雑種化け物譚❖Cry/R. 完結編

雑種化け物譚❖Cry/R. 完結編

1月下旬から掲載しているCry/シリーズC零の、R編(子世代話)完結編です。R初話(期間限定公開)→https://slib.net/121930
ノベラボ版の雑種化け物譚Rには、プロローグに「オセロット・アークの絵本」を収録しています。
人の姿をしながら人ならぬ力を持つ「千族」が「雑種」だった時代、故障した五感を持つヒト殺しの少年を待つ宿業は。
気ままな死天使が果てしなく重い縁と共に舞い降りる完結編。
update:2023.2.24 Cry/シリーズzero R中後編

中編・開幕

 
 潮騒の、唄が聴こえる。
 ふと気が付いた(くら)い世界。全身に幾重にも、ぎしりと絡みつく鎖。

 最強の獣――その血を浴びた英雄の体に、生きる力を奪う(とげ)が食い込む。
 それでも死滅へ向かうことはない。しかし身動き一つも起こしはしない。
 男に問われる全ての責苦を、「束縛」したまま坐し続ける。
 在りし日の潮騒を、男自身も知ることのないまま、身の内に棲む誰かに伝えて。

 少年は、うっすら目を開けたまま呟いていた。
「――……何で……母、さん――……?」
 到底、間に合うことはない。今もずっと聴こえ続ける、在りし日の潮騒の唄。
 それがやがて鳴り止んでいく、「解放」の時の到来。

 「声」は言葉の一部に過ぎず、「言葉」は声の結果に過ぎない。
 しかし両者は本来、切り離しもできない。

 互いに巣食う有意味な抜け殻を通して。
 声を呑んだ少年はようやく、その英雄……言葉を呑んだ化け物の男と邂逅を果たす――

◇①◇ 森の妖精

 
 その森には妖精が住む、といつ頃からか巷で(ささや)かれるようになっていた。
 魔物や精霊、様々な化生を受け入れる懐の深さは、雑種大国「ゾレン」ならではかもしれない。

「……あれ? ――誰か、来た……?」
 森の妖精。その無垢さ故に、後に天使と呼ばれる幼い声の主は、今日も人頭を刈った赤い鎌を下ろして空を振り返った。
「何だろ。こんなヒト達……初めて」

 己の縄張りの森に混じった、巧みに隠された気配。周囲から温もりを奪う黒と、本当は赤まみれの黒。きっとヒトと言うよりも――天から堕ちた黒い鳥と、それを守る黒い柄の剣。
 そんな風に何故か感じた彼女は、温かさと冷たさを併せ持つ気配をずっと追いかけていた。彼女が天使として羽ばたくことになる、運命の時までは。

 そして彼女の森は、(にわ)かにざわめき始める。


+++++


 田舎くさい木造の家々と街路樹が、土の道に立ち並ぶ閑静な町の郊外で。
 魔物と呼ばれる一般的な外敵に襲われた木こりの男が、自身の斧を下ろしながら嘆声をあげた。
「こりゃ参った。坊主、大したもんだな」
 魔物は隣接する森から突然現れたものだ。自然の動物とはとても言い難い触手だらけの異形故に、魔物と思われる化生だった。
「おれも腕には覚えがあるんだがな。こんなデカブツは、さすがに一撃じゃ殺せねぇな」
 この国に住む者は、その大体が雑種の化け物で、魔物くらいは何とか自力で相手をできる。
 それでも今、木こりの目前に現れた少年のように、自身の数倍はある魔物を長い剣の一刺しで葬るのは珍しい光景だった。

「怪我はなかった? 木こりのおっちゃん」
「ありがとよ、大丈夫だ。ところでお前――」
 名前は? 親愛を込めて尋ねた木こりに、少年は、一見人懐っこい目で笑った。
「キラ! 俺、キラ・レインって言うんだ!」
 黒いバンダナの下、その真っ赤な嘘を包む赤の目。
 そこに親しみの欠片も浮かんではいないことを、木こりは気付く由もない。

「この……――二重人格」
 木こりの男としばらく和気藹々と話し込み、やがて隠れ場所へ戻ってきた少年に、帰って早々、毒づく人影があった。
「……何怒ってるんだよ? せっかく色々、情報仕入れてるのに」
 少年は先程のにこやかな様子が嘘のように、銀色の髪に巻かれた黒いバンダナの下、半ば隠された目を細めて人影を見返す。
 少年と人影の肩に、一つずつちょこんと乗る、小さな蛇のような物体が口を揃えた。
「二重人格にゅろ!」
「二重人格にょる!」
 にょる、と煩い黄色い小蛇もどきは、人影の肩に乗っている。自分の肩の、にゅろ、と煩い青い小蛇もどきを、少年は軽く息をつきながら横目で見た。
「キラは嘘つきにゅろ! ほんとはキラって名前じゃないにゅろ!」
「キラは嘘つきにょる! ほんとはあんなに愛想良くないにょる!」
 あまりに声色も口調も似すぎていて、どちらの小蛇もどきが言っているのかわからなくなる。けれどどちらも、大体同じことしか言わないので、別に分けて理解する必要はなかった。
「この国でユオンなんて名乗れば、近い内に俺はお縄だけど? それでなくても、親父と顔、ほとんど同じなんだから」
 少年の名をお尋ね者にした父。それはこのゾレンという国では、悪い意味で有名な存在だった。

 人にない力を持つ、鬼や(あやかし)などの化け物。そして少年が倒したような魔物の巣窟である「地の大陸」には、長年戦争を繰り返す化け物大国「ゾレン」と人間の国「ディレステア」がある。そのゾレン出身の化け物であるライザ・ドールドが少年の父で、ゾレン人でありながらディレステアのために戦っていた英雄だった。
 英雄は主に、目前の人影――ディレステア人に助力していたのだが、
「ユオンはライザの息子だにゅろ!」
「ユオンはライザと瓜二つにょる!」
 ある事変で彼が幽閉された後、代わるように偶然現れたのが、キラと名乗るこの少年だった。
「でもユオンは呪われてるにゅろ!」
「今やユオンはキラなのだにょる!」
「…………」
 少年も人影も、その小蛇もどき達の軽い口調に、何とも言えず呆れたように黙り込む。
「キラはユオンを呪ったにゅろ!」
「でもそれがキラの友情にょる!」

 キラというのは、元々は、少年の親友の名だ。
 魔道に通じ、呪術を得意としたその親友。しかしある日親友は、英雄の息子としてゾレンに狙われた少年をかばい、命を落としてしまう。
「……」
 そして親友は、英雄の息子である少年を隠すため、最後に少年に呪いを遺した。英雄によく似た少年が、死んだ親友の姿を映す呪いを。
「バンダナしたらユオンはキラにゅろ!」
「バンダナ取ればキラはユオンにょる!」
 その呪いはやがて、魔道に通じる親友の父の手で何とか半分は解呪された。今では親友の形見――黒いバンダナに呪いの本体は遷されている。
 むしろそれを利用して、少年は常に自らの姿を偽っていた。
「キラでいる方が何かと便利だし……俺は、ユオンには何も未練はないよ」
 ぎゅっと、すぐにずれ落ちてくる黒いバンダナを、そうして坦々と締め直すのだった。
「……だからって――」
 騒がしい小蛇もどき達が一段落したからか、黒っぽい人影がようやく口を開いた。
「性格まで真似する必要、あるわけ?」
 凛とした声の、涼やかな黒装束の少女。(あか)い目だけを出して、顔と髪を隠す面紗(めんしゃ)の覆面で、一般的には(しのび)と言われる軽装で佇む少女が、言葉少なく言い切っていた。

 少年は、キョトンとした顔で少女を見返す。
「性格って……喋り方のことか?」
 この紅い目の少女は、一見冷静沈着で、傍目には人情味がない。それなのにわざわざ怒っている理由は――そんな、他愛もないことなのかと。
「……便利なんだけど、ダメなのか?」
 人懐っこく、世渡り上手だった器用な親友を思い出しながら、少年は不可解な思いで尋ねる。
「……」
 忍の少女は、それ以上何を言うでもなかった。

 そもそもこの少女は、滅多に喋らないのだ。それがわざわざ、自身の声で口に出してまで、文句をつけた感情の所以……少年にはさっぱり、わけがわからなかった。

 しかしそんな少年の代わりに、小蛇もどき達が、少女の内心を解釈しようとする。
「シヴァちゃんは優しいにゅろ! ユオンはユオンでいいと言いたいにゅろ!」
「シヴァちゃんは優しいにょる! ユオンはキラじゃないと言いたいにょる!」
 それが温かい心であること自体は、少年も感じ取っていた。だからいちいちつっこまなかったのだが、小蛇もどき達はその応酬を受ける。
「あいた! にゅろ!」
「あいた! にょる!」
 少女は肩に乗る黄色い小蛇もどきを、がっと掴んで少年の肩の青い小蛇もどきに投げつけ、ますます憤然として、彼らが潜伏する森の洞窟に引っ込んでしまったのだった。
「……?」
 少年はひたすら、ただ首を傾げていた。


+++++


 人間の国ディレステアから来た少年達が隠れている森は、化け物の国ゾレンの王都から近い田舎町にある。
 王都につながる川を目印に、引きこもった森の奥深くで、忍の少女によく似た声が洞窟内に響いた。
「ちょっと、シヴァ……本当に大丈夫なの!?」
 青い小蛇もどきがそのように、誰かの声で喋り出した。それに対して少年は、青い方でなく、黄色い小蛇もどきに話し返す。
「大丈夫じゃないと思う。ゾレンに来てから、シヴァの体調は悪くなる一方だ」
 洞窟の壁にもたれ、膝を抱えて座り込む忍の少女の傍らの黄色い小蛇もどきに、少年は冷静に現状を言い聞かせる。
 それを聞いた後で、今度は少年の肩の青い方が、またも先程と同じ声色――忍の少女と似ていながら、気丈さの滲み出る温かな声で話し始める。
「原因はわかっているの、キラ!?」
「多分だけど……ゾレンの空気がシヴァには合わないんだ。それくらいしか言えないけど」
 そうして少年が黄色い方へと話しかけると、青い方がまた気丈な娘の声で唸るのだった。

 青い小蛇もどきからはさらに、違う色の声も度々発される。
「キラの言う通りなら、一刻も早くゾレンを引き上げた方が良いにょろ!」
 この「にょろ」は、青い小蛇もどき自体の「にゅろ」とよく似ているが、言ってみれば小蛇もどき達のボスと言える存在の語尾だ。
「そうよ、シヴァ! お願いだから無理はしないで!」
 また気丈な娘の声と、青い小蛇もどきが声を次々に切り替える。話す内容は、青い小蛇もどき自体の発言ではなかった。
 要するに青い小蛇もどきは、彼らとは違う所にいる者達の声を、自ら喋って届けてくれる。
 それを向こう側に返すのが黄色い小蛇もどきで、忍の少女の傍らにちょこんといる黄色い方に、少女は苦しそうな声色で語りかけた。
「……帰るのはダメ。まだ全然、大した情報が得られていない」

 その、謎の会話形式もさることながら。
 一番驚くべきことは、青い小蛇もどきから発される気丈な娘の声と、忍の少女の涼やかな声が、口調こそ違うものの全く同じである部分だろう。
「引き続き、情報収集はキラにしてもらう。私は休んでいるから、心配しないで、ゾーア」
「……シヴァ……」
 気丈な声の方、ゾーアと呼ばれた娘は、忍の少女の隙のない強がりに、それ以上何も言えなくなってしまっていた。

 忍の少女はこれまで、その気丈な娘と同じである声を知られないよう、口を閉ざしてきた。それは護衛を頼んだ同行の少年や、謎の蛇もどき達にも正体を悟られないためだった。
 しかしこの化け物の国に来るため、忍の少女はその禁忌をついに解除した。それなのに自身の不調などという理由で、この国に来た目的を諦めることは、有り得ない相談なのだった。
「それよりも……第四峠の動きはどうなの、ゾーア」
「……――」
 不調を押し隠す声で尋ねる忍の少女に、青い小蛇もどきからも、緊張を混じらせた気丈な娘の声が返る。
「思った通りよ。アグリコラの奴、完全に籠城に徹するつもりだわ」
「……」
「国内の反乱勢力を結集させて、物資を運び込む時間はあったものだから。ディレステア正規軍の呼びかけに一切応じず、ずっと大使館を閉ざしたままなの」

 本来常に、二人一組で動いていた娘と忍の少女は、現在どちらもゾレンにいるが、第四峠とこの森の二手に分かれていた。
 第四峠はディレステアとゾレンの国境でもある。しかし危険度で言えば、むしろ今は第四峠の方が大きいかもしれない。それを思ってか、忍の少女の顔が余計に重くなる。
 けれど、と、気丈な娘は不敵とも言える声で、青い小蛇もどきの口から心配はないと笑いかけていた。
「おかげで当分、睨めっこが続けられそうよ。それでこそ目的通りなわけだし……ゾレンも私達を警戒するだけで、しばらくは身動きをとりそうにないわ」
 その隙をこそ狙い、少年と忍の少女はこの化け物の国ゾレンに潜入した。大義を果たしつつ、囮ともなってくれている気丈な娘の声に静かに頷きながら、警戒の表情は誰も崩さなかった。
「アディも気をつけろよ。反乱勢力の奴らが一度思い切れば、いつそこが戦場になってもおかしくないんだからな」
「ええ、わかっているわ。でも、危険なのはお互い様でしょう」
 気丈な娘の声に、忍の少女がそれまでは崩さなかった紅い目付きをわずかに歪めていた。
「…………」
 ディレステア国内の反乱勢力が現在集った「第四峠」。本来は忍の少女が共に在るべき地に一人置いてきた、気丈な娘をおそらく思って。

 そもそもの発端は、彼らが「第四峠」に向かう少し前のこと――

◇②◇ 謀略

 第四峠とゾレン国内、二手に分かれるという無茶な提案を口にしたのは、何と彼らの内で最弱である気丈な人間の娘だった。
「第四峠の反乱勢力討伐に乗じて……誰か、ゾレンに潜入させることはできないかしら?」
 ゾレンとディレステア国境で、ディレステア国内の反乱勢力が集う第四峠。気丈な娘を責任者として、ディレステア正規軍の派遣は決定された。
 その責任者――ディレステアの王女たるアヴィスを名乗る娘は鋭い赤の目で、王家の証たる長い金髪を揺らし、反乱勢力討伐に加えて驚くべき同時策を打ち出したのだ。
「この再開戦後の十年、私達はずっと、ゾレンの『通行証』をどうしても入手できなかったの」
 ほぼ冷戦状態である敵対国で、実際の内情がどうであるのか、和平を望むディレステア王家はずっと気にかけていた。そこに此度、「通行証」を三つ所持する少年――英雄の息子たるゾレン人が現れたのだ。
「先日の交渉は、反乱勢力に潰されてしまったけれど。和平交渉の場自体を、十年ぶりに設定できたことは、大きな進展だったと思うの」

 横長であるゾレンの国土を、逆三角形型のディレステアは北から刺して、西部と東部に二分している形だ。それを嫌って人間を排斥し続けるゾレンは、化け物の独立を(うた)い、隣国ディレステアに国土を譲ること――人間の移住を求めて長年攻撃を続けている。それでも全く停戦に応じないわけではなかった。
「ディレステア内にだって、和平を目指す王家と、徹底抗戦派の反乱勢力がいるくらいなんだし」
 ゾレンの強行な人間排斥政策に、疑問を持つのは人間だけではない。元来、ゾレン人口の半数は人間であり、英雄ライザも混血の化け物だ。英雄やその旧い仲間のように、ゾレン内にも戦争に疑問を持つ者がいるのではないか、とディレステア王家は見ているが、対してディレステアの統治を分け持つ「審議院」の方には抗戦派が多い。なので人間の王女と少年達の計画は、ひっそりと第六峠の国境「ゾレン大使館」で話し合った。
 ゾレン国内への潜入諜報。人間の国の王女、アヴィス・ディレステア――少年はアディと呼ぶ娘は、王女である割には質素な礼服の胸元に紋章入りのペンダントを下げ、金色の髪を軽く揺らしながら、清冽な赤い目で強く提案したのだった。
 ある気の抜けた中性的で緩ったい声が、場に突然に紛れ込むまでは。

「おお。勇ましい相談してるじゃないか、少年少女達」
「――……!?」

 王女が心から信頼する専属護衛の忍の少女と、行きずりで護衛になった化け物の少年しかいない会議部屋で、気が付けばすらりと背の高い男が戸口に立っていた。
 第六峠のゾレン大使館は、ディレステアでは最前線の戦地なので一般人は近寄らない。人間の王女達に関わり大怪我をした少年が療養し、王女達も長く滞在していた。
 寝床の背板にもたれて安静に座る少年と、その前に座って相談していた二人の背後に、その男は当たり前のような笑顔で自然に現れていた。気丈な王女も忍の少女も、一瞬で警戒を満面に、闖入者を見るにも関わらずに。
「って……ソリス、第四峠大使!?」
 男の正体に気付いた王女が、まるで忍の少女をかばうように前に出る。
「また何のおつもりでこのような所へ!?」
 以前に王女は、護衛である忍の少女を誘拐されかけたことがあるのだ。様々な恨みの募る大使の男に、遠慮なしの敵意の視線を向ける。

 大使とは、主にディレステアの国境にある六ヶ所の峠に駐在し、出入国者の管理を任された名誉職だ。その男はディレステア近縁の中立維持集団「レジオニス」出身の大使で、ソリスと呼ばれ、緋色の長い髪を肩の高さで一つに括る端整な鋭い顔立ちをしている。
 それでも顔に似合わず緩い声で、睨みつける王女達に大使が笑い返す。
「だって元々、王女達が第六峠に来れるようにしたのはオレだし?」
「って、それは、貴男じゃなくてユオンが――」
 言いかけて、王女はハッと口を閉ざす。
「そうそう。英雄ライザの息子なんて、ここにはいないことになってるんだろ?」
 途中で言葉を止めた王女の聡明さを褒めるように、にこにこと笑う。
 そうして、大使が導いたということになった王女達について、少年の功績を持っていくのだった。

「ゾレンに行くってワル企みの話だろ。なら一人くらい大人も混ぜような、少年少女達? それならお互い、メリットのある話ができると思うぜ」
「ソリス大使……貴男は本当に、何をお考えなのですか?」
 得体のしれない化け物の大使に対して、相変わらず敵意を隠さず、人間の王女がはっきりと問う。
「第四峠で和平交渉の場を仲介しておきながら、貴男は反乱勢力の来襲を見て見ぬふりをした。交渉に赴いた私達とその護衛、英雄ライザをゾレンに売り、そのくせ私達の方はこうしてディレステアに無事帰国させた……そんな貴男をいったい、どう信用しろと仰るのです」
 第四峠とは、ゾレンとディレステアの北東にある完全中立地帯「エイラ平原」との国境でもある。そこの中立維持軍団「レジオニス」である大使が、何故か楽しげに笑う。
 中立の地「エイラ」でも珍しい、角ばった形の上着をばさっと脱ぐと、何と王女達の後ろで机の上にあぐらをかいて座り込んだ。
「ほらほら。オレ、丸腰だから」
 上着以外は一般庶民の服装。無防備をアピールする大使は、一見二十代前半でも表情は子供のようにしか見えなかった。

 それなので、寝床の上で溜息をつきながら、少年は言った。
「……アンタを信用できるくらいなら、あのガラ蛇も、アディ達はここにいさせたと思う」
 王女達と長く行動を共にしていた、がさがさの抜け殻のような蛇もどきがここにはいない。それはこの大使から渡された案内役で、ペットのように愛着を持ってしまいつつも王女達は信頼していなかった。
「あ、やっぱりか?」
 机上に陣取ったまま、大使もまたにまにまと笑うのだった。
 しかし少年は、一応のフォローを試みる。
「……そいつ多分、アディ達の敵じゃない」
 ぼそっと呟いた少年を、人間の王女達が驚いて見る。
「でも……ディレステアの味方でもないな」
 少年は大使から秘密裏に、王女達を守ることを依頼されていた。歯切れは悪いが、大使が「王女の」敵ではないことだけは承知している。
「その通りだよ、少年」
 そうした少年の不思議な勘の良さを見込んでいたらしい大使も、楽しげに少年に手を振る。

 大人の意見も必要だ、と冷静に考えた少年の前で、王女達はずっと大使を睨み続けている。
 苦く笑った大使はようやく、少しだけ真面目な顔で本題を切り出していた。
「オレが今日、ここに来たのは――一つは、デューの奴を回収するためで」
「――!」
 その愛称は、少年が話題に出した抜け殻蛇のものだ。そもそもは大使が王女達に貸し出した案内役、「先導(デューシス)」。元は大蛇と思われる抜け殻のみである不思議な化け物で、中身は真っ暗な空洞という異様さがある。
「デューシスを……連れていくのですか?」
 人間の王女は、よく考えれば当然のことでも、珍しく年齢相応な子供の衝撃を浮かべていた。
 大使は心なしか、その切なげな顔に、鋭い目元をわずかに緩める。
「でもさっきの話を聞いて、気が変わった。その相談をこれから、したいところってわけだ」
 そして、いつもその抜け殻蛇が居座る狭い肩を持つ、忍の少女に向かって笑う。
「ってわけで、シヴァちゃん。アイツもここに連れてきてくれるか?」
「……」
 忍の少女は、気安げな大使にあくまで警戒を向ける。それでも黙って部屋を出ると、やがて、くだんの抜け殻蛇を連れて静かに戻ってきた。

 そして。大使を目にした抜け殻蛇の第一声は……――
「――嫌だにょろ! オイラは絶対、誰がオマエなんかの所に戻るかにょろ!」
 忍の少女の肩からしゃーっと、猫のような威嚇をする抜け殻蛇に、大使が平和に笑いながら頭をつつく。
 少年はその光景が不思議で、思わず呟く。
「……どっちも同じ奴なのに、何で?」
「――えっ?」
 忍の少女の肩に陣取る抜け殻蛇は、少年の言葉に、更に不服をアピールした。
「こんな軟弱な奴にはオイラの百万分の一も価値はないにょろ! ちょっとオイラの中身だからって威張るんじゃないにょろ!」
「ははははは。中身が威張らずに誰が威張るんだよ」

 その発言は、人間の王女達にとってはかなりの爆弾だったらしい。
「……だから、アディ達の敵じゃないだろ」
 少年の声が最早届かず、茫然と二人共、大使を見つめている。
 少年もいつから気付いていたかは覚えていない。言うのが遅過ぎる、と二人して、鬼の如き視線を向けてきたのだった。

 最近可愛がっていたペットが、恨みの募る正体不明の大使の一部だった。
 その衝撃を王女達は、わりとすぐに呑み込んでいた。
「でも。貴男にはデューから情報が届くけれど、デューには貴男のことはよくわからない。そういうことなんですね?」
 同じだけど別物。根性でそう割り切っており、女の子って謎だ、と少年は思う。抜け殻蛇を抱えた人間の王女に、抜け殻蛇が嬉しそうに舌をぴろぴろとさせる。
「ま、一応、そういうことにしておいてくれ」
 ふふふん、と笑う大使に、相変わらず威嚇の目を向ける王女達と抜け殻蛇だった。
 大使が改めて、抜け殻蛇の頭をつんとつついた。
「コイツは言わば、オレの『頭』で――他にも沢山、色んな抜け殻がいるわけなんだが」
「……?」
「オマエさん達の陣営で誰かもし、ゾレンに行くっていうならさ。引き続きデューを貸し出す上に、他の便利な奴らもセットに貸し出してやるよ」
 そう言って目を細めて笑う大使に、抜け殻蛇が王女の手の中から身を乗り出した。
「――何だにょろ? 誰かわざわざ、ゾレンに行くのかにょろ?」
 王女と忍の少女を見上げ、空洞の黒い目で不思議そうにする。改めての問いに王女達も顔を見合わせる。

 大使は場に、黄色と青の小さい蛇の抜け殻を出した。一つ一つソレらの紹介を始める。
「この青いのは『声』で、黄色いのは『耳』。『耳』に話したことは『声』から聴けるし、『(デューシス)』からも中継させることができる」
 そして逆に「頭」に話したことも、「声」から聴くことができるという。
「……コイツらがいたら、ゾレンの中からコイツを通して、遠くにいても話ができるのか」
「配置をどうするかは、オマエさん達の好きにすればいい。誰がゾレンに行くのかも含めて」
「……」
 気丈で聡明な王女は、まず状況を確認する。
「ソリス大使……それはいったい、どういう算段でのお話でしょうか?」
「勿論、オレにも条件がある。ゾレンの国内事情はオレも知りたい所だし」
 大使が貸し出す抜け殻をゾレンに連れていけば、個々から「頭」の抜け殻に集まる情報が大使にも届く。その利は頷ける。
「それでもって、ユオン君の持つ、ゾレンの通行証……それを一つ、オレにも貸してくれ」
 ――!? と、王女達の顔にいっそうの緊張が走る。
「しかし……それは……」
 王女達の緊迫の理由を、言われずとも理解している大使が不敵に笑う。
「真っ当なゾレン人で、自分の通行証を譲るバカは普通いない。ゾレンはゾレン出身者に、返上不要の通行証を発行する点では寛容だが……譲渡も貸与も、バレたら死罪。それは、渡した方も渡された方も――だからな」
 なので、少年が持っている三つの通行証は、それだけで少年をゾレンの大逆者にする。一つはゾレン人である少年自身のものと、もう一つは殺された育ての母のもので、本来没収されるはずのところを、ゾレン出身の母が隠し切ったものだ。
 最後の一つは、ゾレンにいつか行きたいと言っていた親友に、少年の父の旧い仲間が譲ったものだ。ゾレン出身だが母国に戻る気はなく、自分は既に命を狙われているから、と至って気楽に、命と同義の道具を渡した豪胆な男のものだった。
「第四峠はほぼエイラ領で、通行証も不要だからな。たとえディレステア軍でも、中立地帯エイラ領にいる限り、ゾレン軍も迂闊に手は出せない。ゾレン王都に近い第四峠に王女率いるディレステア軍が集えば、オマエさん達の考える通り、ゾレンの意識はそっちに向くだろうさ」
 その動揺の隙に、王都の近郊に王女の手の者を潜入させる。無謀であるが、理にかなった策でもあると――大使は人間の王女のことも楽しげに見つめるのだった。

 第四峠はディレステア、ゾレン、エイラの三領域の境で、反乱勢力のこもるディレステア大使館はエイラ側に設置されている。
 中立地帯では、中立維持者は同種・同国間の争いに関与しないのが原則だ。逆に異種・異国間の争いには中立維持者の抑止力が働くために、ディレステア軍と反乱勢力という国内紛争は放置されるが、ゾレン軍は抑制されるという、王女達には有利な不文律を大使が確認する。
 後の問題としては、いったい誰をその危険な任務につかせるか、だった。


 そうしたわけで、少年と忍の少女が、大使に渡した以外の二つの通行証で秘密裏にゾレンに入国したは良かったものの。
「……」
 彼らが隠れ潜む深い森の洞窟で、覆面のまま、忍の少女は今日も明らかに荒い息遣いで眠っている。
 その姿に少年は、バンダナに隠れた両目をきつく細めながら、第四峠にいる人間の王女と再び定時連絡をとる。
 忍の少女の容体は悪化している。少年は最初に、重い声で報告した。
「すぐに帰らせたいけど、これじゃもう少し立て直さないと、動かすのもまずいと思う」
「まいったわね……まさかゾレンで、医者を探すわけにもいかないし……」
 大きな溜息をつく王女も、危険は覚悟していたはずだが、病気一つしたことがない忍の少女には、あまりに想定外の危機らしい。
「こちらでも対策を相談中だけれど。キラも何か、シヴァのためになることがわかったら――シヴァが嫌がっても、そうさせてね」
「……ああ。そのつもりだ」
 苦しげに眠っている黒装束の少女。少年には、翼を失くした「黒い鳥」に映る相手。せめて起こさないよう、少年は静かに強く頷く。

「それでキラ。何か少しでも、良い情報……たとえばライザ様の行方なんかはあった?」
「……」
 少年は露骨に、気勢を落とした視線で、青い小蛇もどきを冷たく見下ろした。
「いや、全然。そもそもゾレンでも、英雄が捕まったってことは公になってないみたいだ」
 とりあえずそれだけ、「耳」の黄色い小蛇もどきに報告する。
「もう。相変わらずやる気ないのね、アナタ。いくら十年離れ離れとはいえ、血の繋がった、大切なお父様なのに」
「…………」
 このゾレンに彼らが発つ前、王女は少年に、最重要な項目の一つとして英雄の行方探しを告げた。しかし、少年がそれを聞いた第一声は、
「……何で?」
 心底不可解な思いで、少年は尋ねたのだった。
「何で、って……ライザ様にディレステアに戻ってほしいことも、それはあるけれど」
 それより何より、と、人間の王女は安静にする少年に掴みかからん勢いになる。
「十年会えていないんでしょう? それならアナタ達は、絶対に会わなければいけないわ。だって……本当に大切な、実の親子じゃない」
「…………」
 全く表情を変えない少年に、火のような赤い目で、娘は王女たる理性を度外視して訴える。
 それでも少年は、無表情のまま、
「でも親父、自分でゾレンに行ったんだろ?」
 建前上は王女達の帰国と引き換えに、厳と幽閉の身となった英雄の真情を、無慈悲に断罪しながら言う。
「親父は親父の勝手にしていればいい。何か理由があることだろうし……アディ達に助けてもらおうなんて、まず絶対に思ってない」
 だから特に、その英雄を探す必要はないのだと、少年は乗り気でない思いを伝える。

 それでも最終的に、英雄贔屓の王女のたっての願いということで、しぶしぶその情報も意識しておくことを約束した。
 そんなやりとりを、黙って見ていた忍の少女が何故か最後に、自分の肩にいる抜け殻蛇をがっと掴んで少年をはたいたのだった。


「ところで、キラ」
 話は変わるけど、と、青い小蛇もどきが少し声色を和らげる。
「クラン・フィシェル大使……本当のキラのお父様は、無事に第二峠に戻られたみたい。このまま第二峠大使を続けてもらえるように、渉外庁との話もきちんとつけておいたから」
「――」
 (さと)すように優しく和らいだ王女の声。不意をつかれた少年は息を呑んで黙り込み、青い小蛇もどきをじっと見つめる。

 少年と忍の少女がゾレンに潜入すると決まったあの密談の日、少年にはもう一つ、大きな出来事があった。
「オレが今日、ここに来たのは――一つは、デューの奴を回収するためで」
 もう一つは、と、全ての相談が終わってから、第四峠大使は連れを部屋に招きいれていた。
「――え?」
 揃って絶句する少年達の前に、完全に気配を消していた赤い髪と目の美丈夫が、無表情に静かに現れていた。
 一番先に言葉を発せたのは、気丈な王女だ。
「第二峠の……フィシェル大使……?」
 その第二峠大使は、ディレステア北西のザイン地方との国境の大使だ。しかし先日から失踪しており、その原因は、少年の育ての家族――第二峠大使には実の息子と内縁の妻を失ったことにある。
 衝撃を受けて黙り込んだ少年を庇うように、王女が椅子から立ち上がり、その寡黙な第二峠大使に向かい合った。

 赤い髪と目という激しい色を涼しい顔で封じ、何も言わない第二峠大使の代わりに、大使仲間らしい緋色の髪の第四峠大使が気軽に微笑む。
「コイツがどうしても、ユオン君の見舞いをさせろって煩くってな。悪いが王女様達、席を外してやってくれるか」
「……」
 さ、行こうぜ、と。第四峠大使は自身も部屋を出る気で王女達を促す。
「ユオン……」
 王女達は心配げに少年を振り返りながらも、しばし部屋を出ていったのだった。

「……」
 少年はその育ての父――当初は彼に会うためにディレステアに来たはずの、赤い髪と目の物憂げな男を黙って見つめる。
 育ての父は黙って、寝台の前の椅子に座ると、安静にする少年に、無表情のままゆっくりと手をのばし――
 わしゃわしゃ、と。
 暗く青い目を伏せた少年の頭にぎこちなく手を置き、無造作な銀色の短い髪を、撫でているつもりなのか荒っぽくかきまわすのだった。
「すまなかった――ユオン」
「……え?」
「第二峠まで来たと聞いた。本来なら俺から、迎えに行くべきだった」
 元来かなり無口でありながら、必要な時はしっかり誠実に、育ての父は話をしてくれる。
「……キラの術は、これ以上解呪できそうにない。オマエの気配はもう二度と――ユオンとして感じられることはないだろう」
 そのため育ての父は、少年をなかなか見つけることができなかったという。
 少年に施された、親友の赤い呪い。それに介入できた育ての父は、親友に魔道を、少年に剣の手ほどきをしていた。また、英雄ライザと旧知でもある。
「……」
 少年は育ての父の、痛切とも言える目を直視できなかった。
「何で……おじさんが謝るのさ」
「……」
「俺のせいで、キラとエア母さんは死んだ……俺は二人を守ることすら、何一つできなかったのに」
 思えば、この赤の目から逃げるかのように、少年は王女達と――黒い鳥と行動を共にするようになった。
 英雄の息子を狙った、ゾレン軍の追っ手。しかし少年は育ての母によって遠ざけられ、何が起きているかを全く知らない内に、突然大切な育ての母と親友を失った。それも少年を狙った者達の手によって。

――せめて俺が……本当にキラになれたら、良かったのに。

 気配までも変容させる赤い呪いで、もしも親友の実の父を欺いてしまえるのなら。少年は本気で親友になりきって生きる、と少し前まで心に決めていたのだ。他人の息子のために妻子を失った、孤高なザイン大使のそばで。

 そうして俯く少年に、育ての父は細く息をついた。
「オマエを恨むくらいなら、初めから共には住まわせない」
 そんなことは想定済みだ、と静かに少年を見る。
「オマエはキラ以上に、エアによく似ている。同じような感覚を持つからかもしれないが……エアにはオマエも、大切な子供だった」
「……」
 その育ての母はかつて、千里眼と呼ばれていたらしい。
 ディレステアとゾレンの戦局を観て、和平を求める活動に尽力し、人間でありながらその眼で人間以上に消耗をし続け、先の長くない体だった。
「オマエの感覚はエアよりずっと狭いが……その分深く、物事がわかっているはずだ」
「……?」
 勘の良すぎる少年の実態を、育ての父は、誰よりも早くに知っていた。
「わかっているはずだ。引き受けるべきは、オマエでもライザでもない」
 赤い目の奥に(はげ)しい炎の色を湛え、そうしてはっきり言い切っていた。
「俺を呼ばなかったエアの咎と――あいつを最後まで解放できなかった、俺の咎だ」
「……――」

 それは……おそらく少年が最も(のぞ)めなかった、もう一つの真実。無情な現実の姿だった。
 もしも育ての母があの日、たった一人で不幸を全て引き受けようとせず、連れ合いに連絡をとっていれば。少しなりと戦う力を持っていた少年二人と協力し、ゾレンの追っ手に対して守りに徹していたなら……違う未来もあったのかもしれない、と。
「キラの術なら俺まで届いたはずだ。そしてオマエがそこで戦えていれば、少なくとも、時間を稼ぐことくらいはできただろう」
 しかし育ての母は、その道を選ばなかった。
「オマエもエアも、誰が許しても結局は……オマエ達自身が、それを許せないんだろう」
 第二峠大使の負担になることを極力避けてきた、「千里眼」の女。その遠い姿を、激しく赤い目で思い返す男だった。
「…………」
 それでも少年は、目を伏せながら思った。
 育ての父が考えるその未来は、やはり有り得なかったことであり……ただ、親友一人であれば、助かる道もあったかもしれない。
 英雄の息子である少年が追っ手に殺されていれば、ゾレンと大きな因縁のない親友だけは逃げられただろうに、と。
 けれどその思いを口にしても、育ての父を苦しめるだけだ。少年はただ、声を呑むことしかできなかった。

 元々医者でもあった育ての父は、少年の身体を簡単にざっと、怪我の状態を診てくれた。
「しばらくディレステアにいるのか、ユオン」
 回復に向かいつつはあるが、重い傷の痕跡を全身に残す少年に、端整な顔を強く(しか)める。
「うん――多分」
 正確にはゾレンに潜入する予定だが、本来ゾレン人である少年の当面の本拠は、ディレステアになると言える。
 育ての父も、長く第二峠ザイン大使館――ディレステア国内に駐在する身だ。
「いずれ気が向けば、俺の元に来ればいい」
 おそらくそれは、有り得ないことだろう。育ての父はそう思いながらも、少年にあえて伝えようとしていた。
「それまで……これを持っていけ」
 少しでも少年がその道をとり易くなるように。育ての父が長年管理していた家宝を、少年に譲り渡してまでも。
「え……?」

 その黒い柄の長剣は、育ての父の実家に伝わる、水の力を冠した宝剣だった。軸に青い鉱石を埋め込み、先端が細まる両刃の剣を、唖然とする少年に惜しげ無く手渡す。
「俺には元々、それは合わない。けれど今のオマエなら、俺よりそれを扱えるだろう」
 育ての父の一族は、治水を司る化け物らしいが、その中では異端だった彼は、苦手と言いつつ一通り水を司る魔道もこなしている。
 それでも、水脈を司る化け物の血をひいた少年の方が、その剣にふさわしいと断言していた。
「おじさん……」
「武具はよく選んで使え。相性の合う物にはいつしか魂が入る」
 それでも、と育ての父が、最後に少年の頭を撫で叩く。
「戦うのに飽きた時は、それを返しに来い。俺は今後も、今の気配のオマエを探すことはできないが……俺の居場所は、多分ずっと変わらない」
 そうして「千里眼」の旧い希み通り、いつまでも苦く笑っていた。


 そんな育ての父の顔を思い返していると、青い小蛇もどきが、複雑な声を少年に届けてきた。
「全く――キラって本当に、バカなんだから」
「?」
「フィシェル大使の所に行けば、アナタには一番良かったでしょうに。どうしてそこまで、私達との約束に拘るのよ、アナタは」
 少年は青い小蛇もどきの向こう、溜め息をついている王女に首を傾げる。
「……アディ達は本当に、いい奴らだな」
 第二峠の大使である育ての父の復帰に、王女は力を貸してくれた。そのことにひたすら少年は感謝している。
「……」

 青い小蛇もどきは、しばらく唐突に黙り込んだ。
 次に「声」が口を開いた時には、若い男の声色へ変貌していた。
「そうですよね。アヴィス様達、王家の方は本当に、慈悲深く気高い女性ばかりです」
 ポカン、とする少年の前で、青い小蛇もどきが更に続ける。
「アヴィス様も本当に、王妃様にそっくりで、僕はアヴィス様の下に来られて良かったです」
 第四峠にいる人間の王女のすぐそばで、常に共に在る抜け殻蛇が声を中継できる程、王女の傍にいる若い男は――

「ちょっと、アラク……様付けはいらないって、あれほど最初に言ったじゃないの」
「どうしてですか。僕はアヴィス様専属の護衛に過ぎないのに」
「だってアナタは、本来母上の側近じゃないの。私より十歳も、年も上なわけだし……」
 抜け殻蛇より少し離れて、慎ましく控えるだろう護衛。その好青年は国王の座す王都でなく、王妃が管理する第五峠より派遣された新たな仲間だった。
「僕は王妃様に、アヴィス様をお守りするよう命じられました。だから僕には、アヴィス様は王妃様と同じくらい尊い存在なのです」
「それはわかるけれど……でも……」
 これまでの小競合いより危険な可能性のある第四峠へ、王妃はその切り札を、ためらわずに送り出していた。
 それなのに何処かよそよそしい王女に、少年は思わず、
「……珍しいな。アディが誰かを、嫌そうにしてるなんて」
 そんなことを「耳」へと呟く。その声を何故か「頭」が、偉く脚色して王女に伝えた。
「アディちゃんに嫌われるなんてよっぽど悲惨な奴だにょろ。とキラが言ってるにょろ?」
「別に悲惨ってわけじゃないの! ただ何かちょっと、今までなかった感じの相手で苦手なの!」
 当然ながら護衛が離れた後で、そう返してきた王女だった。

「ああもう、本当……早くキラとシヴァに、帰ってきてほしいわ」
「でも……あの新しい護衛って、俺の――」
「それはそうなんだけれど……でもそのことは、話すわけにはいかないし」
 王女は何故か、殊更大きな溜め息をついた。
「大体ね。自分はディレステア唯一の『温泉魔道士』と呼ばれてますなんて、初対面で大真面目に名乗る天然さんに、どう対応しろというのよ」
「……確かに。全然強そうじゃないよな、それ」
 王女の当惑に納得した少年は、ゾレンに発つ前に会った、帽子を被った祭祀のような姿をぼやっと思い浮かべていた。
 アラク・ネイデス・(ジー)。戸籍は偽造だというが、黒い短髪で真面目そうな、実年齢より若く見える好青年の手の「Z」と――その青く光っていた目を。

◇③◇ 処刑人

 迷走した定時の報告を終えた後で。ずっと苦しげな忍の少女のため、少年は潜伏する森を貫く川まで水を汲みに来ていた。
「この川は……第四峠からゾレン王都まで、クモの足みたいに続くんだっけ」
 元々この森を通ったのも、その前情報から、川沿いにゾレンの王都を目指してのことだ。
 少年にとって出身地であるゾレンの空気は、特別居心地が良いこともなく、むしろ親友達と住んでいたザインの方が合っていた。しかしその中立地帯に戻れないヒト殺しには、ディレステアよりはゾレンの空気の方が合うのは仕方がない。特にこの森は相性が良く感じ、潜伏場所をここに決めた次第だった。

 しかし、木こりを突然襲ったような魔物にとっても、この森は居心地が良い所だと観えた。
 本来ならこんなに呑気に、ゆっくり水など汲める場所ではない。
「……シヴァはもう、アレ、やめさせないと」
 こうして少年が安全でいるのは、忍の少女が常に、彼らを守る広域の「壁」の「力」を施しているからだ。それを思い浮かべ、少年はバンダナの下の暗い目を強く歪めた。

 潜伏する洞窟までは距離があり、帰る前に少年は、川の先に僅かに見える王都を眺める。
「とにかく一度は……王都に行けないかな」
 王女達はゾレンの世情や英雄の行方などを気にしているが、少年が一番興味があるのは、ゾレン王都の軍備状況だった。
「正直……勝てる気、しないしな……」
 町並みだけを見ればディレステアの方が、石造りの家々や道が整い、様々な便利な道具が簡単に手に入り、技術が発達している。ゾレンでは農耕や牧畜が生活の基本で、木造の建物ばかりで最盛況な市場すら吹けば飛びそうなのだが、それこそが人間と化け物の差でもあった。
「それだけ……人間って多分、弱いんだな」
 そうして環境を整えなければ、人間は生き難いのだろう。少年には「黒い鳥」に観えながらも、体はほとんど人間という忍の少女のように。

 苦しげな忍の少女の姿を思い出しながら、帰路へついた時だった。
「……――え?」
 少年の肩では「声」の青い小蛇もどきが、ずっと睡魔と闘っていた。
 忍の少女の元には黄色い「耳」を置いている。何かが起こればそれで連絡をとるよう、少年達は決めていたのだが……。

「――どうしたの?」

 青い小蛇もどきから突然に発された、あまりに想定外の幼げな「声」。

「どうして人間が……こんな所にいるの?」

 確実に忍の少女ではない、知らない誰かの声。それが「耳」から「声」に伝えられている。
 少年は一瞬で緊迫し、青い小蛇もどきをがばっと掴んだ。

 引き続き「声」は、忍の少女にかけられる謎の声を「耳」から聞いて、幼げな声色をそのまま少年に向かって発する。
「あなた……ゾレンのヒトでも、ないよね……?」
 続いて「声」が表現する、忍の少女の返答、というより苦しそうな息遣い。少年はせっかく汲んだ水を放り、洞窟への道を駆け出した。
「シヴァが――……見つかった……!?」
 ゾレン人でない者が、通行証を持って秘密裏にゾレンに潜入する。その行動は、譲渡や貸与が死罪という通行証の不法所持だけでも、もし明らかになれば致命的なのだ。
 だからゾレンで表立って動くのは、己自身の通行証を持つ少年だけだと、来る前から彼らは決めていた。

 要するに――と。
 誰がゾレンに行くのかを決める際、少年はあっさりそれを受け入れていた。
「アディは、俺に行けって言いたいんだろ」
 まだ包帯だらけだった少年だが、黙り込んだ王女に事も無げに尋ねた。
「普通の人間がゾレンに行ったって、気配で化け物――ゾレン人じゃないってばれるし」
 だからディレステア軍の人間を派遣するのは無理だろう。それくらいはすぐにわかった。
 勘が良過ぎる、とよく言われてきた少年は穏やかに笑う。
「アディの頼みなら別にきくけど。それだと、討伐隊に同行するアディ達を守れないな」
 少年はそれだけが残念だった。
 帰るべき場所を失ってから、新たに得た約束。人間の王女を守る忍の少女――黒い鳥の剣となること。別に、傍らで守るばかりが約束の形ではないと、それはわかっている。
 そんな少年の様子を見ながら、まだ机上に座っていた第四峠大使が感心したように呟く。
「凄いな。その顔でゾレン入りするつもりか、少年」
 少年はゾレン人でありながらディレステアに寝返った英雄、ライザ・ドールドのミニチュアそのものだ。
 裏切り者として英雄のみならず、血縁者も狙うゾレンに少年が足を踏み入れることは、普通に考えれば危険極まりない行為になる。

 しかし少年には、死んだ親友が施した、赤い呪いがまだ残っていた。
「これさえ付けてたら、俺は今でも、キラになれるみたいだし」
 今は腕に巻き付けている黒いバンダナを、少年は心強い気持ちで見つめる。
「だからやっぱり、俺が一番適任だろ」
「……」
 言い出しっぺの王女は黙ったまま、そんな少年を真摯な赤い目で見つめ続けていた。

 そこで少年だけでなく、忍の少女までゾレンに同行することになったのは、少年にはとても意外な展開だった。
「……それなら、約束は守れそうかな……」
 その黒い鳥と共に在るのであれば。今ここにいる少年の根本は必ず守る。
 そうした中で忍の少女の身を守るのは、当然の前提で、また最優先事項だった。

 潜伏場所に向かって走り続ける少年には、ただただ焦燥しかなかった。
「誰だ……!?」
 洞窟に横たわる忍の少女――その首元に置いた「耳」が聞き取れる程、近い距離で話しかけている誰か。
 忍の少女が使う「壁」の力を考えれば、そんな事態は有り得ないはずだった。

 誰かは更に忍の少女に近付いたようで、先程よりもはっきりと声が伝えられる。
「あなた……人間なのに、ヘンな感じ……?」
 「壁」の内では基本、世界の神秘である「力」を使う化け物の「制御の力」や、「武器を稼働させる力」が全て奪われる。また、少年達の気配を遮断し、ゾレン住人からの察知を防ぐ効力もあった。
 それなのに誰かに見つかった。その焦りで、帰路を急ぐ少年とは裏腹に、
「別に……私は、大丈夫だから――」
 忍の少女は何故か全く無警戒に、そう返していた。

 化け物の多くは外見ではなく、互いの気配を以って相手を探知・認識する。
 外見などいくらでも変化が可能な力を持つ化け物もいる中で、気配とは隠すことはできても、変質させることは、余程の呪いでもない限りできないからだ。
「でも、凄くおかしな気配がしたから……」
 そんな気配をも完全に遮断してしまえる「壁」は健在であるのに、その幼声の誰かは忍の少女を見つけたのだ。あまつさえ、ゾレンでは嫌われているはずの人間であることにも気が付き、すぐ傍まで近付いている。
「シヴァをどうする気だ……!?」
 それはこの化け物大国のゾレンで、しかも弱っている忍の少女の明らかな危機だ。最初の一声だけでそう警戒せざるを得ない。
 なのに、忍の少女自身は相変わらずいつも通りで、
「私のことはどうでもいい……アナタは自分のために動きなさい……」
 少年と二人になってから使っているゾレン語、ぶっきらぼうな片言で、黒い鳥は夢現(ゆめうつつ)に返事をしている。

 おそらく忍の少女は、「私に構わず自分の仕事をしなさい」と言いたかったのだろう。体調不良か、慣れないゾレン語のためか、いく分間違えてその言葉を返している。
 謎の幼声の誰かも、しみじみと聞き入っているようだった。
「……あなた、優しいヒトだね」
 その直後に、誰かは唐突に、死の宣告を口にした。
「あのね。何か言い残すことはある?」
 感情のない冷酷な問いかけに、少年の全身に冷感が走った。

 少年には、五感の及ぶ範囲での現状把握に優れる「直観」――勘の良過ぎる特性がある。
 少年が先刻、謎の声にすぐ危機感を抱いた理由がそれだ。
 この声の主は、必要なら躊躇(ためら)わずに、殺すべき生き物を手にかけられる。遺言を尋ねる幼い声に染みつく、不自然な落着きの血色だけは感じ取っていた。
 まだ記憶に新しい、育ての母と親友の死。彼らは少年が不在の間に殺され、それをどれだけ呪ったか知れない。ここでもまた、同じことが繰り返されるというのだろうか。
 謎の声の主は少しの間、宣告通り、遺言を待つかのように黙っていたのだが……。

「――あ、違った」
 しまった、いつものクセで。などと、幼い声が明らかにおかしなことを口走る。
「あのね。何かわたしにできることはある?」
 そう言い直し、その後じっと、忍の少女の回答を待っているようだった。

「何だ、こいつ――」
 少年は必死に帰路を急ぎつつ、その不可解なやり取りに、得体の知れない苛立ちを感じる。
 「耳」から「声」への連絡は一方通行のため、忍の少女に警告が返せない。「声」が自身の意志で「頭」に要請し、「頭」から「耳」自身を喋らせてくれれば別だが、「声」は声色を変えること、「耳」は侵入者の声を拾うので今は精一杯だろう。小蛇もどき達には「頭」ほどの優れた自律機能がない。
 とにかく、忍の少女に何かされる前に――その正体を知られる前に帰り着かなければ。呪うように念じて足を走らせ続ける。

 そうしてやっと、少年が近くまで戻ってきた頃。
「……あれ。誰か、来るね」
 「壁」に消されているはずの少年の気配にも、謎の誰かは気が付いていた。
「ごめんなさい……わたし、本当は、ヒトに会っちゃいけないって言われてるから」
 誰かも正体を知られるわけにいかないらしい。それではどうして、忍の少女の前に現れたのだろうか。
「苦しそうなのに、何もできなくてごめんね」
 どうやら言葉通りに、謎の誰かは、忍の少女を置いていくことだけを気に病んでいる。
「あのね。多分あなた、食べ過ぎだと思うよ」
 最後にそんな、思わず力の抜けそうな言葉を残して、少年が帰り着く前に幼げな声の主は去っていったようだった。

 少年は元々、化け物でありながら、気配の探知は不得手だ。直観力と呼ばれる勘の良さはあるが、それも躯体の五感に依存している。
「シヴァ! 大丈夫か……!?」
 だから洞窟に駆け込んだ後、少女の安全を、人間のように五感で認識するまでは確信できなかった。
「……キラ?」
 焦りながら駆け込んできた少年に、忍の少女がうっすらと目を開ける。
 その直後、苦しげな様子ながらも、とてつもない怒りを紅い目に湛えて少年を睨んだ。
「――誰が食べ過ぎなのよ」
 いつも通り短気な忍の少女に、少年はほっと胸を撫で下ろす。
 安心した少年が何も言えず座り込み、代わりに小蛇もどき達が口を挟んだ。
「それ、言ったのキラじゃないにゅろ」
「それ、言ったの可愛い女の子にょる」
「……えっ?」
 小蛇もどき達の声に、ようやく忍の少女は紅い目に警戒を宿して、苦しげに体を起こす。
「さっきの……キラじゃ――なかった?」
 本来は在るべきだった警戒心。それでも忍の少女にとって、胡乱(うろん)な中で話しかけてきた相手は、まるで少年のような気配だったらしい。
「だって……結界もずっと、反応はなかった」
 ずっと使っている「壁」の力からも、少年以外に近付く者はいない、そう思い込んでいた様子だ。心から不可解そうに、両目を険しくするのだった。

「つまり俺みたいに、シヴァの結界が効かない奴が、他にもいるってことか」
「……!」
 本来、化け物の「力」なら何でも熱を奪われるのがその「壁」だ。しかし少年が戦う際に使う、自身の躯体の性能を底上げする「力」は吸収されない。そして少年自身の存在も「壁」には感知されない。
「キラはシヴァちゃんの力が通じないにゅろ」
「キラの力はシヴァちゃんは奪えないにょる」
 様々な「力が発動するための熱」を奪う。それにより数多の「力」を無効化する特殊な結界こそが、その「壁」の本質なのだ。
「効かないのはオイラ達とキラくらいにゅろ」
「効かないのはオイラ達と人間くらいにょる」
 それが通じない相手は、「力」自体使えない生き物か、己の命そのものを「力」として使う少年くらいのはずだった。
「そいつ、結界の中でもシヴァや俺の気配をわかってた。ここはもう、危険だけど――」
「……――」
 秘密裏に潜入している彼らにとっては、一度誰かに見つかった場所に留まることは、本来有り得ない話だろう。
「でも……今、動けそうにないな、シヴァ」
「……」
 咄嗟に否定できなかった忍の少女も、信じられない程に体が不調であることを自覚しているようだった。

「とりあえず他の隠れ場所、まず俺が探してくるから。その間はシヴァ……一旦、その壁、消した方がいい」
「――!」
 それでも途端に、噛みつくような目で少年を睨む。少年はあえて冷ややかな声で言った。
「せめて狭く、シヴァの周囲に限定しろ。俺のことまで守ろうとしてる場合じゃない」
 広域に張り巡らされた「壁」の力は、実働部隊の少年を含めて隠している。それが今の少女にとっては大きな負担のはずだ。
 少年が魔物や、思わぬゾレン人との遭遇を可能な限り避けられてきたのは、一重にその壁の力による。
「もう俺は大分この森には慣れた。シヴァはまず、動けるようになることを優先しろよ」
 だから恩知らずとも言える発言だが、こうした時の少年は、問題解決のための正論なら何の躊躇いもなかった。
 コイツ、本気でむかつく――と言いたげな、不服そうな紅い目をしながらも、忍の少女はしぶしぶと、これまでより壁を狭めたのだった。

 そして再び、潜伏場所探しと、水の汲み直しに少年がまた洞窟を離れて一時間もしない内に。
「――ウソだろ」
 不測の事態とは、こうも立て続けに訪れるものなのか。少年は苦い顔で歯を噛み締める。
「キラ……近くに化け物が二人、来てるわ」
 青い小蛇もどきから、今度は忍の少女直々に、救難の声が寄せられていた。
「シヴァは守りに徹しろ、と『(ガラ蛇)』から『耳』に言わせろ――すぐ帰る」
 迂遠だが忍の少女に届くよう、「声」にも可能な単純指示を出し、今一度水を放り出すことになった少年だった。

 忍の少女の存在を、このゾレン内では決して知られるわけにいかない。
 それはどんなことをしても、と――少年は暗く青い目を澱ませて、焦慮の声を吐き気と共に呑み込んでいた。


+++++


 思えば、一番の不測事は、忍の少女の不調だ。それがなければ、少年が付きっきりである必要はなかっただろう。
 本来は己を十分守れる忍の少女だからこそ、ゾレンに共に来たわけなのだ。

 ゾレン行きが決まりつつあった時、王女だけでなく忍の少女までもが、何故か同じ迷いを浮かべて少年を見ていた。
 第四峠大使は、王女達を緋色の「頭」を通して見ていたせいか、その理由に気が付いたらしい。やれやれ、と……二人を優しげに見ると、困ったように微笑んでいた。
「あのな。オレがいる前じゃ言い難いだろうから、先に言ってやるけど」
「――?」
 王女達は揃ってはっ、と大使を振り返る。
 そこで男が口にしたのは、王女達にとって、大使と抜け殻の関係の衝撃を越える内容だった。
「オマエさん達がずっと隠してるつもりの、シヴァちゃんの正体。デューは結構前から、気が付いてたけどな?」
「――!」
「……!」
 それはつまり、大使の方にも、忍の少女の正体は気付かれていることに他ならなかった。
「正体を明かしたのはお互い様だ。せいぜいお互い、これ以上は知られないようにしようぜ」
 それは互いの秘密事項だ、とあえて交換条件のように言った大使。正体を知られた王女達の動揺を少しでも軽くしたいのだと、少年は悟る。
 何故かそう、王女達には甘い大使について、ただ首を傾げるのみだった。

 王女はその時、警戒を解くことはできないながら、大使の真意のごく一部を感じたように複雑な赤い目をしていた。
「ソリス大使……?」
「…………」
 忍の少女は逆に、動揺の裏返しだろうが、傍からもわかる程に強い怒りを湛えて、大使を貫くように睨みつけていた。
 大使は王女達の反応に、安心したように笑った。
「だってさ。シヴァちゃん、少年と一緒に、ゾレンに行きたいんだろ?」
「――!?」
 驚く王女の前で、その所感を簡単に言ってのける。
「少年もシヴァちゃんの正体なら気付いてるだろうぜ。それならそろそろ、シヴァちゃんの望むように動いてみてもいいんじゃないか?」
「…………」
 大使を睨んだまま、バツが悪そうに忍の少女が少し目を伏せた。人間の王女はこれまでの気丈さとは違う、何処か不安げな表情を浮かべる。
「――シヴァ……?」
 やがて人間の王女も俯き、何も言わない忍の少女の代わりに、その迷いを正直に口に出していた。
「……確かに、私も……ユオンを一人で……行かせたくはなかったけれど」
 王女の言い分に、不思議そうにする少年を横目で見ながら言う。
「でも、だからって……シヴァを、そんな――危険な所に行かせるなんて」
「……――」
 そこで忍の少女は、人間の王女が同じ迷いを抱いていたことを悟る。
「シヴァの結界があって、ユオンがシヴァを守ってくれるなら。潜入するヒトがまだ、一番安全な道だって……それは、わかっているけれど……」

 忍の少女の「壁」の力は、潜伏に非常に適している。少年の方も言葉足らずな面はあるが、情報収集に適する直観と、ゾレン軍の将軍級の化け物を打ち破った力がある。それなら危険な潜入に向くのがこの二人だと、人間の王女はとっくに判っていた。
 しかし、忍の少女の本来の役目を考えた時、それはあまりに無謀だと――だからその提案は口にすまい、と悩み抜いた後だったのだ。
 理性と感情、効率と優先順位との葛藤に、赤い目の王女は散々悩んだ後だ。
 対する紅い目の少女は、互いへの信頼が揺るがない思いを、自ら発する覚悟を決めていた。
「……危険なのは、ゾーア……あなたも同じ」
 そう、本当に久しぶりに――
 通称アディ・ゾーアという人間の王女と、全く同じ色の声。
 目を丸くする少年と大使を横に、本来の姿に戻る時以外は決して出さないと決めた声の戒めを、そこで破っていた。
「私達が、ゾレンに行くなら……王女として討伐隊に同行するあなたを、私達は守れない」
 静かに、そして威厳のある凛とした声。少年も一度だけ、命が尽きかけた時に聞いたことがあったもの。
 僅かに俯き、忍の少女は硬い目付きで、声を震わせながら口にしていた。
「でも……私は一度、ゾレンをこの目で、見ておかなければいけないと思う」
 だから忍の少女は、ゾレンに行きたいのだ。常に守ると決めた人間の王女を、一人で残していくことだけを心配している。忍の少女をゾレンにやるのは危険と、互いを心配していた王女と同じように。

 その二人の姿は、少年の暗い色の目からは、忍の少女の方がとても強い負い目を感じているように観えた。
 それはきっと、人間の王女を守ること以外を必要と思ってしまった、自身の変化にだろう。そのために自分はいたのに、と黒い鳥の鳴き声が聞こえた気がした。
「……そうよね。今のこの差し迫った情勢で……危険無しにこの先の道を探せるなんて、そんな甘い話はないわよね」
 王女も項垂れる。和平交渉に失敗し、英雄を失い、国内の反乱勢力が結集している状況で、そもそもディレステアという国に選択の余地などほとんど無いのだと。

 しかし、忍の少女より数段早くその検討をつけていた王女は、再び気丈に顔を上げ、不敵な顔で笑いかけた。
「討伐隊の方は私に任せて。元々ここまでの段取りも、表向きは私が運んできたのだから」
「…………」
「シヴァは、王女のことは何も心配しないで……私もそう願った通りに、ゾレンのことを、その目で見てきて」
 それがたとえ、まだたった十五歳の二人の、甘さを表しただけの決意であっても。
 少年も大使も、否定も肯定もせず、黙って静かに見守っていた。

 危険は誰もが承知だった、ゾレンへの潜入。
 その意味は身の安全だけではなく、忍の少女……力の熱を奪う「壁」を持てる者の正体を、名前の一致しない不法通行証の所持も含め、隠し通すことにあった。

 人間ならぬ特殊な「力」を持つ者を、人間は一括りに化け物と呼ぶ。それで言えば、忍の少女は人間とは言えない。それでも化け物の中では、もう少し細かな分類や格差がある。
「アンタ達――『混血』かい?」
 苦しげに洞窟内に横たわる忍の少女と、駆けて来た少年に、現れた化け物達はまずそんなことを口にしていた。

 少年がやっと洞窟に戻った時には、そこには二人の化け物――「雑種」と呼ばれる化け物大国ゾレンの、おそらくかなり上級種の男女が、少年より先に来てしまっていた。
 少年と忍の少女の分類し難いらしい気配に、「混血?」と警戒の顔をしている。
 少年は化け物女の問いは全くきかず、育ての父から預かった宝剣を待ったなしで抜き、声色と身を低くして構えた。
「――エア姉さんから離れろ」
 身分証明書となる通行証に刻まれた名前の問題上、忍の少女の名を偽って呼んだ少年に、化け物女は想定外の方向から大きな怒声を出した。
「バカ! アンタ弟なら、こんな熱出してる姉さんを置いてどっか行くんじゃないよ!」
「――え?」
 魔道に通じる者に多い、上も下もひらひらとした服装で杖を持った化け物の女。あまりに真っ当な叱咤に、思わず剣先を下げる。
 連れと見える化け物男が、不可解そうに隣で腕を組んだ。
「姉弟なのか? そうは見えないが……」
 軽装だが縦襟で帯剣し、短い外套を羽織る軍人のような姿。少年は再び警戒の目を向ける。

