Limoncello
(1)Luglio del primo anno,Napoli
地中海特有の、燦々と降り注ぐ煌びやかな陽の光を浴びながら、矛盾するかのようなやや湿った空気の街を、私は人波を縫うように早足で歩いていた。
ヨーロッパの空気は乾燥しているという先入観は、ここに来て二日目には間違いだと気付いた。それもそのはず。同じヨーロッパとは言え、以前訪れたことのあるドイツやオーストリアとは違い、この国は、地中海に突き出した半島そのものだ。その南部にある歴史的な港湾都市には、世界に名を馳せるほどの風光明媚な名所「サンタルチア海岸」がある。私は、有名な民謡のモチーフにもなっているその海岸から、ほんの少し内陸に入った通りを歩いていたのだから、多少空気が湿気を帯びているのも、当然と言えば当然だ。
ここは、海と共に歩み、海と共に栄えた街——ナポリ。
世界に名だたる高級ブランドショップが並ぶ、ナポリで最もエレガントなブロックを抜けると、左手にピッツァ・マルゲリータ発祥の店「Brandi(ブランディ)」が見えてくる。一人暮らしのアパートを出て、既に十分ぐらいは歩いているが、ここでの暮らしでは「足」が何よりの交通手段。一時間程度の距離なら、苦もなく徒歩で移動する習慣が身に付いていた。
ピッツァ・マルゲリータのメインとなる具材であるモッツァレラチーズとトマトソースとバジルが、緑、白、赤のイタリア国旗を象徴していることは有名な話だ。いや、もっと言えば、マルゲリータ王妃の為に考案され、王妃の気に召されたことが名前の由来とされていることも聞いたことがあるかもしれない。
その時、王妃の為にこのピッツァを考案し、献上した店が、今まさに私が歩いているキアイア通りにあるこのお店なのだ。約130年前——1889年のことである。
しかし、ナポリの年配の方に聞くと、もっともっと古くから——おそらく十九世紀の初頭頃から——全く同じようなピッツァがナポリには存在していたという説もあるそうだ。
確かに、この三種の具材は、全てナポリ近郊を代表する伝統的な名産品でもある。なので、これらを組み合わせた料理、特にトマトソースのスパゲッティやリゾットは、昔からどこの家庭でも日常的に食卓に上がる、ナポリを代表する伝統料理なのだ。それなのに、このピッツァだけはその時まで誰も考案していなかったと考えるのは、かなり不自然な話と言えよう。
さておき、Brandiを通過し、ほんの数分歩いたところで、キアイア通りは喧騒溢れる忙しない広場に吸収される。ここは、「トリエステ・トレント広場」だ。ナポリの中心街を代表するスポットの一つとして、交通量も人通りも絶えない賑やかな場所である。この広場の一辺を占有するのは、1860年創業の老舗のBAR(バール:喫茶店に近い飲食店)、GAMBRINUS(ガンブリヌス)だ。
この広場は、ナポリのメインストリートでもある「ローマ通り」の入口でもあり、街のハブのような拠点となっている。それなのに、ナポリで一番有名とも言える老舗の名店、ガンブリヌスのすぐ脇、ローマ通りの始まりの壁際に、ビニールシートを広げ、でっぷりと太ったおばさんが毎日座り込んでいる。彼女は、行き交う人に悲壮感漂う仰々しい身振りを交え、小銭の施しを要求している物乞いだ。実に、ナポリらしい一面でもある。彼女の生態は不明だ。と言うのも、毎日、日中はその場所で営業をしているが、夜になる前にはいつの間にか居なくなっているのだ。何処か別の場所に寝床があるのかもしれない。
トリエステ・トレント広場の右手には、数千人規模の野外コンサートも行われるような、広大なプレビシート広場が広がっている。ナポリ王宮と巨大なサン・フランチェスコ・ディ・パオロ聖堂に囲まれた広場だ。王宮の壁には、広場から見れるように大きな時計が付いている。しかし、正しい時刻を示していることは、まずないことで有名だ。これまた、如何にもナポリらしいと言えよう。
そして、ガンブリヌスを背に更に進むと、イタリア三大歌劇場の一つ、サンカルロ劇場が見えてくる。何と、1737年に開館されたという、ヨーロッパでは現役最古の歌劇場だ。しかも、特筆すべきことは、開館以来、定期公演が中止されたシーズンが一度しかないこと。1737年と言えば、日本では江戸時代中期、八代将軍吉宗が統治していた頃だから、それから現在まで、毎年オペラなどの定期公演が行われているのだと思うと、その歴史の重みと凄さが伝わってくる。
因みに、西洋の音楽史に当てはまると、1737年頃はバッハやヘンデルの全盛期だ。当時のナポリは、後のウィーンやパリ以上とも言えるぐらい、世界の音楽の——特にオペラの——中心地だったと言われている。パイジェッロやチマローザ、スカルラッティなど、バロック期の沢山の著名な音楽家はもちろん、ドイツを拠点としていたバッハやヘンデルのバロックの二大巨匠でさえ、何らかの形でナポリと所縁があったことが記録に残されている。
そんな歴史的な劇場を素通りしても、ナポリの見所はまだまだ続く。今度は、カステル・ヌオーヴォという古城が否応なく目に入るだろう。七百年以上も前に建てられた、アンジュー家の城だ。円柱形の個性的なスタイルとシックで中世的なレンガ造りの外観が、極めて印象的な城と言えよう。
そして、その近辺はまたまた巨大な広場となっている。ナポリ最大の広場、ムニチピオ広場だ。この広場を越え、大きな道を渡ると、ヴェベレッロ港に到着する。実は、ナポリにはもう一つ港がある。有名なサンタルチア海岸にあるメルジェリーナ港だ。だが、メインの港は断然こちらだろう。実際、カプリ島やイスキア島、ソレントなどに出向く時は、ヴェベレッロ港を利用することが圧倒的に多い。
ここまでの道中、キアイア通りからムニチピオ広場までを含む一帯の地区は、ナポリ中央駅からかなり離れた場所にある。歴史的な港湾都市でもあるナポリにとっては、駅や空港ではなく、本来はこの港こそが街の出入口なのかもしれない。そう思うと、この一帯が一番栄えていることも納得出来る。
しかし、その日の私の行先は港ではなかった。
ムニチピオ広場まで到着した私は、広場を横切らずに、広場に沿って左の方へと歩いた。すると、直ぐ目の前に長距離バスのターミナルがあるのだ。その傍には、SITAというバス会社のオフィスとチケット売り場がある。私は、時刻表を確認して、アマルフィまでのチケットを購入した。行先は、アマルフィ海岸沿いの街ならば何処でも良かったのだが、一番出発時間が近いバスが、アマルフィ行きだったのだ。電車やバスも時間通りに来ることのないナポリにおいて、SITAのバスだけは比較的正確に運行されていた。
それから数時間後、予定通り、私はアマルフィにいた。
(2)Luglio del primo anno,Amalfi
ティレニア海に沿って、サレルノからソレントまで約40kmも続くアマルフィ海岸は、断崖絶壁の急斜面に貼り付くように幾つかの街が点在している、世界的にも他に例を見ない個性的なスポットと言えよう。独特の地形とドラマティックな景観、そして、険しい岩壁を開拓しながら育んだ独自の文化などにより、ユネスコの世界文化遺産にも登録されている景勝地だ。
崖の上の細いクネクネした道を、大きなバスが見事な技術で走るスリリングな道中も、格別の体験と言えよう。この海岸線には、アマルフィだけでなく、ポジターノやラヴェッロといったこじんまりとした美しい街が点在している。大自然の絶景や食文化だけでなく、ビザンチンやイスラム圏の文化が混じり合う独特の建築様式も楽しめる、ツアリストの隠れた名所となっている。
また、ここはレモン(Limone、リモーネ)の産地としても有名だ。アマルフィ海岸で採れるレモンは、おそらく初めてみる人はビックリするぐらい、とにかく大きい。大人の男性の握り拳より一回り以上大きいものは当たり前、時にはメロンぐらいの大きさにまで育つこともあるそうだ。
そんな大きなレモンだが、味はとても濃厚かつジューシーで、酸味だけでなく甘みが強いのも特色だ。この地方を歩いていると、街中の至るところでこのレモンで作られたグラニータ(シャーベット)が販売されている。日本のシャーベットと比べ、何段階もきめを細かくした柔らかい氷、高濃度のレモン果汁、程よい甘さと爽やかな酸味……それはもう、信じられないほどの絶品で、私がアマルフィ海岸に来る目的の半分はグラニータにあると言っても過言でないぐらい、いつも楽しみにしていた。
そして、このレモンのもう一つの特徴は、皮がとても分厚いこと。この皮を薄く剥き、アルコールと砂糖に漬け込んだお酒がリモンチェッロ(Limoncello)だ。鮮やかなレモン色をしたアルコール濃度が高いお酒で、冷凍庫で保存しても凍らないそうだ。食後のお口直しのデザート酒として、特にナポリ近辺で愛飲されている。もちろん、アマルフィ海岸の特産品としても有名だ。リモンチェッロは、ソレントやカプリ島でも作られているが(むしろ、起源はカプリ島らしい)、アマルフィ海岸で採れたレモンを使って、アマルフィ海岸の街で作られたものが一番美味しいと評価する人も少なくない。
また、リモンチェッロは、お洒落なビンで売られていることが多い。お土産用の小瓶の商品は、何も知らない人が見ると、何かの化粧品や香水などと見間違えそうなぐらい、カラフルで可愛いパッケージなのだ。
その日も、私は特に目的もなくアマルフィにやってきた。イタリアに来て一ヶ月半、休みの日は、時々一人でアマルフィやポジターノ、ラヴェッロなどに来て、のんびりと過ごすことが増えていた。片道数時間も掛かるし、特にここで何をするでもない。ナポリから離れたいのと、ティレニア海の綺麗な海を見ていたいのと、レモンのグラニータを食べたいだけだ。
断崖の上に立ち、心地よい潮風を受け、遥かに続く真っ青な海を見ていると、やっぱり私はこの場所が好きなんだなぁ……と再確認出来る。初めてここに来た時に芽生えたこの感情は、繰返しこの地を訪れているが、消えることはない。だから、自殺する時はここから飛び降りようと……何度も決意しては躊躇した思いが、ここに立つといつも潮風に流され渦巻いて消えていく。ここで死にたくても、ここに来ると死にたくなくなる。そして、スプーン一杯のグラニータを口を含み、その甘さと酸っぱさと氷の冷たさに安堵し、泣きたくなる衝動を抑え込みながら帰途に着くのだ——ナポリに。
そう、今の私には、帰りたくもないナポリしか、帰る場所はなかった。もう少しだけ頑張ってみよう。そう思い直す為に、ここに来ているのかもしれない。
(3)Giugno del primo anno,Amalfi
初めてアマルフィに来たのは、ナポリで生活を始めて一週間ぐらい経った頃だ。ろくにイタリア語を話せなかった私は、社長からアマルフィ行きの往復チケットと、バスの運転手宛てに書いた手紙を渡され、何も理解出来ないままに重たい工具鞄を持って、指定されたバスに乗り込んだ。運転手に手紙を渡すと、ニッコリと微笑みながら「OK!」とだけ言われ、前方の席に座るように促された。どうやら、降りる所を教えてくれるようだ。
バスは、高速道路に乗り、長時間走った。「アマルフィ」という街が何処にあるのか、どの方角に走っているのか、どれぐらい離れた街なのか、基本的な情報さえ何も知らない私は、不安と恐怖でいっぱいだった。毎日を、そんな感じで過ごしていた。常に気を張り、怯え、不安に包まれていたのだ。
もう、限界かも……自分で決めた道なのに、僅か一週間の生活で、自信も目標も夢も生き甲斐も、何もかもを失い、ホームシックとは別の感情で、私はこの地から逃げ出したくなっていたのだ。
二時間ぐらい経過すると、バスは普通車でも走るのが怖そうな急カーブが連続する切り立った崖の上の細い道を、信じられないようなドライブテクニックで、ハンドルを巧みに切り返しながら走っていた。そして、運転手が、私をこの席に座らせた理由も分かった。窓から見える景色は、海だけなのだ。しかも、かなり高い所を走っているので、まるで、空を飛んでいるような錯覚さえ起こす、神々しいまでの絶景だった。
ここまでノンストップで走ってきたバスは、この辺りに来てから、所々停車するようになった。その度に、乗客が一人また一人と降りていったが、乗ってくる人はいない。いつしか、私を含め、五〜六人にまで減っていた。そのままバスは大きな広場に入った。どうやら終着のようだ。運転手に促された私は、彼にお礼を述べると、幼い男の子のようにニッコリと微笑んでくれた。バスを降りると、お客様が迎えに来ていた。今度は、その方の車に乗り換え、十五分程走ると、ようやく目的に着いた。
海沿いの断崖から少し内陸に入った地域とはいえ、海から遠く離れたわけでもない。なのに、レモンとオリーブの畑が一面に広がるその地域からは、全く「海」が感じられない。大地の温もりと陽気な太陽と爽やかな風、そして土の匂い。農業地だ。
お客様は、ご夫婦で農業を営んでいた。最近、幼いお嬢様の為に、ピアノを購入したばかりなのだとか。日本だと、ピアノを購入すると、納品した後に点検を兼ねて無料の調律サービスが行われることが一般的だ。この調律のことを、業界では「納調」と呼ぶ。どうやら、イタリアでも……いや、少なくとも、私の働く会社では、「納調」を行っていたようだ。
お客様は、とても親切なご夫婦だった。片言の英語と片言にも満たないイタリア語しか使えない私を相手に、一生懸命に話し掛けてくれ、私の滅茶苦茶な語学力の、ややもすればジェスチャーがメインのような話を、理解するまで根気よく聞いてくれた。不思議なことに、理解した時も理解された時も、通じ合えたことが本能的に伝わるのだ。
納調なんて、せいぜい一時間半ほどの仕事なのに、昼食を共にし、夕方まで一緒に過ごすことになった。帰り際、ご夫婦がお土産を持たせてくれた。一つは、レモンだった。見たこともないぐらい、大きくて柔らかいレモンだった。そして、もう一つは、小さなビンに入った黄色い液体……自家製のリモンチェッロだった。
その後、奥様にバス停まで送ってもらったが、時刻表を見る限り、ナポリ行きのバスは直ぐに来ないようだ。すると、お客様は広場にあった露店でグラニータをご馳走してくれた。
「じゃあ、ここでね。三十分ぐらいしたらバスが来るから、気を付けて帰るのよ」と、グラニータを受け取りながらお別れの挨拶をすると、奥様は車で帰っていった。せめて、名前ぐらい聞くべきだったと後悔した。
一人、広場に残された私は、急に心細くなった。スマホなんてない時代だ。本も持って来ていない。一人でバスを待つしかない。もう夕方の五時を回っているのに、ティレニア海はまだ真昼のように鮮やかで明るかった。イタリアの六月は、最も日が長い時期でもある。その上、夏時間ということもあり、日没は八時半ぐらいなのだ。真っ青な海を眺め、潮風に吹かれながら、甘酸っぱい濃厚なレモンのグラニータを口に含んだ。氷点の潤いに爽やかなレモンの香りが立ち、強い酸味と程よい甘味の調和が心と身体を潤わせ、私の中に深く深く浸透していく。
生まれて初めて食べるグラニータは、ナポリに来て以来、ずっと張り詰めていた私の心をリラックスさせてくれ、数週間ぶりに私は肩の力が抜けた気がした。すると、レモンに誘発されたのか、何故かとても切なくなって、ノスタルジックな思い出が頭に浮かんだ。
私は、記憶の中で浴衣を着て、父と母と手を繋いで歩いている——夏祭りだ。いつも厳しい父がずっとニコニコしていて、打上げ花火を見た母は大袈裟に手を叩いて喜んだ。
駄々をこねて買ってもらった林檎飴は、半分も食べないうちに不注意で落としてしまった。悔しくて悲しくて泣いている私を、父と母は優しく宥めてくれた。いつもなら叱られるのに、その日は特別だった。代わりに、綿飴を買ってくれた。今度は絶対に落とすものか! と誓い、手が痛くなるぐらい棒をギュッと強く握った。でも、幼い私は途中で食べ飽きてしまい、とても全部食べ切れる気がしなくて、それなのに、子どもながらに残したら申し訳ないって気持ちもあって、途方にくれていた。すると、私の様子に気付いた父が、微笑みながら残りを全部食べてくれた。父は、全て知っていた。全て分かっていた。たったそれだけのことなのに、とても幸せだった。
こんな日が、永遠に続くと信じて止まなかったあの日……今の今まで、思い出したこともない記憶の断片。レモンのグラニータのように、甘くて酸っぱくて、ほんのり苦い幼少の記憶。
私、こんなところまで来て、何してるんだろう?……いつしか、理由もなく涙が溢れていた私は、二口目のグラニータをそっと口に運んだ。
ノスタルジーによる胸の温もりを、冷たいグラニータが優しく冷ますと、現実に引き戻されると同時に、私の中の何かがカチッと音を立ててリセットされた気がした。その時、バスが広場に入ってくるのが見えた。そう、ナポリに帰らないといけない。あのバスに乗って……私は、もう少しだけ頑張ってみようと思った。そして、また辛くなったらここに来て、グラニータを食べたらいい、それで全てが解決出来る気がした。
(4)L’inizio del primo anno,Napoli
南イタリア最大の都市でありながら、ミラノのように洗練されておらず、ローマのような歴史もない。ベネチアのような観光都市でもなければ、フィレンツェのような文化都市でもない。かと言って、トリノのような産業もない。言うならば、巨大な庶民の街——それがナポリだ。
初めてナポリに到着した時、なんて汚くて騒々しい街なの……と思ったものだ。同時に、こんな所で二年も住めるのだろうか……と不安になった。夜に到着したのも運が悪かった。時は六月——日中なら、南イタリア特有の陽光とサンタルチア海岸の爽やかな潮風に、心躍らせたのかもしれない。しかし、私がナポリ空港(カポディキーノ国際空港)に降り立ったのは、夜の十時を回っていた。ロビーに迎えに来てるはずのスタッフを探している間に、何人ものキャッチセールスに、ホテルやタクシーの勧誘にあった。皆、胡散臭い人物に見えた。まともな人間は居ない世界なのかと思った。唯一の救いは、空港が思っていた以上に明るくて近代的で綺麗だったこと。もっと薄暗くて寂れたイメージを勝手に抱いていたので、その点は妙にホッとした。
しかし、スタッフと合流し、市内の用意された部屋への移動中、車内から見る夜のナポリには、とても良い印象は持てなかった。夜遅い時間にも関わらず、市内に入ると人と車が溢れ、ゴミが散乱し、空気は澱み、騒々しい街だ。繁華街とはまた違う、「巨大な路地裏」といった第一印象は、最悪に限りなく近いネガティヴなものだった。
