ムンライ【ネイキッドと翼】39話~

ムーンライトノベルズ連載【ネイキッドと翼】39話~

39

 永世の板状携帯電話が震えながら光った。彼は飲んでいたペットボトルのキャップを閉めながら画面を一瞥した。|茉世(まつよ)も咄嗟に、興味を抱く間もなく、ただ反射的に画面を覗いてしまった。この機械には蓋がなく、体表すべてが画面であった。見られたくなければ上向きに置くべきではない。
 かけてきた相手は|鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)。フルネームで登録しているはしかった。
「出ないんですか」
 振動する板っぺらの脇で、永世の態度は呑気であった。
「今は、取り込み中ですから」
 微笑を浮かべ、やがて震えは治まった。留守番電話サービスの通知が届く。そして、ポロン、ボロン、バロンと立て続けにバナーが浮かぶ。名前は小さくてよく見えなかったが、長さ的に同じ人物が連続で送ってきているようだった。ストーカーのようである。他人事だが、聞き慣れた通知音がいずれ恐怖の対象となりそうである。
「大丈夫なんですか」
 またもや電話がかかってきている。永世は無視していた。だがバッテリーを消費させることを目論んでいるかのように立て続けにテキストメッセージが送られて、また電話がかかってくるのである。4回目の着信で永世は出た。
「|辜礫築(つみいしづく)です」
 会話の内容は聞こえないが、電子音の抑揚ならば聞こえた。彼は叱られているらしかった。俯いてしまう。
「はあ」
 応答なのか溜息なのか分からない相槌を繰り返し、彼は部屋の中を見渡し始めた。それからエアコンの設定温度をいじった。この男にしては妙に強気な姿勢であった。
「承知はします。ですが納得はしておりません。強く侮蔑いたします」
 今までの様子とは打って変わった。電子音として聞こえたほどではないが、彼も腹を立てている。だが茉世には何のことだか分からなかった。相手は鱗獣院炎のはずであるから、内容はおそらく家のことだろう。
「では失礼します」
 黒光りの板が耳から離された。そして永世は茉世を見遣った。だが顔を向け合う前に、眉根が動き、目を逸らされる。
「今、炎さんから電話がありました」
「はい……」
「ごめんなさい、茉世さん。予定変更です。ぼくとセックスをすることになります」
 視界が揺れるような錯覚があった。目瞬きが速まる。
「……はい」
 設定温度を変えられた機械がうおんうおん呻きはじめる。冷たい風が吹きつける。
「怖いかも知れません。今日のところは中断ということもできます。ですが、いずれはやらねばならない。そのときは、耐えてくれとしか言えません」
 三途賽川の血筋の者としては、おそらく間違ったことは言っていないのだろう。世間一般でいえば、前提がおかしい話ではあるけれど。
「はい」
 永世はふと誰もいない背後を見遣った。ベッドの対面にラックがある。まるで尋常では見えないものがそこに立っているかのような素振りであった。彼は布団を手に取ると、茉世と共に自身を覆ってベッドへ乗り上げた。
 押し倒されると思っていなかった。だが恐怖はない。そういうことをする場である。彼は目を合わせず、腕を握りもしなかった。それは女を組み敷くというよりも、布団の中にしまってしまうような挙措であった。
 茉世が天井を捉えたとき、彼は彼女の耳元にいた。
「そのまま、天井から目を離さず、今から言うことを驚かずに聞いてください。この部屋、監視されています。音は録られていないようですが」
 彼女は目を見開いた。吐息が耳殻をくすぐっていく感覚も瞬時に消え失せた。
「え……?」
「どこにあるのか分かりません。そのまま天井を見ていてください」
「は……い」
 単語は拾えた。だが意味が分からなかった。いいや、意味は分かった。しかし納得できていないのだ。監視されているというのはどういうことなのか。一体誰が、何のために。確定でなくとも見当はつく。どうせ、鱗獣院炎が、務めを果たしたか確認するためであろう。
「茉世さん、ごめんなさい」
「謝らないでください。永世さんだって、きっとつらいはずです」
 好きな人はいないというが、いないからといっても、好きではない人とこのような形で同衾する必要はなかっただろう。三途賽川の分家でさえなかったら。
「また、慣らします」
 彼は亀みたいに掛布団の甲羅から腕を伸ばした。そしてふたたび指サックを嵌める。
「また、変なことしたらごめんなさい」
「変なこと、とは?」
「しがみついたり……その、なんだか、そわそわしちゃって。痛いとか、怖いとかじゃないのですが……」
 ローションの容器のオレンジ色のキャップがぺちっと閉まった。2本の指サックに水飴のごとき粘性の透明な液体が纏わりついている。
 茉世はどうしていていいのか分からず、両手で顔を覆った。
 永世は職人のようであった。クーラーの音に奥行をつける息遣いを聞いていると、徐々に茉世の感情にも変化が訪れる。凄まじいものではないが、肉体の反応を示さずにはいられない。
 陸の上で、背中や尻の大部分は接地しているというのに彼女はまた溺れそうな、落ちていきそうな、不安定と不均衡の感覚に陥った。
「永世さ………ん」
 彼女の手は再度、横に据えられた男の肘を触った。日焼けした肌に指を這わせる。歳は同じ。三十路の手前だというのに瑞々しい。すると永世の穏和げだった眉根が寄せられ、険しさを帯びる。彼は布団から出ていった。蒸れた布蛹の中に冷風が入り込む。彼はベッドを降りると、性器に嵌めていた筒膜を剥いた。そしてまた新たに嵌め直す。そして根元を縛るゴムチューブが解かれることもない。
 永世が戻ってくる。掛布団が持ち上がり、布の蛹の中は換気された。
「痛いかも知れません。我慢しないでください。入ります」
 挿入には圧迫感が伴った。中指と薬指は難なく入っていたはずだが、実際に入ってくるものと比べれば微々たる大きさであったのだ。彼女は怖くなった。中断するつもりはなかった。だが身体は素直だった。不合理なことに、近付く腰に両手を添えた。肘が|発条(ばね)のようになる。
「ぅ、………う」
「苦しい、ですか」
 問うている本人もまた片目を|(すが)め、眉を顰め、苦しげであった。
「大丈夫です。大丈夫……」
 荒い呼吸によって苦しさを逃す。落ち着くと、迫ってくる腰に添えた手が、別の場所を辿る。
「茉世さん……」
「大丈夫です、大丈夫ですから……」
 彼女は悪気も害意もなく、相手の肌に触れていることも忘れて爪を立てた。まるで刃が駆けるように、男の日焼けした皮膚を引っ掻いていく。
「は………ぅ、」
 縛られた下腹部が苦しいのか、それとも引っ掻かれたのが痛むのか、永世もまたつらそうな表情を浮かべる。
「永世さん……」
 汗が浮かんだ彼の額に、茉世は掌を当てた。それから頬を撫で下ろす。自分を苦しめている相手だというのに、彼の苦しみを和らげたくなった。触れ合う面積が増えるほど、意識が放熱されていくことを無意識的な経験が、もしくは生存本能が知っていた。
 体内に食い込むものが、さらに深くまで入った。脈動を感じた。重なったところが、腫れて疼き、灼熱感を持つ。すでに何度も暴かれた箇所だというのに、まだ苦しい。
「ふ…………ぅう、」
 茉世はゆっくりと息を吐いた。最奥に辿り着いたらしい。永世もまた一苦労らしかった。肩幅より広く腕をついて項垂れている。
「苦しいですか」
「大丈夫です」
「ゆっくり動きます。ぼくに構わず、抓ったり引っ掻いたりしてください」
 それは作業だった。体の中に身体の一部を納めているというのに、セックスというよりも何がしかの共同作業であった。
「は…………っ、」
 引き抜かれていくのは、そう苦しくはなかった。ところが永世は苦しそうな呻き声を漏らす。男体というものはこの行為に快楽を得るものではないのか。快感がなければ、この行為すら成り立たないのではないのか。何故男体を持った彼は苦しそうなのか。茉世は真上にある日に焼けた肌から滲む脂汗を拭った。伏せられがちな睫毛の奥で、|平生(へいぜい)ならば澄んでいた目が彼女を捉える。助けを乞うかのような瞳に見えた。どくり、と彼女のなかで、心臓から赤ワインでも溢れるかのような鼓動が発せられる。
 彼を助けたい。痛みを取り除きたい。
 首に手を伸ばした。扼殺しようとしたのだろうか? 彼の首は|湿(しと)っていた。室内の温度は下がったようだが、彼は汗を噴き出している。
「すみません……っ、ちょっと余裕、なくて」
 永世は笑みを繕っている。腹の中のものは勃っているというのに、彼の顔色はあまり良くなかった。
「あの縛られているところですか」
 言い当ててしまったらしい。狼狽と逡巡が窺えた。
「い、いいえ……」
「外してしまうのは、いけないのですか」
「避妊具を着けていますが、間違いがあってはいけません」
「身体を壊してしまいます」
「構いません。そういう役目です。ぼくに子を成す務めはありません」
 まだ三途賽川にいた頃の蓮や、鱗獣院家、その他婚家一族から散々、子を成すように言われ辟易していた。だが茉世も、家庭を持ち、子を生み、育てることが人の幸せだと刷り込まれてきた世代である。自分は子を産むことに言われうんざりしていたが、他者がそのことを言うと、何かがショッキングで、事情のありそうな、重々しいことのように思えてしまうのだった。
 腹の中に一部を埋めているこの男について、何も知らないことを知った。知る事柄も知る|(すべ)もあることを認識した。
「でも苦しそうなの、わたしがつらいです」
 首に這わせていた手を、彼の頬まで持っていく。夫は蘭のはずだった。だが感情の伴わない結婚は、意識まで彼女を蘭の妻として浸透させない。ただ、蘭の妻で、夫が蘭であるという情報を与えるだけだった。時折り、勘違いを起こす。茉世は永世を夫だと錯覚した。ゆえにこのようなことをしているのだ!
 錠剤も薬液も用いない痛みの緩和の方法。刷り込まれていたものかもしれないし、無意識に体得したものかもしれない。
 茉世は可哀想な男の首に両腕を引っ掛け、顔を近付ける。乾き切って、薄皮の鱗が剥がれかけた唇を塞いだ。
 哀れな男を救いたいはずであった。目的はそうだった。しかし彼女もまた、合わさった唇の絶妙な疼きを残し、その他の肉体はすべて風化したような心地に陥った。だが肉体が現存していることを知る。突き入れられた杭が激しく前後した。合わさった唇は、茉世から仕掛けたものだというのに主導権を奪われていた。
 先程の講習はあまりにも粗末なものだったのだと知る。気遣いも優しさも誠実さも忠心もない一匹の獣がそこにいた。
「ふ………っ、んん………」
 溺れるような口付けだった。以前の永世の姿を思い描けなくなる。どのような男であったか? 自分は彼にどういう印象を持っていたのか…… 日に焼かれて傷んだ髪がぱさついて指に絡む。嗅いだことのあるような、ないような匂いが鼻に馴染み、脳髄に沁み入っていく。汗とシャンプーの匂いに戸惑う。夫だと頭に知らしめられている人とは違う匂いでいて、ではこの人は何者なのか判然としない。
 夫ではないのなら、何故このようなことに……
 ばき、と何か砕けるような音が、ベッドの対面にある、背の高いラックから聞こえる。明らかに何か、プラスチックの類いのものが壊れる音だったが、彼女たちは気付かないのか気にしないのか、互いの舌を貪り、唇を求め合っていた。
 困惑も、瀞みのある真っ白な波に呑まれてしまった。不本意に身体を暴かれたときとは大きく異なる温もりに沈んでいる。直接的な刺激による反射というよりも、快い誤作動による反射だった。埋め込まれた肉杭を食い締める。暴れて逃げようとする獲物を捕まえて食らおうとする。
しかしそれは付加的なものでしかなかった。
 だが彼女は欲深かった。業を背負っていた。浅ましい女であった。立てた膝が男の腰を押さえようとする。どこにも行くな、ここにいろ、と両側から押さえつける。
「ん………っ、く…………んん」
 口の端から溢れ出た淫水が滴り落ちる。男のほうは、まるでその泉から水をすべて掻き出しているようである。
 清楚だった男の髪を手櫛で乱していく。本意の行為であれば、彼女もまた純潔であった。無闇矢鱈に男を求めていたわけではなかった。しかしもう違う。自ら脱ぎ捨てた。だが何を惜しむ必要がある?
 伏せられた睫毛、夏野菜を|捥《も》ぐ手、草を毟る横顔、茶碗を持つ所作。他の何も知らないが、わずかに見たその姿を思い映せるのならば、恥じることはないように思えた。
 頭を抱いていた手が、順番に剥ぎ取られていく。掌と掌が合わされる。他者の温もりとは思えなかった。彼女は自身の体勢、人体の構図、可動域も忘れ、誰と手を繋いでいるのか分からなかった。自分の左右の手を合わせたのかと思った。だが大きさで知った。指と指の間を窮屈げに通り抜け、握り締める。全身で抱擁されたかのような安堵がまた脳髄を蕩かした。
 縺れ合う舌の質感を強く認めたとき、彼女は閃光とも噴き上げる潮とも判じられないものを脳裏にみた。身震いがはじまった。性感帯だと思いもしなかったところで彼女は達した。重なった手を握り締める。膝頭もまた挟んでいる腰を押し潰す。|(ひし)めかせてしまう腹の中で脈動を感じた。男体が落ちてくる。その重量感に安心した。けれど、歯軋りも聞こえるのだった。
「永世さん……?」
 茉世の声は上擦っていた。乗っていた永世はすぐさま起き上がった。
「すみません……」
 永世は掛布団から出ていった。そして浴室へ入っていく。汗を流しに行ったものだと思った。茉世は下着を身に付けながらもう脱衣所にタオルがないことを思い出した。彼は自分でタオルを用意してきたが、それも忘れている。ノックも忘れた。ドアを開く。脱衣所に人影が見えた。
「茉世さ、………っん、」
 媚びるような声が狭い空間に|(こだま)するようだった。永世は下着を下ろし、避妊具もゴムチューブも外していた。先程まで彼女の体内に入っていたものがティッシュの敷かれた手の中で跳ねた。白い粘液が噴いた。だが勢いのあるのはこの一度のみだった。
「あ………ッ」
 何度か縋りついた肩も小さく跳ねた。びゅ……びゅびゅ、と膿を出すようにそこから精液が力無く流れ出ている。数回に分けて、白濁がティッシュに染みを作る。茉世は愕然としてその粘性を帯びた体液を凝らしていた。
 長い睫毛が伏せる。羞花閉月とはこのことかもしれない。|解語之花(かいごのはな)という言葉に便乗するならば、人語を操り服を着た白百合がそこに立っている。グロテスクな男体な神秘など|(たちま)ち見えなくなる。
「見ないで……」
 だがもう見てしまった。囁きに似た|音吐(おんと)には妙な色香を帯びて、茉世の心臓を叩いた。
「ご、ごめんなさい!」
 彼女は浴室から飛び出した。扉に背を預け、長距離を駆けてきたように息を切らした。胸元に手を当てる。|粼(りんりん)とした|(せせらぎ)のような人と恐ろしく淫らなことをしてしまった。
 水道の音を聞いた。背中を打つ。扉が開く。茉世は弾かれたようにベッドのほうへ向かっていった。
「汚らしいものをお見せしました」
 永世がやって来る。茉世はぷいと顔を背けた。
「い、いいえ……勝手に入ってしまったのはわたしのほうですから……」
 クーラーから吹かれる風が冷たい。永世もそう思ったのだろう。設定温度を直す。
 沈黙。エアコンも黙ってしまった。水道管も押し黙っている。アイドル連中はグループとして仕事があるといっていた。そのためにこの日にした。
 ベッドに腰掛けた茉世から2人分、3人分ほど間を開けて彼は座った。かと思うとすぐに立ち上がる。
「帰ります」
「もう少し、休んでいったら……」
「いいえ、もう帰ります」
「どう帰られるんですか」
 先程彼は酒を飲んでいた。タクシーか、電車か……
「ぼくが運転してきて、帰りは|継母(はは)が。一緒に来たので……」
 永世よりは年上だが、母というには歳の近い、女優のような母がいたことを思い出す。
「ずっと、待っているんですか」
「駅前で暇を潰すと言っていました」
 茉世は菓子を持たせた。目を見られない。彼はいつか、バジリスクやメデューサの類いになったのだろうか。不自然なほどだった。
「ありがとうございました。色々と、その……不勉強で申し訳なかったです」
 その視線は所在なく足元を彷徨う。永世にすまなく思いながら、その目を|()ち合わせるのが怖い。胸の奥がおかしくなってしまった。下方を見つめながら、彼女は目を瞑った。心臓疾患とは思われない、それとはまた別の違和感がある。
「茉世さんが気にすることではありません。ぼくがしっかりしていればよかったのです」
 その日一日、彼のことが頭から離れなくなっていた。|六道月路(ろくどうがつじ)に電話をかけたときでさえ、楓に報告をしながら、彼女はぽけりとは自身を抱いた男のことを考えていた。眠りに落ちてしまう直前まで、脳裏を占領されていた。指には日焼けしても瑞々しい肉感が遺り、身体には手加減された重量感が消えない。


 彼女は葬儀場に立っていた。棺の前に佇む。見上げた祭壇には遺影。しかし照明によって白塗りになっていた。一体誰の葬式なのか分からなかった。だが彼女は一人、棺の前に佇んでいた。参列者は、四角い黒い塊となって、ひそひそ噂話をしている。
『嫁の不倫を苦に亡くなったんですって』
 この事情をすぐに把握できる台詞に、聞き覚えがある。昔観たドラマだ。主人公が不倫し、それを知った夫は追求することもなくいきなり自殺してしまう。不倫の発覚した次の回で葬儀の場面から始まったのが印象的で覚えている。
「茉世義姉さん」
 まだ幼さの残る声に呼ばれて振り向いた。|(りん)が冷たい目をして参列者の間を抜けてきた。
「酷いです。どうして―を殺したんですか」
 悲鳴が聞こえた。また祭壇のほうを向き直すと、禅が棺にしがみついて泣いていた。泣き叫ぶ姿を目に入れていると、肩を叩かれる。蓮であった。
「何をしているんだ。義姉さんに、ここに立つ資格があるとでも?帰ってくれ」
 参列者の怒りの眼差しを感じた。確かに、ここにいるべきではない。彼女は逃げたかった。ホールから出たかった。
「息子を返して!」
 絶叫が響きやすい空間に谺する。だがこれは嘘だと思った。義母はそのようなことは言わないだろう。言える状態にない。しかしそうだろうか。肉親を裏切られ、死に追いやったとき、また別の感情を抱きはしないか。息子である。長男である。
『淫乱女め!赦せねぇよ!』
 参列者はゾンビと化した。パニックホラー映画のゾンビの大群と化して茉世に迫った。新鮮な生肉を求める活屍人のごとく、彼女へ腕を伸ばし、髪を引っ張り、肩を鷲掴み、腕を握り締めた。
 床に引き倒され、這う。喪服は|(はだ)け、破け、裂かれていた。前へ出した手を、よく磨かれた革靴が踏む。白く炙られた黒靴を辿って見上げた。服装からして男性である。逆光して顔は見えない。
「不倫女なんて最低ですね」
 長い睫毛が目瞬くのは見えた気がした。


