麗しの女〜香りはバイオレット
A gem cannot be polished without friction, nor a man perfected without trials.
宝石はこすらなければ磨かれることはない。人も同様に試練がなければ完成されないのである。
Lucius Annaeus Seneca the Younger
(4 BC – AD 65)
何はともあれ混成チームによる『招かれざる客』公演は無事千穐楽を迎え、そして幕を閉じた。
千穐楽を無事に迎えられたと言う安堵の気持ちと、冷静さを取り戻すと言う意味でのひと呼吸を入れたいと言う気持ちとが交差をする中、如何にも草臥れたと言った雰囲気を纏った足取りで自販機の設置された休憩フロアへと黒曜がやって来ると、今公演で同じチームだったソテツが黒曜同様、額に薄らと汗を浮かべ乍ら公演終わりの一服を始めようとしていた。
生き残った、って気分だな。
ソテツの隣へと腰掛けた黒曜が挨拶がてらソテツの咥え紫煙にシャネルのライターで火を点けると、ソテツはひと言、お互いにな、と何時もの微笑を黒曜に向けて浮かべ、お返しとばかりに黒曜の咥え紫煙にグッチのライターで火を点けた。
併しまぁ初日から千穐楽迄、あゝも突っ走ってくれたモンだよな、お前ン所のクールビューティー。
ソテツは紫色の煙をふわふわと吐き出し乍らモクレンがステージ上に於いて魅せた鬼神の様な立ち居振る舞いに対し、如何にもソテツらしい表現を用いて評すると、今公演に於いて座長を務めた黒曜は紫色の煙をぷかぷかと吐き出し乍ら、暴れ倒して貰った方がいいと判断をしたからそうさせた、其れだけのこった、と如何にも黒曜らしい返事を寄越したものだから、ソテツは黒曜とモクレンの二人がレッスンの段階から殆ど阿吽の呼吸で動いていた事を紫色の煙越しに薄ぼんやりと思い出し乍らひと言、其れもそうか、と呟いた。
そういやお前ら二人の結婚式、明後日で良かったよな。
味の薄れた紫煙を揉み消し乍ら、思い出した様にソテツが言った。
ソテツはモクレンといとこ同士の間柄故に結婚式の出席者の数に加えられていた。
あゝ、てんやわんやあったがいよいよ明後日で一区切りだ。
黒曜はソテツ同様に紫煙を揉み消し乍ら、感慨深そうな口調で言った。
式の会場に選ばれた場所は、那須高原にあるモクレンの実家の敷地内で、其処には誠にささやか乍らチャペルもあり、結婚式のスタッフにしてもモクレンの実家で働いている召使い達が務める事になっていたのだが、問題は式の日取りであった。
何せ黒曜にしろモクレンにしろ、大層忙しい身分である。
況してや最近の黒曜は新人の教育係も務めている立場であるからして、モクレン以上に忙しかった。
故に黒曜は「てんやわんや」と言う表現を使ったのだった。
因みに其の「てんやわんや」にはソテツも関わっており、まるで仲人役の様に間に入って陰に陽に働いた事は言う迄も無い。
ま、何はともあれ可愛がってやんな。
腰掛けていた椅子から立ち上がるなり、大きく背伸びをしたソテツが紫煙の吸い殻を灰皿の中へと棄てると、黒曜も吸い殻を棄てたのち、言われなくても分かってらぁ、と言い返し、御守りよろしく衣装のポケットの中に突っ込んでおいた小銭を使ってミネラルウォーターを二本分購入をした。
両手を使い、ガチャンと言う鈍い音を響かせて落ちて来たミネラルウォーターのペットボトルをぎゅっと握り締めると、ひんやりとした感触の水滴が、まるで轍を作るが如く指先をそっと伝った。
遅刻しやがったら承知しねぇからな。
黒曜が言った。
はっはっは。
嫌いじゃないぜ、お前のそう言う所。
西部劇の一場面よろしく、まだ熱が冷めやらぬ互いの身体を物憂げな空調の風が吹き抜けていく中、「未来の花嫁」が居るであろう方角へ向け、其の場をツカツカと去って行く黒曜の背中をじっと見つめていると、まだこんな所に居たの、さっさと着替えないと風邪引くよ、とモクレン直々のオファーを経て、今回の混成チーム公演に参加をしたと言う経緯を持つ吉野に聲を掛けられ、現実に戻る意味も込めて、おぉ、悪い、悪い、今度正式に親戚になるオトコの惚気話に付き合わされたモンでね、と軽口を叩き、『スターレス』独特の薄ぼんやりとした照明の下、去年の自身の誕生日、ひと気の薄れた海辺のコテージでの晩餐会の席に於いて吉野がプレゼントしてくれたイヤリングをキラリと光らせ乍ら、ステージから降りた時とは打って変わって軽い足取りでロッカールームへと向かった。
