たそがれラプソディー
ーこの街も随分と変わったー
遊び疲れたのでしょう、私に頭を預けて眠る孫の頭を撫でながら、ふとそんなことを思いました。環状線の高架から見下ろす街は、新しいビルもあれば、昔馴染みの雑多な景色もあったりと様々でしたが、動物園の辺りの変わりようといっては、頭の中では知っていたとは言え、いざ目の当たりにすると、なんとも言えない驚きがありました。
娘を動物園に連れて行ったあの頃は、まだ青空カラオケが盛んで、そこに向かおうとすると、自然とそのテントの前を通ることになりました。テントの中では、客か従業員かもわからない人々が、酒を片手に歌ったり手を叩いたり、各々賑やかにしていました。
動物園に向かう人々は、それを横目で眺めながら、あるいは敢えて見ないようにしながら、その路を通り抜けるのです。娘も初めは怖がっていましたし、多くの問題を抱えているであろうことは想像に難くないので、その光景がやがて消えゆくことは、自然の流れだと思うのですが、私はその刹那を孕んだ陽気な雰囲気が、ただ何となく好きでした。そして、清濁併せ呑むこの街の度量の大きさを感じたものです。
その青空カラオケが数年前についに立ち退きになったということは、当時ニュースで随分と騒がれたので、もちろん知っていました。ただ、その時分、既に娘は大きくなっていたので、動物園まで行く機会はなく、何となく心の中で、あの街はあの街のままだというような気でいたのです。時代と共に景色が変わるなんてことは、当たり前のことなのですが、昔見た景色をそれだけこの街に似つかわしく思っていたということなのでしょう。
孫を連れて久しぶりに訪れた動物園の周辺は、見上げれば高層のホテルが聳え立ち、見回せばお洒落なカフェが幾つも目に入る随分と小綺麗な街になっていました。家族が、恋人たちが、多国籍な観光客が、寛ぎ、伸びやかに時間を過ごす、そんな街へと変貌を遂げていました。とても素晴らしいことに違いありません。
なのにどうしてか、私は一抹の寂しさを感じてしまうのです。
車窓から差込む西陽を左頬に感じながら、ただぼんやりとそんなことを考えておりました。
そして、そんな物思いの先に、もっと昔のことが自然として思い出されました。娘や孫に動物園の思い出があるのと同様に、私にも私が少女だった頃の思い出があるのです。
動物園はずっと昔からあったそうです。大正時代には開園していたそうで、終戦の年には園内にも多くの焼夷弾が落とされたらしく、そういう大変な時代を乗り越えて、長く人々に親しまれてきた動物園ですから、当然、私も子供時代に何度も訪れたことがあるのです。
私の幼少期は、まさに戦後復興の真っ只中にありました。煙で真っ黒な空も、油の虹の浮かんだ川も、この街の誇りでした。日毎に発展していく日本の未来が明るいことを誰もが信じて疑わない、そんな時代でした。とは言え、終戦から十五年も経っていない頃ですから、子供の目でも戦争の残したものに気づく瞬間はいくらでもありました。近所の商店街では、よく義足の元兵隊さんが、アコーディオンを奏でていました。私もたまに、親から手渡された小銭を足下の空き缶に入れに行ったものです。
我が家の暮らしだって、決して贅沢を言えるような状況ではありませんでしたが、しかし、一度焦土となった街での暮らしですから、それは我が家に限ったことではなく、多くが少しずつ貧乏だったように思います。
娯楽だって今の人と比べたら、限られていました。ですから、動物園に遊びに行くなんてことは、当時の私からしたら、小躍りして然るべき一大イベントだったのです。
年の瀬のある日、私は両親に連れられて、動物園を訪れました。今となっては、もうはっきりとは覚えていませんが、後から両親の話を聞く限り、それから暫く、家ではずっとゾウさんの話ばかりをしていたそうで、それはそれは楽しい時間を過ごしたのだろうと思います。
そんな楽しい思い出はさっぱりと思い出せないのに、その日のことで、たった一つだけ、記憶に残っていることがあるのです。
