記憶喪失

記憶喪失

 第一章 小東灯
 
 もし嫌なことを忘れるとするのならあなたは何を忘れるだろうか。私は未熟者だから、自暴自棄になった日々のことを忘れたい。でも、そこで触れた体温は忘れたくない。そんな甘えた私だ。だから、今日こそ終わりにする。終わりにするんだ。この人生と記憶に「さらば」と旗を掲げるんだ。まあ、そんなフィルムを通さずに写し出す写真みたいな、私は今でも空想に近い妄想を繰り返している。

「ええ、間違いありません。後頭部損傷による一時的な記憶喪失です。」
 情にこだわりを持たない腑抜けた医者が言う。まるで角のたった心。眼鏡のフレームですら黒縁で四角いから、よけいとっつきにくさが溢れている。
「まあ、大丈夫ですよ。自然と記憶も戻ってきます。4か月といったところでしょうか。それくらい経つ頃にはもうすんなりと思い出せていますよ。」
 回答用紙をめくるように手元の資料を見つめ続けたまま。患者はその解答用紙なのだろうかと皮肉が胸の内で騒ぐ。
「わかりました。ありがとうございます。」
 冷たさは重々承知のこと。
「ええ…あと、職場には休業を半年程申請していますので。仕事の関係で何かあればまた会社のほうに連絡をお願いします。」
 私は小さく頷く。
「では今日はこれで。お大事に。」
「あっ、ありがとうございます。」
 一礼、そのあとはあとずさり。扉を開けて、息苦しさの源を遮断する。単調な小説であった。だからこそ今日も終了。
「まあ、何とかなるだろう!!」
 呑気に自身に言い聞かせて見せた。これから記憶を取り戻すための、長い旅路が始まるというのに。心臓は極彩色を奏でていた。
「んっふふ…大丈夫!!」
 私は腕を前に挙げてピースをする。そして特大な笑いを浮かべる。

まるで前世を持っているようだ。そう前世をたどる冒険をしているような。たった二言の美しい今を心に書き写して。
 雨を弾くような心臓、五月雨を忘れた大人、私はどちらに当てはまるのだろうか。まあどうでもいい。疑問はあるけど、少しばかり昔を探しに行こうと思う。思い出せない昔話は誰だって好きだろう。憧憬とか名前を付けて思いを果てる。そんなものが魚の骨のように喉につっかえて気持ち悪いんだ。それを麦茶で流したい。だから、まずは家に向かおう!そういう算段。
「まずは家に帰るとしますか。」
 誰かに渡された、住所が書かれたメモを取り出す。ついでにスマホも。住所をスマホに入力して道案内をスマホなんて機械に頼る。
「私って方向音痴かも~。」
 酔いの可愛らしさ。
地図上、ルートは青色に染め上げられている。これを辿っていけば第一ヒントに会える。起承転結の「起」くらいにはなれるだろう。
 それから病院の自動ドアを潜り抜け、見知らぬ程に青くて、輝いた世界を見据え。青さは白さとまじりあって不完全な凶器を世界いっぱいに描いていて。胸が撫でおろされ。光度が荒く、乱れて、透明なもやを植え付けたアスファルト。
「あつい」
 医者によるところ3週間は眠っていたらしい。髪もうなじと目を隠すよう伸びている。以前はどれくらい臨機応変に体が対応していたのかは知り得ないが、長い眠りのせいで体がとても重い気もする。その重みは感情とは似合わない。だって憂鬱さの微塵も持ちえない新しい心が美しくて、私ながらも誇らしい。その思い刻んだまま、胸を張って歩き続けた。見栄を張っているって素直に言いたい。けれどこれが今の私だ。
次の曲がり角は右に。あの右角のパン屋さんはいい香りがした。なんて言えばいいかな。香ばしくて、小麦の香り?ああ、蕎麦とはまた違うような…焼けた感じの。
また右に曲がって、視線を空へ。空が澄ましている。その色を街のすべてが飲み込んでいて、私も水でも被れば青に染まれるのだろうか。この季節の美しさになれるのだろうか。
見惚れたまま歩いたらスマホが五月蠅く鳴る。
「次の交差点を左折です。その後、200m先が目的地です。」
「ねえーいま空に恋をしてる」
とスマホに向かって優しく叫んだ。
 まあ、そうは言っても交差点を左折して200m歩くことしか目的がないのだから。仕方がない。指示に従ってやろう。
「ちょっと、前髪が邪魔だなー。家に帰ったらいろいろ探って…まずは美容院に行こう!」
 小さく手を伸ばした。その先にある白い太陽は微塵も顔色を変えずに彼女を見つめていた。まるで冷房のような視線。
 それからは、聞き覚えのある音楽を口ずさみながら帰った。体は左右に揺らして。街行く人は彼女を不思議がっていたに違いない。だが、彼女は気にしない。赤子が外の世界を初めて歩くような、鳥に生まれ変わって空を自由に飛び回るような、そんな心持なのだろう。そんな月の恥のようだ。
 口ずさむ歌が1度繰り返された。その歌を綺麗に歌いきって足を交互に止める。渚、爪先を塩水に浸かったみたいに止まる。そして右を向く。今度は集団で歩く群れのように機敏に。
 目前に広がるは、普通なアパート。普通じゃ語彙がないって怒られてしまいそうだから。「普遍無き、この国の何処にでもありそうな鼠色のアパート」と声にした。
 部屋は全部で4つ。私の部屋は1階の左手。医者からもらった陳腐な紙はくしゃくしゃにして、ズボンのポケットにしまう。
「ああ、そういえば。なんで私スカートにしてないんだろう。もったいないな~。若いのに」
 自惚れもむしろ愛想に見える。
 そう、ぶつぶつ言いながら私の部屋のドアへ向かう。
「さて、ヒントお願いします!」
 目の高さと同じ位置にあるネームプレートには、罫書入りノートがファイルのようなものに閉じ込められているだけ。そして、乱雑に綴られた名前。
「小東」と書かれていた。
「私の名前は小東灯。こひがしあかり!」
 叫びながら、さっき紙を入れた反対側のポケットから家の鍵を取り出すも取り乱す、差し込む、回す。腑抜けた音が響く。そのあとには蝉の音だけが聞こえた。ただぼんやりと。砂漠から海を見渡すような、そんな脳内で。
 ふと、我に返る。勢いに任せてドアノブを回す。ドアと壁の隙間に私色が始まる。それが次第に大きくなって輪郭を魅せるころ、ふと「がらん」と心のほうで音が響いた。
「なんか、いろけがないな~」
 それはそうだ。部屋は真っ暗だ。
 さっぱりな感情に身を任せ、部屋に3歩踏み入れる。匂いを仄かに思い出す。まるで私の匂いではないようだ。それなのに懐かしく。まるで畳の香りのような、雨上がりのすっきりとした匂いのような。心ここにあらずに、させられる匂い。
 恐る恐る足を忍ばせ、まるで鬼でも隠れているかのように、丁寧にクリアリングをする。日中だから、陽が刺さる筈の窓にはカーテンが盾になっている。電気のボタンを探すも、どこにあったか忘れたみたいだ。とりあえず玄関からの薄明りを頼って電気のボタンを探した。ただ壁を優しく撫でていた。
 つるつる?ざらざら?ぼこぼこ?すーっと、ぬるっと。
「あった!」
 その言葉と同時にあたりは白い光で照らされる。刹那のめくらまし。その白すぎるような黒すぎるような色の後に本当の私色があった。辿ってきた反対側の壁には先ほどのカーテンが。そのすぐ横に壁を覆うほどの本棚。その目の前にはベッドが寝転がっている。ベッドの上には可愛いらしいフォントの亀の人形が眠っている。そうしてその横から生えるように机。窓の外に出たがっている方向。机の横には小さな化粧台。ぶっきらぼうに放置された立鏡。
「質素だけど、ちゃんと女性の部屋だ」
 達成感のキラキラを雰囲気として沸かせ部屋をぐる~っと見回す。
「本がすごい多い。本好きだったのかな。あと、この亀の人形可愛い。」
 横髪が目元に振ってきたので、咄嗟に耳にかけなおす。
「クローゼットもみないと!」
 勢いよく寝室から飛び出し、すぐ左手側。感覚的に飛び出した。「ががん」という音を立てながら開いていく。窮屈そうな箪笥に複数の洋服。
「いいセンスだね~、私!」
 クローゼットの中を自画自賛できる人間がいたとするのなら、自惚れ野郎か本物の天才か。そのどちらかだろうに。
「よし、ひとまずは…卒アルだ!」
 目まぐるしい。でも、私色に彩られていて好きだ。
 今度は本棚のところへ戻った。左角から右に流れるように見ていく。啓発本に古典、有名文学作品、近代小説、エッセイ。と割と多種な本があふれていた。だけど卒アルはどこにもない。試しにもう1度右角から。次は左角から。
 2度見返してみたが思い出の鍵はどこにも納められていなかった。仕方がないと、再度部屋を見渡した。
 開かれたままのパソコン。寂しそうな無人島のようなマウス。
見つめたと共に歩き出す。駆け上がる猪のごとく電源ボタンへ。間を惜しむことなどなく、画面に明かりが照らされる。そうして顔がほんのり薄らかに現れる。私の愛おしい、私の顔。意外とかわいげのある顔だと、小さく頷く。首を傾げてみる。いい感じ。
画面は強い光を放つ。今か、今かと待ちわびた恒星。その明輪郭が示すは秘密の呪文。
「ぱすわーどね。覚えてないんだよね~わかんね~。」
 思わず天井に口を向けた。ぶっきらぼうに息を吐いて画面を見つめなおす。ふと、パソコンの裏に何かあるんじゃないかと思って持ちあげてみる。生憎、そこには期待する付箋はひかれていなかった。
「つみだ~」
 足裏を滑らすようにして、反対を向く。今度は玄関のほうへ歩き出す。立て掛けにあるトートバックを掴み、興味ない人に対して冷たい別れを告げるような足速で玄関へ。
「とりあえずご飯をたべよう!」
 その声は憂いを薙ぎ払う。楽しいことだらけ、私色って素敵だ。

