野菜をたべなさい

コメディーです。

　「野菜を食べなきゃだめよ」
　家内が４歳になる娘に、湯でたほうれん草を箸にはさんで口元に持って行った。
　娘の目が箸の先を見つめたために中央によっている。ひょかわいい。だが、決して食べたいという顔をしていない。それでもおちょぼ口を開けて、口の中に放り込んでもらい、くちゃくちゃかんだ。
　娘の隣の椅子の上で、三毛猫のアリャが見ている。アリャは生まれて半年の雌猫で、知人の家で生まれたのを一月前に僕がもらってきたのだ。アリャはいつも娘の隣の椅子の上でこれを聞いている。
　「はい、これも野菜」
　ピーマンもほうれん草と一緒にゆでちまったようだ。娘の口の中に、ピーマンが吸い込まれた。
　顔をひしゃげた。
　僕は肉をたくさん食べさせた方がいい、と言っているのだが、かみさんは肉がきらいで、大豆でできた合成の肉を炒めたりしている。動物のタンパクは脳にいいんだよ。そう言っても、ふんという顔をしている。
　お昼の食事がやっと終わると、娘も解放され、居間でお遊びだ。アリャはやっと餌がもらえると、キッチンの隅に置いてある餌場に行く。アルマイトの器にかりかりを入れてやると首をつっこんだ。
　「野菜も食べなさい」
　ほんの少しだが残ったほうれん草とピーマンを皿に入れて、家内がアリャの脇においた。
　猫が野菜なんて食わんだろと思うのがふつうだが、毎日この調子で家内が野菜の切れ端を置くものだから、ちょっとなめたりする。
　しばらく遊ぶと、娘はお昼寝で、布団の上でゴロリ。アリャは遊び足りないと言う顔で、部屋の探検にいく。
　夕飯になると、今日は珍しく豚肉の生姜焼きを作ってくれた。キャベツの千切り皿の真ん中にこんもりと盛られている。周りに豚肉がへたばっている。普通は肉の脇にそえるものだろうに。
　「野菜も食べなさい」ささやきながら、豚肉だけを入れた娘の口に、たっぷりのキャベツを箸で摘まんで押し込んだ。娘の口の中ではキャベツに肉がほんの少々砕かれていく。そりゃあ、生姜焼きにキャベツが一緒はおいしいが、娘の好きなようにさせたらいいのに、と思いながら、自分は肉をぎゅうぎゅう口の中にいれてもぐもぐした。
　「あなたも野菜食べなさい」と注意された。
　娘の隣にいたアリャが、テーブルの上のキャベツを見つめている。
　「アリャも野菜たべなさい」
　家内は猫の前にキャベツをおいた。
　アリャ、アリャが千切りキャベツを食った。
　野菜を食べなさいが効果を発揮した。

　猫の六ヶ月は雌だと大人になる。体の大きさは大人に近くなり、近頃は庭でよく遊ぶ。隣近所に猫を飼っているところがないので、雄猫に妊娠させられる心配はないだろう。あまり早く避妊手術するのもよくないといわれ、生後一年以上経ったら、避妊手術をする予定でいる。
　我家は東京郊外の昔からの家で、両親は他界して、今は自分の持ち家である。年の離れた姉が二人いるが、二人とも地方の古い家に嫁いで大きな子供がいる。る僕は、やっと、生活ができるほどの収入が得られるようになった物書きである。二冊ほどＳＦともミステリーともつかない話の本をだし、雑誌から依頼がいくらかくるようになってきたところである。
　物書きというのはそれこそ自由業で、書いても書かなくても誰も文句は言わないが、食べ物が口に入らなくなる。ただ書くのが好きで書いている人間だから、売れようが売れまいが関係なく、好きなように書く。そういう状態で売れっ子になれば最も幸せだが、大した能力もないのに書くのが好きな僕のような人間は、なかなか大変であった。おそらくこの年になってもやっと大卒の初任給ほどの収入だろう。
　まあ、うちのが髪結いで、駅の近くに美容室を開いているので、それに頼っているわけだ。家内は美術大学をでてから、美容学校に行ったというちょっと毛色の違う美容師さんだ。それでたくさんの客が付き、弟子を二人抱えて、経営をしている。
　髪結いの亭主という映画があった。主人公の初老の男が奇妙なおどりをしていたが、若い奥さんは信じられない死に方をした。死んだから不幸かというのではなく、幸福すぎて死んだのだ。残された髪結いの亭主が踊る踊りは、初老の男が自分の幸をうちに押し込め、逃げてしまわないようにからだを動かしているようにも見える。