それは、帰りの電車のことでした。私たち家族は今日と同じように、国鉄に乗って、家に向かっておりました。夕暮れ時の皆一斉に移動する頃合いでしたから、車内は混雑しており、私は右手を父に、左手を母に繋がれながら、扉の近くに立っていたのです。今では大人が子どもに席を替わることが少なくないかもしれませんが、その頃は子どもの方が立つのが当たり前でした。少なくとも、我が家はそうでした。
ですから「嬢ちゃん、ちぃとも動かんと、お行儀のええ、賢ぇ子やのう」と声をかけられた時、どうやら褒められたらしいということはわかったのですが、どうして褒められたのか、自分ではあまりピンと来ていませんでした。
見上げると、そこにはゴツゴツの大男が立っていて(少なくとも、当時の私にはそう見えました)、黄色い歯を見せて、私に笑いかけておりました。見た目からは幾つともわからない人でしたが、触ると痛そうな髭だなと思ったことは覚えています。そして、その男はこう続けました。
「そうじゃ。賢ぇ嬢ちゃんに、お年玉をやろう」そう言って、陽に焼けた手をポケットに突っ込み、中から出てきた五十円玉を私に差し出しました。
私はどうしたものかと、父を見上げました。もちろん知らない男から何かを貰うのが怖かったというのもあります。ですが、それよりも父がそれをどう思うかが気になったのです。父は予科練出身の、後もう少し戦争が長引いていたら戦地に送られていたであろうという元軍国少年でした。ですから、普段はとても厳しい人で、私は人様からお金を貰えば怒られるのではないかと、不安になったのです。
ところが、私と目の合った父は、ただ「節子、大事にもろうときなさい」とだけ言いました。
それで私は「おじちゃん、ありがとう」と言って、男の掌の五十円玉を拾い上げました。
それを見た男は顔をもっとくしゃくしゃにして、大変嬉しそうにしました。
そして彼は次の駅で、私に手を振って降りていきました。横で母が静かに頭を下げました。
この日の両親の姿が、私の頭から離れないのです。いえ、正確に言うと、年々次第に強く思い起こされるようになってきたのです。あの頃の私の頭の中は動物園のことでいっぱいだったはずです。五十円を貰ったことよりも、ゾウさんとの思い出の方が、遥かに心を占めていたに違いありません。ですが、少しずつ大人になって、この街の歴史を知り、親の心を解するようになり、人様の人生に思いを馳せることができるようになったとき、少しずつ、そしてより鮮明に、この日の出来事が思い出されるようになったのです。
陽が落ち、車窓の向こうが随分と暗くなってきました。それとともに、あちらこちらで明かりが灯り始め、この大都会に多くの人が生きていることを感じさせられました。明かりに照らされた一人一人に、それぞれの人生があるのです。
五十円玉のおじさんは、その後、どんな人生を歩んだのでしょうか。過ぎた年月を思うと、もう既に亡くなっているような気もします。ですが、きっと一生懸命に生きたはずです。アコーディオンの兵隊さんだってそうに違いありません。
私だってそうです。二人と比べればありきたりな人生かもしれませんが、私なりに努力をして生きてきました。教科書に私の名が載ることなどないでしょうが、私だってこの街の歴史を作ってきた人間の一人だと言っても差し支えがない気がするのです。昭和の大行事、万博にだって参加しました。数多の来場者の一人に過ぎなくとも、私は確かにあそこにいたのです。
この街の景色はおそらく、そうした私たちのような人間が寄り集まって作り上げてきたものなのです。
途方もない数の人生が少しずつ積み重なってこの街の姿を成している。そう思うと、そんな清濁併せ呑むこの街が愛おしくてならないのです。
たそがれラプソディー
人から聞いた話に色をつけ、小説としました。
色はつけても、本質はブレないように、と思いながら書きました。
上手い下手はともかく、こういう話を大切に書ける人間でありたいと思います。