羊の瞞し 第7章 FANTASTICな羊
(1)side A-1 Overture
ダラダラと寝て過ごす予定だった休日の朝。しかし、枕元から微かに流れてくるダースベイダーのテーマ曲を鼓膜でキャッチするや否や、変更を余儀なくされた。
午前八時半——。目覚めの時間として、一般的な社会人にとっては致命的な寝坊に当たるだろう。だが、普段から朝が苦手な上、まだまだ寝るつもりだったこの日の松本にとっては早朝に値する。それなのに、この音楽を認識するなり、松本はパブロフの犬の如くベッドから飛び起きた。基本的に、榊が携帯電話から掛けてくる時は、ろくなことはない。なので、その着信音をダースベイダーのテーマに設定しているのだ。
ネガティヴな話だと予想はしても、ダースベイダーは無視出来ない。尤も、電話に出ないという選択が、より危険な結果を招くことを経験則から学んでいた。なので、一度大きく深呼吸をし、気休め程度でも頭をスッキリさせようと試みた。あまり待たせても、それはそれで機嫌を損ねてしまう。松本は、意を決して電話に出た。いつもそうだが、榊からの電話に出る時は恐怖心にも似た緊張感に飲み込まれ、自ずと背筋を伸ばしてしまう。
「お疲れ様です、松本です」
そう言い終わるか否かのタイミングで、榊は言葉を被せてきた。不機嫌な声質に緊急性を孕む言い回し。もっとも、機嫌が良くても緊急性がなくても、大差はないのだが。
生憎なのか幸いなのか、電波状況が良くないようだ。まさにダースベイダーのように、途切れがちのくぐもった音声で捲し立ててくるが、単語が上手く聞き取れない。明確に伝わるのは怒気のみ。やはり、ろくなことはない。ダースベイダーがお似合いだ。
「……ってことだ。直ぐに店に来れるか?」
「九十分後に到着します」
結局、榊の話はよく聞き取れなかったが、どうやら呼び出されたらしいことは理解した。それに、不安定な回線でゴチャゴチャ言われるよりは会う方が早い。二日酔いの重い身体に鞭打ち、松本は冷えた缶コーヒーを一気飲みし、気の進まないままに出社の用意をした。こういう時だけは、もっと会社の近くに引越すべきだったと後悔する。
定休日のピアノ専科だが、駐車場に到着すると、榊の高級輸入車が圧倒的な威圧感を発散しながら駐車されていた。敢えて、数台分離れた場所に、松本は自分のプリウスを駐めた。
新しく開通したバイパスが空いていたおかげで、予定より十分も早く着いたが、急いでショールームに駆け込んだ。案の定、待たされることを極度に嫌う榊が睨みつけながら待っていた。急いで挨拶をすると、「休みなのに呼びつけてすまんな」と表情とは裏腹の穏やかな口調で返事が返ってきた。機嫌は悪くはないようだ。松本は、やや拍子抜けすると共にほんの少しだけ安堵した。
「とんでもございません。それよりも、あのぉ……先程は電波が悪かったのか聞き取りにくい所がありました。申し訳ございませんが、もう一度ご用件をご説明願えますか?」
松本は、率直に呼び出された理由を尋ねてみた。今度こそ怒鳴られるかも、と身構えつつも、幸いなことに、榊は特に機嫌を損ねることなく無表情で応えた。
「用件は今から話す。電話では、漆原の婆さんが死んだってことしか言ってない。先々月、お前が下見に行った客だ」
漆原の婆さんが死んだ?
それって、誰のことだろう?
松本は、懸命に記憶をたどってみたが、「漆原の婆さん」が誰なのか思い出せなかった。毎日何件も訪問していると、一人一人の顔や名前など覚えていられないのだ。しかも、普通の調律師と顧客の間柄ならまだしも、ピアノ専科の営業と顧客の関係は、その時一回限りで終結することがほとんどだ。
「すみません、漆原様が思い出せません」
「だろうな。でも、D難度の客と言えば分かるだろう?」
あぁ! あの婆さんか!
滅多に取れないD難度を最後に取った客だ。大半の客のことは忘れても、D難度の客だけは大抵思い出せる。特に、漆原絹代は、大幅なノルマ割れが数ヶ月続いた松本にとって、土壇場で現れた救世主だった。
確か、先々月のこと。孫にピアノを習わす為、娘夫婦にピアノを寄贈したい……そんな話だった。全く価値のない粗悪ピアノを、ドイツ製の高級ピアノと思い込み、徹底的に直したいと希望した。なので、全塗装まで行うことにし、総額九十五万円の契約を交わした気の毒な婆さんだ。あれから、一ヶ月半経過したことになる。しかし、まだあのピアノは手付かずのまま、倉庫で埃まみれになって眠っているだろう。
もちろん、見積りに忠実な修理なんて行うつもりはない。納品直前に念入りなクリーニングをして、ハンマーのファイリング行い、弦の錆を落とせば、「ピアノ専科式全塗装付きオーバーホール」の仕上がりだ。おそらく、アルバイトが数人で取り組めば、二〜三日もあれば終えるだろう。
「思い出しました。全塗装付きのオーバーホールです」
そうだ……と、一切表情を変えずに榊は軽く頷いた。
「あの方、とても元気そうでしたが……いつお亡くなりになったのでしょうか?」
すると、ほんの少しだけ榊は表情を曇らせた。
「下見の数日後に、心筋梗塞で死んだらしい。まぁ、婆さんが死んだことはどうでもいい。お前を呼んだのはな、娘の旦那とやらが茶々を入れてきたからだ」
松本にとっての救世主でも、榊にとっては金蔓に過ぎない。人の死を「どうでもいい」の一言で片付けることに抵抗はあるものの、二度と会う予定のなかった人には違いない。実際、今の今まで、彼女のことなんて忘れていたし、ましてやその生死に何の関心もなかったのは事実だ。
それぐらいの希薄な関係において、「まだ生きてる」と「先日死んだ」という情報の間に、どれぐらいの違いがあるのだろうか。そこに同情の念が沸き起こるのは、単なる偽善なのだろうか。
「冨樫明宏というのが、漆原の娘千佳の旦那だ。コイツがクセモノでな、うちの評判を調べ尽くしたそうだ。不当に不具合を捏造して、不安を煽って強引に修理の契約したのではないか、と疑っている。まぁ、正解だがな」
松本にとって、これは概ね予想通りの話だった。大体、ピアノ専科へのクレームは似たようなものばかりだ。なので、対処法も確立されており、専属のスタッフも常駐している。つまり、こういうトラブルには慣れている。
「残された書面だけでは、不当な契約か判断出来ません。逆に、内容によっては名誉毀損に当たります。それに、実際に契約は成立しています。契約者が死亡したところで白紙にはなりません。相続人に、注文者の地位が移転します。なので、履行する法的義務がある筈です」
「その通り。だが、相続されるのは義務だけじゃなく、注文者の権利もだ。つまり、契約を解除することも出来る。勿論、その場合は規約に則った補償……例えば、ここまでに掛かった実費、或いは原状回復を求めるならその経費などは、問題なく請求出来る。実際のところ、あのピアノは全くの手付かずだけどな」
では、何が問題なのだろうか?
冨樫がピアノ専科の実態を見抜き、不当な修理だと糾弾したところで、契約を締結した事実は法的に覆らない。そのまま履行するか、違約金を払って解除するしか選択肢はないのだ。
「では、何が問題なのでしょう?」
すると、榊は「まぁ、座りな」と椅子を差し出し、ゆっくりと腰掛けた。ピアノ専科の会議は、立ったまま行う慣例がある。今日は定例会議ではないのだが、特殊な案件なのだと実感した。
「実は、冨樫は弁護士だ。と言っても、まだ若造だしうちの弁護士の方が有能だろうが、問題は堅気じゃないこと……三木組の顧問弁護士もやってるんだ。つまり、裏の世界にも顔が効く」
三木組とは、この地方を牛耳ってる最大勢力の暴力団で、ピアノ専科といえども、さすがに揉め事を起こすわけにはいかない相手だ。
「そうでしたか……申し訳ございません。把握していませんでした」
「いや、そこは営業の責任ではない」
どうやら、松本は責められているのではない。その点には安心したものの、まだ話の展開は読めないでいた。
「では、速やかに契約解除して、ピアノを返却する方向で話し合いましょうか?」
考えたところで、他に方策は思い付かない。そして、その役目を担う為に呼び出されたものだと思ったのだ。しかし、榊は黙り込んだまま頭を左右に振る。否定の意思表示だろう。
「それがベストだが、草薙の所為でややこしくなったんだ」
松本は、ルーズで虚言癖のある新人の草薙清暙の雇用を、予てから疑問視していた。いつかトラブルを引き起こすのではないか、と危惧していたのだが、その不安は的中したようだ。
果たして、彼は一体何をやらかしたのだろうか?
榊は、そのことも含め、トラブルの経緯を詳しく説明してくれた。
(2)side B-1 Prelude
男は、郊外に向かうガラガラの市バスに乗り込むと、一人掛けの座席に、慎重に、スローモーションのようにゆっくりと腰を下ろした。早期定年して以来、めっきり外出が減った為か、少し歩くだけで呼吸が乱れる自分に嫌気がさす。揺れる車内で静かに息を整え、そっと目を閉じる。
身体上の問題から運転免許を返納して、十五年になる。長年車に乗り慣れた人間にとって、交通機関を利用しての移動は、十五年経過しても不自由に感じてしまう。いつしか出不精になったのも、その為だろう。
目を閉じてじっとしていると、突如、あの日の出来事がフラッシュバックして蘇る。死に直面した恐怖と、肉体的な激しい苦痛が脳内で再現される。動悸が激しく波打ち、全身から不快な汗が滲み出る。何年も悩まされているPTSDだ。心の平穏は、もう取り戻せないのかもしれない。
普段は穏やかな好青年が、怒り狂った鬼の形相を浮かべ一直線に迫ってくる。
躊躇いのない真っ直ぐな足取り——乱暴に椅子ごと押し倒され、大きく振り上げた拳を勢いよく打ち下ろされる。必死に抵抗し、防御を試みるが、彼の屈強なフィジカルの前では全くの無力だ。倒れるや否や胴部を強く蹴られ、何度も踏みつけられた。
馬乗りになり殴り付けてくる。辛うじて防御の為に翳した腕に、ガツンと鉄球で殴られたような鈍い衝撃が走り、自分の骨が砕ける嫌な感触を受け止めた。その時、一瞬だけ彼と目が合った気がした。憎しみと悲しみに満ちた、黒いガラス玉のような目だった。虚空を見つめ、理性を失った動物的な鈍い輝きは、実は何も見えていなかったのかもしれない。
そして、顔面にハンマーで殴られたような鈍くて重い衝撃が、何度も繰り返し降り注ぐ。視界が狭まり、口の中には血が溢れている。幸いなことに、いつしか意識を失っていた。そのまま死んでいたとしたら——実際にその可能性も低くなかったのだが——何とも呆気ない幕切れだ。己の人生を振り返り、成し遂げた成果の余韻に浸ることもなく、ただ死に恐れ慄き、激しい暴力を浴び、全身の苦痛を噛みしめながらの終焉だ。そんな虫けらのような悲惨な死に方から逃れられたことだけは、唯一のちっぽけな救いだろう。
気付いた時は、病室のベッドの上だった。程なくして、「生」との引換えに顔を失ったことを悟った。子どもが遊び終えた粘土のようにぐちゃぐちゃに破壊された顔面は、その後何度か入退院を繰り返し再形成を試みたが、ようやく仕上がった顔は、とても元通りとは言えなかった。自分に選択権があったなら、果たして「生」を選んだのか確証は持てないほどに——。
何より、サイボーグのように、無機質な能面に固定されてしまったのは決定的な痛手となった。表情筋を上手く動かすことが出来なくなり、得意の笑顔を失ったのだ。相手の警戒を解き、信用と信頼を築く為に自然と浮かべることが出来るようになった得意の営業スマイルは、もう二度と再現不可能だ。
更に、歯を何本か失った影響も加味し、滑舌が悪くなり、不明瞭な発音しか出来なくなった。スラスラと口に出来た気の利いたジョークやお世辞も、適切なタイミングと柔和な表情を伴ってこそ効果を発揮する。笑顔と言葉による処世術で勝負してきた男にとって、二つの武器の喪失は致命的だった。
それでも、男には充分に戦えるだけの技術力も備わっていたはずだ。しかし、激しい打撃による影響で視力、聴力、筋力が低下し、肩や肘、手首などの関節の可動域も狭まり、指先の動きも覚束なくなっていた。事件前と同水準……いや、半分の水準の作業さえ熟せない。もうこれ以上、調律師としての業務を継続出来ないと悟るのに、それほどの時間は要さなかった。
せめてもの救いだったのは、入社以降、ずっと正社員として在籍していたおかげで、安定した収入には恵まれていたことだ。もし、若くして嘱託やフリーの調律師に転じていたなら、還暦に手が届こうとする年齢で、しかも身体に大きなハンデを背負った状態で、新たな職を探さないといけなかったのだ。
