捕虜収容所の老看守

捕虜収容所の老看守

 この様な、罪深い私のもとにも、神様が来て下さるとは思わなかった。
 心穏やかな最期となりそうです、ありがとうございます。
 ……神様、私は、あなたに打ち明けたいことがあるのです。
 三十数年前の戦争で、私の魂に刻まれた出来事を、どうか、聴いてください。


 忘れる事は決してありません。
 骨までもが凍るような、とても寒い冬でした。
 私達は軍服の上から、頼りない外套を着て、小銃を手にしていた。捕虜収容所の警備兵としてです。
 まだ建設中だった施設には、捕虜は一人もいませんでした。
 内地の方角から、西へと向かう友軍のトラックやジープ、歩兵達の列。それらが黙々と続くのです。軍靴を履いた百足のように。
 もしも、私があの中の一人であったならば、とっくに戦地にて倒れていたかも知れません。

 当時の私には、いつも心配事がありました。同じく従軍している、一人息子がいたのです。
 彼が今、無事に生きているかどうか。それだけが頭の中を埋め尽くしていました。
 息子は、戦争に行くような、人を殺すような人間じゃない。
 ──いいえ、分かっています。そのような人間など、初めから一人もいない事ぐらいは。
 しかし、親心というものは理屈ではない。無償の愛だ。
 ただ生きてほしいのです。生きていてほしい。

 しかし、悲劇とは起きるべくして起きるのかも知れません。
 吹雪がいよいよ深まるという暮れごろに、一通の手紙が届きました。
 息子の戦死を知らせる手紙でした。
 私は、悲しくて、悲しすぎて壊れてしまいそうになった。
 あの優しい子が、あんなに人想いな子が、殺された。
 その様な事があってはならない、ただただ受け入れきれなかった。
 私は、復讐の鬼と化しました。
 この収容所が完成し、捕虜が連れてこられたならば、その者達はきっと悪魔のような連中に違いない。
 徹底的に、痛めつけてやろうと、そのように考えていたのです。


 闘争心が、復讐心が燃えていた。
 収容所が完成し、いよいよ多くの軍用車が列を成して、その時が来た。
 あのトラックの、幌の覆いを外せば、中には悪魔がいる。悪魔のような顔をした敵兵達がいる。
 自分に言い聞かせて、暴れ出す心臓の音を自覚して、小銃を固く握りました。

 けれど、けれど、神様。
 私は、私の復讐心は、打ち砕かれたのです。
 トラックに詰め込まれていた敵兵達は、皆が皆、あまりに若すぎる。
 まだ年端もいかない、震えている子供たちだった。
 怯えた顔で、その不安で胸が張り裂けそうな眼で、私達を見ていた。

 私は思わず小銃を落としてしまった。両手で顔を覆って、心が苦しくなった。
 涙が溢れてきて、閉じた瞼の裏に、戦死した息子の顔が映ったのです。
 彼らは、悪魔などではなかった。
 彼らは、私の息子と何も変わらない、人の子だ。
 私は自らを強く恥じました。復讐の念を滾らせる鬼だったことを、悔いました。
 そして、優しくなろうと、想ったのです。
 彼らの一人一人の面倒を、捕虜たち全員のお世話をしようと、想ったのです。
 神様、この気持ちを解っていただけますか。親心という、人の情です。


 当時の軍は、味方が食べる食糧も不足している状況でした。
 ですから、捕虜達が腹いっぱい食べる事も、当然ながら叶いません。
 本当はしてはいけない事なのですが、我々は、自分達が食べる分の食料も、捕虜達に分け与えたのです。
 収容所で務めている警備達の大勢が、私の心に共感してくれました。
 でなければ、寒さと飢えで、彼らは終戦を待たずして死んでしまう。
 その様な事があっては、彼らの親御さんに申し訳が立たない。

 ですが、どうしても、ギリギリまで分け与えて、食べさせても……。
 餓死者や、凍死する者が、でてくるのです。
 その度に少年たちは、とても悲しそうな顔をしていました。
 しかし、時が経てば経つほど、その死が日常と化してしまいます。
 彼らの顔からは生気が失せて、もはや、戦友の死に涙も流せません。

