沈める黒死舘
生田耕作、澁澤龍彦、齋藤磯雄等が紹介したような、フランス発禁小説へのオマージュ。
1 線路と死貌 ──エドガア・ポオ風の物語──
わたしは幼少の頃より、冷然硬質な孤独をかかえこんでいた。
それ故に冷たく硬い水晶、重たく被さった蒼穹の瞼、夜空に燦々と照る死者を反映した星々、わたしに冷酷な美しい少女たちを偏愛していたのだが、殊に愛していたのは「死」という観念であって、それはまさに玲瓏な水晶さながらと想われた、青みがかって透き徹ったそれの曳く蠱惑めいた翳に、頬を擦りつけたいほどに焦がれていたのだった。わたしは「幸福の王子」のツバメのように死んでみたかった。「ナイチンゲールと赤いばら」の小鳥のように身を投げてみたかった。然し、わたしにはオスカア・ワイルドの寓話の如き硬き死なぞは実現できまいという、うじうじとした自分への信頼のなさによって陰鬱な気持にもなり、自分は醜くしぶとく何もできやしない生を全うするであろうと何故かしら信じ込んでいたのだった。こんな意識はわたしの劣等感の種となったのだけれども、劣等感というのはともすれば執着であるからして、その影響もあり日常の風景の様々に死の反芻風景を刹那せつな感覚するようになったのもこの頃であり、むろんこんな感受性は独りぼっちで淋しがりやのわたしを更に孤独にしたようである。
たとえば花々の散るのはわたしには豪奢なる血飛沫に金が鏤められているかのようであり、夕陽は海という死の核に半ば沈み込む溺死の最中の風景であって海と空にべったりと垂れる橙は荘厳にして古く褪せた血を撒き散らしているようにもみえた。中学に入って三島由紀夫の小説を読みかれが同様の比喩をつかっていることに驚いた記憶があるけれども、わたしはこれに無根拠な自信をえたことすらある。
殊にわたしが死のオマージュを感受したのは線路上に走る列車の過ぎ去る風景であり、列車が眼前を奔り抜けた刹那わたしはいまわたしの死の可能性が去って了ったというような感慨をえていた、毎度毎度列車が通りすぎる瞬間にわが身を突き落としていたのだから、そんな想像をするのも無理はないだろう。こういった人身事故なる名称の出来事は度々起こり、多くのひとびとは「またか」というような多すぎるといいたげな感想を漏らすのをよく聞くけれども、わたしには何故たいていの人間が線路へ身投しないのかむしろふしぎに想うのである。毎日数百人が身投したとしても、わたしにはそんなものだとしか想えない。
神経の問題だと推定されるが、わたしはだんだんと線路のうえに染みのような死体を幻視するようになった、それははじめ犬のような形状をしていて、小学生で初めて詩作に挑戦した時道路で横臥す野良犬の死骸への羨望・憧憬を歌ったのだけれども、従ってわたしのなかで何かしらの原因があり無惨な死と犬が結びついていると推定されるであろう、然し、何らかの段階を経てその染みは人間の貌へと変容し、誰かに似ている気がするがいまいち身元不明な三十かもう少し下くらいの男の顔になったのだ。
それは引き攣り惨たらしくやつれている断末魔に際した顔付であり、或いはその表情で固まった死貌である。幾分己に閉ざされたように内省的な印象の目元は有しているようであるが眼付じたいは荒廃したように乾いた暗みが籠り、口許は恐怖に叫んでいるようにぐわと拡がっていて、全体が絵の具を引掻いてズタと破いたように下方へ肉を曳き垂らしていた。いわばフランシス・ベイコンの絵画に酷似した描写であるがそれに気付いたのはその十年も経ったのち、前述した三島が書いていたように幼少期というのは後年かれを執着させるモティーフが既に名称不明なメニューとして悉くが開示されており、後々になって名前が解って往くというのが往々にしてあるのかもしれない。それにしても名前が解って往くというのは不幸なことであり、もし詩なんぞをやりたいのなら、子供は社会的人間らしくなった後それを剥ぎ落して堕落し詩人へもどるのだというような経緯があるようにも想われる。が、わたしはどうも自分も社会的人間らしくなったという感覚をえた試しがなく、これをだってわたしの淋しさの原因の一つであるように想う。
*
わたしは十七歳で酷く神経を壊したのだが、その瘦せ衰えた腹に黒い染みができているのを発見したのだった。それは始め小さくささやかなものにすぎなかったので気にはしなかったけれども、ようようのっぺりと脚を伸ばし四方へ脹れるように、恰も浸食して往くように拡がり遂には腹全体を黒々と蟠るようになった、わたしはこれがコンプレックスで体育をすべて休みもうと企みはじめ、全部は達成できなかったが当然体育教師達から不信を向けられた、己の醜さを信じるが故に少女たちと碌にお話もできないようになり、他様々のわけもあって高校を中退した。
染みはまるでわたし自身の陰鬱・異常性・暗みを腹に集中して籠らせているようであり、その腹が汗をかく姿は泥々と内より染みる魂の悪臭が垂れ流されているような、世にも気味わるいものとしてわたしの眼に映った。わたしが切腹に憧れを感じるようになったのはこの頃だが、然し未だエロスと結びつかなかったそれはわが醜さ・暗さへの罰と制裁に過ぎなかったのだった。わたしはわたしの内臓の蠢きを怖れきらっていて、所有者の死にたい気持を尻目にかってに生きようとする腸はらわたに代表される肉体のうごきが気持わるくて気持ちわるくて仕方がなく、そこに染みがべったりと内から染みているのが何かを暗示しているようで頗る不快、いまにも腹を引き裂いてぐしゃぐしゃに内部を掻きまわしたいという欲望をもつようになったのだった。然し臆病で人一倍痛みによわいわたしにそんなことできやしない。わたしは唯々腹と腹の裡に隠れる自己を憎しみ、他者に隠そうと四苦八苦ときに赤面或いは逆上、然るに心の何処かでは、その領域を愛していたようにすら想われる。
曰く切腹の意欲というのは確かに自罰と自己嫌悪があるようで、それがないとあんな異常な自罰行為できるようにも想えない。武家を誇る家系の長男であるわたしは武士道教育の残滓のような教育を受けたために、ありのままの「我」への否定的な感情が腹を切らせうるというのはある程度は解るつもりだ、しかし切腹という行為にはなにか大切な大切な自尊心をわが手で撫でる行為にも似た幼児じみた愛着乃至オナニズムをわたしなんぞは感じて了う。腹を切り命を棄てることで誇りなるものを守護し先人と連なる空へ翔ばそうという意欲があるのかもしれないが、そんな観念的な想念は妄念そのもののように当時想っていた。
染みはようよう拡がりある時を境に面積を大きくするのが止まり、やや安堵したが今度は精細な陰翳のようなものを形づくるようになった、まさしく魂を驚嘆と戦慄にぞっと揺り動かすことであるが、果ては以前線路で幻視していたかの恐怖に引き攣り口をひらく男の顔に酷似してきたのである。わたしはそれをみとめた刹那断末魔さながらの叫びをあげつづけ壁中を殴りつけ叩き割り、ベッドで息絶え絶えに身悶えし幾たびも獣の声で吠え、衝動的に自殺して了おうとし睡眠薬を大量に飲んでぐったりと横たわったがやがて吐瀉物まみれで発見されて救急車に乗せられ胃の洗浄、そして閉鎖病棟へと搬送され硬質な音立てて鍵をかけられた。
*
わたしには精神的な疾患よりもよっぽど腹の染みのほうを気にかかっていたから、医師に幾度もいくども腹の染みを消したいと相談したが、「メラニンの過剰分泌でしょう」というばかり、全体をみせれば息をのんでさっと目を背けたくせして、「まあ、今時オカルトなんて科学に全否定されてますから。顔にみえるのもたまたまでしょう」といった。わたしは腹が立ったがその際に腹の染みがうにょうにょと波うつのを見、死が戯れにニヤニヤしながらその不気味さを見せつけているよう、余りの気持悪さにはや泣きそうな心情であった。
わたしは二十一歳だった。青春らしいものを殆ど経験しておらず、二回恋人はできたが腹の染みをみせたくないためにセックスを拒みつづけていた。それが原因ではなくおそらくやわたしの性格・思想の問題なのだろう、恋人とは四か月もつづいたことがなかった。わたしはみずからが拒んでいるのも亦原因の一つにも関わらず童貞であることを人一倍コンプレックスに想っていて、もし腹と腹の内が綺麗になればどんなに素敵な恋人ができて、たとえ自己開示してもわたしそのものをすべてそのままで愛してくれて、幸福と愛に裏づけられた映画のように素敵なセックスができるだろうという妄想に耽っていた。恋愛観において、幾分潔癖なところが当時あったように想う。
自殺未遂から蘇って以来、わたしは死をみすえて生きることにした、これは本のなかに書かれてあることを信じるならば一種殊勝な態度である筈であった。わたしは背に「雪の衣装」を背負うのだという観念的なことをかんがえはじめ、それはエミリ・ディキンソンの”snow costume”から拝借したのだけれども、ゆったりとした白いシャツをこのんで羽織るようになり、しかし腹の染みが透けるのが怖くてこわくて仕方がないのでインナーに黒いカットソーを着込んだ。わたしにはまっしろにして清楚な静謐な死とわたしのくろぐろとしたグロテスクが脂の漏れたような染みの死貌の矛盾にはらわたが挟まれているのが如何にも後ろめたく、そうであるのにひとと話していて「好青年だね」「爽やかだね」という褒め言葉を受けるためその言葉に暴言よりも傷ついていた。殊にわたしを傷つけたのは「優しいね」という言葉であって、聴いた瞬間この醜い腹をびらびら傷口さながらに見せてやろうというような激情に駆られるのが常であった。
然り。少年期殆ど独りぼっちだったわたしは十五歳くらいで社会に適合する為形式的なコミュニケーションを独学し、二十くらいで漸く恰もふつうの人間らしく振舞えるようになったのだが、自意識の内部では「人間のコスプレ」をしているというような思春期めいた意識が離れず、一見会話はできると想うがわたしの内心では違和感亦違和感、何故こういう状況でこういうと会話がスムーズに進むのだろうと解らないままに頭に知識として叩き込んだコミュニケーションの定石を臨機応変に駆使し、先刻と近未来の会話の流れを理論的に推理しその場に最適な言葉を呈する、そんなやり方はその場その場で与える印象は悪くない程度の評価をわたしに与えるのであるがそれが頗る後ろめたい、やはりというべきか、殆どの人間はやがてわたしから離れてゆくのであるがわたしにはそれが息がくるしくなるほどに切ない反面、心の一領域ではもうあんな苦しい想いをして話さなくていい、グロテスクの露呈への恐怖を感じなくていいと安堵をするのである。腹の内をみせられないという慣用句があるがわたしの場合まさに腹をみせたくない、然し距離が近づくとわたしがイヤな暗みを抱えた人間であることが露呈して往くのでたいていのひとは縁を切る、いわゆる根が病んでいる人間であるのがわたしであるのかもしれず、それはこの文章でも間接的に伝わりえるかもしれない。
*
わたしは二十九になり、三年勤めた会社を辞めた。以前の職場も四年で辞めていた。今回の辞職は、女性社会特有の雰囲気のなかで人間のふり、気遣いできるふりをするのに疲弊したというのが当時の一身上の都合というかみずからへの言訳であったが、ほんとうに、人間の集団性というのがわたしには辛いのだと想う。会社に籍を置いていた頃一度また入院したが退院して暫くすれば帰り路いまにも線路に飛び降りそうになる日々に戻って、命の為にも一か月くらいはゆっくり休もうと想ったりもしたのだ。両親は各々優しいところがあるのでかれ等もそのほうがいいと賛成してくれ、わたしは無職生活をしてみたがそれはそれで辛いという贅沢さ、つまりは淋しいのだ、胸が張り裂けそうなくらいに。わたしはさらに顔付がやつれ眼元は荒んでどんよりと目は据わり、働いていない期間の予定は一か月のつもりが二か月亦三か月と引き延ばされた、体調がよくなれば就職活動を始めるつもりだったが調子も情緒不安定もどんどん悪くなっていった。
然し良いこともあって腹の染みはだんだんに薄くなり、ほとんど見えなくなってきたのである、唯大口の部分が薄い灰色に残ったのみであったのだ。まだひとに見せられるレベルであり、やはり社会不適合なわたしが社会で無理をして適合しようとするからストレスにより染みができたのだろうが、家で休んだことでそれが緩和され、リラックスできているために染みがなくなったのだというような果して医学的なのかオカルト的なのか、てんで判らぬ奇妙な考えで自分を納得させていた、むりにも納得させないと、こんなオカルトめいた現象の不可解を不可解のままでみつめることが怖かったのである。然しわたしは働いていた時のほうがまだ平常な情緒であったのは確かであり、こいつどこまでもおかしな解釈である。
わたしは病み衰え食事も喉を通らず、とげとげとささくれだったような情緒は自己を破壊してやりたい気持でいっぱいにさせ、躰が重たくベッドから出られずトイレもペットボトルにする時期も頻繁、と想えば時々ではあるが妙なほどに元気いっぱい、異様な笑顔で死のう死のうと独りでぶつぶつ呟いたり、正気ではなかった。栄養不足が大きな原因だろう、本来美容好きであったわたしの髪と肌ははらはらと崩壊するようにくずれ汚くなって往った、それをはじめ憂いていたがやがてどうでもよくなり、死ばかりを想い泣き臥すのが数週間つづくようになった、その際わたしは墜落直前の特攻隊さながらに「お母さん、お母さん」と小声で連呼していた。わたしはマザコンであるかもしれないけれども、死に際に「お母さん」と呼ぶのは母のいる青年ならよくあることではないだろうか。わたしが自殺しなかったのはまさに母を悲しませないためであって、こう想わせてくれる母親をもったのは幸福なことである。そうであるのにわたしはみずからが幸福であると一切合切想えず、それに後ろめたさばかり想い、こんなにも生きるのが巧くいかず社会参加すら脱落ばかりの人生が申し訳なくて、病的な情緒で迷惑ばかりかけていることで自責亦自責、これこそ非常に神経によろしくない自卑の念と自己否定であったが、もはやわたしはそういった想念に完全に支配されていたようだ。
わたしは悪い仲間に入った。いわゆる暴走族の連中であって、皆子供の頃から衣食住が満たされていたら絶対にならないであろう荒んだ顔付をしていて痛ましかった。全員に不良になった事情があり、然しわたしは事情があるからかれ等の所業が許されるのか否か判断がつかなかったし、わたしはわたし自身を全くもって許してなぞいなかった。わたしは自分を赦したことなんか一瞬だって記憶にない。わたしのいない空間に魂を漂わせるのが唯一の安息であって、わたしの憩いのオアシスは空に浮ぶわが墓のみであった。
そのグループは全員が十代であったのでわたしは十近く年上であったが、俺は不幸だという意識がわたしたちを結びつけたのだろうか、数少ない嘗ての友人とは全員連絡がとれなくなり、最早わたしを受け容れてくれるのはかれ等だけだと信じ込んでいたので、わたしは愉しくもないのに看板を打ち壊す行為を愉しんでいるふりをし、全くもって面白いと想えないジョークに腹を膨らませゲラゲラと笑い、殴りたいという欲望が全くない中で一度敵対グループの相手をボコボコに殴りつけた、ある種会社や学校と心理的にはそう変わりはなかった。殴りとばしている間わたしには冷然に鼓動する心臓くらいしか描写するものはなく、わたしは少年期映画や小説ですぐ同情に涙を流すところだけが自分の好きなところであったのだが、それは条件次第で消え失せるということを識り尽くした。戦争映画で人殺しをして往く裡に狂暴に狂っていく人間のかなしさを追体験した。わたしはもはや更に人間でなくなった、人間の条件を一つだって満たしてやしない。わたしはわが肉体と魂ががらんどうにスポンと抜けて死の噴く吐息が轟々と吹き抜けるような乾き切った心情であって、何がなんであろうとどうでもいいのだというような虚無の呻き声だけが、わたしから発せられる臭い息であった。
*
いつもの通り盗んだバイクに飛び乗ったがきょうは仲間との会合はない、唯破れかぶれな暴走がしたかっただけであり、わたしはなるべくひとを轢かないよう山道を選んだのだが、その時も「お母さん」と幾度もいくども呟きいまにも泣きくずれそうな切なさであった。わたしは母親を喜ばせるために母の勧めた「九州大学医学部」をめざしていたことを久々に想いだし、運動部の体質に幾ら合わせようとしても矯正されなかったわたしの不適合性、不整列性や、進学校の特進クラス特有の妙な選民意識のひしめく在るだけで叫びだしたくなるような疎外感、それを想起したがそれ等を乗り越え母の希望通り医者になっていれば、そうすれば母と良好な関係を築け仲睦まじく暮らせ淋しい気持もいまよりなかったろうと妄想し、現状の現実を視、はや自己をズタズタに傷つけ滅ぼしてやりたいというような激情に苛まれた。
バイクを急発進させた。むろん無免許であり情緒は不安定の極、亦どぎつく劇しく炎ゆるような情動であったから色々なところにぶつかりそうになったが寸前で回転し事なきをえるのを繰り返す、然しいつ事故を起こすかわからない危険な運転に変わりはない。「死ぬのは俺だけにせねば」と暴走はひとけのないタイミングでするという妙な道徳が屑の形骸のように残っている自己を「貴様の本心にそんな優しさはないだろう」と嗤い眺める、確実にやっていることは殺人寸前といっても誤りにはならない、泣きじゃくり泣きじゃくりしてもはやどうしようもなく、涙で視界はぼやける。救われることすら望めず、どこかで拒みすらし、絶望に躰をうずめるしかうごき方をみいだせぬ、自画像に失望しズタズタにナイフを突き立て切り裂くような毎日、わたしにはわたしが何を求めているかも解りえず、自棄になっていたのだ。
やがて山道に入るとむっと臭気を放つ風が立った、黒々とした砂のような、然し臭いからして自然界の砂でなく明らかに有害な化学物質のような無数の粒が顔に吹きかかる、なにか山で事件が起こっていたと想像されるがわたしにはそれを知ることはできない、何故といい視界を覆われたわたしはそのままにゴミ溜めに棄てられ横向きに寄っかかっていた硬き鉄の突起に、腹と背をグサと一気に貫かれたのだから。わたしはその時識った、黒き死と白き死は貫かれ徹ることで矛盾なぞ霧消して、一途に真直ぐとした線を曳きえるということを。そういうものでしかなかった、わたしは死の間際にわが想念に失望した。
わたしは腹を貫かれガンと鉄の塊に頭を打ち付けた、頭蓋骨の砕ける音、意識を喪うまでに数秒かかり鉄の面を眺めるより他なかったが、わたしには死ぬ瞬間よりも何よりもその時間が怖ろしかった。
というのは鉄の塊に鏡のように映る苦痛に歪む顔付、顔中からダラダラと垂れるドス黒い砂の交じる黒々とした血潮、断末魔の絶叫に大口をあけ真黒で虫歯により夥しく欠けた歯を剥き出しにするわたしの顔は、まさしく線路上で幻視した死貌の翳であったから、亦腹に染みとし蟠り一度は消えたと想っていた男の顔そのものであったから。いわばわたしは、閉ざされて凶暴な筆致のままにドローイングしつづけた自画像に遂に重層一致し、ズタと轢き殺されたのだった。
2 無垢と信頼
とつぜん襤褸のライダースを羽織るつかれた鴉さながらの男が飛来して、箴言めく希みを憂いげに呻くのも無精な書出しであるけれども、ぼく、愛すると信じるは、どうか同義語シノニムであれとかんがえている者である。
というよりもこの言説、ぼくは泣きながら抱きすくめているとみなしてもらっても好いくらい。いわばそう信じたい、つまりは愛したいのだ。ぼくはこの積年の宿願、そして青春の嵐のようないたみが乱雑に仕舞い込まれた信念めく悲願をすら、ほんとうには信じていないのかもしれない、いわく虚数、そんなものなのかもしれない。しかし虚数はある、たしかにあるのだ。そいつ、たしかに実在としては睡っている、されど不在として、めくるめく光と音楽で以て、われらが魂こころの裡にめざめている筈なのである。
ほんとうにたいせつなことは目にみえない、こんなにも無垢イノセンスな言葉を泣きながら抱くようにして信じつづけ、はや、三十を目前としているのがこのぼくだ。
ともすれば軽蔑をされるようなこと、敢えていってみせようか──ぼくは、人間の深いこころの領域を、全的に信頼したいのである。愛し、跪き、そが可憐と卑俗に宿る美に、熱い涙をながしていたいのがぼくなのである。然り、まるで性善説。あたかも人間の無垢なこころ、信頼にあたいすると。しかし、そうであってほしい、どうかそうであってほしいのだ。どこまでも希いにすぎぬそれ、然り、ぼくは愛と信仰に憧れる、ひとを愛してもみたいと独り唸ってもいる、破れかぶれのニヒリストにすぎないのだった。
我、はや二十八。我と友になりし者、わが齢と比すべくんば、あまりに若し。
ぼくはこの俗悪美キッチュをねらう文体に苦心したささやかな小説で、ひとのこころの無垢なる領域の深みへどうか侵入せんとつとめ、なべての人間に睡るかの淡く幽かな光を呼応し照らし合せ、あわよくば、きみと友になろうという下心をもっている、淋しい詩を書くひとである。
*
かのアルチュール・ランボオは、斯く歌ったのだった(青津拙訳)。
嗚 季節往き、城かがよう、
無疵な魂が何処にある?