 目蓋が開く。クーラーを点けて寝たが、背中はぐっしょりと濡れていた。夢に意味などない。あるのは虚しさだけである。不合理だ。酷い話である。夫は、嫁が他の男に抱かれることを良しとした。止めはしなかった。むしろ促すつもりだっただろう。
 彼女は昨日、自身を抱いた男の持ってきた酒を飲んだ。深過ぎる眠りは、生活リズムを崩している。予定起床時間を大いに回っている。後悔した。だがそうでもしなければ眠れなかった。脱衣所に百合の花が咲いていたのだ。身体が疼く。酒のせいか。おかしくなってしまった。寝違えたのかもしれない。彼女はベッドには寝ていなかった。もしかすると当分、このベッドでは寝られないかもしれない。シーツも布団も枕カバーも洗ってしまった。だがそれはすぐ乾くであろう。しかしすぐ乾いたとしても、洗剤に掻き消えたはずの残り香を拾ってしまいそうなのである。シーツの衣擦れに戸惑いそうなのである。
 悶々とした。熱はなさそうだというのに、身体がおかしい。
 そこへ、管理人の呼び鈴が鳴った。寝間着の上だけ着替え、エプロンで隠して出窓を覗く。人はいない。代わりに脇のドアが開いた。
「約束すっぽかし女サン、コンニチワ」
 ブルーのサングラスが持ち上がる。青い着色料が落ちて、苔が生えたような緑に褪せてきている髪。ちゃりちゃり小煩い、ビーズカーテンめいたロングピアス。
 茉世は半歩後退った。
「|激臭(げきくさ)まんこの約束、どうなってるの」
 この人が誰なのか思い出そうとした。
「よく分からんロマンス詐欺師みたいな人に拉致られてたでしょ、オネエサン。あの人にも、汗臭まんこ、嗅がせてあげたの?」
「か、帰って……帰ってください………お金、返しますから………」
「ワタシ、借金取りぢゃないよ。オネエサン。おまんこしに来たんだから、おまんこしてないのに、帰るわけないよね」
 銀石だらけの手が彼女の胸元を押して中へと踏み入った。

40

「こ、来ないで……」
 照り輝く青と白の薄いMA-1コートを押し返す。硬い肉感に|茉世(まつよ)は目を見開いた。男体というものが急に生々しい。布越しであるというのに手が爛れそうであった。同じ人間であり、平等の権利が与えられているというけれども、ネコとライオンくらい違う生き物ではなかろうか。ネコはその辺を徘徊していてもほぼ人的被害はなかろう。だがライオンが住宅街を闊歩していたら?
「来ないで?来ないでクダサイ、だろ? オネエサン。イくけど」
 大きな手が、茉世の華奢な顎を掬い上げた。皮膚の微細な凹凸を感じる。|(やすり)がかけられたように、彼女は不快感に襲われた。この男の横柄な態度を快く思うことはないけれど。
「で? 茶も出せないならまんこ汁飲ませろよ」
 青山の声が、前と違って聞こえた。掠れてもいなかったし、濁っていたわけでも、鼻にかかっていたわけでもない。茉世は自身の聞こえ方の問題だとは分かったが、その正体は分からなかった。
「嫌です……もう、そういうことしません………帰ってください」
「ハァ?」
 またサングラスを下げ、青山は二又に裂けた舌先を見せる。
「何言ってんのォ?」
「もう、ああいうことしないんです……」
「おい、ブス。何、断ってんの?アナタ何様?ワタシがヤらせろって言ってんの。勿体ぶるなよ、ブスでババアのくせに」
 襟元を掴まれ、引き寄せられる。だが彼女は首を振った。身の内に咲いた白百合を手折られるようだった。それは嫌だった。
「じゃあ、何、ブス。今まではヨカッタんだ?ワタシの若くて大きな真珠ちんぽ、愉しんでたんだ? 急にどうしたの? ダンナさんに棒いぢりはヤメロって怒られちゃった? それともセックスが再開したの?」
 脳天を押さえ込まれる。青山藍の頭が首筋に近付いた。この男は吸血鬼だったのだろうか。飾りでも何らかの身体障害でもなく、吸血鬼であるために屋内でもサングラスを掛けているのだろうか。舌先が割れているのは生まれつきで、肉体改造のためではないというのか。この男は吸血鬼だったのだ。茉世の首筋に痛みが走る。
「またダンナさんにレスられちゃうね、オネエサン」
 茉世は吸われた箇所を手で押さえ、青山藍を睨みつけた。
「もう帰って……」
「ムカツクなぁ。何もしないで帰るわけないじゃん。もっと、ワタシを怒らせろよ。そんなにイヤがってくるならウザくないと、おまんこのし甲斐ないもんね」
 私室へ繋がるドアへ、茉世は打ちつけられた。ハンバーグでも捏ねるかのように。
「ダンナさんになんて言い訳するか考えてろよ。|旦那(アナタ)の稼ぎが足らないから、真珠ちんぽにキモチヨクしてもらいながらお金稼いでましたって言えば? いいよ、今日は奮発してアゲル!」
「しません……しません!」
 彼女はまたさらに首を振った。
「ハァ? すんだよ。なんで自分に拒否権あると思ってるの? イヤならちゃんと抵抗して?」
 エントランスと管理人のドアが、勢いよく閉まった。だが私室のドアは開いたままだった。彼女の躯体は軽く中へ放り込まれる。
「ああ……!」
 踏み締めようとした。だがバランスを崩し、フローリングの上に転ぶ。すばやく上体を起こし、青山のほうを向いた。背の高い男が、さらに大きく感じられる。
「あれ? ピアス穴、閉じてね? オネエサン、せっかく穴増やしてアゲタのにヒド~。まんこと同じだよ、ブス。定期的に突き刺してやらないと」
 青山藍は地べたを這う茉世に合わせ、すとんと屈んだ。急な接近に怯える。怖くなった。青山藍が以前とは違って見える。だがその理由が分からない。
「そんな怯えてドウシタの? あ、誰かにレイプされちゃった? それで男が怖いんだな? 治してアゲル。アナタみたいなブスでもレイプされるんだね。ババアなのにね。ワタシが治してアゲル」
 銀の石ころがついた指が触れかけた途端、茉世は咄嗟に振り払ってしまった。除けたのではなかった。衝突があった。だがそれをやった茉世もまた自身の咄嗟の行動に狼狽えている。
 青山藍は大きく溜息を吐いた。そして片側半分に長く残された青髪を掻き乱す。
「オッケー、オネエサン。そういう感じでイきたいのね。ガチレイプ系、あんまり好きじゃないんだよな……」
 サングラスをしまい、ロングピアスを外し、口元のピアスも外していく。それからグリルズも外した。リングもひとつひとつ外していく。青山の目は冷ややかに茉世を見下ろした。
「あっ」
 一瞬にして、青山の腕は茉世を捕まえた。エプロンを剥がし、シャツを襤褸布同然に引き千切った。タンクトップも下着としての用途はもう果たせず、ただの端切れになる。彼女の頭の中は危険信号のあまり真っ白くなった。殺されるかもしれない。
「コワイ?」
 素直に頷けば、手加減するかのような物言いだった。茉世は恐怖のあまり声も出ない。
「驚きだな。オネエサンがガチレイプ系希望だなんて」
 希望した覚えはない。だが青山は、彼女の皮膚を引っ掻き、またパジャマのズボンがその腿を擦っていくのも構わず、力尽くで剥いてしまった。
 茉世はまだ、自分がどのような状況にあるのか呑み込めなかった。ただ、脳裏に咲いた白百合が手折られ、踏み|(にじ)られていく光景ばかりが延々と繰り返されていく。
 色を変えたらしい夜空柄の爪が、彼女の膝を割り開いた。彼女は言葉を失った。ただ手が抵抗にもならない抵抗を示すのみである。止めるというよりも添えているといったほうが相応しいような微々たる力で過ぎなかった。
 開かされた脚の間に青山は身体を入れ、黒とも見紛う紺色に白みがかった靄を浮かべた柄の爪は、布切れをはためかせる乳房を掴んだ。力任せであった。皮膚を刺される痛みと、脂肪を潰される痛みが走る。相手を思いやる気のない手付きであった。
「あ………、あ……」
 胸の膨らみが大きく歪み、|(たわ)み、離したときの弾みまで遊ばれている。左右を寄せ、頂を擦る。倒れても勃ち上がる健気な芽を艶爪が甚振った。
 悪寒が走る。彼女は首を振った。青山藍は自身の下唇を浅く噛み、口を引き結んでいる。ただ物がそこにあるという眼差しだった。それが青山藍だとは思えなかった。怪物のように思えた。
 脂肪の柔らかさで遊んでいた手は、やがて腿の間にワープし、乾いた指が乾いた粘膜に刺さった。目の前に火花が飛ぶ。痛みを訴える声は、音にならず喉を焼くのみ。二度三度往復しただけで、そこは真珠環を孕んだ巨物を受け入れさせられる。深い溝が左右対称に駆け巡る腹を押しやれども、それが何の抗拒になるのだろう。|(おぞ)ましい陽根は彼女のなかに無惨にも打たれていく。
 冷えきった圧迫感、粘膜の摩擦、肉の軋り、恐怖…… 何よりも、以前より倍増された嫌悪感。
 茉世の目から涙が溢れた。吐気がした。
「オネエサン、泣いてるの?」
 指摘されて彼女は顔を覆った。自覚した途端に堰を切る。
「それも演技? 女はみんなAV女優だからなぁ」
 顎を掬い上げたついでに頬まで鷲掴み、咎めるかのように震わせた。彼女は眉根を寄せ、睫毛に絡んだ涙が落ちていく。青山藍はそれをしげしげと眺めていた。
「今まで、フツーにおまんこさせてくれたじゃん。急になんで? ダンナさんが抱いてくれるようになったの? でもここキツいよ。ダンナさん、粗チンなの?」
 茉世は律儀に首を振って応えた。
「粗チンじゃないのに、キツいの? あ、HAHAHA! へぇー! オネエサン、好きな人デキた? 誰? ここの奴等? 銀蔵はやめとけ。アイツには自我がないから!」
 またぼろぼろと魚の鱗みたいなのが目から落ちていく。
「オネエサンなら、でっかいおっぱい見せれば男なんてイチコロでしょ。相手がホモかロリコンなら別だけど……でかぱいくっつけて、触らせてあげる! って言っときゃ余裕」
 青山藍は嗤いながら茉世の膨らみを揉み|(しだ)いた。手の中で細かな|肌理(きめ)が撓んでいる。茉世は力の入らない腰を置いて、頭から沈んでいくようだった。大切にされた肉体を乱暴に扱われる。この身を大切に扱った人々へのやるせなさがきつく胸を締め上げた。特に彼女の脳裏には、もっと具体的であった。大切にされたのだ。涙が止まらない。咽び、しゃくりあげる。
 青山藍は冷ややかに号泣する女を見下ろした。そして光沢のある薄手のMA-1コートのポケットから綺麗に畳まれたハンカチーフを取り出す。アイロンがかけられ、正方形になっている。夜空と雲柄の爪がそれを広げた。また2つに折って年甲斐もなく大泣きしている女の顔面を覆った。さながら昔の各個人の家で営まれた葬儀のようだ。顔伏せの布は青いけれど。
 何も言わず、強姦魔は女の身を打った。恐ろしい吐気が腹の底から喉元まで突き上げられる。塗り替えらてしまったのだ。何故この暴行に、以前は快楽を見出したのか。快楽によって暴力から逃避したのか。脳裏に居座る人の肌を知る前の身体ではなくなってしまった!そして体格の大小、胴周りや胸周りの厚い薄いはあれども、ほぼ同じ肉体構造だというのに違う生き物のように感じられた。
 鼻先を覆うバニラの香りが気持ち悪かった。
「い、や……!」
 顔に乗る布切れを剥がし、抽送する男体を突っ撥ねる。だが腕は交差され、そのまま自由を奪われた。彼女は首が据わらなくなってしまった。喉元を晒して頭が揺れる。女を拘束しながら何度か突き入れると、青山は手を放した。そして結合部の近くに触る。陰核を押し潰す。
「う、うう……」
 意識を虚空に投げておくことは赦されない。敏感な箇所に集中させられる。以前のように、身をのたうたせ、淫楽に悶えることはできなかった。痛みとも痒みとくすぐったさとも判じられない混乱を与えられるのみだった。
「怖い………怖い、………」
 無意識に彼女は口にしていた。上半身は下半身を見捨て、肘を足にして床を這う。
「助けて……」
 しかし助けてくれるような相手は見当たらないのである。居住者たちは出払い、義母は嫁を痛め付けてから元気がなかった。一体この場に、誰が助けにくるというのだろう。
「誰も助けになんて来ないよ、オネエサン」
 ピポンと鳴った。その音に覚えがあるのだ。だが信じられなかった。アプリコット社の出しているデバイスでの録画開始の合図である。茉世もユーザーであった。野良猫と遊んだときや花見の季節によく聞いた。
「イェーイ。|(ばん)クン、見てる~?」
 ピースサインを作り、青山藍は自身を撮りはじめる。
「今、絆クンの兄嫁をレイプしてまーす。どうする絆クン。警察に訴えでますか~?ブロークンハートから強姦魔出しますか?」
 ピースサインは開かれ、掌をひらひらひらめかせた。
「オマエの所為だからな、絆。拝金主義者め」
 おどけた調子が、一気に底冷えしていた。青山の構えていた黒光りの板が下ろされる。ピコンと鳴って録画が終了したらしい。高機能携帯電話が視覚から消えると、青山藍は茉世の存在を思い出したらしい。不穏な凪ぎ方をしていた顔に露悪的な微笑が浮かべられる。
「コレ、オネエサンに預けるよ。どうする?絆に渡す?このまま隠し通してワタシのお人形さんになる?」
 カバーの付いていない剥き身の無機物が彼女の捩れた脇腹の上に置かれた。安定せず、床へ落ちていく。
 青山藍はへらへら笑うと彼女から砲身を引き抜いた。そして茉世に握らせ、手淫によって精を放つ。彼女の手の中にべっとりと粘ついた米の研ぎ汁、腐った牛乳みたいなのが飛び散った。濃厚な牡の匂いに、嘔吐準備の生唾が湧く。だが吐くことはなかった。青山は射精すると、牡生臭いものを出したまま、そこであぐらをかき、ポケットから紙幣の束を出した。|(おやゆび)を舐める様が汚らしい。
「とりあえずの10万と、モデル料の5万で、15万」
 揃えることもなく、紙幣が15枚散らばって落ちていく。
「|文秋(もんしゅう)に売れよ。ブロークンハートから強姦魔が出たってな。アイツはワタシからダンスを奪り上げた。ワタシはアイツからグループを奪り上げる。因果応報なんだよなぁ」
 ピアスを刺し、指輪を嵌めていく。ポケットから銀色の細いネックレスも出てきた。
「ワタシのカノジョ、イエベでさ。ブルベ似合わないのよ。だからオネエサンにあげる、コレ」
 ステファニーアンドカーのクローズアイである。20代前半であればまだ似合っていただろうけれど、そろそろ相応しくない年頃である。青山藍にはプレゼントのセンスがないのであろうか。世間の風潮を察する機敏さを欠いているというのか。それとも不要なものを不要なものだからという理由一点のみで押し付けているのか。
「人妻には似合わないかな。でもオネエサン、人妻の色気ないからダイジョーブだよ。レスられ妻だから仕方ないね。レスられ浮気妻だから。エッロ……」
 青山藍はちゅぱちゅぱ茉世の唇を吸った。それからビールを一息に呷ったかのごとく口元を拭った。
「要らなかったら売って、そのオカネでディルド買ったら。ダンナさんのこと忘れて、好きぴっぴのこと考えてオナニーしな、オネエサン。好きぴっぴのちんぽこと同じSサイズのね。ワタシのドラゴンパールエクスカリバー知っちゃったら、簡単には満足できないと思うけど、アイノチカラってすご~いから。げへへ、ワタシも"|(あい)"だよ、オネエサン。オナニーしてるところ見たかったなぁ。物足りなくなったらワタシがホンモノちんぽ挿れていっぱいぱんぱん突いてあげるよ。っていうか好きぴっぴ呼んで3Pしよ? 3Pしよ、オネエサン。ダンナ呼べとは言わないから、好きぴ呼べよ。オネエサンが好きぴにファックされて純愛イきしてる横で、鬱勃起シコりてぇ~!」
 青山は茉世の生臭い粘液まみれの手をその辺にあったティッシュで拭き、やはりその辺にあった霧吹きのトリガーを引いた。アルコール臭い霧が噴く。その顔は急にしかつめらしくなっていた。そういう表情をすると、途端に目元が鋭くなる。
「オネエサンってさ、純愛不倫ガチ恋イき、したことあんの?」
 にたぁ、と頑丈なコンクリート壁が一気に崩壊するように、悪辣な笑みが出現する。
「目、閉じておけよ。ワタシが練習台になってアゲル。ワタシがオネエサンの好きぴディルドになってアゲル。嬉しいでしょ?」
 ハンカチーフを細長く折り畳み、青山藍は茉世の目元に押し当てた。そしてすぐさま唇を合わせた。嫌がる手を無視し、握り込む。
「ん………っ」
 散歩途中の犬同士の挨拶みたいに、青山の銀疣付きの舌は、茉世の舌に一度巻きついてすぐ離れた。
「コンドーム1コしかないから、1発だけね?」
 耳元で囁き、また舌を絡めた接吻へ戻る。蛇の喧嘩にも、|蛞蝓(なめくじ)の交尾にも似ている。銀面皰を引っ掛かけられる。
「ぅ……ん、ん………ッ!」
 茉世は握られたままの手で、青山を押し除けようとするが、青山は身を退こうとするどころか、さらに彼女に密着を迫る。やがて茉世の身体は弛緩する。それが目的だったとばかりに口が離れた。
 青山藍は何も喋らなくなってしまった。茉世の視覚は塞がれ、部屋は静かであった。数えられるほどの音しかない。苦行は終わったのではなかったのか。終わっていなかったのだ。青山は陰茎を生身で突き入れたことも厭わず、茉世の腿のつけ根、脚の間に頭を埋めた。両手は指を組まれ、腿の外側へ貼り付けられる。恐怖に似たくすぐったさに身が竦んだ。背筋が仰け反る。
 |陰阜(いんぷ)に茂る黒絹屑に伏龍が棲みついてしまった。息吹を感じるのだった。だがそれは吹いているものではなかった。吸われているのだった。大気に|(みなぎ)る活力を口から放つ光線に変換するために、この妖しい叢の魔臭を吸収していた。
  嗅がれている羞恥と、|人気(ひとけ)に慣れないところに息吹を感じるもどかしさに、彼女の身体は戦慄く。龍舌は空を流れる雲のごとく、糸屑玉の下へ潜んでいった。
「あ、うぅ………っ」
 熱さと強い寒気の両方を感じる。意識は下腹部の底へと集まっていき、茉世は掴まれて固められている指へ力を込め、無理矢理に意識を逸らした。締め潰すつもりの力が、指輪か骨か分からない固いものとぶつかって鈍い痛みを生む。その傍で行われる無惨な口淫について、振り向いてはならなかった。
 嘲笑も悪罵もせず、青山は人が変わったように黙々と雛肉へ舌を擦り付けた。ざらついた上面で撫で上げ、つるりとした下面で撫で下ろされたる。この男の舌先は割れていた。時折、過ぎ去ったはずの舌から遅れて舌が落ちてくる。左右のどちらかに差をつけるのだった。異様な感触に腰や背中を冷たい手で逆撫でされるような気になる。
「ふ………ぅう………」
 身動きを制限され、鋭敏な部分を絶妙な技巧で舐め上げられていく感覚を逃がす|(すべ)がない。|(おぞ)ましくも甘美な蠢きが腹の中に滞留していく。肉体的で、物理的で、即物的な刺激であった。だが戸惑う。精神に作用する。痛みでも苦しみでもないくせ、認めたくない、ありのまま受容できない、肉体を介さない苦しみがあるのだった。
 青山は機敏に、複雑な女体に秘められた複雑な魂を見抜いたのか否か。唇休め、舌休めとばかりに日に焼けがたい、白く柔らかな内腿を吸った。ライチを食うように吸った。白玉を啜るような口遣いで、吸った。てゅぱ、と音がたつ。肉体の持主本人には見えない、紅い痕がつく。
「うう、」
 茉世はくすぐったさに似た恐ろしさに身を跳ねさせた。尻が床をうつ。
 騒がしく|(やかま)しいほど饒舌多弁な男が黙ると、それは威圧や脅迫のようであった。実際、上肢の動きは封じられていたし、下肢も自由であるとは言いがたかった。膝で男の頭を抱くか、背中を蹴ることしかできない。しかしもし怒らせたならば。法律も常識もかなぐり捨てられてしまったとき。|原始的(プリミティブ)な手段をとられてしまったなら、茉世は勝てなかった。包丁を与えても勝てないだろう。銃を渡したとしても、扱い方も分からず、当てられるとは限らない。社会一般的な性差もそこにあったし、大きな身長差や体格差からして|膂力(りょりょく)の差も明確だった。それに加え、ナックルダスターとしか思えない指輪が害意を持ったとき。怪我では済まないだろう。そのとき限りの負傷では済まず、命を落とす可能性も大いにある。蹴るのは賢明ではない。否、彼女にそのような計算式を解いている理性はなかった。生存本能がそのような選択肢は隠してしまっていた。彼女ができるのは川底の石となるのみであった。
 青山は十分にそこを濡らすと、股のつけ根へキスした。何かの合図のようであった。癒着したかのような手が呆気なく 離れていった。茉世の手は爛れたように相手の体温に蒸されていたというのに。
 あっさり帰っていった指は、今度は舐め濡らされ、津液まみれになった陰門へ現れた。夜空と雲の描かれた爪を背負って、彼女の体内に訪れる。牛歩であった。亀の歩みであった。嫌がらせのように|(たむ)ろしているみたいだった。不躾に辺りを探索し、彼女の中へ入っていく。その慎重さを知っている。純潔の身体を相手にするかのような所作を、つい最近、味わわされた。
 不穏当な静電気が、彼女の芯を伝っていった。触られているところから、脳天のほうへ、心電図を描くように駆け上っていく。そして打ち上げ花火のごとく、全体へ号令をかけていく。
「あ……ああ、」
 戸惑っていたはずだ。ところが決着した。彼女の意思は却下されたのだ。快楽を得ることが採択されてしまった。
「や………め、」
 揶揄も哄笑も返ってこない。わずかにくちゅ……と水音が返事をしたのみだった。同時にそれは、青山藍の指が浅く入って引き返しながらより深く入っていくために出てきた音でもあった。
 身体はこの刺激を、淫楽として享受することを許してしまった。認めてしまった。
「やめ……て、やめ……て………よして…………」
 浮かべてはいけない人の顔ばかりが閃いてしまうのだ。そこに重ねてはいけない人の指を。忘れ去り、消し去っておくべき声を。白百合の花を手折ってしまう。
 青山藍の指が滑っていく。それが青山自身の力加減によるものでないことを、茉世は理解した。剽軽な調子から繰り出される悪罵を待つ。しかしなかった。粘着質な水音がその代わりだったのかもしれない。聞かせるためにこの男は黙っているのではあるまいか。
 快いところはすでに知られている。
「あ………んっ………」
 唇を引き結んだ。指が速まる。押し寄せるたび、拇指が鐘肉を圧していく。甘い余韻を引き摺りながら、内部の異質な刺激を受ける。
 外部刺激はなかったはずだった。だが甦る。違うことをしているというのに、夫でもない人の顔が、シャッターを切るように脳裏に現れる。消そうにも消せない。黒く塗り潰せない。
 青山は茉世の身体を起こした。四つ這いにさせ、その背中に圧しかかる。胸へ手が回った。
「だ………め………」
 その人を虚空に描像してしまうのは。

