断片 1

展示会を鑑賞して特に気になった作品を個別に取り上げて好きに綴ろうと思い、始めます。




 ベトナム初の原子力発電所の建設計画が発表された2009年当時、その予定地となったニントゥアン省に数多く住んでいた先民族であるチャム人の、文化や歴史を始めとする様々な面での変化ないしは消失を誰しもが想像できた。他方で誰においても困難だったと思うのは、その中止も見据えた中身のある議論を進めるのに欠かせないチャム人の内実にどう迫るか。現に目の前にいる彼や彼女を知ろうとすればする程に解きほぐす必要に駆られるバイアス、語る者と語られる者との間にある違いや共通点によって人為的に複雑怪奇になる実態をどう解消するかという作業であっただろう。ニントゥアン省の省都であるファンラン=タップチャムをチャム語で呼称し、そこで暮らすチャム人の内実を捉えようとした映像作品、『パンドゥランガからの手紙』(2015年)においてグエン・チン・ティ氏が二人のナレーターにそれぞれの役割(一方はチャム人のドキュメンタリーを、他方はフィクションの手法を用いて「チャム人」というものを描く)を与え、制作過程における悩みやそれぞれのアプローチに関する意見交換をスクリーン上で行わせるのも語り口が有する鋏の機能を問題とし、上手く切り取られた後の現実に備わる偏見を観る側の心証により相殺する意図が認められた。



 撮影対象者との間に距離を取り、起き得る事柄を含めて過去、現在、未来を単線形の時間軸で合理的に描けるフィクションの手法は余所者の立場でチャム人の実態を幅広く表現できる。
 これに対して、ドキュメンタリーの立場ではチャム人である彼や彼女に近づき過ぎる為に拾える声の種類が限られてしまう。しかしながら前者は映し取るものがフィクションである以上、それが現実を動かすものにはならない。そのために撮影者が自分の仕事の意味を見失いやすいのに対して、ドキュメンタリーが持つ現実的な力は大きい。資料価値のインパクトが段違いだ。
 けれど記録した内容が公平誠実なものになっているかは別問題。チャム人について言えば、彼らは母系社会であるにも関わらず公的な場所での発言は主に男性が行う。生活を支える女性側の声は滅多に記録できない。その喉が空気を震わす事のない彼女たちの内なる思いに迫ろうと思うなら、それがたとえ真実に直結しないとしても、近似値として編み上げた「現実」を提供できるフィクションに頼るのがいい。そのカメラが捉えるものの全てで世界の「何か」が語られる。その効果について『パンドゥランガからの手紙』では「飛び石みたいに編集された現実の画によって破綻するフィクション、その合間に流れる詩情」という趣旨の言葉が添えられて、対話の軌道を大きく変える力強さを生んでいた。それまでは映し出される映像が語りの強弱に応じてドキュメンタリーかフィクションのいずれかに揺れ動く感じだったのに、以降においては語りに負けない主体性を発揮していく。どんなに大量の言葉で、どんなに技巧的に喩えられても擦り減ることのないイメージのようにありのままの光景を映し出して。
 それは造形美に優れた文化の中で祈られる対象であった彫像が歴史の荒波に揉まれて本来の意義を失った後、今度は単純な「美」に基づいて重宝されるようになる過程に似ていた。あたかも伝えるものを見失ってからが映像表現は始まるのだと言わんばかりに『パンドゥランガからの手紙』は34分に及ぶ再生時間を終える。答えらしい答えなんて出ていない。どちらかといえば映像作家としての自問自答を綴った日記と評した方がしっくりくる。けれど強烈に記憶に残るチャム人の顔と痕跡たちを思い出す時、取り戻せないものの怖さを思い知らずにいられない。人も文化も環境も、変わる以上に元に戻る方が遥かに難しいことを今を生きる誰もが知っている。
 2016年、国会の決議によりニントゥアン省における原子力発電所の建設計画は中止される。経済状況の変化を理由とするもので、グエン・チン・ティ氏の作品表現の影響があったのかどうか。それを正確に推し量ることは当然できない。ただ言えることは、社会経済に関連する活動内容に類似の問題点を意識した時に何も考えない筆者ではないだろうという漠然とした思いと、そのためのアプローチに悩ますべき時間の大切さを忘れないという確信である。



 グエン・チン・ティ氏の『パンドゥランガからの手紙』は東京都写真美術館で開催中の『リメンブランス 現代写真・映像の表現から』で鑑賞できる。興味がある方は是非。

断片 1

断片 1

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-25

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