確かに、ナポリは思い描いていた『イタリア』とは良くも悪くも全く違った。慢性的な交通渋滞、そして、鳴り止まないクラクション。交通ルールはほぼ崩壊しており、信号無視や逆走は当たり前、歩行者は、車道を横切って、走ってる車を止めて渡るのがスタンダードなスタイル。これが出来るようにならないと、いつまで経っても目的地に辿り着けないだろう。
街中至る所で、ゴミやタバコは当たり前のようにポイ捨てされている。貧富の差が激しく、スリやひったくり、置引きは日常茶飯事。色んな場所に物乞いが陣取り、バスや電車に乗ると身障者が施しを乞い歩く。そんな破茶滅茶な街に、二十四歳の私は一人で乗り込んだ。
渡伊の目的は就職だ。たまたまナポリにあるピアノ商社から調律師の求人があり、一度は海外で、出来ればヨーロッパで暮らしてみたかった私は、迷わずに応募した。正式に採用が決まるまで二転三転紆余曲折したものの、無事に労働ビザも取得出来、二年契約で雇われることになった。
待遇は、まぁまぁ良かった方だと思う。部屋付きで手取り百五十万リラ。これは、当時のレートで、日本円にして十万円ちょっとってところだが、家賃と光熱費は不要だし、当時は物価も日本より格段に安かった。そして、完全週休二日はもちろん、バカンス休暇(もちろん有給)も一ヶ月もある。クリスマス休暇も約一週間、こちらも有給だ。更に、契約満了後には、帰国する際の飛行機代も出してもらえることになっていた。税金や保険などの諸経費も会社が全て支払ってくれた。つまり、毎月百五十万リラが、生活費として丸々残る感じなのだ。洋梨がキロ三百円程度で買え、日本のよりも格違いに美味しいマルゲリータが、一切れでなく、一枚五百円程度で食べられる国で、しかも、新卒一年目の私にとっては、比較的恵まれた待遇だったと言えよう。
就業時間は特異だった。イタリア特有のシェスタの時間が設けられており、午前中は9〜13時、午後は16〜20時という、一日を二つに分けたような勤務体系だったのだ。同僚のイタリア人技術者も、事務員の女性も、皆同じ条件だが、彼等はとにかく時間通りに動かなかった。
毎朝ほぼ例外なく、二十分前後は遅刻してやってくるし、十一時半頃には帰り支度を始め、遅くても五十分頃には帰ってしまう。午後の勤務も同じ感じなので、実質、七時間も働いていないだろう。それを咎める人もいなければ、良心の呵責もない。所謂「イタリア時間」というものだ。つまり、ルーズで当たり前……何て良い国なんだろうか。
ただ、私の場合は外回りの仕事もあったので、勤務時間はかなり不規則だった。そもそも、時間なんてものは事務的な枠組みとしての設定に過ぎず、実質的に、時間に縛られた勤務ではなかったとも言える。日本での「時間」という概念からは、大きく逸脱しているであろう「イタリア時間」での労働は、私にはとても心地良かった面もある。
しかし、この外回りもまた、何かと大変だったのだ。基本的に、移動はバスや電車を利用するのだが、運転手もまた労働者だ。つまり、「イタリア時間」で働いているのだから、時刻表なんてあってないようなものだった。特に、バスなんていつ来るのかは全く予想出来ない感じだ。比較的マシな電車でも、三十分遅れなんて日常茶飯事。九時には到着する予定で出掛けても、結局十時を回ってしまうなんて当たり前なのだ。
到着の遅れは、当然ながら帰社の遅れにも繋がる。また、殆どのお客様は、ろくにイタリア語も話せない日本人女性調律師が来ることを、サンタクロースがやって来るかのように楽しみにしてくれ、サーカスを見るように接しくれた。仕事を始める前に質問攻めに合うし、仕事の後は食事をご一緒することも頻繁にあった。なので、昼過ぎには戻る予定だったのに、夕方ぐらいにズレ込むことも珍しくなかったのだ。
お客様宅では、仕事中にワインを出されることもあるし、帰り際に、大量の自家製ワインやフルーツを持たされることもあった。こんなに重たくて持てないよぉ……って、ちょっとぶりっ子するだけで、車で会社まで送ってもらえたりもした。送ってくれない場合は、頂いたワインやフルーツは、全てホームレスにあげた。重たい工具鞄だけでも大変なのに、数キロもある手土産なんて迷惑でしかないし、そもそも、私は小食な上、お酒も飲めないのだ。
ちなみに、今の私がワガママなのは、おそらくイタリアで過剰にチヤホヤされた所為だと本気で思ってる。
(5)Settembre del primo anno,Napoli
ナポリに来て数ヶ月経過したある日のこと、会社の大切なお客様が主催するパーティーに招待された。ナポリ音楽院の重鎮、ベルトゥッチ教授の姪っ子、パオラ・ヴォルペ嬢(仮名)の誕生日パーティーだ。彼女はナポリを拠点に活動しているピアニストで、私と同じ歳で、私と違って美人でスタイルが良くて背も高くてお嬢様で、私の何倍もワガママで、端的に言うと「嫌な女」だ。親族のコネでピアニストを名乗れているだけで、実力は全く伴っていないとの話を、前もって事務員さんに聞いていた。
「本当にイヤな女よ。気を付けてね」
事務員さんは、そう忠告してくれた。
そんなパオラは、初対面の私に敵意剥き出しだった。と言うのも、彼女の誕生日パーティーなのに、参加メンバーの男性陣、特にオジサン軍団は皆んな私に興味津々で、彼女には見向きもしなかったのだ。私もオジサンにモテようなんて思ってもいなかったし、この日のヒロインである筈のパオラに申し訳ないとも思ったのだが、こればかりは仕方がない。彼等には、若い日本人女性が珍獣のように見え、弄りたくて仕方ないのだ。
確かに、当時のナポリには、日本人は少なかった。とにかく、ナポリの治安の悪さは有名だったし、観光名所が沢山ある割には、観光業に注力していない自治体だったと言えよう。なので、日本人の団体ツアーなんてほぼ見かけなかった。この点は、ローマやミラノ、フィレンツェ、ベネチアなどと比べても、観光大国イタリアの巨大都市なのに、ナポリはかなり異質だったと言えるだろう。
異質だった、と過去形にしたのは、現在はかなり変わってきているという話を聞くからだ。しかし、当時の観光地としてのナポリは、ソレントやポンペイ、カプリ島などへのアクセス拠点程度にしか周知されていなかった。しかも、当時の観光ガイドの中には、「出歩くのは危険な街」と紹介しているものまであった。実際、時々個人旅行の日本人は見掛けたが、年間にせいぜい十人程度だった。
そんな時に、こんな私とはいえ、ごく身近に日本人女性が居たのだから、ただでさえ女好きのイタリア男性が放っておく筈がないのだ。
ただ、幸いなのか残念なのか、私のイタリア語は、来伊当初と比べると多少は上達はしていただろうが、まだまだ会話が弾むには不十分だった。彼らの話の半分以上は理解出来なかったし、私の言いたいことも七割ぐらいは伝わらなかった。なので、彼らの渾身の下ネタも、私には馬耳東風、スルーされる下ネタほど悲しいものはない。期待したリアクションのない私には、全く手応えを感じなかったことだろう。パーティー開始から二時間ほど経つと、次第に私の周囲からオジサン軍団は離れていき、いつしか一人でポツンと座っているだけの時間が増えていた。
そんな折、パオラが私の側にやってきた。
「貴女、意外と私と同じ歳なんですってね。随分と若く見えるわね」
そう話し掛けてくるパオラの目の奥には、心なしか、鋭利な棘を感じた。おそらく、彼女の言う「若い」には、見下した「幼い」という意味があるのだろう。確かに、パオラよりずっと背も低ければ胸も小さいし、大人っぽくない。そもそも、パーティに呼ばれるなんて想定もしていたかったので、相応しい服装も持っていない。それどころか、日本からは最低限の服しか持って来ておらず、使い回ししながら少しずつこちらで増やしているところだった。そんな私にとって、パーティー用のドレスなんて二の次だ。
その為、エレガントにパーティドレスを着こなすパオラとは違い、私は仕事用の地味なワンピースとパンプスだった。それに、急遽露店で買った安物のコサージュを付け、日本から持って来ていたイミテーションパールのネックレスを首からぶら下げただけ。上流階級の着飾った大人達の中で、そこにいるのも恥ずかしくなるような格好だった。
元より、私に限らず、欧米ではアジア人女性は幼く見られがちなのに、その時の私の持ち服レパートリーでは、必死に背伸びして、大人っぽく見せようとしている女子高生のようなファッションが精一杯だったのだ。いっそのこと、コサージュとかネックレスなんて付けなければ良かった……と心底から後悔した。パオラは、全てを見越した上で、報復を込めて「若い」と見下しているのだろう。女同士の妬みや皮肉は、世界共通で陰湿なのだ。
「お誕生日おめでとう。もう同じ歳じゃないね。貴女はずっと歳上に感じるわ」
私は、辿々しいイタリア語で、ニコニコと微笑みながら、パオラを祝福した。
それからも、パーティーの主人公は時々私の側に寄ってきては、何かと話し掛けてくれた。流石に、友好的な会話は最初だけで、その後は当たり障りのないやり取りに終始したのだが、何度目かの会話時にパオラは言った。
「ねぇ、貴女全くワイン飲んでないじゃないの。遠慮なんかしてないよね?」
実は、私は、アルコールがほとんど飲めない。その日も、炭酸水とオレンジジュースだけで凌いでいた。最悪なことに、よりによってそのことをパオラに気付かれてしまったのだ。嫌な女だ。
「ジュースばっかり飲んでて、本当に子どもみたいね」
嘲笑を微笑みに転化したような笑みを浮かべてはいるが、パオラの目には、底意地の悪そうな光が放たれているように見えた。そして、どこで誰に頼んだのか分からないが、実にスマートにそれを持ってきた。
「コレ、飲んだことあるよね? アマルフィ産よ!」
鮮やかな黄色い液体の入った細長いビンを私に見せながら、彼女は言った。リモンチェッロだ。ビンは、薄らと霜が付いている。触らなくても、とても冷えていることぐらいは予想出来た。
「それが……まだ飲んだことないの」
アマルフィのお客様にもらったリモンチェッロは、未開封のまま、冷凍庫で眠っている。お酒の飲めない私にとって、リモンチェッロは見た目を楽しむだけで充分なのだ。
「ナポリに来たのに飲んでないなんて、信じられないわ。ねぇ、誰かグラス用意してよ!」
「パオラ、ごめん、私お酒飲めないの」
「大丈夫! ほんの少しだけいいわ。是非、貴方に飲んで欲しいのよ! 甘いから、ジュース好きの貴女に向いてるわ。折角ナポリに来たんだから、リモンチェッロぐらいは知ってて欲しいのよ」
そう言いながら、用意されたテキーラグラスのような小さな二人分のグラスに、パオラはケバケバしいぐらいに鮮やかな液体を注いだ。強引に受け取らされた私は、飲んでみるしかない状況に引き込まれていた。パオラと社交辞令の乾杯をすると、彼女は一気に飲み干した。そして、攻撃的な目で私に促した。せめて言葉が上手く話せれば、何なりと言い逃れる方法は見つけたかもしれない。でも、私の片言のイタリア語では、もう逃げられない。仕方がないので、覚悟を決めて軽く口を付けてみた。
しかし、私にとってのリモンチェッロは、ただただ得体の知れない飲み物でしかなかった。何より、あまりもの冷たさに驚いた。一口でお腹が冷えそうなぐらい、ギンギンに冷えていたのだ。おそらく、その温度は氷点以下だろう。それなのに、アルコール度数が高い為か、喉と胸が焼けそうに熱くなり、苦しかった。味なんて、ほとんど覚えていない。ただ、気持ち悪いぐらいの甘さが口の中にまとわり付いた。レモンの爽やかな酸味も風味も、強過ぎるアルコールに掻き消され、私には全く感じるゆとりがなかった。
結局、ほんの一口で、私はギブアップした。むせ返り、苦しくなり、吐き気も催し、ガスなしの水で何とか中和させようと試み、その後のことはほとんど覚えていない。意識が朦朧としていたし、早く家に帰りたい、ベッドに横になりたい、それだけを切実に願った。
「あら、大丈夫? ごめんね、貴女には強過ぎたかしら?」と介抱するフリをしながら、ニヤニヤと笑うパオラの顔に、リモンチェッロをぶっ掛けてやりたかった。ホントに嫌な女だ。あの時のパオラの顔だけは、今でも忘れられないでいる。
「ブォン、コンプレアンノ、クソアマ!」
もう一度、心の中で誕生日を祝福した。
(6)Settembre del primo anno, a Capri
ナポリ滞在中には、今思うと、本当に恵まれていたのだと考えを改めないといけないのだが、年に三〜四回はカプリ島に出向いていた。
カプリ島と言えば、地中海の楽園とも称される小さな島で、世界中の著名なセレブの別荘が沢山あり、有名な観光名所「青の洞窟」もあり、真っ青なティレニア海に浮かぶ真っ白な断崖絶壁の景観も、温暖な気候と長閑な雰囲気も、イタリアとは思えないぐらいの治安の良さも、全てを含めて風光明媚な超高級リゾート地そのもので、まさに「楽園」だった。でも、この島での仕事は、当時の私には苦痛でしかなかった。
そもそも、カプリ島へのアクセスは船しかない。当たり前だが——。しかし、私は船が苦手だった。それに、綺麗な海を見ても、写真や映像では感動することはあるし、離れて見る海も好きなのだが、ごく間近で見る海は恐怖でしかなかった。要するに、カナヅチなのだ。
しかし、カプリ島にある某超高級ホテルには、ピアノが四台もあり、その全てを私が勤めていた会社が管理していた為、年に数回、船に乗ってカプリ島へ出向かないといけなかったのだ。
仕事で初めてカプリ島へ行ったのは、九月の末頃だった。「仕事で」とわざわざ付けたことから分かるように、プライベートでは、バカンス期間中に一度体験済みだった。と言っても、大学時代にお世話になった先生が奥様と一緒にイタリア旅行中だったので、ご夫妻の観光に付き合わされた……いや、付き合わさせていただいただけだ。しかも、日帰りだった。「青の洞窟」を見て、ピッツァを食べて、お土産屋さんをぶらぶらして、高台のBARから海を見たぐらいだ。正直なところ、「青の洞窟」以外は何も印象に残らなかった。
仕事の方が、何かと印象に残る出来事があった。確か、パオラと過ごした楽しいパーティの直後だったと思う。既にバカンス期間は明け、少し落ち着きを取り戻したカプリ島だが、それでもまだまだ観光地らしい賑わいを見せていた。
この日は、前述のホテルで二台の調律を行う予定だった。一台目は、ホテルのロビーからも外からも入れるBAR(バール)にあった。ドイツ製の高級機種で、納品してまだ数年しか経っていないピアノだ。幸い、コンディションもなかなか良く、扱い易いピアノでもあり、スムーズに作業を終えることが出来た。
そして、ホテルの三十歳ぐらいのお兄さんに次のピアノへ案内された。二台目は、地下にある大きなレストランに無造作に佇んでいた。どうやら、ボロボロながらも日本製、大きなトラブルは起きにくいメーカーなので、とっとと終わらせて島から脱出しようと目論んだのだが……幸か不幸か、お兄さんに捕まってしまった。
「君、日本人かい?」と、唐突に話し掛けられたのだ。あ、ナンパだな……と、流石に数ヶ月イタリアにいると、何度となく経験してしまうシチュエーションにうんざりした。この国の国民の約半分は、女好きの男性なのだ。残りの約半分は女性だ。
私は、「そうですが、貴方はイタリア人ですか?」と、すまし顔で聞き返した。それがどうした? というニュアンスにもなるし、ジョークにもなるし、適当にあしらっているようにも取れるという、相手の出方次第で対応を変えられる私オリジナルのカメレオン返答なのだ。しかし、このお兄さんの反応は想定外で、私のカメレオン返答は通用しなかった。
「僕はアルジェリア人です。イタリアの国籍は持っていないので、来月には出国しないといけません。いつか、日本にも行きたいです」
よく聞くと、彼のイタリア語は私より少しマシな程度で、かなり辿々しかった。それでも、英語を交えながらの会話で分かったことは、彼はどうやら一人で世界中を旅行しているらしいこと。現地の人に頼み込み、ホテルやレストランで「モグリ」で働かせてもらい、お小遣いをもらいながら転々としているらしい。
このホテルには、もう一ヶ月も滞在しているそうだ。従業員用の小部屋にこっそりと住まわせてもらいながら、雑用をこなす毎日。それでも、彼は人懐っこくて真面目な性格から、ホテルのスタッフに信頼され、可愛がられているようだ。
その時、彼がレストランのスタッフに何かしら話をすると、僅か数分後には私の為に食事が用意されていた。本当は、お昼を抜いて仕事を少しでも早く終わらせようと決めていたのだが、目の前に出されると決意は簡単に揺らいでしまう。
「ねぇ、仕事の前に食事しようよ!」と彼に誘われ、薬とか盛られていないか不安もあったが、それ以上にお腹が空いていたのと、セレブ御用達の五つ星の超高級ホテルのレストランで食事をする機会なんてなかなかないので、そのまま一緒に食事をすることにした。彼が、ジャン・レノに似たイケメンだったことは関係ない。
簡易的なランチのコースなので、antipasto(前菜)はなく、いきなりprimo piatto(プリモピアット)から始まった。シンプルなトマトソースのリングイネだ。パルミジャーノの粉末も、小鉢のような小さな皿に用意されていた。
また、付け合わせのパンと一緒に、アラジンの魔法のランプみたいな形の、如何にもカレーのルーが入っていそうな、確か「グレイビーボート」とかいう名前の、他に使い道のなさそうな食器が出てきた。その中には、氷水と一緒に白い固形物が浮かんでいた。全て、薔薇の形に「彫刻」されていた。
「これは何?」と恥ずかしげもなく聞いた私に、ジャンレノはチーズだよ、と言った。そう、確かに「formaggio(フォルマッジョ)」と言ったのだ。グレイビーボートのカレー以外の使い道を知ったと共に、そうか、だから溶けないように氷水に浮かばせているんだ、なんて一人で感動したものだ。
私は、上品に白いチーズを素手でつまみ取り、そのまま齧り付いて、直ぐ様、吐き出した。それは、チーズなんかではなく、単なるバターだった。しかも、よりによって無塩バターだ。私はジャンレノに騙されたのだ。ムカついて睨んでやると、彼は大爆笑していた。
しばらくの間、私は対面に座るジャンレノを無視して黙々とパスタを食べていた。ごめんとか、冗談だよとか、なんだかんだと言ってくるけど、ニヤニヤしていることが許せなくて、とにかく腹が立った。それに、成り行きでこんな男と食事することになってしまったけど、本当は早く仕事に取り掛かりたかったのだ。無塩バターを食べている暇なんてない!
