地下鉄

 渋谷駅の副都心線ホームの片隅で、下へ向かうちっぽけなエスカレーターを見つけて、僕は首を傾げた。
 もう2年もこのホームを使っているけれど、こんなエスカレーターは見たことがなかったから。
 渋谷駅は四六時中あちこち工事をしているから、知らない通路や覚えのない壁が、ある日ひっそりと突然現れることがある。
 それでも僕が首を傾げるほど興味を惹かれるのは、この地下鉄という暗い地面の底から更にその下へ向かうこのエスカレーターが、一体何処に繋がっているのだろうかということだった。
 初めは駅員が使う通路や施設への通り道かと考えてみた。けれどもそれにしては扉や柵のような障害はなにもない。関係者以外立入禁止のような決まり文句も辺りにはなかった。
 他の路線が増えて、そこへの乗り換え通路かとまた考えてみる。ただ、並んで立つことも出来ない1人用の下るだけの幅の狭いそのエスカレーターは、乗り換えの通路にしては余りにも心細い。
 そうして、ああでもないこうでもないとうだうだと考えているうちに、何ものにも代えられない僕のちっぽけな好奇心が足を運ばせて、そっとその幅の狭いエスカレーターへ乗りこんだ。

 ゆっくりと揺られて下の階についてみれば、そこには上のホームに沿ったように長い地下歩道のようなトンネルがあった。照明で照らされるこのトンネルは、先に行くほど緩いカーブになっているようで奥まで見通せない。
 ホーム間を行き来出来るような地下通路かとも思ったけれど、トンネルはどこまでいっても横に繋がる道はなさそうで、人が行き交うような気配もない。
 少し不安になる。来た道は下り専用のエスカレーターしかなかったから。
 取り敢えず上へ戻る階段やエスカレーターを探すという名目で(そもそも自分の意思で降りたくせに)トンネルの端を目指してみることにする。
 
 トンネルはなんだか不思議な作りをしていて、両脇の壁の上部と天井との間に少し隙間が空いているから、まるで天井がほんの少しだけ浮いているように見える。
 たまにやって来る電車の音がその隙間から溢れていて、高架下みたいに響いてうるさい。
 そうして壁の隙間を覗きながらフラフラ歩いてみれば、緩いカーブの先にひどい猫背の駅員の姿がポツリと見えた。
 駅員はその壁と天井の隙間を立ち止まってジッと見ているようで、すぐ側まで寄ってみても、僕の存在に気づいていないようだった。
 