 それでも、私の姿を見ると、彼らは僅かな微笑を浮かべて、手を振ってくれました。
「お爺ちゃん、お爺ちゃん」
 彼らは私を、そのように呼び親しんでくれました。嬉しかったですよ。
 まるで、大勢の息子や孫たちができたみたいで、本当に嬉しかった。
 きっと、天国にいる息子も、喜んでくれていたことでしょう。

 冬の末にある、神聖な祝日がありました。
 当然ながら戦時下ですから、お祝いなどはできませんが、私にはある考えがありました。
 軍医殿のいる診療所に入り、彼に頼みごとをしたのです。
「ハンスト対策に用意されている、生卵と砂糖を、あの子供達にあげたい。
 このふたつと、我々の分の小麦粉を使い、焼き菓子を作ってあげたいのだ。
 年末の祝日ぐらい、あの若者達がお菓子を食べたって、良いはずだ。どうだろうか」
 すると、この軍医殿も心のある人物で、面白い提案をしてくれた。
「よし、分かった。では、ここにある卵と砂糖は、看守の君達が無断で持ち出したことにしなさい。そうしておけば、焼き菓子を食べる捕虜たちは罰せられる事は無い。君達が罰せられる時は、私も名乗り出よう。それで良いな。男の約束だ」
 彼は、心を理解できる立派な医者であった。
 とはいえ、収容所の所長も、鬼ではなかった。
 きっと、私たちが勝手に食べ物を分け与えていることや、卵と砂糖を調達したことも、気づいてはいたはずだ。
 しかし、結果としてお咎めは無かった。ただの一度も。

 当日の夜中。私たち看守は菓子の入った箱をもって、それぞれの兵舎のドアを開きました。
「お爺ちゃん、こんな夜中に、どうしたんですか」
「なに、年に一度の祝日だから、皆のためにお菓子を焼いてきたのだ。ほら、お前達、皆集まりなさい。ちゃんと全員の分があるから、安心するんだよ」
 少年達は、手渡された焼き菓子を見つめて、とても静かになった。
 すると、涙を拭い始めて、皆が泣いていた。
 その兵舎の班長が、受け取った菓子を半分に割り、私に差し出したことを覚えています。
 彼は清い涙を流しながら、こう言いました。
「一緒に、食べましょう」


 長い冬が終わり、少しずつ芽吹くような、春が来ました。
 暖かい日差しが収容所全体を包んでいた。
 その日の正午、終戦の知らせが届いたのです。
 彼らは、やっと祖国に帰ることができる。恋しかったであろう両親に会える。
 この日が来たんだ。やっと、やっと。
 私は収容所の鉄条網や、監視塔を見上げて、何とも言えない心境で深呼吸をしました。
「神よ、私はこれで、罪を償えたでしょうか」

 あの日、私はこの一言をつぶやいたのです。
 神様、あの日の声も、聴いてくださったのですね。

 間もなく、捕虜収容所にいる子供達の全員に、帰還命令が出されました。
 その後は、あっという間に時間が流れ、ついに収容所のゲートが開かれる日が来たのです。
 所長と、警備、看守の前に捕虜達が整列し、行進を始めました。
 思わず、彼らに手を振りました。
 どうか元気でな。
 声には出しませんでした。あの子たちを振り返らせてはいけないから。
「お爺ちゃん、ありがとう」
 列のどこからか、その声が届きました。
 すると、次から次へと、私たちに向けて、感謝の叫びが響き渡るのです。
「貴方は僕たちのお爺ちゃんだよ、忘れないよ」
「お爺ちゃんも、元気で、元気でッ」
「お世話になりました、さようなら──ッ」


 神様、これが、私の人生でした。
 私は幸せ者です。
 大勢の息子たち、孫たちに愛されて、
 その思い出に励まされて、生きてきた。
 そして今、先に天国へと発った私の息子が、もう、目の前に見える。
 やっと、会えた。

捕虜収容所の老看守

捕虜収容所の老看守

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-04-04

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