パスタを食べ終えると、絶妙なタイミングで給仕が皿を下げに来た。流石は五つ星、動きにも全く隙がない。給仕は、ちょっとアル・パチーノっぽい、中年の渋いおじさんだ。彼に「美味しかった?」と聞かれた私は、「バターが美味しかったわ」と言ってやった。
どういうこと? と困惑するアルパチーノに、ジャンレノがニヤけながら説明した。ウケるとでも思ったのだろう。しかし、アルパチーノは出来た人だった。話を聞きながら少しずつ顔が強張り、最後には明らかに怒っていた。そして、私に向き直り、深々と頭を下げて謝罪した。イタリア人が、文字通りに頭を下げることはまずない。おそらく、私が日本人だからこその対応だろうが、そもそも謝罪することすらイタリア人には珍しいことを思うと、彼は本当に謝意を伝えたかったのだろう。
そして、ジャンレノを厳しい口調で叱責した。好意とサービスでランチを提供してくれているので、私から文句なんて言いようもないのだが、アルパチーノにとっては、五つ星のホテルのメインレストランの看板を背負っているプライドがあるのだ。相手が誰であれ、どんな条件であれ、常に最上級のサービスを提供することに強い誇りがあるのだろう。そこに、損得勘定なんて介在しないのだ。
しばらくすると、騒ぎを聞き付けたのだろうか。何と料理長がやってきた。こちらはデ・ニーロのような貫禄のある超イケメンだ。アルパチーノから説明を聞いたデニーロは、心底申し訳なさそうに表情が曇り、そして、ジャンレノを厳しく叱り付け、レストランから追い出した。アルパチーノが、ジャンレノの食器を手際良く片付け、私の為の肉料理を持ってきた。デニーロは、謝罪しながらも、空気を悪くしないようにさりげなく冗談も交え、カプリ島の魅力を語り、日本人が大好きなんだ、なんて見え透いたお世辞まで言い始めた。
そして、「シニョリーナは、日本の何処の街から来たの?」と聞いてきた。さりげなく雑談に持ち込む話術は、私も職業こそ違うけど、学ぶべき要素満載だ。
「大阪です。ご存知ですか?」と答えると、アルパチーノも会話に入ってきた。
「オーサカ……僕は聞いたことがない街だな」と、営業センスの欠片もないアルパチーノが正直に言うと、デニーロは少し小馬鹿にしたようにアルパチーノに言った。
「お前、学がないな。大阪は日本の大都市だぞ」
「そうなのか? でも、僕は知らないな。トーキョー、キョート、ヒロシマ、ナガノぐらいなら聞いたことがあるけど」
「おいおい、東京の次に大きな街だぞ。イタリアでいうミラノとかローマみたいな大都市だ! まぁ、日本には他にも大都市が沢山あるけどな。大阪、シャンハイ、横浜、ソウル、名古屋、札幌……」
デニーロとアルパチーノは、私が聞いていることを考慮してだろうか、分かりやすい発音と簡単な表現で、漫才のような掛け合いを展開していた。二つほど、違う街も混じっているが、ボケなのか真面目なのか分からない。そんなデニーロとアルパチーノのやり取りを、ペネロペ・クル……いや、私は微笑ましく聞いていた。すっかり、怒りは治まっていた。
「シニョリーナ、オーサカって本当にそんなに都会なのか?」とアルパチーノに聞かれた私は、「人口が八百万人ぐらいの大都市です」と教えてあげると、「八百万!」と驚いていた。そして、何故かデニーロはしたり顔だ。本当は、それは大阪府の人口であって、大阪市だけだと三百万人を切っているはずだが、黙っておくことにした。
「お前さ、これを機に大阪ぐらいは覚えておけよ。うちは、日本人のお客様も多いんだから。大阪はな、東京から少し香港寄りにある大都市だ」
どうやら、デニーロもそこまでは詳しくないようだった。
食事を終えた私は、食後のデザートやコーヒーは辞退して、直ぐに仕事に取り掛かった。すっかり一時間以上もくつろいでしまったが、私は遊びに来たのではなかったのだ。幸い、レストランのピアノも手に負えないようなトラブルはなく、強いて言えば、ピッチが大きく低下していたぐらいで、比較的スムーズに終えることが出来た。
さて、ナポリに帰ろう。
工具を片付けていると、デニーロがやって来た。私も挨拶はしたかったので、丁度よかった。
「シニョリーナ、改めて今日はご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそステキなランチをご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「お気に召していただき、嬉しく思います。またぜひ、カプリ島に遊びに来てください」
「もちろんです。こちらのホテルには、これからも調律に来ることになると思いますし、また挨拶に寄らせていただきます。あのぉ……アルジェリア人の彼は、どうなるのですか?」
「アイツはね……家族もいない可哀想な子なんだよ。帰る所もないし、行く所もない。さっきは追い出したけど、まだしばらくはここに置いてやるつもりだよ。今は、反省して部屋に閉じこもっている。許してやって欲しい。常識がないだけで、根は真面目な良い男なんだ」
「大丈夫です。私はもう何とも思っていないし、彼のおかげでステキなランチをいただけたのですから。彼がここから追い出されなくて良かったです」
「シニョリーナ、ありがとう。彼にそう伝えておくよ。で、これ、受け取ってやって欲しいんだ。彼からのお詫びの気持ちらしい」
デニーロは、そう言いながら私に小さな箱を手渡してくれた。
「うちのホテルで作った、オリジナルのリモンチェッロだよ。金のない彼にしては、これが精一杯の気持ちなんだ。私が監修したものだから、味は保証するよ」
小さな可愛らしい瓶に入った、黄色い液体。知らない人が見ると、香水や化粧品と思うだろう。お土産用のリモンチェッロだ。日本円にして、せいぜい千円ぐらいのものだが、気持ちは嬉しかった。
ちなみに、この時点では、渡伊してまだ三ヶ月ちょい。当時の私は、こんなに流暢なイタリア語会話は出来なかったので、言うまでもなく、物語用に適当にそれっぽく装飾してある。
「ありがとう。わたしの部屋で飲む」
当時の実際の語学力だと、こんな感じになるだろう。
どちらにしても、語学力の問題ではなく、さすがにお酒が飲めないとは言えなかった。しかも、パオラのせいで、見るのも嫌なはずのリモンチェッロだ。しかし、帰りの船の中で、何度も手のひらに取り出しては眺めていた。魅惑的な色彩とデザインの小瓶は、芸術的な造形物として、どれだけ眺めても飽きなかった。波の音が聞こえ、爽やかな風を受け、太陽の恵みを感じるかのようだ。
そして、何と言ってもレモン——今となっては、私の初めてのカプリ島での仕事は、リモンチェッロのように鮮やかで、甘酸っぱい記憶となっている。
(7)Ottobre del primo anno, a Capri
初めてのカプリ島での仕事を終えて、僅か一ヶ月後、私は再びカプリ島へ出向くことになった。急に、ホテルから依頼が入ったそうだ。朝早くに連絡があり、今直ぐ行ってこい! と送り出された。それ以上の詳しい話は聞かされていない。まぁ、聞いたところでどうしようもないのだが。
ナポリからカプリ島へ向かう港は二つある。一つは、歌曲でも有名なサンタ・ルチア海岸にあるメルジェリーナ港。ここからは、ティレニア海が開けており、左手には雄大なベヴェスヴィオ火山が広がっている。火山の裾に沿うようにソレント半島が端っこのソレントまで見渡せる絶景で、かの有名な『ナポリを見て死ね』という諺も、このサンタ・ルチア海岸の景観の美しさから生まれたそうだ。
しかし、メルジェリーナ港は小さな港で、ここから出航する船は小型の船舶だけだ。Aliscafo(アリスカーフォ)と呼ばれている水中翼船だ。高速で運航する小型船舶で、数十分でカプリ島に到着する。
もう一つの港、ヴェベレッロ港は、ナポリの海の玄関口とも言えるぐらいの大きな港だ。ここからは、水中翼船だけでなく、Traghetto(トラゲット)という大型フェリーも出入航している。こちらは会社からも近く、便も多い為、基本的にはこの港を利用することが多かった。
さて、その日は生憎の天気……。船が出港出来るのかも怪しいぐらいの荒天で、風も強く、波も高く、そのままキャンセルになることを願っていた。徒歩で港に着くと、社長に指定された時間の水中翼船は、荒天の為に出航を見合わせるとの掲示があった。「ラッキー、会社に報告だけして帰社しよう」と思ったが、会社は会社で私の移動中に電話で確認していたそうで、二十分後発のトラゲットは出航するから、それに乗れ! と言われてしまった。電話なんてしなければよかった。
やむを得ず、チケット代を払い戻ししてもらい、トラゲットのチケットを購入した。どうやら、大型のフェリーにとっては、この程度の天気はどうってことないらしい。ただ、多少揺れますよ、と注意された。あと、絶対に甲板には出ないように、とも言われた。本当に大丈夫なのか、不安になってきた。
船は、経験したことのないぐらいに揺れた。前後左右に振られるだけならまだしも、上下に大きく浮かび上がったり急降下したりしながら、色んな方向に傾くのだ。遊園地のアトラクションより気持ち悪かった。映像で見たことのある蟹漁船を思い出した。
なので、ようやくカプリ島に着いた時、既に私はフラフラで吐きそうだった。しかも、横殴りの大雨。幸い、カプリ島は小さな島だ。港からフニコラーレというケーブルカーに乗って、カプリ島の中心地、ウンベルト一世広場まで登ると、例のホテルは、そこから徒歩三分ぐらいなのだ。
左手で傘を差し、右手で工具鞄を持ち、更にショルダーバッグもぶら下げて、激しい船酔いも覚めぬままにホテルへ着いた私を、アルパチーノが出迎えてくれた。一ヶ月振りの再会だ。見るに見かねたのだろうか、アルパチーノは私の工具鞄を持ってくれ、ピアノのある場所へと案内してくれた。
今回調律するのは、ホテルが所有するテアトリーノ(小劇場)のピアノらしい。明日、ある大物ピアニストによるコンサートが開催されるのだが、ピアニストは昨夜、既に来訪しており、今朝からステージで練習しているそうだ。
しかし、ピアニストは、ピアノの状態がお気に召さないとのこと。本番当日に調律する(私は何も聞かされていなかったが、本当は明日私が来ることになっていたそうだ)、と説明したそうだが、こんな状態では練習にならないから、今直ぐ調律して欲しいと言い出したそうだ。ということで、朝一に会社に電話があったのだ。
テアトリーノへ移動する間に、聞いていもいないのに、アルパチーノからそんな話を聞かされた。こういう状況下のピアニストは、概ね機嫌が悪い。しかも、大者ピアニスト……私なんかの未熟な技術で対処出来るのか、不安しかない。理想的な状況ではないようだ。
私は気を紛らわそうと、ジャンレノは元気かと聞いてみた。
「あぁ、アイツね……実は、もういないんだ」
「え? 辞めちゃったの?」
「まぁ、そういうこと。ある日突然にね。でも、彼にとっては良いことだよ。今は、確かローマにいるよ。詳しくは聞いてないけど、仕事見つけたってさ」
「そうなんですね……」
ジャンレノは、家も家族も在留資格もないのに、不法労働とはいえ異国で仕事を見つけ生活している。きっと、これからもそうやって生きていくしかないのだろう。保険も年金もない。貯金もないだろう。おそらく、運転免許もないだろうし、当然ながら住民票なんてものもない。もしかしたら、国籍もパスポートもないのかもしれない。ジプシーと大差ない身分だ。雇う側にもリスクしかない。色んな人生があるものだ。私なんて、世界の平均からすると、きっと恵まれているのだろう。
アルパチーノに連れられて、ホテルに隣接する小さな劇場のバックヤードに到着した。ステージ上では、誰かがピアノを弾いている。モンポウの「内なる印象」だ。渋くてマニアックな選曲……そっとステージを覗き見ると、高齢と思しき女性ピアニストが演奏していた。
しばらく、私はステージ脇でその演奏に聴き入っていた。厳かで繊細で静謐で、時にダイナミックで、鋭く研ぎ切ったような真っ直ぐな音に、魅了された。澄み切った内声と太いベース、キラキラと水面が輝くようや高音……おそらく、イタリアに来てから聴いた中で、最も美しいピアノだ。いや、人生で一番かもしれない。
誰もいない客席に移動したい衝動を、辛うじて抑え込んだ。そう、私は仕事をしに来たのだった。
ピアニストが手を止めた絶妙のタイミングを見計らい、アルパチーノがピアニストへ話しかけた。どうやらスペイン語だ。彼は大阪を知らないくせに、少なくとも英語とスペイン語も話せるらしい。さすが五つ星ホテルのレストランの給仕だ。
スペイン語は、イタリア語と似ているのだが、私には全く分からない。そもそも、イタリア語もろくに分からないのだが。ただ、アルパチーノの声掛けに反応し、立ち上がってこちらに歩いてくるピアニストには見覚えがあった。
アルシア・デ・ラローチャだ。
ラローチャは、スペインが誇る二十世紀最高の女性ピアニストの一人と言ってもいいだろう。当時は、現役ピアニストの中でも世界的な長老で、巨匠として尊敬を集めていた。そんなラローチャが、私に向かって言った。
「貴女が調律師さん? こんな天気なのに呼び付けてごめんなさい。でも、すごく心強いわ。音がかなり狂っているの。直していただけるかしら?」
そんな感じで、すごく丁寧に、流暢なイタリア語で話し掛けてきたのだ。緊張するなと言われても無理な話だ。実際、すごく緊張した。緊張し過ぎて、緊張していることを忘れるぐらいに緊張した。
「マエストラ、お会い出来て光栄です。私はまだ未熟ですけど、精一杯頑張ります」と言えれば良かったのに、「やってみます」というようなぶっきらぼうな返事をしてしまった。いや、多分そうだろうと思うだけで、本当はよく覚えていない。ただ一つだけ、握手した時のラローチャの手が、とても柔らかく、信じられないぐらいに小さかったことは印象に残っている。
余談だが、帰国してから数年が経ち、ラローチャの訃報をニュースで知り、その時にラローチャは手が小さくてオクターブしか届かなかったことを知り、愕然とした。私よりもずっと小さな手で、技巧的な難曲を容易く弾いていたことが信じられなかった。当たり前だが、やはりプロってすごい。九度とか十度なんて、ロマン派以降なら当たり前のように出て来る(しかも内声を伴う!)のだが、ラローチャは目一杯広げても八度しか届かない小さな手で、そんな曲でも違和感なく弾いていたのだから、魔法でも使っていたのではないかと本気で思っている。指が伸縮しない限り、そうとしか考えられないのだ。
さて、カプリ島のテアトリーノに話を戻そう。
ステージ脇で聴いたラローチャの演奏からは全く分からなかったが、ピアノの音はものすごく狂っていた。音律だけでなく、音色もバラついていた。不快なぐらいに不揃いで酷いコンディションだ。なのに、ラローチャが弾くとそんなことは全く感じさせないし、むしろすごく心地良い音に聞こえるのだから、やっぱり魔法を使っているとしか思えない。
残念ながら、私は魔法が使えない。愚直なまでに技術に委ねるしかないのだが、その肝心の技術はまだまだ未熟そのもので、何とも頼りないのだ。「どれぐらい掛かる?」と聞いてくる魔法使いに、「最低二時間は欲しい」と答えると、「あら、そんなに掛かるの?」と不審がられてしまった。
普段、ラローチャのような巨匠を担当する調律師は、超一流の方ばかりだろう。私のような未熟者が、対応出来るようなピアニストではないのだ。ラローチャにとっては、持っていて当たり前の調律師の技量水準が、私に備わっているとは思えない。もう、絶望的……私のようなヒヨッコが、世界的な大巨匠の要求に対応出来るはずがない。