だからと言って、復帰後の職務は決して安穏だったわけではない。ピアノの調律以外、男に出来る仕事は殆んどなかったのだ。
この事実に直面した時、男は愕然とした。予てから調律師の仕事しか出来ない同僚を見下し、技術以外のスキルの重要性を説いてきた。それなのに、自身もまた、調律師というタグを切り離し全く関連のない現場に放り込まれると、全くの無力だったのだ。だからと言って、他に道はない。目標ややり甲斐のない不慣れな職務を、定年まで続けることしか選択肢はなかった。
使えない上に解雇にも出来ない男は、会社にとっては完全に厄介者だ。様々な現場をたらい回しにされた。どの職務に就いても若い社員やパートの主婦達にこき使われ、罵られ、叱られっ放しの毎日だ。しかも、勤続年数には歴然とした差がある為、基本給は彼等よりもずっと多い。だからこそ、余計に冷遇されたのだろう。
やがて、男は心身ともに疲弊が飽和状態まで蓄積され、会社に早期定年を直訴した。すると、逆に悲しくなるぐらい、すんなりと受け入れられた。男の扱いに困っていた会社としては、自ら出て行ってくれることほど有難いことはない。
かつては大きな実績を残し、会社に多大な貢献を果たした男も、いつしか誰からも疎まれる存在に成り下がり、人目を憚るようにひっそりと退社した。僅か数名、安堵した人がいただけで、悲しむ者は皆無、それ以外の社員にとっては全くの無関心な出来事だった。
(3)side A-2 Allemande
最初に冨樫からピアノ専科に電話が入ったのは、松本が漆原邸に下見に伺ってから二週間程経った頃だ。その頃には、既に正式な契約の締結を済まし、ピアノも倉庫に運び込まれていた。
健康的な印象の強かった漆原絹代は、契約や運送の手配にもテキパキと対応していたが、その数日後にはポックリと逝ってしまったことになる。なので、実際に絹代と接した松本にとって、その死がどうしても現実的に受け止められなかったが、そんな感傷は榊の言う通りどうでもいいことだ。
電話があった日は、たまたま事務員が一人病欠しており、新人の草薙が店番に助っ人で入っていたのだが、運悪くその電話に出たのが草薙だった。
冨樫の要件は、漆原絹代が死去したことの連絡が主な目的だった。その段階では、冨樫はピアノ専科の実態を把握しておらず、また、絹代が冨樫宅へピアノを寄贈しようとしていることも知らされていなかったのだ。おそらく、絹代はサプライズプレゼントのつもりだったのだろう。
冨樫夫妻は、絹代の遺品から契約したばかりの修理・配送申込書を見つけ、取り敢えず故人が締結した内容の確認と経過を探ろうとしただけだった。しかし、それを勝手にクレームと思い込み、死亡を理由に解約を求めているのだと早合点した草薙は、喧嘩腰に半端な法知識で言いくるめようとしたのだ。
「契約者がお亡くなりになったことは、お悔やみ申し上げます。でも、契約は無効にならないのでね、修理代は相続者に支払う義務があるんですよ。今の所、作業は順調に進んでいます。もしキャンセルされるのなら、ここまでに掛かった費用と往復の運送費、使う予定で仕入れたキャンセルの効かない特注部品代、作業場の使用料、光熱費、保管代、外注工賃、それにプラスして、違約金と場合によっては損害賠償も発生しますので、まぁ、下手したら契約してる代金を超えちゃいますけどね、その点はご了承くださいね……」と、事もあろうか、草薙はこれを弁護士相手に言い放ったのだ。
電話口では軽く受け流した冨樫だが、草薙の対応に怒りを覚えたことは言うまでもない。また、まともな会社でないだろうと疑念を抱かせるにも十分過ぎた。直ぐ様、ピアノ専科という会社について調査した冨樫は、ネット上に悪評が拡散されていることを知った。
掲示板を中心にネット情報を色々と読み漁っていると、かなり悪どいやり口で詐欺紛いの契約を結び、急成長した会社らしいことは容易に想像できた。念の為、興信所にも調査させたところ、数日後には数々の違法と思しき事例が生々しく報告され、ネット上に広まる悪評に現実味が帯びた。
冨樫は、ピアノ専科の手口も詳しく調べた。どうやら、高齢者をターゲットに格安運送の広告を餌として撒くのだ。そして、食い付いてきた獲物に不当な修理の必要性を説き、相場とかけ離れた金額で契約を結ばせる「詐欺紛い」の商売が基本的なスタンスのようだ。
しかし、実際には、説明とは裏腹に殆んど何も施工しない。それどころか、酷いケースでは客の目を盗んで意図的に不具合を作り、不安を煽り、高額な修理契約を結ばせることもある。つまり、壊れていないものを壊れている状態に見せ掛け、契約に繋げるのだ。これらの悪質な修理業務は、刑法第二百四十六条の詐欺罪(もはや紛いではない)に該当するだけでなく、「景品表示法」にも違反する可能性がある。
ちなみに、「景品表示法」とは、簡単に言えば商品やサービスに関する不当な表示を禁ずる為に定められた、消費者庁が所管する法律のことだ。例えば、十万キロ走行した中古車を五万キロしか走行していないように細工や表示、説明をし、販売すると、この法に抵触することになる。
また、消費者が確認し難いパーツを交換したことにして部品代や作業料金を上乗せしたり、そもそも交換する必要のないパーツを交換する必要があるかのように説明することも、サービスに関する不当表示と見做され、景品表示法違反に当たるケースも十分に考えられる。つまり、ピアノ専科が行なう技術サービスは、どう甘く裁量しても法律違反からは免れない。
しかも、契約者は、それが契約書だと認識しないままにサインしてしまったケースも多いそうだ。見積り書にサインをさせ、小さな字で「サインした時点で同内容の契約書になる」という但し書きが追記されている書面もある。もちろん、当人にその説明はない。これは、「契約に関する説明義務」を全く果たしていない為、消費者契約法違反と判断されよう。
これが認められると、消費者側は、一方的に契約を取消すことが出来る。つまり、事業者側の説明が不十分、かつ不適当な場合、或いは、悪質な虚偽が含まれるといったケースでは、契約は消費者側の申し出により無効になるのだ。勿論、違約金も発生しない。
ここまででも、ピアノ専科の事業は沢山の法を犯した上で成立していることが分かる。しかも、その巧妙な手口は、計画的、日常的に組織ぐるみで行われているのだから、係争となれば弁明の余地すら残されていないだろう。
では、何故そのような悪徳商法が何年も継続出来ているのだろうか?
冨樫は、そこで少し考え方を変えてみた。弁護士としての法的な考察を排除し、一ユーザーとしての視点のみに集約してみる。
もし、絹代が生きていれば……おそらく、数週間後にはピアノが届けられる予定だった。直前に、絹代から連絡が入り、家族一同胸を躍らせ喜んだであろう。妻の千佳は、幼い頃に自分が使ったピアノだけに一層嬉しいだろうし、見た目が綺麗になっていると感動すらしたかもしれない。
中身は大して直っていなくても、それを見抜くことは誰にも出来ない。実は、冨樫も千佳もそれなりにピアノが弾けるのだが、演奏のスキルとピアノの品定めは全く別の能力だ。どれだけ弾けようが、構造や状態は分からない。完璧に直したんだよと言われれば、何の疑いもなく信じたであろう。たとえ弾き辛く感じても、それがピアノの個性だと言われれば否定する術がない。
それに、万が一、疑念が生じても、良かれと思い契約し、支払いまで済ませた絹代の手前、不平を口にすることも騒ぎ立てることも出来ないだろう。つまり、もし絹代が死んでいなければ、少なくとも冨樫の前では、ピアノ専科の悪事が表に出ることはなかったのだ。
実際のところ、ピアノ専科の被害者の大半は、騙されていることにすら気付いていないのだ。そして、ごく稀に気付いた場合でも泣寝入りすることが多く、面と向かって騒ぎ立てる人はほとんどいない。そう考えると、ネット上に氾濫している被害者による悪評も、実は氷山の一角に過ぎないのだろう。
これは、ピアノ業界の隙間を縫った、実に巧妙で悪質な商売と言えよう。運送屋と調律師というピアノの二大専門家が協力して築いたシステムなので、一般人が立ち向かおうにも、軽く跳ね返されるのがオチだ。医療ミスをなかなか暴けないのと同様に、専門家による専門的な技術の不備は、容易に指摘出来ないのだ。しかも、それが意図と計算に基く計画的な犯行となると、ミスの隠蔽よりも根が深い。一般ユーザーには、まず勝ち目はない。
実際にネット上に晒されている暴挙の数々は、あくまで冨樫の想像だが、納品から数年経過し、別の調律師に見て貰って初めて被害が判明したのではないだろうか。逆に言えば、それまで騙されたことに気付かずに、事によっては修理に満足していたのかもしれない。そもそもピアノは、大きな不具合を抱えていても普通に演奏可能なこともある。逆に、パーツの些細なズレが、致命的なトラブルに繋がることもある。つまり、症状と状態が乖離することが多いのだ。
また、一般人が視覚で判断出来る部分は、外装やペダルなど音やタッチに直接影響のない表面だけだ。楽器としての要の部分は、聴覚と触覚による抽象的な基準で評価される。だからこそ、ピアノのコンディションを見抜くことが容易ではないのも当然だろう。
しかも、納品から数年経つと、法的にもクーリングオフの期間は過ぎており、どんな不具合も摩耗や環境に起因する経年変化と言い切られると、反論は困難になる。「あの時ちゃんと直さなかったでしょ?」と薄々気付いても、下手すれば名誉毀損になる為、軽々しく口に出来ないのだ。つまり、騙されたと悟るだけで確信までには至らず、対応する術はない。泣寝入りするしかないのだ。
せめてもの抵抗から、ネット上に実社名を挙げて批判する人もいるが(これも一歩間違えると危険な行為だが)、ピアノ専科としてはネットを見ない人こそ一番のターゲットなので、啓蒙的な効果はあまりない。
では、法の観点で攻めるとどうだろうか?
現実的には、詐欺罪での立件は困難だろう。根本的に、詐欺罪は詐欺行為を働く意思が証明されないと成立しない。なので「修理内容を間違えました」と開き直られると、それは単なる過失になり詐欺にはならないのだ。
となると、景品表示法か消費者契約法の違反で攻めるしかない。しかし、これらは実質的には契約の法的束縛を無効化する為の争いとなり、ピアノ専科への罰則は求められないだろう。もちろん、所管する消費者庁から行政指導ぐらいは入る可能性はあるが、一過性に過ぎず、根本的な解決には至らない。せいぜい、悪評が広まるぐらいだ。
実際のところ、ピアノ専科にも、優秀な顧問弁護士陣が控えているだろう。場所が違えば、冨樫のような若造なんて全く相手にされないような有能な弁護士かもしれない。とは言え、ピアノ専科の民事的な違法行為を立証することは、キャリアの浅い冨樫でも容易なことだ。その点を突けば、弁護士の技量差もアドバンテージにならない。一方的に優位な展開になるだろう。
そうなると、ピアノ専科の戦い方は一つしかない。和解だ。
こちらが有利とは言え、裁判になると契約解除を求めるのが精一杯で、そこから慰謝料を請求するまでは難しい。納品後のケースでも、修理代の部分的な返却は叶うだろうが、それを倍にして払えという要求は無理がある。だからこそ、ピアノ専科は無理に争おうとはせず、解約や返金を全面的に受託し、和解を申し出る可能性が高い。それ以上の要求が難しいことを、見越しているからだ。
結果として、ピアノ専科には殆ど痛みが残らない。元より、その程度のリスクは想定の範疇だろう。原告側も、納得するしかない結末。いや、既にそういった裁判を何度か繰り返している可能性すらある。
さて、ここで改めて問い直したいことは、もしピアノ専科と諍いを起こすとして……果たして、その時のユーザーの目的は何だろうか?
ほとんどのユーザーは、違法行為に気付いていない、若しくは泣寝入りする中で、稀にピアノ専科と闘うべく立ち上がる人が居たとしても、おそらくは騙されてボッタくられた修理代の返還を求めるのが関の山ではないだろうか?
そうではなく、ピアノ専科の悪行を糾弾し、倒産に追い込むまで闘う……つまり、「徹底的に懲らしめたい」のなら、原告も相当の覚悟が必要だ。反撃に合うリスクも大きく、見返りも少ない。仲間を募り、集団訴訟に持ち込むぐらいの戦略が必要かもしれない。しかし、そこまでして闘う同士が集まるだろうか?