41

 |茉世(まつよ)は四つ這いになりながら、後ろから抱えられていた。この巻きつく腕がなければ、床に伏せていたかもしれない。ハンカチーフが落ち、視界が拓けるが、彼女は呆然と虚空を凝らしていた。あらゆるものを眺め、情報を集め、意識を分散させるべきであった。だが愚かにも彼女の肉体は視界を制限し、肌の感覚を研ぎ澄ましてしまっていた。
 青山は長い指を使って、彼女の生白い膨らみを揉み|(しだ)いた。豆腐を崩さず掴み取るような手加減が、この男らしくなかった。手からこぼれ落ちそうな脂肪は二つの白桃のようだった。その瑞々しさからして、果汁を滲み出さないのが不思議に思えるほどだ。
 沈黙のなかに、ひとつだけ吐息がある。この場には2人いるはずだった。青山は死んだのだろうか。茉世の胸に冷たい氷のようなものが触れる。それは死体の温もりであったのか。違う。この比較対象によって、背中に張り付いて|()しかかる死体が温かく感じられたわけでもなかった。桃肌を収めた指には意思がある。色付きを、触れるか触れないかのところで擽った。
「ん……っ」
 もどかしい痺れが起こる。閉じたままの目蓋を、さらに強く閉ざした。悩ましげに眉根が寄る。男の肉体から逃げるつもりで、容赦せず体重をその腕に預けていた。だが落ちることはない。しっかりとそこに巻きつき、胸を捉えている。
 頸が生温かく湿った。軽快な音がたつ。それは肩から背中から鳴り響く。唇の音だった。茉世の身体は波打ち、胸元に巻きついた腕では頼りなくなった。彼女は自身の腕で自身を支える。
 青山は白桃を食ってる気分であるらしかった。夢中になって、肌理細かい女の肩を吸う。啄み、リップ音を残していく。
「あ………、あ………っ」
 茉世の身体が仰け反る。|擽感(りゃくかん)が、彼女を打ち据えるようだった。
 真後ろの男は吐息も消し、声も出さず、口と指で彼女を愛撫する。ただ、指輪やピアスの冷たさや、耳飾りの軋りが彼女を現実に戻す。しかし背後にいるのがあの傍若無人、乱暴者であっけらかんとした青山藍とも思えないのだった。
「ぅう………」
 胸の先端が、揺れによって曖昧なところを交う青山の指をどうにか掠めようとする。当たるか、当たらぬか。大した接触はないが、しかし刺激としては受け取っている。|肉癢(こそば)ゆさに、彼女は呻いた。青山藍に、黙るということができるというのか。青山藍が、女の性感帯を嬲りたいだけ嬲るということをせずにいられるのだろうか!
 どこまで降りていくつもりなのか。青山は尻に向かって一歩ずつ唇を押し当てていた。
「もう………いい、でしょう………?」
 弱りきった懇願は届かない。機嫌を窺うように、指先が白桃の色付きをタップする。深く触ってやるつもりはないのだ、とばかりのあっさりした動作であった。
「ふ、…………っん」
 小さいなりに硬く充血していることを、青山は|()うに気付いているのだろう。羞恥と快楽と、急激な優しさに、茉世は何も考えられなくなった。考えてはいた。しかし何も分からない。皮膚の接触によって気が散ってしまう。
 まだ、逃げようとしていた。けれども打算があってのことではなかった。唇が怖い。くすぐったさが怖かった。真冬の素肌に冷えた鉄球を当てられるような怖さだった。身が竦む。青山藍は腕を抉じ開けて逃げようとする茉世を抱き締め直した。彼女の耳朶を吸う。痛みとも振り切れず、痒みにも至らない曖昧な感覚を与えられ続け、背中を警戒すれば胸を捏ねられ、余韻が響き渡り頃に肌を舐められる。
「う………ん、ん…………」
 茉世は受診を拒む犬猫みたいに硬直し、あわよくば逃げ出そうとしていた。青山だと理解しておきながら、青山ではない愛撫が恐ろしい。化膿した傷口みたいに腹の底が濡れていく。
 身体を横たえられ、天井が見えた。褪せて緑色になりかかっている毛束も見えた。だがすぐにハンカチーフがまた視界を覆ってしまった。迫りくる体温を押し除けても意味がない。片手は繋がれてしまった。大差のある掌と掌を合わせ、指は指の間をすり抜け、関節や銀塊がぶつかる。
 挙措こそゆっくりとし、青山藍らしくない丁寧な扱いであったが、彼女は、彼女のみを切り取っては、|懸河(けんが)に身を任せ、流れに呑まれ、奔流に翻弄されていた。静かな激流のなかで、彼女の耳には微かな物音が届いていたはずだ。しかしおそらく、彼女はそれを聞いてはいなかった。首を嗅がれ、舐められ、吸われているむず痒さともいえないむず痒さに騙されていた。怪我をしたわけでもなく膿んでしまったように潤みを持った場所を探られる。長居はしなかった。濡れた指が腰に添えられた。
「あ!あ………っ、」
 圧迫が下からやってくる。茉世はわずかに我に帰った。青山藍だ。これは青山藍なのだった。青山藍でしかないものを、この肉体は持っている。隠すこともごまかすこともできない。
 彼女は内臓を押し広げられる感覚に唇を噛んだ。何度経験しても慣れない。けれども青山藍はそれを赦さなかった。噛んだ下唇を引っ張られる。真珠環に備えた。それは確かに存在した。だが、感覚が鈍い。ぎゅむむ、と弾力を帯びた摩擦が起こり、やはりその肉体の一部を持ってしても青山藍らしくない。肉感はあった。だが、ラテックスを挿れられているようだった。
「だ………れ…………」
 無意識に呟いていた。青山藍である。それは分かっている。理解している。納得できていないだけである。
 返事はなかった。ただ口角の辺りに唇が落ちてきた。青山藍とはこういう男だったであろうか。女体に闖入し、好き放題動き回り、蹂躙と暴虐の限りを尽くす男ではなかったか。今、眼前にいる人物は苔生した岩のごとく静止している。粘膜が慣れるのを待っているらしい。茉世は腰にある手を叩いた。叩いたというよりもその手の甲に、掌を二度ほど当てにきたようなものであった。繋がれたもう片方の手も自由を得ようとした結果、肘で立てていたはずだが、押し合い|()し合い、共に倒れてしまう。しかし、何かしら効果はあったらしい。茉世によってぽんぽんとパフでルースパウダーでもはたかれたような青山の手は、腰から離れた。今度は彼女の頬に触れ、口付ける。バニラの香水の香りだ。薔薇の香りはシャンプーかボディソープか。茉世は青山の肩を押し返す。力は入っていなかった。縋りついていたようにさえ見えた。
「んん………」
 下唇を吸い、舌の半ば、側面でなぞられていく。青山藍は、己の青山藍と証明する肉体的アイデンティティを殺していた。互いに口元が荒れるほど濡れていく。ぐい、と腰が、茉世の心臓へ近付いた。ゴムの軋りを粘膜の狭間に感じる。
「は……ぁん」
 男との肉体の接触ではなく、逞しい男体に犯されているという認識によって、厭な快楽が身体を巡る。繋がった場所から遠い脳天のほうで花が開いている。異物感も痛覚も困惑もそこが花開いてしまえば、途端に官能の桜並木、愛欲のチューリップ畑、淫楽の果樹園へと様変わりしてしまうのだ。
 彼女の変化に、男は巧みに応えた。器用な牡であった。優秀な牡であった。強壮な牡であった。そして屈強な腰のばねを持っていた。牝のために、牝の身体を荒々しく癒やすために存在するかのようだった。文明と倫理、権利を捨てたとき、それは種人と成り得たかもしれない。
 茉世は珠門を緩やかに打ち据えられていた。緩やかで、穏やかな抽送であるが、的を外すことなく、的確な加減で打ちのめす。快感だけではない情動まで呼び起こす、彼女の弱点中の弱点が、惨めに打たれている。
「あ、………ああ、!」
 相手が誰であるかを忘れ、己が誰であるかも忘れて、茉世は自由な片手で恐ろしい男を抱いた。律動に揺れ、滑り落ちることに焦ったくなった手は、しなやかな背中に爪を立てる。吐息が降ってくる。朝露を滴らせる白百合の姿が彼女の目蓋の裏に|繁吹(しぶ)いた。
「ああんっ」
 困惑を起こしたの彼女の感情のなかではなかった。あの男を掻き抱いた箇所が困惑していた。ゴムの軋りが消え失せるほど、純潔の創傷が膿んでいた。
 悩ましい顔が忘れられない。伏せられた長く濃い睫毛のひとつひとつを思い描ける。寄せられていた眉根の色香に|()てられてしまう。
「ふ、あああ……!」
 消し去らねばと思うほど、それは意識を強めていく。彼女の罪業は、他人にとっては蜜の味であり、蕩けた感触を生み、廻りまわってさらに彼女をさらに追い詰める。
「だめ……………だめ……………」
 深い忘我の予感があった。恐ろしい!
 繋がれた腕を振り払って、彼女は男体へしがみついた。恐ろしい悦楽の波に呑まれ、そのまま流されてしまうかもしれない。藁に縋っていたのだった。だがその藁は逞しく、悪趣味で、露悪を遂行するだけの技量を持っていた。
「ああ………!ああんっ……あ、あ!」
 派手な見た目ならば、毒を持っているものなのだ。青山藍も毒針を持っていた。哀れで惨めな牝敵に突き刺して弄び、喜んでいる。虫のように腰をかくつかせ、憫然たる弱い牝を甚振った。喉を擦り切らせて悲鳴をあげているというのに、毒針で突つくのをやめない。一気に刺しはしなかった。刺されている自覚を持たせるために、徐々に腰を進めていく。
 茉世は卑猥で淫靡な妄想に取り憑かれていた。白百合の花粉がべったりとついて、風呂に入っても、シャワーを浴びても、身体を洗っても落ちないのだった。気高い純潔の馨りが染みついてしまったのだ!
 バニラの匂いも薔薇の匂いももう分からなかった。彼女自身が匂い立っていた。そして相手は、女の渇望に応えられる男であった。
「ああああああっ!」
 雷が落ちたのではないか。彼女は稲光を眼球の裏に見た。脳天から下腹部を突き抜け、全身へその枝葉を伸ばしていく。ショック状態に似たエクスタシーに、彼女はすべてを忘れていた。記憶を抹消し、思考は停止して、息もできなかった。意識が飛びかける。だが視界が明るさを取り戻したのだった。
「イくたびに気絶する気なわけ?」
 |平生(へいぜい)の青山藍がそこにいた。
「それじゃマオトコも愛想尽かすんじゃね」
 茉世のなかから青山は去っていった。塗り潰したかのように黒いものが陰茎を覆っている。よく濡れた光沢となめらかな表面は避妊具であろう。だが包んでいるはずの肉茎を透かすこともない。青山はすぐにこの黒い膜を剥ぎ取った。グロテスクな肉物が露わになる。
「お掃除フェラとかやってあげられないじゃない、イくたび気絶してたらさ。まんこ貸すだけじゃ好きになってくれないよ。胃袋で掴む時代はもうおしまいなんだから、オネエサン。キンタマ袋で掴む時代だよ。違うか。キンタマ袋を掴む時代。まんこでね。オナホがある時代に、モノホンまんこに挿れたいのが男だから仕方ないね」
 黒い膜を眺め、その口角が歪む。
「オネエサンの本気汁スゴイな。見て、この白い、ザーメンみたいなやつ。ワタシ、ローション使ってないからね。これ全部、オネエサンの本気汁だよ。オネエサンの、女の子ザーメンだ。お掃除クンニしてあげよっか」
 分厚い避妊具を放り投げ、青山藍は剥き身のグロテスク棒をまだ収縮の治まらない茉世のなかへ突き入れた。
「今、だめ………っ!今、ぃや………!」
「オネエサンはいつだって上のオクチで嫌がって、下のお口で喜ぶじゃ~ん」
 青山はあっけらかんとして彼女の細腰をがっちりと左右から固定して、仰向けに寝てしまった。そして腹の上に彼女を持ち上げた。
「オネエサン、ワタシ、ドMだからね。上に乗られるとコーフンしちゃう。いや~ん、あは~ん、イくイくぅ~!」
 茉世は後方へ仰け反った。彼女に構うこともなく、青山藍は腰を突き上げる。
「さっきのオネエサン、カワイかったよ。ワタシにもああやって、まんこキュンキュンしてよ。あんなの、ワタシを使ったオナニーだよ、オネエサン。オネエサンは他人を使ったオナニーが好きなんだね。そんなだから旦那サンに抱いてもらってないんじゃないの? レスられ欲求不満不倫妻サン」
 喋っていてもリズムを崩さずに悍ましい銛で牝肉を抉じ開け、凶悪な返で刮ぎ取っていく。
「あ……っ!あ………っ!」
 暴力的な快楽の乱打だ。まだ先程のオーガズムも治まっていなかった。そこが壊れたように痙攣を続ける。
「オネエサンのおまんこ、下から打つのキモチイイ! オネエサン……マオトコにも中出しさせてあげなよ。オネエサン、人妻ブスババアだから中出しさせてくれなきゃすぐ捨てられちゃうよ。中出しさせてくれるしか価値ないんだから。ピストンずこばこさせながら出すのキモチイイんだよ……マオトコにも中出しさせてあげな? ワタシも中に出すね、オネエサン」
「だ、だめ……ッ」
 青山藍は涎を垂らし、下からの衝撃に耐える茉世の顔を眺めていた。やがて結合部を食い入るように見詰め、彼女の腰を落とさせた。密着後、間もなく放精。
「純愛不倫レスられ人妻のガチイきまんこ、キモチイイね……オネエサンのおまんこ好き………オネエサンのおまんこ!」
「ああ!」
 ぱん、と嫌がらせのごとく青山は彼女を突き上げた。
「さっきみたいにワタシのこと抱き締めて」
 茉世は涙に目を潤ませて首を振った。
「ゼッタイ、3Pしようね、オネエサン。オネエサンがマオトコとちゅぱちゅぱベロセックスしてるときにオネエサンのイき寸まんこに入ってみたい……」
 青山藍は身を起こし、嫌がる女にキスを迫る。飽きるまで口付けると、彼女にスマートフォンを握らせた。
「|文秋(もんしゅう)に売ってね。オネエサンの不倫もバレちゃうけど……ブロークンハート、潰そ?」
 茉世の萎れた指から、機械板が落ちて鈍い音をたてた。直後、ドアが開く。
「文秋に売るな。今じゃない」
 眠ってしまうはずだったところに我が物顔で現れたのは|鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)。茉世はその登場にも驚いたが、彼が高校生と思しきブレザー姿であることにも驚愕した。似合っていない。茉世は鱗獣院炎を自身よりも年上だと思っていた。否、高校は義務教育ではないのだから、30手前だろうが過ぎようが、還暦だろうが関係はないはずである。
「マオトコ?」
 ライオンのような面構えが青山藍を捉える。
「子供の前で、虐待だぞ。やめろ!」
 ジャケットは小さく見え、逆三角形を描くシャツはぱつっと胸筋を透かす。その上に濃い紅色のネクタイが|(たわ)んで乗っていた。捲られた袖からは丸太のような腕が伸びている。一体どこに子供がいるのか。
「子供?」
 青山藍もその一言に引っ掛かったらしい。大仰に当たりを見回す。
「ふん……|本家(うち)の嫁の前からとっとと失せろ」
 青山藍は疑問符を浮かべている。輪ゴムに巻かれた紙幣を摘んでいるところだった。
「ああ、コノヒト、旦那サン?」
 7枚を数えて、また投げ散らかす。
「これ、中出しボーナスね。オネエサン、処女じゃないしブスババアだから3万減額の7万ね。でもイかせてくれたから3万追加で……」
 様々なところを触ったというに、青山は汚らしく指を舐めて紙幣をまた繰った。
「|他家(ひと)の嫁に勝手に金を渡すんじゃねーよ」
「ハァ?オタク、イタめのヤバ客?カノジョじゃない女とセックスしたのに金払わないのは万引きと一緒だよ、激ヤバイタ客万引き旦那サン」
 鱗獣院炎は唖然としている茉世へ寄っていった。
「オネエサン、いくらブスでババアの|(パンピ)顔非モテ雑魚でも、イタ客万引き激ヤバコップレ野郎を旦那にするのはちょっとナイと思うな。ソノヒトと離婚して、ワタシと結婚する? |(ばん)とも赤の他人になれるじゃん。優しくするよ? そうしたらオネエサンとパコパコするの無料になるもんね?」
 言われている本人よりも、|剽悍(ひょうかん)なつらをした大男が鼻梁に皺を寄せる。
「|三途賽川(さんずさいかわ)の嫁が、|蟄居(ちっきょ)したかと思わせておいておかしな男と関わっているとはいい度胸よな」
「どうして、ここに……」
 やっと絞り出せた言葉に、鱗獣院炎は溜息を吐いた。
「売春してるってのは本当なのかぃや?」
 散らばった紙幣の1枚を掴み、彼は茉世の目の前にひらめかせる。
「い、いいえ……」
 売春、という単語は、あまりにも突然であった。腑に落ちない。
「ウソだ~。ワタシ、何万も課金したでしょ。即イき優秀まんこと牛イきドスケベ乳首に課金したでしょうが?」
「|辜礫築(つみいしづく)の|(せがれ)では満足できなかったと?」
 茉世は喧嘩中のオス猫みたいに顔を逸らし、横面を晒していた。
「いいえ……」
「じゃあなんだこの有様は? 旦那の子を産む|器官(ところ)で金を稼ぎ、あんな家からは出ていきたいと?」
「い、いいえ……」
 息が詰まる。茉世は目を閉じた。夢なら覚めてほしいが、生憎、夢とは思われない。
「キモチワル……オジサン、キモいよ。若作りしたいのも分かるけどさ……まずセクハラやめたほうがいいって。いっくら旦那サンっていってもさ……まぁ、確かにイケメンっちゃイケメンだけど……DVじゃん。ドン引きなんだけど。オネエサン、非モテで|男旱(おとこひでり)だからってそんなヤバ男選ぶことないでしょ。 この前のどちゃくそイケメンは? あれも遊び相手なん?」
 またも話しかけられている本人よりも、獅子のような男が深々と眉間に皺を寄せた。
「ほぉ? まだ他に男を|(たら)し込んでいると?」
 茉世は首を振った。
「違うと? あんたのところの次男か?」
「は、はい……」
 沈むような消え入るような返事だった。溜息が帰ってくる。そして鱗獣院炎はライトブルーとブラウンがチョコミントアイスを彷彿とさせるジャケットを脱ぎ、茉世に羽織らせる。
「これは預かっておけ。そいつの人生の最盛期に売り飛ばす」
 死骸のごとく転がっている高機能携帯電話を拾い、彼は薄らと模様のあるスラックスのポケットに入れてしまった。
「ワタシの人生のサイセーキなんてもう過ぎたよ。オタク、ワタシのこと買い被り過ぎ。っていうかワタシのこと知ってるんだ?」
「|A2G(エーツージー)だろ。昔昼のパフォ対決見てた」
 青山藍の年柄年中ふざけた顔が、急に引き締まる。
「でもこんなことになって残念だ。合併したことがじゃない。こんなこと言わなきゃならなくなった立場ってやつによ」
 鱗獣院炎はジャケットごと茉世を抱え上げた。
「金は要らん。|他家(うち)の嫁に勝手に餌付けをされると困るな。金は兵器。分かるか? これで刃物でも買われて、一家心中になったら誰が責任を取ると? 」
 青山藍の顔は引き攣っていた。
「自己責任」
「そらそうだ」
 鱗獣院炎は茉世を連れ去ってしまった。あまりにも軽々と、容易に運んでいった。
 黒塗りの鏡面の装甲を持った車に放り込まれ、行先は三途賽川。
「困ります……」
 茉世も図々しい女である。一体誰が一番困るのか。彼女は自身を一番困っている人間に据え置いているのか。
「困る? ああ、困るね。オレ様もえらい困ってる。本家の嫁が売春だと? 避妊もせずに? 清らかな学徒の制服を生臭く汚しよってからに……」
 丸太のような膝に乗せられ、そのままシートベルトを掛けられ、さながら乳飲み児であった。そしてとても安全な乗車とはいえなかった。半裸の彼女は他者の体液を垂れ流し、鱗獣院炎のスラックスに染みを作る。
「そんなんじゃ………」
「オレ様は嫁を手放すなと、あんたの旦那に口酸っぱく言ったからな。あとは知らん。旦那が赦せば現状維持だろうが、嫁が隠れて売春していただなんて尋常な男は耐えられない。性病検査するこった。旦那が赦さなきゃ出て行け。あとのことは知らん。独身女の売春ならとにかく、既婚者の売春たぁ……子供にこんなこと言わせるな」
 しかしどこを見ても子供はいない。運転手は明らかに成人であったし、助手席に人はいない。
「……ごめんなさい」
「謝る相手はオレじゃねーが、オレも学校休んでここまだ来てんだ。まぁ、受け取ってやるよ、オレ様はな。あんたの旦那がどうするかは分からんが、口添えくらいはしてやるぜ。青山藍が相手じゃまぁまぁの高級娼婦。花魁がステータス扱いのこの国じゃ、売春婦蔑んでるのも訳分からんしな。とはいえども、青山藍も|落魄(おちぶ)れたもんだな」
 鼻を鳴らし、片側の口角吊り上げる様は、ただの侮蔑一色だけではなかった。
「ご迷惑をおかけします……」
「ふん、まったくだ。こんな面倒と手間のかかる嫁、オレ様の女なら悪くなかった。他人に尽くすのは嫌いなんでね」
 運転中にもかかわらず、鱗獣院炎は運転手にアルコールティッシュを求めた。運転手は所望されたものを渡す。
「あ……」
 茉世は冷たいながらも粘膜が熱くなる感覚に呻いた。大きな手がアルコールの染みた紙片で、他人の体液を垂れ流す弱い場所を拭いたのだった。

