした滝のようになっている。こちら側から外を見ていると、滝の内側にいるみたいに感じる。店先に滝のカーテンが掛かっているようだ。
「店長、風邪ひいちゃうよ。頭、拭きなよ」
蒼が、笑い顔で言った。
「蒼ちゃん、そこのタオル取ってくれないかな」
「はいよ」
っと蒼が、掛かっていたタオルを今村店長に向かって抛った。今村店長はそのタオルを受け取り、バツの悪そうな表情を浮かべながら頭をごしごしと拭いた。
「もう、店、閉めようか。茜ちゃん、その辺のギターとかアンプとか、適当に片付けておいてくれないかな。コンセントも抜いておいてね」
茜は明るく返事をして、せっせと片付けに取り掛かった。今村店長もタオルを首に掛けながら閉店作業に取り掛かった。蒼はきょろきょろしてるだけで何もしていないでいると、
「蒼ちゃん、看板しまってきてくれないかな」
ええええっ。外の看板をあたしが仕舞うの、なんで。自分がたった今、びしょ濡れになったばかりじゃないの。蒼は返事もせず、しかめた顔で店先から外に顔を向け、ごくりと唾をのんだ。外は文字通りの大雨だった。でも、この中に飛び込んでいけば、またさっきみたいにデスメタルライブが頭の上で鳴り始めるかもしれない。いや、今度は傘ナシだから、直接脳天で鳴り出すのかもしれない。否応なしに顔がにやけてしまった。辺りには、誰もいない。人通りも無ければ、車も走っていない。街が空っぽになっている。その空っぽの街を、大雨が満たしていく。どんどんどんどん、大雨で満ち溢れていく。なんか、雨って好きだ。特に、大雨が好きだ。蒼は、そう思いながら大雨を眺め、大雨の音を聞いていた。そして、ハスキーな雄叫びを上げながら、大雨の中へと飛び出していった。
その蒼の雄叫びを聞いた今村店長と茜は、口を大きく開け、目を丸くしながら、びっくりした顔で蒼の方に振り向いた。すると蒼は大雨の中で満面の笑みを作りながら、雨合羽を着た子供の様にはしゃいでいた。そして大股でバシャバシャと地面を踏みつけ始めた。そんな蒼の姿が、店内の二人にはとても楽しそうに映っていた。でも決して真似したくはない、あんな風にずぶ濡れになってしまうから。見かねた今村店長が、
「蒼ちゃぁん、早いとこ看板しまって戻っておいでよぉ」
その声で我に返った蒼は、ガラガラと看板と共に店の中へと戻ってきた。
「あらららら、すっかりずぶ濡れじゃない、これで拭きなよ」
と今村店長は笑いながら、自分の首に掛けていたタオルを蒼に向けて抛った。
「うわっ、」
蒼は嫌な顔をしながらタオルを受け取った。ぶつぶつ、ぶつぶつ、小声で何かを言っていたが、誰にも聞こえてはいなかった。その湿ったタオルで髪を拭き、適当に制服を拭いて、そして自分の肩にタオルを掛けた。少し冷たかったが、我慢した。
そんなやり取りを、茜は目をぱちくりさせながら眺めていた。あの二人、なんであんなに仲良しなの。片付けに手を動かしつつも、気はすっかり取られてしまっていた。茜の口は一文字にきっちり閉じられ、ほっぺをぷくっと膨らませていた。それにしても店の奥の方はごちゃごちゃしていて、気になって仕方がない。片付けたいんだけど。こうしてまじまじと見てしまうと、ほおってはおけなくなってしまう。茜は洞窟の探検にでも挑むかのように、腰を曲げて食い入るように店の奥の方に目をやっていた。すると今村店長が、
「あぁ、茜ちゃん、そっちまではいいよ。そのごちゃごちゃは、そのままで」
「でも、気になってしまって、少し片付けたいんですけど」
「いや、そこには秘密が隠されているからね」
今村店長が意味を持たせるように、にやけ顔を作った。
えぇっ、なに、なにかあるの、秘密って。と蒼が横耳で会話を盗みつつ、心で呟いていた。言葉には出来なかった。その会話の中に飛び込んでいきたかったが、踏みとどまってしまった。タイミングを逃してしまった。
怪しい。蒼も、茜も、興味津々で店の奥を覗き込んでいた。これはなにかあるな、ふたりが一様に探偵の様な目つきを輝かせていた。
「さ、帰ろうか。車、店の裏に持ってくるから、帰る支度しててね」
と今村店長は傘を差して店の裏口から大雨の中へ出て行ってしまった。
ふたりは店の中へ取り残されてしまった。そうなると、やはり人見知り同士の沈黙がやってくる。それぞれが自分のリュックを背負い、帰り支度を整えていった。それしかやることが見つけられなかった。秘密のごちゃごちゃが気になって仕方がなかったのは確かだったが、ふたりそれぞれ壁にかかったギターを眺めて沈黙を潰した。
店先のガラス扉が、大きく光った、かと思うと橙色が点いたり消えたりを繰り返した。店内にいたふたりは、自ずとその光に気を取られてしまう。何の気なしに近づいてみると、曇ったガラス扉の向こうに、今村店長が口をパクパクさせながら傘を差して立っていた。蒼と茜はどうしたものかと立ちすくんでいると、今村店長がガラス扉をガタガタと揺すりだした。鍵を開けろと騒いでいたようだ。なるほどぉ、と蒼と茜が顔を向け合い、クスッと笑い合いながら、玄関の鍵を開けた。
「なんだよぉ、早く開けてくれよ。びしょ濡れじゃないかぁ」
肩をずぶ濡れにしながら、今村店長が店内に入ってきた。
「なんで裏口から出ていったのに、玄関から来るの」
蒼が口を尖らせつつ、ちょっとドヤ顔で言うと、
「まぁ、それはいいさ。さ、乗って乗って」
一目散に蒼が乗り込もうとすると、
「あぁ、蒼ちゃん、裏口の鍵かけてきてくれないかな」
「えぇっ、」
蒼が不満をあからさまに浮かべながらも、渋々と裏口に鍵を閉めにいった。
「茜ちゃん、さぁ、乗ってなよ」
茜はふたりを見まわし、こくりと頷きながら玄関から外へ出た。さて、どこに乗り込もうか。茜は悩んだ。助手席はちょっとやり過ぎか。後ろの座席に、蒼ちゃんと一緒に乗ったほうが自然かな。そう思いスライドドアを両手で引っ張り開け、三列あるうちの二列目の窓際に寄って座った。リュックを膝の上に載せた。そのスライドドアは、蒼が乗り込んでくるだろうと、開けっ放しにしておいた。
その間、今村店長は自分の荷物をまとめ、店の鍵を手に持ち、そして店の電気を消した。
「うわぉ、真っ暗くなった」
蒼が悲鳴を上げつつも、顔では喜んでいた。まるでライブが、いま、始まろうとしているみたいに感じていた。お気楽な奴だ。そして小走りに玄関から外へ出て、迷うことなく空いていた助手席へと乗り込んでドアを閉めた。そしてリュックは膝の上に載せた。
えぇっ。そっちなの。わざわざドア開けておいたのに、なんで。茜は口を半開きにしながら目を丸くしていた。信じられないという表情を蒼に向けていた。蒼は何もなかったかのように、フロントガラスに打ち付けている大雨を、ただ眺めていた。
店の戸締りを終えた今村店長が、開けっ放しになっていたスライドドアから三列目の座席に向かって自分の荷物を放り込み、ぐるりと回り込んで運転席へと乗り込んだ。