無垢の美を信じすぎる少年少女たちよ、オトナからの忠告だ。
無疵な魂なぞあるまい。瑕を負いつづけても純潔を守護せんと不可視の闘いをしつづける、魂の視線の注意ぶかい透明さがあるのみだ。無垢とは、むしろ瑕だらけの美のことである。
ぼく、眸が透き徹ったひとが好きである。清楚、とは、とてもいえまい。これにはなにか優美な、しかもやわらかにととのった乙女の薫りがする。いわば、佳い香水の曳くもの。清楚なる言葉には、なにか、はや所帯じみた勘定を感じられるのだ、いわば、人工の白光にあてられたそれ。そんな美を疑うものではぼくないけれども、そいつ、演技的なそれであって、はや浄らかなそれではあるまい。
賢く貞操を守るより、はやばやと劇しい愛の焔に肉体の純潔を投げこみ、滅茶苦茶にいのちを迸らせた生活をするほうが、人間はどんなに純粋であるだろうか。純粋無垢なものは、いつも不合理に、奇々怪々にうごくものだ。
然り。ほんとうに清らかで楚々たるひとはくるしいものだ、切ないものだ。真紅の花と鮮血の薫り、どぎつくも音楽と立ち昇るものだ。雪山さながら険しい貌をしているものだ。かれ等ふだん、死に際の鶴の如く哀れげできゃしゃな雰囲気であるかもしれない、しかし、ふっとうすかわを脱ぎひそやかな静謐な佇まいを身にあらわせば、泣きじゃくって抱き着きたくもさせるような、淋しいほどに澄みきった眸を青薔薇と剥きあらわすよう。
切ないことであるが、秩序に染まりたくても染まれない人間が、この世にはたしかにいるようである。べつの提案をするほかはあるまい。うす汚れ瑕だらけの硝子から、ほうっと光ためいきするような美。打ち棄てられても抱くよりほかのない、ささやかにして惨めきわまる善。我向かわん、美と善の落す翳のかさなる処。其処に陰翳されしは、もしや青みがかる彫刻、愛の様式か? 真に清楚な人間、どうしても報われづらいもので、若し社会的そしてプライドの意味でこころから報われて了えば、そが美はや霧消して了うようにもうたがわれる。
そんなら報われないからこそいいのだ、僕の詩は読まれないからこそある種純粋なのだ、と、せいいっぱい意気込んでみたところで、淋しいこころ、冷たい風となって神経きんと打ち据えるのみ。
ふたたび、注釈をしながら、おなじことを謳おう。
眸が澄みきり、硝子質のあやうさが碓氷さながらはりつめている、虚空の群青を照らしてさえいる淋しいひとが、ぼくは好きだ。
嘗て、そんなうら若き年少の友がいたのである。
かれ、名を雪彦といった。こいつ仮名ではない。さながら吹雪舞うましろの情景で斃れる悲劇さえ兆すような、古風にして少年らしい名、字面の彫刻にましろの無垢が隅々まで陰翳されているような、エリック・サティのそれの如き幽玄で果敢なげな音楽、それが名付のせつなから夭折をかぜと煽るような、そんな名を所有していたのだった。
「きみは二十歳にはなれなさそうだね、」
デリカシーの不在したぼく、そうかれにいうと、
「そんなことないよ。俺みたいにずぶとい人間こそ生き抜いて、老醜をさらすにちがいないよ」
「そんな華奢な線でよくいえるね」
「体型を揶揄するのはやめてよ。気にしてるんだ」
「ちがうよ。きみの歌の話だよ」
そう小馬鹿にした態度をとりながら、かれの石膏さながらのざらついた蒼白の頬、その内から毀れるようにあやうい翳うつろわすひかり、銀の月照らしすべてを拒むようなきんと硝子質の眸、そんな硬質で冷たい印象に反して、無防備に若葉をさらすように豊かな黒髪かみの陶然とさせるやわっこい艶に、なにか憐憫めく不潔な同情に操縦され、涙、ふるふるとあふれてきたのだった。ぼくはそれを手で隠したが、ちらと一瞥を投げてみとったかれの貌に沈みはじめた憂いが、その身振、意味のないものであったことを説明したのだった。
かれは、二十歳にはなれないであろう。
同情の涙。ぼくはそれをしてはならぬと当時かんがえていた、たしかに、かんがえてはいたのだ。しかし、どうやらぼく、かれを好きになりすぎていたようだった。
*
ぼく等ふたりで、近所の薔薇園をしばしば散歩したのだった。
ぼくはいまでもかの風景画を想起しえるのだ、あまりに豊かにすぎる美に耐えかね毀れ落ちるような薔薇の花々、木々の翳り等にわだかまるどこか鬱屈とした暗みを帯びた庭園全体の雰囲気、土や落葉のモチーフに陰翳された細部には、夏の夜の豪奢の如き死と腐爛がよどみ籠っているようで、それ等たしかに、頽廃デカダンス絵画と呼ぶに相応しいものなのだった。はらはらと巨きなゆびさきに摘み棄てられるようにして無為にこぼれる、豪奢なる、紅い花弁めいた滅びの連続。巨大なものに摘み棄てられたい、手折られてもみたいという、在りし日のぼくの悲願。デカダンスとグラマラス、どうやら、永遠の友であるらしい。
そんな豊かにすぎる滅亡のくろぐろと淀んだ紅いろの風景を、その日もぼく、ましろのアネモネさながらのきゃしゃな少年とならび、死の兆の翳曳きながら往きすぎていたのだった。
其処にはいつも、無数の蜘蛛の巣が張りつめられていたのだった、ぼく等それを、疎んじたりはしなかった。
「詩を書いているぼくたちはね、」
と、年下の友につぶやく。
「この蜘蛛とおなじことをしているんだ。たといきらわれても、秩序の隅に追いやられても、まあ、ぼくのようにドロップアウトしてしまっても、いや、きみにも高校を中退することをすすめるわけではないけれど、日陰者としてひたむきにわが領域を紡いで、唯背後から天のしろい光が射すことを俟ちつづけているんだ。いつやしろい涙の光が降ってきて、ぼく等の歌を壮麗に照らし、そうして、魂を一途に淪落させることができるかもしれない。あるいはできないかもしれない」
かれは暫く黙ってぼくの話を聴いていた。
「…俺はね、」
と雪彦、すこし経ってから、かわいたしろい砂のような声でいう、石膏の頬から毀れおちるような、さらさらとまっしろな声でいう。
「夜にひとり此処を散歩していた時、視たことがあるんだ。
靄のような暗闇につつまれて、人工の爛れたオレンジの街灯に背後から射され、ぞっと蠱惑めいたデカダンな様相を呈している、まるで死に誘うかのような印象を示す、ふるい蜘蛛の巣の姿を。ねえ亮くん、あれはみてはいけないものだね、ほつれて古色蒼然な國が、ちりちりと燃ゆるように頽廃の火を反映して、まるで人工楽園のようだったね。
かっと閃くように芸術の絶頂をかがやかせたのち、そが儘に蜘蛛は堕ちて了ったんだろうね。なぜって主人、既に不在だったんだから」
「どちらの光が射すか、ぼく等にはえらぶことはできるのだろうか」
「そりゃ、神さまの國に往こうとして、きづくと悪魔の國にわが身在り、其処から脱獄すらできなくなることだってあるさ。何故って其処、地獄の風景が張りつめているんだから」
「そうだね、地獄には地獄固有の美があるね」
「俺のいる処は地獄なのだろうか」
「一面的な話にすぎないけれど、」
とぼくは前置して、
「ランボオいわく、きみが地獄だと想うのなら、地獄だよ」
かれの傲然なものいい、衒うようなことばづかい、それ等とそのかよわき神経的な美貌とのミスマッチが、むしろうら若き年齢のある種のひとにしかない色香を散らせるようなのだった。雪彦はしろいシャツやセーターがよく似合ったけれども、それはたしかに楚々たる夭折を連想させたのだけれども、ぼくの趣味をいわせていただくならば、なにかギャップを狙い、黒いライダースを着せたくなる雰囲気があったのだった。
いかついダブルライダースが似合うのは、むしろ、死際の鶴のように果敢なげなひとなのだ。シド・ヴィシャス。かれは無意味に美しく、不合理に愛らしいひとであった。
*
無個性な音楽のような、詩を書きたい。
いわば自己省察、わが肉掻き分けて、逐一凝視しあかるめて、内奥に睡る水晶の落す淋しいひかり、在るかも判らぬ、ぼく等全人類にひとしくあるこころの匿名の領域にまで潜り──血まみれの掌に、ぼくまるで自己陶酔──ぼくはぜったいてきに孤独だが、そいつなべてのひととおなじそれであり、ひとは不連続の淋しさによりひとしきひかりで連続しえるのだと、実感をしてみたいのだった。こいつ「存在の一義性」なる概念と関連するのか否か、ぼくにはまだ解らないのだけれども。
それできるもの、やはり音楽であるように想うのだ。ぼくは音楽という表現方法に嫉妬をする。はや古風にすぎるものとなった表現形式をもつ、象徴詩という芸術。ほんらい言葉であらわせないポエジーを、そうであるこそ言葉の箱にむりじいに容れ、靄さながらの曖昧性とともにそれ浮びあがらせるという矛盾の表現、それになにか、ぼく不信感さえもっているのだった。そう。ぼくは文学を愛せていない、つまりは、どうにも信じられないのだ。嗚バッハ。近代化以前の宗教芸術には、古代の詠み人しらずの歌にも似た、いわく無個性、だれにだって睡るような、しかしだれにだって書くのがむずかしい、匿名の美なるものを呈しているよう。ぼくは其処まで、墜落したい。
ぼく、こんなうねりうねったきれぎれの文体に、はや後ろめたささえあるのだけれども、しかしいつや、素朴で単純な線にドローイングされ、官能のそれよりさらに深い領域をやさしくたたくように純朴な音楽ひびかせるような、されど天降らすしろいひかり反映する、単調な陰翳を有す壮麗な詩を書いてみたいのだった。ボオドレールはたしかにぼくの愛する詩人であるけれども、かれ、歪み捻じ曲がった魂のみせた地獄の風景の美、それこそが芸術であるという誤解を与えたようにも想う。
総括し、反駁しよう。歪んでなくったって、アートはできる。
そして雪彦の書いた詩、かれ地獄に在ったにもかかわらず──いやもしや、それを介したからこそ──どことなしに、そんな無個性な雰囲気をたたえていたのだった、ひとはそれを「個性がない」だったり、「あまりに語彙がすくない」、そんな言葉を投げたのだけれども、まさにそれこそがぼくがかれの詩を愛するゆえんであって、しかし、たしかに読者を惹きつける才能というもの、欠けていたのかもしれぬ。対話相手へ与える印象効果、それを意識するには、かれ余りに不器用にすぎた。かれ結局報われずに、十七でみずから命を絶ったのだから。芸術家として報われないから死んだのではない、それは識っているけれども、ぼくはかれに、どうか生きていてほしかった。生きていてほしかった。
*
無垢。
そうであった。嗚、そうであったようだ。
「ねえ、亮くん。俺はね、ひとの悪意が怖い。視えない悪意が怖い」
「ぼくはそれを克服できず、二十六まで生きてしまった。大丈夫だよ」
「亮くんが二十六まで生き抜けたのは、なんの「大丈夫」の保障にもならないよ」
かれ、こんなデリカシーに欠けた発言ばかり、しかし淋しくなるほどに悪意が欠けていて、正直と素直が世間で美徳とされていることに、ぼくは欺瞞を感じる。社会で立派なひとは、ほどよく嘘つきだ。バランスのいい、善い人間不信だ。それでいいのだ、しかし、どうしてもそうはなれないひとがいるのだ。
「亮くん、俺はね、詩を書いてはいるけれど、報われたくないんだ。社会に評価されたくないんだ。自分がえらい詩人なんだって想いたくないんだ。エミリ・ディキンソンのように死にたい」
「どうして?」
「報われている芸術家の自尊心は不潔だからだ、たかが作品が認められたからって自分自身がえらいんだって想ってるプライドが、キライでキライでたまらないからだ。そうならない高潔な詩人だっているさ。ヘルマン・ヘッセなんかそんな気がする。でもね、俺のような劣等感の塊は、ちょっと雑誌にでも載ればそう想うに決まってるんだ。他人の評価だって不潔だ、周りが評価するから、自分にも見識があるって思われたいという虚栄心で評価してるに過ぎないんだ。ああ、俺だってそうなんだよ。ゴミ箱に誰も知らない中也の詩をみつけたとして、俺がそれに感動しえるかは判らないんだ」
「ああ、そういう風に考える時期が多くの人間にあるよ。自尊心と他者の評価、あとは虚栄心みたいなものを、信じられないんだ」
「俺はそういう風にしか考えられない。自尊心は不潔だ、自尊心がズタズタになってでも、だれからも評価されなくても、如何なる虚栄心が満たされなくても書く、俺はそんな芸術家でありたいし、それでも書きたいものしか書きたくないんだ」
「ねえ、君、それだって虚栄心ではないのか」
「え?」
「ひとに評価されないからえらいという、裏返しの虚栄心だ。ひとに評価されないものを評価されなくても書くから価値があるという価値を信じている虚栄心だ。ひとと比較した自尊心がズタズタに壊れているからひとよりもえらいという虚栄心だ。虚栄心なんてものはね、もってないと生きていけないと思うよ。自己を全否定した人間は、生きていく意欲も拠り所も失いんだ。果てはきっと自殺だよ。
君は無垢だ。きっと。ひとに評価されなくても、自尊心がズタズタでも、それでも残る人間の価値というのを、人間性の光というものを、信じているんだ。それは素敵なことだよ。ぼくだってそいつを信じてもいるよ。けれどもその人間の性に、きっと虚栄心っていうのは引き剥がせないんだと、いまだに考える」
ぼくはかれを傷つけた、ぼくはその痛みを想像し背を折り曲げるような心地でありながら、心のどこかでそれを愉しんでいるような気がした。ぼくは自分へ復讐するような気持だったのかもしれない。わが残酷さ。なによりぼくは、かれの気持の殆どが解るような気がするのだ。
「虚栄心を強化すればいい、育めばいい。僕はこう考えているよ、「犬死したいという虚栄心」を追究しよう、と」
茫然とした眸をしていた。はきちがえていた。はきちがえていたのだ。雪彦は、ぼくが考えていたよりももっと、脆かったのだった。或いは、すこしの批判でくずおれるような状態にまで追いつめられていたのだ。それに、注意ぶかく思慮を重ねて伝えなければいけなかったのだ。何故ってぼくの考えだって正しいのかも判らない、哲学をやっているわけでもない、ああ哲学をやっていたって、苦しんでいるひとにアドバイスするのは難しいことだろう。
「俺はなにを信じているんだろう?」
と雪彦はいった。薔薇が、代わりに殉じるような身振りで、頭を頸から切りはなし、それ、血の残像を曳きながらはらはらと地へ墜ちて往った。
「おそらく、」
とぼくはいった。
「性善説。その信頼が疵を負って、その信仰が揺らいで、苦しんでいる」
ぼくは激情に従いかれを抱き締める、しなやかな折紙のようなうすい躰を。まるで抱きごたえのない、生気を失った霞のような心を。
「死なないで。死なないで雪彦。君が信じているものをね、君が信じたいもの、愛したいものをね、屹度雪彦は信じていい、愛していいに決まっているんだ。何故って人性へのあたたかい眼差しがあるじゃないか。人間を信じようとして瑕を負いながらうごく君は可憐だよ、美しい、だから君はその自分自身をどうか肯定するんだ。
君は君でいていいんだ。自分が信じ愛するものを人生を掛けて立証するために、君が闘いたい闘いを闘いつづけてもいい。純愛。ないとは、いいきれない。ぼくはそう想う」
「僕は、」
雪彦は無理をして「俺」という一人称をつかっていたのだろう、それは環境が要求した粗野なポーズともいうべくものであるが、それをだってかれなりの格闘であったことだろう。粗野なふりをし、わが身に激痛を与える感じたものを感じていないふりをし、笑いたくないものを笑ったことだってあるのかもしれない。そのあとの自責は肉を裂くような苦しみをかれに負わせただろう。かれを追いつめるすべてが、おそらくや、殆どのひとには理解できないだろう。「君は幸福だ」、まるで侮辱するような意欲でかれへその言葉を投げたひと、かずしれないであろう。「僕は不幸だ」ということすらできない世間は、切ない。
ぼくは恐るおそるこう言ってみる。ぼくたちは絶対的に秩序に染まれない種族、呪われた種族、カインの末裔であると。
「僕は、もう、僕を裏切っているんだ。僕の自我は二枚に剥がれてね、一方が喋って、もう一方の泥にまみれた悪臭ただよう醜い僕を奥に秘めて、でもね、ほんとうの僕は秘めているほうで、それをちょっとだけ亮くんにさらしちゃったんだ。もうね、本当の憧れや嫌悪は、悪臭のほうの自我にしこたま全部投げいれちゃって、そっちへはもはやまるっと悉くを嫌悪だ、でも僕は人間を信じたくて、」
「そうだ」
僕は泣き喚きながら、殴るように言葉を放つ。死んで欲しくない。ただ、そのエゴイズムで撲るように。
「この期に及んでも君は人間を信じようとしている、そこだ、そこだ。その領域が、その領域がぼくには信頼にあたいするよ。ぼくは君をその一言で信頼し、信用し、誤解しないで欲しいが愛せもする。だから君も、その領域だけでも自分を信じるんだ。素敵なんだって自信をもつんだ」
「ありがとう」
綺麗に精緻にととのった、白粉のふっと光に浮んだような笑顔でかれは言い、つよいぼくの抱擁を丁寧に撥ねのけ、「もう大丈夫だよ」とふたたび笑いかけた。しろい、しろい砂が後方へ曳くような、そんないまにも風ではらりと剥がれる如くかろやかな笑みであった。
「一人で帰るよ。亮くんの言葉を噛み締めるね。さようなら」
ぼくは悟った、しかし、ここで無理にひきとめる権利を、自分自身に認めることができなかったのだった。
*
雪彦は死んだ、自宅のマンションから投身したのだった。
遺書はなく、詩は全て燃やされていて、唯、投身した際中原中也の詩集を抱き締めていた形跡があったという情報が、ぼくの心を複雑に折った。
中原、中也。
かれ自身を、生き抜いたひと。三十で、アルコホルと疲弊と格闘により肉が先行し果てた詩人。自死を撰んだかれの憧れがここに発見されえるというのは、安易な感想であろうか。
ぼくはデータとしてみせてくれたかれの詩を編集し、印刷して綺麗にファイリングしたが、いうなればそれをしかできなかった。勝手に僕が自費出版なんてしてはならないだろう。かれはネットに載せもしなかった。ただ、ひとに見せて、褒めたらにこにこ笑って喜んで、貶されたら、見てる方が顔をくしゃと泣きだしちまうような悲しい顔をするのだった。素直であった、愛らしい少年だった。何故かれのようなひとがここまで追いつめられたのだろう。ぼくには納得がいかず、しかし、とどめを刺したのはぼくの撲るような言葉の押し付けであったことであろう──こいつぼくの傲慢であろうか?
いくらかれの詩編が整然と並んでも、かれが死んだという現実に整理はつかない、自殺の決着をつけたのはおそらくぼくなのだ。しかし、むしろ整然とした、丁寧なうごきによる死であったという感慨もまた、ぼくにあるものなのだった。
人間を深みの領域を信頼しつづけていたが故のその上に宿る悪意等への不信にくるしみ、愛していたが故の憎悪にさいなまれ、ある種ひとを信頼したまま懐疑に身を投げたかのような、そんな印象がかれの死にはあった。魂の衝動に出発する矛盾の火のような人生は、まるでそれそのものがサンボリズムの詩のようであるというと、買いかぶりすぎだろうか。
*
人間の思想に、感情に、完全な聖域はないのではないか。
これ、ぼくの疑っていることである。懐疑主義はなにをも獲得できぬと識るけれども、すべて、たかの知れたものにしかぼくには想われぬ。たとい愛であっても、絶対信仰に値する感情なぞ、ありやしないのではないか。ニヒリストは哲学にもならぬものを凝視しているくせして、宗教家どうように、虚空を、相対主義を信仰し、虚無に跪いている。おなじものではないのか。人間はなにか虚ろな翳を抱きすくめ、なにかに跪いている。なにに跪くかをえらぶ自由がある。ぼくは花に跪く、硝子性の花、理不尽と虚無と非情を反映した冷たく硬き、血の薫たっぷりと含む花畑、ああぼくよ、壮麗な花にわが身を捧げよ。されば、生き、切れ。
生きるというのは翳曳くように虚ろなことだ、そこでよりよき生の形を求め命を迸らせるのは、無意味に美しいことだ。それゆえにぼく、殉死した思想家・芸術家よりも、ひっしで生活をする庶民、かれらの美を褒めたたえるものだ。リアリテがある。心と行為と現象を繋ぐ、一途な光があるかもしれない。生きることを、生きるということ。
雪彦はもしや、その美を嫌がっていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なにか自己を無へ化し、極端に美しい存在へ、跳躍したかったのかもしれない。それは、嘗ての十七歳のぼくがそうであったからというだけの推測にすぎないけれど。おそらくや、人間の深みを信じようとしながらも、みずからの底の領域に、劣等感をもっていたのだ。カインの末裔であるというのにくわえ、至極平凡に孤独だったのだ。かれはその孤独の平凡さを凝視すればよかったのかもしれない。
無垢。無垢の自殺は罪なりや?
