さよならヒーロー
家の裏手にある河川敷で、よく一人の男が川に向かってひっそりと佇んでいた。
彼は常にピッチリとした全身タイツのようなものを着ていて、肩には靡くマントを羽織っている。なにより目を見張るのは彼のその身体で、異様に膨れた僧帽筋や上腕が彼の着るタイツを内から押し上げ、身体の輪郭を浮き彫りにして、その雄大な機能をはち切れんばかりに表現している。まるでアメコミのスーパーマンみたいに。
そんな彼を僕が初めて見かけたとき、驚きと同時に人の不幸を見るような汚い好奇心が掻き立てられた。彼の肉体美とは関係無しに、傍から見てしまえば、彼は不審者以外の何者でもなかったから、いつ彼が通報されて警察と悶着が起きるのかを楽しみにして、僕もまた家の窓の内に佇んで、ジッと彼を観察するようになった。
ただそうして彼を観察していると(彼は休むことなく毎日河川敷に現れた)不思議なことだけれど、事態は僕が思っているよりもなんら刺激のない事柄であることが次第に分かり始めた。
河川敷を駆け回る子供たちやその保護者、河川敷沿いの細い道を自転車で揺れて通る交番の警官も、僕の家と同じく河川敷を見渡せる窓を持つ近隣の住民も、誰も彼もそのただ佇むスーパーマンに関心を払わなかったから。
人々は皆、彼を河川敷で揺れるススキなんかと同じように、ただそこにあるひとつの物体として見ているようだった。不審者を見てあえて目を合わせないようにするだとか、彼を避けて関わり合わないようにするといったようでもなく、子供たちは蹴られたボールを捕るために無意識に彼の横を通り抜けたりする。だからといって、彼に会釈や話しかける人も皆無で、そしてまた彼も同じく周囲の人間に関心を払わず、ただただそこに佇んで、流れる川をジッと見つめている。
そういったなんだか刺激のない結果に消化不良を起こした僕の好奇心は、甕の水を飲もうとする猫みたいに僕自身の足を彼の隣へ運ばせた。
河川敷のスーパーマンの隣に立って、彼と同じ目線で川を眺めて見ても、その景色は家の窓から見る河川敷となにも変わらないように思う。
彼は近くを通りすぎる人々と同じように、隣に立つ僕を気にせず、ただジッと川を眺め続けている。
「あの」僕は堪らなくなって彼に声をかけた。「ここで毎日なにしてるんですか?」
「川を見てる」彼は言った。
いかにも厳格そうな声だった。子供を窘める父親の声だ。なんだか悪いことをした気になってしまって、僕はすみませんと情けなく呟いた。
暫く気まずい静かな時間が流れた。ただ彼の声で少し萎びてしまった好奇心をまた奮い起こして、僕は彼に訊いた。
「どうしてそんな格好で川を見てるんですか」
彼は顔をほんの少しだけこちらへ向けた。風に煽られたみたいに本当に少しだけ。
「私はヒーローだから」彼は恥ずかしげもなく言った。「それなりの格好をしてないと」
「ヒーロー? あの漫画とかの?」
「そう、そのヒーロー」
「つまり、その……ヒーローのコスプレみたいな?」
「いや、コスプレとかではなくこれが正装なんだ。君が学校に着ていく制服と同じで、ある程度の規則に則って私はこれを着なくてはならないから」
はじめは所謂イカれた奴に声をかけてしまったと思った。彼は妄想性障害だとか、何かしら精神的疾患を持った人間で、周囲の人々はそれを知っていて彼を放っていたのだと。それが一番辻褄が合うような気がした。
ただ、それにしては(そういった精神疾患を持った人達がどの様なものか僕にはわからないけれど)彼はどこか落ち着いていて、受け答えもしっかりしている。それにひとつ気になったのは、彼が規則という言葉を使ったことで、なんだかそれが、つまり彼が今こうしておかしな格好で河原に立っていることが、誰かしらに強制されているかのように聞こえた。
「つまりなにか仕事みたいなことですか? 警備だとかそういう仕事で仕方なくそんな格好をしているみたいな」
彼は暫く黙って考えているようだった。表情はピクリとも変わらなかったけれど、さっきとは別種の、答えが返ってくる確信のある静かな時間が流れた。
「ある意味では」彼が言った。「本当に広い意味では仕事みたいなものかもしれない」
「ある意味?」
「そう、ある意味。言ってしまえば私が行う出来事に対して正当な報酬が支払われるという意味では、これは仕事になるかもしれない」
「それのどこがある意味なんですか?」僕は彼の横顔を見ながら首を傾げた。「それならそれは普通に仕事なんじゃないかな?」
彼はやっぱり僕の方を見ないで、ジッと変わらず川を眺め続けている。
「君の思う仕事と違うのは、私が何処かの事務所だの企業に派遣されてここに来ているわけではないということと、報酬が決して金銭として支払われるとは限らないことかな。私がここにいるのは私の意思と使命と、運命みたいなある種の抗いようのない諦めからで、こんな格好で、そしてこんな場所で私は川を見続けなければならない。報酬もきっと物的なものじゃないんだ。まだもらったことがないからわからないけれど」
僕は彼の話す言葉の意味の半分も理解が出来なかった。
「好きでやってるわけじゃないってこと?」
「いや、好きでやってる。ただ不本意なこともある。なりたいものになれたとしても、やりたいことをやれるわけではないみたいな」
「なりたいもの?」
彼は両手を広げて自らの身体を僕に少し向けた。
「ヒーロー」
それから彼は初めて小さく微笑んだ。
『なりたいものになれたとしても、やりたいことをやれるわけではない』
彼はヒーローになれたけれど、やりたくないことをやっている。
そもそもヒーローってなんだろう。人を救うこと? 悪を倒すこと?
