蝶よ鼻よ(誤字にあらず)
裕子の身に事件が起こったのは、ある日曜、窓を大きく開け、風を浴びながら読書をした時のことだ。
いつの間にかうたた寝をして、目を覚ましたが、そのとき鼻の上に違和感を感じた。
むずかゆいような、何かが張り付いている感じが鼻の頭にあるのだ。
裕子は鏡をのぞき込み、息をのんだ。
季節がちょうどよく、開いたままの窓から、知らぬ間にイモムシが入り込んでいた。
それが何も知らない裕子の体をよじ登り、鼻の上で脱皮したらしい。
裕子の鼻の上には、蝶のサナギがあったのだ。
「きゃっ」
驚いて裕子は声を上げたが、むやみにむしりはしなかった。
もう一度鏡に顔を近づけ、まじまじと眺めた。
サナギは小指ほどの大きさしかないが、よく見ると、とがった頭が妖精の帽子のようでかわいらしい。
裕子の鼻に細い糸をピンと掛け、しがみついている。
その様子に、裕子は心を打たれた。
このように小さな生き物でさえ、一生懸命に生きようとしている。
それをどうして妨害できよう。
蝶がかえるまでの間、裕子はサナギをそっとしておくことに決めた。
翌朝、制服を着て家の外へ一歩出た瞬間から、裕子は人々の注目を集めた。
まず隣家の主婦が大きな声を上げた。
真ん丸い目をして丸々と太った女だが、その目をもっと丸くしたのだ。
「まあ裕子さん、その鼻はいったいどうしたの?」
裕子は立ち止まり、にっこりと説明したが、
「まあ」
と言うきり、女はそれ以上言う言葉を思いつかなかった。
道行く人すべてが裕子に注目した。
ほとんどの者は驚いた顔をするだけだが、中には気味悪げに眉をしかめる者、失礼にも指さして、声を上げて笑う者もいた。
だが気にせず、裕子は歩き続けた。
学校に着いて教室に入っても、午前中はまともに勉強にならなかった。
全学から見物人が集まり、裕子の鼻をまじまじと見つめるのだ。
いちいち説明するのが面倒になり、事情を紙に書き、裕子は机の上に置いた。
好奇心いっぱいの新たな見物人が現れるたびに裕子はそれを手渡し、静かに勉強を続けた。
心優しく、サナギが羽化して蝶になる日まで裕子は待つつもりだったが、生活上の苦労が増加しなかったわけではない。
まず洗顔と入浴が大変になった。
サナギを傷つけないよう、細心の注意を払うのだ。
「これはまた大変な保母役だわ」
今までのように、入浴に時間をかけることもできなくなった。
湯気でサナギがふやけるのでは、と心配したからだ。
こうして裕子の奇妙な生活が始まったが、そのうち誰が知らせたのか、物見高い新聞記者が学校に現れ、さんざん写真を撮り、インタビューをして引き上げていった。
その記事は、もちろん紙面を飾った。
その記事を読みながら、首をかしげている者がいる。
名を信代といい、半年前までは、裕子の屋敷で住み込みの若い家政婦をしていた。
ところが裕子の姉が二人、相次いで結婚して家を出たことと、同じころに一家の主人が定年退職したこともあって家事の量が減り、暇を出されていたのだ。
「事件の解決のためには、2つの偶然が役に立ったのよ」
と信代は後に人に語った。
一つ目の偶然は新聞紙の折れ目で、二つ目は、信代の叔父が現役の刑事だったこと。
新聞記事には、もちろん裕子の大きな顔写真が添えられていたが、それがサナギの形を強調するために、顔を斜め横から撮影していたのだ。
そもそも信代という女、あまり熱心に新聞を読むほうではない。
気楽な一人暮らし、夕食前のちょっとした時間つぶしのつもりでしかなかったが、郵便受けから取り込んだ夕刊も少しの間、荷物と一緒に畳の上に放り出されていたほどだ。
その間に、新聞紙には奇妙な折り目がついてしまった。
だからいざ紙面を広げた時にも、裕子の顔写真はほぼ半分に折れてしまっていた。
それがちょうどうまい具合で、折り目は裕子の鼻に沿い、サナギだけが隠されて見えなくなる形だったのだ。
「あら?」
見出しに目を引かれ、記事を半分ほども読み進んだところで、自分もよく知っている木ノ内家のことだと信代も気が付いた。
「へえ、鼻にサナギが…」
だが次の瞬間、信代は写真に違和感を感じたのだ。
「これは裕子お嬢さんじゃないわ」
何年間か住み込んでいたのだ。見間違えるはずがない。
「写っているのは、確かに裕子お嬢さんによく似た娘だわ。サナギにばかり注意を引かれていたら、私も気が付かなかったかもしれない」
奇妙な出来事に、信代はかすかな不安を感じ始めた。
木ノ内裕子によく似てはいるが、実は全くの別人が、鼻にサナギをつけて、裕子として毎日通学しているということになる。
それがどういう意味なのか、信代には見当もつかなかった。
翌日から、信代は行動起こすことにした。
午後には叔父の家へ向かった。
そもそも叔父の家は遠くはなかった。
信代のアパートから、歩いて数分のところだ。
「叔父さんはいますか?」
叔父は捜査課の刑事で、もちろん妻帯していたが、運よくこの日は家にいた。