42

「粘膜にアルコールティッシュは沁みるでしょう」
 運転手が喋った。|茉世(まつよ)はルームミラーを瞥見する。黒い不織布をつけた顔上半分に見覚えがあるが、似たような面構えを知っているだけかもしれない。
「ンじゃあ何で拭けと?」
「こちらをどうぞ」
 運転手は人の好さそうな喋り口で、丁寧に折り畳まれたハンカチーフを寄越した。タクシードライバーではないはずだが、接客業に慣れているような気がする。
「女の股拭くんだぞ」
「構わないですよ」
 |鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)は渋い顔をしながらも、ハンカチーフを受け取った。
「だ、大丈夫です……」
 アイロンのかかって、端と端をぴたと合わせ、商品のように綺麗に折られたハンカチーフを汚すのは躊躇われたし、また、股を拭かれることを快諾できるわけもない。
「オレ様が大丈夫じゃねンだわ。明日何穿いて学校行きゃいいんだよ」
 横抱きにされてきた茉世はシートベルトのごとく固く腕が巻きつき、ぱんと張ったシャツに身を寄せなければならなくなった。分厚い筋肉の凹凸が透けている。下に何も着ていないらしい。タンクトップもシャツも着ていない。素肌が透け、茉世とはまた違う大きな胸が見ている。膨らみはないけれど筋肉がはち切れんばかりに張り詰めている。ボタンに圧力がかかっているようで、窮屈そうに見えた。車が停まるたびに、緩やかな慣性が、どっしりとした大男の胸板に彼女を押し付ける。同じ人間だとはいうけれども、あまりにも性質が違いすぎるのではないか。
「世話の焼ける」
 鱗獣院炎はハンカチーフでスラックスの沁みを叩くと、そこに置いた。長く太い指を構え、茉世のなかに入る。
「えっ……!」
「性病検査と妊娠検査を受けろ。いつからあのザマなんだ? オレ様は保体の成績は良くねンだわ。とりあえず行くところ全部行って全部検査されとけし」
 指は鉤型を作り、茉世の腹のなかで蠢いた。
「ん……」
「ぐにぐにしてんな」 
「ご………めんなさ、……」
 探るような手付きが気持ち悪い。他人の体液を掻き出すことを目的とした、何の意図もない動きであった。
「別にあんたが謝ることじゃねーんだけどさ」
 ハンカチーフの上に汚らしい液が落ちていく。青山藍の子種がいくつも重なった繊維に濾されていく。
「|NOZM(ゾーン)
『こんにちは』
 機械音が応答した。淑やかな女声である。
「三途賽川に電話かけて」
 高圧的でどこか下品だった喋り方が穏やかなものになる。
『三途賽川括弧自宅へ、電話をかけます』
 アナウンスの後、トゥルトゥルと呼び出し音が鳴る。茉世は驚きのあまり、鱗獣院炎の顔を見遣った。
 出たのは家事代行員であった。鱗獣院炎は家人に代わるよう頼んだのが、在宅なのは禅だけであるらしい。だが永世はいるという。
「十分だ。|辜礫築(つみいしづく)の倅を出してくれ。ご苦労」
 茉世の胸が跳ねた。時の感覚が分からなくなる。保留中の電子音化された英雄ポロネーズがじゃんじゃかと流れていく。
『お電話代わりました。辜礫築永世です』
 いくら技術が発展しようとも電話越しに再構築された声だというのに、それはまさしく永世の声であった。茉世は急に落ち着かなくなってしまった。俯く。
「三途賽川の嫁を回収したわけだが、性病検査してきてくれ」
『え……?』
「なんたら荘ってところに……あ~、男を匿ってやがった。避妊はしてない。あんたも嫌だろ。何かあったとき疑われるぜ。オレぁ、このことを大々的に言うのは嫌だからな。言うならあんたから言ってくれ、辜礫築の倅よ」
『い、いいえ………私からは、何も申し上げません』
「情が湧いたと?」
 茉世は固く閉ざした目蓋を戦慄かせた。
『本家のお嫁さんですから』
「クソ本家に遠慮なんかしやがるな。高校生にこんなことをさせてけつかる。性虐待だろ。児相にチクりてーよ」
 だがそれは不平不満を漏らしているというよりも、露悪的な趣味であるらしかった。
「まぁ、そんなことを愚痴りに電話したんじゃねぇ。いつからか分からないから、あんたのほうでもちょっと嫁のソコを見てみてくれ」
『承知しました』
 茉世は口元を押さえた。白百合の声に、腹の奥が疼きはじめていた。歯のない口で咥えている太い指の存在意義が、彼女のなかで変わってきてしまう。
「次男坊は……ああクソ! 元次男はどうしてる?」
『車がないようなので、外出中かと』
「たまには囲碁でも差してやろうと思ったんだけどな」
 指先の感覚で、鱗獣院炎も茉世の変化に気が付いたらしい。指が動く。
「ふ………んっ」
 彼女は口元をさらに強く押さえた。
「辜礫築の倅」
『はあ』
「本家の大切な嫁に惚れるんじゃないぜ」
 奥をくすぐられる。腹のなかから脳天まで、ぴんと|天蚕糸(てぐすいと)を張られるようだった。何かが、駆け上って頭に届いている。
「あ………ああ………」
『と、当然です!』
「そらよかった。初めての相手ってのには惹かれちまうもんだ。オレ様も、|六道月路(ろくどうがつじ)の姉御にはどう接していいか分からねぇ。あんたもその歳の男なら、|手前(てめぇ)で指導した女が忘れられねーってこともあるだろ?」
『茉世さんは本家のお嫁さんです』
 存在感のある指が、茉世の熟れて腫れたところを掻いた。爪を立てることもなく、硬質ながら柔らかい膨らみを使って、圧迫する。
「んん………ッ」
「憧れるのは自由さ。内心の自由ってもんがある」
『畏れ多いです』
「オレ様ほどじゃなくっても、家次第じゃいい男に生まれるってのもったいないこったな。ここの生まれでさえなかったら、本家の次男坊もそうだが、あっちこっちでヤりたい放題だっただろうよ。イケメンに生まれるってのも|(つみ)が深ぇや」
 ぬぽっ、ぬぽっ、ぬぷぷ……
 鱗獣院炎の手淫は止まらない。大きな親指は、指の出入り口の真上を捉えた。
「やッ、あっ……んん」
 身体ががくりと揺れた。尻に敷いている鱗獣院炎の巨木めいた腿も揺れる。
「役目は終えたんだ。本家の長男も嫁を迎えた。あんたも結婚すりゃいい。辜礫築は女選びに苦労はねーだろ? 他に好きな女はいねぇのかぃや」
 自身を子供だの高校生だのと称し、制服まで買ってなりきっているようだが、その喋り口はやはり爺むさい。行く先は、節介のいきすぎて、親戚連中、殊に若い輩から嫌われ、当人はそれに気付かないような哀れで惨め、痛々しい爺なのが見えている。
『生憎ですが……』
 電子音が茉世の下腹部に響く。そう音量が大きかったわけではないというのに。
 耳と指で触られているところしか存在していないような心地だった。
「辜礫築の倅よ。あんた、怒ってるな?」
『い、いいえ……そのような、ことは……』
「いつにも増して塩対応だもんな。別に男同士、見られても恥ずかしくねーだろ」
『今、茉世さんはどうしていられます』
「寝てるよ。ぐっすりと………な」
 疼きの源を擦られる。茉世は小指を噛んだ。
「ふ………んん、ぁっ」
 がっしりとした顎骨に精悍な面構えが、嫌味っぽく笑む。
『そうですか。私は怒ってはおりませんが、私自身のことはとにかく、茉世さんのお気持ちを考えてはくださらなかったのですか。女性ですよ』
 電子音は感情の機微にも対応していた。
「別にエロサイトに流すわけでも、シコりネタにするわけでもねーよ。オレ様は、な。|(ばん)とてそうだろうよ。それよかあんた、あんな映り方して、オレ様が演技だって難癖つけたらどうする気だった? 生憎、実際に役目は果たしたみたいだが」
 茉世は彼等が何の話をしているのか分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない。しかし嫌でも勘付くほかなかった。
『無断で撮られていること自体が、女性にとっては心の傷なんです』
 おかしな感覚を茉世は味わった。触られているのは腹の内部であるはずだった。だが温められた脳を蕩されているようだった。
「いつのまにかお前は女になったと? それがうちに嫁ぐということさ。多少の同情はあるがな。三途賽川一族で上手くやりたきゃ割り切れよ。一般常識に染まるとつれーぜ、多分」
『あの光景はどうか忘れてください』
 口振りこそ丁寧だが、茉世は聞いたことのない、芯の通り、険を帯びた声であった。脳髄がまたじんと痺れる。
「忘れるさ。あそこは心霊物件だな。"小島めゐ"にも載せていいレベルだよ。お前等の顔なんか白飛びしてたぞ」
『顔が見えていたかどうかが問題なのではありません。盗撮していたこと自体が問題なんです。それもああいう場面を……』
「そうだな。それぁ、オレ様も認めてやるよ。絆だ。絆が、兄嫁の売春を疑っていたのだ。オレ様が盗撮クソ雑魚男なわけなかろうが。鱗獣院の当主として、それを利用したことは認めてやろう。だが元は何故こうなったのか、辜礫築の倅よ、手前の胸に訊いてみろぃや」
『それを言われては……』
 引戸の開く音が、永世の声の奥で聞こえる。
『申し訳ありません。禅さんが少しお怪我をしているようなので、この辺で……』
 どこか投げやりに電話が切れる。
「ありゃ惚れたな」
 茉世はぐったりと鱗獣院炎の腕に身を委ね、それでいて|指抉(ゆびくじ)りに溶けていた。快楽に潤んだ目が、所在なく、他意もなく、鱗獣院炎の双眸を見上げてしまった。
「惚れて……ません………」
 譫言のように彼女は口にした。夫がいるのだ。絵に描いたような、そして現代の世間一般にいうような家庭とはいえないが、しかし屋根があり、壁があり、冷暖房もあれば家具もある。
「は?」
 じゅぽ、じゅぽ、と嫌がらせなのか鱗獣院炎は抽送を速める。関節の出入りが鮮明に感じられる。
「あ、あ、あ……!」
 背筋をのたうたせ、苦しむミミズのようであった。だが彼女を襲うのは苦しみではない。快楽である。
「そろそろ綺麗になったろ?」
 目的は快感を得ることではない。青山藍の体液を掻き出すことであるはずだ。鱗獣院炎はそれを忘れてはいなかった。ハンカチーフは染みを作り、得体の知れない半液体が繊維に濾され、残されている。
「あ……」
 だが茉世はそうではなかった。達することを知っている身体は大いに期待していたに違いない。強いオーガズムを得られるものだと期待し、予感し、求めていたのだろう。けれどもそうはならなかった。煽るだけ煽り、呆気なくその未来は遠退いた。
「なんだ、その目は」
 鱗獣院炎は茉世を抱え直した。閉じた両脚に彼女を跨らせる。シートベルトが柔肌を擦っていった。
「帰ったらすぐに旦那に抱いてもらうこったな。お膳立てはしてやろう」
 茉世は鱗獣院炎によって助手席のヘッドレストへ両手をつくよう促された。そして大きな手が、前屈みになる彼女の胸の先を摘んだ。
「ふあ、あ……!」
 牛の乳搾りでもするかのような手付きで、けれども牛とは違い小さなところを器用に、的確に揉み|(しだ)く。
「旦那のことを考えろ。オレ様を旦那だと思え」
 しかし夫とは体格も体温も、匂いも違う。この男と夫が結びつくはずもない。
「あ……んっ」
 胸の先端だけに意識が向く。余るほど大きな掌も、余った指も、|(たわ)わな乳房を触ろうとはしなかった。果てることのできなかった身体は甘く粘こい痺れを纏い、満足の到達点を高くして、彼女を困らせる。
「ああ……ん」
 夫でも、真後ろにいる男でもない別の人が脳裏に浮かぶが、しかし彼が離れていってしまうような切なさが二点から体内へ波紋を作っていく。気持ちがいい。だがどこか悲しい。
 色付いた突起を挟む指と指が離れた。だが手はまだそこに据えられている。鱗獣院炎はただ指を真上に向け、小さな水滴を掬い取るようかのように茉世の実粒の天端に添えるのみであった。車の揺れのたびに、胸も連動する。鱗獣院炎の指の上で、雫肉が転がる。じんわりとした甘い痺れと、秋風に吹かれたときに似た感情が去来する。広がって消えていく。卑屈な心地良さも、飴玉のごとき毒であった。
「ん………ふぅぅ………」
 腰が焦れったくなった。動いてしまう。彼女を膝に乗せた男はそれに気付かないはずがない。
「演技か? こんな小さなところで本当に感じると? こんな小さなところで得た快楽が、この豊満な脂肪を隔てて、本当にそうなるというのか?」
 掌が乳房を支えた。落ちてきた果実を柔らかく掴むかのような手付きであった。指が鉤型を作る。そして柔肉の上を往復した。掌と指の持主が同一人物とは思われなかった。掌は崩れやすい剥き身の白桃を支えているようでありながら、指は野原を蹂躙しているかのような荒々しさなのである。
「んあ、あっあ、あ………」
 助手席のヘッドレストについた手が、肘から滑り落ちていく。
  鱗獣院炎の逞しい指を養分に、体内で渦が育まれるのだった。爆ぜるのが見えてきた。だが彼女には恐ろしかった。目蓋の裏に居座る人物のことを忘れられない。爆ぜることだけを一直線に目指せない。
「や………め………」
 閉じることを忘れた口から蜜糸が滴り落ちていく。
「分かった。やめるか」
 静電気に弾かれたみたいに、鱗獣院炎は潔く手を離した。そしてぬいぐるみでも扱うかのごとき手軽さで茉世を隣へ移した。
「敷いとけ」
 綺麗に折り畳まれていたはずのハンカチーフは皺を作り、|()れて、ぬらぬらとした新たな無色透明の粘液をべっとりとつけていた。茉世は顔を赤くして目を逸らす。
「嫌がらせで、辱めようと思って言ってるんじゃねンだわ。|鏡花辺津(きょうげべつ)の倅のお高い車が汚れるだろうがよ」
 彼女は咄嗟に運転手を見遣った。誰だか思い当たったのだ。|鏡花辺津(きょうげべつ)|(つき)だ。左手の傷跡が少しばかりむず痒くなる。
「ご、ごめんなさい……」
「別に大丈夫ですよ。本家のお嫁さんなら、むしろ光栄です」
 茉世はハンカチーフを受け取り、そこに座った。車窓の外を覗く。横には他にも車がある。彼女は己の身を抱いた。まともな身形をしていなかった。クーラーが効きすぎているようにも思える。寒い。だが外の暑さに対抗できる種類の寒さではなかった。
「ジャケットだけじゃ足りねーか」
 彼女は硬い地合いのジャケットを羽織っていた。鱗獣院炎の他人の家の匂いが籠っている。
「い、いいえ……」
「頭冷やしても身体と肝は冷やすな。やかましい!」
「はい……」
 何を言っているのかはよく理解しなかったが、ただ鱗獣院炎にとって、自分が三途賽川が娶った産む機械であることは茉世も心得ておくほかなかった。
「性病の有無が分からないのでは、今夜にでも子作りしろとは言えないのだが、その真似事くらいはできるな、茉世?」
 頷いておくのが、最短なのである。この苦々しい話題を終えることのできる最短距離なのだ。
「蘭さんと、よく相談してから……」
「性病を移されても構わないと旦那は言う。三途賽川の長男ならば」
 三途賽川の長男ならば、性病に罹患しても子を成すべきだ。
「それが、母親を虐げ、妹を消し去って築き上げた一国一城一サル山の大将というわけだ。蝶よ花よと暮らしてきただろう。弟たちを足蹴にして、親戚一同から搾り取って。甘い蜜を舐め、美味い汁を吸ったツケからは逃れられん。役目がある」
「三途賽川は、おかしいです……」
 外はまだ夏を残し、秋を削っている暑さだというのに、車内は寒かったらしい。彼女は震えていた。
「ああ、おかしい。だがオレ様も苗字こそ違えど、血脈はその一員。血と骨、皮膚片のひとつから、三途賽川の分家。逃げられない。先祖の呪いの掌で踊り狂うピエロ。あんたはどうする? 嫁とはいえ部外者。部外者なりに抗うか?」
 茉世は身を小さくしてぷるぷる震え続けていた。三途賽川を非難したにもかかわらず、鱗獣院炎はそれを肯定してみせた。激怒し、荒れ果て、怒鳴り散らし、暴力任せになるのも恐ろしいが、自覚的で冷静な態度であるのもまた忌まわしく悍ましい。
「抗うことは赦されないのでしょう……?」
「内心の自由という|概念(もの)がある。獅子身中の虫という|言葉(もの)もな」
 思っていたよりも早くに、車は三途賽川宅に着いてしまった。
「すぐに風呂に入るだろ。タオルを取ってきてやる。少し待っていろ」
 鱗獣院炎は車が停まるなり、自家用車、そして我が家のような振る舞いで降りていった。車内では、運転手が小さく身動きをする音が聞こえ、無音の感じがある。
「月さん……ハンカチを汚してしまってごめんなさい……これはわたしのほうで処分して、新しいのを贈らせてください」
 運転席を覗き込むと、鏡花辺津月は爪を磨いていた。
「お構いなく。貰い物ですから」
「いいえ、贈らせてください。わたしの気が済みません……」
 何か飲み物や食べ物を溢したり、化粧が付着して汚したのではないのだ。
「そうですか? じゃあ、いただきます。家宝にしますね」
 茉世は黙ってしまった。そのうち鱗獣院炎もバスタオルを持って戻ってきた。右ハンドル運転席側の後部座席を開けると、乱雑に包んで易々と抱き上げた。
「はたから見たら誘拐だわな」
「自分で、歩けます……」
 だがこの男は、シャンソン荘を出る際に彼女の靴を持ってきていなかった。
「そこまでだ。降ろすほうが面倒臭ぇやな」
 鱗獣院炎は足で引戸を開け、生きた大荷物を式台に置いた。
「ちゃんと洗っとけ。性病検査で見せることになったらどうすんだ。オレは受けたことねーから知らんが……茉世、毛も剃ってやろうか。ないほうが楽だぜ」
 鱗獣院炎は、これといって下卑た目も面もしていなかった。善意による勧めとばかりの、それもそれで気色の悪い様子であった。
「蘭兄ちゃんの|所有物(オンナ)なんだから、気安く呼ばないで」
 まだ高さの残る声がヒステリックな印象を与える。鱗獣院炎は振り返った。茉世には大男が壁になって見えなかったが、禅が立っているらしい。
「浮気が気に入らねーって、相応しくない場所で糾弾しておいて今更情が湧いたか、クソガキ。 場合によっちゃ名誉毀損だろ。クソガキは無罪だと?」
 鱗獣院炎は腹式呼吸で笑いはじめた。地が揺れそうである。
「テメェが余計なことしたせいで、オレ様は楽しいスクールライフを休んで遠出ときた。鏡花辺津の倅もそうだ。辜礫築の倅もわざわざ遠出しなきゃならなかった。嫁の不倫くらい赦しとけ。しかも身内。胤は三途賽川に相違ない。|陰嚢(タマ)ついてるなら見ないふりをしておくべきだった。女々しい。女か、テメェは。紛らわしい! ぶら下げてるもの切除して、三途賽川から出ていけ! 男は黙って我慢。男は黙って忍耐。男は黙って辛抱。そうできなければ女だ。嫁げ、殖やせ、服従せよ。|自分(てめぇ)等が踏ん反り返って胡座をかいて唾を吐き、屁をこいてきたことだ」
「禅さんはまだ子供です……そんな過激な………」
 突っ慳貪な禅に対して、嫁いだ日からそう好意的な感情は持っていなかった。かといって有る事無い事を暴露された点に対して恨んでもいなかった。それは逆恨みだと理解していたし、実際に自発的な怒りもなかった。兄を裏切られたのだ。真っ当な怒りであった。そして何よりも、この年齢の子供に、現代社会、今現在の世間とは逆行した思想を押し付けることは、大人として、彼女は黙っていられない。特にこの家の異常性を思えば。
「三途賽川一族郎党とはそれが規範。結局は部外者のあんたはそれでいい。染まるんじゃァないぜ。オレ様とて、鱗獣院で踏ん反り返っても所詮は分家。三途賽川の腑抜けた人間には、三途賽川のルールを説くのが、本家より力を持っちまった家の宿命よな。理解しろ、クソガキ。|自分(てめぇ)が三途賽川の人間で、オレ様より甘ぇことするのは許されん。|男気(タマ)と|男根(サオ)があるならな。無ければ|捥《も》ぎ取ってくるがいい。男は男。だが昨今の"正しい"見方でみてやる。女としてもてなしてやる。産めないのなら用済みの、|石女(うまずめ)として、女なりの余生を過ごすのがいいさ」
「それがおかしいと言っているのです! この現代社会に、家単位で、個がないのがおかしいんです!」
 茉世は噛みついた。三途賽川の異常な家訓に、おそらく禅は染まりきっているかもしれない。だがその考えが変わる可能性もある。まだ若い。異常な積木遊びで斜塔を建築する必要はない。
「禅さんはまだ義務教育中の子供ですよ。お母さんとも引き離されて、お父さんもいなくて、それじゃあ優しいお兄ちゃんに甘えたくて、親代わりだったお兄ちゃんの幸せを願うのは当然じゃないですか! それが悪いことだとは思いません。男の人にだって感情はあります! 人間じゃないですか。そんな男ってものの神聖視……」
 だが彼女は嫌になった。己を強姦した奴等と同じ部類の生き物を、何故擁護しているのだろう。異常性を断固として守る強者たちの類族を、何故、弁護しようとしたのだろう。
 鱗獣院炎はがりがりと硬そうなプリン頭を掻いた。
「ま、できねーからかっこいいんだよな」
 独り言ちたふうな納得感を持って、彼の大きな手は浴室へ彼女を放り込んだ。
「囲碁を教えてやる。蓮ニーサマ程度になるとは思えないが、ネット碁よか良かろう」
 足音がのっしのっしと遠退いていく。床が抜けるのではあるまいか。