「茜ちゃん、ありがとね。ドア開けててくれて。助かったよ」
「あっ、いえ、じゃ閉めますね」
と茜は、スライドドアを両手で勢い良く閉めた。ちょっと嬉しかったような気がして、頬を赤らめていた。が、前のふたりには、それは見えてはいなかった。
「よし、じゃぁ行くよ」
そうしてようやく、蒼と茜、そして今村店長を乗せたワゴン車が走り出した。それから三人のドライブが始まった。
「ちょっとガソリン入れていくから」
と今村店長が声を出すも、反応なし。助手席の蒼からは返事が返ってこない。後ろの座席の茜も、当然助手席の蒼が返事をするものだと思って、ただ微笑んでいるだけだった。なんで返事しないの。茜は、ちょっとだけ蒼に苛立ちを覚えた。そして、チッカ、チッカ、とウインカーの音がして、三人を乗せたワゴン車はガソリンスタンドへと入っていった。
今村店長が給油をしている間、車内は無音だった。蒼はなにも見ていないような目を、そっぽへ向けているだけだった。茜は蒼に話しかけようにも、話しかけられなかった。話しかけていいものか、どうなのか、それになにを話していいのかも分からなかった。ただ黙って給油が終わるのを待った。ガソリンタンクが満たされていく、ゴボゴボ、という音だけが聞こえていた。
すると急に助手席のドアが開いたと思ったら、蒼がドアを殴りつけるように閉めて、走り出して行ってしまった。茜は呆然としていた。どこ行ったの。ってか、どこまで勝手なの。なにか一言声をかけていけばいいのに。蒼ちゃんて、友達いないんだろうな。でもそれは、私も同じか。茜は舌をペロッと出して、にやけてしまった。蒼はガソリンスタンドのトイレへと駆け込んでいった。今村店長も首だけ横に捻り、その様子を目で追っていた。
清算を済ませた今村店長が運転席へと戻ってくると、駆け込んできた蒼も助手席に着いてシートベルトを締めた。
「よし、じゃぁ蒼ちゃんの家から行こうか」
蒼が返事をするように、フロントガラスを向いたままちょっとだけ頷いた。そして横っ腹にデカデカと今村楽器店と書かれたワゴン車がガソリンスタンドの屋根の下から出ていくと、ものすごい大雨がワゴン車の屋根を叩きつけ始めた。大雨の音以外、何も聞こえなくなってしまった。それまでの無音が、あっという間にどこかへいってしまった。代わりに騒音がやってきた。
二本のワイパーが全速力でフロントガラスを掃いた向こうには、まだ夕方だというのに真っ黒な景色が見えていた。いつもならいろんな色の光がチカチカ点いたり消えたりを繰り返して街に賑やかさを演出しているのに、今日に限っては真っ黒のまま。大雨警報発令で、街には何も残っていないのか。電車も走っていないし、車もほとんど走っていない。いつもの町の喧騒が見当たらない。とても静か。空からとめどもなく降りしきる大粒の雨だけが騒音を繰り出し、動きを与え、そして路面の水溜まりをどんどん大きく広げていく。そこへ三人を乗せたワゴン車のヘッドライトが街に僅かな光を与え、少しばかりの喧騒を醸し出していた。
「よし、景気付けになにか音楽かけようか」
今村店長が声を張り上げた。そして、ダッシュボードに並ぶCDのケースに視線を流した。それに気づいた蒼が手を伸ばし、CDを物色し始めた。
「えぇ、CD、なにあるんですかぁ」
後ろの座席から前のめりになって茜が会話に入ってきた。仲間外れになりたくなかった。
「うわぁ、パンテラあるよ。懐かしい」
誰からの許可もなく、蒼がパンテラのCDをかけた。そしてカウボーイズ・フロム・ヘルのイントロが流れ始めると、蒼がグイっとボリュームを上げた。故ダイムバック・ダレルのリフが鳴り出す。自ずと頭が上下に揺すられる。なんとも言えないグルーブが心地いい。その間にも、蒼はCDを物色し続けていた。そして急に、パンテラのCDを止めて取り出してしまった。
「ええっ、なんで止めるの」
茜が思わず言ってしまった。言ってしまってから口を押えたが、蒼には届いていなかった。茜は、ホッとしたような、なにような。そして蒼は、次のCDをかけた。いきなり重くて速いデスメタルサウンドが耳をつんざく。今度はエントゥームドだった。超絶なデスメタルサウンドが突っ走りだす。
「これだぁ、かっこいい」
「そうだねぇ、かっこいい」
蒼と茜が同意した。まさかエントゥームドで同意してしまうとは。なんなんだ、この女子高生二人は。と、今村店長の顔は、にやけまくっていた。デス校生二人だな。はははっと、笑い声がこぼれていたが、デス校生二人の耳には全く入っていかなかった。
またしても蒼は途中でCDを取り出してしまった。だが茜は文句を言わなかった。次は何をかけてくれるのだろうと、ちょっとした期待を寄せていた。蒼がなにやらボタンをぴっぴっと操作すると、聞こえてきたのはアーチエネミー、ネメシスだった。マイケル・アモットの疾走感あふれるリフに血が沸き立ってしまう。そしてアンジェラ・ゴソウの雄叫びで、体中が震えだしてしまう。
「おおおおっ、ネメシスかっこいいぃ、大好き」
「だよねぇ、あたしも一番好きかも」
「泣かせるよねぇ」
今村店長も、負けじと会話に加わる。泣きのメロディが、琴線に触れてくる。
「君たち二人で、ネメシス演ってみたら」
二人が一様に今村店長のほうに振り向いた。そして、蒼と茜が互いに顔を見合わせた。二人の目が、どちらもぱっちり開いていた。しかし、口はきっちり閉じられたままだった。
出来るかなぁ、茜は泣きのソロを思い浮かべていた。
こういうリフが得意な蒼は、右手が小刻みに動きだしていた。
練習してみようか。茜と蒼は、それぞれ同じ思いを重ねていた。すでにパート分けも、必然的に出来上がっていた。茜は俯き、蒼はそっぽを向きつつも、それぞれの頭の中では、それぞれのネメシスが鳴り続けていた。そうしているうちに、いつの間にか蒼の自宅に近づいていた。
「蒼ちゃんの家って、そこの角を右に入ったとこだよね」
「うん。そう。家の前まで行ってね」
「まったく、もう、はいはい」
蒼は最後にもう一度、ネメシスをかけた。後ろの座席の茜も、そうしてほしかった。なんとなく、ふたりで一緒にもう一度ネメシスを聞きたかった。今村店長も満足気な笑みを浮かべ、アクセルを緩めていた。そして「北乃」と表札のかかった門の前で、しばらくワゴン車が静止していた。
「蒼ちゃん、またね」
ネメシスが終わろうとするとき、茜が運転席と助手席の間から顔を前に突き出し、手を小さく振った。
「うん。またね」
蒼も、後ろを向きながら右手を挙げた。
「じゃぁ、店長。ありがと」
そう言って蒼は、リュックを胸の前で抱えながら小走りに玄関へと駆けていった。玄関に小さめな外灯がパッと点り、すぐに消えた。一瞬だけ明るくなったが、すぐにまた真っ暗に戻った。その玄関の先を、茜は見つめていた。そして薄く明るかっただけの小さな窓に一段階明るさが増し、そこだけホタルの尻のようにぼんやりと光が灯った。
