霧の向こうへ
こんにちは、咲です。
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それでは、どうぞ!
プロローグ
ぼくは見た。
深く真っ白なその場所で。肌寒い空気に触れながら。
ちょうど歩き疲れた頃だった。
真っ白はどこまでも続いている。不思議な世界。感じたことのない、しかし違和感のない、まともであってまともでない空気が漂う、その中でぼくは見た。
白濁から差し込んできた光に一瞬だけ目をつむる。
「…………」
急に温かい風が顔にぶつかってきた。
驚いて目を開く。
あったのは――――都市だった。
とても大きかった。そしておかしかった。風船のような膨れた物体が無数に上を飛んでいて、それに取り付けられてる巨大なパネルには戦いの模様が映し出されていた。下には水しかなく、都市は浮いていた。孤島? しかし波がない。湖だ。
ここはどこ?
家はどこ……
「お母さん……」
子どもは溢れる涙を我慢するように上を向いた。見覚えのない飛行物体が目に飛び込み、彼の心はさらに不安に侵される。
そしてもう一つ、彼の視界に入ってきたもの――――それは、塔。
その塔は尋常ではない高さだった。雲を優に越えていた。表現ではなく、現実に。
彼はいつの間にか塔から目を離せなくなっていた。それは彼自身にもよくわからない出来事だった。塔はまさしく巨大な塔としか表現できないものであった。それ以外の特徴という特徴はない。古臭い廃墟のような雰囲気があるだけ。
しかし、薄汚れたその塔は、彼の目だけには違って見えていた。
燃えている。
周りの空気を食い潰しながら、力強く燃えている。誰も寄せ付けない威圧を発する鮮やかな炎を纏っている。敵意を剥きだしにして、鋭い獣の牙を構えて、来たる敵をまだかまだかと、身を奮い立たせながらそこに居る。
赤い塔がぼくを見ている。ぼくも”彼”を見ている。視線を離さしてくれない。何かを訴えてきている。ぼくに伝えようとしている。
”ぼくたち”の間に言葉はなかった。”彼”が何を言いたいのか、だけど理解した。
理解したと同時に――――涙が出た。
わからないけど涙が出た。
わからなくて怖くて、ぼくは泣き叫びながら無我夢中で走りだした。
「お母さん……お母さん!」
わからないことがたくさんあり過ぎて、どうしようもなくて、走り続けるうちに自分が誰なのかも忘れながらとにかく泣いた。
ぼくは泣いた。
1-1
肌がジリジリと焼けていくのを感じながら、ニコラスは前にいる因縁の相手を睨みつけた。体が蒸発してしまうのではないか? そんな風に思わせるほどの暑さに集中が切れそうになる。だがしかし緊張がそれを許さず、戒めるように精神を圧迫してくる。
「これで決着をつけます」
強張っていない自然な構えをしている彼に鋭く言い放つ。
「僕が勝つ」
「寝言は寝てから言え」
「うるさい!」
この上ない嫌味に暑さで溜まったイライラが触発されそうになるが、寸でのところでなんとか抑える。試合前だぞ、感情を爆発させてどうする? 冷静になれ。
そう、冷静に……いつも通りにやればいい話だ。いつもの通りに、完膚なきまでに相手を叩き潰せばそれでいい。この人だからもっと頑張らなくちゃいけないとか、そんなの関係ない。普通にやればいい。実力ならこの人と同等かそれ以上のはずだ。勝てる。
僕は勝てる。
「レディ……」
空から降ってきた審判の声に、熱くなっていた観客席が一気に静まり返る。視線が全方向から体に突き刺さり、皮膚をピリピリと刺激する。
「ファイト!」
合図と同時、狂気すら感じられる歓声が観客席から湧き上がり会場を支配した。暑さでイライラしている中、それらの騒音に追い打ちをかけられるように意識を無駄に刺激され、集中力が削られていく。だがどんなに知らず知らずの内に意識が外に向こうと、決して彼から目を離さない。離してはいけない。離したら何が起こるかわからない。常に彼を観察し、回らない頭で必死に対応策を練らねば気が済まない。
彼のいつもの妙に自然な構えが崩れる兆しはない。いや、単に自然というより、その構えは彼をそのまま表しているかのような独特な構えだ。寝ぼけているような警戒心のない、素の構え。
だから誰もが油断してしまう。無意識のうちに彼を侮り、自らの力を過信し、彼の隙だらけな懐に突っ込み、そして思いがけず返り討ちに遭う。
「さあ来い」
汗が開いた口に入り込む。突風に砂塵が吹き荒れ目に入るが、それでも瞬き一つすることを我慢する。恐れている。
だから一歩が踏み出せない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。自分が滑稽で笑えてくる。
彼の表情がわずかだがしかし確かに動いた。それはとても微細な変化だ。僕が笑っているのが不思議か? いや、あなたには不思議で堪らないでしょう。あなたには解るはずもない。負けなしのあなたには。僕が今どんな心理状態なのか、どんな気持ちであなたを見据えているのか。予想もつかないでしょう。勝ち続けているだけの、あなたには。僕がこんなにも焦っているっていうのに、あなたといったら……
ああだめだ。集中が切れ始めてる。剣を握る手が微かに震え始めている。これはあなたの作戦か? 僕を自滅させる気なのか? そうなのか?