信じたいものを信じるために、闘いたい闘いを闘ってもいい。この闘いへの同意を阻むものが、世間のなかにやはりある。あるけれども然し、そちら側を闘ってもいいのだと、ぼくなんかは想うのだ。そこにより善きものを求めるあたたかい良心があるなら、万事いいではないか。
藤村操。おおいなる悲観なぞ、楽観へ転化するものでなく、苦しみたい苦しみを苦しめるおおいなる歓びへ化学変化するほうが素敵だって、ぼく想うよ。
人間は、たしかに雪彦が伝えたように、ひとに見捨てられ、評価をされず、自尊心だって毀れた、虚無の地獄の泥沼からだって、ぬっと立ち上がることができるのだと信ずる、さながら蓮の花のように。ぼくはこの命を、うごきの意欲を、信仰したい。自尊心の無尽蔵に──者がルサンチマンのようなものでしぶとく優越の感情をえる俗悪な心のうごき、泥棒を聖化するジュネのような魔術、そんなものひっくるめて──どんな状況にあっても自尊心を育めるという人間の卑俗な命の昇らんとする足音を、貴きものと信ずる。無機のような世界観であっても、かぎりなく有機とうごける人間を信じたいのだ。無機を溶かす、孤独を溶かすということ。
然り無垢とは、それだけで価値のあるものとして信頼できるものである筈がない。
無垢とは、そこより迸る力に躰を犠牲にし、疵負い闘って磨き剥いて往く、ズタズタのグルーヴ音楽めいたうごきの不断に、光が宿るのだ。この光の歌が一途に徹れば、そこに、詩が生れる。
雪彦は、詩を書いた。充分だった。よく、生きた。そう想う。ぼくはかれの生死すべてそれでいいのだと抱きすくめ、はや此方側へは来るなと苦肉込めて吐き捨て、何故死んだと憎しみ、哀切な追懐に泣き喚き、そして、雪彦に詩を書かせた純粋な深みの領域のほかすべてを、疑る。ぼくの無垢はどうやら失われているようで、信頼の回復へのうごきがぼくのそれであるよう、ぼくは、狂気と懐疑に出発した執筆を、無垢と信頼という正気へ還すために、書く。生き抜く。
3 後ろ髪曳くように
杯は倒れて了った、きんと硝子音がした。
カーテンは閉め切られ、狭苦しい部屋は仄暗い。男は独りきりである。なみなみと注がれていた水は、まるで背を向けるように後ろめたげでありながら、のびのびと忍び這うようにして机に拡がった。床に垂れる水音は淋しげで、冷たく、硬質であった。安芸津はそれ、滴らせるままにした。横臥す杯に投げる視線は虚ろであった。
かれもまた、水のような自己を自覚していたのだった、はや、器はうしなわれていたのである。以前はそいつ、あるいはあったかもしれぬ、もはや、よく覚えていないけれども。されど、生き切る──かの月照る蒼白の積雪にそそがれる、「わたし」の純化された真紅の鮮血、死の円が生の弧を孕み蒼銀の雷鳴と迸る命の祈りの歌、いわく、美しき死のときまでは!
然り。生の能力なくして、その価値なぞ関心すらなく、その意味さえ知らぬとふてぶてしくも吐き捨てて──無精な口調に反し、顔付はいまにもくしゃと泣きだしそうであったけれども──しかし、唯その意欲、唯その意欲だけがある! 生き、切る。生き、切る。嗚。
存在。生きるということを考えて、まずもって先行して在るもの。そのチェックリストさえ満たしているならば、生きうる意欲、元来何であろうと個の自由である。撰びとるうごきは自在である。その自由自在、まるで翔べない翼を重たく垂らす巨鳥のそれにも似ているよう──たとい天へ飛び立つことができなくとも、翼を無為に徒にばたつかせるのは自由であり、勇壮に地を蹴り焦がれる天蓋へ跳び昇って、宿命に撥ねられてだらしなくも土に横たわるのもまた自由、その、どうであっても大して変わりやせぬ創意工夫、はや無限の可能性を宿す。ここに果して、人間の生きざまの偉大性ありや?
ひとはこんなカランと乾いた音をしか立てぬニヒリズム、思想なぞという高尚なものではないというけれど、それ端然りともいえるものだ、こいつ、単なる情緒的気分、そがやつれ切った世界観は、瞼の裏側の問題でしかない。内的なそれだ。地獄とは、眸にしか宿らぬ。朝陽が熔かし洗いながすなぞ、往々にしてある。
生き、切る。されば、美しく死ぬ。
そのためにかれが決意したのは、外界へ働きかける行為ではなくして、なぜか完璧な身形なのであった。かれはいまにも往き場なく崩れ、朦朧と漂わんとする自己を、あろうことか身形を整えることによって、その形状に自己を這入りこませ、どうにか形式づけようとしていたのだった。ひとびとはかれを単なる着道楽と見たけれども、嗚然り。着道楽なら、まだ、好かった。おびただしい出費と乏しい収入により、家計は火の車であった。親へ仕送りを頼みこむのは頻繁であった。
かれがこうまでして求めていたもの、それは生の形式と絶対的なものからの命令なのであった。かれは巨大な観念にがしと誘拐されることを希む、「我わたし」ばかりつよくておのれなき、脆弱きわまる男なのであった。自己実現、それなぞかれには高級すぎて、読解さえ不能である。かれは自己実現やら自己肯定感なぞという言説の散れる文章をみれば、途端に失語症になる。
いわばかれ、生の方法論の衣装だけを先払いし、生き様の証明によってそれを生に還元することから逃げ続けている愚か極まる人間で、然り、ボオドレールおじさんのような偉大なるロクデナシと比するならば、ダンディの風上にも置けぬ鼻持ちならない卑しき男なのであった。
卑しい──この、もの悲しくかよわき風さながらの、愛すべき響きよ。そいつ、恭しくも自己へ贈呈せざるをえぬのは、かれをして砂に轢かれるような乾いた笑いをひきおこす。
インターホンが鳴った、かれは自分の家にそれがあったことを久々に想い起こした。来客なぞ、いつぶりであろう。重い腰を上げ、扉へ向かう。未知のできごとへの期待に、こころはほんのりと浮かれていた。しかし、たいしたことは起こりまいという自己防衛だけは忘れない、安芸津は、そんな男であった。徹頭、徹尾、そうであった。
扉を開ける。知らないひとである。来客の顔は俯き気味で、癖のつよい前髪のためよく見えない。小柄な安芸津より、さらにやや背が低い。体つきは華奢である。どうやら、少年のようだ。かれは顔を下へ向けたまま、教師に疎んじられる陰気な生徒がよくするように、瞼だけをぱっくり剥いて上目遣いになり、憂鬱にうねり垂れた黒髪のすきまから、外界すべてが敵であるかのような不遜な眼つきを見せつけて、此方を睨みつけた。白くほそい指先は、力なく垂れさがっている。若干、猫背である。
男は見つめかえされた刹那驚きに打たれた、というのもかれの顔立ちが、あまりにも美しかったからである。
元来、安芸津には同性愛の気があり、しかもその愛の多くが、うら若き紅顔の少年達へ向けられていたのだった。通学中の男子学生の集団を見れば、無意識に好みを探すため、視線はかれらの顔の間を泳いだ。どことなく憂いを帯びた美貌の、線のほそい、周囲への軽蔑にしばしば眼をほそめる倨傲な少年、かれ等をとりわけ好いていた。そんな好みの好男子を見つけた時には嬉々として、その少年をこころで抱擁し、じたばたしながら嫌がられる妄想によって、路上で花のように顔をほころばせた。
「どなた…ですか?」
安芸津、はや二十六であった。自分よりはるか年下の学生に対して敬語を使ってしまう、自分の卑屈さに嫌気が差す。しかし美貌の少年に敬語を使うというシチュエーションに、なにか快いものがあったのも事実であった。
「名前なんかどうだっていいだろう」
声変わりを済ませたばかりの、暗みのエロスにふっと掠れるような、ひとときばかりの一種可憐な声である。豊かな紅色を誇示する柘榴の薫が、ひとの官能の琴線にいつもひっかかるように、艶やかなざらつきと濡れたような照りかえしのともなう、醒め切ってサディスティックな響きが、安芸津の感じやすい領域をつよく打つのだった。その声質、如何にも「否ノンの冷たい響き似つかわしい、硬くきらめく反映、めざめるが如く散るのだった。
銀と群青。かれの声の印象、それであった。背景に柘榴の深紅な暗みが籠っていたが、ほうっと薫るのはその色彩の音楽であった。群青色の夜空、銀に鏤められた湖のおもて、ほうっと沈む硬き月影の蒼白。…
「あなたに詩を見せに来たんだ。部屋に入らせて」
なんと無礼な少年であろう。しかし男がそれを拒む理由はなかった、なぜといい、かれはこんなにも美しく、冷たく、しかも傍若無人であるから。冷酷そうな眼をした少年の強引さに、かれは夢みるような心地であった。
「まあ入ってください、僕の名前は安芸津です、いや、標識に書かれてあるか。それともわざわざ会いに来てくれたのだから、知ってくれているのかな。僕のような人間をどこで知ったのか解りませんが、詩を見せる相手に僕が選ばれたのは光栄だ。いや、僕は少年時代から象徴詩が好きでね、たとえば…」
「初対面から無駄なことは喋らなくていい。そして必要以上に自分を卑下するのもやめたまえ、むしろ貴様のねじくれた傲慢さがぱっくりと割れてうらっかえしに晒されるぞ。穢いものをみせるな」
「あ、は、はい…」
男はかれの尊大さが与える快楽に、肌が粟立った。
少年を部屋に入れている間、この美少年、嘗ては第一級の詩篇「酔いどれ船」を携えて、シャルルヴィルからパリのヴェルレエヌの元に参着した、大詩人アルチュール・ランボオではないかと錯覚した。これはちょっと愉しい想像だった。が、すぐに冷水に覚まされたようにしておのれに否定された。なぜといい安芸津はヴェルレエヌと違い、一行とて佳い詩が書けぬからである。
ワンルームのアパートメント。床には埃ばかりか散らばった悪書がレントゲンに映る病原菌のように蔓延しひろがって、しかしかれ曰くかれの心臓、磨かれた洋服箪笥は第一級品なのであった。値引きをくりかえしくりかえし購入したそれ、19世紀末のアンティークであった。服そのものにもきちんと毎日ブラシをかけ、洗濯の方法にはだれよりも煩く、嗚、実に無為。無為である。然り。実に無為きわまる行為、しかしその無為性にこそ、かれが渾身をかけるゆえんがあるのだった。かれは人生を無為へ投げこんで、台無しにしてやりたかったのだ──これは本性に裏返せば、それだけ命の声というものを大切に抱き締めているのだ、なぞという鼻持ちならぬ本音を聴いてくれる者は不在であった。
「汚いな」
少年はそう吐き捨てた。不良のような口調と反して、その眉のひそめかたはどこか高貴であった。嫌悪と軽蔑に細められた眼に、ぞくぞくと鳥肌が立つ心地。この眼差しをみずからへ向けてくれたなら、俺はどんなに悦ぶだろうか…。
「すいません、僕には掃除の習慣がないのです。お話があるのでしたら、いまからカフェにでも…」
「カフェは嫌いだ。未成年は煙草が吸えない」
カフェじゃないなら吸える、そうとしか聞こえないのである。
かれはポケットからくしゃくしゃのゴールデン・バットを取り出した。野卑なタッチで描かれた蝙蝠を彩る緑いろのパッケージは、かれの不良な話し方に、如何にも似つかわしかった。男はすべて下心から中古で購入し修理代を払ってまでして獲得したデュポンのライターを取り、火をつけて少年に差し出した。
「…君はなにをしているんだ?」
驚いたように目を大きくし、その顔、実に好かった。おもわず頬、ゆるんだ。気味わるげな視線で男を一瞥、すれば少年、黙って自分で火をつけ、うまそうに有害なる紫煙を吸い込んだ。
バットのチープな薫りは、甚だ強烈であった。男は洋服箪笥を買って好かったとこころから思った。なによりも大切な洋服にこんなにおいがつくなぞ、たまったものではない。が、いま身につけている、中古で購入したドレスシャツの着色だけが心配であった。かれ、ドレスシャツは純白と決めているのだ。自分で煙草を吸う際、かれはきちんとヴィンテージのスモーキング・ジャケットを着る。そしてベランダへ行く。隣人に怒鳴り散らされ、怯えてくしゃと泣きだしかねぬ顔をし、さっと火を消す。そそくさと部屋へ逃げ込む。数十分後、さきほどの恐怖も忘れ颯爽と煙草を掴みベランダへ出る、そういう習慣であった。男はとりあえずそれを着用することにした。
「…変な上着だな」
「古いので」
「ふうん」
少年の関心なさげな態度は、氷にも似た不感症を連想させる。かれの立ち振る舞いは、どこか美しくも素っ気ない鉱石のようである。その拒絶の態度には、なにか人間味のない、無機的な感じがあるのだ。
かれの硬いこころを燃やすもの、いったいそれはなんであろう?
沈黙。かおりのきつい煙が昇って、部屋を灰いろに霞ませているのみである。
会話がないのが気まずいので、男は適当に喋ることにした。
「…尊敬している現代詩人は?」
「いない」
低い声で吐き捨てる。瞼を重く垂らし、滝に貫かれたような切れ長の眼を斜めから示している。黒々と長い睫に縁どられていた。その一条いちじょうが、流麗な曲線を曳いて、深い憂愁の影を落としていた。灯の影響であろうか、奥にある瞳は洞窟に照る月影さながらの青を反映していて、それは遥かから射すようにし硬く光っていた。
その流し目の美麗な感じは、ぞっとする程に過剰であった、グラマラスな暗み、そういう蠱惑であった。
「自分以外の生きた人間は尊敬しない」
尊大である。しかも孤独だ。世界のなかで自分だけが色が違うという矜持、これこそ孤独な少年とくゆうの不遜さ、そして卑しさである筈である。それを大人になっても持ちつづけるのは、身を折るほどに苦しい筈である。かれらの感覚では、自己は世界に含まれていないのだから。安芸津、いわくそれであった。自卑の念に、かれの指先はふるえはじめるのだった。
然るに少年、かれ立っている。屹立している。そのようすはいかにも清々しい。安芸津はいまにも額を床にこすりつけたいきもちであった。そしてこの美少年のほそく白い腕にがしと身をつかまれ、かれの思うがままとなり、どこか遥かへ導かれたい思いであった。遥かへ、というのはおそらく、月へ。
「…ところで、」
と安芸津はきりだした。
「詩というのは? なにも持ってきていらっしゃらないようですが」
少年は手ぶらなのである。空手空拳。そうであった。
「詩は歌うものだ、」
と、ごもっともなことをのたまう。
「紙などいらぬ」
して、かれは立ち上がった。
せつな、その陰鬱にうねり額へ落つる黒髪は、アポロン神のかがやかしい月桂冠となった。豊かな髪の光沢は、われらを惹きつけ然し拒絶する石のひかりであった。蒼白の肌は月光を浴び硝子の反響さながら青みがかるまっさらな雪景色をおもわせ、その澄んだ情景のなかで、月そのものにも似た瞳の青の際立ちは甚だしく、そしてその全体としての印象は、われらを酔わすバアボンの薫りのように芳醇な酩酊を立ちあらわしていた。しかもその絵画には、悲劇的な死が兆してい、それ、かれの眼差しの暗さからくるものであろうか、それとも、かれの肌の病的な白さによるものであろうか。安芸津はかれの姿を見ただけで、まるで阿片でもやったように頭がくらくらとしたのだった。
安芸津いわく、現代において青がもっとも神経的な美しさを放つのは、真白の情景に置いたときなのである。茶いろの情景に置いたとき、青は忽然と健全さを帯び、病的にして静謐な印象はみるも無残に失われる。そこにはただ、素朴な自然と、あたたかにして親しみやすい肉体美があるのみである。アズーロ・エ・マローネ。イタリアンなラテン男の、色っぽい体臭をふりまくような色彩は、かれの愛するところではない。
されど青、くすんだ橙いろのキャンパスに置いた際、その印象はもはや美の滅び往く直前期のそれなのである。それこそ、絶世の色彩。頬のこけ、瞼はやや閉ざされ、ピアニストさながらの指先を両頬へあてたような、さながら哀しみに暮れる青年のデッサンのような印象がある。しかしその時代、もはや去っちまったのだった。世紀末の夕陽、はや沈んで了っているのだ。
すなわち、雪化粧の照りかえす硬き月光の青こそが、真にこの時代にふさわしい、神秘の色彩と結論されるのである。神秘性を喚起する色彩こそが、かれのよわよわしい神経を刺すのであり、乱雑にもまがう精緻にして烈しい指づかいで鍵盤を掻き鳴らした如く、そのやつれた感受性をどっと動揺させるのだ。
おお、かれが偏愛する唯一無二の花──かのネモフィラよ。どうか、健全なる土のうえに咲くことなかれ。冷たくも硬き陰翳うつろわす大理石、きみはそんな処で、ひっそりと斃れているのがふさわしい。
少年は、歌った。
かれの謳いあげたもの、ただ喪失であった、もはや亡き、或いは在ったかも定かではない、ある特異な美であった。架空の美の翳、唯そうであったのかもしれなかった。
美しい少年は謳った、純粋な愛を、擲つような奉仕を、滅私の情熱を、素直きわまる犠牲を、もの狂おしい悲哀を、芸術に殉じ身を投げた死骸の発する花束のようにグラマラスな薫りを、肉欲無きただ透明ながらす細工のような恋愛を、そのこわれ易いものに内包する、運命に定められた純然たる悲劇を、もはやそれらの喪失した地上を嘆く、真白き空の涙を。
…きづくと、かれの姿はようよう肉体性をうしなって往き、透きとおった蜃気楼のように変貌して往って、ただ眼にはみえない、みがかれぬいた魂、それの表出させた詩性ポエジイだけが煙のように空へ昇って、おもわす安芸津が手をのばした刹那、立ち昇る煙さえ、その悉くが雲散霧消したのだった。跡には、はやなにもなかった。かれはそれを不思議にもおもわなかったのだった。
ふと床に目を投げると、悲しいほどに精緻にととのった、真紅の薔薇がころがっていたのだった。それは安芸津のあしもとへ投げ棄てられた、命の焔の残骸であった。かれにはそれが遠かった。然り。遥かとおかった。それを手に取って、大切な詩集に栞として挟んだ。惡の華。かれの、あらゆる人生より愛読している特別な詩集に。ふたたび開かれたとき、真紅の薔薇は、はやなかった。かれの落胆は甚だしかった。
*
薔薇を喪った夜から、男は少年に、恋した。
この恋、そいつにはしかし、ある種の既視感がともなっていたのだった。かれはいわば、初恋の相手に、ふたたび焦がれはじめたといっていいのだった。というよりもかの美は、つねづねかれの視界のすみを蔽う病のようなものではなかったか? その美、ふだんに不埒なものを孕んでいるようであった。くわえてそれは、男をさらなる孤独者へと、技術の卓越しているが故にある種粗雑なテーラーリングで仕立て上げるのだった。かれはその美につねづね自己を糾弾された。生の背後には、つねに巨大な後ろめたさがあった。自己を批判し判決を与える眼ができあがり、それはかれがどんな妄想をしても、どんな遊びをしてもそれに浸ったり、信じたり、愉しんだりするこころを奪ったのだった。いわばかれの在った処、つねに自意識という名の裁判所であった。常に鏡のまえに立っていた、白銀花の蛇の眸の光照るそれ。
安芸津は仏語もできないのに、ジェラール・ネルヴァルの『黒点』の原詩を印刷し、銀と紺青の彫刻が美しく絡み合った額縁を購入して、それに印刷したものを差しこみ、部屋に飾った。額縁の値段は高くつき、かれは実家に電話して、ふだんの無精なそれと異なる甘えたような口調で送金を要求した。かれはその行為への、背後の眼による批判をむりに押しのけた、「どうしようもない」、ないし「とるにたらない」が、かれの肉体の声のすべてであった。ナイ。ナイ。ナイ。かれの吐く息、ニヒルの暗みをしか発見されえなかった。
*
ひさしく現れなかった少年が訪問した。
男はかれをおもいきり突き飛ばした、その紅の頬へ、幾たびも平手打ちをくわえた。雨のように、少年の華奢な躰へ暴力を降らせたのだった。これは逆恨みだ、と少年の静かな目、めいっぱい責め立てていた。弱く醜いのはお前だと、その無言と無抵抗で示していた。無抵抗こそが少年の拒絶であり、不在というかたちをとった全的な暴力でもあった。理想に向かえないのは貴様だと、その無抵抗の表層が詩的に、ともすれば論理的にかれに教えていた。かれの詩と論理は、おしなべて表層にあらわれていたのだ。そしてかれの無言の攻撃のなべてが、いうなれば男の被害妄想からに過ぎないのだった。否、この少年の美そのものが、或いはこの少年そのものが、安芸津の妄想であったか? 少年はただ、美的に示されているにすぎないのだ。して猫のように奔放に跳ねまわり、あるいは悠々と姿態を横たわらせているのみなのだった。そいつ、時折男の膝に座ってやることがあるが、そのたびに安芸津、「いったいこいつは美であろうか」と訝り、すればそ奴、瞬く間に膝から跳躍して了って、そこにいつまでも留まることがないのだった。留まらず跳ねて去るから、男は美を無我夢中に欲する。そうであるかもしれぬ。その自己本位で気まま、ともすれば残虐な態度が、かれには如何にも蠱惑的だった。それに勝手に惹かれているのは安芸津なのだった、そうであるが故に、男のこぶしの力は憎悪につよまった。