　まあともかく、野菜を食べなさい女房のおかげで、普通の生活がおくれている。
　「ありゃ、野菜を食べなさい」
　アリャの餌の器の脇にゆでた人参を置いている。食うわけがないと思っていたのが、最近は、家内の顔を見上げて、ちょっとかじったりする。
　家内は朝、美容室にいって、１１時まで仕事をすると、弟子の二人に任せて家に帰ってくる。われわれのお昼を買ってくることもあるし、帰ってきてから作ることもある。どんなときでも、生野菜かゆでた野菜がテーブルにのる。　
　娘とアリャに「野菜を食べなさい」を連発して、２時に美容室に戻り、弟子を休憩させる。
　５時には弟子にまかせ家に戻り、食事をつくり、子供の世話をする。ということで、昼間の娘とアリャの世話は物書きの僕の役目である。
　娘を庭で遊ばせたり、散歩に連れていったり、早く保育園に入れるのはいやだという家内の考えもあり、僕も賛同してそうしているのだ。小学校に入る二年前に幼稚園にいれようということになっている。
　それなりの広さがある庭には小さな子が遊べるほどの草原をつくってある。天気がいいと、娘はそこで転がって、おんぶバッタを見つけてよろこんだり、カマキリに釜を振り上げられてびっくりしたり、自然児に育っている。娘にもいい草原だがアリャにとっても最高の遊び場だ。
　娘が昼寝から起きると、一緒に草原で遊ぶ。
　こうやって、冬を迎えた。
　アリャはだいぶ大人になって、食べる量もずいぶん増えた。
　食事のテーブルでは、あいかわらず、野菜を食べなさいと、家内は娘の皿に彩りよく野菜をもりつける。美大出の家内らしい食卓かもしれない。
　最近、娘がレタスの切れ端をアリャにやったりする。すると、アリャがちろちろと舌を出してなめると、そのまま食べてしまうこともある。
　娘は僕に似たようで肉が好きだ。出された野菜をすこしでもアリャに食べてもらおうというつもりがあるようだ。
　
　凍るような寒さが過ぎ、春の兆しが見え始めた二月の末のことだ。美容室のお客さんからワインをもらったと、家内が持って帰ってきた。
　家内は酒をあまり飲まないがワインだけは好きで口にする。それを聞いたなじみの客がくれたようだ。
　「ドイツのワインよ、ほら、陶器に入っていてきれいでしょ」
　ワインはガラスの瓶に入っているものと思っていたら、そのワインは渋い緑色の細長い陶器にはいっている。綺麗な瓶で、飲んだ後は美容室の窓辺におくつもりだという。ラベルをみると、リープフローミルヒ、モーゼルとある。
　「リープフローミルヒ」ってわかる。家内はフランス語をならったようだが、僕は学生時代ドイツ語をおそわった。といっても、使うこともなく、錆付いてしまっている。ミルヒはミルクかもしれないが。分からんな、特日を横に振ると、「聖女のミルク」っていうんだって、わたしににあうって、と言った。
　家内はどちらかというと豊満な肉体をもっている。娘も十分すぎるくらいの母乳で育った。
　その日の夕食は、いつものように、野菜サラダがたっぷりで、ただ、上等そうなスモークサーモンがあり、パスタがゆでられている最中だ。やっぱり野菜がたっぷりはいったトマトベースのパスタソースが用意された。娘にはジュース、我々の前にはワイングラスが用意された。
　家内がゆであがったパスタを真ん中においた。
　僕はリープフローミルヒをあけて、家内と自分のグラスについだ。
　アリャがなにをしているのかという目で、ワインがグラスに液体で満たされていくのを見ている。
　娘が自分でパスタを皿によそい、ソースをかけてホークで口に入れると、家内はレタスをつまんで、「野菜も食べなさい」と娘の口におしこんだ。
　僕はワインを一口のんだ、ちょっと甘めの、だがおいしい上等なワインだ。
　家内もおいしいわあ、と笑顔になった。
　アリャがまたなにを飲んでいるのかという顔でグラスをみている。
　「あなた、アリャがワイン飲みたそうよ」
　と言われたが、飲むはずはないだろう。ちっと指先にワインをつけて、アリャの鼻の先につきだした。
　「ありゃ」
　アリャがぺちゃっとなめた。
　「飲むじゃないの」家内が小さな皿にワインを入れて、アリャのいる椅子の上においた。すると、なんと、アリャがぺちゃぺちゃなめた。