43

 |鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)は泊まっていくつもりらしかった。庭にあった車も帰ってしまった。
 |茉世(まつよ)は家事代行員の出した|(りん)の服を借りていた。無断であろう。それを済まなく思った。
 彼女は縁側で囲碁をやっている鱗獣院炎と禅の傍にいた。鱗獣院炎がそうするよう命じたのだった。禅は顔中に絆創膏だの包帯だの、痣だの瘡蓋だのがあった。まだ、学内排他の件は解決していないのだろう。
 からからと扇風機が|左見右見(とみこうみ)している。若い癖っ毛がふわっ、ふわっと踊り、脱色によって傷んだ金髪はずっしりと靡いてやる気配もない。
 彼女は視界に碁盤と碁打ち2人を入れているようで、焦点はその奥、菜園に合わさっていた。秋がはじまるというのに、瑞々しく生い茂る緑の中に、白百合が立っている。目を離せない。
 声変わりしているのかしていないのか分からない高い性質の癇癪にも靄がかかっていた。物陰が―人影が退いて、さらに白百合の人が見えるのだ。
 目の前を突っ切っていく姿も、目で捉えてはいたが、取るに足らないことだった。日に焼かれていく、すでに日に焼けてもいる狂い咲きの白い大花が、網膜に輪郭を灼きつけている。
「惚れたな」
 鱗獣院炎の声もまた届かなかった。茉世はぽぅ……と、白い袖と軍手の狭間にある日に焼けた腕を凝らしていた。細く思っていたが、やはり健康な男体。肘が動くたび、筋肉質の活気が窺える。あの腕に、抱かれたのだ。彼女はふいと顔を逸らした。
「茉世、碁は打てるか」
「……いいえ」
「将棋も?」
「はい……でも、|源平碁(リバーシ)なら……」
 鱗獣院炎は鼻で嗤った。
「チョコレート食いてぇって言ってるやつに、ミルクココア渡してくるようなもんだな」
「すみません……」
「オレ様が直々に教えてやろう。子供がいなくとも、オレ様の遊び相手になりゃ、ここにいる動機は十分にある。蓮ニーサマを……」
 彼は庭を見据えた。砂利を轢く音が聞こえてくる。漆黒の車がやってきた。
「蓮ニーサマをここに留め置いたのも、オレ様の遊び相手になってもらうためだったが……あの|末弟(クソガキ)も筋は悪かねーな。おい、|辜礫築(つみいしづく)の|(せがれ)
 トマトやきゅうりが支柱を覆い、緑の壁、生垣のようになっているところから、永世が顔を覗かせる。茉世は咄嗟に顔を伏せた。どう接していたのか忘れてしまった。初めて知り合ったわけではないはずだというに、初対面よりも厄介な戸惑いに焦る。
「おかえりなさいませ、茉世さん」
「た………タだいマ、帰りまシた………」
 声が出なかった。喉を縊られたようである。掠れ、震え、消え入る。
「あんた、碁は?」
「囲碁は|不得手(ふえて)です」
「ンなら、何ならできる?」
「将棋と麻雀でしょうか」
 鱗獣院炎はまた鼻で嗤った。
「蓮ニーサマが帰ってきてから、相手してもらぁよ」
 どっしりと座布団に尻を沈ませていた大男は軽く立ち上がって玄関のほうへ回っていった。茉世は焦った。永世はまだそこに立っている。いつまでも俯いてはいられない。
「あ……あの、この前は、どうも………お世話に、なりました………」
 どうにか、それらしい言葉を絞り出す。なんとか浮かんだ。だが|穿(ほじく)り返していいことだったのであろうか。
「こちらこそ……」
 カラカラカラ……と扇風機が小さく軋る。風鈴がちりんと鳴った。玄関から出てきた鱗獣院炎が、車から降りてきた運転手に吠える。日はまだ明るいが、冬場なら視界不良なほど暗くなる時間帯だ。
「そろそろ、霖くんも帰ってきますから……」
「そう、ですね」
 霖が帰ってくるから、何だというのだろう。しかし霖が帰ってくるから、霖が帰ってくるために、霖が帰ってくることによって、ここを立ち去る重要な用事があるらしかった。永世は首に下げたタオルで額の辺りを拭い、瑞々しい世界に戻っていこうとした。
「永世さん」
 名前を呼ぶのが|(こわ)く感じられた。だが咄嗟であった。落ちたものを反射的に拾うように、離れていこうとするものを、呼び止めておかなければならない気がした。気がした―気がする間もなかった。発音もイントネーションも分からなくなる。どのような|音吐(おんと)で彼を呼んでいたのか。
 振り向いた様も、初めてみるような気がした。
「はい……?」
「るりるりには、内緒にしておいてください」
 言いたかったことは、意外にもすんなりと喉を通っていった。|御園生(みそのう)瑠璃とも、おかしな関係になりそうであった。彼がどう受け取り、どう解釈するか分からない。説明をするのも嫌だった。「三途賽川の産む機械」だと、昔馴染みで部外者の彼には知られたくない。永世に対して感じてしまっている異様な見えない電流付きの壁を、御園生との間には築きたくなかった。温かな思い出に帰れる御園生との間柄では。
「はい。ぼくもそのほうがいいと思いますから、ぼくからは言いません」
「ありがとうございます」
 すぱんっ、と茉世の後ろの襖が開いた。扇風機が微かに音を変えたように思える。
「おかえりなさいませ」
 永世は茉世の後ろに立つ者へ|(うやうや)しい態度をとった。本家、分家というだけで、年下の男にも腰が低い。頭を下げる様も、縁側に立つ女を見上げる様も、やはり白百合。茉世は間近に迫る足音に見向きもせず、下方を向いた小さな頭と、日に焼けた色褪せた焦茶色の髪を見ていた。
「先輩」
 忽如として身体が圧迫された。固着してしまった視線が、晩夏あるいは初秋に狂い咲いた百合の花から剥がされる。
「蓮さん……よして」
 そこには鱗獣院炎も、永世もいる。しかし蓮との浮気騒動は周知されたこと。すでに知られたことを秘する必要はなくなったのだろう。蓮は後ろから茉世を抱き締めた。
「オレ様なんか、蘭ニーサマの|(もの)奪るなと噛みつかれたぜ」
 永世はこの間にまた小さく頭を下げて、夏野菜の待ち受ける園に踵を返した。茉世は蓮の腕に絡みつかれながら、その背中を追ってしまうのだった。白いシャツに隠されたしなやかな筋肉に爪を立てたかもしれない。縋りついてしまった。既婚の身であることも忘れて。覚えていなかったのだ。彼女は夫がいることを。身も世もなく、眼前の男体に縋りつくことしか知らなかったのだ。汗の匂いと体温と|温気(うんき)まで生々しく甦る。覚えるまで繰り返してしまったのだ。そして身体の疼きも、そこに伴うようになってしまつまた。臍の少し下の辺りがじゅく……と膿む。
 けれどもあれは、互いに望まぬことだった。三途賽川の関係者で、家に翻弄されるほかない立場にあるために、仕方なく、不本意に行ったことである。思い出すなど不謹慎だ。そこに何か煌めいたものを見出すなど、永世に対する侮辱だ。
 降ってくる甘たるい声質が何を言っているのか彼女は聞いてはいなかった。一人の世界にいたし、蓮が発するのは彼女の閉じ籠った世界の言語ではなかった。
「指南されて、色惚けか。好きにすりゃいいが、この国の社会通念上、選べるのは一人。原始的にいえば、茉世。雌が選ぶもんだ」
「気安く呼ぶな」
 蓮の腕が、さらに強く茉世を抱き締める。鱗獣院炎の垂れ気味の大きな目が、真ん丸く剥かれて戯けてみせた。
「弟と同じこと言ってら。大分意味が違うようだがなぁ? オレ様に指図するたぁ、蓮ニーサマ、随分とお偉くおなりあそばしたもんで」
「俺はまだ三途賽川の人間か?」
「確かにな。あんたはオレの囲碁の遊び相手要員。いわばオレ様とあんたは"オトモダチ"だ。オレ様も所詮はサル山の大将、夜郎自大だと?」
「自省ができるならまだいい。"茉世さん"と呼べ」
 へら、と鱗獣院炎は悪戯っぽく口元に弧を描く。
「嫌だね。オレ様も"先輩"と呼ぶ。オレは現役高校生。"先輩"という単語が許される年だし、カワイイ。あんたみたいにムサくない。茉世先輩、オレ様が囲碁を教えてやる。対局しながらのほうが教えやすい」
「"茉世"は疲れている。くだらないことに付き合わせるな」
 鱗獣院炎は引き攣り上がった口角から白い歯を見せた。
「茉世せんぷぁいも今日から、オレ様のオトモダチ、だ」
「茉世。部屋に戻ったら。俺のプレハブに行くか。クーラーは好きに点けてくれ」
 ライオンみたいな面構えの大男はにたにたと頬を緩めて、いやらしげにその光景を見ていた。
「あんた、本当に蓮ニーサマ? 異界の|魑魅(すだま)に乗っ取られてねーかぃ? 姿を現せよ」
 鱗獣院炎は茉世から取り返したジャケットの内ポケットからマインティアとかいう清涼感のある錠剤状菓子の容器を取り出した。商品名の印刷されたシールは擦り切れ、年季が感じられる。中から、剥がれた爪とも、魚の鱗ともいえない透明で小さなものが取り出され、そして蓮へと投げられた。茉世は腕を巻き付けられていた。そのために蓮は立ち眩みを起こしたように後退ったのが分かった。
「蓮ニーサマは、|正気(ホンモノ)
「なんですか……?」
 蓮の後退り方が、ただ眩暈を起こしただけの様子ではなかった。茉世は突き飛ばされ、蓮は膝から崩れ落ちた。額を押さえている。投げられた透明なフィルムのようなものが原因に違いない。
「"名医にも仙薬にも治せぬ病が2つあり。恋の病と気にしすぎ"。作詞作曲、オレ様。囲碁を打とう、茉世せんぷぁい」
 大きな熱い手が、茉世の腕を掴む。肩から関節が外れかねない勢いで引かれる。
「触るな」
「カレシヅラはよくない。オレのクラスの男子が、別のクラスのまぁまぁ顔の可愛い子にカレシヅラをして、女子たちからフルボッコ。女子を敵に回したら、まず、薔薇色スクールライフは絶望的と思っていい。蓮ニーサマができるのは、義弟ヅラだけだわな」
 座布団に尻を沈め、胡座の上に茉世を座らせる。蓮の柳眉が、ひくりと引き攣った。傷付いたとばかりの顔は、今にも泣きそうである。
「勝った雄が意中の雌を得られるのが自然のルール。三途賽川の一族郎党が求めた、一般的で社会的、原始的で世間的なルール……なわけはない。努力、勝利、気概が伴わない不合理な差別、それが人間界の恋愛。だがここは三途賽川。女は手段。女は道具。女は家畜。或いは女は優勝賞品。得られるのはサル山の大将から」
「俺はもう三途賽川ではないはずだ……」
 蓮は中腰で足を引き摺るように碁盤の前の座布団にやってきた。膝が痛むような素振りで座った。
「ンでも、オレ様と茉世せんぷぁいも、三途賽川の一族郎党。茉世せんぷぁいが欲しくば、三途賽川のルールに|(のっと)るのが……正しい男の正しい在り方。座れ、蓮ニーサマ。三途賽川の堕ちる苦獄の2番目は暗黒の視界に紅蓮が咲くそうな。あんたが黒でいい。畜生回路に突き堕とされ、鱗を剥がれ皮を取られ、行先は煮え立つ鍋か……オレ様は白。良かろうな」
「ふざけるな。|(はす)の花は大抵白。俺が白だ。お前が黒にしろ。|(ほのお)が見境なく残していくのは黒い廃材だろうが」
 鱗獣院炎は眉間に皺を寄せた。
「茉世せんぷぁい。あの人酷いよ」
「白のほうがいいんですか」
「先手必勝という言葉が"正しい"のなら、先手は黒」
 見上げたところにいた鱗獣院炎が思っていたよりも至近距離で、彼女は慌てて正面を向いた。顎に接吻してしまうような距離であった。むっわぁ……とココナッツと汗の匂いが首の辺りで蒸れて薫る。
「近い」
「今のはせんぷぁいじゃん」
「離れてくれ」
「離れていたら、碁石の握り方も教えられなかろうが」
 鱗獣院炎は茉世の手を取った。手と手を重ね、指の間に指が入り込み、鉤型を作る。体温が高い。肌の感じは若かった。本当に高校生なのではあるまいか……?
「鱗獣院さんは……」
「|(だん)でいい」
「炎さんは、おいくつなんですか」
「今年18」
 18歳といえば|(ばん)と同い年だ。
「お、大人っぽいんですね……」
 手の甲側から手を握られている。力加減がどこかいやらしい。
「不用意に………触るな………」
 底冷えする声は、その砂糖をかけた焼き菓子みたいな質感によって険しさを欠く。
「いくつに見えた? もっと年上に見えたと?」
 20、25程度ではない。すでに30代に差し掛かっているように見えた。
「大人っぽかったので……」
「オレ様がセクシーだと? 高校生男子を捕まえて……人妻と高校生男子の禁断のラブロマンスがはじまる予感というわけだ」
「小僧が大人を舐めるな。お前が黒だ」
「分かったぜ、蓮オニイチュワン。オレ様が黒を担ってやる。ただし、容赦はせんぞ」
 茉世の手を操り、彼女に黒の碁石を握らせる。
「あ、あの……」
 先程、この大男に噛みついた威勢はどこへやら、おどおどと握らせれた手を戦慄させている。
「碁石にも差し方ってものがある。好きに持てばいいが、せっかくの長い指だ。爪の形も悪くない。しなやかで、優美な手だ」
 茉世はまた鱗獣院炎を見上げてしまった。どのような面構えで自画自賛しているのか気になってしまった。またココナッツミルクのような南国を思わせる匂いに汗の混ざった生々しい香りが嗅覚を包み込む。鼻先が、ぎゅむ……と詰まった胸板にぶつかる。
「くすぐってーよ」
「すみ……ません」
「謝らなくていい」
 蓮が|容喙(ようかい)した。鱗獣院炎は鼻を鳴らす。
 沈黙のなかでぱち、ぱち……と心地良い音が鳴る。背中に、大男の鼓動が伝わるはずであった。だが茉世は自身の鼓動ばかり聞いていた。黒の碁石を置く手は2枚重ねであった。指先までじぃんと爛れ疼くほど熱されている。説明も講釈も頭に入らない。扇風機は尽力していた。だが晩夏の暑さだけではなかった。おそらくクーラーでも太刀打ちできなかったであろう。彼女は背中にびっしょりと汗をかいていた。
「わたしに教えながらでは、大変ではありませんか……」
「変わらん、別に。疲れたのか。寝ていいぞ」
 だが鱗獣院炎が、茉世を放す気配はない。
「そろそろ茉世を放せ」
「……うーん。具合が良く―」
 彼は指を鳴らした。
「―ねーな」
 シートベルトのごとく茉世の腹回りにあった腕が急に締まった。
「ひゃ……」
「ま、オレ様には勝利の女神がついてるからな」
 大きな掌が、彼女の視界を覆った。ふわ……と頭から湯気がたちのぼり、中身をすべて失っていくような浮遊感を覚えた。だが、身体が軽くなっていくような心地良さである。
 鱗獣院炎の掌が下がったとき、彼女の双眸はどんよりの濁っていた。掻き回された泥沼のような、アリジゴクの巣のような瞳が、虚空を見つめていた。
「茉世に触るな……」
 唸りながら、白い石が置かれる。
「触らないようにシマスヨ、蓮ニーサマ。でも、触られたら、その限りではない」
 彼は両手をあげて見せた。茉世はこてんと、あざとい子猫みたいに転ばせ、ぱんと張った分厚い胸板に凭れかかった。そして頬を擦り寄せ、頭を預ける。
「何をした」
「よくぞ訊いてくれた。人はオソロシイモノ憑かれるが、逆にオソロシイモノに憑いちまえばいい。この世で一番おっかないのは地震、雷、火事、津波、炊事と上司と人間様だからな」
 茉世はすりすりと鱗獣院炎に頬擦りし、目元を眇める。
「茉世で遊ぶな。不愉快だ」
「ヤキモチ蓮ニーサマ、|気色悪(きっしょ)。人形みたいだっつってキモがられてた蓮ニーサマはどこいったの。でも日本人形ってブスだからな。似てねーし、お内裏様でもひでぇよ」
「やきもち? 何故? 妙な術を使ってまで俺が茉世に懐かれたいと思っているのなら心外だ。俺は単純に彼女の心が欲しい」
 鱗獣院炎は飯の最中に異物でも噛んだかのような妙な顔と静止を見せた。
「キモすぎてゲロ吐くかと思ったぜ。韓ドラでも今時言わねーことを。キモい! 純情はキモい!」
 荒ぶる胸元に、まだ茉世は頭を預け、|撓垂(しなだ)れる。
「いい女だと思う」
「耳が腐る」
「お前等は浮気だというが、一線は越えてない。触りはしたが、一線だけは。これ以上、嫌われたくない」
「ェエ゛~」
 大きな顎が開け放たれ、舌を出し、鱗獣院炎は大仰に|嘔吐(えづ)いてみせる。そして黒の石を打った。
「初めての感情で、どう処理したらいいか分からない」
 白い石を握り、挟んで滑らせる指が妙に艶かしい。
「変なもの食ったんけ」
 ぱちり、ぱちり、軽快な音に、扇風機の軋りが混ざる。暫くの間、両者は黙っていた。しかし茉世は、張りのある若く逞しい肌を吸っていた。
 爛々とした蓮の眼が、対局者の鎖骨の辺りに散りはじめた鬱血痕を凝らす。石を何度も節榑だった指が撫でる。
「先輩のことが好き……」
「ンなこた知ってる。いい噂になってるし、|(ゆかり)ちゃんは泣いてたぞ。フられた女の涙ってのにはオレ様も弱ぇんだわ。男はフられるんが常だから、野郎のフられ涙ほどショボいもんもねーが」
 黒の石が置かれる。蓮は石を撫で続ける。
「先輩の肌、柔らかかった……いい匂いがして……」
 ライオン面の眉間に皺が寄る。
「何言ってんだあんた」
「先輩からもらった下着、まだ持ってる……」
「はぁ?」
「無理矢理もらってよかった……」
 石を持っていないほうの手が、自身の口元を押さえる。
「あんた何言ってんの?」
「先輩のこと好き………」
 押さえてもまだ喋る口に、蓮は指を突き入れた。赤い筋が滴り落ちていく。
 鱗獣院炎は纏わりつく茉世を横にやると、腰を上げた。対局者のほうへ回り、眼前で手を打ち鳴らす。蓮は糸が切れたように意識を失った。碁盤に身体が落ちていく。
「いやはや、いやはや」
 大男は髪を掻く。ざり、ざりと鳴った。避けられた女はぽけりとして、訳が分かっていないようである。虚空を意味ありげに見つめ、そして大男を見つけ、擦り寄っていく。彼はまた、茉世の眼前で手を打ち鳴らす。だが、何も変わらない。彼女は相変わらず、円い泥沼を嵌めたような眼をしている。鱗獣院炎は菜園のほうへ目をやった。白い人影が蔓を巻いて縛っている。
「やる気の無い奴等が、増えたからな……」



 茉世は竹林の中にいた。だが見慣れた場所と違うのは、辺りを見回すと、長く伸びる石段があることだった。竹林もまた石段の上まで生えて、開けた空を見せる気は微塵もないらしい。雨天ではなかった。晴れを隠した曇天らしいのが、緑の天井の隙間から窺える。
「茉世さん」
 隣に永世が立った。忌み地に飛ばされたのではなく、これは夢なのかもしれない。冷たい手と手を繋いだ。
「あ……っ、そ、その………永世さん………」
だが夢のなかでも、どう対応していいのか分からない。心臓が左右に引っ張られるようだった。
「あの石段に、登ってみませんか」
「の、登りましょう……」
 永世に手を引かれる。だがそれは本物の彼ではないのかもしれなかった。そういう強引さや積極性がある人物には思えなかった。
 やはり夢だったのかもしれない。竹林と枯れ葉はみた。だが苔の生した石階段を登っていると、桜の花弁が落ちてくる。桜の小雨を浴びた。狂い咲きにしては、あまりにも時期を外している。晩夏、初秋に咲く品種があるのだろうか。
 永世は一段先を行く。茉世の手を取り、引き上げていく。顔が見られない。足元のことで精一杯のふりをして登っていく。この上に何があるのかは知らなかった。
「茉世さん」
 石段を仰ぐ彼の後姿を、まるで盗み見るような心地で茉世は見遣った。やはり夢。日に焼けていた顔が今は白い。
「ぼくの一番幸せだったことは多分、つまらない、些細なことに幸せを感じられたことだと思うんです」
 この人を、白百合だと思った。だがそこまで威風堂々とした佇まいではない。
「もし三途賽川の|血筋(ひと)ではなかったら―」
 茉世はこれが夢だと確信した。遠慮も脈絡もない発言だった。
「永世さんはそんなに、卑屈な人じゃなかったと思うんです」
 近くに踏切があるらしい。カンカンと警報器が鳴っている。竹林に|(こだま)している。頭上に降り注ぐ薄紅の鱗は、小さな掌の形をした紅葉に変わる。
 永世は虚を衝かれた顔をした。そこは夢のなかといえども生々しい。
「本当の自分って何なのでしょうね」
「分かりません」
 茉世は俯いた。夢のなかなのだ。意味も意義も、脈絡も、道理も倫理も善徳もない。現実に作用しない。影響しない。人が平等に触れられる初歩的な狂気だ。
「でも、辿り着かなくても、近付きたいです。永世さんのこと、知りたい」
 顔を見られるようになりたい。目を合わせられるように戻りたい。胸の疼きをどうにかしてくれないか。
「知らないほうがいい」
 木枯らしが悲鳴のようだった。乾燥した風が肌を|(やすり)掛けしていく。
 前に立つ女を、茉世は唖然として見ていた。
「知らないほうがいい。知らずにいるのが幸せなこともある」
 艶やかな黒髪は、風の質を問わず濡羽みたいに仄暗い煌めきを帯びて揺蕩う。
「蘭でも蓮でも絆でも、その他よく分からん有象無象のゴミ野良オスでもいい。永世のことは諦めてくれ」
 飄々としている顔しか見た覚えのない尽の表情に悲痛の影が走った。

