透明な三日月

 道に沿って並ぶ木々は、朝の清涼な空気の中で、しんと冷えた、神秘的な空気を醸し出していた。初夏の穏やかな日光に照らされた羽虫の群れが、白い靄のように漂っていた。軽やかで美しい鳥の囀りが、静かな朝の世界に響いていた。その鳥の囀りは、なにか悲痛な叫びのようでもあった。僕は鳥の囀りが好きだった。鳥の囀り以外には何も聞こえない、そんな朝が好きだった。鳥の囀りに耳を澄ませながら、僕はキャンパスを歩いた。
 まだ一限まで時間があった僕は、木陰のベンチに腰を下ろして本を読み始めた。J・D・サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」だ。優しい黄色の木漏れ日が、僕の読んでいる本のページの上で、優雅に揺れていた。もう読むのが何回目かわからないほど、僕はこの本を読み返していた。この本に出てくるある一文が、僕の心にずっと引っかかっていた。

『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にあり、これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』

 しばらくすると、多くの人が大学に入ってきた。喋り声や足音が、僕の意識をかき乱した。僕は本を閉じて、雑踏を眺めていた。雑踏を眺めるたびに湧いてくるのは、どうしようもない疎外感だった。雑踏の人々は、皆大学に馴染んでいるように思えた。その一方で、僕は生きている意義さえつかめていなかった。人が増えてくるたびに僕は苦しくなった。僕は、逃げるように空を見上げた。澄んだ水色の空には、綿のようにふわふわとした雲が浮かんでいた。その横には、透明な三日月が浮かんでいた。僕は目線を下げた。それでも、視界の隅に、透明な三日月は浮かんでいた。
 その三日月は、微生物のように輪郭をうねうねと動かし、ちかちかときらめいていた。僕はその三日月を見てひどく陰鬱な気持ちになった。この三日月は、激しい頭痛と吐き気の前兆だった。僕はその場でうなだれた。人の足音が聞こえるたびに、吐き気が込み上げてきた。僕は逃げるように大学の奥にある森へと駆け込んだ。左手に、「ライ麦畑でつかまえて」を握りしめながら。
 森には誰もいなかった。森の中を走ると、道に敷き詰められた枯葉や、枝を踏む音がやたら大きく聞こえた。重々しい茶色の木肌や、鮮やかな深緑の木の葉が視界に入ると、僕はますます気持ちが悪くなった。そして、激しい頭痛が僕を襲った。ゆっくりと、頭を打ち付けるような、波打つ痛みだった。そして、胃の奥底から吐き気が込み上げてきた。胸の中を渦巻き、喉の奥を締め付けるような吐き気だった。視界に入る光でますます吐き気が強くなった。僕は瞼を閉じ、その場に座り込んだ。
 目を閉じても、透明な三日月は浮かんでいた。うねうねと動き、ちかちかときらめく。そんな三日月を見ていると、気が狂いそうになるほど苦しい頭痛と吐き気が、より強くなっていった。
 僕はただ、この頭痛と吐き気が早く収まってほしいと祈ることしか出来なかった。なぜ、こんな苦しい思いをしてまで、僕は生きているのだろう。一体何のために、生き続けているのだろう。頭痛が弱まってきたころ、僕は瞼を少し開いた。ぼやけた視界の中で、蟻が、僕の右腕を歩いていた。僕はその蟻をじっと見ていた。蟻は、苦悩するだろうかと考えた。僕は、ずっとこの静かな森にいられたらいいのにと思った。聞こえてくるのは、鳥の囀りだけで、人の醜い欺瞞や、欲望から切り離され、この森で眠っていたかった。ずっと目を覚ますことなく、安らかに、眠っていたかった。何も、感じたくなかった。