よう、調子はどうだ?。
羽織っていた上着をロッカールームで脱いだのち、多分此処に居るだろうと勘を働かせてレッスン場へと黒曜が赴いてみると、果たせる哉、モクレンは、黒曜同様に公演衣装を身に纏った状態で、空調の音以外には何も聴こえない寂寞〈せきばく〉とした雰囲気漂う深夜のレッスン場のパイプ椅子にゆったりと腰掛け、独り物思いに耽っていた。
なんだ、お前か。
モクレンは「黒曜の眼には」金銀財宝よりも美しくそして価値があると映っている両の眼〈まなこ〉で、黒曜の両手に握られていたミネラルウォーターをじっと見つめ乍ら態とらしい表情で言った。
なんだとはご挨拶だな。
相変わらずの調子に対して安堵の表情を浮かべた黒曜は、自身の分のミネラルウォーターを一旦左の脇に挟むと、空いた右手でキリリッと音を立て乍らミネラルウォーターのキャップを開けるなり、ほれ、と其れをモクレンに手渡した。
ん、と言い乍らミネラルウォーターを受け取ったモクレンは、亜米利加で生活をしていた頃、ロードワークをする際のゴール地点に選んでいたナイアガラの滝よろしく、良く冷えたミネラルウォーターを千穐楽を迎えた時独特の気怠さを纏った身体にガバッと流し込んでひと言、あゝ、美味い、と呟いた。
そりゃ結構。
で、何をそんなに物思いに耽っていたんだ。
モクレンに寄り添う様に壁際へ腰掛けた黒曜が、自身の分のミネラルウォーターで軽く喉を潤したのち言った。
大した事を考えていたんじゃない。
此の先の事を、ちょっとな。
此の先の事を、か。
ま、俺達なら上手くやれるだろ、きっとな。
そう言って黒曜は、指環交換の際、自身が指環を嵌め込む方のモクレンの手にそっと触れた。
全く、何処迄も気障なオトコだ。
あのクーにすら覗かせた事の無いこゝろの奥の奥の方でそんな事を呟いたモクレンは、三年前の春、其の気障なオトコからの熱のこもり過ぎた口づけに溺れ、挙句の果てに身体迄許してしまった事、去年の夏、出席者は黒曜とモクレンの二人だけと言う文字通りの貸し切り船上パーティーの席に於いて、二人の為だけに色とりどりの巨大な花火がパッと舞い上がり、そしてパッと消えて行く最中に結婚の申し出の意味も込めた強烈なハグをタキシード姿且つオールバック姿の黒曜からされた事なぞが、たった今憂いの晴れたばかりの頭の中でパッと浮かび、パッと消えて行くのを感じ乍ら、ただただ黙って柔らかさと強さが同居をする黒曜の右手を握り締めた。
そして残りのミネラルウォーターを一気に飲み干すと、面白い事を思い付いたと言わんばかりに、不意に艶っぽい表情を黒曜に向けて浮かべた。
ん?。
あゝ、そう言う事か。
グシャッと言う音と共に空になった二つのペットボトルを握り潰したばかりの黒曜は、何度となく見ている筈なのに、見つめる其の度に自身の身体とこゝろが絡め取られていく様な気がするモクレンの顔を見つめ乍らゆっくりと其の場から立ち上がると、しなやかなモクレンの肢体をそっと抱き抱えた。
随分と察しが良くなったな。
黒曜の身体から漂って来る紫煙の香りが自身の鼻腔を擽る中、妖艶な笑みを浮かべたモクレンが言った。
センセーが優秀なモンで。
此れからはもっと鍛えてやる。
振り落とされねぇ様に気をつけらぁ。
黒曜は自身の顔をモクレンの唇へとグッと近付けると、其の侭そっと口付けた。
そしてモクレンの身体を下ろすなり、艶めかしさ溢れるモクレンの表情と唇の感触に浸り乍ら、さてと、そろそろ御開きにしなくちゃいけねぇ、と呟いた。
ロッカールーム迄運んでくれると思ったんだが?。
モクレンが揶揄う様に言った。
そう言う事は結婚式迄御預けだ。
まるで照れ隠しでもするが如く、レッスン場近くの塵箱に潰したペットボトルを放り込んだ黒曜は、モクレンの左手をぎゅっと握り締め乍ら、大股でロッカールームへと歩き始めた。
しょうがない、カッコつけさせてやるか。
モクレンはバイオレットの香りを振り撒き乍ら、本人が其れを意識をしているか如何かは兎も角として、ほんのり耳の赤くなっている花婿に歩調を合わせた。〈終〉
麗しの女〜香りはバイオレット