何より、ピアノ専科のもっとも特異な傾向でもあるが、修理代金を支払った契約者と実際のピアノの使用者が、同居している家族ではないことが圧倒的に多いのだ。これは、移動を伴う修理がメインとなる所以だろう。つまり、被害に遭ったとしても厳密には身内が騙されたに過ぎず、使用者はタダでピアノを手にしたのだ。「ムカつく」といってもそれは感情だけの問題であり、得てして冷めやすい。金銭的被害のない使用者側からは、わざわざ闘おうと立ち上がる人はほぼ皆無だろう。
では、修理を依頼した側、つまり実際に金銭を搾取された側はどうだろうか?
こちらは、大抵が高齢者だ。気力と体力の問題もあり、数万円からせいぜい数十万円の為に裁判での係争に持ち込むよりも、「騙されちゃったか」で済ましてしまう人の方が多数だ。元より、これらは騙されたことに気付くケースが、ごく少数しかいない中での話だ。集団訴訟を起こすにはクリアすべき難題が山積で、現実的な選択肢ではないだろう。
では、ピアノ専科が最も恐れる……若しくは、最も嫌がる対応は何だろうか?
確かに、訴訟も一つには挙げられるかもしれない。ただ、「最も」という括りには入らないだろう。リスク管理の一環として常に考慮に入れているだろうし、組織的で確信的な違法行為は、裁判沙汰を厭わないからこそ継続しているとも考えられる。
悪評の流布はどうだろうか?
……これも、今更という感じは否めない。大して痛みはないだろう。そもそも、紙媒体の一回性に依存した商売は、評判が耳に入らない人がメインのターゲットとなる。その殆どは、長年ピアノを放置してきた人だ。ピアノ業界との接点もなく、業界の仕組みも評判も知る由がない。目に付いた紙面広告こそ全てという高齢者が、大半を占めるのだ。
もし、ピアノ専科が嫌忌する対応があるとすれば……冨樫はそこまで考えて、ピアノ専科に個人的な恨みも憎しみもないことに気付き苦笑した。
ただ、今まさに亡くなった義母が生前に交わしていた契約が、詐欺行為だと確信しばかりだ。身内が騙されようとしているのを、見過ごすわけにはいかない。その点は、弁護士としてキッチリとケジメを付けようとは思っている。
それとは別に……いや、それ以上に、半端な法知識で小馬鹿にされた対応に憤りを感じていた。罰や復讐ではなく、ちょっとぐらい困らせてやろうかと……その程度の「お仕置き」は許されるだろう。
それなら、相手が忌避する対応よりも、困惑させる方が面白いかもしれない。冨樫は、一つだけアイデアを思い付いた。
(4)side B-2 Sarabande
男の人生にとって、一つの大きな転機となった出来事は、何十年も前に遡らないといけない。それまでは、大手楽器店の調律師として、順調過ぎるペースでキャリアを積み上げていた。中堅に差し掛かろうとする年齢にして、メーカーの最上級技術グレードを取得し、実質的なナンバーワン調律師として社内に君臨していた。売上げに於いても卓越した数字を残し、社内だけでなく県内随一の名声を得て、内外から尊敬を集め、また畏れられる存在になっていた。
その絶頂期に、彼がやって来たのだ。まさに、そのことが転機となり、あらゆる歯車が乱れ始めた。
男は、幾つか歳上の彼のことを、最初はうだつの上がらない不器用で平凡な調律師と看做していた。実際、口下手で接客も下手、人付き合いでも素直過ぎる故に融通の利かない彼は、一般的には調律師以前に、社会人として失格の烙印を押されかねない人材だった。
しかし、彼には短所を全て覆すだけの突出した技術があったのだ。一般の調律師が、どれだけの努力を重ねても追い付けないであろう本能的なセンスは、まさに天賦の才能と言っていいだろう。また、手造りの製作現場で培った知識や経験から、誰よりもピアノの構造や材質を熟知し、個体のポテンシャルを瞬時に見抜く能力にも長けていた。その応用として、音やタッチを自在にコントロールすることが出来たのだ。
また、誰に対しても誠実で優しく、正直な性格は、決して卓越した技術に傲ることもなく、年齢性別問わず皆から親しまれた。いつしか、同僚の調律師は、老若男女問わず皆が彼を崇拝し、困難に直面すると彼に指示を仰ぐようになった。実際、彼に従えば、どのような技術トラブルも解決したのだ。
ある日、その地方で最大勢力を誇る木下千鶴子門下生の発表会が、男が勤める会社のホールで開催されることになった。と言っても、これは毎年の恒例行事だったのだが。
木下千鶴子は、会社にとって最上級の顧客だった。常に数十人の生徒が通う木下ピアノ教室は、滅多に生徒を募集しないことでも有名だ。空いている時間がないのだ。誰かが辞めない限り、新たに入る余地がないぐらい常にタイムテーブルは満杯だったのだ。
また、長年に渡る優れた指導により、生徒の中から沢山のピアニストが巣立っていった。その弟子達の何人かは同じ地域で独り立ちし、それぞれが数名の生徒を抱えるようになった。そういった孫弟子の数も含めると、おそらく門下生の総数は優に百を超えると言われている。この地方でピアノに携わる者は、遠かれ近かれ、どこかで木下千鶴子と繋がりがあると言われるぐらい、地元のピアノ文化の礎的な存在だった。
彼女は、レッスン室を含めると、三台のグランドピアノと二台のアップライトピアノを所有していた。全部で五台……その全てを男がメンテナンスしていた。グランドピアノは年に二回実施していたので、年間八台の実績になる。また、生徒の調律も沢山紹介されたし、生徒がピアノを購入する際も男が販売担当者となり、売上成績に加算された。
つまり、木下千鶴子は年間数百万円もの売上実績を男に齎してくれた特上の顧客だったのだ。
当然ながら、社内ホールで行う年に一度の門下生発表会も、毎年男が調律を担当していた。いや、木下千鶴子に限らず、コンサートや発表会の調律の殆んど全てを男が担当していたのだ。
調律師の業務の中でもとりわけ技術と経験が必要で、尚且つ、音楽センスや瞬時の閃き、堂々たる立居振舞いなど、総合力が必要とされるコンサートチューナーの仕事は、誰にでも任せられる仕事ではない。だからこそ、調律師の一つのステータスにもなっているカテゴリーだ。そのコンサートチューナーの仕事の殆んどを、社内では男が一括して担っていた。
しかし、その年に異変が起きた。
きっかけは、木下千鶴子門下生の発表会に先立って行われた、梨本孝三というピアニストのコンサートだ。
梨本は全国的に名前の売れている若手ピアニストだが、幼少時は木下千鶴子に師事していたのだ。その繋がりから、毎年のように興和楽器のホールでソロリサイタルを開催していた。
しかし、梨本孝三は、ピアノへの要求がとてもシビアで、調律師泣かせのピアニストとしても有名だった。どれだけ念入りなセットアップをしても、梨本が満足することはなかったのだ。
実際に、調律師でも認識出来ないようなユニゾンの些細な不揃い、0.1mm以下の鍵盤の可動域の差異、フォルテの立ち上がり方やピアニッシモの減衰時間、ペダルの僅かな踏みしろ、数ミリ刻みの設置場所など、本当は理解していないくせにわざわざ意地悪したいだけでは? と疑ってしまうぐらい、ことごとく細かい指摘をし、その都度やり直しを要求するのだ。
そして、いつもギリギリまで調整を行うのだが、最終的には「もういい、それぐらい我慢してやる!」と吐き捨て、満足を得られないまま終了となるのだ。つまり、梨本孝三は、男にとって最も担当したくないピアニストだった。
なので、その年のリサイタルは、男は意図的に他の仕事をブッキングさせ、「止むを得ず」というスタンスを強調しつつ彼に押し付けたのだ。本音は、一人で保守管理してきたホールのピアノを他人に触らせたくなかったが、それ以上に梨本孝三のリサイタルは重荷だった。結果的に、普段の男らしくない、「逃げ」や「守り」の対応は、自身を苦しめることになる。
代役を任された彼は、ホールのピアノを一通りチェックすると、予想外の調整に取り掛かった。真っ先にダンパーという止音パーツを取り外し、W型のフェルトの先端をハサミでカットしたのだ。そして、基準値より少し遅いタイミングで反応するようにダンパーを取り付けた。しかも、マニュアル通りに真っ直ぐ垂直に取り付けるのではなく、意図的にほんの微かに前後に傾けたようだ。
すると、不思議なことに、ピアニッシモの止音が柔らかい余韻を伴うようになり、また発音時の僅かな負荷も殆んど感じ取れないレベルにまで軽減された。グランドピアノのダンパー脱着は、ピアノの調整の中でも最も難しい工程の一つで、全く手を出せない調律師も多いぐらいだ。特約店のトップクラスの調律師が行っても半日近く掛かる作業を、彼は僅か五十分で終わらせた。
続いて、アクションの調整を始めた。梨本孝三は、コンマ数ミリの調整のズレを識別する繊細な感覚を備えているが、彼の調整は物理的にはそこまでの精度を出していなかった。むしろ、数値上は新人調律師並のバラツキさえ散見されたぐらいだが、驚くことに感覚的な弾き心地は見事に揃っていた。そう、ピアノの調整は、数値だけに頼っていてはダメなのだ。
ピアニストは、物理や数学ではなく感性や感覚でコンディションを掴むのだ。これは、調律師とピアニストの決定的な違いとも言えよう。しかし、彼はピアニストの視点でピアノを識別する能力も鋭敏で、敢えて数値をズラしてでも、感覚の統一を最優先にしてタッチを揃えたのだ。
音についてもまた然り。理論的な平均律を機械的に具現化するのではなく、ホールの特性やピアノの個性を見抜き、もっとも心地良く響く音律を模索した。そして、音色も音律もタッチと見事にコーディネートさせ、僅か半日の作業で全く別のピアノへと変貌させたのだ。
リハーサル前に帰社した男は、彼がセットアップしたピアノを試弾し、言い知れぬ絶望の淵に追いやられた。我が目を、我が耳を疑い、嫉妬し、とてつもない敗北感に襲われた。これ程までに変わるものなのか……今まで施してきた自分の精一杯の調整が、いかに稚拙で未熟なのか思い知らされた。
また、このピアノにこれ程のポテンシャルが秘められていたことも驚きだった。おそらく、自分はピアノの能力の半分も引き出せていなかったのだろう。限界まで絞り切るつもりでやってきた自負はあっただが、それでも彼の技術力の前では、あまりにも低レベルなメンテナンスだったと認めざるを得ない。それ程まで、ピアノは生まれ変わっていた。
梨本孝三は、指慣らし程度に軽く弾くなり、感嘆の声を上げた。
「おぉ、ピアノ買い換えたんだ。いいですねぇ、コレは。去年までのとは全然違いますよ」
梨本に付き添っていた社長は、嬉しさと驚きをミックスした表情を浮かべ、「それが、去年までと同じピアノだよ。今日は、調律師が変わったんだ」と答えた。
「えっウソでしょ? 全く別モノじゃん! すげぇな。ねぇ、うちのピアノも……東京なんだけど、その方に見て貰えますかね?」
こうして、梨本の自宅のピアノも彼が担当することになった。
当然ながら、リサイタルは大成功だった。ピアノの反応に満足した梨本は、リハーサル後にも特に何も要求はなく、手直しの必要もなかった。あれだけ調律師に厳しい要望を出す梨本にしては、奇跡的な出来事と言えよう。
満員の客席には、師でもある木下千鶴子の姿も見られた。彼女も愛弟子の演奏を通し、ピアノが様変わりしたことにいち早く気付き、終演後に社長から詳細を聞き出した。そして、数日後に迫っている門下生の発表会の調律も、ぜひその人にお願いしたいと要望してきたのだ。
実際に、その年の木下千鶴子門下生の発表会の調律は、木下自身により、正式に彼が直々に指名された。男にとって、これ以上の屈辱はない。プライドがスダズタに切り裂かれた。悔しさと歯痒さと妬みでハラワタが煮えくりかえり、逆恨みを伴う発狂寸前の精神状態に陥った。