「じゃ、行こうか。茜ちゃん」
「はい。お願いします」
茜はルームミラー越しに、微笑んで見せた。いい笑顔が、ルームミラーに映っていた。今村楽器のワゴン車は、また大雨の中を走り出していった。相変わらず大雨は盛大に降り続けていた。茜は、この時とばかりに今村店長に聞いてみたいことが山ほどもあったような気がしたが、もうどうでもよかった。早く家に帰ってギターを弾きたい。以前にも増してその思いが強くなっていた。珍しく、茜も無言だった。後ろの座席で、ただ窓から見えている大雨を、見るともなく見ているだけだった。それをルームミラー越しに見ていた今村店長も、黙り込んでいた茜をただそっと見ているだけだった。ワゴン車の中で、大雨の状況を知らせるラジオだけが鳴っていた。結局、無言のまま茜の家に到着した。今村店長がハザードを挙げて停車すると、茜は見慣れた風景に驚き顔で気づき、ハッとした表情で
「あぁ、店長さん、ありがとうございました」
「いや、いいんだよ。仲良くなれて良かったね」
「あ、はい。良かったです」
茜は、蒼と茜が仲良くなれたことを今村店長が言っているのだろうと推測はしたものの、果たしてあれで仲良くなれたのだろうか。深く疑問に思ってしまった。
「蒼ちゃん、あんなに喋ってたの、滅多にないんだよ。よっぽど気が合ったんだと思う」
「えぇっ、そうだったんですか」
もっと早くに言ってほしかった。そしたらもっと蒼ちゃんのこと聞いたのに。今村店長も間が悪い。と、茜は、少しがっかりだった。そして、蒼と仲良しになれてたんだと思うと、気分が上ずってしまった。体中がポカポカしてきた。
「じゃぁ、ほんとに、ありがとうございました」
「うん。またね」
今村店長は、後ろの座席のほうへ捩りながら右手を挙げて見送った。茜はリュックを背負い、水溜まりを避けるようにピョンピョン飛び跳ねながら門から庭へと入っていった。
「ただいまぁ」と元気な声が、車内まで届いてきた。
さぁ、帰ろうか。一人になった今村店長は、空っぽになったワゴン車の中に取り残されてしまったような、置いてけ堀を食らったような気がしていた。あのデス高生ふたり、ひょっとするかもな。と、つんくさんになったような錯覚を覚えてしまっていた。俺も歌っちゃおうかな。なんて、ひとりで昔を懐かしんでいた。髪、また伸ばしてみようかな。伸ばしたとしても、立てるのは止めておこう。もういい歳なんだから。少しは俺も大人になったかな。窓に映った、不敵な笑みを浮かべた自分の顔を見てしまい、参ってしまった。俺もすっかり、歳をとったものだ。さて、腹が減ってきたな。晩飯はどうしようか。なんとなくこの雰囲気では、どこもやってなさそうだ。ウインナー一つで我慢するか。そうして今村店長は、ひとり自宅へとワゴン車を走らせた。
「ばぁちゃん、ただいま」
「おぉ、蒼、おかえり。雨、ひどかったろう」
蒼は家の玄関に入ると、真っ先にテレビの前でお座りをしていたばぁちゃんに声をかけた。テレビでは県内ニュースを放送していて、各所で出始めている大雨の被害などを、雨合羽を着込んでヘルメットを被った現地レポーターが伝えていた。すぐ近くの川も、氾濫危険水位にもうすぐ達してしまうようだ。ここは大丈夫なのだろうか。少し心配になって、蒼はたったいま入ってきたばかりの玄関から外へでて、家の前の道路を改めて確認した。まだアスファルトが見えてるし、ここは大丈夫そうかな。いざとなれば、ばぁちゃんを背負ってでも避難しなきゃならない。でも、そうなったらどこへ避難すればいいのだろう。それは、ばぁちゃんに聞けばいいか。もしそうなったら、ばぁちゃんにランディⅤを背負ってもらわなきゃな。ヘビメタばぁちゃんって近所で有名になるかも。それも面白そうだ。にやけた顔で辺りを見回し、少しだけ不安を残したまま、また玄関から家へ入った。街路灯が点いているだけで、あとは何もない。大雨が降っているだけだった。
「お風呂、入っておいで」
「ばぁちゃん、先に入っていいよ」
「さっき入ってしまったよ。雨、酷くなってきてたしね」
「そっか、じゃぁ、入ってくるから」
蒼はそのまま風呂場へと直行した。湯舟には、程よく熱いお湯が張られていた。やっぱり湯船につかると、ふぅ、っと言ってしまう。これは老若男女関係ないだろうな。風呂は命の洗濯とは、よく言ったものだ。蒼は湯船につかりながら、今日はやけにいろいろあった日だな。と、感心していた。たいていの日は、ただ漠然と一日が始まって終わってゆく。ただそれだけの繰り返しな毎日が続いていた。でも今日は違った。大雨警報が発令され、学校が午前中だけで終わった。それに、あの、メガデスの茜ちゃん、いったい何者なんだ。歳は同じくらいなのに、めちゃくちゃギターが上手い。このあたしが、呆気にとられて、止まってしまったもんな。なんか悔しい。こんなこと初めてじゃないか。それに、同じ制服を着ていた。同じ高校なのかな。どこのクラスなんだろう。まぁ、学校で会っても声はかけないかもしれないけど。また今村楽器で会ったら、聞いてみよう。って、聞けるかな。そこには自信がなかった。人見知りが優先されてしまう。だけど、ギターは練習しておかなきゃな。アーチエネミー、ネメシス。あたしに弾けるのか。勢いで弾けば、なんとかなるだろう。左手はさほどでもなさそうだから、右手を全力でピッキングしてやれば、いけそうな気はしていた。そろそろ上がって、ご飯支度しなきゃ。体を洗って、髪を洗い、風呂場用のスポンジに洗剤をつけてささっとその辺を擦り、シャワーで流した。適当に片付けて、風呂場を出た。
蒼は部屋着に着替え、髪をバスタオルで拭きながら台所へと向かった。二つあるコンロの一つには鍋がかかっていて、蓋を開けると豆腐の味噌汁が湯気を上げた。ばぁちゃんが作ってくれたのだろう。あたしじゃなければ、ばぁちゃんしかいないから。炊飯ジャーにはご飯が炊かれていた。ご飯と味噌汁。それさえあれば、あとはちょっとしたものがあればそれでいい。ばぁちゃんと二人だけだし。冷蔵庫を開けると、ガラっとしていた。開けた扉に卵が並んでいるだけで、中間の棚には何もない。野菜室にあったホウレン草を湯がいて、おひたしにした。昨日漬けておいた白菜漬けを切って、皿に盛った。明日、買い物してこなきゃな。明日の弁当は、どうしよう。湯がいたホウレン草を、少しだけラップにくるんでおいた。そして味噌汁の鍋に火を入れ、炊飯ジャーからご飯をよそった。
「ばぁちゃん、ごはんだよ」
「はいよ、もう上がってきたのかい。気が付かなかったよ」 最近、ばぁちゃんの耳が遠くなってきているような気がしている。あとは、特に病気もしていないし、元気そのものの様には感じているのだが。
