亡き星々の為のトラクトゥス
第一章 終りの詩
プロローグ
水面を跳ね返しながら朽葉は粟立つ。夕日の底で陰が揺れる。春風に鳴かれ、攫われゆく新緑の薫りが夜の足跡を静々と撫でる。葉灼けはいつ褪せたのか。苔生した樹海にこぼれ落ちた木洩れ日は泥濘に咲いた葉舟に延びた。
落葉松が角ぐむ奥深くから獣の歌声は木霊する。日降を仰ぐ白狼の遠吠え。夜を呼ぶ青葉木菟の囀り。蟻の群れは巣穴のぬくもりに息を潜めて、連れ鳴きに耳を傾けていた。
老樹を背に広がる墓標の海の傍らで、青年は膝を折った。懐から凛と悴む、詩想すら涸れる寒さだ。嗚咽を堪えた息が枯れる。霜焼けた指が痺る。木蔭に立ち込める瘴霧は地べたを這って、草戯れの褥に跨る。彼は悪寒に絞められた臙脂色の背を丸めて、冷たい墓標に背を預けた。
遥か頭上に佇むは一羽ばかりの旅鴉。剥がれた爪先でひと枝を摘んで、鈍色の嘴を震わせている。濡れ羽裏から覗かせる瞳は陰日向。焼け色の暖簾で咽び哭き、暮残りを見晴らしている。青年は塒を巻いた鴉から目を背けた。
ピントを重ねた先は眩暈。瘴霧は濛々として歪み、おぼろと白んだ輪郭の奥に朱いビイドロが映り込む。寝惚けているのだろうか。澱んだ瞼を擦りながらも、うつらうつら、夢寐の狭間で酔いしれて、水滴を綴った一葉に鼻息を漏らす。そうしているうちに風は囁き、山並みの余韻もいつとなく薄れて、遂には消える。耳元は健やかに静まり返った。
どこかで、はらり朽ちた花殻が跡をつけて、くしゃりと罅る。朝露の滴る一升瓶に檸檬の花を咲かせたような匂いが鼻を擽る。せらせらと靡いた薄絹のフリルが穏やかな深緑の頬を撫でる。アレルヤを口遊む声は囁きながらも甲高く、からからと空気の膜が軽弾む。
睫毛を上げると、湿った墓標の竿石に濡れた素足がぶら下がっていた。柔らかい唇が「目を覚まして」と確かに告げた。不可解な詞に怪訝が過った。記憶という山の麓に竹藪がかかり、霧が撒かれた。
云い寄る影が瘴霧の中で膨らんだ。唇から吐かれた淡い吐息が鼻先に触れ合う。
「夢から、目を、目を覚まして」
木洩れ日の如雨露に注がれて、蕾を孕んだ瞼は朱い花を咲かせて藍色に絡んだ。ビイドロと見紛うほどの瞳に、青年は穏やかな緑の幻想ではなく少女に目を奪われた。薄い頬が熱って、ゆるやかに綻ぶ気配がした。
記憶の底から甦る姿は瞳孔を生血で潰された外套の——。
突然、葉隠れから牡馬が低く嘶いた。しとど濡れた落葉掃きを戞々と踏んで歩くひづめから花茎を蹴り掻ける音がする。鬣を棘と乱し、荒い鼻息か窺える姿は、死出の山路を彷徨い続ける経帷子を思わせた。遠目からの視線に辺りを見渡す。白狼の遠吠えが風を切る。頭上から青葉木菟の囀りが聴こえて空を見上げると、夕焼けが消えていた。
空には継ぎ目のない雲がなだれ込む。息を吐き、また吸うと、ポツ、と冷たい雨が頬を抓った。糠雨はやがて天の堰を引破って篠突く勢いで降り出した。足跡をつける泥濘み、獣の泥を濯ぐ大粒。空には稲光が瞬いて、黒風に捲られた波が湖を濫する。
葉末をながれる水滴を目で追っていると、枝先から旅鴉が落ちてきた。足を転がる爛れた肉塊。太腿の上でひく、ひくと痙攣する鉄の羽毛。罅割れた嘴の欠片が足元に散る。死骸に手を伸ばしたとき景色は大きく姿を変えた。
天井からシャンデリアが落ちてきた。
亡き星々の為のトラクトゥス