不幸の鼻
俺の身に事件が起こったのはある日曜、窓を大きく開けたまま、うたた寝をした時のことだ。
しばらくして目を覚ましたが、鼻の上に違和感があった。
むずかゆいような、何かが張り付いている感じがあるのだ。
「!」
俺は鏡をのぞき込み、息をのんだ。
季節がちょうどよく、開いたままの窓から、知らぬ間にイモムシが入り込んでいたらしい。
それが俺の体をよじ登り、鼻の上で脱皮をした。
俺の鼻を木の枝と間違えたというそそっかしさだが、そこには蝶のサナギがあったのだ。
「なんだ?」
驚いて声を上げたが、むやみにむしりはしなかった。
もう一度鏡に顔を近づけ、まじまじと眺めた。
サナギは小指ほどの大きさしかない。
よく見ると、とがった頭が妖精の帽子のようでかわいらしい。
俺の鼻に細い糸をピンと掛け、しがみついている。
翌朝、家の外へ一歩出た瞬間から、俺は人々の注目を集めた。
まず隣家のおばさんが大きな声を上げた。
真ん丸い目をして丸々と太った女だが、その目をもっと丸くしたのだ。
「その鼻はいったいどうしたの?」
俺は立ち止まり、にっこりと説明したが、「まあ」と言うきり、彼女はそれ以上言う言葉を思いつかなかった。
道行く人すべてが俺に注目した。
ほとんどの人は驚いた顔をするだけだったが、眉をしかめるやつ、失礼にも指さして、声を上げて笑うやつまでいた。
でも気にしないことにして、俺は歩き続けた。
学校に着いて教室に入っても、まともに勉強にならなかった。
学校中から見物人が集まり、俺の鼻をまじまじと見つめるのだ。
「これを読め」
いちいち説明するのが面倒になって、事情を紙に書き、俺は机の上に置いた。
サナギが羽化したのは数週間後の授業中、試験の真っ最中だった。
最初に気づいたのは隣に座っていた同級生で、驚きのあまり
「ひいっ」
と声を上げたが、まだ試験中だ。
気持ちを抑え、俺は答案に注意を戻すしかなかった。
俺も鼻の異変に気づいていたが、どうすることもできない。
まず始め、サナギの背中がピリリと細く裂ける。
そこから羽根を先に、ゆっくりと蝶が姿を現すのだ。
「アゲハチョウだな」
出てきたばかりの蝶の羽根はしわくちゃである。
これが乾き、しわのないまっすぐな形になる。
試験が終了する頃にはすっかり乾き、準備体操でもするように、蝶は鼻の上で羽根を動かし始めた。
ついにベルが鳴った時には、俺は心底ほっとした。
羽根が巻き起こす風が、くすぐったくて仕方ないのだ。
答案が回収されるや、席から立ち上がる前にそっと手を伸ばし、俺は蝶を捕まえた。
「窓を開けてくれよ」
誰かがそれに従うと、全員が窓に群がり、その中心には俺がいた。
腕を突き出し、指の力をゆるめると蝶は大きく羽ばたき、最初に吹いた初夏の風を捕まえ、大気の中へ飛び出していったのだ。
「ヤッホー!」
歓声と拍手が校舎に響き、何事かと職員室の教師たちまでが窓から身を乗り出したほどだ……。
これだけならいい。だが後日談がある。
突然の変化だが、俺は人間の内面が見えるようになった。
といっても、それほど驚くようなことではない。
そんなものは実在しないと分かっているのだが、誰でも彼でも、俺の目にはその鼻にとまっている昆虫の姿が見えるのだ。
いま教壇にいる教師の鼻だってそうだし、見回しても、同級生たちの鼻もみな同じだ。
ただ虫の種類は人によって異なる。
モンシロチョウだったりカブトムシだったり、オニヤンマだったりする。
本人はもちろん何も知らない。だが俺はすぐに納得することができた。
「あれはつまり、その人間の真の姿を象徴する虫が選ばれて、俺の目に見えているのだ」
たとえばクラスのマドンナともいうべき椎葉友子の鼻だが、とまっているのはセセリだ。
蝶の一種だが、色はどうしようもなく地味な焦げ茶色をしている。
セセリ蝶は大馬鹿で、花や葉にとまっているのを簡単に素手でつかまえることができる。
幼稚園時代からこれまで、俺は何十匹捕まえてきたか。
つまりその美貌や優秀な学業成績にもかかわらず、椎葉智子の真実の内面は地味で、ノロマで頭の悪い女なのだろう。
もう一人の優等生、委員長をしている伊藤信子の鼻の上にはカマキリがいる。
信じられないほど腹のでかいカマキリで、きっと内部に寄生虫を飼っているに違いないが、伊藤信子の内面にも、どうでもいいゴミのような観念が山ほど詰まって、今にもパンクしそうなのだろう。
俺が悪口を言っているように聞こえるかもしれないが、見たままを言ってるんだ。
生徒ばかりでなく、黒板の前にいる教師にいたっては問題外だ。
鼻にダンゴムシをとまらせている男の人生とは、いったいどんなものだろう。
「これは一体どういう人間を集めたクラスなのだろう……」
俺はあきれて鼻から息を吐いたが、ふと気になったことがある。
「俺自身の鼻には、どんな虫がとまっているのだろう?」
興味や好奇心を感じる?
いや、その逆だ。
俺は恐ろしくてたまらない。俺の内面だって、まわりの連中と同じくつまらないものに違いないから。
自分だけは特別に選ばれた天才である、とは思えない。
自分の顔を鏡で眺め、虫の種類を知る瞬間、俺は猛烈な失望に見舞われるだろう。
できれば鏡など見たくはない。
だが、一生鏡を見ずに暮らしていけるわけがない。
この授業が終わって休み時間になれば、俺の足は洗面所へと向かうだろう。
そうしないではいられまい。そして見てしまうのだ……。
俺は、授業の終わりを告げるベルが鳴る瞬間が怖くて仕方がない。
不幸の鼻