「いいわ、二時間後に戻ってくるからお願いしますね」
そう言い残し、魔法使いはホールから出て行った。
せめてもの救いは、実際に作業に取り掛かると、思ったほどコンディションは酷くなく、また、思った以上に扱い易いピアノだったこと。この辺の「見積もり」が甘いと言われればそれまでだが、吉と出る方への誤認ならラッキーと言えよう。私に出来ることは限られているものの、出来ることは全部出来そうだ。
そして、ピッタリ二時間後、ラローチャは戻ってきた。スペイン人もイタリア人と同じラテン系民族なのだから、思い存分遅刻してくれても良かったのに、ラローチャは時間厳守だった。
「どう? ピアノは直ったかしら?」
と言いながら、私の返事も聞かずに椅子に腰掛け、指慣らしのアルペジオを弾き始めた。緩急強弱を自在に弾き分け、合間にペダルも確認し、音とタッチの精度を瞬間的に掴み、判断するのだ。
「随分と良くなったわね。ありがとう」
ラローチャは、ニコリともせずに、ただ儀礼的にお礼を言ってくれた。多分、その表情からして、「期待したほどの仕上がりじゃないけど、ギリギリ及第点。でも、コイツにはこれ以上は無理なんだ」と悟ったのだろう。
それでも、一応はOKをもらえたのだから、これ幸い、と引き払っても良かった。でも、こんな伝説級の巨匠と仕事をする機会なんてそう滅多にない。今思うと、臆病な私の何処からそんな勇気が出たのか分からないが、私は、思い切ってラローチャに話し掛けてみたのだ。
「マエストラ、これでも精一杯のことはしたつもりですが、私の力では、良い仕事が出来ていないことは理解しています。申し訳ありません。もう少し、良くなる為には、何をすれば良かったのでしょうか?」
そんな厚かましい質問を、初対面の世界的な巨匠に投げ掛けたのだ。しかし、ラローチャは、辿々しいイタリア語しか話せない異国の馬鹿女に、優しく応えてくれたのだ。
「あなた、日本人よね? 日本人は本当に一生懸命に仕事してくれるから、貴女が手抜きしたなんて思っていないわよ。でもね、逆に言うと、貴女は精一杯のことをしたでしょうから、これ以上を望むのは間違いってことなの。後は、私がこのピアノを弾きこなすから、大丈夫よ。本当に、私の為に頑張ってくれたことは理解しています。ありがとうね」
「マエストラ……私は、もっと調律が上手くなりたいのです。私に足りないものは何でしょうか?」
「あなたは熱心な方ね。そうねぇ……一つはやっぱり経験でしょう。これはどうしようもないわね。後はね、若い調律師さんは皆んなそうなのだけど、ピアノの音を見て合わせているうちは、良い音は作れないのよ。そうじゃなくて、ピアノの声を聞くの。それが出来るようになるだけで、随分と改善されるはずよ。いい? 声を聞くこと。またいつか、何処かでご一緒出来るといいわね。どれだけ成長しているか、楽しみにしてるわね」
音を見る……この表現は、調律師にしか分からないかもしれない。チューナーを使うという意味ではない。音合わせの際の、波動の変化の追いかけ方が、実際には唸りの変化を聞いているのだが、「聞く」よりも脳内で波動を「見る」感覚に近いのだ。安っぽいドラマの心電図の波が、少しずつ弱くなり消えていく感じ……ピッタリと音が合った時、波はフラットになる……そういう感じの変化を、まさに「見ている」ような感じなのだ。
でも、そうじゃなく、ピアノの声を聞くこと……これは、なかなか分かり辛い。ただ、調律師の聞く音は物理的なアプローチで捉えるが、ピアニストは感覚的に捉えている。おそらく、そういう音の聞き方を問われているのだろう。ピアノほど、物理の法則に支配された楽器はないだろうが、音楽は波動工学ではなく、感性で受け止めるべき。だからこそ、物理だけに依存していてはダメなのだろう。
ラローチャは、私にそういった示唆を与えてくれなのだ。どこまでも優しく、温かい人だった。そして、間違いなく私にとっての魔法使いだ。私は涙を堪えながら、ラローチャの深い言葉に頷くしかなかった。
微笑むラローチャと涙を堪える私を、アルパチーノが不思議そうに見ていた。多分、彼にはラローチャの言葉にどれ程の深い意味があるのかは分からないだろう。でも、私には、本当に心の奥底まで浸透していくような言葉だった。
音の捉え方、音との向き合い方、そして、音の聴き方と作り方……全てを見つめ直す機会となった。私の調律師人生の大きなターニングポイントになったと、今でも思っている。嵐の中、大嫌いな船に乗ってきて、本当に良かったと思った。
(8)Primo inverno,Napoli e Amalfi
いつの間にか、ナポリに来て丸一年を迎えようとしていた。毎日のように嫌な思いをした一年だが、流石に多少の「慣れ」から派生する学習は、それなりの適応を促し、多少のことでは動じないメンタルを育んだ。それが「強さ」なのか「図太さ」なのかは分からないが、少しは逞しくなったのだとは思う。
それでも、日常的にお釣りを誤魔化されたり、タクシーで遠回りされることは頻繁にあった。対面販売の八百屋で買い物をしても、週に何度も訪れる「常連」の筈なのに、故意に傷んでる野菜を売られそうになる。その度に、「傷んでるよ! きれいなのと変えて!」とお願いしないといけない。黙っていてはダメだ。その時に、明確に意思表示しないと騙され、誤魔化され、損するだけなのだ。日本では好意的に受け止められることもある「寡黙(カモク)」も、こちらでは単なる「カモ」でしかない。一文字抜けるだけで、大違いだ。常に注意を払い、どんなことでも強く主張することが、唯一の自己防衛になることを学んだ。
その他にも、置き引きやスリ、引ったくりの被害にも何度となく遭いかけたが、幸い、これらの犯罪では、怪我を負ったり、金銭的な被害に遭ったことは一度もなかった。
しかし、一度だけ、詐欺の被害に遭ったことはある。ナポリに来て半年ぐらい経った十二月頃、既に街中がクリスマス一色に染まっている時期のこと、英国紳士風の男性にお金を取られてしまったのだ。
その日は確か土曜日か日曜日で、仕事は休みだった。温暖なイメージのあるナポリだが、流石に冬は少し寒い。と言っても一年を通して比較的温暖な地中海性気候のイタリア、しかも南部のナポリだ。ドイツやオーストリアのような身体の芯から凍えるような寒さではないし、雪が降るようなことも滅多にないのだが、日によっては厚手のコートぐらいは必要だった。
私は、久しぶりにアマルフィへ行こうと思い、バス乗り場のあるムニチピオ広場に向けて、いつものルートを歩いていた。とても寒い朝で、吐く息が白くなるのを、ナポリに来て初めて見た日だ。
実は、ナポリ(に限らず、ヨーロッパ全土)では、九月から本格的なコンサートシーズンに入っており、土日もコンサート関連の仕事が頻繁に入っていた。従って、勤務体制もかなり不規則になり、週二日の休みは半休四回に両替されて消化させられた為、丸一日休めたのは数ヶ月振りだった。当然、アマルフィも数ヶ月振りだ。つまり、まだ私は冬のアマルフィを知らなかった。
しかし、その道中、キアイア通りを抜け、トリエステ・トレント広場に出た所で、彼に流暢な英語で話しかけられた。すごく切迫した様子ではあったが、生憎、私の英語力ではとても対応出来ないので無視していた。すると、今度はイタリア語に切り替えて話し出したのだ。その際に、思わず返事をしてしまったのが失敗だった。
「シニョリーナ、君がイタリア語を話せて助かったよ。僕はイギリスで◯◯という会社を経営しているXXという者だ」
そう言いながら、彼は名刺を私に差し出した。イギリスのことは知らないが、ナポリでは名刺交換の習慣は、少なくとも当時はなかった。だが、持ち歩いている人は多かった。私も、常に名刺は持ち歩いていたが、流石に彼に渡すことは憚られた。
以下、便宜上、スムーズな日本語で書くが、私のイタリア語のヒアリング能力は初級程度だ。本当は、それほど明確に聞き取れていたわけではないことを申し添えておく。
イギリス人紳士は、捲し立てるように話を始めた。本当に焦っているようだ。
「ロンドンの僕の店で、Brandiのマルゲリータを販売させてもらうことになって契約に来てたんだけど、タクシーを待ってる間に荷物を置引きされてしまって、途方に暮れていたんだ。もう、直ぐにでも空港に向かわないと飛行機に間に合わないのだが、財布も持って行かれてカードもないんだ。幸い、パスポートと航空券と携帯だけはポケットに入れていたから大丈夫だけど、空港に行くお金はない。警察に届けてる時間もない。カード会社には連絡したから、大した被害ではないけど、空港に行けないことには変わらない。50,000リラでいいので、貸してもらえないだろうか? ロンドンに着いたら、必ず返す。振込でも郵送でも、どんな方法でも指定してくれれば、直ぐに対応する。何なら、倍にして返そう。兎に角、今は時間がないんだ。助けて欲しい。信用出来ないのは分かる……あ、そうだ、じゃあコレを君に渡しておこう。来週また来るから、コレはその時に返してくれればいい。会うのが嫌なら、Brandiに預けてくれてもいい。もし、僕が君にお金を返さなければこの時計を売ればいい。軽く1,000,000リラぐらいにはなるよ。でも、僕は必ず返す。逆に、君が僕を裏切って、この時計を売っても文句は言わないよ。今の僕には、こんな時計なんて何の役にも立たないんだ。必要なのは空港までの交通費。お願いだ。50,000リラだけ貸してもらえないだろうか?」
今思うと、どうしてこんな見え見えの稚拙な詐欺に引っ掛かったのか、我ながら不思議だし情けない。彼の演技が真に迫っていたのと、胡散臭いナポリ人ではなく、どう見てもイギリス紳士に見えたことも要因だろう。金額も、高過ぎず安過ぎず、少し痛いけど、まぁ戻って来なくても仕方ないな……でギリギリ済ませられる絶妙なラインだ。
何より、「ナポリで困ってる外国人」という設定に、ついつい自分を投影してしまい、同情から盲目になったのかもしれない。私もまだ若かったのだ。
結局、その場で会社の連絡先を伝え、彼の腕時計と引き換えに50,000リラ(当時のレートで3,500円程度)を渡してしまった。もちろん、その後、彼から連絡が来ることはなかったし、時計も改めて見てみると、確認するまでもなく、5,000リラぐらいで買えるようなオモチャに毛の生えた程度の安物だった。
その日のアマルフィは、荒々しく、私を追い払うかのような風と波が冷たく渦巻き、追い討ちをかけるかのような曇天の空が一層気分を沈ませた。冷たい風が吹き荒れ、海岸線は肌寒い。いつもと違ったのは、天候だけでない。来れなかった数ヶ月の間に、死にたくなったらここから飛び降りようなんて考えが、消えていた。
でも、残念なことに、流石にどこにもグラニータは売っていなかった。
私は海沿いから離れ、街中に足を踏み入れ、観光客向けに営業していた小さなトラットリアで食事をした。その直ぐ近くのお土産屋で、気の迷いなのだろうか、リモンチェッロを買ってしまった。飲まないのに、掌サイズの小さなビンの見た目が可愛くて、少しだけ気分が晴れた気がした。冷凍庫には、思い出のリモンチェッロが二本、ずっと眠っているというのに。
詐欺に遭ったからと言って、人間不信になるようなことはなかった。信用して良いのか駄目なのか、そういう直感や見極める能力は付いたかもしれないが、実際のところ、ナポリの人間は鬱陶しいぐらいに親切な方が圧倒的に多かった。
道を聞くと、すごく丁寧に教えてくれるし、余程私が頼りなく見えるのか、十分程度の距離なら付いて来てくれることもよくあった。ついでに、それが礼儀だと信じているかのように、男性には必ずコーヒーや食事に誘われた。丁重にお断りすると、彼らはアッサリと引き下がってくれた。妙なところで紳士なのだ。
また、目的に行く為のバスを聞くと、そのバスが来るまで一緒に待ってくれる人もいたし、降りるバス停が分かりにくい場合は、乗る時に運転手や他の乗客に降りる所を教えるように託けてくれることもよくあった。私の下手なイタリア語でも、必死で分かろうと聞いてくれるし、身振り手振りを交え、時には英語を挟みながら、一生懸命に教えてくれた。
基本的に、ナポリは、人も街も人情味溢れる昭和の下町のような風情があった。関西人の方は「じゃりん子チエ」、関東の方なら「男はつらいよ」の世界観を連想して頂けると、少し似ているかもしれない。
人々は、適度にいい加減で、適度に怠け者で、涙脆くて怒りん坊で、義理堅くて優しくてお調子者で、茶目っ気たっぷりで憎めないのだ。よくよく考えてみると、誰でも仕事は怠けたいし、義務は適当に済ませたいし、感情に素直でいたい。でも、そういう訳にはいかない社会的事情もある。なので、理性が自分に無理をさせ、自分を偽ってでも、仕事を頑張り義務を果たし、時と場合によっては感情に蓋をし、抑制するのだ。
そう思うと、ナポリ人は、自分の感情や本能に、ものすごく素直に生きている人種なのかもしれない。だからこそ、「人間的」な魅力が溢れているのだ。良くも悪くも。
そして、そんなナポリのことを、私は好きになりかけていた。
さて、ナポリへ帰ろう。もう、ここに来なくても大丈夫。私は、バス停へ向かって歩き出した。
(9)L’inizio del secondo anno,Napoli
ナポリ生活も、二年目に突入すると、生活の中で辛いことよりも楽しいことの占める割合が、少しずつ増えていた。四六時中、身も心も張り詰めた緊張感を保持しながら、常に何かに怯え、警戒し、不安を抱えていた毎日が嘘のようだ。さすがに気を許す瞬間こそないものの、ずいぶんと肩の力を抜いて生活出来るようになっていた。
当時の日常生活の中で楽しかったことと言えば、真っ先にファッションが思い付く。
イタリアのファッションはとにかくカラフルで、最初はケバケバしさ、毒毒しさを感じていた。でも、慣れてくると、明るくてポジティブで、可愛らしくて、元気付けられるような気になってくる。私も、日本では絶対に着ない、原色を主体にした派手なコーデにもチャレンジするようになった。
不思議なもので、原色の物を身に付けていると、前向きな気持ちになってくる。そして、ほんの僅かながら、自信と活力も生まれる。自然と背筋が伸び、しっかりと前を向いて歩くようになる。イタリア人が、陽気で前向きなのも、少しは関係があるのかもしれないと思ったものだ。それに、きっと気付かないうちに、私の内面へも好影響を齎したに違いない。
靴や鞄やアクセサリーも、露店で売ってる安物でも本革が使われていたり、個性的で可愛いデザインだったりで、ついつい無駄に買い込んでしまったものだ。当時にメルカリがあれば、かなり稼げたのだろう。
食生活も充実していた。ナポリでは、何を食べても美味しかったのだ。イタリアに来る前は、和食が恋しくなるのかな……なんて不安もあったのだが、二年間、全くそんなことはなく乗り切れた。むしろ、バカンスでスイスを旅した時に、BrandiのマルゲリータやGANBLINUSのカプチーノが恋しくなったぐらいだ。
いや、もっと言えば、北イタリアを旅行してる時でさえ、料理があまり口に合わず、ナポリのパスタを食べたくなったことがある。多分、イタリアンが好きなのではなく、ナポリを含むカンパーニア州の料理が好きなのだと思う。
チーズや生ハムも美味しかったし、カンパーニア州は海の幸も豊富だ。また、日本では滅多に食べない七面鳥も私の口にあった。豚肉、牛肉をそれほど食べない私にとって(生ハムは別!)、七面鳥は鶏肉とは別物として重宝した食材だ。