かれが卑しき暴力をくわえるごとに、少年の美しさはさらに磨かれ、喪失の地平線、遥かへ往って了い、その輪郭線は茫洋な追憶に融けて往って、ただその硬く鋭い照りかえしだけが、男に迫った。胸塞ぐ、それでいて烈しき情念を掻き立てる、燦爛たる照りかえし。それは乳白色の星々の海が彼方で凍てついているような、きんと冷たい真珠いろであった。その美の凄まじさに、おもわずかれは手をとめた。そして四つん這いに倒れ込み、砂金でも探すように掌をよろよろと地に這わせた。傷ついた蛾が地を這うそれのほうが、まだ美しい描写が可能であろう。そこには一途な、生活者の努力があるからである。されどいまここにあるのは惨めさの極みであり、おぞましい現状にほかならなかった。安芸津にはそれが、イヤでイヤで仕様がなかった。自己と現実の真実を認めることが、できなかった。かれはもはや惨めさをしゃぶりつくして、苦みのなかの甘みを味わうよりほかはないのだった。
もし人生がよろこびとくるしみにぱっくりと分けられ、後者がうわまわった人生に意味がないのなら──まちがいなく俺は、死ぬよりほかはないのだ。されば、苦しみを歓びへ化学変化させなければいけない。くるしみたい苦しみをくるしみえる歓び。生きるのが痛いのは幸いである──コジツケのようにそう想いもしなければ。
「貴様のせいだ、」
男は叫んだ。
「貴様のせいで俺は現世のあらゆるものに不信と軽蔑の感情をもってしまったのだ。それらの感情のともなった、なにもできない癖に斜に構えた、惨めな劣等者の投げる視線ほど卑しいものはない。」
「解っているじゃないか。けれど自分が劣等者であるという意識から逃れられない人間は、果たして貴様の理想へ向かえるのか?」
真赤な唇が、ようやく唾液の糸を獅子の目覚めさながらゆったりと引きひらかれた。
かれの唇は、忽然とグロテスクな色を帯びていたのだった。充血した両生類の皮膚のようなそれは饒舌となり、安芸津の卑しさをつまびらかに批判しだした、美少年の姿はさっと掻き消えていた。ただなまなましく赤い艶をはなつグロテスクな花さながらの唇が、汚らしい床に咲いているのだった。美貌の人間の赤い唇は、ただそれのみをきりとられると、造形美という名の全体性を失い、ぞっとする程悪趣味なエロティシズムをはなひらかせることがある。われわれが美と呼んでいるものがときに露悪的な表現を強いられるのは、これ故ではなかろうか。美の切断された切口が謳われる際、その詩はさながら傷口へのフェチシズムの説明に堕してしまうよう。
「あくせく卑小な人間として生きることを厭い、理想に捧げる高貴な死を希むことは、未成年の特権だ。世界から疎外されているという感覚も、むろんそれに含まれる。貴様は自己本位なんだ。そして自己本位こそ貴様の焦がれる美と対極にあるものじゃないか。貴様が美しく死にたいのは、ただ逃げて死ぬことが虚構の美によって覆い隠され、おのれに自殺の権利を与えられると錯覚しているからだろう。それのどこが奉仕だ。自己に捧げた自殺のどこが美しい?」
「ああそうだ。その通りだ。解っている、解っている! 俺は理想に向かえていない。俺はただ魂の衝動にのみ耳をかたむけ、それに従いたい、死せるときにはその魂が肉から脱獄し、煙のように空へ昇ることを夢みる。肉体から疎外された魂の衝動だけが人間の肉体に奉仕をさせると、俺は信ずる。俺はただ魂の衝動しそらへ打ち上げる鮮やかな閃光を欲する。命の歌。それだ」
出血した蛭のような花びらは、ふっと嗤った。その吐息、むっと豪奢であった。グラマラスな花々に埋もれ、煌びやかな装飾をして、それらに倦みきった瞳を憂いに沈ませる、堕落した快楽児たちによる、金粉のひといきれ…。
「まあ飲みに行こう、」
と、いつのまにか立ち昇っていた美少年が素っ気ない口調で提案した。男がそれを断る理由はなかった。なんといってもかれは生活が寂しかったし、ずっと独りでいるのが苦しかったし、たとい素っ気ない態度であろうと、甘やかされそれにあまんじて育った安芸津は、ひとに優しくされることがなによりも好きだったから。
*
狭苦しいバーである。塵が舞っている。店員の愛想は悪い。他の客の柄は悪い。臆病な安芸津にはそれがおそろしい。されど、価格が安い。
安芸津はそこで、明らかに浮いている。着ているものだけは立派だからである。磨き抜かれたドレスシューズは月のように光っている。室内でもジャケットを脱がないのは、かれの自己へ課した制約である、誰をも、安芸津本人をしても認め褒めることのないルールである。かれはその種の疎外については、一瞬誇りに思った。そしてその直後、その滑稽さをだれよりも意識した。他者に与える印象効果の意識による一喜一憂は甚だしかった。安芸津とダンディズムとの距離、まるで無限であった。着用している衣服の権威と、自己の卑しさに乖離を感じた。それは学生時代、教室に含まれることで感じていた圧迫感に似ていた。急に、ネットで中古を購入しサイズを直させた某イタリアメイドのジャケットを脱いで引き千切り、その権威を引き裂きたくなる衝動に駆られた。
少年の顔を眺めた。なんの関心もなさそうに、安芸津を見つめかえした。かれの意識は沈静した。美しいという気持は、情緒に好く効く。ウィスキーを口に含む。ひさびさの酒である。喉奥を焼く感覚がここちよかった。
「耳にしただけだが、震災中の忘れられない挿話があるんだ、」
と安芸津は上機嫌で語りだした。
「地震が起こり、瓦礫に閉じこめられた母と赤子がいたらしい。助けが来ない。そこはほんの少しの陽が射しているばかりだった。ふたりは飢えている。先に死ぬのは、赤子のほうに違いなかろう。母はそこで、ある行動をとったんだ。なんだかわかるか?」
「知ったものか」
安芸津はつぎからつぎへ酒を口にしながら、かれの返答に満足そうにしてつづけた。
「母は近くにあったがらすの破片をとり、みずからの腕の肉を引き裂いて、赤子に血を飲ませて栄養を与えたんだ。ああなんという美しい挿話だろう。君、流血のともなう犠牲こそ、もっとも美しいと思わないかね」
「貴様はそう思うんだな」
「しかしだ。俺はその挿話の結末が、気にいらないわけではないが、ほんの少し改竄をくわえたくなるんだな。その後、ふたりは生き延び、双方とも助かったんだ。そうだ、母は、死んでいないのだ。非道だとは思うが、俺は彼女だけが死んで、赤子だけが生き延びたほうが、美しい話になったと思うね。血を流し、犠牲のために命を投げた死体、そこから立ち昇る魂、これこそ詩に歌うに相応しいと思わないかね」
「貴様は、」
と、侮り以外なんの感情もくみとれぬ眼差しで言った。
「母親に、死んで欲しかったんだな」
安芸津は黙り込んだ。いつまでも言葉を発さなかった。考えているうちに、やがて頭に血がのぼった。少年を打つために腕を跳ねあげた。かれはすこぶる気が弱かった、言いたいことをふだん何も言えなかった、とくに職場では、障害者枠の身に卑屈な意識をもっていたために、一切の反論さえしなかった。しかしアルコールが入ると、刹那的な烈しい怒りに身を任せてしまう、弱く甘えた気質を有していた。
放物線をえがいた拳は、少年の躰からやや外れた。拳は杯にあたった。隣の客のほうへ吹き飛ばされた。屈強な肉体をもつ男の、タンクトップが濡れた。男は立ち上がった。安芸津は平謝りをした。要求されていないのに土下座をした。なにか、快い感覚があった。自分自身のない自分が、なにかに追い従うことが、卑しくも頭を下げることが、かれには快楽だったのだ。結局のところ、安芸津にはなにかを実現したいという欲求がないのだった。あるのは肉体に属する欲望だけで、なにかを為したいという欲求がないのだ。かれ、ただ生きていたくなかった。それがために、生き切ることを過剰に自分に課していた。そのために本を読んだ、服を着た、詩を書いた、そう、詩を書いていた、書いていたのだ! かれは報われないのに詩を書く自分を、ほんのちょっぴり可憐に想っていたが、そのすべてがまるっと無為である。然り。無為である。かれは生が早く終わりを告げることを希んでいた。かれが生きているのは、義務の観念によってであった。生き切ることが義務であることくらい、安芸津の愚かさをもってしても、知っていたのだ。くわえて、どうせかれに自殺なぞできやしなかった。もしその危機に襲われたら、かれは重い躰を引きずって実家に戻り、ふたたび入院でもして、女か美男の看護師に甘えるのであろう。…
安芸津は男へ外に連れ出され、三度殴られた。その悲鳴は嬌声にも似ていたが、しかし、愛嬌も媚態もあるわけがなかった。まったくもって、ばかげていた。少年はまたどこかへ消えていた。
*
ふたたび、少年が安芸津を訪問した。安芸津、かれの姿をみとめた瞬間、狂ったようにまくしたてはじめた。
「いいか、よく聴け。俺の憧れは、もはや亡いんだ。喪われているんだ。死んだ観念に憧れる、これが何を意味するか解るか? 貴様なら解るだろう、なぜならば貴様は、俺の憧憬の影に過ぎないからだ。憧れの残り香、後ろ髪ひかれるような未練によって、悔恨と悲しみばかりを謳いあげる、現代に出現した世紀末の使者ともいえるような、俺を惹きつけズタズタに引きずりまわし、俺に自己嫌悪と後ろめたさばかりを与える、あたかも霊のようなものであるからだ。
貴様の態度は、デカダンのようなものは、この時代には無為だ。なぜといい現世はけっして日暮れ時なぞではなく、われらを狂わす斜陽のあたる橙いろの時代なぞではなく、憧れのやや残る時代の移行期なぞではなく、もはや憧れが追憶のなかにしかない、すでにそれが地平線へ沈み切って了った、新しい時代であるからだ。斜にかまえて世間を眺め、滅茶苦茶な生活をし、肉体をいじめぬき、退廃的なアートを収集し、ああ、それがなんだ。現代のデ・ゼッサント、かれが何をできるか? 現代において、わが憧れを体現せんとする者は、もっと泥臭く、おぞましい惨めさを引き受けるべきだ。生きることを生きる、こんな当たり前の惨めな苦労を背に負うべきなんだ。デカダンスが好きだという人間は多いであろう、しかし十九世紀末のフランスとは、もはや時代も、そもそも国も、違うのだ。いまデカダンスは世紀の末期にない、もう終わって了ったのだ。俺は現代のこの国において、デカダンス、デカダンと愛着をもって呟く輩は大嫌いだ!
わが幻は、ゼッサントの偏愛した、追憶に褪せた花弁の色のような、あるいは夕日の燦きにも似た、あたかも古色蒼然たる詩を連ねられた古紙のそれともいえるような、狂気を滲ませた橙いろではない。真白だ。死装束のそれのような、あるいは花嫁衣裳のそれにも似た、神経を打ち、きんといたましい硝子音をひびかせるような、そんなさむざむしい真冬の風景画だ。もはや光は、遥かから硬く照り返すだけだ。しかしそんな色だからこそ、月光の青は最上に際だつのではないか? すでに亡き、横臥す純白に射す月光こそが、神秘に濡らされ青みのかかる幻想の風景こそが、まさに詩に謳うにふさわしいものではないか?
ああどうか、詩はただ謳うものであれ!
しかしだ、そのわが憧れ、風景画、それにはな、肉体が無いんだ。だって亡いんだからな。幻としてしか現れることがないんだからな。脈打ち、鼓動し、息づき、生の意欲の張り巡らせ、そんななまなましい肉体性が、いっさい欠けているんだ。そこには死者の魂のほかは何もない、単なる幻の美世界、俺はその様子に安堵していた、なぜというに、肉体のない憧れは、俺に変化を、なんの努力も要求しないからだ。到達不能な幻想に心おきなく憧れられるからだ。達成できない理想世界というものは、ことごとく気力を失わせ、かつ快い自己無価値感に、おのれを堕とすだけだ。
憧れには、肉体がなければならぬ。もし亡いならば、それを与えなければならぬ。自分の意思で、その選択肢を選びとらなければならぬ。俺は用意された杯が現れるのを待ってはならない。朦朧たる腐った液体である自己を、どうにかこうにか、自分で凝固させねばならぬ。
しかし俺にはひとつの確信がある、自己肯定・自己実現は良きことである、だが、それ以外にも、たとい現代であろうと、生・死のありかたはある筈だと。
俺は、もはや亡い観念から、どうしても離れられないのだ。つねづねそのことばかり考えているのだ。こいつは俺の躰にまとわりついて、美しい無音の歌ばかりを聴かせやがる、無音とはつまりは無辜、innocenceだ」
「魂とは、肉体に拒絶する何かである」
「そうだ、その二元論に、俺は固執している。魂、それはないかもしれぬ、否きっとないであろう、しかしその存在を信じざるをえぬ。俺はどうしようもなく、それを信じ込んで了っている。俺は虚数的存在としてそれを在ると仮定し、信じ、愛し、抱き竦めるよ。
肉体、ともすれば怪物となるのだ、欲望を内包しているからだ、俺はそれを実感した。かつて、俺は醜い獣であった。俺は自分の肉体の形状にも、おのれの肉欲にも失望した。俺には、犯罪者の血が流れている。ともすれば、ひとさえ殺しかねぬ。その醜さを普遍的な人間論に持っていく気はない。しかし、そうであるならば、俺は、それに反抗しなければならない。俺の反逆は、つねに俺自身の肉へ為されねばならない。そうでもしないと、どこへ転ぶか解らない。俺が自己の内部で信じられるのは、魂だけだ。存在さえもしないであろう、やはり虚数めく観念的存在だけだ。だがそれを、信じざるをえぬのだ。
しかしだな、たとい双方を分離して考えようと、肉体はけっして、軽蔑してはいけないのだ。憎悪も然りだ。その態度は処世術だ。双方の馴れ合いだ」
「俺をどうする?」
「殺してやる。これは俺の、長引きすぎた思春期との決別だ。俺は肉体と魂、その双方の馴れ合いの結果、ただ肉体の不在したプラトニックラブを為したかった、いや為す気もなかった、ただの童貞主義の潔癖症だった。
貴様には、死者の影だけがあって、肉体がない。貴様じたいが、俺がつくりあげた、実現不能な幻影だった。貴様に憧れるのは快かった、貴様を愛するのは気楽だった、なぜといい、無いのだからな」
少年の瞳、もはやがらんどうである。蒼白の肌は淡い点描へとうつりかわり、背景と一体化し融けこんでいる。如何なる点へも、焦点が合わぬ。憂鬱にうねる黒髪は幽遠なる象徴画の一要素に過ぎず、まとう衣服は悉くが虚無へ投げこまれた煌びやかな修辞であって、その細い体躯、蜃気楼のように幽かに昇っているのみである。
安芸津は、青年期のかれをつねづね悩ませていた血の気多き獣性のままに、ばらのそれにも似た悲劇の薫り高い、殉教した反逆の美少年へ銃口を向け、引き金を引いた。して、みずからの精液を、かの死骸の美しい顔へ、エロによる冒涜でなく、あたかも祈祷の塩まきのような心情で、厳粛なる身振で降り注いだ。
ただかれには、理想に殉うために美しく死ぬのではなく、それがために惨めに卑小に生き切る、義務があったのだ。かれが求めていたのは殉教ではなかった、けっしてそれではなかった、殉教により充たされた自尊心の状態、かれの求めるものの対極にあった。かれは焦がれていた、自尊心がからからに乾いてでもなお撥ね上がる、愛に点火され燃ゆる魂の上げる、鮮やかな閃光を。否、それすらも、愛の翳にすぎぬのに。
安芸津の根本的主題は、つぎのものであったようだ。愛と信仰、そして死。すなわち──不在というかたちをとる、世界に満ちるすべて。宇宙の暗闇が孕む、久遠の火。
黒舘沈名義。
性描写・暴力描写・表現が過激なため、とくに注意喚起
4 美少年と殉教
恰も冷然硬質な壁から背徳の滴りおちるような、打ち棄てられた人間を囲う牢獄めいた石張の密室である。
其処はどぎつい深紅の淫靡がトロリ水音と照るような印象、恰も後ろめたい熱帯雨林の籠る湿潤な雰囲気が張りつめているようなのだった。
湿り潤う、鼻腔をすべらかにみたす甘やかなroseの香気が漂っていた、それは嗜虐を被ったために乱れている、ウェーブのかかりふっくらと豊かな黒髪から立昇っているようなのだった。
囚われの美少年。
その、果実がまっさらに剥かれたようにしろくほそい手首、それはいたましい様子できつい銀に燦る靭い革紐に繋がれてい、しなやかに華奢な線をひくうら若き肢体には、さながらに夜空めく群青色のガウンを羽織らされている。少年は、古びた鉄のベッドにくくりつけられている状態なのだった。傍らにはプロのサディストを称する中年の男、かれ、少年が実際に受ける肉体的損傷に対してさらに凄惨な印象をパフォーマンスとして観衆に魅せる、サディズム的ショーのプロフェッショナル、また悲愴無惨なる悲鳴や鞭の音色を、観衆の官能の深みへ快楽音楽として抉りこむアーティストでもあるというのが自称であった。男は鞭を幾たびも少年へ振りおろし、ピシャと凄惨な肉と暴力の交じる甘美な音を迸らせて観衆を酔わす、そのたびに少年、なにか嬌声めいて聞えるかわゆらしい悲鳴をあげていて、びくびくとちいさく締まった尻を跳ねさせる。しばしば背をのたうたせ、男に暴行されるがままとなっているのだった。
ステージから二メートルほど離れたところには数脚の椅子があり、そこははや、真剣なそれとみまちがうほどに無我夢中な注視する眼差し、陵辱の現場を眺める、惨たらしく濁った液の溜り吐きだしたくなるような残酷な欲望を抑えられぬ男たちで満席である。
客の一人である倉元は、その綺麗な少年の、恰もdiamondの硬さの匂うような肌を注視していた。
陶器さながらに照る、硬質な乳白色の肌はいかにも若きそれ、恰も赤々とした灯を撥ねるような象牙の燦りを表面に遊泳させたそれは世にも肌理こまかい様相である。そのナイーヴな硬さを呪い穿ち砕くように打たれた印──紅(くれない)の凄惨な傷痕が、まるで完全にすぎるかれの美貌の、魅惑的なアクセントとしての役割を果たしているようなのだった。それはかれがうごきのたうつたび、宝石の波紋様さながらに陰翳として這うように見え、その翳、いたみに躰をくねらせるたび靡らなしなり方で翳うつろわせ、魅惑の腰はクイと波打ち男たちに欲情の火をともす。
その悲痛きわまる情景を傍観者として眺める悦び、まるでぞっと甘い憐憫の薫りで倉元のふかい官能を舐めるようでもあるのだった。かれはこれまでの少年の肉体的ないたみを想い、事情不可解だが如何にも不幸な境遇なのであろうと想像し、どんな人生をおくれば斯く状況に往き着くのだろうと同情の愉悦に満たされた。美少年の潤みの豊かな切れながの眼から、つ、とさみしげな印象で涙が頬を伝った、その殉教めいた絵画の立ち昇る象徴的情景、それにかれふるえるような憐み・圧し揺るがされるような感動をもよおした、して、かれの神経はそのいたましい共感的な想像にまるでわななくよう。
倉元はしかし、そんな感覚をむしろ愉しむ性癖なのだった。憐れみと美的感動の交叉する点は、恰も至上の快楽をそこから滴らせるよう。かれの欲望の暗みの泥沼から、おどろおどろしく射し昇る炎の湧き、かれじしんへもいたみと刺して交叉するような悦楽、同苦しながらそれを愉しむというある種高度にして最低劣な悦楽、そいつははや、シャーデンフロイデという幾分ペダンチックな趣きのある言葉をむりじいにつかうよりほかはあるまいが、然し、それともやや異なるともいえるだろう。この、残酷な、ある種自罰にも転じえるような、情緒をいたみにふるわす、暗い歓び。
黒猫。
そんな名で、少年はよばれていたのだった。本名はなんというのだろう、かれの美貌に所有欲をもよおしたために、倉元は詮索したい気持になりもしたのだけれども、しかしかれの立場を想うと、果たして戸籍が在るのかさえもさだかではないのだった。何故ってこんな社会的立場が、行政に許されることなどあってはならないから。黒猫というのはいわば源氏名であるように推定される、しかし、かれの在る状況は水商売のそれというよりむしろ捕虜、或いは監禁された性奴隷、乃至見世物の美しい獣のそれにも似ているようなのだった。
しかしながら、かれ打たれ瑕負うごとに、高貴な雰囲気が香気と曳くような佇まいを立ち現すよう。倉元は、そのみずからよりも劣位に沈むが故に優位に昇るような高貴性を、呪い砕きたいような感情である。黒猫へ降る暴力の銀の弧を曳く雨の情景、手を下しているのが自分ではないという状況、傷を負い手折られた花さながらに項垂れて往く美少年の肉体的状態、これらのうながす感覚は心身にやみつきの激情をかれの肉に駆り立たせ、いま、倉元の情緒は夢みるような高揚に打ち震えていたのだった。
