帰路にて

 分厚い雲が上空で滞留していた。なんら面白みも感じさせないありがちな曇り空で、それを窓際の席で一日中眺めていた。
 特に何かに期待していたわけでもなく、ただの癖、つまらない惰性によって眺めていたものだから、ずっとそうしていて苦ではなかった(もちろん、楽ということもないが)。それに教室に目を向けたところで、目のやり場に困るだけである。
 帰宅しようと席を立った。廊下のある方角に数人の談笑声が聞こえて、自然とやはり視線は窓の外に移るのだった。眼下にはまばらな人影、そして上空には暗雲の影が存在した。色の剥げ落ちた校舎は何一つ印象に残らない。
 ずっと遠くの山の上にかぶさる雲の一部分、それは当然一縷(いちる)の白光をも通さないほど分厚いのだが、そこだけがわずかに、まるで絨毯に包丁を落としたような裂け方で、ひりついた空の天井を露出していた。そうはいっても、ぼくにはそれがほんとうの空であるとはまったく思えなかった。それは普段の夕焼けのあかね色とは似ても似つかぬ、不安な気持ちを刺激する暗い赤色をしていた。
 ぼくは目をそらしたかった――そんなことはなかった。ぼくは少しの間、目をそらすことができなかったのだ。なぜかというぼくの心情ははっきりと言葉にならないが、きっとぼくは、ある抽象的な、人間に固有の観念、自然の猛威という呪縛から解き放たれた(あるいは目をそらすよう仕向けられた)安全圏の中で、ぼくたち市民が自然というものの本質を看取した瞬間に感じることのできる、あの崇高感と呼ばれる衝動に捉えられていたのである。あの空の血の一滴が大地に流れようものなら、地上は業火の海の思うがまま、すべての生命はその海洋になすすべなく呑み込まれ、地表は原初の不安定な状態への逆行をまぬがれない。いったいあの天の痛みと限りない怒りを招いたのは何者だろうかという奇妙な疑問が浮かんだが、そのときのぼくにとってそれはあまり重大な関心事でなかった。
 ぼくは次に、とんでもないものを目撃してしまったという昂揚感に取りつかれた。そしてもっと近くで見たいと思い、急いで校舎から出ようと思った。