河川敷をただ眺めて佇む彼は本当にヒーローなんだろうか。
ヒーローになるためには、なにか資格がいるわけでもない。条件も制限もきっとなくて、言ったもん勝ちなんじゃないだろうか……なんて思う。
僕は一日中そんな無駄なことを考えて、無為に過ごすようになった。いくら考えたって答えもなにもあるものでもないのに。
彼は変わらず河川敷に立ち続けて、秋も冬も春も、ジッと流れる川を眺めている。
そんな彼の隣に、僕は足繁く通ってしまって、そうした彼に対する疑問みたいなものをぶつけてみるのだけれど、結局はいつも禅問答的な彼の言葉に、また飲み込めないモヤモヤを土産に持たされて家に帰る日々を過ごした。
ボールを蹴る子供たちをふたりで眺めながら、僕は一度彼に訊いたことがある。
「つまりさ、あなたはシンボル的なヒーローであって、その責務は果たしたくないんだ。ヒーローにはなりたいけど、ヒーローとしての活動はやりたくないみたいな」
そのときの彼はいつになくにこやかだった。
「シンボル的なヒーローなんてものは存在しないんだ。ヒーローは成した行動に伴って具現するもので、過程と結果に不可逆の矢印がある。卵も鶏もない」ただ、と彼は続けた。「もしそれがなにかの都合でひっくり返ることがあれば、そのヒーローはそうした要因を必ず負うことになる。避けられない呪いみたいなもので」
僕は相変わらず彼の言葉に首を傾げて、溜め息みたいな相槌を打つことしか出来なかった。
そうして毎日を過ごすなかで、僕が彼を見つけて、殆ど季節が一周した。
彼は変わらず毎日河原に訪れている。
そんな彼に対する問いかけは(答えはいつまでもでなかったけれど)粗方済んでしまって、僕らはふたりで川をただ黙って眺めるだけの日々が増えた。
彼はいつまでここにいるのだろうか?
もしかすると彼に終わりなんてなくて、どこかの駅の犬の銅像みたいに、彼は永遠にここに取り残されるんじゃないかなんて思えてくる。
ただ案外終わりなんてものはあっさりしているもので、そして唐突にやってくる。
その日はなんてことのない天気の良い日曜日だった。
毎年何処かしらの川でのよくある話で、前日の雨で増水した川辺で遊ぶ危機感のない無垢な子供が、どういう経緯かは知らないけれど流されてしまって、それを助けようと例のヒーローはいつも眺める川へ飛び込んだ。
そうして、またこれもありきたりだけれど、結局子供は助かって、彼は助からなかった。
彼は流されたその次の日に、100メートルも離れてない下流で見つかった。
死体は驚くほど青く、そしてちょっぴり膨らんでいる。そんな無機質な物体に成り下がった彼の顔は、なんだか酷く不満げに見えた。
彼の死を悲しむ人間は誰もいなかった。引き上げた消防だか警察も、きっと毎年のことで、淡々と作業を済ませて帰っていく。彼が助けた子供も、その親も、きっと家では感謝して、そして悲しんでいるのかも知れないけれど、ついに現場に現れることはなかった。自らが原因となってしまった人の死を、そう簡単に受け入れられる人間は少ないと思うから、仕方のないことだとも思うけれども。
かくいう僕自身、彼の死はあまりにも唐突で驚きはあれども、悲しみみたいなものは不思議と湧いてこなかった。彼の言う不本意なヒーローたる要因がきっとこの出来事なんだろうと思えるから。
彼が死んでしまってからも、自然と足は河川敷に向かって、僕はひとりで川を眺めている。ここに訪れることが習慣みたいなものになっていたから。
ヒーローってなんだろう。またそんな下らないことを考える。今度は訊く相手もいないのに。
自己犠牲? 無償の奉仕? 彼はそうしたもので死んでいったけれど、彼をヒーローと崇めるような人はいない。
そういえば、彼はそうした活動に対して報酬が支払われると言っていた。『報酬もきっと物的なものじゃないんだ』と言っていたけれど、いったい彼は何をもらったのだろう。
彼と同じように、少し足を開いて、胸を張って、ジッと川を眺めている。それでもやっぱり、一向に答えはでない。
さよならヒーロー