突然だった。無表情だった彼の口が……少しだけ笑みを作った。
「はっ!」
僕は声に出して笑った。
――あなたは僕をその程度のヤツだと見当をつけていたんですね。
散り散りだった意識が一つに急速にまとまっていく。硬直し冷めきった体が熱さを取り戻す。沸騰した怒りが一瞬にして心を独占し、体内でわがままに荒れ狂う。
上等。
それが相手を侮るってことだって今あなたに教えてやります。
「調子にのらないでください」
「…………」
「来ないんなら僕が行きます」
「やっと前向いたか」
彼が生意気な笑みをちらつかせ、僕の闘争心を煽る。
妙な構えが変わることはない。僕の攻撃をその構えから受けようと?
(……おもしろい)
なら受け切ってみせろ、僕の全力。
自變化、駿足。
観客には一瞬のことのように見えただろう。20メートル以上はあったはずの二人の距離が気づいた時には1メートル、それもニコラスが背後を取った形になっている。恐らく、観客席でこれを見ることができた者はいない。それほどの自信がある。
(さすがのあなたでも、僕のこの技は見切れない――)
そう確信しての奇襲だった。そして、いくらあの彼でもガラ空きの背中を取られては瞬時に対応できない。この位置からの攻撃なら確実にダメージを与えることができる。
他變化、閻火斬り(えんかぎり)。
奥義を放つ。
両手に握る二刀が赤く淡い光に包まれ、次の瞬間には刃先を延長するように巨大な炎の刀が発現する。本来の三倍は優に超えているだろうそれを、無防備な背中へと叩きつける。
「やっ――」
やった。
……だが肝心の手応えがない。前に彼はいる。力なく地面に伏せている。その背中からは血がでて――――いない?
ポンッ
直後コミカルな音を残して彼が消えた。彼のいた場所にあったのは一本の剣。
剣を残して移動した? いや、違う。僕はこれを見たことがある。いくつか見たビデオのどれかの中で、この場面を見たことがある。
他變化、身代わり。
これは囮だ。本体は……
「他變化、水月一閃(みづきいっせん)」
上だ。
見上げ、強烈な青い閃光が視界を覆った。あまりの強い光に天地がわからなくなり、足元がふらつき、体が傾いた気がした。
それから何もかもがわからなくなって、僕はあっという間に暗闇に落ちた。
沈んだ意識の向こうで観客席のざわめきが鼓膜を打ってくる。それはだんだんと僕の意識をすくい上げていく。
重たい瞼を押し上げた。空が見えた。
僕はどうやら倒れたようだ。いや、そんなことはどうでもいい。
あの人はどこにいった?
「おい、まだ寝ぼけてんのか?」
起き上がろうとし、そしてそこでようやく自分の首に剣先が突きつけられていることに気がついた。
「あ……」
「優勝はヴァルド・ロースティ! ヴァルド・ロースティです!」
判決の声。次いで降り注ぐ歓声。
口を開けたまま、しばらく動けなかった。
「そんな……」
これで終わり?
まだ剣先を違えてもいないじゃないか。
こんな、こんなにも簡単に……僕の力はこの程度のものだったのか?
(違う……違う!)