 僕はしばらく、その森に佇んでいた。頭痛と吐き気が収まり、気分が落ち着いてきた。木漏れ日が点々と輝く森の中を、小鳥が、跳ねながら、機敏に動き回っていた。もうとっくに、一限の開始時刻は過ぎていた。僕は初めて授業を欠席した。不思議と気分が良かった。あれだけ必死に出ていた授業のことが、不思議とどうでもよくなってきた。僕はとりあえず大学を出ることにした。一限に遅れてやってくる人を横目に、僕は大学を出た。
 大学の門の先にある信号を渡り、どこに行こうかと考えた。考えはまとまらなかったが、とりあえず駅に進んだ。改札を抜け、駅のホームへと向かった。そのとき、女性がハンカチを落とし、高校生の男の子が拾って、その女性に届けているのを見かけた。その女性は高校生になにも言わず、そそくさと去っていった。僕はその光景を見て憂鬱になった。優しさが無碍にされる様を見て、僕はやるせない気持ちになった。ホームへの階段を降りるとき、ふとこの階段を転げ落ちてしまいたいと思った。何もかもを無に帰し、この煩わしい憂鬱や、透明な三日月から逃れたかった。しかし、そんなことが絶対にできないことはわかっていた。僕は、臆病だった。何も、決めることができない。惰性で、生を貪っていた。
 行く当てのない僕は、家に帰ることにした。僕は山手線で池袋に行き、東武東上線に乗り換えた。池袋発の下り電車は、人が少なく、座席に座ることができた。静かな車内では、電車の周期的な走行音だけが聞こえた。僕は電車に揺られながら、「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ。ホールデンが夜行列車に揺られているシーンだった。女性をカクテルに誘うが断られ、列車を降りた後、電話を誰かにかけようと電話ボックスに長いこといたけれど、誰にも電話をかけられなかったホールデンが、この時の僕にはやけに寂しく思えた。僕は本を閉じ、向かいの窓で流れてゆく景色を眺めた。流れてゆく景色のように、時が流れるにつれ、人は何かを失ってゆくのだと、ふと感じた。僕は、何を失ったのだろう。ただ何かを失ったという感覚だけが、僕の胸に広がっていた。僕は、たまらなく淋しくなり、人が恋しくなった。僕は、人を恐れているのに。
 家の最寄り駅に着き、僕は電車を降りた。いつもと違う行動をしていた僕は、妙に心が落ち着かなかった。ざわつく心を抱えながら、僕は改札を抜け、家へと向かった。駅を出ると、いくらか日差しが強まっていた。夏を思わせる鋭い日差しだった。太陽に照り付けられたアスファルトは、むんむんとした熱気を放っていた。駅の出口の目の前にそびえ立つ若緑の葉が茂った木は、太陽に照らされて、力強く、美しく輝いていた。木の奥に広がる、透き通るような水色の空は、どこまでも、果てしなく続いているように思えた。そのとき、僕の顔をそっと覗きながら、
「もしかして、秋人?」
 と、女性が話しかけてきた。
「……あぁ、金原か。久しぶり」
 話しかけてきたのは、昔からの知り合いである、金原ゆうだった。大きな瞳は黒く澄み、左目の下にあるほくろが、金原だという確証を僕に持たせた。金原と会うのは、高校二年生の冬に偶然会ったとき以来だった。授業に出ずに帰ってきたところで出くわすのは、極まりが悪かった。
「うん、久しぶり。今日、秋人は大学ないの?」
「いや、あるにはあるんだけど……。金原は、これから大学?」
「うん。秋人は?」
「俺は、なんか嫌になって帰ってきちゃったんだ」
「……珍しいね。大丈夫なの、秋人」
「あぁ、大丈夫だよ。授業を休んだのは、今日が初めてなんだ」
 金原は、いつだって人の心配をしている。だから、こんな話をするのは申し訳なかった。
「そっか。無理しないでね」
「おう。ごめんな、心配させて」
「うんうん。大丈夫だよ」
 そこから、沈黙が流れた。金原は、駅に向かおうとせずに、駅の入り口をただ眺めていた。その目はまるで、とても遠くを見ているようだった。どこまでも続く、青空の向こうを見ているように思えた。
「なんか、私も今日はめんどくさくなっちゃったな」
「……そうか。なんか、悪いな」
「うんうん、いいの。あのさ、秋人。家来ない?」