しかも妻子は用事で親戚の家へ出かけていたから、茶の間で犯罪論議をするのにも、遠慮が要らなくて好都合だったのだ。
新聞記事を見せても、叔父の表情はさえなかった。
「これが犯罪だというのかい?」
「木ノ内さんのお宅は資産家だわ。ご主人は大企業勤めだったし、あちこちに別荘もある。私は全部知っているのよ」
「どういう犯罪なんだね? 土地や資産をどうやって盗む? ポケットには入らないんだよ」
「勝手に売却してしまうのよ。お金に変えれば、犯人グループは山分けできるわ」
「売却には委任状が必要だよ」
「3人家族だもの。男手が4人もあれば、地下室に監禁することができるわ」
「怖いことを言い出すじゃないか」
「犯人たちは覆面をして、顔を隠すことができる。脅して委任状を書かせ、大急ぎで売却を図るのよ」
「しかし…」
「まあ聞いて。初老にさしかかったご夫妻は、あまり外出しない静かな生活を送っている。
でも問題は裕子お嬢さんの方。急に何日間も学校を休めば、どうしても人目を引いて怪しまれてしまう」
「だからって、鼻にサナギをつけて…」
「そこがポイントなのよ。変な具合に折れ曲がった写真を見たから、たまたま私は気が付いたの。そうじゃなかったら誰だって、サナギにしか目がいかないわ。ちょっと似た娘というだけで、みんなをごまかすことに成功しているんだわ」
「まさか…」
「実は私、今日確かめてきたの」
「危険なことをしたのじゃあるまいね」
「危険なんてないわ。裕子お嬢さんが帰宅する頃に、屋敷の前を通ってみたのよ。案の定、学校の制服を着てサナギを鼻につけた女とすれ違うことに成功したわ」
「反応はどうだった?」
「全然。何年も住み込んでいた私に気が付きもせず、すいっと行っちゃった」
叔父の表情は、いまだにさえない。
「信ちゃんの言うことは状況証拠でしかないぜ」
「出かける支度をしましょう。敵陣を偵察するのよ。歩いて10分もかかりゃしないんだから」
「偵察って、何をするんだい?」
「新聞記事を見てなつかしく思い出したということにして、ドアをたたいてみるのよ。どう反応するかは敵次第だわ」
この信代という娘、いささか強引な性格のようだ。
渋る叔父をとうとう屋敷の前まで引き出してしまったのだ。
ここまで来ると、叔父も覚悟を決めたようだ。
不承不承な様子は影を潜め、屋敷のまわりを観察している。
いかにも金持ち風な大きな屋敷で、濃い緑色の生け垣に囲まれ、門を入っても、まだ何段も飛び石が続くのだ。
玄関の前に立って、信代がついに呼び鈴ボタンを押してしまったときには、さすがに叔父の顔を一瞬、不安そうな色がよぎった。
やがて家の中に、ドスドスと足音が聞こえた。
「この家に、あんな足音の人はいないはずよ」
と信代は叔父にささやいた。
玄関の戸が開いた。
「なんだい?」
若い男が顔を出したのだが、叔父の動作は素早かった。
あまりの速さに、信代の理解が追いつかなかったほどだ。
気が付くと叔父は、若い男の手首をつかんでいたのだ。
若い男は信代の見知らぬ顔だったが、年齢は二十すぎ。
乱れた髪と無精ひげ、目つきは鋭いが肌は青白く、やせて、どこか不健康に見える。
「三宅じゃないか。お前いつから、こんな屋敷に住めるご身分になったんだ?」
と叔父が言った。
叔父の握力は想像以上に強いらしく、男は振り切ることができない。
「逃げろっ、サツだ」
三宅と呼ばれた若い男は、代わりに家の中へ向けて怒鳴ったのだ。
呼応して、一つか二つのあわてた足音が遠くで聞こえ始める。
この家には裏側に勝手口があることを思い出して、信代は「ああっ」という気分だった。
三宅はなおも暴れるが、叔父は手を放すことはなかった。
「信ちゃん、そこのヒモを取ってくれ」
見ると玄関のすぐ内側に、何をしばっていたのか麻ヒモの束が落ちている。
「手錠がないから、これで我慢してくれよな」
「放せ、放せっ。罪状は何だよ」
と三宅は暴れた。それを慣れた手で押さえつつ叔父は、
「不法侵入かな? 心配しなくても、すぐに監禁罪と強要罪も付け足してやるよ」
「警察の横暴だ」
「するとなんだ、鼻にサナギをつけて女子高生に化けてるのは、お前の妹か。もういい年だろうに…。おや信ちゃんはどこだ?」
その間に信代は矢も楯もたまらず、地下室の入口へと突進していた。
何年間か暮らした家だから、勝手は分かっている。
台所の脇、浴室へ通じる通路のすぐ横に小さなドアがある。
だが今はその前に、食堂から運ばれてきた大きなテーブルが置かれ、つっかえ棒になっているのだ。
「信ちゃん、電話だ。110番するんだよ」
火事場の馬鹿力よろしく、そのテーブルに挑んでいたが、信代はすぐに振り返った。
電話機が置かれている場所もよく知っている。
体をひるがえらせ、気ばかりあせるが進まない。
信代はついに受話器を取り、強く強く耳に押し当てた。
蝶よ鼻よ(誤字にあらず)