　「さすが、聖女のお乳ね」
　家内もびっくりしている。僕もおもしろくなって、なくなった皿の上に聖女のお乳をいれてやった。
　またアリャはのみほした。
　「野菜も食べなさい」
　家内がスモークサーモンを口に入れて、もぐもぐしている娘の皿にレタスをとりわけた。娘はすぐさま、レタスのひとかけをアリャのワインの皿の上においた。
　これもまたおどろいた。アリャがレタスをもぐもぐ食っちまった。
　酔っぱらって味がわからなくなっているんじゃないか。
　「アリャはえらいわね、野菜食べてる」
　娘は自分の皿の上にあるゆでた人参をアリャの皿の上にのせた。やっぱりかじった。
　こうして、その日から、アリャは野菜をよく食べるようになった。家内が残った野菜を皿に入れて、餌の器のわきおくと、カリカリよりよく食べるようになった。
　三月の半ば、アリャは猫餌をたべなくなり、家内が置く、野菜ばかり食べるようになった。
　娘はそうはいかないので、家内は必ず、食事の時には「野菜も食べなさい」と娘に言う。それをきいて、アリャは野菜がもらえるものとおもうのか、目をきらきらさせる。
　暖かくなり、お日様がポカポカと照らす日は庭にでて娘とあそぶ。アリャも庭に出てくると、クローバの葉っぱをかじるようになった。
　仕事から帰ってきた家内に、そのことをいうと、クローバって、シロツメクサよね、おいしいのかしら、そういいながら、ネットで調べた。
　「生はだめのようよ、お腹こわすらしい、はえたばかりのはいいのよ、ゆでればいいみたい」
　「やめさせたほうがいいかな」
　「ありゃは食べられるの選んでるのでしょう、赤つめ草は牧草よね、牛が食べるわね、あら、シロツメクサもアカツメクサも家畜羊に外国からいれたものが、野生化したんだって、日本の草かとおもってた」
　僕もそう思っていた。
　「家畜もそれだけ食べてると病気になるみたいよ」
　はい、勉強になりました。
　アリャをみていたら、クローバばかりではなく、いわゆる雑草をつまみ食いしていた。これならだいじょうぶだろう。
　「娘にはまねさせちゃだめよ」
　「うん」
　幸い娘は野菜が嫌いだ。ほっといても大丈夫だろう。
　それからアリャは庭にでると、おいしそうに庭の雑草を食べていた。
　娘も猫も庭で遊ぶのが好きだ。春の日差しはちょうどいい。駆け回るほど広くはないが、娘は塀の近くに植わっている低木の蕾をつまんだり、咲き始めている花を見つめたり、時に虫がいると飽かずに眺めている。女ファーブルになるかしらん。
アリャと一緒に遊ばせていて、僕は家の中で書き物をしていたら、娘が、おいちい、と指をなめながら入ってきた。
　僕の部屋から庭を見ると、アリャは草を食べて、吐くようなしぐさをしている。だがすぐに、もぐもぐ口を動かしている。反芻をしているみたいだが。
　娘の指に触ってみるとべたべただ。ちかごろ毎日のように庭で手をべたべたにしてくる。
　手を洗ってらっしゃいと言うと、今では一人でできるようになった手洗いはもちろん顔も洗い、みなすませてもどってくる。お菓子を与えると、ソファーでおとなしく食べる。
　アリャも入ってきた。最近はかりかりを与えても残す。レタスがお気に入りのようで、家内が用意しておいてくれるレタスをやると、ぱりぱり食べる。人参だってジャガイモだってかじる。椎茸やシメジも大好きだ。
　
　ある日、庭にいた娘がおいしいよ、と部屋に入ってきた。なんだい、と聞くと「ミルヒ」という。前にもらったワインの名前を気に入って、ミルクをミルヒとドイツ語読みにするようになってしまった。
　なにを言っているのか分からなかったのだが、娘がこっちこっち、というので、ついていくと、三毛猫のアリャが草の上で横になっている。
　娘はしゃがむと、アリャのおなかのところに口を当て、ちゅうちゅうと吸い始めた。
　なにやっているのかとのぞくと、アリャのおなかのお乳が膨らんでいる。お乳の一つに娘がすいついている。猫のお乳は１２あるが、いくつかの乳首から白いものが垂れている。
　まだ生後一年にならない、猫がお乳をだしている。娘が吸うと、アリャは気持ちが良さそうに目を細める。
　大丈夫なのだろうか。
　娘にアリャが疲れるからやめなさい、お菓子上げるよ、と言うと、立ち上がった。