温まった味噌汁もよそって、食卓へと並べた。ふたりがそれぞれの席へと着いて食べ始めた。軽く会話を交わしながら、ゆっくり食べた。白菜漬けの漬かり具合がいい塩梅で美味しかった。
食べ終えると、蒼は食器を片付け、明日の米を研いで炊飯ジャーのタイマーをセットした。ばぁちゃんは、またテレビの前でお座りをしてテレビを見始めた。クイズ番組に首を傾げていた。そして蒼はCDラジカセを奥の部屋から持ってきて、アーチエネミーのCDをかけた。もちろん、ネメシスの音を拾うためだった。一度まじまじと聞き、それから何度か初めのイントロを繰り返して聞いてみた。なんとなく掴めた感じがして、テレビの脇に立てかけてあったランディⅤを持ち出し、ストラップを肩に掛けた。そして足を肩幅より少し広めに広げ、グーにした両手から人差し指と小指を立てて胸の前でばってんに交差し、お決まりのポーズをとった。するとばぁちゃんも、お座りをしたまま同じポーズで「イェーイ」と真似ていた。ノリのいいばぁちゃんだ。
ランディⅤは形が尖がっていてかっこいいし、弾きやすいし、とっても気に入っているのだが、変形ギターゆえに座って弾くことが出来ない。それだけが唯一の弱点だった。だからいつも弾くときには、ストラップを肩に掛けて立って弾いていた。それに、家ではアンプを通せないのが玉に瑕。というか、蒼はギターアンプは持っていない。音を出すときは、今村楽器までギターを背負っていきアンプを借りていた。一応、試奏という名目で。そしてその時、今村店長からアドバイスも受けていた。アンプを通して弾くのと、通さないで弾くのとでは、ミュートをかけなければ音が散り散りになってしまうことにも気付かされた。そこが普段家で練習するのに辛いところでもあった。最近になって、ようやく慣れてはきていたのだが。
ネメシスの冒頭のイントロは、なんとなく弾ける感じがした。もし茜ちゃんと演ったとしたら、あたしが先に入って、後から茜ちゃんが被さってくるようになるのかな。と、勝手に思い込んでいたので、あたしがこのスピード感を出せないことには格好がつかない。なので、このテンポをしっかりキープしながら弾けるように、先ずは右手のピッキングの練習だ。と、蒼は自分なりの課題を見つけ出した。そして茜ちゃんを、あたしが引っ張る。
突然ばぁちゃんが手を叩き出した。パチパチパチパチと。テレビの画面に目をやると、クイズ番組の優勝者が決まったようで、ばぁちゃんのお気に入りの俳優さんが優勝したようだ。ご満悦な笑顔でばぁちゃんが立ち上がり、テレビの電源を消してしまった。
「さぁ、わたしゃぁ、寝るからね」
と、ばぁちゃんは奥の部屋へと早々に引っ込んでしまった。そして、がさごそと布団を敷き始める音が、ふすま越しに聞こえてきた。
「うん。あたしも寝るよ」
と、蒼はランディⅤを肩から外しテレビの脇の壁に立てかけ、CDラジカセの電源を切ってその横に置いた。そして洗面所で歯磨きをして、ばぁちゃんの隣の布団へ入った。
電気を消すと、家の中には何もなくなった。真っ暗で無音。何も見えないし、何も聞こえない。ただ今夜に限っては、大雨の音だけは聞こえていた。それを聞かずとも聞きながら、ぐっすりと眠った。
そして、まだ暗かったが朝になったような気がして目を覚ますと、まだ雨の音が聞こえていた。横の布団に寝ていたばぁちゃんも目を覚ました。
「まだ降ってるみたいだね。今日は散歩、無理だね」
ばぁちゃんはそっぽを向いて頭を枕に戻し、また寝たようだ。
蒼も寝ようとしたが、なんとなく目が覚めてしまい、そのまま起きた。カーテンを捲ってみると、まだ雨は降っていた。またカーテンを戻してテレビの部屋の電気をつけ、ランディⅤを持ち出してきて、ゆっくり静かに、ネメシスのイントロを練習した。何度も何度も、イントロだけを繰り返した。
六時を前にして、ばぁちゃんがふすまを開けて起きだしてきた。すぐさまテレビの電源を入れ、テレビの前でお座りをして朝の情報番組を見だした。台所の炊飯ジャーからご飯の炊きあがりの電子音が鳴り、蒼はランディⅤを肩から外して壁に立てかけ、台所へと向かった。手鍋にお湯を沸かして、二つの湯吞に注いだ。
「ばぁちゃん、お湯沸いたよ」
「あぁ、ありがと」
ばぁちゃんに湯呑の一つを手渡し、蒼はその向かい側に座ってお湯を啜った。朝の白湯は健康にいいらしい。習慣にしていた。蒼は台所に戻り、まずは自分の弁当の支度を始めた。と言っても大したものはなかったので、有り合わせで弁当箱を埋めた。そして昨日ばぁちゃんが作ってくれたみそ汁のあまりを温め、ご飯をよそって、白菜漬けと一緒に食卓へ並べた。
「ばぁちゃん、ご飯できたよ」
ばぁちゃんは、右手に自分の湯吞、左手に座卓に置きっぱなしになっていた蒼の湯吞を持って食卓へと着いた。蒼は、自分の湯呑に残っていた少しぬるくなったお湯を飲み干し、二つの湯吞に急須からお茶を注いだ。お茶の香りが鼻を通って体内に充満されていく。そして二人がそれぞれに手を合わせ、その合わせた手に額を近づけるようにこくりと首を前に傾け、ほとんど無言で朝ごはんを食べた。味噌汁の豆腐が、少し茶色く味噌の色になっていたが、それはそれでご飯のおかずに丁度よかった。
湯吞のお茶は、啜っただけで熱かった。ご飯を食べ終えてから飲み干した。
「茜ぇ、起きなさいよぉ」
二階の茜の部屋の前で、お母さんが言ってきた。が、何の反応もない。
「茜ぇ、入るよ」
そおっとドアを開けて、お母さんが茜の部屋に入ってきた。
「なんだ、起きてるんじゃない」
茜は、耳を覆う大きなヘッドフォンをかけて、ギターを弾いていた。朝から、またギター弾いて。と、呆れ顔で茜の肩を叩くと、茜がハッとして、ヘッドフォンを外して振り向いた。
「あっ、おはよう。お母さん」
「おはようじゃないわよ。早く降りてきてご飯食べなさいよ」
茜は部屋着のまま、お母さんと一緒に一階へと降りた。お父さんがソファーで新聞を開きながら紅茶を飲んでいた。すると階段からガタガタと騒々しい音を立てながら、弟の優斗が中学の制服を着て降りてきた。そして家族四人で朝の食卓を囲んだ。
「茜、ずっとギター弾いてたんでしょ。ちゃんと寝なさいよ」
「寝たよ。少しね。優斗だって、ずっとゲームしてたんじゃないの」
「まぁね。いま、いいとこなんだ」
お母さんとお父さんは、あきらめたような表情で、親ならではの包み込むような笑みを、茜と優斗におくっていた。こんがりと焦げ目のついたトーストに、バターの香りが立っていた。お母さんがティーカップに手を添えたまま、みんなの食べる様子に微笑んでいた。
「いってきまぁす」
優斗が、皿に盛られていたスクランブルエッグを掻っ込んで、玄関へと飛び出していった。玄関でスニーカーを履いていると、お母さんも続いてきて、
「傘、持っていきなさいよ」
「もう、雨降ってないよ。大丈夫」