「あの……」
 声をかけてみる。そもそも立ち入っていい場所なのかもわからないで、人の気配も上へのエスカレーターも見つからないこの場所になんだか少しずつ不安を覚えていたから。
 駅員はおもむろに此方を向いて、僕に気がつくと、曲がった背中と首をさらに少し曲げて軽い会釈をした。
「どうされました?」駅員は言った。
 どうされたと聞かれると言葉に詰まった。ただ興味本位でこんな場所に立ち入っただけで、どうしたいわけでもない。自分から話しかけたくせに少し答えに迷って「出口はどこですか」と、しどろもどろに訊いた。
 駅員は僕の顔を壁の隙間を見ていたときみたいにジッと暫く見つめて、それからゆっくり僕が来た方と反対を指差して言った。
「向こうに真っ直ぐ行けば上りのエスカレーターがありますよ」
 駅員はそう言って、また壁の隙間へ目を向けてしまって、僕への関心を失ったみたいだった。
 取り敢えずはこの場所の立ち入りを咎められなかったことに安堵して、彼に言われたように上りのエスカレーターを目指そうと思った。
 ただそういった不安の緩和が、僕を下りのエスカレーターに乗せたような悪戯な好奇心をまた呼び起こして、ふと口から本当に訊きたかった質問が零れた。
「ここは一体なにをする場所なんでしょう?」
 駅員はまた此方にぐるりと首を向けて、なんだか物珍しそうに僕の目を見つめる。そうしたまま、なかなか質問に答えてくれないから、なんだかまた少し不安になって言い訳みたいに質問につけたした。
「いや、暫くこの路線を使っていたんですが、こんな場所は初めて見たから。それに壁に変な隙間があるでしょう? あれも一体なんなんだろうなと……ただ少し気になって」駅員はまだ答えないで僕を見ている。「……入ってきちゃマズかったでしょうか?」
 彼は漸く僕から目を離して、また壁の隙間に視線を戻すと、ポツポツ話し始めた。
「別に、立入禁止なんてことはないです。入り口になにも書いてなかったでしょう? だから誰だってここに立ち入る権利はあります。勿論構内に入るためには切符を買わなければなりませんが」それと、と駅員は続けた。「ここはね、失物を拾うところなんですよ。あの隙間が上の線路の道床の横に繋がっていて、こっち側にきたもモノを隙間から拾うんです」 
 こんなふうにねと、彼はどこから出したのか、身長程に長い所謂マジックハンドを上に掲げて、その先を隙間に差し込んだ。
 鈍色の無機質な伸びた手は、スルスルと隙間に入っていって、暫く動いた後、小さなクマのキーホルダーをその壁の隙間から引きずり出した。
「ここはこういうモノを拾う場所で、そしてそれが私の仕事でもあります」
 僕は少し考えて、彼に訊ねた。
「こういうのはホームから拾うもんだと思ってたな。ほら、よく落とし物をしたら駅員を呼んでくださいって、絵と一緒に書いてあるじゃないですか」
 彼はもう僕には目を向けずに、また隙間をまさぐってボソボソ答えた。
「ああいうのはね、持ち主がしっかりしていて、何処に何を落としましたってハッキリわかってるやつなんですよ。そりゃ指でそこを示して、それを摘まんで取ってやるのは簡単です。ただ私がやってるのはね、持ち主も落としたことに気がつかないで、いつの間にかこういう隙間に転がり込んでしまったやつを掬い取ってやることなんです」
 彼はまたぐいと手元を引くと、小さな鍵のようなものを道具の先に摘まんでいる。
 なんだか僕はそのちっぽけな古びた鍵を何処かで見たことがあるような気がした。
 ただ彼はそんな僕にはお構いなしに、クマのキーホルダーや古びた鍵を肩に提げた革のカバンに入れると、歩いて場所を変えて、また隙間を眺める。
 普段見ることのないそんな業務に、ちょっぴり心が惹かれて、少し後ろに付いて彼の仕事を眺めて歩いた。
 彼はそんな僕にやっぱり大して興味が無いようで、黙々と彼の仕事をこなしている。
 手繰り寄せる落とし物はバリエーションに富んでいて、彼の手元を眺めて飽きることはなかった。
 帽子、ハンカチ、ボロボロの封筒に古い雑誌。空っぽの財布に、ドラムスティックなんてものもあった。
 彼はそういった落とし物を片っ端に提げた革のカバンに大事にしまって、隙間にマジックハンドを突っ込む作業をひたすらに繰り返している。
「案外、色々落ちてるものなんですね」僕は彼に訊いた。「上からじゃ綺麗に見えるから」
 彼は少し溜め息を吐いて、面倒そうに答える。
「厳密に言うと落とし物とは少し違います。失物なんです。不思議なことにそういうモノは人の死角に転がるんですよ。そうしてここの隙間に引っ張られる。あるでしょう? 確かにテーブルに置いた家の鍵とかが何処にも見当たらないみたいなこと。そしてその鍵を落とし物っては呼ばない。失物、なくしものなんです。私が拾ってるのは」
 僕は彼の言っていることがいまいち理解できなかった。落とし物もなくしものもどっちも同じじゃないのか? 家のテーブルみたいな彼の例えも、物を線路に落とすことといまいち繋がらなくてピンとこない。
 ただそんな言葉の細部の擦り合わせをしようにも、なんだか彼がひどく不機嫌に見えた。
 考えてみれば当然かもしれない。彼の仕事に茶々を入れながら後ろから付いて回ってるんだから。それでも、失礼と自覚しながらも、彼の仕事が無性に気になって目が離せない。
 