きっと、これは運が悪くてこうなったのだ。そうだ、きっとそうだ……
「なに寝てんだよ。試合中だってのに」
刀を仕舞い起き上がると彼の呆れたような顔が出迎えた。
「……だ、黙ってください! 僕だって寝たくて寝てるわけじゃありません」
「俺もまさかお前が気ぃ失うとは思わなかったな、あの程度の攻撃で」
「っ……」
いつもと変わらない毒の効いた言葉に、しかし言い返す言葉を見つけられない。
……ああ、運なんかじゃない。僕は実力で負けたんだ、この人に。一撃も与えられず。まさに圧倒的な力で。
「ああそうだ。確かお前ランディさんの弟子だったよな。伝言預かってくれないか」
「師匠に? 構いませんが……」
突然の話に首を傾げる。というかまさか師匠とこの人が顔見知りだったとは……
「例の件引き受ける。そう伝えてくれ」
「? はあ……わかりました」
なんのことかさっぱりわからないが、恐らく師匠にはこれで伝わるのだろう。気になりはするが言及する必要はない、素直に頷く。
「サンキュ。じゃあよろしく頼む」
「はい……あの」
「なんだ」
「……いつか絶対あなたに勝ってみせます」
「ふん……」
「……バカにしてます?」
「いいや。ただし一つ忠告がある。もしお前のその言葉が本気なら、俺はお前ほど隙はないってことを頭に入れいといた方がいい」
「そ、そんなに隙ありますか?」
「少なくとも俺には隙だらけに見える」
「えっ、そうなんですか?」
「アホか、隙があるからこうして俺に大技きめられてんだろ」
「それはまあ、そうですけど……」
(見るからに隙だらけな構えをしているあなたに言われても……)
「……お前今余計なこと思っただろ」
「へ? いや……別に」
「……まあいい。俺は帰る」
「では僕も」
彼とは反対側の入場口へと戻る。この後待っているであろう師匠の説教を思わず想像し、げんなりとなりながら控え室へと歩を進める。
これで三連敗。
しかしなぜ彼にこれほど手こずっているのだろう?
確かに彼は強い。噂の不敗神話も本当なのではないかと思わせるほどの実力はある。
だが超越的な強さではない。全て予想の域だ。必ず攻略法はあるはずなのだ。
なのに何度ビデオを見ても、刃を違えても、勝てる気がしない。
僕の意志が弱いから? 勝ちたいと心から思ってない? いや、そんなことはない。絶対にない。
なら、どうしてこうも毎回手応えのない試合をしている? 原因は?
僕は試合中何を考えていた?
「僕は――」
僕は……恐れてた。
彼の微細な変化にも恐れを抱き、動けずにいた。
僕は彼が怖い。無意識に恐れてる。そういうことなのか?
覚悟が足りないのか?
もしそうだというのなら、覚悟を決めなくてはいけない。
「師匠に報告は……いいか。僕の問題だし」
これは内面的な問題。師匠に告げることではない。
自分で解決しなくちゃいけない。
僕は、なんとしてもあの人に……勝つ。
1-2
◇◆◇
世界の起源は誰も知らない。
気づいたときから人々はそこにいて、世界はそれに覆われていた。
霧。
それは深く、不透明で、恐怖に満ちている。
霧に入った者が戻ってくることはない。
民の声援に後押しされ、白濁に挑んでいった者達は長い歴史の中で何人もいる。
だが誰も彼らの消息を知らない。
知る術を持っていないから。
現在、霧はこちらからの一方通行だ。
……とはいっても歴史上ではそうなっている、というだけなのだが。
「確認できている挑戦者、9998名。内生還者0、か……」
手元の資料を読み上げ、ふと顔を上げる。
連れはいない。
独り言だ。
「ねぇねぇ独り言? 今の独り言だよね? 一人で独り言いうなんて。ふふっ、ヴァルドっちかわいい♪」
くどいが連れはいない。
目の前にいる、向こう側で本棚の空白から顔を覗かせて”独り言”を言っている変人女子なんて知らない。
ヴァルドっち?