    ・

私はふと気が付いてしまった。難解な暗号を模索するよりも、箪笥のすべてを曝け出すよりも簡単な手掛かりについて。いや、気が付くのが遅すぎたといっても過言ではない。私を見つけるための何よりの手がかり。「スマホ」だ。
今際までただの地図としか使っていなかった。なぜ、こんなにも手元にあったものに気が付かなかったのか。これが足元を見落とすという奴か。見落としていたのは手元だけど。
そんな気付きは昼過ぎ。喫茶店で優雅なオムレツと定番のアメリカンコーヒーを飲んだ帰りだった。美味しさというよりも相性の良さで選んだ二つをお腹に埋めて、お店を出て10歩目の場所だ。まるで天才アーティストの言うアイディア降臨のよう突然に。おかげで知った顔のような笑顔で美人な店員さんに見られていたことも忘れていた。
 思考の羅列に至る。組まれ続けていく高層ビルのよう、終わらない失策に対しての憂い。そんな憂いの色は夕焼けが消えて雲が囲ったミッドナイトブルーに似ていた。
「まあ、悩んでもしょうがない。ポジティブにいこ!!」
 声を張り上げた横断歩道の上。部活終わりであろう中学生が自転車を走らせ、薄ら笑いをして消えていく。止まったままの車は何も言わずに小さく呻くだけ。
 そんな情景を蹴飛ばすようにしてスキップを始める。
 気が付いたことに感謝しなくちゃ。このまま気が付かないままでいるより進展あるんだし。これまでを憂うんじゃなくて、これからに期待しよう。不安なんて、あの空を見て深呼吸すればすっ飛んでいくもん。見落としたものは後悔じゃないし。それはまだ私の知らない気遣いだね。だから大丈夫。うん。大丈夫。言葉は私を強くしてくれるね。
「思い出した!私、詩が好きだった!」
 スキップをしていた足は一瞬迷子になる。それでもすぐに道を見つけて駆け描く。
「えーっと。名前は思い出せないけど、あの暖かくて…カマキリみたいな?」
 顎に指をあてる。首を傾げる。跳ねる髪がふわふわして楽しい。跳ねる足がぷわぷわして心地いい。跳ねる心がくるくる回って笑っているから、もう嬉しい。うれしくて。
 まだ始まったばかりの私の人生。25だけど全然いいことばかりだ!
「さあ、帰って私の過去編スタートだ!」
 空には青が棲んでいる。夏らしくて、入道雲の片鱗が、千切れたパンみたいに水に浮いている。
 
 家に着いた。早速、スマホを開いた。かれこれ90分は眺めていたと思う。
分かったことは幾つかある。まず、写真だ。写真には人が一切映っていないこと。風景ばかりだということ。次に連絡先が削除されていること。ただ名前も記載されていない電話番号が一つ登録されてあった。それとSNSも入っていなかった。
 スマホを見るに以前の私はそれ程、スマホに依存していた訳ではなさそうだ。ただ、問題として、たった一つの連絡先。これだけが大きな手掛かりであり、大きな罠であるような気がしていた。
「これは難解ですな~」
 ベッドに座り込んで考える人の像の物まねをする。
「まあ、ひとまずは明日にしよう。今日はお風呂に入ってスキンケアを覚えている範囲でして、眠ろう!」
その言葉と同時に足音が鳴る。
「ゆっくり、ゆっくりと記憶も思い出せばいい。それでいいや。」
 そうして今日という愛おしい日が終わる。

  ・
 
 朝だ。カーテンの隙間から陽が透き通っている。夏特有の朝の太陽。隅に眠る感覚を探るならこの太陽は元気すぎる。
「うわ~、おはよう」
 部屋には誰もいない。それでも染みついたルーティンのように挨拶をした。体はクリープのよう、起き上がって欠伸をして。体の隅々まで伸ばし切ったら、シーツの皺を掌で優しく伸ばして、毛布をふわっと舞わせてベッドに着地させる。そのあと、枕を基準面のない直角に置いて。寝ぼけ眼で時計を見る。口を塞いだノートパソコンの横。目を見開いたデジタル時計。「8:07」と記載。
「とりあえずっと。今日は髪を切りに行こう。前髪長いし。せっかくだしボブ系やってみたいし~」
 寝癖が未だに6時を示さない。未だカーテンを眺めながら立ったまま。その脳内では仕事について考えていた。
 今は休業中で月々のお金がいくらか入ってくるから。残り預金50万で再開まで半年。
「う~ん、遊ぶぞ!!」
 考えがまとまるよりも先に脳内は、もう美容院で座ってパンフレットをみているのだ。
 それからというもの準備が早かった。まず今日、予定が空いている美容院を探しまくる。行ったり来たりスマホを使って舞い続ける蝶々のよう。4件目の電話でようやく交渉成立。そこが昼の3時からだけど、2駅離れたところだったのでもう出ようと思い着替えと化粧を始めた。時間つぶしだって駅前なんだからいくらでもあるはず。まあそれなりの田舎ではあるのだけれど。1時間余りで準備を終わらせ、焦がれ猫のよう家の外へ駆け出した。

 胡蝶の夢とでも例えればいいのだろうか。ふわりと浮かんだ純白の雲がおいしそうで。でも、中身は稲妻が走る恐ろしい飴なのだろう。それすらも愛おしい今。現実と夢か分からなくなるその答。目前、私はどこからあの雲を見ていたのか分からなくなってしまう。
瞬きを一つ、夏の呼吸。まるで鬼みたいだ。歪さ秘めた狂気。恐れ、足を一つ戻してみる。蜘蛛が巣を作って道をふさいでいるのだ。あれだけ美味しそうな雲を追いかけたのに。
人が通れるくらいの隙間に吸い込まれた私。明るい擁壁と擁壁との先、どんな道が広がっていて、どんな街並みがあるのか。猫がじゃれあう町が存在するのかも。もしかしたら、海兎が出血したような空が広がる世界かも。と、いろんな期待を胸に花を持たせ突き進んだ。     だがその結果は蜘蛛が通せんぼをするだけだった。鋭くとがった足先。鬼の形相を思い浮かべる胴体の模様。これがあの夏雲の中を走っている稲妻の正体なのだろうか。それならば私は胡蝶。理想を強く抱いて羽ばたいた結果、巣に絡まって抜け出せなくなる悲惨な生。
「あ~もう、嫌いだよ、この虫」と、呟いて思い返す。今昔変わらない嫌いという思い。
「そっか、私。蜘蛛が嫌いだったんだ。私の生きたい道をふさぐ、美麗な景色の隅にいつも立ち入り禁止の看板を貼る、この虫が嫌いだったんだ。」
 その衝動は強く、夢のような恐怖は夢ではなく現実となった。目を見開く、雷鳴こそ瞳に宿せば恐怖を飼い馴らした狂気。
「道の邪魔をするのなら巣を砕いてでも前に進んでやる。」
 転がっていた木の棒を拾って、引き腰になりながらも棒を一生懸命に振る。そうして、糸がほどけて蜘蛛は立ち去る。奇怪な足で何度も謝るように、じたばたと去っていく。
「ああ~怖かった~」
 ほっと一息ついたら、また駅前へ向かって歩きだす。けれど、この路地裏の秘密は一つの勇気じゃ壊せやしない。進んだ先に大きく巣をはる蜘蛛がまたいた。その形相と困難の連続に怯んだ私は後退りをする。
「こんなの無理だよ。」
 そうやって進んできた道を戻れば、まだ緑を失わない田園が小さく広がっていた。優しく熱い日差しを浴びさせてくれる、嫌いになれない景。
「まあ。いっか。早く美容院にいかないとね。」
 また歩き出す。ほんのり小さな歩みを描いて。幽かに掴めた記憶を手にして。
 路地裏こそが新しさであり、畦道こそ記憶の住処だ。
 蜘蛛が嫌いなのは、そのどちらも塞ごうとするから。いつになっても救いの糸を降らさない、空で居眠り惚けているからだ。
「蜘蛛が嫌いだ」なんてちっぽけな欠片を握ったまま。歩き続けて駅前。そこで朝食兼昼食を済ませて12時。それからまだまだ時間はあるから駅前の図書館に向かった。そこは喫茶店とセットになった個性に特化した図書館だった。珈琲とヒノキの愛香。リミックスの限界が本を追加してしまうからきゃぱおーばー?
建物に魅了されながらも1棚1冊ずつ眺めていった。あまりにも久しい本たちに愛撫されて心がふわりと天井を抜け出しそう。
 詩集に撫でが通りかかった頃、本が指先を止めてくれる。それはお洒落への合図。その時間まで残り10分。
「ああ~また走らんと~!」
 飛び出す、自動ドアの反応もギリギリ。爆風に飛ばされるよう、鬼に追われるよう。駆ける足は青春のページ。情景を朽ちさせないよう、風を食む。何度も吐いて、何度も食べて辿り着いた。
「予約の小東さんですか?」 
 笑顔が素敵な薄茶髪の女性が言った。24歳くらいで、呑気なしゃべり方。
「はい、すいません。遅れました!」
 彼女はまた小さく笑って「9秒の遅刻ですけど、どうでもいいですよ!」今度は椅子をくるっと回して、手を贈る。
「さあ、どうぞ。」
 私は涙袋を痩せてしまいそうにして、その席へ向かった。