やがて極度の疲弊のために、少年は力なく横たわった、「立ち上がれや奴隷が!」と男は野太い声で叫ぶ、牢獄の陰鬱な暗みのなかで、真紅の花々に装飾されたかれのまっしろな裸体は、無辜の白い薄明さながらにみえた。刹那幻惑される、おどろおどろしいましろの宗教的絵画の印象。それは恰も殉教のおそろしい美と歓びをめざめさせるよう。倉元がそれをみすえたとき、みずからの性的嗜好の卑しさと、暴力に濡れ罪の張る眸の濁りに呆然とする。かれは此処を退館するたびに、こまかく穢れを拭い落すように手を洗う卑怯者。はや、この場所へは来ることはやめよう──そう毎度決意するのだけれども、またこの場所を訪れてしまうのが、倉元の弱い性情をかれの自我へと突きつける。
*
『殉教』
倉元が、その肌粟立たせる名の性風俗俱楽部の存在を知ったのは、仕事帰りに訪れた風俗街のビルで、怪しげな看板を発見したことがきっかけなのだった。
かれは二十七歳、まだ若き情欲をもてあますであろう年齢、それは時と場合によれば、暴力的なそれをだって産みだすこともあるかもしれない。ひりつきささくれだったような状態の神経は、時にかれをぞっとする程残酷にするのだった。かれはゲイではなく、いわくバイ・セクシュアルだった。ただ、どちらかといえば女には甘えたがり、じぶんよりも若く美しい男をなぶってみたいという、欲情の質の違いがあるのだった。
かれは娼婦としか寝たことがなかった、ゆきずりのワンナイトラブ、そんなものはかれには無縁だった。むしろ、そんなひととき限りの関係はロマンチックにすら想えるほど、女性との縁に乏しかった。直接的ないいかたをするならば、かれはセックスに飢えていたのだった。淋しさにひりつく意識がくるおしく、息も喘ぐようで、どうにか普段社会で被っている仮面を剥ぎとって、ありのままの肉体の深淵から染みるすべらかな体液を潤滑液とし、魂の恥部を結び合わせ、そのまま他者と融解しどっと果てへ投げだされてみたかったのだった。いずこへ、というのはおそらく、空無へ。
しかしかれには、娼婦というけっして断じて自分を求めていない女性と寝ることに、殆ど快楽をえることができない。
かれの劣等感は、女性を誘うことをいつもためらわせる。女性のこころを刺激しない、魅力なき男。臆病者。卑怯者。そうであった。
かれ、意を決して重厚な扉を開ける、受付には誰もいない。ベルを鳴らす。しばらく人が姿を現さないので、かれは壁に書かれてある注意書きを読んだ。
当店は、美少年をいたぶるSMプレイの様子を観覧できる施設となっております。すぐ目の前でハードな陵辱が行われる様子を、どうぞ座って、何もせず、ご覧ください。「椅子から立ち上がる」「暴行・暴言」「盗撮」など、違法行為が発覚した場合、相応の対価を強制的にお支払いいただきます。
やがて男が現れた、かれスタッフのようである。
「初めてのお客さんですかね。内容は、いま見られている注意書きの通りです。ご参加されますか?」と訊かれた。
「はい」
「三万八千円になります」
かなり高価だと想ったが、なかなか実際にみることはできないだろうという好奇心もあって、あっさり払ってしまう。
「こちらです」
奥にある部屋の扉まで連れていかれた。扉を開けながら、ややドスの効いた声で男は話し始めた。
「お客様は絶対に手を出さないでくださいよ。たまにいるんですよね、興奮して立ち上がり、暴力にくわわろうとするお客がね。うちの嗜虐者はSMのプロですもんで、ちゃんとした訓練を受けているんです。うちの商品はいうなれば、アングラ業界の文化記念物みたいなものですから、残さないといけないんですもんで、たとえば修復のむずかしいほどの怪我をお客様が与えてみる、そしたらわたくしどもも、相応の対応をしますんでね」
白いシャツに、グレーのベストを着た肥った男である。髪型は艶っぽいオールバック、強い外国製煙草の薫。堅気ではなさそうなスタッフがそう忠告すると、倉元はヤニの香りのついたジャケットを脱ぎながら、黙って頷き男が指さした椅子に座った。横をみれば、十人に満たないほどの暗い顔をした男達が座っていた。目の前は濃紺のカーテンに覆われ、向こう側はみえない。
暫く立って、前述した嗜虐のプロフェッショナルが現れる。実に特徴のない容貌の大人しそうな男だが、まるで眸になにも映っていないかのような、穴が穿たれているといっても信じてしまいそうな、奇妙にがらんどうの眼をしている。
かれは何もいわず、カーテンを開け放った。
倉元は息をのみ、食欲にも似た欲情に息をのんだ、唾液の粘るようなクチャとした音がした。
それというのは、どうみても十四歳くらいの、驚きに打たれるほどの冷然硬質な美貌を有した黒髪の少年が、鉄製のベッドで鎖に縛られていたのである。一瞥だけで背徳の悦びがこみあがり、かれは舌で唇を舐めた。倉元は、想わず舐めまわすような視線で美少年の躰の彼方此方を眺めはじめた。
黒髪は赤々と照る淫靡な灯をこばむような漆黒である、灯の光は辷るようにしてつやをうつろわせながら、ベッドの鉄組へ無為に流れ、項垂れる血のように滴り落ちて往く。やや癖のつよい前髪はなまめかしくめもとにかかり、うなじのあたりは清潔な印象で丁寧に刈り込まれている。睡たげな猫のようにもの憂げできれながの眼には月のように硬い光りがやどり、それは中年男と眼が合う刹那きっと恐怖に円くみひらかれるのだけれども、平常のそれは学校帰りの少年達を観察する倉元が時々見付ける、あらゆるものを蔑む不遜な少年の印象なのだった。無垢であるが故の高潔、そう名付けもできるようなそれ。
…そのショーを見終えたのちのどっとのしかかる疲れ、高揚を補うような自責、自責の確認作業、かれの卑しき習性の一つ。
*
月に一度、倉元は倶楽部に通った、この日の為に、やりたくもない仕事をやった。
「倉元さん」
黒猫ほどとはいえずしても、どことなく冷たい雰囲気の美しさのある年上の社員が、非正規雇用のかれに話しかける。
「この書類やっといて」
「はい、わかりました」
甘やかに媚びるような、社会不適合なかれの過剰適応がみいだされる声質に、倉元自身が嫌悪を感じる。
彼女はふだん柔かい口調で話すが、孤立し陰鬱な雰囲気を醸すかれに対しては、最低限の会話で終わらせ、取り澄ましたような態度が終始である。かれにはそれがむしろ蠱惑的であった。
「あのひと、なに考えているか解らなくて怖いよね」
「ちょっと不気味」
彼女が同僚とそう話しているのを聞いて、「ぼくのことだ」と被害妄想、しかし、ほかにそういった印象の人間は社内にいないので、大方かれの噂であると推定できるであるだろう。
ふるえる情緒、わが身への憐憫、愛されないがゆえの誰かからに愛を受けるに値するのではないかという切情、世界から切り離された自己への凝視は、何故かしら遥かうえから為され、わが身を砕いてしまいたい心地、然し、どこかそれが心地よい。「ぼくなんて」、という意識に停滞するのは取り残され寝そべるような気楽さがある。
気づくと勃起していた。かれは家に帰って、彼女に恋薬を過剰に飲ませて自分に惚れさせ、狂うように求められる妄想で陰茎をしごき射精した、白濁の液には血のようなにおいがあった。かれはせめて肉から剥いだような射精をしてみたいとかんがえた。
恰もティッシュから毀れた精液のように、かれは躰を項垂れさせ、みずからの躰の魅力のなさに泣き、ただ、淋しいという理由だけで、それが生涯つづくであろうという確信的予測のために、消えて了いたいと想った。
殉教。
嘗て、かれは殆ど損得勘定でこれを欲望していたのだった。
*
かれは金もないのにひき寄せられるように倶楽部を訪れ、まるでかれを俟っていたかのように鍵があけっぱなしになっていたのをみてとった。あきらかに反社会勢力が関係している店という危機感がいまのかれにはない、倉元は扉を開け、闊歩するようにズカズカと黒猫の部屋に向かい、ふっとあのオールバックの男が顔をみせたが、かれに関心すらなさそうに奥へ引っ込む。おそらくや、倉元のような客に慣れているのだろう、否、この倶楽部の存在意義とは、現在の倉元を破滅に陥れることにあるのかもしれない。
おおきな音を立てて扉を開ける。
黒猫。
綺麗な目元を、微睡むようにほそめていたかれは、倉元の侵入に微笑する。
倉元は、かれに、跪いた。そして、かれへ呪詛を投げつけた。ぼくなんてどうにでもなれ、そんな自暴自棄が、そのときのかれの肉を満たしていたようだった。
「黒猫」
呻くように、視線を床に注ぎながら話しはじめる。
「きみはほとんど美のようだね。けっして膝の上にとどまらず、掴めたと想うと霞さながら掌から融けて往き、どうしようもない蠱惑を湛え、ともすればひとを破滅もさせる、もっとも怖ろしいことにはね、おおくの場合、きみのような美は道徳と一致しないんだ。美と悪の配合、きみのつややかな黒い眸と髪は、その悪酒の乱痴気騒ぎにもみちびくようだね。エロティックなんだ。きみに殉うことはね、空で死者と連続するような妄念を引き起こすんだよ、ある種の淋しがり屋には、ぞっと蠱惑めいた印象を与えるんだよ。されどそれは妄想だ。人間はね、死んだら終わりなんだ。魂なぞ無い。知っているんだよ。魂、唯物論を支持するぼくは、こいつを虚数として信仰しているんだ。
告白しよう。ぼくはきみを縛りたいんじゃない。暴行したいんじゃない。ぼくはただ、きみの美しさを呪っているんだ。黒猫。ぼくにとってはね、貴様なぞ存在しないほうがいいんだ。いくども殺そうとしたよ、愛の運動エネルギーにはね、憎しみのそれをだって同量含んでいるんだよ。されどきみへの恋にも似た感情が、いや恋なんて透明なことばを使うのはよそう、執着だ、執着がね、きみをどうしても殺しきれないんだ。
坂口安吾がね、好きなものは、呪うかころすか争うかしなければいけない、そう書いたんだ。ぼくはこいつ、どこまでも正しいと思うね。ぼくはかつて無償の愛に焦がれていた、それをね、ころしたんだ。絞殺。されどぼくはただ、この期におよんでもきみをうじうじ呪っていたんだよ。
ようやく本心が視えてきたんだ。本心。胡散臭いことばだね。ぼくにはそんなものはないとおもっているよ。あるいは無数にあるんじゃないか。しかしあえてこいつを使おう、ぼくの本心はね、きみという美を、呪うことでも、ころすことでも、獲得するために争うことでもない。ぼくはきみに、殺されたいんだ。愛するひとに殺されたい、非常に平凡な欲望であると思わないかい。この醜悪なぼくという肉体を、きみという美にがんじがらめになることを希むんだ。引き裂かれたいんだ。ぼくはね、ぼくなんていらないんだよ。ぼくは自分のことばかり考えすぎているんだ。自画像に轢死しそうだ。貴様はまるで神経的に澄んだ青空のようだよ。きんと冷たい硝子の反響が響きわたるようだ。歯の治療さながら、ぼくの神経をひりひりひりひりわななかせるんだ。きみを視るといたいんだよ。美というものにはその存在じたいが「我」を忘却させ無我へ引き伴れる筈なのに、きみは在ればぼくにどこまでも「我」の存在を突きつける。とすると、きみは美ではないのかもしれない。或いはぼくの眸に張る地獄がきみを美とみまがわせているのかもしれない。地獄の花。若しやそうであるか?
無ければいいのに。きみなんか。ぼくはきみという青空にね、あるいは風景画に、わが身を磔にしてしまいたい、そしてズタズタに空から降る神鳥に喰われ罰を受けたいんだ、そのときぼくが身はどっと赦されるであろう、そしてぼくからついにぼくが剥奪され、空の反映に侍らせられたいんだ。妄念。そうだね。そうなんだ。もう一度訊こう、こんな欲望の、なにが善く美しい? 殉教なんて嘘じゃないか。自己犠牲なんて悪じゃないか。
黒猫。さあ、はやく、ぼくを殺しておくれ。ぼくの絶対的な孤独と罪悪の意識を噛み締め舌でしゃぶりながら、その失念のなかで息絶えたいんだ。ぼくには、ぼくなんていらない」
杯から毀れ落ちた水が、ぞっと狂乱するように燦き立つように、黒猫の眸が真蒼に燃えあがり、あたりは黎明の底のようにましろへどっと変色して、刹那、硝子と肉の綾織る不協にしてpsychedelicな響きが轢き散らされ、跡には鼻のひん曲がるような悪臭のほか、なにひとつだって残らなかった。
自卑と純潔
1
津田はけだし暗みをうろつくやつれた叙情詩人であったが、その精神という肉体器官は、残忍なデカダンを生活するにはまるで向いていなかったのだった。
元より甘さの残りすぎるナイーヴな美貌を所有していたかれだけれども、強行された鉛を轢くが如くの頽廃生活によってその容貌へ刻まれたものは、けっして勇壮な戦士の面構えではないのだった、不幸な境遇に抵抗をせず曳かれたままに過ちをおかした犯罪者めく、いたましく悲痛で惨たらしい男の残忍な顔付がそれなのだった。
津田は小説家であった、不幸に佇み幸福を拒むことを自恃とする幼稚性を感じさせる作品を書き綴り、その作風は屡々暗い緑と翳りに照る橙の彩られた甘ったるい感傷に傾いて、俗悪な薫の濃ゆい過剰に美しい文体を穿つように花咲かせた。かれはけだし世俗へ反抗の刃物を投げつけることを宿命とする呪われた種族であったが、その刃に金属の鋭利な切先なぞありはしない。柔い、淋しいほどに肉感の籠る悲願が、その悉くであるのだった。
かれは妻のほかに数人の愛人を所有ち、バアで引掻けるように誘った女性とゆきずりの一夜を過ごすことも屡々、亦、娼婦ともよく遊んだ。ひとのいたみを感じられない残虐なエゴイストとも評され、欲望を肯定した作品と矛盾しない情痴作家と罵られ、唯、かれの作品を愛読するうら若き読者のみが、その行為ののちの自卑をかれの純潔の証と読んだ。けだしそれはかれによく似て呪われた愛読者たちへ与えて了ったある種の慈悲であったのだが、その解釈をだれよりも軽蔑したのはほかならぬ津田であった、生活に爛れ失いかけている甘い美貌を、それへの冷笑により歪めるように唇をめくりあげたのも亦かれであった。
きょうは愛人との逢引であった。津田はその女のことをむろん愛してやいない、性欲だってたいしてもてあましているわけでもない。遊ぶ。そのほかに、なにも、ありはしない。
遊びは、地獄の生の気晴らしなぞではない。
生の地獄をより神経に打たすための、自虐的な生活方法である。
かれは先日出版し酷評と賛美を受けた短編に斯く狂おしい叫びを穿ったが、かれの本音を汲む批評家は皆無であった。
うるわしい長身痩躯に、崩れて粋な洋服を纏い街をあるく、そのあしどりは如何にも後ろめたげ、一挙一動の醸すふんいきが魂の華奢なよわよわしさを連想させ、伏し目になりがちな視線は弱気な印象で地をうろうろと彷徨う。
或るアパートメントに入り、インターホンを押す。素気ない色香の女の声が幾分の期待に潤ませて返事をし、扉がひらいて中に入る。自卑。嗚、自卑。俺はなにをやっているんだという感慨が、かれの淋しく澄んだ眸を鴉の翼の影が去来するように赫う。
女は、部屋のドアの傍で俟っていたのだった。
そののち、男と女はそれ程に時も経ず、傷負った躰が野原にくずおれるような陰惨さで、情事へと落ち窪んでいったのだった。
…
「先生はわたしを愛してくれている?」
「愛しているよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないさ」
「嘘でもいいの、わたしが先生を愛している気持を、わたしだけは信じているんだから」
嘲笑。かれは自分と遊ぶ女の悉くを、軽蔑している。我と遊ぶような軽薄な女たちを。或いは、女のなかの「女」というものを。津田は、そんな男であった。
…
家に帰り、妻と病弱なわが子は眠っており、我に大切にされないふたりを憐み、滝が湧くような自責がこみあげ、嗚咽を抑えてそろりそろりと書斎へ行って、ごめん、ごめんと呻きつづけた。ベッドに横たわり、乾ききった涙がとめどなく流れ、わが選択によりわが生を台無しにしているわが身への憐憫・切なさに胸は絞めつけられ、声をころし、ふと、枕許に置いてあったわが作品を人生の問題として愛読してくれる少女の手紙を読み、「わたしは死にたいのです」の短い文字に視線を泳がせ、やりきれねえ、やりきれねえ、と、ふるえる声で病人のように呟きつづけていた。
*
かれの本性は家庭人であった、自己に閉ざされ舐めるように尖った舌先の視線でおのれを注視させる病的な内気さともいうべく不幸な肉体器官を生れもった人間であったけれども、しかし良心をもち、怯えながらひとを思い遣り、他者を傷つけることに傷つき、他者のいたみを同等かそれ以上に受け、つまりは芸術家として最低劣の弱さと不才をもった、憐れきわまる平凡人が小説家・津田理であったのだった。
2
津田理の手記より
慈悲。俺は、そいつを拒絶する。
自卑だ。俺は俺の身にこの世でもっとも卑俗な自卑をのみ、赦す。甲斐なき地獄ののたうちの幾夜を耐えることが、わが自恃だ。救いなぞを欲する作家に、読者への救いを与えることはできぬ。
神よ。我に自卑を与え給え。
俺には、俺の愚作なぞを読み耽る読者が、憐れであわれでたまらない。たすけてあげたい。たすけてあげたいという俺の意欲が、気味わるくて気味わるくて吐きそうだ。
芸術は、時代性を宿り背負った人性の永遠性への奉仕である。
ファンに奉仕するような芸術なぞは、ない。それは、唯、罪である。俺のオモチャがそれにほかならぬ。
学校新聞の端に書かれ、気休めとしずかな笑いを与える四コマ漫画が、俺の小説である。そこには、かなしい無償の商品性をしか発見されないが、しかしそれ、自己の穴を埋めるサーヴィスというしかあるまい。
優しくなってみたい。
*
悪友がいた。安芸山という不良作家であった。ともすれば不良とよばれる人種は古今東西をとわず、おおくの場合周囲への迷惑への鈍感さを所有する。先ずもってこの気質が路上喫煙等や破天荒な行為をしえるある種の勇気を出発点として説明する、それに信念と格闘がともなえばクールにみえることがあり、亦そういった悪人性というものは外界への勇気ある決断と外界を破壊し再構築する力づよさへすら促すことがある。善人も悪人もけっきょくのところどっちもどっち、好悪つけがたいというほかはなく、けだし津田は悪に踏み込めない善人がその本性であったことであろう。むりに不良を装い皮膚をひっぱり引き千切るように肉を酷使させていたのが津田の生き方であって、翻って安芸山という男はそんな鶴の如きナイーヴな優美さなぞ持ち合わせていやしない。
「地獄に堕ちろよ」
と、安芸山という男は津田を苦痛へそそのかす。冷酷で、残忍で、虚空を孕む隆々とした巨体を乾いた笑いに膨らますような男。津田も亦長身であったが、ほっそりとした優美な躰つきの傍らに安芸山がいると、肩をちぢこませているようで如何にも弱気な印象だ。
「地獄で書くんだ。其処で花を摘んで来い」
「桃の花はあるかしら」
「血の匂いの濃い、どぎつい真赤な肉のような花はあるさ」
「妖婦のような?」
「妖婦のような」
「どぎつい真紅を肉ともども投げだすような女はいるのかね」
「判らない。ただ、俺はいるという推測に賭け、肉を千切っては仮の月へ投げているんだ」
「千切っては投げ、千切っては投げ」
「そうだ」
そういって、バーボンのきつい薫のする口臭を津田へ吐く。
「つまるところ鬼だ。文学者とは、鬼でなければならぬ」
安芸山の眼は、冷たい。ジロリと一瞥するときの冷然さは、恰もひとをぞっとさせるようだ。それが海や空に向けられたとき、かれのまなざしは透明になる。孤独をすら清ませるように、澄み切る。
「金がないね、津田くん、貸してくれたまえ。飲み屋を訪れよう」
「ひとに金を借りて、その金でいっしょに女と遊ぶひとがいるかよ」
*
真夜中はバアの女とホテルにいた、その朝はけだるく、知らない女の寝顔に嫌悪を感じた。
起きぬけにコーヒーを二杯淹れ、机に置いて飲みながら女が起きるのを待つ。砂糖を二つそばに置き、自分のカップには三ついれている。
「あなた、小説家なんでしょう」
いつのまにか女は起き上っており、わたし見抜いていたのよとでもいいたげに機嫌よさげな表情でいう。
「ああ、そうだ。よくわかったね」
「わかるわ、津田理先生の写真は拝見したことがある。ねえ、わたしのことを小説に書いて。名作に残ってみたい」
「書くさ、書くさ。美しいロマンスにしよう」
けらけらと笑いだす、あっけらかんとした素直な女。こういうところは、かれには好くうつった。