44

 |茉世(まつよ)はココナッツミルクのような匂いを嗅ぎながら我に帰った。硬い肉感が薄い布地の奥にある。ゆらゆらと揺籠みたいに揺れて眠気を誘う。冷気のなかの温もりに頭を潜り込ませる。羨ましい猫団子に加わった気分だった。
「お母さん……」
 父親と認識するものより温かく、脂肪とは異質で硬く骨太だが、肉感があるのだった。
「違いますが」
 ぴしゃりと言われ、彼女の目が覚める。母親のはずはない。それは女性と見紛うことは難しい、がっちりと逞しい男体であった。作務衣を身に纏った|鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)である。ぱんと張ってよく発達した驚異の胸囲を誇る衿元は、握り締めた皺が寄り、盛り上がっていた。
「おはよう、赤ちゃん」
 小馬鹿にするように鱗獣院炎が言った。茉世は辺りを見回して、そこに永世もいることが分かると、分厚過ぎる胸板を突っ撥ねて、正座する。2人は大事な話をしていたようだった。空気が妙に堅い。
「ご、ごめんなさい……大事なお話の途中に………」
 茉世は頭を下げて、腰を上げた。
「いいえ。炎さん。委細承知いたしました。ぜひ、引き受けさせてください」
 襖へ近寄った彼女は、永世のどこか硬質な|音吐(おんと)が気にかかり、振り返る。
「ありがとう。すまんな」
 不遜な鱗獣院炎の態度もどこか|(しおら)しい。
 だが茉世には、|三途賽川(さんずさいかわ)の女には関係のない話だ。彼女は自室へ戻った。人肌に包まれ、被庇護欲に満たされていた豊かな気持ちが徐々に冷め、日常生活に頭が冴えていく。幼さに甘えていたい心地が薄らいでいく。童女ではいられない。嫁いだのだ。そして男を受け入れる儀式を行なった……
 一人になると、彼女の身体は疼きはじめた。自室の襖を閉めると屈み込む。胸の二点が痒みに似た灼熱感を持つ。車内で散々弄くり回されたせいだろう。胸元を抱え、甘い刺激を期待する身体を|(いさ)めた。血が沸き立つような悪寒をやり過ごす。痒みとはいえない掻痒感に焦れる。燻る胸の先端を触る想像が先走り、腰が揺れた。そして眼球の遥か遠く、奥のほうから、緑のなかに佇む横顔が現れてくる。だがその姿が一瞬にして切り替わった。ベッドの上で腕立て伏せをするかのような状態を、視点は下から見上げている。苦悩に満ちた眉間に色香が漂い、驕慢なくらいに純潔無垢な姿体を魅せた白百合は、今度は白梅のごとく奥ゆかしく匂い立つ。それは茉世のみた現実か、妄想か。
「だ………め…………」
 口で禁じても行動を制することはできなかった。彼女は義弟から借りている服の下に手を入れ、己の乳房を揉んだ。その先にある|(みのり)がさらに期待を膨らませる。
「んん………っ」
 胸を揉むまでだ。それ以上はいけない。はしたない。不埒だ。淫蕩だ。
 しかし固く勃ち上がり、触られ、嬲られ、弾けるのを待ち構えている。身体は茉世を|(たばか)った。じんわりとした甘い痺れを彼女に送り込み、考える場所を鈍らせる。ただ思いのまま乳頭を虐げ、快楽に身を任せよ、と勧誘している。反対しきれなかった。抗っているのは茉世だけである。
「あ……っ、ん」
 彼女は屈した。熟れた左右の小果実を摘む。二本の指で挟み、浅く撚った。光線が脳髄を射ち貫くような快感が起こる。
「あ………あん」
 そしてひとつの指で、まだ硬い突起を往復して轢いていった。継続的な快楽が送られていく。思考がぼやけた。口は閉じることをやめ、嚥下を忘れ、唇が潤む。
 立っていられない。崩れ落ちるように膝が畳を叩く。|藺草(いぐさ)の網目に雫が落ちる。
「ぅん………んあ………」
 乳頭を甚振るのが止められない。目を開きながら半分寝ていたのかもしれなかった。視覚も聴覚も機能しているようで、半分休んでいた。
 ただ思いのまま、視界も思考も空にして胸の実粒を捏ね擂り潰していたところに、ふとモンシロチョウのごとく肖像が舞い込む。
「だ……め、だめ…………」
 それをしてはおしまいだと彼女は思った。それはいけなかった。侮辱だ。汚涜だ。不敬だ。しかし禁じれば禁じるほど意識し、より強く|耽溺(たんでき)してしまう。相手の気持ちも思い遣れない。彼女はそういう業も欲も深い俗人であった。
 茉世は自身の指で|(たわ)わに実った膨らみの色付きを虐めていたが、彼女の欲望に満ち満ちた内心では必ずしもそうではなかった。別の人物に左右の蕾を捏ねられている。指先で小突かれ、揉み|(しだ)かれている。
「あ………ん、あ……ぁッ」
 身悶えながら小さな勃起を撫でる。触れる快感、擦れる快感、また戻っていく快感、触られている快感。下腹部にも濡れた熱が高まっていく。腰が揺れて止まらない。
「永世………さん、…………」
 すぱん、といきなり襖が開く。足音もなかった。咄嗟に防衛本能へ切り替わる。
「いい匂いがする」
 子供が立っていた。児童が、じとりと子供らしからぬ爛々とした目を見下ろしている。|鱗獣院(りんじゅういん)|(げん)だ。この子供は年齢こそ幼いが、油断ならない人物だった。
「ひとりでいけないことしてるの? にいに呼んでくる」
 走って引き返す諺は、目の前からやって来た巨体に気付かず正面衝突する。小さな躯体は軽々と持ち上げられた。
「あんまり騒ぐんじゃねぇや」
 鱗獣院炎は肩に子供を担ぎ、開いたままの襖から茉世を一瞥する。彼女は正座し、まるで叱りつけられるかのように高い位置からの眼差しを受け入れた。
「|(ガキ)が悪ぃね」
 その有様は親子のようだ。
「い、いいえ………」
「具合はどうなんだ」
「特にどこも悪くはないです……すみませんでした。わたしったら、いつのまにか寝ていたみたいで………」
 幼児みたいに、この年下の大男に抱擁され、安心しきって寝ていたのが恥ずかしい。
「乳が恋しいのか、デカ赤ちゃん」
 よく冷えた空気に、その大男の筋肉質な温もりとがっちりとした躯体は心地良かったのだ。
「揶揄わないでください」
 彼女は目をしょぼつかせる。鱗獣院炎は面白げに笑っている。
「で? 旦那サマでも呼んできてやろうか」
「蘭さんはお忙しいでしょうから……」
「愛しい女のためなら時間くらい割けるさ」
 恋愛ドラマの恋愛結婚をした男女ならそうかもしれない。
「お邪魔はできません」
 蓮との浮気を禅に糾弾されて以来、夫とは電話では話したが、顔を突き合わせてはいなかった。どういう態度をしていいのか分からない。
「呼んできてやる。旦那の最優先事項は跡継ぎを作ることだ。何のために何人も兄弟がいると思ってやがる」
 鱗獣院炎は肩に乗せた甥を鴨居にぶつけないよう屈みながら去っていった。
 茉世は夫が来るのだとばかり思っていたのだが、来たのは蓮である。思わず座りながら後退ってしまった。クーラーも扇風機も点けていないというのに全身が冷えていく。
「あ、あ……あの、蘭さんは………?」
 蓮はしっとりとした視線を窮鼠を彷彿とさせる茉世に注ぎ、沈黙していた。
 この男と2人きりで部屋に居たくない。また有る事無い事を言われてしまう。茉世は相手を刺激しないように気を遣いながら距離を作った。
「体調はどうだ」
 鱗獣院炎にも似たようなことを訊かれた。
「別に、何とも……」
「そうか。よかった。クーラーを点けたほうがいい。熱中症になる。水を持ってこようか」
 彼女は首を振った。蓮は傍へとやって来る。
「な、なんです………か………」
 壁へと押し付けられるのかと思った。鱗獣院炎ほど驚異の胸囲ではないが、黒い半袖シャツの下の胸板が迫るのだった。洗濯用洗剤のなかにわずかに汗の匂いが混ざり、茉世を壁との間に閉じ込める。蓮は何をするつもりなのか。
 彼は手を伸ばした。そしてピッと音を鳴らした。無機質な呻めきが聞こえはじめる。
「温度は高くしておくが、あまり身体を冷やすな」
 どろどろに溶けた熱いチョコレート汁を耳腔に注ぎ込まれているようだった。
 茉世の危懼は無駄であった。壁と胸板に挟まれということはなかった。蓮は柱に留められた皿にリモコンを返す。
 優れた牡の匂いと緊張感が、彼女の肉体を勘違いさせた。達することのできていない官能がまた疼きはじめている。妖しい光輝を秘めた双眸は眠そうでもあった。蓮を極力視界から外そうとする。
「鱗獣院からおかしなことはされなかったか」
「あ………あの、蘭さんは………」
 疑惑の深まってしまう焦り、そしてまた別の焦りを抱えていた。彼女はそのためにまったく違う応答をした。
「居間にいる」
 鱗獣院炎の蘭を呼んでくるとは何だったのか。茉世は空気の重さに四肢を縛られている心地がした。蓮と何を話せというのだ。クーラーを点けて引き返す様子もない。
「先輩」
 媚びるような目が下からやって来る。彼はわざわざ目線を下げてよこした。飼主の機嫌を窺う愛犬みたいな面構えが厚かましい。
「あの男とはどうなった……?」
「え……?」
「青山藍……」
 蓮もとりあえずは芸能人を知っているのだろう。
「別に、どうも………」
 鼻先がぶつかりそうなほど近付き、茉世の言葉は消え入った。
「蓮さん……」
「なんだ」
 吐息がかかる。背後には壁。もう後ろへは退けない。
「近い、です……」
「俺じゃダメか……?」
 あまりにも近い人の気配に、生毛が逆立つようだった。
「誰にも触らせないでほしい。先輩を誰にも触られたくない」
 顔を横にやった。横面を晒す。
「で、でも蓮さん………」
「離婚してもらえるよう、兄に頼んでもいいか。兄と別れて、俺と結婚してほしい」
 いくら外貌に秀で、その美貌のみで艶福家になろうとも恋愛事には疎いのだろう。交際期間も設けず、互いにどのような人物か知りもしないで、一時の感情で先走る。全力疾走だ。全力前進で脇目も振らない。
「わたしには結婚資金もないし……それに、三途賽川から離れたら、身寄りもないんですよ。蓮さんはまだ学生で若いから、結婚というものに理想を抱くのも分かりますけれど……」
 だがそうであろうか。この三途賽川の|為体(ていたらく)で結婚などに理想など抱けるのであろうか。茉世は幼少期の頃ならば、花嫁だのウェディングドレスだの結婚式だのいうものに夢と理想と期待を膨らませていたものだったが。しかし実際は違ったではないか。女性差別と産む役目がそこにあるだけだった。
「金のことは気にしなくていい。家のことも……もう少しだけ待ってくれ。今はただ、約束がしたい。俺の要求ばかりですまないが……一緒に暮らしていくのなら茉世さんのことしか考えられない」
「気に……します。そうでないなら多分、またこういう結婚になるだけですから。社会に出たら、素敵な女性はたくさんいます。聞かなかったことにします……いつかきっと恥ずかしくなりますし」
 彼女なりに気を遣ったつもりであったが、所詮彼女も男心を知らぬ女であった。
「先輩がいい」
 横面のほうへ合わせて、彼は唇を寄せた。
「蓮さ………ん。よして」
 静電気が走るようだった。触られたくない。以前ならば、その優秀な牡性に身を差し出していたかもしれない。だが居座る白百合の影が静電気を起こすのだ。白梅のごとく薫る奥ゆかしさが。
「よして!」
 彼女は叫んでいた。
 蓮は眉尻を下げる。まるで拒絶と共に張り手でも喰らわされたかのような態度であった。そして罵詈雑言を投げられ、踏んだり蹴ったり殴られたりしたかのような消沈ぶりである。
「悪かった」
 だが抱き寄せることはやめなかった。
「この歳になって初めての感覚だから、どうしていいのかよく分からない。行く先は結婚しか見当たらない。世間知らずの自覚はある。でも、赦してくれ」
 異常な家に生まれ育ったのだ。自由恋愛は禁じられ、異性間恋愛を前提にされておきながらその異性、つまり女は差別の対象なのである。いつ、どのように世間一般の恋愛と関わり合いになるのか。