エスプレッソやカプチーノもお気に入りで、毎日三杯以上は飲んでいたように思う。ジュースは果汁100%が当たり前だったし、牛乳や玉子も濃厚な味がした。
そして、なんといってもフルーツ! 兎に角、新鮮で安かった。元々少食の私は、休日はフルーツだけで過ごすこともあった。洋梨に葡萄にさくらんぼ、スイカやイチヂクも美味しかったし、まだ日本ではあまり知られていなかったブラッドオレンジも、ナポリで初めて食べて感動した。
日本の柿も「カーキ(cachi)」と呼ばれ、人気があった。他にも、プラムやプルーン、桃、林檎……いや、果物だけでなく、野菜も美味しかった。人参、玉葱、茄子、トマト……など、オーソドックスな野菜は勿論のこと、ルッコラ、アーティチョーク、チコリ、ズッキーニ、ロマネスコ、フィノッキオ……など、当時の日本ではあまり流通していなかった野菜とも出会え、料理や買い物が楽しくてしかたなかった。
あまり知られていないことだが、イタリアは世界でもトップクラスの有機農業先進国なのだ。無農薬や減農薬による有機栽培が当たり前のイタリアの農作物は、何を食べても美味しいのは当然と言えよう。
そして、レモン。
ナポリでも、カプリ島やアマルフィのような大きなレモンがスタンダードだった。
ヨーロッパでは珍しく、イタリアは水道水が飲める国である。しかし、日本の水道水が軟水であるのに対し、イタリアは石灰含有量の高い硬水だ。少しヌルッとした感じの口当たりの重い水は、慣れるまでは飲む気にもなれなかった。ナポリに住み始めた頃なんて、料理する時は当然のこと、歯磨きや洗顔でさえ、買ってきたミネラルウォーターを使っていたぐらいだ。
しかし、2リットルのミネラルウォーターの六本パックを頻繁に買わないといけない生活なんて続く筈もなく、数ヶ月後には歯磨きや洗顔は水道水を使うようになり、徐々に料理やエスプレッソなどにも水道水を利用するようになっていった。
やがて、時々とは言え、水道水をそのまま飲むようにもなった。だが、慣れてきたところで、硬水が苦手なのは克服出来なかった。また、石灰の摂取が増えると結石になりやすくなると聞いたのだが、石灰を中和させる為にはレモンが有効なのだそうだ。その話を聞いてから、水には必ずレモンを絞る習慣が付いた。
いつしか、私の食生活で、常にストックしておかないといけないもののリストに、レモンが入るようになったのは必然だろう。時間がない時は、塩茹でしたパスタにオリーブオイルを掛け、塩胡椒とバジル、それにレモン汁と擦り下ろしたレモンの皮だけで味付けしたパスタをよく食べた。簡単で手軽なナポリ料理の一つだ。
因みに、他の食糧常備リストは、オリーブオイル、パスタ、米(不味いけど)、トマト缶、ニンニク、玉ねぎ、牛乳、エスプレッソ……そして、水だ。
パルミジャーノやモッツァレラ、生ハムなどもどれか一つは常にあったし、イタリアンパセリやバジル、オレガノは、例の傷んだ野菜を売ろうとする八百屋さんが、いつもオマケに分けてくれた。あの八百屋のおばさんは、親切なのか不親切なのか、最後まで分からなかった。
元々料理が好きな私にとって、ナポリでの自炊生活は、豊富な食材が溢れていてとても楽しいものだった。なかなか和食は作れないが、イタリア料理は色んな方に教わって、レパートリーは日毎増えていった。お客様にもよくご馳走になったし、外食も多かったので、イタリア料理に詳しくなるのも当たり前だろう。
あんなに好きだったBrandiのマルゲリータは、いつしか全く食べなくなった。美味しくないわけでも飽きたわけでもない。間違いなく美味しいには違いないし、一生飽きることもないと思うが、歴史的な有名店であるだけに、やたらと高い上にいつも混んでいるので、わざわざ行く気にはならなくなったのだ。ナポリに一年住んでいると、もっと安くてもっと美味しいピッツェリアが、幾らでもあることを知るものだ。そういった、美味しいお店の開拓も楽しみの一つになっていた。
そして、ふとした時に気付いたのだ。仕事では辛いことも沢山あるけど、ナポリ生活、満喫してるじゃん! ってことに。
(10)Settembre del secondo anno,Napoli
約一ヶ月掛けて、スイスと北イタリアを一人でノンプランで周遊する……そんな充実した二回目のバカンスを終え、ナポリに戻って来ると、旅の余韻に浸っている間もなく、本格的なコンサートシーズンが幕を開けた。九月——一年目は色んなことに必死すぎて実感が伴っていなかったが、仕事は休暇が明けるや否や、一気に繁忙期へと突入するのだ。
同時に、私の勤務時間も不規則になり、一年目と同様に週に四回の半休をもらえるという、休みのないような生活になった。約半年の間、このリズムでの生活を強いられることになる。
もっとも、勤務時間中でも、少しぐらいならプライベートの所用をしていても看過される社会の上、こちらの時の流れは「イタリア時間」だ。文章から感じるほど、実は大変でもない。
それでも、土日が丸々休みの方が、何かと好都合なことも多かったのは事実だ。体調管理や家事などもそうだが、丸一日の休みがないと、精神的な疲れが取り切れない……いや、リフレッシュが出来ないのだ。
また、のんびりと出掛けることもままならないのは、出歩くのが好きな私にはなかなか堪えた。その頃には、仕事以外でアマルフィに行くことはなくなっていたが、その分、カプリ島やローマなどに遊びに行くことが増えていた。しかし、午前、または午後のみの休みとなると、遠出は厳しい。特に望んでもいないのに、家でダラダラ過ごすか、ナポリをブラブラするぐらいしか休みの過ごし方がなかったのだ。
そんな折、またパオラの誕生日パーティーに招待された。しかし、私は出席を辞退させてもらった。仕事絡みのパーティーなので、本当は嫌々でも出席すべきなのだろうが、彼女とは極力会いたくなかったのだ。運良く、日本から友達が旅行に来ていたことも幸いした。もっとも、パオラの悪評は社内でも周知されているので、事務員も技術の同僚も私の欠席に理解を示してくれた。むしろ、社長家族のいない所では、あんなパーティになんか行かなくていい! と言われていたぐらいだ。
結局、社長がパオラにどう説明したのかは知らないが、私は悪女のパーティーには行かずに済んだ。
だが、その数日後、彼女と仕事で会わないといけなくなった。ピアニストと調律師として、同じピアノを介して違う仕事を行なうことに……要するに、彼女がコンサートで弾くピアノを、私が調律することになったのだ。
話を頂いた時は、何よりも戸惑いが先に立った。と言うのも、パオラには、ほぼ専属に近い調律師がいることを聞いていたからだ。自宅のピアノは勿論、演奏会で使うピアノも、調律が必要な時はいつもその人に頼んでいた筈だ。なので、私がパオラを担当することはないと思っていた。いや、もっと言えば、パーティも無事に欠席出来たし、もう帰国するまで会わなくて済むのかな、と安堵していたぐらいだが……経緯は知らないが、残念ながら、今回だけ私が担当することになった。
さて、困ったものだ。
先ずは、パオラ云々以前の問題で、ネガティヴな予感があった。大体、専属のチューナーとまでは言わなくとも、いつも同じ調律師を指名するピアニストは、音やタッチの好みのレンジが狭いことが多い。平たく言えば、拘りが強いのだ。過去の偉人で想像してみても、ホロヴィッツやグールド、ミケランジェリなど、この条件に当てはまる名ピアニストは変人が多い気がする。その分、ピアノに求めるものを共有することが大切な要素となるのかもしれない。
だとすると、生憎、私には彼女と感性を共有する自信がない。もっとも、彼女の演奏を聴いたことはないし、音楽性も知らないので、単なる感情論だけの話だが——人間的に、趣味が合うとは思えないのだ。
基本的に、調律師が作る音とピアニストが求める音に隔りがあると、共同作業——演奏会や発表会など——は上手くいかないだろう。
いや、それ以前の問題として、ピアノの個性にもある程度の縛りがある。勿論、タッチも然りだ。それに、環境的な要素も沢山ある。音響や客層、空調、作業時間、会場の広さ、当日のプログラム、演奏の目的や用途……実に様々な条件が複雑に重なり合って、一回性の演奏会は成立する。
大切なことは、最終的に音を出し、音楽を創るのはピアニストであること。調律師はその手助けをする人に過ぎない。更に言えば、結果を受け止め評価を下すのは、聴衆であることも忘れてはいけない。殊更、商用目的の演奏であるならば、調律師はもちろん、ピアニストさえも、自己満足で終えてはいけないのだ。
しかし、現実的には、目の前にあるピアノをどのように仕上げるのか……調律師にとってはそれこそが最重要課題だ。正直なところ、当日の環境の中で、そのピアノの持つポテンシャルを最大限に発揮出来るように調整することを第一に考えており、ピアニストの好みや観客の満足まではなかなか頭が回らないこともある。もちろん、要望は聞くし、応えたいとも思っているが、それ以前に目の前のピアノの最適化に注力しがちなのだ。
一方で、ピアニストにとっては、自分の望む状態に少しでも近付けてもらうことが最優先だろう。例え、それがピアノにとってベストなコンディションでなくても、ピアニストは自分の好みの状態を望むものだ。ピアニストにとって、ピアノの物理的な理想のコンディションなんて、さほど重要ではない。大切なのは、理屈よりも感覚なのだ。自分の感情や解釈や表現を、如何に過不足なく音楽へ変換出来るか、如何に音楽が思うように創れるのか、それが全てなのだ。
ここで、物理と感性が激突したり、ピアノを仕上げる方向性に矛盾が発生したりすると、コンサートは失敗に終わる可能性を孕んでくる。一般的に、無聊なコンサートに終わった場合、批判の矛先はピアニストに向けられるもの。しかし、ピアニストが思うようなパフォーマンスを発揮出来なかったとしたら、その要因は、ピアノそのものか、調律師の作業にある可能性も考えられるのだ。
だが、聴衆にとっては、耳にした音楽が全てだ。その時、その場でのパフォーマンスだけが評価の対象であり、ピアノの品質やコンディション、調律師の技量、会場の音響や空調、その他一切の条件に目を向ける人はまずいない。
それでも、ピアニストは、時間が来たら与えられた環境で、与えられたピアノで弾くしかない。環境もピアノのコンディションも、直接自分でコントロールすることは出来ず、全て他人に委ねるしかないのに……だ。だからこそ、調律師を始めとするあらゆるスタッフに厳しい要望を出すこともあるだろうし、最終的には、たとえ望み通りになってなくても受け入れるしかない。
そう思うと、時と場合によっては、ピアニストなんて因果な商売にも思えてくる。
(11)Concerto,Napoli e Pozzuoli
パオラの演奏会は、厳密に言うと、パオラも一曲だけ出演する室内楽の演奏会だった。具体的には、ナポリの隣町、Pozzuoli(ポッツオーリ)で行われる弦楽合奏団の公演だ。プログラムの中の一曲にバッハの『ピアノ協奏曲第一番』が取り上げられており、ソリストにパオラが抜擢されたのだ。
余談になるが、バッハの時代、ピアノは発明されて間もない楽器で発展途上にあり、その可能性は認められていたものの、音楽での地位はまだまだ確立されていなかった。鍵盤楽器としては、既に完成されていたチェンバロやオルガンが、圧倒的に席巻していたのだ。
ピアノの誕生は、1709年と言われている(1700年には既に存在していたという記録もある)が、耐久性や音量、音域、機能性など、音楽家から一定水準の評価や満足を得るまでに、そこから百年近く掛かったと言われている。実際、沢山のピアノ曲が生まれたモーツァルトやハイドンの時代でも、実際の演奏ではまだまだチェンバロが主流だったと言われている。このことは、映画『アマデウス』を観ても分かるだろう。ベートーヴェンの中期以降、若しくは、シューベルトの時代になって、ピアノはようやくチェンバロからその地位を完全に奪ったのだ。
それよりもずっとずっと前の世代、1685年に生まれたバッハは、ピアノが発明され、少しずつ改良や淘汰を繰り返し、楽器として成長を続ける過渡期に生きた音楽家だった。換言すると、生涯に渡り、楽器としてはまだまだ未成熟だった、初期の原始的なピアノにしか触れたことがないのだ。そこから将来的な可能性は感じ取っていたようだが、バッハは、ピアノには常に不満を抱いていたと伝えられている。なので、バッハのピアノ曲は、殆どがチェンバロ、又はクラヴィーア(鍵盤楽器の総称)の為の曲として残されている。
この協奏曲第一番も、当時は主にチェンバロで弾かれていた。元は、ヴァイオリンかオーボエの為の協奏曲だったのでは? という説もあるが、最終的にはチェンバロ協奏曲として書き残されている。現代では、ピアノで弾くことが多いが、オリジナリティを尊重する時代の流れや古楽器ブームなどの影響で、チェンバロで弾かれることも増えている曲だ。
もっとも、この曲は本当にバッハの作品であるのか、疑わしいと言われているのだが。
※
さて、パオラの話に戻そう。コンサートの数日前、彼女は一人で会社にやってきた。本番で弾くピアノの選定だ。
日本ではピンと来ない話だろうが、コンサートシーズンのヨーロッパは、土日になると街中至る所でコンサートが行われている。会場は、コンサートホールとは限らないのだ。教会や広場、駅構内、ホテルやレストラン、大きなパラッツォ(アパート)の中庭など、スペースさえあれば何処でも会場になるのだ。
もちろん、いつでも何処でも、都合よくピアノなんてあるはずもない。なので、ピアノを使うコンサートは、ほぼ全て——大きなコンサートホールでさえも——レンタルなのだ。私が勤めていた会社でも、シーズン中は、毎週木曜日〜土曜日ぐらいに十数台ものピアノが搬出され、日曜日〜火曜日ぐらいに戻ってきた。この時期の私のメインの仕事は、店内で出て行くピアノの整備をしたり、戻ってきたピアノをチェックしたり、土日は会場に出向いて調律を実施したり……と、かなり多忙であった。約半年間、このルーティンが繰り返されるのだ。
もちろん、一人で賄える仕事、しかも社会人二年目、いや、調律師二年目の私なんかが熟せる仕事なんてたかが知れている為、重要度に準じて作業するピアノは選別されていた。そうなると、何も整備せずに貸し出し、現地での調律も行わず、戻ってからのチェックもせず、それをまたそのまま貸し出し……と何週間も未整備のまま、繰り返しレンタルされているピアノもあった。その中には、いつの間に壊れているピアノもあった。いつからか、壊れたまま貸していたことになる。
出ない音があるピアノを弾かされたピアニストを思うと、非常に心苦しいものもあるのだが、イタリアなんて……まぁ、往々にしてそんな国なのだ。
来社時のパオラは、かなり緊張しているように見えた。しばらくは、彼女に気付かないふりをしていたのだが、わざわざ社長に呼ばれ、挨拶せざるを得なくなった。
パーティーの欠席を詫び、コンサートの調律頑張りますってことを事務的に伝えた。パオラは意外なことに、特に嫌味や皮肉など口にすることはなく、ごく普通に接してくれた。そして、幸いなことに彼女が選んだピアノは、比較的調整のしやすいY社のピアノだった。
ピアノは、楽器であると同時に工業製品でもある。善し悪しは別として、日本製のピアノほど完成された「工業製品」はないだろう。中でも、Y社は「楽器」としてのクオリティでも一定の評価があり、何より私達調律師にとっては、最も扱いやすいピアノでもあった。