更に、駄目押しがあった。音もタッチも激変したピアノに木下千鶴子は満足し、自宅のピアノも次回からは彼にお願いしたいと要望したのだ。つまり、男は彼に一気に仕事を取られたことになる。長年掛けて築いた友好的な人間関係も、ピアニストにとっては技術力の二の次なのだ。全く悪びれる様子もなく、木下千鶴子は男に言い放った。
「梶山君……悪いけど、今度から調律は松本さんにお願いすることにしたわ。梶山君がダメってわけじゃないわよ。ただね、松本さんの調整がすごく好きなの。ゴメンね。でも、私も同じ金額出すならね……相性ってあるじゃない? また生徒がピアノを購入する話があったら、真っ先に梶山君に相談するからよろしくね!」
最悪なことに、梶山が宗佑に奪われた優良顧客は木下千鶴子だけではない。彼女は、一例目に過ぎなかったのだ。
以降、発表会やコンサートでの彼の指名が増えていき、それに伴い、自宅ピアノのメンテナンスも梶山から宗佑へと鞍替えするレスナーが増えていった。梶山が苦労して築き上げた地位を、彼は労せず掻っ攫っていったのだ。
いつしか梶山の宗佑に対する妬みは明確な恨みへと変わり、復讐の機会を窺うようになっていった。
(5)side A-3 Gigue
冨樫からの二度目の着信は、草薙を名指しで指名してきた。事務員が不在であることを伝えると、夜になってもいいので携帯に連絡欲しいと要求してきた。なので、夕方帰社した草薙は、渋々冨樫へ電話した。
キャンセルかクレームか定かでないが、「担当は松本さんなのに、何でオレが……」と不平と愚痴を口にしつつ、冨樫の携帯へ電話を掛けた。
「……ご多忙の中、折り返し頂きありがとうございます。実は、少し確認したいことが……はい? いえ、キャンセルなんて考えておりませんよ。家内も娘も楽しみにしてます。それでですね、そろそろ仕上がってる頃でしょうが、一度作業中の様子を見せて頂けないかなと思いまして……あぁ、そうですか、残念……まぁ、企業秘密なら仕方ないですね」
「実は、昔お世話になっていた調律師さんと会う予定がありましてね、彼もそちらの修理に興味があるみたいなので、見学がダメなら納品に合わせてお呼びしますので、時期が分かり次第ご連絡頂ければ……彼も仕上がりを見たがっていまして……はい? 何か問題でも? ……いやいや、そんな疑うとかそういう話じゃなくて……え? 納調がどうしました? ……保証対象外って……それっておかしくないですか? ピアノ専科さんが調律しないと壊れるような修理なのですか?」
「契約書を見ると、納調ってサービスですよね? 喫茶店でコーヒーにミルクがついてきても、ブラックで飲む人もいるでしょ? 別に、納調は放棄してもいいでしょ? いえ、調律はその方はもう引退されてますので、紹介してもらうつもりです。それに、ご安心ください。納調代金を返金しろなんて言いませんから。だって、ブラックで飲んだからミルク代引けなんて言う人、いないでしょ? 何も問題ないですよね? むしろ、そちらにはメリットしかないじゃないですか」
「見積書を確認したら、アクションは全てドイツ製の部品に替えてくれるのですよね? どんな音になるか、家内も楽しみにしています。外装も、クリーニングじゃなくて全塗装にしたみたいで。まぁ、私には違いが分かりませんが、調律師さんが説明してくれるそうで……あれ? 草薙さん、どうしました?」
「ネットでピアノの修理を調べてたら、三流のピアノをドイツ製の高級機種とか言って、直さないとダメですよ! って強引に修理に持ち込む業者があるみたいですね。それで、ハンマーを交換すると説明しながら削るだけで済ましたり、弦を張り替えると言って錆を落とすだけとか、全塗装するとか言ってバフで研磨するだけとか……酷いことしてるみたいですね。これって、刑法第二四六条の詐欺罪に該当しますよね。他にも、色んな法に抵触するかもしれないし。まさか、ピアノ専科さんはそんなことしないでしょ?」
「はい? ……ちょっとさぁ、草薙さん、口籠ってないでそこは明確に否定しないと、ひょっとして? って勘繰っちゃうでしょ。あれ? まさか、そういう会社じゃないだろ? ……もしもーし! 聞いてます? あのさ、私、一応弁護士ですけど、この間の電話でアンタが言った違約金とか損害賠償って話、アレがちょっと引っ掛かっててさ……契約書に目を通したけど、どこにもキャンセル時の扱いについて書いてないだろ? 義母には口頭でキチンと説明したんだよな?」
「……おいっ! はぐらかすんじゃねぇよ! あのさ、うちのピアノは今どうなってんだ? って所有者としての常識的な確認してるだけだ! 見せられないのは仕方ないとして、ちゃんと契約通りに施工してんだよな? ……はぁ? 何言ってんだ? だから、キャンセルはしねぇよ。何度も言わすなよ。家内も娘も楽しみに待ってるって言っただろ? ……契約通りに修理して届けてくれよ。モノを確認したら、金は直ぐに振り込んでやるさ。その代わり、きちんと直ってなかったらどうなるか分かってんだろな?」
「違う違う、金の問題じゃない。訴えたりもしねぇよ。少しでも契約と違ったら、やり直してもらいますね! って念押ししてるだけだ。当然、その時の運送費はそっちが出すべきだし、それこそ、場合によっては損害賠償と慰謝料も請求しますからね、とまぁ、約束通りに仕上げればいいだけって、ごく当たり前の話を確認してるだけだよ。契約書に書いてある修理項目は、全て第三者にチェックしてもらうからな。キチンと施工してあると証明出来れば、支払いも直ぐに済ますさ」
※
この会話を交わしてから一週間が経過した頃、そろそろピアノを戻そうかと計画した時に、草薙はようやく榊に報告を入れた。榊は激怒した。直ぐさま顧問弁護士に報告し対応を検討したが、彼からの報告は更に絶望的な内容だった。
冨樫明宏は、暴力団三木組の顧問弁護士だったのだ。
金銭での解決を図ると、徹底的に毟り取られるだろう。顧問弁護士の見解では、相手の要求に従うことが唯一の解決法だ。おそらく、こちらの素性を知った上で法の遵守を求めたのだ。出来ないことを見越して、である。恐喝罪や強要罪に抵触しない、嫌らしい攻撃だ。おそらく、金目当てではなく、個人的な嫌がらせなのだろう。
実際のところ、違約金、損害賠償、慰謝料などを求めず、ただ契約履行を確認するやり方は、ピアノ専科にとってはもっとも忌々しい攻撃だ。どう防御すべきか分からない。しかし、もし契約通りに施工していないことがバレた時、本当にやり直すだけで済むのだろうか? いや、その時になると、きっとここぞとばかりに牙を剥いてくるだろう。
それにしても、草薙の報告があまりにも遅過ぎた。一本目の電話からは、一ヶ月以上も経過している。この時に報告があれば、まだ対処しようがあった。しかし、納期間近になってから報告されても、手遅れだ。せめて冨樫が連れてくる調律師が分かれば、買収を持ち掛けることも出来るが、どれだけ調査しても判明しなかった。
では、契約通りに徹底的に直すとして……決定的に足りないものが二つある。時間と人材だ。せめて二ヶ月あれば、外注に出すことも可能だが……いや、設備と人材があれば、一ヶ月で何とかなる……
その時、榊はふと思い出した。
(そうだ、アイツがいるじゃないか! 松本響! 人も設備もあるじゃないか!)
一度身に付けたオーバーホールの技術は、多少作業のモタつきはあるかもしれないが、ブランクがあっても忘れるものではない。彼なら、完璧に直せる筈……榊は、もう、そこにしか助かる道がないことも分かっていた。
それに、彼には何時までもこんな仕事を続けさせるわけにはいかない。もう、充分に借りも返して貰っている……榊は松本のことを、この国で理想的な調律師になれるかもしれない唯一の存在だと評価していた。ピアノを見る目があり、高い技術もあり、接客も無難、誠実で人当たりも良く、志も高い。向上心も人望も備わっており、演奏にも長けている。
新人の頃、梶山にも宗佑にもなりたくない、と言っていた松本だが、何方かを選ぶ必要なんてない。彼は、同時にどちらにもなれるのだ。そう、両者の強みを掛け合わせた存在と言えよう。榊が見限った調律師の仕事も、彼なら理想的なスタイルを見つけられただろう。
いや、今からでも遅くはない。彼にその気さえあれば、リスタートのアシストをしてあげるべき……榊は、そろそろ松本響を解放しようと決意し、早朝の電話に繋がったのだ。
(6)side B-3 Rondo
そっと目を開くと、いつしか車内は混み合っていた。座れなかった女子高生のグループが、中央通路で賑やかに騒いでいる。喧騒や騒音に出くわす時のみ、聴力の低下を少しだけ喜ばしく思える。
現役の頃、職業柄だろうか、耳障りな音に過敏に反応し苛立っていたことを思い出した。今は、補聴器を外していると、聴覚に全神経を傾けない限り全ての音が小さく面取りされ、マリー・ローランサンの絵画のようにやんわりと暈され、滲んでいる。群れた女子高生特有の下品な黄色い歓声も、抑制された上品な声に聞こえるぐらいだ。
過去を回顧しながら、梶山は何がいけなかったのか思案を巡らせた。いや、答えは分かっている。受け入れるか否かの問題だ。そう、ずっと、宗佑の存在に怯えていた。厳密には、宗佑と比較されること……即ち、自身の技量の欠如が明らさまになることに怯えていたのだ。
確かに、社内ではトップクラスの技術を持っていた自負はある。それでも日々の仕事の中で、技術的に困難な状況に出くわすことは多々あった。しかし、その都度、立場やプライドが邪魔をした。いつしか「分からない」「出来ない」「知らない」といったことを、口や態度で表せなくなっていたのだ。いつでも、誰に対しても、自分は何でも出来、理解し、知っている技術者でないといけなかったのだ。去勢や見栄をさり気なく隠し、一流を装う必要があった。
しかし、突如現れた宗佑の技量は圧倒的で、本当に何でも出来、理解し、知っていた。そうなると、自分が実はハリボテであることが周囲に晒されている気分になる。必死に一流を装い、取り繕っていることが表出するのも時間の問題だ。
おそらく、その時点でもっと素直になれば、万事上手くいったのだろう。本音の部分で望んでいたように、宗佑に技術を教わり、吸収すれば良かったのだ。実際に、彼の技量への羨望と、自分も身に付けたい欲求が沸き起こり、リスペクトもした。素直に学びたいと申し出れば、きっと宗佑は快く応じてくれただろう。友好的な関係を築けたかもしれないし、互いの欠点を補完し合う関係になれたかもしれない。いや、なれたに違いないのだ。
だが、今となっては後の祭りだ。当時はネガティヴな感情と薄っぺらいプライドが邪魔をし、宗佑を突っ撥ね、否定し、批判した。技術を妬み、仕事を取られたことを恨んだ。根底にある敗北感と屈辱が、理性と良識を飲み込んだ。まさに逆恨みだ。自身の技術力が劣っていたことを棚に上げ、復讐することしか考えていなかった。
それでも梶山は、調律師として、技術以外では宗佑より優れている自信があった。成績も圧倒していたし、一般ユーザーにはまだまだ崇拝されていた。話術や接客マナーは比にならないぐらい優っていたし、新規顧客獲得数、調律実施台数、ピアノ販売台数、総売上など、数値化できる成績は全て比較にならないほどの大差で勝っていたのだ。
何より、社会人として上司や得意先との付き合い方……それとなくゴマをすり、心にもないお世辞を述べ、くだらない駄洒落に大笑いする……そういった所謂「処世術」が、宗佑には決定的に欠けていた。可愛気も面白味もない男なのだ。