昨日の大雨は、やっと上がったようだ。
「じゃ。行ってくるね」
「朝練、頑張ってね。気を付けていくんだよ」
玄関を勢いよく開け元気に陸上部の朝練へと駆け出して行った。湿気た空気が、家の中へと入り込んできた。
食卓ではまだ、茜とお父さんが紅茶を飲んでいた。
「お父さん、お願いがあるんだけど。前にもちょっと話してたけど、欲しいギターがあるんだよね」
「えぇ、またギター買うの。今のがあるじゃない」
玄関から戻ってきて、優斗の食器を片付けながらお母さんが入ってきた。
「またって、まだあれしかないじゃない。昨日、楽器屋さんに行って確かめてきたんだけど、やっぱりあれ、欲しいんだよね。大事に使うから」
「ん。そこまで欲しいならいいんじゃないか。じゃ、今度の土曜にでも一緒に行ってみるか。診療は午前だけだから夕方には帰れる」
「じゃあ、土曜の夕方に今村楽器で待ち合わせしようよ。ありがとう、お父さん」
茜は跳ねるように階段を駆け上がり、自分の部屋へ入ってテキパキと高校の制服に着替え、お母さんが作ってくれた弁当をリュックに詰め込み、上の空のまま登校していった。道路には大きな水溜りがたくさんあった。水溜まりには空が映っていた。空は青くてきれいだった。
茜が駅に着くと、通学の学生でいっぱいだった。昨日の大雨はどこ吹く風。雨がどうのではなく、学校が午前授業で早く終わり、それでできたフリーな時間で、どこでどうしたか、の話でうるさいくらいだった。普段は部活ごとに帰宅するのが、昨日は大雨警報で部活も中止となり、みんなで一斉に下校できたのがこの上ない特別を感じさせていたのかもしれない。どこでどうしたということより、誰と誰がどうした、ってことのほうが重要なようだった。そんな重要な話をするときには、それまでの輪がキュッと小さくすぼまり、まるでアームレスリングでも始めるかのように顔に顔を寄せ合って囁き合っていた。そのどこの輪にも属していなかった茜は、そこかしこからそよ風にように届いてくる噂話を聞かずとも聞かされながら、もしかして自分のことも何か言われてるのかな、などと気になってしまい耳を僅かに傾けていた。それから学校まで、大小さまざまな輪が賑やかに近寄ってきたが、当たらずとも触らずにかわしてきた。静かに近づいてくる落ち着いたグループの輪になら、少しは入ってみてもいいかなと思ったりすることもあったが、そん輪に限ってそのまま通り過ぎてしまった。ただ日常の挨拶だけが交わされた。その日は一日、なんとなく学校全体が上の空に感じた。こんな日もあってもいいのかもしれない。
蒼が学校に辿り着いたころには、すっかり学校中が沈まりかえっていた。とっくに授業は始まっていた。こっそり教室に忍び込もうかとも考えたが、やめた。高校に入学して間もないころは遅刻もせずにきちんと登校していたのだが、夏休みが明けたころからは授業開始に間に合わないことが暫しあった。その時は教室の後ろのドアから、こっそり忍び込んで着席し、すまし顔を作っていた。意外とばれないこともあった。それが高校二年にもなり、それも夏休みも明けたころになると、妙な諦めがついてしまい堂々と遅刻をしてくるようになっていた。なんの罪悪感も感じないようになっていた。この日も、雨上がりでぐしゃぐしゃの校庭を何の気なしに横切り、水飲み場の水道の蛇口を捻り、水道の水を口に含んで、ブゥー、と空中に向かって水を噴き出した。その水が自分にもかかってしまい少し冷たかったが、どうでもよかった。なにか快感を覚えてしまった。もう一回やってみようかと蛇口を捻った手が捻りすぎてしまい、勢いよく水が出てきた。そのまま蛇口を上向きにして親指を当てがい、ビュゥー、とそこいらじゅうに水をまき散らした。虹が見えた。とても綺麗だった。そして蒼は全身がびしょ濡れになっていた。それを自分で見て、笑ってしまった。さ、帰ろうかな。そのまま校門から出て行ってしまった。昨日ばあちゃんが拭いてくれた靴が、また泥んこになっていた。道路に泥んこの跡をつけながら、駅へと向かった。そしてぶらぶらと歩いた先に辿り着いたのは、今村楽器だった。
「こんちは」
「あれ、蒼ちゃん、こんな時間に」
「学校行ったんだけど引き返してきちゃった」
「あぁあ、そうやってても、蒼ちゃんの場合は怒られる人がいないからな」
「まぁね。ばあちゃんは怒らないしね。弁当食べたら帰るから」
今村店長が、店の壁のほぼ中央に架かっている時計をみると、まだ十時を過ぎたばかりだった。「ってことは、お昼過ぎまでは仕事になりそうもないな」そう呟きながら諦めたような笑みを浮かべながら、ギターのメンテナンスをしていた手を止めた。そして薬缶にお湯を沸かした。
「お茶、はいったよ」
「あ、ありがと。気が利くね、店長」
壁に掛かったギターを眺めていた蒼は振り向いて、店内奥のテーブルに向かった。そして今村店長の向かい側の席に背負っていたリュックを降ろして、その隣に座った。お茶を啜った。ほんのりした香りが気分を落ち着けてくれた。
「実は今日、なんだかイライラしてたんだよね」
「そうかなと思ってたよ」
今村店長は微笑みながらお茶を啜った。聞いてみたいことは、あった。学校、早かったね、とか、イライラしている原因、とか、なんで制服がびしょびしょなのか、とか、でも聞かないで笑って済ませた。この子にはそれがいいのかなと。高校二年生の女の子ともなれば、いろいろとあるんだろう。沈黙が訪れたが、お互いにお茶を啜って濁した。
「あれ、昨日、茜ちゃんが弾いてたソロイストだよね」
「あぁ、そうだよ。今度の土曜日に茜ちゃんがお父さんと来てくれることになったから」
「えぇ、やっぱ買うんだ」
「そうなるのかなぁ、と思って、メンテしてたんだよ」
「へぇー」
「ちょっと離れてるけど、一駅向こうに青空歯科医院って知らないかな」
「歯医者とかって、小学生の小さい時に行ったっきりだから分かんないな」
「んじゃ分かんないか。茜ちゃんのお父さんて、そこの歯医者さんやってんだよ」
「へぇー」
「それに、ちょっとした古い知り合いでね。茜ちゃんのお父さんとうちの親父と、昔一緒にバンド組んでたんだよ。うちの親父のほうが少し先輩なんだけどね。んでも上手かったのは茜ちゃんのお父さんの方だったって、うちの親父が言ってたよ」
「えぇ、そうなの、それは縁だね」
「でも茜ちゃんにはそこまで話してないみたいなんだけどね」
「だからあんなに上手いのか」
「確かに、上手いね、茜ちゃんは。いい血を引き継いだのかもしれないね」
「いいなぁ、うらやましい」
蒼は少しだけ顎を上げて、少しだけ瞼を落とし、ふぅ、と吐息を吐いた。そして、メンテナンス中のソロイストを見た。
「ちょっと弾いてみてもいいよ」
「えぇ、だめだよ、茜ちゃん買うんでしょ」
「まだ買ったわけじゃないから、誰のものでもないよ」