 ***

 金原の家に入ると、金原の家の匂いがした。懐かしい匂いだった。廊下を少し進んだ左側に、リビングがあった。金原の家には、誰もいなかった。金原の父親は仕事に行っていた。そして、母親は三年前に病気で他界していた。リビングのテレビの横に、仏壇が備えてあった。遺影の両脇には、黄色のキンセイカが添えられていた。ほのかな線香の香りが、漂っていた。遺影の笑顔は、とても朗らかで、優しかった。
 金原の母親は、家が近かったこともあり、よく僕のことを気にかけてくれた。僕に母親がいなかったせいでもあったと思う。僕の母親は、僕を生んだ直後に亡くなった。だから僕は、母親の匂いも、温かさも、知らなかった。僕の知っている母親は、いつも写真の向こう側にいる。金原の母親は、いつも穏やかで、僕の肩にそっと手を添えてくれる、優しい人だった。金原の母親の温かさは、今でも、僕の心にそっと残っていた。僕は、金原の母親の葬儀に出た時のことを思い出した。

 葬儀の日は、息苦しい曇天の空が広がっていた。気管支が狭くなったかのように苦しかった。どんよりと、重苦しい空気が漂っていた。天寿を全うした親戚の葬儀とは違い、葬儀の場では、深い悲しみが、のしかかっていた。僕はずっと、誰とも言葉を交わさずにうつむいていた。こんなとき、どうふるまえばいいのか、僕にはわからなかった。焼香を上げに棺桶のところに向かった時、金原と、その家族と一礼をした。その時の金原の顔が、今でも脳裏に焼き付いている。
 金原の母親を乗せた霊柩車が僕の目の前を通り過ぎ、走り去っていった。エンジン音が、遠い彼方へと溶けて、儚く消えた。そして、霊柩車が去っていった方向を僕はただ眺め続けていた。そのとき、「あぁ、ほんとうにもうあの人はいなくなったんだ。もう、あの人とは会えないのか」と、ふと思った。すると、いつの間にか、涙があふれていた。大粒の涙が、止まることなく、ただ流れ続けた。そして、喉の奥底から声を上げた。嗚咽をしながら、情けない叫び声を上げ続けた。その叫びは、ただ、空に溶けてゆくだけだった。どれだけ泣き叫んでも、もう二度と会うことはできない。僕はしばらく、その場でうずくまっていた──。