お店を抜け出した後も夏空のような高揚を持っていた。胸にしまえない程の喜び。溢れて口元が緩んでしまう。
 先ほどの蜘蛛のことなんて忘れて、アスファルトを這う忘れ水を眺めていた。上流に目を追っていけば誰かが打ち水をしていた痕跡があるのかもしれない。その上には綺麗に咲いた積乱雲が誇っているかもしれない。楽しみで、楽しみで、ただ心地よくて。胸走る火は死人花のように鮮やかで、ただ美しかったと私信じていた。
 
 喫茶店ならではの穏やかな音楽と共に奏でる優しい呼吸。一日の充実感を珈琲と一緒に流し込んでしまおうという算段でこの喫茶店に入った。内装は私好みの落ち着き具合。ココアブラウンといったところだろうか。この馴れ浸しんだような色を見つめているだけでお冷が無くなってしまっていた。そんな丁度を見計らったようなタイミングで注文していた珈琲が届いた。そんな夕刻だった。
「お待たせしました。アメリカン珈琲です。」
 店員さんが珈琲カップを私の前に置く。綺麗を知り尽くしたような女性店員さん丁寧な姿勢でにこっと笑ってくれた。きっとまだ大学生くらいだろう。羨ましい。
置かれたカップが時差も許さず鳴る。胸を鎮めるような、煮えさせるような気分にさせられた。
「そういえば、今日は彼氏さんご一緒じゃないんですか?」
 吐き出すように溢れた店員さんの言葉。自分でも目が丸くなるのがよく分かった。
「え?」
「…え~と、小東さんですよね?」
 首を傾げ困った顔をする店員さん。
「ええ、そうですけど…私たちってもしかして親しい関係ですか・・?」
「はい。何度かお食事に行ったことありますよ。いつも、彼氏さんとよく訪れていらっしゃっていましたよね…?」
 その言葉を聞いてもなお、それが人違いじゃないのかと疑った。だけど、記憶を失っている私にはその言葉が過去の私のものだとはっきり理解もできていた。
「え~っと、実は…記憶喪失になっていて…」
 女性店員さんはおもわず口元を塞いでまでして驚きを見せていた。
「ちょっと、そのお話聞いてもいいですか?あと、10分で上りなので」
「ああ…はい」
 見事なまでも度肝を抜かれた私は腑抜けた返事をして立ち去る彼女の背を後に、有り余るほどの可能性を考えた。
 1つ目に浮かんだ可能性は例の電話番号が彼氏のものだという可能性。その次に私は男たらしだったという可能性。いや、それはないと信じたい。というか、なぜ今になってこんな大事なことが浮かび上がってきたのか。もっと早く浮かんできてほしいものだ。ほら、部屋の中に男物の服があるとかそういう…。そうか同棲はしていなかったのかも。なら、部屋に痕跡がなくても仕方がない。それなら付き合ってからそんなに長くないないのでは。
 味もしない程の珈琲を一口。思考の羅列ばかりでカフェインの覚醒作用だけが舌の上で響き渡る。
「お待たせしました。」
 先ほどの可愛らしい店員さんが先ほどよりも清楚になって表れた。しっかりと着こなされたグレーコーデ。薄黒いデニムにグレーのシャツ。なるほど、これが最新のトレンドなのか。と目を何度もぱちくりさせた。
 彼女は勢いに任せて私の前の席に座り込む。
「あ、えっと先に名前ですよね。私、白咲藤花です。」
 白咲さんは物凄く礼儀正しく、その伸ばされ続けて曲がることを熟知したような背筋は女性らしい美しさそのものだった。
「小東灯です。」
「いきなりですが、記憶喪失ってどうされたんですか?」
 本当にいきなりでびっくりした。心臓の絡まりが妙に鳴らし続ける音に一瞬の静止すら感じた。
「えっと、後頭部損傷による軽度的な記憶喪失らしくて…。」
「それって、誰かに殴られたってことですか?」
「はっきりとはしてないんだけど…。私、発見されたとき階段の下で倒れていて…。」
「もしかして!」
「そう!そのもしかして。後ろから押された可能性もあるし、単に階段から落ちた可能性もあるの!もしかしたらの、もしかしたらだけど何かの角部で殴られた可能性もあるの。」
「サスペンス!それ警察ごとですよね?犯人とかってもう?」
「何もわかってないのが現状なんだよね~。階段から落ちたような打撲痕も残っているし。たぶん、普通に階段から落ちたんだと思う!」
 自信満々に鼻を膨らませて、自分に起こったことの持論を述べてみた。気持ちいい。
「へ~なんか、小東さん記憶を失う前とだいぶ雰囲気も喋り方も変わっていて…なんだろう?明るくなりましたね。」
「そうかな?そうなら記憶を失うのもアリなのかも。」
「それは…どうでしょう?そうだ!その彼氏さんとは連絡取っているんですか?」
「いや、それが…」
 退院してからのことを少々大雑把に伝えた。それと私に彼氏がいたことも今知ったとも。
「そうだとしたら、彼氏さんすごい心配しているのでは?けっこう仲良さそうな雰囲気でしたし。」
「そうなの!やっぱりあの電話番号がそうなのかな?」
「さっき言っていた一つだけの連絡先ですか?」
「うん。どうなんだろうな~?」
 呼吸を3つほど置いて、沈黙に似た思考を羅列していた。
「そうだ、私たちもよかったら連絡先交換しませんか?」
「おっ!そうだね!これからも昔の私のこと教えてくれたら助かるから。」
「はい!もちろんです。なんて言ったって図書館で会った後は食事をするくらいの仲だったので!」
 互いのスマホを交わした後、白咲さんから兎の「OK!!」と書かれたスタンプが贈られた。それに反応するように私は亀のスタンプを返した。
 スマホから視線を上げて、腕時計を眺めてた。そうして鈴虫くらいの声量で慌て始める。
「あわ!もうこんな時間。すいません用事があるので私はこれで。」
 急いでトートバックを持ち上げ、一礼。
「ありがとう!また何かあったらここに来るか、連絡入れるよ~」
 なんか、知らぬ間にため口になってしまっていた。
「はい!またよろしくお願いしますー。」
 とっても素敵な笑顔で、手を左右に振りながら私にお別れを告げた。私はちゃんとお店から出るまで彼女のことを見送った。
 そうして空っぽになっていた珈琲のお代わりを注文した。

「彼女の微笑みはまるで、花の棺桶で眠っているように思う」
ふと浮かんだ一文。意味もなしに声にしてみた。
喫茶店からの帰り。夏雲散って、茜も墨の一閃に似る頃。ただ、空を見上げて何も考えていないふりをしながら、彼氏のことについて辿っていた。
覚えていること。それは第一に蜘蛛が嫌いだったこと。記憶を失う前の私は長髪派だったこと。それと本が好きなこと。私について分かっていることはこの3つだ。正確に言えばもっとあるのだが、言葉にするのは面倒なので割愛と。
そして、手掛かりについては一つだけの電話番号とパスワードが解けないパソコン。それと、白咲さん。一番手っ取り早いのは白咲さんの話を聞くことだ。
「まあ、あんまり焦って記憶を戻す必要もないか!」
 呑気な言葉を吐いて、それを飲んだ空があまりの不味さに吐き出し、とうとう夕立という名の雨が降り始めた。
「ふ~、ダッシュだ!」 
 小さな掛け声と共にもっと大きな粒を、溢れるくらいの雫を。
 幸い、家がもうすぐそこだったのであまり濡れずに済んだのだが、気持ちはグレー。
「まあ、こんな一日も最高だね」
 あははっと笑って、今日の幕を閉じるように瞼を落とした。