さあ、誰のことだか。
「アレについての本だなんていまどき古臭いわよ~。いまは天空樹説でしょ! 夢を追う男の子はカッコいいけど、現実的じゃないよん?」
「…………」
「あ、あれ? えっと……なんか怒ってる?」
「…………」
「ヴァルドっちー、おーーーい」
「…………」
「もしかしてさっきのあたしに言ってた? ごめんね? 無視したわけじゃないんだよ?」
「…………」
「ヴァルドっち? どうしたの? なんか悲しいことあったの? 元気ないよ?」
「…………」
「この間の試合のせい? でもヴァルドっちの圧勝だったし……」
「…………」
「う~ん」
「…………」
「やっぱ沈んでる? よし! じゃあヴァルドっちの大親友なこのミュランが元気を注入してあげる!」
「…………」
「ふれー、ふれー! ヴァルドっち! ふれー、ふれー! ヴァル……」
「わかった! わかったからやめろ!」
周りなど気にせず大声を発するミュランを慌てて制す。
ダメだ、これ以上無視したら俺は取り返しのつかないダメージを受ける。
足音さえ目立つという図書館でこの状況は死刑よりも辛い。
ああ、卑下を含んだ多くの視線が突き刺さって……
「はあ……」
「どうしたの? せっかくいつものヴァルドっちに戻ったと思ったのに。なんか暗い顔だよ?」
「誰のせいだと…………あぁなんでもない……」
言葉の代わりにため息をつく。
こいつと話していると余計なパワーを浪費しそうだ。
元気を貰うどころか持っていかれる気がする。
予防策として無視を決め込んだが失敗だったな……。
この女に無視はできるだけやめておこう。
……衝動的に無視したくなるのは仕方ないとして。
「なんでもよくないー! ハッキリしない男は嫌われるよ?」
「あぁはいはい……」
とりあえず受け流す。
このやろう、あとで覚えとけよ……。
周囲の視線に身を縮めていると、ミュランが小走りでこちらにやってきた。
そして俺の手にあった本を見るなり思い出したように両手を叩いた。
「あ! そっか! もうすぐあれだからそんな本読んでたんだね~」
「……あれ?」
「うん。あれだよ、あれ」
そんな『伝わって当たり前』って顔されてもだな……。
あれってなんだ。
「あれ……永久濃霧(パーマネント・フォグ)の先に行く人を決める大会!」
「ああ、それか。厳密には大会ではないが」
「えぇっ? そうなの?」
「正式にはパーマネント・フォグ挑戦者選抜会。大会じゃなく選抜会な」
この世界、アトヴァスを囲むようにして存在する永久濃霧の前には常に見張りの機械が設置されており、民間人が勝手に入れないようになっている。しかし年に一度、永久濃霧への挑戦権が民間人に認められる場が政府から提供される。
しかし挑戦権が認められるのは六千万人の内のたった一人。
その一人を決めるのがパーマネント・フォグ挑戦者選抜会、もとい野蛮人の集会である。
ミュランが感心したように頷いた。
「そうなんだぁ、知らなかった。ヴァルドっちってやっぱり見かけによらず頭いいんだね」
「お前がバカなだけだろ」
まじめに返したつもりだったのだが、ミュランは「ふふっ、ヴァルドっちにバカっていわれた、バカ……ふふふ~」となんだか嬉しそうだ。
変人だと割り切っているはずなのにその反応に思わず顔が引きつってしまう。
「ゴホンッ。あーっと……」
「うん? 何が言いたいのかって?」
ミュランが瞳を爛々として聞いてくる。
何か言いたげな様子に俺は仕方なく頷いた。
この変人に通常会話を求める俺は理解あるよい人なのだろう、恐らく。
しかし俺は甘かった。
変人には変人の思考回路があり、それは常人が理解できるものではない。
当たり前のことながら通常の会話は通じないし、そして相手はこちらの意表を突く発言をしてくる。
邪心の中で奇跡的に生きていた俺の良心は、この変人によってすぐさま踏み潰されることになった。
「あたし出ようかなって考えてるんだけど、どうかな?」
…………………………………………
数秒思考が停止する。
……今こいつ、とんでもないこと言わなかったか?
「えぇっと……何に?」
「大会だよぉ!」
「あれ? 選抜会だっけ? ん?」とミュランがなにやら言っているが、それらが俺の耳に入ってくることはなかった。
嘘だろ? こいつが選抜会にでる?
あの、命知らずな野蛮人どもの集会に?