「なぁ、金原。線香、上げてもいいか」
「うん。きっと、お母さんも喜ぶよ」
 僕は仏壇の前に行き、正座した。仏壇のそばに置いてあったライターでろうそくに火を灯した。赤い炎が、静かに燃えていた。僕はその炎に線香を近づけた。線香の先端に、小さな炎が灯った。ろうそくの炎から線香を離し、線香を振って小さな炎を消した。細々とした、弱々しい、白い煙が立ち昇った。そして、僕は線香を香炉に立てた。線香の、優しくて、もの悲しい香りが漂った。僕は遺影を見つめた。金原の母親と、目が合った。遺影に映る顔は、一寸たりとも動かない。僕が遺影を見て真っ先に思い出したのは、あの人の声や、言葉ではなく、優しさだった。あの、温かい、優しさ。僕は金色に輝くリンを鳴らした。重々しく、リンの音が円を描くように鳴り響いた。静かな家の中に、余すことなく、音が染み渡った。僕は合掌して、瞳を閉じた。僕は、金原の母親の声が聞こえるような気がした。すべてを包み込んでくれるような、優しい声を。しかし、目を開くと、目の前には微笑んでいる遺影があるだけだった。僕は立ち上がった。
「久しぶりに、来れてよかったよ」
「そっか。ありがとね、秋人。あのさ……久しぶりに、部屋、来ない?」
「金原の部屋か……。ほんとに久しぶりだな」
「あんまり片付いてないけど、気にしないでね」
 と言いながら、金原はリビングを出た。リビングを出ると、正面に階段があった。段差が急な階段だった。その階段を上がった右側に、金原の部屋があった。小学生の頃は、金原の家に行くと、いつも金原の部屋で漫画を読んだり、宿題をしたりしていた。中学に上がってからは、妙に気恥ずかしくなって、金原の部屋に行くことはなかった。
 金原が扉を開き、中に入った。それに続いて、僕も部屋の中に入った。部屋の様子はあまり変わっていなかった。本棚の数が増えたように感じた。奥には窓があり、白いカーテンが閉められていた。水色のシーツがひかれたベッドの上に、白い掛布団が乱れていた。一階よりも、空気が暖かく、乾いているように感じた。
 僕はリュックを部屋の隅に置いた。金原は、肩にかけていたバッグを椅子に置くと、僕のことを黙って見つめた。そして、ゆっくりと僕に近づき、僕に抱き着いた。僕は、自然と金原のことを抱きしめた。金原の体温が、全身に伝わり、ショートカットの髪から、ほのかにいい香りがした。強い抱擁だった。体が密着して、僕らが一つになってゆくような抱擁だった。そして、金原は顔を上げ、僕の唇に接吻した。僕はただ、それを受け入れた。金原の唇が、僕の唇にそっと触れた。唇は熱かった。僕と金原はベッドに倒れこんだ。そして、抱き合って、互いを見つめあいながら、接吻を繰り返した。全身に感じる金原の温もりが、幸せだった。僕は、初めて人とつながっているように感じた。家族にさえも、恐れを抱き、距離がつかめていなかった僕が、ずっと求めていたものだった。
 僕らは、心の隙間に入り込むように、体を寄せあった。僕の唇が、金原の唇を挟む。金原の唇が、僕の唇を挟む。僕らはただ、それを繰り返した。金原の唇は柔らかかった。その柔らかい唇を、僕の唇が包み、一体になるとき、僕は幸福だった。抱き合い、金原の体温を感じながら繰り返す接吻は、僕らの孤独や、苦悩を溶かしていくようだった。僕は初めて、許されているように感じた。今まで、一人でもがき苦しみ、辛く孤独に生きてきたのは、この時のためであり、僕は、やっと、報われたような気がした。僕たちはきっと、ただ寂しかったのだ。ただ、安心したかったのだ。僕たちは、より心が近づくように、より繋がるように、足を絡めあい、体を寄せ合った。柔らかい金原の体が、僕の肌に伝わった。金原の心臓の鼓動が、僕の胸に伝わった。熱気がこもる部屋の中で、互いを温めあい、許しあった。
「これは、最後のわがまま。私は、ずっと、あなたのことが好きだった。でも、あなたはそうじゃないって、私、わかってた」
「そんなこと、ない」
「違うの。私には、わかるんだよ。きっと、それは思い違いなの。あなたは、私のことが好きなわけじゃないんだよ。あなたはただ、優しいだけなの」
 金原の黒い澄んだ瞳が、潤んだ。金原の瞳から、涙があふれた。金原は僕の胸に顔をうずめ、声をあげて泣いた。僕は、ただ金原を抱きしめることしか出来なかった。僕は、部屋を見まわした。向かいの壁にかかっている写真に、目が留まった。金原と、金原の母親が、二人で映っている写真だった。二人とも、健やかな笑顔を浮かべていた。一切の陰りがない、美しい笑顔だった。僕はその写真を見て、淋しくなった。僕はより強く、金原を抱きしめた。
 泣き止んで、落ち着いた後、金原は後ろを向き、僕に背を向けた。金原の背中が、とても小さいように思えた。金原は、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。金原は、落ち着いた口調で、話し始めた。
「私さ、どうすればいいのか、わからなくなっちゃった。ずっと、正しいことをすればいいと思ってた。正しく、優しくあるべきだと、思ってた。けどね、私、どんどん生きづらくなるの。周りの人が、どんどん正しくなくなっていくの。社会は、ちっとも正しくないの。だからさ、私は、どうすればいいのかわからないの」
 最後の言葉を吐き出すときの金原の声は、喉の底から出てくる悲痛な叫びだった。金原は、生真面目な奴だった。奥底にある正義感が、揺るがない。誰も見ていなくても、信号は守る。たとえ自分以外の全員が許容していたとしても、それが間違っているのなら、金原は自分を突き通す。そのせいで、中学のとき、クラスのほかの女子と衝突することも少なくなかった。
 金原は、母親に憧れていたのだ。あの人のように、強く、正しく、優しくあろうとしていた。僕も、そうだった。
「俺も、わからないんだ。自分が、どうふるまえばいいのか。どう生きればいいのか。何にも、わからない」
 金原は、寝返り、こちらを向いて、微笑んだ。金原の顔に、カーテンの隙間から漏れ出た黄金色の日光が、一筋、伸びていた。
「私たち、何にもわかってないね」
「あぁ、本当に、そうだ」
 僕も、思わず微笑んだ。
 本当に僕には、何もない。誰よりも得意なことも、誰よりも好きなことも、何もない。なぜ、本当に僕は、生きているのだろうか。僕は、空虚で、空っぽだ。

