裏切り

ときめきを感じたかっただけなの

 春から夏にかけての夕暮れ時、まゆみは一帖程の狭いキッチンでお湯を沸かしていた。片手鍋の中の水は微かに震えているが、沸騰はしていない。ふと顔を上げると、奥の居間で寛ぐ男の後ろ姿が見えた。自分の部屋に見知らぬ男がいるという違和感が込みあげてくる。しかし恐怖心はない。自分で招き入れたのだから、当然だった。

 まゆみにはハンサムで頼りになる恋人がいる。彼とは社会人3年目の冬に出会った。
 きっかけは数か月に一度参加していた読書会の忘年会だった。その年の忘年会は参加者が多く(これは主催者に聞いた話で、まゆみがこの団体の忘年会に参加するのはこの時が最初で最後になった)広い座敷のある居酒屋で執り行われた。忘年会シーズンだったこともあり、数百人の客が他所の部屋で盛り上がっているのを、トイレへの行き帰りの長い廊下で感じとった。忘年会は概ね楽しめた。途中、初老の男性に株式投資の講釈を延々と受けることになったが、やんわりと向かいの席の女性が断ち切ってくれるという一幕もあったが、その他は皆気さくで慎み深く、他人への配慮ができる大人として、新顔のまゆみを快く受入れてくれてた。忘年会も終わり、その場で解散となった。二次会に参戦するほど親睦を深めた人もいなかったため、まゆみは荷物をまとめて帰ろうとした。居酒屋の入口で、自分の履物を鍵付きの下駄箱から取り出したところ、入口で膝を抱えて俯く男性に目がとまる。先ほどまで見知らぬ人々と話していたことと、若干酔いがまわっていたことから躊躇うことなく男性へとまゆみは声をかけた。それが今の恋人との出会いだった。

 しかし今視界に映る男は、その恋人ではない。
 私は、浮気をしているのだろうか。と、まゆみは思う。
 まゆみの頭の中で、チェックリストが静かに起動する。

1.あの男のことは好きか?
どちらかといえばいいえ
2.あの男と抱き合ったか?
いいえ
3.あの男とキスをしたか?
いいえ
4.あの男の手を握ったか?
いいえ
5.あの男と一緒にいて、ときめきを感じるか?


 まだ、浮気ではないわ。まゆみはそっとチェックリストを閉じる。
 まゆみの恋人は極端な放任主義だった。まゆみと付き合っていても、女友達を平然と自室へ招く。何度かやめて欲しいと伝えたが、友達を女だからと差別したくない。の一点張りで受入れてもらえなかった。さすがに、女友達を家に泊めるようなことはしなかったが(まゆみはそう認識している)それでも、恋人への不信感は拭えない。折衷案として恋人が女友達を招く日は、まゆみも同席することになった。恋人も友人もまゆみがその場にいることに対して気まずさは感じていない様子だったし、まゆみから見ても恋人とその女友達のコミュニケーションは友人の範疇に収まるものに見えた。
 だから、私が男友達を家に招くことは、浮気ではない。そう、まゆみは結論づけて沸騰したお湯で珈琲をいれる。
 湯気のもうもうと湧きたつ熱々の珈琲をゆっくりとローテーブルへ運び、ソファに座る男の隣に腰を下ろした。男はテレビからまゆみに視線を移すと、静かに礼を言ってコーヒーカップに口をつける。ただそれだけのことなのに、まゆみの胸は高鳴る。
 私は状況に酔ってるだけなの。頭の中の冷めたところで、まゆみの一部が分析する。
 換気のために開けた窓からは、やや夏の香りを含んだ春風が部屋へと流れ込む。レースのカーテンは翻り、その奥に干していた布団がちらちらと見え隠れする。

 何か忘れている気がする。しばらく訪れていなかったECサイトのログインパスワードを尋ねられたときのような、思い出せそうで思い出せないもどかしさがまゆみを包み込む。「ログインIDかパスワードに誤りがあります」そんな一文がまゆみの脳裏を掠める。
 内側へ意識を集中していたためにまゆみの視線は、男の腹部へと注がれていた。ゆっくりと浮上した意識下で、男の衣服に感じる違和感を拾い上げ検証する。
 勃起してる。はっきりと自覚して見るとそれは明らかで、思わず視線を上げて視界の外へと知りたくなかった事実を押しやる。男の穏やかに感じた笑みは、今では下卑た笑みにしか見えない。
 気持ち悪い。はっきりとまゆみはそう意識してしまった。そこから先は、転がり落ちるような後悔ばかり。
 このまま何もなく帰ってくれないだろうか。でも、私が彼を招いた。
 体調が悪いと言えば何も起こさず帰ってくれるだろうか。でもこの状況に自分を陥れたのは、私。
 彼を傷つけるような態度をとれば、無理やり犯されてしまうのだろうか。誰も同情なんかできない。
 まゆみの全身は恐怖で筋肉が硬直していた。男はまゆみへとゆっくり手を伸ばす。まゆみは微動だにしない。男の指先がまゆみの首元に触れる。

 テレビの画面には「分析が完了しました。」と、明朝体の文字が表示されている。男は微動だにしない「まゆみ」の体を弄ぶ。「まゆみ」はされるがまま、声を発することも、腕を振り上げることもない。それどころか、呼吸することも、瞬きすることもなく無感動に男を受け入れる。全てが終わり、男は床に落ちていたコントローラを操作する。

「えー、気持ち悪いって思われてる。今回は上手くいったと思ったのに。」
 居間には男の情けない声だけが響いた。

裏切り

裏切り

  • 小説
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  • SF
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更新日
登録日
2024-03-19

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