一方で、それこそが、梶山の最も得意とするスキルだった。同時に、これからのピアノ業界においては、宗佑のような技術一辺倒の人間は生き抜いていけないと考えていた。むしろ、様々な営業スキルを駆使し、単なる技術屋ではなく、ピアノの総合的なアドバイザーとしての地位を確立する必要があると確信していたのだ。
そう、単純に専門技術力では太刀打ち出来なくても、裏を返すと彼の武器はそれしかない。ストレートだけのピッチャーと同じだ。どれだけキレのある速球でも、投げ続けるといずれ打たれる。今は苦汁を飲まされた気分だが、時間経過と共に、やがて彼は行き詰まるだろう。いや、それまで待つ必要はない。自分が上手く立ち回れば、彼を苦境に追いやることが出来るかもしれない……いつしかそう考えるようになっていた。
梶山は、社長や専務を始めとした経営陣をはじめ、他部署のトップや人事部、一般事務員や店頭販売員、教室担当者、更には、KAYAMAの特約店担当者や沢山の取引業者など、ピアノ技術部門以外の人間関係の中に上手く入り込み、周りから少しずつ、宗佑の悪評を広めていった。同時に、自身の功績をさり気なく吹聴し、数値化された二人の成績の比較に目を向けるように仕向けた。
実際のところ、宗佑の数字上の成績は酷かった。調律実施台数は慢性的なノルマ割れ、ピアノ販売台数は新人と同レベル、小物販売等を含めた総売り上げも、梶山の半分以下だ。
そもそも、興和楽器の外回りのノウハウを無視したメンテナンスを行い、一件当たりの滞在時間も他の調律師の倍程度を要していたのだから、基本スタンスからして社の方針を無視していたのだ。こういった「数字」や「実績」だけを見ると、宗佑の雇用には特筆するようなメリットは見当たらない。梶山の目論見通り、宗佑は、徐々に上層部からの信頼を失っていくようになった。
それから数年後、ついに梶山は宗佑を退社に追い込み、顧客やコンサートの仕事を取り戻すことに成功した。その根底には、技術力だけでは調律師はやっていけない、という自分の哲学を正当化したかった思いしかない。
一方で、それが本音でないことは梶山自身、認めないにせよ一番分かっていた。悔しさと羨ましさの裏返しだ。自分にはない高度な技術、そして自分にはない稀な才能、これらを妬み、否定したかったのだ。そんなものなくてもトップになれると証明したかったのだ。それに、そんなもの持っていても、使えなければ無意味だと証明したかったのだ。
結果的に、梶山は県内に名を轟かす調律師として一目置かれる存在にまで上り詰め、宗佑は破産寸前の売れない調律師に成り下がった。望み通りの展開だ。
だが、その引き換えに、梶山は自分自身を偽り続けなければいけなくなった。本当はもっと技術を身に付けたいし、技術を活かしたい。知らないことは聞きたいし、出来ないことは教わりたい。買い換えよりも修理を勧めたいし、外装を磨くよりもアクションの不具合を調整したい。言葉よりも技術で会話したい。良い音、良いタッチを追求したい……そういった、完全には拭い切れない技術者としての本能を奥底に隠し、偽りで固めた「営業マン」としての顔を常に表に出さないといけなかった。
やがて、ピアノを「楽器」ではなく、「工業製品」と見做すようになった。それこそが、正社員調律師の生きる道だし、それが出来ないと歩めない道だった。
つまり、全てが欺瞞だ。自分を偽り、人を欺く。宗佑の技術と対峙した選択は、梶山を瞞しの調律師へと導くことになった。
(7)side A-4 Capriccio
「話は理解しました。しかし、解決策が思い付きません」
榊から詳しい経緯を聞いた松本は、率直に意見を述べた。自分が契約したピアノだが、こういう事態を招いた責任は草薙にある。しかし、彼に尻拭いされるには、あまりにも事が大き過ぎる。
「草薙は……明日、解雇通告を出す。アイツはハズレだ。客に嘘を吐くのはまだ許す。でも、俺に大事な報告をしなかったことは許さない」
その一言で、松本は、大昔にKAYAMAのフルコンをオーバーホールした時のことを思い出した。純正のパーツが入手出来ず、ランネルのパーツを採用したのだが、榊には報告しなかった。そのことが後々大問題になり、宗佑の自殺に繋がり、松本もピアノ専科に骨を埋めることになったのだ。
もし、あの時、榊に報告していれば……鋭い洞察力を持つ榊は、おそらく梶山の本当の計画を見破っただろう。そうじゃくても、違う結果にはなったはずだ。宗佑が自殺することも、松本が傷害事件を起こすこともなかったかもしれない。些細な選択の差で、人生なんてどう転ぶのか分かったものじゃない。
「解決策はある。先ずは、一ヶ月時間を稼げ。そうだな……塗装は外注ってことになってたな? 塗装に不具合が見つかったので塗り直しさせるってのはどうだ? まぁ、理由は何でもいい。兎に角、一ヶ月引き延ばすんだ」
「承知しました。交渉します。でも、一ヶ月延ばしてどうするのですか? 外注でも厳しいと思いますが……」
すると、榊は微かに笑みを浮かべた。いつものアイロニックな冷笑ではなく、やや照れ臭そうな微笑みだ。
「外注じゃない。お前が直すんだ。お前の工房、眠ってるだけでまだ生きてるだろ? 必要なパーツは今直ぐ発注しろ。後から追加しても構わん。明日にはピアノを移動させる」
予想外の展開に、松本は驚き、慌てふためいた。
「そんな、流石にそれは無理です! 出来ません。もう何年も修理なんてやってないですし、機械も動くか分かりません」
必死に抵抗するが、榊は全く聞く耳を持たない様子だ。
「他に選択肢はないんだ。そもそもうちの外注なんて、何処も請けてくれないだろ。だから、お前にしか頼めない。依頼とか命令じゃない。これはお願いだ。この通りだ、すまんが助けてくれないか?」
真面目な表情で、且つ恥ずかしそうに、榊は頭を深く下げた。どうやら、本気のようだ。
「社長、そんな……やめてください。分かりました。自信はありませんが、精一杯やらせて頂きます。だから、頭下げないで下さい!」
すると、ゆっくり頭を上げた榊は、今度はいつものアイロニックな笑みを浮かべた。
「助かるぜ。先ずは、今直ぐに工房のチェックをしてくれないか。機材が使用可能か、特にコンプレッサーはオイルが切れてるだろ? オーバーヒートしそうなら、手入れなんかせず、今日中に新品を買え。バフやサンダーもモーターがイカれてるかもしれない。ダメなら買い直せ。全て、領収書はピアノ専科で切ればいい。パーツや塗料も出来るだけ早く揃えて、直ぐにでも作業に取り掛かってくれ。しばらく、お前の営業ノルマは免除だ。この修理の手当ては、後から交渉させてくれ。質問はあるか?」
榊の矢継早の指示を聞きながら、相変わらず頭の回転と処理能力が早い人だなぁと感心した。質問は? と言われても、残念ながら松本の処理能力が追い付いていない。
「あのぉ、自分で見積もりをしておきながら恐縮ですが……漆原様にどんな説明をしたのか覚えてないので、見積書をお借り出来ますか?」
※
自宅に戻った松本は、十数年振りに一階の工房へ足を踏み入れた。カビ臭い淀んだ空気と身体に纏わりつく不快な湿気に閉口したが、何よりも、ここに来るとあの日の出来事が脳裏に蘇り、こびり付いて離れなくなるのだ。
チェーンブロックからぶら下がる父。
人の死体を見たことがなかった松本でも、一目で絶命していることが分かった。変色した顔とトルコアイスのように伸び切った首、身体中に浮かぶ紫斑、硬直した不自然な姿勢、不快な死臭……とにかく降ろさないと、とチェーンブロックを操作するも、逆に更に吊り上げてしまい、首が千切れんばかりにグニャっと一段と伸びた。慌てて逆方向に操作するが、下ろし始めのガツンと抵抗のある衝撃は、父の亡骸の重みを響の掌に刻印した。
あれから、もう二十年近くも経過した。そのまま工房は閉ざされ、放置された。ピアノも工具も機材も作業机も照明も、魂を抜かれた剥製のように、また、廃墟に憧れていたかのように、静かに佇んだままだ。
天井からぶら下がったチェーンブロックも、風に揺れることさえなく静止している。
さて、動かねばならない。松本は、まずはコンプレッサーをチェックした。しかし、榊の予想通り、完全にオイルの切れたモーターは焦げ臭い煙を発した。ダメだ、これはもう使えない。幸い、バフやサンダーは正常に作動した。パットなどの消耗品だけ交換すれば、特に問題はないだろう。
続いて、パーツの在庫をチェックした。ハンマーやダンパー、フェルト類など、まだ幾つか在庫があった筈だ。しかし、予想はしていたが、全て虫喰いでボロボロだ。弦も錆が酷く、使えない。塗料は硬化や揮発、変質でとても使える状態ではない。流石に軽く十年以上にも及ぶ悪環境での放置は、繊細なパーツには酷だったようだ。全滅とみていいだろう。
そして、最後にチェーンブロックに手を掛けようとした。しかし……無理だ、あの時の感触が今尚こびり付いており、ループチェーンに触れると吐き気を催してしまう。
一種のPTSDなのか、或いはイップスのような症状なのか……あの日以降、ブラインドの開閉さえ出来なくなったのだ。ループチェーンの操作をしようとすると、身体が硬直し、動悸が激しくなり、身体から冷や汗が吹き出し、時には吐き気さえ催すのだ。
とりあえず、榊にメールで状況を報告した。バフとサンダー、ボール盤は使えるが、コンプレッサーはダメなこと、そしてパーツの類は全滅だと伝えた。すると、間髪入れず、「全て今日中に購入の手配をしろ」と返信があった。
その数分後、「ピアノは明日の朝一で届ける手配をした」と連絡が入った。チェーンブロックのことはまだ話していない。自分で克服するか、早いうちに報告しないといけない。
※
翌朝、ピアノが届けられると、一通り試弾やチェックをし、直ぐに解体作業に取り掛かった。外装、アクション、鍵盤を外し、「馬」と呼ぶ特殊な台にピアノを寝かすと、底板と棚板、脚、キャスターも外した。また、全塗装することを見越し、強力に接着されている腕木や妻土台も強引に剥がし取った。この辺の技術は、全て宗佑から学んだ。
そして、宗佑が最も重視していた「記録を録る」ことにも抜かりがないようにした。フレームをスケッチし、弦割や番手、弦圧など、修復に必要なデータを詳細に残し、弦を除去する工程に入った。宗佑はいなくなっても、父から受け継いだ技術は息子の中で今も息づいていた。
その時、突然榊が工房にやって来た。よく考えると、ここに榊が来たのは初めてだ。
「おぉ、もう始めてくれてるんだな。流石だ。よろしく頼んだぞ。それで、冨樫には連絡したか?」
昨夜のうちに、松本は冨樫と話を終えていた。草薙の無礼を詫び、自分が見積もりを担当した者だと自己紹介をした。そして、今になって塗装のトラブルが発覚し、全塗装をやり直さないといけなくなった旨を伝え、納期が遅れることを謝罪した。榊にも報告のメールを出したが、会社のPC宛だったのでまだ未確認なのだろう。
「昨夜、パソコンへ報告メールを入れましたが、冨樫には納期の遅れについてご承諾頂きました」
「了解、ご苦労だったな」
何故か、今朝の榊は上機嫌だ。それっきり冨樫の件は口にすることはなく、工房を見回しながら何かと話し掛けてくる。妻土台を手にし、「コレはどうやって外すんだ?」とか「意外とキャスターって重いんだな」など、どうでもいい話題を振ってくる。無視するわけにもいかず、作業の手を休めずに適当に対応していたら、今度は榊はチェーンブロックのループチェーンに手を掛けた。
「ところで、お前、これ動かせるようになったのか?」
松本は絶句した。ループチェーンにトラウマを抱え、手を触れることさえ出来ないことは、誰にも言ってなかったのだ。それを、何故榊は知っていたのだろうか?