 翌日は、二限から講義に出た。講義の時間は、いつも退屈だった。実存主義を知ったところで、僕は何者になれるのだろうかという考えが、頭を埋め尽くしていた。教授の声は遠のき、頬杖をして、ただ、窓から外の景色を眺めていた。強風にあおられ、木の梢が、激しく揺れていた。日光に照らされ、鮮やかに輝き、強く揺れる木は、内側でうごめく生命を感じさせた。幹の中に、血が通い、激しく脈打っているように思えた。
 僕は揺れる木を眺めて、昨日見た透明な三日月を思い出していた。今度は、いつ現れるのだろうと思うと、僕は憂鬱になった。
 講義の途中で、景色を見ることに飽きると、僕はいつも、リュックから「ライ麦畑でつかまえて」を取り出し、読み始める。今僕は、ライ麦畑の断崖に立ち、底がどこまであるのかわからない、真っ暗な奈落を見ているのだと思った。アントリーに先生は「道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた」と言う。しかし、僕はやはり、孤独だった。共感したとしても、自分は、ホールデンでも、ハンス・ギーベンラートでも、大庭葉蔵でもない。僕が進むべき道は、どこにも、記されていない。
 講義が終わり、教室を出ようとしたとき
「よう、斎藤」
 と、後ろから話しかけられた。僕は思わず、肩を上げてびくついてしまった。振り向くと、そこには僕と同じ哲学科の木村がいた。髪はくせ毛でもじゃもじゃしていて、黒い丸渕の眼鏡をかけていた。
「なんだ、木村か」
「お前、昨日いなかったろ。サボりか?」
「うん、まぁ、そんな感じ」
「珍しいな。ま、たまには休むことも必要だ」
「そう言ってくれると、ありがたいよ」
 木村は、いつも、前を向いているように思えた。人生の指針があるような、そういう前向きさだった。僕はいつも、彼が羨ましかった。
「昼、食堂でいいか?」
「あぁ、混まない内にいこう」
 と、木村は笑った。

 学食で僕はカレーを頼み、木村は唐揚げ定食を頼んだ。お互い向き合って昼食を食べ進めていた。僕はふと、今まで何となく感じていた、木村の人生の指針が何なのかを、聞いてみようと思った。人生に何の目的を見いだせずにいる現状が、変わるかもしれないと思った。
「木村は、なにか、こう、人生の目標みたいなものはあるのか?」
 僕の声は、震えていた。
 木村は食べる箸を止めて、こちらを見た。
「なんだ、突然。まぁ、あるにはあるよ」
「どんなのか、教えてもらっていいか」
「俺、この前、小説書いてるって言ったよな」
「あぁ」
 木村は、お盆に乗った唐揚げを真っ直ぐに見つめながら、話し始めた。
「俺はさ、これを書いたら死んでもいいって思える小説を書きたいんだ。そして、とっとと死ぬんだ。今はただ、そのために生きてるよ」
「これを書いたら死んでもいいと思える小説、か……」
「小説じゃなくてもよかったんだ。音楽でも、絵でも、なにか、これさえあれば死んでもいいと思えるものを創りたいんだ。生きた証って言うと、すごく大層なものに思えるかもしれないけど、ただ、自分の力を振り絞って、もうこれさえあればいいと思える何かを残せればいいんだ。人間、いつかは死ぬんだからさ。そういうものを創って、俺はとっとと死ぬんだよ」
 そう言って、木村は、またもぐもぐと、唐揚げを食べ始めた。死ぬ理由の話なのに、僕にはとても魅力的で、希望があふれているように思えた。死は、必ずしも絶望ではないのだと、僕は感じた。
「俺は、お前が羨ましいよ」
 ぼそっと、僕からこぼれた言葉は、隠しようがない本音だった。
「変なことを言うな、お前は」
 木村は、目元にしわを寄せて、笑った。

