2021年の棚卸し
本作品はフィクションです。実在の人物とは一切関係ありません(※「シュークリームと焼きそば」は大学時代のクラスメートが卒論の指導教員から実際に言われたそうですが)。
第1章 松葉ガニ、年越しそば、焼きそばとシュークリーム
ふりかえれば予兆のようなものは確かにあった。
だれもその結果を予想していたとは思えないが。
(一日目)
毎週月曜日はふつう、レギュラー番組用の資料収集や原稿作成のデスクワークで一日がほぼ終わる。十二月初旬のその日はいつもと違った。外で昼食をすませて局の本社屋に戻ると、エレベータの前で報道部長の八重洲さんが興奮気味に話しかけてきた。
「やあ、元気そうだね。ところで、昨日の選挙で外務大臣が代わりそうだね」
不織布マスクの中でホカホカと吐息がふくらんでいる。
その前日は総選挙の投票日だった。関心を失っていたわたしは「そうみたいですね。さっきもフロアのモニターで見ましたよ」とあわてて答えながら、前日から今日にかけて記憶を一つ一つたどりはじめた。関西育ちの友達に何度かチクリとたしなめられたが、このクセは治っていない。
「あんたは前提から話を始めるから結論にたどりつくまでが長いんや。最後に言うことを最初から言ってくれると、本当はすごくありがたいんやけどね」
急な話題で真っ白になったわたしの頭の中では思い出の棚卸しが始まる。①今朝七時ころ、総選挙で議席を減らした与党の幹事長が辞任することが報道された。②年末恒例宝くじ抽選会で当選番号が読み上げられるように、アナウンサーが手元の原稿を一言一句間違いなく読み上げていた。③その後任は今の外務大臣が有力らしい。
ただ、わたしにとっての年末恒例行事は————毎年十二月ころに鳥取県の境港で特産「松葉ガニ」の水揚げが最盛期をむかえて、カニが全国へと送り出される映像を手配することだ。画面を埋め尽くすカニ、カニ、松葉ガニ。レンガを積みあげるように淡々と、報道番組に使う映像の手配をかけてわたしは局内各所に出荷する。④昨晩、総選挙の開票が始まって数分後に鳥取県でベテラン候補の当選確実をテレビで見て松葉ガニを思い出した。
今年も松葉ガニの水揚げ映像の件で大変お世話になります。
恐れ入りますが今季の水揚げがいま一つの場合は、
画面に入るカニの数が多くなり過ぎないようにご配慮いただけるでしょうか。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。
水揚げが今年は少ないのに映像は例年と変わりがないじゃないか、と視聴者からのお叱りが届くことなく無事に年が越せますようにと祈る。一年前から色も形も変わりない天然のカニに西暦二〇二一年冬の雰囲気を持たせる————おおよそ科学的とは思えないお願いのメールを丁寧にしたため、山陰地方の担当者に送り終えて早目の昼食に出かけた。
⑤今日の正午前からは、今の外務大臣が与党の次期幹事長として新たに就任することが内定したとニュースが流れ始めた。震度七の揺れでも落ちないよう太いボルトで天井に固定された二十七インチモニターがわたしたちの職場を見下ろす。音を発しているところを見たことはないが、モニターから二十四時間絶えず流れる映像は机にうずたかく積まれた取材用資料や、その上に鎮座した名もなき宣伝用グッズ試作品などに囲まれた仕事場の中で、唯一開かれた窓のように外界の風を吹き入れている。
カメラのフラッシュを浴びながら与党本部の建物に入る外務大臣の姿が、ちょうどお昼時に繰り返し放送される。東海道新幹線「のぞみ号」のアナウンス並みにタイミングがよい———この列車は、さきほど三河安城駅を定刻通りに通過しました。あと九分ほどで名古屋に到着です———定刻に列車が駅を通過・定刻の通りの放送・定刻通りの準備。けれど、お昼のニュースにちょうど間に合うように「速報」———そんな都合のいいことが起こるのかと思うけど世の中それでいいならまあいいか。⑥新幹線は定刻通りに名古屋に着いてお客さんは駅に降り立つけれど、空席になる外務大臣にはこんど誰が就くんだろう。どんな取材やら資料やらが必要になるのか。「新大臣の横顔が分かる」映像の手配はどこから。会社近くのインドカレー店でバターチキンカレーを選んだわたしはカレーのついたナンを口に運びながらテレビ画面をちらちら見て気にしていたが、食後にチャイ・ティーを口に含んで天井を見上げ、羽をのばして止まった扇風機の優雅な翼の形にぼんやり見とれている間に注意を奪われた。そう、昨日から今日まではだいたいこんな感じだった。
いずれにせよ選挙は終わった。人事の季節たけなわの政界とは別の惑星に住んでいるくらい縁のない私。外務大臣や幹事長の話題よりもインドカレーを服にこぼさず、松葉ガニ映像を忘れずに手配して安心していた私。ニュース速報のたびに興奮する八重洲部長と、ささやかなエネルギーを失わないように貯めこんでいる私の間には、会話が始まった時から大きな距離が空いている。しかしその日の八重洲部長はエレベータの扉が開いてフロアに出ても、ぼんやりとしていた(ように見えたに違いない)わたしに向かって話を止めない。エレベータホールに出ながら、記憶を一通り再生し終わったわたしに彼は尋ねる。
「ところで、君みたいな若い人は最近の朝鮮半島情勢をどう考えているのかな」
総選挙、外務大臣、の次は朝鮮半島情勢の分析。各界の有名人が一晩中議論しても結論が出せるとは思えないが、朝鮮半島情勢について自分が今まで何を考えていたかを一通り思い出す。すぐに何か頭に浮かぶだろうか。
約三秒後、実家に帰る前にホームページで確認したモノレールの運行情報
「平日朝の混雑状況」の最初の部分が、英語版のページでは
「平らな日本と北朝鮮(Flat Japan and North Korea)」
となっていた画面が真っ先にヒットした結果をふまえて私はひらたく伝えた。
「分かりません」
会話が盛り上がらず落胆すると予想した私の期待を裏切り、八重洲部長はその返答を待ちわびていたかのように、かつて北東アジアの平和を築くためにヘンリー・キッシンジャー博士が挙げた功績を雄弁に、力強く、誇らしげに語りはじめた。なぜ彼がそんなに雄弁で誇らしげに話しているのかは分からないが、悠然と流れる大河のように語り続ける。彼の話(というよりも演説)が始まると、わたしは交響曲「モルダウ」のオープニングを思い出す。一つ、また一つと支流がフルートの繊細な響きに導かれて合わさり、川面の堂々とした姿が視界を覆う。すると、彼の決まり文句「国際関係というものは二国間、点と点ではなく面で観察すると、世界全体が見える立体的な奥行きへとつながるんだ」がフォルテッシモで響きわたる。「日朝国交正常化にも、当事者の日本・北朝鮮だけではなく、中国や韓国の立場を考えることも同じくらい重要なんだ。いわんや、米国やロシアもだけどね」と念の入れようだ。
ただ、わたしの日常業務と東アジア最新国際情勢には点と点でも面で観察しても関係が構築される気配はなく、松葉ガニの水揚げの方が気になって仕方がない。わたしは安全に話を切り上げるべく、駅の改札口を出る程度の気分で相づちにもならない言葉を継いだ。
「最近ニュースに出てくる『経済安全保障』っていう言葉を初めて聞いた時は、新しいセキュリティー会社の名前かなって思ったんですけど、わたしには、混み混みの通勤電車の中で『落ちゲー』に夢中になって倒れそうな人とか、スマホを操作しながら歩いてる妊婦さんとか、携帯の画面を見ながらベビーカー押して横断歩道わたっている人の方が危なそうで心配になるんですよね」
力強くも雄弁でもなかったと思うが、無言と静けさがその場を支配した。今日午後の仕事は最初何だったかな。再びわたしはお昼前に棚上げしていた仕事用の記憶をヨイショと降ろし始める。⑦午後一番の仕事は大晦日お昼のニュースで流す「年越しそばを食べにくる常連客でにぎわうお店の様子・お客さんの一言コメント」映像を今年はどう作るか、だと気づいた。昨年は常連客のコメント「ここのお店のソバを食べないと、わたしは年が越せないんですよ」が出来過ぎなくらい好評だったから、今年は別のセリフに、が引継ぎ事項になっていた。そう考えている間に八重洲部長の口がモゴモゴと消化不良の調べを奏でて、適当な別れの言葉を送りだす———「ふふ、そんなことも考えていたんだ」とか的外れな反応を嘆く失望でも、「ははは、ずいぶん細かいね」とか乾いた苦笑でもよかった。かみ合うことなく期待外れに終わった会話の気まずさを味わうはずだったが、その前に漂う空白の静けさが異常に長かった。
おかしい。何かがおかしい。
ふと私が顔を向けると、八重洲部長は眉間に十本くらいしわが寄りそうな顔つきを苦しそうに浮かべていた。わたしから人生を左右されるような難しい問いを投げかけられたかのように悩んでいる風にも見える。そして満を持したように彼は、地球温暖化に影響を与えそうなくらい膨大なエネルギーを消費し、どこから採掘されたか見当がつかない希少鉱物のような講評を声高らかに発表した。
「焼きそばとシュークリームを一緒にするような議論はどうかと思うけど。君、妙に理屈っぽいんだね」
いま耳を通過した言葉の意味をかみ砕こうとした。
私が理屈っぽい。焼きそばとシュークリーム。理屈っぽい、私が。シュークリームと焼きそば。ワタシ・ガ・リクツッポイ。
世界史年表が頭から離れないこの人に「理屈っぽい」とよばれるのか。八重洲さんが先週の月例の合同会議が終わる直前になって「最近のロシア・ウクライナ情勢をトロイア戦争と比べると・・・」と平然と言い出すから、いつそんな事件が起きたのかと調べてみたら何と紀元前。「トロイア戦争」と入力して検索に使ったスマホがひざの上から滑り落ちそうになるのを間一髪で捕まえた。彼の頭の中では、歴史上の出来事が太平洋に張りめぐらされた海底ケーブルのようにネットワークを作っているんだと、わたしの想像の枠が押し広げられた衝撃を思い起こした。
わたしが理屈っぽいとも言えるような出来事は・・・あった。
「地球環境を考えて二酸化炭素の排出量を減らすために、校舎や図書館の屋上に太陽光パネルを付けるようわたしは主張しているんですけど、採算が取れないという理由で事務の人たちにダメだって言われるんですよ、皆さんどう思いますか」
普段は授業熱心でない社会科の先生が授業中にマジメな顔である日、急に問いかけても誰も発言しなくて重たい雰囲気が漂い始めた———仕方がないから「太陽光パネルを作るのにも二酸化炭素が出るんじゃないですか」と学級委員だったわたしがとっさに口を開いたら、頭のてっぺんから煙が立ち昇りそうなくらい先生に嫌そうな表情を向けられた(生徒に見せる表情ではなかった)。隣の席にいた友達が驚いて無言で爆笑しながらこちらを向いていた。冗談じゃなかったのに。故障したノートパソコンのように先生の脳みそが発火しそうで身の危険を感じた。
今ならもっと安く太陽光パネル作れるし、製造過程で二酸化炭素を出さなくても量産できるから先生の発言はタイミングが悪かったんでしょう。タイミングは大切ですね、とわたしは授業が終わって十年近く経ち、大きくタイミングを外して納得した。焼きそばとシュークリームが同時に口へ押し込まれたような違和感が、最終段階にあるパン酵母のようにわたしの頭の中でムクムクと発酵している。ヨドバシカメラの店頭で山々の絵を背景に陳列された太く立派な「八ヶ岳の薪」をくべれば、焼きそばパンの生地が環境にやさしく大量に安く作れるのだろうか。
先生は今も熱弁をふるっているのだろう。大河モルダウのように。
「バイオマスですよ、みなさん。脱炭素時代の主役はバイオマス。木は長年、成長過程で二酸化炭素を吸収しますから、森林整備で剪定された枝や廃材を燃やしても時間を通じてトータルでみれば温暖化効果ガスを増やすことにはならないんですよ。なんと、農林水産省ホームページによれば、日本の国土の三分の二は森林で占められているんですから、意外と日本も資源国といえるかもしれません。これは重要ですから自分でよく考えてみてくださいね」
約十年後のいま私の目の前では、さっきまで色を失っていた八重洲部長の顔つきが、栄養ドリンクを飲み果たしたような達成感、緊張感、補給されたエネルギーが一体となってにじみ出るように生き生きとしている。
おかしい。ますますおかしい。
「きみ、興味深い話を聞かせてくれたからついでに言うと」と自分の話し相手だと認めたらしい私に、八重洲さんは次の話題を投下している。名曲選の常連、交響曲モルダウ。民族学派の巨匠スメタナの大作。それに比べてわたしの小話にだれが興味を持つのか———いまこの世界でたった一人、興味を持った彼にそんな疑問は伝わらない。エレベータホールで立ち止まる八重洲部長とわたしの前を「なんでこの二人組で会話が盛り上がっているの?」と不思議そうで落ち着きのない老若男女の顔つきが職場の右へ左へと流れていく。
「少し前、アメリカ大統領選挙の後の混乱が強烈すぎたのか『民主主義が死んでしまう』とか『民主主義が消滅する』とか、ちょっとドキッとするようなフレーズが見られるようになったけど、ぼくはあれ、ちょっと行き過ぎだと思うんだよね」
はい、この会話の展開にわたしも行き過ぎなほど強烈に混乱してドキッとしていますが。ここで死にたくない一心で拝聴しております。
「民主主義というのはもともとゴールのないプロジェクトなんだ。受験勉強とは違って正解や近道や模擬試験はないんだ。歴史の中で誰も気づかないうちに始まり、永遠に未完成なんだよ。たった二〇〇年ほど前に書かれた合衆国憲法にも『われわれ人民は、より完全な連合体を形成するために』と目的が書かれているよ」
「『自分たちが完全ではないから、もっとレベルの高い境地を目指すためにこの憲法をつくって国づくりに精進します』と作者は言いたかったんですか」
わたしを急襲した「民主主義」の突風で飛ばされないよう、他人の揚げ足をとるような後ろめたさを抱えながら答える———八重洲先生は私の言葉を途中でさえぎった。
「その通りだよ。き、きみ、分かってるじゃないか。一体いままで何を隠してたんだ」
隠してた?