「貴女に嫌われたら、俺はとてもとても生きてゆかれない」
 それは嘘だ。脅迫だ。あまりにも大袈裟で、白々しい。茉世に、嫌悪を抱いた途端、その人の心臓を止める力はない。器物を持って殺そうとしても返り討ちに遭うだろう。寝込みを襲ったとて、一撃で仕留める器用さも腕力もない。
「先輩……」
「わた、しも……三途賽川に捨てられたら、もう行き場もなくて、でも一度裏切ってしまって、一度ならず二度までも……お願いですから蓮さん。放っておいてください。蘭さんを裏切れません。もう後がないんです。シャンソン荘でも……」
 売春の疑いがかかってしまった。疑いとは、事実か否か定かでないということだ。青山藍は性交の後に金を置いていった。それは拾い上げられ、缶に纏められている。受け取ってしまっているのだ。それを疑惑というのか。事実というのではあるまいか。青山藍を相手に、売春していたのだ。
「何かあったのか」
「蓮さん、わたしを憎からず思っていてくださることには感謝しています。ここに来たときと比べると、随分優しくしてくださって、気持ちとしてはありがたいのも本当のところです。でも……、迷惑なんです。迷惑、なんです……こんなところ、また誰かに見られたら……」
 襖が軽く叩かれる。
『公認だから好き放題してくれていいぜ』
 鱗獣院炎の声が曇って聞こえた。
「え……?」
「先輩の身体を慰めに来た。誰にも触ってほしくない」
 茉世はまだ、襖越しに聞こえた言葉の意味を理解していなかった。聞き間違いか。幻聴に決まっている。
「こんなのは、不倫です! 浮気です!」
「そうだな」
『蘭ニーサマ公認だ。閨房指南の後なら別に構いやしねぇとよ。特に三途賽川本家の血筋なら』
 つまり禅の糾弾は、蓮との不適切な接触が理由ではない。永世と関係を結ぶ前であったために糾弾されたのだ。
『惚れた相手のことは忘れろ』
 蓮は目の色を変えた。青褪めて見えた。恐ろしさに顔を背けた。
「夫を呼んでください。夫を呼んで……」
 すでに不倫をしてもいい状態である、などということはないはずだ。三途賽川のやり方は理解できない。一度糾弾する立場にいながら、今ならば不倫をしても構わないと言い出す精神状態に切り替われるものなのか。
『分かった』
 茉世はおそるおそる、視界を少し上に滑らせる。白い素足がふたつ並ぶ。
「他に好きな人がいるのか」
「……わたしは蘭さんの妻です」
「気持ちは伴っているのか」
 白々しい虚言を吐くつもりはなかった。だが否定したときにまた戻ってくる問いがどのようであろうとも、上手く返す自信はない。沈黙は便利であった。
「貴女のことは俺が幸せにする……!」
 腕を掬い取られる。狙ってか否か、左手である。肉が拉げ、骨が軋むほど容赦のない握力は、決して暴力や脅迫の意図を帯びているわけではないようだった。子供が意地を張り、我儘を言う調子で蓮が迫り、茉世はたじろぐ。
「他に好きな人がいるのなら諦めて、俺と一緒に来て」
 左手を人質に取られていた。胸に抱かれてしまっている。黒いシャツは汗ばんでいた。これが三途賽川の次男の務めを失った男の|為体(ていたらく)
「そんな勝手な……」
 三途賽川蓮の剥き出しの我欲。戸惑い。遅れてやって来る、三途賽川の重圧と抑圧。固く厳格に築かれた家の殻に籠りきった結果、まったく幼稚なまま肉体だけが育ったのだろう。
「俺を選んで……」
 他家に生まれ直し、出会い直せたとしたら。或いはこの男に慕情を覚える道もあったのかもしれない。だが冷酷な目を知っている。浴びせられた厳しい言葉をまだ|(そらん)じられる。記憶から拭い去ることのできない|(おぞ)ましい家訓に慄いている。茉世は艶福家ではなかった。このような言い寄られ方をしたときの往なし方をしらない。どう対応するのが最適なのか思いつかない。
 そうこうしているうちに襖の奥で足音がした。
『茉世ちゃん、開けるよ』
「どうぞ……」
 家長の登場である。だが蓮は胸に抱いた腕を放さない。それどころか、襖が開くと同時に兄嫁を引き寄せる。物を取り上げられることを恐れた子供にも似ていた。
「茉世さんを俺にください」
 着流し姿の蘭と鱗獣院炎が並んで立っている。蘭は小柄で華奢な男ではなかったが、大男と並ぶことで、頭頂部に生えた三角形の耳を入れても非常に小柄で華奢な男に見えた。
「人にものを頼む態度じゃぁねぇわな」
 蘭は茉世を一瞥した。目が合ったと認めた途端な逸らされる。
「いいよ」
 あまりにも簡素な返事だった。
 人に頼んでおきながら、それを承諾されることは期待していなかったのか。蓮は眉を顰めた。
「蘭ニーサマ?」
 鱗獣院炎も渋い面を見せた。
「でも離婚は無理だな。離婚は無理。だから世間的には不倫ってことになるけど、蓮くんが茉世ちゃんのこと好きで、茉世ちゃんも蓮くんのことが好きなら、おでが口を出す権利は放棄するよ」
 何本も生えた大根みたいや|毛尨(けむく)の尻尾がひらひら動いている。
「何言ってんだ、あんた」
 鱗獣院炎は侮蔑の目を隣に寄越している。
「離婚はおでの一存で決められないよ。それとも炎くんも口添えしてくれるの」
「バカか、あんた。嫁を弟に奪られようとしてんだ。男として何も言うことねーのかよ。三途賽川一族郎党お得意のクソみてぇな男気は?」
「オトコギ……」
 蘭の口元が陰険に弧を描く。
「兄に|(まさ)る弟に|(おんな)を譲るのは、当然なのが男気だな」
 鱗獣院炎は鼻を鳴らした。
「兄ってだけで優ってんのが三途賽川のルールだろうがよ。いいか、キツネ野郎。本家がこのザマでどうする」
「おでは、蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。結婚させてあげられないのは残念だけど……それでも傍に居られる」
 茉世はただ呆然としていた。蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。蓮くんのために茉世ちゃんを選んだんだよ。蓮くんのために―……
「別に嫁を好こうが好くまいがどうでもいい。自由恋愛なんざできねーんだ、|三途賽川一族(オレたち)は。オレがキレてぇのはそこじゃない。それでも候補ンなかから選んだ女だぞ。弟に奪られようとしてるなら怒れ。あかの他人ならとにかく、血を分けた弟が厚顔無恥もいいことに、いけしゃあしゃあと"女をくれ"と言い、貴様は"はいやります"だと? 喧嘩しろや。オレ様は仲裁する気でいたのになんだこの腐れっぷりは。男の腐ったのは。三途賽川を出ていった腑抜けのヌかすことだ、女を寄越せと恥ずかしげもなく兄に泣きつくのはこの際どうでもいい。でも貴様は三途賽川本家の家長だろうがよ。女を寄越せと言われたら、まずは抗え。戦争だってそうだろが。バカか。こんなこと言わすなや」
 鱗獣院炎は、妻を寝取られた男の襟首を掴んでいた。だが蘭の目に怯えはない。
「好きな子に嫌われることも厭わず、蓮くんはよくやってくれたよ。不倫は犯罪じゃない。それにおでも承認してる。傍に居られるのが幸せだと思って、茉世ちゃんをお嫁さんに選んだおでは意地の悪い兄だったかもしれないな。でもこうなったなら……家のために離婚はできない。でも2人よろしくやればいいよ」
 大男は本家の家長を投げ捨てるように放した。
「|女卑(じょひ)れるほど尊い男は、この|一族(いえ)にはいねぇやな」
「ごめんね、茉世ちゃん」
 女は道具である。女に人格はないのだ。妻は弟への褒賞である。
 夫の身体が薙ぎ倒された。岩石を彷彿とさせる拳が、その尨毛耳の生えた頭を打ったのだった。
 茉世は蓮を突き撥ねた。だが彼は放そうとしない。その胸を肘で打つ。蓮の腕が開く。彼女は畳に横たわり、上体を起こした夫へ駆け寄る。恋愛感情は介入しない。居場所が欲しいだけだ。彼女は寄る辺が必要なだけだ。だが夫は夫。
「蘭さん……」
 肩に触れた手に夫は応えた。応えたと思われた。ところが握り返された彼女の手は、丁寧に彼女の元へ戻される。
「家長がこれで、"キボク"になる辜礫築の倅が気の毒だ」
 立っているときでさえ上空にあった大男の垂れがちな目は、座していると天空にあるようだった。
「弟たちには幸せになってほしい。弟には」
 蘭は鼻血を拭う。弟には。裏を返せば弟でなければ、搾取しても構わないということか。
「そのためなら、炎くんや茉世ちゃんを、おでは不幸の谷底に突き落とす。諺ちゃんも、久遠くんも……」
「オレ様の不幸なんざ高が知れてる。ンでも|自分(テメェ)の嫁はどうする。不幸にすると宣言して本当に不幸にしちまうほど惨めで情けない男はねぇぞ。この家は男尊女卑。何故だ? この家に生まれたからには男は幸せになんてなれん。幸せなんぞ望むな、女々しい。お前も兄から与えられた幸せに満足するな。それも兄の嫁を掻っ攫うなどと。内心の自由にも程がある。三途賽川を出ていこうが、手前はどこの家の胤で血肉を与えられて、誰の女の産道を通ったのか、思い出せ。捨て駒になり死ね。それが"キボク"になった奴等への礼儀だ。ぞんざいにされた女たちへのな。手前等の母親と妹への。それも赦されない身になったのなら、働きアリとして尽くせ」
 茉世は大きな手に腕を引かれていった。

45

 |茉世(まつよ)は前のめりになりながら不安定な姿勢でいた。畳を踏み鳴らして歩く|鱗獣院(りんじゅういん)|(だん)についていく。急に立ち止まられ、屈強な広背筋に鼻柱を打つ。ふわ……とココナッツの乳臭さが薫る。
 巨体のために茉世には姿を確認することはできなかったが、人の気配があった。
「この野郎!」
 禅だ。成猫より半年前の猫とライオンといった体格差であった。
「なんで蘭兄ちゃんを傷付けるんだ! 赦せねぇよ!」
 茉世の腕を鷲掴んでいた巨手が離れる。鈍い音がした。痛々しい光景を予期した彼女は、風圧を恐れるかのように自由を得た両腕を構える。
「美しい兄弟愛だな」
 禅を投げ捨てるなど、ぬいぐるみを放り投げることとそう変わらない。茉世の視界にもやっと末義弟の姿が目に入った。投げ飛ばされ、立ち上がれそうにもなかった。
「子供ですよ……」
 兄のために挑まんとする華奢な中学生の姿は、胸に迫るものがあった。
「俺と3つも変わらんが?」
「体格差を考えてくださいな」
 命に関わる怪我をしそうであった。一生に遺る傷を負いかねない。
「弱さは特権じゃねぇ。最近の奴等はそれを勘違いしている」
 禅はまだ挑むつもりらしかった。鱗獣院炎へ突進する。
「強ぇやつは弱ぇやつを甘やかすのが当然で、正当防衛も許されないと?」
 頭を掴まれた禅はまた投げ飛ばされる。年齢は3歳差、共に未成年。成人男性の平均身長を大いに上回る鱗獣院炎と、発育途中にあるうえ、小柄な禅であまりにも容赦がない。
「|男性(オス)なら挑んで死ね。お前は三途賽川の息子だよ。そこは褒めてやる。腰抜け兄貴と違ってな」
 壁に肩を打った禅の表情は痛みに歪んだが、弾かれたように懲りず鱗獣院炎へ飛びかかる。どっしりとした胴体を相手にしては負ける。では片腕を相手にすればよい。人は器物を扱うために牙と爪、本能的な|膂力(りょりょく)を捨てた。だが歯はあるのである。そして顎の力は、或いは腕力、脚力より勝るかもしれない。
 豚の丸焼きのごとく太い腕に禅の歯が突き刺さる。
「痛ッ!」
 ごす、と音がした。禅の躯体がゴム鞠と化して壁に叩きつけられる。茉世は戦慄した。鱗獣院炎の腕を覗き込めば歯型から血が滲んでいる。
「何?」
 物音に気付き、様子をみにきたのだろう。|(りん)が角から首を傾げていた。
「あっ!」
 伸びている禅を発見し、それから鱗獣院炎を見遣った。
 茉世は後ろからやって来た夫と蓮に気付く。