 情報収集をしている時のように腹をくくった少年が、苦しげな少女の弟になりきる。
「俺達、この辺はよく知らないんだ。姉さんが動けないなら俺が動くしかないだろ」
「へぇ……何処から来たんだい? アンタ達」
「第四峠の方から。最近何か不穏だから」
「なるほど。確かにな」
 化け物の血を引き、手にもゾレンの「Z」の印を持つ少年に、化け物の男女は警戒を感じなかったらしい。
 少年としても、「エア」という育ての母の名を、昔の有名な咎人と気付かれなかった幸運には安堵した。
「しかし姉さんは、変わった服装だね」
 少女の忍装束、ゾレンでもディレステアでも珍しい手背まで覆う姿に首を傾げる化け物女に、再び少年は二人を睨みつけるが、
「忍の者か。大陸のもっと北西では、よく見られると聞くがな」
 化け物男の呑気な様子に、またも気勢を削がれてしまう。
「忍の者って? クエル」
 血色の悪い青褪めた肌と灰色の目で、化け物女は強気な表情で尋ねる。胸までの刺々しい濃い灰色の髪は、少年の銀髪よりもかなり濃かった。
「おれもよく知らないが。忍の者、その正体は決して明かしてはならぬとかいう、色んな地域からスカウトされた実力者の集まりらしい」
 化け物男も濃い灰色の目と髪で、英気を強く感じさせる眼光を持っている。根は真面目そうだが、鳥頭で不敵な表情からは硬派とも少し違う、反抗期から大人になり始めた感じの青年だった。
「へぇ。ゾレンからもそんなのが出てたんだ」
 忍の少女の姿は確かに、それをイメージに偽装されたものらしい。物知りの化け物達が納得してくれたのは非常な幸運だろう。

「ところで弟は、名前は?」
「……キラ。キラ・レイン」
「そっかい。アタシは、デスリー・ジーン。こっちはクエル……他は内緒」
 ふふふ、と何故か、化け物女が楽しそうに笑った。
「しっかしアンタの姉さん、エア? これ、相当やばい状態になってるよ」
 忍の少女の横にしゃがみこみ、額に冷たい手を当てて化け物女は唸る。
「このコ、熱を集める力を持ってるのかい? 何でか知らないけど物凄い熱の貯まりようだ。そりゃ、容量オーバーで動けなくもなるよ」
 化け物女は見た目通り、魔道士であり博識らしい。少年以上に精密にその少女の状態を紐解いていく。
 やはり「壁」の力による不調だったのか、と少年も納得する。
「今までこんなことはなかったんだ。これって、この森の空気が合わないってことか?」
「そうだね――ここは自然も多いけど魔物も多い。どっちが合わないのかは知らないけど、どっちの力も相当強い森だ。それをずっと、清濁合わせのみ続けたら、こうなるのかもね」
「じゃあ……俺達はどうすればいい?」
 警戒しつつも、しっかり相手から必要な情報を探る、したたかである少年だった。
「そりゃ、合わない場所から移動させるのが一番だけど……今の状態で動かすと、このコ自身の熱が出て更にやばいことになりそうだね」
「……」
「まず先に一度、熱を下げるしかないだろう。それも外部からの働きかけで」
 とにかくこの状態で、忍の少女に何かをさせてはいけない。化け物二人は悩ましそうに少女を見るのだった。

 本来、忍の少女が貯めている熱は、攻撃や暖取りで発散することができなくはない。しかしゾレンの森でそんなことをして目立つわけにいかない事情と、外向きへ転化する作業でも少女の体には大きく負担がかかる。
「外部からの働きかけって?」
 とことんシンプルに、少年は化け物達から情報を引き出そうとする。
「まぁ、一つは……薬だろうね、やっぱり」
 一つ一つ、きちんと答えてくれる化け物女は、どうやら相当世話焼きであるようだった。
「他にも方法は無くはないけど。そっちはあんまり、お勧めしないよ」
「じゃあ、薬を手に入れないといけないのか?」
「第五峠か王都なら売ってるだろうな。ここからなら、どちらでも一日で往復できる」

 その親切な化け物達に、一通りの話を聞けたことは良かったが。
「……」
 薬を買いに行く。残念ながらその解決策はとれそうにない、と少年は眉を顰めるしかなかった。
「ありがとう――でも俺は……エア姉さんを一人で置いてはいけない」
 丸一日、護衛対象から離れられる道理はない。こんなに弱っていたら尚更だ。
「要するに、熱を出し切れば元に戻るんだな」
 それならば「壁」を完全に消させた後に、何かの方法で貯めた熱を少しずつ放たせるしかない。早々に見切った少年の勘の良さに、化け物女が少し目を丸くしたものの、
「まあ、待ちなよ。それも一つの方法だけど……アタシ達、今から王都に帰るんだけど、この森はアタシ達の庭みたいな所なんだ」
「――?」
「明日また、薬を買ってここまで来てやるよ。だからアンタは姉さんについててあげな」
 そう言うと、他意の全くない化け物らしい顔で強気に笑った。

 それは化け物女が、純粋に厚意で言っていることだとは観えていた。
 初対面でそこまで親切にされてしまうと逆に不可解で、胡散臭い、と理性は警鐘を鳴らすが、感覚はそれが厚意だと訴えてくる。言葉に詰まって黙り込んだ少年の肩に、化け物男が面白そうに腕を置いていた。
「今日はおれの妹を迎えに寄ったんだがな。明日は完全にサービスだ、感謝しろよ」
「……――」
 その化け物男の、人が好くいたずらっぽい笑顔。
 何故か少年は、唐突に大きな眩暈(めまい)を感じた。

 赤い色の御使いが、少年の背をふっと掴む。
 思えば少年は、昔からその色と縁が深い――
 その赤に染められる定めを知っていたかのように。

「――ちょっと。アンタ、大丈夫かい?」
 ぐらついた少年の変調に気が付いた化け物女が、不思議そうに顔を覗き込んできた。眩暈で俯いた時、危うく少しずれかけたバンダナをぱっと押さえる。
「……ありがとう。俺も、少し疲れたみたいだ」
 そう礼を口にしながら、暗い色の目で目前の二人の全身を観つめる。

「あいつら――……強いな……」
 その後、二人の化け物がその後洞窟を出ていくまで、じっと彼らのことを観続けていた少年だった。

◇④◇ 黒い鳥

 第四峠で余程の事がなければ、毎日朝晩と、少年達からのみ定時の連絡をするのが当初の約束だった。
「というわけで、今はそいつらが、本当に薬を持ってきてくれるかどうかってところだ」
 ゾレンの者と少なくとも明日まで関係を保つ状態となった以上、今後の連絡は慎重に、機をみてする、と報告する。
「何と言うか……謎の化け物さんの存在に、怯えればいいのか……優しい化け物さん達の厚意を信じて感激すればいいのか、複雑な気分だわ……」
 人間の王女も青い小蛇もどきから、楽観できないような不安を返す。

 あの後、とにかく水だけ汲みにいき、忍の少女の傍を片時も離れず洞窟に潜んでいた少年も、表情を消したままで黙って頷く。
「今まで、シヴァちゃんに頼り過ぎたにょろ」
 「声」はそうして、「頭」の意見も場に届ける。
「『力』を使う者には普通、『力』に影響する土地の移動は、もう少し慎重に考えるべきだったにょろ」
「そうね……ザインでもエイラでもシヴァ、元気だったから。私も考えてもみなかったわ」
 その彼らの話に、背を向けて横たわる忍の少女が不意に呟いた。
「――悔しい……」
 強く両手を握り締めて、歪めるように目を閉じている。
「?」
「シヴァ? どうしたの?」
「シヴァちゃん、苦しいにょろ?」
 青い小蛇もどきが、王女や抜け殻蛇の心配を表すように忍の少女の顔を覗き込む。

 忍の少女は、熱で朦朧としつつも、激しい感情を抑えていた。
「こんなに不甲斐ない気分は、ライザを失った時以上……あの時以来……」
「――」
 忍の少女が言う「あの時」。その一言だけで心が伝わったのか、人間の王女の雰囲気が、小蛇もどきの向こうで硬まっていた。

 少年は、震える忍の少女を黙って見守る。
「……」
 おそらく二人は、共通の育ての母が殺された時のことを言っているのだろう。少し前に人間の王女から聞いた話を思い出し、すぐに察する相変わらずの勘だった。
 私達を取り上げてくれたのは同じ産婆なの。王女――人間の娘はそう言って、忍の少女のことを、その時は「羽のない天使」と呼んでいた。忍の少女は、人間の王女を守るための存在――大切なのはあくまで「王女」であると、人間の娘も覚悟を決めている声色だった。
 王女を庇って殺された産婆は、魔女という化け物であったらしく、忍の少女に「壁」をはじめ、簡単な魔道や「力」の使い方を教えたという。
「こんな大事な時に、足手まといだなんて……まともに動けるようになるなら……魔物にだって何だって、なってやるのに」
 人間だという忍の少女が、もしも本気で化け物と渡り合いたいのであれば――人間を栄養として、力の源とできる「魔」になる必要がある。魔女はそう言っていたという。
「シヴァ……それは……」
 忍の少女の憔悴ぶりに、人間の王女も息を飲む。

 人間の王女は少年に、忍の少女を魔にしないために、既にヒト殺しであった少年が代わりに死神となることを望んだ。それが「黒い鳥の剣となる」約束で、それを今も、少年は大切に覚えている。
 だからこそ、あまりにあっさり、無慈悲な問いを投げかけるのだった。
「――何で?」
 忍の少女……感情的な黒い鳥に、冷徹な少年は以前から遠慮を知らない。
「力の使い方さえ変えれば解決することだろ。今回は、こういう場合もあるとわかっただけだ――なのに何で、シヴァはそう思うんだ?」
「―――」
 少年には多くの命を奪い、踏み越える道筋しか今まで無かった。
 だから選択肢のある忍の少女の苦悩は理解できない。暗く冷たい色の目で、地に伏せる黒い鳥を見守る。
「……」
 少年の問いかけには、きっと、何を答えても見透かされる。余程の強い思いに根差した意志でなければ、口先だけだと看破される。黒い鳥はそう感じているらしい。
 応えることができずに全身を硬めてしまった少女に、少年は引き続きあっさりと、
「……あんまり悩んでると、余計熱貯まるぞ」
 今の数瞬などどうでもよく、無機質に言う。年齢相応の感傷に苛まれる忍の少女を、冷ややかに見守り続けるのだった。

 そして「声」からは、少年にブーイングの数々。
「シヴァちゃんはオマエみたく単純じゃないにょろ! 悩んで然るべきことにょろ!」
「全く。キラくらい割り切ることができれば、誰も苦労しないわよね」
 と言っても、と、その少年の危うさをも人間の王女は知るように、
「そうやって割り切り過ぎる所が、アナタのきっと一番の弱点よ、キラ」
 彼らの中では大人びた声で、それだけ口にしていた。
「ところでキラ」
 そして更にその気丈な娘は、目下、少年の最大の弱味を久々に口にする。
「最近はちゃんと――少しでも食事、摂っているんでしょうね?」
「……――」
「まさかシヴァが寝込んでしまっているのをいいことに、誰も何も言わないからと、何一つ口にしていないなんてことはないわよね?」
「…………」
 そんな他愛もない話に、少年は黙り込むしかない。
 本来はとても丈夫な躯体を持つ英雄の血をひきながら、少年は慢性的な栄養失調であるために、時に人間以下の体力となることまである。自然界から命の恵みを得られる化け物だった母の血をひくことで、辛うじてその命を廻し、動いたり戦ったりする。
 今や、生き物としての成長は完全に止まり、絶飲食記録を日々更新中なのだ。
「別に……摂らなくて何とかなってる内は、摂らなくていいと思う……」
 少しでも摂れば過剰に吐き戻されてしまい、摂った以上の体力を消耗する。そう言って頑固に飲食を拒否し続ける、いつもより弱気の少年に、
「アナタねぇ。どんな方法でもいいから強くなりたいってシヴァを、少しは見習いなさい」
「そうそう、そんなことでは護衛失格にょろ!」
 これがもっぱら、最近の殺し文句なのだった。

「アディこそ……温泉魔道士らしい護衛と、ちゃんと仲良くしてるのか?」
「あら。護衛と特別仲良くする必要なんて、本来はないと思うけれど?」
「仲良くしておかないと、多分、アイツ……やる気無くすぞ」
「――……」
 むう――と、少年のその指摘は、実は切実であったらしい。
「そうなのよね……王妃への傾倒ぶりは、元々わかっていたこととはいえ……」
 人間の王女は複雑げに、その純粋過ぎる新たな護衛について話し始める。
「仲間を守りたい、それだけが、アラクのやる気の源みたいなのだけれど。今まではずっと、第五峠の騎士団の一員で、でも魔道を勉強していただけなんですって」
 王妃が管轄する第五峠は、ディレステアとゾレンの国境の港町だ。両国が唯一完全な中立地帯としている、貴重な地域になる。
「それもそのはず――王妃はアラクのこと、本当は兵士にするつもりではなかったのよ」
「そんな状態まで回復できるとは、そもそも期待されてなかった奴にょろ」
 第五峠が中立である理由は、医療施設が集中する地であるからだ。そこにいた護衛はつまり、療養中の身でもあった。

 第五峠では、国境の内側の山域と、外側の海辺の両方にいくつもの施設がある。ディレステア人でもゾレン人でも受け入れる一帯を守るのが騎士団で、その面々は「地の大陸」中の、様々な地域の人員で構成されている。
「まあ、施設が全てディレステア管轄な以上、騎士団もディレステア寄りなのだけれど」
 その医療施設の一つで、長く静養していたゾレンの化け物である護衛は、病める者達を常に気にかける王妃の献身に身も心も癒された。そうしてディレステアに永住することを決めたとの話だった。
「ゾレンには何の未練もないし、ゾレンでは自分に居場所はないと言っていたわ」
「何だ。ちゃんと色々、話してるんじゃないか」
「それはそうよ。同行のヒトのことはきちんと、把握しておかなきゃ」
 それでも――と。その新たな護衛が、母国に居場所がない理由をも知る王女は不安げだった。
「アラクは何も覚えていないらしいけれど。十七年前の、ゾレン西部の大災害……そのことをもし、アラクが思い出してしまったら。私はその時、対応できるのかしらって……それが不安になるのよ」
「……」
 その話については少年も、新たな護衛と一度会った時に、否応なく観えた少年との繋がり――事実をそのまま教えられていた。
「思い出したら、ショックで暴走するんじゃないかにょろ。いわゆるトラウマだにょろ」
「暴走という意味でもそうね。本当に、私を守るためなら何でもします、という感じなの。その辺はキラと似ているけれど――アナタ達化け物さんはどうしてそう、一途なのかしら?」
「……」
 少年は少しだけ、その発言に不服があり、
「俺は――何でもするのは、無理」
 先刻の護衛失格の件も含めて、と暗に訴える。

「でも、思い出すことはないって話だろ?」
「……そうとは聞いているけれど」
「一度死んで、化け物の力で生まれ直した。それで真っ白になったなら、アイツは本当に……生まれ変わったんだろ」
「そうだと……いいのだけれど……」
 その名も力も、第五峠で新たな形を与えられ、自らディレステアを守ることを望んだ化け物。約束のためだけに動く少年とは、近いようで遠い、同系統の化け物だった。
「とりあえず……俺より使えるのは確実だし」
 そう? と不思議そうにする人間の王女に、うんうん、と抜け殻蛇も同意を告げる。
「キラより大量の敵の相手ができるにょろ。そういう意味でライザの代わりにもなるにょろ」
「でもキラは、一対一ならかなり強くない?」
「いや――……今日の奴らはそれでも多分、手こずると思う」
 って? と、咄嗟に話が掴めない王女に、
「男の方はかなり、力に余裕ありそうだし。でもそれより女の方。あの女、何か隙がない」
「ちょっとキラ……それって……」
 ヒト殺しの少年は当たり前の話として、常に観察しているものを伝える。
「殺し方がすぐわからないなんて初めてだ。何者なのかな、あの女」
 初見で相手の弱点を看破できる直観。「剣」たるヒト殺しには、当然の対応だと王女もわかってはいるだろう。
「……あのねぇ。親切にしてもらっている段階で、殺し方を考えているってどうなのよ、それ」
「相変わらずキラは危険人物だなにょろ」
 そうした、天性の死神である少年に、大きな溜め息をついた真っ当な人間の娘だった。

「まぁ……私も早々、そんな甘いことは言っていられなくなるかもしれないけれど」
「――?」
「今日ね。久しぶりに、銃を撃ってみたの。シヴァといる間は、結界の中では使えない物だから、出していなかったのだけれど」
 弱い人間には本来必須なのが、その飛び道具だ。人間の王女は昔から扱いには長けているようだった。
「私もやっぱり、シヴァにばかり頼ってちゃダメだな、って。せめて自分の身くらいは、少しでも自分で守れる手段を持たないとね」
「……」
 王女の声は当然、ずっと横たわる忍の少女に届いているが、
「シヴァ、聞こえてる? 私は大丈夫だから! だからちゃんと、自分のことを心配してよね!」
 それでもその、気丈な親友の声にすら、今の少女は何も応えられないようだった。


+++++


 気配探知の下手な少年は、ほぼ一睡もせず、「壁」の力を消した忍の少女の代わりに見張りを引き受け、夜通し慣れない気を張っていた。
「キラは気配探知とか、上手かったけど……エア母さんは、更に凄かったな」
 千里眼の異名を持った、人間である育ての母。その実態は広範囲に渡る気配探知能力だと、育ての父が教えてくれたことがあった。
 本来、化け物であれば、気配探知は人間の五感並みに常備された感覚だ。人間にはその感覚が全くないか、あっても弱い。近いことをしようとすれば忍の少女のように、「壁」の力に合わせて自身の気を張り巡らせ、それに相手を引っかけてようやく可能な所業だった。
「でもコレ……疲れるよな……」
 化け物なのにその感覚が弱い少年も、気配探知を重視するなら集中して気を張らなければいけず、才能だったとはいえ始終そんなことをしていた育ての母や、忍の少女が消耗したのは当たり前に思えた。

――ユオンはその方がいいわ。アナタの感覚は、そうでなければ、きっと……。

 育ての母は、直観という少年の勘の良さを思い、気配探知は鈍い少年に、むしろ安堵していた。

「そうだな。オマエさんのその直観だと、コレやってると、情報量多過ぎて疲れるだろ」
「……――」
 入り口の壁にもたれて座り、気を張っていた少年に、唐突に緋い人影が笑いかける。
「しかもその脆弱な自我じゃ、自他の境もすぐにわからなくなる。違うか?」
「……?」
 少年にとっては、もう慣れた相手である緋色の髪の男。小蛇もどき達を借りる代わりに通行証を一つ渡した相手が、未明の空気の中で自然に立っていた。

 既に空の端は明るみ、鳥の声がし始めた森で。
「……今回は遅かったな、アンタ」
 いつも、少年が一人の時にふっとやってくる暇な大使の気配を、本日は先んじて探知し、外に出ていた少年だった。
 大使はハハ、と笑い、行動を読まれていたことに納得しているらしい。
「ま、オレもその辺、少年のことは言えないけど」
「――?」
「オレも自分が、蛇なのかオレなのか。結構前にわからなくなっちまったからな」
 薄暗い空を見上げているせいか、大使の笑顔も何処か、いつもより儚く見えた。
 同時に、昨晩の連絡の最後、抜け殻蛇がした他愛もない話をうっすら思い出した。

――オイラはいつも……空を見ていたにょろ。

 今日は確実に、大使を待っていた少年に、あえて大使は確認をかけた。
「少年。オレが来るってわかってたのか?」
 自他の境界があやふやな少年。大使の先の言葉を認めることになりそうだが、少年は応える。
「シヴァが不調だから。だからそろそろ、アンタも絶対に来るって」
 それは、少年自ら抱いた想いか、それとも大使が発している心だろうか。
 たった一人で熱い何か――生き物から熱を奪う青い炎を抱え、苦しげな紅い目で耐える黒い鳥へと互いが抱く想い。
「アンタも本当、暇なことしてるな」
「いやいや。今回はまじで、休暇中だぜ」
 少年が何処にいても、大使は突然現れてくる。
 とにかくソレは、忍の少女の安否を考える部分は共通なのだ。少年自身の心かどうか、境はどうでも良かった。それで無警戒に、いつも不真面目なレジオ大使――第四峠の緋色の髪の男を少年は迎えるのだった。

「なあ……」
 そして何故か、不意に心細くなり、大使をぽつんと見返していた。
「ずっと、変な水の音が聴こえるんだけど」
「――?」
「多分、コレをやめれば聴こえなくなるけど。これって何でか――アンタにはわかるか?」
 その音は、見張りを始めてから急に感じ出した。洞窟の近くに川はなく、どうしてなのかさっぱりわからず、戸惑っていたことにも急に思い至る。
 大使はふむ、と、少し考え込んだ様子だ。しかし少年の肩に乗る青い小蛇もどきを一瞥(いちべつ)し、労うような顔を見せた。
「少年。オマエ、海って見たことあるか?」
「……覚えてる限りでは、全く知らない」
「そうか。オレは『火の島』出身だし、特に違和感はなかったけどな」
 変な水の音。「海」を知らない者には、そんなに変な音に聞こえるのか、と大使が笑った。
「これはオレの抜け殻の一つ――『言葉』がずっと、聞いている音だよ」
 少年に突然聞こえ始めた「変な水の音」。
 そのカラクリはおそらく、少年が気配探知の気を張ったことで、肩の青い小蛇もどき「声」に届く情報を感じているらしい。連絡事でないので「声」は口にしないが、抜け殻達は関連した名を持つ他の抜け殻と、様々な情報を共有するようだった。
「そっか。オマエさんは、本気になればそれもわかるのか」
 その情報をまさか、外側から少年が感じ取るとは。思わぬ直観の展開に、大使は何か、改めて良からぬことを思いついた風でもあった。

 とりあえずそれについては、今は気にしないことにした。
「アンタさ……何で俺達に肩入れするんだ?」
 特に俺とシヴァに――と、少年は淡々と問う。
 この大使は基本、面白いと思う方向に動いているのはわかる。大使という仕事に課される責務に比べて、少年達に関わる時の大使の行動だけは、何かの強い想いに根差している。
 少年にはそんな真意を隠せないことを、最初に会った時から大使は感じていたと観えた。
「オレはね。基本、天邪鬼なんだよ、少年」
 少年がそうして大使の心情を語れる、数少ない相手であることを楽しむように、嫌味なく平和に笑う。
「王女様なんかは、放っておいても楽しめるけどな。少年をこの国によこしたことと言い、英雄を探させようとすることと言い、甘過ぎること、この上ない」
 それを(わら)うでもなく、認めるでもなく。ただそれが楽しいのだと、大使が繰り返し頷く。

 少年には相変わらず、大使のそんな気持ちは全くわからないが、
――いい、キラ? ゾレンにいる間は、無闇に殺さないでね……その必要は無いんだから。
 死神の才能を持つ少年に、情報収集をさせると決めた王女の真意。その一つには、少年を流血から遠ざけたい甘さがあるのは知っていた。
 少年に死神の役割を求めながら、なるべくその機会を減らそうとする人間の王女。少年からは矛盾しているように思うが、王女の中では整合性がある事らしい。きっとそんな複雑さが大使も楽しいのだろう。
「それでも、あの和平交渉の決裂から本気で、ディレステアに生還したから大したもんだ」
 第四峠討伐隊の責任者を任命された若き王女。
 実際に指揮をとっているのは当然ながら、戦場に慣れている将軍達だが、
「あの王女様なら、このまま頑張れば、いい統率者になれるだろうよ。将来有望って奴だ」
「……」
 人間の王女と忍の少女の正体を知りながら、大使はそんなことを口にする。首を傾げる少年に、相変わらず嫌味なく、困ったようにも見える顔で笑った。
「でもオマエさんやシヴァちゃんは――多分、誰かがツッコミを入れておかないと。あまり面白くない方向に、突っ走りそうだからな」
「……?」
「オレもこれ、蛇の感傷だかオレの思いだか、正直わからないんだけどな。バカな奴ほど、少しくらい、要領良くさせたくなるんだよ」

 それが少年の問いへの、大使なりの答。あまり意味のわからない少年ではあったが、嘘でないことだけは感じたのだった。
「親心……ってわけでもないんだな」
「ないな。趣味と実益を兼ねてって奴だ」
「……シヴァのこと、好みって言ってたもんな」
 少年はしばらく、両手を組んでうーんと悩む。入り口から洞窟の奥を、護衛としての思いで本気で迷いながら見つめる。
 それでもここは、大使を使えば解決が早い、と、まもなく結論に至った。
「……行けよ。シヴァなら一番奥で、ずっと寝込んでる」
 先程までの問いは、少年なりに、その是非を決めるための確認だった。
「さっすが。状況わかってるな、少年」
 何処か安堵したようにも見える顔で、大使はそう言って洞窟の中に入っていった。

「……」
 少年は再び、入り口の壁にもたれて座り込む。薄明るい空を見上げてみたものの、気分は何処か、体の奥からそわそわとしていた。
 ずっと張り続けている気の効果か、洞窟内の様子は、まるで手に取るように感じられていた。
――よォ、生きてるか? 青炎の氷の君。
 護衛としては、その気配探知を止めるわけにはいかない。他にも周囲に存在するある違和感と、この後に想定される状況に、大きく息をつくしかなかった。
「シヴァ……怒るかな……」

 洞窟内では忍の少女――黒い鳥が、大使の急な来訪に当然驚いていた。
――どうやら洒落にならない状態みたいだな。もしも解決策があると言えば、きくか?
 その申し出に、必死に上半身を起こす。両手を地について体を支えながらも、厳然と強い意思を持つ紅い目で、きつく大使を見返していた。
――薬を待つ方法もあるけどな。それじゃ、根本的な解決にはならない。
 黒い鳥が今後もずっと、その地獄の青い炎を使い、戦っていくつもりであるのならば。環境に左右されない鳥自身の耐性が必要だ、と、大使は化け物としての所見を、笑み一つ浮かべずに真面目に口にする。

 黒い鳥は、その是非を熟考する余裕は皆無だった。
 ただ、これまでにない大使の真摯さに、ゆっくり強く頷いていた。

 本当に大使は、少年にも全く見せたことのない、遊びのない顔付きで問いかけている。
――嫌なことでも……我慢できるか?
 別に難しくも、長くかかることでもない。
 ただそれは、黒い鳥にはおそらく辛いことだと、大使が諭すように確かめている。
 黒い鳥――忍の少女は、はっきりと答えた。
「――強くなるためなら……何でも、する」
 熱に浮かされた状態においても、確としたその意思。気強さを失わない声でそう答えていた。

 忍の少女の答に、大使はいっそう厳しさを増した表情で両眼を鋭くする。
――そうか。なら……その覆面だけは、取ってもらえるか。
 大使は既に、忍の少女の正体を知っている。
 わかっている少女は、それが必須と静かに言う大使に、黙って小さく頷き――

 ふわり、と。
 長く閉ざされていた覆面の下から、夜空の月のように慎ましい金色の長い髪が現れる。
 冷めない熱に侵されてしまい、苦しげでありながら、意志の力で苦悶を噛み殺している。凛として在り続ける、ヒトを越えた魔性の紅い目。
 常ならぬ厳しい雰囲気を纏っていた大使が、思わず呼吸を忘れた。
 息を飲んだ気配を、黒い鳥はただ、熱に潤んだ紅い目で見つめる。
 それはおそらく、無意識に救いを求めるように、大使の男の金色の眼を見ながら震えていた。

 男は片膝をついて目の高さを合わせ、少女の額に手を当てて、その熱の量を確認する。
――それじゃ……少しの間だけでいいから。目、(つむ)っててくれ。
 男の方も覚悟を決めて、真剣そのものの眼で、それだけ指示する。
 少女が言われた通りに、その紅い両目をしっかりと閉じた――僅かに後のことだった。

「――やばい」
 洞窟の奥と多少距離がありながら、真っ先にその危機に気が付いた少年は慌てて、洞窟の入り口から離れた。

 そして、数瞬後。
 ともすれば、朝の日差しも吹き飛ばしかねない程の爆熱が、派手な爆音と共に洞窟から噴き出したのだった。
「こ――こっ……!」
 一瞬の暴発の後、すぐに洞窟に駆け入って、少女の安否を確かめに来た少年の前で。
「このっっ――……不届き者――!!!」
 わなわなと、全身を震わせる黒い鳥。溢れる感情のあまりか、母語である古語で激昂しながら壁を背に立ち上がっていた。
 爆心地でボロボロに眼を回している大使を、少女は涙目で睨みつける。
「うあー……こりゃ、熱いわー……」
 全くもって、想定通りの状況。少年はあえて、
「……シヴァ。元気になったのか」
 呑気に無表情に声をかけたが、忍の少女がぎん、と涙混じりで光る赤い目を向ける。
「いやー。この熱は確かに、オレでもちょっと胃もたれするな?」
 そう苦笑しながら、何とか座り込んで鳩尾(みぞおち)を押さえ、大使が土埃を払う。
「ソリス大使……! これは何のつもりか、この不届き者……!」
 ぶるぶる口元に両手を当てている忍の少女に、果たして何が起こったのか。
 大使のおそらく偉い所には、「我慢するって言っただろ」などと口にせず、少女がその方法を想定していなかった衝撃に理解がある点だと少年は呆れる。
「しかも何――何をいったい呑ませ……!?」
「いやまぁ……嫌なことは、一回で全部済ませた方がいいだろ?」
 ボロボロに焦げつつ、そんな風に大使が苦笑する。遠慮なく感情を爆発させた少女への甘さに、つくづく首を傾げる。

 この大使は少し前にも、少女からこうして爆熱を受けたことがある。その時の感想は「あちち」の一言であり、今も消化不良はありそうながら、けろりとしていた。
「これで、熱はこもらなくなったと思うぜ。今後は遠慮なく、何処からでもいくらでも、好きに熱を奪えばいい」
 本来あの距離でそんな密度の熱を受ければ、蒸発してもおかしくない力だ。それでその程度のダメージで済む大使には、何がしかの先天的特性――熱への耐性があるようだ、と少年はわかっていた。
 それなら少女の熱は、大使に引き受けさせれば解決する。
 方法については任せる、と目を瞑り、大使の意図に気付きながら止めないことにした少年が、ある意味一番の鬼だっただろう。
「っっ……!?」
 確かにすっかり不調の消えた体に、忍の少女も気が付いていた。しかしその喜びを遥かに凌駕するショックに、未だに支配されている。
「シヴァ、顔――……」
 そのために少年の声は、動揺し切る少女には全く届かず。

「……あれ。シヴァ、その目、色――」
 少女のある変化に、少年も不意に気をとられた。だから再び顔を隠すように、少女に忠告を伝えられる前に――
 その少女の姿を、最も見られてはならない者達の乱入。
 一日かかる、と言った彼らの、思ったより早い到着も少年の想定外だった。
「どうしたんだい!? 今の爆発!」
「何があった!?」
 少年も大使も、対策をとる隙がなかった。
 洞窟へ飛び込んできた二人の化け物が、黒い鳥の本来の姿を前に、言葉を失っていた。

 忍の少女が事態に気付いた時には、既に遅く、
「な――……」
 化け物の男が、その赤い目の少女を見て驚愕する。
「アヴィス――ディレステア……!?」
 ディレステア王家特有の、(さや)かな金色の髪。少女がずっと、黒く身を隠していた理由。
 人間には本来ない色であるが、古代の血筋の証明であると謳われる、赤く光る天上の鳥の目。
 彼ら化け物の敵対国において、主導者たるその真の名を、間違うことなく化け物男は口にしていた。

 そんな化け物男を、少年は暗く澱んだ目色で見据える。
「見られたからには――殺す」
「――!?」
 少年のその速攻に、咄嗟に対応できた非凡な化け物は、強く動揺しつつも鞘をつけたままの剣で何とか受け止めていた。
「ちょっとクエル――……キラ!?」
 驚く付き添いの化け物女に構わず、まず殺し方を把握していた化け物男の方へ、問答無用で少年は斬りかかった。
 少年は、化け物男を殺しにかかりながら、
「シヴァはそっちの足止めをしてろ!」
「えっ……!?」
 その声に、この二人の化け物を必ず始末する意志を、真の王女も悟ったらしい。
「ちょっと――ちょっと待って……!」
 あまりに色々なことがあった中、今も理性が取り落とされた状態。
 茫然として真の王女を見る化け物女に対し、同じように呆けることしかできていない。

 少年から襲われた化け物男は、何とか対応できる強大な化け物の力と技量を最大に駆使していたが、
「全くだ、ちょっと待てよ――!」
 それだけ大きな「力」の主でなければ、最初の一瞬で仕留められていた。更には相手は、
「――……!」
 弱点を狙う少年の殺撃に、化け物男は何故か見事に対応してくる。互いの剣から力の火花だけでなく、激しい衝撃の波までが場に吹き荒れる。

 そうして、半分解呪されたことで、これまで程には少年を強く隠さなくなった赤い呪い――
 黒いバンダナがその衝撃の波に、少年の頭からはらりと地面に落ちていった。

「――!!?」
 人間の国の王女を知る化け物男が、先刻より更なる動揺を見せた。
 それは今まで見えていた赤い目の少年が、突然青い目に変貌したことだけではなかった。
「そんな、オマエ――……!?」
「クエル!?」
 異変に気付いた連れが危機を感じた通り、化け物男は激しく混乱していた。これ以上化け物の力を使われる前に、少年は全力の命を躯体に巡らせる。
 黒い鳥の向こうの化け物女は助けには入れない。
 下段から疾走し、一気に決着がつくと思われたその時だった。
「やめなさいっっ……!!」
 そんな少年を、とにかく一度、ただ止めるために。
 咄嗟に化け物男を庇う間合いで、黒い鳥が捨て身の無我夢中さで間に出ていた。

「――!?」
 現状把握に優れる直観の少年は、ぎりぎり空を斬って王女を傷付けずに済んだ。
 それでも絶対のチャンスが不意になり、不可解な思いで王女を見る。
「やめなさいキラ! やめて!」
 わけもわからず、というよりは、その必要性を受け入れられなかったのだ。突然命を狙われて驚愕する化け物の男女の前へ、理性を手放したまま最速で出てしまった王女だった。
「――」
 少年は王女の混乱を改めて悟る。
 まずどう落ち着かせるか考えざるを得なくなった、その僅かな迷いの隙間で。

「ユオン! オマエ、ユオンだろ!?」
「――……?」
 まだかなり動揺しているが、それでも少年をしっかりと見た化け物男が、突然大きく声を上げた。
「おれだ、キルだ! 覚えてないのか!?」
「クエル……! その名は隠さないと……!」
 化け物男の元まで駆け寄った連れの制止にも、全く構わずに少年に掴み寄る。

 攻撃できないので胸倉を掴まれた少年に、直前に引っ張られて背後に回された王女も、化け物男が口を滑らせた名に殴られたような衝撃の顔をしていた。
「キルって――まさか……」
 天性の死神たる少年の急襲に、対応できた尋常でない化け物。その大きな力と類稀なる剣の腕。
 ゾレンの化け物の中で最上級だろう強さの理由は、一つしかない。王女の正体にすぐ気が付いた理由も、それなら納得がいく、と真の王女が悟る。

 王女の真の名を口にした化け物男へ、まるでお返しかのように、
「キル……キル・レオン・Z―――」
 ゾレン出身である英雄から、かつて聞き覚えていた名前。現ゾレン王の唯一の子の名を口に、王女は根性で冷静さを取り戻した。
「……!」
 そうして自身の正体を明かす状態となってしまった王子も、いくらか頭が冷えたのだろう。まだ剣を下ろさない少年に対して、剣を握り締めながらも、冷静な声で口にした。
「お互い……相当な因縁とお見受けする」
 その後、王子は心底からまっすぐな灰色の目で王女を見つめる。
「しかしどうやら、話し合いの余地もあると見るが、いかがか? ディレステア王家の者よ」
「……!」
 そうして、王女も少年も思ってもみなかった、化け物らしくない提案をしてきたゾレン王子だった。

◇⑤◇ 化け物の王子

 その二人の化け物が現れてから、緋色の髪の大使は完全に蚊帳の外となっていた。
 少年達に渡していた黄色い抜け殻と同じ、もう一つの「耳」らしき小蛇もどきを取り出し、おもむろに話しかけ出した。
「あー……ちょっと、今は、本気で困ります」
 そうして少年と化け物男が剣戟の火花を散らしている中、何者かとそんな会話を始めていた。
「取り込んでますから後にしてもらえますか。というかいい加減、オレもこの軟弱ぶりじゃ身動き取り辛いんで、このまま大使やらせるつもりならそろそろアイツら返して下さい」
 緊迫した場にそぐわない会話。相手は同じレジオニスと言い、ゾレン国内で何をしているのか、と思われて当然だろう。

 そのせいか、ゾレンの王子たる化け物男は何より先に、その不審な大使に尋問を行っていた。
「何しに来た、って……ただの休暇だけどな?」
 狭くも広くもない洞窟の中で、敵対国の王子と王女が向かい合って地面に座している。その背後で、化け物女と少年がそれぞれ、守る対象の傍らで洞窟の壁を背にして立っていた。
 流暢なゾレンの言葉を操りつつ、不真面目でしかない大使の返答に、王子が濃い灰色の目を強く歪めた。
「レジオニスたる男が、そんな間抜けな話があるか。ククル・Q・ソリス、貴殿はいったい何を企んでいる」
 何故か王女と王子から斜めに囲まれている大使は、双方からの厳しい眼光に、たはは、と笑う。

「……」
 王女のそばで、気だるげに壁にもたれる少年は、外れ落ちてしまった黒いバンダナを腕に巻き直していた。
 王女のたっての命令なので、ひとまず剣は一度収めたが、それでも殺気を隠す気はなかった。
 そんな少年をちらりと見る王子や、明らかに警戒の目を向ける化け物女をずっと無視し、腕を組んで立ち続けていた。

 不審者筆頭の大使がまだまだ、不誠実な弁明を続ける。
「だから、通信術先は第三峠にいる上司で、いつも通りにねちねち小言を言われただけだし。ゾレンに来たのは、休暇中の観光だって」
 そこで知り合いの少年達に会い、体調不良の相談に乗っていたんだよ、と。
 呆れることに、実はあまり嘘のない内容を、しれっと口にする不遜な大使だった。
「……」
 王子はその大使を無遠慮に、嫌そうな目で見定めようとする。
 ゾレンにとって、警戒すべき相手は本来、ディレステアだけではない。ゾレン北東に位置するエイラの中立維持集団で「純血」の「レジオニス」こそ、ゾレンの「雑種」とは相容れない化け物として、互いに牽制し合う長い関係だった。

 しびれを切らした王子が、一際大きな勝負に出ていた。
「あくまで休暇で、しかも観光と言うのなら――その証として、通行証を見せていただこう」
「お?」
 王子のその要求に、黙っている王女がぴくりと眉をひそめる。
 ゾレンに彼らが潜入する密談をした際に、大使に貸した通行証は、明らかに大使のものではない。通行証の譲渡・貸与はゾレンでは死罪であり、それは異国者の大使も例外ではない。
「この不穏な時期に、しかも渦中である第四峠の大使が我がゾレンに入国するからには、然るべき手続きを踏んでいなければ軍が認めるわけがないだろう」
 王子の言う通り、ゾレンに入国するための通行証発行は、主にゾレン軍の管轄となっているのだった。
「渦中と言っても、うちのレジオニス大使館は、ディレステア側にあるんだけどな?」
 だから今、ディレステア軍が集うエイラとは何も関係ないけど、と、それも嘘ではない言い草に、王子がついに声を荒げた。
「とにかく! 我がゾレンを脅かすレジオニスの先兵である貴殿を、信用しろという方がおかしい!」
「そりゃ、中立維持者としてはなぁ。ゾレンばっかり味方してたら怒られるだろ」
「いいから通行証を出せ! それさえ出せば、何処へなりと行けばいい!」
 つまらない案件は早く終わらせたいのか、王子は苛立って言う。

 やれやれ、と大使が、軽く息をついていた。
「ほいよ。さっきのアホ上司が、早い所また連絡よこせと煩いんで、手短に確認頼んますよ」
 その小さな、お守りのような石。大使がつまむ「通行証」を受け取った王子は、化け物女が魔道で起こした灯りの下で照合を始める。
 小さな石の前面には、ゾレン軍の職人が誇る精巧な細工で、「ククル・Q・ソリス」のフルネームが刻まれていた。
「…………」
 何処からどう見ても、その通行証は生粋のゾレン軍製で、大使自身に発行されたものだった。
 王女も意外そうで、同時にほっとしている様子が少年には見えた。それなら少年が大使に渡した通行証はどうなったのか、と考える余裕はないようだった。

 その通行証を目にした王子が、悩ましさを前面に出して、苦虫を噛み潰したような顔となった。
「軍部の奴らは……いったい何を考えているんだ……」
 持っているくせに出し渋ったのも、完全におちょくられている。こんな怪しい奴に入国許可を出すなんて、と王女も思わず頷きかける、真っ当な心情を述べていたのだった。

 そして大使は、上司とやらとの連絡のために洞窟の外へと出て行った。
 ようやく本題だとばかり、王子がまっすぐ王女の方へ向き直った。
「――まず、礼を言おう。ディレステアの気高き王女よ」
「……え?」
「仮にも敵国の者を、己が護衛から庇うような見上げた心柄。そして不勉強なこの身に対して、ゾレンの国語で話し合いに応じていただいたこと」
 化け物男はすっかり腰が据わり、王子たる風格を感じさせる口調だ。しかしゾレン語以外の言語には全く通じないらしい。
「私もそう……上手くは話せないわよ」
 王女も片言のゾレン語では、どうしても喧嘩を売る口調と厳めしい顔になる。自身の至らなさに不服といった、複雑な顔で場に向かっていた。

 少年はただ、冷たく暗い色の目で、成り行きだけを黙って監視する。
「……」
 現状は間違いなく最悪だった。生まれながらに、化け物の力――黒い鳥の翼を持っていたために、忍の少女は王女であることを自国者にすら隠してきた。
 人間の娘は、代行の王女として守るべき相手で、よりによって娘と離れた敵国で王女と知られてしまったのだから。

 そんな裏事情を知るはずもなく、王子が対話に臨む。
「王女がゾレンに秘密裏に入国された経緯は、当然ながらお話しいただけるとは思っていない」
「……」
「しかしどうやら、我々に対する挙動を見る限り、王女の真意は、敵意の元での行動とはあまり思えない」
 その所感は、王女が少年から王子を庇ったことだけではなかった。
「あれ程不調の身となってまで、王女自らがゾレンを訪れた理由……危険であることなど、口に出すのも馬鹿馬鹿しい程、無謀な行為だ。おれは今まで、そこまで強い思いを持って行動する人間を見たことがない」

 厳密には「壁」という、化け物の「力」を持つ王女ではある。それでも、ディレステア王家の者である事実は、王子には確信があるようだった。
「信じてもらえるかどうかは、わからないが。おれはライザ・ドールドからずっと以前に、ディレステア王家の話を聞いたことがあった」
「……!」
 王子が出した英雄の名に、王女が思わず息を飲む。
 息子である少年は何も感じず、変わらず場の様子を観察する。
「ライザ・ドールドをおれは実の親のように尊敬していた。その彼がディレステア王家を、気高く慈悲深い、信念のために危険も厭わない勇敢な人間であるといつも言っていた。そしてそれは、真実だったと……やはり、裏切ったのは我が父の方であると、再び思い知らされた気分だ」
「……」
 英雄ライザは本来、現ゾレン国王が和平派であった頃、かなり厚い信頼を得ていた。しかし国王はいつしか急進派へと傾き、王子から見ても人が変わってしまったという。
 今でも王子は実の父より、英雄を信じたい思いでいるのだ。それほど慕っていた相手なのだと、とにかく話したいようだった。
「おれは……元々、ライザのおじさんとは、家族ぐるみで付き合いがあったんだ」
 王子はあえて砕けた口調になると、今度は少年をまっすぐに見る。
「たとえユオンが覚えていなくても、おれは、ユオンのことも実の弟のように思っていた」
 だから先刻、王子は一目で、バンダナを落した少年が誰かわかった。少年と王子が別れたのは、少年が五歳の時だったというのに。
 けれどそれは、少年が英雄似なことが大きいだろう。あくまで冷たい目を向けると、憂い気に目を伏せる王子の肩に、化け物女がそっと手を置いていた。

 そうしてこの話し合いの真の目的について語るために、改めて王子が王女に向き直る。
「そのユオンや、ライザ・ドールドがそこまでに守ろうとする、ディレステアの気高き王女よ」
「……」
「互いに敵対国の王族とはいえ……今回だけは、王女がもしも、ゾレンを黙って出るというのなら」
 王子はおそらく、王女に庇われた恩義もさることながら、
「ユオンをゾレンに残していくことを条件に。王女は無事に、ディレステアに帰すと約束しよう」
 それが何より、王子には重要であると。不法入国した敵国の王女を見逃す条件として、そう提示してきたのだった。

 王女たる少女は、その時、理不尽に思える程の動揺を見せた。
「……――」
 少年に振り返り、赤い目を大きく見開き、衝撃を隠さず王子を見つめる。
「それは……何故?」
 王子が少年を目にかけていたことは、今までの話でわかっただろう。
 それでも今このゾレンで、少年の居場所があるとは王女には思えなかったらしい。王女としてより、ただ感情的に尋ねていた。

 真の王女がそうして甘い性格であることを、少年はとっくに知っていた。
「――」
 口に出してしまってから、王女がぎりっと歯を噛み締めている。この国に来てからは本当に、冷静でなくなった自身に気付いているのだ。
 不法入国を見逃す、という敵国の王子。王女の身を第一に考えるなら、少し前の英雄と同じように少年を差し出し、王女だけでも無事に帰国するべき事態なのだから。

 取引を持ちかけた王子は、何故という王女の問いに面持ちを正す。
「それが誰か、今は言うことができないが――おれはユオンに、会わせなければいけない者がいるんだ」
 少年の身柄を求める理由。その一端を慎重に、この場で口にできる最大限を答えて王女と少年を見ていた。
「――」
 王女が咄嗟に気になってしまったこと。それは決して、少年に悪い話ではないのだと。
 この誠実な化け物らしい王子の話は、真に厚意であると。

 大きく混乱している王女に代わり、少年はここに来て初めて口を開いた。
「……問題外だ」
 あくまで冷静に、暗い色の目の下、王子達を見もせずに言った。
「無事に帰す。護衛を失った王女を。何処にそれを信じられる根拠がある」
 何の感情も載せない声を出す。王子が強く眉をひそめ、思わずその名を呼ぶ。
「……ユオン」
 そもそも少年は話などする気はない。だから応える義務もなかった。
「王女はデスリーに送らせよう。何かあればおれの権限で、決して誰にも手は出させない」
 それに、と王子が、厳しい声色をようやく出した。
「そうでなければ王女に、自国に帰れる幸運などない。その危険さを承知でオマエ達は、この国に足を踏み入れたはずだ」
「……」
 だから少年が、ここに残ることが最良の道。あくまでそう諭す王子の灰色の目には、厚意だけでは世は回らない、と現実的な非情さも浮かぶ。

 王女はますます、取るべき道がわからなくなったようで、何も言えなくなっていく。
 少年は、ああ――と……初めて、同意の色を示した。
「確かに危険だな。この状況で王女を、必ず国に帰せる自信は俺にもない」
「ならば――」
「けれど同じことだ。アンタ達にはアンタ達の都合がある。今ここでどれだけ強く、王女を無事に帰す、とアンタが誓ったところで――」
 どの道とっくに、状況は最悪だとわかっていた。
 ようやく少年は真剣に、その暗い色の目を王子に向ける。
「アンタはディレステアの王女に――その約束に、命をかける馬鹿な真似はできない」
 もしもそれ以上に、王子が大切な何かを守るべき事態になったとしたら、そんな約束は露と消える。その現実をただ少年は見据える。
「こうなった以上、そもそも最良な道はない」
 再び剣を抜き、黙って座した王子に切っ先を突き付ける。
 それが少年の答だった。今の王女に、何かを決断させるのは無理で、特別決断しろとも思っていなかった。

 沈黙を守っていた化け物女が前に出た。
「このっ――アンタねぇ……!」
 場を見守っていた化け物女は真っ先に、その敵国者の歪みに踏み込む。
「呆れたバカを護衛にしたもんだ。アヴィス・ディレステア、あんたの方はどうなんだい」
「――」
「決めるのはあんただろ。クエルはあんたに話してるんだ」
 化け物女の反論は、可能な限り怒りを抑えた、至極真っ当な意見だったろう。
 だから少年はあっさり、有り得ないことを口にする。感情的な王女が何か、余計なことを答えてしまう前に。
「俺はそいつとは何も約束してない」
「――は?」
「俺が守るのは違う約束だ。そいつを国に帰すのは、そのついでに必要なだけだ」

 少年は、王女が少年を差し出す選択をしたとしても、それには従わない。そう言っているのだと、体をすくめた王女も理解しただろう。
 命がけで王女――黒い鳥に付き添う者が、少年以外にないのであれば。少年にとっては、黒い鳥の立場や意志など重要ではなかった。
 初めからこの関係は、主従とは違う。化け物女と王子にはおそらく理解の難しい決意を、迷わずに貫く。

 そうした少年の宣言に、王子は何かの覚悟を決めたようだった。
「ユオン……おれは、オマエを知っていると言っただろう」
 それもこれまでにない冷たい声色で、王子もぎらりと、今度は迷いなく剣を抜いた。
 対する少年には、本当にその記憶はない。何の感傷も浮かばず、見知らぬ王子を見返す。
「俺はキラだ。アンタ達のことは知らない」
 それも別に、何の問題もない、と暗く笑った。
「たとえ知っていたところで――そんなことは関係ない」
 相手が知り合いであろうがなかろうが。
 少年はただ、自分が決めた約束のためにだけ動く。ずっとそうしてきたのに、何を今更の話だろう。それを思い知らされたらしい真の王女が、顔色を引き締めていた。

 下がれ、とだけ口にする。この場で何の権限もない王女――黒い鳥は、黙って従うしかできないようだった。


+++++


 二人の剣士が長い剣を振り回せる程度には、その洞窟は辛うじて広かった。
「……!」
 しかし取り出した剣を、王子は防具としてしか使わない。代わりに主たる攻撃手段は、王子の絶大な「力」に変わっていた。
 一度王子を殺し損ねた天性の死神は、自身の完全な不利をすぐに悟る。

 王子は最早、少年と真っ向から剣戟を交わそうとはしていなかった。
「これを避けるか――つくづく難儀な弟だ」
 ゾレンという化け物大国において、王者として認められる強さを持つ化け物の血。
 まるで針のように尖った、何十本もの透明な杙。周囲に気を張り、王子の「力」を観んとする少年にはそう感じられた。
 肉眼では見えない間欠的な集中砲火が続く。一つでも当たれば致命傷だろう杙の直撃を、空気の振動だけを頼りに避ける。五感を研ぎ澄まし、転がり回るのが精一杯だった。
「言っただろう。おれはオマエを知っている」
「――」
「たとえ卑怯と言われようが、オマエのような感覚の主と、決して近接では戦わない」

 弱みだけを狙う少年の戦法に、王子は慣れたような動き方をする。
 少年が何とか間合いに入った時も、その殺撃を巧みに防ぐ。
「オマエは決して、おれ達には勝てない」
 少年の死神たる天性を、本当に知っているのだ。遠隔攻撃に徹する王子に、少年は暗い目を歪め……そのままただ、呼吸を止めた。

 戦いに巻き込まれないように距離をとり、結界も張った化け物女と王女が話し始める。
「悪いけどね、アヴィス・ディレステア……あのバカは一度クエルに連れ帰らせて、あの歪んだ根性、叩き直させてもらうよ」
 まっすぐな化け物である女には、半ば王女を虚仮(こけ)にしてまで、独断を通す少年が理解できなかったものと見えた。
「クエルが心配してるだけなのは、あんたもわかってんだろ? 最も……わからなくても、あんたの力で邪魔はさせないけどね」
「……」
 王女が「熱を奪う力」を持っているのを、出会った経緯上、化け物女は知っている。だから「壁」を使えないように牽制されている。
 しかし、どちらかと言えば化け物女は、同情の目で王女を見ていた。
「アタシは、小さい頃のあのバカに会ったことはないけど。クエルからは、とても優しい弟だったって聞いたことがある」
「……?」
 目前で地面を転がり回りながら、ひたすら無情に戦う少年に、顔を歪めながら先を続けた。
「虫を踏んでも、その痛みまで感じるような、鋭い……優しいコだったと言うのに。そんなバカに剣を持たせて、あんた達は何をさせたいんだ?」
「…………」

 少年を護衛――死神とした約束を王女は知らない。そもそも、少年がヒト殺しとなった理由も王女には本来関係がない。
 それを言えばいいだろうに、片言もあってか、王女はろくに反論できそうになかった。赤い両目を歪めて黙り込む王女に、やれやれ、と化け物女は深く溜息をついていた。
「まぁ……アタシ達も、ヒトのことは言えないけどさ」
 それは無意識なのだろうか。この洞窟のある深い森の何処かを眺めるように、宙を見た青白い肌の女だった。 

 化け物女が王女に話した通り、覚悟と私情を王子は両立させている。少年を傷付ける酷薄な形となっても、必ず連れて帰る、と決意していた。
 杙を満たす「力」からも、嫌というほどそれがわかる。それなら少年も切札を解放するしかなかった。
「――!? 何だ、この悪寒は……――」
 少年の死神たる特性は知っていても、ここ最近見出した新たな戦い方のことまでは、王子も知るはずがない。
 呼吸を止め、生き物である躯体を否定する。
 本来は己が身の内でのみ、巡らせていた命。供給を堰き止められた喉元から力が洩れ出し、剣に纏わり、その波濤が荒ぶり始める。
 大量の杙の砲撃を続ける王子への、唯一の対抗策として、少年にも可能な遠距離攻撃をここで初めて放つ。

 降り注ぐ杙を防ぎ、斬り払う剣と共に。悲鳴のような衝撃音で、宙を走る流星のような白光が青年に襲いかかった。
「ぐっ――!!?」
 世界に流れる「力」において、「命」とは原則、全ての力の根源と言える。だからその「力」はどんな力にも通じ、全ての「力」を()げてしまう死神の刃であり――
「そんな――クエルに届いた!?」
 堅固な躯体には通じ難いが、「力」に特化する化け物には直通すると言える。躯体は一般的な化け物の強度である王子には、紙一重で回避しなければ、死滅の匂いを強く感じさせる一閃だった。
「……!」
「……」
 その攻撃ならばやはり、対等に渡り合える。少年はそれを悟り、無機質に剣を構え直す。
 新しい宝剣との相性も抜群だった。王子もおそらく、少年を止めるには全力が必要と否応なく悟っていた。

 王子はちらりと、距離をとって場を見守る化け物女を横目で見つめた。
「悪いがユオン――最早、容赦はしない」
 フォローは任せろ、というように、化け物女が視線に頷いている。
 覚悟を決めた王子が、痛ましい眼光と共に勝負に出た。
「……――」
 それはもう、逃げる場所もない大量の杙の砲火。
 少年は自身の末路を、すぐそこに観ることになる。

 ……まいったな、と、冷静に剣を構える。
 いつかの約束を、まだその目の底に秘めながら。
――私は、私達の敵は……――シヴァの代わりに、アナタが殺してくれたらいいと思っているの。

 少年が逃げられる全範囲を覆う、杙の雲が広がる。
 観えていようが、斬れきれなければ同じこと。厳しい現実が場を染めていく。

 殺すって、誰を?
 わかりきっている結末に、少年は尋ね返す。
――今後、シヴァちゃん達の前に立ち塞がる敵、全てをさ。
 少年に残された役割は、それだけだから――
 少年にとって、この森にあの大使がいた以上、王女を送り帰すのは少年の仕事ではなく……。

 豪雨のように降り注ぐ王子の力。
 即死の刺尖だけは全力で相殺しながら、中枢以外の全身を貫かれ、まさに洞窟の床に釘付けにされた少年だった。

「…………」
 そんな鬼神の如き力を放った王子が、厳しく両目を歪める。
「キラ……!」
 蒼白になった王女の前で、地に伏せる少年の元へと近寄っていく。
 しかし、そこでぐらりと、少年は起き上がった。
「――!?」
 体中が破壊されているのに、また剣を構えた少年に、誰もが信じられない目をする。
「動ける、のか――!?」
「……」
 あらゆる骨と筋が裂かれ、あちこちがズタズタの血肉。背も直立せずに曲がりながら、少年は「命」を使い、無理やりに体の損傷を繋げる。
 勝ち目はないと知りながら、姿勢を取り直し、また白い剣光を纏って青年に斬りかかる。
「キラ、もうやめなさい!!」
「――ダメだ!」
 駆け寄ろうとする王女を思わず、化け物女が止めていた。
「巻き込まれたらあんたもやばいよ! あれは……生き物の命を直接殺ぐ天声の光だ」
 何人も耳を塞げずに届く「力」。魔道に通じる身として概念は言える化け物女らしい。
「本当に何者なんだ、あのバカ!?」
 戦局を慎重に観察する化け物女は、万が一の場合、王子を守る盾になると覚悟を決めていく。

 最早少年の目的は、王子を害することでしかない。
「何故そこまで、おれ達を殺そうとする――ユオン!」
「――」
 己の損壊を顧みず、王女の今後の護衛も度外視している。
 王子は次々と細かい傷を負いながら、少年をこれ以上傷付けずに、振り払うことだけに集中していた。
 おそらくこれ以上少年の躯体を傷付ければ、その命の灯は一瞬で消え、化け物女の魔道で回復させる余地もなくなる。
 少年に対する執着心を逆手にとった捨て身だ。命を盾にされて焦る王子の完全な劣勢だった。

 自らを餌にしてまでも、相手を殺すことだけを望む天性の死神。
 そんな彼らの攻防に、洞窟の入り口から緊張感に乏しい声が混ざる。
「ふむ。これがつまり、泥仕合ってやつか」
「――!?」
 王子が防戦を続けながら、緋色の髪の大使の姿を確認していた。
「それでも別に、オレはいいんだけどな、少年。残念ながら……それだと、氷の君が哀しむ」
 だから仕方ないな、と。
 大使がぱちん、とその指を鳴らす。するとひょこっと、少年の肩の上に、青い小蛇もどきが唐突に姿を現していた。

 血まみれの少年が無機質な目のまま、不可解な思いで顔を向けた次の瞬間。
「ガ……!?」
 王子までもが、ユオン!? と驚き、剣を取り落とす様。
 王子達の前で、その抜け殻は突然少年の口へと突入し、無理やりに喉の奥まで進んだ。少年自身もあまりに想定外で耐え難い展開。

 長い間、普通の飲食物ですら摂れなかった少年は、その衝撃にあっさり狂熱を手放すことになった。
 胸中に侵入する激しい嫌悪。意識を失い、そのまま崩れ落ちたのだった。

◇⑥◇ 邂逅

 自分を心配する話し声が、目覚めていないのに聞こえてきていた。
 ぴくりとも動く力の残っていない少年は、反応できずに力無く横たわる。
「残念だが、この状態の少年には誰のであれ、回復の力は通じない。別に姐さんの術の腕が悪いわけじゃない」
 そう説明する緋色の髪の大使に、魔道に通じる化け物女は、何故か、と食ってかかる。
「コイツは自分の命を削って動くバカな奴でね。どんな回復の力も、実際動かすのは対象の命――相手の残す生命力を活性化させるものだろ」
 少年を傷付けることになっても、彼らはそうして傷を癒し、連れて帰るつもりだった。人間とは違う化け物は、互いの頑丈さへの思い込みがあり、強行に出やすい性質とも言える。
「この状態じゃ、移動負荷だけで少年は死ぬ。そこまで少年は戦い抜く気だったわけだ」
「……!?」
 何の意図か、わざわざ間に入っている大使。そうせざるを得なくなった少年の意図まで明らかにする。
「青年が諦めなさそうだから。勝つか死ぬか、二択に――戦うこと自体を目的にしたんだろ、少年は」
 それではその後、逃げられる余力は残らないとわかっていたはずだ、と大使は言う。金色の眼でちらりと王女を見ながら口にする。
「氷の君がその後どう動くか……誰を優先し誰を敵とするか。それは自分で決めろ、ってことさ」
「しかし――それじゃユオンは、まるで……おれ達の元に来る気はないだけでなく、王女に対しても、邪魔なら自分を切り捨てろ……そう示したということじゃないか」
 その通りだよ、と、大使が冷徹に笑う。
「氷の君が、少年を渡すと決めるか。置いて逃げるなら、別にそれで良かったんだろ」

 少年はただ、王女の敵を殺す約束と、敵になり切らない彼らを敵と拒絶するために戦った。大使はそう言っている。前半はともかく、後半は少年自身、よくわからない見解だった。
 王子達への頑なな拒絶。それはそんなに、おかしい話だったのだろうか。

 王子はぎりっと歯噛みしながら、横たわる少年を心から口惜しそうに見下ろしていた。目を閉じているのに届く光景の鮮やかさが、普段の直観以上で不思議だった。
「……」
 横で王女は、瀕死の少年に止血などの可能な応急処置を施し、静かに付き添っていた。
――俺は、何でもするのは、無理。
 そう言って、自分で決めたこと以外は決してしない身勝手な少年。それへの怒りと同時に、何故か赤い目の奥には、激しい雨に打たれて力無く笑う少年の姿。それが王女――黒い鳥の脳裏をずっと占拠していた。

――……何で、シヴァ……?

 どうして黒い鳥が、ここにいるのか。ずぶ濡れの少年が、涙のような雨滴と共に王女に問いかけている。
「……ゾーア……」
 こんな時に、もう一人の人間の王女であれば何と言うのだろうか。化け物達も居座るこの状況で、連絡をとるわけにもいかない。
 ただその聡明な笑顔が、黒い鳥には何度もちらつきながら、包帯だらけで眠る少年を赤くなった目で見つめていた。

――……。
 少年はしばらく、彼らの話が聞こえ、挙動までも観えていたのだが……。

――アナタ……誰?