分かっているはずの自分が何を隠していたのか理解できない。新幹線の車窓についた雨の水滴が進行方向の後ろ斜め下に引きずられるように、私の意識も不自然な方向に引き込まれていく。八重洲さんの声は、時速二百キロメートルへ加速するように一オクターブ上がった。
「合衆国憲法を起草した当時のメンバーには、女性やアフリカ系やラテンアメリカ系やアジア系の人がいなかったのに、いまや世界中から人材を引き寄せてアメリカは超大国として動いているよね。それだけでも、民主主義がそんなに簡単に消え去るものじゃないって分かると思うんだ。外からは見えにくくても、人の心の中から簡単に消えるほど魅力のない考え方ではないからね。ま、日本だと大阪なんかにちょっと過激な発言をするリーダーが目立つみたいに、地域の特殊事情はどこの国でも多かれ少なかれあると思うよ。バラエティー番組的に面白おかしく取り上げる話題性はあるかもしれないけど、それが社会の本質であるかのように伝えるのもどうかなぁ」と言いながら戸惑った表情を見せているのに、ずいぶん楽しそうに聞こえる。
それに影響されたのか、大阪だけでなく東京も個性豊かなリーダーを戴いているような気がしてわたしまで浮足立ってしまった。「スペインの世界遺産『サグラダファミリア』も一世紀以上は未完成でずっと建設中ですけど、海外から観光客が大勢押し寄せて大人気ですね。民主主義と同じようなものでしょうか」と口にする寸前でヒヤリとした。
杞憂だった。
彼は周囲の目をまったく気にせず、「民主主義」に寄せる自分の思いを私に容赦なく、大きな手ぶりをまじえて注ぎ込む。目の前に置かれたホットプレートの上で片面の焼きあがったお好み焼きがコテでひっくり返され、もう一方の片面からジュワっと噴き出す熱い蒸気が音をたてる時のように私は息をのむ。ただただ圧倒されている。
「どんな国にも世論が存在するんだ。秘密警察が暗躍して『監視社会』と言われていた旧東ドイツでも人々の声は政治に反映されていたからね。いま、日本の政府・与党は必死で、外務大臣だけでなくて内閣改造・役員人事に奔走しているはずだよ。次の選挙で有権者に対する『顔』にもなるからね。話題性とか意外性のある人が選ばれても全然おかしくないと思うんだ。『実際、誰がどこの役職に』って段階までは少し待たないといけないけどね」
とっくにだいぶ前から、話が間違った方向に進んだような実感でわたしは重たく充実していたが、さらなる高みに到達した。
「そうだ、さっそくだけど明日、年末の番組編成について打ち合わせがあるから君のフレッシュな意見も是非聞かせてもらいたいな。プロデューサーにはぼくから話しておくからさ。よろしくね」
それが、次の日に場違いな会議に呼び出されたきっかけだった。もちろん、私が意見するような場ではなかった。
(二日目)
「ちょっと待って。何ですかこれ、信じられないわ。エイプリルフール用の新聞記事が情報源ってどういうことなんですか。どこか間違っていない?」
会議冒頭から、番組編成次長を務める順子さんの甲高い声がマスク越しとは思えないくらい耳に突きささる。マスク越しで、感染予防で距離を開けて座っているから、大声で話さないと聞こえないと彼女は危惧しているのだろうがその必要はまったくない。会議室の机の上には二十年以上前、日本全国で掲載された朝日新聞の記事のコピーが参加者に配られていた。八重洲報道部長様のアイデアにちがいない。
「閣僚に外国人登用・・・当面の『日本の危機』乗り切り策として・・・グローバル化した経済には世界標準が確立しており、政治の世界でも統一した価値判断が求められているようになっている・・・サッチャー氏らの名・・・『鉄の』女性首相 マーガレット・サッチャー氏[ほか]・・・」
八重洲部長の主張は昨日と変わりなく、永遠に止まることを知らない大河モルダウのように悠然と流れる。
「今度の内閣改造・与党役員人事は空席になった外務大臣を含めて、誰にも結末が分からないんですよ。年内に決着がつくのかも、はっきりしない。どこを取材しても誰に話をきいても、役に立つ情報が取れない。何か、予想もつかないことが起きるかもしれないと私は読んでいます。このまま今まで通りに同じような取材を続けていたら、年末まで情報番組のコンテンツが足りないどころか、時代に取り残されますよ。こうなったら大胆な仮説を立てて他局との違いを見せて、メディアとしての存在感をアピールする機会ですよ。外国から大物政治家が閣僚に入る時代の節目、『令和の開国』が日本の政界に世代交代の大波をもたらす二〇二二年だと大胆に打ち出しましょう。正解が見えなくて不安な時にこそ、『艱難汝を玉にす』の精神で情報発信を刷新するんです」
「かんなん なんじ を たまにす」
自動変換機能に助けられて私はようやく理解した。何の準備も心構えもなく年末の特集番組編成会議に呼び出されたわたしにはただ座っているだけのぬいぐるみ並みに存在感がない上、「リラックマ」ほどの癒しも与えられない。八重洲さん発案の特集コーナーをつくるための映像制作をわたしが担当することになるから、上司のプロデューサーから呼び出された・・・過去の映像を探して編集する仕事をこちらに割り当てられる・・・八重洲さんの話をとりあえず聞いておかないと。ただ、日本政府の大臣に外国人が就任するって、相手に打診するだけでも結構大変じゃないか。素朴に思う。
一方で、八重洲さんのアイデアを受け付けられない順子さんは、最初から何も話を聞かなかったことにしようと全力だ。あまりにも強烈な口調で論破しようとするので、一度くらいは他人の話に耳を傾けたように思わせる技が天才的————そんなテクニックを競う全日本選手権がもしあったなら、第二シードあたりで優勝候補に入るんじゃないか。
「それで本当に大丈夫なのかしら。どういうプロセスでそんな気まぐれみたいな企画がベストだって結論になるのか、筋を通してもらわないと困ります。私にはぜんぜん関わりのない、よそ様のお仕事に口を挟みたくないんですけど、わたしの気持ち的にはぜんぜん割り切れません。ちゃんと説明してください。よりにもよって相手は大統領って何?この取材のために大きな予算をつけようなんて、どこか頭がおかしくなっているんじゃないですか。まあ、『頭がおかしくなっている』は、ちょっと言い過ぎでしたけど」
「言い過ぎ」などと順子さんがちっとも考えていない事実がオーロラの鮮やかな光を放つ。組織の存亡をかけた重大な局面なのか、縄張り争いが原因で起きた子供の口げんかなのか———結論が出る見通しは暗く、絶望的なこの出席者の組み合わせで、どうやって年末の特集番組をこれまで組み立ててきたのだろう。それでもなお、自説を押し込む八重洲部長は声量を三割増しで議論の混迷に拍車をかけた。
「順子さんは簡単に『割り切れない』と言いますけど、人間の世の中はおろか、自然界にだって割り切れないことはあるんです。うるう年は必ず四年に一度来ると思われているけど、西暦一八〇〇年や一九〇〇年には二月二十九日が無かったことをおぼえている人はほぼ皆無ですよね。ところが西暦二〇〇〇年には二月二十九日があって、西暦二一〇〇年には無いんです。単に四年に一度うるう年が来ると決めつけられるほど簡単には分からない、正解にたどり着かないことがあるんです。実際に誰かが一つ一つ調べてみなければ、何が分かっていて何が分かっていないかすら、そもそも何も分からないんですよ。もっと詳しく言い始めると『うるう秒』っていうのもあるんですけどねっ。そんな事は皆さんもう忘れているでしょう。どうですか」
自分が西暦一八〇〇年代に生まれ、二一〇〇年頃まで生きる予定である語り口で周囲に沈黙を強いている。想像力と説得力のすき間を瞬間接着剤でつなぎ合わせ、反論の余地を見つけさせないのが彼の得意技なようだ。その良し悪しはともかく、徹頭徹尾かみ合わないまま白熱しているこの議論には脱出口が用意されているのだろうか。わたしには避難する時間がなく、冷たい会議机の上で手を組んだまま石のように固まっている。
「パチン」
突然手をたたき、「パパ」というあだ名で呼ばれるプロデューサーがすかさず話をさえぎった。「ピアノのリサイタルで手が痛くなるほど拍手をしました」と小学生だった私が文集に書いたら担任の先生にほめられたことを思い出した。大きくていい音が響いた。
「パチン」
直後に同じ響きがその場を制してスピード違反の議論に急ブレーキがかけられた。
「だいたい分かりました。順子さんの言う通りで、時間が限られているから取材のアポ取りさえ難しいかもしれませんね。ただ、コロナのせいで忘年会も歓送迎会もお花見も会社の創立記念日パーティーもできてないから、予算的には多少は融通が効くかもしれません。八重洲さんの言う通りで、今までにない新たな視点で面白い企画に化けるかもしれないし。すぐにどうこう言えないから、こちらでちょっと考えさせてもらえますか。ほかのプロデューサー達とも一度相談してみたいと思います」
何が「だいたい分かりました」のか私には全然分からなかったけど、全知全能の存在であるかのように抜群のタイミングで「分かりました」と言い切ったパパが一枚上だったのか。わたしから見れば「けんか両成敗」のような雰囲気のまま、本来の目的が浮かび上がらない会議は唐突に打ち切られた。そのあとで何が起きたのか詳しくは知らされなかったが、八重洲部長の奇妙なアイデアになんとか意味を持たせるため、どの関係者にもしがらみがなく(誰の眼中にも入っておらず)、最終的に番組制作の作業を担当する(つじつまを合わせる)ことになる私を最初から取材現場に出すことに決まったらしい。「新時代を見据えた特別企画兼若手育成のための国際競争力向上プロジェクト(略称は『留学』・『特番』など)」と名付けられ、稟議書が急いで回覧されたとわたしの耳に届いたのは、帰国してずいぶん経った後だった。