 ・

 目覚めは最低。朝8時から玄関の戸を啄木鳥が叩くようなリズムでノックが響く。その音に一瞬の休みを与えた後にはインターホンが3回鳴った。
 正直な話、ものすごく怖かった。そもそも一人暮らしの女性の部屋に借金取りのような挨拶は恐怖以外の何物でもない。
 恐れを知らない私は仕方なく、のぞき穴まで足音を立てずに向かった。それも寝癖も、部屋着もそのままで。薄ら影に光る穴に恐る恐る右目をかぶせる。見えてきたのは歪んだ世界の中心に売れないホストのような優しそうな顔の男性がいた。ビニール袋を持っていた。
「え!やばっ!」
 扉との距離は開くが、扉の向こうの男とは距離が縮まる。
「あれ?灯~いるの?お~い、出てきて~。正木だよ~、あっそか。久間正木だよ。彼氏だよ~。」
 変に理解のある文脈が聞こえて、ようやく胸の中に焚かれた5つの焚火が1つ消える。
 戸惑う脳内から波の後が消えていく。そうしてのぞき穴をもう一度。思いを詰まらせた男性が一人。妙に色気づいている男だこと。
 心臓がうるさいと言うには誇張しすぎだろうが、薄らと聞こえてはいた。
「お~い。」
 声と心臓。影の黒と白の外。
うわ、もし本当に彼氏なら、こんな寝癖だらけの顔見られたくないな。
 そう脳裏に過ったときには鍵を開けていた。ゆっくりとドアノブを下げ、外の光を少しづつ部屋にいれる。もっと、もっと、と部屋の暗さが叫び終える頃には男の顔は確認できていた。
「や!久しぶり!記憶喪失になったって聞いてたけど本当?あれ?てか、髪切ったんだ!ショートもいいね!」
 イルミネーションみたいに五月蠅く喋る男に問いたいことはただ一つ。
「本当に私の彼氏ですか?」
 その言葉を受けて男は心臓が張るように、胸が動く。まるで電気ショックを心臓に打たれた患者のように。表情は目を大きく、日食のように丸くして、顎を引いていて。
「ええ…本当っていうか、そこまでなんだ…」
「すみません…」
 不意に誤ってしまう私に、私らしさを一瞬見失った気がした。
「まあさ、今の灯と一緒に飲みたいなって思ってさ。ほら!」
 男はビニール袋に詰まったチューハイ缶とたくさんのおつまみを魅せてくれた。
「どう?お酒好きだったでしょ?」
 その甘い若さの誘いに、私の焚火はもう一つ消えた。これで残りは3つ。
「アリかも。どうせ、自分探しに行き詰まってたし。」
「あっそうだ、襲ったりは絶対しないから安心して。灯が嫌がることしたくないからさ。」
「なら、どうぞ」
 玄関の扉を抑えまま彼が玄関に踏み込む瞬間、なにか胸の焚火とは違う場所で火が付いたような気がした。憧憬に浸るような、夏雲に儚さを感じるような、あの遠い感覚。
 火とは別に、部屋の暗さは就寝時と重なる。寝る前の静けさがこの朝にも宿っている。
「いや、待って。ここまで入れておいて言うの可笑しいかもだけどさ…そうはならんだろう!」
 朝の私の最高気温。似合いすぎるほどの今日の猛暑日。
「そりゃそうだ!」
 納得するなよと内心思う。まるで否定されることを準備していたみたいじゃないか。
「まあ、話を進めないと私も困っているからさ。お酒飲んで話進めたい気持ちはあるよ。だけど、さし飲みはなしでしょ。」
「だよね~出会ったばかりの灯ならそう言ってただろうし!予想済み!だからさ、誰か友達呼んでみてよ!それなら安心でしょ!」
 玄関の戸を抑えたままの彼、その手首には男らしい血管が浮かび上がっていた。
「ん~乗り気じゃないけど、人を巻き込むのは嫌だけど。生憎、昨日があるので。」
「お、いいね!」
 スマホを取り出して電話をかける。妙に衝動性の私がどんどん胸の焚火を消している。もう2つしかないような気もする。
 もやもや胸に丸く収めて、その電話がつながった先に強引な未来が明ける。焚火はすべてを燃やし尽くして何個になったのだろうか。

「触れてしまえば、美しさは溶ける。小東さん、これは無茶ぶりですよ。それよりも気まずいですよ。」
 昨日、連絡先を交換したばかりの白咲さんが、すぐに駆けつけてくれた。もう居間の中。
「ごめんね、強引だったけど。」
 両手を合わせて、頭を小さく下げた。
「前に灯が言ってた喫茶店の人?」
 久間正木が問う。そう、私の彼氏を名乗る人間の本名だ。
「え…っとそうです。白咲藤花といいます。」
「ま…灯がごめんね。記憶を失ってからの灯なんか変わっててびっくりだよね。えっっと…久間正木です。今日はよろしく。」
「よろしくお願いします。変わったことには同感なんですけど…いくら何でも男に襲われてるっていうのはちょっと…自暴自棄過ぎますよ。」
買い物途中でオフの日の白咲さんも美麗だった。
「ほっとにごめんね。でも、状況説明も面倒だったし半分事実みたいなものだから許して!」
 きっと彼女は今、連絡先を交換したことを深く後悔しているに違いない。
「お酒もあるし!」
 追加の言葉に、深いため息が響く。
「まあ…仕方ないですから、今日くらいは…。でも次はこういうことしないで下さい。」
 胸が張り裂けそうなほどの声色で怒る。
 こればかりは私も反省をしざるを得ない。
「さてと、さっそく乾杯しますか!」
 自称私の彼氏は濃度3%のチューハイ缶を白咲さんに渡す。優しそうに接するが何処が朧気な。まるで興味がないことを暗示させるようなキッパリ感。そっか、ここでしっかり私の彼氏アピールしているんだ。
 卓上デスクを三人で囲み若気の至り、香りがもう大好き。懐かしい。私の部屋が私の部屋じゃないみたいに賑やかだ。大型駅前のクリスマスみたいな、そんな雰囲気だ。
「「乾杯~」」
 私と久間が缶を掲げ、1秒もない間遅れて白咲さんも鳴らす。
「一応、お二人の会話の仲介役なので…基本は2人で会話してくださいね。」
白咲さんは言った後にいきなり口づける。喉が上がる。
「うん!任せて、白咲さんは裁判官みたい感じでよろしく!」
 私も一口アルミ缶に口を奪われてみる。
「さてと、何から話そうか、灯?」
 久間もアルコールを喉に通す。
「え~そんなの、出会いからじゃないの?」
「いきなり、ピークなところからだね。」
 白咲さんはその甘すぎる愛の匂いを鈍すためにアルコールを脳に送り続ける。あの缶ももう軽そうだ。
「出会いか…簡単に言うのなら居酒屋で灯に逆ナンされたんだよ~。」
「「はっあ?」」
 女性の甲高い声が重なる。
「灯さんって男遊びするタイプだったんですか?」
 美麗な顔が私の方に飛びついてくる。
「いやいや、違うよ。たぶん、うそでしょ?てか、まだ早くない?酔ってんの?」
 重荷となるアルミは一度机に返却。
「辛辣だな~、確かその時撮った写真もあるよ。」
 久間はスマホをポッケから取り出す。
「ほら」
 そうして見せつけられた写真には、髪を切る前の、記憶を持っているときの私がいた。その表情は日食みたいで、胸が翻る、胸が焼けるような…そんな笑顔だった。その隣の彼は迷惑そうな顔で、死んだ目の一歩手前で笑っている。
「灯さんもちゃんと遊び人だったんですね。意外…。」
「いや、別にそうではないでしょ。純愛の一つくらいあるでしょう?」
 ど派手に突っ込みを入れてみる。白咲さんの肩に軽く手をのせてみる。
「いや~あの時の灯はマシンガンだったよ。当たればいい、見たいなね。」
「はあっ?うそうそ。間違いでしょ。」
 左右に首を振る。髪が頬に触れてくすぐったいのだが、それも薄味。
「どうだろう?あの時の灯は何処か自暴自棄だった感じあったし。」
「ああそれ、ちょっとわかります。その…記憶を失う前の灯さんは回り続ける地球儀みたいな…」白咲さんの前髪も頬を撫でている。肌の白さと黒髪の艶が色気を醸し出す。私が男性なら絶対、この人と結婚するのに。と、胸の内で思った性的な感情は一度黙らせておいて。
「わかりにくい表現だな!」
 脳裏に浮かぶ欲求を隠すように。
「まあ、そんな感じかな。」
「ちょっと、一回この話はここで区切ろう!次いい?」
「いいよ。」
 久間は髪をかき上げる。白咲さんはアルミ缶を両手で温めている。
 それからの会話はフットワークの軽いものばかりだった。今までの恋愛だったり、お仕事の話だったり、学生の頃の話だったり。そんな他愛もないような白金みたいな比重の会話を広げていた。
 そんなこんなで酔いも宵。皆が重い瞼、机に項垂れる白咲さんの髪が美しくて。私って、意外と女性が好きなのだろうか。もしかしたらどっちもいけるタイプなのかも。なんて、どうでもいいか。愛せることってあるだけで充分だから。普通なんて存在しないように、当たり前が絶対じゃないように、絶対が絶対じゃないように。私たちは無理難題の答えだらけの世界で生きているんだから。
 そんなお昼も夕方を描き始める。筆を握った瞬間すら見ることもできず。


