雨の交響曲

 退屈なバイトが終わり、外に出ると、雨が降っていた。雨粒が地面に激しく降り注ぎ、どしゃどしゃと、小刻みに音を鳴らしていた。湿ったアスファルトの匂いが僕の鼻に纏わりつく。僕は傘を開いて歩き出した。強い風が吹き、傘に勢いよく雨粒がぶつかり、ぱらぱらぱらぱらと、大きな音が、僕の頭上で、僕を包むように鳴り響く。雨で濡れたアスファルトは、黒くつやつやと輝き、街灯の白い光を浮かべていた。
 僕は傘を首と肩ではさみ、イヤホンを耳に着け、音楽を流した。ビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」。外の世界から遮断され、僕だけの世界になった。清らかで美しいピアノの音色が、何でもない夜道を華やかにした。歩道にはいくつもの水たまりができていて、反射した街灯の光が水面に漂い、その光が勢いよく落ちてくる雨粒の波紋で揺れていた。水面は、絶え間なく震えていた。僕は立ち止まって、震える水たまりを見つめていた。僕の耳に流れる美しいピアノ旋律が、水たまりの震えと重なった。音が、水をはじいているかのように思えた。たん、た、たたたたん。たん、た、たたたたん。音が跳ねる。水が跳ねる。僕はピアノの旋律が実体を持ち、僕の目に見えているのだと感じた。音符が空から降ってくる。音符が水たまりに落ち、音楽を奏でる。
 顔を上げ、僕は歩き出した。疲れていたが、足取りは軽かった。道を曲がると、広い車道に車は一台もおらず、人の姿もなかった。道に沿って並ぶオレンジ色の街灯の光が、煌々と街を照らしていた。その街灯の光が、濡れた地面にぼんやりと浮かんでいた。奥の建物は、雨で霞み、夜の闇の中に溶けていた。僕は、夜の世界でひとりきりになった。僕は夜を独り占めしている。僕は傘を閉じた。華やかなピアノの音と、降りしきる雨の音が重なり、夜の雨の交響曲が僕の耳に鳴り響いた。空を見上げ、全身に水を浴びた。淡い鼠色の雲が埋め尽くす、濁った夜空が広がっていた。冷たい雨が、僕の顔を伝ってゆく。体が冷えていく一方で、心では青い炎が揺れ動く。僕は自由だ。僕は走った。僕は自由なのだと誇るように、走り続けた。冷たい空気が、僕の肺に染みる。ぽちゃぽちゃと、水たまりを踏みつける。水しぶきが、勢いよく舞い上がる。いつもは避ける水たまりを、雨で喜ぶ少年のように、僕はあえて踏んづけた。
 自分の家がある通りに入って、僕は走るのをやめた。息を切らしながら、細い住宅街の道を歩いた。僕は清々しい気持ちになった。家の前で、僕は音楽を止めた。
 ぴた、と華やかなピアノの旋律が止んだ。雨の音だけが鳴り響く、静かな夜が現れた。僕は寂しくなった。イヤホンを外し、僕は雨の音に耳を澄ませた。雨自体が、美しい音楽を奏でているように思えた。びしょ濡れになった僕を見て、家族は驚くだろう。何故か傘をささなかったのかと、怒るだろう。しかし、僕に不安はなかった。
「こんな夜も、悪くないだろう?」

雨の交響曲

雨の交響曲

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-26

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