第2章 「ベストメンバー」の試練
(その約一週間後)
「音が鳴るまでカードをタッチしてください」
電子マネーをかざした途端に耳を突く自動音声が、「くださ」のあたりでブチリとちぎれるように途絶えた。散った破片のように缶コーヒーが勢いよく飛び出し、自動販売機の取り出し口では金色の缶コーヒー(微糖ラベル)が真っ逆さまに静止している。世界的スポーツイベントの開催とワクチン接種の組み合わせでお腹いっぱいになったような日本の二〇二一年が残り少なくなり、今年の仕事納めはいつになるのかと考えながら迎える月日は大きく荒れ始めている。マラッカ海峡の海賊をかわしてインド洋から故障した大型タンカーを東京湾へ曳航するように、遠い目的地が水平線の端にも見えないこの仕事からは、どんなに準備しても、ため息以外の成果が出てこない。海外渡航前の自主隔離期間に入っても、なぜこれが自分の役割なのかと問い続けていた。
「八重洲さんや順子さんの方が英語もずっと上手だし、アメリカにも詳しいんだから私なんかよりずっと、インタビューには適任だったんじゃないですか。国務長官と外務大臣を言い間違えないか、なんて基本的なポイントでも私はまだ心配で仕方がないんですよ。防衛省が国防総省、経済産業省と総務省のハイブリッドが商務省とか、勉強する事がとにかく多くて。『歴代大統領の名前と顔はもう一致しているよね、たった四十六人だし』って八重洲部長はおっしゃいますけど、写真がない時代の人まではさすがに無理ですよ」
手遅れ極まりない、問いかけというか嘆きに近い現状をわたしは力なく放り投げた。オンライン会議システム画面の向こうでは、プロデューサーの「パパ」がよくぞ尋ねたとばかりに、ハワイのキラウェア火山から流れ出る溶岩の熱量で冷え切った社内情勢を解凍するべく説き明かす。のかと思っていたら、例え話から入ってきた。
「いや、間違いなく、君がベストの人選だ。君しかいないよ。学生時代にオレたちも先輩から口を酸っぱくして試合直前に言われたものさ。『ケガで出られないヤツがいてくれたらとか、あれこれ気にしても仕方がないんだ。今、ここで試合に出られるおれたちがこのチームのベストメンバーだ』ってな。そう言われると、身が引き締まって気の迷いも吹っ切れたものだよ」
何一つ引き締まらない。吹っ切れない。迷いまくっている。
「いいか、ドラフト会議でプロ入りする選手がいる大学チームは一握りしかないんだよ。ベンチプレスを百キロ上げるような力持ちでも、庶務や会計を分担しないとチーム全体として機能しないんだ。試合の間だけがパフォーマンスの場じゃない。夏合宿の宿泊先を予約するだけでも一苦労さ。安くて広いツインルームを二十かそこら無事確保できたと安心して現地に乗り込んだら、『おい、男同士で相部屋なのにシャワールームが磨りガラスで囲まれてるってどういうことだよ!』と文句が出たなんて、ぜんぜん笑えない話も実際にあるんだから」
笑えます。
「今ならわかるよ。『ラブホテル廃業直後 未改装につき九月末まで特別価格でご奉仕』なんて広告には載せられなかったと思う。でも泊った方からすれば、毎朝早くから走り込んだおかげで真っすぐ歩けなくなった体中の筋肉痛と、どんなに疲れても部屋のシャワーで汗を流す間に微妙な緊張感が解けないのと、合宿中はいったいどっちが本当の試練だったんだろうか、なんて、今でも飲み会でネタになるよ。卒業してずいぶん経つのに、その話を毎回のように口に出すのが今やベテラン消防士になった元キャプテンさ。いまだにそんな話がくすぶっているならさっと消し止めるのがあなたの仕事だろって感じなんだけどね」
気が済むまで笑っても何の文句も出ないと思いますよ、とは言わなかった。大ウケが狙えそうなエピソードを披露しているパパの顔面を隅から隅までくまなく見ても、余裕を感じさせるゆるみが見当たらない。聞き手のわたしは試練に立たされる。
「アミグダラ、アミグダラ、人間の脳で感情をつかさどる部位の『扁桃体(へんとうたい)』、英語で呼ぶとアミグダラ(Amygdala)」
頭の中が「アミグダラ」であふれるほど私は夢中で繰り返した。もちろん、笑いの感情を顔に出さないように必死で抑え込むため————話の内容と話し方の不一致がおかし過ぎる。リモート会議システムにすっかり慣れたパパが、背後に映るキッチンの優雅な観葉植物とは不釣り合いに発する眼差しがするどい。番組放送直前になって面倒な直しが必要になると彼が発する口ぐせ「タイムリーな情報で社会にインパクトを与える」にはこんな表情と言葉が必要なのか。画面の背景に見えるドラセナの木の悠々たる姿と、話し手とのコントラストが激しい。動と静。混沌と平穏。世俗と耽美。この時間に予定されていた仕事の打ち合わせはどこにいったのだろう。これから私はどこに連れていかれるのだろう。
すると話題が目の前の仕事にふらりと着地した。
「番組の企画として意外性があっておもしろいことは大いに認めるよ。でも、あれだけ変わった情報を元にシナリオを膨らませた八重洲部長本人が取材に出かけると『出張なんて名ばかりで、結局は大好きなアメリカで気休めしたかっただけじゃない?』って社内で陰口を叩かれるのは目に見えているよ。そうなると、予算を確保したぼくも困るんだなあ。報道部長の立場を少しは考えれば分かると思うんだけど、当の本人にはそれが分からないんだ。今回は取材対象についての好き嫌いも分かれるし、帰国しても隔離期間は国内で身動きが取れないから、普段は『オレが世界を動かしてやる』ってギラギラしている報道部の若手にもこの企画は人気がなくて。タイミングがよくなかったかもしれない。ごめん、いろいろ余計なことを言ったけど、君はね、局内全体のバランスとパフォーマンスを考えて指名されたんだから細かいことは気にしなくていい。映像をコツコツ作ったり編集したりするのも重要なのは分かるけど、何を本当は知りたいのか視聴者に気づかせるのも大切な仕事だよ」
一体、職場で本当は何が起きているのか知りたくて気になったが、パパのセリフには一応筋が通っていた。話の前置きは長かったけれど。
「カチカチカチカチッ」
昼食どきを前にしたパパの家ではキッチンのガスコンロに火が付く音が画面の奥から鋭く耳を突き、オンライン会議を切り上げるムーブメントがにわかに高まる。情報技術革命から周回遅れの我が社にも、「ワーク・ライフ・バランス」ってこういう所からせまるのか————しかし、周囲から何も耳に入らないかのようにパパは自分の話に夢中だ。ワーク・ホーム・インバランス。働き方に何の影響も及ぼさない在宅勤務。歩みを止めることなく、敏腕プロデューサーはさらなる奥地へと分け入っていく。ためらいなく未踏の地へ勢いよく足を繰り出すパイオニア精神の魂があらぶっている。
「順子さんは順子さんで筋の通った立派な話をしているように聞こえるんだけど、結局のところは他人の仕事に文句をつけることと、自分の仕事には文句をつけさせない『安全運転モード』からはみ出すことがないのが残念でね。そりゃ、自分の仕事を必要最小限にとどめて、無難でクレームが一つもつかない番組が世に出る手順を考えるのはサラリーマン的に痛々しいほど分かるけど、はっきり言って冷めちゃうんだよね。新しいことを少しでも取り入れないままだとね・・・三〇年前の時代劇ならマイナー・チェンジだけでよかったかもしれないけど、それでもたまには新しい登場人物が出たんだ。水戸黄門シリーズの『飛猿(とびざる)』とかね。知らないよね、君らの年代だとまだ子供だったから。あ、調べなくていいよ」
画面の向こうで大きく開いた二つの眼が、スマホを手に「とびざる」を入力しようとしたわたしの視線をジャンピングキャッチした。
「ともかく、何も変えないままだから『相変わらず今年の年末もお宅の局の特集番組はこの構成なんですね。もしかして来年も同じ感じですか?』とか、馴染みのスポンサーさんからの小言が直接間接に聞こえてくるんだけど、全然、気にしないんだよな。番組編成次長。他人の話はすぐさえぎるのに、自分の話を最後まで続けないと気が済まない反抗期の中学生みたいな人が、インタビューで辛抱強く他人の話に耳を傾けるなんて無理だよ。ぼくも上の人間から彼女を説得するように言われることもあるけどね。けどさ、オモチャを買ってもらえない度に泣きわめく子どもを我慢させるにも、結局は本人が大人になってお金の価値を真剣に考えるまで分からないと思わないか?会社には優しいサンタクロースなんて来てくれないんだよ」
順子さんはとっくに成人して立派な社会人なのに説得しないんですか——かつて十二月のニュース・スタジオにサンタクロースの帽子をかぶって現れた逸話を持つ、大物プロデューサーを説得する気力が残されていない——というか説得する相手ではない。
「だからといって新しい話題が出るたびにインタビューワーを雇えばって、それではいくらカネがあっても会社が倒産しちゃうよ。だから君は何も気にせず思い切って仕事を楽しめばいいんだ。誰にでも何でも質問する権利は若手社員にしかないんだぞ」
(わたしは普段からそんなに若者扱いされていましたか?)