ただ、自由度の低いピアノでもあった。いつでも比較的容易に、及第点の音やタッチは作れる楽器だが、際立った特色や個性は見出せない。それなりに弾きやすく、それなりによく響き、それなりに綺麗な音を出し、保持力にも優れ、それなりの表現力も持つ。これだけでも本当は楽器としてすごい完成度と言えるのだが、それ未満にならない長所と引き換えに、それ以上にもならないのが短所と言えよう。
要するに、何をとっても「無難の少し上にあるピアノ」だ。
パオラは、そのピアノを試弾し、音よりもタッチについて要望を出してきた。特に、次高音部の機敏な動き、シャープな反応を求めていた。彼女と人間的に分かり合える関係になることはないと思うものの、このピアノに求めるものは同じだった。私も、このピアノをセットアップするなら、真っ先に手を付けたいと思っていた部分だったのだ。
ピアノの個性、調律師の考え、ピアニストの要望、この三点が一致すると、仕事はやり易くなる。その日一日掛けて、私は思うままに調整してみた。
翌日、再度試弾に訪れたパオラは、どうやらピアノに満足してくれたようだ。「なかなかやるね!」みたいなことを言ってもらえたが、彼女の演奏には、お世辞でも「なかなかやるね!」とは返せなかった。確かに、指はよく回るし、テンポもブレないし、ダイナミクスの幅も大きく、分かりやすい演奏ではあった。ただ、私には何も響いてこないのだ。無機質で機械的な演奏で、悪い意味で完璧過ぎて、自動演奏を聴いてる錯覚に陥る。そう、呼吸が伝わらないのだ。音の温もりとか感情、何より、音楽の生命力や鼓動のような「生きている」感じがしない。たとえるなら、精巧に造られた「造花」のような演奏に感じた。
バッハ時代の絶対音楽ならそれでもいい、いや、寧ろその方がいいという意見もあることは知っている。確かに、バロック期のポリフォニーは幾何学的な作曲技法と言われているし、音楽の構造や理論や組み合わせの妙を数学的に追求している側面も否定出来ず、その真髄を理解する為には、無機質な音の方が適しているという考えも理解出来る。
でも、私は違うと思う。そもそも音楽は、脳に訴えかける学問ではなく、何かを心に伝える為の表現手段だと思っている。アートとは、そういうものだと思っているし、そこに絶対音楽か標題音楽かの違いはない。音のデータではないのだ。
※
そして、ついに訪れたコンサート当日。
私は、会場へピアノが届く時間より少し早めに現地入りしていたが、予定時間を過ぎてもピアノは届かなかった。でも、流石に一年以上も「イタリア時間」で生活していると、こういうことには耐性が付いている。三十分ぐらいの遅延は珍しくないし、寧ろ、定刻に来た方が驚いただろう。
しかし、予定時間から一時間近くが経過すると、流石に焦り始めた。ステージマネージャーが、何度も会社に電話して確認を入れているが、間違いなくこちらに向かってはいるそうだ。少なくとも、日時や会場の間違いなどではない。
ピアノは、前日の搬出前に、一通り再調整を行っている。なので、今日の作業は輸送による狂いを補正する程度の簡単な調整の予定だが、私に割り当てられた時間は、ピアノ搬入からリハが始まるまでの一時間半しかなかったのだ。
いや、通常であれば、作業内容に比して、それだけの時間を貰えれば充分なのだが、それはタイムスケジュール通りに事が運んだ場合の話だ。実際には、余裕から理想、そして、妥当から危険ゾーンへと、どんどんと私の時間は削り取られていた。
そして、ついに、リハ開始まで残り三十分になった。リハの前には、ほんの数分でもいいから、パオラによる試弾も必要だ。それに、運送屋が到着してから、ステージ上にピアノを運び込み、開梱し、設置するまでにも十分程度は掛かる。そう考えると、実質的には二十分あるかないか……そろそろリミットだ。
その時、ピアノより先にパオラが到着した。合奏団のメンバーは、随分前に到着し、楽屋入りしている。ステージ上は、椅子と譜面台が並べられ、照明のテストも終わっている。それなのに、肝心のピアノがまだ来ていないことを知ったパオラは、鬼の形相で私にヒステリックに食って掛かってきた。
「どうなってるのよ! そろそろピアノの調整が終わるかなって思ってたのに、まだ届いてもいないって、どういうこと? もう直ぐリハなのに、指慣らしも出来ないじゃない!」
怒るのも無理はないが、私としても、言われる筋合いはない。困っているのは私も同じだ。パオラの気持ちも分からないでもないが、これは私のミスではない。
「パオラ、私に言われてもどうしようもないわ。運送屋のミスよ」
「そうかもしれないけど、貴女の会社のピアノでしょ? 私は貴女の会社からピアノを借りたの! こんなルーズな仕事、信じられないわ! 何とかしなさいよ!」
「悪いけど、私に出来ることはないわ。待つしかないじゃない」
皆んなルーズだから、何もかも予定通りいかなくて当たり前でしょ? どっちがナポリ人なの? と言いたくなったが、仏頂面で黙り込むパオラを見て思いとどまった。確かに、彼女が苛立つのも分かる。それに、これは前日に聞いた話だが、このコンサートでパオラがソリストの座を射止めたのは、彼女の実力ではなく、ナポリ音楽院の教授である叔父のコネによるものらしいのだ。
実は、この日演奏する弦楽合奏団は、指揮者なしで演奏するスタイルで、世界を舞台に活躍している著名な合奏団だ。人気、実力ともに、あの「イ・ムジチ」と双璧を成すと言われている、と言えば、分かる人もいるだろう。イタリアの室内楽では、かなりメジャーな存在だった。
つまり、超エリートの実力者集団の公演に、身内のコネだけでソリストの座をゲットしたパオラにとって、この日の演奏は一世一代の晴れ舞台でもあった。ここで、それなりの評価を博すことが出来れば、ピアニストとして大きく飛躍するきっかけになるだろう。逆に、凡庸な演奏になれば、やっぱりコネだけのピアニストだったのね、という評価が下され、挽回には、膨大な時間と労力が必要となるだろう。
日本と違って、相当な実力のあるピアニストが沢山埋もれているヨーロッパにおいて、売れるか売れないかの違いは、チャンスを掴めるか否か、そして、チャンスを活かせるか否か、この二点に集約されるかもしれない。一部、そういったしがらみに左右されない「超一流」の実力とカリスマ性を備えたピアニストもいるが、ほとんどのピアニストにとって、チャンスを掴めるかどうかが一つ目の分岐点になるのだ。
チャンスを得る手段は、運でもコネでも金でも、何だっていい。パオラは、間違いなく大きなチャンスを手にすることが出来た。しかし、このチャンスを活かせるかどうかは、本番の演奏だけに委ねられる。評価するのが聴衆である以上、ここから先の開拓には、運もコネも金も無力なのだ。
(12)Ottobre del secondo anno,Pozzuoli
パオラは、普段は自信家のように振舞ってはいたが、半分は虚栄心だろうと予想していた。おそらくだが、彼女に根付く自信は、身内の社会的な地位に依るものだ。しかし、ピアニストとして、実力だけで勝負しなくてはいけない今、客観的に見た自己の実力に不安を抱き、過度な緊張が誘発されていたのかもしれない。だからこそ、慎重にピアノを選び、わざわざ整備後の確認にも再訪し、当日も早めに現地入りしたのだろう。それなのに、ピアノの到着が遅れてる現実に、パニックに陥ったとしても不思議ではない。トラブルを泰然自若に受け止められず、ギリギリまで演奏を模索し、突き詰めておかないと不安なのだろう。彼女自身、この日のソリストが実力に見合っていないことを、内心では悟っているのかもしれない。
それから数分も経たないうちに、ようやく運送屋のトラックが到着した。顔馴染みの運送屋に、強い口調でセッティングを急ぐようにお願いした。どうやら、社長からもお叱りの電話を受けていたようで、いつもは私を見ると、セクハラ紛いの冗談ばかり言いながら揶揄ってくる彼等なのに、全員が引き攣った表情で、無言で懸命にピアノを開梱した。
その様子をステージ脇で見ていた私は、突如、言いようのない不安に襲われた。時間的な問題もあるが、本能的な違和感を覚えたのだ。何かがおかしい……不安と違和感の正体は、ピアノの準備が整い、残された僅かな時間で仕上げ調整を行おうとピアノに近付いた時に、明確になった。
ピアノが違う——。
このピアノは、先日パオラが選び、昨日私が最終調整を行ったピアノじゃない。パオラに伝える前に音を出してみると、それほど酷くはないが、調律は狂っていた。タッチも、パオラの選んだピアノよりレスポンスが悪い。リハまで、あと十五分……万事休すだ。
私は、パオラと運送屋とステージマネージャー、そして、合奏団のマネージャーを呼び集めた。そして、辿々しいイタリア語で、現状を報告した。
「どうやら、準備していたのとは違うピアノが届いたようです。このピアノを使うなら、調律に今から最低四十五分、出来れば一時間は欲しい」
パオラは、怒りを通り越して、茫然としていた。いや、現実を受け止められないのかもしれない。折角の晴れ舞台……この日の為に準備を重ね、練習に明け暮れ、イメージを膨らませ、大袈裟じゃなく命を削る思いで取り組んできたことだろう。パオラの高飛車で我儘で傲慢なキャラクタはどうであれ、彼女はまだ駆け出しの未熟なピアニストでもあり、望外のチャンスを手にしたところだったのだ。
一方で、合奏団のマネージャーは、あっけらかんとしていた。別に私達はリハなんてなくても大丈夫ですよ、と。
ステージマネージャーなんて、演奏者のことよりも、コンサートの実務的な運営にしか関心がないようだ。今からプログラムや開演時間の変更は認められないので、ピアニストと調律師さんで話し合ってくれ、と丸投げされた。要は、どうでもいいから、演奏会は予定通りにやれ! ということだ。
運送屋には、何が起きたのか説明を求めた。どこでミスが起きたのか……会社のミスか運送屋のミスか、この際、遅刻のことは後回しでいい。ピアノを取り違えた原因は、明らかにしておく必要があった。
彼は、脂汗を流しながら、人ってこんなに小さくなるんだってぐらい恐縮し尽くして、無言で項垂れていた。そして、ボソボソと話し始めた。どうやら、一つ前に訪れた現場で、間違ってパオラのピアノを下ろしたようだ。要するに、単純な運送屋の手違い。距離と時間からして、今から取り替えに戻ることは不可能とのこと。
結局のところ、パオラがこのピアノで演奏する——それしか選択肢はない。その中で、どれだけの時間を私が貰えるのか、そして、リハの時間がどれだけ残っているのか、それだけの話し合いだ。流石のパオラも、必死に平静を装いながら、冷静に思案を巡らせているようだ。
結果、今から私が四十五分頂き、パオラが五分試弾する。その後、パオラと話し合って十五分で再調整、その後、ピアノ協奏曲だけ、軽い「合わせ」をやってもらうことになった。合わせリハは、せいぜい五分だろう。とてもタイトな段取りだが、合奏団にも了承頂けた。
そうは決まっても、しかも、自分で四十五分と言ったのに、未熟な私には、最低限の音合わせで精一杯だった。もっと色々と手を掛けて直したいのに、コンサートチューナーとして、いや、普通の調律師としても、私はあまりにも未熟だった。もどかしいぐらいに、やりたいことをこなす技量がなかった。
その後、パオラが試弾するも、やはりレスポンスの悪さを指摘された。私は、正直に伝えた。残り十五分だと、私の技量ではどうしようもないことを。なので、直し調整の十五分という時間を、そのままピアノに慣れる為の試弾に使ってもいいし、他に直して欲しい所があれば、十五分で出来ることならやってみる。決めて欲しい……そう伝えた。
パオラは、弾き込むことを選んだ。今更文句を言っても無意味だし、我儘な要求も通らない。本番から逃げることも出来ない。限られた環境の中で、唯一すべきことは、このピアノに少しでも慣れること。そう考えたのだろう。賢明な判断だと思った。
しかし、試弾は僅か五分で切り上げ、彼女自ら合奏団を呼びに行った。弦との合わせの時間も、少しでも長く欲しいようだ。
合奏団のメンバーは、皆気さくで優しく、精神的なゆとりを感じた。世界中でコンサートを行い、メジャーレーベルから沢山のCDをリリースしている弦楽合奏団だ。屈指の実力と経験は、強靭な精神力を育み、確固たる自信を植え付けるのだろう。パオラにとっては、持ち堪えられるかどうか瀬戸際のトラブルだが、彼等には些細な問題に過ぎないようだ。
一方で、彼等は音楽に対しては、容赦ないぐらいに妥協しなかった。指揮者なしでコンマスがリードするスタイルだが、セカンドやチェロのトップも、いや、全メンバーが忌憚なく発言する。全て、パオラへの注文だ。私の語学力では分からないことも多々あったが、パオラの演奏に厳しい注文や要求が、色んなメンバーから飛び交っていることは分かった。
「もう少し音を伸ばせないか?」
「そこはもっと抑えて」
「テンポが乱れてる」
「左手の旋律が消えちゃってるぞ」
「今のフレーズはビオラに合わせろ」
「そこはペダルを使わないでくれ」
「ファーストヴァイオリンをよく聞いて!」
「皆んなの呼吸に合わせてよ」
「今の所もう一回やっておこう」
「また音が抜けたぞ! 何度も同じ失敗するな」
……など、およそ十五分間のリハの間中、少し弾いては中断しての繰り返しで、パオラは絶え間なく集中砲火を浴び続けた。
パオラからは、普段の「嫌な女」の雰囲気は消えていた。懸命に、そして、必死に団員の音楽作りの要求に食らい付き、何としてでも認められようと模索する若手ピアニストの姿がそこにあった。身内のコネで名を売り、実力そっちのけで演奏の場を手にする彼女も、音楽には真面目に取り組んでいたのだ。
団員の指導に謙虚に耳を傾けて、その場で修正する。何を言われても反論なんてせず、全て受け入れる。ナポリ音楽院の教授の姪っ子だなんて肩書きは、音楽の前では無意味なのだ。評価も判断も演奏だけに委ねられる世界。そこで彼女は必死にもがいていた。
リハが終わると、開場となり、お客様が客席へ入り始めた。開演までまだ三十分あるが、瞬く間に客席は埋まっていく。それほど大きなホールではないが、満席になるのは間違いない。
ピアノ協奏曲はプログラムの二曲目なので、一度ピアノがステージの端へ移動される。もう、ピアノに触ることは出来ない。私の仕事も、リハの立ち会いまでという契約なので、本番は聴かずに帰社しないといけない。ホールの人、ステージマネージャー、団のマネージャーに挨拶をし、最後にパオラの所へ向かった。
パオラはまだ着替えをしておらず、リハの時と同じラフな格好で舞台裏にいた。思い詰めたような表情で、楽譜を睨みつけていた。声を掛けるのも憚れる程の張り詰めたオーラを纏っていたが、幸い、先にパオラが私に気付いてくれたようだ。
「もう帰るのね?」
緊張から一気に緩和へと豹変したパオラは、今まで見たことのないような穏やかな表情で、口元には優しい笑みさえ浮かべ、話し掛けてきた。
私は、急に居た堪れなくなった。最低限の挨拶だけ交わして帰るつもりだったが、彼女の達観したかのような優しい表情を、どう受けて止めていいのか分からなかったのだ。
「パオラ……良い調整が出来なくてごめんね。あれだと、思うように弾けないよね? 折角ピアノを選んでたのに、何と言ったらいいのか……」
すると、パオラは笑い出した。
「何で貴女が謝ってるの? 日本人って直ぐに謝るって聞いてたけど、本当なのね! 貴女は何も悪くないじゃん。そういう時は謝ったらダメだよ」
「ごめん……」
「アハハ、また謝ってる! バカじゃないの! 貴女はよくやってくれたわ。それに、頼もしかったよ!」
