かの女

 団地の一区劃に、所どころ、まあるくなだらかな起伏のある、芝地がよこたわる。
 手入れが行き届いているというほどでもない。黄ばんで、砂色を(まだら)に滲ませている。
 広くもなく、狭くもない。休日にはキャッチボールに興じる父子を、平日には駆け回る子どもたちを目にする。ただ、思いきり凧揚げするには憚られもし、もの足りない広さである。
 暑くもない。寒くもない。午後。
 ささやかに丘をなした芝地に、三人の子どもが屈んでいる。少年が二人。少女が一人。
 五六枚の画用紙を芝の上にひろげ、と見こう見している。
 「おれは、バルタン星人。」
 「(あきら)さんは、バルタン星人ね。」
 明と呼ばれた少年に、バルタン星人の描かれた画用紙が手渡される。
 「太郎さんは?」
 選びかねているのか。太郎と呼ばれた少年は、怪獣やヒーローの描かれた画用紙と少女とを見くらべるかに、うつむき加減に、しきりと首を傾げている。
 「お好きなのをどうぞ。」
 少女がやさしく促した。
 まあるい笑み。やわらかな、白い、微かに(あけ)をさした頰に、産毛が光っている。
 おもむろに、太郎が言う。
 「ちかちゃんのお父さんは、何でも描けるかい?」
 「そりゃあ描けるさ。絵描きさんなんだから。」
 なぜか自慢げに明が嘴を入れる。
 ちか(ヽヽ)と呼ばれた少女は、訊いた。
 「太郎さんは、何か別に描いてほしいの?」
 太郎は答えあぐねている。
 しばらくして、
 「ちかちゃん。」
 少女の顔を一瞥。すぐまた、視線を落とした。少女のまあるい膝。ソックス。靴。白くまぶしい。太郎は目を閉じた。
 「いいわ。お父さんに頼んでみる。」
 明が、ぷいと立ち去った。
 からだじゅうに火照りを覚えてたたずむ太郎。口蓋が乾いて痛む。頭が痺れる。
 その日、どのようにちか(ヽヽ)と別れたか。
 覚えていない。
 晩の食卓は覚えている。近所の絵描きが夕刊の文化欄に取り上げられているのを、太郎の父が見つけた。
 「ちかちゃんのお父さんよ。」
 「ちかちゃん、って誰だい?」
 「太郎の、かの女。」
 両親の軽口を聞いた。
 ちか(ヽヽ)の肖像を太郎が手にすることはなかった。あの日から間もなく、かの女は転校した。
 自分で描こう。
 太郎は決めた。
 絵描きになりたい。
 そうしたら、――
 きっと、また会える。

かの女

かの女

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-18

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