「そんな柄じゃないわ、わたし。愛人役でいいわよ。遊び人で、軽薄で、だらしなくて、セクシーな愛人」
「君はそんなひとじゃないよ」
「あら、なんでわかるの?」
「丁寧で大事そうなセックスをするから」
「何いってるの? 先生」
センセイ。かれは、この言葉を投げられることを、憎んでなどいない。怖れている。自分がだれかになにかを教えるかもしれないという不安に、情緒が波うつ。
「君のうすかわさながらの軽薄さを剥ぎとってあげるよ。ネイルアートのように丁寧にコーティングされた偽りのだらしなさを指で剥いて、真赤で綺麗な君の本性すら抱いてあげよう。ひとはその領域をケダモノというかもしれないが、しかし、ここを抱かないで、どうやって人間を愛しえるだろう」
「変わったことをいうのね。それでどぎまぎするのなんて、わたしくらいよ」
かれは、女のしろいてくびをつかんだ。やさしく、辷るように。指をいとおしげに絡ませ、首筋へ幾分紅すぎる唇を沿うように重ね、ぽつりと、或ることを低いこえで囁いた。
うえへ昇るうごきで、ようよう摺り落ちて往ったわが身が、ついに詩の血を塗った爪の割れ下方へ堕ちた音楽を聴いた。それはふしぎに陽気で、駆けるようであった。
貞節の、破棄。
その音であった。
*
死ぬ気で恋愛しないか、と、かれはいったのだった。
かれは誠実にも、それを果した。
4
自卑と、純潔。
自卑というものは純潔の為す心のうごきではなく、純潔の証明でもなく、飽くまでわが身の純潔への確認作業であるといえるが、実際のところ、そんなものありはしないだろう。自卑というのは、疵の疼くかゆみへの愛撫である。亦それと似たものが、性的嗜好とは傷への愛撫であるという言説だ。これ等は、肉まで千切れば、真紅の湧く。
真紅をさらす恋とは、最期の豪奢なる爪のひと裂き、いわく死であるのかもしれぬ。恋愛のきわみは、死であるのかもしれぬ。
愛は己を千切るものでなく、なにもかもを剥ぎとった我を、外へ全的に投げだすものであるかもしれぬ。
自卑は、愛へ促す注意ぶかき方法ではない。自卑は純潔の証であるか。否。愛を促す自責は、おのれを卑しめたりなぞはせぬ。憐れむことでもない。同情である筈もない。信じることである。だが、おのれを信じた人間が、津田の如き陰惨な人間研究を報告した負の小説を書ける筈もない。
なにを信じるかを、与えられてはいけない。与えてはいけない。それは、心が、求めるものだ。
詐・カラシイ
おば様。
ぼくは、邪悪です。
ご存知ですか? 実にじつに邪な魂をぼくは秘めているのです、おば様。機嫌のよい時にかぎるなら、柔かな物腰で慎ましく笑みを浮べているひとだと云っていただけるのですけれども、その内奥、ずっしりと密度のある黒蛇のたうつ如くの邪悪がひっそりと棲んでいる、紛うことなくそれがぼくという人間であるのです。わが身はその重みを抱え込むにはまるで向いていません、何故と云い、ぼくはその心に抵抗し改善のため形状を変容させようと良心を働かせること甚だ覚束なく、その邪悪な蛇とするする愛撫しあっているような自覚さえあるのですから。ぼくは邪悪です、と、上から俯瞰し視線を粘液にすべらせるようにわが罪さらり平然と書きえるのが、その証拠ではないかしら。
“Se carasserer”
仏蘭西語で、「愛撫する」という意味なのは、英語教師の貴女ならばご存知でしょう。
この頃、ぼくは文学への趣味が高じて仏蘭西語に凝っているのです。いや、のらりくらりと進んでは休憩し、気付けば前の勉強内容の殆どをわすれ、亦はじめからやるようなきがるさでやっているに過ぎないのですが、この、日本人の耳には過度に気取ってきこえる、ダイヤモンドのカットさながらに硬質な響きを光らせる「セ・カラ」の発音、それに追い縋るまるでバニラ・シガレットの吐息曳く「シイ」の余韻に頬を寄せる安息、それ、さながら別れ際の恋人の踵の影にキスをするような甘ったるさ、気恥ずかしさ。そう想いませんか? こういう経緯で、ぼくはまるでぼくに安住して了っているのですよ、おば様。
*
先日、ぼくは友達を失っちまいました。
ぼくはかれを口汚く罵っちまい、恰も古い友人であるが故に知るかれの傷へ刃を突き立てるが如くの言葉を選びました。ぼくは情緒的には錯乱に近い状態でありながら、細心の注意を払ってもっとも残酷な言葉を精緻なゆびづかいでとりだして、外科手術にも似た冷然な手捌きで毒にぬらぬらと照るメスをかれの心に刺したのです。そこが古傷だと識っているが故に。かれがその言葉を至極怖れていると識っているが故に。
肺が痛い。どうやら、ぼくは煙草を吸いすぎているようです。圧迫されたような、膨張に痛むような感覚があります。時々、激痛火の如く奔り抜ける。怖いですね。然しぼくは、久坂葉子を模して煙草なしに書かなくなったら──あのダウナーでやさぐれた灰のかかる蔓に秘められた硬質な少女性には、どうも頽廃に憧れる少年少女の心の琴線を刺激するものがあるようです──ほんとうにそれなしには書けなくなったたちでありますから、ここで、一端手をとめます。あす、亦つづきを書こうと想っています。
*
病院の庭園はしんと緑にしずまったように閑静でありましたが、時々、毀れこぼれおちる情念さながらの鮮明な花が咲いていて、それひっそりと熱を帯びる涙を落すような印象、或いは、まるで狂乱が瞳孔をひらかせるような異様な象徴がされているように想われることがありました。
ふ、そんなささやかな音が立ったようです。それはふだん明るく振舞う鶴のように淋しげなひとが、魂の華奢さを暗示させる道化人が眼差を不意に憂いに沈ませる、それをみとめた時のわれわれの情緒のもたらす音のようでもありました。
それというのは後ろめたげに茎の背を葉群の奥へ反らせた先に咲いている紫の菫の花があったのでありまして、ぼくはそれを一種残酷な気持のままに茎のほうから引っこ抜いてしまったのですが、それを花だけの状態に千切って、噎び泣きたくなるような心情でうずくまるように背を折りまげ、しろく硬化してゆくわが背骨を想い、ぼくにはその菫が病院から盗んだという罪悪のある故に、さながら芸術のようなものだと感じもいたしました。
菫の花は、芸術です。
真紅の情と青の理を綾織らせた、柔かい紫の美です。それを盗むのが、表現です。
ぼくはそれをうす重たく被さる空へ抛りましたが、空圧によわい形状をした菫の花はたいして舞い上がりもせず重力に従って、ざらついた土へ落ち横臥わりました。ゆびについた紫の染みはぼくにはヤニのそれのようにいとおしく、翳に濡れたようなゆびさきを匂うのは、まるで後ろめたい悪戯の高揚をもたらすようでした。…
*
ぼくは一年前の悲しい恋愛を終え、亦ふたたび、精神病院の入院病棟で知り合った年上の女性と恋愛関係にありますが、然し、ぼくは彼女と恋人どうしになった刹那に恋が冷め果てたのです、自己本位にも。それは彼女のその時の表情故でありました、あの期待に潤み熱の漲るような眸は、どうもぼくのこのみではないようであります。それをぼくなぞに向けるという浅はかさに、わが身はまるで耐えかねて了うのです。
ぼくは酷い男なんです、というのも、ぼくはいま働いているところにいる夏木さんというひとに片想いをしているのです、それをしながらの恋愛なのであります。それは退院し元の職場に戻った後に始まったものでもなくその前からでありまして、追憶より仄かに薫り曳くささやかな恋──それは年上の女性と知り合ってからも幾分は残りつづけたものでした──それが炎えあがり身を折るが如くになったのは、つい最近のことでございますけれども。
えたいのしれない口惜しさ、怒り、轟々と唸る空白のような劇しい淋しさがぼくにございます。それは理不尽というものに対するそれ等であることは共通していますでしょうが、ぼくはそれへの対処を拒んでもいるのです、何故といいぼくの「わたし」を歪めうるなにものかを許容しそんな言説に含まれた状態で「わたし」を重力に落してしまえば、いったいぼくのような野原を彷徨うやつれた抒情詩人に、なにを書くことがありましょうか?
ぼくはぼくを理不尽に従属させ、「わたし」をけっして言葉に追従させず、唯自分じしんの言葉を求めてきたつもりです。疵つき擦り減ってゆくぼくを想うのはぼくには自恃を積雪させたのであり、ようよう我の声がささやかに、やがては口さえきかなくなったことに安息すらえていたことがございました。されどそれは誤りであった、然り誤りでありました。
その努力故にぼくは所謂臆病で受け身、大人しい人種だとみなされており、以前の臆病ではあるものの好戦的で気性の荒いエゴイストのぼくは余り外へ出なくなり、なにをいわれても謝り、自分ばかりを責めたて、どんな命令にも従い、さすれば点のような視線を呆然と泳がせる、風景に黒く穿たれたような一頭の奴隷ができあがりました。当時バッハを聴いた日にはいまにも平伏してすべてを投げだしたくなるような心持に駆られていたのでありまして、しかしそれは、自己を無へ飛ばしてしまいたいという現代の生き方に反するそれであったでしょう。ぼくの元来の狂暴な血はやがて黒々と固着し心臓をがしと脚を蟠らせるようになり、心臓は生きる意欲の欠損した血を供給して、うずくまり涙すら出ぬ幾夜を約束想い起こし想い起こしやりすごすだけの日々、心的状況をいえばこんなところでありましょう。やがては躰の方に限界があらわれて、そういう経緯で入院をしたのであります。
退院したのはついこのまえ、冒頭の事件はそのすぐあとでした。
*
今夜は筆がのります。くたばっちまうまでは書きましょう、ぼくの邪悪を、怒りを、口惜しさを、憧れを。
と書くと、どっとのしかかる倦怠。終えましょう。気分屋のぼくにはこんな書き方しかできないのです。
セ・カラシイ。セ、カラシイ。実に、じつに気が利いている。賢しい響きでしょう、そう想いになりませんか?
*
ぼくの初めての恋人は、それは気の利く、思考の明晰な、男を夢中にさせることお上手でけだしさかしき女性でありました。彼女は氷のような冷然な光でぼくを打つかと想えば、火のような憎悪にくるみとるようにぼくのとろむ淋しさを抱きとめるのでした。ぼくは必要とされているという錯覚に完全に陥っていて、その轟然な火をそれの証左と見紛っていたのでありました。
ぼくは彼女の情緒にまるでふりまわされ、別れて暫く経っても彼女の激情を懐かしみ、恋心は消えなかったのでありますが、それが萎めば今度は彼女を憎むまでになりました。されどふと気付けば、最近のぼくは当時の恋人になんだか似ているようであるのです。
彼女は苦しんでいるひとでした、彼女はぼくに頼り、寄りかかって愛の言葉をささやき、ぼくはそれに支配の期待を隠した恋ごころでこたえたのでした。弱く、慎ましく、ひかえめで、卑屈な可憐さに満ち、されど火の獅子の如き魂を抱えていた彼女、甘えられる相手には激しい暴言を吐き、浮気をくりかえし、ぼくは気弱さと惚れた弱みゆえに恋人に云いかえすことすらできなかったのでありました。果して、彼女はそれにぼくのような自責をしているのかしら? それはいまだに残る疑問であります。
いま、彼女への怒りが社内での我慢と結びつき、蟠って、いいえ、いいえ、ひとのせいにしてはいけない、けれどして了うのです、ぼくはひとのせいにして了うのです。どうも、そういう悪癖を巧く対処できません。天命だとか、いろいろ事情があるからスルーせよとか、そういう言語がいまいち解らない。原因を解明して、白黒すっきりと説明したいという意欲がつよいのです。いまのような情緒のときは、ついひとのせいにして了う。
ぼくは加害・被害という問題が白黒はっきりつかないと知っているから、正常な心情の時はいつまでもみずからの悪いところを考え込み、そして病んで了う。奴隷の心情であった入院前はある種麻痺していたので徹頭徹尾自責の人間でありましたが、それ、ころりとうらがえったようであります。最早、どうにも誰かを攻撃したいという、低劣な悪質な気持になって了っています。それがあろうことかその時一番優しくしてくれる友人へ向ったのだとしたら、とんでもない当てつけでとしか云いようがない。自卑。自卑の念に苛まれ、ぼくはうずくまるばかりです。
他責の思考への反省。たとえば、対処を調べます。じっくりと読みます。ぼくの文学的態度を、侵すものばかり。ぼくは独自の道徳改善、性格改善を行います。そこに、自己否定がどうしても介入、いいえ、出発点すらそれであるのです。ぼくは、わが身を、まるごと壊したいという欲心から、どうも逃れることができない。
おば様。
知性家のあなたなら、この自卑、悶え、変えられないものを固持しながら変わりたいという葛藤、これらの気持を、解ってくださるかしら?
*
石川は、「ひとの自尊心や自意識を許さないタイプ」、といっては余りにいいすぎでありましょうか、しかし、ぼくにはそういう云い方をしても仕方がないと想われるのです、ぼくは幼少期よりの稀代な倨傲さを所有しておりますから、自画自賛はあたりまえ、頻繁な卑屈な言動、けっきょくは尊大さのうらがえしでありますし、或いは世俗の通説へ逆説をむけた、「おまえらからすればぼくはこうなんだ」とでもいいたげな嫌味なそれ。文体からも伝わるとおり、脹れあがるアンスリウムの如き自意識を抱え込んでおります、石川にはそれが、不潔で不潔で耐えがたかったのでしょう。天狗になった芸能人、鏡で服装を直す若者、皆みんな許せないような態度をとっておりましたかれには、ぼくをそれ等ひっくるめて歪みきったひねくれもののように映っていたのかもしれません。
ええ、石川というのは友人です、ぼくが暴言を吐いた、そのひとです。
石川のひとの自尊心を許せない感情というのは、うらをかえせば、みずからの自尊心を許せないからだということになるでしょう、そうでない場合もあるでしょうが、かれと数年ぼくが友達であったのですから、なんとなしにそれが伝わるのであります。
なんとなし、と書くと、なにも書けていません。ぼくはこの手紙を文学的なそれにしようと企んでおります、ここに、一条の人性の真実が暗みとして引き揚げることができるなら、それで甲斐はあると考えております。ぼくにとり他者とは人性追求の実験対象なんです、ええ、酷い人間でしょう。了解しております。そしてぼくにとってのぼくとは解剖手術の実験台であり、病状報告の素材であり、血塗れの手により掴まれ投げだされた人性の宿る肉体なのです。ぼくは企み・思惑の邪推激しき心理をすいすいと脳裏で泳がせて、恰も自意識を我に与えられた疵にのたうたせるのが趣味のような男、こういう心のうごきというのは、やめようとしてやめることなぞできやしません、ご存知でしょう? 何故って貴女も亦、文学が好きでいらっしゃるから。
それならば独りで自分と話していればいい、ひとにその牙と血塗れのうでを向けるなと貴女はいうかもしれません、いわないかもしれませんが、ぼくがそう会話をシミュレーションいたしました。それに反論致します。
ぼくはですね、「人間は、みな、同じものだ」という酒場の無頼どものアルコホル臭芬々な息の言説をまるで支持、他者への邪推と自己への批判等を素材に推論・類推等を重ねみずからの肉を台に置き敢えて傷を至る方向から様々な加減で与えて実験、心の状態の推移を観察、すれば人間というものをまっさらへ剥けえるのではないかと考えている。そして、それを作品にしたいのです。それが、レイモン・ラディゲに触発され心理小説家をめざすぼくの人生の第一の目的なのであります。しかし、どうでありましょう、このように書くと、「俺は生粋の人間追究家で、だからその仕事を為すために他者をすら実験材料とみなしている、それは生業としてあるものであるため仕方がないもので、だからひとを大切にすることができないのだ」といいたげでありますが、ええ、そのとおり。亦更に狡いことには、前述のうごきというのは、ぼくの欠陥を補う後付のコジツケでもあるのです。
ぼくは、自己否定をしている。それが、ぼくの文学の素材だから。その自己への暴力に、痛みを感じている。苦しみにより心は荒み、何故俺だけが、という低劣な意欲が生れ、それに従って、他者に自己否定をさせたいという悪の意欲が生れる。俺とおなじ苦しみを苦しめという、人間のもっとも低劣で荒んだ心のうごきに、まるでにゅると辷るように従って了ってしまう。そのうごきを定めづけているのが、わが文学である、と。改善の努力から、逃げている。作家になれてもいないのに。
自覚しろ、おまえの真実の悪に。そう、他者の心を撲りたいのです。
我ながら怖ろしい、されどぼくは、そのように考えて了います。人間の真実の悪。様々な人間に発症する、それの様々な表象の仕方。それをこの手に一握だけでも暗みの光として掴んでいると己惚れているがゆえに、ぼくは、他者へ人格非難のようなものを為して了います。俺はちょっとばかし物事を考えている方だという自惚れ、それがございます。他者の心の悪なんて解らないのに、ぼくは、それを為す。想えばこれは両親と初めての恋人に屡々やられていたこと、想ってもいない悪の心を決めつけられる邪推に暴力を受けるのは、たしかに日々の日常でありました。ぼくは自己を憎み、にくみ、しかし、人間を信じたいから信じようとし、内奥の光を眸にやきつけたいと悲願し、心理小説書きを志した。
従って、ぼくが石川へ「あいつはみずからの自尊心や自意識を許さないタイプ」だと書いたことに秘められる本音は、ぼくじしんその気持がある程度は解る、みずからの人生や現在に至る心の推移を逆算していけばおなじものが見付かるから、というかってな邪推によってつくったこれを、復讐のように突き付けてやりたい、おまえが俺を傷つける数々の言葉は、こんな意欲で(わが推測に過ぎません)吐かれていると自覚して欲しいというもの──おそらくや、そういう感情の順序によって推測されるでありましょう。
石川は、ひとを軽蔑してはいけないといいます。悪口はダメだといいます。俺はしていないとものしずかに豪語します。軽蔑にもさまざまな定義があるのである種のそれは実現しえるとはぼくも考えますが、かれのわが身を安全圏に立たせ時代風潮の風を纏い、ぼくの風刺的言語を「それをいわせる心が誤りだ、悪だ」と指摘します。ぼくにはそれがむしろ背をぐんと伸びあげてぼくの首根っこを掴み、正しい自分を信じてわが身を卑しめる軽蔑そのものに想えるのでした。まるでぼくを裁判にかけるかのような態度を感じ、いくら考えても石川が軽蔑をしない人間であるという風には想えませんでした。石川がたとえばひとの自慢を「気持わるい」と断じ、俺は悪口をいわないと自負しているのは、ぼくには矛盾のようにしか想えません。心の内の苦痛は物凄いことでありましょうが、それは「正しく善い自分」という自画像が先にあり、しかしその根では自己そのものに不信があり、それであるからその壮麗な自画像を必要としていて、それが疵つけばすぐさま心に蔽いを張りはじめる。他者にすこしても指摘されれば、腕で自己を覆い抱き、背をふるわせる。かれには自己への恐れがある、それを注視しない勇気のなさは、感受性の鋭さも原因の一つでありましょう。いたみを感じやすいのだ。かれは自尊心と自意識の怖ろしさに激しい恐怖がある、けだしその肥大の仕方はともすれば加害だ。かれは「正しく善い道徳」を守る自己を大切にし、それから克服できていると錯覚している。或いは「俺には軽蔑という感情が生れついてない」とさらり云ったこともありました。そんな人間が、自己の道徳を掲げひとを裁くわけがない。かれには「穢れ」への嫌悪がつよすぎるほどにある。無機的な光を愛し、体臭の欠損した数学に夢中になり、理知的な仏蘭西語の文法に玻璃細工の幾何学をみる、これ等はむろん良く美しいものではありますが、しかし、かれの愛するものはどうも人間の体臭がない。石川はどうもイノチを怖れているようでありまして、生あたたかい血と肉に肌を粟立たせるようなところがある。ひとの如何にとび出るか判らない意欲を不安がり、みずからの推測できる言動をする他人に安心をえる。
かれには世界が、かれの怖れるであろう風景、どす黒い肉と真赤な血のどろどろに入り混じり迸り跳ねのたうち飛沫の粘膜を外部へ放出させようとするひとの体内のように見えていて、それを地獄だと感じているのかもしれない。こういう人間は、生きていることが後ろめたいのです。それは、じつは石川の慎ましさ、優しさゆえでもあるのです。
むろん、これはぼくの一領域を説明する文章でしかない。