まるで、試合終了後の野球場でファンの姿が消えた外野スタンドへと特大ホームランを連発するようなパパの話術に絶望と希望を与えられた。「普段から順子さんや八重洲さんにもそれくらい思い切り話したらいいじゃないですか」という理性の声をミュートにし、「承知しました」とわたしは口先を器用に動かした。ラグビー日本代表が躍進して盛り上がった二〇一九年の流行語大賞は「ワン・チーム」・・・もちろん忘れていた。激闘のスコットランド戦で「笑わない男」が力強くトライを取って日本が勝利・・・今は笑えない。
ああ、例年ならこんな事には、と懐かしさと無力感が頭の中をかけめぐる。
「最近、ぼくの好きな銀行のカレンダーが手に入りにくいんだよね。あのカレンダーを一枚掛けておけば我が家のトイレも小さな美術館みたいに和んでありがたいんだけど、どこの会社も経費削減とかデジタル化とか、仕方ないのかな。なーんて、うちの会社もよそ様のことを偉そうに言えないけど」と年末近くの多忙な毎日にうんざりした表情で談話室の新聞をななめ読みしながらパパがつぶやく。「それなら大丈夫です。息子さんご夫婦に連絡して『生前贈与と住宅ローンの相談は予約できますか』って銀行に電話を一本かけてもらえば、カレンダーの一ダースくらい支店長からじきじきにもらえますよ」とわたしが軽口を叩く。それを聞いたお父さんがニヤリと笑みを浮かべながら新聞を次のページへとめくる。そんな平穏だった日々がほんの数日前のようだ。
午後からは、英会話のオンラインレッスンが続いた。「泥縄」とはまさにこのことだという感じだが「藁にもすがる」思いで続けて今日が最終回だ。急にレッスン予約を毎日詰め込んだおかげで会話の相手が頻繁に変わる————毎回、自己紹介から始めなければならない。仕事、出身地、趣味、好きなスポーツ、日本の有名人、観光地、歴史、マンガ、アニメ、ほぼ同じことを何度も繰り返す間に話すスピードは少しずつ上がる。ただ、話す中身はあまり変わらないので語彙が増えたのか自信がない。そんなもどかしさとも今日でサヨナラだ。そしてまた、今日も年末年始の予定について話している。
「わたしは明日からアメリカに行きます」とわたし。
「アメリカというのはどの国ですか。例えば、ブラジル、メキシコ、キューバ、エルサルバドル、カナダもアメリカですよ。アメリカ合衆国ですか?」と先生の表情が少しかたい。
「あ、すいません。アメリカ合衆国です」
「ダイジョウブ。日本の人はだいたい皆さん『アメリカ』と言いますからね。ちょっとした冗談です」先生がニコリと笑う。
中途半端な冗談はきびしい。英語で言われるとさらにきびしい。
「あ、すいません。先生はどちらの国の出身ですか?」
「秘密です」
ロックアイスのように凍り付いた先生の顔つきは一秒で溶けた。
「冗談ですよ。アメリカ合衆国のコネティカット州の出身です。明日からお仕事で出張でしたね。この時期に外国に行くのは大変でしょう」
「いろいろと大変だと思います。仕事が終わったら、すぐに日本に戻ります。新年は日本で迎える予定です」
「向こうではどんな仕事をしますか?」
「一度も会ったことのない人にインタビューをします」
「それはいいですね。お仕事楽しんできてください」
「はい(楽しめなさそうなんですけどね、と思いながらも笑顔をつくる)、ありがとうございます。よいお年をお迎えください」
「よいお年を(A Happy New Year to You)」
空港近くのホテルの一室で、わたしが日本を離れる前の最終日はばたばたと過ぎた。入国審査も移動も隔離期間も時間がもっと長ければいいのにと思ったがインタビュー当日はあっけなく到来した。
第3章 「つかみのない」男と「カンフー先生」
言葉も景色も違う異国の地に足を踏みいれると改めてしみじみと感じる。心が安らぐ時間は愕然とするほど短いのに人を不安にさせる道はいつでも、あまりにも多い。せっかく見出した一粒の感慨は、膨張し続ける緊張感と緊張感の隙間で身動きが取れずにバタバタもがいている。
案内された部屋の中では先方のスタッフが徐々に人数を増しながら待機している。
「あと一分で到着します」
携帯電話を顔から離したばかりのスタッフの一人が告げてから間もなく、ドアの外では大勢の足音がせわしなくこだまし始めた。わたしも無意識のうちにその場で立ち上がって到着を待ち構えた。
初対面の挨拶もそこそこに、どっかりと腰かけた彼は、何のためらいもなくいきなり本題に踏み込んだ。噂が本当かどうかなんて、慎重に確かめる必要もなかった。
「日本で『国務長官をやってくれないか』って言われたんだよ。国務長官は『トップ・ディプロマット(外交官)』と言われるくらいだから、それはそれは重要なのは分かるさ。だいじな時には必ずトップが出てくるものだと相場が決まっているだろう。オレが売り込みに行けば『トップセールス』と大騒ぎになって全世界から注目の的になるさ。謝りを入れるにしてもトップ本人がわざわざ出てくれば相手に伝わる本気さが違うよ。何といってもオレは世界ナンバーワンの大統領だからね。オレのジェットには『エア・フォース・ワン』て名前がついてたし、オレのヘリコプターには『マリーン・ワン』てついてたさ。君はもう忘れてるかもしれないけどさ」
いいえ、あなたのことは絶対に誰も忘れていませんという気持ちが確かに届くように、私は大きな声で応えた。
「奥様も『ファースト・レイディー』と呼ばれていらっしゃいましたね」
体中の毛穴という毛穴から水蒸気が吹き出さんばかりに渾身のフォローをくりだす私、サービス精神抜群の私。しかし彼の反応はどうだ。目の前で霧吹きから水が「シュッ」と軽く出たのに気づいたくらいに二、三度、まばたきしただけだった。
そう、彼は私を無視した。そして話を続けた。
「国務長官を引き受けるかどうか、『いいね』が何個付くかで決めようかと思ったくらいさ。オレが大統領だったときは世界中で一億近くの人がオレの発する言葉に毎日二十四時間、一年中注目していたんだからな。地球の裏側で徹夜してオレが何をつぶやくか気になって仕方がなかった奴もいただろう。つぶやく度に大ニュースさ。でも、『いいね』はもう使えないんだ。なぜかって?そんなことを今さらオレの口から説明させるのか、きみは」
まばたき二つほどの間だけ少し不機嫌な表情をうかべた後、ずいぶん自慢そうな口調で両手をさかんに動かしながら語り続ける彼はヒヤリとする暇も与えてくれない。
「知るわけないだろう。あいつらが勝手に決めたんだから。『ソーシャル・メディア』と世間では言われてみんな自由に使っているけど、結局はプライベート・カンパニー(私有企業)の所有物だから他人には勝手に決められないんだ。大統領にも勝手に決められないことが多いのさ。アメリカは偉大な自由の国だからな。分かるかい?」
「ええ、もちろん。『メイク・アメリカ・グレイト・・・』って、いくらわたしでも百回以上は聞きました」と答える用意はできていたが、彼はそんな当然の反応を期待していなかっただろう。実際、まったく何の問題もなくしゃべり続けた。
「社会が騒がしい時にオレはみんなに『法律と秩序を順守しよう』って呼びかけたよ。大統領でも法律には従うんだぜ、偉大なこの国ではな」
なるほどそうですね、同意しますよ、というメッセージが好意的に理解されるよう、ここでは慎重に相槌を打つ。「あなたの話を聴いています」という姿勢を示すことが他人の話を聴く時には大事——ビジネスマナーの基本——今度はこの国の歴史にひもづいた言葉をつかって相づちを打った。
「ヘンリー・キッシンジャー補佐官が活躍したときのニクソン大統領も『法律と秩序を順守しよう』と言っておられましたね」
そうして、無言と空白の約一秒があらたに刻まれた——そう、再び彼は私を無視した。
「少しでもいいから、思い返してみてくれよ」
秒で新たなアクセルがふみこまれて彼は急加速した。離陸する飛行機の窓から見える地上の景色が離れるように、かみ合わなかったこれまでの会話がはるか遠くへと加速度的に小さくなり、意識の外へと消えていく。
「ノース・コリアに行った大統領はオレのほかにはいないぞ。あの時はみんなテレビにくぎ付けになって視聴率も最高に上がったろう。最高指導者と握手して話したり、飯をいっしょに食ったりした奴が世界中探しまわったってどれだけいるんだよ。日本で国務長官になってもオが世界ナンバーワンになることはもう決まってるよ」
少し違和感があった。
「日本のコイズミ首相が二度ピョンヤンに行ったのか。それは立派なことだけどオレはよく知らないな。いつのことなんだ。え?もう二十年前の話だって?もしかしてそれがオレと比べものになるって言いたいのか、きみは」
とりたてて反論の余地はなかった。
「そういえば、日本の彼は何をしていたんだ?オレが大統領に当選したときにはゴルフクラブを持って、真っ先にお祝いにニューヨークまで駆けつけてくれたじゃないか」
あ、あのゴルフクラブ、いまはどうなっているんだろう。総理大臣が私費で購入してプレゼントした当選祝いの高級ゴルフクラブ。
「もらったゴルフクラブを今も使ってるかって?うん、まあ、いつか使う時もくる。オレが日本に行った時には彼と一緒にゴルフを楽しんだぞ」
君には総理大臣とゴルフなんてできないだろ、と自慢して話をごまかしたのかと思いきや。
「彼はあの後、トーナメントで優勝したんだから世界一だよな。きっと、オレとプレーしたのがいい練習になったんだ。でも誤解しないでほしいな。オレと一緒にゴルフをした後、マスターズで優勝したのは総理大臣じゃなくてヒデキ・マツヤマの方だぞ!」と彼はニヤリと一瞬笑った(ように見えた)。
え 反応できません、ごめんなさい大統領。アメリカン・ジョークにも無茶ブリがあるとは知りませんでした。それも日米首脳外交の成果ですか。入れてはいけないものが耳に入って、発すべき言葉が見当たらない。異変を感じた彼が少しはテンポを調整してこちらの様子をうかがいに来るかと期待した。確かに彼としては当りさわりのない話題に切り替えたつもりだったかもしれないが、わたしにとっては受け止めきれなかった。
「そういえば日本人は桜の花が大好きで、桜を見るために野外でパーティーをするのが好きなんだよな」
ここで「桜」を見る会合の話を持ち出すんですか、とわたしが気まずい表情を作る間もなく彼は上機嫌で畳みかける。温かいサービス精神を発揮したのだろうが、手痛い追撃をくらった。
「『全米桜まつり』というイベントがワシントンDCで毎年盛大に開催されているのは君も知っているよな」
何かスキャンダルになりそうな名前の集会が米国でも――いや、本来はまったく問題ないはずですけど――話の展開に追いついていけないが、それでも話は続いている。
「そうか。日本では最近やってないのか。なぜか知らないがそれは残念だな。ワシントンDCなら三十ドル払えばパレードをいい席で見物できるぞ。超ファンタスティックだから君も一度見に行けばいいじゃないか。日本から贈られた桜の花が何千本も植えられているからちょうどいいよ」
そこで日本の状況を簡単に説明した。あまり役に立たないと思ったが。
「日本では当日のイベントは無料で、その前日のディナー・バーティ―が五つ星ホテルで開催されて一人五十ドル払えば有名人と記念撮影もできたのか。なかなかエネルギーのあるイベントだな。日本経済にもいいブースト(刺激)じゃないか。何人くらい集まるんだ?招待客が七千人くらいだったらしいけど、名簿がシュレッダーにかけられたから人数が分からない・・・よく分からないけど、人数が分かったら何か困ることでもあるのか?」
やはり役に立たなかった説明に我ながら困った。ただ、わたしが何を立派に堂々と言ったとしても、そこで彼が興味を持つ可能性は一片のカツオブシよりも薄く頼りなかった。そのとおり、彼にとって困る材料にはならなかった。
「詳しいことは分からないけど、オレが開く演説会のデカさにはかなわないだろうな。とてつもなく数えきれないくらいの人々(millions of millions of people)が集まるんだから。君には、オレの開く集会がどれだけ盛り上がるか全く想像がつかないと思うよ」
ミリオンズ・オブ・ミリオンズ。ミリオンズ・オブ・ミリオンズ。
わたしが明石家さんまのようなコメディアンだったらどう反応しただろう。一コマ送りでいえば、だいたいこんな感じだろうか。
(一)食べかけのホットドッグのウインナーが、不意にのどの奥に当たったように口から必死に息を吹き出す(「おい、そこでちょっと待ってくれよ!」という感じで周囲の注意を引き付ける)。