「じゃぁ、ちょっとだけ弾いてみようかな」
「そうこなくっちゃ。待ってて」
今村店長は、蒼の湯呑を覗き込んだ。空っぽだった。その湯呑と自分の湯呑も流しに下げた。それからメンテナンス中だったソロイストのチューニングをササっと済ませて、蒼に手渡した。そして自分はアンプの電源つまみを上げた。シールドの片側をアンプに差し込んで、反対側は右手に握ったままだった。ソロイストを手渡された蒼は、目を見開いてまじまじとなめるように見つめていた。しばらく見つめた後、椅子に座ったまま、抱きかかえるようにソロイストを弾き始めた。
「座って弾けるのは、いいね」
「ランディⅤは座って弾けないのが玉に瑕だよね」
「ん、でも、あたしはやっぱ、このでっぱりがやだな」
蒼は、普通のエレキギター特有の角のように突き出た部分を手で擦った。
「形が全然違うからね、これが普通で、Ⅴ系が異形なんだよ」
普通って、嫌いだ。普通になんてなりたくない、蒼は強くそう思った。そしてソロイストを今村店長に返した。
「あれ、もういいの」
「ん、いいや」
受け取った今村店長は、ソロイストを作業台に戻した。右手に握りしめていたシールドの先から束ね、アンプの電源つまみを下げた。そしてまた薬缶にお湯を沸かした。トントンと左手に軽くこぶしを作って急須を小突いた。もう一回くらいは飲めるだろう。思い起こしてみると、これで三杯目だった。どうりで薄いわけだ。よくも文句も言わず飲んでくれてるな、と蒼のほうを見て目尻を下げていた。その蒼は、室内練習用ともいえる小さなアンプに見入っていた。
「ねぇ、こんなちっちゃなアンプなら家で音出しても平気なのかな」
「どうだろう、響くには響くよ」
「ばぁちゃん、怒るかな」
「テレビの音聞こえないって、言われるかもね」
蒼は、諦めるように小さなアンプから手を離した。そしてリュックの中から弁当を広げた。その弁当箱の前に、トンとお茶の入った湯呑が置かれた。
「お、ありがと」
「どうぞ、かなり薄いけどね」
蒼はお茶に口をつけると「あちちちっ」と舌を出して湯呑を置いた。すると今村店長は、我が物顔でお茶を啜った。その我が物顔を誰も見てはいなかったのだが。
蒼は顔の前で手を合わせ、自分で詰めた弁当を食べ始めた。色味のないモノトーンな弁当だった。白菜漬けが美味しそうな音を立てていた。弁当を食べている間は無言だった。今村店長は、何かくれないのかなぁ、と蒼のほうを横目でチラ見しながら横を向いていた。人が食べてるのを見ていると、無性に腹が減りだすのはなぜなんだろう。そんな気を紛らすために、放り投げてあったギター雑誌を手繰り寄せ、読んでる風を装った。蒼ちゃんにはバレバレかなと思いつつも、たまのチラ見を続けた。そんな蒼は知らんぷりで弁当を食べ終え、弁当箱の蓋を閉め、胸の前で手を合わせて「ごちそうさま」とほんの小さく呟いた。今村店長は、少しがっかりした表情を平静な顔の裏側に隠した。ため息が、わずかに零れていた。
「じゃ、帰るね。後でまた来るかも」
「うん、いつでもおいで。気をつけて帰りなよ」
蒼はリュックを肩に掛け、駅へと向かって今村楽器を後にした。店の前の交差点の青信号が点滅しだしたので、小走りに信号を渡っていくと、空っぽになった弁当箱がカラカラと鳴っていた。そんな後姿を今村店長は店の中から見ていた。そのうち信号が変わって、車が右から左、左から右へと通り始め、車しか見えなくなってしまった。しばらくそうして流れてゆくだけの車の列を眺め、またソロイストのメンテナンスに戻っていった。
蒼が家に帰ると、誰の気配もしなかった。誰と言っても、ばぁちゃんだけなのだが。
「ただいまぁ、ばぁちゃん」
返事がない。どっかに行ったのかな、とリュックから弁当箱を出して流しで洗い、財布だけポケットに入れ、ランディⅤを背中に背負って、玄関で靴を履いていると、下駄箱の上の電話機の赤いランプがチカチカ光っていた。それを押してみると「留守番電話、一件です」と機械的なアナウンスが流れ、録音された留守番電話が聞こえ始めた。それを聞いた蒼は、止まってしまった。念のため、もう一度聞いてみても、やっぱりまた止まってしまった。もともと表情の薄い蒼の顔から表情が消えてゆく。そしてランディⅤをテレビの脇の壁に戻し、山田医院へと向かった。
途中、何度か脚がもつれて転びそうになりながらも、蒼は走った。息を切らしながら山田医院の門を潜ると、受付の前の長椅子にばぁちゃんが腰かけているのが見えた。右足には包帯がぐるぐる巻かれていた。
「おお、蒼。やっと来たか」
ばぁちゃんが、くしゃっとした笑顔で蒼のことを迎えた。
「ばぁちゃん、どうしたの。大丈夫なの」
蒼は、普段は滅多なことでは見せることのない神妙な面持ちで、ばあちゃんのもとへ駆け寄った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと転んじゃったんだよ」
ばぁちゃんは、くしゃっとした顔のままで応え、右手を蒼の肩にすがった。蒼は、ばぁちゃんを脇から抱えて立ち上がらせようとしたが、よろめいてしまい、一緒にまた長椅子に座り込んでしまった。二人は顔を見合わせて、溜め息をついた。
「ちょっと待って、走ってきたからぶるぶるだよ」
「なに言ってんだ。さあ帰るよ」
受付の看護婦さんにぺこりと頭を下げ、蒼がばぁちゃんを抱えるようにして、山田医院を後にした。とぼとぼ、とぼとぼ、なかなか進まない帰り道だった。
「こんなんじゃ、日が暮れちまうよ。もうちっとは急ぎな」
「そんなこと言ったって、ばぁちゃんのその足じゃ無理だよ」
「あたしゃ、見たいテレビがあるんだよ」
自分の怪我した脚より、見たいテレビなのか。蒼は呆れてしまった。と言っても、ばぁちゃんのテレビ好きはいまに始まったことではないのだが。
「はいよ」
蒼は、ぶっきらぼうな返事を前を向いたまま返した。蝉がぎんぎん鳴いていた。
金曜日の放課後、茜は今村楽器に向かった。程好く晴れた夕暮れで、足取りも軽やかだった。
「こんにちは」
「あら、茜ちゃん」
散歩から帰ってきた仔犬のような顔で茜が今村楽器に入っていくと、店内では今村店長が椅子に座って赤いギターを弾いていた。
「あれ、それ、」
「ばっちりメンテナンスしておいたからね」
今村店長が弾いていたのは、茜が明日買うはずのソロイストだった。ぴかぴかに磨かれて倍音がよく響いていた。
「茜ちゃん、はい、弾いてみなよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
今村店長からソロイストを手渡された茜も、並んでいる椅子に腰かけ、ジャーン、と弦をかき鳴らしてみた。ボディから伝わるぐわんぐわんとした振動が下っ腹に響いてきた。そしてひとつこくりと頷き、そのままソロイストを今村店長に返した。