　家の中で娘にはビスケットを渡し、もう一度庭のアリャのところにいった。アリャのお乳がもれている。
　こりゃどうしたことか。
　とりあえず、家内が帰ってくるまでまとう。
　
　帰ってきた家内にことの次第を報告すると、彼女は、ホルモンが出過ぎたのね、私と同じ系統なのよ、と返事を介した。
　でも、まだ子供だよ、というと、あらあなた、男の人だって、お乳からミルクがでることがあるのよ、体質なのよ。と問題視しない。
　椅子の上にいるアリャのおなかをのぞきこむと、ほんと、この娘いいお母さんになるわ、といって、夕食の準備をはじめた。
　アリャが野菜を食べるようになったので、ますます野菜たっぷりになった。
　「野菜食べなさい」
　とうとう僕に向かって彼女は言うようになった。だがやっぱり、肉がおいしい。
　食事が終わると、娘がアリャのお乳にすいついた。おいちい、と吸っている。
　家内がアリャのお乳を指ですくってなめた。
　あら、ずいぶん濃くておいしいわね、
　アリャのあたまをなでた。アリャはごろごろいって、娘にお乳を吸わせている。
　しぼったらでるかしら。
　家内はアリャをソファーにつれていって、お乳のところを指で押すと、以外にもぴゅうーっと飛んだ。
　あらたくさんでるわね、そういいながら、コップをもってきて、アリャの乳をしぼった。
　だいぶたまると、娘がちょうだいと言うので、家内がコップを渡すとゴクゴク飲んだ。
　「猫ミルクだから、ビョウニュウね」
　などといっているが、あまりおいしそうではない。
　「子猫だから、子猫ミルク」というと、娘が「アリャミルヒ」といった。
　「そうね、アリャミルヒ、今度美容室に来る動物病院の奥さんに聞いてみるわ」
　と言って、もっとしぼった。
　ちいさなコップにいっぱいたまる。
　こうして、娘は食後に、ネコミルヒをのむようになった。
　ある日、動物病院の奥さんがいうには、猫のミルクなんて珍しいから連れてきてほしいと主人が言っているということだ。それで、家内がアリャを知り合いの動物病院に連れて行った。
　アリャはいろいろ調べられたようだ。ミルクの成分までわかってしまった。牛のミルクより、栄養価は高いし、いろいろなものが含まれているという。普通の猫のものとは違うそうだ。
　「それでね、皮膚を若返らせる成分が豊富なそうなの、アリャのミルクで肌にいい乳液を作って売ることにした」
　家内は化粧品会社に勤めている友人に話し、とうとう製品化することになった。
　アリャはミルクを出す猫として、新聞記事になり、宣伝効果ばつぐんで、できあがる前から予約がさっとうした。
　こうして、アリャミルヒいりの高級乳液ができた。これで顔を洗うと、皮膚の角質層が適度の湿り気と柔軟性を持つばかりではなく、菌やウイルスの進入に抵抗を持つことが分かった。
　大人になったアリャは、家内を含め僕もマスコミなどへの対応に忙しくなり、避妊手術を忘れていた。
　とうとう、妊娠してしまった。相手はどうもこの遠くからやってきた風来坊の押す猫のようだ。茶虎のどら猫で最近かおをだすようになったのだが、相当な老猫で、あいつは大丈夫だろうと思って油断していたのが間違いだった。
　アリャは八匹の白黒、虎、真っ黒、を生み出した。八匹のうち五匹は雌猫で、家内はうちで飼うといいはった。アリャのようにミルクを出すかもしれないからだ。アリャの子供が乳離れまでは、アリャのミルクは乳液作成に回すことができずに、在庫はなくなってしまっていた。予約がたくさんきている。三匹の雄は、乳の豊富な母親から生まれた猫として、もらわれていった。
　子猫がアリャの乳から離れ、アリャの乳はまた乳液の材料になった。
　家内は、少し大きくなって、餌を食べられるようになった子猫たちに、餌の器の脇に、必ず野菜の入った皿をおいて、
　「野菜を食べなきゃだめよ」
　と言い聞かせている。
　娘は幼稚園に入り、僕が五匹の子猫を庭で遊ばせている。
　近頃、子猫たちが庭のクローバの葉っぱを食べるようになった。
　アリャと同じように、反芻までしている。
　「もうすぐお乳がでるようになるわよ、あなた作家辞めて、乳絞りやってね」
　そう言われている。そのほうが実入りがいいそうだ。そうかもしれない。