 これが夢であり、思い出であること。はっきり頭の中では理解していた。
 海岸沿いに並ぶキリンが舌をぶら下げる。その先端、縄で吊られた死体。死体の首には段ボールにマジックで塗り潰した自由が書かれていた。何度も繰り返す赤灯。さざ波ですらも嵐に聞こえる。まるで、生温い水の中に閉じ込められている気分だった。
 
 瞼が勢いよく開く。空から落ちる夢を見たときみたいに。夢の心地悪さなら同等かそれ以上な、胸に焼け残った火が嫌に再燃を懸念している。
 もうあたりは真っ暗。あけっぱのカーテンの向こうには夜が咲いていて、二人はぐっすり眠っている。そんな二人を起こさないように、そっと立ち上がりパソコンの方へ向かった。
 なぜ向かったのかはハッキリとは分からない。でも、それが癖になってしまっていたのだろう。ゆっくり、開くノートパソコン。電源ボタン。キーボードに指を置いて「nekonikagiwomotisararetai」と文章を打ち込んだ。他よりも軽く強く打つエンターキー、その音と共にぐるぐるが回りだす。6周くらいしてパソコンはたちがあった。
「あれ?なんで…」
 開かれるホーム画面。数少ないファイルの中に「言葉」と書かれたものがあった。それも意図せずカーソルを合わせてダブルクリック。
「ああ、そっか。結局は覚えているんだ。」
 言葉にはならなかったが、脳裏では理解していた。体が覚えているという奴だ。
 開かれたフォルダはwordを起動させ200ページにも並ぶ言葉が浮かび上がった。その言葉を飲むようにして早読みをする。マウスのホーイルも下へと回り続ける。

「楽な道に逃げられるほど強い人間だったらよかったのに…」
「今更、殺してくれるような優しい神様なら。私は大歓迎だ。」
「曖昧に周りと透過させ、曖昧に一人で自分と戦う。それが引き合わない最大の理由だ。」
「お酒に酔っているときの私が好き。いつもよりも素直で優しく言葉をかけることができるから。世界のこと丸くみられるから。かわいさをアピールできるから。」
「何度も描いた季節でようやく出会えた。もう草木は私を隠してもいいよ。」
「短い眠りでもいい。目を覚めたとき「おはよう」の一つだけで体中が恋にやけるほどの熱を纏って、幸せを見られたんだ。」
「抱き寄せて染みる体温も泡となる肌感覚。」
「あの日飛び降りれなかったから、今もここから飛び降りようとしている。自分を捨てた人生の中で藻掻いている。それでも幸せだ。あなたがいるから。」
「飛んだ飛行機雲、その雲を指で滲ませて。まるで絵具みたい。それがあなたを思う心だと知っていた。」
「曲がった秒針で差された私たちは、きっと間違った選択を得選ばされているのだ。そう、誰もが草船だと。」
「自分の弱さを受け入れてくれる人なんて自分しかいないって知って、心底世界に絶望したよ。」
「そう、彼氏が欲しいわけではなかった。孤独と劣等感と伽藍な心に浸されたとき受け入れてくれる人が欲しかったんだ。受け入れてくれるのなら、だれでもよかったんだよ。なのに、もう嫌になる。」
「秋が来るんだね。体温が恋しくなるね。」
「海を見れば、街を歩けば、夏が終わったんだと感じる。あなたも私に孤独を残したのだと感じてしまう。」
「やっとここまで歩いてこられた。孤独にすり減らされながら、ほんとに小さく歩いて、歩いて。それでようやく私を見返せる人に出会えた。私と君で私の心の底を認めれた。ようやく心を愛してくれる人に出会えた。これも季節のように死ぬのなら、次の私は…もう。」
 
 日記のようになった文章。その文章の中でも赤色に染まっている部分だけを読んだ。
「そっか。そうだったんだ。」
 お腹を誰かに殴られ続ける痛み。揺らぐ頭、知っていた。思い出せないよう、私を消していただけだって。淡く弱い私のことを。
 弱まり、揺らぐ体の中、キーボードに指を置く。始めは「n」
「猫に鍵を持ち去られたい。そう願った私は、私ではなかった。この詩という心は傷でしかない。」
 全身の気力が体から抜ける。浮かぶように、落ちるように、地面に向かう。そうしてドンッと音を立てた。

   ・

「パソコン開けたんだ。」
 久間は他人ごとのようにつぶやく。彼女がソファで項垂れる部屋の中、温度は停滞気味。パソコンの薄明りが部屋を照らすだけ。フィルムは蛍光。
「やっぱり灯さんがぁ言っていた残された一つの電話番号って…」
 白咲は酔いの後遺症を患いながらも口を流暢に動かす。でも、濁音が繋がってしまう。
「とりあえず見てみよう。灯の日記。」
「…」
「大丈夫だから…ずっと薄々気が付いていましたから。灯が前の彼氏のこと引き摺っていたことも、階段からわざと飛び降りたのも…全部気が付いていますから…」
 表情を見せないように、俯く。
「つらいなら、無理せずに。苦しくなったなら見るのも辞めてくださいね…」
「ええ、もちろんです。」
 そうしてなんの関係もない純白な男女二人が一つのパソコンを除き、たった一人の女性について調べ始める。始めに二人は赤い文字で書かれた文章を読む。

「最後の赤い文章は久間さんのことでしょうかね…」
「ま、そうだろうね。そうとしか言えないよ。」
 久間は何度も視線を落としていた。胸の内ではプレートがひしめくような音が鳴り響いて。時折、胸に手を当てて体温を確かめつつ、口元を何度も撫でていた。
「そっか、そうだよな。分かってた。ああ、そうだ。愛されたら愛し返すのスタンスじゃこういうボロに気が付けないって。それでも、始めて愛せた人が未練だらけの女だなんて認めたくないな。ああなんでだろうな。」
 小雨も掻き消せない程、小さな声で。転覆するような風が吹く中で。
「久間さん…大丈夫ですよ。今の灯さんはきっと違うから。」
 慰めも涙の濁流には流されるまま。
「本当は、ずっと好きな人を被写体にして生きていたかった。今はピントすらあってない。」
 久間正木は始めから自尊心という物がなかった。それは人生の曖昧さに流された結果であり、弱男性と罵る異性からの雑言のせいでとうの昔に砕けていた。それを癒したのは小東灯だった。でも、その信用を失わされる怖さに浸されているのだ。今歩いている地面が揺れて地割れを起こすかのように。
「大丈夫ですよ…一旦離れましょう。灯さんが起きてからまた少しずつ話していきましょう。そうすれば誤解も見えてくるかもしれないです…から。」
「すみません、情けないところを。」
 純白である二人は灯が眠るベッドの傍の床に座り込み、ただ彼女が目を覚ますのを待った。呼吸の音も、重なり合う視線もなければ、ただのうす暗い世界に怯えながら。長い夜が訪れることを分かっていながら。

    ・

 いつからか、私は綺麗な私しか許せなくなっていた。綺麗なものを見すぎて、汚いものを許せなくなった。映画に嘘の愛に、小説に真実の愛に。無駄に考えて、どうでもよくなって。負け犬に拍手はないまま。ただ言葉は綴られるまま。都会の夜風は孤独を紛らわす嘘のまま。孤独に靡かれ跨ぐ海には時間だけが奪われていく。本当に必要なのはあなたであって、性欲なんかじゃ決してないんだ。