 夕方、講義が終わり、外に出ると、土砂降りの雨が降っていた。絶え間なく雨粒が地面にぶつかる音が轟き、空気は湿り、雨の香りが漂っていた。地面にはいくつも水たまりができ、その水たまりに落ちる雨粒が水面を揺らし、水面に映る空が揺れていた。昼の晴れ間が嘘のように、空は灰色の濁った雲に埋め尽くされ、太陽はすっかり姿を消していた。まるで、どこか遠くで、誰かの命が、姿を消したのだと、僕に物語っているようだった。
 僕は売店で傘を買い、雨の中の道を歩き出した。激しく傘にぶつかる雨が、大きな音を鳴らした。水がたまった道を歩くたびに、ぴちゃぴちゃと、足音が鳴った。雲で空が閉ざされ、様々な音が充満する豪雨の世界が、息苦しかった。僕はずっと、何かに閉じ込められているという思いが、雨によってより一層強まった。道に沿って並ぶ木々は、雨に濡れ、色を深く、暗くしていた。木肌はより黒々とした茶色に染まり、茂る葉はより深い緑へと染まっていた。僕はその鬱屈とした景色を見て、陰鬱になった。僕は、このような気分になるたびに、疲れる。心を消耗し、それに抗うだけの気力が、僕にはない。僕は、生きることに、疲れていた。

 家のある通りを歩く頃には、日は沈み、辺りは暗くなっていた。雨は弱まり、しとしとと、静かに降っていた。住宅街の細い道に、等間隔に並ぶ街灯が、細く弱々しい雨粒を映し出していた。僕は家のドアの横にある傘立てに傘をしまい、鍵を開け、ドアを開いた。
 薄暗い廊下が、ひっそりと伸びていた。いつもは何とも思わないその光景が、とても不吉なもののように感じた。リビングに入り、電気をつけた。家には、誰もいない。父はいつも夜遅くまで仕事をしていた。僕はリュックをソファーに放り投げ、ソファーに深く腰を下ろした。テレビをつけ、ニュース番組をただ無心で見ていた。その時だった。
「きょう未明、埼玉県○○市で、××川に浮いている、女性の遺体が発見されました。警察は事故と自殺両方の線で捜査を進めています。亡くなったのは、二十歳の女子大学生、金原ゆうさんで―――――――――」
 アナウンサーの声が、遠のいた。血の気が、引いた。原稿を読み上げるアナウンサーの声が、淡々と流れ続けた。僕は、だんだんと、吐き気が込み上げてきた。胃の奥底が、ふつふつと、煮えたぎるような、吐き気だった。心臓に、そっと、息を吹きかけられるような、寒気を感じた。僕はとっさにテレビのリモコンを手に取り、電源を消した。部屋の中は、しん、と静まり返った。掛け時計の秒針の音が、どんどん大きくなってゆくように感じた。ぱらぱらと、窓に雨が当たる音が、起伏もなく、鳴り続けた。僕はただ、呆然としていた。脳が、考えることを拒否していた。僕を襲ったのは、悲しみではなかった。莫大な、虚無感だった。そして、「ライ麦畑でつかまえて」の、あの一文が、僕の頭に浮かんできた。

『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にあり、これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』

 僕はしばらく、真っ黒なテレビの画面を眺めていた。そこには、殺風景な部屋と、ソファーに座る僕の姿が映っていた。それは、魂を失った、抜け殻のような、哀れな姿だった。どれぐらいたったときだろうか。僕は、何かに追い立てられた。このままではいけないという、漠然とした焦燥が、僕を駆り立てた。僕は、立ち上がって、玄関に向かった。逃げるように、外に出た。
 雨は、止んでいた。ただ、静かな夜の世界が、広がっていた。雨上がりの景色は、あらゆる汚れを洗い流したようだった。街灯の淋しい光に照らされた、湿ったアスファルトは、つややかに白く輝いていた。僕は、あてもなく、歩き始めた。僕の足音だけが、この世界を満たしていた。足を一歩踏み出すごとに、僕は世界から孤立していくように感じた。ふと、空を見上げると、灰色の雲の間から覗く、三日月が浮かんでいた。その月は、三日月というには、あまりに細く、鋭かった。雨上がりの、みずみずしく澄み渡った藍色の夜空に浮かび、黄金色に輝いていた。月は、夜空を切り裂くように、強く、鋭く、輝いていた。僕は思わず立ち止まり、その三日月を眺めていた。
 すると、その三日月の隣に、透明な三日月が浮かんできた。輪郭をうねうねと動かし、ちかちかときらめく。また、お前か。僕は、深い絶望に襲われた。
 僕は、この三日月から逃れることができないのか?
 強く打ち付ける頭痛と、胸の奥から込み上げてくる激しい吐き気が僕を襲った。僕は、膝をつき、その場で四つん這いになった。濡れたアスファルトに反射する街灯の光が、目に入り込み、頭をかき乱す。僕は、目を瞑った。湿ったアスファルトの匂いが、僕の肺に入り込み、吐き気を強くする。僕はただ、地面に向かって、荒い呼吸を繰り返した。透明な三日月は、僕を、執拗に、死へと追いやる。なぜ生きているのかと、僕に問いかける。しかし、僕には、高貴な死を選ぶような、理想がなかった。透明な三日月は、そんな僕を、嘲笑っているように感じた。