「社長……ご存知だったのですか。すみません、実は……ループチェーンが触れません」
榊への大切な報告は、直ぐにしないといけない。それを疎かにしてしまったのに、榊は優しく笑みを浮かべた。
「そんなに驚くな。みんなでメシに行っても、ブラインドの近くには座らないだろ? それにさ、うちのショールームのロールカーテンも、一回も触ったことないもんな。そりゃそうだよな、宗佑さん、チェーンブロックで首吊ったんだからさ。あぁ、そういうことかって、それぐらい察しがつくさ」
やはり、この男の洞察力には敵わない。松本自身さえ知らないうちにループチェーンが触れなくなっていたのだが、榊はその原因まで見通していた。
「申し訳ございません。実は、どうやってフレームを外そうか考えていました。昔、父と二人で手で持ち上げて外したことがあるので、杉山を呼びつけようかなと思っていたところでした。報告を怠ってしまい、申し訳ございません」
「そんな個人的なことでの報告は不要だ。さてと、何で俺が来たと思う? 邪魔なら断わってくれてもいい。俺がフレーム上げてやろうと思ってな。ロープの結び方とか吊る場所は分からないからお前に任せるけど、チェーンブロックの操作ぐらい、俺でも出来るぜ」
予想外の出来事に、松本は戸惑い、何も言葉に出来なかった。いや、申し訳ない気持ちと同じぐらい、とても有難く、嬉しく、感謝したのだ。
「ありがとうございます。邪魔だなんてとんでもございません。では、お言葉に甘えて、ぜひお手をお借りしたいと思います」
すると、榊は見るからに嬉しそうな表情を浮かべ、「おぉ、俺も少しは働かないとな」と軽口を叩いた。
「ただ、フレームを外す工程まで、まだ二時間は掛かります。それ以降でしたら、いつでも構いません。他の作業も並行して行いますので、ご都合のよろしい時に改めてお越し頂けますでしょうか?」
「そうか、フレーム外すまでってそんなに掛かるんだな。オッケー、夕方までには来れるだろう。来る前に連絡入れるからさ、準備しといてくれ」
「承知しました。ありがとうございます」
工房を出ようとした榊は、ふと思い立ったように振り返り、一言言い残した。
「お前、修理してると良い顔してるな。昔の宗佑さんにそっくりだ……じゃ、後でな」
榊は、明らかに迷惑な駐車をしていたベントレーに乗り込み、けたたましいエンジン音を轟かせ去っていった。
(8)side B-4 Passacaglia
梶山は、予め調べておいた地図を頼りに、ようやく冨樫邸に到着した。想像以上の立派な佇まいに、やはり弁護士って仕事は儲かるのだなぁと、つい羨望の念に駆られてしまう。
三十数年前、始めて冨樫明宏に会った時、彼はまだ小学二年生だった。しかし、とてもピアノを始めて三年目とは思えないぐらい、見事な演奏を披露した。元は、両親が明宏の七歳年上の長女の為に購入したピアノだが、期待に反し、姉はバイエル上巻も終わらない内に投げ出してしまった。その後、数年放置されたピアノだが、明宏が五歳になった時、突如習いたいと言い出したそうだ。
自分から始めただけのことはあり、明宏は熱心にピアノの練習に励んだ。また、タイミング良く、県内随一の評価を誇る木下千鶴子ピアノ教室に通うことが出来、隠し持っていた才能がフルに引き出されたのだ。僅か数年で、他に例がない程メキメキと上達した。
興和楽器では、宗佑が退社して十年以上経っていた頃だ。一度は宗佑に靡いた上顧客も、梶山は必死の営業努力を積み重ね、レスナーからの信頼を取り戻していた。木下千鶴子もその一人だ。彼女からの紹介で、明宏が二年生の時に初めて調律を担当することになった。
同級生と比べて一際大きかった明宏は、その頃には既にオクターブに手が届き、ショパンのワルツを軽やかに弾いてくれたのだ。平均的には、高学年以上になってから取り組む難曲だ。
それから約十年間、梶山は冨樫家の訪問を年に一度の楽しみにしていた。ヤンチャで元気な男の子の明宏は、聡明で感受性が強い面もあり、何故か梶山にとても懐いた。その後、気難しい年頃に差し掛かった時でさえ、梶山へのリスペクトは変わらなかった。そんな明宏のことを、梶山も親戚のように可愛がったのだ。
明宏が高校二年生の時、梶山は「相談したいことがある」と呼び出されたことがあった。おそらく、進学についての相談と予想した。音大や芸大は全国に沢山あるが、それぞれに独自のカラーがあり、また入学の難易度も卒業後の進路も多様な為、慎重に選択する必要があるのだ。
ところが、その予想は見事に外れた。梶山と会った明宏は、最初はモジモジと照れ臭くそうに口を開かなかった。しかし、痺れを切らした梶山に少し強く促されると、いよいよ意を決したかのように語り始めた。
「オレ……本当は弁護士になりたいんだけど、親はピアニストにしたいみたいで……音大に行けってうるさいんだ……」
梶山は、内心はショックで動揺した。というのも、少年にはピアニストになって欲しかったし、なるものだと思い込んでいたのだ。勿論、その為の才能が十分過ぎるほど備わっていたのは間違いない。そして、もしそれが叶うと、梶山自身のステータスへも還元出来、営業に利用出来たのだ。
しかし、明宏の希望は違ったのだ。あれ程の才能が勿体無い……梶山には、巧みな話術でピアニストへ目を向けるように誘導することも出来た。しかし、珍しく利己的な意見を胸にしまい込み、明宏に優しく語り掛けた。彼だけには、真摯に向き合いたい……そう思ったのだ。
「自分の進路は自分で決めるべきだよ。御両親の意見も重要だけど、決めるのは君自身だ。きっと、分かってくれるさ。ただ、分かってもらう為に、君は何をしている? ただ分かってくれ、と言っても、信用は得られないぞ。そこは君の本気を見せて、応援したいと思わせないといけないんだ。君次第だよ。音楽なんて誰でも出来る。いつでもどこでも、やろうと思えば出来るんだ。だから、音楽家になるのは、音楽しか出来ない人に任せればいい。確かに、君は立派なピアニストになれるよ。でも、他に目標や可能性があるなら、わざわざ音楽家になることはない。弁護士になりたいなら、なる努力をしなさい。ご両親は本気で取り組めば応援してくるさ。僕は応援するよ。君が本気だって伝わったからね。ピアノなんて数年休んでも……いや、そのまま止めたところで、どうってことないんだ。だって、またいつでも再開出来るだろ? でも、弁護士になる勉強は、今始めないでどうする? 法学部に行けよ」
少年は、口を固く真一文字に結び、静かに泣いていた。
しかし、梶山は、彼が一浪の末、超が付く一流の大学に合格し上京したところまでは把握していたが、その後弁護士になるまでは見届けられなかった。あの事件が起きたのだ。一年のリハビリ生活の末、ようやく社会復帰したものの、調律師の継続は断念し、ピアノ技術部門からも離れた。調律師でなくなった梶山は、次第に、懇意に付き合ってきた沢山の顧客のことも思い出さなくなっていた。
梶山は、五十九歳で早期退社を申請し受理された。その後は、妻のパート代と微かな蓄えを切り崩し、そして六十五歳からは正社員を続けた最大の恩恵である年金も手にすることが出来、慎ましくも不自由のない生活を送っていた。興和楽器との関係もほとんど断ち切り、ピアノとも無縁の静かな老後生活だ。
だからこそ、突然の連絡には驚いた。興和楽器から、昔の顧客が会いたがってるとの話を頂いたのだ。正直なところ、何も考えずに承諾したものの、冨樫明宏があの少年だと気付くのにかなりの時間を要した。補聴器越しに「おかげさまで、地元に戻って弁護士やってますよー」と嬉しそうに報告する冨樫の声を聞き、ようやく認識出来たのだ。そして、ジワジワと喜びが込み上げてきた。
冨樫の要件は、ピアノを見て欲しいという依頼だ。何でも、急逝した義母が、死の直前にピアノの修理を申込んでいたとのこと。しかし、詐欺なのでは? という不安が拭えない上、法的に相続者が修理代を払う義務がある為、修理にそれだけの価値があるのか確認して欲しいという依頼だった。
「冨樫君、悪いが、僕はもう調律師じゃないんだ。聴力と視力が弱くなっちゃってね、君には会いたいが、その仕事は出来ないな」
そう伝えてはみたものの、冨樫は引き下がらなかった。
「そんな、梶山さんに調律してくれってわけじゃないですよ。修理がきちんと出来ているか見て欲しいだけで……そりゃ、本当は調律もお願いしたいけど、でも、見るぐらいは大丈夫ですよね?」
結局、梶山は冨樫の申し出を受け入れた。毎日が退屈だったこともあり、少しの刺激を求めていたのだろう。それに、確かにピアノを見るぐらいなら今でも可能だ。
いつしか七十を超えた老体だが、自営の調律師だとまだまだ現役で外回りをしている人もたくさんいる。ハンデを抱えて引退した身とは言え、ピアノを見るぐらいなら今でも問題はないだろう……そう判断した。
(9)side A-5 Tarantella
突然、工房を再起動させてから三週間が経過した。松本の中に埋もれていた「調律師」というキャラクターが再起動して、三週間経過したとも換言出来る。長年に渡り、封印せざるを得なかった調律師の「顔」だが、スリープ状態のPCが立ち上がるのと同じように、松本は普段の詐欺紛いの営業から、瞬時に調律師へと変貌した。いや、取り戻したと言うべきだろうか。実際に再起動するまでは松本自身も知らなかったことだが、常に調律師として動き出す準備は出来ていたようだ。
初日にバラバラに解体されたブリューゲルは、既に元の姿に戻され、新たな息吹を吹き込まれた。あとは、外装の最終研磨と整調、整音を残すのみ。十数年振りのオーバーホールも、間も無く終了だ。
松本は、殆んどの工程において、技術が全く鈍っていなかったことに自分でも驚いた。順調過ぎるペースで着実に作業をこなし、手付きや感覚、精度、何より技術者としての「勘」までが、全盛期とほぼ変わらなかったのだ。ブランクなんてどこ吹く風……かつては最大の生き甲斐だったピアノのオーバーホールを、久し振りに堪能するゆとりさえあった。
客観的に見ると、全塗装付きのオーバーホールを一ヶ月で行うなんて、無謀もいいところだろう。時間的な猶予はなく、むしろ切羽詰まったタイトな予定からは免れない。昼夜の境もない生活で、寝る間も惜しんで作業に明け暮れた。なのに、そんな生活を心底楽しんだ。喜びに満ち溢れた毎日だった。やはり、ピアノが好きだし、オーバーホールも楽しい。
ピアノを蘇らせる喜びは、音楽を受け継いでいく喜びに近いのかもしれない。ピアノの向こうには、必ず奏者がいる。奏者に喜んでもらう為に技術を注ぐ……これこそが、生き甲斐だと確信する程に、松本はひたすら作業に没頭した。昔のように……。
しかし、昔とは一つだけ大きな違いがある。師匠でもあり、実父でもある宗佑の不在だ。よくよく考えると、宗佑の指導や監修のない中で、全てを一人っきりで行うオーバーホールは初めての経験だ。
そっと目を閉じ、宗佑が自殺する前日の夜を思い出してみる。
「響はもう一人前だ」
そう、ポツリと呟いた宗佑の表情を、ずっと忘れられないでいた。
そんなことはない! という、たった一言が口に出せないぐらい、宗佑は優しく、そしてどこか寂しげに、何か悟り切ったかのように、とても穏やかな笑みを浮かべていたのだ。そして、その表情こそ、松本が見た最後の宗佑だった。無愛想で不器用で口下手だった宗佑が、最後に見せた表情だった。
久し振りにピアノに触れる毎日……その影響だろうか、至福の時間の隙間に、つい、ピアノ専科で過ごした十数年を振り返ってしまうこともあった。誰かに責任を擦り付けるつもりはない。自分が犯した過ちで、榊に多大な迷惑を掛けてしまったことは事実だ。
ピアノ専科は、修理代金の返済だけでなく、多額の損失を補填し、事後の猥雑な処理に翻弄し、公的機関の仕事から締め出されることになった。その全ての責任は、松本にあったことは言い逃れできない事実だ。
梶山の罠に嵌められ、宗佑が自殺に追い込まれた。
突沸現象のように表出した「怒り」のエネルギーは、あわや人を殺めてしまうほどに膨れ上がり、その全てを梶山に向けて爆発させた。理性を失い、貯め込んだ「怒り」は復讐の原動力となり、梶山への暴力へと転嫁させ、発散させたのだ。
我に返った時には、全てが終わっていた。悲鳴や怒号が飛び交う中、ストレッチャーに載せられ運び出される梶山を、ボンヤリと人ごとのように眺めていた。直ぐに警察も来て、そのまま逮捕された。その後のことは、ほとんど覚えていない。色んなことを聞かれ、素直に答えたと思う。無気力で、茫然自失なままに、数ヶ月が何となく過ぎていった。
父の葬儀の手配や弁護士の斡旋などは、全て榊が行ってくれたそうだ。興和楽器は即日解雇となり、数日後にはピアノ専科の社員となっていた。全て、松本の知らないところで進められていた。いや、その都度聞かされていたのだろうが、何も受け止められなかったのだ。
やがて、有罪判決を受けるも、奇跡的に実刑は免れた。懲役三年、執行猶予五年……そもそも、執行猶予は懲役三年以下の刑にしか付かず、その最長期間は五年ということを思うと、松本の判決は、実刑未満の中では最高に重いものだったと言えよう。幸いなことに、梶山は控訴しなかった。いや、それどころか、慰謝料や損害賠償などを求めた、民事での訴訟も起こさなかった。
松本は、いつのまにかピアノ専科で働いていた。榊に命じられるままに「下見」へ出向き、不当な修理を契約した。