「ぶ……ぶっははははははは!!」
「え? な、なに?」
ミュランが困惑した様子で俺を見てくる。
悪いな、だが笑わずにはいられない。
あの野蛮人どもがしのぎを削る選抜会に、一少女(+変人体質)としか言えないミュランがでる……。
そんなの危なっかしくて見てられない。
なぜなら選抜会には猛者しか存在しないからだ。
いくらミュランが|武人で学年トップクラスの実力者だからって、その程度の少女が勝ち抜けるほど選抜会は軟じゃない。
「こ、これって一応相談なんだよな?」
出かかっている笑いを必死に抑えながら、平静を装った声で尋ねる。
「うん。ヴァルドっちの意見を聞きたくて」
「ムリに決まってる!」
キッパリと言った。言ってやった。
ここまでキッパリなのは、単に俺がイジワルなだけではなく、先程の仕返しをしようと思ったからだ。
「…………!!」
悲鳴もなしにミュランが固まる。
まるで稲妻でも落ちたみたいだ。
数秒経っても返答がない。
「ん?」
不意にミュランが空気が抜けていくかのようにふらふらと床に座り込んだ。
「あ……」
まさかこんなにショックを受けるとは……。
どうやらわりと真剣に考えていたらしい反応にちょっと後悔した。
これはオブラートに包んで言うべきだったか?
「う……」
なんだか悪い予感がする。
周りに重く居づらい空気が漂い始め、気のせいか湿気くさくなってきた。
これは…………ピンチかも。
「えっと! その……今のはだな」
ともかく、一刻も早くこの状況を打開しないと。
「え、えぇーっと……」
だが言葉が浮かんでこない。
あぁなんかないか! 元気が出るような言葉……
「ヴァルドっちー……」
うわああそんな暗い声で呼ぶな。
「な、な、なんだ? ミュラン」
作った笑顔が引きつってしまう。
「あたし……とっても……」
やばいやばいやばい。
なんか言わないと、このままじゃ――
「元気だせ!」「嬉しいよ!」
互いの声は同時だった。
なぜか明るい(?)ミュランの表情に安堵する一方で首を傾げる。
「嬉しい?」
全く予想外の言葉に唖然とする。
「げ、元気だせっていわれた……」
まるでのぼせたようにミュランの顔がぽーっと赤くなる。
「ミュラン…………いいから説明しろ」
「……へ? なにを?」
「なんで落ち込んでないんだ!」
「ひゃう!? な、なんであたしが落ち込むの?」
「は? 俺がひどいこと言ったからじゃないのか?」
「ひどいこと? って……あぁ! さっきの? む、言われてみればたしかにひどいかも……」
いや言われる前に気づけよ、と心の中でつっこむ。
だがこの反応だと傷ついてなかったということになる。
じゃあさっきのは……?
「ヴァルドっち、どうしたの? なんか不思議そうな顔してるけど」
「お前のせいだ。いいから説明しろ」
「なんであたしが嬉しいかって?」
「ああ」
「そりゃあんなこと言われたら嬉しいに決まってるじゃん!」
「待て。一般人の俺にわかるように説明しろ」
「えぇっとね……あたしたくさんの人にこの話したんだけど、みんなそろって『大丈夫だよ。頑張れ』って、それしか言わなかったの。なんかみんな無理やり言ってる感じで」
そりゃあんな大真面目に言われたら大概の人は気圧されて、本当のこと言えずに適当に流すだろ。
まあ大して深く考えなかった俺は正直に言ってしまったわけだが。
「みんなきっと心の中ではバカにしてたんだよ。だから本当のことが知りたかった。それで思い切ってヴァルドっちに聞いてみたの。さっきヴァルドっちが言ったのって本心でしょ?」
「そうだな」
まさに本心剥き出しだったけど。
「ふふっ、ありがと! 嬉しい!」
「お、おう……」
普通なら傷つくとこなんだがな……。
こいつが変人だからか?
……変人って幸せな生き物なんだな。
「……って、そういやお前さっき霧なんていまどき古臭いとか言ってたよな?」
「ん~そだっけ?」
「古臭いって言っときながら、なんで選抜会に出ようと思ったんだ?」
「…………」
「ミュラン?」
「知らない!」
「はあ? なんだそれ。理由ないってことか?」
「そんなぁ! あんまりバカにしないでよ? 理由くらいあるもん。でも知らない!」
「……それは教えたくないってことか?」
別にそれはそれでいいんだが。
「む~……」
案の定のようで、図星だった。
そうならそうと言ってくれればいいのに。
「まあ別にいいんだが。俺には関係ないし」
「おおありだよ!!」
突然の大声に驚いて本を落としてしまった。
ミュランは真剣な形相だ。
(なんなんだ……)
本当にこの変人の思考回路はどうなっている?