「え、もういいの」
今村店長は、はっとした表情で受け取った。なにか、弾きまくることを期待していたのに、面を食らってしまった。
「明日、ちゃんと自分の物として買ってからにします。って、お父さんに買ってもらうんですけどね」
茜はぺろっと舌をちょっとだけ出して、はにかみながら視線を今村店長の手元にあるソロイストに向けていた。
「そっか。うん、そうだね」
今村店長は手渡されたソロイストをぎゅっと握りしめ、ギターがずらっと並んだ壁の一番上に掛けた。
「明日は、うちの親父も来るって張り切ってたよ」
「えっ、そうなんですか。店長のお父さんて初めてかも」
「かも、しれないね。実は茜ちゃんのお父さんが、娘のギターを宜しくって、昨日の仕事帰りに寄ってくれてたんだよ。それで、うちの親父も、久しぶりに会うのが楽しみだから、土曜日には来ることにしたみたいだよ」
「えぇっ、ちょっと待ってください。うちのお父さんと、店長のお父さんって知り合いだったんですか。初めて聞いたんですけど」
「ん、昔、一緒にバンド組んでたらしいよ」
茜は開いた口が塞がらなくなっていた。自分と今村店長のちょうど真ん中ぐらいの床の一点をじっと見つめたまま、動かなくなってしまった。そこへ電話のベルが鳴った。プルルルル、と小気味いい音を立てて鳴っていた。
「はい、今村楽器です。あぁ、はい、はい、」電話をとった今村店長は、そっぽを向いて話し始めてしまった。茜は壁の一番上に掛かった赤いソロイストをじっと見つめ、そして立ち上がった。そしてリュックを背負い直し、今村店長にぺこりと頭を下げ「あした、よろしくおねがいします」と口パクで言った。それに気づいた今村店長も、電話の受話器を左手で耳に当てつつ、右手で大きく手を振った。茜も応えるように右手で大きく手を振り、後ろ髪を引かれながら今村楽器を後にした。空は青く晴れていた。
茜が家に帰ると、弟の優斗がお母さんとなにやらもめていた。茜が玄関を上がって茶の間を覗くと、陸上のスパイクを手に持った優斗が珍しく熱弁をふるっていた。それをお母さんが腕組みをして睨むように見つめていた。これは無理だな、ああいうときのお母さんには勝ち目はない、茜はそう胸の内で呟き、くすっと笑みをこぼしながら二階へと上がっていった。自分の部屋へ入り、窓を開けた。青い空がいっぱい見えていた。晴れた空気をいっぱい吸い込んだ。そして遠くの空を眺めた。電車の音が遠くから聞こえてきた。
その日の晩御飯までにお父さんは帰ってこなかった。茜は明日のことを念押ししようと思っていたのに。晩御飯ではお母さんと優斗があまり喋らなかったので、茜もなんとなく口数が少なくなってしまい、静かな晩御飯となってしまった。晩御飯はクリームシチューだった。クリームシチューはいつも通り美味しかった。
茜が晩御飯を終えてリビングに掛かっている時計をみると、九時を過ぎていた。お父さんはどこに行ってるんだろう。気にかかって仕方がなかったが、優斗と一緒に二階に上がって各々の部屋へと入っていった。お母さんだけが、リビングでお茶を飲みながらテレビを見ていた。茜はお父さんの帰りを待とうと、二階の自分の部屋の窓を開けて耳を澄ましていたのだが、そのうちうとうととしてしまい、ベッドに入って寝てしまった。優斗の部屋からは、なにやら電子音がピロピロピロピロと小さく聞こえていた。
「北乃さぁん、どうぞぉ」
診察室の扉が開き、年配の看護婦さんが顔を出してばあちゃんのことを呼んだ。蒼は目線を上げ、年配の看護婦さんに目で頷き返し、横に座っているばあちゃんの肩を抱いた。よっこいしょ、っとばあちゃんは蒼に支えられながら立ち上がり、蒼と共に診察室に右足を引きずりながら入っていった。パソコンに向かっていた山田先生が、ひじ掛けの付いた茶色い革張りの椅子をくるりと反転させ、蒼とばあちゃんの方に向き直った。
「どうですか、足の具合は」
「どうもこうもないよ、痛くて歩けやしないよ、先生」
「骨には異常ないし、黙って安静にしてれば治りますからね」
「そうそう黙ってばかりもいられないんだよ」
蒼は黙ったまま山田先生とばあちゃんの押し問答を眺めていた。
「あたたたたたた、痛いよぉ」
山田先生がばあちゃんの右足を両手でさする様に触ると、ばあちゃんは途端に顔を引きつらせて大きな声を上げた。横にいた年配の看護婦さんが、ばあちゃんの肩を撫でて落ち着かせた。手慣れたものだった。さすがのばあちゃんも、この看護婦さんには手名付けられているようだった。そして年輩の看護婦さんに手当をしてもらったばあちゃんは、満足げな笑みを浮かべながら大人しく自分の右足を見ていた。
「また来週にでも来てみてくださいね」
手当てを終えた年配の看護婦さんが、包帯やら湿布のフイルムやらを片付けながらばあちゃんに向かって促してきた。
「はいよ、そうするよ」
と、ばあちゃんは蒼のほうに顔を向けながら返事を返した。ばあちゃんの足の手当てを見ていた蒼は顔を上げ、自分のリュックを背負い、ばあちゃんを支えながら一緒に立ち上がった。
「それじゃどうも、お世話様でした」
ばあちゃんが年配の看護婦さんに向かって腰を折りながら言った。それと共に蒼は山田先生に向かって頭を下げた。
「お大事に」
パソコンに向かっていた山田先生がくるりと椅子を回転させ、おおらかな表情で見送った。年配の看護婦さんは蒼とばあちゃんのすぐ後ろに付き添いながら、診察室から一緒に出てきた。そして待合室の長椅子に蒼とばあちゃんを座らせると、薬の説明やら、日常生活で気を付けることなどを教えてくれた。説得力が満ちていた。蒼もばあちゃんも、素直にただ聞き入れた。気を付けようと思うも、それを実践できるのかは、あやふやだったが。そして会計を済ませ、蒼に肩を借りながら、ばあちゃんはよたよたとした足取りで山田医院を後にした。陽射しがじりじりと暑かった。
「そういえば蒼、今日も学校サボったのかい」
「何言ってんの、今日は土曜だから休みだよぉだ」
口を尖らせながら、あかんべーをして蒼がばあちゃんの顔を下から覗いた。ばあちゃんは、ふん、とそっぽを向いた。
「お昼は、素麵にしとくれよ」
「えぇ、湯がくの暑いよ。やだよ」
不貞腐れた蒼がそっぽを向いた。麦茶が飲みたかった。やっぱりお昼は素麵かな、蒼もそう思い始めていた。麵つゆ、足りるかな。足りなかったら、ばあちゃんのたれに醤油を足してやろうと、にんまりにやけていた。
道に転がっていた小さな石ころに、ばあちゃんが足を取られてよろめいてしまった。うわっ、思わず蒼が声を出してしまった。そして支えていた腕に力を込めた。蒼も一緒によろめいてしまったが、かろうじて転びはしなかった。そのまま立ち上がり、無言のまま家まで歩いた。帰宅するや否や、二人で麦茶を飲んだ。蒼は二杯目をお替りした。そして蒼は、台所へ向かい、素麺を茹でるお湯を、大きな鍋に沸かし始めた。換気扇を回し、台所の窓も、全開にした。リュックを片付けに居間へ行くと、ばあちゃんはテレビの前で小さな踏み台を椅子代わりにちょこんと腰かけ、テレビを見ていた。素麺を食べたら、午後から今村楽器に行ってみようかと思ったりしていたが、今日のところは家にいようと思った。ばあちゃん相手に、ギターの練習をしようと思った。