 何故か見張りの頃より、「変な水の音」が強くなった。いつしか外界の音を塗り替えている。
 寄せては返し、繰り返すだけの悲しげな音。そこに不意に、全く違う者の声が紛れ込んだ。

「……君は、誰だ?」

 見たこともない海の光景が、眼下に広がる。
 少年ではなく、今の声の誰かが見ているものだ。先刻までもそうだが、目を閉じている少年自身には、ずっと何も見えていない。
 一つの国の果てを囲む、石の岸に打ちつける波。その潮の騒ぎが、聞こえていた「変な水の音」だった。

 誰かがずっと、聞いている音。その中で誰かは、岸に座って俯く黒い髪の少女を眼に留め、不躾に話しかけた。
――どうしていつも……悲しそうなんだ?
 そこはゾレン領でありながら、ディレステア製の真っ平らな灰色の岸壁が続く海岸線。
 その地域が様々な医療施設の集積地であり、ディレステア唯一の海港でもあることを、当然ながら少年は知らない。
 それなのに、誰かにはそこが大切な場所であること、それだけが少年に伝わる。

 少年は自分が、何処にいるかわからないまま。
 気が付けば岸壁の上、海面に足を投げ出して座って、「変な水の音」を無心で聴き続けていた。
 そうした少年に、同じ体勢ですぐ隣、ふっと声をかけてきた、黒く長い髪で青い目の少女がいた。
――アナタ……誰?
 その黒髪の少女は、生まれてから一度も笑ったことがないのでは……そんな風に思いかける程、悲しげな表情を当たり前の顔としている。
 そしてそんな少女が、その名を名乗った。
――わたしは……ミリア。

 それは決して聞き逃せない、大切だったはずのヒトの名前。
 たとえ少年が、姿形すら覚えていない相手であっても。人間の王女の新たな護衛に会った時以上の繋がりに、少年はすぐに気が付いていた。
 そしてあっさり、それを受け入れる。
「……母さん……?」
 とっくの昔に失ってしまい、その温もりも何一つ、覚えていない相手。
 それでもこうして出会えるということは、この海辺は死出の港か。少年が思わずそう考えた時だった。
「誰か、いるのか?」
 無意識に出していた声が聞かれ、先程の誰かが呼びかけてきた。
 誰かは少年達のすぐ後ろで岸壁に座り、黒髪の少女ではなく、紛れもなく少年に声をかけてきていた。

 その誰かは、平らな灰色の岸壁の上で両膝に肘を置いて、何かを抱えるようにあぐらをかいている。
「……君は、誰だ?」
 無造作で短い銀色の髪。そして少年を見る灰色の眼に、長い鎖の影が重なる。
 よく観れば、誰かは全身の至る所に、命の動きを封じる棘の鎖が、がんじがらめに巻き付けられていた。
「――」
 その繋がりにも少年はすぐに気が付き、ただただ声を呑んだ。
 そのまま少年は、その誰かの船出に、やがて立ち会うこととなる――


+++++


「……」
「……」
「……」
 薄暗い洞窟の中、横たわる瀕死の少年を前に。少年を囲む三人全てが、難しい面持ちを隠しもしていない。
 これでもう半日、全員が黙り込んでいた。
 さすがにその沈黙に飽きたのか、最初に口火を切ったのは意外なことに、一番無口そうに見える忍びの王女だった。
「あの――」
「?」
 化け物の王子は、特に変化なく振り向き、連れの化け物女もうん? と意外そうにする。どちらも口を開いた王女を不思議そうに見つめる。
「こんな機会はもう二度とないし――だから、今言うしかないけど」
 無口で且つ無愛想な、難しい顔の王女。化け物の二人は少し身構えたようだが、
「……薬を買ってきてくれて、ありがとう」
 ぐう、と。礼を言いながら何故か、心から悔しそうに、一見がんをつけている王女だった。

「――あ?」
「って……」
 その複雑な感情表現は理解できないらしい。化け物の二人は王女の不機嫌さに、思わず顔を見合わせて笑い出していた。
「……?」
 不服そうにまた王女は、化け物達を見返す。
「あんたも変な奴だね、王女。結局不要な物だったし……そんなの、今ここでする話?」
「……」
「いやはや……敵国の王女ながらも、やはり見上げた心ばえだな」
 何故かそれが、彼らのツボに入ったようだった。
 そして彼らも、普通は――と、問いかけを始める。
「誰一人健在な護衛もなくて、不法入国した敵地で敵に囲まれててさ。何であんた、そう泰然としてられるんだい?」
「……」
「本当にな。あの熱の貯めようといい、その忍の出立ちといい、身のこなしといい……ディレステア王家がそこまで戦闘向きとは、正直思っていなかったな」
 それはあくまで、この黒い鳥の代からの異変ではある。そんな事情を敵国者に説明するわけもなく、忍びの王女はただ不服そうに黙る。

「てっきり、命乞いでもするかと思ったが。まさか礼を言われるとは思わなかった」
「――」
 王子がそんなことを言って、意外そうに王女を見る理由としては、長い沈黙が始まる前の、王女からのはっきりとした意志宣告にあった。
「私は今、キラを置いては帰国しない」
 その回答に辿り着くのが早過ぎる、とは、王女自身も思ったものの。
「貴方達とも戦う気はない。でも私とキラが帰る時に邪魔をするなら、その時は戦う」
 少年の回復を待って、連れて帰ろうと洞窟に留まる彼らの思惑を知りながら、王女はそう宣言した。
 それはおそらく……つい数時間前、用事ができたと突然場から消えた緋色の髪の大使が、ゾレン王子にある謎かけをしたからかもしれない。

 とにかく心を決めたのであれば、王女の取るべき態度は一つだった。
「それはつまり……おれ達がユオンを連れていくなら、その時おれ達と戦うということか?」
「……」
「けど今この現在、アタシ達と戦う気はない? わけがわからないね、あんた達人間は」
 そうして当然ながら、雰囲気は険悪となる。

 それでも、険悪なだけで済んでいること自体が、王女の大きな幸運を示して余りあった。
 緋色の髪の大使が残した謎かけは、答はわからずとも、化け物達にも確実に牽制を強いていてくれた。
――残念だがな。多分オマエさん達がそこまでいい奴らじゃなきゃ、少年も少しは聞く耳持ったと思うぜ?

 化け物の二人はあくまで、少年を回収することが目的として、王女のことは今回は見逃すと――その言葉を誠実に守っていた。
 ただしそれは、王女が少年を諦めることが前提であるため、それはしないという宣言に困って黙り込んだわけだ。とにかく少年を動かせるようになるまでは、今は争う必要はない、と沈黙に染まった場だった。
 化け物達は引き続き、忍びの王女に問いかける。
「それでもさ。どう考えてもあんた一人で、アタシ達に勝てるわけないだろう?」
 それなのに怖くないのかい? と、化け物女が改めて、王女をまっすぐに見て問う。
 化け物女の問いへの、王女の回答は簡単だった。
「相手が貴方達でなければ、今こうしてない」
 つまり最早、彼らの厚情に開き直っている。王子が改めて悩ましげな顔をする。
「そこまで甘く見られると心外だが――」
 しかし王女のその態度は、なるべく戦いを避け、相手を信じる甘さと信念の結果でもあった。
「和平派の人間とは、そういったものなのか。本当に……それならば何故わざわざ、危険を冒してゾレンにまで来た?」

 そうして当初の話し合いとは違い、王子と王女というより、もう少し砕けて話せるようになっていた。
 忍びの王女は考え込みながら……目の前に横たわる少年の姿に、そのことだけは話しても良いだろう、と判断する。
「先日の和平交渉後、捕らえられたライザに……キラを、会わせたかったから」
 潜入の理由はそれだけではない。しかし、第四峠で待つ人間の王女とも話し、それが可能なら良いのに、と――長年ディレステアに力を貸してくれた英雄への、二人の王女の正直な思いだった。
 そんな甘いことを口にすれば、彼らはおそらく更に呆れるだろう、と王女は思っていたが。
「――……」
 それでも少しでも、この王子たる化け物から英雄の情報が得られないか。そう考えての切り出しだった。

 ところが王子の返答は、あまりに想定外だった。
「ライザおじさんは――捕らえられたのか?」
 ゾレン国内に、「英雄捕縛」の一報は出ていない。しかしまさか一般人だけでなく、王子にまでその情報が閉ざされていたことを、王女は思ってもみなかった。
「エイラで行方不明になったと聞いたが……彼は、ゾレンにいるのか?」
「……――」
「どういうことだい。そんな情報、軍部にも政務部にも入っていないよ」
 場を強い緊張感が支配する。王女は全く臆することはなく、
「そんなの、私がききたい」
 どういうことだ、と、改めて彼らにがんをつけた。
「先日の和平交渉が、ディレステア反乱勢力のせいで破綻した後、ゾレンへの誠意としてライザは捕らえられた。でもディレステアのその誠意も、無かったことになってるの?」
 そんなふざけた話があっていいのか。身を切る思いで英雄を差し出した真の王女は、厳しく顔をしかめる。
「…………」
 化け物二人も、自国のその不可解な状況に、難しい顔を見合わせている。
「まさか……父上は……」
 そんな状況を作り出せる権限。それを持つ者は一人しかない。
 そもそも彼らが最初に、この森にやってくることになったのも、それなら理由が明らかになる。そう考えている様子だった。

 何故か思い切り表情を歪めていた王子に、王女も更に緊迫を纏う。
 王子は、厳しい雰囲気のままながら、
「やはり――……先に裏切ったのは、父上であるのだな」
 横たわる少年の姿を、王女と同じように見て、深く嘆息していたのだった。
「ユオンは……おれを覚えていないというが」
「……?」
「思えばおれ達は、拒絶されて当然かもしれない。おれにもあの父の血が、間違いなく……ユオンをここまで傷付けた力として、共に流れているのだから」

 そして王子が語り始めた、英雄がゾレンを後にした真実。
 王子自身にも忌まわしい記憶というその話に、王女は衝撃を隠せなかった。

 その話が終わってすぐ、王女の思うところを返す余裕もないまま、次の異変は訪れていた。
「……よォ、王家の者達」
 不意にまたやってきた、不真面目な大使。いつになく真剣な眼が金色に光る。
「外に出てみな――偉いことになってるぜ」

 その少し後、第四峠からも緊急事態が告げられる。
 満身創痍で横たわる少年は、まだどうしようもないままで――


+++++


 周囲の状況がどうなっているのか、途切れ途切れにしか、少年はわからなくなっていた。
 それはこうして、少年の直観に加えて、内から強く鮮明に届く声が次々切り替わるからだった。

――オイラはいつも……空を見ていたにょろ。

 緋色の髪の大使に、青い小蛇もどきを呑み込まされた結果だろう。青い小蛇もどきが受け取っているはずの他の抜け殻の情報を、少年は今まで以上に多く共有できるようになっていた。
 それとはまた別に、第四峠に残った緋色の抜け殻蛇と、最後に話したどうでもいい声が再生される。
――鳥はオイラを、食べようと狙っているにょろ。だからいつも、空を見ていたんだにょろ。

 緋色の抜け殻蛇は、元はただの、長生き蛇だったという。神聖と呼ばれるほどに長生きをしたソレは、ある日その島の聖地という所で、ヒトらしき何かを食ったことがあった。
――困ったことに、オイラが食ったのは、そこの神様ってヤツだったんだにょろ。

 そして、ヒトを食ったはずの蛇は、逆にそのヒトに喰われていく。
 長いだけの体に、有り得ない手足が生えた。本能だけの蛇の内に思考が生まれた。
 そうして段々、ヒトの方の記憶が蛇を塗り替え始め――

――でもオイラは……蛇でいたかったにょろ。
 その理由はたった一つ。蛇は蛇でいるため、生まれ育った島を出て、同じような聖地が存在する「地の大陸」の「テルス・エイラ」へと来る。
 蛇とヒトを、以前の形へ戻す方法がないかを、そこにいる神様に尋ねるために。

――オイラはきっと、鳥を待っていたにょろ。
 ずっと見上げていた空を、悠々と飛んでいく孤高な鳥達。
 優雅に見えて、遥かな空を駆けるために一心に翼をはためかせる姿を、見上げ続けた蛇はいつしか憧れを抱いていた。
――鳥がオイラを、あの空に運んでくれる……その日を、オイラは待っていたにょろ。
 そのためには、重いヒトの体や心など、とても持ってはいられない。その思考そのものが、既にヒトのものだったかもしれなくても。

 そんな蛇だったモノの話を一通り聞いて、呆れたように人間の王女が、一言で感想を述べた。
――それがアナタが、シヴァを大好きな理由ってこと?
 真の王女によく懐いているソレに、黒い鳥たる王女の羽を借り受けた人間の娘は、察し良く呟いていた。


+++++


 声はまた切り替わり、少年を様々な所へ導く。
「やっと再び……相まみえたな……」
 今度は全く、知らない何か。
 おそらくは――知ってはいけなかったもの。
「この時を待っていた……裏切り者よ――」
 旧い呪いと、嘆きの再演。
 観客となる気まぐれな赤い御使いのもと……誰かの赤い鼓動が暴かれる、裁きのその時。


+++++


 声は度々、現実の洞窟にも立ち戻った。
「残念だがな。多分オマエさん達がそこまでいい奴らじゃなきゃ、少年も少しは聞く耳持ったと思うぜ?」
 大使が残していった謎かけ。それは少年自身にも意味のわからない内容だった。
「それはどういう意味だ?」
「オマエさん達は、この少年にとっては、利用しようと思える相手じゃなかったってことだ」
 神性の金の眼を持ち、長い経験の蓄積を持つその男は、誠実な化け物達を煙にまいて楽しむようにそんなことを問いかけていく。
 声の届いた少年もわけがわからないまま、謎かけの続きを目覚めずに待つ。
「少年が青年を覚えてないのは本当だろう。でもこの少年には、そんなことは関係はない」
 覚えていようがいまいが変わらない。今目前にいる彼らを観れば、直観の少年には、彼らの誠実さはわかっていたはずだと言う。
――虫を踏んでも、その痛みまで感じる優しいコだったと言うのに。
 死神としての少年の直観を知るはずなのに、そこに思い至っていない化け物達は、大使から見れば迂闊であるらしい。

 大使は少年の傍ら、溜息をつくように言った。
「なあ、青年。オマエさんは……本当にこの少年を、連れていっていいと思うのか?」
「……?」
「いるはずのない王女をいなかったことにするくらい、どうでもいい話だろう。けれど――」
 彼らには彼らの都合がある、と少年は口にした。そして王女が真っ先に化け物達に問うたことも、本当の意味はそこにある、と苦く笑う。
「お尋ね者の裏切り者の息子を、王族の者が突然連れて帰って、しかも自らの腹心として目をかけるなんてさ。納得する周囲の奴の方が圧倒的に少ないだろう」
「そんなことはわかっている。だがその程度の意志が果たせずして、何が王族だ」
 それは王子にとって、大きな問題ではない。反発も困難も、既に王子は、その一端をずっと背負ってきたのだからと。
「青年はそれで良くてもな。この少年は多分、そういう灰色の関係は苦手なんだよ」
 守るべき何かか、それとも敵か。いずれにせよ割り切った時、少年の行動はそこで決まる。
「その上王子が、敵国の王女を見逃しただなんて、もしもばれちまったらどうする? 青年はともかく、実働員の姐さんの方は処罰は免れない」
 それは王子が最も望まない結果。たとえば最悪、王女を送る途上でそうなってしまった場合、王子は連れの化け物女を優先するだろうことを、少年はとっくに見切っていた。

「…………」
 大使の指摘を、少年自身は意図が理解できない。しかし王子には、思い当たる節があったらしい。
「そうだな……ユオンは確かに……昔から、優しい奴だったな」
 その少年を王子が引き受ければ、必ず起きる大きな(わざわい)。覚えていなくても誠実で優しい化け物相手に、それを少年は看過できない。
 しかし王子が少年を諦めない以上、少年はただ敵となるしかない。それは少年が、守ると決めた約束にも符合してしまう。

 謎かけの答は一つだった。少年は黒い鳥と、場の全ての誠実な化け物に対してあえて剣を取った。
「だからこそおれは――……コイツを連れて帰らないと」
 そんな己の実意に気付けず、本気で王子達に殺意を抱いてしまえる少年の危うさ。
 王子は無垢なる処刑人を身内に持っている。それだからこそ、ヒト殺しの少年にすぐさま危機感を持てた王子は――そのままずっと、天性の死神が望む約束とすれ違い続ける。


+++++


「俺は……他に何ができるのかな」
「――……どうした?」
 少年は俯く。味気なく広がる灰色の岸壁で。
 少年をここで見つけ、話しかけてきた誰かが、再び現実に呼び戻されようとしている。
 それを無意識に感じ取った。だから誰かが、運命の決着をつけにいく前に――

 取っつきにくい雰囲気ながらも、口を開けば声色は優しい誰かに、少年は遠慮なく長年の疑問を尋ねる。
「アンタは……何のために、戦うんだ?」
「……――」
 誰かはその少年の問いかけに、ただ苦笑い、言葉を呑み込みながら答える。
「そうだな……戦うというよりも……俺は、守ろうとしてきただけだった」
「……?」
「今はもう、ここにいるしか守る方法がない。俺がさまよってきた理由は……それだけだ」
「……それだけ?」
 少年は、澱んだ暗い目を強く歪める。ずっと何処かで、いつも気になっていたことが、そんなによくわからない答でしかないのか、と。

 少年とは違い、今話している少年が誰であるのか、その誰かにわかることはない。
 赤い呪いで変わってしまった少年の気配。少年に気付きようがない誰かは、きっと本当に答えるべき言葉を呑み込んでいる。
 そもそもその誰かは、この出会いが何であるかも、おそらく自覚していない。
 現状把握――直観の力を持つ少年とは違い、(うつつ)に戻った時は覚えてすらいないだろう、と少年はわかっていた。

 湧き上がる謎のやるせない気持ちで、少年は吐き捨てていた。
「……俺は、アンタのこと、嫌いだな」
「――そうなのか?」
 唐突な少年に、誰かはただポカンとして、少年の声の続きを待つ。
「だってアンタと俺のせいで……母さん達と、友達はいなくなった」
「…………」
 内容のわりに、声には何の感情もこもらなかった。
 誰かはただ、相変わらず声色だけは優しく哀しげに……。
「それは君のせいじゃなくて――俺のせいだ」
 何一つ迷いなく、それだけは伝えられた答。
 少年は、そんな誰かを見ることはできなかった。

 そして誰かは、その運命の声に呼ばれて立ち上がる。 
「すまない。もう、行かなければいけない」
 自分はここには、そのためだけに来たと。少年も引き止める術など持たない。
「でも……ここで君に会えて、良かった」
「――……」
 その言葉を外に出すことで、全身を縛る鎖を、ようやく断ち切れたというかのように。誰かは静かに背を向けてしまった。
「君は何のために、戦うんだ?」
「……――」

 声を呑む少年に、誰かは本当に珍しく笑って振り返り……ただ一言だけを、小さく残していった。
「理由なんて――ない方がいいかもしれない」

 その理由に縛られ続け、生きる力――希みをいつしか奪われていた誰か。
 「心」を視る灰色の眼には、同じ呪いにある少年が映っているかのように――


+++++


 少年がそして、薄暗い洞窟で、うっすらと意識を取り戻した時。
 包帯に視界が半分隠された前で、化け物二人と王女は、少年も知らない少年について話をしているようだった。
「やはり――……先に裏切ったのは、父上であるのだな」
 横たわる少年が、意識を取り戻したことには気付いていない。そうして王子は深く嘆息していたのだった。
「ユオンは……おれを覚えていないというが。思えばおれ達は……そうやってユオンから、拒絶されて当然なのかもしれない」
 王子にとってそれは、責苦に感じられる事項らしい。そんな感情で動くことこそ、少年には不覚悟に観える部分だ。
 王族ともあろう化け物が、そうした甘さを口にする王子に、少年は相変わらず両目を澱ませる。

 王子はそして、ある真実を語り始める。
「十年前、ゾレンとディレステアの再開戦が宣告されたあの日……ライザおじさんの家に、突然踏み入った軍部の者達がいた」
 その場所は元々、監視付きの家でもあった。それさえ我慢すればゾレンでの生活を普通に送れた英雄一家に、その不条理はあまりに突然襲いかかった。
「家には子供しかいなかった。奴らはその子供を連れ去ろうとして――……おじさんやミリアさんが、家に帰った時には」
 そこには、全く息をしていない子供が一人、血まみれで倒れていたという。
「それでも何とか、ユオンは助かったそうだ。しかし――……」

 そして少年は、ある化け物を思い出す。一度死んで全ての記憶をなくしたという、ディレステアの王女の新たな護衛を。
 それはどうやら少年も、同じ穴のムジナ……一度死んで、幼少の記憶を失った化け物だったらしい。

 五歳までいたはずのゾレンで、そうした事変を全く覚えていない少年は、王子が語る内容にじっと耳を傾ける。
「子供を襲われたような所に、おじさん達は当然、それ以上いられない……その翌日には、まだ意識の戻らないユオンを連れて、ライザおじさんは先にザインに旅立っていった」
 それ以来王子は、少年と会うことはなかった、と語る。
 そして、父である国王の裏切りを、その目で見たと断言していた。
「ライザおじさんが突然いなくなったことの真相を、おれは父に尋ねに行った……――その時に」
 王子にも、忌わしい記憶として残り続ける光景。
 国王がその手で、ライザ・ドールドの連れ合い、ミリア・ユークを手にかけた現場に王子は出食わす。

――……ああ……。
 そう言えば、そんな、場面があった。
 少年は今の己の最初の目覚めとして、その男の慟哭を、彼の夢から鮮明に観る。

 少年がおそらく、初めてザインに来た日、ザインで彼らを待ち受けていた女性がいた。
――ライザ。ミリアは永遠に、ここには来ない。
 「千里眼」を持った女性が、厳然とその事実を告げる。
 ある事情で別行動をせざるを得なかった彼らは、落ち合う約束だったザインで、決して……再会はできないのだと。

 目隠しをして銀色の髪を肩で軽く束ねる女性は、彼と同郷者だった。
 崩れ落ちた彼の代わりに、その息子を抱き留めながら……惨い真実を伝えるために、彼を待っていたと語る。
――信じられないと思うけど。トラスティが、ミリアを殺した……全ては、偽られていた。
 信じ切っていた国王の名前に、驚愕に顔を上げる彼に、女性は俯く。
――ユオンが必死に戦ったのも、王の手の者。……もう、昔の王とは思わない方がいい。

 そして女性は自ら、彼の息子を育てると申し出る。
――うちにも同じ歳の男の子がいるの。きっとユオンと気が合うわ。
 ゾレンにいた頃から、女性は何かと彼を弟のように気にかけていた。女性がザインに隠れて暮らすようになった後も、一家のことを度々、その「千里眼」で様子を見る程に。
――今のユオンは真っ白……気を付けて育ててあげなければいけない状態みたい。
 一度失ったはずの命。それを特殊な化け物の性質で繋いだ以上、最早その幼い化け物は本来の力を振るうことは叶わず――次にまた命を落とした場合、蘇生も叶うことはない。
 しかしそれ以上に深刻なのはその自我だ、と、ザインに着くまで目を覚まさなかった少年に、女性はそう口にした。
――それはライザが、戦いながらできる程、簡単なことではないわ。
 女性は彼を引き止めていた。追いかけて来ない連れ合いを探し、ゾレンに戻るなと言うために、あえてその死を彼に告げたのだ。

 それでも彼は、戦いを捨てなかった。それから十年、ザインに訪れることもなかった。
 可能な限り引き止めようとした女性。その腕の中で少年は、新たな拠り所をそこに見出していた。
「…………」
 少年とその家族を奪った、国王たる父の罪を告白した王子。少年は黙って目を閉じたまま、(まぶた)の裏で、暗く澱んだ色の目を更に濁らせる。
――そっか……。

 それは君のせいじゃなくて、俺のせいだ。
 そう語った誰かこそが、少年を助けることと引き換えに、大切な連れ合いを守れずに失った。
 誰がその時、少年を一度殺したのかは、最早思い出すことはないものの。

――俺のせいで…………ゾレンから出たのか。

 在りし日の潮騒に背中を向けて。その英雄はこれから、彼らの運命に決着をつける――

◇⑦◇ 英雄ライザ

 王子が忌まわしい記憶を語り終えた直後に。
「……よォ、王家の者達」
 不意にまたやってきた緋色の髪の大使は、いつになく真剣な金色の眼で、ついに時が来たことを告げた。
「どうやら例の英雄。暴れ出したみたいだな」
「――!?」
 驚く王女と王子の間で、横たわったままの少年の状態を確かめながら言う。
「外に出てみな――偉いことになってるぜ」
 何処か、物憂さも隠したような眼を伏せる。
 その英雄の手引きをすることとなった大使は、思ったよりも早い事態の到来に溜息をつく。

 まず先に、忍びの王女と化け物達が洞窟の外に出た。
 そこで全員が目にした光景は―――
「何だ――!? 王都が……燃えてる!?」
「……!?」
 既に闇に覆われたはずの遠い空が、赤黒く染まっている。直下の惨状を表すように、未開の国の闇が真っ赤に侵蝕されていた。
 洞窟から動けない少年は、その空の変貌を直接目にはできない。それでも、身の内に巣食ったソレの情報を、何より強く拾っていく。
 ある男の内にも、ソレは同様に隠されていた。共に繋がる名を持ち、そのために彼らは情報を共有――出会うことができた。
 そうしてそのまま、小さな抜け殻達が見た夢を、その直観で拾い上げる。

 ろくに休みもできない、岸壁のように硬い石の上。牢獄にしては広くて何もない場所に、棘の付く鎖でがんじがらめにされた男が座る。
 そこに来たのは、たった一人で男を断罪したかった者の声――
「やっと再び……相まみえたな……」
 王子にすら秘し、最低限の腹心にだけ、男の投獄の情報を握らせた者。
 昔から柔らかさをほとんど持ち合わせない、その訪問者が硬い声を続ける。
「この時を待っていた……裏切り者よ――」
 この石牢に幽閉されてからは、男は鎖まみれで身動き一つ見せなかった。
 それでも長い微睡(まどろ)みから目を醒ますように、びくりと体を震わせる。

 男の動きに反応し、更にぎしりと締まる鎖をものともせずに、男は静かに顔を上げた。
「……随分、遅かったな。トラスティ」
 重く消耗しながら、意志だけはまだ失わない声。消え残っていた理性が、その訪問者の真なる名を紡ぐ。
「俺がここに来て、もう何日経つと思ってる」
「そう言うな……一国の王がどれだけ多忙か。お前ならとうの昔に、知っていただろう」

 鎖まみれの男よりも、覇気も余裕もない訪問者。身なりは縦襟に短い外套と、一見は軍服に見えるが、それにしては装飾も防具もあまり見てとれず、軍人というより貴賓。それとしても質素な出で立ちだった。
「こうして……昔の知り合いと話をするのは、いったい何年ぶりであろうか」
 そして何より、獄中の男の顔を見て、何処か安堵した雰囲気すら感じさせる声。
 その訪問者が、くだんの国王であること。
 男が国王たる相手の名を口にした後も、少年はしばらく、信じることができなかった。

 王子達がそして、洞窟の外に駆け出た直後。
 その赤い空のために危地に陥った者達から、忍びの王女に連絡が入っていた。
「――氷の君。ほらよ」
 今まで連絡に使っていた「声」は洞窟の少年の内にあるため、違う抜け殻を緋色の髪の男に王女は手渡された。
「シヴァ、聴こえる! シヴァ達は無事!?」
「ゾーア!?」
 第四峠の人間の王女の方から連絡が入る。(すなわ)ち緊急事態。「口」の抜け殻の緊迫からも、忍びの王女はすぐに悟る。
「大変なの、反乱勢力がゾレンに向かっているの……! シヴァ達はすぐにそこから引き上げて!」
「――!?」
 耳を疑ってしまう事態。そんな、有り得るはずのない状況と――
 その「口」が使った言葉が、王女達と少年がいつも会話する共通語であったため、共通語を知る化け物女にも内容が通じてしまった。
 化け物女が驚愕の顔で王子に訳し、王子も一瞬で険しい表情となって駆けよる。

 最悪の内容を、あまつさえゾレンの王子に聞かれてしまい、忍びの王女は血が滲むほど手を握りしめる。
「どういうこと!? 大使館から脱出する経路は完全に討伐隊が包囲してるはず!」
 第四峠反乱勢力討伐隊の、最重要な任務は、そもそも自国の者同士での殺し合いではなかった。あくまで筆頭を出頭させた上で、第四峠に集う彼らを退去させることにあった。
 そして何より、ゾレンとの徹底抗戦を望む反乱勢力が、ゾレンへ攻め入ることを阻止する。一番重要だったのはそれとも言える。
 ゾレン王都に最も近い第四峠から、そうした戦闘が起こった時、それはつまり、ゾレンとディレステアの冷戦激化を意味するからだ。
「その包囲を抜けられるとすれば……誰か、審議院レベルの情報内通者がいる!?」
 そうでもなければ、討伐隊の包囲網の隙を、大量の反乱勢力が抜けられるわけがない。王家と議会の両立治国を行うディレステアで、その片翼の不審に顔を歪める。
「ええ、それしか考えられない――でも今はとにかく私達、反乱勢力を止めに向かうわ! それでも間に合わないかもしれない……!」
 おそらく、反乱勢力の包囲網突破は少しずつ行われたことだ。
 そしてあの赤い空を見て、何事かわからずとも、機に乗じて動き出したのだろう。第四峠に残る聡明な娘は分析する。
「反乱勢力にとっては、攻め入りさえすれば、徹底抗戦の目的は果たされる。激化の後で、自国同士で争う愚は正規軍も犯せないし――ゾレンもわざわざ、ディレステアのその二つを分けて戦いはしない」
「っ……――!」

 和平を望むディレステア王家の方針で、基本的にディレステア正規軍は、最前線の第六峠で攻撃を仕掛けるゾレン軍に対応する形で冷戦を続けている。
 しかし今回第四峠で、ディレステアの方からゾレンの中枢へ戦闘を仕掛けることは、決定的な宣戦布告に他ならない。
「そんなこと……誰が望んだというの……!」
「…………」
 厳しく赤い目を歪める王女の後ろで、敵対国の王子は険しい顔で、同じように手を握り締めていた。

 そんな緊迫した第四峠。
 忍びの王女は自身の状況――護衛の少年の窮状を伝えられないまま、ただ人間の娘の身を案じる思いだけ伝えた。
 必ずすぐに、第四峠に帰る。そう言って、束の間の会話を終えたのだった。

 そして、このままいけばおそらく、今まで以上にはっきり敵となるはずの化け物達も差し迫っていた。
「クエル……アタシ達も行かないと!」
「…………」
 たった今の不穏な情報だけではない。そもそも赤く染まる空を前に、ゾレンの王子と盾たる女は、国を守る誇りからもその結論が導き出される。
「くそ……何て間の悪い……」
 その激化そのものは、ここ最近の不穏さに王子も想定内だっただろう。
 しかし彼らがこの洞窟に留まっていた理由――深い森から王都まで運ぶ負荷を、最低限、耐えられる程度に少年が回復すること。
 それなのに厳と訪れた時間切れに、王子は苦虫を噛み締める。
「…………」
 洞窟の入り口の少し内側、彼らの後ろで、王女は赤い空を呆然と凝視している。その赤の目に浮かぶ大きな動揺に、王子がようやく覚悟を決めていた。

 王女がそもそも、今この場所に残っている理由に、王子は望みを賭ける。
「……ディレステア王家の者よ」
 ばさっと上着を羽織り、撤退する意志を示した王子が王女を窺うように見た。
 王族としての彼と、少年の兄貴分の心で、続く言葉を冷静に口にする。
「時が流れ、互いの世代となった時には……おそらくもう少し、相国の利益となる交易ができる。おれは今回この機会があったことを、喜ばしく感じている」
 そう――王女を見逃すことを、全く恩に着せず、驚くべき甘さと誠実さで告げる。

 しかし、あくまで現状は、と王子は俯く。
「その未来を得ようとするなら、互いに――まずは自国で戦わねばならないだろう」
「――」
 父たる国王への王子の不信と、反乱の勢力に悩む王女を知っての言葉。忍びの王女も総身を引き締める。
「おそらくこれで当面、和平の場も有り得ず――次に(まみ)える最初の機会は、あるとすれば戦地で、互いに本気で命を狙う間柄となる」
「……」
 今回はあくまで、潜入が目的だった。だから少年の最初の殺意を止めた王女も、戦争となれば戦うしかなく、黙って頷く。
「しかし、だからこそ、この度王女が危険を承知で我がゾレンを訪れ……それも、おれの尊敬する人物のためであったことに感謝する」
「……?」

 悩ましげな王子が何を、王女に伝えておきたいのか。最後まで少年に、彼らの大切な秘め事を伝えられなかった王子は、慎重に言葉を選んで重く口にしていた。
「おれはユオンを連れていく――その思いは今も変わらない。その理由は今後、ユオンが王女のそばにいるなら……辛い形で明らかになるだろう」
「……辛い、形?」
 忍びの王女は緊迫の両目に、余分とも言える憂いを浮かべる。
 いったいあの幸薄い少年に、更にどんな悪いことがあるのだろう、と。
「その時ようやく、ユオンがおれ達と来ると言うなら……王女がそれを止めることなきよう、願っているが」
「……」
 が――と。その展開が有り得れば、それすら安寧な形だと、王子は今の少年に感じているようだった。
「おれがユオンを、連れていけるまでは――どうか王女。その厚情のまま……あのバカを宜しくお預かり願いたい」
「……――」

 それは忍びの王女――黒い鳥にとって、未だに悩み切っていた事柄への一つの答。
「……私は……」
 王女にも全く自信は無い、と、つい目を伏せる。
「どちらがキラにいいのかは……わからなくて」
 和平の道を模索する王女にとっては、少年をディレステアの武器の一つにする道は、元々手放していた。そんな危うい武器を王女は望まなかった。もう「英雄」の力は借りないと、王女は決めたのだから。
 それであれば彼らに、少年を連れていってもらう方が、良かったことではないのか。
 そんな逡巡の顔をする王女に、だからこそ王子は、この結論を口にできていた。
「ああ。そんな甘い王女だから、信頼できる」
「――」
 さすがにその言葉は甘受できずに、眉を(ひそ)める。
「それでも王女も、自らの危険を厭わず、ユオンを連れて帰ると断言した。これから先に、互いにどんな憎悪を抱く機会があっても……その同じ迷いと答がこの森であったことだけは、おれは忘れない」

 そうしてその、誠実過ぎる化け物と、いい加減に急げ、と引っ張る連れの女は、一瞬で王女に背中を向けて消えた。
 この化け物の国に来て、これまでの理性を失い、迷える王女を残して……彼らの守るべき都へ、帰っていったのだった。

 彼らを見送り、洞窟の中へ帰った王女に、緋色の髪の大使は淡々と現実を告げる。
「無理だな。今の少年じゃ、第四峠まででも、誰かが運ぶ移動にすら耐えられない」
「……」
「なぁ、少年? それはわかってるだろ?」
 少年の横に座る大使と王女に、少年はやっと、その包帯の下の目をうっすらと開けた。
「……ああ。悪いけど正直……死ぬと思う」
「キラ……!」
 そうして何とか意識を戻していた少年に、忍びの王女がまず安堵と不安の息を呑み込む。
「昨日のシヴァと。何か、似てるな」
 そんなことを呑気に言うと、憤慨しかけていた。移動すらできない重態なのは、先日の黒い鳥も同じだった。

 少年はだから、穏やかに笑って言う。
「シヴァ……ソイツと、第四峠に帰れ」
「……!?」
 今はまだ、話すことも負担だった。目を開けていることもすぐに辛くなった。
「アディが心配だろ――……俺も、そうだし」
 何処か夢現なまま、自然に浮かんだ自身の思いを、ただ口にする。
「ちょっと時間、かかるけど……回復したら、俺もすぐ追いかけるから」
 だから――と。それが少年の願いであると、伝わるように望んで言う。
 第四峠の娘を守りたい思いは、黒い鳥だけでなく、少年にも大切なこと。
 約束というよりは、約束が成立するための前提であり、娘が無事でなければ意味がなくなってしまうのだ。
「アディ達の、力になるって決めたのに……ごめんな……不甲斐なくて」
「……キラ……」
「でもソイツも……ソイツらなら、少なくとも……シヴァのことは、ちゃんと守ってくれる」
「――え?」

 黒い鳥を説得するために。少年はあえて、その事柄を明るみに出す。
「ソイツ。シヴァのこと、好きだから」
「……は、い?」
 おそらくそれは当人以外――この少年と第四峠の娘は知っていることだ。
 何だかんだで、黒い鳥に直接そう伝わることを大使が避けてきた結果、全く初耳と見える忍びの王女だった。

 特にこれまで、公開の気がなかったらしい緋色の髪の大使も、
「おい少年。本当のことってのはもうちょっと、オブラートに包もうぜ?」
 などと、全肯定する。
「――はい?」
 厳めしい顔を全く崩さず、状況を理解できないらしい王女。
 と言うか、と大使は、少年の額をつつく。
「そういうのはな。本人に言わせてやれって」
 そうしてほんの少しだけ、拗ねたように言うのだった。

 わざわざそんなことを話題とした、少年の意図は。
「ソイツなら……俺も、シヴァを預けられる」
 大使であれば、忍びの王女を何よりも優先してくれる。王女がそれに対して、何かを言い返せる暇もなく――
 少年は再びすっと、束の間の意識の光を消していたのだった。
「……」
「……」
 直前の話題が、話題だっただけに。少しだけ気まずい空気が、王女と大使の間に流れた。
「『ソイツら』って、さっき言ったな、少年」
 ぽつりと呟いた男に、王女が顔を向ける。
「ひょっとして、そこまで気付いてるか?」
 自問するように大使は、それなら話は早い、と王女の方へ振り返った。
「聴いての通り。少年は置いていくぜ、氷の君」
「…………」
「オレの休暇も、今日までだしな。必要なら後でまた、迎えをよこしてやるよ」
 え? と大使を見る王女に、大使は王女がまだ悩んでいた事柄を遠慮なく問いかける。
「でもな。オレは別に構わないが……少年をそうして連れて帰る必要、本当にあるのか?」
「……――」

 忍びの王女が何故それを、化け物達に断言していたのか。
 そればかりはわからなかったらしい大使が、真面目な顔で尋ねた。
「氷の君は何でそこまで……少年に拘る?」
「――……」
「それは、王女としての判断には思えないな。必要なら英雄だって差し出すのも氷の君だ」
「…………」
 大使は横たわる少年を、何故か突然、よっと抱えた。
 移動が無理だと言ったばかりなのに、何処に連れていく気かと焦って立ち上がった王女に、
「オレは正直、少年のことは、青年達が連れて行った方が良かったと思うぜ」
 そんな風に、本来は鋭く、冷たい眼で言い放つのだった。
「……何でも何もないわ」
 互いに母語は古語であるくせに、ゾレン内であるせいかゾレン語で話す大使に、片言の王女は相変わらずがんをつける。そのままはっきりと、その理由を口にする。
「何が良かったかは、わからないけど。何が悪かったかはわかってる」
「――というと?」
 なるべく負担が少ないように少年を抱え、とことこ洞窟を出た大使を王女は追いかけながら言う。
「私のミスに巻き込まれたキラを、見捨てるなんて情けないじゃない」
 それは心から悔しそうに。外に出るために再び覆面を被り、黒い鳥に戻ってそう言ったのだった。
 少年がどうというよりは、ただ、自分のプライドが許さなかったのだと。

「…………」
 まさに睨みつける赤い目の少女に、大使はようやく、
「なるほど。それは――確かにな」
 そう言って心底、意地悪くにやりと笑う。
「この森では本気でずっと、シヴァちゃん、足手まといだったしな」
「……!」
 忍の少女は反論できず、両目を歪める。

 不意に――
「まあ、これに懲りて、魔物になろうなんて思わないこった」
「……――え?」
 少女を見ずに、息をつくようにふっと言った。少女は無意識に立ち止まった。
 大使はそれに合わせて、少年を一度下ろし、慎重に休憩をとらせる。
「ここは魔と自然の森だ。ザインやエイラはどちらかと言えば、自然や聖の領域が多くて――ゾレンには魔の領域が多い」
 それなら、あれだけ不調となった少女に、いったい何が合わなかったのか――それを最も早く悟っていた大使は、嘆息するように言う。
「魔の熱は、あんたには合わないみたいだぜ。それならもう、諦めたらどうだ?」
「……――」
 黒い覆面から赤い目だけを出した少女は、傍からわかる程の動揺を、その全面に湛える。
「無理くり奪って貯め込んだ所で、だ。かえって寝込むんじゃ話にならない」
 そう――それがどれだけ、効率の良い方法であったとしても。
「森程度の、魔の熱でダウンするようじゃ、ヒトを食った時なんて洒落にならないぜ」
「…………」

 そして大使は、少しだけ忍の少女から視線を外した。
「オレが受けてやれるのは熱の部分くらいだ。今回くらいの魔なら、胃もたれ程度で済むけど――」
 それ以上は知らないぞ、と。朝のように鳩尾を少しさすりながら言う。
 朝の出来事を思い出してか、少女は僅かに見える顔を、ばっと赤らめる。
 ――直後に、不意に。
 ぼろぼろ、と。大粒の涙を目端に、自身でも驚いたように、急な嗚咽(おえつ)を両手で抑えていた。
「――い!?」
「……――」
 どんどん零れていく涙に、忍の少女自身戸惑い、そこで硬直してしまう。
 言葉一つも発せなくなった少女に、大使はただ一瞬、眼を丸くして――

「……そこまで嫌だったんなら、強がるなよ」
 困ったように笑いながらも、何処か気安く、鋭さの抜けた声で言った。
 ぽんぽん、と、覆面の頭を撫で叩く。下を向く少女に顔を傾け、素直な声で口にしていた。
「あんたは別に……国のために、無理して、魔物になんかならなくっていい」
「…………」
「誰か言ったろ? 力の使い方さえ変えれば、解決することだって」
 それは決して不甲斐ないことでも、強くなる責務から逃げているわけでもない。むしろ、非効率だからやめろ、という断言。
 魔物になんてなりたくない、などと。自身に甘えを許すことを、強くなりたい少女は否定するしかなかった。それでも受け入れることもできなかった。
 だからそれが、翼なき卑小な黒い鳥には、どれだけ大きな解放だったことだろう。

 見下ろしながら大使は、そんな姿を見上げるように――その時だけは何の嘘もなく、白っぽくも見える金色の眼で、しばらく少女の涙を見守っていたのだった。

 大使が少年を連れていく目的の近場に辿り着いた頃には、ゾレン王都の空の赤さが、更に激しい色合いを呈していた。
「ここの方が、まだしも少年も、洞窟にいるよりは回復が早いだろうさ」
「……」
 少年が何度も水を汲んでいた、深い森を貫く川辺で、平らで大きな岩に少年を横たえる。
「ああ――疲れた。肉体労働、辛いな、本当」
「……化け物のくせに」
 少年をここまで運んだ身体を、本気でいてて、と伸ばす姿に、呆れる少女に笑いかけた。
「あらかたオレ達が、第四峠に近付いたら、少年にはきちんと迎えをよこしてやるよ」
 少年をここに置いていく条件に、それだけは絶対だ、と忍の少女は何度も約束を確認している。
 そしてその川辺を、厳しい目付きで振り返りながら――大使と共に、第四峠への帰路についたのだった。

◇⑧◇ 赤い獣

 人工の灯りの乏しいゾレンの黒い夜を、次々と赤い空が侵蝕していく。
 その発生源は、空と地を激しく駆け回り、赤い鼓動を振りまいていく兇々(まがまが)しい獣――
「…………」
 王都に続く川辺に横たえられた少年は、遠くに見える町並みに、心なしかその獣が重なって観えた。
 うっすら目を開けたまま、動くための命の乏しい躯体に、流れる川の匂いという自然の恵みをじっと受け取る。
「……――あの、バカ」
 この小さな恵みで回復できる頃には、最早、全ては終わっているだろう。そう思うと、悪態が口をついて出てきた。
「……全部……燃え尽きるぞ……」
 それがついに、解放されてしまった赤い鼓動……ある男の永い嘆きと怒りを利用された、造られた惨劇であると知るかのように。

――ダメよ、ライザ。負けてはいけないわ。
 少年を昔の仲間である千里眼に託した時に。
 連れ合いを失ったことに崩れ落ちた男は、自らの憎悪によって、その身を滅ぼし得る赤い獣を制御できなくなっていた。
――もう一度封じなければ、アナタの心が消えてしまう。今は何処にも行ってはいけない……ユオンから離れないで、ただ堪えて。
 しかし彼は、彼をゾレンに帰すまいとした千里眼の制止を振り切っていく。
 赤い獣を駆って第六峠に降り立ち、憎しみのまま故国に牙を向ける。

 その後、監視人を含む同国者を多く害した後に辛うじて赤い獣の手綱を取り直したが、結果的にディレステアで英雄として迎えられた。
 そのまま第六峠に滞在し、ゾレンに出入りする道は閉ざされた状態で戦い続け、それから十年、少年の元へ帰ることは無かった。

 元々、旧い事変の際に、赤い獣は男の命を楔に封じられていた。少年を急いでザインに連れていくために、それを具現した時点で男には致命的だった。
 最早制御不能となった獣を、その後も抑えるということは、男の生きる力そのものを奪い去る必要――何の希望もない場所で、冷え切った心で日々を過ごすしか、方途は無かったのだろう。

 そもそもの話……ザインに行くまでの道で、子供を抱きしめる男にある誘惑を囁いた、運命の悪戯があった。
――『解放』しなさい。貴方の中の赤い獣を。
 身の内に巣食う憎悪――赤い獣を解き放つ時、男は自らを失うだろうと。
――貴方にとっては、『解放』が全ての終わり。
 それを恐れて、男は赤い獣を封じ続けた……そのはずだった。
――けれど『解放』こそ、本当は全ての始まり。
 それが此度も「言葉」に籠められた、神の戯れである甘い罠、「解放」。

 育ての母は少年に、男について僅かなことだけを伝えた。
 男は憎しみに駆られて動いたものの、行動は結局、ディレステアとゾレンの和平を求める闘いに繋がった。
 そうなったのは、初めの赤い獣の「解放」後にある鎖が男を縛り、結果、彼を守ったのだと。
――後はライザに、いつか直接尋ねてあげて。どうして彼が……ずっと戦い続けているか。
 育ての母が声を震わせる理由はわかっていた。
 本当は最初、男は消えるつもりだった……燃え尽きるならそれで良かったのだろう、と。

 それならこれは、少年には――
 あの赤い空が本当に、男の望みであるのかがわからず。
――でも、キラ。本当はライザ様、いつだって帰りたかったのよ。
 その希みが、男に熱を与えたのなら。誰がそれを、止められるというのだろうか。


 炎上する王都を荒す、炎の血を持つ赤い獣。炎でできたその獣は、最早原形を留めていなかった。
 獣の本体たる男も、獣を通して焼かれる都と人々を見ているはずだった。
 それでも男は、目前の相手以外に意識を向けない。
 男が脱獄のため体内に隠していた抜け殻、「解放」の「言葉」の残滓。それを通して、決着の時が「声」を呑んだ少年に届き続ける。
「トラスティ……何故だ――」
 最早その「言葉」は、役目を終えた。男の内に取り込まれたと言える。
 「言葉」が宿した解呪の韻を使い、獄中の男は鎖から解放された。炎と化せる己の血を燃やし、石の牢獄を炎で満たし……長年抑え続けた憎悪を国王にぶつける。
「何故アンタは――ミリアを殺した」

 その獣の赤い鼓動――完全に暴徒と化した炎を、剣山のような力で相殺しながら、化け物の国の王は物憂げに佇む。
「…………」
 ……それは、突発的な出来事ですらなく。目前の国王が周到に、男とその連れ合いを欺き、彼らから子供を奪った。そうして彼ら二人を別行動させるように仕向けた罠だった。
 そうして男の連れ合いの命を絶った、化け物の国の王。
「お前こそ――何故、私を裏切った、ライザ」
 その裏切りは、炎の血の男の方が先であると。王都を赤く染めても構わない裏切者へと、厳しい目線を返す。
 国王たる男を、永い暗闇へ堕とし込んだ苦悶。炎の血の男への信頼と、その内の赤い獣への憎悪――相反する強過ぎた感情の中で、旧い呪いと嘆きを、観守る赤い御使いの前に晒す。

 その赤い獣は、「言葉」と引き換えに炎の血の男から離された。「解放」の「言葉」とセットで存在する、「束縛」の抜け殻に封じられていた。
 そうして「言葉」の抜け殻が役目を終える時、男の意志とは関係なしに、「束縛」の封が解けるように仕向けられたのだ。

 ――悪いが、と。
 化け物の速度で共に帰路についた忍の少女に、あんたは知っとけ、と、走りながら緋色の髪の男が真相を明かし始めた。
 少年にもそれが、少女の持っている「耳」から伝わる。
「ゾレン王に和平の気はない。先日の交渉は単に、英雄をおびき出すためだけのものだ」
「……!?」
「オレがあの場を設定したのは、ゾレン王の依頼でな。それを知った英雄も、一人でゾレン王都に行くことを決めた――和平の気がないのなら、いい加減決着をつけるってな」
 だからこそ、英雄をゾレンへ連れて行く大使にゾレンへの通行証が発行された。自らの通行証を持っていた大使の暗躍は、ゾレンとの取引の結果に他ならない。
「英雄はオレとゾレン王の取引は知ってるが、オレと英雄の取引は、ゾレン王は知らない。その意味ではオレは、あんた達よりだが……」
 普段の緩さのカケラもなく、大使は断言する。それでも自分のことは――決して信じるな、と。

 そうは言っても。
 大使一人であれば、土が繋がる所なら簡単に転位できるはずの化け物だ。それが一人で第四峠に帰らずに、こうして忍の少女と共に走っている。
 黒い鳥がその反論を口にしかけた瞬間――
「――!!」
「!? 何者だ、貴様ら!」
 彼らと同じように第四峠に向かう、ゾレン軍の師団と必然的に出食わした。
 一気に忍の少女が緊迫の面持ちを走らせる。
 想定内の事態に、大使は間髪入れずに指示する。
「――エグザル!」
 その瞬間、大きな剣を持ち、全身を外套で覆い隠す人影が場に降り立ち、師団と対峙していた。
「後は頼むぜ。こっちはこっちで何とかする」
「……」
 物言わぬ威圧感を漂わせる人影を残し、大使は少女に再び走るよう促す。
 その、大使の護衛かのような人影に、黒い鳥は何故か後ろ髪をひかれながらも走り出す。

 やがて、ポツポツ、と。
 赤い獣に蹂躙される王都を守る力として、おそらく魔道の士に招かれた雨がやってきた。王都を中心に広い範囲で、ゾレンの国中に注ぎ始める。
 その雨という恵みに打たれ、これまでより倍以上の速度で、少年は命を拾い始める。

 自然の恵みから命を繋ぐことができる少年は、炎と水――そして獣と自然。
 幾重もの対極に位置する化け物達から生を受けて、どちらに染まる自身も持てない、中途半端な化け物だった。
「…………」
 おそらく赤い獣はあえて、王都に離されたのだろう。ゾレンの国力を削りながら、鎮圧も可能である本陣だからこそ。
 非道かつ甘いやり方だ。大使は赤い獣を、英雄との取引で手に入れていた。
 いつそれが暴れ始めるかまでは、大使には制御できないことだろう。それでも可能な限り、あの狡猾な緋色の髪の大使は、争う二国を揺るがす様々な布石を打っていた。

 王都の勢力を削ぎ、雨を呼び、手段を選ばず黒い鳥と少年を助ける。
 それでも到底、もう間に合わない。少年は自身の回復の速度に嘆息する。
「何に……間に合わないんだ……?」
 顔に打付け、まるで涙のように頬を伝う雨。少年は暗い森の空を見上げる。
「俺は……何処に行きたいんだっけ……?」
 今もずっと、聞こえ続ける「変な水の音」。
 それがやがて鳴り止む、その時の到来を……情報の多さに濁る目でも知るかのように。


 それはその赤い御使いにも、何よりも永い束の間だった。
 暗い地下の石の牢獄で。咎人達の観察を命じられた赤い御使いは、二人の男の命がけの審問を見守っていた。
「お前が、ゾレンを出るなどと言わなければ」
 その御使いを、国王は炎の血を持つ男から奪った。そしてどのような化け物でも殺し得る処刑人として、今日この日まで仕立て上げた。
「私は――お前達を殺さずに済んだものを」
 そのまま国王は、全ての裁きをその御使いに委ねた。それが唯一国王にとって、閉ざされた己の宿命に抗う最後の一手だった。

 救いを求める孤高な王と、憎悪に駆られた男の前へ。
 その気まぐれな赤い御使いは、不意に、二人の男の間に降り立っていた。

「……な――……」

 その声はいったい、誰のものだったのだろう。
 光景を共に観ていた少年と、光景の内の男と、どちらが発した惑いだったか。

「…………こんにちは」
 場に降り立った、そのあまりに無垢な赤い御使い。
 全身を包む軽装の甲冑と、幼い身体に合わない大鎌を持った死の天使。
「何か……言い残すことはある?」

 ただ在ったのは、無垢なる処刑人としての弱小な本体。
 それを包み、化け物へと変貌させる赤い鎧。

「……まさか――」

 目前の国王のことも忘れ、赤い御使いの姿に男は言葉を奪われた。
 というより、男はもう、憎悪以外の感情を失っていた。憎悪の鼓動すら、赤い獣がほとんど持っていった。
 他の心は全て、大切な者を失った時から冷え切り、とっくに空虚だった。

 だから男は、赤い御使いに何も言うことができない。呑み込む言葉すらも、最早失われてしまった。
 僅かな沈黙の間で、赤い御使いは現実を悟る。誰も――男自身も滅ぼすことのできない、最強の獣の血を浴びた暴徒を観る。

 少年はただ、慟哭のような呻きを零した。
「――……何で……母、さん――……?」

 黒い髪と青い目の御使いは、くるり、と素早く、手にした鎌を(ひるがえ)した。
 その程度の武器で崩すことはできないはずの、強靭な躯体の英雄を、事も無げにあっさり貫く。
「――……――」
 赤い鼓動に呑まれた男は、言い残すことすらなかった。
 その鼓動を受け止める心臓――憎悪の塊に生かされていただけの命を、そこで完全に刈り取られていく。

 灰色の石の牢獄を、噴き出すそばから炎に変わる血が赤く染める。
 ただ一閃で、根こそぎ命を奪われた男は、やがてその血を炎と化すこともできなくなった。
 それでもずっと、自身の躯体を貫いた御使いの青い目をまっすぐに見つめる。 
「……そういうことか――……トラスティ……」
 やっと戻った、自身の言葉。
 消え残る心を全て、男は向けるべき者へ還す。
「……エルフィ……」
「…………」
 無表情に男の絶命を見守り、青い目だけを揺らす真っ赤な死の天使。
 刹那の一時に見つめ合った後、男は最後に、困ったように微笑んでいた。
「……――すまない」

 ……そうして、炎の血に染まった牢獄の中で。
 生涯を戦いの中で過ごした男はようやく、その膝を屈し……安息の中へ崩れ落ちていった。


「……――……」


 まだ「声」は、その少年の内にありながら。
 それがずっと、届けてきた唄が鳴り止んだ。

「――…………――」

 暗い雨に打たれ、川辺に横たわる少年は、ただその黒い空だけを無機質に見つめる。
 この国に来る直前に話した、二人の王女の、同じ顔を思い出した。
――だから……――
 思えばそれは、とっくに知っていた運命の時。
――探す必要なんて――……ない、って。

 英雄の幽閉を初めて知らされた時から、この末路はわかっていた。
「まず……助けるなんて、できないのに」
 わかりきっていた結末。とっくに知っていた運命の時の到来。

 そっか――と、少年は納得がいく。
 そこまで強くない雨なのに、何故か川が水かさを増していた。
 まるで少年と呼応するように、ざわめき始める流れの川辺。
「俺のせいで……」
 つい先刻、事切れた男が最後に見ていた、長い戦いの末の答。
「俺のせいで……俺と二人で……母さん達を置いて……」
 男が連れ合いと離れ、守ることができなかった理由。少年の長い不信と疑問が氷解される。

――お願い。このままだとユオンが危険なの。
 その黒い髪と青い目の母は、ほとんど微笑みを浮かべることは無かった。それでも常に強く在った。
 最早少年には、思い出すことの叶わない記憶。しかし男は確かにその眼で、ゾレンに残して行く結果になった、大切な者の姿を見ていた。
――先にザインに行って。わたしは大丈夫……トラスティがエルフィを探してくれるから。

 そうして、最後の砦の瓦解を少年は知る。
「俺のせいでアンタは……俺と二人だけで。母さん達を置いて……ゾレンから出たのか」
 それは結局、彼のせいではなかった現実。

 唯一。ただ一人少年が、誰かのせいと言える相手。
 少年の咎を代りに引き受けることができる、嫌いと言って良い誰か……それも少年は失った。
 これでもう、少年が生きていた方がいい理由は、本当に全て失われてしまった。
「…………」
 けれど、その運命の到来は避けられなかった。
「そんなの……わかり、きってた」
 だから初めから、少年は何も希めなかった。

 突然、まるで生き物のように躍り上がり、黒い濁流が押し寄せてきた。
 そのまま川辺に横たわる少年もろとも、全てを飲み込んでいった。


+++++


 温泉魔道士。アラク・ネイデス・Z。
 そんな気の抜ける愛称で王妃に愛でられ、その心身を癒されてきた化け物――ゾレンの大罪人。
「君が、これまでの護衛の――キラ君?」
 初めまして! と、新たな護衛である好青年は、王女を守る仲間として心底嬉しそうに、少年と大きな握手を交わした。

 その後少年は、早々に人間の娘に尋ねる。
「アイツ……俺の知り合い?」
 初対面で言う少年に、好青年を連れてきた人間の娘は少し呆れつつ、そうよ、と、好青年を下がらせた後で頷いていた。
「知り合いというより、実の血縁だけれど。あのヒト、ユオンのお母様の弟なんですって」
 つまり叔父ね、と。しかしそれは、以前の記憶が無く、戸籍も新たに与えられた彼には言ってはいけないことであるようだった。
「ユオンは――知っているのかしら」
 十七年前、ゾレンの西部では大災害が起きた。西部中の川が竜のように荒れ狂い、多くの死者を出した大洪水は、幼きアラク少年が引き起こしたものであるという。
「ユオンのお母様より、更に血の濃い竜人で……今はもうかなり力を失ったというけれど」
 それでも魔道士としても、地下水脈を自在に操り、集中すれば短い間、昔のように洪水を起こすこともできるらしい。不安げな娘に、少年はふむ、と感心していた。
「凄いな。そんな化け物を隠してたのか、王妃は」
「あのねぇ。ヒトのこと言えるのかしら、アナタは」
 竜人。何らかの自然の脅威をヒトの身に宿し、化け物の中でも有数の、最強と言われる種の呼び名がそれだ。
 一応その血を少しひく少年は、だからこそ自然の恵みから力を得られている。
「だって俺は――竜人の『力』は無いみたいだし」
 そして飛竜という、獣の血をひく身でもある少年は、どちらの力も拙い状態だった。

 その竜人という種は、ある有名な証として、王者が持つ「逆鱗」や「竜珠」と言った秘宝と、竜人であれば全てが持つ小宝があるという。
「『鈴』を持ってないと、竜人じゃないんだろ?」
「竜の眼と言いなさいよ。俗称は確かに、鈴と言うらしいけれど」
 そうして、人間のくせに好奇心旺盛で、色々竜人という種の話を聞いたらしい娘が喋り始める。
 少しなりと竜人の血をひこうと、「鈴」――内部に小さな珠を宿す透明な小玉が無ければ、竜人とはみなされないらしい。竜を竜人にするために必須の宝が一人二つの「鈴」で、正確には「竜の眼」という。
 その「鈴」を持つ者なら、どれだけ薄い血でも竜人であり、大きな力を発揮できる上に、命の予備ともなるとの話だった。
「アラクも『鈴』の一つを代償に蘇生できたと言うし、ユオンのお母様、ミリア様も、竜の眼を力の源にする魔道士だったみたい」
 しかも、と娘はそこが重要であると、両手をぐっと握り締めて目を輝かせる。
「伝承では、竜の眼や竜珠の秘宝の力を利用した、古代の武器や防具もあるんですって」
「……?」
「つまりね。たとえば私みたいな人間でも、そのアイテムさえ使えれば、化け物さん並みに強くなれるってことなのよ」

「…………」
 少年はただ、怪訝な顔で首を傾げた。
「アディは……化け物の力なんてほしいか?」
 それは何だか、勿体ない。自分でも理由がわからないが、そう思った。
「力なんて無くても、アディは充分、しっかり生きていけそうなのに」
「……そうかしら」
 この娘はかつて、エイラ平原からザイン、ザインからゾレン、そしてディレステアへと、全ての道程を踏破した根性がある。
 何より、少年から見て人間の娘は、戦いより大切な何かを上手く行う力があるように見えた。その才能の方が余程得難いのでは、と、戦うしか能のない少年からは思えるのだった。

 ……少年がそんな、束の間の無害な記憶を夢に見たのは。
 ゾレンの森の川辺で、少年を包んだ純粋な自然の力と――

――王女様。どうか僕に許可をお出し下さい。
 相変わらず内なる「声」から、違う場所の状況が届く。今度は「耳」や「言葉」でなく、「頭」からの情報だった。
 少年が濁流に呑まれた理由を、わざわざソレが中継してきたのだ。
――この状態では結局、反乱勢力を止めることはできません。それにゾレンのあの炎も……あのままでは多くの犠牲者を出してしまう。
 ゾレンに向かう反乱勢力を止めるために、王女として正規軍本部に控えていた人間の娘は、ある決断を迫られていた。
――エイラからゾレンに続く川を……一時的に氾濫させましょう、王女様。
 そんなことを言い出した、見た目よりシビアな護衛の提案によって。

――でも……。
 それを実行すれば、ゾレンの国土に近付くだろう反乱勢力のみでなく、ゾレン本土にもその洪水は及んでしまう。つまり、ディレステアからの攻撃を意味することになると、人間の娘が言葉に詰まる。
 そんな娘に、護衛はまっすぐに告げる。
――この状況で、最早激化は避けられません。
――…………。
 竜人の血を持った魔道士の護衛は、魔道を司る者に多い現実的な思考と見立てでもって、冷静に所感を口にする。
――それならせめて、反乱勢力に無駄死にをさせるのではなく、彼らがゾレンに攻め込む前に激化を……彼らが行うよりは、無難に起こすことです。
 河川の氾濫を起こすことの意味は、ゾレンには確かに攻撃ととられるはずだ。けれど実際には、反乱勢力を足止めするだけではなく、炎上するゾレン王都に対して助け舟を出す形にもなる。
――短い間の氾濫であれば、大抵のゾレン人は、巻き込まれても死ぬことはありません。
 王都に濁流が襲いかかったとして、燃え盛る炎に困る一般ゾレン市民にとって、その方がまだマシな災害だろう。攻撃されたという認知と、炎が治まってくれたという感情は、どちらがより強く残るだろうか。

――……つまり。避けられない激化ならせめて……遺恨を少なく、誇りを持った形で始めようということね。
――はい。この形であれば、両国共に、深追いせずに撤退できる可能性は……僅かだけでも、残ります。
 護衛の言う通りだろう。人間の娘はそれが、この場でまだしも、ましな選択であるとはわかっている。
――……シヴァ……。
 それでもあまりに、その災厄を自ら引き起こすことの決断は重かった。
 そうして認めた護衛の提案を、指揮をとる将軍達と相談するに当たり、その重責に強く自身の両肩を抱き………将軍達が本部に戻るまで、いつまでも全身を、緋色の抜け殻蛇の前で震わせていた。

 そしてその自然災害を、意図的に起こせる屈指の魔道士は、世界最強と言われる「自然の力」を完全に制御して放った。第四峠からゾレン王都に続くその川が、荒れ狂う黒い竜と化していった。
「――……」
 黒い竜に呑み込まれることとなった、竜の血をひく少年は、そのままゾレン王都まで流れに乗って運ばれる結果となった。
 一度は観ておかなければ、と思った王都。まさかこんな形で来ることになるとは、誰も思っていなかっただろう。
「……ああ……」
 濁流の中で、今まで少年を包んでいた白い包帯が全て剥がれ落ちた。大事な黒いバンダナだけはずっと押え、何とか守り切ることができた。
「このくらいなら……動ける、な」
 特に高純度な、自然の懐に包まれた少年は、いくらか傷を癒せる程に大きな命の補給を受けることになる。