 震えるように目が覚めた。夢を見ていたような感じはしない。ただ温りに包まれていただけのような。
「おはよう、灯」
 私の頬に向かって流れだす言葉。懐かしい、声。否、違う。似ているだけだよ。人なんてみんな似たり寄ったりだ。違いなんてあまりない。これだけ世の中に小さな物語が溢れているのだから私くらい不幸でもいいじゃないか。
「おはよう、正木君。白咲さんは?」
 声色が自分でも変わっっていることに気が付いてしまう。きっとあの赤い言葉たちのせいで憎い私を思い出し始めているから。
「もう帰ったよ。いま、夜の3時だから。20時くらいに帰ってもらったよ。」
 私はベッドの上から窓際に向かい息を言葉にして。
「そっか。よかった…それとさ。あのね。私、実はもう気づいているの。」
 息を飲む暇さえも許さない余裕のなさ。
「うん。大丈夫だから話してみて。」
「正木君が本当に私の彼氏だってこと。それと、今も好きなままだよってこと。」
 一つ息をのむ。愛に溺れる、愛に踊らされる。
「そっか…思い出してくれて嬉しいな?なんか、ありがとう…灯のこと好きだよ。」
 声色は震えたまま。夜空に飲み込まれる音は身軽で真実が歪んで見えた。
「それでさ…しっかり言っておかないといけないことがあるなって思って。」
「うん…いいよ。ちゃんと受け止めるから。」
 互いに小さな深呼吸が重なった。
「私の過去について思い出したから、それを飲み込んででも…愛してほしんだ。我儘でごめんね。きっと苦しむと思う。きっと泣いてしまうと思う。でも、それでも愛してほしいんだ。私には正木君の愛情がないと過去に喰われて死んでしまいそうだから。今だけは依存させてほしいんだ。」
 一間を置く余裕と現実に揺らぐ思い。互いの肌に夏の冷房の冷たさと冬のストーブのような暖かさの両方が肌を伝う。
「任せて。絶望はなれっこだから。」
「ありがとう。」
「ううん。こちらこそ。」
 窓の向こうに揺らぐ夜光は微塵も綺麗と思ったことはなかった。だけど今は美しく見えるのだ。まるで蝋燭の火を眺めるような。
「じゃあ、言うね。」
 瞳を閉じる音が聞こえる。わたつみの音が遠くで聞こえた気もしている。
「何から話せばいいかも分からないんだけど…やっぱり結論から言うべきかな。あのね、本当は正木君のことを元カレと重ねてたんだ…と思う。だから始めは正木君のことなんてどうでもよかったんだと…思う。」
 あの時、出会った時の体温と感情に浮いた油だけが思い出せる。
「うん。大丈夫だよ。今は灯のことしか見ることが出来ないから。そんなんじゃ動じないよ。」
 鈴虫のように変わらぬ声色のまま正木は告げた。
「ありがとう、それから私たちってあんまり長くないでしょ?」
 私は全部を取り返せたわけじゃないってこと、今気が付いた。私の記憶には、正木君との日々は完全に抜け落ちていること。元カレを引きづっていたという事実を言葉から知って。今やっと気が付いた。元カレの顔なんて思い出せないこと。ただ後悔という概念だけが石のように胸に乗っていることに。
「まだ3か月目だよ。」
「そうだよね。そっか~、んふふふふっ」
 なぜか笑えてきた。後悔の概念が胸の底を支配していたとしても今の私にはなぜかどうでもよく思えた。過去は過去。今は今だって。この時はそう思えていた。
「どうしたの?急だね。」
 憂いを纏っていた正木君も、やっと私のことを見てくれた。
「ううん。なんでもないよ。あ~もういいや。すっきりした。ね、私の過去はまた随時追っていこうよ。なんかけっきょく今は正木君のこと好きなんだからこれでいいやって思えたんだ。」
 私はベッドから降りて床に座り込む正木君に抱き着く。
「ほんとっ急だね。ま、そんな灯も愛おしいよ。今は今、過去は過去ね。」
 腕の体温が首を包む。
「そ!これが今の私。昔探しもいいけどちゃんと今の私を愛してね!」
「うん。」
「まだ思い出せたことなんて感情の一つだけだけどさ、これから重いことがいっぱい浮かんでもいっぱい愛してね!正木君自身のことも私のことも!」
「なんか…覚悟決めてたんだけどな。うれしいや。」
「んふふふふっ。」
 互いに深く抱き寄せあって夜を超えていく。
 まだ始まったばかりの記憶を取り戻すための物語。階段から落ちた真の理由も、過去の私の言動も感情もまだ一つしか紐解けていないけれど。すべてが丸く収まった気がしている。きっと今を大切にできているんだ。正木君がいるこの今を、忘れたくない、人の体温を。きっとこの先の辛いことも過去になるのだから、それでいいや。きっとこの瞬間を大事にしていったら全部の瞬間を大事にできるからずっと幸せなんだ。
「よっかっ~~た。本当は阿婆擦れって言われて振られるかと思ってたよ~」
「そんなことないよ、何かと俺もヤバい奴だからさ。」
「お互い様?」
「そう、お互い様。」
 鼻が触れ合う距離では息も頬に伝わる。くすぐったいや。
「幸せだね。」
「そうだね」
 私はこの瞬間のこと記憶を失ったとしても失いたくはない。だから、正木君が眠った後、私は赤い文字で言葉を綴るのだ。どんな言葉がいいだろうか。
「どこまで思い出せているのかは私にも分からない。だけど、ただ今は私たちが愛おしい。」
 こんな言葉でいいや。難しい言葉もいらない、ただ伝わればそれでいいんだ。

   ~一章・終わり~

 第二章 白咲藤花

 いつもの時間に講義へ向かう。いつもの時間に電車へ乗り込む。いつもの聞きなれた音楽に、似ても似つかない揺られ方。いつもの歩幅でいつもの欠伸。そんな日常を、たった一人の日常を愛おしいなんて思えるほど、心が強くないこと私は分かっていた。
ほんの小さな進展なんて参考書の数ページくらい。日記は3行で終わるだろうし、今日も終わり。あとは喫茶店でのバイトだけ。別に頑張っているって実感はあるけどこれでいいのかなって心もある。きっと一時の迷いなのだろうけど、これでいいのかなって。バイアスに囲まれているような生活を抜け出したいなって、思ってしまうんだ。
 立秋に夕暮れ。そんな匂いの今日。この生活の推しが、私の働くお店に現れてくれた。
「白咲さん!4日ぶり?」
 ミルにコーヒー豆を入れる私に囁かれた癒しの声。いつもの豆がすれる音とは違う癒し。
「小東灯さん」。彼女は階段から落ちて記憶喪失になってしまった女性。記憶を失う前に何度か食事を共にしたこともあったし、図書館で偶然にもよく会っていた。だから仲は良いほうだと思う。この間なんかは男に襲われているって急に連絡が来て、いざ駆けつけてみればただの彼氏で…ただ宅飲みに誘われただけだったっていう。
彼女自身も薄々気が付いているようだけど、記憶を失う前と後では人が違う。前はもっと、御淑やかで男遊びなんてしないような清楚な人だった。でも、実際は男遊びもしていたようで…まあ、そのことは今日の彼女の話で分かるだろう。そう、で、今はやんちゃな若者で。やりたいことは何でもやる!みたいなスタンスで走り回るネコ科みたいなイメージ。私も、どっちでもいいから彼女みたいになりたいなって、思ってしまっているのかも。
「いらっしゃいませ。」
「うん!どうも!それとオマケ!」
 小東さんは指をひらひらさせながら「おまけ」を示す。
「久間です。」
 小東さんの彼氏さん。本性が分からないけれど悪い人ではないのだと思う。
 そう、で、この二人が今の私の推し。なんて恥ずかしく本人たちには言えないのだけれどさ。でも、すごく幸せでいてほしいというか。いや、分かってはいるんだ。こういう気持ちの中心に私がいないってこと。本当は私を愛したい、でもそれって簡単にできることじゃないから。好きな人たちを見ている自分を好きになろうとしている。ってことも分かっているよ。だけど、私って私だからさ。分かっていても難しいんだ。なんて、よく分かんないし気持ち悪いだろうか。
 脳裏にすぐに思考の羅列が浮かぶのは悪い癖。このままじゃセリフの多い漫画みたいになってしまうから辞めよう。そう、二人を見て癒されよう。
「大丈夫でした?」
 第一声に心配とはなんと失礼なんだろう。
「うん!ばっちり!!ありがとうね!っと…あと藤花ちゃんでもいい?」
 彼女の笑顔に敵なんて生まれないだろうな…。
「もちろん大丈夫ですよ~」
「やった!じゃあ藤花ちゃん!バイトはあとどれくらいで終わる?」
 首を傾げる小東さん。その角度が可愛さのポイントって知り尽くしているみたいで。しかも髪がふわっと横に落ちる様も…無邪気さみたいで。
 思わず目を逸らした。逸らすしかなかった。だって時計を見ないといけないから。
「あと1時間くらいかな。」
「了解!じゃあ、そのあと一緒にご飯食べよう!いけそう?」
 首を縦に振る。今の生活でこの二人がみられるのなんて嬉しい限りだから。
「じゃあ、待っておくね!」
「空いている席にどうぞ~」
 そう告げれば二人は顔を見せあって何か話始める。横顔から眺める二人の笑顔に華も光も咲く。
 私はただミルを回しすぎないようにゆっくり、胸のざわめきを落ち着かせていた。
 それから二人の席で注文を受け、いつものアメリカン珈琲を机に置いて。二人は笑顔で心が濡れそうで。次のお客様からの注文もぎこちない笑顔だった気がして。砕くコーヒー豆も、店長からの終わりの合図もいつも通りじゃない気がしていた。
 着替えても、鏡を見ても「いつも」はどこにも存在しないような気がしていた。それでも時間は進むし何もかも変わっていってしまう。
「大変長らくお待たせしました~。」
 テーブル席で互いに向き合って話していた、灯さんが立ち上がって久間さんの横に座りなおす。
「さて、ど~ぞどぞ。」
 頭を一つ下げて、声はなぜかシャイで。
私は空いた席に腰を掛ける。
「さて!いきなり本題だけど、何とかなりました~。」
「それじゃあイマイチ理解出来でんでしょ。」
「そう?藤花ちゃんはどう思う?」
 首を傾げる小東さんに困った顔をして見せる久間さん。私はどんな顔をしているのだろうか。分からない。胸に靄がかかってしまう。愛おしいようで、でも離れてしまいたい。
「あんまり分からないけど、今の小東さんなら想像はつくかな。」
「でしょ!」
 その大変喜んだ顔が、もう彼女は彼女ではないこと。記憶を失う前の彼女だったらもっとおとなしく笑っていたと思うけれど。人って変わるんだ。変わってしまうんだ。
「まあ、簡潔に説明すると…僕は今の灯のことをいいと思っていて、昔は昔のことだから…そんな感じです。」
「今ので分かった?たぶん分からなかったでしょう~。簡単に言うと今の私が好きだから昔のことを帳消しにしてあげるってことにしてくれたんだ!別に今の私は正木君のこと知らないのに…こんだけ愛情貰ってるし、もっと昔の私を知れる鍵にもなれるし、なんか落ち着くし楽しいし嬉しいから一緒にいることにしたんだ。」
 早口に語る彼女は月の輪郭をしたメロディーのような綺麗な声をしていた。
 私は両手を合わせて。
「え~とっ、おめでとうございます?よかったですね?」と正解に戸惑う。
 内心ではどこか寂しい私がいること。それすらも香り続ける珈琲の匂いと砕いて黒に染め上げて誤魔化した。
「ありがと!ほんとっありがとう!藤花ちゃんのおかげ!」
「そんなことないですよ。二人のおかげですよ…それと、私二人のこと推しにするんで絶対幸せになってくださいね!」
 言葉に私を委ねた。心に決着がつかない気がしたから。思いっきりが時に解決を導くことは知っていたから。溢れた言葉で二人を。
「うわ~嬉し!だって正木君!」
 白咲さんが彼の肩に手を重ねる。ほんと星の瞳をしている。
「ありがとうございます!なんか、うれしいですね。」
 その嬉しそうな二人が脳裏に焼き付いてしまって。これから先ずっと「私は?」と私が泣くのに。どうしたらいいのだろうか。
「じゃあさ、みんなで一杯飲みにいかない?もちろん私のおごりでさ!」
 白咲さんは口を尖らせながら言う。まだ珈琲が残っている。この香りから離れたくはないな。
「私は…やめておこうかな…明日も学校だし、本当はお酒苦手だから。」
 ああ、嘘だ。本当はお酒も嫌いじゃない。好きではないけど。でも、みんなと一緒に語り明かしたい。だけど金切り音が鳴り響く心では楽しめないような。劣等感に似た花が胸を染め上げているようで。分からない。私が分からない。
「そっか…じゃあさ、今週の金曜日の夜なんかはどう?正木君も空いているでしょう?」
 ああ、さっき二人のこと推しているなんて言わなければよかった。断りづらいな。
「大丈夫です、はい!」
 ああ、断りきらない私も嫌になっちゃいそう。申し訳ないけど前日くらいに風ひこうかな。
「じゃあ、そういうことで金曜日よろしく!」
 喫茶店内とは思えない声量。今の小東さんの良いところでもあり、悪いところでもある。明るすぎて本当に困る。夏の太陽みたいだ。