ここは、数字が全ての世界だった。ちょっとした言い回しや駆け引き、引き際、畳み掛けるタイミング、適度な嘘……あらゆるテクニックを養い、毎月何人もの高齢者から詐欺紛いの契約を取り、それを生業とした。
自分が調律師だったことを利用はしても、今も尚調律師であることからは目を背け、この先も調律師であり続けることには蓋をした。いかにしてユーザーの不安を煽り、修理が必要だと思い込ませ、上手く言いくるめるか、それだけに注力する毎日だ。そこに、罪悪感はなかった。あったのは、榊への償い、そして、生きる為の必要性のみ。
榊へは、感謝の気持ちもあった。実際に、社会人になってから、榊には事あるごとに助けられた。家のローンが払えなくなりそうな時に、助け舟を出してくれたのも榊だ。宗佑の工房でオーバーホールが出来るようになったのも、榊の協力があったからこそだ。興和楽器に在籍しながらも、ずっと副収入を得られたのも、榊のおかげだ。
それなのに、松本の浅はかな決断で多大な損害も出してしまった。そして、抑えられない感情の爆発で、大きな罪を犯した。そんな犯罪者になった松本でも、榊は雇い入れてくれたのだ。とにかく、数字を残さないと……生まれ付きの真面目な性格は、間違ったベクトルでも存分に発揮されていた。
再び、ピアノへと目を向ける。
ゴールが見えて来た作業を振り返り、我ながら上手くまとめることが出来たなぁと自賛する。部品の選定や数値の設定を始め、瞬時の判断が必要なシーンが連続するのがオーバーホールだ。その全てにおいて、松本は上手く対応出来た自信があった。大昔の修理に明け暮れていた時のように、判断も感覚も精度も、何もかもが当時のままだ。
だが、チェーンブロックの操作だけは、やはり一人では出来なかった。なので、フレームを本体に載せる時も榊に手伝ってもらわなければいけなかったが、それ以外の工程は全て順調に消化出来た。
本体は、駒や響棒の取り付けが甘く、全て接着し直し、念の為ネジ止めの補強も増やした。響板の材質は意外と良く、上手く振動させれば良い音が出るかも、と期待させた。ただ、響板の厚みがどうしても気になり、2mmほどプレーナーで削って薄くした。
鍵盤は、酷い虫害で全パーツ交換せざるを得なかった。適当に書いた見積書では、バックレールクロスは再使用することになっていたが、とても使える状態ではない。白鍵の小口も、今ではほぼ見掛けなくなったセルロイドが使われており、変質と変色で無残な有様だった。これも見積りには記載されていなかったが、全て交換した。同時に、いかに出鱈目な見積もりをしたのかと、思わず苦笑してしまった。
アクションは、ランネル社製の高級パーツをふんだんに使いセッティングし直した。当然、弦もドイツ製の高価なワイヤーを取り寄せた。
馬子にも衣装……。
こんな三流のピアノをここまで徹底的に修復することに、相応の価値を見出すのは難しい。貧乏人が、ブランド物で着飾った様相を思い起こした。しかし、たとえ身分不相応でチグハグな着こなしでも、毎日着てると不思議と板に付くものだ。それと同じなのか、このブリューゲルも微かに芽生えた愛着が日に日に育ち、似合わない筈の高級パーツも妙にシックリくるような気になってきた。
実際、全ての調整が終わると、何とも味のある個性的なピアノに生まれ変わっていた。決して「鳴る」わけでもなく、特段弾き易いわけでもない。なのに、弾き手の心情とシンクロするように、感情が音にトレース出来た。簡単に言うならば、「表情豊かな楽器」だ。これならば、冨樫も文句は言えないだろう。
少なくとも、見積り書と契約書に書かれた工程は全て実施した。もっと言えば、それ以上の内容で修復したのだ。
(10)side B-5 Ciaccona
リビングに通された梶山は、矯正しても0.3まで低下した視力ながらも、否応なく大型のアップライトピアノに目が行った。補聴器越しに、「さ、どうぞご自由に触って下さいね」と、確認を急かすような冨樫の声が聞こえてくる。ピアノは今朝搬入されたばかりで、まだ誰も触っていないそうだ。
先ほど、挨拶がてら聞き出した話によると、義母が依頼した会社のことを、冨樫は詐欺カンパニーだと疑っているとのこと。なので、粗探しをするぐらいの気持ちでチェックして欲しい、という話だ。
しかし、冨樫の考えはドライだった。例え訝しげな会社でも、このピアノが妥当な金額で正しい修理が施されていれば、問題にするつもりはないとのこと。と言うのも、丁度ピアノの購入を検討していた上、妻の思い出のピアノが問題なく使えるのであれば、そうしたいという希望もあったのだ。
施工業者には、予め、強く警告したらしい。他の客に対して行ってきた詐欺行為が噂通りだとしても、冨樫には瑣末なことだ。大事なのは、このピアノだけ。なので慎重に精査し、対応を考えるのだ。
その話を聞いて、梶山は「ピアノ専科だろう」と確信した。なので、手渡された見積書を確認し、ピアノ専科の社印を見ても、やっぱりな、としか思わなかった。と同時に、酷い修理が施されていると予測した。
見積書を確認すると、もっともらしい内容が列挙されてあった。ハンマー交換に全弦交換、フレームや響板も塗り直し、鍵盤ブッシングクロスを交換し、ダンパー、ウィペンまで新品に替えるとのこと。そして、外装の全塗装……なるほど、確かにこれら全ての工程を正しく行えば、総額九十五万円という金額も妥当の範疇だ。
しかし、梶山もピアノ業界から離れた身とはいえ、ピアノ専科の詐欺的な業務については熟知している。おそらく、ハンマーはファイリング(整形加工)で済ませ、弦も錆を落とすだけ。どちらも、交換はしないだろう。
また、一般人が確認し辛いアクションや鍵盤パーツの交換なんて何も行わないだろうし、フレームや響板も拭き掃除で済ます。ましてや、全塗装なんてする筈もなく、念入りに研磨するだけ。おそらく、実際の作業としては、十万円も掛からない内容だ。
「では、隣の部屋にいますので、終わったら声を掛けてください」
冨樫が退室すると、梶山は早速外装を取り外した。上前板、鍵盤蓋、鍵盤押さえ、下前板を外し、カーペットの上に丁寧に並べ、念入りに一つずつ塗面をチェックした。すると、意外なことが判明した。どう見ても研磨で済ましたのではなく、塗料を塗り直していることが確認出来たのだ。念の為、本体の側板も見てみるが、どうやら本当に全塗装を行ったと断定出来る。しかも、かなり高水準の施工だ。
上前板の裏側にあるポケットを見ると、ピアノ専科の保証書と調律カードが入っていた。最新の作業履歴には、「オーバーホール、全塗装」との記入があり、二日前の日付けが入っていた。そして、作業者名の欄に「松本響」のサインがあった。
なるほど、松本が仕上げたピアノってことか……。
梶山は、それならばとアクションを細かくチェックした。すると、ランネルの最高級パーツを使い、見事な修復が施されていることが確認出来た。鍵盤の修理も完璧だ。勿論、弦もフレームも響板も全てにおいて最適な修理が行われていた。
外装を外したまま、梶山は試弾してみた。シューベルトの即興曲だ。やや不自由になった指で辿々しく弾いてみるも、全く音楽にならない。でも、ピアノの出来映えを確認するには、下手な演奏と鈍った聴力の組合せでも充分だった。得体の知れない三流ピアノなのに、とても甘ったるい振動が室内に飽和していくのを身体で感じたのだ。
優しく髪を撫でるような柔らかい中音が、爽やかな春の風のように滑らかに流れる。決して「鳴る」ピアノではないが、ベースは力強い推進力で大地を這い、壁を伝って部屋を隙間なく包み込む。硬質の高音は、クリスタルガラスの粒子のようにキラキラと煌めきながら風に舞う。芳醇な香りが揺動し、恍惚と大気がうねる錯覚……繭籠る身の安けさに、心がしっとりと浸される。
その時、梶山はあることに気付き、思わず声を上げそうになった。この音色、この弾き心地、この感覚……これは、宗佑さんのピアノだ! 宗佑さんの音、宗佑さんの調整ではないか!
梶山は、最後まで手が届かなかった天才調律師に思いを馳せ、死に追いやってしまった自身の過失を改めて呪った。狂った嫉妬心から宗佑の存在を消し去ろうと計ったが、決して彼の死を望んだわけではなかった。
かつて、宗佑と自身を比して、調律師は技術だけではやっていけないと証明したつもりだが、時代は常に移ろうもの。逆に、何より技術がないと通用しない時代に変わっていた。宗佑のように工房作業に精通し、ピアノの本質を見抜き、徹底的な修復が求められるようになってきた。
どの道、梶山のような調律師は、時代に取り残されただろう。誰よりもその危機を肌で感じていたのは、梶山自身だ。だから、せめて引退するまでは安泰で過ごしたかった。工房作業に長けた調律師が、近くに存在することが疎ましかった。やがて、劣等感と嫉妬をエゴに変換し、抹殺を模索したのだ。
まさか自殺するなんて……梶山は、その時になって初めて過ちに気付き、心から懺悔し、毎晩のように涙を流した。愛憎紙一重……一方的に逆恨みした宗佑のことを、誰よりも崇拝し、尊敬していたことに梶山は気付いた。
そして、その息子、響の将来まで奪ってしまった。自分に宗佑並の技量があれば……と何度も空想したが、響こそそれを具現化した存在だと気付いていた。実は、梶山なりに響の将来性を見込み、その才能と才覚に期待もしていたのだ。自身の後釜にもなれたし、宗佑の後継ぎも出来た。どちらを選んでも、彼は大成したに違いない……妬みの裏側で、そう評価もしていた。
梶山は、目の前のピアノを見て、松本響の実力を思い知らされた気分だ。宗佑から技術を学んでいたことは気付いていたが、ここまで習得していたとは驚きだ。やはり親子だな……小さく呟いた。このピアノをここまで仕上げられる技術者は、あの親子しかいない。
そして、いよいよ認めなくてはいけない。本当は、梶山も調律師として、こういう仕事がしたかったのだと——。
良い音、良いタッチを追求し、ピアノのポテンシャルを限界まで引き出したかった。その為の知識や技術が欲しかったし、数年を割いてでも真剣に学ぶ機会を設けたかった。
なのに、若くして地位を確立したプライドが、全てを否定したのだ。いや、拒むことで、アイデンティティが保てた。知りたいことも知っている、出来ないことも出来るという虚勢を張ることでのみ、貧弱なプライドが維持出来たのだ。
また、自身の先天的なセンスが十分でない自覚もあった。人一倍の努力で賄っていた自負はあったが、宗佑のような天賦の才能に触れるとどうしても妬みが生まれ、憎悪と化した。
その息子が入社した時も、梶山は非凡なセンスを瞬時に見抜き、警戒した。いずれ追い付かれ、追い越される相手だと覚悟した。しかし、梶山は松本響の成長を願う気持ちより、自己保身の為に若い芽を摘むことを優先してしまったのだ。親子共々、業界から消し去らなければ……全ては自分自身のプライドの為だけに、疚しい感情に従った。
だが、いくら芽を摘んでも、根が生きている限り再び芽吹くのだ。松本響の技量は、既に父、宗佑の域に達している。紛れもなく、息子も天才だ。そして、宗佑の時と違い、これからは響の様な調律師が要求されるだろう。
再び、シューベルトを奏でてみる。もどかしいぐらい動かなくなった運指による演奏は、優美でもなく気品もない。それなのに、梶山はこのままずっと弾いていたいと思った。
音を出す喜び、音楽を奏でる楽しさ……いつからか見失っていたピアノを演奏する醍醐味を、数十年振りに思い出したのだ。純粋にピアノに憧れ、演奏を夢見ていた頃、そして、調律師を目指し学んでいた頃の感情が蘇った。ピアノが好きだからこそ、ユーザーとピアノの楽しさを分かち合いたい……そんな思いを胸に飛び込んだ世界だった。
しかし、興和楽器で成り上がるに連れ、ピアノや音楽は「娯楽」や「芸術」から、いつしか「商品」へと変わっていたのだ。
その時、梶山はようやく気付いた。
自身と松本親子の一番の違いは、才能の差ではない。ピアノや音楽との向き合い方にあったのだと。
ピアノの魅力を忘れ、音楽の素晴らしさを見失った人間に、調律師なんて務まるわけがない。それだけのことだったのだ。
※
「どうでしたか?」
梶山に呼ばれた冨樫が、少し楽しそうに尋ねてきた。マトモな修理が出来ていないことを期待しているのかもしれない。
「先ず言っておくが、このピアノはドイツ製なんかじゃない。とっくに潰れた国産三流メーカーだ」
それを聞いても、冨樫は特に落胆した様子も見えず、冷静に耳を傾けている。
「えぇ、家内から聞いています。義母はずっとドイツ製だと思い込んでいたようですが、家内は国産だと知っていましたよ。でも、義母は幾ら言っても聞く耳持たないから、もうドイツ製って思わせておこうって諦めたらしくてね……私もネットで調べて、国産メーカーだと確認しています」
「そうか……まぁ、販売店に問題があったのだろうが、既に倒産した会社だ。今は、修復が出来てるかどうかって話だが……完璧だよ、コレは」
冨樫は、えっ? と困惑した表情を浮かべた。やはり、詐欺にあったと決めつけていたようだ。
「外装は、全塗装されている。アクションはドイツのランネル製で、最高品質の物が使われている。弦もフレームも響板も鍵盤も、全く問題はない、いや、むしろよくぞここまで直したな、って感じの高水準の修復が施されている。とても国産の三流メーカーとは思えない。それこそ、ドイツ製と言っても信じるだろうな。素晴らしいよ」
「では、特に修理に問題はないのですか?」
「あぁ、妥当な……いや、お値打ちと言ってもいい価格での見事な修復だ。あくまでこのピアノの割には、という前提付きだが、これ以上は望めない仕上がりだ」