 そして、流れ着いた王都の川のほとりで、少年はゆらりと立ち上がった。
 突然の濁流に警戒し、集まってきていた軍人達が、その不審な姿に気付かないわけはなかった。
「――!? 何だ、お前は!?」
 ようやく川の氾濫が一段落し、王都を燃え上がらせた赤い獣も、いつしか消え去っていた。
 軍人達はこれから第四峠へ、攻撃を仕掛けてきたディレステア軍に対して、応戦するための召集を受けていたところだった。
「!? 貴様……!?」
 一般兵と見られる雑兵にも、少年は見過ごせない者だとわかったらしい。
「貴様、もしやあの裏切り者の仲間か!?」
 何を言っているのだろう。手負いの少年は俯きながら笑う。
 英雄と同じ顔を持つ少年。第六峠の守り手がこんなに広く知られているのは、それだけ英雄がゾレン国内でも、様々な所で役立ってきたことの証だろうに。
「貴様、あの赤い獣を連れにでもきたのか!?」
「…………」
 まだその裏切り者の死は、雑兵に伝わっていない。赤い獣が消えた意味すらわかっていないのだ。

 そうして段々と、雑兵が集まってくる中、少年は暗い口元を強く歪める。
「……俺が……何者かって?」
 キラ・レイン。少年がその名を使うのは、黒い鳥の前でだけだ。だから腕の黒いバンダナも使わず、薄暗い口の端が上向きに裂ける。
「俺は……アンタ達が大嫌いな、裏切り者の」
 すっと、静かに剣を抜いた少年に、雑兵達も武器を構えて向き直る。
「……裏切り者……ライザ・ドールドの……」
 そうして静かに、漆黒の宝の剣を、少年は黒い地面に突き立てる。

「ライザ・ドールドの……俺は『鎖』だ」

 名乗り上げと同時に、突き立てられた剣から全方位へと光が走った。
「――ああああああ!!?」
 驚愕の声を上げた雑兵達は、いったい彼らに、何が起こったのかもわからなかっただろう。

「……――」
 雑兵達を貫いていった、叫喚を伴う白い光。
 命を力として削る少年は、「命を奪う」ことの意味を初めて知る。
「……へぇ」
 ごろごろと転がる、外傷のないいくつもの死体を見回す。
 黒い柄の剣を握りしめて、自身に現れたある変化に気が付く。
 少年はそのまま、次の獲物を探して、王都の町中へ向かうことにした。

 王都と銘打つその町並みは、ゾレンの他の地方に比べれば、確かに建物が多くひしめき、賑やかに見えた。
「でも……所詮、田舎の城下町だな」
 現在は急な業火の出現と、その後に起こった川の氾濫に、所々で怪我人、それを保護する自治団の者や、状況を確認する軍人などが走り回っている。お世辞にも統制がとれているとは言い難い状況だった。
 ふらりと、ゆっくりと歩いて回る少年は、
「待て、何者――ああああ!!?」
 そうして軍人に出会う度に、命を奪う。おそらく第四峠があるだろう北西の方向へ、そのまま足を進める。
 その剣光一閃があまりに早業で、そして倒れている者の外傷がないので、彼らが殺されていることに、この混乱の中では気付かれていなかった。

 前だけに進む少年は、その方向に待っているだろう人間の娘が、この国に来る前に言った言葉を思い出す。
――いい、キラ? ゾレンにいる間は、無闇に殺さないでね……その必要は無いんだから。
「…………」
 また一人。少年が歩いて行く道筋に、謎の死に方をした、卑小な化け物の兵の死体が連なっていく。
「……残念だけど」
 足を進める程に増えていく、軍人達との遭遇。このまま第四峠を目指せば、目指しながら沢山敵を始末できる、と暗く歪んだ口元で嗤う。
「俺はこれ……必要だと思う、アディ」
 一人……また一人――……。
 幾人もの命を奪う程に、その剣から発される白い光は、輝きを増していくようだった。
 命を武器にできる少年の特技。使えるのはどうやら、己の命だけではなかったらしい。
「本当に――」

 命を武器として使える、少年のその特技。
「奪えば奪う程……強くなれるなんて」
 命を奪う。それはつまり、文字通りの強奪。
「なんて――……ありえないヤツ……」
 少年はただ、その効率の良さに心から嗤った。

 その奪った命は、少年自身の体を生かすことには使えない。けれど次に出会う相手からまた奪うために、攻撃として放つ白い光の源になる。形なき力を光の刃と化せる、宝の剣にも合うようだった。
 思えば、以前に将軍級の化け物と戦った時、その前にも少年は何人も殺していた。
 それが少年が、あの化け物に勝った理由の一つかもしれない。

「貴様……何をしている!!?」
 俯きながらゆっくり進む少年の後ろ、足跡のように重なっていく死体に、さすがに気付いた師団の一部が少年を取り囲んだ。
 第四峠に向かい、自国者に殺戮を行う謎の少年。
「まさか――ライザ・ドールドの息子か!?」
 ここに来てようやく、この少年の脅威が認定されたらしい。
 さて。今度は誰から殺そう。
 そんなことだけ考え、顔を上げたその時だった。
「――」
 身の内の「声」から、少年に危機が伝わる。
 同時に場に突然降り立った人影に、ようやく少年の凶行は、一旦間を置くこととなる。

◇⑨◇ 赤い御使い

 森に棲む妖精のような、無垢なる処刑人。
 後にオセロット・アーク――気ままな死の天使と呼ばれる、黒い髪を左耳の上で束ねる少女の、初陣が第四峠だった。
「――あれ」
 幼い躯体――それも中身はほぼ人間という、圧倒的な弱さを補う秘宝の赤い鎧。
 誰より早く戦地についた秘訣、空中を疾走できる小宝。宝の菱盾――凧型の角盤を乗りこなせることが、赤い少女の主な武器だった。

 その赤い少女が単独で押し入ったのは、まさに敵国の真髄。
 第四峠に近いゾレン領で、臨時に国境上に構え直されたディレステア軍の本部。本来なら簡単には見つけられない戦いの中枢に、赤い少女は空から押し入る。
「……えっ……子供――!?」
 飛行する化け物という稀な脅威と、その幼さに、王女たる娘が驚愕を浮かべる。

 ――あれ、と。押し入った赤い少女も不思議そうに首を傾げる。
 兵達が出払った本部は手薄で、人間の王女と周囲の護衛が丸見えだった。
「あのヒト……王女様なの?」
 人間の王女といる「頭」は急いで、その危機を少年に中継する。
「キラ! すぐに戻るにょろ!」
 第四峠に向かい、ゆっくり虐殺を行っていた少年も手を止める。
「アディちゃん、気を付けるにょろ! あの鎧も菱盾も竜人の秘宝――危険だにょろ!」
 一早く抜け殻蛇は、その赤い少女の正体の一端に警告を出す。
 情報は英雄の内にあった「言葉」からのもので、本当は少女の正体もわかっているが、人間の王女が動揺するだろうと見越してそこは言わない。
 そんな抜け殻蛇にも、何あれ? とまた、赤い少女は首を傾げた。

 そしてその標的を、赤い少女は見つけた。
「――あ。いた、いた」
 命じられた仕事のために、貫通力よりは機動性と切れ味を重視した、小さく片手で持てる鎌を取り出す。
「何者だ! 近付く気なら容赦しないぞ!」
 滞空する謎の赤い少女に、まずその魔道士は霧の壁を張った。それによって赤い少女は更に、標的の正確さを実感できていた。
「さっきの洪水を起こしたのは――あのヒトだ」
 霧に包まれ、しかもかなり熱を持ったその霧。うわっ、と顔をしかめながらも、
「今日は、そのヒトを見つけて、いつも通りお仕事でいいんだっけ」
 そうして、森を出た初陣として申し付けられた役目を、改めて反芻する。
 霧から一旦距離をとる。霧の内部の様子は、普通の化け物であれば、肉眼どころか気配探知も不可能な状態だった。
「…………」
 しかしその、無垢なる赤い少女には――
 その霧がどれだけ高度な結界であれ、意味を持たないことを抜け殻蛇は知っていた。

「来るにょろ! アラク、応戦するにょろ!」
「――!?」
 もしもその助言がなければ、赤い少女はすぐその護衛の首を狩り、仕事を終えていただろう。
「――あれ?」
 飛び込んだ霧の先、熱い地下水脈が噴上がり、仕方なく再び霧の外に出て体勢を立て直した。
「何なんだ!? この狙いの正確さ!」
 熱の霧の通過を最低限に、赤い少女はまっすぐに護衛を狙いに来た。近接戦を苦手とする護衛が焦燥の顔となるのも当然だろう。
「やだな。思ってたより難しいんだ」
 しかし赤い少女の方もそれなりに、現場の厳しさを感じ始めていた。
「僕から離れて、皆は王女をお守り下さい!」
「アラク……!」
 一番強いはずの護衛の焦り声に、全員に緊迫が走る。

 相手の動きを封じる魔道が通じない以上、魔道士というものは、機動力のある者を相手にするにはかなり不利だ。
 戦局のわかる抜け殻蛇が必死に、何度も少年に呼びかける。
「ああもう――キラ、早く帰るにょろ!」
 ディレステア側の者で、その相手ができるとすれば、主に近接戦を得意とする少年。もしくは相手の機動力をもおそらく奪う「壁」を持つ、真の王女くらいだろう。
「あれはキラと同じだにょろ! オマエしか相手はできないにょろ!」
「デューシス……!?」
 何よりその、抜け殻蛇の焦り声が、人間の王女が腹を決める決定打となった。
「キラと同じって……もしかして……」
 少年と長く時間を過ごした人間の王女にも、それは思い当たることだった。
 この本部を簡単に見つけ出して、霧の結界が全く通じない。
 それは確かに、忍の少女の「壁」が通じず、隠された場所を見つけることを得意とする少年とよく似ている。

「――」
 それなら――と、人間の王女は顔を引き締める。
「アラク……霧を解除しなさい!」
「――え!?」
「防御壁としての機能は諦めて! でないと私達にだけ敵の姿が見えない!」
 そして娘は、内心の動揺と恐怖を抑え、彼女の武器をしっかりと構えた。

「……あれ?」
 あの熱い霧にどう飛び込もうか、赤い少女が悩んでいた間に、突然霧が晴れた。
「――えっ」
 単純な武器を好むゾレンでは、その高度な飛び道具を、赤い少女は目にしたことがなかった。
 赤い少女が、直観の少年と同じ――実際はそれ以上である天性の持ち主でなければ、少女の命はここで終わっていただろう。
「……!!」
 滞空する赤い少女に向けて、一斉に放たれた銃撃。気配の探知に長ける直観を持つ赤い少女は、辛うじて全弾を避けたものの、
「――来たわね!」
 そのために宙でバランスを崩し、平地に降り立った。狙いやすい位置だったため、人間の王女が咄嗟に前に出てしまう。勿論周囲の兵士も慌ててついていくが、人間の娘の行動があまりに意外過ぎたのだ。

 そうして、銃の腕に長ける人間の娘の構えた武器に――
 赤い少女は、死を探知した。


+++++


 時間は少しだけ戻る。
 全身を外套で覆う謎の人影……その、物言わぬ男が少年の前に降り立った時。
「……?」
 少年は初め、わけがわからなかった。
 少年を取り囲んでいた師団の一小隊を、外套の男は僅かな時間で片付け、少年はただ不可解な目だけを向ける。
「アンタ……前に、会ったっけ」
「……」
 少年とその外套の男は、以前に剣を交わしたことがある。しかし今、何故この人影がこちらに現れたのかが、少年にはわからなかった。
「シヴァとアイツを、守らなくていいのか」
「…………」
 これはあの軟弱な緋色の髪の大使が、護衛のように常に連れる者だ。今回、通行証がもう一つ必要だったのも、この相手のゾレン入国のためだろう。
 基本、無口らしい外套の男は、説明することを面倒くさいと感じたらしい。

「――って、え?」
 突然がばっと、呆気にとられる少年を担いだ。
「って――……羽――!?」
 本来、全身を外套で覆う者の背からは、外に向かう翼が生えることは有り得ないが、外套を透けるように貫き、透明な翼が大きく広げられていた。
「……第四峠まで送ろう」
 空に舞い上がる中の一言で、やっと少年は状況を察した。直接言われるまでわけがわからなかった、勘の良さの鈍った自身に気付くこともできなかった。
「迎えって……アンタのことだったのか」
 緋色の髪の大使と忍の少女が、ある程度安全な地域に帰りついてから、この相手はこちらに来たはずだ。
 思えばこの相手がずっと陰で見守る違和感もわかっていたのに、誰が迎えか、それをすぐに思い至れなかった。

 そこへ突如、救難が入った。
「――キラ! すぐに戻るにょろ!」
 身体の中から響く「声」に、少年はぴくりと眉を強く顰める。
「今は動けるなにょろ!? アディちゃんが危ないにょろ!」
「……――え?」
 他の抜け殻達が見た情報を全て把握する「頭」は、その危険な状況をすぐ理解できていた。
「あいつが来たにょろ! 森で最初に――シヴァちゃんに話しかけたあのコにょろ!」
「――」
 その言葉だけで少年は悟る。身の内の「声」から「頭」の情報を完全に引き出す。
 澱み切っていた目に青く暗い光が浮かんだ。「頭」が告げる敵の存在が誰であるのか――あの赤い御使いをすぐに思い出した。

 そして少年が、羽の生える外套の男から、第四峠のその平原に下された時。
「……――」
 少年の前には、一瞬では理解できない惨状。腕に巻くバンダナを着け直すことも忘れ、青い目を見開いてしまう。
 育ての母と親友を失った時の、赤い部屋に迫る異状が広がっていた。

 エイラとゾレンの境である平原の中。エイラ側が低くなる地形を利用し、ディレステア正規軍の臨時本部は、ゾレン側からは死角になる位置にあった。
「……アディ……?」
 本部から少しだけ離れた、平原の近く。
 赤にまみれた小さな鎌を持ち、何かの角盤を盾として身を低くする、赤い御使いの背後が見えた。
 本部からの銃撃を防ぎ、反撃に転じる隙を窺う赤い鎧の少女。
「――……――」
 その赤い少女のすぐ近くに、異状はあった。
 まるで、その部分から上を、全て失ったかのような人体の一部。
 平地にぽつんと立ち尽くしている……脛部から下だけが残った、二つの、人の足。

「――ア……――」
 少年は、本部と赤い少女を繋ぐ延長線上に下ろされていた。だから本部の様子はほとんど見えない。
 長靴のような足。その膝から上は、いったいどこに行ったのだろう。赤い少女のことなど目に入らず、ただ真っ白になった頭でそれだけ探し求める。
「キラ! しっかりするにょろ!」
 その声にびくっとして振り返る。
 何故かそこには、元の十倍以上にかさが増え、巨大化していた抜け殻蛇がいた。
「アディちゃんもアラクもオイラが保護したにょろ! オマエの相手はそいつにょろ!」
「――」

 しかし赤い鎧の少女の方は、少年の出現に、自身の不利をすぐさま悟ったようだった。
「……もう、いいや」
 初陣の目的は果たせなかった。
 でもそれはそれで気にならないのが、この気ままな死の天使でもあった。
「あのヒト達も……優しいヒトみたいだし」
 だから、殺さなくていいや。それがここの戦いでの、少女の答だった。

 一度、赤い少女を射程に捕らえた人間の娘は、
――こんなこと、もうやめなさい! あなた……まだ子供じゃないの!
 確実に仕留められる腕と距離だった。しかしその相手は、少女が角盤で一気に間を詰めた最後まで武器を使わなかった。

「――!」
 まだ放心状態が続き、咄嗟に対応できなかった少年――敵側の増援が後ろにいると、赤い少女は気が付く。
 それなら人間達の怖い武器も撃ちにくいはずだ。思い切りよく己の角盤に乗り、再び中空へ駆け上がった。

 そこで、赤い少女も衝撃と共に。
 この運命の日に、そこに現れた少年の存在――
 互いに互いを、初めて観つける。

「……久しぶりだね。ユオン兄さん……」
「……――」
「でも、エルのこと、兄さんは覚えてないね」

 無骨な赤い鎧に身を包み、少年を見下ろしている赤い少女。
 赤く染まる鎌を片手に、無表情な青い目。残酷さも感情も覆い隠す幼い姿。
 それは紛れもなく、少年の近縁者を、二人も手にかけた赤い御使いだった。
「……アディを斬ったのはオマエか」
 一瞬で意識が戦闘へ切り替わった。暗く澱み切った零下の目で、それ以上何一つ、言葉を発する必要もなくなる。
「――!」
 剣を抜き、これまで沢山のゾレン兵を殺して蓄えた力を問答無用で放つ。滞空する赤い少女を、その白い光――命を直接削ぎ落とす叫びが襲う。
 その危険さを本能的に悟ったのか、赤い少女は回避に専念していた。
「……!」
 少年が剣を振るう度、間髪を入れずに次々と三日月のような白光が放たれる。角盤の機動性で何とか避けきっているが、赤い少女はおそらくここに来て二回目の、激しい感情――……とても不快そうな顔で少年を見下ろしてきた。

 銃を向けることができないよう、死角となる段差の上に滞空していた赤い少女は、唯一自分を狙える背側の少年の斬撃を、心から嫌そうにしていた。
「……何で?」
 それを次々と、自分に向けて撃つ少年に――
「ユオン兄さん……わたしを、殺すの?」
 あまりに純度の高い「命」の天声。その正体も感じてのことか、殊更不快そうに少年を見続けている。

 赤い少女の問いかけに、少年は答える必要性を全く感じなかった。
「――」
 赤い少女は不快そうな顔のまま、首を傾げる。
 目の前の少年は、確実に赤い少女の正体――少女が実の妹であると気が付いているのに、と。
「兄さんは……優しく、なくなったね」
 それが一番、赤い少女を不快にさせた、少年への観想であるようだった。

 少年としては、ゾレンの化け物として育てられた赤い少女が、少年と同じ直観の力で彼らの父を殺したことをわかっている。
 今もここで、少年の拠り所となった者達を傷付ける相手に、何の関心も持てなかった。
 ただ、ゾレンで出くわした化け物の二人が、おそらくこの赤い少女を妹として一緒にいたこと。それでその直観を以た戦い方に慣れていたことはわかった。
 そしてこの赤い少女のために、少年の母が一人でゾレンに残り、殺されることになった真実も。

 赤い少女の方も正直な話、少年が五歳、少女が三歳の時に別れた状態であり、言う程少年を覚えているわけではなかった。
 この少女が生まれ育った家から連れ去られた時に、それを守ろうとした幼い兄が血まみれになってしまった姿。それだけ思い浮かべている。
 とても残念そうに、赤い少女は最後に呟いた。
「兄さんはエルのために……やっぱりあの時、死んじゃったんだ」

 少年が放つ死の斬撃は、少年と同じ直観を持つ赤い少女にはことごとく避けられていく。
「……」
 これ以上は無駄と悟った少年は、力を使い切る前に剣先を下げた。
 ただひたすらに、まだ滞空する赤い少女としばらく睨み合い……そして。
 最後通告のように、少年はそれだけ言った。
「名を名乗れ。ゾレンの刺客」
「……――」
 それは、これまで赤い少女が口にした名を否定し、少年との関係を断絶する言葉だった。
「俺はキラ・レインだ。あんたはいつか――俺が絶対に殺す」
 バンダナのない姿ですらもその名を使う。
 そしてこれまで通り、赤い少女への殺意を完全に認めた。
「…………」
 赤い少女は、痛く不服、という顔を隠さなかった。
「……ピアス。――ピアス・エルフィ」
 どのような化け物でも貫く御使い。森に棲む妖精にして、無垢なる処刑人。

 実際にその通り、何人ものゾレン内の受刑者を、少女はその力で処断してきた。
 それでも厳として、撤退する間際に少年に言い残す。
「でもわたしは……兄さんは殺したくない」
 そうして来た時と同じように、その角盤で空を駆け、黒く戻ったゾレンの空へと消えていった。


 赤い少女が去った後、少年は、黒いバンダナを頭に巻き直した。英雄の子だと知らない者達の元へ、赤い呪いに守られて戻る。
 少年自身の怪我の応急処置を受けながら、その惨劇の顛末を聞いた。

 赤い少女を一度追い詰めながら、人間の娘は速攻に入れず、地面にいるまま角盤で疾走した少女によって両の下腿を刈られた。
 それを守ろうとして夢中で飛び出した護衛も、近接戦は不得手のためにその後に負傷する。
 そして負傷後の二人は、急に近付き、おりゃあにょろ! と有り得ない大口を開けた抜け我蛇に、丸々飲み込まれたという。
 そのまま本部に回収され、何とか以後の難を避けられたということだった。
 その一部始終を、少年はぴくりとも表情を変えないまま、黙って聞き終えていた。

 その後、負傷した者達を、ディレステア側の第四峠のレジオニス大使館にひとまず預ける。
 ゾレンから戻った少年は本部に控え、第四峠に向かうゾレン軍の情報に、夜明けと同時に更なる戦闘の開始があるだろうと予想していたのだが……。
「……シヴァ」
 忍の少女が、第四峠大使に抱えられて帰り着いた時には、既に空はかなり明るんでいた。
 それでもゾレン軍のみならず、反乱勢力の騒ぎすら起こらなかった。結局は臨時本部への刺客の急襲のみ、その日は記録に残ることとなった。

 忍の少女は、傍目には全く外傷はなかった。
「ちょっとな。大分無理して疲れてるから、休ませてやってくれ」
 そう言う大使はあちこちが焦げて、何やらぼろぼろな状態で帰還している。
 「耳」からの情報で、少年はその時には、何があったか既に知っていた。
 忍の少女はたった一人で――正確には、それに最後まで付き合った暇な大使と共に、今回の激化を止めてしまったのだ。

 そんな二人の帰投を見届けた少年は、ただ一言――
「……何で?」
 彼らのその、行動の動機がさっぱりわからなかった。
 バンダナに隠されている以上に暗くなった視界で、それだけ無表情に口にした後、緊張の糸がさすがに切れて倒れ込んでしまった。

 元々ずっと、限界を超えて動いていた。そのままおいおい、と大使に保護される。
 倒れ込む刹那に、黒い鳥のその無茶と、付き合えた大使の底無しさに呆れるしかなかった。
 ゾレンもディレステアも全く関係なく――国境から第四峠まで広範囲の「壁」を作り、戦いの熱を奪うという、無茶を通し切った二人に。

中編・終幕

 
 全く、と。気丈な人間の娘の呆れるような声に、逆に呆れた少年と忍の少女だった。
 第四峠レジオニス大使館の一室、二人の王女が二つの寝台で休んでいる。床に敷物をひき、ただ転がる少年と抜け殻蛇は、全員が同じ部屋にいた。
「デューったら随分、皮が余っちゃって……これじゃ当分、肩には乗せられないわよ」
「うわーんにょろ! オイラ、めちゃくちゃ頑張ったにょろ!」
「シヴァも本っ当……いくら、どれだけ熱を奪っても平気になったからって。さすがにね、それは食べ過ぎでしょう」
「…………」

 両の下腿を失った人間の娘は、一番安静が必要ながらも、至って明るい。強い鎮痛剤を大使に沢山もらったと言うが、それにしても元気過ぎた。
「それにねぇ――ユオン」
「……」
 少年は何故かあれから、一言も口をきく気になれなかった。しかし二人を守らなければいけないので、療養部屋は同じにしてもらい、床に陣取ってまでずっとそばにいる。
「あのね。もうここは、戦地じゃないのよ」
「……」
「心配してくれているのは、わかるけれど。それならせめて、少しは喋ってくれない?」
「…………」
 ごろん、と同じ部屋にいながら背を向けて転がる。全く、と人間の娘が呆れる。

 少年の気持ちがわからなくはないのか、忍の姿のままで王女が、つい声を出していた。
「……ゾーアはどうして、そんなに元気なの」
「ええ? だって、良かったじゃないの?」
 無防備に笑う人間の娘に、残りの二人は揃って両目を顰める。
 しかしそれは、人間の娘には、無理な強がりではないようだった。
「まず、シヴァとユオンが無事に帰ってくれた。それだけで私、凄く幸せだし」
「……」
「……」
 真の王女は人間の娘をがんと直視する。
 少年はどちらにも背を向け、沈黙を続ける。
「それにね。あの時私、これは本当に死んだ! 本気でそう思ったのよ」
 でも、と、幼げで気丈な娘は優しく笑う。
「あのコ、私とアラクのこと、殺せたのに殺さなかった。それに私も、あのコを殺さないで済んだし」
 その甘さの代償が、これだったのなら。祈るように人間の娘は口にして、改めて潤んだ目で微笑んでいた。
「ああもう。本当に、凄く怖かったんだから」
「…………」
「…………」
「だからね。今、二人がそばにいてくれること……それだけで私、とても満足なの」

 そして、あまりにあっさり、それを口にした。
「でも本当、まさに失脚。こんなんじゃもう、王女代行なんてできそうにないかしらね?」
「ゾーア……!」
 覆面のままの王女は、人間の娘のその台詞を一番聞きたくなかったのか、思わず声を荒げる。
 しかし、あくまで聡明な娘は断言する。
「それはシヴァが決めてね。このまま私を、両足を失った王女として定着させるのか……この機会に、シヴァが王女に戻るのか」
 私はどっちでもいいわよ、と。何処か儚い微笑みで、娘はそう告げた。
「…………」
「そろそろ、本当は考えなければいけない。ザインの頃から、そう思っていたのよ」

 化け物の力を持つ王女の代わりに、人間の国の人間の王女を見事に務め上げた、気丈で聡明な娘。
「そういう意味では、これは……神様からのお告げなのかもしれないなって」
 危険であることなど、百も承知だったのだから、と。十年王女を代行した娘はそんな風に、誰を責めることもなくまとめるのだった。

 それでも――と。少年は暗い色の目で思う。
 少年が口を閉ざし続ける理由。そのことはいずれ、明らかになるとしても――

 あの赤い少女と少年のことや、少女の手で処刑された英雄のこと。
 そしてゾレンで、少年が行ってきた殺戮。
 一度口を開き、この二人と話をしてしまえば、きっと人間の娘の気丈さには大きな影が落とされるだろう。
 嘘を吐くのが、少年は本来巧くない。親友を真似る以外のことは限界がある。
「…………」
 だから何も話さない、と決めた。口を閉ざす少年を、誰もが複雑そうに見守る。

 ゾレンで色々あったことを、真の王女も人間の娘に話していない。
 それは全員が回復してから、と――王女も口を閉ざし続けていた。

 王女が口を閉ざす理由は、少年と似ている。それでなくても惨劇にあった人間の娘に、これ以上負荷をかけられない――そして。
 第四峠にすぐ帰り着くよりも、勢いでそれを決意し、「壁」で争いを止めることを優先してしまった、大き過ぎる後ろめたさだった。
 少年にすれば、どの道王女が間に合うことはなく、無駄とわかった感傷であっても。


 赤い少女と対峙する中で、第四峠を目指す王女の声も、少年には同時に聴こえていた。
――いくらでも熱を奪えるのは……本当?
 突然がしっと、同行の大使の腕を掴み、驚く大使に王女はそんなことを言い出していた。
 残してきた少年を守る壁を広げ、戦場になる第四峠まで囲めば、その内では争いの熱を奪えるはずではないか、と。
――そりゃ。それくらいは受けられるけど。
 大使は王女を回復させる時、ある小さな抜け殻を呑ませた。そこから抜け殻を通じて、その熱を横流しに引き受けている。「火の島」出身という大使は、太陽と銘打つ聖地で、島レベルの灼熱を当たり前に生きてきたのだと。

――でもな……それ、やってどうする?
 仮にその無茶を、王女が恐ろしい程の根性でやり遂げられたとしても、それは今、この時の問題しか解決しない、と大使が呟く。
――一時でいいの。第四峠に帰れるまでだけでも、戦いの熱をとにかく少しでも無くしてしまいたい。
 それがもしも可能なら――遠くに在っても、何とか第四峠の激化を止められるかもしれない。

 それは半ば、王女としてより、とにかく人間の娘が心配だった黒い鳥の心。
 しかしそれでも、結局その娘を守ることはできなかった。黒い鳥も、第四峠に向かうゾレン兵を殺し続けた少年も。
 どんなことでもする。その強い思いや覚悟は、大した影響力などないと示すかのように。

 そんな二人の、澱んだ空気をものともしないのが抜け殻蛇だった。
「やっぱりシヴァちゃんのお膝が一番にょろ」
 元々かなり凝縮されていたらしく、中身のすかすかな大蛇の抜け殻がトグロを巻いている。

 定時の連絡の度に、必ずその抜け殻蛇は嘆いた。
――シヴァちゃんと一緒が良かったにょろ。
 果てには自身の過去まで語る始末で、今は幸せそうだった。

「でもシヴァちゃん。目、変わったにょろ?」
「……?」
「そうよね。何かシヴァ、雰囲気、ちょっと違わない?」
 王女の目からは魔性の紅が消え、天上の鳥の赤に戻っている。生まれた頃はその色だったはずで、目の変化を不思議がる者達が、賑やかに王女の近くに集まる。

 ただ一度の触れ合いだけで。魔性の鳥に移された、神だった者の「小さな心」。
 それだけで黒い鳥は、紅い涙を失った。背を向ける少年は、澱み切った両目を歪める。

――……何で……それができるの……?

 たとえ地に堕ちても、鳥は鳥であると。
 そう知っていた者達と交わした約束……死神の誓いだけを、己が目に映しながら――


中編 了

幕間:英雄と天使

 
 暗い石の牢獄で。赤い獣を宿す男の前に、突然降り立っていた黒い髪と青い目の御使い。

「何か……言い残すことはある?」

 その黒い髪と青い目は、男が憎悪の鼓動に葬った心を、最後に手繰り寄せた。
――お願い。このままだとユオンが危険なの。
 いつも微笑みを浮かべることはほとんど無く、それでも強く在った連れ合い。
――先にザインに行って……――エルフィさえ見つかれば、わたしもすぐ追いかけるから。

 男を長く、昏い所に逃げられぬよう縛った鎖と――陽の下へ帰る道を閉ざしていた棘。
 しかしそれこそが赤い獣をとどめ、永い嘆きと怒りから男を守っていた。

「……エルフィ……」

 無表情に男を見守る、探し求めていた相手。
 石牢が炎に包まれ、男もろとも崩落する直前に。
 その(いろ)のない眼には確かに、赤い御使いのありのままの姿が映っていた。

「……――すまない」

 最後の最後で、男は微笑むことができた。
 やっとそれだけ口にできた、呑み込み続けてきた言葉。
 全ての裁きを委ねられた御使いからの救い。

――どうしていつも……悲しそうなんだ?

 言葉を呑んだ男はようやく、その安息……悲しげな潮騒の中の少女と邂逅を果たす――


+++++


 祖国を捨てた父が、もう十年もの間、実の子供に会えていない理由を少女は知らない。
「父さんは……いつ、ザインに行くのかな?」
 その英雄がまた、第六峠で敵国の大使館を守り通したという情報が入ってくるたび、黒い髪で青い目の少女はいつも首を傾げる。

 一人で国に残された自分に、会いに来れない理由はよくわかる。それは敵国内でも不信を招き、彼が目指す和平の妨げになるだろう。
 そもそも少女は、今の家族以外、誰にも会えないように隠されてきた。だから父はおそらく、少女が生きていることを知らない。
 しかし彼にはもう一人子供がいるのに、敵国を出て会いにいった形跡がない。第六峠は常に守られ、ゾレン軍の侵入を全く許していない。
「兄さんは、ザインにいるんだよね?」
 十年前に、少女が生まれ育った家から連れていかれた時、少女を必死に守ろうとした実の兄はほぼ死んでしまった。あの時の痛みは少女も忘れることができない。
 それは、兄が抵抗したからというよりも、死んでも良いので痛めつけろという命令が出ていた。そのことも少女はわかっている。

 当時に両親がいなかったのは、国王から緊急に召集を受けたからだ。それでもそんなに、長い時間を留守にしていたわけではないのに、その罠は長い年月を経て彼らを陥れた。
「わたしがさらわれて、兄さんがころされて。だから兄さんを、父さんが連れていったのに」
 そして最終的に、少女一人が残ることになった運命を、それでも少女は恨みはしなかった。

 その頃三歳に過ぎなかった少女に、事情が何故わかるかと聞かれると、ほとんど伝聞だ。
 死にかけた兄は、生まれつき持っていた、竜の眼という宝で蘇生したという。その奇跡は兄の血では不完全にしか使えず、体が治っても兄は目を覚まさなかった。だから兄には、特別綺麗な自然のある所の空気が必要だったのだ。
 そんな宝を全く持たず、人間と竜の混血の母、人間と飛竜の混血の父の元、少女はほぼ人間の血しか受け継がなかった。
「でも。元は、わたしのせいだもんね」
 それがわかる直観を生まれ持ったせいだろう。このことで両親のみならず、少女を攫った者のことすら、少女は恨まなかった。
 一人残った化け物の国で、弱小でも生きていくため、人間でありながら化け物になるための訓練を受けさせられてきた。
 辛いことは沢山あった。それでも少女の周りには、優しいヒト達が一緒にいてくれた。
「……だから……父さん達も……」
 一緒にいればいいのに……と。
 戦い続ける有名人の父が、兄を預けた者の所に行くと、隠れ場所が知られて危険なのはあるだろう。それでも一目ですら会うことを自らに禁じ、そこまでして父が戦い続ける理由――
 その棘が早く抜けて、がんじがらめの父は、早く安らぎの地に行けば良いのに、と。


 長い黒髪と青い目で、母にそっくりの少女は、母と違い、物分りが良過ぎるらしい。
 母は一見大人しいのに、その実大層頑固だったという。だから殺されたのだろう、と納得する少女を、逆に周りは心配する。
「本当にな。エルはもう少し、おれたちを恨んでいいんだぞ?」
 特にこの、元々優しい近くのお兄ちゃんで、それが新しい兄になった青年は、少女の物分りの良さを常々悩んでいた。
「何で? キルは優しいよ?」
 少女が何とか、自分の身を守れる程度には化け物じみてきた頃。人間を嫌うこの国の城で、長く人目を避けるように生活させられていたのが、この森の内であれば自由に暮らしてもいい、と許可をもらえた。
「でも、こんな原始の森にエルを一人で……おれは父上の気がしれないよ、本当」
 そうしてまだ十三歳のいたいけな少女が、王都の外で生活させられるようになったのが、化け物の青年は痛く不満だったようだ。

 少女はまた、何で? と穏やかに笑う。
「キル達が来てくれるから。寂しくないよ」
 育ての兄とそのいいヒトは、度々足を運んでは、時にこっそり町へ連れ出してくれる。城に閉じ込められていた少女には、それだけで十分幸せだった。
「ピアス、あんたねぇ。こんな森で毎日一人で、寂しくない方がどうかしてるよ?」
 ピアス・エルフィ。本当の名前は姓としてだけ残され、少女をエル、と愛称で呼んでくれるのは青年だけだった。
「大体、おれ達が来れなくなったらどうする」
「大丈夫だよ。わたしもここで、お仕事もあるし」
 食住の確保も含めて、時間を持て余すことはない。森の果てには少女の仕事場である国営の監獄があり、気が向けばそこで寝泊まりすることも許されていた。

 しかしその台詞に、青年が頭を抱える。
「あのな、エル……いったいいつから、軍部の手伝いなんてさせられていたんだ?」
 その件については特に、本気で怒りを感じているように、厳しい顔で口にする青年だった。

 ゾレンの軍部は戦争だけでなく、治安維持も任されている。主に国内における咎人の処刑に、少女の物分り良過ぎる才能は役に立つらしい。
「いくら自分達で殺せない化け物がいたとしてもね。こんな子供に処断をさせるなんて、呆れるしかないよ、全く」
「嫌な役目は、こっそり人間にさせればいい。そうやって軍部の奴らにエルは利用されているんだぞ」
「うん。わかってるよ」
「それなら何で――」
 何故少女は、その役目を嫌がらないのか。青年も女も、いつも心配げに詰め寄ってくる。

 青年の咎ではないが、攫った側であるにも関わらず、彼らは少女を大切に扱ってきた。
 生きていくために鍛えることを除き、少女が嫌ということは無理にさせず、それは青年の父も同じだった。だから少女が、嫌と言えば避けられたはずだ、と。
「――だって、得意だよ」
 不思議だった。向いている仕事を与えられた――それは少女の確実な居場所であるはずなのに。
「わたしの好きにしていいし。殺したくないヒトは、殺さないし」
 その権限が与えられていた少女が、見逃した受刑者はわりと何人もいる。
「優しいヒトは、殺したくない」
 だから、したくないことはしてないよ、と。
 いつも自分を心配してくれる優しい兄達に、少女はただそう笑った。

 少女にとって、「優しい」の基準は一つだ。昔に自分を、身を挺して守ろうとしてくれた兄。そういう風に、誰かのために行動できる、それが少女からは優しいヒトに観える。
 「優しい」理由も、別に自己満足で良い。自分のために誰かを優先した行動をとる者も、少女には優しく観える。
 ただその真逆に、優しくない行動をとる相手には、少女は必要とあらば容赦しない。
 たとえその相手が、本来はどれだけ優しく、その行動が信念や事情があってのことで――どうしようもない感情による、避けられない(あやま)ちであったとしても。


 そうして、深い森で一人暮らす少女は、最近迷い込んだ異物に、かなり早くから気が付いていた。
「……あれ?」
 少女が感じる気配は、普通の化け物が感じるものとは少し違うらしい。普通は気配とは、相手が自然に発する波のようなものらしいが、少女には存在そのものが感じられる。相手が優しそうかどうかまでも。
「何だろ……隠れてるけど、変な感じ」
 二つの妙な気配は、一人は人間なのに化け物のような力を持っている。もう一人は何故か、知らない気配なのに知っている気がして、その矛盾に悩んだ。
「どっちも……優しいけど……」
 しかしどちらも、優しいのに冷たい。そう悩ましく感じた少女だった。

 誰とも会ってはいけない、と言われる少女は、その気配を特別、確かめに行く気はなかった。
 その一方が、日に日に苦しげになり、原因も少女にはわかるということがなければ。

 久しぶりに知らない相手に会い、人間である相手が訳ありなことは、一目でわかった。
「何かわたしにできることはある?」
 原因はわかったが、対策がわからなかった。人間って難しい、と悩む。
「……あれ。誰か、来るね」
 場に近付く、殺気を纏ったもう一人の気配に首を傾げる。優しそうな気配がこうも変わるものか、更に違う者がいるのかと思い、あれ、と口に出していた程だった。
 少女も訳ありなので、騒ぎになる前に去ったものの、どうしてもその苦しんでいた相手が気になって仕方なかった。

「何? 森に人間の女がいるだと?」
「うん。苦しそうなの、助けてあげて」
「へぇ……そのコ、何処にいるんだい?」
 たまたま、父たる国王が用事があると、少女を迎えに来た青年達にそう頼む。

「優しいヒトだから――殺さないでね」
 そこには何か、そう言わしめる胸騒ぎがあった。
「それはいいが、父上は何の用だろうな?」
 あっさりそんな約束をした青年が、後でその甘さを苦笑うことになるとは露も知らずに。

「……父様は――……父さんのことかな……」
「――?」
 ……その、炎の血の気配。がんじがらめの果てに希みを見失い、冷えてしまった心を、男が王都に来た時点で少女は気が付いていた。

 その棘の鎖は、解かれない方が良かった。
 破滅を招く憎しみの赤い獣。その鼓動を抑えられていた因、棘であった自分をも少女は知る。 

 ただただ、彼は、甘かったのだ。
 後に英雄と呼ばれるほどの「力」を持つ彼が、どんな事情であれ、開戦の際にゾレンを後にして良いはずがなかった。彼にそのつもりがなくとも、化け物達は彼を脅威だとみなす。政治が全くできない男ではなかったのに、と育ての父はよく嘆いていた。
 彼をゾレンに留めるための鎖が、皮肉にも彼がゾレンを出る理由になった。だから育ての父は、新たに棘を打つしかなくなっていた。
 少女にはよくわからない。でも育ての父は本来、彼を第五峠というゾレンの中立地帯に軟禁する気だったと聞いた。それが唯一、彼を戦いに参加させず、彼ら一家を平穏に過ごさせる道だ、と育ての父は願っていた。

「何か……言い残すことはある?」
 そして少女も、死の天使として、唯一与えられた生きる道を歩み続ける。

幕間:王子と剣

 
 幼い頃に母を亡くしたその王子が、常々、不満だったことは二つ。
「こら、キル! どこ行くつもりなんだ!」
「うるさーい! おれのかってだい!」
 育ての母は、王子の叔母だ。肉食系だったと噂の実母以上に、気が強くて口が荒い、と悪い意味で評判が高い。
「どうせまた、あの飛竜んとこだろ! 行くなら三日は帰るんじゃないよ、居座れよ!」
「わかってらい! ばーか!」
 ワガママな王子に困った。養母を演じながら、叔母は獣や子供の扱いが上手く、サボリ心の塊でもある。王子がそうして余所へ行くと、叔母には確実に都合がいいのだ。
「ほんっと。ミリアおばさんの方がよっぽど、お母さんみたいだ」
 王子が日々入り浸る民家で、王子をいつも快く迎えてくれる夫婦――国王である父の旧い知り合いな彼らは、忙しい父より、実の親のように王子を構ってくれる。
「今回は三日か……大きく出たな、おば上」
 しかしこうしてこっそり城を抜け出せるのは、その叔母が適当に王子の不在を誤魔化し、自由にさせてくれるからでもある。
「リョコウでもいくのかな? でも……」
 実はその民家の主は、過去に国賊として疑いをかけられたことがある。そのために常に、監視がついた家でもある。
「……いっしょに、いくってことか」
 その監視といい仲である叔母は、多分、王子と自分の羽伸ばしの両方を、こうして要領良くクリアしてしまうのだ。
「あいつ本当、テキトーだよな」
 ついそこで笑ってしまう王子は、六歳という幼さでありながら、城にいる間は当然の如く王子としての礼節やら義務やらを求められる。
 しかも、最もそうした振舞いに厳しいのは他ならぬ父だ。そうした性質のためか、人望の厚い父を王子は尊敬してはいたが、息苦しくてこの上ないことも事実なのだった。

 しかしそんな、王子の不満を軽く吹き飛ばす民家に王子が辿り着いた時には。
「いらっしゃい、キル。早かったわね」
 口調と声色は柔らかいが、普段の顔はまるで、怒っているか悲しげか、常にそんな風に見える女性。
 しかし王子を迎える時は、務めて笑顔を作ってくれるヒト。満面の笑顔で駆けてくる幼い王子に、何か影響されるのかもしれない。
「あの監視のヒトが出かけたから、そろそろ来ると思ってた」
 王子を待っていたように戸口にたたずみ、ほのかに笑って王子を迎え入れてくれる。王子としてはこちらこそが、本命の育ての母だった。
「ミリアおばさん。ユオンとエルは?」
「エルフィはお昼寝中。ユオンはちょっと、お使いに出ただけ。すぐに帰ってくるわ」
 飲み物を出された王子は、ううん、と唸る。その小さな弟分は、三歳という幼さで既にお使いをこなしているのだ。王子はその頃、果たしてそんなことができただろうか。
「ライザおじさんは?」
「今日は遅くなるみたい。ごめんね、キルと遊べなくて」
「あそんでない! 剣をおしえてもらうの!」
「そう? でも剣なら、ライザよりあのヒトの方が得意だと思うけど」

 その家の一室には、監視の男が常に居座っている。
 心は許さないまま、慣れてしまった女性は、そもそも剣士ではない連れ合いを思ってか、不思議そうに王子を見る。
「おれは力といっしょに使う剣がいい! 炎を出してくるくるーってたたかうおじさんみたく!」
「くるくる……戦う……」
 大真面目に主張する王子に、またも女性は仏頂面を和ませる。
「でもユオンは、剣ならあのヒトに習うって言ってたわ。キルと正反対ね? 可哀相なライザ」
「……え?」
 その台詞は、王子が常々不満なもう一つのことを、またあっさり吹き飛ばす衝撃だった。
「ユオンは本当、ライザにだけはワガママ言うんだから。確かに、ライザの戦い方がユオンに合わなさそうなのは、わたしもそう思うんだけど……」
 三歳のくせに弟分は、そんな生意気な判断をするのか。あまりに勘の良い弟分に対して、ますます激昂が込み上げる。

「おばさん! ユオンも剣、ならうのか!?」
 あら、と。椅子から立ち上がった王子のその驚きに、女性もそう言えば、と目を丸くする。
「あんなにイヤがってたのに、なんで!?」
「そうね……一昨日までは、そうだったわね」
 女性はちらりと、王子と女性が今いる台所の、隣の部屋を横目で見つめた。
「昨日ね。エルフィがちょっとケガをしたの。それからあの子、急に躍起になっちゃって」
 その隣室では、一歳になったばかりの娘が眠る。人間を越えない弱い気配を感じて、憂い気に口にする女性を、王子はまだ不満げに見上げるのだった。

 王子はこれまで何度も、幼い弟分を剣に誘った。
――ユオンもシュギョウするぞ! こいよ!
 弟分は常に自然に、頑固に、やだ。の一言。
 そのくせ、王子を父親が鍛えている場面は、必ず近くで座って様子を見ていた。
――キルたちは……いたくないの?
 そう不思議そうに首を傾げ、膝を抱えていた。
 そんな弟分が、本日のお使いの用事、自身のための小さな剣を買って帰った時には、女性の言葉が本当だったことにひたすら不満な王子だった。

 痛く不機嫌な王子に、弟分は剣を抱えてほのかに笑いながら、首を傾げる。
「あ、キルだ?」
 この一家は全員が無愛想だ。声色や性格は誰もが優しく、人当りも棘がないので、特に問題はなかったのだが……。
 なので逆に、こうして笑う時の方が危うげだ、と評したのは王子の叔母だ。
「……ちょっとこい、ユオン!」
「え?」
 そうして民家の女性が止める暇もなく、幼い弟分を引っ張り、いつもの修行場へ子供だけで王子は向かったのだった。

 林に囲まれた広場では、王子の鍛錬を切り株に座って見る弟分を、同じように今日も座らせる。
「ユオン。オマエ、剣をならうって、本当か?」
「……?」
 弟分は、王子が何が不満なのかわからない、と大きく澄んだ青い目を丸める。
「剣をもつってことは、それだけで、オマエがキライな、コロしあいをすることなんだぞ」
 それは、王子が弟分の父から伝えられていた、戦いを学ぶ時の覚悟だ。
 弟分はうん、と頷く。既に同じことを、王子のように父親から言われたのだろう。
 その自然さが、何より王子は気に喰わない。
「オマエ、虫をコロしたってないてるくせに。そんなんで剣なんてならえるのか?」
「…………」
 弟分を常々、強くしたい、と王子は思っていた。そこに弟分が踏み切ったキッカケが、何故か王子は引っかかったのだ。

――エルフィがね、一人で立てるようになって。ちょっと目を離した隙に、転んじゃって……それくらいでケガするんだって、あの子、人間の身体の弱さに驚いたみたい。

 更には、王子が尊敬する弟分の父にでなく、よりによって一家の監視者に戦い方を学ぶという。
「いたいって言っても、ゆるしてもらえないぞ。アイツはおじさんみたいにやさしくないから」
 この国に住む化け物は大体、三歳までには体の基礎ができ上がる。だから弟分が、戦いを学び始めるのに丁度良いのは確かだった。
 それはあくまで身体の話だ。覚悟は全く別問題だとも王子は聞いていた。弟分の父の受け売りでしかないが、大切なのは「心」なのだ。
「…………」
 幼い弟分は、大きな青い目に何処か―――暗い光をそこで初めて、漂わせていた。
「そのほうが……つよくなれるよね?」
 切り株に座り、買ったばかりの剣を大事に抱える。王子を見上げてはっきりと言う。
「つよくないと。エルを、まもれない」
 今度は俯き、顔色を曇らせてしまった。王子は、やっぱりか、と……少し表情を緩めながらも、納得がいかなかった部分を素直に口にした。
「あのな、ユオン。エルをまもるためなら、オマエがいたくてもいいのか?」
「……」
 弟分はそこで、不思議そうに少し顔を上げる。
「だって、キルもそうだよ?」
 ひたむきに強さを求める王子。その身近な手本こそ弟分に生まれた時から刷り込まれ、「兄」としての心構えを培ったことを王子は知らない。
「ちがうよ。おれはそんなに、いたくないから」
 理由は同じだったとしても、その度合いが弟分は違い過ぎる。王子はそう感じて、ただモヤモヤが増すのだった。

 まだ六歳に過ぎない王子が、さすがにそれ以上、言葉にはできなかった。
 正直王子は、この弟分程、自分に厳しくはなれないだろう。
 虫を殺しても痛くない王子と、それだけで痛い弟分が同じように剣を振るうためには、必要な覚悟の量に違いがあり過ぎるのだ。
「でも……」
 けれどもついぞ、そうした自身の性質には、弟分は気が付いていない。
「エルがいたくないなら、いたくないよ」
 それでその守りたいものが、守れるのなら。痛みなどいくらでも殺してしまえる――彼は、その頃から既に天性の死神だった。
 痛みはいつか……彼を滅びに導くものでも。

 その覚悟を決めてしまえば、後はただ、目的のために効率の良い道だけを弟分は探している。だから監視者に剣を習う、などと言う。
 王子が望んだ強さは、そんな茨の道ではない。あくまで王子は、自身が弟分の師匠として、本当の兄のように――弟分が自分達を守れるように、強くなってほしいだけだった。
 だから当然、今はまだ幼い妹分が、たとえその身は弱小な人間でも、可能な限り鍛えてやるのが王子の目下のもくろみでもある。
「バカ。オマエがいたいと、エルもいたいよ」
 叔母のように、適当なことを返す。不思議そうな弟分の頭をこつんと小突いて、あえて不敵に、頼れるような顔を考えて笑った。
「だいたい、オマエもエルもおれが守るんだ。だからオマエらは、自分のことだけ守ってろ」
「……」
「オマエらは、おれのフトコロガタナなんだ」
 それが一番、王子にとっては都合が良い。それこそ誰も負担少なく、彼らが共に歩める道だと、兄貴たる王子は既に決めていた。

「……そうだと、いいな」
 天性の死神である弟は、ただ――
 危うげに穏やかに、儚く、微笑んでいた。


+++++

後編・開幕

 
 その命の意味を、永遠に忘れることはない。
 赤い呪いが守る、赤まみれの手。
 ヒトの命を食らう、呪われた少年の……最初の(のぞ)みも最後の願いも、結局は一つだと。

 赤い御使いの告げる希みに、少年はただ耳を塞ぐ。
「殺したい、ヒトを殺して――何が悪いの?」
 それは何と間違えた願いの、昏い嘘であることだろう。
「殺したくない、ヒトを……何で殺すの?」

 最初からずっと、そうだった。
 虫を潰すほどにも、心は痛く、(よろこ)びは感じなかった死神の願い。
 
 昏い地の底。何より死に近い場所でやっと、「死」を刻む少年は「生」の痛みを叫ぶ。
 その命の意味は決して、永遠に忘れないと。

◆①◆ 三つの知らせ

 
 その日その時、多くの者の運命が変わったこと。
 誰が本当に、命の重さという願いの意味を知っていただろう。

「あの竜人さえ――……現れなければ……」

 十七年前。化け物の国ゾレンと人間の国ディレステアの事変の中、ある国王の希みが永遠に消えた日から、長い暗闇は始まる。

 その後の彼は、失うだけの半生を過ごした。
 しがらみで連れ添った、良き協力者も早逝していき、残った実子との接し方もわからなかった。
 希み無き日々は彼を侵し、与えられぬなら奪うことだ、と、障害の排除を彼は決意する。
「……お前があの時、ザインに行かなければ」
 しかし事は、彼の思う通りには運ばなかった。
「私は……――お前を騙しおおせたものを」
 策を尽くして、最大限に裏から手を回していたこと。それはひとえに、彼の信頼する者を守るためであったというのに。

 残ったのは無垢なる妖精――赤い御使い。
 長く国に縛られる彼に、その赤い少女だけは、全ての赦しと救いを差し出し続ける。


+++++


 黒いバンダナを着ける銀色の髪の少年が、ほとんど口を開かなくなってから、既に二週間が経過しようとしていた。
「それにしても、王女。あのゾレン人の護衛の少年は、いったい何者なのですか?」
「……」
 彼らが現在動員されている、「第四峠」において。ディレステアとゾレンの最重要な国境である関所を守る、三人の将軍が代わる代わる、王女に同じことを尋ねてくる。ディレステアの王女は疲労混じりに、同じ答を口にする。
「彼は、王妃の側近であったアラクの親戚です。我が国の言葉には通じませんが、先日の私の帰国に尽力してくれた功労者なのです」
 だから、黙っているのは仕方のないことなのだ、と。 
 言葉を発さない無表情な少年を侍らせる王女は、淡々と説明するのだった。

 年齢不相応の(おごそ)かさを持つ赤い目の王女は、若干十五歳にして、ディレステアの国内反乱勢力討伐隊の最高責任者に任命された。
 少し前にも、ディレステアとゾレンの十年ぶりの和平交渉のため、国境の外側の第四峠に自ら赴いている。王城で国政を仕切る父の下で、最大限の信任を得て動くやり手と言えた。
「その件は伺っておりますが。それにしても英雄ライザを失ったのは、痛手でしたな」
 和平交渉の際に、ゾレン出身ながらディレステアのために長く力を貸してくれた英雄を王女は護衛にしていた。しかし和平の方針に反発する反乱勢力に来襲され、交渉の場は潰されてしまう。
「王女だけでもご無事であったのは、本当に何よりのことでした」
 護衛の英雄を差し出すことで、王女は交渉破綻の責任を贖わされた。その後の危うい情勢の中で、無事に帰国できた理由がバンダナの少年の存在だ。
 それに対して将軍達は、ずっと半信半疑の様子だった。

 過去、ディレステアに力を貸すゾレン人は、英雄も含めて何人もいた。ゾレン人の少年は、出自だけで警戒されたわけではない。
「しかしあの問答無用な殺気だけは、何とかならないものですかな、王女よ」
「…………」
 少年は館内でも帯剣し、暗色の外套を袖の無い黒衣上に纏っている。
 常に無表情に、王女の傍に佇む少年。何も問題は起こさないが、その周囲の空気は高度に張りつめている、と人間には感じられるらしい。

 元々ゾレンの者はほとんどが、人間と同じ姿をしながら人間にはない「力」を持つ化け物だ。
 その中でも特に少年は、ヒトを殺すことに長けた力の持ち主になる。その死神の視線が、自然と伝わるのだろうか。
「同じゾレン人の護衛でも、アラク殿とは天地の差がありますな」
 王女のもう一人の護衛、若き魔道士で黒髪の好青年が必ず引き合いに出され、将軍達は寒々とした表情で少年を見るのだった。
「……」
 今回尋ねてきた第四峠のアシエス将軍が、一足先に本日予定の会議に向かう姿を見届ける。
 まっすぐな金色の長い髪を、王女は後ろ手で一つに束ね、溜息混じりに振り返った。
 王女の背後で相変わらず、無表情に数歩離れて少年は付き添う。
「……彼らのことは、気にしないで、キラ」
 片言ながら、少年の母語であるゾレン語で、内容のわりに(いか)めしい顔と口調でそれだけ声をかけてくる。
「……」
 少年はその王女の、祭祀に似た礼装を纏う姿を黙って見つめる。

 この第四峠に来てから、王女は散々だった。
 「レジオニス」という集団が維持する中立地帯エイラ側では、討伐すべき反乱勢力がずっと、ディレステア大使館に立てこもっている。その面前で駐留し、反乱勢力を牽制する作戦を遂行していた中、ゾレン王都に近いその峠では、ゾレン軍もディレステア軍と反乱戦力の動きを細かに窺っていたが、あるきっかけで、冷戦状態が主だった両国は完全に激化の様相を辿る。
「ソリス大使――失礼致します」
 王女達が滞在する第四峠レジオニス大使館で、会議の場を貸してくれた主の下へ、王女が扉を軽くノックする。少年を待機させて、振り返らずに中に入っていった。
 この護衛の少年にとって、扉の有無など、大した違いではないことを知るかのように。

 死神の才能を持つ少年は、元々、目前の相手の大まかな情報や弱点を、初見で見破る勘の良さ――直観という特殊な感覚の持ち主だった。
 ここ最近は更に、少し気を張っただけで、周囲の状況や出来事をより鋭敏に感じられるようになった。しかしその感覚に、大きな波がある状態でもあった。
「…………」
 扉横の壁にもたれて俯く少年は、今日はまだよくわかる方だ、と、目を閉じながら中を窺う。

 質素な執務室の中では、すらりと背の高い男が、窓際に立って外を見ていた。緋色の長い髪を括り、鋭い顔立ちの男が入ってきた王女に振り返る。
「よォ。もう体調はいいのか? 王女様」
 珍しい角ばった形の上着の襟を直しながら、男は美形なわりに嫌味なく整う顔立ちで、王女に向けて平和に笑った。
「……おかげさまで。私の方には何も大きな不調はありません」
 何故か王女は、厳めしい顔を僅かに赤らめ、いくらか俯く。少年には言葉がわからないため、何を話しているのか理解できない。
 それでも王女が、最近その男の前に出る度に同じ反応をすることには、いつしか気が付いていた。
「それは何より。何しろ、王女様達にうちの敷地を貸してやれるのも、今日一杯までだからなぁ」
 この館、第四峠レジオニス大使館の大使である男はそこでまた、窓の外をじっと見つめる。
「ゾレンも随分騒がしくなったし。そろそろオレ達も中立維持者――『レジオニス』の本分に立ち返らなきゃいけないんでね」
「……」

 ディレステア反乱勢力が籠る大使館は、エイラ平原に坐している。その地を管轄する有力集団「レジオニス」は、ディレステア側にこうして大使館を置き、幹部の一人である緋色の髪の男を大使としている。
 大使が言うゾレンの騒ぎとは、敵国に最近出された三大報知だ。
 ただ暗い顔色で俯く王女に、因縁深い大使の男も少しだけ苦く笑った。
「それで、どうしたんだ? 今日はこれから、撤退前の緊急会議なんだろ?」
「……」
 反乱勢力の討伐隊は、ゾレンとの冷戦が激化状態であるため、第四峠から撤退する運びとなっている。今後は反乱勢の動向を注意しつつ、ゾレン軍に警戒しなければいけないため、討伐隊が組織されることは当面ないはずだった。
「ゾレンに勝手に喧嘩を売る反乱勢なんて放っとけばいい。無駄死にしたいんだろうさ」
「…………」

 ずっと憂い気に、俯く王女の苦い思い。徹底抗戦派の反乱勢力が討伐隊の包囲を抜けてゾレンに進軍し、それによる両国の激化を止められなかったことを、今も悔やんでいると大使は知っていた。
「包囲網の隙の情報漏洩――これに懲りて、まずは国内の敵から洗うことだな」
「……」
 淡々と言う大使に、相変わらず王女は無言でひたすら俯く。
 それもそのはず、この大使の力を借りて、王女は一度だけその激化を食い止めていた。しかしそれは一時しのぎに過ぎず、その後の大きな流れには逆らえなかった。
「まぁそれでも……オレの抜け殻達は当分、王女様に貸し出したままにしておくよ」
 その中で大使には、いくつもの借りができた。そのせいか大使の前ではいつも難しい顔で、所在なさげな――必ず赤い顔の王女だった。

 この大使は、いくつもの蛇の抜け殻のような、便利な分身を持っている異端の化け物だ。
 「耳」や「頭」など、部位の名前のついた抜け殻達は、それぞれの名に則した役割を持ち、その抜け殻が得た情報は全て本体である男に送られる。抜け殻同士でも名の意味に繋がりがあれば、情報を共有できる仕組みだった。
「……」
 そんな抜け殻の内、少年は成り行きで、「声」を強引に呑み込まされた。その後どうなったのかは知らないが、未だに体内にあるのはわかる。
 何故なら少年は、「頭」の抜け殻から度々、話しかけられるようになったからだ。
「キラ、聴こえるにょろ? 元気かにょろ?」
 全ての抜け殻に通じる「頭」は、「声」にも話しかけてくる。それ以外には何の機能も意味もなく、返答する意欲も持てなかった。
「アディちゃんは何とか山を越えたにょろ。心配するなにょろ」
「――……」
 たとえソレが、どれだけ重要な情報を伝えてきても。

 少年への「頭」のその報告に、まるで呼応したかのように、
「ソリス大使……」
「ん?」
 ようやく少し顔を上げて、王女が喋り出した。
「アディ・ゾーアを……秘密裏に第五峠までお運び下さり、本当に、有難うございました」
 この館を去る前に、王女が伝えようとしていた思い。それをやっと、大使に対して口にしていた。
 大使はその凛とした王女の、これまでにない弱気さに、一度きょとんとする。何処か泣き出しそうな雰囲気も漂う赤い目に、安堵したように笑っていた。
「ああ。何とか治療が間に合ったみたいで、良かったな」
 王女が言う娘は、ディレステアとゾレンの激化の過程において、ゾレンの刺客に襲われ両の下腿を失った最も近しい側近だった。
「と言っても、運んだのは旧騎士団長だ。エグザルもあんたらのおかげで第五峠に暗躍できるようになったし、それなりに思惑があってのことだ。別に気にするな」
「でも……」
 抜け殻しかなく、自身は大きな「力」を持たない大使は、遠出する時には護衛の大男を連れている。エグザル・マイスという、元は第五峠を管理する王妃の側近、騎士団長であった者。そのために医療施設が集中している第五峠に顔が利く。

 彼の助けで秘密裏かつ迅速に、側近の娘をそこに運ぶことができなければ、おそらくその娘の命の灯は消えていただろう。
「私には何もできなくて……あのままでは、ゾーアを本当に失うところでした」
「……それはやっぱり、まだあの王女代行がいないと、困るってことか?」
「…………」
 側近の娘が負傷するまで、ある事情で王女は娘に、自身の王女の役割を代行させていた。娘は非常に聡明で、王女以上に王女らしい娘でもあった。
「その……通りです」
 王女と瓜二つにされた側近の娘を、入れ替わりの事実を明るみにせずに、秘密を知る王妃のいる第五峠へ運べた。そのことに王女は大きな恩義を感じていたようだった。
「それはあんたが、そうして王女をするにはまだ、自信が持てないってことか?」
「――いいえ。王女としての判断はいつも、ゾーアと二人で相談し……私の方針を主に行ってきました」
「だよな? それなら何で今回、秘密を守ることにそれだけ拘ったんだ?」
「…………」