 禅は救急車に運ばれていった。茉世は指示されたとおり、鱗獣院炎の傷の手当をする。明日診察に行くよう蓮は言っていた。
「窮鼠猫を噛むってか」
 鱗獣院炎は巻かれた包帯を撫でていた。茉世は包帯の巻き方に自信がなかった。そう触られてしまうと、今にも崩れてしまいそうであった。
「ありがとな。そこは感謝しておこう」
 彼女は首を振って俯いた。
「暴力は、良くないです」
「あんたの旦那を殴った件に関して謝ってやる。ンでも、あのチビについては、先に手を出したのはオレじゃない。手を出されたら、手を出して返す。それが流儀。わざわざデカいオレのほうが体格差を考えて手加減してくれるとでも考えていたなんて、そんな情けない話があるかよ。まさかそんなことはないだろ。有るはずねぇよな」
 先に手を出したのは、確かに禅のほうであった。だが禅には理由があった。そして鱗獣院炎も煽りに煽った。しかし理由があるからといって、煽られたからといって暴行を働くのは果たして正しいのだろうか。赦されるのであろうか。何の後ろめたさもないと言えるのか。
「それでも、自分の力量差が分からずにいたら、悪者になるのは炎さんです」
「たとえばあれが女なら、オレは容赦したぜ。女は男に殴られるだなんて風潮に生きてない。そういう考えが存在する世界にな。けれども、男は違う。男は男同士、殴り合い、蹴り合う概念があるはずだ。それを分からないふりして、手前はチビでガキだから配慮されようだなんて、そんな無様な話があるか。最初から拳を捨てればいい」
「|三途賽川(さんずさいかわ)はそうでも、世間一般はそうではありません」
「あんたがどれほど世間一般を知ってるってんだ?」
 茉世は一度怯んだ。そしてこのわずかな時間に咀嚼した。腹落ち。
「確かに、何も知りません」
 そのとおりだと彼女は思ったのだ。肯定するほかない。言い当てられたのだ。図星であった。納得し、合点がいき、得心した。ところが鱗獣院炎は気味の悪そうな目をくれた。
「開き直りか?」
「いいえ。わたしは本当に何も知らないのです。どこかアルバイトに出られたらいいのですけれど」
「不要。本家の長男の嫁がバイトなんて、男尊女卑のルールが泣くわ。働かねー亭主に働く女の夫婦が男尊女卑掲げてやがるなんて、惨めなことこのうえない。ポコチンが生えているから無条件で尊ばれるわけでもない。くだらなくとも|面子(めんつ)というものがある」
「夫にフられてしまったのに、履歴書真っ白なんです。就職活動のとき、わたしはその必要はなかったけれど、もう高校生の段階で企業説明会みたいなのがあって……アルバイトしたことある人がいいって話していたんです。でも進学校で、アルバイト禁止で……わたしはどう生きたらいいのか、もう分かりません」
 鱗獣院炎は、獅子のような面を寄越す。
「フられはしたが、離婚はしないって言ってたろうが。それが一番、オレ様は気に喰わねーから言ってる。そんな大好きな弟が恥を投げ捨てて欲しいって言ってる女なら、一族郎党に頭下げて回っても別れてやりゃいい。叶うかどうかは知らん。ンでも男たるもの、やれるかやれないかじゃねーだろ。やるかやらないか、だ。canじゃねーのよ、doなわけ。あの半端さにキレちまったよ」
「家に縛られているお人なのでしょう。そんな考えも浮かばないのではありませんか。しかも、オンナナンカノタメニ……」
 いくら穏やかに振る舞っていても、家のためならば母に恨まれ、妹をどうにかしたかもしれない人なのだ。
「あ゛~」
 金獅子は唸った。傷が痛むのか。永世は家にいる。今からでも病院に行くべきではないか。
「男の美徳は沈黙だ。一番女々しいの、オレじゃねーか」
 茉世は眉を顰めた。
「炎さんはまだ18歳の子供ではありませんか」
「ンでも男だ」
「男でも女でも、人は人です。性別が2つだから、生き方も2つしかないなんてことはないはずです」
 垂れ目と視線を|()ち合わせる。動物的だった。それは恋人同士の目交ぜとは異質だった。睨み合いに似ていた。
「生意気な女だな」
「三途賽川には染まれませんでした」
「まだ分からんよ」
「けれど夫にはフられましたから」
 太く長く大きな腕が茉世を抱き寄せる。ココナッツの匂いが鼻腔に充満し、顔に当たる分厚い胸板に気分が揉み解されていく。この少年とは表現できない年下の大男の胸筋に、彼女は弱くなってしまった。
「小生意気だがいい女だ。蓮ニーサマが惚れるのも分かっちまうな。傷付いてんの?」
「違います……」
 ぱんッと張った胸元から離れがたかった。まだ温かなこの肌に張りついていたい。しかし相手は、到底そうは思われなくても未成年。子供である。
「人妻と高校生で、ラブロマンスするか」
 彼女は話も聞かずに、胸の筋肉へ頬を擦り寄せる。さりげなく。相手が高校生であることも忘れていた。強靭な膨らみに甘えたくなる。だが異性として甘えたいのではなかった。庇護者と被庇護者としての関係のうえで、であった。
「ホント、オレのおっぱい好きなのな、あんた。デカ赤ちゃん」
 鱗獣院炎は胸元に居ることを赦した。彼女も甘えていた。
「おっぱい吸うか?」
 襟をずらし、岩壁に似た緊張感を纏う胸を晒す。浅黒い肌に、男には大した必要性のない部分が淡く突起している。
 茉世は吸いたくなった。だが相手は未成年。しかし未成年とは認識しきれなかった。どう見ても30代に差し掛かっている威厳と落ち着きなのである。
「デカ赤ちゃん」
 後頭部を撫でられる。茉世はどうでもよくなってしまった。欲求に従って、鱗獣院炎の胸を吸う。健康的な男性から、乳が出ることはなかった。だが彼女は嬰児のように胸を揉む。
「くすぐってぇよ、赤ちゃん」
 尻から抱え上げられ、背中を叩かれる。
 茉世は突起を吸った。滲み出てくるものはない。虚無であった。舌先で転がしてみてもやはり虚無。
「……、ヤバ、………感じる」
 頭上で吐息が漏れる。茉世は鱗獣院炎を見上げた。目が合う。ココナッツミルクとは異なる妖しい匂いが鼻腔劈いていく。脳髄が震える。
「勃った」
 茉世は強い酩酊感を覚えた。鱗獣院炎の腕をすり抜け、腰のほうへ潜っていく。彼女は自身が何をしているのか分かっていない。大きな膨らみへと惹き寄せられる。
そして図体に比例した巨物を取り出すと、落ちてくる髪を耳に掛けて、唇を寄せた。
「茉世」
 大きな掌が頭の上に乗る。茉世はその大き過ぎるものを頬張った。だが口に入りきらない。先端部だけ口腔に納める。
「やめなさい」
 口では禁じておきながら、鱗獣院炎は強く茉世を制するつもりはないらしかった。拙い口淫に顔を強張らせ、ぎこちない快感に酔い|()れているようにさえ見える。
 茉世は乳を吸うように、その何倍もの大きさがあるプラムを吸った。胸板に生えていた殻とは違い、露を滲ませている。乳の味とは違うが、彼女はそれを啜った。唇で乳暈を刺激するように、プラムもまた揉み解す。
「茉世………」
 鱗獣院炎は放っておかれている根元から先端部前にかけて、唾液が滴り落ちていく感覚に耐えなければならなかった。しかし耐える気はないのだろう。半分、自ら慰める。茉世は妖しく蕩けた目をしながら眉根を寄せた。口で捉えたものが膨らんでいく。露の量が増え、味が濃くなっていく。苦い。
「く……っ、」
 メロンを埋め込んだ肩が、二度三度、繊細な戦慄き方をした。やがて弛緩する。
 茉世は脈動に怯み、しかし頭を押さえられて口腔に濁流を受けた。こふ、と噎せる。下を向けば粘液がこぼれ落ちる。ぬとぉ……と糸を引いていく。若さゆえの強欲で強壮、濃厚な種汁だった。
「ん」
 大きな指が彼女の口に入り、舌を拭う。粘性を帯びた腐った米の研ぎ汁と思しきものがぴしゃ、と飛び散った。飛び散った先の床の数歩先に裸の足が着く。
「抱いてやれ」
 鱗獣院炎はそこにやって来た人物から顔を背けた。
「……え?」
「お前なら旦那も怒るまい。茉世も、な」
「そんなの、本人たちに訊いてみないと分かりませんよ」
 永世は頭に巻いていた手拭いを取り去ると、呆けている茉世の口元の汚れをその端で拭いた。彼女には目の前にいる永世を認識していないようだった。
「お堅いやつめ」
「たとえ恋人でも配偶者でも、無理強いしていいはずはないんです」
「世間一般、司法の模範回答しか言えねーの?」
 永世は答えなかった。主家の嫁の肩に、躊躇いながら触れた。メトロノームのごとくふらつく身体を抱える。ところが彼女は身体が浮く前に、永世へしがみついた。
「オレ様の残り香が消えないってか」
「茉世さん……」
 茉世は永世の胸へ頭を潜り込ませる。もはや頭突きに近い。
「抱いてやれ……抱け」
「抱きません」
 彼は吐き捨て、絡みつこうとする茉世を往なす。玄関の前を通りかかったとき、玄関戸がからから音を鳴らした。
「ただいま」
 |御園生(みそのう)瑠璃が帰ってきた。永世と茉世の姿を認めると、靴を蹴り飛ばして式台を越えた。
「まっちゃん! どしたん?」
「お酒に酔ったみたいで……」
 茉世は永世へ匂いをつける。身体を擦り寄せる。永世は御園生のほうを見ることもない。
「じゃあ水持ってくわ。ってか旦那サマたちは?」
「禅さんが体調を崩したので、病院に……」
「そか。じゃ、水持ってく」
 別れかけ、永世は御園生を呼び止める。
「分家のお偉い人が来ていますので……特に遠慮するところはないのですが」
「分かった」
 茉世は自室へ連れて行かれる。永世は彼女を下ろした。
「今、御園生くんがお水を持ってきてくださいますから……」
 虚ろな眼は鏡面と化して永世の姿を映し出す。一呼吸、二呼吸している間は静かに座り、清楚な顔立ちを見上げていたが、彼女は永世に縋りついた。
「茉世さ………ん」
 相手は女である。油断したのだろう。さらに主家の嫁だ。手荒な真似はできない。彼は茉世によって畳へ敷かれてしまった。後ろ手で支え、起こしている上体に、茉世が這い上がっていく。
「ぼくは鱗獣院さんではありませんよ……」
 宥めた手を彼女は奪った。頬擦りする。鼻を近付けた。石鹸の匂いをほのかに纏っている。
「茉世さん……目を、覚まして………」
 だが茉世は、猫みたいに鼻を鳴らして永世の匂いを嗅ぐ。鼻先を突き出し、聞香する。首に籠った匂いを吸い、乾燥した唇に鼻を掠れさせ、それから耳元を嗅ぐ。彼女は耳殻を嗅ぎ回り、やがて小さな耳朶を口に入れた。飴玉を見つけたのだ。舌先で転がし、食む。
「ぁ……っ、茉世さ……ん」
 乗り上げる茉世の身体を支えるか否か、宙に手が置かれる。彼は片腕ですべて支えなければならなくなった。
「いけない………茉世さん」
 胸板に手をやって、彼女は永世の耳朶を舐め続ける。そこから授乳されてでもいるかのようだった。
 ちゅぱ、と音をたてて彼女は耳朶から口を離す。
「茉世さん……」
 茉世は舌先をちらつかせながらはくはくと微かに顎を動かした。今し方放した餅の弾力が舌先に留まり、口寂しい。
「落ち着い………っん、」
 彼女は唇の寂しさを埋める手段を見つけた。接吻だ。薄皮の逆剥けた唇をもにもに食んだ。吸う。充血し、腫れていく。
「ま、つよ……さ………」
 身動きを彼女は赦さなかった。奥に潜む桜色の軟体を引き摺り出そうと茉世は躍起になった。彼女は物に憑かれている。そういう技巧や勇ましさ、気力がこの女にあるとは思えない。
 クーラーの唸り声に、水音が混ざる。
「ふ………ぅう」
 茉世は桜色の餅を甘く噛んでいた。雨漏りしている。2人の間で雨漏りしている。ここ暫く晴天続きだったはずだが、畳には水溜りができている。粘こい雨漏りのためだった。しかし構わず、茉世は永世の口元で桜色の餅を食んでいた。
「ん、く…………まつ、よさ……」
 茉世は離れようとすることを赦さなかった。作った距離をなくされ、口水を啜る。
『お~い、久遠きゅ~ん。まっちゃ~ん』
 足音が近付いてきていた。永世は茉世を抱き締め、そのまま一息に身体を回転させた。上下が入れ替わる。ビーチ・フラッグスのごとく永世は茉世を部屋奥へ押しやると襖へ跳んだ。先手必勝。自ら先にやってきた御園生を迎える。
『まっちゃん、だいじょぶそ?』
『ええ。もう寝ています』
 茉世は懲りずに突き飛ばされても襖を開けようとした。開かない。押さえつけられている。
『蓮クンが、嫌な予感がするって、まっちゃんと電話させろって言ってんだけど……』
『―お電話代わりました。茉世さんはすでに寝ていまして……はあ………特に変わったことはありません。ところで禅さんは……』
 彼の反応からして、そう厳しい状態ではないようだ。
 襖をがちゃがちゃやっていると、突然軽くなって引手が滑っていく。
「あっ!」
 子機を片手にしている永世が振り返った。
「起きてんじゃん、まっちゃん」
 御園生は水を差し出す。茉世はぼんやりと昔馴染みの顔を見詰めていた。
「お酒は程々にな」
 水を渡すと御園生はすぐに出ていった。襖は開け放しで、子機を片手に次男とやり取りしている永世を一瞥し、労いの微苦笑を浮かべている。次男は彼にとっても腫れ物らしい。颯爽と去っていく後姿を茉世は見送っていた。ふと、その双眸に理性の輝きが戻った。
 自分は何をしていたのか……
 茉世は省みようとしたが、思い出せない。鱗獣院炎の腕の傷を手当てしていたときから途切れている。襖と襖の間では、永世が子機を耳から離したところだった。彼は部屋を覗いた。そして茉世に気付く。
「よかった……茉世さん」
 疲弊した柔和な笑みがそこにある。彼女の目が泳ぐ。
 "彼の手は石鹸の匂いがする"
 恐ろしい天啓に身を打たれた。過ぎた夏に鳴り響いた雷のごとく、彼女の脳裏で稲光を起こす。
 耳朶は小さく、韓国餅のよう。
「ごめんなさい……永世さん……」
 おかしな妄想は隠すべきだ。だが彼女は謝ってしまった。後先考えず。内心でおもちゃにしてしまったのだ。
「お水、飲んでください」
 永世は傍にやって来た。子機を持つ手も麗らかに見えた。―石鹸の匂いがする。
 茉世はぶるると震えて水を飲んだ。畳に目を這わせる。彼の日に焼けた肌を見ると、肌でなくとも布越しの肉体を見ると、稲光に灼かれてしまう。
「鱗獣院さんのおうちは……その…………子を絶やさないように、不思議な力が宿っているんです」
「え?」
 何故急に鱗獣院家の話が切り出されたのか彼女には分からなかった。
「だからその……茉世さんの気にすることではありません。きっと、それで、引き摺ってしまったんだと思います。茉世さんの人格がどうこうというお話ではなくて……」
「何か粗相をしてしまったのですね」
 人格を疑われることをしでかしたらしい。そうでなければ、このような庇い方はされなかろう。けれども茉世は分からなかった。否、泥沼の微睡みの最中にみた淫蕩な夢は。薄らと炙り出された浅ましい視覚情報を読み取る。
 唇が寂しい。何か噛んでいた。癖になる予感がある。歯が軋る快感とは違う。おそらく柔らかなものだった。満たされなかった唇と舌の孤独が欲を知ってしまっている。享受を当然としている。胸が苦しい。だが甘美だ。しかし毒の甘さ。
「ごめんなさい………」
 水の半ばほど減ったグラスが手の厭な熱を奪っていく。
「あ、い……いいえ。お風呂が沸いていますから、どうぞお入りください」
 どこか|気拙(きまず)げな永世とこのまま離れたくなかった。
「永世さん」
 喉を雑巾絞りしたかのような声だった。
「……はい」
 呼んだはいい。呼んで、相手が立ち止まったまではいい。しかし時間は止まらない。沈黙するだけ重苦しくなる。だが茉世は言葉を用意しておかなかった。ただ反射的に呼び止めてしまった。握ったグラスの水は、火照った身体によって煮え滾りそうだ。
 静寂は針と棘と化し、毛穴を刺す。冷気は|(やすり)だ。
「な、なんでもないです。すみません、お忙しいのに、こんな……」
「とんでもないことです。お疲れでしょう。布団を敷いておきますから、よくお休みください」
 茉世は頷いた。顔が見られない。すれ違った瞬間に、爽やかな匂いがした。燃え上がり|灰燼(かいじん)になれなかった埋み火が、また存在を露わにしはじめる。あの匂いを纏いながら、その手は石鹸の匂いがする。小さな耳朶は焼いたトックのようで、食むたびに身体が戦慄く。
 彼女は風呂場に向かっていった。身体が熱い。微熱を持ったように疼く。けれども病熱ではない。
 埋み火は爆炎に化けようとしている。意識の曖昧なときの記憶を掻き集め、清廉な男のあでやかな反応を茉世に聞かせようというのだ。彼女は二頭の狂犬を躾けなければならなくなった。だが言うことを聞きはしない。この狂犬は結局のところ、二つの頭を持ちながら一頭に違いなかった。埋み火によって生まれ、茉世に餌を乞う。
 鱗獣院炎に点けられ、鱗獣院諺によって鎮火の機会を逃れた火は、あの石鹸の匂いによって勢いを増してしまった。見て見ぬふりをしていれば、明日には灰になっていたかもしれないというのに。
「あ………ああ………」
 湯を浴び、冷たいタイルへ身を寄せ、彼女は大きな指に嬲られた胸の実粒を捏ねた。ここで燃え上がりたい! 肉欲はこの機ばかりはもう逃さないつもりらしかった。強烈な快感が|(こだま)する。
 珠の雫を生らせた腿が擦り合わされる。彼女は唇を噛んだ。あの清楚な男を肴にしてしまう。微かな拒否感と強い誘惑。彼女は拒否を選んだ。しかし欲情は誘惑に乗った。乖離していく。
「ん………、んん………」
 あの者はどのようにこの胸粒を甚振るのだろう。遠慮がちに触れて焦らすのか。マニュアルどおり導いていくのか。様子を見ながら試していくのだろうか。石鹸の匂いを思い出す。あえかな雰囲気の否めない性格にも顔には少々意外な無骨な形をしている。それでいて筋張り、所作に品がある。あの手が石鹸を転がし、泡立て、水に打たれていくのだ。この身にも触れた。この身に触れ、濡れた手が。
 乳房を支え、下から勃起を掻いた。臥龍は目覚め、登りゆく。
「ふ、ぁ……ああああ!」
 視界が爆ぜる。シャワーを跳ね返すような活力が彼女の肉体から発散されるようだった。
 鱗獣院炎に散々煽られた乳頭による絶頂を叶え、茉世は息を切らした。今度は下腹部が甘く痺れて構うよう主張する。

ムンライ【ネイキッドと翼】39話~

ムンライ【ネイキッドと翼】39話~

愛用サイト「小説家になろう」のリニューアルが気に入らないのでこちらで。39話~

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2024-03-15

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