私は泣きそうになっていた。パオラの強さと優しさに。そして、自分の弱さと未熟さに。
「ありがとう。もっと調律師として成長して……短い時間でも、キッチリと仕上げられるようにならないと……」
「あのさ、ピアニストはね、そこにあるピアノで結果を出さないといけないのよ。さっきのリハで上手く弾けなかったのは、ピアノの所為でも貴女の所為でもなくて、私が下手だから。だからこそ、本当は好みのピアノで弾きたかったんだけど、たまたま上手くいかなかっただけよ。こんなことは珍しくないわ。ピアノが違ったことで上手く弾けなくなるのなら、私の実力がその程度ってこと。そもそも、ピアノを選べない現場なんて、幾らでもあるしね。もっと言うと、調律師がいない現場も当たり前のようにあるし。でもね、それでも弾かないといけないの」
「でも、パオラが準備していた演奏は出来なかったよね?」
「そうじゃない。それも全て含めて実力なの。貴女も良い調整が出来なかったって言ってたじゃん。環境とか条件とか関係なく、その時に発揮出来る技量が実力なのよ。それにね、リハでは色々言われたけど、団の皆さんに呆れられるより、あれだけ指導してもらえる方がずっと有益だと受け止めてるわ。もっと下手なら、逆に諦められて、何も言われないと思うから、絶望的な演奏ではなかったのかもね。実際、僅か十五分ぐらいだったけど、数ヶ月分ぐらい学べたわ!」
パオラは、肩の力が抜けたか、饒舌に喋り続けた。リハでは、あんなに色々とダメ出しされ、悔しかったに違いない。でも、そこに立ち向かい、乗り越えようとする精神力の強さも備わっているのだ。
所々、聞き取れない言葉もあったが、どうやら私に対する怒りはないようだし、自分の実力を客観視出来ており、過信や自惚れもない。音楽には、本当に謙虚に取り組んでいる。確かに、身内のコネを使って、実力に見合わないステージで弾くチャンスを享受している彼女ではあるが、だからこそ、嫉妬から陰口も飛び交うのだろうが、ピアニストとして、真摯に音楽に取り組んでいることは分かった。そこまで「嫌な女」じゃない。
「パオラ、パーティーに行けなくてごめんね。これは謝ってもいいよね?」
「アハハ、貴女、イタリア語上手になったね! またいつか、何処かで会えるといいね!」
「演奏会、頑張って!」
「うん、ありがとう」
結果的に、それがパオラとの最後の会話になった。
その日以降、帰国するまで会うことはなかったし、何処かで見掛けることもなかった。もちろん、帰国してからも連絡を取り合うことなんてない。よく考えると、彼女とは四回しか会っていないのだ。しかも、そのうちの二回は、会社にピアノの選定に来た時とその翌日、試弾に来た時、少し顔を合わせたぐらいだ。それなのに、彼女は、私がイタリア滞在中に出会った人の中で、最も印象に残った人物の一人である。おそらく、お互いのことは、何も理解し合っていないのだろう。でも、ピアノや音楽に関して全く違う道を歩みながらも、何処か本質的な部分で通じ合えるものはあったように思う。
それでも、最初に出会ったパーティーで、無理矢理リモンチェッロを飲まされたことは、今でも忘れない。
(13)Aprile del secondo anno,Potenza
間もなく、朝の七時になろうとしていた。
普段は人混みでごった返すキアイア通りも、ゴーストタウンのように閑散としている。通り全体が、ほぼ貸切状態だ。やや冷たい肌触りの、澄んだ四月の空気が心地良い。こんな時間にナポリを歩くのは、初めてのことだ。いつもの喧騒溢れる街並みが、別世界のように静まり返っている。不思議な気分だ。どの店も、まだ開店前。BAR(バール)もTabacchi(タバッキ)も閉まっており、もちろん、マルゲリータ発祥のピッツェリア、Brandi(ブランディ)にもいつもの行列はなく、通りをすれ違う人さえ見当たらない。
ちなみに、タバッキという店は、一言で言うならば、「何でも屋」だ。元は、タバコや切手、チケットなどを販売する店だが、お菓子や調味料、日用雑貨、新聞、雑誌など、駅の売店にも満たない小さな店舗なのに、ちょっとした生活必需品なら大抵の物が買える不思議な店と言えよう。
キアイア通りを抜けると、そのまま待ち合わせ場所でもあるトリエステ・トレント広場に辿り着く。老舗のBAR、GAMBRINUS(ガンブリヌス)もまだオープンしていない。ナポリの朝は遅い。この街では、時間でさえ怠け者なのかもしれない。
時計を見ると、まだ七時五分前。遅刻常習者でもある同僚との待ち合わせなのに、五分も早く着いてしまった。時間を潰そうにも、空いている店はないし、やることもない。ただぼーっと広場の片隅に突っ立っていた。
その時、小さなボロボロの車が広場に入ってきて、ローマ通りの入り口の近くに停車した。遠くから観察していると、助手席から、でっぷりと太った初老のおばさんがのそのそと降りてきた。そして、ハッチから沢山の荷物を降ろしている。その間に、運転手の初老のおじさんが、壁沿いにブルーシートを敷いていた。
何処かで見たことあるおばさんだと思ったら、いつも仰々しい身振りを交え、行き交う人に施しを懇願している物乞いだ。どうやら、彼女の出勤現場に出くわしたようだ。思わず、笑いそうになった。まさか、運転手付きの自動車通勤だったとは!
※
イタリアへ来て、間もなく二年になろうとしていた。あと二ヶ月弱で、ナポリともお別れだ。と言っても、特に寂しくもなく、嬉しくもない。おそらく、実感がなかったのだろう。
この日は、同僚のイタリア人調律師と、遠方の街へ調律に行くことになっていた。ナポリのあるカンパーニア州の南東には、バジリカータ州が隣接している。その州都である、ポテンツァ(Potenza)という内陸部の街に、これから向かうのだ。
距離は、ナポリから約150kmも離れている。時間のあてにならない公共交通機関を利用すると、日帰りは厳しいとの判断で、車で出向くことになった。その為、朝早くに待ち合わせをしていたのだ。今から、特に親しくもないけど、陽気で楽しいおじさん調律師と、長いドライブになる。と言っても、特に楽しみでもなく、苦でもない。
結局、彼は、十分以上も遅刻してきた。が、彼にしては及第点だろう。ちなみに、彼の名前はよく知らない。もちろん、最初に自己紹介はしたが、よく聞き取れなかった。ただ、皆んなが「マッチョ」みたいな発音で呼んでるので、私も彼のことを「マッチョ」と呼んでいる。
そして、何故か彼は私のことを「タタレッラ」と呼んでいる。理由も意味も、私は知らない。そもそも、私の名前にタ行の文字はない。
「チャオ! タタレッラ! 遅れてすまないな」
「チャオ! マッチョにしては早い方だよ」
そんな挨拶を交わし、私はマッチョの車に乗り込んだ。
ポテンツァでの仕事は、本当に一日で終われるのか不安になるぐらいの量だった。現場は、プライベートのピアノ学校だ。日本のピアノ教室と音楽学校の中間のような施設と言えば、イメージが近いだろう。そこにあるピアノを全て二人で調律するのだ。といっても、全部で十四台もあった。七台ずつだと不公平なので、私が四台、マッチョが十台やることになった。彼は運転で疲れている。なので、私も頑張って四台やることにしたのだ。これで公平だろう。
途中、ピアノ学校の先生と奥様を交え、四人で食事に出掛けた。海の幸で有名な港湾都市ナポリとは違い、ポテンツァは海のない街、山に囲まれた街だ。そこで、私は初めてジビエ料理を口にした。鹿と猪と兎と鳩のミックスステーキだ。豚も牛もそれ程口にしない私にとって、鹿と猪の肉なんて「獣感」が強過ぎる気もしたし、兎と鳩を食べるなんて可哀想でとても無理と思った。でも、先生に折角ここに来たんだから、と強く勧められ、マッチョにも、食べられなかったら俺が食ってやる、と説得され、抵抗出来ずに注文された。
完食した。
仕事は、夜の八時ぐらいまで掛かった。マッチョが遅過ぎて、私が四台目に取り掛かる時、彼はまだ七台目が終わってなかったのだ。調律という作業の特性上、手伝うわけにもいかない。なので、彼が最後の一台をやっている間、先生ご夫妻にケーキとコーヒーをご馳走になっていた。仕方ないのだ。
そして、ようやく仕事が片付いたが、これから、彼の運転で二時間以上も掛けて、ナポリへ帰らないといけないのだ。お腹も空いたし、疲れ切ってヘトヘトだった。運転もしてない上、四台も調律したのだから。
帰りの車内で、マッチョに聞かれた。
「タタレッラ、お前、本当に六月に帰るのか?」
「うん、VISAは更新しなかったし、不法滞在はしたくないから」
「そうか……皆んな寂しくなるよ。運送屋のピエトロ、お前にプロポーズしようかなって冗談でよく言ってるけど、アレは本気だぜ? それに、マウロの野郎は勝手にお前のボディガードってことになってるし、事務のロザリアはお前のこと妹みたいに思ってるってさ。なぁ、タタレッラ、考え直せないのか?」
「ごめん……あの、私……今更言い難いんだけど、私の名前、タタレッラじゃないの」
「えっ! タタレッラじゃないのか?」
「誰も私のこと、タタレッラなんて呼んでないでしょ? 大体、タタレッラって何よ? 日本にタタレッラって名前はないよ」
「でも、お前が最初にタタレッラって名乗っただろ?」
「言ってません!」
「そうかぁ……でも、いいじゃん、タタレッラで」
「別に構わないけど」
「ちなみにさ、俺もマッチョじゃないぞ、マルツィオ(Marzio)だ」
「え? そうなの? でも、皆んな、マッチョって呼んでるじゃん」
「誰が? 皆んなマルツィオって呼んでるよ? ハハハッ、お前にはマッチョに聞こえてたんだな。まぁ、あと少しの間だもんな、マッチョでもいいぞ」
「マッチョ、ありがとう」
「そうか、日本に帰るのか。寂しくなるけど、あと少し、楽しくやろうぜ、タタレッラ」
家に着いたら、十一時近くになっていた。途中、サービスエリアでマッチョにハンバーガーを奢ってもらったからか、或いは疲労の所為なのか、何も食べたくなかった。シャワーだけ浴びて、倒れ込むようにベッドに横になった。すると、私の心の中の何処かに隠れていた「寂しさ」が、突然姿を表しこみ上げてきた。どこか他人事のように思っていたナポリとお別れするという現実が、急に生々しく襲い掛かってきたのだ。
クラクションと排気ガスが充満し、ゴミが散乱し、ホームレスが溢れ、常にひったくりやスリに警戒しないといけない街。怒りっぽいけどよく笑い、よく怠け、時々本気を出す、お調子者で底抜けに陽気なナポリ人。眩い陽光と爽やかな潮風を浴びる、風光明媚なサンタルチア海岸。そこから朧げに見えるカプリ島、青の洞窟、雄大に広がるベスビオ火山。真っ青な空と海。沢山の歴史的建造物。パオラとの仕事。マルゲリータ、カプチーノ、トマトソースのパスタ、豊富な海の幸、彩り豊かで新鮮なフルーツと野菜。
そして、アマルフィ海岸とレモン。グラニータとリモンチェッロ。
何もかもが、貴重な思い出だ。どんな宝石よりもキラキラ輝く宝物を、私はそっと胸に仕舞い込む。感傷的になるにはまだ早い。明日からも仕事がある。思い出作りに来たのではない。もっと色んなピアノを手掛け、沢山のピアニストと接し、音楽に触れ、調律師として成長したい。
あと数週間、無駄のないように過ごさないと——そう思い、「寂しさ」を胸の奥に仕舞い込み、もう一度だけ気を引き締めた。
(14)Maggio del secondo anno,Napoli
いよいよ、ナポリでの生活もコーダに突入した。
厳密には、六月末まで続くとされているコンサートシーズンも、温暖地のナポリでは五月頃からは終焉に向かい、レンタルされるピアノの数も激減する。それに伴い、私の業務も完全週休二日制へと戻してもらえた。
会社との話し合いで、私の勤務は六月の二週目までと決まった。ナポリに来たのが二年前の六月十二日、仕事始めが十四日だったので、予定通り丸二年、この会社でお世話になったことになる。その時、残りの休みの日を数えてみたら、あと十回を切っていることが分かった。気付くのが遅過ぎた。二年の生活で増えた荷物は、少しずつでも日本へ送っていかないと、とても手荷物で持って帰れる量ではない。
それに、退職後はそのまま帰国せずに、北欧を旅行する計画を立てていた。なので、尚更のこと、持ち歩く荷物は最低限に留めたい。最後の日まで仕事で使う、重たい工具鞄のことは後から考えるとして……さて、何から手を付けようかと悩んだ挙句、もうこちらでは必要のない冬物の服やバッグから着手した。先ずは、もう処分してもいいものを捨てようと思った。着心地の悪いセーター、冬物のインナーや靴下などは、わざわざ持って帰ってまで着たいと思わない。
北欧旅行で必要な薄手のハーフコートなど、数点の冬服は残しておく必要がある。それ以外のコートや帽子など、日本でも着るつもりのお気に入りのものは、どんどんと箱に詰め込み、パッキングが出来次第、次々と郵送した。衣服類だけではない。化粧品、常備薬、数日分の着替え、リュックとハンドバッグ、最低限の台所用品、スニーカー、室内用のスリッパ、工具鞄、数冊の本など身の回りの必需品だけを残し、後は手当たり次第に箱詰めした。
一つ一つの物に、それぞれの思い出が染み付いており、色んな記憶が蘇っては、ついつい懐かしんで感傷に浸ってしまう。露店で買ったくだらない安物のアクセサリー、可愛いお気に入りの雑貨、気負って買ったものの恥ずかしくて着れなかったセクシー系のワンピース、派手な色彩のカーディガン、部屋着代わりのチュニック、一度だけしか履いていないミニスカート、気に入って買ったけど靴擦れして嫌になったパンプス、色んな美術館のパンフレット、滅多に出さないのに無駄に買い込んだ絵葉書、派手な食器……いつ、何処で買ったのか、不思議と全部覚えていた。
残された休日は、荷造りや片付けで潰れてしまうだろう。本当は、カプリ島にはあと一回ぐらいは行っておきたかったし、最後にもう一度アマルフィにも行きたかった。
そう、アマルフィ……ナポリが嫌になり、死にたいとすら思っていた時に仕事で行き、素敵なご夫婦と半日を過ごし、もう少し頑張ってみようと思い直した所縁の地。
あの時のご夫婦は、今頃何をしているのだろう? 私のこと、覚えてくれてるのかな? ふと、そんなことを回顧する。あの日、グラニータをご馳走にならなかったら、二年もナポリにいなかった気がする。いや、生きていたのかさえ定かでない。大袈裟でなく、たった一杯のレモンのグラニータで私は生き延びたのかもしれない。
そして、収穫したての大きな大きなレモン。酸っぱいのに甘味もあって、濃厚な味わいに感動した。その日から、私の冷蔵庫には必ずレモンが入っているようになった。
そう言えば、あの日頂いた自家製のリモンチェッロは、ジャンレノにもらったカプリ島のリモンチェッロと一緒に、冷凍庫で眠っていることを思い出した。私の部屋は、元々社長がゲストルームとして借りていたアパートで、家具や家電も全て揃っていた。退去する時も、そのままにしておくことになっている。二本のリモンチェッロは、ナポリの思い出と一緒に、誰かが気付くまで冷凍庫に眠らせておこうと思っている。
実は、リモンチェッロは、その後もカプリ島やソレントなどで時々購入していた。そのほとんどは、お土産用に販売されている掌サイズの小さなビンで、見た目を重視したオシャレで可愛いデザインの商品だ。数えてみると、いつの間にか七本も買っていたようだ。全て、常温で保存……というか、インテリアとして飾っていた。これらは、お友達へのお土産として、手荷物で持って帰るつもりだった。
※