 押し黙って、彼の後をまたフラフラと付いていく。もうだいぶ歩いたような気もするけれど、一向に上りのエスカレーターは現れなかった。
 彼は相変わらずその業務を繰り返していて、カバンからなぜ溢れないのか理解できないほどの落とし物を拾っている。
 そうした暇をもて余しながら、彼の仕事振りを眺めていると、ふと失礼な提案が頭に浮かんで、それが口から溢れた。
「それ、僕にも一度やらせてもらえませんか?」
 僕はそう言ってしまってから、我に返って急に恥ずかしくなった。誰もコンビニで店員の代わりにレジを打たせてくれなんて言わないみたいに、ひとつの常識として不適切なことを言ってしまったから。
 ただそういった社会科見学をする学生のような幼稚な好奇心が、このある意味密閉された不思議な猫背の駅員との空間で暈けてしまって、不意に言葉に出た。
 駅員はゆっくり此方を振り返って僕の目を見た。そしてまたゆっくり口を動かして言った。
「いいですよ」
 彼はなんだか今までとは違った穏やかな表情で、僕にその無機質な棒を差し出した。
 不意の許諾と、彼の今までと違った急な穏和な表情に戸惑って、自分からそんな恥ずかしい提案をしたくせに、彼の差し出す仕事道具を受け取ることになんだか躊躇いがあった。
「さあ、どうぞ」彼は唆すように重ねて言った。
 戸惑いながらも、自分から言った手前その棒を受け取ってみれば、そのグリップは掌に自然に馴染んでいて、まるで学生の頃3年間愛用したミズノの金属バットみたいにしっくりくる。なぜだか使い方もよく分かるような気がした。
 そうして僕がその棒切れを握ったことを確認すると、猫背の彼は隙間を指差した。
「そこです。そこの隙間にあるのがわかるでしょう?」
 僕は彼に言われるがまま、隙間にそれを突っ込むと、確かになにか感触があった。それからうまく道具を操ってそれを隙間から引き出してみれば、先には小さなポシェットがぶら下がっている。
「いいですね、初めてでそんなモノがとれるなんて才能ありますよ」彼はなんだか子どもでも煽てるみたいに大袈裟に褒めた。それから「もう一度やってみますか?」と、変にニヤけてまた促した。
 仕事を押し付けられているように感じながらも、うまく隙間から落とし物(彼に言わせればなくしもの)を拾えたことが妙に快感で、僕は「いいんですか?」なんて、厚かましくて恥ずかしい台詞を吐いて、また隙間にそれを突っ込んだ。
 触れる感触は様々だった。そうして触れては引き抜く度に何かしらを捕まえてくるそのアームの先を見ることが楽しくて楽しくて……。
 そんな僕を見て、彼はその調子だとか、もう一度見たいなんて調子よく合いの手を入れている。
 次第に僕の足元は落とし物で埋め尽くされていく。服や、バスケットボール、チョコレートケーキ、自転車まで出てきた。
 明らかに線路に落ちているものなんかじゃない。きっとこれは誰かのなくしもので、僕はそれを無理やり隙間から引っ張ってきている。
 どうしてそんなことが出来るのか、この場所がいったいどんな場所なのか、さっぱりわからない。ただ興奮に紛れた恐怖感が過っても、僕の好奇心は手を止めることができなかった。

 暫くして、彼の声が聞こえないことに気がついた。そこで初めて手を止めて、辺りを見渡してみても、相変わらず先の見えないトンネルがあるばかりで、人の気配は何処にもない。
「あの! 誰か!」
 僕の声は暫く響いて、その内電車の音に消された。
 最後に引っ張り出したミズノの金属バットを他の物と同じようにそこらに投げ捨てて、僕は足元に散らばる誰かのなくしものを踏みしだいた。
 そうしてまた、駅員から譲り受けた道具を握りしめながら、フラフラと歩き始めてみるけれど、一向に猫背の彼も、上りのエスカレーターも見つけることができなかった。

地下鉄

地下鉄

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-04-06

Copyrighted
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