(二)「『ミリオンズ・オブ・ミリオンズ・オブ・ピープル』・・・百万×百万=一兆人って、それ、地球の全人口をとっくに超えてるやないか!」と天に突き抜けるような叫びを上げ、そのまま口を大きく開いて、手にしたカードを司会者用の丸いテーブルにパチンと叩きつける。パチン、その軽くはじけた響きが大切。
(三)表情はそのまま、天井を見あげて約一秒後、体を「くの字」に折り曲げて笑いを爆発させる。
そんなことを今、わたしの目前で語る人物が知る理由はどこにもない。野球のイチロー選手が試合前のウォーミングアップで、チームメイトを相手に力みのない動作の遠投で肩をあたため続けるのと同じく、無駄やぎごちなさは全て省略されている。
「ゴルフもビジネスも政治もタイミングがだいじなんだ。桜の花がある日一斉に満開になるようにな。タイミングを読むのがオレは世界ナンバーワンだから、オレが先頭に立つと大ブームが起きるのさ」
ゴルフも、ビジネスも、政治も、ナンバーワン。必ず一位なのか。
「何だって?一位でなくて二位ではだめなのかって?ハッハッハッハッ、笑わせるなよ。デカい顕微鏡をのぞき込んで難しい顔をしている科学者みたいに君はずいぶん細かいな。一位を狙って一位になるのも簡単じゃないけど、二位を狙って二位になるのも難しいんじゃないか。『今シーズンの目標はリーグ二位です』なんてフットボールのチームがあるか?そんなの、選手もファンもがっかりするんじゃないか。ま、オレは世界一の不動産王だから二位の座にはまったく興味がない」
世界一の不動産王にも就任。本当に何でもナンバーワンにしていいのか。わたしは、もう一度大きなお世話を焼いた。
「不動産でも大統領でも国務長官でもナンバーワンになれるのかって?おい、なんてこったよ・・・君は自分が何を質問しているか分かっているのか。日本からエンジェルスに来たショウ・オオタニの大活躍を見れば誰だって分かるだろう。打っても、投げても、走ってもオレと同じく断トツ世界ナンバーワンだからメジャー・リーグでMVPを獲ったじゃないか」
たしかに、つまらない事にこだわり過ぎたかもしれない。聞き役に徹しよう。というか、それ以外の選択肢は残されていないようだ。
「それに、マンガやアニメみたいに、日本は政府も企業も『クール・ジャパン』で大きく世界中で売り出しているんじゃないのか。何だって?その話はまだまだ盛り上がっていない?ちょっとおかしいぞ。日本人にしては基本の構えから鍛えかたが足りていないんじゃないか。あの有名なミスター・ミヤギのレッスンを忘れたのか?『ワックス・オン、ワックス・オフ』って、彼が映画『カラテ・キッド』で奥義を説いていただろう。なんだよ、まるでオレの方が日本のことをよっぽどよく知ってるみたいじゃないか」
「ワックス・オン、ワックス・オフ」のセリフに合わせて、彼の分厚く大きな両手がワイパーのように左、右とゆれ動く。ニヤリと照れ笑いの表情を抑え気味に、顔も微妙に左右に動く———世界共通のしぐさ———ちょっとおもしろかった。もちろん本人には伝えない。
「きみ、分かってるよな。第二次世界大戦だってまだ終わってないぞ」
次は歴史問題か何かで日本がゆさぶられるのだろうか。「ワックス・オン、ワックス・オフ」と必死にディフェンスを整える気持ちの余裕が持てないまま、引き続きわたしは一方的にまくしたてられている。
「全然、終わってない。太平洋戦争で日本軍が退却する前にジェネラル・ヤマシタ(山下大将)が隠したと言われている金塊を今も大勢が探して、勝手にあちこち他人の土地まで掘り返すからフィリピンで問題になっているそうじゃないか。タイでも日本軍が洞窟に金塊を運びこんで逃げたまま終戦を迎えたとか、ナチスの金塊を積んだ秘密の貨物列車がヨーロッパのどこかでトンネルに入って埋まったままとか、日本もドイツも、第二次大戦に負けた割にはずいぶん気前がいいよな。でもオレにはよく分からないんだ。そんなに貯めこむより、戦争している間にもっと賢くお金を使えたんじゃないのか。そこがオレみたいな余裕のあるクール・ガイとは頭のできが違うんだな。タイミングが読めていないよ」
徳川幕府埋蔵金伝説とか、東京都千代田区霞が関の財務省特別会計に眠っているはずの埋蔵金伝説とか、日本にもそういう話が好きな人は何十年も前からたくさんいるんですが、といま言うべきだろうか。もごもごと私が一人でつぶやいている間にも、彼は目の前に座っている日本人に語り続ける。初対面であるかどうかなど全くおかまいなしだ。もちろん、わたしがもう一度彼に会いたいかどうかは別の話題だ。
「いまの日本にはオレみたいにパンチ力のあるリーダーはいるのか?日本全体を探せば一人くらいはいるんじゃないのか。昔、この国の大統領だったバラク・オバマが言っていたじゃないか。『イエス・ウィー・キャン』だよ!」
(あなたがそんなこと言って大丈夫なんですか)
クールなギャグも入り、聞き手・話し手の一体感の気配がようやく視野に入ってきた安心感、「パンチ力がある」を英語では「パンチ―(punchy)」と形容詞一つで表現できるのはコンパクトで便利だという驚きと喜びでわたしは和んだ。深く考えることも無くひとときリラックスして我に返った。そうだった、いまの質問は「パンチ力のある日本の指導者を一人挙げなさい」・・・それは誰だろう。そしてあっさりと、答えにもならない答えを口から取り出した。
「令和おじさん(Uncle Reiwa)?」
彼はわたしの回答を復唱したが、何の手がかりも得られない様子だ。当然だ。
(しまった)
授業中に居眠りに落ちている間に先生に当てられ、質問が何かも分からないまま見当外れの答えをしてクラス中の失笑に巻き込まれた中学生のように気まずい。「ミイラ取りがミイラになる」を「ミイラがミイラ取りになる」と言い間違えても、こんな感じになるのだろうか。
いずれにせよ全く答になっていない。
「レイワ・・・レイワ・・・全米不動産投資家協会(REIA)のことか?」とつぶやく彼も途方にくれて居心地が悪そうにしている。その不安そうな面持ちが痛々しかった。レストランで注文したカレーライスを待てども待てども、真っ白なライスが盛られた大皿しかテーブルには見当たらず、カレーはどこから出てくるのかという常連客の表情になっている。わたしは苦心の策で、役に立ちそうもない説明で時間をかせぐことにした。相手に役立つ情報を提供するフリをして自分には非がないことをアピールする、浅はかで、実用的ともいえない社会人の芸だ。
「大統領が来日された時に宮中晩さん会のご挨拶で、『日本の新しい元号、令和、すなわち「美しいハーモニー」は日本の『万葉集』に由来するものと聞いています』とおっしゃった『令和』のことです」と自分でも驚くほど(あきれるほど)すらすらと穏やかに、機械的にわたしは申し上げた。しかし、電話口で宅配便の不在通知に対応する自動音声ガイダンスの方がずっと誠実だったのだろう。「思い出して下さいよ、ついさっきは日本でゴルフをしたことを自慢していたじゃないですか」という私の一ミリメートルにも達しない期待(サービス精神の決定的な欠落)に彼は百パーセントの明快な反応を示した。
ますます混乱しているようだ。
彼の視線が急に落ち着きを失いつつある。本当は日本に来たことなど一度もなかったことに筋書きを変更するかどうかの決断で迷っていたのかもしれない。
そうか、「収拾がつかなくなる」とはこういう時に使う言葉だと納得している場面ではなかった(大いに納得した)。わたしの背中から汗がふき出して全身の筋肉が硬直しそうになった瞬間、彼の斜め後ろで退屈そうに足を組んで座っていた長身の女性がすらりと立ち上がった。タブレットをリズムよく動かし、腕を組んだまま姿勢が硬直している上司に背後から動画を見せながら説明を始めた。説明を受ける彼は首をかしげつつ、画面に吸い込まれるのを何とか思いとどまろうとする神妙な面持ちで聞き入り、タブレットを時々指さしながら彼女に質問している。彼は大丈夫だろうか。このあと一体何が起きるのか、何も想像のつかない私は全く大丈夫ではなく、頭の中がどんどん真っ白になっていく。
だいたい三分間が経過したと思う。タブレットの女性が席に戻って再び長い足を組んで座り込んだ。緊張を緊張と感じさせることもなく、微動だにしない視線をたたえた表情は、広告用写真を撮影しているファッションモデルが見せる端正さなのか、「面倒くさいことを言わないでよ」とわたしに向けた無言の抗議なのか見分けがつかない。
「日本人にはマジでこういうのがウケるのか?」
ゆで卵を詰め込まれたかのように口を開いた顔つきのまま、彼は令和おじさんが机の上から顔の横まで一気に持ち上げる「エア額縁」の動作をこちらに向かって確かめるように何度も繰り返した。つまり、大統領が官房長官に「寄せていた」。わたしは自分の発言が発掘した成果に驚きを大きく通り越してオリジナリティーに感激したが、視聴者がヤラセだと誤解して怒り出さないかと恐怖におののいた。抗議の電話で局の代表番号がパンクしたら始末書一枚で済むだろうか——ただ、それ以前に今、「エア額縁」の御本人がまったく満足していない。
「ナンバーワン大統領のオレからすると、これだけで有名になろうと企てるなんて余りにもスケールが小さすぎるから、国家機密に指定して三十年は非公開にするぞ」
申し訳ありません。すでに一大事として日本全国津々浦々に放送されました。
「オレが国務長官になったら今の話はオフレコにしてくれよ・・・日米関係に変な影響を与えたら困るじゃないか」
全然何の影響も与えません、ご心配なく——まさか突然、わたしが日本を代表したように心を砕くことになろうとは油断がならない。「外国でホームステイをすると、その家庭の中では皆さん一人ひとりが日本を代表することになるんです」短期留学前のオリエンテーションで異文化交流専門の先生から教えられた貴重なアドバイスだ。帰国後五年以上も経ってようやく、わたしの体のすみずみに染みわたる。でも、何か月も重たい漬け物石の下で水分を絞りとられていく野菜のように、この得体のしれないプレッシャーを背負うことまで先生は予想していたんだろうか。日本を代表した私は今、世界一の不動産王兼大統領兼テレビタレント兼国務長官(外務大臣)候補をがっかりさせたのかもしれない。「学習効果」という言葉がタイムリーに記憶の底から呼び出された。脳で記憶を蓄える部位、大脳皮質ってわたしにも実は機能しているんだと悔しさがこみ上げる。
とはいえ、ひそかに期待していた。「令和おじさん」のカルチャー・ショックに衝撃を受けた彼が、給水ポイントでコップを取り損ねたマラソンランナーのように少しはペースを落とすだろうと。しかし現実はそれを裏切った。スタジアム全体から観衆総立ちの拍手を受けて打席に立つプロ野球選手のように、あらたな信念を深めた気配をみなぎらせた彼は何度も大きくうなずいている。稲妻のように鋭い笑みを輝かせながら、わたしの方を二度、三度と両手で力強く指さしている。
「本当にありがとう。完璧に理解した。オレは令和初の大統領、つまり光輝かしい『レイワ・ファースト』の大統領として、長い日本の歴史にも名を刻んだってことだな。なんてワンダフルなことだ。これは永遠に忘れられないよ」
忘れてください。心底思った。
高尚なジョークか、歴史的な発見を彼に惜しげもなく披露したことになってずいぶんと感謝されているようだが———「令和おじさん」と「令和ファースト大統領」のどちらも不自然な名前だが間違っているとも言えない——もう大した問題ではない。
さあ、このまま話を流そう。
さて、どこへ流すか。
「『令和おじさん』は今年のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されたときに・・・」
激流をくぐり抜けて心の落ち着きを手繰り寄せようと、「つなぎ」のセリフを放った。米国人ならオリンピックは好きなはずだ。一九八四年のロス・アンジェルス大会は、ビジネスマンの組織委員会会長が大活躍で成功したから、この話題ならぴったりだろう。「USA!USA!」のコールが彼の頭の中をこだまするはずという期待と、寝汗をたっぷりかいて起き上がったような疲労の中に私はただ、ぷかぷかと浮かんでいた。
政治の世界から離れてもう少し軽い話題でリラックスできるかと楽観したそのとき、今度はわたしの背後からするどい視線を送っていた黒いスーツ姿の紳士が彼に歩み寄り、何やらこそこそと耳打ちを始めた。この部屋に入る前に待機していた間、私が持っていたボールペンとノートを非破壊検査で透視するかのごとく、鋭利な視線で検分した人物だ。ボールペンをコンマ五秒でへし折りそうな指を持つ彼の背後から「それはさっき、ICレコーダと一緒にX線検査を通過したんですけど」と思わずツッコミたくなったが、そんな軽薄なコメントは瞬間最大風速で吹き飛ばされた。頭と胴体の境目を消滅させるような分厚い筋肉が彼の首を囲みこみ、それが冷蔵庫並みに巨大なボディーの肩と密着している迫力に圧倒されて声が出なかった。