 夜、布団の中で瞼を閉じた。ただただ視界は暗い。何も見えない。深海の中で漂っているかのような浮遊感がある。体が眠りに着こうとする中で、頭は妙に冴えてゆく。意識がどんどんはっきりしてくる。三日月ではなく、僕が、僕に問いかける。
「なぜ、生きているのか」
 金原は死んだ。僕は生きている。この紛れもない事実が、僕にはうまく呑み込めなかった。なぜ金原は死を選んだのだろうか。正しくない世の中に失望したのだろうか。いくら考えたところで、きっと、それは金原にしかわからない。僕が入り込む余地はない。あのとき、抱き合い、繋がったと思えた金原は、死という領域に入り込み、僕と隔絶されてしまった。もう、金原とつながることはできない。僕は、この世界に、独り、取り残されてしまった。僕は、ひとりぼっちだ。
 どんどん頭は冴えてゆく。思考は絡まって、ぐちゃぐちゃになってゆく。落ち着かなくなった僕は、ベッドから出た。階段を下りて、麦茶を飲もうとキッチンに向かった。そのとき、食卓に一人で佇む父の姿が目に入った。リビングは暗いままで、食卓の上の明かりだけがついていた。父の右手には、缶ビールが握りしめられていた。湿っぽい酒の匂いが部屋にこもっていた。
「秋人、まだ起きてたのか」
 僕に気づいた父は、弱々しい声で、僕にそう言い放った。その表情は、自嘲するような、寂しいような、もの悲しい表情だった。僕に向けられた父の瞳は、濁っていた。その目は、僕を見ていないように感じた。ずっと、そうだった。父は僕を見るとき、本当に僕のことを見ていない。その瞳はいつでも別の何かを見ていた。遠い過去を見ているようだった。
「うん。眠れなくて」
 僕はキッチンに向かう気になれなかった。父と話すのはとても久しぶりな気がした。同じ家に住みながら、僕らはとても遠いところにいるように思えた。父は、僕を大事に育ててくれたように思う。けれど、それはどこか空虚で、表面的なものだった。
「お前は、本当に、どんどん秋子に似てくるな……」
 父は僕の顔を眺めながら、そうつぶやいた。すぐに消え失せてしまうような震える声だった。秋子。僕の母の名前。僕は、僕の名前の中に、いつも、母がいるように感じていた。こんな父を見るのは初めてだった。いつも見る父は、厳かで、穏やかで、弱みを見せない。そんな父が、今、天敵におびえる小動物のような雰囲気を身にまとっていた。何か異様な空気が、その場に立ち込めていた。
 父は立ち上がって、僕の目の前に立ち止まった。僕は、ただそんな父を眺めることしか出来なかった。頭が追い付かなかった。父は拳を握り締め、手を震わせていた。
「どうして………どうして……」
 泣きそうな声だった。そんな声を父から聞くのは初めてで、僕は驚き、呆然と、父を見ていた。
 父は突然、僕を突き飛ばした。僕は倒れて、壁に背中を打った。重い衝撃が襲い、息がしづらい。あまりの恐怖で、声は出ず、足の震えが止まらない。これは、父なのか? 今目の前に立っているのは、本当に僕の父親なのか? 父の顔は、怒りと悲しみに満ちていた。その怒りと悲しみは、僕にはどうすることもできないことが、なんとなくわかった。
「どうしてお前なんだっ……。秋子ではなく、どうしてお前なんだっ……。なんで、おまえが生きているんだ。どうして秋子が死んで、お前が生きているんだ。なんで……なんで…………」
 本当はわかっていた。ずっと前から、わかっていた。この言葉で僕は確信を得た。父は、僕を見ずに、母を見ていた。僕を通して、ずっと、母を見ていた。僕はその媒体でしかなかった。僕のことを見てくれた人は、みんな、いなくなってしまった。金原も、金原の母親も、もういない。
 父は息を荒げながら、僕を見据えた。突然、正気を取り戻したようだった。今起きている光景を眺め、なんとかその情報を処理しようとしていた。
「あぁ……」
 哀れなうめき声を漏らし、膝から崩れ落ちた。
「すまない……。本当に、すまない……。俺は、俺は……」
 僕は、父を許す気にも、責める気にもならなかった。崩れ落ちた父を眺め、ただ哀れだと思った。僕は今どこにいるのだろう。自分の家だ。自分の家だろうか。今目の前にいるこの男は、僕の家族なのだろうか。僕は、僕のいるところがわからなくなった。僕はここにいるべきではないような気がした。僕はどこに向かえばいいのだろう。僕は帰る場所がなくなった。金原の母親と、金原がいなくなって、僕はこの世界にいる理由がなくなったように思えた。それでも、父が、とても、とても細い糸のような、わずかな希望だった。僕には家族がいた。けれど、どうだろう。目の前で崩れているこの男は、家族だろうか。いや、違う。もう、誰もいなかった。糸は切れてしまった。僕は玄関へと淡々と進み、家を出た。死のうと思った。