 建物の中で空を見ることはかなわなくて、焦る気持ちで外に出たが、空の切れ目はすでに閉じていた。その代わりに、ぼくは意外な人物とのめぐり合わせを得た。
 最初、かれが話しかけているのがぼくであるということに考えがいかなかった。かれはもちろんぼくの名を呼んでいたし、ぼくに聞こえないはずもなかった。ところがぼくは、まるで意図的に無視しているような感じで歩き去ろうとしたのである。かれがぼくの肩に手を載せなければ、ぼくはそのまま帰路についていただろう。
 かれというのはクラスメイトの見知った男だったが、二三言葉を交わしただけの仲である。今日に限ってぼくとの付き合いを所望することはぼくにちょっと奇抜な印象を与えた。ぼくは断る理由を持たないので、かれに付き添って歩くことにした。
 ぼくは自然と「かれはなにか友人には話せないこととかで相談相手を求めていたのだ」と推測したが、しかしかれは自分から話そうとしなかった。べつにこの推測は間違っていなかった、かれはおそらく機会を伺っていたのだろう。ぼくの道程のおよそ半分を過ぎたところで、かれは唐突に言葉を発した。
「失恋」
 かれの発言は文章ですらなかったので、ぼくは危うく聞き逃してしまいそうになった。自分が正しく聞きとれているかを確認するため、ぼくはその言葉をオウム返しにした。「失恋?」
「そう失恋だよ。俺は失恋したのさ」
 かれの様子にそれらしい感情は見出されなかった。ぼくには口先だけで物事を感情的に捉えているような言い方に聞こえた。それはまるで機械のようだった。疲労による少しかすれたような声質もその確からしさに加担していた。
 ぼくはなんて言っていいかわからず、「そう……それは残念だ。残念……」などと困ったような曖昧な同情の意を表現しつつ、かれのとなりで歩いていた。実際、失恋した男にかける適切な言葉があるかどうかはずいぶん疑わしい。ぼくはそのことをこの瞬間に直観した。
「どうして僕を?」まったくの雑談口調で訊いた。
「いや、とくに深い意味はないんだ」
「べつに仲もよくないからね」ぼくがそう言うと、かれは少し心外そうな顔をした。
「俺は君のことを知っているよ。教室にいつもいるだろう。窓際の席っていうのは特権だね。たまに視線をそらすと見える、君はいつも空ばかり見ていて羨ましいもんだぜ」
「そんなことないだろう」
「そんなことあるさ。後ろから、授業に身が入らないのもよく判る」
「あまり僕のことを刺すようなら君の話は聞いてやらないぞ、その可哀そうな失恋の話というのは。君は失恋の恥ずかしい話を愚痴るために、とくに親交のない、もの静かでおとなしい僕をひっつかまえたんだろう」
「いうなればそういうことさ。俺は恥ずかしい話とは思わないが」かれは断言した。
 しかし突然、あの雲間から覗く血の夕焼けがぼくの脳裏をかすめ、一瞬にして思考の大半を奪い取った。
 ぼくはあの光を近くで見るために外に出てきたということを思い出した。やはりそれは手遅れだった。ああいった不安的な光は天がぼくたちに示した苦悩の(しるし)であって、天の威厳のために、みだりに示される種類の徴候ではないのである。ぼくは必ずしも啓示的な宗教に帰属しているわけではないが、あのとき確実に聖跡というものを受け取ったのである。
 一日中上空に停留する厚い雲は、退却のそぶりも示さなかった。ここまでの道程、そしてこれからの帰路が壮麗な夕焼けに染まった景観に囲まれているのなら上出来だったろうが、現実はそのように事は上手く運ばないのだった。徴を受け取った後では、その機械的な風景の退屈さに拍車が掛ったみたいに周りが色褪せて見えた。
「『内的で霊的な恩寵の、外的で可視的なしるし』。サクラメントだね」
 かれのその言葉を聞いて、ぼくはぼくの思考を読まれたのかとびっくりした。「え、な、なにがサクラメントって?」
 かれは不思議なものを見る目でぼくを見た。「それってのは……どうでもいいか。いや、やけに赤信号が長いと思ってさ」
 とっさに「嘘だ」と言いかけて口を開けたまま、しかし言うことはしなかった。かれは「そのもの」を得たのだろうか。ぼくは信号が青に変わってもなお、それが気になって仕方がなかった。同日に近場で別な神秘を目撃するなんてことがありえるのだろうか。
「それはどんなのだった?」
「べつに言う必要もないだろう。君から話してくれるのならいいけど」
「僕のと同じか?」
「知る由もない」
「ああ、それはそうか。ばかな質問だった」
 ぼくは、我々はもはや沈黙を保ったまま帰りの道程を終えていいのではないかという考えを強めた。 相手がどう思ったか知らないが、ぼそっと言葉を漏らしたのを聞き逃さなかった。
「そんなもの、あるかどうかもわからない」
 ぼくは一つの事実を悟った――かれがどうしてぼくと帰ることを望んだのか、その解答となりそうな事実である。
「そういえば、君は失恋のことを話したいのではなかったっけ」
「そうだ。そのつもりで君を呼び止めたのだった」得心したふうな言い方だった。「しかし、俺にとっては重要だけれども、君やほかの人にとってはどうでもいいことじゃないか。そういう気持ちになって来たよ」
「でも、君自身は?」
「どうでもよくはないさ。たぶん、その悲痛さというのは因果的なもので、君と別れた後に再び襲い掛かってくる。その攻撃は君の思うよりちょっと長く続くだろうが、でもそれは仕方のないことだ」
 ぼくはかれの意見を聞いて「そうか……それは確かに……」と納得する一方、その覆らない悲愴さに不安を覚えるのだった。かれがぼくにかれの心情を吐露したところで、いったいそれが救いになり得るのは、何秒後までの話なのだろう。あるいは何年後に実益をもたらすのだろう。
「まあつまりどういうことかというと、失恋の話は気にすることではないね。愚痴なんてもってのほかだ」かれはあくまで明るく話した。「失恋ってのは基本的に二通りだ。男が振られるか女が振られるか。今回の場合では男が振られたわけだ」
「それはどうして?」ぼくもかれの話に合わせようとしたが、この質問は少し踏み込み過ぎたかとひやひやした。かれは気前よく答えた。
「不用心な発言さ」
 かれは歩調をゆるめ、道端の小石を蹴り始めた。その姿からは限りない後悔と自省の念が感じられるような気がして、ぼくはかれの「不用心な発言」という過ちの重大さを予感した。ここで「謝罪をすれば一件落着」などと楽観的な助言をすることは簡単だとしても、かれを困らせてしまうだけだ。
「果たして俺は、他人を幸せにすることができるだろうか……なんて、ふざけた、おこがましい悩みかもしれないな」
「まあ、誰しもがそういう悩みを持っているだろうね」ぼくはかろうじてそう言った。「僕だって、ちょっと質と種類が違うかもしれないが、悩んではいる。そしてその悩みもまた、途方もなくばかげた悩みなのさ」
「それは頼もしいことだ。救いになるのならね」かれは言った。「なにはともあれ、以前の俺は一種の思い込みに囚われていたのだ、真理は自分の中にこそあるという迷妄に。むしろ、『真理が女である、と仮定すれば――、』もう少しうまくやれたのかもな」
「ニーチェはよく読むの?」
「いや、少しかじっただけだ。『善悪の彼岸』は書き出しが印象的だからね。中身は憶えていないけど」
「僕もよく知らないな」
「でも、今回の状況にぴったりのフレーズだろう」
「ああ。いい引用だった」
 二度目の信号が青になった。ぼくは信号機の音響につられ、横断するためおのずから足を踏み出すが、かれはそうしなかった。そのことにぼくはすぐ気づいて、かれの方を振り返る。
「俺は渡らないよ。家がこっちだから」
「そうか。ここでお別れだね」
「また今度」
 踵を返して歩き出すかれの後ろ姿、それは電光に照らされてはっきり見えたが、ぼくから見えるところで振り返ることはなかった。

帰路にて

帰路にて

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-13

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