冷蔵庫ボディーのご主人様が、ひょいと首を傾けながら再び口を開いた。
「おお、日本からきた君。とても申し訳ないんだけど、いま、オレは重要な電話に出ないといけないんだ。隣の部屋で少し待っていてくれても構わないよな?」
申し訳なさそうには見えなかった。
急ごしらえの愛想笑いをお返しして右手を軽く上げた後に「よいしょ」とわたしは無言でつぶやきながら、すっかり重たくなった体をひきずり出すように別室へ移動した。持ち物はセキュリティチェックの前にほとんど全て預けてしまったのでメールもチェックできず、何をしていいのか分からない。スマートフォンを一年中使っていても、持ち主の人間がスマートになるとは限らない。携帯電話に自由を拘束されているのに、電話機がないと楽しく生活できない。悔しいが、この皮肉と矛盾と敗北感の組み合わせを無条件で受け入れよう。それにしてもいったい、なぜ私はこんな事になっているんだろうか。カーナビが故障した車の中で紙の地図を広げ、現在位置と最寄りのガソリンスタンドまでの距離を確認するようにわたしは自分を救出しようとする。ああ、そうか。くす玉の割れる様子がスローモーションで流れるように思い出が再生される。元は、八重洲部長が「シュークリームと焼きそば」と言い出したあたりから始まり・・・そうか。
ますます救いようがなくなりそうな気がした。
十分ほど経過しただろうか。再び、冷蔵庫が体内に収まったように屈強なセキュリティー・ガードが世界一固く凍結されていそうな巨体で迎え入れ、わたしを元の位置に導く。
「おお、また会えたな、何か飲むか?」と彼は上機嫌だった。水か、コーヒーか、と尋ねられるまでもなく彼の大好物である褐色の炭酸飲料が目の前に置かれる。世界で一番有名な炭酸飲料がグラスの中に積み上げられた氷の量にふさわしく、冷たく痛々しい。喉元が凍りついて軽い頭痛が押し寄せる一歩手前に達した。
さっさとグラスを空にした彼が再び勢いよく話し始める。
「君はわざわざオレに会って話をするために来たのか。それは面倒だったろう。ずいぶんと熱心だな。でも『仕事熱心ですね』って言われても、額面通りに受け取らない方がいい。熱心にやらなかった仕事なんて他人の記憶にはちっとも残らないから、せいぜい普通に仕事ができたと思ったほうがちょうどいい」
こんどは何の自慢話が始まるのか。すでに冷えきった頭にさらなる刺激がピリピリ走っている。
「選挙の時、オレがアメリカとメキシコの国境沿いに巨大な壁を作るって言ったらみんな大喜びしていたけど、実際にオレが大統領になってから、何もなかったところに新しく壁を作ったって所はほとんどない。知っていたか?」
知らない。
「むしろ、古くなってボロくなった壁を改修した部分の方が距離としてはずっと長い。オレの味方が大勢いたはずの議会もお金をくれないしさ。でも、もともと国境沿いにフェンスか何かはあったんだから気にする必要はない。国境線を示す目印が何もなかったらよっぽど変だろう。不便じゃないか。一度でも実際に現地を見に行けば分かることだ。それに、壁の向こう側からこの国に来て働く必要がよっぽどあるなら、どんなに立派な壁があっても地下にトンネルを掘って来ることもできるだろう。それくらい本当は分かっていたのに知らないフリをしてた奴とか、本当に何も分かってない奴がいるんだろうな。オレみたいに毎日毎日人生に行き詰まりながら、必死にもがいて生きていればそれくらい簡単に分かるんだけど」
おかしい。「人生に行き詰まりながら、もがいて生きている」とは、今までの話ぶりとだいぶ距離があるようで気になって仕方がない。世界一の人気者でビジネスマンだから「余裕しゃくしゃく」の間違いじゃないかと思って無言になっていたら、ご本人に見透かされてしまった。
「何でオレが嘘をついたように君はジロジロ見つめているんだ。きみには分からないかもしれないが、オレにとっては毎日就職活動のような人生なんだぞ。明日は一文無しかもしれないようなプレッシャーにさらされて生きてみれば分かるさ。『何だってやってやるぞ』ってエネルギーが沸くんだ。ほら、このオレを見てみろ。日本で一番高いあの有名な山は何て言うんだ・・・そうだよ、マウント・フジに登頂するくらいの気合があれば大統領にもなれるのさ。つまり一言でいえば『イエス・ウィー・キャン』だよ」
それ、ひっぱりますね、大統領。すごく面白いのは素直に認めますけど。
「それよりも経済さ。世界で一番の成功をおさめたビジネスマンのオレは、この国で史上最大の減税を実現して経済を最高潮に盛り上げたんだぜ。雇用も消費も株価も絶好調さ。今はみんなオレみたいに・・・オレほどではないかもしれないけど、前よりは金持ちになったはずさ。『わたしはもうかっているんです』なんて自慢する奴はあまりいないけどな。オレの大嫌いな税務署に追いかけ回されるのは誰だってまっぴらごめんだよ」
雇用も消費も株価も絶好調———頭の中をテロップ付きのニュース速報が流れ回る。
「それでもオレがどれだけ信じられないぐらい素晴らしい大統領だっていうことを、ちゃんと全国のメディアが特別ニュースで伝えてくれないのは腹が立って仕方がないんだよ」と彼は「ア———」と着火されたロケットエンジンの炎のようにうなり声を吹き出し、左右の手のひらを大きく広げて突き上げる・・・天井を支えているというか、持ち上げてしまいそうなポーズに見えた。
「ノース・コリアのニュースを見てみろよ。物騒がせなロケットの打ち上げに一度成功しただけでも、あふれんばかりの笑顔でアナウンサーが賛美しているじゃないか。でもきっとニュースにはならないだけで、本当は失敗もたくさんしているはずだぞ。誰にも教えてもらわなくてもオレには分かるんだ、オレと同じく彼はあの国でナンバーワンだからな」
(ああいう映像がお好みなんですか?)
「それに比べてこの国はどうだい。ぜんぜんオレのすごさを理解できていない。要するにさ、天才のすることが凡人には理解できないってことさ。ああ、いったい、いつになったらアメリカはオレに追いついてくれるんだ?大統領になった後、いろんな部署で部下が次々辞めるから後任を探すのに苦労したよ。『なんとか長官代行』がずいぶん増えて、大事な選挙前なのに格好がつかないじゃないか。おかげで前回はジョー・バイデンよりも七〇〇万票もオレの方が少なかった。おかしい。四年間の任期が終わってもオレが思い描いた素晴らしい国はできあがらなかった。あと十年以上はオレが大統領を務められるように憲法を改正して、アメリカをマジでグレートにしたいよ。まずは、次の選挙で当選するためにどうやって説明するかを考えているんだ。どうしたらオレのすばらしい経済政策をみんなに分かってもらえるんだ?もし君だったらどうアピールするかな。せっかく遠くからオレに会いに来たんだから、君の新鮮な意見を聞かせてくれ。頼むよ」
頼まないでよ。さっき、天才のあなたがすることは凡人に理解できないって自分で言ったじゃないですか―抜き打ちテストを通告された気分に沈み込む。建国史上初の終身大統領(仮称)候補の臨時スピーチライターに任命され、形ばかりの解答を制限時間内に作るため、過去の大統領演説を無断引用する暴挙に出た。こんな地の果てのような境地に到達してしまうと、盗作ではないかという感情すらわたしの脳は見事にコントロールする。アミグダラ、扁桃体、おそるべし。不正行為に平然と手を染めた学生のような冷静さでわたしは口頭試問に謹んで回答した。
「もう一度言わせてください。われわれは減税したんです。九五%の勤労者世帯に減税したんです。中小企業に減税したんです。初めて家を買った人たちに減税したんです。子どもの面倒をみようという親たちに減税したんです。大学の授業料を支払う八百万人のアメリカ人に減税したんです・・・これで少しは拍手してもらえると思ってましたよ」
耳をすました彼の背後からわたしの足元に至るまで、これまでになく静謐で透明な空気が少し不自然なくらいに漂った。もちろん、この沈黙が長続きする見込みなど、限りなく乏しいことくらいは分かっている。もうわたしの中ではそれが自然の一部になりかけていて一抹の不安もない。
「おお、それは気の利いたスピーチじゃないか。有名大学の卒業生みたいに洗練されている感じが気に入った。君も大統領にも立候補できそうだな。え?実は本物の大統領のスピーチだったのか?それはいつ頃の演説なんだ?二〇一〇年なのか。十年以上前のことなんてもう誰もおぼえていないだろうから今度使わせてもらうよ。再利用で無駄を省けてカネもかからなくて、いいアイデアじゃないか」
どんなにほめられても、集中力を使い果たして困惑以外の感動がない。
しかしそれとは別に、さっき彼が話した選挙の得票結果については一つ疑問がわき上がっていた。
「何だって?得票数が少なかったのは電子投票の機械が壊れていたのが原因だって主張したオレの弁護士が逆に訴えられた案件はどうするのかってそんなバカな事、あいつらが勝手に言い出したんだからオレは一切知らない。大規模な電子投票のシステムを作れる企業は全米でも数えるほどしか無い。少しでも問題が起きたら即、信用が吹き飛んで倒産なのに大企業の製品がポンコツでしたなんて記者会見まで開いて軽々しく言うとは、オレにはぜんぜん信じられん」
信じられないことが私にはもう一つ増えた。
「1980年頃に日本製の自動車が売れまくって、アメリカの車が売れなくなった時は、パフォーマンスで日本車のフロントガラスを野球バットでたたき割ったアメリカの労働者がテレビニュースに出たんだ。やつらは自腹で日本車を買ってきた上に、飛び散るガラスでケガをする覚悟でたたき割ったから政治を動かすほどのインパクトがあったのさ。それに比べてどうだい、口先だけの法律家先生たちが嘘八百を並べても誰も歓迎しないよ」
ずいぶんと不穏ながら、不気味に説得力のありそうな話がはじまっている。
「小難しく頭で考えるより、ハートを動かすことが大事なんだ。例えば『親が子を養う』っていうのも話半分くらいに聞いておいた方がいいぞ。確かに、お金の流れとしては親から子供に流れているけど、気持ちは子供から親に流れていると思わないか。子供がかわいいから、授業料が高くても子供をいい学校に送ろうと親は必死で仕事して金を稼ぐだろう。それが思うようにいかないと落ち込んで、大人がギャンブルに逃げこみたくなるのも分からなくはない。人生なんでも思うようにはいかないよ。オレも世界一すばらしいカジノをいくつも経営していたのに大損でウンザリだ。ギャンブルに手を出すのはよくないな。甘い話には落とし穴がいくつもある。君もこの先、人生には気を付けろ」
最後の「カジノで大損」の部分は経営者が問題だったのでは。素朴な疑問がピカピカのルーレットの上を転がる玉のようにグルグルとわたしの頭の中を回転する間も表情を変えるまいと私は微力を尽くして沈黙を守り、視線をそらさずに二度確実にうなずいた。「まったくその通りですね。貴重なアドバイスをありがとうございます」と社交辞令まですらすらとわたしの口から出る。それを聞いて彼は不満そうな表情をちっとも変えず、何の迷いもなく話し続けた。
「そうだろ。大統領としてはそんなに簡単に人生をあきらめないでほしいんだ。一人の国民として考えてもらえないか・・・ちょっとでもいいから考えてみてくれよ。昔は平均寿命が五十年くらいだったから、二十歳くらいまでは学校や職場でトレーニングを受けて、残りの三十年で働いてればよかったのさ。今、日本人の寿命は何歳なんだ。平均で八十年だって?百歳以上の人口が八万六千人以上もいるのか。ジーザス・クライスト!それならせめて、人生八十年の五分の二で合計三十二年間くらい日本人は勉強したらどうだ」
「子曰はく、『吾十有五にして学に志す。三十にして立つ・・・』」
(先生がおっしゃった、「私は十五歳で学問に志を持った。三十歳になると独り立ちができた・・・」)
時代を超え、国境を超え、個性の違いを乗り越えて、孔子の教えをここで復習することになるとは青天の霹靂だ。
「中国の孔子(Confucius)先生も同じことをいっていますね」
「中国のカンフー(kung fu)先生?」
国際競争力の乏しいわたしの英語の発音が招いた緊急事態として、いま前方に展開されているのが、なぜかボクシングのファイティングポーズをとり始めた大統領閣下でおられる。シャドーで左右のボディー、アッパー、フックとパンチをリズムよく繰り出す巨大な上半身、彼の重そうなお尻もオーク材の椅子の上で小刻みに左、右、と動いている。全身の力が抜けて私は集中力を失いそうになる。
「オー、ノオ。孔子は紀元前にいた有名な中国の思想家で・・・」