 この大使は時に、こうして鋭い追及をする。しかし基本的に緩い声色で、相手を追い詰める気がないせいか、王女はただその本当の気持ちを、震える声で外に出していた。
「私は、まだ……王女でなく化け物として、国のために戦いたかった」
「……」
 人間でありながら、王女は何故か生まれつき化け物の力を持っていた。そんな王女は、誰にも知られてはいけない本心を更に続ける。
「せっかく貴方が私に、思う存分に、それができる力を貸してくれたのに――その矢先に、王女に戻らなければいけないだなんて」
 そんな、思ってもみなかった告白に、大使は大いに目を丸くする。
「……あんたがそんなにしゅんと素直なのは、初めて見たな」
 軽口を叩いても、大使の口調に嫌味は全くない。以前のように睨みをきかせず、拙く見つめてくる王女にポカンとしつつ、天上の鳥の系譜たる赤い目の王女をまっすぐに見返していた。

 色々あって、大使からある抜け殻を与えられ、王女は自身の化け物の「力」を強化できた。
 そもそも大使は、国王と王妃、護衛の英雄と少年以外は知らない王女達の入れ替わりに気が付いていたのに、王女の不利になることはしなかった。それどころか逆に、力添えをしてくる節があった。
 王女はただ、疑問を口にする。
「貴方はどうして、そこまで私達に、色々と便宜を図って下さるのですか?」
 この緋色の髪の大使の、気まぐれな力添えで難を逃れたのは、王女だけではない。王女とその側近の娘、そして現在の護衛の少年は誰もが、気が付けば大使に何かを助けられたことがあった。
 中立の者として、大使は本来、この館に一国のみの王女達を滞在させるべきではない。それも無理を通して、会議の場まで貸してくれた。
 おそらく側近の娘の件でも、大使の助けを王女は強く自覚していた。
「別にオレは、好き勝手に動いてるだけだが」
 それでも確かに、肩入れを否定できない大使は、
「精一杯頑張った少年少女が転んだ時に、フォローするのが大人の役目だろ」
 そんなことを言って、慰めるような顔付きで笑う。
「……」
 しかしあまり、王女は納得できていない顔だった。
 大使は少しだけ真面目に、いつもの微笑みを消す。
「オレは、オレの利益のためにだけ動いてる。だからオレを――信じるなよ、鳥の王女」
「……」
 ディレステアにもゾレンにもつかない中立の維持軍団、レジオニス。その幹部の一人である大使は、冷淡とも言える声色で口にする。
 王女は何処か、物憂げな面持ちで大使を見つめ返す。

 そして大使は改めて、王女が現在置かれた厳しい状況について言及する。
「今や、いつゾレンが何処から攻め入るかもわからない緊迫の中で、反乱勢力も内通者も野放しの上、あんたの周囲はボロボロだ」
 王女もわかっていることだ。特に信頼していた側近の娘の離脱と、口を閉ざし続ける少年の静かな切迫感があった。
 負傷した当初は、側近の娘はまだまだ気概があった。それがある時を境に、見るも無残に落ち込んでしまった。そんな中、傷口から病魔が侵入し、急速に一刻の命を争う状態となっていった。
 護衛の少年は、以前はまだ、少しは笑うこともあった。今では緊迫した王女と共に、少年はほとんどぴくりとも表情を変えない。不眠不休で王女の護衛以外のことを全て放棄した結果で、無言で付き添い続ける姿に、王女は何も言えなくなっていた。

 それらの引き金である、ゾレンの三大事件の報知。特にその内、少年に大きく関わるものは二つで――王女にもとてつもなく痛かったことが、英雄の死だ。ずっとディレステアを守ってくれていた英雄が、つい先日にゾレンで処刑されてしまい、少年は実際、その英雄の実の息子なのだ。
 大使はただ、諭すように呟く。
「――あの英雄と息子の姿は、下手をすれば今後のあんたが辿る道だ……鳥の王女」
「……え?」
 ゾレン人でありながらディレステアについて、十年もの間、ディレステアの第六峠大使館を守った英雄。
 その本心は違うところにあり、彼は最後まで彼の闘いを貫き通した。
「約束や使命のために、できることは全てする――その末路は、アレだぜ」
 つい先日、その英雄はゾレン王都に暴走する赤い獣を放した。王都を炎上させ、民間の者まで巻き込む惨劇を引き起こしたのだ。
 更には多くの軍人を殺した下手人であると、ディレステアの徹底抗戦の意志を代弁する者として、ゾレンの国中に非道ぶりが報知された。
 そしてもう一つの報知。その英雄を処断したのが、英雄自身の僅か十三歳の娘であると、俄かにゾレンに現れた裁きの天使。
「祖国を裏切った実の父が実の妹に殺されて。その妹を自ら討つと決めたような、自分の事情は全部そっちのけのバカがアイツだ」
「……大使……」

 少年は本来、その妹を助けるために、遠い昔に一度命を失ったという。
 少年の化け物特性で、一度だけ可能な蘇生はできたが、それ以前の記憶は全て失っている。
「覚えてなくても、命をかけて庇った妹を、今度は命をかけて殺そうとする。そりゃ、色んなところが破綻するさ」
 大使はそうして、少年が口を閉ざす無自覚な理由を、勝手に断言するのだった。

「…………」
 少年は、自然から命の恵みを受けられる化け物だ。それ故に、命を削って使う戦い方を主とする。それを考えて、王女が何故か暗い表情を浮かべる。
 そんな危うい少年を王女と共に気にかけていたのが、側近の娘でもあった。
「その辺りが多分、憧れの英雄が死んで気を落とした代行の王女が、やりきれなくて病魔に負けた理由だろ?」
 自らの両の足を失っても、側近の娘は気丈に笑っていた。それなのについに、気丈さを手放した契機。
 残念だけどな、と大使は、扉の外に控える少年にも言うように口にする。
「あんたやあの代行の王女がどれだけ、あのバカを気にかけていても」
 ヒト殺しである少年に関わっていく内に。二人は少年に助けられたことだけではない、深い思い入れを持ってしまっていた。
「救われたいと思ってない奴は、救えない。それはあんた自身、その目で確かめたよな」
「…………」

 英雄が、ゾレンで命を落とすのと同時期に、王女と少年は情報収集のためゾレンに潜入していた。そこで少年は、家族同然とも言える化け物達に偶然出会う。
 それに対して、少年はただ剣を向けて殺し合う選択しかとらなかった。その一部始終を王女は見ていた。
「後はせいぜい――どう上手く利用するか。それを考えてやるのが、あの少年のためだぜ」
 そう結論付ける大使を、他人事のように、少年は正しいと感じていた。
 王女は何も言えずに、大使を見つめるしかできないでいるのだった。

 しかしながら、扉の外では、黙りこくっていたはずの少年が――
「――キラ君? ここにいたのかい」
「……」
 少年と王女を探して、やってきたもう一人の護衛。ちょうどいい、と少年は時節を感じ取る。
「もう怪我は大丈夫なのかい?」
「……」
 その護衛も、代行とは知らなかった王女たる娘を庇って負傷した。その後に娘の正体を、本人から伝えられても全く動じなかったという。
 護衛自身は人間である娘より速く回復した化け物で、祭祀のような姿で水脈の魔道を司る、短い黒髪の好青年だ。
「ああ――無理して喋ってくれなくていいよ。アヴィス様から、君が喋る気になった時だけ通訳をしてほしいと、僕は頼まれているだけだ」
 そう苦笑い、少年を見る。好青年である反面、この相手はとても現実的でもあった。ゾレンとディレステア両方の言葉に通じる勤勉さもそれを助けている。
 少年と同じゾレン人である彼に、人間の娘は自身の命が危うい中でも、通訳なんて関係ない話を頼んでいった。それをもし、活かす時があるのなら、そろそろだろうと少年は踏む。

 そして初めて、口を閉ざし続けていたはずの少年が、その暗く澱んだ目に青い光を宿す。
「……アンタに話がある。アラク・ネイデス」
「――え?」
 唐突に口を開き、バンダナに半ば隠された目を護衛に向ける。護衛は実年齢より相当若い顔貌で、少年と同じ青を宿す目を真面目そうに細める。
 少年は、たった一つの目的のために、それを淡々と口にする。
「アンタ……ゾレン西部に行く気はあるか?」
 急な問いに、護衛は一瞬、頭痛を抑えるように片手をこめかみに当てた。
 どういうことだ? と、十歳は年下の少年に対して真摯に対峙する。

 そして少年が持ちかけたある提案を、来たるべき会議の場にて、護衛は共に訴えていくこととなる。

◆②◆ 霧夜の惨劇

 反乱勢力の討伐隊が、第四峠から撤退する。
 その原因となったディレステアとゾレンの激化に、アヴィス・ディレステアの名を負う王女は今後、一旦王都の城に戻る手筈となった。
「――久しぶりね、アヴィス」
「……」
 その前に第四峠の軍部と、基本対策を検討しておかなければいけない。
 討伐隊を襲った先日の事変について、報告検討会の意味も込めて会議の場を設定した。そこに第五峠から足を運んだ、実の母である王妃が到着する。
「アディ・ゾーアから事情は聴いています。二人共……アヴィスもアラクも本当に、よく頑張りましたね」
「王妃様……」
 好青年である護衛は、元は王妃の側近だった。しかし、両の下腿を失った人間の娘を守り切れなかったと俯く。

「……」
 少年はあくまで無言だ。同じように寡黙で、顔を含めた全身を外套で覆い隠す男に連れられ、王妃は第四峠に降り立っていた。
 代行の王女アディ・ゾーアを送った帰りに、王妃を第五峠から連れてきた男は、要するに旧騎士団長だ。姿を隠しているのは、過去にディレステアの第五峠から追放された身であることが大きい。
 しばらくじっと、旧騎士団長を観た後、少年はふっと、王女をちらりと観てから王妃を観る。
 その少年に気付き、王妃が柔らかい顔で笑った。
「――あなたがアディ・ゾーアの言っていた、ユオン君かしら?」
「……」
 キラと名乗り、そう呼ばれている少年を、王妃は全く違う名前で呼んだ。微笑みながら、何処かに厳しさもたたえる王家たる風格。
「……」
 代行の王女が最近、人目がない時には自分をそう呼んでいた、英雄の子の本名。わざわざそれを呼ぶ王妃を、少年は表情を動かさずに観返す。
 王妃はまるで、そんな少年を憐れむように表情を暗くしていった。
「ライザ・ドールドのことは……残念でした」
 英雄と王妃は、旧知の仲間だったという。かなり気落ちしたようにそっと口にした。

 少年はある呪いで、常に手離さない黒いバンダナを頭に巻くと、その気配や目の色、顔の雰囲気までが変わる。それでも実は英雄の息子であることや、王女代行の娘についても、この場にいる者とあの緋色の髪の大使だけが今は知る所だった。
 そして更に、その英雄には実の娘も存在したこと。王妃はそれを、英雄が戦い続ける理由として、以前から知っていたという。
「ライザ・ドールドを殺せる力を持ち、更にアディ・ゾーアとアラクを害した例の少女について……私が知ることをお話し致します」
 その英雄の娘が、英雄を葬っただけでなく、ゾレンの刺客として第四峠に来襲していた。そこにいた代行の王女の両足を斬り、護衛の好青年を負傷させた。
 刺客となった英雄の娘が着けていた武装に対して、王妃は心当たりがあるという。その対策を伝えるために、今後の正規軍の行動も検討する会議に、こうして足を運んだ次第だった。

 そして、ディレステア内の第四峠にある、レジオニス大使館の一室を借りたその会議場で。
 討伐隊の最高責任者たる王女を筆頭に、第四峠のアシエス将軍を始めとし、第二峠・第三峠から臨時に動員された各々の将軍という三人の軍人に、王女の護衛の二人、好青年と少年が主として招集された。
 最後に第五峠から訪れた王妃を含め、総計七人が、第四峠での一連の出来事について、少人数での会議を始めたのだった。
「間違いありません。ピアス・エルフィ……英雄の娘である刺客が身に着けていた防具は、元々は我が国で発掘された古代の兵器です」
 隠しようのない気品に加えて、静かな勇気を感じさせる気丈な声色で王妃は言う。
 柔和さと意志の強さを両立させた赤い目が見てきた、歴史上の事実を厳然と語る。
「珠玉の殻たる赤き鎧は、『子供攫い』……ピア・ユークが使用していた秘宝。天駆ける菱盾は、その妹ミリア・ユークが竜の眼……『鈴』の力を使う器とした魔道媒介でしょう」

 その二人のゾレン人女性の名前は、菱盾を使う一人はライザ・ドールドの連れ合いであり、少年の実の母だ。水脈を司る化け物、自然の脅威たる竜人の血をひく魔道士だったという。
「菱盾はミリア・ユークから、刺客の少女が受け継いだ物と考えて良いでしょう。何しろ実母の遺品なのですから」
「……」
 少年もその血をひくことを、場の将軍達や他の軍の者は知らない。
 少年を英雄の息子として、偶像にはしない。王女がそう決めたからで、その意向を尊重し、少年と英雄については伏せたまま王妃も話を続ける。
「しかし赤き鎧は、ミリア・ユークの姉であるピア・ユークが死亡してから、その遺体ごと行方不明になったままでした」
 その鎧に関する、もう一人のゾレン人女性の名は、少年達が生まれる前の有名人だった。ディレステアとゾレンが最も長い休戦時代に入る少し前に、ゾレンを騒がせたある反戦集団、「子供攫い」幹部のものだという。
 王妃はちらりと、頭痛を抑えているらしい好青年を、心配するように見ながら続ける。
「どちらの防具もごく貴重で、非力な人間が竜人など強大な種の力を借り受けられるように、古代の叡智を以って造られた限られたものです。竜珠や竜の眼といった、特有の宝があってこそ真価を発揮するものなのです。それがこの同じ時と地に、他に存在するとは考え難い」

 あれは、と王妃が、赤い両目を顰める。
「基本的にあの赤き鎧には、近接武器だけでなく、どんな化け物の力も通用しません」
 だから弱小な人間でも、化け物と渡り合うことができるという。しかし王妃のその発言に、好青年は頭痛を押えながら首を傾げる。
「けれども、古代の叡智を僅かに受け継いだディレステアの銃器であれば、あの屈強な珠玉の殻を打ち崩すことも可能でした」
 ただしそれは、もう一つの防具――刺客の少女が空を駆けるのに用いた、宝の菱盾がなければの話だ。
「あの菱盾は、赤き鎧の弱点を補えるもの。その刺客の少女に、ピア・ユーク以上の脅威を与えるものであると思って下さい」

 「子供攫い」の幹部だったピア・ユークは、竜人の血をひきながらも、ほぼ人間と言える弱小な身体だった。それでも、ゾレン西部の旧王城で兵士として国中から集められた子供を攫う、反戦集団のリーダーを務めていた女賊だ。若き日の英雄は、終戦前に「子供攫い」の一員ではないかと疑いをかけられたことがあるが、女賊は当時の英雄以上の実力者だったと言う。
 その女賊を上回る防具と――そして、ある天性を持つ刺客の少女に、少年は実の兄ながら両目を歪める。

――何か……言い残すことはある?

 相手の弱点を初見で看破し、必殺を狙える天性が少年にはある。実の妹である刺客の少女も、誰にも殺せないと言われていた英雄を殺すことができた、同じ直観の力が存在している。
 それ故に、気ままな死の天使、と銘打たれた赤い少女。
 更にその直観は、おそらく少女の方が適用範囲が広い。また少年は最近、時によりその勘がほとんど働かないことがあるという、不調の波があった。
「…………」
 そして基本的な体力においても、少年は長い期間普通の飲食物が摂れず、慢性的な栄養不足を命の力で補ってきた。対して赤い少女は、本体は人間とはいえ、赤き鎧から無限に近い体力の底上げを受ける。
 機動性も持久性も、死神たる天性も全て、赤い少女の方が上回っている。その現実を少年は、厳然と認識していた。
 そんな状況で、次に赤い少女が襲ってきた場合、果たして少年は王女を守れるのか、と。

 少年のそうした実情に気が付いていたのは、おそらく少年の内に在る「声」の情報を得られる「頭」の抜け殻と、全ての抜け殻の本体たる緋色の髪の大使だけだろう。
 だから緋色の髪の大使は、少年に対しては冷徹に、笑って口にする。
――オマエさんが、その実の妹を殺したいなら。
 化け物としても異端な大使の、珍しい金色の眼。それは神眼と呼ばれ、様々な化け物の「力」について、普通より詳しい特性だという。
――オマエはその、命を武器として使える力で、最大限に……ゾレンでそうしてきたように、奪えばいい。

 人間を主食とする化け物は、沢山存在している。鬼や(あやかし)、魔物や悪魔。少年の武器は、おそらくそれより呪われた禁忌――
 誰かの命を奪った後に、奪った命を剣光とし、少年は攻撃に使うことができる。まさに死神の特技と言えた。
 英雄が死んだ日に、ゾレンで多くの軍人が不可解な死を遂げた真実を知る大使は、その酷悪さこそ勝機と認めるように(わら)う。

 王妃の声で、少年の意識はふっと、会議の場に戻ってきた。
「最近のゾレンには、国内でも色々と動きがあるようです」
 王妃は、ディレステアとゾレンの国境でありながら、唯一完全な中立地帯である第五峠に駐在している。負傷兵以外は、全てディレステア人でもゾレン人でも受け入れるのが第五峠で、数々の医療施設が揃う山海地域で、些細な情報を日々得ているようだった。
「これまで、その後継者を定めていなかったゾレン王ですが。この度ついに、唯一の実子キル・レオンを、後継と認めたといいます」
 それが先日の、ゾレン三大報知の最後の一つだった。
「……」
 ゾレンに潜入した際、その後継者と偶然に出会っていた王女と少年は、揃って顔を顰める。

 そして同時発表された後継者の婚約者に、多くのゾレン人が当惑を抱いたという。
「キル・レオンが連れ合いに、と望む女性は、死者の一族と異名を持つ者で……今後到底、世継ぎを生むことは叶わない身であるようです」
「――」
 王妃の情報に、その女とも言葉を交していた王女は、咄嗟に息を呑む。
「しかしキル・レオンは、側室を迎える気もない、と。それを現国王も認めたということで……国民の信望の厚い現王家の血の途絶に、ゾレンでは不安も高まっているようです」
 これは蛇足ですが、と、王妃は会議にあまり関係のない話題を早々にまとめる。
「現国王は、実子の選択を、それは懸命だと――そう、珍しく笑ったといいます」
「……」
 元々化け物の国ゾレンでは、強大な力の主が国を治めるべきとされる。そのために、王家の血の交代は何度もあったことだ。
 しかし全く、己の家系の存続を重視していない現ゾレン王に、実子自身、意志を通せて安堵しながら当惑したようだと王妃は締め括った。

「それで――王妃よ」
 王妃からの情報を全て聞き終えた後で。この第四峠の守り人たる、屈強な体で僧侶のようなアシエス将軍が、改めて口を開く。
「我々はこのまま変わらずに、ゾレンからの攻撃にのみ対応せよと。そう仰せですか」
「……」
 和平を望む、ディレステア王家の基本方針。最早それは、当面有り得ないだろうと考える現場の将軍が、疑問を呈することも無理はなかった。国王はディレステア王都に座し、この場で実質的な権限は王妃にあると言える。
 続いて、第二峠から臨時に動員されている、将軍の中では最も若い、才気に溢れる癖毛のラボル将軍も王妃を直視する。
「アシエス将軍とゾレンの第四峠程、うちは差し迫ってはないですがね。だからと言って第二峠も長く手薄にすると、ザインの物流に支障をきたす怖れがありますぜ、王妃」
「……ええ。承知しております」
 砦に囲まれた国、ディレステアの資源を支える要地、物流の関所が第二峠だ。その守り人に王妃も頷く。
「戦争を糧に儲けるうちの第二峠大使は、前から気に食わなかったがね。今となっちゃ、徹底抗戦の構えをとる反乱勢の命綱だ」
 第二峠のディレステア大使館と、ラボル将軍は折り合いが悪いことで有名でもある。複雑気な進言に王妃も考え込む。
 そして最後の一人、第三峠から動員された者、七三分けの黒髪で中肉中是と、一見軍人らしくない様相のミニステリ将軍が重々しく話し出した。
「この機会に是非、国王と再び、審議してはいただけませぬか。反乱勢をあくまで反乱の徒とするか――正規の戦士として徹底抗戦を認め、我らもその後押しをするか」
 そのようにミニステリ将軍は、現在ディレステアで一番の悩みの種である問題を、改めて提示していた。

 ディレステア王家は、王妃の血筋だ。王家と審議院という二つの政務機関が両立治国を行うディレステアで、議会側の代表が現国王となったのが十六年前のことだった。
 常に王都で、審議院と協議して国政を執り行う国王と、完全中立地帯である第五峠に身を置き、和平を望み続ける王妃。
 両者の意見は和平の追及で一致していたが、審議院との協議では日々、この際徹底抗戦に踏み切ってはどうか、と議論がなされているのが王都の現状だった。

 王妃は、威厳に満ちた赤い目で、三人の将軍を前にはっきり所信を告げる。
「ミニステリ将軍の仰ることは、ご(もっと)もです」
 意見は合わずとも、同国の者達を反乱勢力と銘打つことに、王妃は心を痛めている様子だった。
「しかしこの砦の国ディレステアにとって、自ら討って出る徹底抗戦は自殺行為です。英雄をなくした後に、あっという間にゾレンの手に落ちた第六峠のディレステア大使館の状況をみれば、それは明らかでしょう」
 ディレステアは、堅固な外壁に国の周縁を囲まれ、それにより辛うじて独立を保てている。化け物達が闊歩する大陸で、人間の国の限界を知る王妃はあくまで姿勢を崩さない。
「反乱勢力の後押しをする――それこそが、彼らを全て無残な死に追いやる道であると。私はあくまで、現体制を推し続けます」

 その揺るぎなく強い信念に、三人の将軍がそれぞれ、思い思いの表情を浮かべていた――その、数瞬後。
「アンタ達が、討って出る必要はない」
「……!?」
 第六峠の話が出たため、少年は口を開いた。他のことには何も興味がなかった。
 その横で好青年の護衛が立ち上がり、少年の通訳を始める。
 将軍達だけでなく、王妃、王女も揃って、驚きの表情で振り返る。

 少年は、ディレステアの国語たる古語が全くわからない。だから沈黙している、と周知されているゾレンの化け物だ。
 それでもタイミングは絶妙だった。バンダナで半ば隠されている暗い青の目に、傍からは赤く見える光を強く浮かべる。
「俺をアラクにつけて、俺達を第六峠へよこせ。――三日で、大使館を取り戻してやる」
 そんなことを、感情を交えずに言い切る。人間相手にはハッタリが大事、と旧い時代に親友に教えられた。
 その案に、通訳をしているもう一人の護衛も同意している。あえて強気で翻訳していることも伝わり、二人で唐突に会議の場の主導を取った形になった。

「……キラ……?」
 あまりに唐突な護衛達の申し出に、王女は茫然と、少年を難しい顔で直視する。
「アラク……それは、本気ですか?」
「…………」
 ずっと頭痛を抑えるように、もう一人の護衛は顔をしかめていた。王妃は元側近たる真面目な護衛に、憂いを隠さない赤の目を向ける。
 その王妃をまっすぐに見返し、真面目な護衛も断言する。
「――ええ。本気です、王妃様」

 そしてその二人の化け物は、当初の提案に反して、たった一夜で第六峠を制圧することを……この時はまだ、誰も知る由はない。


+++++


 黒い霧の夜の惨劇。
 先日の三大報知に続き、ゾレンに大きな動揺を巻き起こした第六峠の異変は、後にそう呼ばれたという。
 十年もの間、第六峠はたった一人の英雄の助力で、辛くも守られ続けていた。そして英雄が去りし後に大きな攻撃を受け、完全にゾレン軍の制圧下となった、ディレステア第六峠大使館だったが。

「――」
 闇を熔かしたような霧の足下。青彩なき目を黒いバンダナで塞ぐ少年が、ぼろぼろにそびえる大使館を見上げた。
「やっぱりこれなら――思う存分、動けるな」
 ゾレン領であるディレステア大使館まで、ゾレン軍に察知されず辿り着けること。それがゾレン出身であり、気配も悟られ難い少年の強みだった。
 だから他の者は一切、足手まといであると。
 霧を起こし、少年の後押しをする魔道士の好青年すら、ディレステア側に配置していた。問題があれば連絡しろ、と「耳」の抜け殻だけ持たせた。

 少年は一人、自身に流れる化け物の血――自然の脅威を「力」に換えていく。
 自然から命の恵みを受けられる、竜人という躯体を以って、あくまで一方的な略奪のために歩き始める。
 霧から受け続けられる、自身の命――「力」の供給。
 出会う敵全ての命を糧に、命を直接殺ぎ落とす白光を放つ宝剣。
 二つの兇器を(たずさ)えて、闇夜に隠れて殺戮を開始する。少年以上に血の濃い竜人が起こした霧の中、赤い目の誰かを幻視しながら。
「これで何処まで殺せると思う……キラ?」

 その大使館を一夜にして、死者の巣窟とした赤まみれの少年の、初陣が第六峠だった。

 最早、数える気もない命を少年は奪った。
 ただ少しだけ、残念だったこともあった。
――オマエさんが、その実の妹を殺したいなら。
 たった一夜で、黒い霧を背に奪い尽くした。あまりにそれは性急で、救いの天使が訪れる暇もなかった。
――命を武器として使えるその力で、最大限に……ゾレンでそうしたように、奪えばいい。
 加えて、まるで死神の剣を振るうごとに鈍るような――目前の敵しか観えなくなっていく絶不調の勘。

 戦いに赴く時は、身動きが激しいとすぐに落ちるバンダナを、あらかじめ腕に括る状態にする。そのバンダナを額に巻く普段は、少年の青い目が赤く染まり、視界が半分閉ざされていく。
 しかしその赤い呪いを更に上回る、真っ赤に視界を濁らせる命の赤さ。
「なんて――……つかえないヤツ……」
 少年はただ、その脆弱さに、心から嗤った。

◆③◆ 羽衣の君

 一夜で奪還した第六峠から、王女は王都の城に戻ることになった。
 第六峠に派遣された、少年達の責任者として共に来たので、事の顛末を報告しなくてはならない。自国にとっては吉報であるはずなのに、黒い礼装に外套を羽織る王女の顔色は浮かなかった。
「……ごめんなさい、ゾーア」
 王女が最初から乗り気でないのは、護衛の少年は知っていた。それでも二人の護衛の苛烈な提案を、止められる余地がディレステアにはなかった。
「キラはもう……殺すことしか、考えていない」
 「英雄」には頼らない。そう決めていたのに、王女はあまりに無力だった。
 第六峠から一つ隣、南東に位置する第五峠で療養している側近の娘に、自らの不甲斐なさを謝るように呟いていた。

 実際問題として、敵国に占拠された大使館を、取り戻してしまった王女の護衛の存在は――
 名を出されたのはアラク・ネイデスのみだが、その翌日から早速、ディレステア全土に報知されていくこととなる。

 王都への報告に行った王女が第六峠に戻るまで、護衛の二人はそのまま第六峠に留まっていた。第六峠を管轄するディレステア軍のセルヴィ将軍と共に、ゾレン軍の報復に対して備えるためだ。
 ディレステアに広まった、第六峠での華々しい戦果。しかし王城ではその後、王家にとって頭の痛い波紋が広がりつつあった。

 戦う動機は感情的な好青年でありながら、思考は現実的な魔道士の護衛が、作戦会議の場で肩を落とす王女に冷静に返答していた。
「それは無理もありません。何しろ僕達は、一夜で事を終えてしまったのです」
「……」
「それだけの力を持つ味方がいるのなら、ゾレンと徹底抗戦を行うべきだ、と。大使館という限られた地――防壁たる国境の夜討ちだからこそできた作戦を、理解できず盛り上がる者がいることは避けられません」
 何事も裏目に出ている最近の王女は、張り付いた厳めしい顔を隠さずに俯く。

 第六峠奪還の立役者として報じられたのは、自然の脅威の「力」を持ちながら謙虚で、祭祀のような護衛の好青年のみだ。ディレステアに居場所がほしい好青年にとって、それは悪い話ではなかったからだ。
「……どの道、和平はもう無理だろ」
 実働部隊である少年は、汚れ役に徹すると割り切っている。戦闘時以外はバンダナを着けて正体を隠しているが、沈黙を守るのはやめていた。側近の娘がおらず王女だけが相手であるなら、非情なことでも不思議と言えた。

 第六峠ではゾレン側にディレステア大使館が、連絡通路が繋がる国境内にゾレン大使館がある。ゾレン軍に占拠されていたのはディレステア大使館だ。
 ゾレン大使館で鍵のかかる王女の控室――元は英雄がよく使っていた質素な部屋で、護衛達と三人だけで王女は相談する。冷たい床に坐しながら、今後の取るべき道について、王女の悩みに少年達は耳を傾けていた。
「このままこの第六峠で、ライザ様のように僕達も大使館を守るか――それとも第四峠からゾレン王都へ討って出るか、それを考えろ、という決議ですね」
「俺は別に……どっちでもいい」
 ゾレンとディレステアが接している峠は、第四・第五・第六峠の三つだ。第五峠が完全な中立地帯である以上、守り切るべき要所は元々、第四・第六峠の二つになる。
「シヴァが行けというなら、何処にでも行く。化け物の総本山の、ゾレン王都だろうと」
「エイラを牽制する要員も王都にはいるのに、僕達二人では全く刃がたたないでしょうけどね」
 少年は今も、王女が化け物として戦った頃の名前で呼ぶ癖が抜けない。好青年の見立てには完全に同意だが、討って出ても別に良いとも思っていた。
「せいぜい、国王を暗殺できるかどうか、ってところだな」
「……」
 それに絞れば、可能性はゼロではない。派手に戦う好青年を囮に少年が陰で動き、どちらも散ることになるだろうが、それが王女達のためになると言えば、好青年は納得させられるだろう。

 その提案を、王女は既に憤慨と共に却下している。
「そんな無謀な作戦、絶対認められないわ」
 この護衛達と話す時は、王女は片言のゾレン語で、そのためかぶっきらぼうになる。
「ただ――今も第四峠に籠って、ゾレン軍に挑発を続ける反乱勢力がいるから。形だけでもディレステア統一をアピールした方が良い、そのため討って出ろ、と声が上がってるの」
 審議院からのそうした要求を説明する。軍の行動には国王が最終決定権を持っているため、現在は退けているが、と厳めしい顔で状況を伝える。
「僕達にとにかく、反乱勢力と共に、戦闘をさせること自体が目的と言うわけですね」
 戦果は不要、早々に撤退すれば良い、と。弱小な人間が要求する細かい作業に、二人の護衛はどちらも乗り気でない。王女の立場を(おもんばか)り、大きく反発しないだけだった。
「……本当に……馬鹿馬鹿しい、と思ってるけど」
 王女自身、化け物の「力」を持っているせいかもしれない。アピールするためだけの戦いをするくらいなら、そもそもゾレンの化け物達と殺し合う覚悟だ。
 それでも、その方がゾレン軍に対し抑止力となり、反乱勢力と言えども自国の死傷者を少なくできるのだろうか。それとも反乱勢に火をつけ、更なる無謀を招くこととなるのかと、どちらも存在する可能性に頭を悩ませている。

 世知に長けているはずの大人達と、まだまだ青二才の自身。甘いのはどちらなのだろうか。王女がそう感じていた時、
「……シヴァ」
 少年は王女のその(つまず)きがわかり、少年の感覚で口に出した。
「何で反乱勢の奴らは……そこまで強固に、戦う意志を持ってるんだ?」
 その問いは王女にとって、都合の悪かったものと観えた。更に顔色が厳めしくなった。
「何処から見ても、力の違いは明らかだろ。何でずっと、化け物なんかと、戦うつもりでいられる?」
「…………」
 人間と化け物、両者の力の差はあまりに大きい。ディレステアが堅固な防壁で囲まれていなければ、とっくに化け物の侵略を許していたはずなのだ。

 先日の会議を、王女は思い出したらしい。ここに来てようやく、ディレステアの歪みの一端を話す気になっていた。
「あの、赤き鎧や菱盾と同じように……我がディレステアには、古代の破壊兵器がある。それを反乱勢力は、信じているのよ」
 これまでその身一つに収め続けた、古くから伝わる王家の秘め事。それを切り出す王女に、護衛二人の視線が集中する。
「大陸に穴を空けるような、(いにしえ)の威を持つ破壊兵器。けれど和平派で腰抜けの王家が、それを出し惜しみしている……それが、反乱勢力を支え、この国の武器となっている伝承なの」
「……」
「――」
 少年は無表情のまま、好青年は驚いたように目を見開いて、どちらも王女を静かに見つめる。
「ゾレンだけでなく、エイラの化け物達……レジオニスもずっとそれを警戒して、我が国に手を出し切れずにいる」

 そもそも、化け物の力でも崩せない堅固な外壁が国を取り囲むディレステアでは、それ自体が古代の遺産と謳われている。そんな砦の国において、その伝承は決して、有り得ない話ではないのだと――
 並み居る化け物達が集う「地の大陸」で、ディレステアが人間の国として独立を続けられる理由。危険な伝承を否定も肯定もしない立場を、ずっと王家は取り続けてきたのだ。
 だから、それ以上は話せない。黙ってしまった王女に、
「そんなの――そんな兵器、無いってことだろ」
 あまりにあっさり言う少年に、隣の好青年が不思議そうに眉をひそめる。
「あればとっくに、もう誰か使ってる」
「……」
 使わないということは、使えないということ。もしくは使う意味がないことなのだと、少年は王女の沈黙に、知らず同調する。

 あっさりその話に興味を失くした少年の横で、好青年がふっと顔を曇らせていた。
「そうなると、反乱勢力は……少なくともその末端は、捨て身の作戦を強要されることも有り得ますね」
「……ええ。それでも切り札を出さない王家を、糾弾する材料としてもね」
 既に先日からの激化が、その状況と言える。しかしこの護衛二人が、彼ら自身の意思で王女付きである以上は、最終的には王女の意向が重要となる。国王からも審議院からも、王女は同様の勧告を受けてしまった。
 若干十五歳にしてそのような政治問題を、まさに丸投げにされた王女は、今もこうして、当事者を前にひたすら懊悩するのだった。

 しかし、そんな風に悩めるような時間も、そう長くは与えられなかった。
「申し上げます! ディレステア大使館に、敵襲です!」
「――!!」
 王女の控室に響き渡ったその声に、一瞬で全員に緊迫が走る。
 立ち上がった護衛達に、王女も当然の如く立ち上がろうとしたが、
「シヴァは待ってろ」
「――キラ!?」
 王女を制するように手を向けた少年は、意識して一際冷たい声を出した。
「王女が戦地に出向くな。シヴァの役目は、ここの将軍と連携をとることだろ」
 あくまで王女からは、現場に向かう癖が抜けない。
 敵襲を告げに来た一般兵に、好青年もすぐに向かいます、と扉越しに返答しつつ、
「キラ君の言う通りです。ここからは僕達の――化け物の役目です」
 そう、少年と共に王女を制して言う。化け物の「力」を持つ王女が心から悔しそうに、二人の護衛達を見上げる。
「力も使うな。人間はともかくゾレンの化け物には、その発生源が王女だってことは、近くでみれば気配で悟られる」
 人間の国の王女が化け物の力を持つ事実を、化け物の国に知られてしまうこと。それは必ずディレステア国内にも波乱を巻き起こす事態であり、そうでなければそもそもこれまで、王女は代行の娘を必要としなかったはずだ。
「……――わかって……いるわ」
 王女の持つ「力」を使えば、一旦戦闘を食い止めることはできる。しかしそれはあくまで一時しのぎに過ぎないことも、項垂れる王女は先日に思い知らされている。
「…………」
 そして護衛達が出ていき、王女は英雄が使っていた部屋に一人で残される。
 今は亡き英雄の姿と、英雄に憧れていた側近の娘を、思い浮かべずにいられない王女の様子だった。


+++++


 川の下流ほどの幅がある国境の外壁ごしに、ゾレン大使館とディレステア大使館は、最上階の連絡通路で繋がっている。
 ディレステア周縁を取り囲む高い外壁の中、密接する大使館の屋上に通路の入り口がある。その内はあえて障壁として巡らされたガレキと雑嚢だらけで、通路の先はほとんど見えない。大使館自体は歴史が浅いが、外壁とそこに設けられた穴は古代の遺跡である通路へ、二人の護衛はすぐに駆け込む。

 その通路は広くなく、薄い灰色の石が敷き詰められている。今のような夕暮れ時には、まるで大きな墓の内にいるような気になる石室で、両端から辛うじて外光を取り込んでいる。
 じぐざぐと障壁を越えて進みながら、薄暗い通路のある一箇所の壁に、少年は大きな違和感をふっと観つけた。
 しかし追及している場合ではない。好青年に遅れを取らないように、早足でそのまま先を目指す。

 そんな中で、突然自らの内から湧き上がり、薄暗い視界を占拠する謎の光景が少年を襲った。
――ものは相談なんだがな、羽衣の君。
 それはあまりに唐突な白昼夢だった。脳に直接焼き付けるかのように、見たくもなかった異処が浮かぶ。気が遠くなる場違いさに吐き気がし、声を呑み込んで走り続ける。

 暗い部屋で、ひたすら臥せっている誰かに、緋色の髪の誰かが近付いていた。
――取引をしないか。……実は……。
 そこに観えている誰かから、少年は一つ、強引に呑まされた抜け殻を体内に持っている。それを通じて、こうして直観を突然占拠する情報がたまに伝えられてくる。最近は少し慣れつつあったが、このタイミングではさすがに殺意を覚えた。

 ――はぁ? と。
 その後聴覚を、ある娘の大きな呆れ声が満たした。視覚にも茫然とした顔が伝わってくる。
 その時少年は、本当に僅かに、ただ一瞬だけ――
 ずっと張りつめてきた少年自身も、思わず気の抜けそうな錯覚に陥ったものの。

「……――!!」
 国境の外側、ディレステア大使館の最上階に辿り着いたところで、館外では人間と化け物の兵士の殺し合いが展開されていた。
 銃声が止まらず、化け物達が使う「力」の余波も四方に吹き荒れている。
 まだ館内には入られていない。しかし最上階の更に上、大使館の屋根に感じたある気配に、気の抜ける錯覚は全て手放されていった。

 最上階の窓から這い上がり、石造りで平らな屋根に出た二人の護衛の前に、空から来たらしき化け物が数人、降り立っていた。
「――」
「……!!」
「やはり――この峠にいたか、ユオン」
 突然少年の本名が口にされる。感情を抑えた敵側の声に、好青年が驚きながら少年を横目で見ている。
 濃い灰色の髪と目をした、質素ながら貴賓の軍服と短い外套を羽織る鳥頭の青年が、屋上の端で少年を見ていた。

 貴賓の青年の傍らには、魔道士然とした姿の女が並び立って待ち構えていた。
「ライザ・ドールドの後でも継ぐのかい? それはあんまり、お勧めしないよ」
 青白い肌と灰色の髪と目。気の強さが滲み出た目付きと刺々しい髪で、女は闇に光る石を填めた杖を持っていた。
 しかし少年には、その二人のことはどうでも良かった。
「……――」
「――! お前はっ……!!」
 好青年が瞬時に、声に激しい憎悪をたたえた。その視線の先には、頭上に滞空している赤い人影があった。
「…………」
 夕闇の空に、身長の七割はある菱盾に、猫のような体勢で座る赤い少女がいる。古の赤き鎧を全身に着込み、少年達を無表情に見下ろしていた。

 少年が動くよりも先に、好青年が激昂していた。
「まとめて消えろ、王女の敵!!」
 大事に仕えていた代行の王女を、大きく傷付けた仇敵。好青年がその手を振り上げた瞬間、地表から激しい勢いで熱を持つ霧が噴き上ってきた。
「――! クエル!」
「……!」
 魔道士の女の方がすぐ反応する。杖を振って女が咄嗟に張った透明な防御壁に、貴賓の青年がやれやれ、と嘆息していた。
「これはまた……難攻な組み合わせだな」
 熱の霧の効果は攻撃だけではない。それに大きく強化された少年が、滞空する少女のいる高さまですかさず跳躍する。そうして「力」の相性の良い護衛同士の連携に、改めて好青年を静かに睨む貴賓の青年だった。

「――!」
 普通の化け物でも難しい高さを跳び上がり、まず菱盾を斬り付けた少年の思惑通り、赤き鎧の少女はバランスを崩した。大使館の屋根で、好青年と少年を挟み、魔道士の女や青年がいる場所と反対の端に降り立っていた。
「ピアス! 気を付けな!」
 赤い少女は「珠玉の殻」――漆黒の珠を胸に填める鎧を着け、頭にも猫の耳のような防具を、偏って束ねた黒髪にひっかけて装着している。
 まだ十五歳の少年より更に年下の少女は、霧から守る壁を張ってくれた仲間の女を、視界の端に見て頷き返す。
 それでも基本の視線はまっすぐに、少女をその屋根に打ち落とした少年のことを、表情を浮かべずにじっと見つめていた。

 言葉は何もなく、赤い少女と対峙する少年とは裏腹に、好青年はいつにない憎悪の容色で、貴賓の青年と魔道士の女に声を上げた。
「お前達は何の目的でここに来た!?」
 対する貴賓の青年の視線は、背中合わせの少年達の先、赤い少女にあくまで焦点が合っている。
「……不躾な輩には、仕置きが必要だろう」
 場所が離れてしまったので、心配なものと観えた。連れの女の透明な壁に守られる赤い少女から決して目を離さず、厳しい眼光で佇んでいる。
 魔道士である好青年は、赤い少女に憎しみを抱いているが、近接戦は不利なために貴賓達に対峙している。二人の化け物の男女が迂闊に動けないよう、熱の霧の暴風を全力で叩き付けて牽制している。
 後ろで少年は、熱の霧の中にいる赤い少女を黙って観続けていた。
「……」
 少女は先の襲撃時より長柄の、菱盾に乗るには邪魔な大きさの鎌を持ってきていた。それはおそらく、長い剣を扱う少年との戦闘を予想した武器の選択だろう。ゾレンで会った化け物の男女と、この赤い少女が、第六峠を奪還した者を少年だと見極めて会いに来たことを示していた。

 少年は黙って黒いバンダナを外し、失くさないよう強く腕に巻き付ける。既に正体を知られている相手に、赤い呪いを使う必要はない。
 英雄の息子の姿に戻った少年に、赤い少女が青い両目を無機質に細める。
「……ユオン兄さん」
 ここから激しい戦闘に臨む所存の少年に、両手で大鎌を握りしめる。
「わたし達を……殺したいの?」
 来襲者達は、少年を家族同様に思っていた化け物の青年と、少年の実の妹である少女だ。
 彼らは少年をゾレンに連れ戻すために、わざわざ都から遠いこの峠に来たのだろう。ゾレン軍の本体は館外で戦闘を行っており、貴賓の青年はそもそも、軍の下に在る者ではない。軍服の誂えも違うために、本来の所属は全く別で、独断で動いているものと観えた。
 天上の鳥たるディレステア王女の剣。死神でしかない少年には、そんな化け物達の思惑は興味なく――

「――!」
 バンダナを外して完全に戦闘態勢に入った少年は、すぐ身構えた赤い少女に、熱の霧で強められた力を全て注いで斬りかかった。
 しかしその剣の一撃は、赤い少女が応戦することもなく、少女の前で不可視の壁に弾かれていた。
「……!」
 それが王妃の言っていた赤き鎧の力だろう。改めて確認した上で少年は、まだ躊躇っている赤い少女を見下すように冷厳と言い放った。
「……アヴィスの敵は、殺す」
 鎌の持ち手に少女の力が入る。
 少年は黙って呼吸を止める。黒い霧の夜に溜め込んだ「力」……奪い尽くした命の白い斬光を、ここで容赦なく解放していた。

 先刻、抜け殻蛇が見せてきた白昼夢のせいだろう。
――バカなこと言わないで、ユオン!
 赤い少女に傷付けられた代行の王女から、少し前に涙混じりにかけられた声が、こんな時に限って脳裏に侵入する。
――たとえあのコがライザ様の仇でも……でも、実の妹なんでしょう!?
 ゾレンの三大事件を代行の王女――ただの人間の娘が知った時のことだ。
 少年自身はその時、何一つ喋らなかった。それでも人間の娘は少年が、その仇を自ら殺す気ではないかと問い詰め、否定しない姿にそう激昂していた。

 沈黙を通す少年に、やがて人間の娘は崩れ落ちた。
――……それなら……。
 自らの両足を断ったような相手に対して、何故そんなに庇おうとするのか、少年はわけがわからなかった。その前で人間の娘は泣き崩れてしまった。
――それなら、私が……あのコのことを……。
 それなら自分が、赤い少女を撃っていれば良かった。
 殺すか殺されるか、究極の選択を前にした時に、人間の娘は相手を害せなかった。たとえ代行であっても、「王女」を守らなければいけなかったのに。清濁を併せ飲むなど当たり前だと、周囲を――少年を利用してここまで来たのに。
 だから、自分のせいだ。王女でない自分に、もうできることはない、と心を折ってしまった人間の娘だった。

 その後に人間の娘は、死んでもおかしくない程の高い熱を出した。そのまま第五峠に運ばれるまで、少年は何一つ、涙の意味を尋ねられなかった。

 命を直接殺ぐ白い光を、間近で斬り放たれた赤い少女は、予期していたように菱盾を軸に、屋根の端ぎりぎりで大きく側転して避けた。
「ユオン兄さん――」
「――」
 逃げたということは、その斬光であれば赤き鎧にも通用するはず。対側で貴賓の青年が顔を歪めているが、全く構わず再び呪われた力を込める。
「あくまで殺し合う気か、ユオン……」
 少年にとっては、この状況には不利しかない。手加減をする余裕などない。好青年を背に、消えない殺意だけを暗い色の目に湛える。

 ……その昏く澱む双眸の内に、少年自身も気付かない、ある大きな間違いがあった。
「それは……無理だと、思うよ」
 少年が剣を放さない――放せない理由。その姿にそう、赤い少女が思わず嘆息した直後だった。
「――!?」
「なっ!?」
 そこにいた全員が、揃って驚愕することになった。
 突然場から、熱の霧も、それを防いでいた透明な防御壁も、全てが急速に消え去っていく。
 そして、次の瞬間――

「剣を下げなさい! 今や我がディレステア軍の管理するこの地で、無闇に戦いを続けるようなことは私が許さない!」

 まるで優雅な鳥のように、そのよく通る気丈な声の持ち主は、空から場に降り立っていた。
 屋根にいた者全員と距離をとって、対極の一角に陣取って立った。
「――……」
 降り立った者のその姿と、連れ立って来た黒い――覆面を被ったある者の姿。少年はしばらく、茫然と意識の熱を手放すことになる。
「そんな――アヴィス様……!?」
 驚く好青年が叫ぶ通り、場に降り立ったのは、長くまっすぐな金色の髪を風になびかせる娘。袖の無い生成りの礼装で軽やかに立ち、ディレステア王家の紋章の入ったペンダントを着ける人間であり――
 そこに来たのは紛れもなく、代行の王女である人間の娘と、黒くその身を隠す真の王女だった。

 そうして黒い鳥と代行の王女が、降り立つや否やすぐのことだった。
「……」
「――ピアス!?」
 魔道士の女が驚いた通りに、唐突に赤い少女は大鎌を翻し、菱盾を空に放り投げるようにして飛び乗った。
 そして何を言うこともなく、一度だけ少年をちらりと見てから、そのまま一人で場から離脱していったのだった。
「……」
 赤い少女に危機が迫れば、力を振るうつもりだったと観える貴賓の青年は、先に逃げていった姿に気を緩めている。動けなかったままの少年を見ながら、ふう、と溜息をついていた。

 どうしてこの場に、どうやって現れたのか意味のわからない代行の王女は、今まで少年が見たことのない暗模様の、膝まである長い靴を履いて立っていた。
 そうして先日の嘆きは何処へやら、毅然とした鋭い赤の目で、見も知らない貴賓の青年をまっすぐに見据える。
「我が側近の『壁』の直下では、何人であってもその威を振るえはしません。立ち去りなさい、ゾレンの化け物」
 代行の王女の言う通り、赤い少女は空を駆ける菱盾の力が、それで消されると察知して先に逃げたと思われた。鎧も菱盾も無効にされれば、足手まといになるのを自覚しているのだろう。

 姿を隠す真の王女――黒い鳥のその「壁」は、範囲が狭ければ狭い程、強い化け物の力でも無効とできる。館外の戦闘も止んでいたが、大使館がそう広くないからできる荒業と言える。
 その「壁」の中にいるとはいえ、戦地に現れた代行の王女は、勇敢を超えた無謀でしかない。魔道士の好青年も「力」が使えなくなっているはずなのに、焦りながら守るように前に出ている。
 場のほとんどの者の「力」が熱を奪われ、唯一影響されることのない少年は、心置きなく殺気を纏った。
「……つくづく、難攻な奴らの中にいるな」
 貴賓の青年は、まるでぼやくように息をつきながら、青年を庇って前に出た魔道士の女を下がらせていた。

 そして貴賓の青年が、少年をはっきりと見る。
「もとより今日は――ただの確認に過ぎない」
 青年はそもそも軍人ではない。大使館のことなど興味はない、と口にする。
「ユオン。おれ達はこれから、第四峠に行く」
「……」
「――!?」
 少年の本名で呼びかけた貴賓の青年に、驚く周囲を無視して続ける。
「我らが妹に(まみ)えたければ、そちらに来い。今後おれ達がわざわざ、この辺鄙な場所まで来ることはない」
 だから、この峠を守っていても少年の目的は果たせない。そう伝えに来たかのように、貴賓の青年はあえて坦々と宣言している。
 何も答えない少年に、そのまま化け物達は背を向け、二度と振り返らずに、暗い大使館の屋根から飛び降りていたのだった。

 それらの脅威が、そうして去っていった少し後に。
 屋根の上にいるまま、代行の王女に向かい、本来こちらの護衛である好青年が突然激昂した。
「アヴィス様! 貴方はまた何という無茶を!」
「あ、アラク……」
 ちょうど気が抜けて息をついていた代行の王女が、その剣幕に少し後ずさる。
「シヴァ様もシヴァ様です! いったいどうして僕らをお待ちいただかず、あまつさえアヴィス様をこのような所へ連れてこられたのですか!」
「…………」
 その方が「壁」の力の主を隠せるからだろう。覆面をして代行の王女に付き添う際は、決して喋らない真の王女――黒い鳥は黙り込む。
 わかりきったことなので、何も口添えをしない少年には期待していないように、代行の王女がおずおずと苦しい微笑みを浮かべた。
「だってこういう、小競り合いこそシヴァの本領発揮というか。それに………」
 そして代行の王女はその視界に、無表情で佇む少年をまっすぐ捉える。

「……」
 つかつかと、代行の王女が危なげもなく、少年の元まで歩いてやってくる。生成りの礼装に合う色褪せた緋色の深靴で、しっかりとした足取りで屋根の上を歩く。
 その姿を少年は、黙って見つめるしかない。そうしている内に代行の王女は、すぐ前まで辿り着いて来ると――
 何故か、その人間の娘は、
「あのねぇ――ユオン」
「……」
「薄情者。一回くらい、見舞いにきなさいよ!」
 そう言った直後に、何故かくるり、と軽快に足を振り上げた。非力な娘らしからぬ速度の回し蹴りを、唐突に少年にお見舞いしていた。
「――」
 少年は人間より運動性能の勝る化け物であり、その上更に反射速度を上げる直観を持つ。あっさり避けると、もう……と、人間の娘がつまらなそうに、膝までの靴を履く足を再び床面に下ろしていた。
「これはかなり、特訓が必要ね」
 何故か両手を握り締めて、一人でうんうんと頷いている。そしてすぐ近くに駆け寄ってきた好青年と、少年の手を一つずつとって、ぽかんとする護衛達に穏やかに笑いかけた。
「――ただいま。心配かけて、ごめんなさい」
 そうして強く、大切な化け物達の手を嬉しそうに握り締める。
 黒い鳥――覆面の下の王女が、呆れたように溜め息をつく前で、少年と好青年も黙り込むしかなかった。その手の温かさは本当に、紛れもなく代行の王女その人、アディ・ゾーアなのだった。


+++++


 第五峠の医療施設では、技術の発達した人間の国ディレステアで一般的な、効率良く燃油を使う灯りを使っている。しかしそれを全くつけず、暗い部屋で(うずくま)り、何かと話しかける付き添いの抜け殻も離して、人間の娘はひたすら床についていた。
 もう代行の王女ではなくなった自分。両足を失い、死にかけた娘。それに何ができるのか、と起き上がることを忘れてしまったような状態だった。

――よォ。生きてるか? 氷の君の大切な羽。

 そこに、緋色の髪で金色の眼の男が現れた時の光景を、少年は改めて――その男が持ち歩く抜け殻と繋がる、自らの内の「声」を通じて情報を拾い上げる。

 その後、人間の娘と黒い鳥を空からここに運んだのは、全身を長い外套で覆い隠し、透明な翼を持つ旧騎士団長のはずだ。しかし何処にいるのかは全く感じ取れなかった。
 まずもって、二人の王女がそれだけ近くに来ていたのに、直接目にするまで少年は気付けなかった。戦闘に集中していたとはいえ、直観の不振がなかなか深刻な状態と言える。

 人間の娘が臥せる部屋に、見舞いに来た緋色の髪の男は勝手に灯りをつけた。そんな強引な来訪者に、振り返りもせずに、娘は目を閉じて臥せ続けていた。
 その背中に対して、男はあくまで自身のペースで、一方的に語りかける。
――ものは相談なんだがな、羽衣の君。
 ベッドの前の椅子に膝を組んで腰かけると、返事も構わずにそんなことを言い出していた。思わず娘が目を開けたのをいいことに、先を続ける。
――取引をしないか。
 そこで手元に、男は二つ、まるで長靴のような体裁をした分身。元は自身の一部だったという抜け殻を取り出していた。
――……?
 そしてようやく、人間の娘はその男に、くまだらけの目で小さく振り返る。

 実は――と。
 普段の緩い声より、何処か緊張も混じらせた声で、男が次の言葉を口にした時のことだ。
「――はぁ?」
 人間の娘の声があまりに、それまでと違って力強くなった理由。娘はひたすら男に呆れ果て、その衝撃で我に返っていた。
 そこから男が言い出した無謀な取引が、白昼夢を受け取った少年に強く伝わる。

 身体を起こし、男を怪訝な顔で睨んだ娘に、男はその二つの深靴を手渡していた。
「オレの『足』の抜け殻を貸し出してやるよ」
 両の下腿を失った娘へ、そう、掴み所の無い顔で笑う。唖然としたまま男の話に耳を傾ける娘に、代償として男は取引を持ちかける。
「あんたにも悪い話じゃないだろ? オレの『足』があれば、今まで通り動けるだけじゃなく、氷の君の熱をあんたにもまわせる――あんたもずっと、氷の君の力になれる」
「……」
 男はかつて黒い鳥に力を貸し、化け物の「力」を持つ王女を強化していた。その力を人間の娘にも、僅かながら分け与えることができる、と伝える。

 その後に、旧騎士団長に空を運ばれた後、遥か上空から大使館の屋根に降ろされても無事に着地できた「足」は、人間ならぬ力の一端を証明していた。
 旧騎士団長は、王女達を運んだ後、連絡通路からゾレン大使館側――ディレステア国内に先に行ったと言う。少年達もディレステア側に戻り、ディレステア国内から第六峠に来た緋色の髪の男を、王女達が揃って出迎えていた。
「よォ、『足』の具合はどうだ? 羽衣の君」
 むぅ。と少し悔しげに代行の王女が、「悪くない」と、ぺんぺんと片膝を腰の高さに上げて叩く。
 持ち場の第四峠を簡単に離れる不真面目な大使を、改めて目にした忍びの王女は、正体を隠す覆面のままにも関わらず、思わず声を出してその名を呼んでいた。
「ソリス大使――……」
 そしてやはり、唯一表に出た目の周囲の肌を僅かに赤らめている。

 「足」の抜け殻を義足としたらしい代行の王女は、以前よりも大人びた顔付きで、真の王女の隣で腕を組んでいた。
「それにしても――もう少しマシな造形にはできなかったものかしら?」
 暗い緋色で無地の蛇柄に、身も蓋もないことを言う。「足」を渡した大使が、子供のような顔で笑った。
「縫製、着色、何でも好きに手を入れてくれ。オレは別に痛くないし」
「オマエは痛くなくても、オイラ達は大変だにょろ! この無責任がにょろ!」
 肩掛けのように大使の肩を取り巻き、声を上げる緋色の「頭」。大使はひょい、と何故かソレを少年の肩に掛け直す。
「……?」
 長い外套の上からまるで襟巻のように、「頭」の抜け殻蛇は、肩に巻き付いて少年を見上げる。
 大蛇より凝縮されつつあるその抜け殻は、そこで大きく笑った。
「キラ、久しぶりだなにょろ! 相変わらず危険人物してるかにょろ!」
「……」
 そんな他愛なき再会を、ディレステア側のゾレン大使館の前で行った一行だった。

 何故か旧騎士団長は周囲にいない。
 そして突然、一行には全く関係のないはずの異邦者――
 突然、玲瓏として鋭い声が、和やかになりかけた場に割り込んでいた。
「ククル。要件はもう済んだのかしら?」
 まるでそれは、平民を蔑む女王のように。
 大使という名誉職にある緋色の髪の男を、鋭い声の持ち主は呼び捨てにする。

 代行の王女と忍びの王女の前に出て、好青年がすぐに警戒態勢をとった。
「――何者だ」
 少年は首を取り巻く抜け殻蛇の感触が強かったせいで、反応が遅れてしまった。
 好青年が睨む先には、身体の線がよく出る露出の多い服を着た、肩までのふわりとした褐色の髪の女が、大きな木にもたれて佇んでいた。
 一応肩に短い外套は羽織っているものの、姿だけは娼婦のような出立ちの女に、代行の王女が怪訝な目を向け、最初に口を開いた。
「貴女は……テルス、第三峠大使?」
 その「第三峠」は、エイラ平原とのみ接するディレステア国境になる。エイラの中立維持集団、レジオニスが大使をするもう一つの大使館の主がそこにいた。

 秘宝収集家として有名な女を、一目で見切った代行の王女に、女は全く反応を返さなかった。
「王城に定時報告に行くから、と誘ったのは貴男よ? いつまで待たせるつもりかしら。とんだ遠回りをさせられたものね」
 女の言う通り、第三・第四峠からは、第六峠は王都を挟んで対極に位置する。それなのにわざわざその女を連れてきた緋色の髪の大使を、妖しく微笑みながら、女は鋭い金色の眼で見ている。
「いやあ。ドミナの姐さんは、ディレステアの軍事顧問でもあるわけじゃないですか」
 王女たる人間の娘を完全に無視している女に、普段通り、言葉だけ多少丁寧に緋色の髪の大使が返答する。少年と忍びの王女に不意に、思い思いの沈黙が走る。
「この少年と好青年が、第六峠を奪回した、あの英雄に代わる希望の星ですよって。それを紹介したくってね」
「あら、そう。別にあたしはあの英雄に、何の興味もなかったんだけど?」
 まーたまた。などと、何処か皮肉げな顔で気安く話す緋色の髪の男に、代行の王女も忍びの王女も完全に置いていかれ、不審の目を隠せなかった。

「――……」
 ここにもし、今いる大勢の邪魔者がいなく。
 そして代行の王女が、女を大使として認めていなければ、少年は――女が現れたその時に剣を抜いていただろう。
――……?
 意味の解らない、理由の無い殺意。ディレステアの要人である第三峠大使に、まさかそんな狼藉をするわけにいかず、ただひたすら沈黙して抑える。

 緋色の髪の大使は、場がとても気まずくなったことを悟っていた。
「それじゃ――『足』の対価は、また今度な。羽衣の君」
「……」
 最後まで一行を無視した女と共に、大使は普段より素っ気なく第六峠を後にしていく。その二人の大人の後ろ姿を、王女達は厳しい顔で見送っていた。

 そしてその大使達二人が、森の向こうに立ち去った後で。
「全く……何なのかしら、あの不真面目男」
「…………」
 何故かやけに不服そうな代行の王女と、少し俯き、何処か目線の泳いだ忍びの王女だった。
 それからようやく、場に影の功労者が現れる。
「――って。貴男、何処に行っていたの?」
「……」
 一行より離れた所で、全身を外套で覆い隠す男が気配を隠したまま、言葉なく佇んでいた。
「第五峠からここまで、送ってくれて有難う。もうソリス大使は行ってしまったけれど――」
 これまでその旧騎士団長は、緋色の髪の男の護衛のように付き従っていた。なのに大使を追わない相手に、代行の王女が首を傾げる。
 その不可解な状況に、少年の肩から「頭」が解説を始めた。
「ソイツは、アディちゃんとシヴァちゃんが自由に使うと良いにょろ。それが望みにょろ」
「って――へっ?」
「……!?」
 あっさり言ってのけた内容に、代行の王女と忍びの王女が目を見開いて、全身を外套で隠す旧騎士団長を見る。

 そこで意外な声を発したのは、代行の王女にぴたっと付き添っていた護衛の好青年だった。
「マイス……旧騎士団長……」
 旧騎士団長を嬉しそうに見る好青年に、王女達が今度はそちらを見る。
「……」
 謎の男も外套で隠されている顔を、向きだけ好青年の方に変える。
「騎士団長殿……僕達とまた――戦って下さるのですか?」
 先日に王女の護衛となるまで、好青年は第五峠を守る騎士団の一員だった。好青年が騎士団に入る前にその騎士団長は辞めているが、療養中に世話になっていたらしい。辞職後に行方不明となった者の名を気配で悟り、懐かしそうに口にしていた。

 王女達も外套の男の正体自体は、代行の王女を第五峠に搬送する時に聞かされていた。しかし何故ここに来て、力を貸そうと旧騎士団長が思ったのか、それがわからないでいるようだった。
「何でもいいにょろ。使える者は使うにょろ」
 ふふふん、と何故か抜け殻蛇が得意そうにしている。ずっと黙り続けている少年が、余計なことを言わないように先回りしたらしい。
 少年には旧騎士団長の目的が、以前からわかっている。王女達にはさっぱり心当たりがないようで、第五峠から半ば追い出された相手が護衛をしてくれるというのを、いつまでも不思議そうにしている。
「まぁ――そうよね。しばらくは多方面に、人員が必要そうだし」
「アヴィス様?」
 ふっと、冷静な顔で代行の王女が、会議をしましょう、と突然言い出していた。
「私達がこれからどうするか――誰が何処でどう戦うのか。色々と、決める必要があるわよね、シヴァ?」
「……」
 黙ったままこくんと頷く忍びの王女に、代行の王女も頷き返す。

 ひとまず、ゾレン大使館の王女の控室に、一行は戻ることになった。
「それにしてもアヴィス様……何だかとても、見違えられましたね」
 第五峠に運ばれた時の、娘の落ち込みようは本当にひどかった。その好青年の素直な感想に、人間の娘は、よくぞ言ったとばかりに微笑む。
「このアディ・ゾーアは、一度足をとられて転んだからって、ただじゃ起きないのよ!」
 ともすれば、捨て身とも言える内容の台詞を、そうして心から不敵に言い放っていたのだった。

◆④◆ 死の天使の峠

 再編成された王女の一行。忍びの王女と護衛の少年に、旧騎士団長が第四峠に降り立った時には、第四峠のアシエス将軍が、以前より厳しい面持ちで出迎えていた。
「あれからいくつか、状況が変わりました」
 峠とは大体、ディレステアの周縁を囲む堅固な外壁で等間隔にあり、大使館と大使館を繋ぐ通路で国境の外へ出られる関所だ。しかし第四峠の国境だけは他と違い、ディレステアのレジオニス大使館から外壁の通路に入ると、ゾレン領の宿場町にすぐ続いている。過去にはディレステア大使館があったのだが、ゾレン王都が遷都した際に一番近い大使館を警戒し、ゾレンから先制攻撃をしない誓いの代償に転地させたのだ。
 ゾレンらしからぬ石造りの建物がひしめく、第四峠の宿場町の少し北の、エイラ領にディレステア大使館とゾレン大使館は分立している。聖地から分岐してゾレンと峠の地下を貫く川を境に、まとめて第四峠と呼ばれている。
「今や宿場町は、完全な戦闘区域です」
 宿場町は本来ゾレン領であるが、エイラにも接する峠の性質上、中立色が濃い。エイラの者が頻繁に出入りするため、ゾレン一律の通行証制度も採用されておらず、様々な点で例外的な土地だ。十年ぶりの和平交渉の際も王女は往路にこの地を通り、エイラ領のディレステア大使館でゾレン大使を交えて行われたという。
「交渉の決裂以来、殺伐とはしていましたが……討伐隊が駐屯する間はまだ良かったのです」

 和平交渉決裂後、ゾレンの反感と反乱勢力の潜伏により、王女達がこの地を通れない程に宿場町内での緊張が高まっていた。
 しかし討伐隊がディレステア大使館に対して包囲網を張る際に、まず検挙したのがこの町に潜む反乱勢力であり、宿場町のゾレン人には歓迎された。エイラ領まで討伐隊が大事なく進駐できた理由でもあった。
「反乱勢力は討伐隊の完全撤退後に、再び町に根を下ろそうとしています。ゾレン軍は今の所は、その挑発にはあえて乗っていません」
「なるほどにょろ。ここに下手に進軍したら誓約違反だし、レジオニスに喧嘩を売ってるともなるからなにょろ」
「それを反乱勢力も盾にしているようです。誰が入れ知恵をしているのかはわかりませんが……」
 覆面で将軍にも素性を隠す王女と、護衛の少年は喋る気がなく、旧騎士団長は元々寡黙だ。それらを相手にした説明はひたすら、将軍と抜け殻蛇しか会話をしない異様な状態が続く。
「ですが。軍は動かずとも……」
 そこで第四峠将軍が表情を曇らせる。
「町のゾレン人を害する反乱勢力の行動が、ついに目に余ったのでしょう。『王属』が動きました」
「王属がにょろ!?」
「――!」
「……?」
「……」
 息を飲む忍びの王女と、まず言葉のわからない少年に、ある程度は想定していたらしい旧騎士団長は各々に反応する。
「例の英雄の娘。ピアス・エルフィです」
 その単語に、少年もぴくりと眉をひそめる。

「ゾレン内では、『気ままな死の天使』などと持て囃されていますが、あれは元々、ゾレン軍に在籍していないといいます。次期国王たるキル・レオンが率いる王属部隊が、連れ合いのデスリー・ジーンと英雄の娘を筆頭に、宿場町で現在、反乱勢力と戦闘を行っています」
「なるほどなにょろ。それなら確かに、国内の問題だとしてゾレンもアピールしやすいにょろ」
 ゾレンでは基本的に、国策は絶対王政だが、それ以外は地方自治制がとられている。その中心に政務部があり、対する軍部の役目はゾレン全土の治安保全となり、軍の主力はゾレン国外の勢力へ向けられることが多い。
 その政務部や軍部をまとめて、王の意志が反映されているか監視し介入するのが、王が直々に任命した王属部隊だという。そうした性質上、活動が国内に限定される王属部隊は、本来は滅多に動かないそうだった。
「それくらい、反乱勢力のやり方が目に余る状態だったということかにょろ」
「ええ。それに比べて、自国の者を守るために、あのような年若い王属達が少数で戦う姿を見ると……やはり反乱勢と肩を並べるよりは、討伐隊としてあのまま駐屯したかったのが、私としては正直なところです」
 将軍は英雄の娘の幼さを目にして、大きく心を痛めたらしい。一見は屈強な僧兵で無骨ながら、口調通り細心のようだった。
「でもにょろ、反乱勢力は負け負けにょろ? それならオマエ達は自国の味方をするにょろ」
「わかっています。あの幼い娘がもう幾人、反乱勢の首を狩ったかわからない……外見に騙されてはいけないことは全軍に命じています」
「…………」
 黙り続けていると、その一際目立つ死の天使が活躍する度、ゾレン軍の士気も上がるようだ、と将軍が項垂れていく。
「この状態ではいつ、この峠にゾレン軍もいよいよ踏み込んでくるか……今、ここから討って出るなど、まさに自殺行為です」
 おそらく、防衛に徹せよという王妃の方針を最も長く守ってきた第四峠将軍にとって、それが一番の本音のようだった。

 国境を越える通路の終点で、一通り説明を受けた一行の内で。
 それじゃ、とばかりに宿場町へと出ようとした少年の背を、忍びの王女ががちっと掴んだ。
 有無を言わさずレジオニス大使館まで戻り、人目のない控室に旧騎士団長と共に少年を引っ張り込む。黙り込む少年に王女は厳しい目線を向ける。
「もうアラクはいないのよ。アナタが一人で出ていってどうなると言うの」
「……」
 自然の脅威を司る魔道士の好青年は、自然の恵みを力にする少年の強力な後押しだった。しかし今後は、ディレステア王都で戦略審議に参加する代行の王女の護衛を強く希望していた。

――シヴァは、第四峠に行きたいんでしょう? それなら王女は、私に任せて。
 それは自分の得意分野だ、と代行の王女は、早速やる気満々の様子だった。
――僕は今でも、アヴィス様専属の護衛です。
 代行の王女が第五峠から復帰し、好青年もゾレンへの敵意より王女の護衛を優先している。その彼にであれば代行の王女を任せられる、と忍びの王女は自ら第四峠に向かうことを決意したのだ。

 戦うな。と言っている忍びの王女を、少年は冷たい目線で見返す。
「……じゃあ、何しにここに来たんだ」
 旧騎士団長は、出会った当初から忍びの王女を守ることを第一としている。王女達はその理由を知らないが、それなら一番の戦闘要員は少年であるだろうに、護衛に徹しろというのが納得いかない。
 王女は、そんな少年の思いに気付いているのかどうか。
「討って出た所で、私達にメリットはない」
 ただ、討って出ろという声に対して、第四峠に向かった事実だけが目的だ、と、細かくてよくわからないことをまた口にする。

 それぞれの峠を守る将軍の本拠は、本来はもっと王都側にある。軍として駐留する場合、中立地帯である大使館には陣取れない盟約となっている。
 討伐隊は解散したものの、臨時動員された他二人の将軍とその率いる兵は、この緊迫状態の第四峠大使館周縁地域にまだ駐留していた。
「……」
 その中で王女が、あえて大使館に留まるというのは、王女にほとんど戦意が無いことを、少年もわかってはいた。

 この第四峠に来る前に、代行の王女が少年に言い含めたことを、改めて少年は思い起こす。
――あの時いったい、誰が討伐隊の包囲の隙を反乱勢力に教えたか。それをまず探さないと。
 ゾレンとディレステアの激化を煽った者。それが国内にいるはずだ、と王女達は警戒している。
――個々の将軍にすら、包囲網の全体の構造は伝えていなかったの。それぞれが与えられた範囲を死守して、互いの領分は侵すな、とね。
 だからその情報を持っていたのは、最高責任者たる王女と代行の少女と、そうした作戦であることを申請して許可を得た国王に、審議院の上院だけになるのだ。
――ユオンは、誰が怪しいとかはわからないかしら?