「ただいま」
優斗が部活から帰ってきた。上から下まで汗でびっしょりだった。こんなに日焼けってできるのかというくらいに、肌の出ているところ全部が褐色に焦げていた。正直、汚い。嫌だ。あんな風にはなりたくなかった。朝ごはんなのか昼ごはんなのか、どっちともつかないご飯を食べ終えたばかりの茜は、食卓から冷ややかな眼差しを優斗に向けつつも、顔には温かな良いお姉さんが浮かんでいた。優斗はそのまま冷蔵庫へと向かった。そして冷蔵庫を開け、牛乳をパックごとぐびぐび飲んだ。冷蔵庫の上にあったバナナも、食べた。足りなくて、もう一本食べた。牛乳とバナナは優斗だけのためにあるものだから、いくら食べようが飲もうがいいのだけれど、それでも茜にはなにか悔しい気持ちが沸いていた。
茜が起きたころには、もうお父さんは出勤した後だった。結局、会えなかった。いいんだけど、ただなんとなく、会っておきたかった。土曜の夕方、今村楽器で待ち合わせる前に。その土曜の午前がそろそろ終わろうとしている。なんだか、つまらなかった。茜は一人でポツンと食卓に座っていた。風呂場からは大袈裟なまでのシャワーの音が聞こえていた。優斗はなににしても、大袈裟だ。そういえば、お母さんはどこに行ったのかな、朝からいなくなっていた。
そろそろ食べ終えた食器でも片付けようかと、茶碗と皿を重ねて流しへと持って行き、水道からお湯を出すと、優斗がタオルで体を拭きながらパンツ一丁の格好で現れた。えぇ、なにそれ、その恰好、服着て来いよ、優斗には聞こえないぐらいの囁くような声で、茜はぶつぶつと言っていた。全くもう、知らないふりをして洗い物を続けた。
「姉ちゃん、まだ行かないの」
「え、どこに」
「今日、ギター買いに行くんでしょ。俺も一緒に行くから」
「えぇっ、だめだよ、やめてよ」
「やだよ、一緒に行くから。じゃ、着替えてくる」
えぇっ、なんでぇ、なんで優斗と一緒に行かなきゃならないの。やだなぁ。今日は、うきうきな気分で今村楽器に向かうはずだったのに、なんだかこれじゃぱっとしないな。あぁあ、どうしよう。ていうか、着替えてくるじゃなくて、服着てくるだろう。はぁあ。
洗い物を片付けた茜は自分の部屋へと入り、ギターを抱えて少しだけ弾いた。ギターの音までささくれ立っているようだった。少し弾いただけでギターは片付けてしまった。そして箪笥の引き出しを開けると、黒地に派手な柄のヘビメタティーシャツがいっぱいに詰め込まれていた。それぞれが思い入れのあるバンドのティーシャツで、今日はどれにしようかと顔をほころばせていた。ふと目に着いたのが、アイアンメイデンのエディの顔が肖像画の様にプリントされているティーシャツだった。エディがこっちを向くように広げられていた。アイアンメイデンか、いいかも。今日はこれにしよう。と、部屋着を脱いで、アイアンメイデンのティーシャツを着た。そして細身のジーンズに履き替えた。
「姉ちゃん、まだぁ」
下から優斗の声が上がってきた。優斗、本気で一緒に行こうとしてるのかな。えぇ、どうしよう。やだなぁ。茜は部屋を出ようとドアのノブに手をかけたところだったのだが、離した。そしてベッドにころんと寝転がり、窓から空を見上げた。なんだか灰色かかった雲がいっぱいだった。まさか雨、降るのかな。優斗、雨男だからなぁ。雨降りだす前に行こうかな。ぶわっとベットから起き上がり、窓を開けてみた。雨の匂いがしてきた。茜はしばらく雲をじっと見ていた。そして窓を閉め、下へと降りていった。
「行くよ、速くしなよ」
「なんだよ、散々待たせておいて」
茜と優斗は一緒に玄関を出た。優斗が鍵をかけ、鍵をポケットに入れた。茜は門のところで振り向きながら待っていた。そして二人並んで今村楽器へと向かった。ヘビメタ女子と、陸上男子、どこからどう見ても姉弟だった。
「蒼、お茶、」
居間でテレビを見ていたばあちゃぁんが、台所で食器を洗っている蒼に向かって大きな声を張り上げた。
「えぇっ、なに、」
「お茶、それと煎餅」
「なにそれ、まったく、我がままなばあちゃんだ」
ぶつぶつと洩らしつつも、蒼は薬缶にお湯をかけた。洗い物を片付け、そのうちにお湯が沸いて急須にお湯を注いだ。そして二つの湯呑にお茶を注いだ。
「はいよ、お茶」
蒼は両手に一つづつ湯呑をもって、一つをばあちゃんの前に置いた。もう一つをその向かい側に置き、袋に入った煎餅と急須をもってばあちゃんの向かいに座った。そして一口、お茶を啜った。
「あれ、このドラマ、ばあちゃんの好きだったドラマだよね」
「そうそう、今日は一気見で全話放送なんだってよ」
「あら、良かったね」
「足は痛いし、ちょうどよかったよ」
ばあちゃんは袋から煎餅を一枚取り出し、手で半分に割り、それをまた半分に割り、それをまた小さく割って、ぱりぽりと食べだした。それでも目線はテレビの画面から外さなかった。蒼は湯呑を置いて立ち上がると、壁に立てかけてあるランディⅤを取り出してきた。そしてストラップを肩に掛け、指ならしにアイアンメイデンのエースハイをゆっくり弾き始めた。ランディⅤでアイアンメイデンってのも、なかなか乙なものだなと気分も高揚してきた。
「ちょっと、今いいとこなんだよ、静かに弾いておくれよ」
ばあちゃんは、テレビに食い入るように見入っていた。
「えぇっ、これでも静かに弾いてんだけど」
「いつもの楽器屋さんにいって弾いてきたらどうなんだい」
「えっ、いいの」
「あぁ、いいよ。気にしないで行っといで」
ばあちゃんは虫でも追い払うかのように、右手をひらひらとさせた。視線はテレビに向けたままだった。
「ん、じゃ、行ってくるから」
蒼はランディⅤを独特な三角形をしたケースに仕舞いそのまま壁に立てかけ、自分の湯呑を片付けた。そして余所行きの格好に着替えてきた。余所行きの格好とは言いつつも、ヘビメタティーシャツにジーンズと、お決まりの格好だった。
「じゃ、行ってくるね」
「あぁ、気を付けていきなよ」
「ばあちゃんも、気をつけてよ」
蒼はランディⅤを背負いケースのストラップをたすき掛けにして、炎天下の道を今村楽器へと歩き出した。遠くの方からごろごろごろごろと聞こえてきて、顔を持ち上げ視線を空に向けると灰色の雲が湧き出していた。降るのかな、ちょっとだけ足を速めた。視界の片隅でぴかぴかっと光るものが見えたような気がした。急に風が吹き始めた。道端に転がっていた石ころを蹴とばした。
雨の我がまま