音楽と悲鳴

ある夏の日

 夏だった。「喫煙禁止」という赤い文字が、黄色い背景の上に大きく書かれ、いたるところに貼られている。大学の奥、木々に面したこの場所は、かつて喫煙所として使われていたそうだが、現在この場所での喫煙は禁じられている。精神が疲れていた僕は、逃げるように人通りの少ないこの場所に来て、赤レンガの塀の上に腰を下ろしていた。鋭い日差しに照らされていた赤レンガの塀からは、夏の気怠い温もりが伝わってきた。
 蝉が鳴いていた。震える蝉の鳴き声が、重なり、絡み合い、静かな世界に響き渡っている。ただ連続的に鳴き続ける蝉。抑揚をつけてなく蝉。蝉は、様々なリズムで鳴いている。美しい、夏の音楽を奏でている。その音楽に合わせるように、大きな木々は、そよ風に吹かれ、静かに、ゆったりと、揺れていた。梢が重なり、離れる。木の葉が重なり、離れる。木の葉の間から漏れ出る太陽の光が、点滅し、ちかちかときらめく。深緑の葉に覆われた空は、星空のように輝いていた。僕は、その輝きをただ眺めていた。
 そろそろ帰ろうと思った。木陰から、暑苦しい日向に出る決心をして、僕は立ち上がった。蝉は、相変わらず叫び続けている。僕の周りを埋め尽くすように、世界は蝉の声で満たされていた。ある蝉の鳴き声に続いて、他の蝉の鳴き声が、輪唱のように続く。叫び続ける蝉の声が、僕に纏わりつくようだった。歩いていると、汗が流れた。それは、不快な汗ではなく、健やかで、気持ちのいい汗だった。地面には、木々の蒼い影が伸びていた。その影の中に、黄金色の木漏れ日が、ぽつぽつと光っていた。道を曲がろうとしたとき、僕は思わず立ち止まった。
 そこには、蝉の死骸が転がっていた。僕は、突然現れた蝉の死骸に驚き、恐れながらも、吸い込まれるように、蝉の死骸を見つめていた。僕は虫が嫌いなのに、その蝉の死骸には、なぜだか強烈に惹きつけられた。蝉はあおむけに倒れ、片方の羽を失っていた。銀色の腹は黒ずみ、生き物の溌剌さを失っていた。蝉は、死んでいるというよりも、枯れていた。握れば、ぱりぱりと砕け、粉々になってしまうのではないかと思った。そんな蝉の死骸には、蟻が集っていた。羽と胴体の間で、蟻の群れは、黒い塊となって動いていた。ある蟻は、蝉の胴体を回るように、ぐるぐると動いていた。ある蟻は、蝉の頭の辺りでせわしなく動いていた。蝉の死骸は、静かにそこにある。蟻は、生きるためにせわしなく動いている。蝉は、残り少ない命を振り絞るように、腹を震わせて鳴き叫んでいる。僕は、蝉の死骸をただ見つめている。
 死を迎えたとたん、蝉は、動くことも、鳴くこともできない、ただの「物」になる。そして、静かに枯れてゆく。蝉の死骸の周りにだけ、静かな、神秘的な空気が流れているように思えた。周りの進み続ける世界から、蝉の死骸は隔絶されているようだった。蝉の死骸を眺めていると、絶え間なく聞こえてくる蝉の鳴き声が、悲鳴のように聞こえた。
 うるさいくらいに叫び続けるその蝉の声を聞いて、この蝉達もいつか、静かに死んでいくのだと思うと、僕は、たまらなく、淋しくなった。

音楽と悲鳴

音楽と悲鳴

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-24

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