「…………」
 代行の王女はできれば少年にも、城についてきてそれを共に探ってほしい、と願っていた。以前までの少年ならともかく、今、直観の力に大きな波がある少年は乗り気になれなかった。
――ユオンが第四峠で、あの化け物さん達に会いたいのなら、もう止めないけれど。
 そう、何処か諦めたように代行の王女は、戦いの話以外でほとんど喋らなくなった少年をまっすぐに見ていた。
――でも、必ず……生きて帰ってね、ユオン。
 一番大切なことはそれだ、と硬く言う。ゾレンで少年がその化け物達とどう関わったのか、第六峠で忍びの王女から初めて話を聴いたらしい。
 少年をゾレンに、連れ戻したいと願っている化け物達。その話に、代行の王女は黒い鳥と違い、迷いを見せることはなかった。
――そんな化け物さん達となら、戦わなくても解決できるわ。ユオンがここにいたいなら、向こうには、戦いが終われば帰ると言っておくか、逆に今は向こうに行っても構わないのよ。嫌になったら帰ってきたらいいわ。

 それが可能かどうかはともかく、と。
 たとえ離れて、別行動になったとしても、自分達の行き先は一緒だ、と人間の娘は少年に笑いかける。
――ユオンの帰る場所はここよ。ディレステアでもなくゾレンでもなく……私達が一緒に行こうって、そう思いながら歩いていける、今この心にあるのよ。
 何も身内と、真正面から斬り合うよりましよ、と、少年のバカ正直さを困ったように娘が笑った。
――ユオンが元気なら、何処にいてもいいの。ただ、死なないで……死んでしまうようなやり方は、お願いだからしないで。
 もしも少年が希むなら、秘密裏にゾレンに行っても良い。帰るつもりが帰れず、留まることになっても気にするな、と娘は言った。
 かつて人間の娘が言っていたこと。英雄は本当は、ゾレンに帰りたがっていた。そうと知りながらディレステアに束縛してしまったことを、王女達は悔いに思っている。だから少年を、「英雄」扱いしないと決めていたのだ。

 人間の娘はもうほとんど、少年をキラと呼ばないようになった。
 ただそうして、少年がどうであれ帰る場所が揺らぎはしない、と自身の思いを悔いのないように伝えていた。

 人間の娘が帰る前の、最後の姿を思い出した。
――私に……もう、できることなんてない。
 一度は全てを失ったと言わんばかりに、気持ちの糸を切ってしまった娘。なのに再び、そうして顔を上げていられる理由――
 どうしてそれができるのか、少年には未だに、何もわからないまま。

 人間の娘とのそんな話を思い出したせいか、宿場町に行く目的を、そもそも何だったのか少年は忘れかけていた。
 思いの外大人しくなった少年に、もう少し反発を覚悟していたらしい王女が、ほっと息をついたのも束の間だった。
「……」
 旧騎士団長が突然立ち上がり、窓の方へ行き、閉ざされていたカーテンをばっと開けた。
「――!!」
 その窓の向こうにいた、有り得るはずのない人影。
「あ。気が付いてくれた」
 窓の外側には、箱座りをする猫のような安定感で菱盾に乗り、滞空している赤い少女の姿があった。
 第六峠での無表情とうってかわり、何故か穏やかにニコニコしながら、窓の中を懸命に覗き込もうとしていた様子だった。
「な――……!」
 王女のその驚愕も無理はなかった。
「どうやってここへ……!?」
 忍びの王女達が現在留まるレジオニス大使館――それは完全に外壁の内で、ディレステアの国境の内側だからだ。

 ゾレン宿場町で戦闘をしている赤い少女が、まず第四峠の大使館の通路を通されるわけがない。
 峠以外から外敵の侵入を、空からすら阻む謎の外壁が、ディレステアの砦であるというのに。
 窓の外の赤い少女は、カーテンを開けた旧騎士団長と、後ろで剣に手をかける少年に何故か笑いかける。
「やっと来たね。ユオン兄さん」
「…………」
 どうやら峠の外からでも少年の気配を察知し、いち早くやってきた少女であるらしい。
「あのね。多分今夜、大きなヤマがあるって、キル達が言ってたよ」
「――!?」
「――……」
「今まではエイラの大使館の人達ばかりだったのに。最近はここの国の軍の人も、こっそり町に増えてるからって」
 赤い少女のその台詞に、少年と王女に共に緊迫が走る。
「ディレステア正規軍が――宿場町に、ですって?」
 反乱勢力の人間が、根を下ろそうとしている第四峠の宿場町。そこに住むゾレン人が何故大きな被害を受けるかは、ディレステアの人間の狡猾さにあった。
 国境であるその宿場町には、ゾレン人である人間も多く住んでいる。通行証の制度もないために、どの人間が同国者で反乱勢力か、化け物達には気配だけでは判別ができない。元々気配の探知を大きな情報とする化け物達は、その状態ではどうしても後手となる。

 ゾレン人なら、人間であろうが化け物、全て敵とみなすディレステア人に対し、第四峠のようなゾレン東部の化け物達は、誰彼構わず人間狩りをすることはしない。本来ゾレンは、半数以上を人間が占めており、人間と化け物が協力して生きていこうと建国された国だったのだから。
 人間を排斥しようとするのが近年の長い国策ではあるが、その憎悪が一番強いのは第六峠などの西部だった。
「みんな嫌なのは、新しく来た人間だけだよ」
 そうした中で、この気ままな天使が見つけ、処断した人間には全て、ディレステア出身を示す「D」の印が後から確認されていた。
 ただ一人も同国者を害さず、敵国の人間を排する赤い少女と、その後ろ盾である王属部隊には強い信望が集まっている状況なのだ。
「ディレステア正規軍が本当に、勝手にゾレンに進攻していると言うの?」
 この赤い少女に、正体を隠しても意味がない。その思いで忍びの王女は口を開く。
「……王女様の命令じゃ、ないの?」
 きょとんと少女は、それは大変。と言いたげに、丸い目で王女を見返していた。

 そして改めて、赤い少女が少年を見る。
「エルのこと、殺したいなら町まで来てね、ユオン兄さん」
 まるで他人事のように悪意がなく、屈託のない顔で笑う。
 少年や王女が何を言う隙もなく、菱盾上に立ち上がると、空を滑り降りていくように、窓の前から飛び去っていたのだった。

 その不法入国者の少女のことを、忍びの王女が館の主に直接問いただしにいったところ。
「いや。オレ達は一切、正規通路への侵入は感知していない」
「……」
 このレジオニス大使館は、一切そうした者を通していない、と緋色の髪の大使が真面目な顔で言う。
「さっきまでそのお嬢さんがいたと言うなら、帰りの侵入も感知して然るべきだが。それも全く反応はないな」
 あくまで外壁内の通路は、気配も肉眼上も無人であったと、それは断言する大使だった。大使が不在の時であっても、いつも「目」の抜け殻を置いて監視しているという。
「……第六峠みたいに、別に侵入路は?」
 その秘密の経路を以前、通されたことのある少年が尋ねる。
「さぁな。それに関しては把握してない」
 大使は逆に、それについてはどうなのか、と問うような目で王女を鋭く見返していた。
「この大使館を通す入国の安全管理の責任は、オレ達にあるが……」
 知りもしない侵入経路まで責任はとれない、と。まるで王女達の秘密に言及するように言う。
「貴方にわからないなら、私もわかりません」
 大使を疑いたくはないが、王女には心当たりがない状態。黒い鳥に戻った王女は、第六峠からずっと不機嫌な顔で、覆面から出ている赤い目で大使をひたすら睨むのだった。

「仕方ないにょろ。本部で装備を整えてから宿場町に侵入待機するにょろ」
 何か大きなヤマがある。赤い少女からの情報にそう決めざるを得なかった王女一行は、大使館を退去する。
 入国はともかく、出国は大して規制のない峠を、旧騎士団長と護衛の少年に加え、ごく少人数の兵士を連れて国境を通過するしかなかった。

 王女一行は宿場町から少し南、地下から地上に顔を出す川の岸に陣取った。
 忍びの王女は早速第六峠と同じ、その化け物たる力の「壁」を張り巡らせる。
 「力が発動するための熱」や、遠隔武器を「動かす熱」を奪うその結界は、戦場を鎮火できるかなり使い勝手の良い「力」なのだが……。
「……あの女、一度見せた力は多分効かない」
 少年はそんな王女に、おそらく対峙する魔道士への注意を促す。
「誰も力が使えない状況なら、俺とアイツで他の二人は何とか相手ができる。でも――」
 少年は赤い少女を、旧騎士団長は王属部隊を率いる貴賓の青年を。そう分担した一行だが、
「壁だけでシヴァが、あの女を牽制するのは無理だ。シヴァはアイツから絶対離れるな」
 旧騎士団長の傍で戦え。それは絶対だ、と強く伝えた。
「そうだなにょろ。アイツは、赤猫の相手で手一杯のキラより、頑丈で強いにょろ」
「……」
 相変わらず全身を隠し、昂然と佇む旧騎士団長の後ろ姿に、王女は不可解ながらも黙って頷く。

 少年はあらかじめ、魔道士の女についての対策を忍の王女に教授したものの、
「殺し合うことが目的じゃない。この第四峠で何が起きつつあるのか、確かめに来たのよ」
「……」
 少年から冷静に戦法をしっかり聞きながらも、その上で王女は甘いことを口にする。
 少年と王女――黒い鳥が初めて会った時の、帰国するためならどんなことでもするという、冷酷さに信を置いていた少女は何処にいったのだろう。少年は無言で首を傾げる。
 極限状況に近いのはあの時も今も、そう大きく変わりは無いだろうに、と。

「うむにょろ。オイラもそろそろ隠れるにょろ」
 肩に巻き付く抜け殻の蛇を下ろし、バンダナをまたしっかり少年は腕に巻き付ける。
「……シヴァ」
「――?」
 不意に、久しぶりに、張り合いのない声で王女を呼んだ。
 どうしてそう思ったかはわからない。けれどふと、今思ったこと。そのままの心を他愛なく伝える。
「シヴァは――生きろよ」
 振り返った王女を見ずに、ただ淡々と、黒いバンダナを見つめて呟いた。
「……当たり前じゃない」
 いつどんな時でも、誰を犠牲にしても、一番優先であるのは王女たる自身の保身。それはわかっているつもりの王女は、少し不服そうに少年を見返してきた。
「……」
 少年は最初から王女を見ずに、腕に巻き付けたバンダナを見ていた。
 自分でもどうしてそう言ったのかは、さっぱりわからなかった。王女もそれ以上は声をかけてこなかった。

 その後王女はずっと、「壁」で囲んだ宿場町の、全体の気配に意識を研ぎ澄ませていた。
 町の内に確かに散在する、火種と成り得るいくつもの熱。その個々がどんなものであるかまでは感じ取りようがないが、ただ熱の略奪にだけ、しばらく全力を注いでいた。

◆⑤◆ 死者の一族

 第四峠に沿った林間から湧き出て、ゾレン王都に続く広めの川岸で。
 王女一行は筆頭の三人以外を宿場町に待機させ、少年達をこの場へ誘った化け物達の出現を待っていた。

 王女と旧騎士団長と、背中合わせに三方向を警戒しながら、少年は雑草もろくに生えていない地面に座る。
 何もすることがなく、暗くて周囲も見え難いせいか、またしても突然、少年以外の曲者の光景が直観の占拠を始めた。
――……王よ……。
 そこに映った知らない者達の姿。思わず殺気を呑み込む少年に、王女が不思議そうにする。

 その光景で知った相手は、緋色の髪の大使くらいだった。
――というわけで。第二・第四・第六の三方の通路からは、『遺跡』に降りる道はあったが。
 大使の姿が観えているのは、その肩にいる「言葉」の抜け殻と少年が繋がっているからだろう。まるで大使がわざわざ流している情報を、少年は黙ってそのまま受け取る。
――『遺跡』からディレステアに出られないのは、何処も同じだ。あくまで外郭の内に残る遺物で、おそらく実験的な試みだったんだろうな。
 何者かに報告するような大使の声には、普段の緩さの欠片もなかった。
 そして多くの嘘が感じられた。偽りの情報を話し、それを少年にも流していることを、大使は確実に計算している。直観の利用というあまりに稀な漏洩の方途が、悟られることはないとわかっているのだ。
――それで、その『遺跡』には、どの程度の宝が眠っていそう?
 それしか興味は無い、といった誰かの反応。大使はつれなく、それはあまり期待できない、と答える。
――ドミナ殿。我が国にご助力を下さるなら、それ相応の報酬をご用意しましょう。
 代わりに何処か、浮ついた老人の声が場に重なる。

 大使から何かを説明されている者は三人。
 祭祀のような姿で小柄の老人と、大使が先日連れてきた第三峠の妖艶な女。
 最後の一人は、柔らかい雰囲気をほとんど持たず、覇気もなく物憂げな貴賓の姿――
――トラスティ国王よ。いかがですかな?
 老人の声が明かす貴賓の正体。それは紛れもなく、少年の妹を攫い、英雄たる実の父を処断する死の天使に仕立て上げたゾレン国王の姿だった。
 そうだとわかった途端、視界が一瞬で真っ赤に澱んだ。せっかく流されてきた情報の続きは、そうして閉ざされてしまった。

「――……」
 少年はただ、声を呑んで舌打ちしていた。

 しかしそんな光景に浸る時間は、そもそも無かった。
「これ程までとは――驚いたな」
「――!」
 忍びの王女と旧騎士団長が、警戒態勢に入る。全員が立ち上がって同じ方向を見る。
 上流の方から、ゾレンの王属部隊を率いる王族の青年が、連れ合いとして公式に発表した青白い肌の女を供に現れていた。
「どうやらすっかり町全体で、どんな力も人間の武器も、まとめて不能にされたみたいだね」
 松明を持つ供の女が感心したように、忍びの王女を見ている。
「でもアタシ達には……アタシがいる限りは、あんたの結界は、もう通じない」
 そう言って不敵に、魔道士である供の女は笑った。

「――」
 先日彼らが第六峠に来た際に、この「壁」の力も解析されて対策を打たれた。熱を奪われずにきらめく松明の火に、苦々しく少年は悟る。
 宿場町の火種はともかく、目前の化け物達の力は、供の女の魔道で「壁」から守られている。そのことを示すように、そう広くない川の対岸に降り立った人影がいた。
「……!」
 壁の中でも無効化されず、機動力を保つ菱盾。その上に悠然と赤い少女が立ち乗っている。
「こんにちは。ユオン兄さん」
 柄が長く、刃は短めの薙刀のような鎌を今日は持っている。少年を誘うように一人、対岸の直上を滑るように滞空している。髪留めとなっている猫の耳のような赤い防具に、以前から守りの魔道が施されている。
「キラ! 気を付けて!」
 誘いに乗って、対岸まで跳躍した少年に王女が叫ぶ。見ていた化け物二人が何故か苦笑する。
「本当にね。あんたはまず、自分を心配しなさい」
「全くだ。その見上げた心柄――やはり敵にしておくには惜しい」

 そして貴賓の青年は、遠慮なく背の剣を抜いた。
「ユオンを連れていくためには……どうやら貴女を先に攻略するのが、近道のようだ」
「――!?」
 驚く王女の前に、無言で旧騎士団長が立つ。
 青年の意図を、供の女が解説を始めた。
「忍の者、シヴァ・クレエ。どうだい? アタシ達と一緒に、王属する気はないかい?」
 そのあまりの、無謀を超えた厚かましい提案。ゾレンに潜伏した頃の成り行きで、この忍の少女が王女だと彼らは知っているのに、驚いた王女が呆気にとられる。
「我ら王属は、無闇な殺生は好んでいない。弱き人間の王女を守り続け、この町のような見捨てられた地に降り立つ貴女の力も心柄も、相国の利益になると考えている」
 どうやら彼らは、忍の少女シヴァとしての王女を調べたらしい。少年が妹と敵対しても傍らに在ろうとする黒い鳥は、何故忍の扮装などしているのか、確かに気になって当然の事柄だろう。
 この地へ無謀に派遣されている時点で、敵国の真の王女は、忍の少女に扮することを周囲に隠している。代行の王女が第六峠で姿を見せたことも含め、王家の状況が複雑だと判るには充分なはずだった。
「自国の軍も議会も、反乱の勢力も。最早、手綱がとれなくなっているのだろう?」
「だからわざわざ、王女自ら動くしかない。あんたは今でも、ここにはびこる反乱勢力を何とかしたいと思ってんだろ」
 その原因は一つだと――真摯な目で王女をまっすぐに見て、彼らの知る外交事情が隠さずに伝えられた。
「貴女の国に入り込んだエイラの手先が、貴女の国を利用している」
 それがこの、ゾレンとディレステアの戦いの真相。可能性は陰でささやかれながらも、確信に至るには根拠のなかった策謀。
「……!?」
 剣を抜きながらも、彼らはまだ動こうとしない。話を聞く王女を見守るように、旧騎士団長も動かず臨戦態勢に入っている。

「エイラの『純血』達は、我ら『雑種』を古くから嫌悪している。しかし表立って我らを敵に回せば、大陸一つ沈めかねない争いとなると、それもわかっている」
 人間ならぬ「力」を持つ者を、人間は一括りに化け物と呼ぶ。その中でも有名な種名を持ち、血統を長く保つ「純血」が多いエイラと、人間との混血も多く、その代限りの力や、突然変異も多い「雑種」が主なゾレンでは、ある意味人間に対するよりも深い確執が存在していた。
「だから彼らには、ゾレンを抑制し続ける、ディレステアという存在が必要だろう」
「……――」
「あんたの国で反乱勢力の奴をたきつけて、議会に入り込んで悪さをしてるのは……まず間違いなく、レジオニスの奴らだよ」

 思ってもみなかった局面で、誠実と知っている化け物達から出所不明の情報を突き付けられた王女。その脳裏には、最も身近な「レジオニス」が浮かんでいた。
――オレは、オレの利益のためにだけ動いてる。だからオレを――信じるなよ、鳥の王女。
 その時の大使の物憂げな顔。今でも寸分違えなく、王女は思い出している。
 少年は何も語る言葉を持たない。大使が「ディレステアの味方」でないことなど、とっくにわかっていたからだ。
「……」
 目前の気高い化け物達は、決して偽りを言う相手ではない。それを知りながらも王女は心を決める。
「……そんなの……」
 忍びの王女が強く硬く、右手を握り締める。
「彼らを信用できるなんて、思ったことはない」
 それは既に、わかりきったことであったからこそ。

 信用できないものを信じるな。それをわざわざ誠実に告げた者を、信頼してしまった王女は……その胸の確かな熱を、握り締めた手に遷す。
「だから、彼らにも貴方達にも、私はつかない」
 避けられないその戦闘開始の合図は、掲げられた王女の掌底から場に発された、大きな熱の嵐だった。

「……!」
 貴賓の青年が顔をしかめる。供の女が杖を光らせて透明な防壁を張り、足下の砂が左右に吹き飛ばされていく。
「この周りだけ壁を解除したね。アタシ達に壁が効かないのなら、といい判断だ」
 そうして王女が、これまで貯めた熱を攻撃の力に転化できることを、改めて魔道士の女も確認している。
「しかし……これだけの熱量を、人間の弱小な体に貯め込めるとは、到底思えないけど」
 王女が一度その熱により、前後不覚の状態に陥ったことを知っている魔道士が首を傾げた。
「何か、貯蓄槽的なものを体に取り込んだのか。それがどうやら、熱の発散まで助けてるね」
 以前の王女は、熱を攻撃に転化するのも一苦労だった。今ではそれも、大きな苦なくこなせるようになっていた
「全く……結局は、殺し合いか」
 息をついた貴賓の青年が、化け物としての「力」の解放を始める。
 ゾレンの王族たりえる凶悪なほどの「力」を、目の前の王女達に容赦なく叩き付けた。

「……!」
 場に降り注ぐ、何十本もの、目に見えない力の杙。
 貴賓の青年の圧倒的な「力」。しかしそれは、既に少年達に知られているものでもあった。
「……ほォ」
 楽しげに顔を歪めた青年の前で、青年の力と同じように不可視の、巨大な翼がそれを受け止めていた。透明な翼を広げた旧騎士団長は、その全ての杙を、まるで吸収したように受け止めて消失させた。
「これはさぞかし、名のある純血とお見受けする」
「…………」
 「力」での戦いは無意味。黙って剣を構える旧騎士団長に、望むところとばかり、貴賓の青年も剣を構える。
 次の瞬間から、激しい剣戟が開始していた。

 勢い良く剣華の火花を散らす化け物達を横目に。王女は魔道士の女と対峙し、その青白い姿を見つめた。
「……」
「やめときな。魔道の徒としては、あんたはアタシに勝てっこないよ」
 女は生粋の化け物であり、魔道の修練をひたすら積んできた身だ。対して王女は、生まれ持った「力」の使い方と簡単な魔道だけを教わり、後は心身の鍛錬を主としてきた。
「クエルを狙ったって無駄だ。何かあればアタシがクエルを回復するし、必要ならこの身をかけても、アタシが盾になる」
 それがこの女――青年の盾となり、ずっと守り続けると誓う、「死者の一族」の強さ。
 王女は少年から聞いていた女との戦い方を、苦い顔で思い出しながら懐に手をかけていた。

 一方で、赤い少女の降り立った対岸へ跳び、自身の敵と対峙した少年もとっくに剣を抜いていた。
「こんにちは。ユオン兄さん」
 長柄の鎌を構えながら、穏やかに笑っている少女に、全く無言で少年は剣を構える。
「今日は……あの白い光は、使わないの?」
「……」
 少年が育ての父から貸し与えられた宝剣は、水の力を冠する軸の鉱石を填め込む黒い柄を持つ。先端の細まる両刃の長剣は、柄に込めた「力」を凝縮して放てる機能がある。その上流動的な「水」という力の扱いに特化しており、「水」属性と言える少年の「命」を三日月型の斬光として放つ、魔法剣という類の宝剣だった。
 少年自身の命だけでなく、少年が奪った命も光の源にできる。それは自他の境界をあやふやにする直観を持ち、他者の力に融け込める少年故の特技だ。ただし制御に使う自身の命の続く限り、少年と剣に貯めておける分しか使えないのが難点でもある。
「そっか。無限に食べれるわけじゃないんだ」
 それは良かった、とばかりに、赤い少女が笑う。
「違う力も、あるみたいだけど……どっちも結局、補給がないとなくなっちゃうよね」
 少女の言う通り、それは使うごとに消費されていき、少年の動きも悪くなっていく諸刃の剣。
 それならば必中の、確実に届く時に使わなければ勝てない。無闇に解放しても同じ直観を持つ少女には避けられるだけだった。

 そんな少年に、赤い少女は出会った時のように表情を消した。
「でもね、兄さん」
 少年の殺気に呼応するように、身を低くして鎌を中段に構える。無機質なその青い目からは、自身の有利を知っている冷静さしか窺えない。
「いくらお腹がすいてもね。ヒトの命を食べるのはワガママだよ?」
 そんな――気が抜けそうでいて、容赦ない一言と共に、地面にある菱盾に足をかける。

 赤い少女が地を蹴り、僅かに浮上した菱盾を駆って疾走してきた。
 一般的な化け物を大きく超える速度。少年が動こうとした直前に先手をとって斬りかかってきた。
「――!!」
 鎌を振る速さも尋常でないが、見事に少年の注意の隙を観て狙ってくる。
「っ――!!」
 下段から斬り上げる一撃は何とか防げたが、勢いのまま少年の横を旋転し、頭上をとった少女が容赦なく裁きの一閃を振り下ろした。
 右の肩口を斬られてわかった。腕を壊し、少年の剣を力ずくで捨てさせようと少女はしている。
「……!」
 少女さえその気なら、首をとれたはずの一瞬だ。長柄の鎌と剣の間合いも明らかに少女が有利なのに、追撃もせずに前に降り立つ。
 少年はただ、冷たく澱んだ暗い目を向ける。
 赤い少女は無表情に、淡々と力の差を告げる。
「無理だよ、兄さん。だって三対一だもの」
 だからわたしには勝てないよ、と。
 「珠玉の殻」の鎧に、「鈴」の器たる菱盾。そして少女自身の処刑人たる天性。少年の直観がいかに澱んでいても、それはとっくにわかっている。

 それでも少女と戦うために、呪われた力を少年は体に巡らせる。余計な心を全て削げば、「命」を扱う力が尽きぬ限り、骨と筋が壊れた体でも動かせる。
 いつも通りの戦い方をする少年に、赤い少女が青い目を顰める。
「……!」
 今度は少年から斬りかかるが、それも予期され、あっさり流されていた。長柄で剣を捌きながら少女には喋る余裕すらあった。
「そんなに殺して……兄さんはどうするの?」
 処刑人たる少女の直観は、そんな程度のことがわからないらしい。少年は約束のために動いているだけなのに、わざわざ問われる意味がわからなかった。
「っ……!」
 今度は逆の肩を斬りつけられた。このままいけば、剣を振るう腕ごと落とされるかもしれない。少年を殺さないためだと思えば、それくらいはしてのける気ままな天使だ。
 冷酷な太刀筋を操りながら何も感じていない、余裕の無表情が腹立たしかった。一度少女と距離をとった――その呼吸を止める前に。

 斬られた肩から流れ出す血に、両手が赤く染まっていく。
 少年は初めて赤い少女に、真っ赤な呪いの問いを投げかける。
「……あんたは何で、ヒトを殺す」
「……」
 最初のそれは、同じことを尋ねた少女への意趣返しだ。無意味とわかった処刑人は、何も答えず口を閉ざす。
 だから次の一つだけが、少年からの呪いだった。
「何で……俺は、殺さない」
 少年を簡単に殺せる少女。力の差を見せつけるよう、必殺の機会を不意にしていく戯れ。
 それだけが少年を、苛立たせる理由で――
 また唯一、少女を殺せる可能性でもあった。
「…………」
 少女はその少年の姿に、大きな双眸を不快げに細める。

 この実の兄は、少女に殺せ、と言っているわけではない。
 ただ少女が、己の仕事を(おろそ)かにしていると。自覚なき無垢な処刑人を断罪していた。
「だって……最初に言ったよね?」
 天性の死神と、気ままな死の天使。己が使命を私情で拒否している少女。
「わたしは、兄さんは殺したくないって」
 それは何と身勝手なやり方。殺したくないものを殺さないで良いなら、そんなものは死を司る仕事とは言えない。
 そうして呪いの問いを投げかけた少年へ、少女も逃げずに同じ呪いを返す。
「兄さんは……どうして殺さないの?」
 少年はもう、大勢の命を奪っている。それなのにこれまで、私情のみでのヒト殺しをほとんどしていない。
 ゾレンで虐殺を遂げた時も、決して軍人以外を手にかけなかった。ゾレン国内では炎上の被害者以外、一般人の死者が出ておらず、少年の剣が吸った命は化け物のものしかない。王属として国内の情報を得られ、自らも直観を持つ少女はそれに気が付いていた。

 そのまま少女は、死神たる少年の矛盾を問いかけていく。
「殺したい、ヒトを殺して――何が悪いの?」
 私情で殺し、私情で拒否する処刑人の少女は、
「殺したくないヒトを殺さなくて……何が、悪いの?」
 それが一番、不快であること。殺意にまみれた少年をこそ、何故死神たらないのかを断罪する。


 川の一方では明らかに、少年が赤い少女におされ切っていた。
 貴賓の青年と旧騎士団長の撃闘はまさに互角だが、王女は少年同様に苦戦していた。
「……!」
 王女を度々拘束しようと、魔道士の女は蜘蛛の巣のような力を繰り出す。その都度王女は糸を焼き切るが、それは遊ばれているも同じだった。
「呆れたね……いったいあんたは、どれだけ熱を食べれて、何処に貯め込んでるんだい?」
 いつまでも尽きないその熱の量。生き物としての熱が乏しい青白い肌の女が、楽しそうに王女を弄ぶ。
 鍛えた俊敏な身のこなしで対応を続ける王女とは違い、対岸ではついに、苦戦しかない少年がしびれをきらしていた。
「――キラ……!?」
 自滅覚悟。そうとしか思えない量の光を、地面に突き立てた剣から突如放った少年に、王女の顔が青くなった。
「――ピアス!」
 何故か相当距離を詰めていた赤い少女は、逃げられる間合いではなかった。
 確実に光に巻き込まれたはずの赤い少女に、魔道士の女が一瞬、気を取られたその瞬間に。

 ずっと隙を窺っていた王女は、懐から取り出していた忍道具、丈夫な縄のついた鉤爪を高速で翻した。
「――デスリー!?」
 驚く貴賓の青年の視野内で、狙いに狙った目的を果たす。
 それだけが王女の勝算だった。貴賓の青年の動揺もそれを示していた。


 王女がそうして、形勢を逆転する直前のことだった。
「殺したい、ヒトを殺して――何が悪いの?」
 赤い少女のその答に、呪いを受けた少年はただ片膝をつく。ここまでの流れにふっと、口元を暗く歪める。
「……」

 腕のバンダナを見て、いつかの時を思い出した。
 そう言えば少年にも、私情で殺したい相手があった。

――俺は……殺したいんだ、キラ……――

 赤い少女は少年の沈黙に、無機質な顔をふっと憂いに染め、その前にかがみ込んだ。
「わたしは……殺されたくない」
 それこそが、少年の狙い。少女が誘い込まれた呪いで、少年を兄として希む少女に付け込んだ罠。
 片膝をついた体を、地面に突き立てた剣で支えていた少年は、冷血に勝機を悟る。

 赤く裂けるように口の端が釣り上がる。
 地を斬って起動した剣。今ある全ての力で、隙を見せた甘い者を殺すことが可能になったのだから。
「……俺は……――殺したい」
 それが観えた時に決して迷わないのが、手段を問わない死神の不文律だ。
 想定外の形で発された光。回避は不可能、と赤い少女もすぐに気が付いていた。逃げる場所はなく、剣から全方向に迸る光に無駄な抵抗をすることはなかった。

 淡い光であれば、相手を弾き飛ばす程度。
 強い光であれば、命を直接殺ぐその「力」。
 これまでにない眩さでその対岸を、一瞬にして白く円く――刹那に染め上げていた。


 もしもその場所が、少しでも命の恵みを受けられる川の間近でなければ、それは少年の命を全て使い尽くす光だった。
「キラ!?」
「――!?」
 鉤爪で女から、魔道の媒介となる杖を王女は奪った。しかしすぐに攻撃に転じることはなく、対岸の展開に目を奪われてしまう。

 対岸では、剣を落として俯せに倒れた少年。
 そしてそれを、つんつん、とつつく……呑気な赤い少女の姿があった。
「エル、デスリー! 無事か!」
 視界を奪った光の悪寒に、青年が声を上げた。その光の性質を以前に知っていた青年は、場の全員の「命」を奪いかねないものだとわかっているのだ。

 虫の息で、ぴくりとも動かない少年。その剣を、少女はわざわざ鞘に直してやっている。
 その後に何故か、赤い少女はおもむろに、少年を菱盾の上に乗せた。
「って――何処に行くんだい、ピアス!?」
 その天使はあくまで気ままに、驚く者達に笑いかける。
「うん、ごめんね――わたし、行くね」
 そうして突如、また場から離脱していったのだった。

「……!?」
 化け物達と同じように、王女も呆気にとられるしかない。それでも魔道士の女から奪った杖だけは、強く握り締めた。
 赤い少女の姿が完全に消え、魔道士の女がこちらに振り返るまで、少年が王女に託したこの戦いの必勝法を改めて思い返していた。

 シヴァはアイツから絶対離れるな。
 少年が旧騎士団長の存在を王女に強調した理由は、身の安全の観点だけではなかった。
 少年は完全に、王女の短気な性格まで考え、王女が魔道士の女と戦う展開を予想して先を続ける。
「女もあの王族から、多分離れない。だからシヴァもアイツの傍で動け」
 少年は、貴賓の青年に付き添う女の真情――何度も女に会ったことでようやく観えてきた実態に、その戦闘状況を直観する。
「王族とアイツの戦いなら、近接戦が主のはずだ。でもあの女は、もし王族の方が危機に陥れば、力と身体の両方を使って王族を援護する」
 それは本来、魔道士の女より明らかに強い王族相手には不要の不自然な覚悟だ。一度の捨て身で守れる程度のことであれば、王族の青年は負けることはないとわかるからこそ告げる。
「あの女は、本当にあの王族の盾なんだ」

 魔道士の女に初めて会った時、少年は殺し方がわからない、と珍しく口にしていた。天性の死神のその言に、王女は意味がわからない、と厳めしい顔をする。
「それは……どういうことなの? キラ」
「盾はたとえ、いくら傷付いても死なない。あの女は無限に、あの王族を庇えるはずだ」
「……?」
 ここに来てやっと、「死者の一族」という情報に、少年はその正体を看破していた。
「あの女……身体はもうとっくに死んでる」
「――はい?」
「本体はあの杖だ。殺す時は、そっちを壊せ」
 その青白い肌の女は、既にもう死者なのだ。だから女自体を殺すことはできず、王族の世継ぎを生むことも到底叶わない。
 それなら王族の青年の盾になるしかない。常に連れ添う魔道士の覚悟はそこにあった。

 少年の言葉の真相は、王女には結局わからなかった。それでも魔道の媒介である杖を狙え、という指示自体はわかりやすかった。
 何とか杖を奪えた王女に、振り返った魔道士の女は、呆れながらも探るように慎重に見てくる。
「あんた……それをどうする気だい」
「……」
「全く……そう言えばあのバカは、ピアスの実の兄だったっけね」
 それなら同じように、魔道士の女の弱点を見抜かれていても不思議ではなかった。溜息をつくように口にする。

 それでもあくまで強気な女を制するように、剣を収めた青年が前に出てきた。
「――デスリー」
 貴賓の青年が魔道士の女に代わり、王女と対峙する。
「……それを返していただこう、王女よ」
「……」
 青年はその時、これまで決して見せたことのない、無情で冷酷な光をその目に宿していた。
「この場は痛み分けだ。今の段階であれば、おれにもそれができるが」
 笑みも余裕も、感情すらも何一つない顔。そこにある危うさは、王女から見れば少年以上だった。
「それに手を出せば――おれは人間を一生許さず、滅ぼし殺し尽くすとこの場で誓う」
「……――」

 少年は以前、王族の青年は、何かあれば必ず魔道士の女を優先する、と口にしていた。どんな約束を交わしたとしても、その時だけは裏切るだろう、と。
 青白くても強気そうな魔道士の女。生き物としては既に停止した躯体を、別の媒介に宿した魂の力で、自らを操り人形として生きる才を持つ「死者の一族」。
 一度死して以後に、初めてその特殊な才能は本領を発揮する。己の死体を動かす異端の死者を、化け物達はそう称するといい――

 王族の青年は、その愛する相手を一度失っている。激しい憎悪と悔恨がそこにあった。
 昏い視線をまともに受けた王女は、ただ息を呑むしかない。王女と同じように、おそらく王家の血筋故に命を狙われ、大切なものを傷付けられていた青年を、まっすぐに見返すことしかできなかった。
「……私は元々、殺し合うことが目的じゃない」
 毅然としようとしていても、王女は泣き出しそうな目になってしまった。
 自らが女から奪った杖を、思わず抱き締めながら口にする。
「だから、貴方達がひいてくれるなら。何も……邪魔はしない」
 王族でありながら、世継ぎも望まず、一度は死した相手を変わらず求める青年。危ういほどに一途な想いが、ヒト殺しの少年とそっくりだ、と感じてしまっていた。

 無意識に大切な物を抱えるように、女の杖を抱えている王女。ようやく貴賓の青年は、その冷たい眼光を僅かに緩めていた。

 青年のその顔は、物憂げな彼の父が、
――死なない女を伴侶と選んだか……懸命だ。
 そう言って、珍しく僅かに笑った、その時の表情にそっくりであると。後ろにいる女が思わず声を詰まらせ、両手で口元を覆っていた。
 貴賓の青年はそもそも、母を早くに失っている。その上育ての母と慕った相手を実父に殺され、幼い頃に可愛がってくれた英雄も死んだ。それでもこれまで弱音を見せたことがなく、ただ、女が一度死んだ時に、血まみれの体をいつまでも離さず座り込んでいた、と王女は後に聞く。

 そうして王女が魔道士の女に杖を返すまで、非常な圧迫感を解かなかった青年に、女が呆れたように背中を強く叩いていた。
「アンタねぇ、だから心配し過ぎだって!」
「――……」
「別にこれが壊れたところで、アタシがすぐ死ぬわけじゃないって、前にも言ったでしょうが。相性の合う別の媒介さえあれば、魂は何でも、何年後でも宿れるんだからさ」
 ようやく少しだけ表情を崩しながら、貴賓の青年は痛く不服そうだった。その横で女は、立ち竦んでいる王女に、これまでの強気とは違った穏やかな微笑みを見せていた。
「あんた、本当に……バカだね、王女」
「…………」
 安堵と賞賛の入り混じる眼差しに、王女は思わず目を逸らして俯く。
「ありがとうね。アタシは今程……あんたの国と直接戦わないで済む王属だったのを、良かったと思ったことはないよ」
 これまでの強気さではなく、女の本質を物語るように無防備に笑う。
 こんなお人好しさであれば、王子である青年が狙われ、代わりに殺されてしまうのも簡単に起きたことなのだろう。死してなお、青年を守ろうと願い、この世に留まり続ける相手に、バカなのはどちらか、と王女は俯く。

 ゾレンがずっと掲げてきた、化け物の独立。人間と化け物の分離を進める国策に、あまり興味を持てなかった彼らにとって、宿場町を守るのはあくまで自衛行為なのだ。魔道士の女も王族の青年も、どちらも王女への敵意はない。
 それがわかったところで、彼らが敵同士であり、一触即発の状況は変えることができなかったとしても。

 そのまま魔道士の女も杖をしまい、今夜はもう、王女の力で特に事は起こらないだろう、と見通しを告げた。
 王属が牽制している反乱勢力は、一斉蜂起のタイミングをずっと測っているという。王女が第四峠に「壁」を張る限り、様々な火種を抑制できるのは確かだった。
「しかし……エルは何処に行ったんだ……」
 ふっと、思い出したように口にした青年に、
「……キラ!」
 合わせてそれを思い出し、忍びの王女が慌てる。その肩に、今まで隠れて状況を観察していたソレが顔を出した。
「キラは大丈夫にょろ。あの赤猫が何処かに、養生に連れていったにょろ」
 謎の抜け殻の存在自体と発言に、離れた所に佇む旧騎士団長以外の視線が集まる。
 何だこれは……と絶句する二人の化け物の前で、抜け殻蛇は暗い空を見上げながら、何処か物惜しそうに口にしていた。
「キラは……あのコを殺せなかったにょろ」
「……――」

 抜け殻蛇のその言葉。赤い少女が無傷で、少年だけが力尽きてしまった事実。
 本当は、そこにいる誰もがおぼろげにわかっていた。長い沈黙が訪れ、その矛盾のカラクリを、抜け殻蛇が話し始める。
「力をあてる所までは、悪どかったにょろが。あの力は……キラが本気で敵と確信する相手以外、命を奪えるものでは本来ないんだにょろ」
 命を直接、ぶつける戦い方をする少年。その命――心は本来、何かを害するものではなかったはずで。
「アディちゃんも元気になったしなにょろ。キラはもうとっくに、目的迷子だったにょろ」
「……そうだろうな。じゃなきゃ、おれも」
 少年と一度剣を交えた青年が、その白い光にひやりとした瞬間は何度もあった。それでも最終的に軽傷だけで済んでいたのは、結局そういうことなのだろう。
「そうだね。ピアスもこの件に関しては頑固に、自分は大丈夫だって、そう言ってきかなかったからね」
 王族である青年の父が、少女を英雄から奪った。その後、青年達以外に誰にも会ってはいけない、と隠して育てられた少女は、常に物分かりが良かった。それが今回だけは違った、と女が語る。
「……キラのことみたいに、大切にしてたのね」
「そうだね。クエルはずっとそうしてたよ。でないとアタシ達以外に会えないあのコが、あんまり不憫だろ」
 王女の言う通り、青年達は少女を大切にした。攫った側という負い目もあった。だからこそ少女に少年を会わせたかった――ただそれだけだった、と。
「ユオンもエルも……ずっとおれの兄弟だった」
 幼い少年の笑顔を思い出しながら、化け物の青年は、赤い少女の消えていった夜空を見上げていた。

 これまで彼らは、王族の青年もその父も、少女が嫌がることは決して無理強いしなかった。
 ただ、この化け物の国で弱小な人間が生き抜いていくため、少女の身を鍛えて化け物に仕立てることを除いて。
「エルはいつも、嫌なことはしていないと言うが」
 その結果、どうして少女が処刑人となり、更には実の父をも手にかけることになったのか――
 青年は今も、少女の真意だけは掴めなかった。
「……ライザおじさんのことも、エルは、自分の意志だったと言ってきかなかった」
「…………」
 何も知らずに、国王である父の命通りに、青年は少女を王都まで連れていった。
 その後に少女が英雄を殺したことは、痛恨以外の何物でもない。
「今回の件にしても、そうだ」
 本当にこの町で、自分達と共に戦うのか、と。不要な犠牲者を抑えるためには少女の直観が最適と知りつつ、化け物である青年は第四峠に来てから改めて尋ねた。

 少女は自ら、同行を希望したという。人間同士で殺し合わなければいけない、血生臭いだけの戦いへの参加を。
――だって、得意だよ。
 そう少女は笑い、むしろ青年達と出歩けることに喜んでいるようでもあった。
「それは――きっと、必要なことだ、ってな」
 少女が実際どう考えたかは、青年にも女にもわかっていない。英雄を殺してから少年に会うために第六峠に行くまで、少女は全く笑わなくなっていた。
 それでも英雄の娘が唯一、居場所を得られる方法があるとしたら。それはこの国のために戦う姿を、大々的に人々に見せることだけだった。

 何も躊躇わずに、短い間でも多くの人間を殺した少女。
――ありがと。キル達は……優しいね。
 その無垢な笑顔が、青年の永い棘になるとは知らずに。

 そこまでの話を聞いて――王女も思う。
 それならば何故、あの赤い少女は、王女の大切な者を傷付けたのだろう、と。
「無理にょろ。キラもあのコも、無自覚以心伝心な直観の主の思考を理解するのは、ほとんど不可能に近いぞにょろ」
 王女の肩でうねる抜け殻が言う。それはもう、そもそも違う世界の生き物なのだ、と。
「ただ一つ言えるのはにょろ。人間にもよく、見られることだがにょろ……」
「――?」
「キラもあのコも、嘘吐きにょろ。あんまり、言葉通りには受け取らない方が良いにょろ」

 それは意図された嘘ではなく、感覚の違う世界に生きるために嘘になる言葉なのだ、と、少年と情報を共有している抜け殻蛇がのたまう。
「しばらくキラは――その嘘をしっかりと、自ら味わってくると良いにょろ」
 それが今、少年には必要であると知るように……もう一度暗い空を見上げた、緋色の「頭」だった。

◆⑥◆ 暗闇の森

 ただ一度きりの、呪いと希みを受けた力で。
 自らと引き換えに約束を果たす気だった少年は、その時ほとんど、命は尽きていた。
 それを唯一、留めることができた宝。実の母の形見たる眼に運ばれながら、その記憶を僅かにかいま見る。

――トラスティ……貴男は嘘をついている。
 誰かが、黒い髪の小さな女の子を抱いている。
 その誰かには勝ち目はないと知りつつ、頑固に立ち向かった、黒い髪と青い目の母。
――わたし達のエルフィを……返して!

 きっと、この母の眼が常に傍にあるから、少女は何も恨まずにいられる。
 それだけはやっと、菱盾に収まる「鈴」から少年に伝わる。
 ただ重苦しく、まるで胸を圧し潰すような、本当は痛いだけの記憶。それを大切に抱く少女の、孤高な重さも。

 実際に、硬く閉じられた瞼をゆっくりと開けるまで、少年はとにかく重苦しくて仕方なかった。
「……――え?」
 知らない森の中、仰向けに倒れる自分の胸に何かが乗っている。
 だからそれだけ重いのだと、目覚めてすぐに、その苦しさの原因を目の当たりにした少年だった。
「……――は?」
 頭上には、木漏れ日溢れる森の木々と、遠い青空。
 草やら苔がまばらに生える土の上に、倒れ込んだ状態の少年に、まだ体を動かせる力はなかった。
 しかしそんな重篤な状態の少年のことを――何と、枕にして。
 くうくう、と胸上で気持ち良さ気に寝息をたてる、黒い髪と服の少女の姿をまず確認した。

「……何処なんだ、ここ」
 意味のわからない現実は、とりあえず無視する。
 周囲をざっと、五感だけで改めて眺める。
「……」
 空気はおそらく、少し前にゾレンで潜伏した森に近い。
 場所はさっぱりわからなかったが、少年と比較的相性がいい土地だ。それはすぐにわかった少年だった。
「……」
 顔を起こすこともできず、目だけ何とか胸に向ける。黒い頭を乗せて眠るその相手……透明な小さい玉のペンダントを着け、袖の無い軽装の黒衣の少女が、赤き鎧の胸当てと腰巻を脱いだ死の天使だと確認する。
「何で……こんな所で寝てるんだ、こいつ」
 少年が見知らぬ場所にいる現状だけでなく、少女がそこでくうくうと、無防備に気持ち良さそうにしていること。それが何より、理解不能な事態だった。

 やがて少女は、横向きに丸まっている体で、唐突にぐっと両の腕を伸ばした。ううん、と欠伸を噛み殺すように、うっすらとその目を開けていく。
「……あれ? ……まだ、朝だ……?」
 微睡みのなか、一瞬だけ起き上がって空を見たのも束の間、再びこてん、と少年を枕に二度寝を始める。胸への衝撃に思わず少年が咳込む。
「――あ。そっか」
 枕が誰か思い出したのか、やっと少女は再び顔を上げて、しっかりと上半身を起こした。
「おはよう……ユオン兄さん、起きた……?」
 むにゃむにゃ……と、倒れている少年の傍らで横座りしながら目をこすっている。
 何がおはようだ。と、不本意しかない少年の意識が戻っているのを確認すると、良かった、と軽く笑った。

 よく見れば、両肩の怪我もすっかり手当されていた。訳がわからない、という顔しかできない少年に、少女は何も説明する気はないらしい。
「……ここ、何処だ」
 仕方なく自分から尋ねた少年に、少女はあっさり簡単に答えた。
「わたしの森の、ちょっとご近所さんだよ」
 つまりゾレン内だと、説明するまでもない。
「兄さん達がこないだいた森だと、キル達にすぐ見つかっちゃうから」
「……へ?」
 その言でますます、混乱する少年だった。
 少年が起き上がれないのは、力が尽きたこともあるが、両手を縛られて余計な腹筋が必要なこともあった。
「はい。朝ご飯、食べる?」
 拘束はほどかないまま、少年をよっと起こして傍の木にもたれさせて、少女がひょい、と小動物の干し肉を取り出す。
「……!!」
 拘束を断ち切る力もない少年は、それ以前にこの数カ月、食そのものを拒否し続けている。常時絶食に慣れ過ぎていて、食物の匂いすらもう受け付けない。
 突き付けられた干し肉への嫌悪に胸元を掴み、条件反射のように咳込んでしまった。

 不思議そうに首を傾げる野生の少女を、半ば涙目で見返すしかない。
「…………要らない」
 頑強に口を引き結び、両目を不服げに細め、弱気でそう拒絶したのだった。

 物分りが良いらしい少女は、相手の最大の弱点も的確にわかると観えた。
 無言でぶちっと干し肉を残酷に千切る。それをそのまま、問答無用で少年の口に押し込み、口を塞いだ。
「!!」
 激しく喉の奥がむせる。咳き込む衝撃だけで死ぬ、と感じる程弱った少年に、
「足りないのは命だけだよ? 身体はそんなに壊れてないから、食べた方がすぐに治るよ」
 たとえ動くことができない状態でも、支障はないはず、と冷静な見立てを突き付けてくる。
「んっっっん――……!!」
 小さな手なのに強固に鼻ごと塞がれ、そのためにも酷くむせ返りが激しい。呑んでは戻り、むせては押し込まれ、戦いで傷付くより余程の拷問だった。
「食べないと、エルのこと殺せないよ?」
 少女はにこにこと的確なタイミングで、更に千切った小動物を遠慮なく押し込む。
「っっっぅ……!!」
 これは死ぬ、本気で殺されてしまう。むせ続ける少年は咳込んで涙し、諦めてとにかく呑み込むことだけに集中を始めた。
 正面から少年の口を片手で塞ぎ、ぺたんと座っている少女は、もう片手と口で千切る干し肉を自身も噛みながら首を傾げる。
「食べたくないってことは、殺したくないの?」
 戦うために、体を治す気がないのなら、死神失格。その含意を無表情でわざわざ口にする少女に、少年はカチンときてしまった。
「――がハっ……!」
 気付けば拘束する草を断ち切っていた手で、少女が持っていた残りの食糧を奪い、自ら一気に口に放り込んだが――

 その後に見ることになった地獄。さすがに少女も言葉を失っていた。
「……大丈夫?」
 すっかり気力を失い、横向きに丸まり、無言で背中を向けて転がる少年だった。

 少女の見立ての通り、丈夫な化け物の血をひく少年の躯体は、本来多少の怪我ではびくともしない。エネルギーさえあればすぐに回復するらしく、僅かで強引な食餌だけで、自力で座れるようになった。
 しかしその後、少年の両手を、少女は改めて長い木の蔓で唐突にぐるぐる巻きに縛った。 
「……何だ、これ」
「え? だって、危ないでしょ?」
 無邪気にあっさり、そんなことを言って笑う。
「だってわたし、兄さんに、殺されたくない」
「…………」
 言うわりには楽しげに、警戒とかけ離れた顔で口にしている。いったい何処まで本気で言い、そして行動に出ているのだろう。
 しかし少年の勘の良さは、ここに来て全く働かず、少女の意図が何一つ観えなかった。ただただ、冷たい目付きで黙り込むことしかできない。
 ――というよりも。
「……」
 そもそも何故、確実に殺せたはずの少女が生きていて、今自分の前にいるのだろう。
 あの時少年は、誰を殺そうとしていたのか……そのことに一瞬、思い至りかけた時だった。
「早く治って、今度はエルに勝てるといいね」
 あえて少女は声をかけ、澱みかけていた目に蓋をする。少年の目の奥底は混濁したまま、不機嫌な顔を浮かべるしかなかった。


 森の妖精、と呼ばれていた少女は、一見、山猫の如き生活をしていた。
 日中はひたすら、だらだらとしている。木に登って日向ぼっこをしたり、軽めに体を動かしただけで鍛錬と称したり、水浴びだと言って川を泳いだりしている。本来いた森では樹上に転々と寝床の家を造ったらしく、気ままでかつ野生的な生活に、何の疑問も無さそうだった。
 夕方になるとおもむろに、ご飯の準備と称して、小動物の捕獲に出かけていく。暗い方が逃げられ難いらしい。直観がある少女は闇の中でも困らないのだ。沢山狩れたら干し肉を作り、毛皮を合わせて寝床も充実させる。
 少年が以前に暮らしていた山奥でも、そんな野生生活は見かけなかった。旅人でない限りは屋根のある家に住み、眠る間に猛獣除けの火など焚かなかった。
 ただ呆気にとられたその一日は、あっさり過ぎていった。

 両腕を縛られて座り込んだまま、夜は訪れてきた。夕刻から少女が捕獲してきた数々の獲物に、心から拒否の顔と共に、思わず少年はまた口にする。
「……ずっと、こんな暮らしなのか」
「――?」
 そうした二択の質問は、本来取り立てて口にしなくとも、答は既に感じ取っている。だからこれまでは、尋ねる余分を省略していた。
「そうだけど。どうして?」
 それは少女も同じようで、わざわざ訊いてきた少年の頭上で、枝の間に張った蔓に干し肉を仕込みながらそう問い返した。
「…………」
 どうして今更、問いかける気になったのだろう。元々直観による情報量が多く、そのため自らの心に思い至ることが難しい少年を、それすら知るように少女は口にする。
「わたしの森に隠れる前は……キルと一緒に、お城で暮らしていたよ」
「……」
「でも、森にいる方が気持ちいいから。強くなったら森に行っていいって、そう言われたの」
 言いつつ少女は、両腕と両足を包む装具――赤き鎧の一部に目をやる。
 他を脱いでもそれらがあれば、化け物並みの筋力を得られると観えた。魔物も闊歩している森で、そうでなければ一人では暮らせない。
「兄さんと違って、わたしは人間だから」
「……」
「強くなるのは大変だったけどね」
「……――」
 その最後の言葉を、少女は哀しげに笑って穏やかに言った。
 月明かりしか得られない夜の森では、その顔はよく見えなかった。

 重苦しかった朝と同じように、少女はまた、少年を枕にして寝入っていった。
「……何で?」
 少年が横向きに体勢を変えても、脇腹にするりと頭が上手く乗る。そもそも野外で眠っている中、奇襲に対応するためか、眠りはかなり浅い。難無く少年に頭を乗せ続けている。
 寝入った少女の首元にある、「鈴」のペンダントが少年の体に触れていた。透明な玉の内部に更に小さな玉を宿す、竜の眼と言う固有の宝。
「……これの、ためだけ?」
 少女は「鈴」を外さないまま、少年の身近に置いていたいのだ。そうした少女の、行動はわかれど理由がわからず、ただ呟いていた。
「…………」
 死にかけていた少年を、引き戻したのはその玉だった。普段は菱盾の中に填められ、少年を運んでいる時から既に癒し始めていた。
 今でも少しずつ、少年の回復を助けるように、重苦しくも温かく在り続けている。
「俺は……殺したい、のに」
 やっと言葉だけ、その望みを思い出した。
 自分を殺そうとした相手を、平気で助けようとする少女に、両目が暗く濁っていった。

 くうくう、と朝と同じように、少年の胸で横向きに丸まって眠る少女。
――殺したい、ヒトを殺して、何が悪いの?
 無機質な青い目で、少年と同じように血に染まる処刑人。直観での探知を主とする少女の、言葉足らずが故の虚言を少年は悟る。
――兄さんは……どうして殺さないの?
 少年が殺したい相手は、結局殺し切れない。少女はとっくにわかっていて、それでもあえて尋ねたのだ。
 その殺したい思いを、一度は解放しておくために。

 少女は少年とは違う。殺したい相手を殺し、殺したくない相手を殺さない。
 それなら少女は、実の父親を――殺したいヒトだったから、殺したということになる。
「……そんなの……」
 胸に大きな吐き気が込み上げてきた。気ままな死の天使に何故少年が引っかかったか、僅かな一端が浮かびつつあった。

 少女がずっとそうして、少年の胸に頭を置いて眠り続けるせいだろう。
 少女の夢を自身の夢のように、それだけ何とか少年は拾える状態だった。

――何か……言い残すことはある?

