彼女は白い服が怖い
篠原和美がなぜいつも濃い色の洋服ばかり身につけるのか、そこには理由があった。
入学する学校を選ぶのだって、
『制服が冬服だけでなく、夏服も黒い』
というのが理由だったほどだ。
和美は白い洋服を着ることができなかったのだ。
もちろん、白い服にそでを通すことは可能だが、着ると何とも落ち着かず、ひどく不安な気分になってしまう。
1度か2度だが、体調の悪い時など、本当に気を失ってしまったことだってあるほどだ。
しかし、白さえ着なければどうということはないので予防は可能だし、
「大人になっても、私は看護士にはなれないわね」
と本人も冗談にすることもあった。
しかし時代は変わる。
「冬の制服はともかく、夏服まで真っ黒いのは我慢できない」
という声が、あるとき生徒の間で上がったのだ。
最初は一人の口からだったが、すぐに数人の同調者が現れ、その週の終わりにはクラスどころか、学年を超えた要望となった。
学校側も無視はできず、
「そうまで言うのなら生徒総会を開き、多数決でもって民主的に決めなさい」
と物分かりのいいところを見せた。
だから生徒総会が開かれた。
この場で反対意見を述べようかとも思ったが、変化を望む声のあまりの多さにあきらめ、結局和美は口をつぐんだ。
「最後に発作を起こしてから何年もたっているのだから、知らない間に直っているかもしれない」
という希望もあった。
採決が取られ、和美は反対票を投じたが、制服変更の提案はあっさり可決され、来年からは白い夏服が導入されると決まったのだ。
その翌年、4月から5月までを、和美は憂鬱な気分で過ごした。
そしてついに6月1日、衣替えを迎えたのだ。
和美が身につけるはずの新制服は、すでに家に届いていた。
ただ和美は、まだ一度もそでを通してはいなかった。
登校して教室に入ると、さっそく級友が声をかけた。
「あら和美、あんたずいぶん反対してたけど、いざ着ると白い制服も似合うじゃないの」
「そう?」
しかし和美は悲劇を予感していた。
それが起こったのは、1時間目の授業でのこと。
教室に入るなり生徒たちを見回し、
「白い制服も夏らしくていいわね」
と教師も上機嫌だった。
クラス全員に配るべき書類があり、面倒がった教師は、手近にあった和美の机に紙束をポンと置いて任せた。
クラス全員が、和美の机のまわりにワッと集まる。
それゆえ突然、和美はまるで、背の高い白い壁に360度グルリを囲まれる形になったのだ。
その思いがけない圧迫感をいぶかしみ、和美も最初は目を丸くして見回したが、胸の内側からあふれ出す大波のような衝撃に押し流されるのに時間は要しなかった。
それは本当に圧倒的で、押し戻すどころか、一瞬あらがうことさえ難しい。
和美はあっという間に押し流され、自分が何をしているのか、どこにいるのかさえわからなくなってしまった。
突然の出来事に驚いたのは教師だ。
生徒たちの悲鳴と共に、ドスンと床に倒れた者がいるのだ。
教師は駆け寄ったが、顔を見て声を上げた。
「篠原さん、大丈夫?」
和美が気を失って保健室へ運び込まれたのは1時間目のことだったが、1時間がすぎて3時間目の授業が始まる頃には、校内では騒ぎが持ち上がっていた。
「篠原和美さんが保健室のベッドにいない? どういうことなのです?」
最初に気づいたのは養護教諭だった。
和美をベッドに入れ、別の用事のためにしばらく保健室を離れた。
時間にして20分間ほどのことだったが、戻ってみるとベッドの中は空だったのだ。
もちろん和美はクラスへ戻ってもいない。
養護教諭は他の教師たちや校長にも知らせ、校内を探した。しかし見つからないのだ。
勝手に帰宅したことも考えられるので自宅へ電話してみたが、ベルは鳴るが誰も出ない。
これはもう警察に届けるべきかという話も出始めた頃、校門を通ってパトカーが入ってくる姿が見えたのには、教師たちも目を丸くした。
パトカーから降りてきたのは私服の刑事で、さっそく職員室へやって来たのを校長が迎えた。
「これは一体どういうことなのです? ご説明いただきたいわ。まさか篠原和美さんが何かしたので?」
警察手帳をしまいながら、刑事は答えた。
「そうではありません。こちらへは、事情をうかがいに来たのです。電話をかけても、篠原和美の母親が出ないのは当然です。和美の父親ともども、先ほど逮捕したところですから」
「逮捕ですって?」
「やはり学校はご存じなかったのですね」
「何がです?」
「篠原和美の両親は、本当の両親ではなかったのです。和美の本名は渡辺知子と言いまして、本当の両親が別なところにおります」
刑事がした説明は、教師たちをひどく驚かせた。
篠原夫婦に、かつて和美という娘がいたのは事実だ。かわいらしいが、少し体の弱い子だったらしい。