かれは、物質や心の形状を変えることを怖れ、それを、申し訳なく感じる人間だ。それはかれが、優しいからです。傷つけることが、できないのです。それによって、自責しすぎてしまう人間であるのです。だから人一倍ひとを傷つけるかれ、その時その時に、相手、そして自己への傷を減らそうと、問題から自己を切りはなします。傷つけていない自己のイメージを、守ろうとします。であるから、ぼくと石川のただの云いあいにすぎないのに、ぼくと道徳どうしのみの問題をつくりあげ、それを上から断罪する。それがむしろひとの心をくるしめるということを、見据えることはできていない。かれのわが身への過剰な忖度は、たとえばぼくたちへの思慮深い寛容さとして現れることがありますが、ぼくらの抱える猛獣がすこしでも爪を立てれば、パニックになる。
石川によって固定されたかれの硬質な世界観は、ぼくのような傲慢さ、非難にみるも無残に砕かれる軟らかい質感であり、けだしダイヤモンドのそれに似ている。切りはなされカッティングされたダイヤとは、たしかに、かれ個人の道徳に似ている。
石川は、うごきを怖れる。わが身がうごいて、その結果傷を負うことに消耗をしすぎる。傷を与えることに傷を負いすぎる、それによって、「美しく善い自分」が揺らぐからでありましょうか。けだし生きるとはうごくということで、抑々がかれ、憐れなことには、生きていたくないという人間だ。ぼくは死にたい人間であり、かれは生きたくない人間で、これは殆ど真逆といってもいいかもしれない。死にたい人間とは、死ぬほどに生きなければいけないと心の内奥からの声があるひとであり、その自己本位な義務に耐えかねているだけであるようだ。しかし出発点の人性は屹度おなじであるでしょう、おば様、そうお考えになりますか? あなたの見解もおききしたいのです。
有機が不潔の泥とみえる石川は、みずからの根がそれであることを恐怖している。現実という実態が、そのままの血と泥と体液の大河であることに慄いている。現実はうつろい、夥しい感情を孕み、どっとのたうっているのですから。
ぼくが指摘したかったことを観念的にいえばこれだ、石川という肉を、世界という肉に抉りこめ、やりたいことをやれ。ぼろぼろに疲弊せよ、エゴを世界という肉体に打って、打って、然り、やりたいことをやって生きるのは困難だ、だが君は一度でいいからそれをしてほしい、わがエゴを大切に抱いて無我夢中にうごいてほしい。そして、もし双方が熔けあい互いの形状が変容する刹那があれば、ひとたび還ってみるがいい、みずからの肉体の海に。炎の燈される、湿り穢れた生臭いぬるさに。イノチが肉体と相克し綾織るこの稀有なうごきに、美をみいだせるかもしれない。人間が生きていることは、美しい。美しいと、想えるかもしれない。石川。おまえは、美を愛している。
ぼくは、人格を非難なんてせずに、次のように云えばよかったのだ。こう云えばよかったのだ、泣き喚きながら。はや、ぼくの元にはいない君へ、叫んでみせるよ。
おまえの躰は、美しい。
しかも、そんなに綺麗な眸をしている。しずしずと昇る水晶の優美な香気が、しゃなりしゃなりと眸に水波をうつろわせている。うごくために発達した君の四肢は如何にもしなやかだ。きみの身振りは綺麗な弧をえがいてするりと旋回、そしてやさしげにぼくの顔を覗き込む。教えてくれ。なにが醜い。なにが、悪い。
自分を愛し自尊心を育てることへの抵抗はある種の優しい弱さに由来するかもしれないが、かれには自尊心を細分化できていないのだ。ぼくはそれをここで多くは語らない。しかし、一つだけぼくの信念を云おう。
ひとと比べるな、自恃だ。自恃をもて。
肉欲はけだし加害だ、どこまでも他の肉に侵入しようとし、破壊しようとし、滅ぼそうとし、だが、それすらも肉の孕む切なさとして抱き締めるほかはないのである。悪の心の存在を、否定しないでほしかったのだ。躰を信じることができれば、現実とのぼこぼこと形状を打ち合う相克の裡で、その推移を幾らでも工夫できる。不断にうごくしかない面倒なものだが、そもそも生きるといううごきこそが不断なものだ。現実に対応し、善くうごこうとする。美をみすえながら。それが生きるといううごきであり、うごくという生き方だ。
そして、お前はそれを誰よりもしているのだ。他者を慮りおもんばかり生きているのだ。ただ、躰を信じ労ってやればそれでいいのだ。
ひとに付属したやさしい気持の大きく純粋なおまえの肉体は、信じるにあたいするに、決まっているのだ。勇気とは舟を漕ぐ有機のうごきであり、有機とは勇気を櫂とする。その出発点が優しさであるなら良いと想われるけれども、石川にはそれが既にたっぷりとある。そして、かれ自身充分にじゅうぶんにうごいてきた、それが無駄なものだっただなんてぼくはいわない。唯、不信であった。変容を避け、避けて通ってきた。現実を変容させる意欲に従ううごきへの賛美は、たしかに強者の理論として怖ろしいものへ導く可能性をはらむ、それはかれの怖れた自尊心の一つの本性だ。だが、美をみすえれば、善くうごくことに徹すれば──しかし、どう転ぶかも判らぬのが人生であり、そのなかで生きることが生の俗悪美であり、果敢なさであり、それとまるっと対決するという荒療治が、石川を救ったのではないかと、そう想いもするのです。
おば様。
ぼくは、おばさまに語り掛けているという意識を喪失しておりました。
*
かれは随分に不安定なところがあって、いつ自殺するかわからないようなあやうさがあって──それ故にぼくはつよく云いかえすことが殆どできず、亦苛立ちが積みあがったのです──幾たびも一年前後の引きこもりをやり、おそらく、自分の真実というものを誰よりも怖れていたがゆえでしょう。どうしても自己批判ができない人間といいましょうか、鏡を眺め一点の染みすらも認められない態度を心の問題に転化したようなひと、度々ぼくはわが好戦的な風刺をする性格を根から否定し、ぼくの欲心を「絶対に想ってはいけないことだよ、その感情は間違っている」と裁くので、苦しくて苛立ち、「お前だってこういうところがある」といいかえすのですが、かれは断じてそれを認めず、「違う」と一言云い張って話すのをやめる、背をふるわせひっしで自分の認めたくない領域を視ないよう目元を掌に蔽う、そんな印象がかれにありました。それはぼくには腹立たしく想うことが多かったのですが、やはり、いたましく想えました。
たしかにぼくの他者への攻撃性は頗る悪質、その対処を亦文学と思想に縋り研究しておりますが、どうにも見つからない。ぼくが心理小説書きとしてのぼくでありつづけながら病気を治す方法が、見つからない。
「おまえのその言葉は、俺には不快だから聞きたくない」
そう、いってくれればいいのです。そうであれば、ぼくはすべて納得した。あのときも、逆上しなかった。ぼくたちふたりの関係の問題であるのに、かれはかれの開催する裁判所の関係者に、わが身をいれないのです。いつでも事件はかれの外にあります。ぼくの心と道徳の関係性のみを語り、ぼくの心の状態を否定するのです。ぼくは、現在の心を否定されることが、辛い。自己否定家のぼくでありますが、いまある心を、否定してはいけない、そう想う。その心をどういう軌道にのせ、どううごかしてゆき、いかによりよきかたちへ変容させるかといううごき、或いはその意欲の有無に本人の責任が宿ると想うのであり、それを工夫しながら擦り合わせて生きていくというほか、人間によりよき人間を求める方法はないのではないかしら。心を否定されても、どうしようもない。
たとえばぼくは、かれを罵りえたという低劣な状態を、対処し変容させなければいけない。
こう書いてくると、暴言を吐いたぼくにだって言い分・事情があるんだと言訳染みますが、仰るとおりです。しかし、この手紙の全体の構成における一つの効果を与える要素として、ぼくはこの文章を外せないと考えております。そしてこんな自己批判も、自分の欠点を自覚しようとしているよという煩いうるさい自己への注釈も亦それなのです。
ぼくは、かれに暴言を吐き、かれは、ぼくの元から去りました。
これだけが、物語です。あとのすべては、注釈です。なぜってこの手紙は、自卑と好戦がべったりと付着した、不純なる病状報告書でありますから。
ぼくはかれが恋しい、なぜってぼくの文学の話を聴いてくれたのはかれだけであり、ぼくにあんなにも思い遣りをくれたのはかれだけであり、石川は、まぎれもなく優しいひとだったのだから。その怖れからくる思慮を、他者への思い遣りに重ねえるひとで、ぼくとちがって、むろんひとから愛されておりました。
よりよき人間になりたいという悲願がこんなぼくにもございます。その願いはたびたびぼくの文学に裂かれます、ぼくという肉と、文学という肉との争いは、前述の現実の相克とやや重複した状態で炎が宿りえますが、しかし、人間関係はようよう崩壊してゆき、立派な人間から、ひとを幸福にする人間から、ぼくは更に離れていくようです。ぼくは誰だって大切にすることができないようです。ぼくは自己を大切にしないという態度を、信条にしちまいましたから。幻想の憧れへの執着を、はや約束しちまいましたから。ぼくはひとを大切にできない。自己を砕き血を流すのをみて歓ぶことを、はやぼくはやめられない。ぼくにはやめられない。
だが、否、であるからこそ、そのうえで、やさしくなりたい。
その人性の状態だからこそ実現しえるやさしさというものを追究し、一条でいいから、現実という大河へ零してみたい。文学を抱き締めるぼくとより善き人間になりたいぼくというのは、すでに引き裂かれて了いまいそうです。なぜってぼくの淋しき文学とはけっきょくは他者と結びつきたいという愛への追究であり、そしてぼくの文学こそが他者とわが身を引き離しているのですから。
おば様。
どう御思いになられますか。
こんなことは認められた作家だからこそ云えるのでしょうが──ぼくは、文学をやるのなら、人間を、やめなければいけない。
返信
自己へのセ・カラシイ。それが、凄まじい。
どう御思いになるって、そう想いますね。
久しぶり。
相変わらず、自分と自分とのお喋りの恥部晒しのような文章ですね。
わたしはいま東京に住んでいて、東大卒の研修医と結婚して、かわいい子供がいます。かれはとても優しくて、余裕があり、わたしに女らしい気持をあたえてくれるひとです。いちいち自分の欠点を並べて相手を困らせたりしないし、仏頂面で己に閉ざされた自己中心的なあなたとちがって、素直な優しさによって他者へおのずと手をのばす、あたたかい心遣いがあります。己の悲しみを周囲へ泣き喚きながら振り撒くのでなく、わが喜びを分け与える優しさと心の余裕があります。たしかにわたしは以前そういう余裕がなく、愛情を欲していて、他者をふりまわしてしまっていましたが、かれと結ばれて幸福になり、あなたの卑しげな言葉には一切共感できなくなってしまいました。
でも、なんのカモフラージュ、或いは宛先の詐称なのかしら? まさか親戚への手紙を間違えて送ったと思って読んでいたのですが、この手紙、わたしに向けて書いたのですね。周到、邪推の蛇、自己憐憫、他者への責任転嫁の鬼ですね。どうせ、小説的効果も狙ったのでしょう、それが作家の宿命だと自己へ言訳したんでしょう。
あのね、わたしに”おば様”なんていうのやめてくれる? あなたの元知人と結婚しただけでしょう。そんな不気味な呼び方をされる筋合いは、ありませんけれど。
「同じ苦しみを味わえ」と云うような心のよわいひとのジタバタな暴力なんて、わたしの生活には自他含めいまありませんから、すこし、驚きました。
「ぼくを罵った後に、あなたはここまで自己を苦しませえましたか」
そう、あなたはわたしにメッセージしていますね? 罪悪感を、与えたいのですね?いったい、克服する気ほんとうにある?
答え──いいえ。
あなたの考えでは、自己を苦しめるから、反動で他者を苦しめるんでしょう。下らない執着心を克服するどころか、それに青くさい意味をもたせていると、それを自覚しているとアピールしているんでしょう。まっとうな人間なら、そんな生き方をしません。そんなふうに考えません。したいのなら、かってにしなさい。嫌われていなさい。誰からも相手にされない人間でいなさい。
この手紙も、冷たくわたしの眼を辷ったみたいなもの。打たれなかったわ、あなたの文章。胸を打たなかった、あなたの人間洞察力アピール芬々のビョウジョウホウコクショ。もう、連絡してこないでください。あなたにとっては初めての恋人でも、わたしにとっては、昔旅の途中にみた、翳りを帯びるわたしにとってだけ素敵な湖のようにみえていて片足を突っ込んでみて、実質臭い水たまりのようなもの。すぐさま足を引っこ抜いて綺麗に洗い、つぎの彼に購ってもらったシャネルのハイヒールを履いたので、殆ど覚えておりません。現在のわたしには、幸福と、憩いと、大学の英語講師というひとから認められる仕事がある。愛がある。与え合うそれがある。あなたみたいな男は気付いてくれなかったけれど、こんなわたしにも、余裕のあるウィットに富んでいるところがあるって、かれは褒めてくれます。
ご披露しましょうか? あなたが喉から手が出るほど欲しい、小説的効果を差し上げましょう。あなたの詐りのお手紙は、文学の為に魂を傷つけるという名目の自尊心・自意識への愛撫は、文学として、あなたの地方の方言いわく──セカラシイ。以上。
柘榴と悪魔
わたし、古色蒼然な森の奥にひっそりとたたずむ、「夜と愛の美術館」という妖しげな館に住みついた、優美なる黒猫である。月夜の霧さながらに陰翳うつろわせる漆黒の毛並に、むっと蠱惑めいて爛熟した緋色の柘榴の実、よくにあう。
名前はまだない──と、いいたいところだけれども、館長がつけてくれた名前を、わたしはもつ。
髪結い。それが、わたしの呼び名である。
この美術館、館長の趣味であるエロティックにして耽美なるアートばかりを蒐集された──そう、訪れるひとはみなヘンタイ──、知るひとぞ知る、淪落の魔空間なのである。
わたしはそこを、ピアニストのゆびが鍵盤にふれるような繊細かつ大胆なあしどりで渉猟し、優美にしてしなるような躰のうごきで周囲を挑発し、訪れるすべてのひとびとからの愛をいっぱいに受け、そしてそのことごとくを、ふいっと猫らしいコケトリーで避わしているのであった。
*
嘗てわたし、海辺の町を自由に放浪する、誇りたかき野良であった。
わたしはしばしば海の傍の花畑に身をよこたえ、そのしなやかな美しい躰を憩めた。
夏、燦爛たる金の陽光が射しこんで、広大なしろい砂浜を灼き、音楽さながら立ち昇る風景の熱気はわたしを酔わせるにはじゅうぶんであって、青い海はしずかに波うち、眩暈のような光景の美しさに歓び、空に焦がれ青を映しさえした躰のおもて、悦楽にふるわせている。まるで男性性の希む女性の幻のすがた、反復するかのように。風が吹くたび、わたしの頬をなでるのは色とりどりに鮮明な花々、こんなときわたしは、大自然とわが身が身一点になったように感じられる。
そんな長閑な日々はすでに過去のもの、いまの居場所、人工の頽廃の世界、わたしがこのエロティックでデカダンな美術館を訪れたきっかけ、それは、小鳥たちの囁き声であったのだ。
木の葉が濾過し柔らかな蜂蜜いろにとろけた陽光の下、そのかわいらしい小さな躰を緑のちりばめられる枝にとまらせ、こっそりと秘密を交換しあう小鳥たちの姿には、なんだか水浴びをする裸の少女たちをみたときのように、うしろめたい感情をともない惹きつけるものがある。
彼女らが、こんなことを言っていたのである。
「森の奥にある湖のことをご存じ?」
「え? 知らないわ」
「そのおもては磨かれぬいた鏡面さながら、青みを映す湖は漣ひとつ立たず、真夜中は星空を反映して、群青を帯びた暗い水面に、星々の翳が、ラピスラズリのように燦めきうつろうのです」
気分屋、そして美しいものを愛しているわたし、すぐさま湖を探す旅に出たのだった。
しかし湖は見つからず、森の奥の暗闇で泣いていたところを館長に保護され、そしてかれの所有欲のままに、わが身、美術館に幽閉されたのであった。
まあ、わたしにとっても、わるくない生活なのだけれど。だって、食べ物にこまらず、しかもたくさん愛されるもの。
*
常連の「詩人」は、よくわたしの耳元で、「きみのために、魂を燃やしつくしてしまいたいんだ」と、はや脅迫めいた求愛をするのだった。浪漫派文学に、かれ、かぶれているようだった。
詩人、といってかれは詩人として生計を立てているのでもなければ、詩集を出版し名が知れているというわけでもない──ただ、詩を書いているから、詩人である。ふだんは、心を無にして怒涛のレジをこなす、大型店舗勤務の書店員。雑誌に投稿をし、落選を待つだけの身である。
「薄々感づいているんだけれども、いや、はや明確に知っているんだ、自分に才能がないってこと。だがぼくには、詩を書きたくて書きたくてしようがなくさせる衝動というものがあって、それに、仕方なしに従って書きつづけているというのが正しいのかもしれない。報われることなんて望んじゃいないさ。無名のまま、書いている途上でぼくは死ぬつもりだよ。しかし、そう考えてみると、ぼくは案外すでに詩人なのかもしれない。しかも純粋な、ね。才能だけが欠けた、純粋な詩人」
ああ、心のカラクリ。わたしにはそれが透けて見えるのだ。ほんとうに報われることを望まないのならば、投稿なんてせず、エミリ・ディキンソンのように、抽斗に仕舞えばいいのに。
かれはおそらく、淋しがりやなのである。自分の心から湧きあがる、つよいなにかを他者にぶつけて、過剰な自意識で恐るおそる反応をうかがう、いうなれば、幾分誇大妄想のみられる、ひと懐っこい迷惑者なのである。
「ぼくは肉欲の不在した恋というものをしてみたかった、すると髪結い、きみはすごく美しくてセクシーだけれども、人間ではない。性交不能。そう、きみは猫だ。そうであるのに、ぼくはきみに恋している。ぼくはこの恋に、なんて名前をつけようかなあ!」
わたしはかれの話がつまらないので、ふいっと尾を鞭のようにしならせて、その場から逃げだそうとしたのだった。
「ああその態度! もっとぼくを拒んでおくれ! きんと硬く撥ねかえしておくれ! まるで美そのもののように! おお、わが自己憐憫の焔! ぼくのハートに火をつけておくれ!」
ああ、煩い。
「ああ髪結い、ぼくの心はきみだけのものだよ。ぼくが好きなのは、貴女だけなんだ」
わたしはその甘ったるい常套句を背でうけながしつつ、優美にすべりこむようにしてその部屋を去った。
わたし、「あなただけ」という言説は好きじゃない、なぜって、わたしはわたしのあらゆる快楽を、あらゆるひとびとと共有したいから。悦楽の音楽にひらかれたわたしの躰はだれのものでもあり、そして、わたしだけの玩具でもあるのだ。
*
ひとびとは──といって、ほとんど男性だけれども──わたしをマノン・レスコーやホリー・ゴライトリー、あるいは「恋をしにいく」の信子さながらの、「天性の娼婦」のようにみていたのだけれども、まあ、ああいう蠱惑的な女性、果たして人間にいるのかしらともうたがわれるので、こんなにも人間の男性に有難がられること、わからないことはない。あれ、男がかってに創りあげた、都合のよすぎるくらいに都合のわるい、架空の女神なんじゃないかしら。
たとえば、色香のある美しい人間の女性が、ふっと男性からの求愛を優美なる振舞で避わすと、男性は深く誘惑されていると錯覚し、むしろ情欲は燃えあがって、アプローチにも熱が入るけれども、じつは女性、ほんとうに嫌がっている場合が多いようにおもう。しかし女性、肉体的なつよさの差もあって、あるいは対立を避けたがる性格もあって、やんわりとしか拒めないのである。まさかそれを「娼婦性」と呼び魅力を感じているのなら、愚かとしかいいようがない。
優美は、高貴に似ている。様式美である。本心は、仮面のそれとちがうのだ。ボオドレールのダンディズム、そいつに牢獄されている人間性は、たいしてちがわないのではないか。
翻ってわたし、ほんとうに好かれることを愉しんでいるから、ただ気ままに誘惑し甘えたいときだけ躰をすりよせ、ひとりでいたいとき拒んでいるだけなのだから、それをたくさんの男性に素直な心のままにやっているのだから、「天性の娼婦」といわれても、あながち誤りではないのかもしれない。
なぜ人間の男性、こんなにもわたしが好きなのだろう。なぜ、こんなにも愛されるんだろう。ふしぎ。
ところで、処女はお好き?