 身の内の「声」から、以前に伝わってきた情報。それよりも更に、その光景は鮮やかに、少年の視野を占拠していく。
 少女がその実の父を、手にかけた日に……誰にも救いはできなかったある現実を、たった一人で引き受けた少女を少年は観る。

 その前日に、育ての兄が王都から少女を迎えに来た理由を、随分前に少女はわかっていた。
――父さんが……ゾレンに、帰ってきてる。
 本来そこまで、少女は遠くの気配がわかるわけではない。それでもその、―――――気配に、気付かないわけもなく。

 まだその光景を直視できない少年に、夢は易しく映り変わり、時間を巻き戻していく。
――トラスティ……俺は……。
 幼い少女を膝の上で眠らせ、見知った誰かが、旧い仲間の物憂げな男と気楽に語らっていた。
――ディレステアとの再戦が避けられないなら。俺達は……ザインに行こうと思う。
 もうすぐ三歳となる少女の頭を撫でながら、誰かは話している。
 そうなった時、誰かに戦わせる気はない、と旧い仲間が断言してもそう言う。あくまで変えようとしない意志の理由を、旧い仲間は静かに問いかけていた。
 誰かは膝で眠る少女の姿を、静かに見つめる。
――ディレステアと戦いたくないのもある……でもそれ以上に、人間を嫌う国に、俺はエルフィを置いておきたくない。
 日頃は言葉数の少ない誰かが、そこまで口にするのは余程だった。もうこれを止めることはできないのだと、旧い仲間は否応なく悟る。
――エルフィはちょうど、俺とミリアの……人間の血だけをひいて生まれてきた子供だから。
 それならその少女にとって、化け物の独立を願う国での暮らしは、いずれ厳しくなっていく。誰かはそれを一番心配していた。
 眠る少女は、そこで気が付く。
 その時から始まってしまった、二人の男の断絶。引き金をひいたのは、自身の存在であったことを。

 ――そんなの、と。
 少年はその、無慈悲な夢に思わず呟く。
「そんなの……最初から、何か……変だろ」
 それならそれは――決して。

――でも。元は、わたしのせいだもんね。

 物分りの良過ぎる少女は、いつも自らにそう伝えていた。
 誰にそれを尋ねるでもなく、わかりきったことだと受け入れていた。だから少女は、己の運命を恨まなかった。
 けれど、それは決して、少女の責任ではないことなのに――

 少年は初めてその無慈悲さに、夢現のまま激しく嘔吐いて意識を手放していった。
 その衝撃に少女が、目を覚ましてしまう前に。


+++++


 第四峠の宿場町から少年が失踪して以来、早くも五日がたった頃に。
「大丈夫にょろ。『声』が元気にしてるから、キラも元気なはずだにょろ」
 「頭」が周囲にそう伝えていることだけわかった。鈍ったままの直観は、ほとんど身の内の「声」を拾えなくなっていた。

 時折、強い風が吹く日だった。雨までは降らないが、形のない雲が広がっている。何処までが雲か、それとも空全体が白くなったように見えた。
 森の中で見上げると、空は樹冠に囲まれている。もう五日、少女に枕にされている少年は、切り抜かれた空にすっかり飽きてしまった。
「……あんたさ」
「――?」
 日中は、縛られた両手を投げ出すように膝を立てて座り、ほとんど黙っている少年。稀に口を開くごとに、少女は無表情に――確かに振り返ってくる。
 ずっと気になっていたどうでもいいことを、少年は何となく尋ねた。
「あんたは……峠に、行かなくていいのか」
「峠って。この間の、人の町のこと?」
 そこでしばらく、気ままな死の天使は活躍していたはずだ。未だに両腕を拘束される少年は、不服かつ不可解な思いで、冷たい声で尋ねる。
「あれ。仕事、なんだろ」
 宿場町に潜む敵国の反乱勢力を見つけ、その首を狩る。少し前まで少女が行っていた凄惨な行為を、こうして見るとほとんど連想させないあどけなさだ。
「うーん……でも、きりがないから」
 珍しく困ったような顔になり、最早興味を失くした、と言わんばかりで。
「それよりは、兄さんといる方が楽しいし」
「…………」

 この五日間、天候以外は、一日目と何も変わらない時間が過ぎていた。少年は何が楽しいかさっぱりわからないでいる。
「やっぱり兄さんは、食べなくていいよ」
 そう言うと少女は、やがて少年に無理に食事を摂らせなくなった。ついほっとしてしまう少年に、爽やかに笑う。
「治らないでずっと、ここにいよ。その方がわたし、楽しいもの」
 最早その拘束は、逃げることを阻止するためだとばかり、少年の腕を縛ったままで言う少女だった。

 少年としても、ここに来た時から一張羅の外套をとられ、剣も隠された状態で身動きが取れない。せめて剣を取り返さないと、帰るに帰れない。
 しかし少女がそれらを何処に隠したのか、全くもってわからなかった。何重もの太い蔓の拘束も柔軟ゆえに頑丈で、断ち切る余力が戻らずにいる。
 そんな回復の遅い少年を知ってか、少女が小さく息をつく。
「やっぱり、キル達に言った方がいいのかな」
 王族の目が届かない所に隠れながらも、段々と少女は迷い始めているようだった。
「でもキルも忙しくなったし……父様とも、城のヒトともケンカになるよね」
「……」
 少女は要するに、少年を王族の青年達に保護させるべきかどうか、それを悩んでいるのはわかったが。
「兄さんも嫌がってるし、まだダメかな」
「…………」
 ここ数日の変化として、少女の言葉が徐々に、わかりやすくなってきていた。その理由がよくわからずに、少年は顔を顰める。

 相変わらず直観が上手く働かないままの少年に、それを感じている少女が、無意識に合わせてくれているとは思い至れない。
「ねぇ。何で嫌なの?」
「――へ?」
 地面に肘をついて寝そべりながら、座りっぱなしの少年の顔を突然覗き込んできた。少年は怪訝な顔を隠しもしない。
「あの王女様達も、優しいけど。キル達とは何が違うの?」
 どうしてこっちは嫌なの? と少女は続ける。今の少年にも明確にわかる直球さで、迷い余った末に尋ねてきていた。
 少女の物分りの良さを以ってしても、少年の行動、その混濁した理由は、よくわからないのだと。

 長い混濁の中身が、少年にわかるものなら、そもそもそうなっていないのだろう。
 それでも少年は、可能な限りに、問われたことには誠実な答を探す。
「……シヴァもアディも。俺から何も、奪ってない」
 冷然とまず口にする。しかしそれだけでは多くが足りない、と少年自身も首を傾げる。
「俺もあいつらから……何も奪わなくていい」
 それを口にした時点で、最早これ以上、言うべき理由はない、と一人で頷く。
「…………」
 少女はそんな少年を、黙って頬杖をつきながら見上げ続ける。時折通り過ぎる風の音が、妙に寒々しかった。
 無表情ながら、少女はまだ答を期待している。もう少し喋らなくてはいけないのかと、少年はバツが悪くなった。

 黙って見上げる少女の青い目を、見返すことはできなかった。
「……俺がそうするって、決めたんだ」
 目を逸らしながら結局、答にならない答しかない。
「俺は、間違ってるのかもしれないけど……でも、そう決めたんだ」
「……」
 しかし少女はそこからも、いくらか広い直観で汲み取ったらしい。
「兄さんは……そこで、何をするの?」
「……――」
 それだけ少年が拘る場所には、いったい何があるのか。
 何を望み、少年はそこにいることを決めたのかを、少女は問いかける。
「王女様達に、何かしてあげたいんでしょ?」
「――……」
 それが少女にも理解できた、少年の理由の一つ。それを当たり前のように告げる。

 何故なのだろう。それが何か、少年は思い出せなかった。
 別に思い出すことはない、と言うかのように、少女は話を繋げる。
「キル達には、何もお手伝いできないから。だから嫌だってこと?」
「……」
 それなら、と少女は、やけに嬉しそうに笑った。
「することないなら、エルと処刑人しようよ」
 そんな風に、表情とはかけ離れた内容を幸せそうに言う。
「……処刑人?」
「うん。今は休んでるけど、わたしのお仕事」
 そう言えば、そんな情報もあった。むしろ重要なことだった。尚更不信が強まる少年に、少女が遠慮せずに言う。
「エルも兄さんも、向いてると思うよ」
 ヒト殺しをしよう。そんな少女の、どう考えても破綻した凄惨な望み。
「それが一番、わたしも兄さんも……誰かの役に立てるでしょ?」

 それは、少年がいつかに見出した黒い鳥への思いと同じで、また対極だった。
 誰かのためになりたい――ならなければいけない思い。
 そのどちらも持った少年と、片方しか理解できない少女の、どちらも希み無き昏い答。

「……だから、か」
「――?」
 少年はただ、白いだけの空の下で、やり切れない思いでそれを尋ねた。
「……処刑人だから。英雄を、殺したのか」
「――……」
 少女の穏やかな笑みから、ふっと表情が消えた。少女も少年の妹から、無垢なる処刑人に戻る。
 それは決して、誰に強要されたわけでもなく、少女が選んだ答だった。その残酷な現実を少年も知る。

 しかし少女も少年と同じように、問われたことには誠実に、己の答を探そうとしていた。
「……わたしは……父さん達のことは――」
 それは今、あくまでこの少年が尋ねたからだ。王族の青年にも当然、同じことを問われていた。彼らに対しては自分の意志だ、と、それしか少女は答えられなかった。
 誰かにわかってもらえることではない。それくらい少女はわかっていた。
「父様はわたしに、決めろって言った」
 その少女が、「父さん」と呼ぶ実の父と、「父様」と呼ぶ育ての父。その二人が決着をつける前日に、少女は王都に呼び戻された。
「どちらでもいいから。わたしが生き残るべきだと思う方を、生かしなさいって」
「……――」
 そして少女は、実の父ではなく、育ての父をそこで生かした事実を無情に告げる。
「どちらか一人しか、もう生き残らないなら」
 それなら――物分かりの良過ぎた少女は、わかってしまったのだ。
「わたしは処刑人だから。優しくないことをするヒトを、いつも殺すよ」
 その時どちらが、より殺されるべきか。止めなくてはいけない者だったのか。
 それは誰にも、理解されないだろう答。育ての父ですらもその後、何故英雄を殺したのか、と静かに問うてきた。
 少女にとっては、たとえ自身の希みがどうであっても……その時必要だった選択、誰かに何かをできる答は、それしかなかったのに。

「……何だ、それ」
 少年は、そんな少女を、おそらく唯一感じ取れる者として、冷めた声で口にする。
「つまり……あの英雄を、止めたかったのか」
「…………」
「俺のことも、それなら……殺せば良かったのに」
 一つの都を炎上させた誰か。あの赤い獣を止めるには、殺すしかなかった。けれど少年も負けず劣らず、その時に多くの命を奪った。
 それを察知しているくせに、少年のことは私情で見逃す少女の矛盾――そう見える英雄への容赦なさが、無自覚な少年の根本的な怒りだった。

 しかし少女にとっては、初めから理由は一貫していた。
「……兄さんは、優しく、なくなったね」
 それはいつも、少女だけの基準で定められる、優しいか優しくないかの私情だ。だから身勝手だ、と少年は言う。
 それでも少女は常にそれを観ている。英雄のことも、犠牲が多く出るぎりぎりまで見定めようとしたのだ。
「だから兄さんは――……優しいんだよ」
 その基準では、少女には少年は優しい者。だから殺さないのに、と呟く。少女が不思議に思ってやまない、一番の問いをそこで口にする。
「兄さんは、どうして……」
 少年とは、家族同然だったはずだったの育ての兄達。結局殺していないのに、本気で殺意を持ててしまう少年の矛盾。
「殺したくない、ヒトを……何で殺すの?」
「……え?」

 その優しさを、私情として殺す少年が、少女は不快だった。
「兄さんは、殺したくなくても、その心を殺す」
 けれどそれは、誰かのためで――黒い鳥の剣となりたい優しさでもあり。
「ヒトを殺したくない兄さんを、殺さなくて。ヒトを殺したい父さんを殺して、何が悪いの?」
 破滅の道であると知りながら、災いの赤い獣を手放した誰か。
 憎悪の赤い鼓動に呑まれ、耐え続けてきたはずの理由を見失った者。少女は声を震わせながら、それを断罪する。
「兄さんは、敵だけを殺してるけど。それはわたしも兄さんも……同じだけど」
 そう、ただ、哀しみだけを湛えた青い目で。
 私情で咎人を選び、殺す処刑人と、約束という私情で殺す死神。その違いを痛みながら、消えてしまいそうな声で言った。

 おそらくは――その酷薄な選択に、誰より痛んだのは少女自身だった。
 同じ青い目を持ちながら、少年は赤く染められる呪いで光を失った。赤く澱むままの少年に、少女の暗闇は観えない。観えてしまえば耐えられなくて、深過ぎる痛みを受け取ることができない。

「…………」
 けれども、少女がそんな目をする理由はわからなくても、
――……エルフィ……。
 少女に殺された誰かが、最後に笑った理由はわかった。
――……――すまない。
 それは決して、感謝でも謝罪でもなく――

「……あの、バカ」
 少女に会えて、ただ安堵した誰かの思い。
 同時に少女を、少しでも呪いから守り、全ての咎を引き受けようとした。その最後の心を、少年は誰より間近で観ていた。
「……同じじゃ、ない」
 何が悪いのか。少女の問いに、直接の答はわからなくても、
「あんたは…………何も、悪くない」
 その誰かの代わりに、それだけは口にしていた。

 強い風が吹き、少女に声が届いたかはわからなかった。少年自身、何を言ったのかをかき消されてしまった。
 少年はただ、無情な現実を悟る。その誰かが十年、少年の元に帰らず、黙って戦い続けた理由を。
 少年を隠したザインへは、戦いが終わらぬまま出入りするのは危険だった。
 そして生死の知れぬ、もう一人の子供。探すためには敵対した故国に戻らなければいけない。それは手打ちをしてからでなければ、故国も誰かも、憎悪に呑まれて話にならないだろう。
 妻子を奪った故国に対して、和平のための戦いを余儀なくされた。そんな理由づくめの棘の鎖。しかしそれが誰かを、狂える赤い獣から守ってもいた。

 それでも十年、耐えた希みが打ち砕かれた時。
「……でもね、兄さん……」
 運命との決着の引き換えに、誰かはその赤い獣を解き放ってしまった。
「わたし……父さんに、会いたかったよ」
 待ち望んでいたからこそ、気付くことができた遠い気配。
 それを初めて――少女はただ、小さく呟いていた。

 その少女の、小さく拙かった水底の嘆き。少女の青い目の奥がまるで観えなかった少年にとって、それはどれ程大きな答だっただろう。


 あっという間に、夜になった。
 今日も今日とて、少年を枕に眠る少女の、痛い夢だけを共に観ていた。
――どういうこと……? トラスティ。
 攫われた少女を、その母が迎えに来た時のこと。少女とその首に揺れる玉から、失われた過去を少年は拾い上げる。

 少女を攫った黒幕のゾレン国王。実の両親は死の間際までそれを知らずに、強く信頼し続けていた。
 連れ合いを国王に殺されてすら、英雄は少女の件で国王を疑う発想がなかった。実子にかまう暇もない国王が、何故幼い少女を攫ったりするだろうか。
 英雄の連れ合い、つまり少女の母を呼び出した国王は、ある秘宝を持ち出していた。
――だから、あなたもどうか力を貸してほしい、ミリア・ユーク。
 休戦時代に国王が見つけ、長く秘匿していた赤き鎧。それを人間である少女に譲り、着けさせたいのだと、国王は少女のためにゾレンに一人残った母に協力を依頼していた。
――これは……ピアの、あの鎧……?
 かつて人間である姉が身に着け、それによって戦う力を得ていた秘宝。見覚えのある宝を、青い目の母がただ強く、悲しげに見つめる。

 実の姉が消えてしまった時の痛み。
 同じように痛んだことを知っている目前の国王を、改めて厳しくまっすぐに見る。
――エルフィにこれを使わせて……ピアと同じ、化け物にしようと言うの?
 それは確かに、この化け物の国で少女が生きていくなら、必要かもしれない道だ。更に少女の安全を確保する提案がある、と真摯な国王の話に母は耳を傾ける。
――………。
 それでも母は――少女を死んだ姉以上の化け物にするよりも、家族全員で、戦いを避ける土地へ逃げることを既に決意していた。
――トラスティ……貴男は嘘をついている。
 それまで決して、触れないようにしてきた国王の傷を、正面から闘うためについに口にする。

 それは決して、本当は少女のためではない。
 その秘宝に永く眠る、遠い誰かを想ってのことだ、と。
――貴男はそうして、エルフィの中に……ピアを、甦らせたいんだわ。
 母はそして、自らの戦う力、竜人という化け物の眼を填めた強力な菱盾を喚び出す。
――そしてエルフィを(くさび)にして、ライザをこの地に呼び戻したい……貴男のそばに、縛り付けたいのよ。
 喚び出した菱盾を魔道の媒介として構え、国王に対峙する姿。
 勝ち目はなかった。それを知りながら母は何故、わざわざ抵抗の姿勢を見せたのだろう。ずっと信じていた国王の、最後の情に賭けたのだろうか。

 そうして懇願のような構えを向けた者に、化け物の国の王は、ただ物憂げな視線を向けた。
――……とても残念だ。……ミリア・ユーク。
 国王にも最早、後がなかった。英雄の連れ合いに拒絶されれば、他にどうやって、英雄をゾレンに戻すことができるだろうか。
――わたし達のエルフィを……返して!
 そうして最後の叫びを縫い潰し、その宝を奪っていた。
 それをまさか、「千里眼」に観られているとは思わず――英雄に知られることになるのが、国王の最大の誤算だった。

 月の光すら雲に隠れた、深い闇夜の森の中で。
 胸の上に後ろ頭を乗せて眠り、少年が見えるはずのない少女が、寝ぼけたような声で言った。
「兄さん……泣いてるの?」
「――」
 少年は何も、答えられない。少女はやがて目を開けて闇を見つめ、丸まった体勢のまま膝を抱える。
 少女の目を覚まさせた昏い夢が、少年にもそのまま、伝わっていたことを知るかのように。

 少女は誰を責めるわけでもなく――かばうでもなく。
「父様は……わたしが必要だったんだよ」
 ただ淡々と、寝言のように現実を呟く。
「だからわたしを、父さん達から奪った」
 少女がその、赤き鎧に適合する稀少な身だったこと。そして英雄を繋ぎとめる、深い棘とされた長い暗闇。

 そんな少女にも少年は、無言のままでいる。
 今も赤き鎧に囚われる少女は、何を恨んでも仕方ない、とわかっていた。
「だから。それはわたしのせいだったんだよ」
 誰一人。自らをも恨まず生きてきた少女と、暗く冷たい空の色を目に映す少年――

「……泣いてない」
 少女と同じように、淡々と言う少年に、少女は何故か、ふわりと笑った。
 穏やかに少年の方を向き、胸の上に乗せる柔らかな笑顔を、無防備に少年へと見せる。
「兄さんは――父様のこと、恨んでいいよ」
「……」
 少女はとても眠たげで、でも何処か哀しげに、
「でもわたしは……」
 それがわかることが、おそらくこの少女の最大の不幸だった。
「自分達だけ、幸せになろうとした父さんを、逃げられない父様が恨んだのはわかるよ」
 それだけ拙く口にした後、再び微睡みの中に、少女は安らかな顔で落ちていった。

 その時自分は、どんな顔をしていたのだろう。
 少年の方を向き、とても安心したような少女の寝顔に、結局何もわからなかった。
 そんな優しく、望みなき日々の終わりが……暗闇に棲む彼らの近くに、すぐに迫っていることも知らずに。


+++++


 翌朝早く、急に起き出した少女が、秘宝の鎧を全てまた身に着けていた。
 その後に無表情に、少年の両腕の拘束を解いた理由は程無くわかった。
「嫌だな。キルより困るヒトに見つかっちゃった」
 少女の直観は、気配の探知の方向に長ける。それですぐに察知していた侵入者の違和感。
 直観が働かない少年は気配探知も元々下手で、事態が全然観えなかった。
「あのヒトだけはいつも、わたしに嫌なこと、させようとするから」
 少女は少年をあっさり諦めたように、その剣と荷物を返した。
「わたしを殺すなら、ついてきたらいいよ。でも帰りたいなら、それは無理だよ」
「……――」
 少女の言う通り、少年には何とか、第四峠に帰れるだけの力は戻った。
 他のことは全くする余裕がない。暗く澱む目のまま何も答えられず、侵入者の下に出向く少女を見送るしかなかった。

 常なる無表情の上に、珍しく厳しさを乗せた青い目で、少女は不躾な侵入者達を出迎えていた。
 無言で佇む少女に、その年老いた小柄な男が甲高い声を出す。
「ピアス様。この大山場にある中、いつまで身勝手に持ち場を放棄されるおつもりか」
 常に国王の傍に控え、国政をほぼ取り仕切る老獪。少女にも何かと王族の義務を命じる、ニヤニヤとした宰相がいた。
「貴女は既に、我が国の(いしずえ)なのだ。その使命は今までのように、気ままに扱われてはならぬ」
 この国の祭祀長である老人は、いつも少女に汚れ仕事を持ってくる。しかし普段は単独で来るのに、今日は若く妖艶な連れを伴っていた。
「……あなた……誰?」
 全く知らないその女。少女を威嚇するように妖しく微笑み、名乗りもせずに女は要件を告げた。
「私は今日から貴方の上司になる者よ。それはすぐにわかったでしょう――鋭い仔猫さん」
 その金色の眼は、秘宝を身に着けた少女より上手の化け物。鳥の声すらやんだ森の中で少女は即座に直観していた。

 女が肩までのふわりとした褐色の髪を、右手だけはめた長い蛇柄の手袋でさらりとかきあげる。
「……!」
 ある地の番人である妖艶な女に、少女は無言で一歩後退し、長い鎌を構える。
 女は少女の抵抗の意思を、むしろ楽しそうに受け止めていた。
「そうね。貴方が嫌なら、別に外側だけでも構わないのよ?」
 少女の赤き鎧を、じろりと微笑んで見つめる。それこそ望むところだ、と冷酷に笑う。
「……これは、わたしでないと、動かない」
「別にいいのよ。あたしは秘宝そのものが手元にあれば満足だもの」
 そう言うと女は、蛇柄の手袋をはめた、右手の掌底を少女に向かって突き出した。
「ドミナ殿。どうかお手柔らかに」
 同時に、ニヤニヤしたままの老人を下がらせる。

「……!!」
 女の掌底から激しい炎が発された。思わず受け身をとった少女の直前で、その炎は全て、見えない壁によって弾かれていた。
 あらあら、と金色の眼の女が、また楽しげに微笑んでいた。
「本当に、噂通りの秘宝ね。龍神もどきの『力』の役立たずなこと。こんなものにずっと縛られてる誰かの気が知れないわ」
「そう仰いますな。あの鎧はどんな化け物の力も弾き得る竜人の秘宝。火の島の聖地……その神族の力とは言え、竜人には及びませぬ」
 老人の言葉に、それなら、と女は息をつく。
「となると、あたしの力も無駄ということね」
 元々、女自身の「力」は勝手が悪いために使う気はないらしいが、それがとても大きいものだとは少女にはわかった。
「そうなると、新しい玩具を増やすには……前の玩具が必要ということかしら」
 余裕満点の妖艶な女が、次に取り出したのは、少女には最も相性の悪い飛び道具だった。

 少女の脳裏に衝撃が走る。少し前に、処刑人たる少女が唯一、犯してしまった過ち。
 その罪を示す同じ光景が、場に展開されていた。

 妖艶な女が懐からディレステア製の銃を取り出し、少女に銃口を向けた。
 咄嗟に少女は、守りのために菱盾を突き出すが、
「ピアス様。それは返していただきますぞ」
「――!!」
 老人から渡された母の形見は、魔道に長けた老人の指示に従うように、元々手が加えられていた。
「あ……!」
 少女がずっと、首にかけていた透明の玉。母の形見の「鈴」を填めた菱盾が、少女から離れて老人の手に収まってしまった。
「……あ……」
 金色の眼の女が向ける銃口へ、唯一の防御壁を少女はなくした。しかし視線は菱盾だけに向けられていた。
「……やだ……!」
 そこで初めて、無垢なる処刑人の赤い少女は、深い動揺をその全貌にたたえる。
「返して――……!」
 鎌すら取り落とす夢中さで叫んだ。銃口に構わず、老人に向かって走り始める。
 狙いを定める女が容赦なく、その鎧に傷をつけないよう、引き金をひこうと意識を集中した――刹那の瞬間だった。

「――!!?」
 少年はただ、そうなる一瞬だけを狙ってずっと待っていた。
「あああっっ?!」
 殺せる隙が全く観えない、金色の眼の女が悲鳴を上げた。
 使い勝手の悪い大きな「力」の持ち主。それを必ず止めるために、女の即戦力を封じる機に全てをかけた一閃。
「な――ドミナ殿!?」
 少年が降り立つと同時に、肩から先を失っていた女の右手に、老人が状況を把握する暇すらなかった。
「ごあ――!!?」
 少年は残る力で剣を翻し、老人の身体を上下に両断する。
 ゾレンの国政を実質牛耳り、国王を(たぶら)かし、様々な陰謀を仕掛けていた老人。
 何が起こったかさっぱりわからないだろう間に、老人はその長い野望を抱えながら、あっさり絶命していた。

「兄さん――……!」
 老人が死に、菱盾だけとにかく少女が取り返した。大きく動揺したまま、それを抱えて座り込んだ。
「この死に損ない」
 銃を掴む右手を拾って、冷静ながら憎悪を宿した金色の眼の女が、その一睨みで起こった力の衝撃だけで少年を弾き飛ばす。
 叩き付けられた岩が砕ける程に、強い波をまともに受けた。少年はそのまま崩れ落ち、動けなくなった。

 次の瞬間、女の首元には、背後から大きな鎌の刃が突き付けられていた。
「――!」
 まだ動揺しながらも、戦う意志は取り戻した赤い少女。
 問答無用に首を絶つ前に止められた刃に、感心したように女は少女を流し見ていた。 
「全く……命拾いしたわね、貴方」
 金色の眼が、赤き鎧を惜しげに見つめる。しかし菱盾の戻った少女にもう銃は通じない。
 この場の不利をすぐに悟り、拾った右手を眺めながら、女はくるりと背を向けていた。
「本当。役立たずな上に、とことん間抜けなこと」
 斬り落とされた蛇柄の右手よりも、落とした銃器の方を大事そうに、妖艶な女が懐にしまう。
 秘宝収集家たる女をそうして手引きした、一国の重鎮の死骸には、女は見向き一つもしなかった。そのまま黙って、その場を後にしたのだった。

◆⑦◆ 水底の禊

 そうして突然、命の危機に晒された少女は、倒れた少年の横でぺたんと座り込んだ。
「兄さんを――……巻き込んじゃった……」
 そもそも、以前からずっと少女は、裏切り者の娘で尚且つ国王の贔屓だと、育ての家族以外には疎まれていた身だ。だからあの森に住むしか安息はなかった。
 今回、行方をくらませた少女を、宰相の老人は口実ができたとばかりに見切ったのだろう。独断で宝の回収を優先した老人だが、それは女との取引において時期尚早でもあった。だから国王に内密にここに来たのだ。
 そうした唐突な侵入者達の個々の思惑。機を窺い、慣れない気配隠しをしてまで場に飛び込んだ少年は、何一つ事情を知っていたわけではなかった。
「兄さん…………」
 女の力の直撃に、少年はただ弾き飛ばされた。
 しかしそれだけで致命的な状態となり得るくらい、元々弱っていた。命の不足に加えて、全身の至る所にも激突による破損を受けてしまった。
「どうして……兄さん……」
 俯せに倒れていた少年を、取り返した菱盾の上に仰向けに乗せて、赤い少女がぽろぽろと泣き出していた。
 止まらない涙に少女自身戸惑いながら、少年と菱盾の横に再び座り込む。

 やっと少し回復しつつあった少年。何とか帰路を行けるだけの力。
 果たすべき約束があるなら、ややこしい少女の事情には巻き込めない、と諦めたのに。その命をここで惜しげもなく使ってしまった少年に、ただ赤い少女が、暗く青い目を涙で澱ませる。
 そうして、少年と同じように澱んだ目では、少年の行動の理由がわからなかったらしい。ずっと泣いている赤い少女に、少年はふっと、意識を取り戻していた。
「……何で、……って」
 辛うじて開いてくれた目には、実の父を殺した時も冷然としていた少女が映る。
 その少女が、ぐしゃぐしゃの顔で泣き続けている。母の形見を奪われかけて、(たが)が外れた涙はとどまるところを知らなかった。
「……――……」

 少年からすれば、その行動は何の迷いもなく――
 それこそが少年にとっては、王女達との約束も、少女との約束も果たせる道だっただけで。
 迷いのない時には強く働く直観を、その時少年は最大に取り戻していた。

 いつまでも涙を止められないまま、少年を覗き込んでいる赤い少女に、少年は初めて拙く微笑んでいた。
「あんたは……俺が殺すって、言っただろ」
 少女の後ろに見える空が青かった。鎧の赤が強いせいだろうか。それは悪くなかった。
「だから――」
 細い息が止まる前に、何とか穏やかな声を絞り出した。
「俺以外には……エルは、殺させない」
 ヒトの血を浴び過ぎて、戦う以外の道が観えなかった目。消えない咎を静かに閉ざし、そのまま呼吸が途絶えていった。


 それは少女にとって、いつかと全く同じ場面だった。
「――……」
 そうして、時間を止めてしまった少年。自分を守って傷付けられた兄。
 幼いあの時より成長した少女は涙を拭い、唇を引き結んだ。
「……大丈夫。……母さんが、守ってくれる」
 母の形見を填める、この宝の傍にある限りは、少年の命はもう幾分だけ――最悪の状態であっても、その灯は留められる。
 だからこそここまで、先日も少年を運べたのだ。菱盾をふわりと機動させ、ぐるぐると蔓を巻いて少年を固定する。
「……ディレステアに、行かないと」
 この状態となった少年を助けられるのは、ただ一人だけ。先日第六峠に行った少女には、それがわかっていた。
 宰相という重鎮がここで死んだ以上、少女への糾弾も避けられないだろう。引き返す道筋がないなら、これだけはしくじれない、と両手を握り締める。

「また、川から行けば……兄さんにも多分、悪くはないはず」
 他のどの正規の道より、少年に少しも負担を与えない道。少女が最後まで少年から離れず砦の国へ入国できる方法は一つしかなかった。
「…………」
 その道の果てを思い、少女はふっと、顔を曇らせていた。
「……――」
 ほとんど消えかかった命で、少年は菱盾の上に眠る。これまでで一番穏やかな顔をしているように見えた。
 それに少女は、ただ、ごめんね、と小さく呟く。
「キル達も……うん……ごめんね」
 ずっと優しかった周囲を思い出して、ようやく本当に涙の止まった少女は、いつも通り穏やかに笑った。
「わたし、行くね」

 少年の命を留める竜の眼。ずっとその母を感じ、だから立っていられた少女は、青白い朝の空の下で自らの運命を選ぶ。
 ただ一人、約束の地に向けて、少年を乗せた菱盾と共に静かに歩き出した。


+++++


 ディレステアとゾレン。更にエイラ平原の境となる第四峠は、レジオニスにとっては有名な――誰もが行きたがらない面倒な職場だった。
「……お?」
 最近、とある事情でレジオニス大使は身辺整理に忙しい。他の峠とは違い、入国管理は最も厳重さが求められながら、国境の通路の片側は大使館を通さないという悪環境で日々健闘している。
「なるほどな――そういうことか」

 その緋色の髪の大使は、過去に自身を食った蛇から、何とか分離してもらう過程で軟弱な化け物にされてしまった。それなのにレジオニスの一員にまでされた。
 数々の抜け殻を特殊な「力」として分離した後、その使役から情報収集には長ける身となったが、この軟弱さで三地方の境という、最重要地を任されることは無茶ぶりの極みだった。
「大したもんだ。並み居る水怪でも、そのやり方は、挑戦すらしたがらない密入国法だろ」

 今もこうして、「声」の抜け殻から「頭」に届く事態を知っていくように。確かに情報収集と、その情報を生かすことにおいて比類なき才能を持った男は――行方不明となっていた護衛の少年が、消えそうに弱った命で、この峠を今しがた超えた密入国法を知って感嘆する。
「それで――やっぱり、いくのか……赤猫」
 そうして少年をディレステアに入国させて、ある者の居場所を目指す少女の決意に、大きな溜息をつく。少年がいない間に様々に動いていた現状に、最早介入の余裕を持てなかった。
 せめてその、峠の地下を貫く川を越えた驚くべき少女を見逃すくらいしか、今の大使にはできない。ディレステアへの背信行為を黙認しながら、物憂げに窓の外を見つめていた。

 地底まで続く壁に囲まれるディレステアに、外壁を貫いて流れる川はあまり多くない。
 山上である第一峠から侵入する川が、更に分岐する川と、海に続く第五峠に近い川と、第四峠の地下を貫く川が主な水資源だった。これらはそもそも、峠の連絡通路と同じように計画的に施された水路だ。
 第四峠の地下を貫く川は、外壁を貫く水路に入るまで、エイラからまるで蜘蛛の巣のようにいくつも分岐し、ゾレンにも続くように入り組んでいる。
 地底を狭小に進み、何処にも光源はなく、空気層もほとんどない。激しい流れに普通の生物の呼吸はまず続かない。何より分岐の複雑さに、そこを越えようという者は、化け物にすらこれまで現れなかった。

 しかしひょこっと、ディレステア側の地上に、赤き鎧をまとう少女が顔を出した。菱盾にぐるぐる巻きの少年を連れる少女は、一度は通った水路だったので、無事にまた密入国できたことに安堵する。
「……後は、飛んでいけばいいか」
 その直観を最大限に生かし、菱盾の機動力で、地下水脈の流れに依らずに正しい道を進んだ。ディレステアの匂いがする方に進む、としか、少女には言いようがない。
 水脈の力を宿す赤き鎧の効果で、少女自身は濡れもせず呼吸も保たれる。同伴の少年は既に息をしていないため逆に都合が良かった。何より水の流れ自体は、少年には大きな力であることをも利用した。
「……うん。これくらいなら、きっと」
 このまま邪魔をされずに、少年を目的の者に会わせられれば、命が途絶える前に間に合う。
 そう確信した少女は菱盾を占領する少年を踏まないように、危ういバランスで隙間に立った。そしてその国の中心のある場所に向かい、人目も構わず母の形見の菱盾を疾走させる。

 そして、赤い少女が降り立った場所は――
 石造りの建造物が多いディレステアの中で、全ての技術の粋を込められた場所。王都に白くそびえ立つ、荘厳な城に少女はまっすぐに向かった。
「――!!?」
「……アラク?」
 同じ系統の「力」を持つため、不法侵入者が城の石垣に降り立った気配を、その護衛は瞬時に感じ取った。
 険しい顔の護衛の好青年を、守られるべき人間の王女が不思議そうに見つめる。

 そこに降り立ち、赤い少女はほっとする。間に合った、少年はまだ、生きている、と。
 これで自身の果たす部分は終わった――母の形見の「鈴」を菱盾から取り出して、ペンダントに戻した。
「……もう大丈夫だよ、兄さん」
 菱盾から下ろした少年を、石垣の下の広場に横たえる。その首に「鈴」のペンダントをかけて、穏やかに笑う。

 ――そして。
 かつて、その赤き鎧を身に着けていた人間の女性が、純粋過ぎるある化け物から受けた裁きの鉄槌。
 少女の血縁で、若き日の英雄より強かったという女が、命を落とすことになった原因……その化け物には当時の記憶がないにも関わらず、ほぼ同じ形で、少女は裁きを受けることになる。

「――――」

 見知った気配に、振り返った少女の胸を、正面から一瞬で――凝縮された水の槍が、容赦なく貫いていった。

 あ――……と。声にならない声が、込み上げてきた血と共にこぼれた。
 どんな化け物の力も、通すはずのない赤き鎧。珠玉の殻を貫いた黒い力。

 鎧以外の場所も赤く染まり、ふわり、と少女は仰向けに倒れ込んだ。
 粘る血が絡んで呼吸ができない。体からどんどん熱が抜けて、痛みと矛盾する無の感覚が、全身を満たしていくことがただ怖かった。
 すぐに死ぬことのない致命傷とは、こんなにも冷たい。心が消えていき、体中の力が抜けるぐらいに痛い。
 だからこれまで、少女が奪ってきた命はほとんど、一息で殺したことは良かったのだ。そのことにだけは、不意に微笑む。

「……愚かな……ゾレンの刺客よ……」
 そして、こうなるとわかっていた展開。
 処刑人たる少女が犯した(あやま)ちが、頭上に現れていた。
「たとえ彼を助けるためでも……僕が……」
 少女が初めて、目前の死を探知したあの日に。少女に銃口を突き付けた人間の娘に、恐怖した体が咄嗟にとった行動を思い出す。
「アヴィス様に消えない傷を負わせた君を……僕が、見逃すとでも思ったのか」
「……――」
 これまで、仕事で一方的に命を奪うだけだった処刑人は、自らが殺し殺されるという単純な現実を知らなかった。そもそも少女の鎧を通るものはないはずだった。
 その危機に直面した初陣で、恐怖という感情を知った。まだ十三歳の少女がそこで取り乱し、過剰に身を守ったのは無理もない結果だった。

 そして少女は、命を奪うべき標的ではなく、優しい人間を傷付けてしまった。その過ちを裁くべく、場に現れた化け物の姿……少女の鎧の珠玉と同じ、竜人たる化け物の殺意だけは、その鎧に通じる。
 熱の霧が熱くて困った少女も、応戦した好青年も、それを最初の戦いの時から既に知っていた。

 少女を容赦なく水の力で貫いた好青年は、激しい頭痛を抑え続ける。少女の背後にいる少年の存在も、己の役目も認識していた。
「キラ君が君に、勝てなかったのなら。君を殺せるのは……僕だけだろう」
 それならこれは、自分の仕事であると。最早、目を開けていることもできなくなった少女を看取るように、好青年が片膝をつく。
 その内に渦巻く激しい憎悪を、まだ感じることができた少女は、改めてある真情を観る。

 あんたはいつか――俺が絶対に殺す。
 少年がそう宣言することで、逆に少女の身は、このもう一人の護衛……少女にとって、不可避の死神の憎悪から遠ざけられたのだ。
――それは……無理だと、思うよ。
 第六峠に行った時に、連携して動く彼らに会ったその時から、少年の無自覚な真意を少女はわかっていた。

 じわりと、石の床に血が広がり、少女が事切れていく様を、好青年は黙って見守る。
「……うん。わたし……わかってた、よ」
 最後に残った力で、少女は目を開けて呟く。自分でもどうして、それを言うのかはわからなかった。
 彼はそれを、激しい頭痛と厳しい表情……そして、哀しげな青い目でじっと見守る。
「アナタに……いつか、殺されるって」
「…………」
 少女はそして、純粋なその化け物に、感謝するような顔で笑った。
「ありがと……兄さん、を、助けて、くれて」
 それができるのはこの相手だけ。それだけ伝え、満足したように目を閉じる。
 そうしてその短い生を、赤い少女は終えていた。

「…………」
 その後、場に他の警備の者や、代行の王女が何事かと駆けつけるまで、好青年は沈黙したまま少女を見守り続けた。
 少女への(はなむけ)として、少年の命を補う純粋な霧を呼び、激しい頭痛をひたすら抑える。
 ただ、己の憎悪と哀しみを覆うように。真っ白となった世界の中で、幼い亡骸の横に(ひざまず)き、いつまでも祈り続けていた。


+++++


 ……何で? と。
 その少年は、心が消えてしまったような声で尋ねる。
「何で――……アディが、泣くの?」
「……!!」
 王城に少年を保護した代行の王女は、やっと目を開けた少年の手を握り締めながら、ずっと泣いていた。
 まるで、あまりに穏やかな少年の代わりとばかり、声を震わせて大粒の涙を流し続ける。
 その少年に最後に残った望み……実の妹という、希望の途絶に。

「エルは……俺のため、だったんだろ」
 王女も娘も、少年から何も奪っていない。最早そう口にはできなくなった。
 少年も、王女達から何も奪わなくていい。それがもう成り立たない現状を、嗚咽を呑む人間の娘の姿から悟るしかない。
「……俺がそうするって、決めたんだ」
 だからどうして、その娘が苦しむ必要があるのかと、何もわからないまま笑いかける。
「俺は、間違ってるのかもしれないけど……でも、そう決めたんだ」
「……ユオン……」

 その苛烈さを選んだのは、少年達自身。
 天性の死神と気ままな死の天使。殺し殺されるという生き筋を選んだ以上、わかりきった罰だと、彼らは知っていた。
「アディもアラクも、俺に殺させたくなくて……エルだって、そう――願ってたから……」
 だから、それは自分のせいだ、と、少年は現実だけを口にした。

 少年が長く不在の間に、ディレステアは最早、敵国の少女を見逃すことができない戦時体制に陥っていた。
 第四峠を中心に、ゾレンとディレステアの正規軍同士が激突した。その発端となったのは、第三峠から独断で南下し、ゾレンに不意打ちをかけたディレステア正規軍の先制攻撃だ。
 第四峠に留まり続ける王女の壁を以ってしても、止め切れない将軍級の化け物達が、今や幾人も第四峠を包囲していた。
 そして少年が眠る間に、気ままな死の天使の戦没はゾレン中に伝わっていた。ディレステア王城で行われた冷徹な処断の一報を受け、進駐するゾレン軍に場を譲った王属部隊は、完全に撤退していた。
 王属部隊を率いる青年が、失踪した宰相の暗躍を謎の抜け殻から聞き、敵国の王女を憎悪せずに済んだのがせめてもの救いだったと言える。

 そして、少年に付き添おうとする代行の王女も、さすがに王女たる責務に追われていた。
 王女を呼びに来た使いに、それでも難色を示す娘に、少年は笑う。
「……行けよ、アディ。王女の仕事だろ」
 穏やか過ぎておかしな目色。何かが壊れてしまった笑顔。娘はひたすら、退室を躊躇う。
「アディは、いい……強い王様になるよ」
 この後、様々な困難に陥りながら、人間の娘は伝説とまで呼ばれるようになる。
 聡明さと温かさ、そして勲章たる豪脚を駆使して国を守る、勇敢な娘。その行く末を感じるかのように、少年はただ、笑う。

 娘が次に部屋に訪れた時には、少年はいつかのように、姿を消していた。
 わかりきった結果に項垂れながら、人間の娘は空っぽの部屋を見つめる。
「それでも……ユオンの帰る場所は、ここよ」
 それでもいつかの時とは違い、その心だけは少し前に、少年に伝えられた。
「ユオンが元気なら……何処にいてもいいの」
 少年の危うき微笑みに、それだけを祈る。人間の娘も王女に戻り、その部屋を後にしたのだった。


+++++


 最初から少年は、二つの争う国の行く末に、何の興味も持っていなかった。
「……っ――……」
 ただ歩くだけで、全集中力を要する。一歩ごとに全身に、激痛の走る躯体を引きずる。
 その強行を支える首元の「鈴」を、胸ごと掴むように握り締めて、ある場所を目指すしかなかった。

――……ごめんね。わたし、行くね。

「っぁ……――」
 何一つ口にしないのに、嘔吐きがずっと止まらなかった。
 それだけが歩みを続ける理由で……少年を追い立て、居場所を捨てさせる消えない痛み。
 いつかに交した、いくつもの約束。
 一つは守ることができなかった絶望。
 そして残りも守れそうにない失望。
「なんて――……つかえないヤツ……」

 ただ少年は、誰もいない所だけを目指していた。
 以前にそこを通った時、気が付いていた違和感。第六峠の国境を越える、連絡通路の内にあった壁の異状。

 何度も来ているので、将軍達の目をごまかして連絡通路に入るのは簡単だった。
 その壁の裏に隠された、地の底深く沈められた都……死んだ「遺跡」に続く内空の入り口へ、一人きりで、さまよい降りていった。

――というわけで。第二・第四・第六の三方の通路からは、『遺跡』に降りる道はあったが。
 緋色の髪の大使が、以前に少年に観せていた情報。黙ってそれを思い出して辿る。
――『遺跡』からディレステアに出られないのは、何処も同じだ。あくまで外郭の内に残る遺物で、おそらく実験的な試みだったんだろうな。

 堅固な外壁が国を囲むディレステアの機密。
 遥か地上の空だけでなく、地底までも深く続く外壁の果てには、それが繋がる厚い基板が国の底に分厚く広がる。

――ディレステアの地下は、地上から順に、第一層目は普通の地層で、第二層目は最も近代の国の残骸がある。その下にちょうど、基板そのものである第三層目……その基板の内部に、『遺跡』はある。

 二層目とは、主にそこから「珠玉の殻」などが発掘された地層だ。地の底に埋まっている国は、ディレステアでは公式に「古代遺跡」として認められて発掘が進められている。
 しかし第三層目の基板は、外壁の基板としてしか認知されていなかった。

――全く知らされていない第三層の内部に、『遺跡』は造られている。町並みは綺麗に残ってるが、それだけだった。秘宝どころか普通の宝すら、それはあまり期待できない。

 大使はそこに、自ら潜入して確かめたという。それらを何故か、ゾレンの国王と宰相と、第三峠の女大使に説明していたあの時の光景。
 最早どうでも良かった少年は、外壁の内の長く暗い階段をひたすら降り続け、その地底の廃墟に辿り着いた。
 少年の目前には、ただひたすらに、薄い灰色の町が広がっていた。建物を造る全ての石自体が淡く光を放ち、昏く視界を保つ世界が在った。
 まるで大きさとりどりの墓標のような、誰も知ることのない町。
 遠い昔に死にながら、無残に存在し続ける残骸。きっと地獄よりも優しい地の底の黄昏。

 しばらく歩いた後に、その建物の内の一つ、少年の背丈の二倍程ある小さな家の前で立ち止まった。壁にもたれて腰を下ろし、荷物も全て置いて膝を抱える。
 その後再び、自ら動くことはないまま、俯いた少年は虚ろの安楽に堕ちていった。

◆⑧◆ 地の底の黄昏

 遠い昔に死んでいる町。それでも生き続ける灰色の建物の壁にもたれて、少年はひたすら俯いたまま、膝を抱える。
 そんな所へ、この黄昏の町にもよく似た何かが、地を這って現れていた。
「全く。本当に危険が好きな人物だにょろ」
「…………」
 この町と同じように、生き物としては終わりを迎えた抜け殻。命がないにも関わらずに、存在を留め続ける「意味」だけのもの。
「オマエの中の『声』が出てこない限りは、オマエはオイラから逃げられないにょろ。諦めてお縄につくにょろ」
 少し前に少年は、「声」という小さな抜け殻を強引に呑み込まされた。その抜け殻達の頭領たる「頭」は、本体である緋色の髪の大使に送る前に、全ての抜け殻の情報を得られる大使の分身だ。
 大使単独の記憶は自覚できないようだが、「遺跡」など大使の経験と知識は、知らない内に蓄積されている。そのため少年の内の「声」を追って、地底の廃墟まで来れた緋色の抜け殻蛇だった。

「シヴァちゃんがずっと心配してるにょろ。オマエはいつまでこうしてるんだにょろ」
「……」
「戦乱真っ盛りの峠にいるシヴァちゃんに、オマエを心配する余裕なんて本来ないにょろ。オマエの居場所は言ってないにょろが、今後どうするかくらい、せめて報告するにょろ」
 その「頭」が現れたのは、あくまで王女が心配なため。それはわかる少年は、俯き続ける。
 緋色の髪の大使の分身としてか。それとも、その蛇自身の憧憬なのか。
 かつて大使も抜け殻蛇も、鳥たる王女の敵を排除するように少年に依頼した。化け物と人間の狭間で苦しむ王女の力を強化し、魔となる道から解放していた。
 様々な思惑の中で動きながらも、王女への思慕だけはまっすぐな彼らの強い想い。

 今まで少年を動かしていた約束。そんな誰かの強い願いすら、今は届かなかった。
 少年はずっと俯いたまま、僅かたりとも動く気になれなかった。

 そうして俯き続ける理由だけを、消えそうにかすれる声で伝える。
「……何も、観えない……」
 こんな地の底まで少年を追ってきたソレに、弱々しくも出てきた声で、やっと応える。
「もう……何も、観えないんだ……」
 少年がこの「遺跡」に来れたのは、以前に観えていた道を辿っただけだ。天性の死神としての特技は、失われたといって良かった。
「これじゃもう……約束を守れない……」
 それが耐え難い現実なのだと、あくまで顔を上げずにうずめる。

 その実の妹を、自らの手で殺す約束。
 王女の敵を王女の代わりに殺す約束。
 「王女」をする娘達の剣となる約束。
 どれもが最早、少年には叶わないこと。少年の望みを支えた力の崩落を告げる。
「殺す相手が、誰かも観えない……殺し方も、さっぱりわからない……」
 それはきっと、同じ力の主が消えた痛みのために。
 何故痛いのかも、わからなかった。覚えてもいない家族が消えたところで、何が変わるのだろうか。
 痛いことを忘れるために、全ての感覚が消えた。同時に約束を守りたい想いも消えてしまったようだった。

「……」
 緋色の「頭」は何も言わずに、少年の横で、俯く少年を黙って見上げる。
 あくまでただ、少年は無機質に告げる。 
「……俺は……」
 その最も深い、揺るぎなき望み。
 ただ「頭」を、諦めさせるために口にした。
「足手まといだけは……もう、嫌だ――……」
「…………」
 それでも何も言わずに、「頭」は真っ黒な空洞の目で少年を見る。仕方なく少年は、先を続ける。
「俺さえいなければ、みんな――…………」
 少年がそこにいたことで、失われてしまった沢山のもの。
 少年が歩みを続けるために、奪い続けてきた全てのものへの真情。

「……何処に行っても、何もできなくて」
 その約束以外、できることを見出せずに。
「何かを奪って……何かを、失くしてく」
 その約束にだけ、少年は縛られていく。

 少年が、失ってきたものは全て、その約束と関わりがなく、ただ少年の咎だった。
 赤まみれの少年が生きていていいと、少年は許せなかった。全く価値のないヒト殺しでも、誰かのためになる約束を、生きる限り果たす以外は。
 だから少年は、「約束」の縛りを必要とし――誰かのためにでなく、少年自身のために、誰かのためになることを探し続けた。

 だから少年に、最早それが果たせないなら、
「もう、何処にいるのも……怖いんだ――」
 醜い無価値な存在が、目障りでしかない。
 更にはいつかまた、親友の時と同じように……周囲への大きな負担となること、それだけをただ、少年は恐怖していた。
 何もできないその身であるなら。
 無価値以上の害悪でしかないと。

 痛みしかない思いを、俯いたまま、無機質な声で全て口にした。
 これ以上話すべきことはなかった。再び物のように口を閉ざす。
 同じように無機質な空洞の黒い目で、抜け殻蛇は温かみのない目で見てくる。俯き続ける少年に何一つ、同情や憐憫といった、生き物の想いをソレが持つことはない。
「オマエ……良かったな、にょろ」
 そんな、全く一つも、親身さすらない――
 あくまで他人事だ、と、その声色は微笑んでいた。

「……――……?」
 ぴろぴろ舌を出したり、空洞の目を細める以外に、抜け殻蛇は表情を持たない。だからその声の感情だけで、いつも心を表していた。
「オマエには、辛いことだらけの道程だったと思うがなにょろ。それをオマエは、やっと、嘆くことができるようになったんだな、にょろ」
 ただ客観的に、少年の状態を評するだけの声。
 しかしその声の中に、隠しようもなく宿る喜びの色合いは、少年が負った希みの無さとあまりに対照的で場違いを越えていた。
 だからどうして、ソレが喜んでいるのか。
 思わず少年は、第五峠にいた人間の娘と同じように、俯き続けた顔を上げて――その緋色を見る。

 緋色の「頭」は、そこで顔を上げた少年に更に喜びを感じたように、長い身体を伸ばしてすりすりと頬を寄せてきていた。
「嘆くのは、救いを求めている奴だけにょろ」
 ただぽかん、とする少年の目前で、空洞の黒い目を満足そうに閉じる。
「オマエは前は、救われたいと希むことすらできなかったにょろ」
 だからそれが、ソレは嬉しいのだと――頬を寄せながらぐるぐると、少年に巻き付く。
 そしてソレは、少年がここまで歩みを止めずに、そこに辿り着いた理由。
 何も摂れず、生き物である事を拒絶し、命の力を戦いに使ってきた少年が生き延びてきた最大の矛盾を明るみに出す。
「救いを希む価値すら、自分に許せなくて。だから、自ら命を絶つ裏切り……オマエには一つの救い、それすらできなかったにょろ」
「……――」
 少年の肩へと、襟巻のようにぐるりと巻き付く。唖然とする少年の顔を覗き込みながら、抜け殻が笑う。
「だからオマエは黙って、いつかその命が終わる日を……ただ待っていただけにょろ」

 ずっと、だからこそ約束以外に動く理由を見出せなかった少年を、ソレは知っていた。
「だから――良かったな、にょろ」
「……――……」
 ソレにとってそれは、たとえ少年の今の思いがどうであれ、喜ばしいことでしかないらしい。

「ここから何処に行くかは……何処に救いを希むかは、オマエが決めるしかないにょろ」
 ソレだけではなく、誰にも決して、それは教えられない。
 ようやく救いを求め始めた少年を、誰も救うことはできない現実も、非情な蛇は告げる。
 それでも、と、こんな所まで少年を追ってきた抜け殻蛇が笑う。
「それでもオイラは、オマエがそれを決めるまでは、ここにいるにょろ」
「……」
 それが元々、ずっとその少年に関わってきた、まっすぐな想いの持ち主の根本だった。
「どうせオイラは死なないし、特別することもないにょろ。それならオイラも――」
 蛇の本体が、王女に向けた思慕とも似た心。
 ただソレは――少年が可愛かったのだ、と、ざらざらとした皮で語る。
「オイラだから話してくれたオマエの所に、オマエが飽きるまで、オイラはずっと一緒にいるにょろ」
 そうして心から楽しそうに、ソレは宣言したのだった。

「…………――」
 ソレの本体がつい先日、暴露していた無謀な取引を少年は知っている。
 それと同じくらいにまっすぐな想い。少年と共に在ることを決めた抜け殻の、直観などなくても伝わる、その心を知る。

 きっとそれは――ただ純粋な、好意だった。
 その本体や、本体と同じ存在になった蛇は、少年のようなバカ正直者が楽しいのだ。
 ヒトとして、そんな人柄を良しとしている。本当にそれだけだった。
 少年がどれだけ自身の害悪さを嫌悪して、せめて死神にならんとしてきた中で、ソレは逆に、少年の悪あがきを良しとしていた。
 そうして、救いを希めなかった少年の代わりに、ただ物好きに、何を奪われも差出しもせず、その方が楽しいから、と救いを希んだ。
 同じように少年の救いを願う希みは、誰の言葉も少年は受け取れなかったのに――

「――…………」
 抜け殻の蛇の希みが、不真面目で軽過ぎるからだろう。いつ翻してもおかしくない、楽しいことばかりを望む抜け殻。
 赤い呪いを是とした少年は、自身の名前すら背負うことができなかった。そんな少年にとって、それはどれだけ小さくて軽い……微かな希みの芽だっただろうか。
「っ…………」
「うにょろ!?」
 首に巻き付いたソレを、突然強く掴むと、抜け殻蛇が抗議の声を上げた。
 それに構わず、巻き付いた胴体の内に俯き、頭をうずめたままでソレを握り締める。
「……っっ――」
 握り締める両手が、ぶるぶると震えて止まらなかった。
 震えているのは手だけではなく、奥歯を噛みしめて声を抑える全身が震え出した。

 程無く、それに気付いたソレが、ぽかんとしていた。
「オマエ……泣いてるのか、にょろ」
「…………」
 今まで無機質でしかなかった全身に、その痛みは確かに行き渡りつつあった。
「やっぱりバカだな、にょろ。泣く時くらいしっかり泣いといた方が、後が楽にょろ?」
 ソレがまた、あまりに軽々しく笑うので、思わず少年は声を上げる。
「うるさいっっ……!」

 その時初めて、自分が泣いていると――気が付きもできなかった今までとは違い、心から悔しかった。
 込み上げる嗚咽を、意識して抑える。声を呑み続けながら、浮かぶのはひたすら失われたもの達だった。
 育ての母や親友だけでなく、実の父、実の妹。出会った人々やいくつかの約束。
 それらが失われた時にすら、決して出てこなかった涙。今更こんなに胸が痛いのが、腹立たしいことでしかなかった。

――兄さん……泣いてるの?