 それから20分くらい意味もない会話を続けて私は帰路に立つことにした。街灯がともりだす頃。トワイライトもすぐそこ。街に残る喧騒は私には似合わない。バイアスだらけで幼稚で世界を知らない私には恐ろしくて、嫌いな世界だ。
「やっぱり私も恋人がほしいのかな」
 溢れた言葉は白い息のように空へ向かう。寒さが迫っているわけでもない。まだ秋だ。確かに夜の風が心地いいくらいにはなった。だけど、秋は夏の残骸みたいで落ち着けない。冬の寒さとは違う孤独と夏の虚しさの残骸の今は最低だ。
 お酒も飲んでいないのに揺れる足元。街灯が地面を輝かせるのも、スローなメロディーで影を作らせる。一つ過ぎて頭がふらつく。雪が降っているみたいで。二つ、照らされ明るさに困って。彼女を思い出して。三つ超えてから胸の湖に雫が落ちる。黒くて恐ろしい色をした。
「整理もできない脳内だし、あー嫌だな、金曜日。劣等感だらけでこんな顔を見せても申し訳なくなるだけだ。」
 うなじに髪が擦れる。忘れていた感覚。夜に月がない。少し考えて。風が吹けば、秋を知らせる冷たい風で。もう何度もこの風の心地よさに救われたのに、まだ助けを受け取れない。
 雨がシャツに染みる感覚がずっと心に残っている。いつまでも乾かない脳内。何が欲しいとかきっと性欲塗れって思われたくないから言わない。むしろ、本当に恋人がほしいのかすら分からない。私は私を疑うばかり。羨ましさが憂いに代わるばかり。
「こんな夜道に一人は嫌だな。誰かを思いたいよ。」
 その零れた言葉が空に届けばいいのに。

   ・

 気が付けば二人と会う日だった。記憶がないわけではない。昨日までのことは覚えている。私は小東さんみたいに階段から落ちて記憶を失ったりしていないから…ああ、そっか。浮かんでしまった。逃れられる方法を。なんて、どこまで落胆すればいいのだろうか。
 今日も昨日と同じ。時間になったら電車に揺られて講義を受けてバイトをして…そっか、そのあと3人でご飯を食べて。ちょっと違うのか。
 暖かい血液が体を流れた。
「うん。大丈夫。今日も私は…私だ。」
 一息ついて今日の準備を始める。この時間まではいつもと同じ。これからの時間はいつもとは真逆。時間が経って少しばかり楽になりかけていた。いつもの電車にいつもの講義。ほんの少しだけ進む参考書とノート。真面目にノートをとるのは私くらいかな。ああ、みんないいな。私もみんなになりたい。彼氏の悪態に悩まされたい。彼氏の顔に惹かれていたい。思わせぶりな言葉でお酒を進められてホテルにでも連れ去られたい。それがタイプの人ならなお良し。ああ、でも好きな人できたことないんだ。タイプって何だろう。どっから湧いてくるんだろう。その感情。教えてほしいな。なんか怠いな。私も階段から落ちてしまえば快活な人になれるのだろうか。
「あ」
 気が付けばチャイムが過ぎていた。スマホには次の講義のお知らせが鳴り響いている。私ってこういうところ本当に律儀だ。良かった。のかな?
 開かれた物はすべて閉じて急いでバックに詰め込む。落ち着かないまま、立ち上がり駆け出す。小走り、本当は逃避行のように。ただ講義という名目の活動をしていないと、私が崩れそうだから。ただ逃げる。向き合いたくなんかないから、もう逃げる。
 だけど、逃げた先でも私は、結局私だ。
 意外と余裕をもって間に合った講義。走ったからか呼吸は乱れている。体温が温い。化粧が汗で落ちるかも。まあ、落ちて困ることなんてないか。どうせ欲しい人なんていないし。
 先ほどとは違うノートを開くはずの私。口元の汗を指で拭おうとした。そんなとき、私は私の吐息の生温さに気味を悪くした。
「最低。」
 私は私を侮辱することでしか、私になれないのだろうか。
 開くはずのノートを閉じて、講義を急いで抜け出す。ああ、もうなんか怠い。そろそろだっけ、今月も。これを言い訳に全部逃げちゃおう。私からも、推しからも。もうどうでもいいよ、劣等感。
 ただ駆け出す。思いつくままに私の心と体は私を傷つける。
 震える指で小東さんに「ちょうど今日からあれが来たので…。また別の機会にお願いします。」と、嘘っぽい真実を告げてスマホを切る。
 勢いばかりで体のブレーカーも落ちてしまいそうだ。なのに、まだ走っている。

 激しい気だるさ。いつもなら少しばかり不安定な心でちょっとばかり火照るくらいだったはずだ。それなのに今回ばかりはベッドから抜け出すことも出来る気がしなかった。
「鍵、締めなきゃ」
 私に言い聞かせるように玄関の方を見ていた。ワンルームの小さな部屋。女の子らしさなんてない。金のない小説家の書斎みたいに暗い。
「服も着替えなきゃ」
 ちょっと元気になって目を開いただけの癖になんでもこなそうとする。なんて私らしいのだ。
 歪むし、揺れるし。なんか放っておいて欲しいのに傍にいてほしい。
「誰に?」
 彼氏とか。
 なんて、私はやっぱり可笑しくなっている。だからもう一度瞼を落とした。何も聞かないまま、水を零すだけの天音空を思いながら。
「私だよ。」
 水滴の音、水紋が広がるイメージ、そんなものありはしない。だってここは空だもの。それなのに耳からは冷蔵庫を開ける音が聞こえる。足音が聞こえる。
「あれ?」
 声は鳴るけれど、目は開かない。耳は音を吸い込むけれど、肌は熱いばかりだ。
「起きちゃった?ごめんね、五月蠅くしちゃって。あっ、灯だよ。ちょっとお邪魔していま~す。」
 そんな甘い匂いが漂っていた。
「お粥作ったらすぐに出るからね。」
 私は夢でも見ているのだろうか。否、どうせ妄想だ。ああ、こんな関わり合いも怠くなる。こんな日には本当、言葉だけ残して何もかもを置いていく天使のような人がいて欲しいな。食べ物を置いてくれて、お風呂も掃除していてくれて、それから食器も洗ってあったら最高だ。なのに、なんて私は最低だ。ない物ねだりか、弱音吐きか。もう、妄想を現実にしようとするのは辞めて。それが願えるのは高校生まででいいだろう。
「じゃあ、お邪魔しました。」
 小さな音と、扉の閉まる音。何を期待しているのだろうか。妄想を夢にしてはいけないだろうに。もういいから、今日も眠ろう。
 思いと共に開ける夜。夢を見たかった。現実を忘れるほど楽しい時間。自分を忘れるほどのめりこむ夢。そんな物はすぐに手をすり抜けるというのに。
 ゆっくり起こす体。カーテンに遮られた筈の窓から光が漏れている。湿った体。あれだけ好きだった毛布も払いのける衝動。
 まだ眠い。もう一睡したい。まだ明日もあるだろうし。もういいか。早くバイト先に連絡いれないと。なんでいつもシフト入れるのだろうか。本当に馬鹿だ、私。断りを入れるただそれだけなのに、前のめりになれない。電話もおぼつかない。ただ気だるい。
スマホを取りに机向かった。スマホの上に付箋が貼ってあった。
「ご飯→冷蔵庫 バイト→連絡済み、明後日までお休み!! お風呂→掃除済み 洗濯物→洗濯済み 食器→洗ったよ! 灯より! あと鍵締めておいてね!!」
頭に浮かぶはてな。神様なのだろうか。本当なのだろうか。疑うも何も、天使なのだろうか。いっそ私の彼氏になってくれないだろうか。なんて都合がよすぎるか。
「ありがとう…」
なんか潤んだ。励まされたみたいに、憂いの元凶だった彼女が全て晴らした。太陽みたいに明るい人、持つ人は何もかもを持っているんだなって。私じゃこんなこと出来ないのに。やっぱり、すごいな。
「もう少し眠って、落ち着いたら連絡入れようかな。」
 そう思って二度寝を許した。しっかり許した。反発じゃなくて受け流した。もう手の届かない人だって思ったから。諦めに近いようで受け止めたんだ。ただそれだけなのに、私は私が眠ることを許したのだ。