*
「パンクロッカー」なる男の愛し方は、わるくなかった。
パンクなる価値観というもの、それを浅学なわたしには語ることはできないのだけれども、かれの言説を逆さにし塩胡椒のように振ってみると、酒びたりなニヒルの呻き声ばかりがぱらぱらと落ちてくるような、そんな、まるで無頼派めいてフラットな息遣いが幻聴した。
「俺はね、」と、かれはいう。
「自分に正直に生きたいんだ。しかしエゴイストを全うするのもまた、俺に正直ではない。自分に正直に他者に献身し、そして愛したいんだ」
思春期である。すばらしく秩序と相性がわるそうで、わたしにはむしろこのましい。
「ぼくは二十歳だった、」と、とおくを眺めて──展示されている、虐待を被るO嬢を模した像のさらに向こう側をみすえて──こう言う。
「それがひとの一生でもっとも美しい時だなんて、だれにもいわせない」
かれは三十七であった、ロックスターが死ぬ齢、はや十年も超していた。太宰が死んだ年齢、そうでもあった。ポール・ニザンのかの名言をいうには、もはや格好がつかない。かわいいひと。そう想った。目元の皺、疲れた額、刻まれたほうれい線、うすい肩にやや突き出たお腹、そのすべてが淋しいほどに澄んだ眸と乖離していて、なんとなしに哀れげであった。青い翅をきずつかせ土を這う蛾、そんな印象があった。
周囲への威嚇をともない、艶やかな孤独を照りかえす黒のダブルライダース、さながらイノセンスを蔽いかくす重たい鎧、それはむしろ、不良な暴力の印象を凌駕して、奥にあるピュアな脆さを際だたせているようなのだった。
「愛して」
わたしはかれのみみもとで、そう囁いたのだった、くちからこぼれる音韻、”Miaou”にすぎないのだけれども。しかしわたしのこえの周囲でふるえ踊っている、かれの髪のさきをそっと引くような優艶な香水の薫、色香を曳くなめらかな調べ、人間のそれなんかに、負けるはずもないのである。
そうわたし、愛されるために生まれてきたの。
「わたしのこと、愛して」
「動物ってかわいいよな」と、聞こえないふりをしていう。
「ひたすらに自分に正直で、愛なんか微塵もないのに愛される、かわいらしくて、小さなちいさなエゴイスト」
あら、不服である。動物にだって、愛はありますことよ。人類の貴族性への信仰、動物(性)への軽蔑、わたし、好きじゃない。魂なるもの、人間も動物もどうように、ひとしく実在として睡り、不在としてめざめているはず。されどわたし、魂の視線、美と悪へむけているの──あるいは蠱惑的な虚空へ──ただ、それだけなの。
愛っていうのは、けっして貴くて自己犠牲を伴うような特別な感情ではなくて、わたしにいわせれば、慈しみの暴力のようなもの、倫理観やら理性やらという怪しげな観念からひとを離れさせ、ついに仮面さえも剥ぎとり対象と融けあい共に滅ぼされんとする、おそろしく可憐な、いうなれば殺意ですことよ。
愛とエゴを対立させるかんがえ方、パンクロッカーよ、そろそろ、やめてはいかが。苦しくは、ないかしら。人間──社会秩序との折合、ないし倫理と照らし合わせて、感情に優劣や貴賤をつくるけれど、あらゆる感情、肉体の体液の迸る衝動、猫なんかにいわせれば、なべて等価である。わたし、わたしと他者が愉しく暮らせたら、はやそれでいいのです。その為ならば、わたしはなんだってするし、なんだって売淫る。そんな、女です。
無益なくるしみを背負うこと、わるくはないのだけれど、後ろめたさ──罪悪意識の近代病、むしろ、他者や秩序に迷惑で、それだってエゴであるのだし──だって明るく朗らかにしてるほうが、周りも幸せじゃない?──もう、愉快に暮らし愛し愛されて、それに満足してしまうのはいかが?
愛されないひとはどうすればいいって? 知らない。なぜってどんな状態なのか、わたしには解らないから。
レイモン・ラディゲだってこう言っていました、在りもしない罪を希んで背負いたがる傲慢さ、耐えがたいと。はた迷惑な、ナルシスト。そうなのである。
「かわいいね」
少年さながらの眼をして、そういう。撫でるてつき、気持がいい。わたしはいつまでもそうされたいという気分でおとなしくていたが、ふいに飽きてしまったので、するっとそこから抜け出て、さっとはしり去ったのだった。
振りかえると、かれ、茫然たる眸をしていた、つめたい砂漠のようなものが宿っているよう、くわえて、こつぜんと火がきえたような印象でもあった。へんな眸。わたしはそれを気にもかけず、部屋の隅でまるまって睡りこんでしまった。
*
パンクロッカーはその数日後、自殺した。
*
さてここで、漸く「館長」の話をしようとおもう。
館長、知的で、謎めいている。そういうのって、色っぽくて、だいすきである。はや四十を過ぎているけれど、からだつきも細くて優美だし、関節がごつっと男性っぽいのがエロティック、つかれたような翳りを宿す中年の貌はセクシーだって、フランソワーズ・サガンも書いていました。だいすき、だいすきなの。かれもわたしを愛している、そうでしょう? 知っているの。
わたし、優劣や貴賤の概念がだいきらいで、あらゆる相対的な価値基準、憎くてにくくてたまらない。価値。この言葉すら、アレルギー的にキライ。好き嫌いだけで、わたしはものごとを語っていたい。ワイルドの登場人物が言っていたように、魅力的か退屈か、その尺度だけをもっていたい。あとはすべて、くろぐろとした虚空になげ棄てていたい。だってわたし、黒猫だもの。それが、赦されるはずなの。人間って、たいへん。同情する。していないけれど。
たとえばわたし、館長のわが身を撫でるゆびさきが好き。つめのさきまで清潔で、すっと綺麗な造形にととのったそれでゆったりと愛撫されると、わたし、そのままかれの魂がわたしのそれにめりこんで、ほうっと解けあい連続することを希んでしまう。
この部屋、青みがかったグレーを基調とした内装であって、額縁はシルバーで統一され、青・蒼・碧の絵画が壮麗に飾られている。さながら霧がかった群青いろの夜空で、幻の象徴派絵画がゆらめいているかのよう。わたし、ありとある部屋で、此処がいちばん好きなの。オスベール、シュテュック、デュルメル、だいすき。しずかに流される鮮血、すこぶる似つかわしい。
この「夜と愛の美術館」、エドガー・ポーの『赤き死の仮面』を模して、おのおのの部屋、単色を基準に内装をかんがえられているのだった。赤、黄、橙、青、緑、灰、白、そして黒。粋である。
それにしても、かれ、いつも沈鬱な貌をしている。不機嫌、というのもちがう、無気力、ともいいきれない。なにかを憂いているような、そんな眸をしている。
「髪結い、きょうも絶賛されたね。ぼくの蒐集したアートたちを」
そうね。凄く素敵な芸術たちだもの。
そういったのち、かれはしずかにその部屋を去って往った。
*
その暁、わたしは狂おしい夕暮れのそらに蔽われた森で、詩人に誘拐されたのだった。
「きみは悪魔だよ、」と、わたしを大事そうにがしと抱いて奔りながら、わざわざ伝えてくる。
夕陽の橙いろを反映する、わがつめたく燃ゆるけなみ、爛々と照りかがやいて。わるくないでしょ。
「きみは人間を唆し、落伍者の言説──ニヒルの甘美なる息を吐いて、無我夢中に愛されそれを愉しんでいるけれど、じつは、なにをだって信じていないんだろう。絶望しているのだろう。しかも絶望すらしていないんだろう。ぼくはきみを愛しているけれどね、それ以上に、きみを憎んでいるんだ。いっしょに死のう、髪結い」
「それならば、」
とわたし、なんだか愉しくなって言ってみた。
「湖に行きたい。かの死のむっと薫る、硬質な燦りを反映する湖上で、わたしは果てたい」
「にゃあにゃあ煩いね。まあ、ここまで森の深くに往けば、幾ら鳴いても、だれにも見つからないと思うけれど。どこへ行こうかな。そうだ、湖、あそこがいい。あそこは滅びには相応しい。そこで身を投げよう」
あら、通じた。偶然ね。
「聴いてくれるかい? 髪結い。
生というものはね、死に含まれているんだよ。逆じゃないんだよ。生は弧をえがいてすすむ点であり、それがはじまりに往き着いて円になるとき、その生の連続した円はまさに死と名づけられるんだ。いいかい? 死によって、生は完成されるんだよ。美しく死ぬことによって、はじめて生は美しく耀くんだ」
あら素敵な考え。豊かに腐爛した、かぐわしい匂いがする。わたし、それ好きよ。なぜってグラマラスだもの。グラマラスとデカダンス、永遠の恋人よ。退廃は、過剰でなくっちゃ、ダメ。
道はだんだんひらけていった、水の匂いがし、わたしは期待に胸をふくらませた。水の薫、わたしには、死のそれとおんなじであった。胸おどらせる、豊潤な美酒の爛熟した薫。よくいわれている、猫は水をきらうもの。そうわたし、ふつうの猫じゃないのです。黒猫。そうなのです。
こつぜんと燦爛たる蒼い光、眩暈の如くに、めいいっぱいに照りかえした。群青の夜空に蔽われた、沈鬱にはりつめた湖のおもて、それにはさまざまの蠱惑、水面をあしさきすべらせる舞踏のようにおよいでいて、さながら神の指のままにうつろう彫刻めいた夢の陰影、それ、ぞっとわたしたちを誘いこむようにゆらめいていたのだった。
天には月燦り、蒼ざめた銀いろをしていて、おそろしいほどに純潔ないたみ、あたかも象徴しているかのよう。悪の恩寵。森はそれらを額縁さながらに縁どられて、この風景が、地上のありとあるものから疎外されているという印象をつよめていたのだった。
殉教の風景画。そんなことばがおのずと躰から浮びあがり、殉死、そんなこと生物に可能なのかしら、そう、わたしは嗤ってみたのだった。
詩人よ。貴方、自尊心に捧げたいだけじゃないのかしら。
かれ、脚をがたがたと揺らし、声は恐怖にふるえていた。砂に曳かれたようにざらついた声。死の兆しに、わたしの心は浮きだった。
「ポーの小説に出てきそうだ」
「そうね」
とわたし、同意してあげた。
「死のう、髪結い」
「いいわ」
ひた、と優美な曲線をえがくあしさきを湖にしずめる。かれ、息があらい。性行為のまえみたい、そう想って、わたしは微笑した。
「人間にはね、縛られたいという欲望があるんだ。それは社会通念でもいいし、おのが倫理でもいい。単純に紐でもいいさ。無秩序に耐えられないという、そんな脆さがあるんだよ。ぼくには社会の道徳は向いていない。あそこを訪れる人間、たいていがそうさ。ぼくはぼくの死によって、わが倫理を実現し、そして貫徹する所存だ。もう生きていてはいけない、そういうものをね」
そしてかれはポケットから、大量のしろい錠剤が入った袋をとりだし、すべてをくちにふくんでかがみ、水面にそっとくちづけをし、湖の水で流しこんだ。ふらとかれの躰はゆらめき、そのまま失神するように、ゆらめく水のおもてに呑みこまれていった。
刹那、狂人がくちを巨きくひらき無言の叫びをあげたような印象で、ぽっかりと穿たれたようながらんどうの虚空、どうしようもない、轟然たる虚無を響かせる不在が出現したのだった、なべての宿命はそいつに呑まれて往って、気づくとかれの躰、水底へぐいと引き摺りこまれて往った。……
*
わたしはかれの肉体が沈むまではその場でじっとしていたが、かれが見えなくなり奥へと流されてしまうと、面白くなくなってきて、地上へともどった。
「髪結いー! 髪結いー!」
館長。探しにきてくれたのね。わたしは愛の衝動のまま、かれに飛びついた。佳い薫り。かれ、いつもスパイシーで、セクシーな香水をつけている。お似合いである。
「なんだい、この靴は。詩人のそれじゃないか」
わたしはその棘のあるいいかたが嫌だったので、ふいっと尾をしならせた。
「……髪結い、ひとつ、きみに説教をしよう」
と館長、冷たい眼をしていうのだった、わたしはそれが鬱陶しくて、ほんとうに鬱陶しくて、耳を垂らしてふさいだ。
するとかれ、わたしの耳をぐいと引っ張ったのだった。動物虐待! ──こういうときだけ道徳をもちだすわたし、可愛くて笑っちゃいませんか? え、そうでもない? わたし、わたしのこと好きにならないひと、キライ。
仕方なしに、館長の言葉に耳を傾けた。
「愛──肉体から迸る真紅の鮮血ともいえる感情、そいつをね、垂れ流してはいけないんだよ。愛はたしかに暴力だ、それゆえに、その感情のままにうごいてはいけないんだ。愛は、太陽とおなじいろをしていけない。黄いろいばらの不吉な花言葉をご存じ? 聴いてるかい? 髪結い」
聴こえている。そしてかれ、こうつづけた。
「美と善の落す翳のかさなる処、かの仄青い領域に、そいつを包まなければいけないんだ。むっと気品の薫る菫いろ、沈鬱に天空を照りかえし、しずかに燦るアメジストの感情、そうでなければいけないんだよ。善く美しく、その法則と照らし合わせながら、注意ぶかく、注意ぶかくひとを愛するんだよ。もっとも美しい色、ぼくには、静謐な紫いろだと想えてならない。だからぼく、この美術館に紫の部屋をつくらなかったんだ。しかしその赤と青は、交じりあってはいないんだ。切ないね。紫とは人工の色であり、しかしそれは、デカダンスのそれとは異なる人工性でもある。純潔なゆきげしきにひとしずく垂らされた真紅の鮮血、そんなものにもちかいのかもしれない。
美と悪の落す翳のかさなる処、たしかに表面は美しいけれどもね、じつは、それほど深くもなんともないんだ。なぜって、識っているから。肉をえた瞬間に、うちがわに所有してしまうものだからね。暴力的なデカダンス芸術、みんな、手放しに褒めすぎなんだ。あれは悲しいんだ。切ないんだ。なべての人間にこれが睡っていること、それを憂いなきゃいけないんだ。すき。キライ。それだけじゃダメなんだよ、髪結い。デカダンスにも悪にも善にも真実にも暴力にも惹かれる人間の心、どうしても美を欲する人間の心、その複雑さに佇み、注意ぶかく、注意ぶかく思慮をかさねなきゃいけないんだよ。
ぼくはうんざりだ。ぼくの蒐集したアートを絶賛する連中に。悲しめよ。そう想う。なぜ縛られて鞭打たれ人権を剥奪されたような女性の銅像をみて、こころから悦べる? こんな欲望がみずからに在ること、悲しめよとぼくはつよく想う。その悪の心を所有した人間が、如何に美と善の光へ向かうか、けんめいに櫂を漕ぐか、ぼくの蒐集した芸術は、その素材とするべきなんだ。
キライ、きもちわるい。そう突き放すのはたしかに浅薄だけれど、そっちの意見のほうが、どんなにマシだとさえ思う。良識的。そうさ。良識を突き放してはいけないんだ。とくに芸術家であれば、猶更であると想っているよ。
いかに悪と退廃に対峙するか。そんな意欲で、ぼくはこの美術館をひらいた。しかしもうすぐ、ぼくはこの美術館をたたむよ。理解されないということは、なによりも淋しいからね。
良識的なことをいうよ。自分ばかりじゃダメなんだよ、髪結い。たとえ芸術家であっても、自分ばかりを凝視めてはダメなんだ。月というのはね、美と善のかさなる処というものはね、ぼくたちの、心のそとにあるんだ。心を照らす美と善は、そとにあるんだよ。溶けあい摂りいれることは、不能なんだ。影絵さながら善を模する人間、善くあろうとする人間、だから人間は、美しいんだよ。脆いから、人間は可憐なんだ。切ないんだ。
髪結い、きみの感受性は、幼稚だ。それはきみが猫であることで、赦されることでもないんだ」
ああ。煩い。宗教と、倫理のニオイ。しかも、オトナの悪臭がする。キライなのである。精神的成熟、そんなもの、わたし、信じたこといちどもない。精神年齢なんて、悉くが社会秩序との相性の問題に帰するはず。生物は、どう存在しても好いのだ。感情の真実。あるいは、真実の感情。それらのみを、私は愛する。
かれ、デカダンだと想ってたのに、強くて悪いひとだとイメージしてたのに、けっきょく、退屈の極であった。ああ善人。魅力、皆無であった。
貴方、紫が好き。了解。されどわたし、黒猫である。なべてをどっと吸いこみ、ぞっと蠱惑めいた艶で悉くを等価に照りかえす、おおいなる虚空の色、すべてをのっぺりと等価に抱く義母なるやさしい虚無の色彩、おしなべてを価値-零として愛する「天性の娼婦」、生粋の淪落天使、そうわたし、黒猫である。堕ちぬいた処、いわく「地獄」に、わが身在るのかもしれぬ、されどわたし、その場所にあって、心から幸福なのである。そうであるならば、わたし、やはり悪魔であるのかもしれない。
わたしは館長の言葉をしずかにききながし、すっとかれの腕からすり抜け、その場から去ろうとした。足場がわるい。ああ。苛々する。
人間、どうにもやさしくて脆いから、わたしを本気で抱きすくめるには、余りによわすぎるようである。堕ちる勇気が、ないのだ。堕ちても、さいごまで、堕ち切れないのだ。だらしない。すぐ転ぶのだ、「善」というしろものに。転んでよこたわれば、頭上にはめいっぱいの青空、そんなものを、美しいだなんて想っちゃうのだ。尊敬しちゃうのだ。つい、愛してしまうのだ。なんてだらしがない。根性がない。詩人だって、そうであった。ふとりすぎた自尊心が、おそらくや、ああいう死を、あたかも善に見せかけたのだ。善への欲望、そんなくだらないものがあるから、人間って、おもしろくない。
わたし、欲望を実現する為だけに、争っているのです。つまり、徹頭徹尾、生と戯れているのです。いい生き方。そうでしょう。「猫みたいに生きたい」、幾度も、いくどもひとの口から聞いたのですけれど。されどけっきょく、自分をおしころしてでも、人間は、善く生きたいんでしょう。退屈ね。
群青の夜空をけなみにちらちらと照りかえす、優艶なる藍いろの黒猫が最上の愛を享けるんじゃないんなら、わたし、かの美術館から、去る所存であります。どうせ、閉館するようでもあるし。なんどもいうけれど、わたし、愛されたいの。程々に愛されるのって、キライなの。中庸とかそういうの、わたし、大キライ。極端がいいの。薔薇の花びらでいっぱいの宮殿さながら、いわく、過剰のグラマラスを、愛しているのです。わたし、情愛にとろけた血の海の裡に、どっと溺れていたいの。お解り?
さようなら、愛してくれた、人間たち。
さようなら、愛してくれた、かの死者たち。
ふたたびさようなら、美と善、そして倫理。
さようなら、「夜と愛の美術館」。
背徳とデカダンの仮面を被っても、人間、けっきょくは、善に屈するのでありました。残念です。ボオドレールは、善人です。
ふたたびこんにちは、美と悪の配合した狂想、アブサンの酩酊垂流しの、群青いろした壮麗な夜空。
わたし好きよ、あなたのこと。色っぽくて、音楽的で、とってもエロティックだもの。
わたし、月夜を照りかえし、青みを霧さながら陰翳ぶかきおもてにうつろわせる、優美なる黒猫である。お解り? わたしのことがどうしようもなく好きなくせに、わたしをきちんと抱き締めもできない人間、はや愛する気、毛頭ありません。せいぜい善なる玩具と、戯れていてはいかが?
*
と想った刹那、ふいに眼がくらみ、わが身ふらふらと揺れ、すればわたしの躰、誘いこまれるように湖へ落っこちて、するすると蛇が穴に還るような自然さで、不穏な水音を曳きながら、きんと冷たい暗闇へと呑みこまれていったのだった。
まあ、すべてそれでいい。そう、想っただけ。わたしにあらゆるものを軽蔑させず、つまりは、すべてをまるっと等価に軽蔑させる、魔のキーワード。
すべてそれでいい。
こうなる運命、わたし、識っていたのだった、なぜってわたし、いちど飼われてしまったから。人間のシステムに、とりこまれてしまったから。この秩序のなかでは、わたし、つねに銃口に絡まりエロティックに舞踊って媚を売り、愛らしさゆえに死刑を留保されつづけていた、背徳に腐爛した淋しき花束であったから。
地獄の悪魔の滅び、悲しくもなんともなく、美しくさえなく、ただ、幽かに、かすかにきこえてくる、「髪結い、髪結い」、そうわたしの名をよび、湖へ潜ってみじめに濡れながらわが身をとりもどうとする、卑しい館長の咽び泣く声が、すこぶる煩かった。
沈める黒死舘