徒労に過ぎないとは分かっていたが彼の暴走を最小限に食い止めるべく、わたしは説明を試みようと思った。しかし彼はビジネスマンらしくすぐに反応して時間の無駄を省いた。
「オゥ、オレと同じことを考えていた、その中国の先生は、他に何を教えていたのか教えてくれ」
意外な気持ちを千切りにしたような彼のしかめっ面と、スピードがわずかに弱まった両腕の動作、椅子の上でいまだに止まらないお尻の微動、身長一九〇センチを超える巨体の上・中・下の不均衡に圧倒されそうだ。上流、中流、下流。彼の体を上から下へと三分割した各階層間で一貫しない、格差の拡大が芸術的な不調和を演出している。その状況を目の前にしてマジメな表情を保つのは結構つらかったが、何とか平常心で模範解答を心がけた。
「『知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。それが知るということだ』という言葉が有名です」
しかし彼は名言を容赦なく切り捨てた。
「その程度か。オレは何でも知っていて、知らないことなんて何にもないから、やっぱり中国の先生よりもオレの方がワンダフルだ。あと、しかめっ面をした科学者みたいに細かい事を言う『カンフー先生』よりもやっぱり、ミスター・ミヤギの方がオレはずっとクールだと思うぜ」
いつしか彼の手のひらは「グー」から「パー」になっている。半身の構えを崩さず、絶好調に達しつつある彼はさらに冗舌になった。言葉を失ったわたしに向かって怪気炎が上がる。
「香港の彼も大人気だな。『何とかのドラゴン』とか何とか、タイトルに『ドラゴン』の付く映画が多かったな。やっぱり、ドラゴンが暴れ回った『ハリーポッター』シリーズに影響されたんだろう。英国と香港のつながりは歴史的に深いからな」
ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。どこをどう考えてもブルース・リーと『ハリーポッター』シリーズの出てくる順番が逆じゃないですか(「なんでやねん」と明石家さんまが再び吹きだす)。とはいえ、ここで何をどう説得すれば事態を改善——と考え始めていたら、急に立ち上がった大統領は右足をひざの高さくらいまで上げながら、その場でくるりと全身を半周させながら「チャイナ!」と甲高い奇声を上げた。
あ、いや、それは違う――自分で自分にロケット・スタートで言いきかせて記憶を訂正する。いま彼は回し蹴りをしながら、怪鳥音「アチョー」を発するアクションを披露しようと全力を尽くしたはずだ。その証拠にいま、彼はわたしにチョップをくらわせようとこちらに歩み寄っている。コンマ八秒後に脳天を直撃された(ことに急きょ決まった)わたしは椅子から崩れかかるフリをした。タイミングは間違っていないはずだが、むなしく思えた心の中では何かが不安定な積み木細工のようにガタガタと崩れた。悪気がなく、惜しみないサービス精神の発現を何とか受け止めたはずで、それはいいが、そこから何が得られたのかが掴めていない。
当たり前だが何も起きなかったかのように、彼は再びどっしりと椅子に体を預けてくつろいでいる。
「はははは、『カンフー先生』のおかげでだいぶ笑わせてもらったよ。オレに会いに来る日本人はジョークも言わずマジメな人間ばかりだと思っていたけど君はなかなか愉快だな。オウ、これ、もう一杯飲むか?」
彼は手元にあった空のグラスを「乾杯!」と唱和するかのように、自分の顔の高さまでかかげた。そうして、質問のようで質問ではない彼の言葉から一分間も経たないうちに先ほどと寸分たがわず同じ冷えた飲み物が、寸分たがわぬグラスに注がれ、寸分たがわぬストローとコースターを添えられ差し出された。再び、冷えに冷えた炭酸飲料がのどの奥をジワジワと刺激していく。
きっと彼はいい汗をかいたのだろう。そして私も冷や汗をバケツ一杯分くらいかいた。でも念のために言っておきたかった(言わない)。この部屋に入ってきてから私はずっとジョークにもならないくらいマジメに話をしている。単に、話のなりゆきでここに至っただけなのだ。間違いなく信じられないくらい、元はといえば冗談みたいな話からこんな信じられない取材に引きずり込まれたことを私は大急ぎで思い返している。
そのわたしの目の前で再び、令和おじさんの説明で大活躍した女性がストローを口にした大統領にヒソヒソ話しかけながら人差し指を真っすぐに突き立てるしぐさを二度、三度と繰り返している。それを聞いた彼もまねるように人差し指を立てている。何ですか、今度は何が世界ナンバーワンだと言うつもりなんですかという思いがわたしの中で音を立てて沸騰しかけたそのときだった。
「君、悪いがそろそろ時間なんだ。もう一問で終わりにしてくれるかな?」
彼はスピーディーな商談を終わらせるようにサバサバした口調で言い放った。
あの、ここに到着してから私は——英語の勉強に来た留学生にしかあなたには見えていないのかもしれませんが———ずっとあなたの話を聞くだけで精一杯で、これがわたしにとって最初の質問です、と反射的に申し開きたくなった。だが、その時には日本で八重洲部長殿から託された「渾身の質問」を届ける使命を確実に果たす方がはるかに重要だった。「君、時間があったらこれも質問しておいてくれないかな。時間があったらでいいんだけどね」と紙を渡されていた。つまり、必ず質問してくるようにという命令なのだろう。そこでわたしは間違いなく恥も外聞もないくらい大きな声で質問した。
日本は電力を作るための天然資源が乏しく、外交や安全保障での課題になっています。放射性廃棄物の問題を長年たっても解決できない原子力発電は、地震による巨大事故のリスクもあり、持続的に安定して電力を供給できません。日本は次のエネルギー源として水素を利用する予定ですが、まだ十分に普及していません。日本が水素を安定的に、安い値段で利用するためには、今どう行動するべきしょう?
割と、あっさりと、そしてざっくりと回答がきた。
「水素を作るのに電気やガスが必要だが、日本は輸入に頼っているから資源価格が不安定だと困るんだ。それなら、この国で水素を作って運んでくればいいじゃないか。テキサスでもアリゾナでもフロリダでも、メガソーラーや風力発電で余るほど電気を作れるよ。船でもパイプラインでもいいから、とにかく水素を作って日本に運べばいいだろう。それに、いますぐ日本国内で水素や電気を使わなくてもいいじゃないか?日本人は自動車を作るのが得意だから水素自動車でも電気自動車でも何でもいいから、世界最先端のハイテクで豪華な新車を作ってくれよ。この国では少し前まで『リンカーン』って大統領の名前がついた車を持つのがステータスで、大統領だけでなくオレみたいなビジネス・エリートは誰でも乗っていたんだ。グレートな大統領の名前を付ければ史上最大の売れ行きになることは間違いない」
大きな間違いがないか心配になったわたしは、禁じられたはずの二問目に入った。
「『リンカーン』は歴史上の人物になっているので名前が付いても問題が無いと思いますが、今もご健在の大統領の名前を自家用車に付けてしまうと公私混同というか、利益相反だと警告されないでしょうか」
何のためらいもない言葉のかたまりが、わたしの動体視力では到底受け止めきれないスピードで打ち返されてくる。
「そんなつまらないことは気にしなくていい。オレはこの国を誰よりも偉大にしたというか、オレがこの世界の素晴らしさを体現しているんだから、みんな拍手喝采で歓迎してくれるさ。本当はネーミング・ライツ(命名権)を競売に出せるけど、偉大な大統領は謙虚に振舞うものだからそこまで大げさなことはね。さすがに」
無用な心配だった。謙虚な人が自分のことを謙虚だと呼ぶのかと疑う意思も生まれないくらい感動がなく、耳ざわりなものなど何も存在しないくらい、この波長に慣れている。かつて鳥取県の米子(よなご)空港が「米子鬼太郎空港」に改称されたことは人間と何の関係のない自然現象にさえ思えてきた。
「車に乗るだけで誰でもオレと同じくらいスーパー・リッチな心地になれるんだ。そんなすばらしい電気自動車や水素自動車が飛ぶように売れればアメリカでは石油や天然ガスが大量に余るから、日本にどんどん輸出できる。オレは世界一タフな交渉役だから日本は特別割引価格で安定的に天然資源が手に入るぞ。そうやって時間が過ぎている間に、日本でも水素を使う技術革新が続々と起こるさ。結局、オレがいる限り日本の将来には何も心配する必要がないよ」
ますます心配になって私はさらに質問する。ほんの少し前に「あと一問だけ」と部下から言われて彼は納得していたはずだが、答えが滑らかな彼の頭脳にはそんな忠告など、みじん切りにされた玉ねぎの一粒ほども残っていないだろう。
「メガソーラー、風力発電設備、蓄電池の設置、送配電システム整備、水素の貯蔵施設やパイプラインの建設など、再生可能エネルギーの導入には初期費用として大規模な投資が必要ですが、どうやって資金を調達するのが適当でしょうか」
なんだ、そこかよ、という感じで面倒くさそうに顔をゆがめて、冗談はいい加減にやめろよという風に軽く手を振った彼は、人生の中でこれほどつまらない質問はないというくらいの迫力で答えを放り投げてきた。
「カネを用意することについて、オレよりも腕の立つ人物がこの世に存在すると君は本気で考えているのか?さっきから何度も言っているだろう。世界一の成功を収めたビジネスマンで大統領だから、オレが新しく事業を始めると知れたら『借りてください』ってみんな自分からカネを持ってくるんだ。全員が一列に並んだらニューヨーク・シティーからマイアミあたりに達するよ。なぜマイアミまでかって?そのあたりで打ち切りにしておかないと、うっかり足をすべらせてカリブ海に落っこちる奴が出るじゃないか。国民の生命が第一だよ。気を付けてくれ。大統領は心配事が多い仕事だから大変なんだ。ともかく、日本にオレがとてつもない大成功とマネーをもたらすことは、誰にも疑いようがない。君にも十分わかるだろう、これで」
自問自答の痕跡もなく自信にみちあふれている彼の背後には、退席を一秒でも早く促したくてたまらず五分以上は滞留している部下三人の姿が私の視界にピン止めされている。①わずか数分間の説明で「令和」を彼に理解させた、魔法使いのように教養豊かなタブレット女性のきりりとした微笑と緊張感。②背後のドアから姿を見せたもう一人の冷蔵庫風ボディーガードの鍛え上げられた肩回りが放つ威圧感の重み。③次々とテキストメッセージを送り続けて彼のスケジュールをおそらく分刻みで、ひたすら調整している秘書がスマートフォンをピアニストのように操作する手つきの素早さ。クライマックスを迎えているピアノ三重奏のハーモニーように三人のスタッフがフル稼働していて、頻繁に交わされるアイコンタクトが頭の中でめぐりめぐる血流の速さを示しているように見える。
しかし、誰一人として彼が話し終わって満足したと間違いなく安心できるまでは絶対に声をかけることは絶対に許されていない。彼の周囲は高く、分厚く、周囲の音を何もかも吸い込んでしまう魔法の壁によって固く閉ざされ、ギラギラとした有刺鉄線に何重にも隔てられている。その時にふと、この人物には同志とか仲間とか、そう呼べる気持ちを少しでも——と考えようとしたわたしを遮るように、彼が数分前すらすらと口にした言葉が鮮明によみがえる。
「ああ、いったい、いつになったらアメリカはオレに追いついてくれるんだ?」
時間が残されていないことに改めて気づくと彼はすでに椅子から立ち上がっている。わたしも腰を上げて最後に何を言うべきか考える。しかし、先に口火を切った彼が世界新記録(未確認)で独走してゴールラインを通り越した。
「ありがとう。今日はいろいろ面白い話ができて楽しかったよ。君はグレートだ。これを発表すれば間違いなく視聴率は史上最高を記録するから君も自慢できるだろう。オレは確信しているよ。どこの会社から来たのか知らないけど、礼はいらないぞ。もう受け取ったからな、はは、冗談だ。そういえば君の師匠は中国の『カンフー先生』だったな。次、会った時にはオレの代わりによろしく言っておいてくれよ」
よどみなく言いつくした彼は出口のドアの方をちらりと見たあと、自分を誘導する人々の動線をかき乱すかのようにわたしの方角を見ながらもう一度、左、右とストレートのパンチを「仮想サンドバッグ」に微笑を浮かべてお見舞いした。一度も会ったことがないカンフー先生を相手にしたミニ・スパークリングだったのかもしれない。その直後、誕生日ケーキの上のろうそくの火をフッと吹き消したように、空気の密度がみるみる下がった。避難訓練で教室から順序正しく出る小学生のように、彼はドアの向こうに吸い込まれていった。