多分、六月に入ってからのことだと記憶している。お客様宅からの帰り道、トリエステ・トレント広場でバスを降りた私は、キアイア通りを歩いていた。いや、広場からキアイア通りに入ったばかりの地点で、彼に話しかけられたのだ。
その男性は、スラリと背が高く、身なりも紳士風のイギリス人だ。その瞬間、以前に遭った詐欺のことを思い出した。それもそのはず、目の前にいる男は、間違いなくあの時の詐欺師だったのだ。
「シニョリーナ、少しお話を聞いていただけないでしょうか?」
今回は、最初からイタリア語で話し掛けてきた。いつの間にか、私は観光客には見えなくなっていたのだろう。そして、どうやら、彼は私のことなど覚えていない。まぁ、当然だろう。彼にとって、私なんかは沢山のカモの一人に過ぎないのだ。
「飛行機代がないって話かしら? 腕時計は要らないわよ?」
笑顔でそう答えると、彼は一瞬だけビックリした顔をして、そして、声高らかに笑い出した。
「参ったな、常連様でしたか。謝るから、見逃してもらえないかな?」
他の被害者を出さない為にも、本当は通報すべきなのかもしれない。でも、これ以上深入りすると、挑発と受け止められてもおかしくないし、逆恨みから何をされるか分からないという恐怖もある。それに、基本的にこちらの世界では、自分の身は自分で守るべきだ。私も、そうやって二年間を乗り切ってきた。さすがに、騙される方が悪いとまでは言わないが、騙されることも社会勉強になることはある。幸い、彼はとんでもない金額を搾取するわけではない。
私はニッコリと微笑んで、飛行機に間に合うといいですね! と伝え、手を振ってお別れした。その時に気付いた。最初に騙された時には、全く見抜けなかった。彼は、見た目こそイギリス人だが、生粋のナポレターノだったのだ。
「ボナ・ジョルナータ、シニョリーナ!」
彼も満面の笑みで手を振り返してくれた。憎めない犯罪者め。
※
退社まで、いよいよ後一週間となった頃。
二年間、基本的には自炊をしていた私だが、食料品は使い切らないといけないことを考えると、そろそろ生鮮食品の買い出しも減らしていこうと思った。こちらには、日本のコンビニのような店はないし、スーパーも少ない。その代わり、昭和時代のような八百屋や肉屋などは街中にある。中でも、会社のすぐ近くにあるalimentari(アリメンターリ)では、頻繁に買い物をする様になっており、常連客として店主ご夫妻に可愛がられていた。
アリメンターリというのは、簡単に言えば食料品屋だ。ショーケースに入ったチーズや生ハム、惣菜などを対面販売で計り売りしているだけでなく、乾燥パスタや調味料、米、水や飲み物、様々なソースや缶詰など、生鮮食品以外の食料品なら大抵のものは購入出来る便利な店だ。
また、色んな種類のパンも売っており、お願いすれば、その場でチーズや惣菜を使ってパニーノなども作ってくれるのだ。私も、よく生ハムとモッツァレラとナスのピクルスを挟んだパニーノを作って貰っていた。オレンジジュースも一緒に頼んで、五百円するかしないかだったので、よく昼食に利用したものだ。
その日、いつものアリメンターリで、私はモッツァレラとパルミジャーノ、生ハム、トルテッリーニ、生クリーム、トマト缶などを購入した。すると、奥様が「そんなに沢山買って、何かあるの?」と聞いてきた。
「実は、あと数日で日本に帰ることになったので……」と、北欧旅行のことは面倒なので省き、会社を辞めて日本に帰ることを伝えた。なので、もう凝った料理はやめて、簡単に調理出来るもので乗り切ろうと考えてることを簡潔に説明した。
すると、奥様は仰天して、大声で奥にいたご主人を呼んだ。
「アンタ! 日本人のお嬢さん、いなくなるってよ!」
「マンマミーア! 寂しくなるじゃないか!」
「最後に買い物に来てくれたのよ!」
そんな感じの大袈裟なやり取りがドタバタ喜劇のようで微笑ましくて、吉本新喜劇を連想して、ついつい笑ってしまった。
「シニョーラ、まだ最後じゃないわ。明日も明後日も来るから、またパニーノ作ってね!」
そう言うと、何故か奥様は泣き出した。そして、ご主人と一緒にシャーケースの前に出て来て、何故か写真を撮られた。奥様に抱き締められ、袋には沢山のチーズやパスタが詰め込まれていた。
「こんなに食べられないわ」
受け取りを辞退しようとしたものの、夫婦は頑として譲らない。どうしても貰って欲しいようだ。よく買い物はしたが、そんなに話をしたことはなかった。なのに、大切に思ってくれていたことに感激し、有り難く頂戴することにした。パルミジャーノなんて、一キロ近くもある塊が入っていた。あと数日でいなくなるって言ってるのに、こんなに一人で食べられるわけないじゃないの! と思いつつ、その気持ちは本当に嬉しかった。
幸い、保存が効くチーズなので、そのまま日本に持って帰ることにした。
アリメンターリを出ると、次にいつも行く八百屋に寄った。フルーツを数種類、食べ納めのつもりで購入した。黄桃、ブラッドオレンジ、葡萄、洋梨だったと思う。全て、半キロずつ購入した。レモンも一つだけ購入した。
お店のおばさんは、いつものようにバジルとオレガノをおまけに付けてくれようとした。でも、丁重に断った。実は、もう直ぐ日本に帰るの……と、ここでも同じ話をした。すると、おばさんは、少し目が泳ぎ、寂しくなるけど元気でね、と言ってくれた。
帰宅すると、桃と洋梨の幾つかは、ほぼ腐りかけていた。思わず苦笑い。あの八百屋では、最後の買い物のつもりだったので、私も少し感慨深いものがあり、つい確認を怠ってしまったのだ。隙を見せれば、仕掛けてくるおばさんってことをつい失念していた。だから、日本へ帰ると聞いて、目が泳いだのだろう。少しは罪悪感があるようだ。
しかし、最後の最後まで、あのおばさんにはやられてしまった。でも、アリメンターリの夫婦といい、八百屋のおばさんといい、全く違う特性のようでいて、どちらも如何にもナポリ人らしいと思えるから、面白いものだ。
(15)L'ultima sera,Napoli
ナポリに来て丸二年。いよいよ、最後の出勤を終えた。最後の日だというのに、もう、これで会えなくなるというのに、職場では至って普通に過ごした。ショールームも工房もサロンも倉庫も、全てが見納めなのに、最後の最後まで惜別の感情が湧かなかった。
日本みたいに送別会なんてないし、花束のプレゼントもなかった。拍子抜けするぐらい、普通に仕事をし、普通に挨拶をして別れた。マッチョだけ、どこか少しよそよそしく感じたが、特に話をする機会もなくお別れになった。社長夫妻と事務員のロザリアは、別れ際に「元気でね」と言ってくれた。それだけだ。でも、そういったシーンでの立居振る舞いが苦手な私にとっては、あっさりとお別れが出来て、本当に良かったと思っている。
翌日、部屋の鍵を社長に届けることになっていた。時間は指定されていない。なので、この日がここで過ごす最後の夜だ。沢山の友達とお別れパーティーで飲み明かし、皆んなに祝福され、見送られながら……なんてドラマのような展開はなく、ほとんど何もない部屋で、一人で最後の夜を過ごすのだ。やや肩透かしだが、私にはその方が向いている。
翌日には、飛行機でオスロに向かうことになっている。どうしても、ヨーロッパにいる間にムンクの絵とフィヨルドを見ておきたかったのだ。幸い、一番ネックになっていた10kg以上もある工具鞄は、後日、社長が日本に送ってくれることになったので、大きなスーツケースとリュックというツアリスト並の軽装で、しばらく一人旅をすることになる。
最終日の夕食は、Brandiでマルゲリータを食べた。ナポリ最後の夜には、最も相応しい気がしたからだ。表向き、マルゲリータ発祥の店。一年目には、何度となく足を運んだ店。他にも色んなメニューがあるのに、ここではいつもマルゲリータしか食べなかったなぁと回想する。
食後は、自宅とは逆方向に歩き、トリエステ・トレント広場のGANBRINUSでカプチーノを飲んだ。おそらく、これが人生最後の本場のカプチーノになるかもしれない。そうすると、やはりGANBRINUSこそが最も相応しい舞台だろう。
少し多めに砂糖を入れ、軽く二〜三回ほど掻き混ぜて、泡を壊さないように、そして、唇に泡が付かないようにそっと飲んでみる。口の中で、熱いエスプレッソの深い苦味と、泡立ったまろやかなミルクが混じり合い、絶妙のバランスで舌と脳を楽しませてくれる。
そのまま半分ほど嗜むと、今度はスプーンでしっかりと混ぜるのだ。泡は、カップ内側の側面にへばり付いているもの以外はほぼ消滅し、普通のミルクとしてエスプレッソと一体化する。溶け切れなかった砂糖は底に残り、最後の一口にザラザラとしたアクセントを齎してくれる。すると、少し冷めたエスプレッソと相まって、デザートのような甘ったるいカフェラテになるのだ。あえて、分かりにくく例えるなら、液体ザラ目煎餅のよう。
こうすると、カプチーノは二回楽しめるんだぞ……これは、マッチョに教わった飲み方だった。でも、お前の好きなように飲めばいい、それがナポリの作法だ……マッチョは、そう付け加えた。じゃあ、私もマッチョと同じ飲み方にする、と言うと、嬉しそうに笑っていた。基本、単純な男なのだ。
マッチョとは、同僚なのに、二年間あまり話をする機会がなかったのは残念だ。今でも、いや、これからもずっと、私はタタレッラのままなのだろうか。それとも、本当は名前ぐらい知ってるのに、わざと違う名前で呼び続けたのだろうか……。
今更、どっちでも構わないのだが、後者であれば、ちょっと可愛いと思ってしまうし、如何にもお調子者のナポレターノっぽいなと笑えてくる。そういう私も、彼のことはマルツィオではなく、一生マッチョのままだけど。
店を出ると、例の物乞いのおばさんは、もういなかった。最後ぐらい、幾らか寄付しても良かったのだけど、既に、あのボロボロの車でご主人がお迎えに来た後だったのだろう。毎日のように見かけたけど、ついに、一度も寄付しなかった。
私は、広場でUターンして、部屋に戻ることにした。二年間で、何回も歩いた通りなのに、この日はすごく新鮮に感じた。大阪の心斎橋にも少し似ているこの人混みも、いつか懐かしく思う時が来るのだろうか?
やがて、先程食事をしたBrandiの前を素通りする。相変わらず、沢山の客が並んでいる。珍しく、日本人のカップルの姿も見えた。新婚旅行だろうか? どうして、ナポリを選択したのだろう? 観光で訪れるナポリは、どんな街に映るのだろう? 話し掛けてみたい衝動を抑え、サンタルチア海岸の方向へ歩き続ける。
最後にサンタルチア海岸を見ておこうか迷ったが、やめておくことにした。夜のサンタルチアもライトアップされていたり、高級レストランが賑わっていたり、カステル・ヌオーヴォと並ぶ有名な古城、カステル・デローヴォの幻想的な佇まいに圧倒されたり、見所は沢山ある。それでも、日中の自然光で見る海と空にはとても敵わない。それに、夜はベスビオ火山もカプリ島も見えないだろう。魅力半減だ。見納めには相応しくない。
だから、海までは行かずに、途中で右へ舵を切った。そこから更に数分歩き続けると、ディ・ミッレ通りに出る。キアイア通り程の賑わいはないが、高級な服飾店やレストランが点在する、静かながらも大きな通りだ。その途中にある細い脇道を入ると、二年間生活をしたパラッツォが見えてくる。
最後の夜も、部屋は私を静かに迎え入れてくれた。しかし、最低限の身の回りの物以外、何もなくなった空っぽの部屋は、無機質な空気を人に纏わせ、寂しい気分を与える効果がある。いつもより音が響く分、いつもより静寂を感じる。
二年間、毎日のように背負ったミレーのリュックを下ろし、椅子に腰掛ける。小さなテーブルの上に、会社から貰ってきた紙コップを置いた。最後の一本になった炭酸水を注ぎ、少しずつ喉を潤す。ナポリで過ごす最後の夜なのに、何も考えずに、ただぼーっと座ってるだけの時間を堪能する。こんなに気を抜いた時間は、ナポリに来て初めてだろう。やっぱり、二年間ずっと緊張していたのだと、改めて認識した。
やがて、二杯目の水を注ごうと思った私だが、急に気が変わり、冷凍庫を開けた。そして、思い出と一緒に、そのままナポリに残しておこうと思っていたリモンチェッロを取り出して、恐る恐る開栓してみた。何故か、飲んでみたくなったのだ。
キンキンに冷えたリモンチェッロは、それでも凍ることはなく、ドロっとしつつも流体を維持していた。ほんの少しだけ、紙コップに注いだ。全くもって、女子力ゼロの味気ない作法だが、適したグラスなんて持っていないし、もう、食器は使いたくなかった。
ほとんどお酒の飲めなかった私だが、この二年間で、ほんの少しだけ、ワインを飲むようになっていた。友達が遊びに来た時、お客様に出された時、社長夫妻と食事をする時、調律学校の先生が遊びに来た時……皆んな、ナポリでの食事の楽しみの一つに、必ずワインがランクインしていた。そんなに良いものなら、私も経験しておくべき、と考えるようになり、少しぐらいなら飲めるようにもなった。だから、リモンチェッロも……きっと、今なら少しは飲めるかもしれない。
そっと、リモンチェッロに口を付けてみた。
パオラに飲まされた時の屈辱的な経験も、今は笑い話に昇華している。生憎、まだ苦笑いだが、そのうち楽しい経験に昇格するのかもしれない。あの日と同じように、氷以上に冷たい液体が口に広がる。数秒もしないうちに、喉と胸がカッと熱くなる。強烈な甘さとほのかな酸味が、今日は少しだけ美味しく感じた。
トリエステ・トレント広場のおばさん、今頃は何してるのかな? なんてことが、ふと頭を過った。
毎日、朝から晩まで座り込んで、通りすがりの人に声を掛け続け、どれぐらいの収入になるのだろうか? それでも、そうしないと生きていけないのかもしれないし、そうするしか生きていく術がないのかもしれない。
いや、ひょっとしたらとんでもない大金持ちで、人間観察を楽しんでいるだけかもしれない。或いは、何かの罰ゲームかもしれないし、何年か続けるとご褒美があるのかもしれない。
私が詮索することでもないし、真実を知ったところで、何の関与も出来ないし、するつもりもない。
二口目のリモンチェッロに口を付ける。
パオラの時は、一口で限界だったのに、今日は自分の意志で飲んでいる。一口目よりも、レモンの風味を強く感じることが出来た。そう、これはレモンのお酒だった。そんなことも忘れてしまうぐらい、人に無理強いされるのと、自分で決めて動くのとでは大きな違いがある。もしかすると、人生もそんなものかもしれない。
人の人生なんて、誰にも理解出来ないのだ。誰にも価値は決められないし、誰も否定してはいけない。トリエステ・トレント広場に陣取る物乞いのおばさんも、カプリ島で会ったジャンレノも、アルパチーノとデニーロも、イギリス紳士風の詐欺師のおじさんも、八百屋のおばさんも、アリメンターリのご夫婦も、パオラもマッチョも社長も、ピアノ学校の夫婦も、アマルフィの農家の夫婦も、皆んな自分の人生を懸命に生きている。だから、私も自分の人生を懸命に生きようと思う。調律師として。
あの時、アマルフィの崖から飛び降りていても、誰も私の死の理由なんて理解しないだろう。生きると死ぬは表裏一体。基本的には同じこと。全て自分の選択。自分の判断。自分の意思。ナポリでは、生きる力をたくさん蓄えることが出来た。だから、これからは生きる力を吐き出していこうと思う。
コップに残る一口分のリモンチェッロ。鮮やかな色彩も、魅惑的な甘さも刺激的な酸っぱさも、ほんの少しの苦味も、ナポリの生活そのものだ。だから、ナポリで生きた体験と一緒に、全部まとめて飲み干した。
(FINE)
Limoncello