 優しい穏やかな夜風が僕の肌を撫で、服と髪を揺らす。寝静まった街が、僕の下に広がる。青く暗い夜の街には、ぽつぽつと、窓から光が漏れていた。コンビニの大きな看板の光が、一際強く光っていた。頭上には、建物から邪魔をされずに広がる、広い夜空があった。雲が姿を消し、夜空は澄んでいた。三日月が鋭く輝き、星が煌めいていた。広い夜空に星は点々と輝いていた。ぎらぎらと、強烈な光を放っていた。末期の目、なのだろうか。こんなに美しい星空を、僕は見たことがあっただろうかと思った。青い星は宝石のように美しかった。白い星は炎のように燃え、揺れていた。
 僕はまた、下に広がる街を眺めた。自分がいる場所が高いことを、改めて実感する。そして、その夜の街の中に、透明な三日月が浮かびだした。輪郭をうねうねと動かし、ちかちかときらめく。もう見るだけで頭が痛くて、吐き気がした。透明な三日月は、僕の背中を押しているように思えた。飛べば、楽になるよ、もう苦しまないで済むよ、君の大切な人がいるところに行けるよ、と。
 飛び降りようとした僕の頭の中に浮かんできたのは、「ライ麦畑でつかまえて」のジェームズ・キャスルだった。僕は、「ライ麦畑でつかまえて」で彼が一番好きだった。

『ステービルは、うすぎたないろくでなしを六人ばかし連れて、ジェームズ・キャスルの部屋におしかけて行って、中に入って鍵をかけて、ジェームズ・キャスルに、言ったことを取り消させようとしたんだな。ところが相手はどうしてもうんと言わない。そこで彼らは手荒なことをやったんだ。(中略)あいつは君にも見せたかったな。痩せっぽちで、小さな、弱々しい男で、手首なんか鉛筆ぐらいの太さしかないんだよ。しまいに、そいつがどうしたかというとだな、自分が言ったことを取り消すかわりに、窓から飛び降りちまったんだ。』

 僕は、一歩踏み出そうと、足を動かそうとした。けれど、足は全く動かなかった。とてつもなく足が重くなった。なんで。なんで動かないんだ。地面にくっついてしまったかのように、足は動こうとしなかった。飛び降りれば楽になるのに。飛び降りれば、この透明な三日月から逃れられるのに。僕の足は動かない。
 僕は、死ぬのが怖かった。
 動かそうとすればするほど、がたがたと、足の震えがどんどん大きくなった。奥歯がかちかちと音を鳴らした。息が荒くなり、僕は後ずさりして、腰を抜かした。そのまま寝そべり、コンクリートの冷たい地面と、僕の腕と、透明な三日月をただ眺めていた。とてつもない脱力感が僕を襲った。僕は死ねなかった。

透明な三日月

透明な三日月

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-07

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