そこまで言われると、逆に気を取り直したのか、冨樫は表情を緩め、小さく安堵の息を吐いた。
「梶山さんが仰るなら、間違いないでしょう。いやぁ、それなら良かった。家内も喜ぶと思います」
冨樫の中では、すでにピアノ専科への疑いは消え去っていた。確かに、余所で酷い仕事をしていることは間違いない。だが、高度な技量も備えた会社なのだろう。何であれ、このピアノがキチンと直っているなら、それで十分だ。
「ところで、君のピアノはどうしたんだ? アレを使うって手もあっただろうに」
すると、冨樫は申し訳無さそうに説明を始めた。
「もう随分前に、姉が嫁ぎ先に持って行きました。息子に習わせる、と言って、興和楽器さんに調律もお願いしていました。その時に、梶山さんは引退されたって聞きまして……代わりに若い男性が来てくれました。特に不満もなかったので、毎年その方にお願いしてたのですが……三年ぐらい前かな、甥の高価なフィギュアが盗難に遭いまして……まぁ、結果的には無事に取り戻せたのですが、犯人はその調律師でした。それ以降、姉は調律を頼むのが怖くなって、ピアノは狂ったまま放置されています」
昔から、業界では「手グセの悪い人間に外回りをさせるな」と言われていた。利欲的な動機ではなく、衝動的な欲求が抑えられないのだ。ある種の性癖と同じで、容易には治らない。
「それは、すまなかったねぇ。僕が辞めてなければ防げたかもしれない」
「いえいえ、盗った本人が悪いのです……ただ、そういうわけで、ずっと調律をサボっています。このピアノも、調律をしないといけませんよね? それで、梶山さんに誰かご紹介頂ければと思いまして」
少し予期していた質問なので、梶山は回答を用意していた。
「僕は引退した身なので、紹介は出来ない。ただ、提案なら出来る。このピアノを直した人に見てもらうといい。きっと、素晴らしい調律師だ。保証する」
冨樫は、素直に「分かりました。そうします」と答えた。
(11)side A-6 Finale
松本響は、ベントレーコンチネンタルの助手席に座っていた。世界で最も快適なセダンの一つだが、世界で最も加速性能に優れたセダンとも言われている。ハンドルを握る榊のドライビングテクニックは、果たして上手いのか乱暴なのか分からない。かなりのスピード狂であることは確かだ。
ベントレーの贅沢なシートは、松本の巨体もゆとりを持って包み込む。なのに、その恩恵を味わうことなんて出来ないでいた。松本はアシストグリップをぎゅっと掴み、何かに怯える草食動物のように縮こまっていた。とても快適とは言えないドライブだ。
「いきなり呼び出して悪いな。もう直ぐ着くぞ」
前車を煽り気味に運転する榊が、そう話し掛けてきたが、小声で「はい……」と答えるのが精一杯、何処に行くのか確認することも出来なかった。
「着いたぞ。ここ、覚えてるか?」
駐車場に降り立った松本は、長旅を終えた宇宙飛行士が無事に地球に帰還出来たかのように、先ずは生きていることに安堵した。それぐらい、榊の運転は乱暴でスリリングだったのだ。
大昔、一緒にトラックに乗って仕事をしていた頃は模範的なドライバーだったのに、今の榊は十代のヤンキーのような運転に変わっていた。出会った頃から全く歳を取った感じがしない榊だが、確かもう六十代半ば、いや後半に差し掛かっているはず。よく言えば若々しいが、悪く言えば危なっかしい運転だ。
毎日こんな運転をしていて、よく事故を起こさずに過ごせるもんだ……と「呆れ」と「感心」の中間の感情に浸されながら、地球に降り立てたことに感謝した。
少し呼吸が整うと、ようやく見覚えのある店だと気付いた。「あっ! ココって……鰻ですか?」
二十年以上も前、榊の奢りで初めて鰻を口にした老舗の専門店だ。社会人一年目。バイトをクビになり、独立したばかりの榊に雇ってもらい、毎晩のように一緒に大型機器を運んだ。櫃まぶしの美味しさに感動し、ベートーヴェンのシンフォニー以外にも完璧な存在があることを知った店だ。
「ブリューゲルのお礼に予約しておいた。何でも好きな物を奢るぜ」
「ありがとうございます。遠慮なく頂きます!」
珍しく、昔の「アキさん」のような笑みを浮かべる榊に、松本も、つい昔のテンションに戻ってしまった。「アキさん」は、相変わらずニコニコしている。
※
「しかし、本当に助かったぜ。それにさ、まさか調律も指名されるとは……良い修理をして新規を獲得して、これじゃあ、真っ当な会社みたいだな。ハハハッ」
食後もいつになく上機嫌の榊に、響は接し方を見失っていた。
「それでだ、実はお前に改めて話があるんだ。松本響、お前は今日限りでクビだ」
アルコールも入っていないのに、ずっと朗らかな表情を変えず、急に解雇通告されても本気か冗談か判断出来ない。返事と態度に窮していると、榊は急に真顔になり話を続けた。
「お前、何て顔してんだ?」
「すみません、ちょっと理解が追い付かなくて……」
「簡単な話だ。お前は、明日から会社に来なくていい。有給消化、解雇予告手当など、事務的な手続きはこちらで済ましておく。だから、不当解雇としての訴えは起こさないで欲しい。慰謝料とブリューゲルの手当ては、残金と相殺ってことにしてくれ」
「そんなこと言われましても……それに、残金は百万近く残ってますし、相殺だともらい過ぎです」
「だから、解雇の慰謝料込みってことだ。いいから、取っとけよ。お前さ、これ以上、自分を偽るな。明日から好きなことやれよ。前から考えていたんだが、ピアノ専科は年内一杯で廃業しようと思ってる。こんな会社でも、調律顧客のカードは二千件ぐらいあるんだぜ。優良カードは二割もないが、全てお前にやるよ。事務手続き上、退職金は払えないんだ。代わりと言うには少ないが、この間の工房再生の費用負担と顧客カードで、勘弁して欲しい」
あまりにも急な展開に、響は理解が追い付かない。
「ちょっと、待ってください。全く意味が分かりません! どうしてです? 私のクビはともかく、何故廃業ですか? まさか、社長、怖くなったのですか?」
思わず、松本は涙ぐみながら詰問していた。それでも榊は表情を変えない。
「中古市場の頭打ち、スマホとSNSの普及、紙面広告の形骸化。木村も数年前からずっと引退したがっているし、俺も疲れてきたしな。やめる理由をまとめると、まぁこんなところだな。うちの悪評も広まり過ぎたし、このままだと半年持たずに行き詰まる。他に儲かること考えないとな」
「でも……」
「いや、俺のことはいい。廃業はもう決めたことだ。お前はな、技術もあり営業も出来る。知識もある。ピアノを見る目も見積りの計算も出来る。人望もあるし演奏も長けてる。やりたいことやれよ。俺が諦めた理想的な調律師、お前ならなれるんだよ。俺の代わりになってくれ。梶山じゃなく、宗佑さんでもない、二人の長所を融合すればいい」
松本は戸惑っていた。榊による、如何にも榊らしいやり方のサポートに。悲しいのか嬉しいのか分からない。
「急に言われても、俺……何も手に付きません」
「甘ったれたこと言ってんじゃねぇよ! お前には、拠点がある。工房も復活させただろ? 顧客も用意した。技術もある。知識も経験も申し分ない。他に何が必要だ? 何時までもこんな所にいるんじゃない。言っとくが、俺も辛いんだ。でも、それ以上にお前を解放すべきだと思ったんだ。お前ならピアノ業界を変えることが出来る、いや、お前にしか出来ないんだ」
もう、松本には残された道はない。それ以上に榊の松本を思い遣る気持ちが痛い程伝わり、嗚咽を漏らしながら最後に言い放った。
「分かりました、辞めますよこんな会社! お世話になりました!」
松本は、そう言うなり、事切れたように涙が溢れ出した。様々な感情が、重力と均衡を失ったかのように浮遊した。しかし、少しずつ決意だけが集合し凝固を始めた。すると、忘れていた調律師としての誇りが、ゆっくりと再生され始めた。
そう、榊の恩に応える為にも、ピアノ調律師として名を馳せてみせる……梶山の打算と処世術、榊の戦略と洞察力、そして宗佑の技術と愚直さ……全て自分の武器にすればいい。
「長い間、束縛してすまなかったな。もう、あの時の精算は済んだんだ。それどころか、ブリューゲルでは本当に助けられたよ。お前がいてくれて良かった。それで、これが最後の命令だ。今からもう、俺のことを社長と呼ぶな。上司と部下じゃない。対等な関係なんだ。だから……これからは、友人として、昔みたいな関係に戻らないか?」
ようやく涙が治まり、改めて榊の顔を見た。すると、そこに居たのは皆が一目置き、恐れたピアノ専科の榊ではない。紛れもなく、昔の情熱的で人情味が溢れ、誰よりも優しかった「アキさん」だったのだ。
「ピアノ専科が出来る前は、いや、出来てからもですね、毎日社長にお世話になりっ放しでしたし、あんな事件を起こしたのに雇ってくださって、ずっと面倒もみてくださって、本当に社長には感謝しています」
「だからさ、もう社長じゃねぇよ」
「分かりました……今日はご馳走さまでした、アキさん」
照れくさそうに微笑んだ松本に、榊も嬉しそうな笑顔で返した。
「じゃあ、そろそろ帰ろうぜ、レスラー」
言ってから恥ずかしくなったのか、榊は響から目を逸らし、伝票を手に立ち上がった。
(12)ファミレスにて〜エピローグに代えて〜
九月のある日のこと。時刻は、十六時を少し回ったところだ。
もう、暦の上では「秋」である。確かにこの数日、朝夕に関しては随分と過ごしやすくなっていた。だからと言って、「秋」と呼ぶのは憚れるほどに、まだまだ日中は厳しい残暑が続いていた。
また、ここのところは、台風の接近や度重なるゲリラ豪雨など、不安定な天候が続いていたが、この日は久しぶりに不安も猜疑心も必要のない、愚直なまでの青空が広がっていた。その分、残暑の厳しさも一段と強く感じる日だった。
主婦たちのティータイムには遅く、夕食にはまだ早い隙間時間のファミレスは、比較的空いていた。その恩恵から、窓際の六人掛けのテーブルに、贅沢に一人で陣取ることが出来た松本響は、ノートパソコンを開き文書の編集を行っていた。
開業して、間もなく四年目に突入しようとしていた。
ピアノ専科に貰った顧客リストを元に、地道な調律師の活動を再開した響だが、最初の二年は鳴かず飛ばず、挫折と屈辱の連続だった。リストの片っ端から電話掛けしても、訪問調律は週に数件しか組めず、僅かな貯蓄を切り崩しながらのギリギリの生活を耐え忍んでいた。勿論、修理や販売の話なんて皆無だった。
しかし、宗佑と同じ失敗を繰り返してはいけない。梶山から学んだ営業スキルを駆使し、アグレッシブで大胆な行動は榊を真似た。もちろん、宗佑に負けないぐらい、技術には愚直なまでに真摯に取り組んだ。その甲斐あってか、三年目に入ると少しずつ紹介からの依頼が入ってくるようになり、やがて、何とか月に三十件程度は回れるようになっていた。
また、調律の増加に伴い、簡単な修理の仕事も増えてきた。そればかりか、時々買取や販売の依頼も少しずつ入るようになり、いつしか生活に窮することはなくなった。
だが、ここで立ち止まってはいけない。常に、先のビジョンを掲げ、アイデアを絞り出し、突き進まなければならない。いずれは、ショップ経営を始めたい。そして、専用のホールを運営し、そこから音楽文化を発信していきたい。更にその後には、全国に、いや世界中にネットワークを広げ、若くて才能に溢れた音楽家を支援し、願わくば世界最高のピアノを製造したい……飽くなき夢に向かい、突き進むのみだ。松本は、そんな野望を胸に抱き、ひたすらポジティブに、かつアグレッシブに、仕事に全力を注いでいた。
元より、宗佑と梶山と榊がスクラムを組めば、何でも出来ただろう……松本は、何度となくそんな空想に耽ったことがある。しかし、もう空想で終わらすつもりはなかった。三者の利点を均等に受け継いだ自分なら、どんなことも出来る筈……松本はそのように自己を評価していた。
「すみません、ブラインドを下げて貰えませんか?」
突然、隣席に陣取る若い女性のグループの一人に、話しかけられた。
ティータイムを延長しているのだろうか、幼い子どもを連れた若いママを含む、二十代前半と思しきグループは、まだ「少女」から抜け切れていないようだ。「騒音」に近いお喋りと下品な笑い声を周囲に放射させ、盛り上がっていた。
言われてみると、いつの間にか大きく傾きつつある晩夏の西日が、隣席に殺人的な照射を浴びせていた。店内は、空いている。席を替えるという選択もあるが、彼女達は重たい腰を上げるつもりはないようだ。
「どうせ尻は軽いクセに……」松本は、内心で毒付いた。
子どもを産んでも母になり切れず、まだまだ男の視線を意識しないと生きていけない女達。計画的な出産ではなかったのだろうか、母親になる心の準備も整っていなかったのかもしれない。それでも、新しい生命を宿り、出産し、否応もなく子育てが始まると、やがて母親の自覚も芽生えてくるものだ。
しかし、その過渡期を上手く渡れない人もいる。身体のラインを強調する露出度の高い服を身に纏い、故意に胸の谷間を開けっ広げにし、そこを覗き見する男を鼻で笑う。
松本は、未だ直ぐに何でも「査定」してしまう癖が抜けていないことに、思わず苦笑してしまった。
「えぇ、いいですよ」
無意識に出来るようになった、フレンドリーな笑みを浮かべた松本は、無骨な態度と感情を見事に封じ込め、そっとループチェーンに手を伸ばした。
(完)
羊の瞞し 第7章 FANTASTICな羊