わたしは何も言えなかった。言うべきことも残っていなかった。
第4章 妥協しても遠い年明け
(今日)
年が明けるまで数えるまでに近づきつつある。インタビュー映像を適当に編集してパパに送った私は、緊急のオンライン会議を開くから参加するようにと呼び出された。試写を見た役員会のメンバーから「情報は鮮度が大切な生き物だから『鉄は熱いうちに打て』の精神で仕事を進めよう!」と檄が飛んだらしい。要は、局内からケチが付けられる前にとにかく早く放送したかったのだろう。
わたしの予想をうらぎって会議で最初に発言したのは順子さんだった。全員が画面上に現れたらできるだけ早く、言いたいことを先に言う意図だったのかもしれない。
「この時期にわざわざ海外まで取材に行った割には内容として薄っぺらいような気がしますけど、結構な情報量になっているみたいだからオーケーじゃないですか。でも、ブルース・リーとハリーポッターのところでドラゴンが出てきたのに、『ドラゴンボール』の話は出さなかったの?漫画やアニメは日本の得意技でしょ。それに『おしん』の視聴率も海外で驚異的だったのは知ってる?最近の外国人観光客が和牛ステーキを食べるために日本に来るとか、飛行機を乗り継いで北海道までスキーに来るとか、日本のチョコレートを大量に買い込んでお土産に持って帰るとか、一つ一つの話題を点と点として伝えるだけじゃなくて、日本の持つ魅力を奥行きのある全体像としてアピールができなかったのかしら。視聴者っていうのは今までの延長線上ではなくて、全く新しいストーリーをほしがっているのよ。スポンサーさんの方ばかり見ていても新しいモノは作れないの。わかる?」
鋭い指摘だ。ただ、これは本当にわたしに向けられた言葉なのか。さらに続く。
「前からずっと私はこういう事を必要な時に言ってきたつもりなんですけど。やっぱり、今回も番組の構成が土台づくりから準備不足だったってことなのね」
大所高所からの正論が予想外の口元から飛び出した違和感と、発言のタイミングが明らかに遅すぎる現実が重くのしかかる。
「それならやっぱり最初からじゅ・・」と私の口から無意識に声がこぼれるのを止める。
「え、なに?はっきり言って」と順子さんが。
「順子さんがインタビューに行けば最初から問題なかったんじゃないのかって言いたかったんですよ」と八重洲部長が正確な言葉を補うのがチクチクと耳にささる。
「そういう話じゃなくて」と順子さんは間髪入れない。語尾が強い。
(いや、そういう話だ。)
時間が一瞬止まる。が、長続きしなかった。
「きっと誰が行っても結果は大して変わらなかったんでしょうし、後はどうやって話をつなぎ合わせて番組に組み込むかの段階よね。時間的に枠はこちらで確保しておきましたから、あとは見せ方を工夫してくださいね。これまで細かい所では意見が違うこともあったかもしれませんけど、わたしも皆さんと同じく放送を楽しみにしています。少なくとも素材がボリューミーだから体裁は何とか整えられそうね」
これは何を楽しみにしている兆候なのか。言葉づかいは丁寧だが、音声を発した順子さんの表情は固く灰色に閉ざされた梅雨空のように暗い。
「あの、『ボリューミー』は和製英語ですから。どんな形容詞でも語尾を伸ばせば英単語になるわけじゃないですよ」
八重洲部長がすかさず指摘する。もちろん、わたしが取材してきた映像の内容とは関係がない。しかも、順子さんはその一つ先で待ち伏せていた。
「そんなにムキにならなくてもいいですよ。知ってますよ。別に英語のネイティブを相手に話すんじゃないだから構わないじゃないですか。『プライシ―』も『チーズィー』も『スムージー』も英語なんだから、なんとなく意味はお分かりなんでしょう」
知的なのか皮肉っぽいのか冗談好きなのか分からないが、今までにない順子さんの新たな一面が痛々しく露呈した。
「プライシ―(pricy:値段が張る)で、チーズィー(チーズ味)なスムージーを買いたいと思う人はいないので商品化は無理だと思います」
わたしの迅速な思考実験の結果——もちろん報告しない——気持ち悪い液体が口からこぼれそうな気持ちとは関係なく、自分の顔に無表情が保たれていることを会議画面上であわてて確認した。
ムキになったのか、八重洲さんはエサのついた罠にかかって檻から出られなくなった野生大型動物が監視カメラを見つめるかのように、苦しげな声を張り上げそうな渋い顔をして口元を不規則に動かしている。ただ、彼の手は習慣的にマウスを操作して「ミュート」に設定していたらしく、故障中の衛星生中継のように映像だけしか届いていないようだ。二月二十九日が有るのか無いのか忘れられそうな四〇〇年に一度の特別な「うるう年」が誰も気づかぬ間に到来し、希少と誤解と無関心の融合したスムージーのようにザラザラと仕上がった感触だ。そして自分の静けさと盛り上がらなさも画面の四分の一だけ味気なく貢献している。
「それにしても『令和おじさん』の話題を持ち出さなくてもよかったんじゃないの?」
順子さんは砕氷船のようにガリガリと固い沈黙を砕いて突進している。
「時の官房長官ですから」とミュートを解除した八重洲さんが自分に向けられた言葉のように、いささかムキになっている。
「官房長官経験者なんて過去に何十人といるんですよ」と順子さん。
「いや、国会議員のキャリアの中で官房長官の経験というのは別格ですから」と八重洲さんが譲歩しない。
「本当にそんなに重要なんでしょうか、官房長官。結構頻繁に変わっているような気もしますけど。ちゃんと一人一人確かめたんですか、官房長官・・・まあいいですけど」と順子さん。
歴代の官房長官を思い出す必要があるのかと考え始めた私に、違和感の芽が生まれる間もなく議論は強制シャットダウンされた。そして順子さんは、全く興味のない他人の仕事だとアピールしていた無関心を放り出し、時間を何週間も巻き戻して根本的な問いを突きつけた。
「今さらですけど、この企画に一番熱心だった八重洲さんはなぜ自分でインタビューに行かなかったんですか。そもそも、そこが分からないわ。どこからどうやってお金をひねり出したのかしら」
たしかにそこは誰にもわからない。わかりたいとも思わない。
八重洲部長が満を持したように答える。険しい山々の奥地で十年間以上に及ぶ過酷な修行の末に何かを悟ったかのように、重厚な返答が明瞭に響き渡る。
「妥協ですよ」
意味はきわめて不明瞭だ。順子さんが我慢できるものではない。
「妥協って何ですか。いつ、誰がいったい何を妥協したんですか。予算が不適切に使用されたってことでしょうか。『イエス』か『ノー』で答えてくださいよ」
自分の顔色を迷彩色のダークグレーに塗りつぶす想像を働かせ、「そしてわたしは妥協の産物だったんでしょうか」と無言の自問自答を貫く私の妥協は、説教と呪文を兼ねたような八重洲師匠の反論に力強くゴシゴシと消し取られた。
「順子さんは妥協をバカにしているんでしょう。あの有名な『コネティカットの妥協』が成立していなければ、アメリカ合衆国の民主主義が成立しなかったかもしれないのにそんな言い方があるんですか」
八重洲部長のそんな言い分は・・・(それに比べれば順子さんの発言は比較的普通だったような気がした)。が、それよりも順子さんがわたしと全く同じ疑問をストレートに吐き出したことに、その直後の約三秒間は安堵した。
「『コネティカットの妥協』って何ですか」
彼女の発言にしては声色にとげとげしさが無い。
「アメリカ合衆国の連邦議会は二院制とする。下院議員の数は各州の人口に比例させること、上院議員の数は各州それぞれ二名にすることが同意された一七八七年の合衆国憲法制定会議での決定です。別名では『大妥協』とも言われるくらいの政治的に大きな決断でした」
八重洲さんの一言一言には「ボリューミー」の意趣返しが込められたのか、高級なバームクーヘンのように分厚い年輪が幾重にも塗りかさねられている。議論の不気味さに耐えきれなくなったのか、「もう勝手にしてよ」と順子さんが締めくくる。
「もう妥協でも何でもいいですけどっ」
何か違和感のあるものをすべてゴクリと無理に飲み込んだように一往復、上下に動いた彼女の喉元が警戒感を一人一人に配布している。
「『何でもいいですけど』って、それはちょっと適当すぎないですか。まあ、私としてもそこにこだわりはありませんけど。これも一つの妥協ですね、はは」
自分の発言に八重洲さんがクスリと苦々しそうな笑いをこぼす。その後には、ただひたすらに無音の秒針が動いていく。
ちょっと待ってくださいよ。お二人どちらもそんな簡単に納得するなら、なんでその話題を持ち出したんですか。官房長官とコネティカットに注目して二人でお互いに厳しく牽制し合ったのか、糠に釘を打ち続けたのか、つかみ所のない思いつきと妥協が繰り返される二人の会話に翻弄されたその数秒後、「ところで次の話題は何?」という今季一番の寒気がオンライン会議画面に流れこんでいる。たしかに妥協の力はボリューミーで偉大ですね。私は一人むなしくひざを打つ。コネティカット州の映像を用意する必要があるのかと身構えたが、乗り込もうとした電車を目前にホームドアが閉まったようにわたしは取り残された。
「まあともかく、遠くまで出張ご苦労様だったね。このご時世、無事に帰って来られて本当によかったよ」
大ざっぱながら何でも受け入れられる、もしくはそこまでの会話の流れをすべて切り捨てたとしても言えたコメントで、パパが画面上の空騒ぎを無難に収拾した。以前と変わらず背後にたたずむ観葉植物との調和が、今日は十分に取れている。
「え、やっぱり私、無事に帰って来られない可能性もあったんですか?」
反射的に何も考えず尋ねたわたしの目の前では、四等分された画面の残り三つから、苦笑いをこぼした白い歯が口の上下からわずかに姿を見せていた。「USA」のロゴが入った巨大で重たそうなマグカップを持ち上げてコーヒーをすするパパの笑顔の前には、白い湯気が立ち込めて画面を覆い始めている。
その湯気が消えないうちに新たな議論が始まった。
「ところでこれは仮定の話ですけど、彼が米国の大統領に再選されていたら今ごろウクライナが半分くらいロシアに占領されていても不思議でないくらい、現地の軍事的な緊張が高まっているんですよ。来週どこかの番組では是非、ウクライナ最新情勢について専門家の詳しい討論を生放送で入れたいと考えているんです」と八重洲部長の力説が始まりそうな気配がみなぎっている。
「この時期にまた急に、大した準備もなく仮定の話から番組企画を作るんですか?時間も限られているのに?そんな具体性のない仮定の話にはお答えを差し控えさせていただきます」と順子さんが即座に応じる。
「『仮定の話にはお答えを差し控えさせていただきます』ってそれ、官房長官の記者会見の答え方でしょ。本当は官房長官が気になっているんでしょう。さっきは無反応を装っていたみたいでしたけど、官房長官の『令和おじさん』のネタも本当はかなりウケたんですね。たまには素直にお認めになったらいかがですか。どう考えても面白いじゃないですか。大統領が官房長官のモノマネですよ。一生に一度見られるかどうかっていう見せ場だったじゃないですか」とすっかり反撃態勢に転じた八重洲さんが季節外れの花火大会のように盛り上がっている。
「『一生に一度見られるか』って別に、太陽の周りを公転しているハレー彗星が地球に接近するような規則的な現象じゃないのよ。見た人が面白がるか、そうしないかの主観的な問題でしょ。そこはちょっと整理しないと。八重洲さんには面白い、わたしには面白くない。控えめに言っても、あなたと私はちがうの。勝手に強制しないで。何年いっしょに仕事をしても、そこは変わらないのよ」
「いや、同じようなものです。地球上で生きている限りは誰でも太陽の周りを公転していますよ。もう少しタイムリーにいえば、日本に住んでいてもウクライナに住んでいても。違いは無視できるほど小さいんです」
「そういう話じゃなくて」
「そういう話ですよ」
「そういう話かどうかを議論するか、がいま重要じゃないと思いますが」と我慢できず発言してしまった私には、二〇二一年にも終わりが来ると信じるにはまだ早すぎるようだ。アルバムの表紙が「パタン」と閉じられるように、わたしの思い出深い海外出張が終わりを告げられようとしている。
そうだった。出発前に手配していた松葉ガニと年越しそばの映像は結局どうなったんだろうかと思い出し、会社の近くでお昼の情報番組を見ながら、インドカレーとナンを食べたい気持ちが抑えきれなくなりつつある。いまここにクリスマスとお正月が同時に来たような胸騒ぎをこらえながら、「ウクライナ」と入力して携帯電話に表示された検索結果を上から下へと、ページからページへと追いかけている。(了)
2021年の棚卸し