「は、はあ? なんでそうなんだよ」
「なんでって、それは…………」
そこでミュランはハッとしたように言いかけた言葉を切った。
「…………………………………………お、女の子にそんなこと聞かないでよ……」
消え入るような声でそれだけ言うとミュランはうつむいた。
気のせいか顔が赤い。
(あぁっと……)
つまり…………
どういうこと?
「???」
俺の頭にはもう疑問しかない。
なんだそれ?
苦し紛れの言い訳か?
理解不能すぎて言い訳になってないと思うが……。
「えっと……」
「…………」
ミュランは顔をあげようとしない。
原因不明の不気味な沈黙が流れなにやら気まずい感じになってきた頃、新たな声がその嫌な流れに終止符を打った。
「はあ……くだらねえ」
声は俺の隣からだった。
そう、隣…………
某少女同様、本棚を挟んだ向こうで、そいつは本の置かれていない空間から顔を覗かせていた。
「ようヴァルドっち」
「死ね」
救世主かと思ったが、どうやらただの変人だったようだ。
「会って早々友に死ねとはひどくないか?」
「お前と友情を築いたつもりはないが?」
「ちっちぇーヤツだなぁ。家族も友達もおんなじもんだろ?」
「違うだろ」
こいつ――――ティーラント・ロゼルと俺はたしかに家族だ。
といっても姓からわかるように本当の家族じゃない。
俺もティラも同じ孤児院出身の孤児で、兄弟で言うなら俺は弟という立場だ。
当然今はもう互いに独立しており、学園は同じだが寮が離れているためティラとはほとんど顔を合わせていなかった。
……ただここ最近はある件の影響で必然的に話す回数が増えてきてはいるが。
「で? 用は? どうせアレのお使いで来たんだろ?」
「あーそうだった。はいよ、これ」
「これは……?」
「口頭で説明しろって言われたんだけどメンドーだからいいや。とりあえずそれ読んどきゃわかる。あーっと……一応機密文書だから一人のときに読めな?」
「安心しろ。俺はお前よりバカじゃない」
「兄に向かってバカって……ったく嫌なヤツだなぁお前はほんと」
義兄の呆れた声を聞き流しながら渡された茶封筒を見つめる。
そこにどういう内容の書類が入っているのか大体予想はついていた。
(まったく扱いが荒い……)
内容を想像しうんざりとする。
利用される側だから仕方ないわけなのだが、しかし面倒なものを引き受けてしまったものだ。
浅はかだった過去の自分を少し後悔する。
「ミュー、ちょっといいか」
「?」
一人で落ち込んでいると、ティラがなにやらミュランに言っていた。
俺には聞き取れない声の大きさだ。
ティラが何かを耳打ちする度にミュランが嬉しそうな声をあげている。
俺の方をミュランが振り返った。目が合う。
と思えば物凄い速さで視線を逸らされた。
なんだ?
「……と、いうわけで。まあうまく取り合ってくるから気にすんな」
「うん! ありがとう!」
じゃーなぁ、とティラが二学年の教室がある方へ帰っていく。
どうやら話は終わったようだ。
予鈴が校内に響いている。
そろそろ昼も終わりか。
俺も教室に戻らないと……。
「教室行くぞ」
「ねえヴァルドっち、あたし選抜会にでるよ」
「おい」
なぜそうなる?
歩き出そうとしていた足を止め、ミュランに向き直る。
ムカつくくらい真面目な顔がそこにあった。
「お前なんか吹きこまれただろ」
「えぇ?? いや、べ、別に……」
冷静を装っているつもりだろうがあからさまに目が泳いでいる。
まったく、ティラのやつ余計なことを……
「俺はもう知らないぞ」
「うん。あたしがんばるね!」
「…………」
突き放した言葉は最後の忠告のつもりだったのだが、迷いなく返事するところを見るとどうやら本気で決意を固めているらしいミュランには通用しなかった。
そのバカさに呆れた俺はそれから何も言わず、そして翌日の朝、参加希望書を持ったミュランが早くも忘れ始めていた俺の前に現れ、俺は手続きを手伝わされる羽目になった。
霧の向こうへ