一番坂

 その坂は町を東西に貫き、一直線に走っていた。
 市内で一番長く、きついから『一番坂』と呼ばれたのだ。
 その近所に、クマという老女が住んでいた。
 80歳を越えるが元気で、毎日自分で買い物に出かけた。
 だが急坂ゆえ、クマは古い乳母車を持ち、それを押しながら歩いた。
 乳母車の上には木の板が渡され、腰かけることができる。クマは時々、そこでヨッコラショと休憩を取った。
 元気が回復すれば、また歩き出すのだが、ウトウトと眠りこけてしまうこともある。
 今日もそのように居眠りを始めたのだが、やがてクマが目を覚ましたのは、乳母車がやたらと飛び跳ねたからだ。
 止め方が不十分だったのか、乳母車はいつの間にか走り始めていたのだ。
 カッと目を開き、クマはキョロキョロと見回した。乳母車にしがみつき、叫び声をあげた。
「誰か誰か、これを止めておくれ」
 その声に、まわりの歩行者たちが振り返った。
 だがみな驚いた顔をして、乳母車が風のように駆け抜けるのを見送ることしかできなかった。それほど急な坂道なのだ。
 乳母車はガラガラと大きな音を立てて走り、自動車やバスを追い越した。
 クラクションや急ブレーキの音、クマの悲鳴が町の中に大きく響いた。
 道路の左右、建物や植え込みに突っ込んでしまうことがなかったのは、どういう奇跡なのか。
 だがすべてのものには終わりがある。クマが駆け抜けるその前方に、やがて警官隊が非常線を張る姿が見えてきたのだ。
 十人ほどの警官と数台のパトカーの姿があるが、もちろんクマを救助しようというのではない。
 たとえ誰かが通報していたとしても、こんなに早く警察が現れることはないだろう。
 実はつい先ほど、クマの家の近くで強盗事件が発生していた。
 型通りの銀行強盗で、行員に銃を突き付けて現金を奪い、犯人は徒歩で逃走した。
 いかにも身軽そうな男だったが、事前に下見をし、地理をよく調べておいたのだろう。
 路地の中へ身を隠し、あっという間に姿を消してしまった。
 警察の非常線は、これに対応したものだったのだ。
 しかしどんな強盗でも、ずっと徒歩で逃げ続けるとは考えられない。
 どこか物影に自動車を隠し、乗り込んで逃走を続ける算段であろう。
 そのための非常線だ。
「あれは何だ?」
 と接近する乳母車を認めたが、警察官たちには何もできなかった。
 超高速の乳母車と、それにしがみつく老女という組み合わせの意外さに、あっけに取られてしまったのだろう。
 クマの乳母車は、警察官たちの前を素通りしていったのだ。
 それでも、ほってはおけない。
 パトカーに乗り込み、数人がクマを追っていった。
 アクセルを踏み込み、警察官たちが発見したのは、1キロばかり先で横倒しになっている乳母車の姿だった。
 しかし奇妙なことに、乳母車のそばにはクマの買い物袋が落ちているだけで、本人の姿はどこにも見えないのだ。
 クマの姿は本当にどこにもない。アスファルトの上にも、歩道にも、街路樹の影にも。 
 パトカーを急停車させ、警察官たちはキョロキョロすることしかできなかった。
「まさか、ばあさんは地の果てまで飛んでいったのではあるまいな…」
 その後、クマの姿を見た者は一人もいない。
 まさに現代のミステリーだが、迷宮入りしたのは、これだけではない。
 例の銀行強盗事件も、いまだに犯人が捕まっていないのだ。
 一番坂だけでなく、市内では同時に数カ所の非常線が張られたというのに、何一つ引っかかることはなく、手掛かりすらなかった。
 だが数日後、次第に事情が見えてきた。
 捜査関係者が語ったところによると、クマの乳母車には仕掛けがされ、舵取り装置とブレーキが目立たないよう取り付けられていると分かったそうだ。
 カツラをかぶり、老女のような服装をして、事前に周到に立てられた犯罪計画だったのだ。

一番坂

一番坂

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-24

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