 ……涙する資格すら、己には無い。少年は無意識に、ずっと声を呑み込んできた。
 失くしたことは、自業自得だからだ。少年のせいで失われたものに、必要なのは嘆きでなく(あがな)いだった。
「赤猫のおかげだなにょろ。あいつはキラの本当の希みをわかってたにょろ」
 そんな少年に正面から向き合い、妹の少女はまず、殺したいという強い感情を自覚させた。その裏にある大きな嘆きが、おそらくわかっていたからだろう。
「だからオマエも……赤猫のために、泣いていいんだにょろ?」

 謝り悔いれば、少しくらいは心が休まる。だから少年はそれも自分に許さなかった。
――……兄さんは、優しく、なくなったね。
 奪う者となった少年の責務は、死神の本分を全うすること。その厳しさが少年の生きる力で……しかしそれすら、少年が失ったとどめは。
――だから兄さんは――……優しいんだよ。
 それを優しさ故の望みと知っていた少女が、もうここにいないこと。
 それはあまりに深く、全ての希みを奪う致命傷だった。


+++++


 何も変化が訪れることのない、死んだ町で。
 ずっと少年は、抜け殻蛇を首に巻き付けたまま、膝を抱えて俯き続けた。
 それを無理に起こす気などなさそうな抜け殻と共に、黄昏の町の中で眠り続ける。

 実は――と。少し前に観た光景が、夢に出てきた。
 頭が良くて狡猾なわりには迂闊で、大使などにされてしまった男。
 実際には、少年の肩で眠る抜け殻と同じくらい遊び心に溢れ、かつ緩い男の無謀な取引……少年の直観が生きていた頃に得た情報が、再びより鮮明に、俯く少年の夢に映し出される。

「ものは相談なんだがな、羽衣の君」
 緋色の髪の大使は、少しだけ普段の緩い声より、緊張も混じらせた声で話し出した。
「実はオレは……本気でそろそろ、氷の君に駆け落ちを申し込もうかと思ってる」
「――はぁ?」
 長く臥せっていた人間の娘は、あまりに有り得なき唐突さに度肝を抜かれ、思わず大使に振り返った。
「取引をしないか。あんたが片棒を担いでくれるなら、オレの『足』の抜け殻を、あんたが死ぬまで貸し出してやるよ」
 あくまで大使の勝手な都合で、そんな話が持ちかけられる。
「片棒を……担ぐですって?」
 わけがわからず、人間の娘は当然怪訝な顔だが、
「さすがにオレが、ディレステア王家に入るのは無理だろうし。それならいっそ、オレが氷の君をさらってしまえば、お互いにメリットがあると思わないか?」
「……って……アナタ?!」
 金色の双眸の意図にやっと、聡明な娘が否応なく気が付く。
「本物の王女が失踪すれば、当然代役が、半永久的に必要になるだろ?」
「……!」
 思わずごくりと、人間の娘が息を呑み込む。大使はそれは冗談ではない、とそれまでの楽しげな顔から一転して、真面目に両腕を組んだ。
「あんたも多分、気付いてるだろ。氷の君は……正味、王女をするにはまっすぐ過ぎる」
 大使の真剣たる憂いは確かに、十年その王女と共にあった娘も、覚えのある事柄だった。

――あたし、王女様になりたいの!
 王女の代わりをしたい、と自ら望んだ娘とは対極に、王女本人は己が立場をずっと――
――王女になりたいだなんて……。
 とてもやり甲斐を感じていた娘の、やる気が信じられないとばかり、いつも暗い顔は厳めしかった。

「あんたならきっとそれも楽しんで、王女の苦難を乗り越えていける。でも氷の君は――」
 綺麗な黒い鳥を、穢したくないと願った男は、人間の娘も感じていた同じ危機感を口にした。
「魔物になる、と思いつめたみたいに、いつか使命に喰い尽くされる。あんたならわかるだろ?」

 勇敢な娘は、無謀な取引に乗って、大使の男から「足」を受け取ると即決する。
 その時まで、自身ができる全てを失ったと臥せっていた。どん底の己の再起のためだけではなかった。
「あんたにも悪い話じゃないだろ?」
「……」
 それは確かに、娘がずっと心配し、幸せを願ってきた王女のためになること。
 勿論あくまで、王女がそれを望めばだ、と付け加えた。
「でもね、アナタ……そんなことを言っても、シヴァがアナタを認める自信はあるの?」
 すっかり気丈に、人間の娘は現実的な確認をする。
「ああ……オレも正直考えてなかったけど。何か最近、やばいくらい脈がある気がする」
 大使の男を前にすると、赤面するあからさまな変化を、娘はまだ目にしていない。しかし思うところはあったようで、深く頷く。
「……確かにね。シヴァ、何だか変わったわ」
 人間の娘もそう感じていた程に、それはおそらく、
「ちょうどこう何か、あんたの抜けた隙間に入り込んだみたいで、釈然としないんだけどな」
 男が言う通り、側近の娘が負傷し王女の心が揺らいだ中での、自然な感情の流れだった。

「それにしても、いきなり駆け落ちって……」
 呆れかえる娘に、男もたはは、と頭をかく。
「いやまぁ。それくらいでないとあの氷は、多分溶かせないかなと」
 それは確かに正確な見立てに、聡明な娘も唸る。
「全く……私を見舞いなんて、おかしいとは思ったけれど。嘘でもいいから一言くらい、心配の言葉でもかけなさいよ?」
 あくまで私利私欲で動く男に、人間の娘が苦く笑った。
「いやいや。あんたは実に、健全だからな」
「……?」
 それは大事なことだ、と。今回ばかりは娘のことを本気で心配した王女の思いを、男はそのまま汲んで動いた面もあった。
「落ち込むべき時に、思いっきり落ち込む。周りに心配をかけて、動かせる。それに……」
 それだけは娘に伝えたい、と笑って続ける。
「こうして、自分以外のことを考え始めれば、しゃきんとできる。そういうところが実に、本気で王女向きだよ、あんたは」
「…………」
 男の心からの賛辞に、むぅ、と娘は唸る。それは反則だ、と僅かに王女を羨ましく思ったらしい。

「それにしても、いつ頃に決行する気なの?」
 それでなくとも不穏な時勢の中で、さすがに娘も、十年代行した身でも不安はあった。
「ああ。オレもおいおい、身辺整理をしないとでさ」
 元々は、ある弱味を握られてレジオニスとなった男は、それが一番難点だ、と溜息をついた。
「それであんたに、頼みたいのが――」
 そしてその後、以前にあった同名の抜け殻と対になる「言葉」を、男は持ち歩くこととなる。

 心を決めた男はついに、賭けに出る。
 男がずっと以前に持ち場で発見し、口を閉ざしてきた「遺跡」の情報。それを手放して、戦いを終えられないかと考えたのだ。
 それは一つ間違えれば、ディレステアという国が滅亡する可能性のある無謀な賭けだった。
 この時はさすがに、そこまで娘に説明はしていない。だから少年も知ることはない。
 ディレステア王家が長年隠し続けてきた伝承。大陸に穴を空けるという古代兵器の真相を、男自らの眼で確かめるためにも、その賭けを決行に移す。


 そして男から、「遺跡」と侵入法の情報を受け取った者。最後の役者が、現在まさに戦乱のさ中の、第四峠を避けて降りてきたこと。
 「遺跡」への入り口が他にも存在する峠――その者にも因縁の深い、第六峠の隠し通路を通り、死んだ町に来た物憂げな姿があった。

 同じ暗闇を降りてきたその者と少年が、今まさに運命の邂逅をする結末までは――さすがの情報通の男も、そこまで予想できなかっただろう。
「……――え?」
「……む……?」

 どれだけ自らに問いかけてみても、希める行き場などなく、俯き続けるその少年と。
 どれだけ自らを律そうとしても、永遠に希みを失ったある日を引きずり続ける者と。
 どんな生者も存在していない死の町で――
 生きながら死者のように、昏い時間を経てきた者同士が、たった今巡り合う。
「あ……アンタ……!?」
「その……面差しは……」
 咄嗟に剣を拾って、立ち上がった少年の目前で。
 化け物の国の、物憂げな王者――少年にとっては実の両親の仇であるゾレンの国王が、死んだ都へと降り立っていた。


 ――驚いたな、と。全く驚いたように見えない動かぬ表情で、そのゾレン国王は、少年をまじまじと見つめた。
「ライザの息子か。よりによって、今日のこの日に……このような場所で出会おうとはな」
「……!!」
「しかし……我が愛娘が没した因がお前であるなら、これぞ運命ということか……」
 驚愕したまま、少年はとにかく剣を構える。少年の首元に揺れる、透明な「鈴」――赤い少女の形見を見て、国王は事に気が付いたらしい。
「ちょうど良い。この人間の国の最後の日に、お前もあの娘の元に送ってやろう」
「――!?」

 国王の言葉に、まるで呼応するかのように。
 その大陸の二つの大国の崩壊は、ここから幕を開ける。

◆⑨◆ 崩壊

 第三峠レジオニス大使、ドミナ・テルス。レジオニス幹部の中でも最上位と言える女は、「地の大陸」内の聖地「テルス・エイラ」の力を受け継ぎ、神たる別称を持つ「純血」だった。
「さてと――それでは、始めましょうか」
 軍事顧問として、ディレステア第三峠の将軍を進軍へと(そそのか)し、反乱勢力の擁立に長く暗躍し続けてきた。ディレステアとゾレンを戦いへ仕向ける、レジオニス大使としての任務はただの暇潰しだ。
 先日に斬り落とされた腕の一本や二本は容易に修復できる、不滅の聖地を司る番人。いずれの大陸にある聖地も、その大陸が冠する名の「力」を帯び、聖地の番人はそれを使うことができる。
「今度の獲物は、随分大物ね」

 「地の大陸」の「力」を持った女。様々な秘宝の収集を生粋の趣味とする女にとって、それは大き過ぎて使い勝手が悪い。
 一国を丸ごと揺るがすことができる、大地そのものを動かす「力」。地殻に作用し、本気であれば大陸の分断すら起こし得る「力」の番人にとって、ディレステア贔屓の「火の島の番人」など小間使いでしかない。
「この国の砦を丸ごと頂こうなんて。さすがにエイラでも非難轟々かしらね?」
 砦の国ディレステア。それを守り続けた外壁こそが、古代の遺産と言われて(はばか)らない。
 揺さぶりをかけ、長い争いを終わらせる代わりに、エイラ領として今後の統治権を保証する約束。ゾレン国王と交わした取引に女は微笑む。

 その小刻みで強い地盤の揺れに、地上よりも近い地底の少年は、立っているだけで精一杯だった。
「ディレステアの……最後――……!?」
「ああ、そうだ。地殻から全体を揺るがし、外壁を全て表出させる。私は基板をその内から破壊し、外壁を分離する」
 それでディレステアの国内がどうなろうと、後は好きにしろ、と協力者の女に国王は言ってあるようだった。
「地脈を司る生粋の竜人でもいない限りは、どのような『純血』や『雑種』であろうとも、大陸規模のこの暴挙を止められはしない」
 第四峠に集うゾレン軍ですら、その取引を知らない。全ては国王の独断であり、身勝手であることを目前の男は承知していた。
 あの英雄との決着の日、全てが終わるならそれで良かったのだ。彼の古い憎悪を甦らせる、希みを奪った竜人の再来さえなければ。

 赤い少女に英雄を殺させた日、ゾレンの王都を襲った河川の氾濫が、過去にも災いを起こした竜人の力によることを彼は気配で悟っていた。
 だからこれも運命、とばかりに、赤い少女に、その竜人の処刑を初陣として申し付けたのだ。
「憎き竜人への、我が娘による雪辱も叶わず……この身の暗闇は最早、晴れることはない」
 結果的に、またしても彼は赤き鎧の主を失った。その上国政を任せていた宰相も突然失踪し、ほとほと疲れて運命に愛想の尽きたところで、そうした暴挙に走ることになった。
 直観の働かない少年には、詳細が何もわけがわからない。彼が語った通りのことを、そのまま受け止めるしかない。昏い思いを口にするまで何があったか、彼の長い暗闇を知ることはない。

 あの竜人さえ現れなければ。
 竜人とはとにかく、彼の思惑を狂わせてきた。彼にとって現状は、誤算の集大成だった。
――トラスティ……貴男は嘘をついている。
 彼が信頼していた英雄。その連れ合いも、死んだ人間の姉とは似ても似つかない竜人だった。
――貴男はそうしてエルフィの中に……ピアを、甦らせたいんだわ。
 そんな余計なことに気付かず、黙って盾の小宝――竜の眼を譲れば殺すこともなかったのだ。

 竜人の女が菱盾を喚び出して抵抗したため、結果的には、竜の眼を手にすることはできた。その盾を女は何故か防御に使わず、牽制の初撃をまともに受けてあっさり散った。そのため菱盾ごと無傷で手に入ったが、英雄の連れ合いを殺してしまったのは想定外で、竜人の力を見積もり過ぎた失敗だった。
 更にはその竜人の死を、先に旅立った英雄は知ってしまった。
――何故アンタは――ミリアを殺した。
 行方不明として知らせれば、英雄も必ずゾレンに探しに戻ると踏んでいたのに、彼の強行は全てが裏目に出ていた。結局残ったのは、攫われた幼い人間の少女だけだった。
 手に入れた竜の眼を使い、竜人の女が見抜いた通り、少女の内に以前の赤き鎧の主を蘇生しようとも試みた。死者の一族である魔道士に頼んだことだが、結果は失敗に終わる。

 幼い人間の少女の存在を、彼は決して公に明かさなかった。
――そしてエルフィを楔にして、ライザをこの地に、貴男のそばに――縛り付けたいのよ。
 いつか必ず、英雄は少女を探しに帰ってくる。その決着をつける日に、英雄は彼の予想通り、災いの赤い獣となった。
 英雄の心を喰らった赤い獣と、そこまで憎悪を抱かせた因、竜人の女への執着に彼は嘆息する。それなら希みを失い続けてきた彼の暗闇も、理解されても良さそうなものだった。

 彼は幼い人間の少女に、その伯母に近い名前を与えた。
 彼の心を汲む少女の不思議な勘の良さは、人間である伯母――彼の唯一の幼馴染みと通じるものがあった。
 しかし先日に再び現れた竜人は、そうした最後の救いの少女まで、またしても彼から奪い――

「要するににょろ。ただの八つ当たりにょろ」
 少年の襟巻のフリをしながら、抜け殻蛇がこっそりと、知る限りの情報を伝え始めた。
「多分竜人のアラクを殺したかったにょろが。殺しに向かわせた赤猫が死んで、あの国王もぷっつんキレたんだにょろ」
「……!」
 そこで少年はようやく、赤い少女と過ごした短い間に、いくつも観た夢の断片を思い出した。
 少年達の母は確かに、この国王に殺された竜人だ。しかしその時国王が発していた気配は、憎しみという強い感情ではなかった。
「アンタ……何で、竜人を憎むんだ」
「……」
「アンタが嫌いなのは、人間じゃないのか」
 竜人の秘宝たる赤き鎧を秘匿し、長く人間の排斥を掲げてきた国王。人間である妹を化け物に変え、利用し続けてきた相手にまっすぐに問う。

 察することができなくなった少年を見ながら、化け物の国の王はただ物憂げだった。
「お前は、ライザから何も聞いてはいないか」
「……!?」
「私はそもそも、人間を嫌った覚えなどない」
 積年の戦いの大本を、何一つも知らない少年。むしろ人間を守ることが望みだった、化け物の王が覇気なく見返す。
「我が国の多くの化け物は、確かに人間を嫌っている。人間の思考は複雑であり、時に化け物を手酷く利用し、それでも我らのことを恐れ忌み嫌う……一見、身勝手な人間を」
 その国王はかつて、まるで人間のようだ、と評されたことがある。幼馴染みの人間の女――以前の赤き鎧の主が、物憂げな彼に労いとして告げた言葉を、彼は一時も忘れたことがない。
 人間の女の短い一生を見ていて、弱さ故の醜い行動を彼は知った。それに対する人間自身の苦悩を、ずっとその目で見つめてきたのだ。
「人間はとかく、弱小の身がために必死なのだ。ライザ達のような混血でない限り、その業を理解できる化け物はほとんどいない」
 そして人間の女が、竜人の手で殺された時に、彼の長い暗闇は始まった。
「だから私は――人間と化け物が同じ土地に棲むのは、互いのために良くない、と知った」
 赤き鎧を纏い、化け物の力を身に着けた人間ですら、化け物の国では受け入れられなかった。少年の妹のように、英雄――実の父を殺しでもしない限りは。

「そもそも、人間であることを許されないのが我が化け物の国だと、お前もそのくらいはわかるだろう」
「……!?」
「我が国でいったい、人間に何ができようものか。だから我が愛娘も、あの竜人の秘宝を身にして、処刑人となるような道しかなかった」
 弱小な人間が化け物達から、足手まといとして扱われることは必定。
 気ままな死の天使となって、やっと受け入れられた少女。それの形見を身に着けながら、少女の生い立ちの闇を全くわかっていない少年に、そんなことを物憂げに言う。

 ひたすら揺れ動き続ける地底の死の町で。少年はまだ先日の怪我が残り、死神の天性たる直観も働いてくれない。
 それでもまっすぐに、少女と同じ青い目で国王を見た。国王のこれまでなど関係なしに、少年がわかることだけを言う。
「……エルは、アンタの娘じゃない」
「……」
「エルにあんな化け物の力をつけさせて……死に追いやったのは、アンタだ」

 少女は暗い夜の森で、少年にふわりと笑っていた。
――兄さんは――父様のこと、恨んでいいよ。
 既にその呪いは、解き放たれている。もしも今、この国王を糾弾する資格を持つ者がいれば、それは間違いなく少年だと教えられていた。

「竜人を恨むなんて筋違いだ。いくらエルが、自分でそれを受け入れたからって――」
――でも。元は、わたしのせいだもんね。
「それを、受け入れるしかなかったエルを、アンタ達が利用しただけだ」
 あまりに物分りが良過ぎた妹。そして破滅に向かった姿は、同じ直観を持つ少年を映す鏡とは気付かないまま。

 自身に対して無慈悲な少女は、運命を恨む権利すら与えられなかった。
 その時何より少年は、激しい嘔吐きを覚えた。少女と同じ青い目を黙って見つめる国王を……ここではっきりと、少年は断罪する。

――父様はわたしに、決めろって言った。

「アンタは――アンタが自分自身で、何とかしないといけなかった何かを」

――どちらでもいいから。わたしが、生き残るべきだと思う方を生かしなさいって。

「その答をエルに出させて、アンタの――」

 そこで少年は再び、頬を唐突に伝う涙に、心から悔しく全身を震わせた。

「アンタの暗闇に……アンタがエルを――巻き込んだんだ……!」

 それだけは確かに言えた。首元に温かく触れる、誰かの大切な記憶と共に――

 人間と化け物の確執など、少年はどうでもよかった。
 その少女に実の父を殺させたことが、あまりに深い国王の過ちだった。
――自分達だけ幸せになろうとした父さんを、逃げられない父様が恨んだのはわかるよ。
 それであっても許されない少女への咎。おそらくこの世でたった一人、彼を理解してくれただろう者への惨い仕打ち。
――でもわたし、父さんに、会いたかったよ。
 それだけを少年は、過去など関係ない彼の罪として、この黄昏の地ではっきり突き付けていた。

 その優し過ぎた少女を、誰かの暗闇へと巻き込んだこと。
 それはおそらく、少年にも還る同じ咎だった。
「エルを死なせたのは……俺と、アンタだ」
「…………」
 それも告げて、変わらず暗く澱む目で彼を見る。
 彼もすぐ承知したようだった。その希みのなさで立つ少年は、妥当なことを言っていると。
「お前は……ならば、私の同類か」
「…………」
 長く同じ暗闇を歩んだ彼だからこそ、互いの目を見るだけで気が付いていた。彼が少年に裁かれることも、少年がずっと希んでいることも。
「それならばやはり、ここで楽にしてやろう」
 たった一人、愛した人間を得ることができず、守ることすら叶わずに失った。
 それでも彼は決して、国王たる務めから逃げなかった。使命のためだけに生き続けてきた。
 その生に何の希みも持てなかった彼の姿は、少年の行く末だと憐れむような色の無い目だった。

 彼はそして、無言で両腕を広げる。彼の息子と同様に不可視の力の杙を、何百倍もの規模で雲のように展開する。
「……――!!」
 少年は咄嗟に、背後の建物の中へ飛び込んだ。頑丈な古代の石壁の後ろで、大量放出される杙の雨をやり過ごす。
「本気か……!」
 彼が先刻口にしていた途方もない話。ディレステアの地底の基板を破壊するというのは、その杙の雲の規模を見れば、確かに彼の目的であるようだった。
「できるかどうかはともかく、本気にょろ」
 隠れた少年は後でいい、と思ったらしい。不可視の杙は主に上方向――基板の上側、死の町の天井に向けてひたすら大量に放たれている。少年の首にいる抜け殻が、呆れたような声でささやく。
「何故かこの遺跡の天井は、外壁や町の建物よりも脆いにょろ。たとえば何かを隠すメッキみたいだにょろ」
「……!?」

 しかしそんなことはどうでもいい、と抜け殻蛇は話題を変えた。
「ところでオマエ。アイツを殺せるにょろ?」
 空洞の目が当り前のように楽しげに、そう尋ねてくる。
「……――無理だ」
 もう何も観えない、と少年は明かしたはずだ。ところがその抜け殻蛇は、今でも笑う。
「オマエは、あの根暗そうなバカ真面目とは全然別物にょろ」
 地面もまだ強く震動し、崩され始めた天井の瓦礫が落ちてくる中、あくまで余裕の声色で絡み付いてきた。
「キラがためらう必要はないにょろ。あの根暗は何も奪われてないにょろ。なのに勝手に運命を恨み、一人相撲で疲れただけの、真面目過ぎる構ってちゃんにょろ」
 それは少年が告げたように、彼自身の闇――責任であると。自ら以外の誰かに救いを求め、希みを失った化け物の王の甘さを嗤う。
「根暗の想い人は、アラクが殺したにょろが。それはそもそも、赤い獣の連れ合いなんだにょろ」
「……え?」
「オマエの父親が昔に、その血を浴びた……命がけで止めて自分に封印した赤い獣は、元はヒト型の化け物だったにょろ」

 それは「頭」の抜け殻が、少年の父の体内にも一時期巣食った仲間、「言葉」から得た情報だった。
「ゾレン王都を炎上させた赤い獣。それはかつて、連れ合いを殺された憎しみに暴走し、自滅したバカな化け物なんだにょろ」
「……――」
「あの根暗はだから多分、英雄の中にいた赤い獣を、ずっと殺したかったはずだにょろ」
 救いとしていた人間の女を失っただけでなく、それを彼から取り上げ、唯一信頼する英雄をも脅かしていた赤い獣。
 その赤い獣はいつか、英雄のことも滅ぼす。ただゾレンで英雄に支えてほしかった国王の感情は、長い時間をかけて歪み、(ねじ)れていく。

「どっちにしても、それは根暗の責任にょろ」
 彼の苦悩は、誰も信頼できないが故に負担を分けられず、多くを背負う孤高な真面目さだ、と抜け殻蛇が言う。
 だから英雄を呼び戻すため、手段を選ばなかった彼は、少年とは確実に異質だった。
「オマエは、オマエの大切な周囲に、負担をかけたくないだけの奴じゃないにょろ」
 同じように、希みなき道を歩きながらも。
 似ているようで遠い、違う望みを告げる。
「オマエのその手で、周りを守りたいと願える、ちゃんとお兄ちゃんにょろ」
「……――」

 声を呑んだ少年の遠くに、いつかの声が届く。
――王女様達に、何かしてあげたいんでしょ。
 それは少年にとって、王女達との約束を選び、その身を縛る原動となった前提……。
「……アイツを、殺せば」
 約束を探し、必要としたのは、
「アディとシヴァの……助けになるのか?」
 助けてほしいわけではなかった。救いを求めはしてこなかった。

「当たり前にょろ」
 それは少年が、痛む価値のあること。冷徹な蛇が容赦なく太鼓判を押す。
「…………」
 直観の薄れた少年には、もう迷いしかない。
 それでもその手に、約束のための力を秘める宝剣を、確かに強く握り締めた。


+++++


 王家最大の機密たる古の都に、第四峠の隠し通路から王女が降り着いたことを、王女の内に在る抜け殻「小さな心」が見ていた。
「……!!?」
 広い範囲で天井が崩れ、壊されようとしていた灰色の町。そこを更に、地の底では有り得ない大量の水の奔流が襲った。
 それがいったい何であるのか、王女には考える余裕もなかった。

 四角い建物の並ぶ都の中心で、唯一尖った建物を王女は目指す。
 神殿と呼ばれるその建物内の、円い祭壇まで行かなければいけない。この都に降りると決意した理由を、未だに揺れ動く地盤に強く思いながら、ただ使命を果たすために駆け抜けていく。

――ディレステアを……丸裸にする!?
 あまりに大きな「力」による地盤の揺れのため、その力の熱の発生源を王女は特定できた。「力」の主の暴挙を止めるため、護衛の旧騎士団長と第三峠に降り立っていた。

 第三峠のレジオニスの女は、全く悪びれ一つ見せなかった。
――この国はそれ自体、大きな一つの要塞ね。今は埋もれてしまったものを掘り出すのが、秘宝収集の醍醐味でしょう?
 女の力でそうして、ディレステアは少しずつ地の底から炙り出され、蹂躙されようとしている。女を殺せば止められるならまだしもだったが、それは女にも最早止められないことだと言う。
――地殻に一度与えた力は回収できない。もう誰にも、この国の崩壊は止められないのよ。
 だから後は待つだけだ。妖艶に笑って対峙する女に、王女は最後の決断を迫られる。

 永きに渡り、それを使う価値も意味も、決して見出されることのなかった王家の秘密。
――それでも…………。
 自国を揺るがす、災害の力は途絶えはしない。あまりの熱を感じ続けている王女にはよくわかった。
 たった一つ、その災害から自国を守る方法。
 古の禁忌を起動させるために、王女は遺跡に降りる。

 全身を外套で隠しながら、黙って傍らに佇む旧騎士団長に、第四峠に送り帰してもらった。そして一人で遺跡に降りる前にそれを頼んだ。
――母上に……伝えて下さい。
――…………。
 少年がいなくなってから、この寡黙な男とずっと、第四峠で戦ってきた。
 男の透明な翼。様々な攻撃の「力」の熱を無効とできる翼に、王女は男の正体をいつしか悟る。
――母上と、第五峠を守って下さい。私は、王家の役目を果たします。
 何故か生まれつき、熱を奪う化け物の力を持っていた王女。今では代行の王女に渡したものの、化け物の翼を持って生まれた黒い鳥。
 おそらくは十六年前、王妃が王女から王妃となる時、ただ一度の過ちを犯したのだ。だからこの透明な翼の男は、黒い鳥の護衛を望んだ。
――…………。
 それでも男は、最後まで何も語らないまま、王女の望み通りに第五峠へ飛び立っていった。

 古の都に、最早覆面も外した王女が現れた様子を、既にそこに潜入していた緋色の髪の男はしっかり確認していた。
「ビンゴ――……とな」
 この遺跡に降り立つ前に、レジオニスを抜けることを、上司たる第三峠の女にだけは報告している。当然ながら顰蹙を買い、予想通り弱味は取り返せなかった。
「後は、ここにある遺産の実態、それだけか」
 ここまでは緋色の髪の男の計算通りだ。万一賭けに負けた時を考え、一つだけ上司に言っておいたこともあった。

――ディレステアが掘り出せたら、今まで通り可愛がってやって下さいよ、王家も国民も。
 趣味のためには容赦がない女だ。しかし特別、弱い者虐めをする「神」でもない。
――貴男、つくづく、甘くて間抜けよね。
 だからレジオニスになる羽目になった男にも、特に執着していなかった。
――オレは元々、基本はいいヒトですよ。
 ただ少し、必要悪も嗜むだけだ、とうそぶく。「神」なんてそんなものだ、と女も納得していた。
 そのまま後は、緋色の髪の男は王女の行動を黙って見守る。

 いいかにょろ、と。
 これまで戦いを有利にしてきた直観の力が働かない少年に、知識の蓄積による戦略を、その抜け殻蛇は少年と突き詰める。
「オマエの剣には、アラクの力があるにょろ。今使えるのはそれだけだから、上手く使うにょろ」
 それは、少年の後ろ盾だった竜人と別行動になった時に、餞別としてもらった「力」だ。少年が持つ水属性の剣に、入る分だけ力を籠めてもらった。
 その剣に籠る力を感じていた赤い少女が、
――違う力も、あるみたいだけど……どっちも結局、補給がないとなくなっちゃうよね。
 そう評した通り、使い切れば無くなる。洪水を起こす竜人の脅威に比べれば、「力」の全量もたかが知れている。
「でも……俺にはこれは、全然使えない」
 籠めてもらったはいいが、上手く使えそうになく、剣に溜めっ放しだった。
 しかしそれこそが上々、と抜け殻蛇が笑う。
「使えなくていいにょろ。オマエはそれを、とにかく解放さえできればいいにょろ」
「……?」
 現在、身体が弱り、命の残りも少ない少年。死の町の天井を破壊し続ける化け物の王を、それでも止める手段がある、と抜け殻蛇は頷く。

「オマエの戦いの才は、直観に依るにょろが。使う『力』自体の本質は、暴走力にょろ」
「暴走……力?」
「一個体程度のちっぽけな『命』を、僅かな量で大きな力に変換できる。その上細切れに使えることが、オマエの本当の強みなんだにょろ」
 だからこそ少年は、慢性の栄養失調でも活動を保てた。更には限られた「命」を武器にできた、とソレが明かす。
「赤い獣もアラクも、そうした暴走性の因子を持つにょろ。どちらの血も繋がるオマエは、零か百かの力で多分ずっと生きてきたにょろ」
 だから今、そこにある制御できない力を解放すれば、それは暴走して爆発する。
 当然諸刃の「力」になるだろう。爆弾を持って敵に突っ込む人間と大きく変わらない。
「できるかにょろ? するかにょろ?」
「……――」
 そう実に楽しげな抜け殻に、少年は息を呑む。

 あくまで私欲で、少年を利用し続ける蛇に、
「……――当たり前だ」
 だからこそ少年は、安堵するように微笑む。

 そうして解放された「力」が、その死んだ町を満たしていった。
 欠伸をするほどの束の間の水害。それでいて町の全土を巡った程の黒い竜の爆発。
 大いなる自然の脅威の力が、更に行った暴走の集結。まともに受けた物憂げな国王は、完全に全身の機能を破壊された。
「……結局……――これが、我が運命か」
 その竜人の力には、最後まで勝てなかった。納得という名の、安寧が広がっているようにも見えた。
 自身の力の酷使からも、国王は身動きできる状態ではなかった。死の町も既にかなり破壊されてしまった後だった。

 無力に倒れ、地の底の低い空を仰ぐ化け物の王。その横に少年は、ずぶ濡れの状態で立つ。
「…………」
 使えないものを無理に使い、暴走をぶつける負荷に耐えた躯体も死の手前にあった。「水」であったから死なずに堪えた。
 いつかと同じように少年は、無機質な死神の顔で、倒れる化け物の横に亡霊のように立つ。

 今も地盤は揺れを止めない。嵐のように次々と天井が崩れ落ち、ようやく滅ぶことになる残骸――とっくに死んでいる町。
 頭上から降ってくる砂の雨に打たれながら、少年は死神の誓いを告げた。
「俺は……アンタを、殺したい」
「…………」
「……だから……殺さない」
 死神として生きる少年の、その答。約束以外でヒトを殺しはしない。
 いつかの時とは違い、今度は自らの意思で、少年は口にしたのだった。

 澱み切った青い目で立ち尽くす死神を、国王が不可解気に見上げる。
「……異なことを言う」
 おそらく彼だから理解できること。この終わりにとても安堵している彼を、殺さない、と告げた少年の希み。
「お前が殺したいのは……お前にしか見えぬ」

 「死」を刻み、常に希む以上の「生」への抵抗……――
 ただ、殺したい、と。自らを最も排除したかった少年の、暗い目の澱み。
 それであれば、ここで彼の命を絶ち、最後の力も使い切れば楽だろうに、と彼は憐れむ。

 けれど少年は、その答をとっくに知っていた。
「それは……俺だけしか、望んでない」
 だから少年は、その手で自身を殺せない。
 少年だけが殺したいと望んだ相手を、殺しはしない。それが死神の誓い。
 その希みすら殺すことが、真の呪いだった。真っ赤な嘘を少年にくれた、黒いバンダナの親友の最後の願い。

「……――……」
 彼はそこで、おそらく久しぶりに、誰かへ心からの憐れみを持った。
 使命の鎖。幼馴染みの人間にも感じた同じ心。失って以後に初めて、ヒトの感情を取り戻していた。
 もしもその憐れみを持てていなければ、彼はそこから何も言わなかった。
 彼に背を向けた少年に対し、ある真実を伝えることはしなかっただろう。

「……聞け、ライザの息子」
「……――?」
 ぼろぼろの身体で振り返ると、国王は倒れたまま石の空を眺め、重い声を振り絞っていた。
「かの赤き鎧には未だに、あの娘が宿っている」
「……え?」
「あの秘宝に適合する者は、死後の魂を秘宝に囚われる。代わりの適合者が現れるまで、安らぎを得ることはない」
「……え……?」
 だから彼は、幼い少女に鎧の元の主の魂を遷せないかと考えたのだ。死者の一族が何かの媒介に宿した魂の力で、己の死体を操って生きるように。
 それが少女を求めた発端だった。しかし以前の適合者自身がおそらく抵抗し、幼い少女が新たな適合者となるだけで終わった。
 その後、以前の主が秘宝の内から消えてしまった時、何故か彼の失望は軽かった。

「私はただ――……本当は、あの人間を……赤い獣の元へ、送りたかったのかもしれない」
 赤き鎧に囚われていた以前の適合者。英雄と共に葬った赤い獣は、それでやっと再会できる――
「そのことにお前の妹を利用した……しかし、あの娘のことも、私は救いたい」
「……――」
 けれど最早、彼にはそれは叶わない。その思いだけで彼は少年を見上げる。
「方途はわからぬ――が。その竜の眼を持つお前に……それをどうか頼みたい」
「……それは――……」

 ――救うことは、できはしないと。
 少年がその返事を彼に伝える前に。
 一際大きく崩れ落ちてきた瓦礫が、力尽きた物憂げな国王を包み、全てを呑み込んでいった。

「……!!」
 灰色の墓石に消えた化け物に声を失う。
 立ち尽くした少年は、振り返る前に、何処へ向かおうとしたかも忘れてしまった。
 青い視線の先で、全ての終わりを告げる光が立ち上がった。
「……――!?」
 死んでいるはずの町の中央から、突然光の柱が立ち昇った。
「なっ……!?」
「にょろっ!?」
 その光柱がぶつかった天井の中央から、四方八方へ光の線が隅々まで伝播していく。
 光の侵蝕に合わせてぼろぼろの天井が更に激しく、全ての外装を剥がすように崩れ出した。
「何なんだ……ここ……」
 茫然としていると、同じように呆気にとられたらしい襟巻が少年の頭をつついた。
「とにかく、行ってみるにょろ!」
 光が立ち上った町の中心。そこへの進路を必死に促す。

 その古代の地底では、格子状の噴射口が、基板であった層の全てに広がっている。
 この度再起動を始めた要塞から、不要な重量を振るい落とすべく、格子の隙間から土砂と瓦礫が絶え間なく降る。その意味を少年は知るべくもない。

 少年が中心の神殿へ辿り着いた頃には、死んだ町の天井の格子から、不要物だけでなく眩く降り注がれる光が満ちつつあった。
「って……シヴァ!?」
「えっ……キラ!?」
 光をその頂点から立ち昇らせていた、尖った建物。そこに飛び込んだ少年の前には、思いもかけない黒い鳥――真の王女の姿があった。
 中心が窪む円い石の台座の前で、王女は左の手首から台座に血を注いでいる。少年の存在に強い動揺をたたえ、赤い目を大きく見開いていた。
「そんな――……どうしてここに!?」

 王女のその、深い動揺と驚愕の理由。この王家の血の儀式が、古の都を目覚めさせた。
 そうして死んだ町で俯く少年の、終わりの時がここから始まる。

後編・終幕

 
 その黒い鳥が生まれてすぐ、まず教えられたこと。
 それは何があっても、何よりその身が優先されるという、王女の務めだった。
「よォ。麗しの氷の君と、赤い少年」
「――!?」
「……!」
 王女の前の円い台座以外、高い天井と壁画のある石の壁しかない神殿で。
 揺れ動く地の底に、三人の人影が揃っていた。 
「オレは――オレの抜け殻を忍ばせた相手の、夢くらいなら僅かに覗けるんだが」
 王女と少年と、緋色の髪の男。それらの人影に、王女は身を震わせて言葉を失っている。緋色の髪の男は困ったように笑いかける。
「あの光の天井がつまり……あんたがずっとうなされ続けてた、この国に伝わる古代の遺産ってことか――シヴァ」
「――……!!」
 何処か哀しげでもある男に、王女が息を詰まらせる。

「……」
 少年は一人、わけがわからず、何も言えない。
 それでも今の状況からは、男が「遺跡」の真相や、王女がこの町にいる理由を知っていることがわかった。
「大陸に穴を空ける――つまりこの国が大陸から、国ごと消える。その古代の移動要塞の起動力が、あんた達ディレステア王家の血か」
「……あ――」
 緋色の髪の男は王女の元まで歩み寄り、赤く染まる左手を軽く掴んだ。
「古い移動要塞が遠い昔、捨てられたこの都の頭上に建造された時の、接地面があの脆い天井。今見えてるあの格子と光は、これから飛び立つための力の噴出口。……違うか?」
「……大、使……」
 その王家の血が、何より優先される理由。その血に流れる何かだけが、全てを起動する鍵であること。
 いつかこの砦の国を、不可避で大陸規模の災厄が襲った時に、国を救うための最終手段がそこにあった。

 男はそして、賭けに勝ったことを悟っていた。
「この国が何処に降りても、騎士団も竜人もいるし、この大陸より激戦区もそうそうないしな」
 元々移動要塞の仕様であるため、地上に大きな被害はないはずだった。何処か遠くの地に降り立てば、「地の大陸」を離れられない番人の上司からも守られる。
 おそらく一度きりの手段だろう。その先に平穏があるとは限らない賭けであるとしても。
「大陸規模の災厄で滅びたと言われる古代の……最後の末裔が本当に、あんた達なんだな」
「…………」

 そうして――哀しげに見つめ合う者達を前に。
「……シヴァ」
 少年はわけがわからないながらも、男が何を言いたいのかは、何故かよく観えていた。
 迷いはほとんどない。そのためか直観が戻り、気持ちが落ち着いている。
 真剣な顔で黙ってしまった二人の間へ、あえて入ることにした。
「シヴァ。……傷」
 まだ血がしみ出す王女の左手首に、少年の腕に巻いていた黒いバンダナを、ぎゅっと巻き付ける。
「――キラ、これは」
 少年にとって、そのバンダナがどんな意味を持つのか、王女は多少なりと知っている。唖然とした表情で少年を見てきたが、少年はあえて王女を見ずに、緋色の髪の男に目を向けた。
「……ソリス。シヴァに言いたいことがあれば、早く言わないと時間がないぞ」
 この期に及んで迂闊な男につっこみを入れる。
 おそらく初めて、その姓名を口にした。穏やかな無表情で男をまっすぐに見た。

 少年の変化と後押しに、緋色の髪の男が目を丸くする。
「……」
 その黒い鳥への同じ想い。それを知る故の躊躇いを、男は持っていたようだった。

 やがて……ふっと。
 やっと安らぎを得たような、今までにない穏やかな顔で、男が緩く微笑んでいた。

 掴んでいた王女の手を離し、軽く息を吸う。
 男はそのままの穏やかな顔で、幸せそうに王女に笑いかけた。
「シヴァ・クレエ。オレと一緒に……オレの故郷の、火の島に来てくれないか」
「……え――?」
 揺れ動き続ける地底をものともせずに、男ははっきりと、そのまっすぐな心を伝える。
「オレは……あんたと、共に生きたい」
「――……」
「オレはずっと、この地に来た後に奪われた力を取り返すために、ここにいたけど」
 それでも、と、何の悔いもないように男は笑った。
「あんたが王女を捨てて、オレと来てくれるなら。オレはもう――他には、何もいらない」
「……――……」

 その緩過ぎる笑顔。あまりに幸せそうな男がそこにいた。
「でも……」
 王女は頬から顔を真っ赤に染めつつ、胸元の両手を握り締め、心から辛そうに俯いてしまう。
「この町は今から――……海の底に、沈む」
 移動要塞たる砦の国が、何処かへ飛び立ってしまった後に待つ現実。一人で生贄となる覚悟で降りてきた王女が口にする。
 その要塞が起動してしまった時点で、地上に繋がる全ての道は閉ざされたのだと。
「ここから逃げられるとしたら、もう……貴方一人しか、助かる道はない」
 緋色の髪の男は、本来の「力」を奪われている。それと引き換えに、土が繋がる所であれば、一人であれば転位できる力を持たされていた。
 神殿の外は既に、要塞から零れ落ちていく土砂に埋もれつつあった。そこから脱出できるのは男一人だ。
 王女はただ、申し訳なさそうに震えながら俯く。

 その点については男も、たった一つ――男の手の及ばない誰かの存在が、大きな誤算だった。
 珍しく見せた憂い気な眼で、男が俯く王女を見つめたその時のこと。
「キラのことは、オイラが何とかするにょろ!」
 場違いに明るく響く声に、驚いて顔を上げた王女の横で、少年の肩の抜け殻蛇が自己主張を始めた。
「オマエはさっさと、あいつを使うにょろ! そのためにここまで来たんだろうがにょろ!」
「……」
 緋色の髪の男はぽかんとしながら、叫び出した自身の分身を見つめる。

 その最後の後押しに、やがて満足そうに笑った。
「それじゃ、シヴァは……ここから一緒に逃げられるなら、イエスってことでいいのか?」
 懐から一つ、抜け殻を取り出して言う。思ってもみないその選択肢に、戸惑った王女が反論する暇もない。

 そこに取り出された、「言葉」の抜け殻。それと対になる「言葉」――男の上司が韻を籠めた「解放」の抜け殻は、それを使った英雄と共に失われてしまっていたが。
「……シヴァ! ごめんなさい!」
「――えっ!?」
 男が取り出した「束縛」は、以前にその内に預かっていた赤い獣を手放した後も、ずっと残り続けていた「言葉」の抜け殻だった。
「ゾーア……!?」
 その抜け殻には新たな「束縛」を、ある娘の「言葉」で籠めてもらった。男はそれをずっと持ち歩き、使うタイミングを測っていた。
 そして「束縛」は、その「言葉」を王女に向ける。
「シヴァ。私やっぱり、王女を続けたい!」
「――!?」
「ソイツったら、私に『足』をくれる代わり、シヴァをよこせっていうの! 悪いけど――私のためにもシヴァは、何処か遠くで幸せになってくれないかしら!?」

 それは既に、籠められていた言葉だ。今この場で、人間の娘と話せているわけではない。
 それでも娘から贈られた最大の「束縛」。それを王女は、拒否できる心を持たなかった。
「私達みんな、何処にいてもずっと一緒よ!」
 王女がその「束縛」に、言葉一つ返せる隙もなかった。娘からの「束縛」、それを受け入れてしまった王女の全身を、赤い獣と同じように「言葉」の抜け殻がその身に封じ込んでいた。

「……!!」
 そうして手の平サイズの抜け殻化した王女は、焦ったようにきょろきょろ辺りを見回していた。
「……なるほど。これなら持ち運べるな」
 少年は大いに納得し、男が困ったような顔で笑う。
「ああ。ユオンのことは、悪いが置いていくが……シヴァは絶対に、生きて帰すよ」
 ぽんぽん、と少年の頭を撫で叩きながら、男はまだここに留まっている。
 既に土砂が神殿の中にも入りこんで来たのに、別れを惜しんで立ち止まっていた。

「――! ――!」
 抜け殻化して喋れないらしい王女は、必死に少年の方へ行こうとするが、
「……大丈夫。キラのバンダナ、シヴァならちゃんと、預かっててくれるだろ」
 少年はその抜け殻に、それだけ笑いかけた。

 抜け殻の王女と、それを持つ男に餞別を伝える。
「シヴァ。ソイツ、うっかり蛇に喰われたりするから気をつけろよ」
「――! ――……!」
「いや本当。全くその通りだぜ、ユオン」
「威張るなにょろ。オイラ達の苦労は全てそこからだにょろ」
 心底嘆息する蛇に、オマエこそ、喰っといて威張るな、と男は心から楽しげに笑った。
「それじゃ……後は頼んだぜ、デュー」
 ついに男を呑み込むように押し寄せた土砂に、ほとんど吸い込まれるように、男は消えていった。

「……」
「……」
 その一部始終を、しっかりと見届けた後で。
 少年の前で何とか押し留まった土砂を見て、抜け殻蛇と顔を見合わせる。
「……なぁ」
「わかってるにょろ。それは無理にょろ」
 厳しい現実をあっさり、抜け殻蛇は認めた。
 予想通りの答に力が抜けながら、埋もれつつある神殿の床に座る。
「そっか……やっぱり、帰れないのか」
「…………」
 立っていることも、本当は精一杯だった。
 肩を取り巻いて黙り込む抜け殻蛇と同じように、そのまま少年も、膝を抱えて黙り込む。

 このまま土砂が押し寄せて生き埋めとなるか。大陸に空いた穴に流れ込む海の一部になるか。
 どちらの末路も、今の少年にとっては――

「……まいったな」
 首を包む軽い抜け殻蛇と、首元の温かな鈴を握り締めて。少年は初めて――強く口にする。
「俺……死にたく、ない……」
 それは初めて、少年が「生」を受けた瞬間だった。

エピローグ:抜け殻子守唄

 
 その大陸の中に、ぽっかり穴が開いた後に。
 穴の開いた地の西にあたる化け物の国も、やがて徐々に海に沈みゆくこととなる。
 一つの国が丸ごと失われ、もう一つの国の半分が失われる。その大陸はやがて、様々な古き日の願いを残した秘境となっていく。

――……死にたく、ない……。

 ある願いを呑み込んだ町がその海底に眠る。
 最早意味をなくした廃墟として、ずっとただ、そこに在り続けることを誰も知らずに。

 その無価値な命にできることがないのなら、生きていていい理由がないという(のぞ)み。
 その命に少しでもできることがあるのなら、生きていたいという願い。
 それはどちらも、同じ望みの裏と表で。

――俺……――を助けたい……!

 願いという希みを得た少年を抜け殻は包む。
 その意味を少年に託し、共に永い時を待つ。


雑種化け物譚 了

余話:うっかり蛇

 
 その話は、雑用にやっと慣れた彼に不意に告げられた。
 世間知らずで労働が苦でしかない彼には、それは不本意でしかなかった。
「ククル。今度から貴男、第四峠で働いて頂戴」
「……ほ、い?」
 数年前、故郷の「火の島」で大蛇に喰われ、聖地の番人――「神」である彼は、怪奇・蛇男と化してしまった。最も手近な他の聖地へ、同じ番人の女に助けを求めてこの「地の大陸」に来た。
 蛇男の彼がどれ程面白おかしい姿だったかは、女が数刻もの間笑い続けたことからも、想像に難くない。
「ってことはオレの『右手』、ついに返してくれるんですか、ドミナ姐さん」
「誰が。そんなのなくても貴男なら大丈夫よ」
 そんなのって……と。重宝もしてないくせに彼の「力」を取り上げ、それを返してもらうためこき使われてきた彼は、潤々と泣きそうな目で女を見る。
「『力』も無しに、大使って。無茶過ぎでしょ」

 彼を呑み込んだ蛇を抜け殻として分離するため、番人の女は、互いに毛嫌いしている北の聖地の番人達に頭を下げて力を借りてくれた。そのことには彼も、恩義を感じていた。知り合いなので初めから北の聖地に頼れば良かったのだろうが、距離的にも取っつき難いのが北の「神」だった。
 助けてもらう代償として、火の島の彼が継いだ「力」を宿す抜け殻――「右手」と「左手」を渡した。他に代償ができたら返してもらう約束で、まずこの第三峠の女の元で、女の要求通り慣れない労働に勤しんできた彼だった。
「大丈夫。貴男に何かあっても、『力』は残る」
 第三峠の女はあくまで、今の彼を利用し尽くすべくこき使う。
 彼は最早、自らが持てる「意味」を全て抜け殻に渡し、彼自身はヒトに戻った。喰われた大蛇から生き物としての中身を受け取り、有限の存在となった金色の眼の男を、同じように金色の眼の女は容赦なく見限るのだった。

「なあ、Q……オレ、火の島に帰りたいよう」
「もうQじゃないにょろ。大体それは、オマエが勝手につけた名前にょろ」
 結局第三峠の女の言うがまま、第四峠という激烈な地の大使に赴任させられた。仕方なく他の大使と顔を繋ぐべく、彼は分身を連れて走り回る。
「だってこう何か、形が似てるじゃん、Q?」
「オマエ、元神のくせに『意味』を重視しないのかにょろ。名称はその存在の最たる『意味』にょろ?」
 故郷では日がな、趣味で書物ばかり見ていた彼の知識を、「頭」は受け継いでいた。
「今ではオイラが、オマエの後継神にょろ。ちゃんと正式名称を呼んでたてまつるにょろ」
 ふふふん、と「頭」は、同化した彼とそっくりの振舞いを見せる。以前は無愛想で非情な大蛇だったのに、抜け殻になってから随分変わった。
 今では緩く適当で、彼以上に遠慮なき遊び心を主に語尾に湛える、生きていない抜け殻……「神」を喰い、「神」と一つになった神蛇だった。

 この世界では、金色の眼と青い目と紫の目――正確には、その眼光を持った者には注意しろという、暗黙の噂がある。
 世界で永く最強とされる、「神」や「竜」に「精霊」。力の証がその眼光であり、元の目の色が何であれ、彼らが最強たる力を以って在る時の眼は決まった色の光を呈する。
「でもなー。実質、赤目の方が強いけどな?」
 これから会うはずの、第二峠の大使の前情報――赤い目と髪という男に、知識だけは豊富な彼は身震いする。
「個体の強さだけなら、神とか自然系が鉄板だけど。赤目は世界を味方にしたら、最強だろ本当」
「そうだなにょろ。天という最大の外部の力源があるからなにょろ」
 天上の聖火を宿す者が、呈する眼光が赤。本来は「神」の下位存在でありながら、今や対等に近くなった存在に彼は苦笑う。
「出会って三秒で、殺されたらどうしよ?」
「そうなれば今度こそ、オイラがオマエをおいしく頂くにょろ。心配するなにょろ」
「やだなー。せっかくヒトに戻れたのになー」
 最早、「神」よりヒトと呼ばれる方が正しい彼は、ただ愚痴を言うしかない。

 本来、「神」を決して殺すことはできない――殺さない方が良いというのが、この世界の不文律だ。それはひとえに、「神」が不滅であるからだった。
「オマエは、ヒトの方が良いのかにょろ?」
「戻ってみればな。軟弱なのは困るけどな」
 覚えていない程遠い昔に、彼は「神」を継いだ。永く年もとらずに番人を続けてきた彼は、ヒトになってから色の落ちた髪が伸びるようになり、少し大人になった姿をとても気に入っていた。
「『神』を廃業するには、命ごと『神』をヨソ様にお渡しするしかないんだもんなー。しかもそれも、Qみたいに結局、その相手がオレになっただけだし。こうやって分離してもらえなきゃ、オレは本当に不死だったんだな」
 殺されなければ死なないことは、長い間そうだったが、殺されても死なないことは初めての実感だった。

 けれど今は、「神」をその抜け殻に残して分離した彼は、殺されれば死ぬ。寿命もおそらくある。
「ディレステア側にいる大使って、どいつもこいつも、トップランクの化け物らしいし?」
 逃げ足として土を渡る転位の力だけは、大地の「神」である上司に恵んでもらった。それ以外に身を守る力と言えば、情報収集能力くらいしかない。
「今は冷戦時代だから、そう心配する必要はないにょろ。だから今の内に挨拶するにょろ」
 そうして、他の大使とお友達になっておくべく、軟弱な彼は第二峠の扉を叩いた。

 第二峠のザイン大使、クラン・フィシェル。フィシェル一族という意味でしかない名前は、真名を隠す為だろうが、そもそもフィシェル一族が有力として有名なので意味は少ない。
「――だからなぁ! オマエはおれらの憧れ、レインさんを攫ってったんやから! 少しは根性見せんかい、クランのあほぉぉぉぉ!」
「…………」
 その第二峠の宿場町で。人間の国ディレステアの物流の要として栄える峠の飲み屋で、第二峠大使は物流を統括する通商庁の長官に絡まれていた。
「まーまー。お酌ならオレが致しますって、バルフィンチ長官殿」
「ああ!? っていうか誰やねんオマエ!?」
 定時報告会と称した飲み会。第二峠大使は執務として、この酔っ払い長官との会に参加しなければいけないらしい。

 飲み屋へ混じった彼は、すぐさま溶け込む。
「第四峠の新入り大使、ククルちゃんでっす。今後ほんと、よしなに頼みますよ、旦那」
「何や、それならクランに言えや。コイツは大使以外は転職するなってレインさんから釘刺されるくらい、生まれついての大使やねんで」
 そもそもは、第二峠大使館に大使が不在だったため、どうすれば早い内に会えるか言及したのだ。するとこの飲み屋から大使を助け出すように、依頼された彼なわけだった。
「……ヒトの苦労も知らず、勝手なことを」
 何気に第二峠大使も既に酔っているらしく、全く無表情なまま、声色には怒りを隠さなかった。
「大体あいつ、ヒトにはそうやって言うくせ、ヒトの言うことを素直に聞いたためしがない」
 面白いので成り行きを観察する彼に、警戒も忘れている第二峠大使がそのまま続ける。
「それで、うちの子はヒトのことばかりで困るとか、どの口が言う。完全にあいつ似なんだよ、どいつもこいつも」
「んなこと言うても、レインさんは虚弱なんや。だからオマエがまめに帰ったらないかんで、クラン!」
 ほぼ噛み合ってない会話を横に、それは難しいな、と新任大使の彼は思う。
 まとまった休暇はまずもらえそうになく、公私混同もご法度の仕事だ。その分誉れは高そうだが、彼も第二峠大使もそうした部分に興味はないように見える。

「あーあー。ライザもせめて、クランにくらい会うたらえーのに。本当、おれの周りは石頭ばっかりやなあ」
 何故か突然現れた、有名な固有名詞。
 その脈絡はわからなかったが、興味を惹かれた。

 そうして第二峠のザイン大使と、情報交換できそうな間柄にはなった。
「バルフィンチ君も鳥だったけど、Qは無視?」
「男の、それも地上の鳥に興味はないにょろ」
 と言いつつ、最初に訪ねた第五峠で出会った、大使ではないが有力なマイス騎士団長はまさに「天上の鳥」だった。それも完全無視だったこの蛇は、つまり女の鳥にしか興味はないのだろう。
「天使は女のコに限るにょろ。男はそれより、死神くらいの方が面白いにょろ」
「あ。死んだ神って点じゃそれ、オレオレ」
「オマエは全然死んでないにょろ。大体オイラ達の好みは同じなのにくどいにょろ」
 そうは言っても、自分の姿は自分が一番わからないものだ。この分身のような蛇を前に、彼はつくづく、知らない自分を何度も再発見するのだった。

 雪山の頂上である第一峠の大使とは、熱帯育ちの彼は気が合いそうになかった。
 残った第六峠は戦乱の中心地であるため、二国の大使館には大使不在だ。
 しかしその地のゾレン大使館に長く留まり、ディレステア大使館を守り続ける裏切者のゾレン人こそ、先の飲み会で名前の出て来た英雄ライザ。第六峠は割愛しようと思っていた彼は、途中で予定を変えた。

「……――え?」
「どーも。第四峠新任大使、ソリス君でっす」
 強引に英雄に目通りを願うと、無気力そうな英雄はあっさり承諾して出て来た。そして英雄は、彼の姿をその灰色の眼で目の当たりにして――
「……何で、アンタみたいなのがこの地に?」
 彼の金色の眼に、本来はかくあるべき反応を見せた化け物。英雄を警戒すると、そこで楽しげに決めた元「神」だった。

 その裏切り者の英雄について、彼は主に二つの噂を耳にしていた。
 英雄の子供が英雄の母国にいる。
 英雄の子供を英雄の母国が狙う。

「矛盾してるよーな気がしないでもないけど。どういうことなんだろうな、Q?」
「知るかにょろ。それよりいい加減に、Qはやめるにょろ」
 蛇をしばらく、一方的な友達だった頃の名前で彼は呼んでいた。しかし次に英雄と再会する頃には、大使職の荒波に揉まれ、すっかり世知に長けてしまった。
 逆に蛇は時を経るごとに幼児性を増し、彼が抑えていく本来の緩さを、思う存分好きに振舞っているようだった。

 英雄はおそらく、この金色の眼に運命を視てしまったのだろう。
「というわけで。ゾレン王がアンタを呼んでいるけど――……行くかい? 英雄さん」
「……――」
 そして彼も、そこで己の運命と出会うことになる。

閑話:剣になった少年

 
 その緋色の抜け殻蛇に丸ごと呑み込まれて。
 剣になった少年が観たのは、そんな遠い日の夢だった。

「――よォ。オマエ、前からいたのか?」
 とある、灼熱の聖地が存在する島の旧い夢。
 番人の「神」として長くそこに在り続けた、黒く短い髪と金色の眼をした青年。
「オマエもあの鳥、気になってるのか? オレもあいつ、好きだったんだよ」
 いつも無機質に空を見上げている緋い大蛇の、視線の先には必ず、孤高な黒い鳥があった。
「オマエ可愛いな。蛇のくせに鳥が好きなんて」
 青年は、気に入ったものにはしつこく構ってしまう悪癖を持っていた。それが毎日蛇の頭をつつきに来るのは、蛇には暑苦しくしかなかった。

 その内ある日、急にお腹が空いたので、無情にぱくりと青年を呑み込んだ時。
 青年と中身を一つにしてしまった蛇が――その少年と剣と出会うまで、まだ先は長く。


+++++


「俺……死にたく、ない……」
 昏い地の底。何より死に近い場所でやっと、そんな願いを得たバカな少年がいた。
「俺……エルを助けたい……!」
 崩れゆく地底で蹲って膝を抱え、少年は悔しそうに妹の名を呼ぶ。思わず心を打たれてしまった蛇も、その思いを叫ぶ。
「キラのことはオイラが何とかするにょろ!」
 元々心など無かったその蛇は、ある迂闊な緩いバカで、それなのに頭が良かった青年の、甘く適当な部分をまるごと受け取っていた。
 代わりに青年は蛇から非情さを受けたらしく、こんな幼気な少年を置いて逃げてしまった。
 少年が、やっと生きたいと願ったその時であるのに。

 これでは最早、蛇が頑張るしかあるまい、と奮起する。
「キラ、よく聞くにょろ!」
「……!?」
「オマエを地上に、すぐに帰すのは無理にょろ! しかしオイラにはできることがあるにょろ!」
 「神」と一つになった後に。「抜け殻」として「意味」を持った蛇は、呑み込んだもの達を長く中身にしていると、意味を一つにしてしまう特性を持った。
 その特性でもって、少年を助けるためにある決断を行う。
「オイラの中身はもうないから、そうすれば今のオイラは消えるにょろが!」
 しかしそれは決して、別れではない。
 元々生きていない抜け殻蛇の、「意味」が変わるだけだ、と笑って言う。

「ちょっと時間は、かかるにょろが! 必ずオマエを――死者の一族にしてやるにょろ!」
 そうして蛇は、おりゃあにょろ! と一発、大きく気合を入れて叫ぶ。

「え――!!?」
 その昏い地底が真に崩れ落ちる直前に。
 有り得ない大口を開けた蛇に驚き、思わず剣を握り締めた少年を、抜け殻蛇は剣と共に呑み込む。
 そんな蛇を無情に、崩れる町は呑み込み、流れ込む深い海の懐へと包んでいった。

 そのようにして、一つの国の地下が海の底となった。
 その大陸にぽっかり穴が開いた後に、穴の開いた地の西にあたる化け物の国も、やがて徐々に沈みゆくこととなった。
 その大陸はやがて、様々な古き日の願いを残した秘境となっていく。

――……死にたく、ない……。

 少年の願いを呑み込んだ蛇が、その海底に眠る。
 最早意味をなくした抜け殻として、ずっと、ただそこに在り続けることを誰も知らずに。

 長い長い、永過ぎた長い時を経て。
 その抜け殻がようやく、海底の遺跡から、古代の遺物として発掘されるその日までは。


「……あれ?」
 その少年が、最初に目を覚ました時。
 少年に見える体は、とにかく全身傷だらけだった。
 そして――
「オレ……動いてる?」

 今この自身が、いったい何者であるのか、少年は全く思い出せなかった。
「コイツ……確かにさっき、殺されたよな?」
 傷だらけの全身をざっと眺める。
 その身体は確かに先刻、命が一度消えた瞬間を見た。
「殺されたのに……今、オレが動かしてる?」
 つまり自分は、死んだ誰かの身体を乗っ取っている。その現状に少年はひたすら、深く首を傾げた。

 何故かこの今の少年は、死んだ誰かの身体に乗り移り、その身体を復活させてしまったらしい。
「ジン・ヤオレン。だったっけ……?」
 確かそんな名前だった身体の、そもそもの素性を、可能な限り思い出してみる。

 その元々の身体の主は、旅芸人一座の護衛をしていた年若い化け物だった。
「でも何か……最近、揉めてたっけな」
 あまりに身体中に傷が多過ぎて、横たわったままで、少年は少しずつ近日から記憶を辿る。
 護衛だった身体の主は、ある日、(なまく)らの剣を買った。
 海底からの掘り出し物という古い長剣は、黒い蛇柄で透明な玉のつく持ち手と、先端の細まる刃は青銀色という珍しい一品物だった。
「オレは確か、コイツの剣だったのに」
 今のこの意識は、本来その剣のものだ。
 自分という剣を買った護衛少年と、意思の疎通ができるわけもなかった。だから大人しく剣として、ずっと護衛に使われていたのに。
「なのに何で、オレがコイツになったんだ?」
 自分だった剣を握りながら、護衛の身体を今動かしている、傷だらけの謎の少年だった。

「でも……オレ、いつから剣なんだっけ?」
 剣である自分の意識がはっきり始まったのは、そもそも護衛が古い剣を買った時からだった。
 剣である少年は何とか必死に、護衛に買われる前の自分の、おぼろげな記憶を辿っていく。
「元々、剣じゃなかった気がするんだけど」

 名前も素性も、何も思い出せない状態でも、
――オマエを死者の一族にしてやるにょろ!
 その誰かの声だけは、どうしてか覚えていた。
 傷が癒えてようやく動けるようになった頃、死者の一族というものについて調べてみたが、古い言葉らしくほとんど情報は得られなかった。

 そして後に、わかったこととしては、
「……うん。つまり結局、オレは剣なんだ」
 どうやらその剣に宿る誰かの魂が、今この護衛の身体を動かしているようだった。
「でも何で、この身体、生きてるのかな?」
 普通は死者の一族というのは、何かの道具を媒介に魂を宿して、死んだ自身の体を動かすらしい。しかし今、少年が動かしている身体は少年自身のものではなく、身体自体、死んでもいない。
「しかも、何か顔、変わるし」
 護衛の頃の姿と、今の少年の姿はいくらか違う。顔貌が変わったが、肌や目や髪の色、体型はあまり変わっていない。
 そして金色の髪で紫の目を持つ護衛の身体は、少年がその剣で戦う時には何故か、銀色の髪で青い目に変貌することがある。

 それは剣自体が生きているからだ、と当然、知るわけもなかった。
 剣が生きている理由は、ある抜け殻の力で、剣と一つになった少年がいるからで。
 しかも、その剣を買った護衛の化け物は、誰かの魂の影響を反映しやすい特性のある、精霊という系統の化け物だった。
「相性良かった……ってことかな?」
 殺された護衛の身体は復活し、剣と一つになった元々の少年に近く勝手に造り変えられた。
 それでも少年の魂は、未だに生きている剣の内にある。そのために髪の色や目の色が、魂の影響度により変わることがわかるわけもなく。

「まぁ。剣さえ失くさなければ、このままでやってけるといいんだけど」
 不便なこととしては、そうして髪や目の色がよく変わり、あまり剣から離れると身体を動かせなくなることくらいだ。
 相変わらず、自身が誰だったのか、少年は思い出せないでいたが。
 それでもそれは――その少年にとっては、特別大きな支障ではないことだった。

「剣になってまで、生きてるんだから」
 自身が剣だ、とすぐ把握できていた少年は、とても良い勘の持ち主だった。
「よっぽど、生きたい理由があったんだろな」
 それならきっと、理由に出会った時はわかるだろう。それだけは確信していた。

 その少年が今生きる、全く同じ時代に、ある秘宝の赤き鎧が発掘されていること。
 傷だらけで倒れていた少年を見つけ、現在保護してくれている養父母が、その鎧にとても縁が深いことを知るわけではなくても。

 後は、少年は名前がほしいと思っていた。
 少年を保護した養父母がその後に、少年を怪しげな占い師の元に連れていった。
「ゆ……おん?」
「そうじゃろ。お主、ゆ・おんじゃろ」
 とりあえずあっさり、そうだった、と受け入れる。
 その後養父母達は、少年をユーオンと呼ぶようになった。
「ユオンだと思うけど……別にいっか」
 そのくらいは別に、どうでもいいことだ。
 しかし一つだけ、占い師からはっきりと、困った指摘を受けていた少年だった。

 何か強い化け物である保護者達には、ラピスという人間の娘が元々、養女として一緒に暮らしていた。
「それにしてもユーオン、本当おとーさんにそっくりだよね。やっぱり、隠し子なの?」
「いや、似てないって! 全然!」
 養子になった少年の妹分となる、幸薄くも危うげに明るい養女。珍しい瑠璃色の髪の娘はいつもそう言って、兄になった少年をからかう。

 困るのは、実際に養父は少年にそっくりで……少年も何故か実の親だと感じ、占い師にもそれを肯定されてしまった。
 養女にも養父母にも何となく悪く、全力で否定する少年の気も知らず、妹分は少年を何度もからかう。常ににこにこと危うげに笑う、瑠璃色の髪で青い目の養女だった。

「あ。ご飯できたって、ユーオン」
「了解。すぐ行くよ」

 やっと、生きた剣という物になれた少年は――
 その再会の日を、ただ、待ち続ける。


+++++


To be continued "blue murder"..

雑種化け物譚❖Cry/R. 完結編

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
この雑種化け物譚は星空文庫にUP済みの、Cry/シリーズ千族化け物譚・千族宝界録の最古過去話でした。
これにてCry/シリーズは終了となります。……が、あと一作だけオマケのやり直し編が残っているため、2/29にそのCry/CR.を掲載すれば、電子書籍化できるほど推敲した旧作ストックはおおむね供養となります。今後の活動をどうするかは現在懊悩中です。

星空文庫への旧作掲載はとても楽しかったです。特に直観探偵シリーズ開始からここまで追いかけて下さった方があれば、本当にありがとうございました。直観探偵の主役は、Cry/シリーズがCry/シリーズとなる前、pixiv掲載のAシリーズ執筆時代に生まれたキャラで、Cry/シリーズが生まれるキッカケとなった最古参者です。
そのため、Cry/シリーズはプロット段階では彼女のための過去話でしたが、執筆時点では主役となった兄&父の物語となり、彼女の出番が大いに減ってしまいました。
それでも自作の中で、過去から未来まで全て完結できたのはCry/シリーズだけであり、それを改めてこうして全編掲載させていただけましたことを、心からお礼申し上げます。
初稿:2014.6-2015.4 最新:2020.2.29-(第3版)

※C零シリーズ作品で公開期間が終了している作品はノベラボでも読めます↓
ノベラボC零A▼『雑種化け物譚❖A』:https://www.novelabo.com/books/6331/chapters
ノベラボC零R▼『雑種化け物譚』:https://www.novelabo.com/books/6333/chapters

雑種化け物譚❖Cry/R. 完結編

†Cry/シリーズ・零R③† 人間は雑種の化け物より弱く、雑種は純血の化け物に疎まれ、純血は人間に関わることに制約のある「宝界」。人間の国と化け物の国で静かな争いが続く中で、人間の王女達と共に戦うことを決めたヒト殺しの少年は、「気ままな死の天使」と共に惨い運命に巻き込まれる。 image song:五月の魔法 by Kalafina

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-24

CC BY-ND
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CC BY-ND
  1. 中編・開幕
  2. ◇①◇ 森の妖精
  3. ◇②◇ 謀略
  4. ◇③◇ 処刑人
  5. ◇④◇ 黒い鳥
  6. ◇⑤◇ 化け物の王子
  7. ◇⑥◇ 邂逅
  8. ◇⑦◇ 英雄ライザ
  9. ◇⑧◇ 赤い獣
  10. ◇⑨◇ 赤い御使い
  11. 中編・終幕
  12. 幕間:英雄と天使
  13. 幕間:王子と剣
  14. 後編・開幕
  15. ◆①◆ 三つの知らせ
  16. ◆②◆ 霧夜の惨劇
  17. ◆③◆ 羽衣の君
  18. ◆④◆ 死の天使の峠
  19. ◆⑤◆ 死者の一族
  20. ◆⑥◆ 暗闇の森
  21. ◆⑦◆ 水底の禊
  22. ◆⑧◆ 地の底の黄昏
  23. ◆⑨◆ 崩壊
  24. 後編・終幕
  25. エピローグ:抜け殻子守唄
  26. 余話:うっかり蛇
  27. 閑話:剣になった少年