それが4歳の誕生日を迎えた直後、この和美が病死してしまったのだ。
夫婦の悲しみ、特に母親の悲嘆は大変なものだった。
なんとか火葬だけは済ませたが、一日中遺骨を抱いて座ったきりで何もせず、ついには食事まで拒むようになった。
そんな妻のありようを、夫として見ているわけにはいかない。夫の頭の中で、悪魔の声がささやいた。
「それは何だったんですの?」
「何かの折で出かけた近隣の町に、和美にそっくりな女の子がいたことを思い出したのです。顔つきが似ているばかりでなく、年齢や背丈も一致していたのです」
「まさか、その女の子を誘拐したのですか?」
刑事はうなずいた。
「誘拐されたのが渡辺知子です。幼稚園の帰り道、ただ一人でいるところへ忍び寄り、男は白く大きなシーツを頭からかぶせて、そのまま全身を包み、自動車のトランクへと入れました」
「かわいそうに…」
感じやすい人物であるらしく、校長は眉根に深いしわを見せている。
「被害者の弁によると、『騒ぐと殺されるかもしれない』と幼稚園児ながら考えて、おとなしくしていたそうです。そのまま家へと…、いえ金持ち夫婦のことですから、屋敷と呼ぶべきですかね」
「ええ、篠原さんのお宅はかなりのお金持ちですから」
「そうですね。その屋敷で渡辺知子は、娘をなくしたばかりの母親に引き渡されたのです。まるで双子のようにそっくりな娘です。その日から、篠原和美としての新しい人生が始まりました」
だけど、本当にそんなことがあるものだろうか。
その後の年月でただの一度も、誰か信用できる大人に、自分の本当の家はこの屋敷ではなく、自分の名も本当は篠原和美ではないと伝えることはできなかったのだろうか。
そこにはやはり「殺されてしまうかも…」という恐怖が関わっていた。
結局和美は、誰かに真相を告げる機会を持たぬまま日々を過ごし、渡辺知子という名も、本当の両親のことも元の家のことも、すべて忘れてしまったのだ。
ただ一つだけ、忘れなかったものがある。白いシーツに包まれ、さらわれてしまった時の恐怖心だ。
それだけは知子の心に残り続け、白い服を着ることへの原因不明の恐怖となって生き続けた。
とまあ、以上が私の聞いた話さ。事実なのだよ。
えっ、知子という娘は元の親、つまり渡辺夫婦のもとへ帰ったのかって? 娘が戻ってきて、渡辺夫婦がどれほど喜んだかって?
うーん、それが説明しにくいんだな。
娘は現在、幸せに暮らしているのかって?
ああ、幸せは幸せかもしれないね。
篠原夫婦だがね、結局警察はすぐに釈放してしまった。この誘拐事件は立件されなかったのだよ。
なぜって、途中から娘が、
「私は誘拐などされていない。自分の名が渡辺知子だというのは思い違いだった。自分は正真正銘、篠原夫婦の子、篠原和美だ」
と言い出してね。
何をバカな、とは君も思うだろう? 私だって思う。
どう思うね。白い服を着てショックを受け、気を失って目覚めたベッドの中で真相を思い出したと称して、学校を抜け出して警察署へ駆け込んだのは彼女本人なんだぜ。
念のために言うが、血液型は一致した。
彼女が篠原和美であっても渡辺知子であっても、血液型は矛盾しない。
まだDNA検査もできない時代の話だから、遺伝子から調べることは不可能だった。
だから娘本人が、被害届を取り下げると言えば、警察としては、やりようがなかったのだよ。
こんなに複雑で面白い事件なのにね。
本当ならゴシップ週刊誌のいいネタじゃないか。
だけど新聞にも週刊誌にも一行も書かれちゃいないのは、そういう事情なのさ。
なんだって? 篠原夫婦のもとで10年以上を過ごし、もはや娘は切り離せない情のつながりを感じるようになっていたのだろうって?
君らしい感想だねえ。
違うね。
実を言うと、私が娘の立場でも、同じ決定をするかもしれない。
強いストレスを受けて気絶するが、その眠りの中で突如思い出したのだろう。自分の本名と、さらわれてきた時のいきさつをね。
ならば、こうしてはいられない。保健室のベッドを飛び出し、警察署へ向かう。
事情を話すと警察官たちは目を丸くし、とりあえずパトカーに乗せて、娘を渡辺家へと帰還させることにする。
やがて走る自動車の車窓に、 どこか見覚えのある街並み。通りが目につき始める。
そしてついに視野に入るのが、幼稚園時代まで住んでいた懐かしの我が家さ。
小さな古い家でね。本当に築何十年だろう。
お世辞にも良い住まいとは言えず、外から見るだけで家財道具の少なさが目に浮かぶような家だ。
一方で、もしも今、すべてを打ち消し、自分はやはり篠原家の娘だと主張しさえすれば…。
「すみません。勘違いでした」
たったの一言で手に入るのだ。
金持ちの両親と大邸宅。使用人のいる暮らし。
そのすべてを相続する一人娘という立場。
君なら、どちらを選択するね?
彼女は白い服が怖い