  ・

 紆余曲折あったと言えば事足りるだろう。なんてそんな日記を書く人もいないか。もっと具体性を求める時代だし。
 3日経った現在、いつも通り体調は好調。バイトの休みを取ってくれたのは感謝したけれど、勝手にしないでと強めに怒りたかった。私の今月の家賃が死んでしまう可能性もある。あの人ならどうでもいいに休みを勝手に入れかねない。なんて大袈裟だ。だってわかっている。それでも一応。叱るべきところは叱る。なんて、彼女に憧れを持っていた私が言うことでもないのだろう。
 そんな一連を電話で済まし、今日は今日とていつも通りの日々。大学で講義を受けて、バイトに行って、家でゆっくりしながらご飯を食べる。それから課題をやる。それだけ。
 そして明日は3人でお酒をたらふく飲む日。もう嫌だなんて言えない。感謝を伝えなければ。

 いつも通りの日常を乗り越えたご褒美。飲酒を控えようって思っていたけれど…。
「やっぱり無理だよね。」
 カシスオレンジの氷が軽く沈む。居酒屋のがちゃがちゃが具合の良いノイズ。
「さあ、私のおごりだからね!たらふく飲んでください!」
「ありがとうございます。」
 いつもより感情をこめていったつもり。
「気前がいいけど何かあったの?」
 正木さんが妙に笑っている。ああ、彼も辛いこと乗り越えているんだなって。そんな暗みを撃ち殺した顔をしている。
「特になにもないよ!休職中で時間ばかり余るから、こうやって人を捕まえているんだよ!」
 手を横に振りながら笑う。2回目以降は顔も左右に。数え間違いがなければ6回でようやく止まった。うまく笑えている姿も羨ましい。
「さて、飲んじゃいましょう。」
「「かんぱい!」」
 3人の声が重なる。
 前回より進展した分、会話内容がチープになる。こんな惰性で走る言葉に価値はないと知っていながらもお酒の席の話は気持ちいい。理性が飛んでいるようで、むしろこっちが本物の私のようで。なんでも話せてしまう。
「藤花ちゃんの恋愛経験って聞いたことあったっけ?」
 いつかは振られる話だとは思っていたがもう今更どうでもよかった。なんていうか、もう答えても恥ずかしいことなんてない。
「実はないんですよ~、最近の若者は恋愛しないから。」
「うそ。そんなに綺麗なのに?」
 優しい。なんでそんな高くない声で冗談が言えるのだろうか。真摯に受け止めすぎだよ。
「きれいよりも性格が必要らしいですよ。」
「そうなの?」
 灯さんは勢いに任せて久間さんの方を向いた。
「俺に聞かないでよ。灯が初めてなんだから。」
「あ、そっか。」
「別に馬鹿にされるようなことじゃないと思いますよ。恋愛小説とか、洋画のような恋路が誰にでもあるなら誰だって恋に目覚めますよ。それが現実にはそんなに無いから、恋に興味を持てなければ恋は趣味にも成りえないって俺は思いますよ。」
 長々なフォローが返ってきた。その流れでなぜ私に直撃させたのだろうか。語りたい病が酒のせいで発症してしまっている。
「へえ~そうなんだ。そうらしいですよ。」
 猫の鋭い目つきで灯さんを見つめた。そうすれば彼女はただ悔しそうな顔をしていた。それも束の間。彼女は両手を上げレッサーパンダの威嚇みたいなポーズをとって私に抱き着いてきた。
「なら、私が藤花ちゃんの恋人になってあげるよ!」
 耳元に掠る吐息。温い体温に、首元の包み。
「いいんですか?」
「もちろんだよ!こんなに綺麗な人、めったにいないよ」
「顔だけで選んじゃっていいんですか?」
「顔だけじゃないよ。藤花ちゃんのことはたくさん知っているつもりだよ。」
 ちょっと抱きしめられて胸が火照った。肩に乗っている顎、ちょっと触れる胸、逃げられないよう両手に包まれた体。
「浮気?」と久間さんが告げるも、気にも止めない。
「私は灯さんのこと好きですよ。この間の時も天使かと思ってましたし。」
「なら、告白はどっちからする?」
 やけに乗り気だ。酔いがさめたら朝焼けと共に沈むのに。
「それは、私からかな?」
 ちょっと視線をそらした。そのとき視線の端に映る久間さんは別に何ともない顔で晩酌しているだけだった。
「なら、どうぞ!」
「灯さんのことが好きで、灯さんになりたいです。」
「そっか、それでどうしたいの?」
 体が上がってきた。鼻が互いにぶつかり合う。息は混じりあう。近視なかったら、もっと綺麗に見えてたのに。
「えっと、あの…。」
 恥ずかしいっていう気持でもない。受け止めてくれなかったらという不安でもない、ならなぜこの言葉をためらってしまうのだろうか。
「そっか。私のこと大好きなんだ。」
 灯さんは私の体を放した。
「さすが、もと男たらし。」
 余計な一言、外野になりかけていた人間が呟く。
「へへん。」
 彼女はピースしている。男に向かって。
私だって恋がしたい。私だって肌に触れる勇気が欲しい。なのに、さ。
「灯さん…。」
 なぜかブルーな気分になった。酔いがさめたみたいな、白けさが体を支配していた。
「大丈夫、藤花ちゃんは絶対幸せになれるよ。」
 彼女はただ私の頭に手を乗せて左右に揺らすだけだった。でも、それだけで白くも青くもなっていた心にもう一度赤みが帯びてきた。きっと頬も。
「悪い人だな」
「正木君とは法律婚、藤花ちゃんとは事実婚で!」
「傲慢だね」
「いいじゃん。」
 本当に仲の良い二人。やっぱりあの二人の絡みがもっと見たい。その中に私が混ざるのも悪くはないのだけれども。でも、私は二人を推しにする。
「それでも、私は二人のことを推しとしてみてますよ。」
「あああ、逃げた!」
 二人に向かってピースした。逃げたわけじゃない、ただお酒の場としてもここは私らしく事実を追求したかったから。やっぱり私はお堅い人間でなくちゃ。
「しかたないな…なら、友達だよ!」
「はい。2人の時は推しとしてみますけど、一人の時は友達ですから」
「よっし、これにて一件落着!追加たのも~」
 あたふたする酒の席も私らしさを追求できたこと。これはお酒の力じゃなくて私の根底にある本心だと思う。これでいい。
「次はコークハイで!」
「俺はビールで!」
「私は…ビールで!」
 そんな在り来たりの青春でいい。特別は幻想だ。いかに日常を特別だと愛せるかが大切なんだって、その日私は灯さんに思い知らされた。

 後日、当たり前のように灯さんは私の家に入ってきて「ごめんね、勢い良すぎて告白
しちゃって。」と。
 別に誰も告白はしていないのだけれど、なんか灯さんの困る顔が見たくてついふざけた。
「二股ですけど、大丈夫です?」
 見下すように、告げると。
「うわ~、ほんとごめん。正木君にも藤花ちゃんにも恨まれてる。」
「まあ、気にしないですよ。灯さんですから。」
「ええ、なにそれ?」
「さあ、憧れですかね?かなわない憧れ。」
 はてなを頭上で作る灯さん。その横で笑う私。
そう、私は私。

   ~第二章・終~

記憶喪失

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登録日
2024-02-26

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