幸せな唇と性交した去年の夏
上唇の血色のいい田山と、去年の夏、私は、性交した。
セックスというほど哲学的なものじゃなかった。私は田山とそれをしてるあいだ、ほとんどなんにも考えていなかった。どっちかというと情を交わすというより、肉を交わす、みたいな感じの、学生らしい清純な性交だった。
私は田山のこと嫌じゃなかったけど、終わった後になって、やっぱり私、好きではないや、ってことに気づいた。それでも田山が隣で唇を薄くあけてぜーぜー言ってるのを見ていたら、いつもみたいにまた不思議な気分になって、そういう気持ちはもうどうでもよくなった。
田山は、七月に隣の席になった、同じクラスのどちらかというと静かな男子だった。
私は田山を見ていた。田山の上唇のふくらみは愛されて育った赤ちゃんほっぺたみたいでどことなく幸せな気分にさせられた。
田山の上唇は同じ様に血色のいい下唇の上に、むにゅ、と乗っかっている。下唇はその重みで押しつぶされて少し歪んでいる。拗ねたようにみえる。下唇が、上唇に対して。もう、押さないでよう、って。
それに、田山の唇はいつも全然濡れていなかった。舌をつきだして唇をなめる仕草も、口の端についた唾液を拭う仕草も私が見ている間一度も田山はしたことがなかった。
私は目を引くように濡れた唇っていうものがどうしても受け付けられなかったから、田山の唇で本当に幸福というものを知った。
田山は、そんな私の視線には、全然気づいていないみたいな顔をして、実は気づいてた。
ある暑い日の昼休みの終わり、みんなが掃除に取りかかるとき、一瞬の混雑の中で田山は私に言った。
「ねえ、なんでこっち見てるの、いつも。見てるよね、いつも」
田山はぞうきんを片手に持っていた。私はホウキを取り出してるところだった。
田山は私のこと、見ていなかったけれど、私はその言葉が私に向けられていることがすぐにわかった。ほんの数秒のざわめきが逃げないうちに、私は本音を呟いた。
「なんか、いいかなって」
言い終わったあと、もう田山は私の前にはいなかった。床のぞうきんがけをする前に、片付け残した机をどかしていた。
私には、田山が真剣にその作業をしているようにみえた。
もしかしたら「いいかな」の意味が変な風にとられているかもしれない、と私は少し不安になった。
「田山のことが、いいかな」とか「田山弱そうだからガン見してても、いいかな」とか。
掃除が終わっても、授業が始まっても、田山はこっちを見なかった。
私も勘違いが深まると困るかも、と思って、その時間は田山を見るのを我慢した。
放課後教室をでる直前、田山は私の耳元で
「さっきのってどういう意味。考えたけど、わかんなかった」
と言った。
私は鞄を机においた。少し大きな音がした。私は驚かなかったし、田山も驚かなかった。暑いのに、教室は騒がしかった。もう閉め終わった窓を、誰かが開けた。
「いいなってことだよ」
私は声を低くして言った。
「なにが」
「田山の、上唇」
田山は十秒くらい黙っていた。私が横目で田山をそっと見たら、田山は私の横顔をそれこそまじまじと見つめていた。
私はちょっと笑おうとした。嘘だよ、と言う気だった。田山が怒っているように思えたから、機嫌をとるつもりだった。
「そうなんだ」
田山はなぜか私より先に笑っていた。そして唇に二本、指を当てて肌との境界線をゆっくりなぞっていった。
私と田山は、友達になった。
どういうきっかけで、田山と性交したのか、私はよく覚えてない。
そこは田山の家の、ベッドの上で、倒れ込んだとき、妙に生臭いような臭いがしたことは、覚えてる。結局は、田山が私のことを性的な目で見ちゃった、だけのことだった、ということも覚えてる。
それから
「だめかな。つきあってないし」
と田山が言って、
「わかんない」
って私が答えて
「でも初めてなんでしょ」
そこで私は初めて自分の初体験を田山の唇に捧げようとしてることに気づいて、すごく驚いたことも、覚えてる。
でも、そのあと私が田山の唇に触れて、そのとき何を思ったのか、それは思い出せない。
それで今、私ちょっと、困ってる。
幸せな唇と性交した去年の夏